アンドレイ・タルコフスキー 『映像のポエジア ― 刻印された時間』 鴻英良 訳 (ちくま学芸文庫)
「私は実際的な意味で現実に適応できない人が常に気に入っていた。私の映画にはヒーローは存在しなかった。しかし、強い精神的な信念を持ち、他者にたいする責任をみずから引き受ける人々は常に存在していた。このような人々はしばしば、大人の情念を持った子供を思わせる。彼らの立場は、常識的な観点からすればきわめて非現実的であり、無力すぎるのである。」
(アンドレイ・タルコフスキー 『映像のポエジア』 より)
アンドレイ・タルコフスキー
『映像のポエジア
― 刻印された時間』
鴻英良 訳
ちくま学芸文庫 タ-56-1
筑摩書房
2022年7月10日 第1刷発行
401p+1p
文庫判 並装 カバー
定価1,540円(10%税込)
装幀:安野光雅
カバーデザイン:仁木順平
カバー写真:『サクリファイス』より
「本書は、一九八八年一月三十一日、キネマ旬報社より刊行されたものに依拠している(図版は削除した)。文庫化にあたっては、著作権者から送られてきた新しいロシア語ヴァージョンを使用した。そのため、旧訳とは若干の異同がある。旧訳における誤りは、適宜訂正した。」
「年譜・フィルモグラフィ」は二段組。

帯文:
「理想への
絶えざる郷愁
芸術創造の意味を追求し続けた思考の軌跡」
カバー裏文:
「「それ独自の事実のフォルムと表示のなかに刻み込まれた時間――ここにこそ、私にとって芸術としての映画の第一の理念がある」。その理念が有機的統一をもって結晶する〈イメージ〉。『惑星ソラリス』『鏡』『サクリファイス』など、生み出された作品は、タルコフスキーの生きた世界の複雑で矛盾に満ちた感情を呼び起こす。俳優や脚本のあり方をはじめとする映画の方法は、現代において涸渇した人間存在の源泉を甦らさんとする意図とともに追求された。戦争と革命の時代である二十世紀に、精神的義務への自覚を持ち続けた映画作家の思考の軌跡。」
目次:
序章
第一章 はじまり
第二章 芸術――理想への郷愁
第三章 刻印された時間
第四章 使命と宿命
第五章 映像について
時間、リズム、モンタージュについて
映画の構想――シナリオ
映画における美術の解決
映画における俳優について
音楽と騒音
第六章 作家は観客を探究する
第七章 芸術家の責任
第八章 『ノスタルジア』のあとで
第九章 『サクリファイス』
終章
訳者あとがき (1987年11月)
文庫版訳者あとがき (2022年4月21日)
年譜・フィルモグラフィ (作成:鴻英良)
◆本書より◆
「第一章」より:
「もちろん私の視点は、有難いことに、主観的である。しかし、芸術家は作品のなかで、芸術家の個人的な知覚のプリズムをとおして、人生を屈折させ、それゆえに、現実の多様な側面を、反復不可能な角度から見ることができるのである。私は、芸術家の主観とその個人的な世界にたいする知覚に大きな意味を与えている。」
「詩という表現手段を使わなければ、その真実を伝えることのできないような領域が、人生にはある。(中略)ここで私が念頭に置いているのは、夢であれ、回想であれ、幻影や幻想にかかわるものである。」
「第三章」より:
「時はかえらない、と言われる。しかしこのことばは、いわゆる、過去は取り戻すことはできない、という意味においてのみ正しい。しかし、〈過去〉とはその本質においてはいったいなんなのだろうか。すでに過ぎ去ってしまったことのことだろうか。しかし「過ぎ去ってしまった」とは、いったいなにを意味するのだろうか。各人にとって現在という刻々と変化する瞬間の、過ぎ去ることのないリアリティが、まさに過去のなかに蓄えられていくとするならば、過去はある意味で現在よりもはるかにリアルである。あるいはどのような場合であれ、より安定した、揺ぎないものなのだ。現在は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていく。そしてみずからの物質的な重量をただその回想のなかに見出すのだ。(中略)時間はその痕跡を残さずに消えることはできない。なぜなら時間は主観的な意味における精神的カテゴリーだからだ。われわれによって生きられた時間は、時間のなかによこたわる経験としてわれわれの魂のなかに積もるのである。」
