出口保夫 『ロンドン・ブリッジ』

「この橋の欄干には、三六個所のアルコーヴという名の窪みが造られていて、激しい雨が降るとその中で雨やどりをすることができた。おそらく暗い雨のそぼ降るロンドン橋の上で、子供時代のディケンズは、淋しい人恋しい気持ちで欄干のアルコーヴの中に入って、行き交う橋上の人々を眺めていたのであろう。」
(出口保夫 『ロンドン・ブリッジ』 より)


出口保夫 
『ロンドン・ブリッジ
― 聖なる橋の2000年』


朝日イブニングニュース社
1984年10月20日 第1刷
193p
19.8×15.2cm
丸背紙装上製本 カバー
定価1,400円
装幀: 道吉剛



本書「まえがき」より:

「この本はロンドン橋の歴史的盛衰、すなわちその聖性の完成と崩壊を、資料をもとに具体的に描いたものである。」
「橋は、いわばその社会の文化的水準を示す物差しである。」
「おそらく、世界の主要都市のなかに、名橋の上を高速道路がまたいでいるような例は、東京や大阪をおいて他にないだろう。(中略)いったい、日本人は、いつからこうも野蛮な人種になり下がったのであろうか。
 われわれは、橋を生活に便利なものとしてだけではなく、聖なるものとした古人の思想に、再び目を向ける必要がある。」



本文中図版(モノクロ)多数。


出口保夫 ロンドンブリッジ 01


目次:

まえがき

第一章 ロンドン橋以前の橋
 ロンドンとテムズ河
 ローマ支配時代の橋
 サクソン時代のロンドン
 ロンドン橋の戦い

第二章 聖なるロンドン橋
 中世の転換期
 ピーター司祭と橋梁修道会
 聖ベネゼの橋
 聖なる橋の建設
 聖トマス・ア・ベケットの殉教
 聖トマス礼拝堂
 聖なる橋の完成
 チャペル・ブリッジ

第三章 ロンドン橋の住人たち
 「聖」と「俗」とをつなぐ橋
 橋の管理
 橋上商店街の繁栄
 中世のロンドン
 カンタベリー巡礼
 農民一揆とロンドン橋

第四章 聖性の崩壊
 壊された礼拝堂
 橋上の曝し首
 ルネサンスのロンドン
 エリザベス女王とロンドン橋
 一六三三年の火災

第五章 大火後のロンドン橋
 疫病とロンドン大火
 ピープスの『日記』
 ロンドン橋の書店
 テムズ河の「凍結市(フロスト・フェア)」
 ロンドン橋の画家たち
 犯罪の巣窟
 「ロンドン橋が落ちた」

第六章 ロンドン橋の終焉
 近代化するロンドン
 取り壊された橋上の商店
 「愚か者たちの橋」
 一八世紀のイギリスの橋
 ディケンズとロンドン橋
 テムズの川底さらい
 ロンドン橋の最期

第七章 一九世紀のロンドン橋
 ジョン・レニーと新ロンドン橋
 短命な新ロンドン橋
 ロンドン橋、アメリカへ

第八章 現代のロンドン橋

あとがき
図版類出典
参考文献
索引



出口保夫 ロンドンブリッジ 02



◆本書より◆


「第四章 聖性の崩壊」より:


「ロンドン橋のはね橋の橋門は、昔から罪人の首を曝す場所として使用されてきた。罪人といっても、主として大逆罪を犯した者に限られる。」

「一五三四年、フィッシャー司教は逮捕され、ロンドン塔に一〇ヵ月幽閉され、翌三五年六月一七日、裁判が開かれ、五日後に処刑が行なわれた。処刑後の出来事を、後年書かれたトマス・ベイリーの『ロチェスター司教フィッシャー伝』が詳しく伝えている。

  バーキング教会の墓地に埋葬された翌日、その首は、熱いお湯で洗われてから棒の先に刺され、ロンドン橋の上に、彼の前に処刑されたばかりの聖なるカルトジオ修道会の人々の首といっしょに高々と曝された。筆者はここで、この首の不思議な様を書かないわけにはいかない。それは、一四日間橋上に曝された後でも非常な暑さに耐え、また熱いお湯で洗われたにもかかわらず、何ら損われることもなく、むしろ日ごとにつやを増し、生存中でさえもさほどとは思われぬくらいであった。頬は美しい赤みを帯び、その顔は通りがかりの人々を見下ろしているかのようだった。

 橋門の上のフィッシャー司教の首を見に集まった人々は、皆そこに立ちすくんだという。一四日目の夜、その首は人目に触れないようにしてテムズ河に投げ込まれ、その後に、聖トマス・モアの首が置かれることになった。」

