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野溝七生子 『暖炉 野溝七生子短篇全集』 小出昌洋 編

「猫になりたいなと、時々、思ふ。」
(野溝七生子 「猫きち」 より)


野溝七生子 
『暖炉 
野溝七生子短篇全集』 
小出昌洋 編



展望社 
平成14年2月19日 初版第1刷発行 
453p 
20.6×15.4cm 丸背紙装上製本 カバー 
定価:本体5,200円+税



本書「編集後記」より:

「本書は、野溝七生子の既刊三冊の短編集(「南天屋敷」「月影」「ヌマ叔母さん」)、および未刊行作品六篇を以て編集し、排列は、既刊書については発行所収順として、未刊述作はその執筆順とした。なほ「ヌマ叔母さん」に再録される、「月影」「灰色の扉」の二篇は、先行する単行書所収とした。底本は各単行書所収本文に依拠し、未刊述作については、掲載各紙誌を底本とした。但し著者手訂の雑誌原稿の存するものについては、その稿を底本とした。
 表記については、漢字は新字体、かな遣は底本のままとし、明らかな誤植・誤字・脱字と思はれるものはこれを正した。また「など呼びさます春の風」の一は、雑誌編集部において新かな遣に改められて掲載されるものであるが、今回は旧に復した。さらにルビについては、(中略)概ね底本に従ひ、まま補ふところもあった。」
「単行書「南天屋敷」は、昭和二十一年三月十日、角川書店から出版された。」
 「単行書「月影」は、昭和二十三年六月十五日、青磁社から出版された。」
 「単行書「ヌマ叔母さん」は、昭和五十五年四月二十日、深夜叢書社から出版された。」
「「暖炉」は、「信濃毎日新聞」大正十四年四月三十日から五月十二日に亙つて連載された。
 「中つ子のヌマ」は、雑誌「銀冠」昭和六年六月発行号に掲載された。」
「「ペルのしつぽ」は、雑誌「文芸通信」昭和十一年六月発行号に掲載された。
 「など呼びさます春の風」は、雑誌「婦人文庫」昭和二十三年一、二、四月発行号に掲載された。
 「沙羅」は、雑誌「芸苑」昭和二十三年十一月発行号に掲載された。
 「在天の鳰子に」は、雑誌「文学城」昭和五十三年十二月発行号に掲載された。」




野溝七生子 暖炉



帯文:

「デビューから半年後、新聞連載された「暖炉」のほか、「中つ子のヌマ」など未刊6篇をも収録した、野溝七生子の全短篇集」


帯背:

「野溝七生子
の短篇世界」



目次:

Ⅰ 南天屋敷
 南天屋敷
 猫きち
 奈良の幻
 秋妖
 藤と霧
 神聖受胎
 山寺尋春
 灰色の扉

Ⅱ 月影
 別荘の客
 寒い家
 往来
 黄昏の花
 『船の夫人』
 SONATINE
 Genie und Geschlecht 第一課
 連翹
 紫衣の挽歌
 月影

Ⅲ ヌマ叔母さん
 ヌマ叔母さん
 沙子死す
 曼珠沙華の
 緑年
 星の記録

Ⅳ 未刊行作品
 暖炉 
 中つ子のヌマ
 ペルのしつぽ
 など呼びさます春の風
 沙羅
 在天の鳰子に

編集後記 (小出昌洋)




◆本書より◆


「奈良の幻」より:

「何故、このやうなことを、彼女は平然と云つてのけられるのか。
 「だつて、私はさう感じて、そして私は見たのです。」
 クノは、扉の中に消えた。
 「Petite femme de lettres!」
 クノよ、お前は見、また感じ、そして話すのだ。そして、どんなに多くお前は詩人だらう。私はもはやお前のために何故、心配しなければならないかが解らない。お前は、お前の信仰する空想の威力を以つて、このひん曲つた人生からさへ、なほ百倍の美や幸福を猟り出すことができるのだ。」



「灰色の扉」より:

「「クノや、どうぞ、私が今帰つて行くのをごめんしてちやうだいよ。だけどね、私は人間の生活を見るのは、もう、厭なのよ。人間の生活を見るのは、どうしてもどうしても、私は厭なんだからね。」」

「「誰が、私を愛することができるのでせう。誰を、私が愛することができるのですか。私は、ほんとに憎らしい子なのです。」」

「クノよ。今日の美しいたそがれを見たか。
 私は、先刻まで、戸外を歩いてゐた。私は和かい夕靄が、だんだんと、次第に刺すやうな透徹した夜気に変つて行つてしまつたまで、永い散歩を続けてゐた。私は、非常に疲れて帰つて来た。私はすぐ、そこに、一瞬間前まで、私以外の何者かが、ゐたらしかつたことに気がついた。先刻、私は、暫く横になりたい気持がしたから、となりの寝室に行つたのだ。見ると、仄暗い中に、私の寝台の上が高まつてゐた。確かに、人が寝てゐた。私は、見なくても、それが誰であるかが解る。私なのだ。そこで、私は書斎に引き返して来て、肘かけ椅子の中で暫く眠つた。」

「クノよ。人生のことが、どう変つて行くか私には、決して見当がつかない。結局、私は運命の恣ままに任して来た。そして、私がどうにか私の意志どほり曲げ得たと思つた運命が、やつぱり、運命自身の仕事だつたといふことを知つたのだ。これが、私の Doppelgängerin に、ほかならない。人生のことは、むつかしい。非常にむつかしいのだね。」
「Doppelgänger(in) 屢々往来する人;幽霊;お化; Tobari Deutsch=Japanisches Wörterbuch より」



「往来」より:

「私達は窓を開き、夕暮が殆んど夜の暗黒に変つて行かうとする有様を眺めた。細い雨の形はやうやく見えなくなり、時々、光る針束を解くやうに、窓をきつて燈明(あかり)の前を斜めに地に落ちてゆくものの姿があつた。逢魔が時といふ暗鬱極まる、どうしても有毒なものであるとしか思はれない、さういふ時刻の、神秘な大気――或る一種の瘴気かも知れない――はひしひしと私どもを押し包んだ。旅子は残らずの神経を前額に集めた暗い硬ばつた顔を両の掌に押しつけて、臂を膝の上に立ててゐた。一方の足は絶えず爪先で以て小刻みに足踏をしてゐるのだつた。
 「厭な時刻。」
 と低い声で話しかけたが、ふと身の毛がよだつと云ふ風に、うすい肩をそくりとゆすつた。とは云へ、旅子の気持は、何か語りたいやうにほぐれて来たのらしく、すぐ次のやうにつけ加へた。
 「彼の世との交通が始まる。こんな時ね、突然一人の子供が、見えなくなつてしまふといふことが、有り得るなんて、そんな考へを持つことはないの。」
 私はためらつて、そして何と云つたのかときき返へした。
 「通り魔よ。子供をね、この世からあの世へすいと連れて行つてしまふ。」
 さう云つた旅子の顔は、急に蒼ざめたやうに見えた。」

「「するとね、突然、私の小さいお友達が、わあつて泣き出したのです。人が居るつていふの。『人が居るからいやだ。人が居るからいやだ。わあ、わあ、わあ。』つて。子供の眼からは涙が、とめどなく流れ出ました。(中略)可哀さうな小さいお友達さん。『人が居るからいやだ。』なんて、この純潔な幼い心臓は、この世に出て来て、まだいくらも経つてゐないのに、もう沢山の傷を背負つたもののやうに、人を厭ふことを知つてゐるのだらうか。この大きいお友達の心臓は、傷だらけです。ほら、傷だらけです。私の心は云ひ難い憂鬱で、重苦しくなつてしまつたの。何かぐんぐんと、凡ゆるものが私の中に、甦つて来るのを感じたのです。ああ厭人(ミザントロープ)、厭人(ミザントロープ)。いつも激しいさういふ状態に悩んでゐる私の、その時の気持といふものは、しかし、もつといつそう激しい自己嫌悪に陥つてゐたのです。」」
「「この小さい子供は五歳(いつつ)でした。この世に現はれて来てたつた五年にしかならない、ほんのつい此間まで、前の世の神秘と不可思議との中に住んで、遊離してゐた霊魂だつたのでせう。が、十五年、二十年と経つて、この世に醜い執着ができ、私達大人の心には、このやうにして前の世の記憶は、消え果ててしまふでせう。子供には、まだ前の世のたのしかつた記憶が、その心に生きて残つてゐるのかもしれない。そのやうにして子供の生命が、何か不可思議極まるこの世ならぬものの意味を、私の心に想像させるのでした。この子供はほんとにこの世よりも、まだ前の世が恋しいのかも知れないのだ、と。この世に執着ができない間に、早く、前の好い世に、あと戻りをしたがつてゐるのだらう、子供の眼は大人に見ることのならない神秘をも見とほしその耳は、あの世の声をもきくのでせう。」」



「黄昏の花」より:

「クノよ。お前が知つてゐるとほり、私は今も実に、一日のうちで最も黄昏を愛する。それは次第に夜が来ようとする予兆であるからだ。それに、ことに、逢魔が時といふ奇怪な時刻であるではないか。(中略)かういふ時、多くの心はしばしば思ひ出や瞑想の中に沈滞してしまふのだ。」


「月影」より:

「どうしても、どのやうな意味でか、ヌマは少しく気が狂つてゐたのには相異はないのだ。」

「由来、さもさも重荷を背負つてゐるかのやうに、ヌマはしばしば、激しい厭人や厭世の念を極めて抽象的な言葉でもつて、日頃私に向つて洩らしてゐた。ヌマにとつて、生は、唯、実に「懶さ」にほかならないものであるかのやうに見えるのだ。」

「どのやうにしてか、早晩、ヌマは自殺するであらう。
 「あなたは、私にはなかなか入用なのだから、死んぢやいや。」
 と、私は云つた。ヌマの和らかい声が私を送つた。
 「おやすみなさい。」
 蕭条とする。秋の、何と近いこと。
 私は、幻影を見たと云つた。だが、事実、幻影ではなかつたのだ。現実のヌマが、あの見るがやうな裸身で月光を浴びながら、夜ごとに妖嫋としてさまよつてゐるのだ。
 ヌマは、気が狂つてゐるのに相異ない。ヌマは、それがまさしく一種の Narzismus に陥つてゐることには少しも気づかず、彼女の心状が、なほ、常態を保ち得てゐるものと、彼女自身に信じて疑はないで、彼女は少しも常人とちがはない心的状態に、自分があるのだと慢じてゐるのであらう。
 私は、私自身であるごとくヌマの上を、あげつらひ得るのだ。何故ならば、ヌマとは、また、私自身であるのかも知れないではないか。
 昼間は、甲や掌に掛かるほども、きつちりと、細い袖口に纏つてさへゐるヌマが――私は、深夜にヌマの人格が分裂するのであるとは思はない。すでに、気がちがつてゐるのだ――月光は人を狂気せしめるといふことを、私は、ギリシアのむかしからの伝説にきいてゐた。」