「私は、前世紀に上映された天才的映画『列車の到着』をいまだに忘れることができない。すべてはこの映画から始まったのだ。(中略)この映画は全部で三十秒しかない。そこに映っているのは、陽の当たるプラットホームの一角、歩いている紳士と淑女、それに画面の奥からカメラのほうに真直ぐ近づいてくる列車だけである。(中略)ここで誕生したのは、単なる映画技術、世界を複製する新しい手段ではない。新しい美学的原理が生まれたのである。
この原理は芸術史上はじめて、文化史上はじめて、人間が直接的に時間を刻印する(引用者注:「時間を刻印する」に傍点)手段を見出したということのなかに存在する。それと同時に、この時間の流れを幾度でも好きなだけスクリーンに再現し、反復し、そこに戻っていく可能性を見出したのである。人類は現実の時間(引用者注:「現実の時間」に傍点)の鋳型を手に入れたのだ。目撃され、固定された時間は、いまでは金属製のケースのなかに、長期的に(理論上は永遠に)保存されうるのだ。
まさにこの意味で、リュミエールの最初期の映画は、新しい美学的原理の種子を秘めていた。」
「第四章」より:
「人間関係というのは、いつも、努力を要求する。努力しないで、熱烈な欲求なしで、他人を理解することは、率直に言って、不可能である。」
「第五章」より:
「嘘をつくことのできない人がいる。また霊感に満たされたように確信的に嘘をつく人もいる。さらに嘘をつく能力もないのに嘘をつかないわけにはいかず、へたな面白味のない嘘をついている人もいる。いま問題にしている状況、つまり人生の論理をきわめて正確に遵守しなければならないという状況では、第二の範疇の人、つまり生き生きと嘘をつける人だけが、真実の鼓動を感じることができるのだし、自分の空想の力だけで、人生の真実の気まぐれなひだのなかに、ほとんど幾何学的な正確さで入り込むことができるのだ。」
「ヴァチェスラフ・イワーノフは、象徴(シンボル)についてのその考察のなかで、象徴にたいする自分のかかわり方を次のように表明している(イワーノフが象徴と名づけているものを、私はイメージと結びつけている)。
象徴が真の象徴となることができるのは、ただそれが、意味において、汲みつくすことも、限定することもできないときであり、その秘められた(中略)暗示と示唆の言語で、外部としての言語に対応することも、言語化することもできない、なにものかを語っているときなのである。象徴は無数の貌(かお)を持ち、無数の意味を持っており、その究極の深みのなかはいつも暗い闇に包まれている……。象徴は水晶のような有機的構成体である。……
象徴はある種のモナドでさえある。(中略)われわれは、その統一的、全一的で神秘的な意味の前では無力なのだ。
観察としてのイメージ……。ここでふたたび日本の詩を思い出さないわけにはいかない!
日本の古典詩に私が魅せられるのは、それが字謎(シャラード)のように徐々に解読されていくこともなく、またイメージの最終的意味を暗示することさえ、原理的に拒絶しているからである。発句(ママ)のイメージに求められているのは、なにも意味しないことだ。最終的意味を捉えることは不可能なのである。言いかえれば、イメージというのは視野の狭い概念的な形式に嵌めこむのが難しいものほど、その使命に正確に答えていると言えるのである。発句(ママ)の読者は、自然に溶け込むように発句に溶け込まなければならない。発句に没頭し、上限も下限もない宇宙のなかにいるときのように、その深みのなかで我を忘れなければならない。
芭蕉の句を例にあげる。
古い池。
水に飛びこむ蛙。
しじまのひびき。
〔古池や蛙飛びこむ水の音〕
あるいは、
屋根を葺(ふ)くために蘆が刈られた。
忘れ去られた茎のうえに
やわらかい雪が降りそそぐ。
〔雪ちるや穂屋の薄の刈残し〕
さらにもう一例。
私がきょう目を覚ましたときの
このけだるさは突然どこからきたのか?
