ヘンリー・D・ソロー 『ウォールデン』 酒本雅之 訳 (ちくま学芸文庫)
「森の中で迷うことは、いつなんどきでも貴重な経験であるばかりか、記憶に価する驚くべき経験でもある。」
「ぼくらは完全に迷子になり、あるいはくるりと一回転してみれば、――実はこの世界で迷子になるには目を閉じて一回転するだけで充分だ、――それでようやく「自然」の広大さと不思議さがつくづくと分かるようになる。」
(ヘンリー・D・ソロー 『ウォールデン』 より)
ヘンリー・D・ソロー
『ウォールデン』
酒本雅之 訳
ちくま学芸文庫 ソ-2-1
筑摩書房
2000年3月8日 第1刷発行
2022年8月20日 第2刷発行
541p+1p
文庫判 並装 カバー
定価(本体価格1,500円+税)
装幀:安野光雅
カバーデザイン:神田昇和
「本書は、「ちくま学芸文庫」のために新たに訳出したものである。」
Henry David Thoreau (1817-1862)
Walden; or, Life in the Woods (1854)
本文中に図版(「ソロー自身によるウォールデン池の測深図、及び断面図」)1点。

カバー裏文:
「1845年夏、ヘンリー・ソローはウォールデン池のほとりに自分で家を建て、以後2年2ヵ月におよぶひとり暮らしを始めた。アメリカが経済原理に取りつかれ始めたその時代、彼はそんな社会のあり方に疑問をもち、人間精神の復権を目指して、社会の外側で生きることを実践した。本書『ウォールデン』は、その実証の記録である。そして人間界とはうらはらに、伸びやかで自由な野性世界の、実に魅力的な宝庫でもある。ソローの思想を忠実に訳文に反映させた、古典的名著の新訳決定版。」
目次:
生計
暮らした場所、暮らした目的
読書
さまざまな音
ひとり暮らし
訪問者たち
マメ畑
村
さまざまな池
ベイカー農場
高尚な法則
動物の隣人たち
暖房のこと
先住者たち、つづいて冬の訪問者たち
冬の動物たち
冬の池
春
おわりに
ヘンリー・D・ソロー略年譜
人間蘇生の思想――『ウォールデン』を読む (酒本雅之)
◆本書より◆
「生計」より:
「隣人たちが良いと呼んでいるものを、ぼくは大部分、真底(しんそこ)悪いと信じているし、もしもぼくに後悔することがあるとしたら、それはおそらくぼくの良い振舞いだ。ぼくがこんなに良い振舞いをしたとは、いったいどんな悪霊がぼくに取りついたのだろう。」
「ぼくはよく鉄道線路のわきに、長さ六フィート、幅三フィートの大きな箱があるのを見かけた。労働者が夜になると道具をしまいこんでおく箱だ。それを見てぼくはふと、生活に困っている者は誰もがこういうものを一ドルぐらいで手に入れて、それに錐(きり)でわずかに穴をあけ、少なくとも空気ははいるようにしておいて、雨降りのときや日が暮れるとその中にはいり、蓋をおろして留めるようにすれば、自由に好きなことができるし、魂も自由でいられるのではないかと思ったものだ。こうすることがまんざら愚の骨頂ではなく、絶対にくだらない選択とも思えなかった。好きなだけ夜更かしもできるし、いつ起き出しても、宿の亭主や家主などにうるさく宿賃を催促されずに自由に歩きまわれる。こういう箱でも凍死することはよもやあるまいに、もっと大きくて、もっと贅沢な箱の借り賃を払うのに死ぬほど苦労している人が多い。けっして冗談なんかではない。」