「ヌマ叔母さん」より:

「ヌマにはさういふ言葉で語られる世間話といふのが少しも理解できなかつた。それで、大樟の木の下に立つてぼんやり空を見上げたり、御手流(みたらし)の水に躍る葉洩れの光を一心に見つめたりしてゐた。その方がヌマには興味があつた。」


「曼珠沙華の」より:

「この人が自分で私に“私は気ちがひだ”つて云つたんだ。
 「私、気がちがふまで落ちつかなかつたんです、気がちがつたらやつと安心した」
 と、この人は云ふのだ。」

「人間が、自分の中にある変な壁を衝き破つたり、着てゐる着物を脱ぎたくなつたりすると気ちがひになるらしい。」

「唯、気ちがひだけ、気ちがひだけが、この天の至福を享けるんです。私を気ちがひだと云つてる人々が、私の幸福を羨んでゐないと誰が云ひます。気ちがひは、常人から何を減じたら、気ちがひになるんですか。現実の感情ですか。そんなもの、何の役に立つんです。みんな、振り棄てたい振り棄てたいと思つてるんぢやありませんか。常人は、五つの世界を持つとします。気ちがひは、抑圧された穢いものを少しも持ちません。だから、その上にもう一つの世界を加へることになります。気ちがひの世界では、願望と行動が同時なのです。赤い巾(きれ)を髪に結(いは)へたい。だから結へてゐる。格子を破つて出て行きたい、と思ふか思はない間に、もう出て居るんです。(中略)赤いものをきれいだと思ふのは常識なんでせう。それを髪に結へたら気ちがひになると思ふのは、何ですか、俗なのですか。私には解らない、解る筈がない。私は気ちがひだもの。」



「緑年」より:

「世間の義理を最高のモラルだと思つてゐる人間には私のいふことは解らない。もう帰らう、猫のゐる私の家へ。」


「など呼びさます春の風」より:

「そんな有様で、初めは私が気がちがつてゐるのかと思ひましたが、後には、どうやら気ちがひは他にあつて、この巨大な気ちがひ病院の中での、僅かに少数の真人間の一人であると自分を信じるやうになりました。ところが、後にはまたそれが、気の狂つてゐる証拠かと思ひ始めてもゐるのでした。さうして、他人(ひと)と同じやうに二本の脚をかはるがはる前に出して平気で歩いてゐる自分に、ひどく気がひけて、殆んどひつきりなしに、倒立ちして人中を両手で歩きたい衝動に駆られるのでした。」

「私は戦争の当初に“大和魂は奴隷の忠誠に他ならない”と申しました。奴隷には、意志は奪はれてゐても、少くも、まだ理性は残されて居ります。が、すでに大和魂は“狂気”のほかの何物でもなくなつて居りました。」
「兄上、人類の叡智が人類の幸福に役立つよりも、より多く人類の不幸に転用せられる限り、戦争はあとを断たない。かつて智慧の火を盗めるプロメテの子孫への責罰はまだ終らないのでせうか。縦横無尽に造物主の稜威を犯す人類に、神は御手を下し給はない、だが、人類は自らの叡智によつて、自らを裁き自らを罰してゐるのです。日本人がゲエテのいふごとく“皆、賢くまたよくあらばこの世は概ね天国ならん、されど今は地獄”なのでした。私達、戦争をした日本人が、本質に於いても習性に於いても、今日、少しも変つてゐないとすれば、軍備並びに権力の正常な意味を行使することは不可能でせう。(中略)私達は聡明でもなければ善良でもない。私達の生きてある限り、寧ろ軍備を全廃してしまふことです。それより他には日本を戦争から防遏する手段はありません。」












こちらもご参照ください:

『野溝七生子作品集』
矢川澄子 『野溝七生子というひと』
『定本 久生十蘭全集 6』
『斎藤磯雄著作集Ⅰ 文学研究 他』
























































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ピエール・シャンピオン 『フランソア・ヴィヨン 生涯とその時代』 佐藤輝夫 訳 (全二冊)

「こうした惨憺たる生活からは、よしんばそれが芸術ではなくても一個の文学が生れる。そして当時にあっては牢獄こそ詩人を作ったと、ほとんど誇張することなく言うことができるであろう。」
(ピエール・シャンピオン 『フランソア・ヴィヨン 生涯とその時代』 「第十三章 放浪生活」 より)


ピエール・シャンピオン 
『フランソア・ヴィヨン 
生涯とその時代 
上巻』 
佐藤輝夫 訳
 


筑摩書房 
昭和45年11月15日 発行 
548p 別丁口絵(モノクロ)24p 
菊判 丸背バクラム装上製本 貼函
定価4,800円
 


ピエール・シャンピオン 
『フランソア・ヴィヨン 
生涯とその時代 
下巻』 
佐藤輝夫 訳
 


筑摩書房 
昭和46年7月15日 発行 
672p+14p 別丁口絵(モノクロ)20p 
菊判 丸背バクラム装上製本 貼函
定価6,000円
 


上巻「凡例」より:

「本訳書は Pierre Champion 著 *François Villon, sa vie et son temps*, 2 vols., Paris, Librairie spéciale pour l'histoire d France, Honoré Champion, éditeur, 1913. の全訳である。ただしヴィヨン詩中に登場する人物考証を誌した付録(Appendice)は、紙幅の関係から摘要にした。」
「原著は、フランス十五世紀の詩人フランソア・ヴィヨンの生涯及びその時代、その環境を研究した最高権威書で、晦冥なこの時代とさらに晦冥隠微な詩人の生涯を古記録に徴して構成した、言わば歴史的過去復原の傑作である。」



上巻口絵(モノクロ)29点。下巻口絵(モノクロ)23点。「附録」は二段組。
翻訳は昭和17年に着手され、上巻のみ昭和18年10月に筑摩書房より刊行、下巻は当時未刊でした。

本書は上下揃いがヤフオクで1,400円(送料930円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたので読んでみました。



シャンピオン ヴィヨン生涯とその時代 01



シャンピオン ヴィヨン生涯とその時代 02



下巻帯文:

「中世末期の闇空に彗星のように現われ、窃盗・殺傷等の悪に沈淪しながらも傑作『形見分け』と『遺言書』を書き、すでに老いたる三十歳余の身を伝説の霧の中にくらましたヴィヨン――ありとある原資料を駆使して書かれた本書をもって、ヴィヨンの実証的研究は完成された。」


上巻目次:

原著者序

凡例

第一章 サン=ブノア・ル・ベトゥールネ教会とメートル・ギヨーム・ド・ヴィヨン
  この教会とその伝統――「ベトゥールネ」というその付属名のいわれ――七月十一日の祭――境内・墓地・諸聖日の行列――サン=ブノア同信徒団・参事をもって参事会を作る組合教会――その特権・収入・裁判権――この教会のノートル=ダム隷属――二人の参事の書翰――ノートル=ダムの出張説教――一四三三年までのギヨーム・ド・ヴィヨンの履歴。

第二章 フランソア・ヴィヨンの少年時代
  ヴィヨンの出生年代――彼の本名・フランソア・ド・モンコルビエまたの名デ・ロージュ――文盲にして信仰深いその母親、聖母を信仰して地獄を怖れる――彼女シェレスタン修道院街区に住む、修道院付属教会には壁画として地獄と天国の絵かり――母親より聞かされた小話――少年フランソアのサン=ブノア入りをした時の年齢――教会で少年教育を施した当時の習慣――フランソア・ヴィヨン時代のパリの少年――サン=ブノア境内の与えた最初の印象・教会の祭・キリスト降誕祭――境内の看板――学芸学部入学までの少年の教育――それを担当したのは多分ギヨーム・ド・ヴィヨンだろう――聖書・諸聖者伝・その他の道徳小話。

第三章 フランソア・ヴィヨンの学位・称号
  当時の大学生とは――諸学部と学芸学部――フーアール街の諸学校――バカロレアと学士号・諸試験課目――一四四九年フランソア・ド・モンコルビエ、バシュリエとなる――一四五二年学士となる――フランソアの同学の知友――学士の称号、これによってヴィヨン聖職俸禄権を享受し得る――「叙任」と「聖職俸禄」形見の意義――彼の作品に現われた大学教育の痕跡――上代世界に関するヴィヨンの知識。

第四章 大学騒動とフランソア・ヴィヨンの処女作
  大学の特権――一四四四年及び一四四五年における講義の中絶――パリ大学と検察長官――一四五二年、教皇枢機官ギヨーム・デストゥートヴィルによる大学の改革――この事業における検事総長ギヨーム・コタンの援助――一四五一年より五三年にわたる騒擾――「悪魔の屁」事件とフランソア・ヴィヨンの処女作。

第五章 フランソア・ヴィヨン時代の聖職者と学生
 第一節 居酒屋と賭博
  聖職者の定義、その特権、学生にまで及ぶ――学生生活、学芸学部学生の特に邪悪な行為――講義中絶の結果、居酒屋及び娼婦との頻々たる接触――賭博に耽る。
  酒亭パリに多数あり――パリの酒亭の相貌とその看板――葡萄園の所有者及びパリ市民酒税を免れて葡萄酒を売る、宗教家及び大学関係者も同断――居酒屋へゆく目的、飲酒・賭博のためのみにあらず――ヴィヨンの出入りする酒亭――ヴィヨンの愛好する葡萄酒――飲手としての彼の名声――ヴィヨンによってあげられている賭事――主として居酒屋にて賭博す――掛け借り――球遊び・将棋・ブルラン・九柱戯・花かるた――賭博の手暗――葡萄園を荒す学生、無銭饗応の伝統。
 第二節 娼婦
  娼婦の巣食う街区――娼婦の風習・「折返しの襟」・帯――店舗の女神たち――兜屋小町――女中と学生――グロッス・マルゴーとマリオン・リドール。
 第三節 パリの夜と夜警
  パリの夜――喧嘩好きの学生と小夜曲歌い――夜の歌・諷刺の歌――喧嘩騒ぎ――夜警――夜警の隊長――隊長フィリップ・ド・ラ・トゥールとジャン・アルレーとの闘争――形見「兜」の説明。