春の雨が音を立てている。
〔不精さやかき起されし春の雨〕
なんと簡潔で、また正確な観察だろうか! (中略)これらの詩行が美しいのは、捉えられ停止させられ永遠のなかに落下していく一瞬が、反復不可能なものであるからだ。」
「真の芸術的イメージは、それを見るものに、必ず、複雑で、矛盾した、そしてときとして相互に排除しあう感情を同時に体験させてくれるのである。」
「イメージは、(中略)人生に関する作者の意見や概念ではなく、人生そのものを表現するためのものなのである。イメージは、人生を意味づけたり、象徴したりするのではなく、人生のユニークさ(引用者注:「ユニークさ」に傍点)を表現しながら、具体化するのである。しかし、それでは典型的なものとは一体なんなのだろうか。ユニークさ、反復不可能性というのは、芸術において典型的なものとどのようにかかわるのだろうか。もしイメージの誕生がユニークさの誕生と一致するとすれば、典型的なものに居場所はあるのだろうか。
パラドクスは、イメージのなかに具体化されているもっともユニークで、反復不可能なものが、奇妙なことに典型的なものになるということだ。どれほど奇妙に思われようとも、典型的なるものは、それとまったく似ていないようであるが、単一的なもの、個人的なものとの直接的な関係のなかに存在している。典型的なものは、普通考えられているような、現象の共通性や類似性が記録されるところではなく、特殊性が示されているところに生まれる。私は次のように定式化すらしている。つまり、普遍は個別に固執しつつ、いわばそこから解放され、あからさまな再現という枠組を越えてしまう。普遍はこのようにして、完全にユニークな現象の存在原理として登場してくるのだと。」
「どのようなジャンルのなかでブレッソンは仕事をしているのだろうか。どんなジャンルでもない! ブレッソンはブレッソンなのである。(中略)彼らはたんに自分自身と同一なだけである。(中略)芸術家というのは、これは固有の小宇宙(ミクロコスモス)である。どうして彼らをあるジャンルの制約された境界のなかに閉じこめることができるだろうか。」
「ブレッソンの俳優たちは、人物像を演じるということはない。彼らはわれわれの目の前で、自分たちの深い内的生活を生きるのである。『少女ムシェット』を思い出してほしい。この映画の主人公を演じていた女優が、一瞬たりとも観客のことを思い浮かべ、彼女に起こっていることの深い意味を観客に伝えようと思いをめぐらしていると、はたして言えるだろうか。(中略)決してそんなことはない。(中略)彼女が生き、存在しているのは、一点に集中し、深みに落ち込んだ、自分の閉じられた世界である。それゆえ彼女は、きわめて強い関心を自分に向けているのだ。それゆえ私は何十年かあとでこの映画が、その封切の日と同じように驚くべき印象を呼び起こすであろうと確信している。」
「第八章」より:
「『ノスタルジア』において私にとって重要だったのは、〈弱い〉人間というテーマを継続させることであった。この〈弱い〉人間は、見掛けは戦士ではないが、私の観点からすれば、この人生における勝利者である。ストーカーもまたモノローグにおいて、現実的な価値であり、人生の希望でもある弱さを弁論していた。私は実際的な意味で現実に適応できない人が常に気に入っていた。私の映画にはヒーローは存在しなかった。しかし、強い精神的な信念を持ち、他者にたいする責任をみずから引き受ける人々は常に存在していた。このような人々はしばしば、大人の情念を持った子供を思わせる。彼らの立場は、常識的な観点からすればきわめて非現実的であり、無力すぎるのである。
修道僧ルブリョフは、悪にたいする無抵抗、愛、善について説きながら、無防備な子供の目で世界を見ていた。(中略)『鏡』の主人公は、自分のもっとも身近な人々にたいして無欲な、なにひとつ要求することのない愛を与えることができない、弱い、エゴイスティックな人間である。人生にたいする自分の負債を返済しようと思いながら、人生の終わりに来てしまった人間が抱え持っている精神的な苦痛だけが、彼自身を正当化したのだ。奇妙な、すぐにヒステリックになるストーカーもまた、すべてを覆いつくす腫物のような実用主義に侵されている世界にたいして、自分の確信に満ちた精神的なるものからの声を、毅然と対置していた。ドメニコも、(中略)自分に固有の概念を考えだし、自分に固有の苦悩の道を選択する。ただ、全面的なシニシズムに身を委ねることも、自分の個人的、物質的特権を追求することもなく、自分の犠牲という個人的努力によって、狂気に陥った人類がみずからの破滅へ向かって進んでいく道を止めようとしているのである。」