「この頃が、ロンドン橋の歴史の最も暗い時代だったのではないだろうか。はね橋のわきの橋門の上に曝し首が絶える時はなかった。しかし、フィッシャーやトマス・モアのように、斬首されて曝されるのはまだいいほうである。一五三七年の五月、むごたらしい限りの処刑が行なわれた。司祭のコッカレル、サー・ジョン・ボルマー、サー・ハマートン、それに修道士のピカリング博士らは、ロンドン塔からタイバーンに送られ、その処刑場でまず絞首刑にされ、のちに臓器を取り出され、そのうえ四つ裂きにされて、斬られた首だけ曝された。」

「ただ、こうした陰惨な光景も、中世や近世の人々には、現代人が考えるほど衝撃的ではなかった。『ロンドン庶民生活誌』のミッチェルが、

  橋上に曝された罪人の首の陰惨な光景すら、ここを訪れる見物人にとって見逃がすことのできない光景のひとつと考えられていた。

と指摘しているように、橋上の曝し首もまた、いわば物珍しい風景として大勢の見物人たちを集めていた。」






こちらもご参照ください:

平林章仁 『橋と遊びの文化史』











































































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石井美樹子 『シェイクスピアのフォークロア ― 祭りと民間信仰』 (中公新書)

石井美樹子 
『シェイクスピアのフォークロア
― 祭りと民間信仰』
 
中公新書 1114

中央公論社
1993年1月15日 印刷
1993年1月25日 発行
vi 196p 
新書判 並装 カバー
定価680円(本体660円)



本書「あとがき」より:

「ルネッサンスの申し子として、シェイクスピアはたしかに「新しい学問」の洗礼を受けていた。しかし、シェイクスピアが作劇の土台としたのは、かれの血のなかに色濃く残る文化と演劇の土着の土壌だ。それは、作者と観客を結ぶ一種の暗黙の契約のようなものであり、個人の恣意や、生活体験を越えた集団的な無意識とでもいってよい。」


本文中図版(モノクロ)21点、地図(「本文関連州名図」)1点。


石井美樹子 シェイクスピアのフォークロア 01


帯文:

「妖精や幽霊が身近だったころ、人々はなにを演じていたのか」


カバーそで文:

「シェイクスピアが活躍していた十六世紀ころのイギリスは民衆文化(フォークロア)の宝庫であった。人々は民間信仰を根強く持ち続け、豊穣を祈る祭りをとり行なった。型にのっとって寸劇をし、美しい衣装を着て踊り、それに夢中になる王侯貴族もいた。社会道徳を守らぬ者には見せしめがあり、学者たちは幽霊の存在をめぐり真剣な論争を繰り広げていた。近代以降急速に失われていった活気に満ちた民衆文化の世界をシェイクスピア劇の中に探り出す。」


目次:

はじめに

第一章 祭りの広場にて
 伝統文化の復興
  セシル・シャープとモリス・ダンスの出会い
  祭りの広場にて
 張り子の馬は健在なり
  ジャック・ケイドの乱とモリス・ダンス
  宮廷の余興としてのモリス・ダンス
  ロビン・フッドの一味がやってyきた
  道化とひしゃく
  張り子の馬は健在なり
  ハムレットのホビー・ホース
 五月祭のケーキ
  ロンドン橋のさらし首
  子羊のエール
  五月祭のケーキ

第二章 フォーク・プレイ
 女王様も見た民衆の祝祭劇
  ホック祝節劇
  豊穣祈願の模擬戦
  イギリスの民衆芸能
 ハムレットのフォーク・プレイ
  宮廷の余興を装ったねずみ取り
  王殺しのフォーク・プレイ
  黙劇は「王殺し」のフォーク・プレイ
 スキミントン――娯楽を装う制裁
  スキミントン
  鹿狩り
  スキミントンの演劇性
  『ウィンザーの陽気な女房たち』
  ハムレットのスキミントン

第三章 『リア王』のメルヘン
 チャイルド・ローランド
  エドガーの呪文
  チャイルド・ローランド
 エドガーの通過儀礼とシンデレラ物語
  イギリスのシンデレラ物語
  コルシカのシンデレラ物語
  エドガーの通過儀礼
  メルヘンから人間の悲劇に

第四章 幽霊のフォークロア
 幽霊のフォークロア
  幽霊が闊歩するチューダー朝
  煉獄をすみかとする幽霊
  幽霊は悪魔なり
  『ハムレット』の亡霊
  古典の復興とオカルト主義者たち
  幽霊のフォークロア
  シェイクスピア劇の主人公たちが見た幽霊