第六章 サン=ブノア同信徒団とフランソア・ヴィヨンの青年時代
 第一節 その環境とギヨーム・ド・ヴィヨン
  ヴィヨンの最初の知友がサン=ブノア境内の人々であったこと――詩人の少・青年時代の間におけるギヨーム・ド・ヴィヨンの境涯――ギヨーム、サン=マルタン=デ=シャン修院長ジャン・セギュアン邸に出入りす――ギヨーム、宗法学校にて教授す――サン=ブノアの司祭・参事・礼拝堂付司祭――ギヨーム・ド・ヴィヨンの甥ジャン・フラートリエ――ギヨームの友ジャン・ル・デュック、ジャン・マルティノー・ド・サンス――境内付近の関係者、マテュラン修道院――サン=ジャン・ド・ジェリュザレム公館――カンブレー校、トレギエ校――ソルボンヌ――ヴィヨンその鐘の音を聞く――サン=ブノア同信徒団の国民的感情――ヴィヨンによって示されたデュ・ゲクラン及びジャンヌ・ダルクへの回顧――サン=ブノア同信徒団が宗法学者の集まりの中心地であったこと。
 第二節 サン=ブノア教会の憎悪
  パリの司祭及びソルボンヌ関係者の托鉢修道僧団に対する闘争、サン=ブノアのノートル=ダム僧会に対する憎悪――フランソア・ヴィヨンの二人の遺言受領者・ギヨーム・コタンとティボー・ド・ヴィトリー。

第七章 フランソア・ヴィヨンの初期の交遊関係
 第一節 聖職者及び財務人の環境
  レニエ・ド・モンティニーとその一門――ヴィヨン、レニエにより財務人環境に知人を得る――イチエ・マルシャンこの環境に所属する――大蔵院の行政――ピエール・サン=タマン、ジャン・ド・バイイ、ロビネ・トラカイユ――その他の財務人及び選良――ドニ・エスラン、ギヨーム・コロンベル、ギヨーム・シャリュオー、ロベール・ヴァレ、ニコラ・ルーヴィエ、メルブーフ、ジャン及びフランソア・ペルドリエ、ラギエ家の人々、ブリュイエール一門――フィリップ・ブリュネル――富豪関係の間に処しての貧乏人の受ける誘惑。
 第二節 シャトレ
  ロベール・デストゥートヴィルとその妻アンブロアズ・ド・ロレ――十二人組のジャン・ラギエ、ジャン・シャプラン、ペリネ・マルシャン――刑事裁判官マルタン・ベルフェ――検査官ジャン・モータン、ニコラ・ローネル――陪審官ジャン・ド・リュエイ――公証人ジャン・ド・カレー――代言人ピエール・フールニエ、ピエール・ジュヌヴォア――警吏ジャン・ル・ルー及びショレ、ドニ・リシェル、ジャン・ヴァレ、ミショー・デュ・フール、拷問係オルフェーヴル・ド・ボア、体刑執行人アンリ・クーザン――シャトレ書記生の環境。

第八章 フランソア・ヴィヨン時代のパリ
 第一節 左岸大学地区
  パリ生れの特権――助役となることを得る――ヴィヨンの遺言受領者たる助役――シャルル六世時代のパリ――ヴィヨンの青年時代においてパリその荒廃より立ち上がる――パリの弥次馬――祭・街の光景・街言葉――マチュラン街――サン=ジャック路――サン=ティーヴ礼拝堂――プリュノー囲地――モーヴェール広場、カルドン家ここに住む――カルムの僧院――カルム派の修道僧に対するパリ人の輿論――ボード僧に対する形見の説明――サント=ジュヌヴィエーヴ山上の街々と学校――サント=ジュヌヴィエーヴ修道院――ジャコバン修道院――この宗門に対する揶揄――シャルトルーの修道僧とヴォヴェールの悪魔――この修道僧に対するパリ人の輿論――彼らに対するヴィヨンの揶揄――ラ・アルプ街――コルドリエの修道僧とサン=タンドレ=デ=ザルク街区――サン=ジェルマン=デ=プレ、この町と修道院、クロテールここに眠る――ネールの宮殿と塔――ビュリダンの伝説――オーギュスタン修道僧――サン=ミシェル橋――マーコン街――ブーシュリー街とラ・アルプ街との看板――サン=セヴラン街区、パルシュミーヌリー街、フーアール街――学生どもを牽制するためユーグ・オーブリオの建てた小シャトレ――プチ=ポン橋とその鰯売りの女たち。
 第二節 中島(ラ・シテ)
  学生のノートル=ダム遊歩――ノートル=ダム大聖堂の外貌――あわれな人たちによって大鐘撞かれる――参事会員――参事会の傲慢とその貴族的性格――ノートル=ダム境内と宗法廷――宗法検事フランソア・ド・ラ・ヴァックリー――司教庁舎の捺印係――副司教の宗法検事メートル・ジャン・ローラン――代訴人ジャン・コタール――十八人僧堂――ジュイーヴリー街と酒亭「松毬亭」――フェーヴ街の球遊場「ペレットの穴」――エルヴリー街――床屋コラン・ガレルヌ――薬種屋アンジュロ・ボージス――パレとその書記生――高等法院、代訴人アンドリ・クーロー、代弁人ロベール・ヴァレ、調査局議長ギヨーム・コタン、参事ティボー・ド・ヴィトリー、支出係ギヨーム・コロンベル――コンシエルジュリーとその牢獄――エティエンヌ・ガルニエとヴィヨンの囚人に与える形見――勘定奉行所――ヴィヨンのいわゆる「旦那がた」調停奉行――「オルレアンの小さなマケ」に対する科料――銭奉行所――ジャン・タランヌとニコラ・ルーヴィエ――御用金奉行所――ニコラ・ローラン、ギヨーム・ヴォーラン――大蔵奉行所――ピエール・サン=タマン、アンドリ・クーロー、ジャン・ド・バイイ。
 第三節 市街地区とその近郊
  両替橋――両替人ジェルマン・メルルと銀細工屋ジャン・ド・バリュー――大シャトレとその牢獄――シャトレの近隣、家禽屋の後家ジャックリヌ・マシュクー――「優しい腸詰屋の女房」――大屠殺場――シャトレ役人とその関係――検査人ピエール・ド・ラ・ドゥオールとメートル・獣肉屋――ポッパン水飼場――サン=ジャック=ラ=ブーシュリーと代書店――ロベール・ヴァレに与える形見「代書店」――「提燈」と「ピエール・オ・レー」の形見――トゥルースヴァーシュ街と「羊」――肉屋ジャック・トゥルーヴェに与える形見――グレーヴ広場と「大茶碗屋」――マルトレ=サン=ジャンにある「悪魔の屁」の館――マドモアゼル・ド・ブリュイエールの身上話――ポルト・ボードアイエとサン=ジャン墓地――ジューイ街と検察長官の館――サン=ポールの王宮街区――ビリーの塔とシェレスタン修道院――フィリップ・プリュネルこの街に住む――サン=タントアヌ街、「笏杖」――タンプル耕地とギヨーム・シャリュオーに与える形見――タンプリエ街のサント=アヴォア教会――タンプル富豪街――サン=マルタン・デ・シャン修院とサン=マルタン街区――ジャック・ジャムへの形見――モービュエの泉水――サン=ドニ街のフィユ=ディウ施療院――施療院とサン=ジャック――ロンバルディア人――市場――レ・ジノッサン墓地と死人舞踏之図――死人及びキャンズ=ヴァン施療院への形見――モンマルトル尼院への形見――モンフォーコン刑場と「被処刑者のバラード」――ビセートル、ニジョンの塔――サン=ドニと「そのかみの貴女をうたえるバラード」――サン=モール=デ=フォッセ――ブール=ラ・レーヌ――グーヴィウー。



下巻目次:

第九章 フランソア・ヴィヨンの恋愛とフィリップ・セルモアーズの殺傷事件
  二十五歳におけるヴィヨンのもろもろの感情――コケット女の典型カトリーヌ・ド・ヴォーセルとの恋愛――ヴィヨン懲罰を受ける――ノエル・ジョリーに与えた形見――ヴィヨンは確かにカトリーヌを誹謗したことあり――マルトとの恋愛――フィリップ・セルモアーズの殺傷事件(一四五五年六月五日)――ヴィヨン、パリから逃亡――確かブール=ラ=レーヌに身を潜める――ポール=ロワイアルの尼院長ユゲット・デュ・アメル――ヴィヨン二通の赦免状を入手する(一四五六年一月)

第十章 『形見分け』
  『形見分け』の解説――フランソア・ヴィヨンそこで特に同年配の友について語る――『形見分け』の独創性――パリ出発を正当化するための詩人がでっちあげた偽証

第十一章 コレージュ・ド・ナヴァールの窃盗事件
  この学校の物的・精神的情況――ヴィヨン時代のこの学校の荒廃・学校の生活風習――その改革――ジョフロア・ル・ノルマンとヴィヨンの師たるジャン・ド・コンフラン、その改革のために尽力する――ヴィヨンの悪友たち、ギー・タバリーとコラン・ド・カイユー――一四五六年キリスト降誕祭の頃、一味はナヴァール校の礼拝堂に潜入、いくつかある櫃のうち神学部の櫃の錠前を破る。一四五七年五月十七日、ピエール・マルシャン、賊を告発する――ギー・タバリーの訊問、タバリーは一四五八年の終りにその事件をついに自白する――よってフランソア・ヴィヨンは放浪の生活を送るべく余儀なくされる

第十一章(続) フランソア・ヴィヨンのアンジェへの旅(一四五六年十二月より一四五七年に至る)
  十五世紀後半時代におけるアンジュー地方とアンジェ――ルネ王とボーヴォー卿の家系――鄙遊びに対するルネ王の趣味――「フラン・ゴンチエ」の典型――ヴィヨンがフラン・ゴンチエ弁駁歌をアンドリ・クーローに贈る理由――ピエール・マルシャンの告発によってフランソア・ヴィヨンは退路を断たれる