「私が興味を持っているのは、より高いものに奉仕する心構えができている人間、月並で通俗的な生活上のモラルを受け入れようとしない人間である。なによりも、生きていくことのなかで、精神的な意味において少しでも高い位置に上ろうとするために、われわれの内部にある悪と戦うことが、人間の存在の意義であると意識している人間に、私は興味があるのだ。なぜなら、精神の完成への道に対立するのは、月並な存在と、この人生に順応するプロセスに向かっていく、精神の頽廃の道だからである。なんとこれが今日の唯一の選択肢なのだ。
私の次の作品『サクリファイス』の主人公もまた、このことばの月並な意味での弱い人間である。彼はヒーローではなく、より高い理念のために犠牲になることができる思索家であり、誠実な人間である。(中略)理解されない、という危険を冒しながらも、彼は決然と振舞うというよりも、自分の身近な人の視点からはきわめて破壊的に振舞う。ここにこそ、彼の振舞いのドラマチズムと正当性の特殊な鋭さがあるのだ。しかし、それでもやはり、彼はこの振舞いを実行し、標準的な狂人になるという危険を冒しながらも、全体的なもの、おそらくは世界の運命にたいする自分の共犯関係を感じながら、許容された正常な人間の行動の一線を踏みこえるのである。(中略)おそらくだれにも気づかれたり、理解されることのない、そのような個人の努力によって、世界の調和は保たれているのである。
私を引きつける人間の弱さについて語るとき、私の念頭にある弱さとは、個の外的拡張の欠如であり、他の人々および人生全体にたいする攻撃性の欠如のことなのである。」
「第九章」より:
「「はじめにことばありき。ところが、おまえときたら貝のように口を閉ざしている」。映画の始めで、アレクサンデルは自分の息子にこう語る。この子は喉の手術をしたあとなので、枯木についての伝説を父から黙って聞いていなければならない。だがのちに、アレクサンデル自身、核によるカタストロフィについての恐ろしいニュースに影響されて、自ら沈黙の行を引き受ける。「私は口を閉ざし、これからはもうだれとも口をききません。私をこの世の生活と結びつける一切を断念します」。神がアレクサンデルの願いを聞き入れたということのなかに、恐ろしくかつ愉悦にみちた結末の原因があるのである。アレクサンデルが誓いを実際に守り、彼が以前その法則に従っていた世界と最終的に袂(たもと)を分かつということは、恐るべきことのように思われる。そのことによってアレクサンデルは、家族を捨てることになるばかりか、道徳的基準を判断する最小限の可能性も失うのだ。そのことが彼を取り巻くものの目から見ると実に恐ろしく見えるものなのだ。それにもかかわらず、いや正確に言えばまさにそれゆえに、アレクサンデルは私にとって神に選ばれたものの人格化なのである。彼は、彼の考えによれば断崖へ向かっている現代社会の破壊的な力の脅威を感じている男なのだ。そして人類を救うために、現代の世界から仮面を引き剝がさなければならない。」
「あからさまな事実が、迫りくる黙示録的静寂について語っている。こうしたあらゆる徴候にもかかわらず、人間が生き長らえると期待することができるのだろうか。この問いに、おそらく生命の水を失い涸渇した木の苦悩についての古代の伝説が答えるであろう。私は私の創造活動のなかで、私にとってもっとも重要な映画の基礎に、この伝説を置いた。修行僧が、一歩一歩あゆんでバケツで山に水を運び、そして枯れた木に水を注いだ。自分の行動の必要性を疑うことも、創造者への自分の信仰が奇跡を起こすであろうという信仰を手離すこともなかった。それゆえに彼は奇跡を体験したのだ。ある朝、木の枝が蘇り、若葉で覆われていた。だが、はたしてこれは奇跡だろうか。これは真理である。」
◆本訳書について◆
本書は英訳で愛読していましたが、せっかくなので邦訳もよんでみました。が、ところどころ意味がとりにくい箇所があります。たとえば、『鏡』を見た観客から寄せられた手紙には無理解なものもある一方、深い理解を示す好意的なものもあったというくだりで、無理解な手紙の例として、
「「三十分前に映画『鏡』を見ました。力強い映画です。同志タルコフスキー、監督もこの映画を何度かご覧になったでしょう。私にはこの映画を普通の映画と考えることはできないと思われます。私はあなたの創造行為の大きな成功を願っています。しかしこのような映画は必要ではありません。」」