あとがき



石井美樹子 シェイクスピアのフォークロア 02



◆本書より◆


「五月祭のケーキ」より:

「橋の両側には、フィレンツェのベッキオ橋のように、二階建ての店が立ち並び、通行人や買物客でごったがえしていた。当時の様子は、民話「スワファムの行商人」の冒頭に、生き生きと描かれている。「今はずっとむかし、まだロンドン橋の上に端から端までずらりと店が並び、橋桁の下を鮭が泳いでいたころのこと、ノーフォークのスワファムに一人の貧しい行商人が住んでいた……」(『イギリス民話集』河野一郎編訳、岩波文庫)。橋をほぼ渡り終え、劇場や見世物小屋などが立ち並ぶサザック側の入り口のグレイト・ストーン・ゲイトに着くと、まず目に入るのは、日乾しになって槍の先にぶらさがる犯罪人の首だった。
 さらし首の慣習は一三三九年にはじまり、一六七八年まで続いた(中略)。いまから考えるとぞっとするような光景だ。だが、(中略)当時のロンドンっ子にはお馴染みの光景、血まみれの首を見て驚くロンドンっ子はいなかった(中略)多いときには、三十個以上もの首がさらされていたという。
 一五九二年というと、シェイクスピアの『ヘンリー六世第二部』が書かれてからほぼ一、二年後のことであるが、ドイツのウルテンベルクのフレデリックという旅行者がこんな記述を残している。

  しかるべき立派な人物の首が三十四あまりさらされていた。騒乱罪やその他で有罪とされ、首を切られた人たちだ。(W. B. Rye, England as Seen by Foreigners, London, 1865)

 『ヘンリー六世第二部』の四幕一場、サッフォーク公爵は、王妃の使節としてフランスに赴くとちゅう、ケント州の海岸で小艦隊の捕虜になる。家臣が命乞いをと諭すと、公爵は敢然といい放つ。

  サッフォークの帝王なるわがはいの舌は峻厳苛烈だ、
  命令することには慣れていても、なさけを乞うことは知らぬ。
  こんなやつらに、卑屈にも命乞いをして
  名誉を与えてなるものか。断じてできない。
  天国の神と、主君たる国王以外の者にこの膝をまげるくらいなら、
  首切り台のうえに身を投げ出したほうがまだまし。
  帽子をとってげす野郎どものまえに身をさらすより、
  生首を血まみれの竿(ポール)のうえで踊らせるほうがよい。

 かの悪名高いタイバーン処刑場で処刑された犯罪人の首は、身分の上下にかかわりなく胴体から切り離され、ロンドン橋でさらされた。大法官という最高の位にのぼりつめたにもかかわらず、ヘンリー八世の離婚に反対して王の憎しみを買い、ついには断頭台の露と消えたトマス・モアのような有名人が処刑され、その首がさらされたときなどは、見物客がどっと押し寄せた。当時の処刑がそうであったように、さらし首も、熊いじめや芝居と同様に、庶民の娯楽のひとつだったのだ。
 サッフォーク公のせりふを耳にしたロンドンっ子たちは、すぐさま、ロンドン橋のさらし首を心に思い描いたことであろう。と同時に、とくに、シェイクスピアと同郷のウォリックシャーや、オックスフォードシャー出身の人は、「血まみれの竿(ポール)」のうえで「踊る生首」と聞いただけで、「五月祭のケーキ」を連想したのではないだろうか。」

「オックスフォードから西方へ十四マイルほどゆくと、バンプトンの村に着く。この村の聖霊降臨祭の行事は、今日まで、五百年以上も続けられている。祭りの主役はケーキである。丸い缶に入ったケーキを剣持ちが掲げて歩く。剣の先が突き刺さるように、缶の一部に切れ目が入っている。バターがたっぷり入ったパウンドケーキで、ケーキを一切れもらった人には好運が訪れると信じられている。」

「これらの五月祭に共通するのは、生きた動物を屠り、その肉を村人で分けあって食することである。生きた動物のかわりに、ケーキを分けあって食べる場合もある。カートリントンの「小羊のエール」では、小羊の肉からパイのケーキが作られる。(中略)動物の肉やケーキを食べたり、保存したり、身につけたりすることによって、動物や植物の生命力にあやかろうとするのだ。
 さて、バンプトン村の五月祭で動物のかわりをするのはケーキだ。(中略)C・J・シャープは、踊り(モリス・ダンス)を伴うこのような祭りの起源について、こう述べている。