「原始の頃は人間の暮らしが単純で飾りけなしだったおかげで、少なくともかえって人間は、幸いにも自然界の単なる寄留者のままでいることができた。食物と眠りによって元気をとりもどしたら、またもや旅に思いを馳せた。いわば彼はこの世界に野営して、渓谷を辿り、平野を進み、あるいは山頂に登ったりしていた。ところが、どうだ、以後人間は道具の道具になりさがった。空腹になったら自由に果実を摘んでいた人間が、いまは農夫になっている。宿りを求めて木陰にたたずんでいたのが、今では一家を構えている。今では夜を過すのにもはや野営することはなく、地上に腰をすえて天を忘れてしまっている。」
「ぼくは世界の中にできるだけ多くの異なった個人が生きていてほしい。だがその一人ひとりには、自分自身の(引用者注:「自分自身の」に傍点)生きかたを見つけて前進して行くようぜひとも心がけてほしい。代用品ではなく、父親のでも、母親のでも、隣人のでもない生きかたをだ。」
「暮らした場所、暮らした目的」より:
「最新のニュースが何だと言うのだ。ついに古びることのなかったものとは何かを知ることのほうが、よほど大切ではないか。」
「もしも実相だけをしっかりと観察し、むざむざ欺かれたりするようなことがなければ、人生は、(中略)お伽話や『アラビアン・ナイト』に似てくるだろう。もしも必然的で、存在する権利のあるものだけをぼくらが尊重すれば、巷(ちまた)には音楽と詩が鳴り響くことになる。(中略)毎日を遊び暮らしている子供は、生活の真の法則や生活を織り成す諸関係を大人よりもはっきりと見てとっている。大人は生活の価値を損わぬように生きることができないくせに、経験のおかげで知恵がついたと考えている。」
「ぼくはもっと深いところから飲んでみたい。川底に星の砂利(じゃり)が敷きつめられた空の小川で釣りがしたい。」
「さまざまな音」より:
「ぼくはぼくの生活に広い余白がぜひとも欲しい。夏の朝に、いつもの水浴をすますと、日の当たる戸口に坐り、マツやヒッコリーやハゼノキに囲まれながら、ひっそりと静まりかえったぼく一人の天地の中に、日の出から真昼までうっとりと夢想していたこともある。ぼくのまわりでは鳥たちが歌い、家の中を音もなく飛び交(か)っていたが、やがて西の窓から日が差しこみ、あるいは遠くの街道でどこかの旅人を運ぶ馬車の音が響いて、ぼくに時間の経過を思い出させてくれたものだ。そういうときには、ぼくは夜のトウモロコシのように成長した。」
「何しろぼくの暮らしぶりはプーリー・インディアンの流儀だ。話によると、「きのう、きょう、あしたを表わす言葉が彼らには一つしかなく、意味の違いを、きのうの場合は後ろ、あしたの場合は前、そして過ぎゆくきょうという日はまうえをそれぞれ指さすことで表現する」そうだ。むろんわが町の同胞諸君には怠惰以外の何ものでもないと考えるにちがいないが、しかしもしも鳥や花がぼくを彼らの基準で吟味してくれたら、ぼくはたぶん落第とはならなかった。生活の動機はおのれ自身の内面に求めねばならぬ、これは真理だ。自然の日々はいとも穏やかで、誰かの怠慢などあまり咎めはしないはずだ。」
「ひとり暮らし」より:
「ほとんどの時間をひとりで過すことは健康的だとぼくは思う。たとい相手が選りぬきの人でも、誰かといっしょにいるとすぐに退屈し、疲れてしまう。ぼくはひとりが大好きだ。孤独ぐらい付き合いやすい友にぼくは出会ったためしがない。(中略)考えたり働いたりしていると、人はどこにいようといつも一人だ。」
「高尚な法則」より:
「「完全な状態に達した昆虫のなかには、食物を摂取する器官はそなえているのに、それを使わないものもいる」というのは、昆虫学者が言明する意味深い事実だ。」
「人間が肉食動物だということは恥辱ではあるまいか。」
「最も実在の名にふさわしい事実は、おそらく人から人へ伝えられたりするものではけっしてない。ぼくの日常生活の正真正銘の収穫物は、朝や夕べの色調に似て触知しがたく名状しがたい何ものかだ。わが手で捕(とら)えた小さな星屑、わが手につかんだ虹の一片だ。」