第十二章 コッキユ党員
  一四三五年以降におけるフランス国内の盗賊団――一四五五年に行なわれたディジョンにおけるコッキユ党員詮議――盗賊の組織と彼らの隠語――コッキユ党員名簿の中にヴィヨンの名は見当らないが、モンティニーの名あり――コラン・ド・カイユーとルネ・ド・モンティニーの死刑宣告(一四五七年九月十五日)――コラン・ド・カイユーの死刑宣告(一四六〇年九月二十六日)――コッキユ党員の詮議によってフランスにおける盗賊の隠語が初めて語られた事実を識る――ヴィヨンの隠語のバラードはこの秘密の言葉によって書かれたもの――堕落児に与える「教訓」

第十三章 放浪生活
  中世における放浪の生活――道中で出会う人々、彼らは群れを作って旅をする習慣を持っていた――ヴィヨンの放浪の道程は不明――レンヌの行商人――ジェヌルーの婦人に贈る形見、ポアトゥー方言――ブロアにおけるヴィヨンの滞在――シャルル・ドルレアンとその公廷――矛盾を主題としたバラードとブロア城内における歌合せ――ムーランへの旅・ブールボン公ジャン二世とその公廷――サン=サチュールとブールボン公領内のルッシヨン――一四六〇年フランソア・ヴィヨンオルレアンにおいて収監さる――マリー・ドルレアン小公女の入市によって死罪より救われる――小公女マリーとその父シャルル・ドルレアン頌――フランソア・ヴィヨン、マン=シュル=ロワールの司教チボー・ドーシニーに監禁投獄さる――短軀のメートル・ロベールとエティエンヌ・プレーザンス――ルイ十一世マンを通過の際ヴィヨン解放さる(一四六一年九月)――ヴィヨンの精神状態、「こころとからだとの問答歌」

第十四章 『遺言書』
 第一節 『遺言書』とその形見の解説
 第二節 フランソア・ヴィヨンの芸術
  『遺言書』傍題「遺言属書」の解説――ヴィヨンの先行詩人たち、ヴィヨンその遺言様式を採択する――ヴィヨンの『遺言書』は現実の遺言書式に則る――パロディー――ジャンド・カレー並びに遺言書判定人に贈る形見――あわれな女の遺言並びに一学徒の財産目録――挿入のバラードが形見を構成する――そのバラードの大部分は古今共通のテーマを扱う、中にはずっと古く作られたものもある――ヴィヨンの芸術――先輩詩人特にユスターシュ・デシャンに負うもの――兜屋小町と老女の典型――グロッス・マルゴーと痴人詩――現実描写と真実の芸術――ヴィヨン時代の詩に見る二面性――その両者がヴィヨン詩に見られる――現実主義の勝利――貧しい者・諦めた者、信仰の詩――俚諺をもって表現せられた民衆の詩――肉慾の詩――死の詩人の唯一者――ヴィヨンの精神的画像
 第三節 『遺言書』の意義
  シャルル七世治下末期のフランス社会――貴族の役割の終焉と財務人の登場――社会における「金」の力――国庫補助金裁判所の役人・塩税請負人・高利貸――投機業者――ヴィヨン描くところの三人の貧れな孤児――『遺言書』必ずしも社会意識は持たない――ヴィヨンは単に詩人にすぎぬ――しかし彼の描く怨恨を読んで財務界の人々の金の取り立てに苦しまなければならなかった後年の読者が、満足したであろうことはありうる

第十五章 晩年
  『遺言書』は一四六一年に、それ以前の思い出を素材にパリで書かれた――悔悛とよりよき生活への自戒――フランソア・ヴィヨン、シャトレに収監さる――ナヴァール校窃盗事件の結果――ヴィヨン、神学部の盗金割前の年賦償還を命ぜられる(一四六二年十一月七日)――サン=ジャック大路の公証人フェルブーの役宅の前での喧嘩、その目撃者としてフランソアはふたたびシャトレに監禁される――シャトレ裁判所における役人の交替があって、フランソアは以前の知己を失う――獣肉商家系のピエール・ド・ラ・ドゥオールは刑事代官としてヴィヨンを裁判し、不当にも死罪に宣告される――「四行詩」――ヴィヨンこの宣告を高等法院に上告する――一四六三年一月五日高等法院はヴィヨンに対し十ヵ年パリ追放の刑を宣告する――獄番エティエンヌ・ガルニエに当てたバラードと、法廷への感謝のバラード

第十六章 フランソア・ヴィヨンの伝説
  一四八九年後印刷技術はヴィヨンの作品をパリに流布する――そこにヴィヨン伝説のもろもろの要素、陽気なふざけ男・泥坊・飲助などの姿が見られる――『無銭饗宴』――伝統的狂言を復原したこの説話集の中でヴィヨンの演じる役割――ヴィヨンの実行した無銭飲食――チュルジー・モロー・プロヴァンなど――『無銭饗宴』の伝説に何か根拠があるとすれば、それはフランソア・ヴィヨンの学生時代の生活に関係づけられるはず――悪戯好きの学生たち――三人の年若き仲間たちのパリにおける無銭飲食とピエール・ボービニョンの別墅――陽気なふざけ男の思い出に関する伝統――エロア・ダーメルヴァルとヴィニュールとラブレーとブラントームの証言――泥坊の思い出に関する伝統――パトランやカイエットのような伝承的タイプとしてのヴィヨン――パトランの遺言書――パトランの亜流とヴィヨンの亜流――ジャン・カイエット――メートル・ピエール・フェフー――ラゴーの遺言書――ヴィヨンと隠語遣い――ジョフロワ・トリーとクレマン・マロ――ボヘミアン・ロージェ・ド・コルリー――真実のヴィヨンと伝説のヴィヨン

附録
 一 「わが友ジャック・カルドン」
 二 イチエ・マルシャンに関するノート
 三 フランソア・ヴィヨンの両替人ブラリュ
 四 グリニーの殿さまことフィリップ・ブリュネルの生涯
 五 カトリーヌ・ド・ヴォーセル
 六 ノエル・ジョリー
 七 ラギエ家の人々
 八 二人のバイイ
 九 ロビネ・トラカイユに関するノート
 一〇 ジャン・ル・コルニュ略伝
 一一 テュムリー家についてのノート
 一二 アンドリー・クーローに関するノート
 一三 ピエール・ボービニョンの別墅
 一四 ペルドリエの一門
 一五 ニコラ・ド・ルーヴィエとピエール・メールブッフ、並びにラシャ商い
 一六 ダーヴィユーの御門番ピエール・ド・ルースヴィルと痴人座の座頭
 一七 鳥料理屋のラ・マシュクー
 一八 ギヨーム・シャリュオー
 一九 シャトレ十二人組の警吏ペルネ・マルシャンに関するノート
 二〇 シャトレの取調べ役ピエール・バザニエ
 二一 シャトレの取調べ役ジャン・モータンについてのノート
 二二 シャトレの取調べ役ニコラ・ローネルに関するノート
 二三 ジャン・ド・リュエイ
 二四 検察庁刑事代官マルタン・ド・ベルフェーの生涯
 二五 シャトレの公証人ジャン・ド・カレェ
 二六 フランソア・ヴィヨンの代訴人ピエール・フルニエ
 二七 ジュヌヴォアに関するノート
 二八 体刑執行人、酒場の主、獣肉商ミショー・デュ・フール
 二九 拷問係、森の銀細工屋に関するノート
 三〇 パリの刑執行人メートル・アンリ
 三一 お弓隊の隊長にして毛皮製造人ジャン・リウー
 三二 司教裁判所の検事フランソア・ド・ラ・ヴァックリー
 三三 司教裁判所検事メートル・ジャン・ローラン
 三四 フランソア・ヴィヨンの代訴人ジャン・コタール
 三五 パリの両替業者マルル家の人々
 三六 フランソア・ヴィヨンのいわゆる三人の憫れな孤児ジャン・マルソー、コラン・ローラン、ジラール・ゴッスアン
 三七 パリの塾長ピエール・リシェ
 三八 高等法院の貧れな書記メートル・ロベール・ヴァレェ
 三九 パリ市助役ミシェル・キュルドゥと両替上人シャルロ・タランヌ
 四〇 コラン・ガレルヌ・髪床、及びシテの薬種商ホージス
 四一 メートル・ロメール
 四二 奉行(ル・セネシャル)(?)
 四三 パリ市土木組頭ジャック・ジャム
 四四 パリの酒場の経営者テュルジー家の人々
 四五 フランソア・ヴィヨンの葬式にノートル=ダムの大鐘をつく香料商ジャン・ド・ラ・ガルドとギヨーム・ヴォラン
 四六 ヴィヨンの遺言執行人ミシェル・ジュヴネル
 四七 ヴィヨンの遺言執行人ギヨーム・コロンベルの生涯
 四八 ドニ・エスランとその家族に関するノート
 四九 ヴィヨンの葬式に燈明役を勤める葡萄酒卸商ギヨーム・デュ・リュ
 五〇 教皇公証人メートル・フランソア・フェルブー
 五一 獄番エティエンヌ・ガルニエ
 五二 獣肉業組頭にしてシャトレの刑事代官ピエール・ド・ラ・ドゥオール
 五三 カンレル家の人々
 五四 ブラック家
 五五 サン・ブノア家に関するノート
 五六 ブルバン家
 五七 アンリ・ド・ダーヌに関するノート

一九三三年 第二版に寄せた著者の序文

あとがき
ヴィヨン詩引用表
索引




◆本書より◆


「原著者序」より:

「なお最後に、なぜわたくしがこのように大胆な企てを始めたかその理由を言わなければならぬとすれば、それは友情がこの快き命令をわたくしになしたものである、と言ってよかろうと思う。
 マルセル・シュウォッブの歿後、わたくしは彼が残した業績を世に送るために、彼が同程度の忍耐と入念とをもってものした覚書や筆記を整理したのであった。それらの覚書や筆記はここ七年来わたくし自身の探求と読書とによって補遺が加えられた。この仕事は最初にはなかなか骨の折れるものであったが、わたくしはマルセル・シュウォッブの方法に従って、その覚書の中から本質的なものを抽き出し、わたくしには疑惑視せられる個所はこれを検証し、彼により闇の中に残されているものはこれを補遺したりしなければならなかった。ところがこうした参考文献を最も有益に使用するためには、詩人の交際なり往昔の生活なりに関する彼の多くの知識を容れるべき最大結構の構想が必要だ、というふうに思われて来たのであった。この時わたくしの精神の中には色々と大きな場面が展開されてきた。以来「フランソア・ヴィヨンの生涯」とその時代の社会的画幅というものが、わたくしの心にこびりついて離れがたくなってしまった。」
「薄幸なマルセル・シュウォッブ! これらのコピーは、幾時間彼が羊皮紙や黄色くなりつくした書類の前で過ごして来たかを示していた! なぜならあなたはもうすでに背を曲げて、毎日のように国立記録所の方へ足を向けていられた。そしてその翻読という峻しい仕事がすっかりあなたを魅了していた、想像と心象の点からはなおいまだ若々しいあなたを。しかもあなたは善き読書によって培い養われたコント作者だった。だからそうした趣味は、どうみてもはなはだそぐわないものでした。記録所は当時なおフラン=ブルジョア街に沿って、丸卓子を並べた小さな地階建ての中にあり、乗合馬車が、なかば開かれた紙箱の間に、騒然たる窓ガラスの音を響かせて飛びこんで来そうに思える処にあった。そしてあのシメオン・リュスが、親切気のまったくない目つきであなたを監督していた。
 マルセル・シュウォッブは、ここで疲れも知らぬげに秘書寮や高等法院の帳簿を翻えしたり、あるいはその美しい細かい文献学者(ユマニスト)の持つような筆蹟で、快げにこれを筆写したりしていた。彼は十五世紀の兇暴な歴史の中にわたくしを参堂せしめ、彼の愛惜して措かなかったこの時代の、その走り書きの書体で認められた文書(ノート)のむずかしい読み方の、手ほどきをわたくしに与えたりしたのであった。羊皮紙のような色をして禿げ上がったその額、不思議なその目の光り、若々しくて鬚を剃ったその大きな口、エジプトの浮彫のそのきわめてあざやかな横顔に見るようなユダヤ人独特のその曲った鼻、上着のあまりにも広すぎる襟元でふらふらと動くその痩せた頸、――このような風貌はけっして忘れえられるものではなかった。
 と、突然、その生涯の晩年の苦痛と夢とに疲れ果てた彼の頭は、がっくりと胸の上に垂れて行くのであった。脾弱なその肉体のこれはその転落であった。記録所の部屋の給仕は幾度も彼が死んだのではないかと思った。あるいはまたわたくしはシュウォッブが倦怠とその〔持病の〕危険な幸福と病気とでたまらなく苦痛になってくる時、奢侈品と言えば美しい本ばかりの、そうした書物に取り囲まれたアパートの、趣味からわざと小さく造った部屋の中で臥っているのをよく見かけたものであった。なぜならマルセル・シュウォッブは肉体的な快感を感じるまでに読書をしていたからである。こんな時、彼はわたくしにその短い手を差し延べ(わたくしはその手をじっとわたくしの手の中に握っているのが好きであった)、彼の白けた声は突然に何か権威を帯び、表情的な調子を含んでくるのであった。ヴィヨンは間近の寝床からすぐ手の届くところにあった。このようにしてわたくしは彼の発見や仮説の証人となり、またその打ち明けの相手であったが、そうした仮説は、熱心に陳べられると、やがてまたすぐ同じ熱意をもって、それが粉砕せられると言った調子であった。そしてわたくしはしばしば彼の探求の手伝いをした。彼は親切にもわたくしの中にその弟子を認めていたのである。かようにしてわたくしはディジョンにおいて数多くの筆写をしたり、後年わたくしども二人で出版するはずになっていたコッキユ党の裁判記録を作ったのであった。
 時々マルセル・シュウォッブは自分のヴィヨン〔研究〕のことを、その心の中でもう完結している業績のように語ることがあった。が、また別の時には、これをおのが生涯の魅力とするために、わざとひきずっている計画ででもあるかのようにも語っていた。そしてわたくしが註をつけて出版した最初のあの二章を、彼は二、三の心親しい友に、さもうれしそうに読んで聞かせていた。この二章こそは、彼が生前に書きえた唯一の章である。しかしながら彼はここで少くとも、その全的把握(メートリーズ)を、その並々ならぬ学識を、彼特有の無愛想なしかも躍動せる様式を、示している。わたくしは努めてそれを模倣しようとしてきた。ヴィヨンに関してマルセル・シュウォッブが書きえたであろう美しい書を、ついに見なかったことはわたくしの生涯での悲しみの一つである。
 ある日わたくしは彼に率直な質問を発したことがある。「でもあなたはヴィヨンを突き止めてご覧になられているに違いないと思いますが?」と。それにシュウォッブは答えた、「ちょっぴり、彼の指尖だけは見た」と。かわいそうなそして今は歿きシュウォッブよ、わたくしに示されたあなたのあらゆる友情に誓っても、わたくしは自分になされたあなたの信任を裏切ってはあいすまぬと思っております。しかし、それにつけても、わたくしがあなたに払っていた敬意の名にかけても、ここにこの書をわたくしの思いどおりに考え、書き、引証したことの冒険を、わたくし一身の上に背負わねばなりません。読者は残念ながらすぐこのことを認められるでありましょう。
 もしこの書に少くとも幾分かの価値があるとすれば、数々の不興を蒙りながらもずっとこの業績の発展に目を掛けられた〔師の熱意の〕持続のお蔭だと言わなければならない。オーギュスト・ロニヨンは、ひと頃、まだ若かったマルセル・シュウォッブが、隠語の研究からしてヴィヨンに夢中になっていた頃、その記録所の小さな机上で彼を保護せられたことがある。またわたくしがまだ古文書学校の一年生であった頃から、中島(シテ)に関係あるノートル=ダムの地所の記録の検索を、自分の傍においてさせてくれたのもこのオーギュスト・ロニヨンであった。」
「およそあらゆるヴィヨン学者はいずれもロニヨンに感謝を捧げる義務を負う。シュウォッブもここでわたくしがしたように、この追憶の念も新たな師に全幅の感謝を捧げている。ロニヨンとシュウォッブ、この二人こそわたくしが実現を期しているこの書物を、ある意味において準備した方々である。」



「第二章 フランソア・ヴィヨンの少年時代」より:

「少年フランソアがサン=ブノアの境内でどういう少年時代を過したかは知ることはできない。けれども当時のパリの子供の頭にいかなる出来事がぴんと来たかは想像することはできるのである。
 パリは当時イギリス軍の支配下にあった。四歳の頃には、この少年、悪魔のように残酷なアルマニアック派の兵士たちのため、市から他に出ようものなら、キリスト信者は首を切られてしまうのだというような話を、確かに聞かされたに違いない。その翌年には四十日もの間雪が降った。すると人々は畑の中に麦塚でも積み上げるように、街のまん中に幾つも雪だるまをこしらえた。その間非常に寒かった。樹木は枯れて鳥たちは口を開いたその幹の中に身を隠した。一四三六年にはイギリス軍がパリから撤退した。そしてそこへは鉢巻隊が入ってきた。五つ位の少年にはもちろんこのようなことは気づかれなかったかも知れぬ。けれどもサン=ブノア境内では、人々は勤王の志が深かった。そこでこの境内では、ここ百年ばかりの間にはついぞ見られなかったような荘厳な行列の催されたであろうことは確かである。大人も子供も大学全体がこれには参加した。ところが、その日天気は雨で風が強かったにもかかわらず、吹き消された蠟燭は一つもなかった。これはすばらしい奇蹟だと考えられた。翌日曜日にも雨は滝津瀬のように降った。そして修道僧たちは体に濡れた衣服をくっつけたまま歩いていたが、それはまるでセーヌ河から這い出して来たもののように思われた。その夏には桜桃がたくさんに採れた。けれども次の冬には饑饉であった。パン屋は小麦を蓄えている市民からそれを焼きに出させようと思って、菓子や麩を製造することを中止した。一四三七年「大王シャルル」「善王シャルル七世」はパリに還御。人々はにぎやかにこれを祝って神秘劇を上演した。街々では歓喜の燈火が点された。けれども野盗がしきりと市の近辺を徘徊していたこともまた事実であった。腹一杯パンの食べられる人は少かった。そして「食物(パン)も店の窓辺に眺め見るのみ」の貧しい人々は大根や玉菜の根を炭火で焼いて貪り食った。夜となく昼となく子供も女も男も叫んだ、「死んでしまいそうだ、ああ情けない、優しいイエスさま! 飢と寒さに死んでしまいそうだ!」と。大風が吹いてパリでは樹木も家も煖炉も吹き倒されてしまった。人々は(パリの)四つの門の上に、イギリスの騎士を型取った(サッフーク伯ももちろんその中の一人である)妙な恰好の、布製人形を吊り下げた。一人の悪魔が彼らを縛めている、そして彼らはいずれも逆しまに無残な恰好で獄門に吊り下げられているのである。聖ジャンの夜になっても、グレーヴの広場はセーヌの水に漬されていたので火も点されなかった。それから恐ろしい天然痘の流行で、五万の人々、それも主として子供たちが、死に奪い去られていった。それは無垢な子供(インノッサン)たちの虐殺のようなものであった。少年フランソアの多くの友達もそのために死んでいったに違いない。こういうわけで彼はまだずっと幼い頃から、まるで大きな不幸を間近に見るかのように死の経験を積んでいるのである。病気が流行していても、貧しい人たちはイギリス駐屯兵の徘徊のためにパリに残っていたのである。これに反して市からはあらゆる金持がすっかりその姿を消してしまっていた。
 幼い子供の想像に取ってきわめて印象深いいま一つの光景があった。人々は狼が農家の人々の出入りするのを襲ったり、セーヌ河岸をつたってパリの中に入り込もうとしたりするのを見たのであった。狼は犬の上に襲いかかったり、夜、レ・ジノッサン墓地の裏で子供を取って食ったりした。一四三九年の秋と
  Sur la Noël, morte saison
  Quant les loups se vivent de vent,
  狼は風を食って生活する
  万物枯死のノエルの頃
とに、人々はふたたび彼らの現われるのを見た。そしてこの度は怖るべきものがあった。彼らは女や子供に嚙みついた。人々の語るところによると、彼らは十四人の人間を嚙み殺したということである。サン=マルタンの夜警の場で、人々は一匹の獰猛なやつを捕えた。それは尻尾を持たなかった、そのために人々はこれに「クールトー」(尾なし)という名をつけた。これは有名なものであった。人々は盗賊かあるいは残忍な隊長かなにかを噂するようにこやつについて噂をしあった。畑に出てゆく人に向っては、「クールトーに気をおつけなさいませよ!」と人々は言っていた。十二月には四人の女が狼によってまたもや食われ、また他の幾人かがその噛み傷のために死んでいる。
 次に人間もその残忍さにおいて狼に劣るものでない話を、人たちは子供らに語って聞かせたに違いない。すなわち、一四四〇年には追剝(エコルスール)の一隊がパリの前に現われた。イール・ド・フランス一帯にはサラセン人にも劣らぬくらい怖ろしい盗賊がいた。人々の語るところでは、彼らは路傍や村やそのほかで子供に出遇うとさらって行き、それを長持の中に隠して置いて、その親たちが身代金を持ってこれを買い戻しに来るのを待つというのであった。当時パリで嬰児をかっさらってはこれに身代金を要求したり、あるいは情け容赦もなくこれを火の中に投げ込んだりしていた一人の盗賊を絞首刑に処している。