とありますが、「普通の映画」ではない「力強い映画」というから誉めているのかと思うと、「このような映画は必要ではありません」とあって、よくわからないです。英訳では、
「'Half an hour ago I came out of *Mirror*. Well!! . . . Comrade director! Have you seen it? I think there's something unhealthy about it . . . I wish you every success in you work, but we don't need films like that.'」
(三十分前に『鏡』を見終わりました。いやはや! 同志タルコフスキー監督! ご自分であの映画をご覧になりましたか? あの映画には不健全なところがあるように思われます。私はあなたがお仕事で成功することを願っていますが、あのような映画は必要ではありません。)
とあって、少なくとも首尾一貫しています。
こちらもご参照ください:
Andrey Tarkovsky 『Sculpting in Time: Reflections on the Cinema』 translated by Kitty Hunter-Blair
(アンドレイ・タルコフスキー 『映像のポエジア』 より)
アンドレイ・タルコフスキー
『映像のポエジア
― 刻印された時間』
鴻英良 訳
ちくま学芸文庫 タ-56-1
筑摩書房
2022年7月10日 第1刷発行
401p+1p
文庫判 並装 カバー
定価1,540円(10%税込)
装幀:安野光雅
カバーデザイン:仁木順平
カバー写真:『サクリファイス』より
「本書は、一九八八年一月三十一日、キネマ旬報社より刊行されたものに依拠している(図版は削除した)。文庫化にあたっては、著作権者から送られてきた新しいロシア語ヴァージョンを使用した。そのため、旧訳とは若干の異同がある。旧訳における誤りは、適宜訂正した。」
「年譜・フィルモグラフィ」は二段組。

帯文:
「理想への
絶えざる郷愁
芸術創造の意味を追求し続けた思考の軌跡」
カバー裏文:
「「それ独自の事実のフォルムと表示のなかに刻み込まれた時間――ここにこそ、私にとって芸術としての映画の第一の理念がある」。その理念が有機的統一をもって結晶する〈イメージ〉。『惑星ソラリス』『鏡』『サクリファイス』など、生み出された作品は、タルコフスキーの生きた世界の複雑で矛盾に満ちた感情を呼び起こす。俳優や脚本のあり方をはじめとする映画の方法は、現代において涸渇した人間存在の源泉を甦らさんとする意図とともに追求された。戦争と革命の時代である二十世紀に、精神的義務への自覚を持ち続けた映画作家の思考の軌跡。」
目次:
序章
第一章 はじまり
第二章 芸術――理想への郷愁
第三章 刻印された時間
第四章 使命と宿命
第五章 映像について
時間、リズム、モンタージュについて
映画の構想――シナリオ
映画における美術の解決
映画における俳優について
音楽と騒音
第六章 作家は観客を探究する
第七章 芸術家の責任
第八章 『ノスタルジア』のあとで
第九章 『サクリファイス』
終章
訳者あとがき (1987年11月)
文庫版訳者あとがき (2022年4月21日)
年譜・フィルモグラフィ (作成:鴻英良)
◆本書より◆
「第一章」より:
「もちろん私の視点は、有難いことに、主観的である。しかし、芸術家は作品のなかで、芸術家の個人的な知覚のプリズムをとおして、人生を屈折させ、それゆえに、現実の多様な側面を、反復不可能な角度から見ることができるのである。私は、芸術家の主観とその個人的な世界にたいする知覚に大きな意味を与えている。」
「詩という表現手段を使わなければ、その真実を伝えることのできないような領域が、人生にはある。(中略)ここで私が念頭に置いているのは、夢であれ、回想であれ、幻影や幻想にかかわるものである。」
「第三章」より:
「時はかえらない、と言われる。しかしこのことばは、いわゆる、過去は取り戻すことはできない、という意味においてのみ正しい。しかし、〈過去〉とはその本質においてはいったいなんなのだろうか。すでに過ぎ去ってしまったことのことだろうか。しかし「過ぎ去ってしまった」とは、いったいなにを意味するのだろうか。各人にとって現在という刻々と変化する瞬間の、過ぎ去ることのないリアリティが、まさに過去のなかに蓄えられていくとするならば、過去はある意味で現在よりもはるかにリアルである。あるいはどのような場合であれ、より安定した、揺ぎないものなのだ。現在は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていく。そしてみずからの物質的な重量をただその回想のなかに見出すのだ。(中略)時間はその痕跡を残さずに消えることはできない。なぜなら時間は主観的な意味における精神的カテゴリーだからだ。われわれによって生きられた時間は、時間のなかによこたわる経験としてわれわれの魂のなかに積もるのである。」
「私は、前世紀に上映された天才的映画『列車の到着』をいまだに忘れることができない。すべてはこの映画から始まったのだ。(中略)この映画は全部で三十秒しかない。そこに映っているのは、陽の当たるプラットホームの一角、歩いている紳士と淑女、それに画面の奥からカメラのほうに真直ぐ近づいてくる列車だけである。(中略)ここで誕生したのは、単なる映画技術、世界を複製する新しい手段ではない。新しい美学的原理が生まれたのである。
この原理は芸術史上はじめて、文化史上はじめて、人間が直接的に時間を刻印する(引用者注:「時間を刻印する」に傍点)手段を見出したということのなかに存在する。それと同時に、この時間の流れを幾度でも好きなだけスクリーンに再現し、反復し、そこに戻っていく可能性を見出したのである。人類は現実の時間(引用者注:「現実の時間」に傍点)の鋳型を手に入れたのだ。目撃され、固定された時間は、いまでは金属製のケースのなかに、長期的に(理論上は永遠に)保存されうるのだ。
まさにこの意味で、リュミエールの最初期の映画は、新しい美学的原理の種子を秘めていた。」
「第四章」より:
「人間関係というのは、いつも、努力を要求する。努力しないで、熱烈な欲求なしで、他人を理解することは、率直に言って、不可能である。」
「第五章」より:
「嘘をつくことのできない人がいる。また霊感に満たされたように確信的に嘘をつく人もいる。さらに嘘をつく能力もないのに嘘をつかないわけにはいかず、へたな面白味のない嘘をついている人もいる。いま問題にしている状況、つまり人生の論理をきわめて正確に遵守しなければならないという状況では、第二の範疇の人、つまり生き生きと嘘をつける人だけが、真実の鼓動を感じることができるのだし、自分の空想の力だけで、人生の真実の気まぐれなひだのなかに、ほとんど幾何学的な正確さで入り込むことができるのだ。」
「ヴァチェスラフ・イワーノフは、象徴(シンボル)についてのその考察のなかで、象徴にたいする自分のかかわり方を次のように表明している(イワーノフが象徴と名づけているものを、私はイメージと結びつけている)。
象徴が真の象徴となることができるのは、ただそれが、意味において、汲みつくすことも、限定することもできないときであり、その秘められた(中略)暗示と示唆の言語で、外部としての言語に対応することも、言語化することもできない、なにものかを語っているときなのである。象徴は無数の貌(かお)を持ち、無数の意味を持っており、その究極の深みのなかはいつも暗い闇に包まれている……。象徴は水晶のような有機的構成体である。……
象徴はある種のモナドでさえある。(中略)われわれは、その統一的、全一的で神秘的な意味の前では無力なのだ。
観察としてのイメージ……。ここでふたたび日本の詩を思い出さないわけにはいかない!
日本の古典詩に私が魅せられるのは、それが字謎(シャラード)のように徐々に解読されていくこともなく、またイメージの最終的意味を暗示することさえ、原理的に拒絶しているからである。発句(ママ)のイメージに求められているのは、なにも意味しないことだ。最終的意味を捉えることは不可能なのである。言いかえれば、イメージというのは視野の狭い概念的な形式に嵌めこむのが難しいものほど、その使命に正確に答えていると言えるのである。発句(ママ)の読者は、自然に溶け込むように発句に溶け込まなければならない。発句に没頭し、上限も下限もない宇宙のなかにいるときのように、その深みのなかで我を忘れなければならない。
芭蕉の句を例にあげる。
古い池。
水に飛びこむ蛙。
しじまのひびき。
〔古池や蛙飛びこむ水の音〕
あるいは、
屋根を葺(ふ)くために蘆が刈られた。
忘れ去られた茎のうえに
やわらかい雪が降りそそぐ。
〔雪ちるや穂屋の薄の刈残し〕
さらにもう一例。
私がきょう目を覚ましたときの
このけだるさは突然どこからきたのか?