「動物の隣人たち」より:
「どうして人はこうまで思いわずらうのか。食わざる者は働かずとも良しだ。」
「おわりに」より:
「「君の眼差(まなざし)を内側に向けたまえ、そうすれば君の心の中に
未発見のあまたの領域が、
きっと見つかるはずだ。それらの領域を旅し、
そして君自身の宇宙の形状に精通したまえ」
(訳注:「イギリスの詩人ハビングトン William Habington (一六〇五―五四)の詩“To My Honoured Friend Sir Ed. P. Knight”。」)
「わざわざ世界をひとめぐりしてザンジバルのネコの数をかぞえに行くのも割に合わぬ話だ。だがもっとましな生きかたができるようになるまでは、こんなことでもやっていれば、ついには内側に辿りつくための「シムズの穴」(訳注:「アメリカの軍人シムズ John Cleves Symmes は地球が空洞で両側に穴があいており、内部に居住することが可能だという説を唱え(一八一八年)、著作として発表した(一八二六年)。」)か何かがなんとか見つかるかもしれない。(中略)もしもすべての言語が語れるようになり、すべての民族の風習に順応したいと願うなら、もしもすべての旅行者よりも遠くまで旅をして、すべての風土になじみ、スフィンクスにまっさかさまに石をめがけて身を投げさせたいと願うのなら、いっそ古代の哲学者の教えに従い、「汝自身を探究せよ」、だ。それには眼力(がんりき)と度胸が要求される。(中略)さあ、西方に通じる道の尽きるあたりへ旅立とう。(中略)地球を横目で見ながらどんどん進み、夏も冬も、昼も夜も、日が沈み、月が沈み、そして最後に地球が沈んでも、それでもつづく道を行こう。」
「暮らしを単純化して行けばいくほど、宇宙の法則は以前ほど複雑とは思えなくなり、孤独も孤独ではなく、貧しさも貧しさではなく、弱さも弱さではなくなってくる。たとい楼閣(ろうかく)を空中に築いたとしても、その労作がむだぼね折りだと決めこむには及ばない。むしろ空中こそ楼閣を築くべき場所なのだ。こんどは楼閣の下に基礎を築いてやらねばならぬ。」
「ぼくはどこであれ囲いの外で(引用者注:「の外で」に傍点)語りたい。次第に目ざめて行く人が、これまた目ざめつつある人たちに語りかけるようにだ。」
「誰であれ自分自身の仕事に専念し、本来あるがままの自分であるようにつとめてほしいものだ。」
「もしも仲間と歩調の合わない者がいたら、たぶん彼には別の鼓手の打ち鳴らす太鼓の音が聞こえているのだ。どんな律動だろうと、どんなに遠く遥かな響きだろうと、自分の耳に聞こえる楽音に合わせて歩けばいい。(中略)ぼくらのためにと用意された本来の境遇がまだ到来していないのなら、どんな現実にその代わりをつとめさせてみても何になろう。ぼくらは空しい現実に乗り上げて難破するなどまっぴらだ。」
「町の貧民ほど多くの場合、自立した暮らしをしている者はいないようにぼくには思える。たぶん彼らは平然と受けとることができるのだから、よほど偉い連中なのだ。たいていの人間は、町に養ってもらうなんて自分はまっぴらだと考えているが、不正直な手段で自分を養うことは、そのほうが不名誉なはずなのに、まんざらでもないと思う場合のほうがむしろ多い。庭園栽培の薬草(ハーブ)みたいに、たとえばセージでも育てるように、貧しさをせっせと育てることだ。(中略)たといぼくがくる日もくる日もクモのように屋根裏部屋の片隅に閉じこめられても、内なる思いが健在である限り、世界はぼくには相も変わらず広大なままだ。」