  手短にいえば、大昔に、共同体のあいだに広くゆきわたっていた季節に伴う異教の風習の名残りで、動物と植物とをとわず、生きとし生けるものの豊穣を願う儀式とかかわりがあったのかもしれない。この儀式の中心的な行為は、聖なる動物を犠牲として屠り、その屍を神聖なものとして崇め、おごそかな宴をはることにある。……聖なる動物の犠牲と、それに続く宴の目的は、神と共同体の構成員とのきずなを強めることにあった。(C. J. Sharp, The Morris Book)

 動物や穀物の犠牲を神に捧げて神の怒りを和らげ、共同体の平和と繁栄を祈願する儀式は、原始の時代から、世界中いたるところで行なわれてきた。(中略)バンプトンのポールに突き刺されたケーキも、共同体の安寧のための犠牲をあらわす。テムズ川の橋に掲げられた、槍のうえで踊る、血まみれの首も国家の秩序の安定のための犠牲といえよう。首を見世物にする為政者、そして、その首をひとめ見ようとむらがる群衆。人権意識の発達した現代にあっては想像を絶する残酷な場面だ。だが、(中略)郷土の五月祭の行事に慣れ親しんで育ったロンドンの市民たちには、血にまみれた反逆者の首は、ウィッチウッド森の鹿や槍のうえのケーキのように、かれらと国家とを結ぶきずなだったのだ。さらし首を見あげる見物人は、鹿を射止めて勝ちどきの声をあげる狩人のように、秩序の安泰に安堵し、勝利に酔い痴れたのにちがいない。」














































































白川静 『詩経 ― 中国の古代歌謡』 (中公新書)

「ただかれらの抵抗は、(中略)逃亡がその手段であった。」
「しかしその地を去って、果たしてかれらは楽土をえたであろうか。地上のどこにそのような楽園があろう。」
「この鬱々として解きがたい憂愁は、住むべき地を失った漂泊者のものでなければならぬ。(中略)すでに故郷の地を去って、かれらはどこに安住の地を求めようとするのであろう。わが真情を知らぬ人は、何を求めてさまようぞという。ただ少数の人びとが、漂泊の旅をつづけるわが心の憂いを知るのみである。」

(白川静 『詩経』 より)


白川静 
『詩経
― 中国の古代歌謡』

中公新書 220

中央公論社
1970年6月25日 初版
1994年6月30日 12版
ii 266p 
新書判 並装 カバー
定価740円(本体718円)



白川静 詩経


カバーそで文:

「『詩経』は溌剌たる古代人の精神と豊かな生命の胎動を伝える中国最古の詩歌集である。にもかかわらず、儒教の聖典の一つとして特殊な解釈の上に早くから古典化し、詩歌本来の姿が見失われて久しい。この古代歌謡の世界を回復するため、その発想基盤の類似性をわが『万葉集』に求め、比較民俗学的な立場から古代人の風俗と生活感情に即しつつ、哀歓をこめて歌い上げられた民謡や貴族社会の詩のうちにある生命と感動を蘇らせる。」


目次:

序章

第一章 古代歌謡の世界
 古代歌謡の時代
 歌謡の起源
 発想の様式
 揚之水三篇
 草摘みの唄
 登高飲酒
 表現の問題

第二章 山川の歌謡
 南について
 遊女の追跡
 白駒の客
 鷺羽の舞
 歌垣のうた
 季女の歎き

第三章 詩篇の展開と恋愛詩
 宗廟のまつり
 君子讃頌
 恋愛詩の成立
 愛情の表現
 誘引と戯弄

第四章 社会と生活
 結婚のうた
 棄婦の歎き
 貧窮問答
 曠野の漂泊
 流離の詩
 蜉蝣の羽

第五章 貴族社会の繁栄と衰落
 詩篇の時代
 貴族社会の繁栄
 十月之交
 喪乱の詩
 危機意識と詩篇
 宮廷詩人尹吉甫
 西周の挽歌

第六章 詩篇の伝承と詩経学
 入楽の詩
 楽師伝承の時代
 賦詩断章
 詩篇と説話
 詩経学の展開
 詩篇の特質

あとがき・参考書
周王朝系譜
地図
春秋期略年表
詩篇索引




◆本書より◆


「第一章 古代歌謡の世界」より:

「ことばの呪能を託された歌は、すでに動かしがたい存在の意味を荷(にな)うものとして、客体化された。ことばは歌として形成されたとき、すでに呪能をもってみずから活動する存在となる。(中略)原始の歌謡は、本来呪歌であった。」