 まあ、以上のようなものが、フランソア・ヴィヨンの少年時代において、パリの子供たちのその想像に触れたに違いない出来事の谺である。」

「昔の子供たちの心をひいたと思われるいま一つの娯楽は、それは看板を眺めて感心するということであった。家の正面に彫りつけられた聖像の様式のものも見られ、また多彩色で描いた重苦しい相貌の絵として、大きな鉄の鎹で通りの上に吊り下げられているのも見られた。十五世紀にはどの家もどの家も看板を持っていた。こうした絵具で描いた絵が、子供たちの心の上に自ずと及ぼした魅力は十分解るのである。風に吹かれて動くためまるで生きてでもいるように彼らの心には思われたこれらの像、子供たちの目で仰ぎ見られるものだから、それだけ大きなものと思われるこれらの像、その像のもつ力はそもそもどれほど大きなものだったろう!」
「こうした、あるいは敬虔な、またあるいは人を食ったような看板に対して、フランソア・ヴィヨンが早くから注意を向けていたであろうことを、だれが疑うだろうか。こうした看板は亡失して今日では存在しない彼の処女作の主題をなしていたし、なおかつそれは『形見分け』や『遺言書』の中で、数々の茶番を演ずる機会を供給しているのである。」



「第十二章 コッキユ党員」より:

「フランソア・ヴィヨンがパリを去った頃、フランスの諸街道の上には、およそ人間の出会う限りにおいて最も邪悪な徒輩が存在していた。」
「こうした手合いは、贋銀や、彼らと結託している銀細工屋が造った金色の鎖などを、天下に流通させたり、市場で鉛を仕込んださいころを使ったり、かるたの手暗をしたりしては、世の薄のろを騙してゆくのであった。けれどとりわけこれらの悪徒は、彼らの間で「鶯」rossignol と呼ぶ、否、それよりも「骨鋏」daviet また daviot と呼ぶ、たわめた鉄線すなわち小さな鉤を使って、家の戸口や櫃の蓋などをこじ開けたりするのであった。彼らは主に教会を襲った。そこには往々個人がその財産を櫃に入れて置いてあった。彼らはまた聖餐杯とか聖務日禱書のようなきわめて価値の高い掠奪物をもそこに見出すのであった。聖餐杯はこれを鋳潰することができ、また聖務日禱書はいつでも非常に高価に売れたものである。(中略)ついさき頃パリはこうした連中の大胆不敵さを経験した。フランソア・ヴィヨン、コラン・ド・カイユー、レニエ・ド・モンティニーのような正道を踏み外した学徒たちは、いずれも彼らの手下であった。そしてナヴァール校の盗みをやった後、フランソア・ヴィヨンがアンジェへの道を辿って行ったのも、実はこうした種類の悪事のその下準備をするためであった。
 さて、この当時ブールゴーニュ、シャンパーニュ、それからパリ及びオルレアンの周辺を、コッキアール(Coquillars)もしくはコッキユ党員(Compaignons de la Coquille)とも無差別に呼ばれて、一人の頭目(roy)を頭に戴く、ある有力な悪徒の一団がわが物顔に振舞っていた。彼らは手引、鉤使い及びあらゆる種類の共犯者を含めた、五百人から千人にも及ぶと見られる一大徒党を作っていた。なぜなら、彼らのあるものは錠前破りや櫃破りであり、あるものは贋造の銭を流通せしめ、あるものはまた商人どもと同じ宿を取り、その商人に、騙詐(かた)られたと不平をねじ込んでいる間に、一方でその商人の品物を掻っ攫って行ったり、なお最後に、あるものは手暗をしかけてあるさいころを使って賭博をしたり、あるいは、かるたや石蹴遊びで騙詐(かたり)を弄したり、また多くのものは、大道の野盗であったりなどしたからである。いずれにしても、そうして労せずに得た金を湯水のように使っては、彼らのすべては爛れた生活を送っていた。彼らは一つの町に、一つの州に、その姿を現わしたかと見る間に、すうっとその姿を掻き消してゆくのであった。
 一四五三年の頃、人々は彼らがブールゴーニュ一帯にはびこり、大道や市場や村で、数々の悪事を働くのを見た。彼らは商人に化けて市場や村に入り込んでゆくのであった。ディジョンの市そのものも、市長の手による街道上での捕捉を免れた徒党のために、その脅威から免れ得なかった。市民護衛隊や市検察の役人どもが警戒を厳しくしていたにもかかわらず、彼らは大胆な盗みを働いた。そして夕方になってサン=ジャン教会の鐘が鳴ると、何人ももはや街に出かけてゆくものはいなかった。」



「第十三章 放浪生活」より:

「中世時代には人々はよく街道を放浪したものであった。当時にあっては、流浪生活ということは、今日われわれの間で持つような特殊な性格などは持たなかった。それはあらゆる旅人のきまって持つ生活様式であった。ごく些細な口実を作っては世界を股に、家を出ていたこの時代には、道中まことにたくさんの旅人に出会ったものである。
  On ne voit rien qui ne va hors
  出歩かぬものには何にも解らぬ。
 旅をするには、厚ぼったい外套を引っかけ、杖を手に取ればそれでもう十分であった。女性も庶民も、楽々と騾馬に乗った。兵士どもは馬でゆく。王女たちは吊車に乗って動いた。吊車は当時としては、お伽噺に出てくるような豪華な乗物と見なされていた。
 当時――ことにヴィヨンが徘徊していた時代には、街道が野武士あるいはその後継者である森の匪賊の専有であったなどと考えると、それは事実をあやまることになろう。町と町との関係は、なかんずくイギリス戦争が終って平和が訪れると共に、否すでに休戦の頃からして、著しく密接になった。もちろん河川が依然として通商路の役割をつとめ、小麦や葡萄酒の運輸に役立ってはいたとしても、それはこの方法がただ安全であるからというだけでなく、同じ程度に、それには経済的の理由があったからである。それにもともと旅人は一人では歩かなかった。群れを作り武器を携えて歩いていた。当時といえども、ことに森の中を横切る時などは、かの大道で人を覬う野盗に出会った、彼らは主として商人の物を奪い、顔に仮面(faux visages)をつけていた。それは事実である。けれども盗賊はもはやそうした危険な仕事にはだんだんと手を染めなくなっていた。当時の悪徒どもはすでに述べてきたように、それはおおむね贋金造りであり、錠前破りであった。してみるとヴィヨンのような人間には、彼らを怖れねばならぬ何物もなかったと考えてよい。彼は、彼らの仲間で、
  Qui porte argent porte sa mort.
  金を持つものは生命を取られる
と言っていた、そうした金などは持たぬ、軽腰の男であった。
 こういう訳で、当時フランスの街道の上ではたくさんの人々に出会うのであった。時には大名や、その大名の書簡を運ぶ飛脚(heraut)や、主人の家の紋章をほうろうで着けた上衣(コット)を着た「痩せた足軽」や、詮議をしてゆく裁判官など、こういった人々の姿も見られた。またそこにはたくさんの商人、泥坊を避けるために讃美歌を歌いながらゆく多数の巡礼――その中にはピュイ=アン=ヴレ詣でをする貧民や女たちもいた――、真偽まちまちの聖遺物を見せる宗教家、怪しげな免罪符を持って回る寄金募集人、牢獄の掟に従って放免され、その代り、手に蠟燭を持ち、国王と王国の繁栄のために祈禱を唱えながら、サン=ジャック詣でやノートル=ダム=ド=リエス詣でをさせられる科人、解毒剤(テリアーク)を売り歩く香具師、いかもの商品の荷物を開き、矢立や念珠やかるたを売る旅商人、武勲詩の名残りをなおいまだ歌う盲法師のまじる旅のうた歌い、オルレアンの法学、モンペリエの医学など、それぞれの土地で栄える学問研究のために、遠国の大学にしばしばでかける学生、小さな子供を盗んでは自分たちと同じように乞食をさせるため、ピンでその目をえぐり抜いていたというあの Caymands (ケーマン)のような乞食、老衰病をけどったり、あるいは蕃香花と麦粉と血液でもって血の垂れる傷や疥癬をこしらえ、特に教会の門前や王国の盛んな大巡礼地にいる乞食ども、羊の毛のような頭髪をして馬だけを盗んでいた真黒なボヘミアンなど、――こういった輩に、人々はよく出会うのであった。」



「第十六章 フランソア・ヴィヨンの伝説」より:

「ところがこうした怖るべき境遇にありながら、ヴィヨンは明澄な良心を、信仰と悔恨の純粋な叫びを、祖国に対する民衆的な感情を、持っていた。峻しい流浪のさ中にあって、彼は最も個性的な、最も高い詩的な作品をその精神の中に蓄えていた。それは美しさにおいて、人情味において、これまでに製作されたフランス抒情詩の一切のものを踰えている。ヴィヨンのバラードはいまだかつて響かせたことのない音を響かせている。それは完璧そのものである。彼の詩歌は一切の歓喜と一切の悲哀をとめていた。それは
  Je ris en pleurz !
  泣きながらわれ笑う
というフランソアの二重の相貌を映し出す曇りなき鏡である。」




シャンピオン ヴィヨン生涯とその時代 03


















こちらもご参照ください;

佐藤輝夫 『増補 ヴィヨン詩研究』
『ヴィヨン詩集成』 天沢退二郎 訳
『マルセル・シュオッブ全集』 大濱甫/多田智満子/宮下志朗/千葉文夫/大野多加志/尾方邦雄 訳























































『聖杯の探索』 天沢退二郎 訳

「次のことを知っていただきたいのです。今日というこの日、〈聖杯(サングラアル)〉の大いなる冒険、大いなる奇蹟の数々がはじまるのだということを。」
(『聖杯の探索』 より)


天沢退二郎 訳 
『聖杯の探索』
 
作者不詳・中世フランス語散文物語


人文書院 
1994年9月30日 初版第1刷印刷
1994年10月5日 初版第1刷発行
458p 「図版一覧」1p 口絵(カラー)1葉 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価4,944円(本体4,800円)
装幀:中島かほる