「余分に富をためこんでも余分なものが買えるだけだ。魂の必需品には金銭(かね)がなければ買えないものなど一つもない。」
酒本雅之「人間蘇生の思想――『ウォールデン』を読む」より:
「それにしてもどうしてソローは、一八四五年七月からの二年二ヵ月を、人間社会の外に出て、(中略)ウォールデンの森でひとり暮らしをしなければならなかったのだろう。少なくとも彼の中に、人間社会とは別の(引用者注:「別の」に傍点)原理で生きたいという抑えがたい欲求が働いていたことだけは間違いあるまい。」
「「アルカディア」の所在が人間社会の外にあることは繰り返すまでもないが、それをソローはウォールデンの森という場で探り当てようとする。」
「ソローの「自然」の中の住人たちはどんな格づけからも自由であり、それぞれに内在するいのちを存分に生きている。」
「ソローがすすめるのはこの世界の中で「迷子」になることだ。彼に言わせれば、人間はごくさりげない散歩のときにさえ何かなじみの目じるしを頼りにしがちだ。すでに知りつくしているものを目じるしにすれば、安全ではあっても、きまりきった道しか歩けない。「冒険と危機と発見」に通じる道を歩こうと思えば、まずいっさいの既知の目じるしとは縁を切り、「完全に迷子」になることが必要だ。それでようやく「『自然』の広大さと不思議さがつくづくと分かるようになる」。同じことをソローはこんなふうにも言っている、「ぼくらは迷ってからでないと、つまり世界を失なって(引用者注:「世界を失なって」に傍点)からでないと、自分自身が見えてこないし、……世界の無限の広がりも、かいもく分からぬこととなる」。「迷子になる」とは「踏み慣れた道」に執着せず、大胆に無垢な一歩を踏み出して、原初のままの世界の多様と充実に出会うということだろう。」
こちらもご参照ください:
『方丈記 発心集』 三木紀人 校注 (新潮日本古典集成)
「ぼくらは完全に迷子になり、あるいはくるりと一回転してみれば、――実はこの世界で迷子になるには目を閉じて一回転するだけで充分だ、――それでようやく「自然」の広大さと不思議さがつくづくと分かるようになる。」
(ヘンリー・D・ソロー 『ウォールデン』 より)
ヘンリー・D・ソロー
『ウォールデン』
酒本雅之 訳
ちくま学芸文庫 ソ-2-1
筑摩書房
2000年3月8日 第1刷発行
2022年8月20日 第2刷発行
541p+1p
文庫判 並装 カバー
定価(本体価格1,500円+税)
装幀:安野光雅
カバーデザイン:神田昇和
「本書は、「ちくま学芸文庫」のために新たに訳出したものである。」
Henry David Thoreau (1817-1862)
Walden; or, Life in the Woods (1854)
本文中に図版(「ソロー自身によるウォールデン池の測深図、及び断面図」)1点。

カバー裏文:
「1845年夏、ヘンリー・ソローはウォールデン池のほとりに自分で家を建て、以後2年2ヵ月におよぶひとり暮らしを始めた。アメリカが経済原理に取りつかれ始めたその時代、彼はそんな社会のあり方に疑問をもち、人間精神の復権を目指して、社会の外側で生きることを実践した。本書『ウォールデン』は、その実証の記録である。そして人間界とはうらはらに、伸びやかで自由な野性世界の、実に魅力的な宝庫でもある。ソローの思想を忠実に訳文に反映させた、古典的名著の新訳決定版。」
目次:
生計
暮らした場所、暮らした目的
読書
さまざまな音
ひとり暮らし
訪問者たち
マメ畑
村
さまざまな池
ベイカー農場
高尚な法則
動物の隣人たち
暖房のこと
先住者たち、つづいて冬の訪問者たち
冬の動物たち
冬の池
春