春の雨が音を立てている。
〔不精さやかき起されし春の雨〕
なんと簡潔で、また正確な観察だろうか! (中略)これらの詩行が美しいのは、捉えられ停止させられ永遠のなかに落下していく一瞬が、反復不可能なものであるからだ。」
「真の芸術的イメージは、それを見るものに、必ず、複雑で、矛盾した、そしてときとして相互に排除しあう感情を同時に体験させてくれるのである。」
「イメージは、(中略)人生に関する作者の意見や概念ではなく、人生そのものを表現するためのものなのである。イメージは、人生を意味づけたり、象徴したりするのではなく、人生のユニークさ(引用者注:「ユニークさ」に傍点)を表現しながら、具体化するのである。しかし、それでは典型的なものとは一体なんなのだろうか。ユニークさ、反復不可能性というのは、芸術において典型的なものとどのようにかかわるのだろうか。もしイメージの誕生がユニークさの誕生と一致するとすれば、典型的なものに居場所はあるのだろうか。
パラドクスは、イメージのなかに具体化されているもっともユニークで、反復不可能なものが、奇妙なことに典型的なものになるということだ。どれほど奇妙に思われようとも、典型的なるものは、それとまったく似ていないようであるが、単一的なもの、個人的なものとの直接的な関係のなかに存在している。典型的なものは、普通考えられているような、現象の共通性や類似性が記録されるところではなく、特殊性が示されているところに生まれる。私は次のように定式化すらしている。つまり、普遍は個別に固執しつつ、いわばそこから解放され、あからさまな再現という枠組を越えてしまう。普遍はこのようにして、完全にユニークな現象の存在原理として登場してくるのだと。」
「どのようなジャンルのなかでブレッソンは仕事をしているのだろうか。どんなジャンルでもない! ブレッソンはブレッソンなのである。(中略)彼らはたんに自分自身と同一なだけである。(中略)芸術家というのは、これは固有の小宇宙(ミクロコスモス)である。どうして彼らをあるジャンルの制約された境界のなかに閉じこめることができるだろうか。」
「ブレッソンの俳優たちは、人物像を演じるということはない。彼らはわれわれの目の前で、自分たちの深い内的生活を生きるのである。『少女ムシェット』を思い出してほしい。この映画の主人公を演じていた女優が、一瞬たりとも観客のことを思い浮かべ、彼女に起こっていることの深い意味を観客に伝えようと思いをめぐらしていると、はたして言えるだろうか。(中略)決してそんなことはない。(中略)彼女が生き、存在しているのは、一点に集中し、深みに落ち込んだ、自分の閉じられた世界である。それゆえ彼女は、きわめて強い関心を自分に向けているのだ。それゆえ私は何十年かあとでこの映画が、その封切の日と同じように驚くべき印象を呼び起こすであろうと確信している。」
「第八章」より:
「『ノスタルジア』において私にとって重要だったのは、〈弱い〉人間というテーマを継続させることであった。この〈弱い〉人間は、見掛けは戦士ではないが、私の観点からすれば、この人生における勝利者である。ストーカーもまたモノローグにおいて、現実的な価値であり、人生の希望でもある弱さを弁論していた。私は実際的な意味で現実に適応できない人が常に気に入っていた。私の映画にはヒーローは存在しなかった。しかし、強い精神的な信念を持ち、他者にたいする責任をみずから引き受ける人々は常に存在していた。このような人々はしばしば、大人の情念を持った子供を思わせる。彼らの立場は、常識的な観点からすればきわめて非現実的であり、無力すぎるのである。
修道僧ルブリョフは、悪にたいする無抵抗、愛、善について説きながら、無防備な子供の目で世界を見ていた。(中略)『鏡』の主人公は、自分のもっとも身近な人々にたいして無欲な、なにひとつ要求することのない愛を与えることができない、弱い、エゴイスティックな人間である。人生にたいする自分の負債を返済しようと思いながら、人生の終わりに来てしまった人間が抱え持っている精神的な苦痛だけが、彼自身を正当化したのだ。奇妙な、すぐにヒステリックになるストーカーもまた、すべてを覆いつくす腫物のような実用主義に侵されている世界にたいして、自分の確信に満ちた精神的なるものからの声を、毅然と対置していた。ドメニコも、(中略)自分に固有の概念を考えだし、自分に固有の苦悩の道を選択する。ただ、全面的なシニシズムに身を委ねることも、自分の個人的、物質的特権を追求することもなく、自分の犠牲という個人的努力によって、狂気に陥った人類がみずからの破滅へ向かって進んでいく道を止めようとしているのである。」
「私が興味を持っているのは、より高いものに奉仕する心構えができている人間、月並で通俗的な生活上のモラルを受け入れようとしない人間である。なによりも、生きていくことのなかで、精神的な意味において少しでも高い位置に上ろうとするために、われわれの内部にある悪と戦うことが、人間の存在の意義であると意識している人間に、私は興味があるのだ。なぜなら、精神の完成への道に対立するのは、月並な存在と、この人生に順応するプロセスに向かっていく、精神の頽廃の道だからである。なんとこれが今日の唯一の選択肢なのだ。