「歌謡は神にはたらきかけ、神に祈ることばに起源している。そのころ、人びとはなお自由に神と交通することができた。そして神との間を媒介するものとして、ことばのもつ呪能が信じられていたのである。ことだまの信仰はそういう時代に生まれた。
 神々との交渉は、神が人とともにある時代にあっては、ことば以外にもその行為のすべてを通じて行なうことができた。たとえば、神がその願いをかなえてくれるかどうかを、無意的な人のことばによって占(うらな)うこともあった。門(かど)べに立って、ゆきずりの人のことばをそのまま神託とみなす夕占(ゆうけ)や、一定の距離を歩いてその歩数で卜(うらな)う足占(あうら)などは、日常のことであった。神にそなえた初柴(はつしば)の一枝を水に流して、そのいざようさまで卜(ぼく)する水占(みなうら)は柴刈りの行事と関連して行なわれた。旅の無事を祈って、野草を摘み、草を結ぶなどの行為が、そのまま予祝の意味をもつとされた。」
「神霊はあらゆるところに遍在しており、その姿もさまざまであった。「草木すら言問(ことと)ふ」というとき、草木にもまた神が宿ると信じられていたのである。大きな樹は特に神聖であった。鉾杉(ほこすぎ)や蔦(つた)かずら・寄生木(やどりぎ)のある大木には、必ず神が住むとされた。青山のたたずまい、たぎつ川瀬も、みな霊的なもののあらわれである。その姿をながめているだけでも、そこにある霊的な力、自然のもつ神秘な力が人の魂をゆるがし、生命力をゆたかにした。ましてや、樹(こ)の間にたちさわぐ鳥の声、季節的にわたりくる鳥のふしぎな生態は、人びとに霊の実在を信じさせた。鳥形霊の観念は、わが国の古代のみならず、ひろく行なわれていた古代的信仰であった。
 『万葉集』にみえるこのような汎神論的な世界観とそれに基づく種々の呪的意味をもつ民俗が、それらの歌の発想の基盤をなしていることは、多くの研究者によってすでに指摘されていることであり、古代歌謡の解釈にこのような事実を無視しえないkとおは、いまでは常識といってよい。『万葉集』におけるあのつつましいまでの自然へのおそれと没入とは、近代短歌の立場から試みられた『万葉』の再解釈と実は無縁のものであった。古代歌謡のこのような古代的な性格を無視して、その文学を正しく位置づけることは不可能である。
 『詩経』の詩篇が、『万葉』とその絶対年代ははるかに異なるとしても、同じような歴史的条件の時期に成立したものであることは、さきに述べたとおりである。したがって詩篇の発想にもまた、『万葉』のような発想と同様の基盤に立つものがあると考えてよい。詩篇には、自然の景象や草摘み、采薪などの行為が多く歌われている。それらはおそらく『万葉』と同じように、呪歌的発想をもつものであろう。
 詩の興(きょう)とよばれる発想法は、その主題とのかかわり合いが明らかにされないために、詩の理解を困難にし、歪めていることが多い。従来の詩篇解釈に多くみられる説話的な附会は、そのために生まれた。後にくわしく述べるように、結婚の祝頌に、どうして束薪や魚などが歌われているのか。祭祀や征旅の詩に、どうして鳥や獣の生態がしばしばあらわれているのか。誘引の詩に果物を投げる行為が歌われ、哀傷の詩に衣裳のことがみえるのはなぜか。すべてこれらのことは、単なる比喩ではなく、それを歌うことに深い意味のあることが、十分に知られていなかったのである。
 詩篇のそのような興的発想は、わが国の序詞や枕詞のような定着のしかたを示さなかったけれども、本質的にはそれと同様に、神霊との交渉をもつための発想であり、表現であった。暗示的な発想といわれる「興」の本質は、歌謡が古く呪歌として機能していたころのなごりをとどめているものなのである。そしてそれは、当時の民衆の生活と直接に連なるものであった。人びとが、かれらを神々に強く隷属させていたその古代的な氏族制のきずなから解放されて、自由にその感情を表現しうる時代が訪れたのちにも、その呪縛は古代歌謡の発想法のうちに、その思惟の様式を規定する古代的な観念として、なお濃厚に遺存した。このことを把握するのでなくては、詩篇をその当時のあり方において理解することは困難である。『万葉』の研究が、従来の注釈学的、あるいは印象批評的な解釈から脱して、その発想の場を古代人の生活と心意のうちに追求し、その表現を一つの時代的様式としてとらえようとする民俗学的な方法の導入によって、急速な展開をみせたように、詩篇の研究にもその方法の適用はきわめて有効であろう。私はこの書の中で、詩篇をそのような立場から新しく見直してみたいと思うのである。」

























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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