おわりに
ヘンリー・D・ソロー略年譜
人間蘇生の思想――『ウォールデン』を読む (酒本雅之)
◆本書より◆
「生計」より:
「隣人たちが良いと呼んでいるものを、ぼくは大部分、真底(しんそこ)悪いと信じているし、もしもぼくに後悔することがあるとしたら、それはおそらくぼくの良い振舞いだ。ぼくがこんなに良い振舞いをしたとは、いったいどんな悪霊がぼくに取りついたのだろう。」
「ぼくはよく鉄道線路のわきに、長さ六フィート、幅三フィートの大きな箱があるのを見かけた。労働者が夜になると道具をしまいこんでおく箱だ。それを見てぼくはふと、生活に困っている者は誰もがこういうものを一ドルぐらいで手に入れて、それに錐(きり)でわずかに穴をあけ、少なくとも空気ははいるようにしておいて、雨降りのときや日が暮れるとその中にはいり、蓋をおろして留めるようにすれば、自由に好きなことができるし、魂も自由でいられるのではないかと思ったものだ。こうすることがまんざら愚の骨頂ではなく、絶対にくだらない選択とも思えなかった。好きなだけ夜更かしもできるし、いつ起き出しても、宿の亭主や家主などにうるさく宿賃を催促されずに自由に歩きまわれる。こういう箱でも凍死することはよもやあるまいに、もっと大きくて、もっと贅沢な箱の借り賃を払うのに死ぬほど苦労している人が多い。けっして冗談なんかではない。」
「原始の頃は人間の暮らしが単純で飾りけなしだったおかげで、少なくともかえって人間は、幸いにも自然界の単なる寄留者のままでいることができた。食物と眠りによって元気をとりもどしたら、またもや旅に思いを馳せた。いわば彼はこの世界に野営して、渓谷を辿り、平野を進み、あるいは山頂に登ったりしていた。ところが、どうだ、以後人間は道具の道具になりさがった。空腹になったら自由に果実を摘んでいた人間が、いまは農夫になっている。宿りを求めて木陰にたたずんでいたのが、今では一家を構えている。今では夜を過すのにもはや野営することはなく、地上に腰をすえて天を忘れてしまっている。」
「ぼくは世界の中にできるだけ多くの異なった個人が生きていてほしい。だがその一人ひとりには、自分自身の(引用者注:「自分自身の」に傍点)生きかたを見つけて前進して行くようぜひとも心がけてほしい。代用品ではなく、父親のでも、母親のでも、隣人のでもない生きかたをだ。」
「暮らした場所、暮らした目的」より:
「最新のニュースが何だと言うのだ。ついに古びることのなかったものとは何かを知ることのほうが、よほど大切ではないか。」
「もしも実相だけをしっかりと観察し、むざむざ欺かれたりするようなことがなければ、人生は、(中略)お伽話や『アラビアン・ナイト』に似てくるだろう。もしも必然的で、存在する権利のあるものだけをぼくらが尊重すれば、巷(ちまた)には音楽と詩が鳴り響くことになる。(中略)毎日を遊び暮らしている子供は、生活の真の法則や生活を織り成す諸関係を大人よりもはっきりと見てとっている。大人は生活の価値を損わぬように生きることができないくせに、経験のおかげで知恵がついたと考えている。」
「ぼくはもっと深いところから飲んでみたい。川底に星の砂利(じゃり)が敷きつめられた空の小川で釣りがしたい。」
「さまざまな音」より:
「ぼくはぼくの生活に広い余白がぜひとも欲しい。夏の朝に、いつもの水浴をすますと、日の当たる戸口に坐り、マツやヒッコリーやハゼノキに囲まれながら、ひっそりと静まりかえったぼく一人の天地の中に、日の出から真昼までうっとりと夢想していたこともある。ぼくのまわりでは鳥たちが歌い、家の中を音もなく飛び交(か)っていたが、やがて西の窓から日が差しこみ、あるいは遠くの街道でどこかの旅人を運ぶ馬車の音が響いて、ぼくに時間の経過を思い出させてくれたものだ。そういうときには、ぼくは夜のトウモロコシのように成長した。」