私の次の作品『サクリファイス』の主人公もまた、このことばの月並な意味での弱い人間である。彼はヒーローではなく、より高い理念のために犠牲になることができる思索家であり、誠実な人間である。(中略)理解されない、という危険を冒しながらも、彼は決然と振舞うというよりも、自分の身近な人の視点からはきわめて破壊的に振舞う。ここにこそ、彼の振舞いのドラマチズムと正当性の特殊な鋭さがあるのだ。しかし、それでもやはり、彼はこの振舞いを実行し、標準的な狂人になるという危険を冒しながらも、全体的なもの、おそらくは世界の運命にたいする自分の共犯関係を感じながら、許容された正常な人間の行動の一線を踏みこえるのである。(中略)おそらくだれにも気づかれたり、理解されることのない、そのような個人の努力によって、世界の調和は保たれているのである。
私を引きつける人間の弱さについて語るとき、私の念頭にある弱さとは、個の外的拡張の欠如であり、他の人々および人生全体にたいする攻撃性の欠如のことなのである。」
「第九章」より:
「「はじめにことばありき。ところが、おまえときたら貝のように口を閉ざしている」。映画の始めで、アレクサンデルは自分の息子にこう語る。この子は喉の手術をしたあとなので、枯木についての伝説を父から黙って聞いていなければならない。だがのちに、アレクサンデル自身、核によるカタストロフィについての恐ろしいニュースに影響されて、自ら沈黙の行を引き受ける。「私は口を閉ざし、これからはもうだれとも口をききません。私をこの世の生活と結びつける一切を断念します」。神がアレクサンデルの願いを聞き入れたということのなかに、恐ろしくかつ愉悦にみちた結末の原因があるのである。アレクサンデルが誓いを実際に守り、彼が以前その法則に従っていた世界と最終的に袂(たもと)を分かつということは、恐るべきことのように思われる。そのことによってアレクサンデルは、家族を捨てることになるばかりか、道徳的基準を判断する最小限の可能性も失うのだ。そのことが彼を取り巻くものの目から見ると実に恐ろしく見えるものなのだ。それにもかかわらず、いや正確に言えばまさにそれゆえに、アレクサンデルは私にとって神に選ばれたものの人格化なのである。彼は、彼の考えによれば断崖へ向かっている現代社会の破壊的な力の脅威を感じている男なのだ。そして人類を救うために、現代の世界から仮面を引き剝がさなければならない。」
「あからさまな事実が、迫りくる黙示録的静寂について語っている。こうしたあらゆる徴候にもかかわらず、人間が生き長らえると期待することができるのだろうか。この問いに、おそらく生命の水を失い涸渇した木の苦悩についての古代の伝説が答えるであろう。私は私の創造活動のなかで、私にとってもっとも重要な映画の基礎に、この伝説を置いた。修行僧が、一歩一歩あゆんでバケツで山に水を運び、そして枯れた木に水を注いだ。自分の行動の必要性を疑うことも、創造者への自分の信仰が奇跡を起こすであろうという信仰を手離すこともなかった。それゆえに彼は奇跡を体験したのだ。ある朝、木の枝が蘇り、若葉で覆われていた。だが、はたしてこれは奇跡だろうか。これは真理である。」
◆本訳書について◆
本書は英訳で愛読していましたが、せっかくなので邦訳もよんでみました。が、ところどころ意味がとりにくい箇所があります。たとえば、『鏡』を見た観客から寄せられた手紙には無理解なものもある一方、深い理解を示す好意的なものもあったというくだりで、無理解な手紙の例として、
「「三十分前に映画『鏡』を見ました。力強い映画です。同志タルコフスキー、監督もこの映画を何度かご覧になったでしょう。私にはこの映画を普通の映画と考えることはできないと思われます。私はあなたの創造行為の大きな成功を願っています。しかしこのような映画は必要ではありません。」」
とありますが、「普通の映画」ではない「力強い映画」というから誉めているのかと思うと、「このような映画は必要ではありません」とあって、よくわからないです。英訳では、
「'Half an hour ago I came out of *Mirror*. Well!! . . . Comrade director! Have you seen it? I think there's something unhealthy about it . . . I wish you every success in you work, but we don't need films like that.'」
(三十分前に『鏡』を見終わりました。いやはや! 同志タルコフスキー監督! ご自分であの映画をご覧になりましたか? あの映画には不健全なところがあるように思われます。私はあなたがお仕事で成功することを願っていますが、あのような映画は必要ではありません。)
とあって、少なくとも首尾一貫しています。
こちらもご参照ください:
Andrey Tarkovsky 『Sculpting in Time: Reflections on the Cinema』 translated by Kitty Hunter-Blair
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