本書「凡例」より:

「本書は、十三世紀前半、おそらく一二二〇年代に逸名作者によって書かれたフランス語散文物語『聖杯の探索』の、原典による全訳である。」
「翻訳に用いたテクストは、A・ポーフィレ編注の校訂本 *La Queste del Saint Graal*. Roman du XIIIe siècle, édité par Albert Pauphilet, Champion (CFMA), 1949. の pp. 1~280 に収められた本文〔主として、写本KRZに依拠〕である。ただし同書巻末の《ヴァリアントと注》、パリ国立図書館で披見した諸写本、ボームガルトネル女史の現代仏語訳巻頭に付された予先ノート等を参照して、時に右記いわゆるポーフィレ本と異なる読み(ルソン)を採ったところがある。」



訳注・解説は二段組。本文中に写本挿絵図版(モノクロ)6点。



聖杯の探索 01



帯文:

「円卓の騎士たちの至高の冒険と幻夢の数々。全編にみなぎる血とエロスと聖性のドラマ」


帯裏文:

「《聖杯》とは、イエス・キリストが最後の晩餐に用いた食器で、それがさらに磔刑のキリストのしたたる血を受けた容器に結びついて象徴化されたものである。この神聖侵すべからざる聖杯の探求を主題とする物語は、ケルト伝説に源をもつアーサー王物語群の一つとして12世紀のフランスで生み出され、十字軍の影響の下、全ヨーロッパに広がった。本書は、詩人でありフランス中世文学研究者としても知られる天沢退二郎による中世仏語原典からの本邦初訳。」


目次:

第一章 聖霊降臨節
 ガラアド騎士となる
 岩に刺さった剣
 ガラアドの到着
 アルテュール宮廷のガラアド
 聖杯の予告
 聖杯の出現
 宮廷の悲しみ
 騎士たちの宣誓
 探索への出発
第二章 さまざまの冒険
 盾の冒険
 ボドマギュの懲罰
 盾の由来
 墓地の冒険
 メリアン、ガラアドと別れる
 メリアンの懲罰
 乙女の城
 ゴーヴァンの過誤
 森の中のランスロ
 聖杯、病気の騎士を癒(いや)す
 神に見放されたる者、ランスロ
 ランスロ、隠者の庵を訪う
 ランスロの告白
 隠者の説き明かし
 ランスロの回心
 隠修尼の庵でのペルスヴァル
 三つのテーブル
 メルランの予言
 隠修尼の忠言
 モルドラン王
 ペルスヴァル、攻撃を受ける
 ペルスヴァルの絶望
 ペルスヴァルの誘惑(その一)
 島のペルスヴァル
 二つの掟の寓意譚(アレゴリー)
 寓意の説き明かし
 ペルスヴァルの誘惑(その二)
 ペルスヴァルの贖罪
 事件の説き明かし
 ペルスヴァル、許される
 ランスロの屈辱
 僧の死
 ランスロへの説教
 宴(うたげ)のたとえ話
 ランスロに課せられた苦行
 ランスロの幻夢
 ランスロ、隠者の庵を訪ねる
 幻夢の説き明かし
 ランスロの苦行
 象徴の騎馬試合
 騎馬試合の意味の説き明かし
 マルコワーズのほとり
 ゴーヴァンとエクトール
 ゴーヴァンとエクトールの夢
 イヴァンの死
 ゴーヴァンとエクトール、隠者を訪ねる
 幻夢の説き明かし
 ボオールと老僧
 ボオールの聖餐と出発
 不幸な貴婦人
 ボオールの幻夢
 ボオールとプリアダンの決闘
 双方から呼ばれたボオール
 ボオールと偽僧の出会い
 悪魔の説き明かし
 ボオールの誘惑
 白衣修道院でのボオール
 修道院長の説き明かし
 ボオールとリヨネルの出会い
 リヨネル、カログルナンを虐殺する
 ボオール、ペルスヴァルと落ち合う
第三章 ソロモンの舟
 ガラアド、ゴーヴァンに傷を負わせる
 ガラアドの旅
 不思議な小舟
 剣
 剣の由来
第四章 生命の樹
 生命の樹の伝説
 アベル懐妊
 アベルの死
 生命の樹の幾歳月
 ソロモンの妻
 舟の建造
 舟の献納
第五章 三人の騎士とペルスヴァルの妹
 剣の装着
 カルスロワ城
 白い鹿
 癩を病む女
 天罰
第六章 コルブニック城のランスロ
 ランスロの航海
 聖杯城のランスロ
 ランスロの帰還
第七章 コルブニックからサラスへ
 ガラアドとモルドラン王
 三英雄、一堂に会す
 コルブニックの驚異
 聖杯の典礼
 神秘的航海
 ガラアドの奇蹟
 ガラアドの戴冠と死
 結末

訳注
解説
ビブリオグラフィー
図版一覧




◆本書より◆


第一章より:

「このとき、貴婦人たちは聖なる日のための晩課を聴きに下へおりて行った。そして王は聖堂から出て上の大広間へ戻ってくると、食卓をしつらえるようにと命じた。そして騎士たちは朝と同じように、めいめいの座席に行って坐った。そして全員が席につき、静かになったとき、宮殿全体が崩れるかと思われたほど大きな、驚くべき雷鳴が近づいてくるのがきこえた。そしてひとすじの太陽の光がさしこんで、室内をそれまでの七倍も明るくした。室内の人々はまるで聖霊の恩寵に照らし出されたようで、お互いに顔を見あわせはじめた。なぜなら、この光がどこから来るのかわからなかったからだ。しかもこのとき、その場の誰ひとり、その口から一語たりとも発することができなかった。大きな者も小さな者もみな、口がきけなくなっていた。そして長いあいだこうして誰もものを言うことができず、まるで言葉を失った獣のように互いに顔を見あわせていたとき、そこへ白い錦繡(サミ)で蔽われた聖杯が入ってきた。けれども誰ひとり、それを捧げ持っている人物を見ることのできた者はいなかった。聖杯は広間の大扉から入ってきた。そして聖杯が入ってくるとたちまち、広間はまるでこの世のありとあらゆる香料がまきちらされたとでもいうように、すばらしい芳香でみたされた。聖杯は食卓のまわりを、広間の端から端まで、めぐっていった。そしてそれが食卓の前を通ると、その食卓はたちどころにどの席もめいめいの望む食物でみたされていった。そしてみんなに食物が供されると、聖杯はたちまち見えなくなり、それがどうなったのか誰もわからず、それがどこへ行ったのか誰の目にも見えないのだった。そしてそれまでひと言もものの言えなかった人々は、今やまた話をすることができるようになった。」

「老賢者は王の前へ進み出て、みんなにきこえる大きな声で、こう言った――
 「お聞きあれ、〈聖杯の探索〉を誓われた円卓の騎士諸公よ! 隠者ナシァンからの次のような伝言をお伝えする。この〈探索〉に妻や恋人を伴う者は必ず大罪を犯すことになるのじゃ。また、罪を許されぬまま、あるいは告解をしないままこれに参加してはならぬ。なぜとならば、何ぴともあらゆる悪業・あらゆる大罪から身を浄め清々しい身とならざる前には、かかる聖なる奉仕に加わるわけにはゆかぬのじゃ。なんとなれば、この〈探索〉は現世のものの探索にあらずして、主の大いなる秘密、大いなる神秘の探索である。至高なる神はその神秘を、現世の騎士たちの中から僕(しもべ)として選び給うた幸運な騎士に、はっきりとお示しになるであろう。その選ばれたる騎士に、神は聖杯の大いなる奇蹟をお示しになり、死すべき心には考えることもできずこの世の人間のことばでは言い表わすこともできぬものをお見せになるであろうぞ。」」



第二章より:

「「申し上げましょう」と賢者は言う、「どうしてそうなったかを。次々に起こる驚くべき出来事とは、聖杯の意味であり証明(あかし)であって、聖杯のしるしは、罪人や、罪に覆われた人間にはもう決して現われないのです。だから、それはあなた方にはもはや決して現われることがないのですじゃ。なぜならあなた方はまことに不実なる罪人である。そして、次々に起こる冒険(アヴァンテュール)とは、人を殺害することであるとか、騎士を殺すことであるなどと考えてはなりませぬぞ。そうではなうて、霊的な事柄であり、それははるかに大いなる武勇、より善き武勲(いさおし)なのですぞ。」」


第三章より:

「そして一同は上から下からよく眺めまわしたあとで、口々に言うことには、およそ海でも陸ででも、これほど美しく、これほど立派な舟があろうとは思われなかったのである。それから一同がいたるところ見てまわって、舟の中心部を見ると、一枚の大変に豪奢な布が被いとして掛けてあるのが見え、その下には、大きくて立派な、じつにもう美しい寝台がある。
 ガラアドが布に近寄ってそれをめくり、その下を見ると、それまで見たうちで最も美しい寝台を目にした。つまりそのベッドは広くて豪奢で、その枕辺には大変に立派な黄金の冠が一つ、そして足元には、大変に美しく輝く剣が一振り、鞘から半フィートも引き出されて、寝台に斜めに載っていたのである。」
「この剣は特別の拵(こしら)えがなされていた。つまり、柄頭は一箇の宝石でできていたが、その宝石(いし)は、それだけで、およそ地上で見出しうる限りの多様な色彩をそなえていた。さらにまた、そのこと以上に価値のあるもう一つの特質があった――つまり、それらの色彩の一つ一つがそれ自体、価値をそなえていた。さらにまた、物語の語るところによれば、握りには二つの面があり、両面にはそれぞれ、別の獣の皮が細工されていた。すなわち、第一の獣はとりわけカレドニアに棲んでいる一種の蛇であって、この蛇はパパリュストと呼ばれている。この蛇の驚くべき力というのは、もし誰かその皮とか骨とかの若干を保持していれば、どんな暑熱も感じないで済むのである。第一の獣の皮の効能とはこのようなものである。そして第二のものは、さして巨きくはない魚の皮で、この魚はユーフラテス河に棲息していて、他所の水中にはいない。そしてこの魚の名はオルテナウスという。そしてその皮の効能というのは、もし誰かそれを一枚手に入れる者がいたら、かれはそれを保持しているかぎり、いかなる喜びも苦しみも思い出すことはない――ただしかれがその皮を手に入れたときの喜びと苦しみを除けば。そしてかれがこの皮を手離せばそのとたんに、以前と同じように、ふつうの人間らしく、記憶をとりもどすのである。剣の握りに張ってある二枚の皮にはこのような効能があり、そしてその上に一枚、大変に豪華な真紅の布で被われていて、その布には一面に文字が書いてある、それは次のように語っていたのである――