「何しろぼくの暮らしぶりはプーリー・インディアンの流儀だ。話によると、「きのう、きょう、あしたを表わす言葉が彼らには一つしかなく、意味の違いを、きのうの場合は後ろ、あしたの場合は前、そして過ぎゆくきょうという日はまうえをそれぞれ指さすことで表現する」そうだ。むろんわが町の同胞諸君には怠惰以外の何ものでもないと考えるにちがいないが、しかしもしも鳥や花がぼくを彼らの基準で吟味してくれたら、ぼくはたぶん落第とはならなかった。生活の動機はおのれ自身の内面に求めねばならぬ、これは真理だ。自然の日々はいとも穏やかで、誰かの怠慢などあまり咎めはしないはずだ。」
「ひとり暮らし」より:
「ほとんどの時間をひとりで過すことは健康的だとぼくは思う。たとい相手が選りぬきの人でも、誰かといっしょにいるとすぐに退屈し、疲れてしまう。ぼくはひとりが大好きだ。孤独ぐらい付き合いやすい友にぼくは出会ったためしがない。(中略)考えたり働いたりしていると、人はどこにいようといつも一人だ。」
「高尚な法則」より:
「「完全な状態に達した昆虫のなかには、食物を摂取する器官はそなえているのに、それを使わないものもいる」というのは、昆虫学者が言明する意味深い事実だ。」
「人間が肉食動物だということは恥辱ではあるまいか。」
「最も実在の名にふさわしい事実は、おそらく人から人へ伝えられたりするものではけっしてない。ぼくの日常生活の正真正銘の収穫物は、朝や夕べの色調に似て触知しがたく名状しがたい何ものかだ。わが手で捕(とら)えた小さな星屑、わが手につかんだ虹の一片だ。」
「動物の隣人たち」より:
「どうして人はこうまで思いわずらうのか。食わざる者は働かずとも良しだ。」
「おわりに」より:
「「君の眼差(まなざし)を内側に向けたまえ、そうすれば君の心の中に
未発見のあまたの領域が、
きっと見つかるはずだ。それらの領域を旅し、
そして君自身の宇宙の形状に精通したまえ」
(訳注:「イギリスの詩人ハビングトン William Habington (一六〇五―五四)の詩“To My Honoured Friend Sir Ed. P. Knight”。」)
「わざわざ世界をひとめぐりしてザンジバルのネコの数をかぞえに行くのも割に合わぬ話だ。だがもっとましな生きかたができるようになるまでは、こんなことでもやっていれば、ついには内側に辿りつくための「シムズの穴」(訳注:「アメリカの軍人シムズ John Cleves Symmes は地球が空洞で両側に穴があいており、内部に居住することが可能だという説を唱え(一八一八年)、著作として発表した(一八二六年)。」)か何かがなんとか見つかるかもしれない。(中略)もしもすべての言語が語れるようになり、すべての民族の風習に順応したいと願うなら、もしもすべての旅行者よりも遠くまで旅をして、すべての風土になじみ、スフィンクスにまっさかさまに石をめがけて身を投げさせたいと願うのなら、いっそ古代の哲学者の教えに従い、「汝自身を探究せよ」、だ。それには眼力(がんりき)と度胸が要求される。(中略)さあ、西方に通じる道の尽きるあたりへ旅立とう。(中略)地球を横目で見ながらどんどん進み、夏も冬も、昼も夜も、日が沈み、月が沈み、そして最後に地球が沈んでも、それでもつづく道を行こう。」
「暮らしを単純化して行けばいくほど、宇宙の法則は以前ほど複雑とは思えなくなり、孤独も孤独ではなく、貧しさも貧しさではなく、弱さも弱さではなくなってくる。たとい楼閣(ろうかく)を空中に築いたとしても、その労作がむだぼね折りだと決めこむには及ばない。むしろ空中こそ楼閣を築くべき場所なのだ。こんどは楼閣の下に基礎を築いてやらねばならぬ。」
「ぼくはどこであれ囲いの外で(引用者注:「の外で」に傍点)語りたい。次第に目ざめて行く人が、これまた目ざめつつある人たちに語りかけるようにだ。」
「誰であれ自分自身の仕事に専念し、本来あるがままの自分であるようにつとめてほしいものだ。」
「もしも仲間と歩調の合わない者がいたら、たぶん彼には別の鼓手の打ち鳴らす太鼓の音が聞こえているのだ。どんな律動だろうと、どんなに遠く遥かな響きだろうと、自分の耳に聞こえる楽音に合わせて歩けばいい。(中略)ぼくらのためにと用意された本来の境遇がまだ到来していないのなら、どんな現実にその代わりをつとめさせてみても何になろう。ぼくらは空しい現実に乗り上げて難破するなどまっぴらだ。」
「町の貧民ほど多くの場合、自立した暮らしをしている者はいないようにぼくには思える。たぶん彼らは平然と受けとることができるのだから、よほど偉い連中なのだ。たいていの人間は、町に養ってもらうなんて自分はまっぴらだと考えているが、不正直な手段で自分を養うことは、そのほうが不名誉なはずなのに、まんざらでもないと思う場合のほうがむしろ多い。庭園栽培の薬草(ハーブ)みたいに、たとえばセージでも育てるように、貧しさをせっせと育てることだ。(中略)たといぼくがくる日もくる日もクモのように屋根裏部屋の片隅に閉じこめられても、内なる思いが健在である限り、世界はぼくには相も変わらず広大なままだ。」
「余分に富をためこんでも余分なものが買えるだけだ。魂の必需品には金銭(かね)がなければ買えないものなど一つもない。」
酒本雅之「人間蘇生の思想――『ウォールデン』を読む」より:
「それにしてもどうしてソローは、一八四五年七月からの二年二ヵ月を、人間社会の外に出て、(中略)ウォールデンの森でひとり暮らしをしなければならなかったのだろう。少なくとも彼の中に、人間社会とは別の(引用者注:「別の」に傍点)原理で生きたいという抑えがたい欲求が働いていたことだけは間違いあるまい。」
「「アルカディア」の所在が人間社会の外にあることは繰り返すまでもないが、それをソローはウォールデンの森という場で探り当てようとする。」
「ソローの「自然」の中の住人たちはどんな格づけからも自由であり、それぞれに内在するいのちを存分に生きている。」
「ソローがすすめるのはこの世界の中で「迷子」になることだ。彼に言わせれば、人間はごくさりげない散歩のときにさえ何かなじみの目じるしを頼りにしがちだ。すでに知りつくしているものを目じるしにすれば、安全ではあっても、きまりきった道しか歩けない。「冒険と危機と発見」に通じる道を歩こうと思えば、まずいっさいの既知の目じるしとは縁を切り、「完全に迷子」になることが必要だ。それでようやく「『自然』の広大さと不思議さがつくづくと分かるようになる」。同じことをソローはこんなふうにも言っている、「ぼくらは迷ってからでないと、つまり世界を失なって(引用者注:「世界を失なって」に傍点)からでないと、自分自身が見えてこないし、……世界の無限の広がりも、かいもく分からぬこととなる」。「迷子になる」とは「踏み慣れた道」に執着せず、大胆に無垢な一歩を踏み出して、原初のままの世界の多様と充実に出会うということだろう。」
こちらもご参照ください:
『方丈記 発心集』 三木紀人 校注 (新潮日本古典集成)
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