  《私は、見ての驚き、知っての驚き。なぜなら何ぴとも私を握ることはできぬ、いかに掌が巨きかろうと、決して摑むことはできぬ――唯一人の者を除いては。その者は、かれ以前に在った者たちをもかれ以後に来るであろう者たちをも、その力量において、すべての者たちを凌駕するであろう。》」

「そしてガラアドは、さきほどお話したように鞘から大きく引き出されている、剣の刃をじっと見る。そして一同はそこに、さらに別の、血のように真赤な文字が、次のように告げているのを見た――

  《何ぴとも私を鞘から抜き放つような、向こう見ずなことをしてはならぬ――他の誰よりも優れて大胆なことを成してしかるべき者でないかぎり。そうでない者で私を抜き放つことがあれば、その者はよく心得るがよい、かならず死ぬか、不治の傷を負うかせずには済まぬことを。そしてこの試練は、かつて一度、試されたことがある。》」

「「これは本当のことですが」と乙女は言う、「この舟がログルの王国に着いたことがございました。そして当時は、ランバール王――この方は《不具の王》と呼ばれる王の父にあたります――とヴァルラン王――この方はずっとサラセンでしたがこのときキリスト教に改宗して、世界中でも最も優れた賢者とみなされておりました――との間に、生きるか死ぬかの戦争が続いておりました。ある日、ランバール王とヴァルラン王とは、ちょうどこの舟の着いていた海岸で、互いの軍勢を戦わせておりましたが、ついにヴァルラン王の方が旗色がわるくなりました。王は、負け戦さになって、家来たちが殺されていくのを見ますと、死の恐怖に襲われました。そしてちょうどそこに着いていたこの舟のところへ来て、飛び乗りました。そしてこの剣を見つけると、鞘から引き抜いて、外へ出ました。そしてランバール王に出会ったのです。ランバール王はキリスト教世界でもとりわけ信仰厚く、深い信心を持ったお方で、主イエスも特に目をかけ給うておられました。さてヴァルラン王はランバール王を見ると、剣を振りかぶって、真向から兜の上へ、じつに激しく斬りつけたものですから、ランバール王も馬ももろともに、地面にいたるまで両断してしまいました。これが、ログルの王国でこの剣によりなされた、最初の一撃です。このことから、二つの国にじつに大いなるわざわい、大いなる劫罰が下され、それ以来土地は耕す者に稔りをもたらさなくなった、つまり、それ以来、麦も、他のどんな作物も育たず、樹々は果実をつけず、水の中には、ごく僅かしか、魚も見つからなくなったのです。それで、二つの王国の土地は〈荒地〉と呼ばれてまいりました、なぜならあの忌わしい一撃のせいで、この土地は荒れ果ててしまったからです。
 「ヴァルラン王はこの剣がそれほどまでによく切れるのを見ると、戻って鞘を手に入れようと考えました。そこで舟に戻り中へ入って、剣を鞘におさめました。そして、そうしたとたんに、この寝台の前で死んでしまったのです。こうして証明されたのでした、この剣を抜き放った者は誰も、死ぬか、あるいは不治の傷を負うということが。そうして、王の亡骸はこの寝台の前にずっとそのままでした、ひとりの乙女が外へ放り出すまで。と申しますのも、舟縁に記された文字の警告を読んで、あえて舟内に入るほど大胆な殿方は、ここには一人も居られなかったからでございます。」」



第五章より:

「「これは本当のことでございますが」とかれは言う、「この城には一人の若い貴婦人がおられて、私どもも、またこの国のすべての人々が、この乙女にお仕えしており、この城は、他の多くの城もそうですが、この方のものでございます。ところが二年前、この乙女が、主の御意志により、ある病気に罹られました。そして、姫がたいへん長いこと苦しまれましたすえに、私どもはそれがいかなる病(やまい)であるかを、知ったのでございます。私どもの拝見しましたところでは、姫は癩(メゼルリ)とよばれる病にすっかり侵されておいでなのでした。そこで私どもは遠くから近くから、あらゆるお医者を召し寄せましたが、姫の病のことで私どもに何か教えることのできる者は、誰も居りませんでした。最後に、ひとりの賢者が私どもに申しました、心においても行いにおいても純潔なひとりの乙女の――たとえその方(かた)が王と王妃の間に生まれた王女であり、純潔なペルスヴァルの妹であろうとも――その乙女の血を器に一杯手に入れることができて、それを御婦人に塗れば、たちどころに病は癒えるであろう、と。私どもはこれを聞きますと、城の前を通る若い貴婦人は、もし処女(おとめ)ならば、かならず器に一杯の血をいただかなければお通ししない、ということに決めたのでございます。そして、この城の門という門に制札を立て、通行する若い御婦人たちを必ず足止めするようにいたしました。以上」とかれは言う、「この城の慣習がごらんの通りに決められた次第を、お聞かせ申しあげました。どうぞ、お心のままになさって下さい。」
 このとき、乙女は三人の騎士を呼んで、こう言った――
 「みなさま、おわかりのように、ここの若い女城主は病に侵されていて、わたくしの気持次第で、彼女は療ることもできるし、でなければ、病からのがれることはできないのです。わたくしがどうすればよいか、お教え下さいまし。」
 「神の名において」とガラアドが言う、「もしあなたが求めに応じれば、あなたはまだ弱年で華奢な身体をしているところからみて、生命を失うことなしには切り抜けられまい。」
 「ほんとうに」と乙女は言う、「もしわたくしがこの治療のために死ぬことになれば、それはわたくしにとっても、わたくしの親族全体にとっても、名誉となるでしょう。ですから、わたくしはやらなければなりません、みなさまのためにも、ここの人々のためにも。なぜなら、もしみなさまが、今日と同じように、明日も戦いをなされば、わたくしひとり死ぬよりももっと多くの生命が、失われずにすみますまい。それゆえ、わたくし、かれらの求めに応じようと思います。そうすれば、戦闘ももうないでしょう。どうぞ、お願いですから、わたくしのすることをお許し下さい。」」
「翌日、一同が弥撒を聴きおえると、乙女は大広間へ行って、彼女の血で癒されるはずの御婦人を連れて来てくれるようにと言った。人々は、喜んでそういたしますと答えた。そして、女主人の部屋へ迎えに行った。そして、騎士たちは、彼女を見て、すっかり驚いてしまった。というのも、その顔は癩のためにすっかり崩れ、吹出物ができ、変形してしまって、これほどの病苦に耐えて生きていられるとは、驚きというほかなかったからである。一同は彼女が来るのを見ると、立ち上がって迎え、自分たちの傍に坐らせた。そして、女主人はすぐに、乙女に向かって、お約束通りにして下さいと言った。乙女は、喜んでそうしますと答えた。そこで、器を持って来るようにと言った。器が持って来られると、乙女は腕を露わにして、剃刀(かみそり)のようによく切れる鋭利な小刀で血管を切らせる。血がすぐに奔り、乙女は十字を切って主に御加護をと祈って、女城主に言った――
 「奥方様、あなた様をお癒しするかわりに、わたくしは死のうとしております。どうぞ、わたくしの魂のためにお祈り下さいまし、わたくしはこれでお終(しま)いですから。」
 この言葉を言い終わらぬうちに、乙女の心臓は、血を失ったために絶え入り、一方、器はその血ですっかり満たされた。騎士たちは駈け寄って乙女の身体を支え、出血を止めてやる。乙女は、長い間失神していたあと、口がきけるようになると、ペルスヴァルに言った――
 「ああ! ペルスヴァル、兄上、わたくしはその乙女を癒してあげたかわりに死んで行きます。そこでお願いがあります、わたくしの身体はこの国に埋葬させないで、わたくしがはかなくなりましたらすぐ、ここからいちばん近い港で小舟を見つけて、それに乗せて下さいね。そして、運命がわたくしを導くままに、まかせてやって下さい。そして、みなさまは聖杯の後に従ってサラスの城市(まち)へいらっしゃらねばなりませんが、そのサラスへは、あまり早く着かないようにして下さいね、わたくしの身体がちょうど、塔の下に着くのがごらんになれるように。そして、わたくしのため、わたくしの名誉のために、わたくしの亡骸は聖なる大広間に埋葬させて下さい。なぜこんなことをお願いするか、わかります? それは、いずれガラアドが、そして兄上も一緒に、そこに眠ることになるからなのよ。」
 ペルスヴァルはこの言葉を聞くと、泣きながら、妹の願いに肯き、喜んでその通りにしようと言う。
 「明日、ここをお発(た)ちなさい」と乙女は言う。「そして運命があなた方を〈不具の王〉のところで再会させるまで、めいめい、ご自分の道をお行きなさい。というのも、それが至高なる主の望み給うことだからです。ですから、主はわたくしの口から、そのようになさるようあなた方に伝えるようにとの仰せなのです。」
 騎士たちは、その通りにしようと言う。」
「まさしくその日、女城主の病(やまい)は癒えた。つまり、聖なる処女(ピュセル)の血で洗われるとすぐ、彼女は潔められて癩が癒(なお)り、それまで黒ずんで見るも恐ろしかったその肉体は、大いなる美しさを取り戻したのである。このなりゆきに、三人の騎士と、城のすべての騎士たちは、大変に喜んだ。そして、乙女の遺骸は、遺言の通りにしてやって、内臓その他、除くべきものをすべて除いてから、まるで皇帝の遺骸のように高貴な薫香をたきこめた。それから小舟を一艘仕立てて、それを大変豪華な絹の布で覆わせ、その中にとても美しい寝台をしつらえさせた。可能なかぎり立派に小舟の支度ができると、乙女の亡骸をその寝台に横たえ、舟を沖へ押し出した。」




聖杯の探索 02























こちらもご参照ください:

ジャン・フラピエ 『聖杯の神話』  天沢退二郎 訳 (筑摩叢書)
『フランス中世文学集 2  愛と剣と』 新倉・神沢・天沢 訳
『ヴィヨン詩集成』 天沢退二郎 訳









































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、デレク・ベイリー、森田童子。

好きな芸能人:太田光、鳥居みゆき、栗原類(以上敬称略)、あのちゃん。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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