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シルヴィー・ヴェイユ、ルイーズ・ラモー 『フランス故事・名句集』 田辺保 訳

「それは、自分の属する群れを離れるばかりか、羊飼いの導いてくれる正しい道からも離れて行く羊のことである。自分の家族を家族と思わぬ子どものことかもしれない。アウトサイダーの人生、あるいは少なくともみなが一致して自分のために「よい」とみとめてくれる人生とはちがった人生を選んでしまうような男、もしくは女のことかもしれない。」
(『フランス故事・名句集』 「迷える羊 Une brebis égarée」 より)


シルヴィー・ヴェイユ、
ルイーズ・ラモー 
『フランス故事・名句集』 
田辺保 訳
絵: ロジェ・ブラション



大修館書店 
1989年1月20日 初版発行
336p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,266円(本体2,200円)


"Trésors des expressions françaises"
par Sylvie Weil et Louise Rameau
illustrations de Roger Blachon
(c) Editions Belin, Paris, 1981



挿絵68点。
著者の一人シルヴィー・ヴェイユはシモーヌ・ヴェイユの姪(シモーヌの兄アンドレの娘)です。序文はジョルジュ・ペレック。



ヴェイユ フランス故事・名句集



目次:

はじめに (ジョルジュ・ペレク)

フランス故事・名句集

訳者あとがき

フランス語索引
日本語索引




◆本書より◆


「パリア
  Un paria

マージナル・マン〔周辺人、はみだし者〕以上の人、排斥され、締め出され、無視された人をさす。そのむかしの、インドのハリジャンがそうであった。この語は、一六九三年に初めてあらわれ、タミール語パラヤン(parayan)――「太鼓たたき」の意――を起源とする。太鼓たたきがけがれた者とみられていたのは、葬列に加わって太鼓をたたいたからである。
 インドでは、カースト制度外の人々、階級制度の最下層の人々をさすのに、この語が使われた。また、この人たちのことを「不可触賤民」とも呼んだ。すべての宗教的・社会的権利を剝奪された人々だった。この階級は、一九四七年には廃止された。」


「石を投げる
  Jeter la pierre

 多くの場合、「石を投げない」という否定形で言われる。そもそも、「石を投げる」ということばを口に出すのは、「そんなことはしない」と言うためか、「そんなことをしてはならない」と言うためかにきまっているからである。それにまた、この表現も、ある実際の場面から由来したのであって、石打ちの刑が行われようとするところを、イエスが、形式上はその禁止をしないでおきながら、うまく阻止した故事による。イエスをつけねらっていたパリサイ人らが、モーセの律法をたてにイエスを罠にはめようとたくらみ、姦淫の現場をつかまえられた女を、そこへ引き立ててきた。そして、イエスにこう言った。

   「(……)こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(……)
   しかし、イエスはかがみ込み、指で地面に何か書きはじめられた。かれらがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」としてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
   これを聞いた者は、年長者からはじまって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、女とが残った。女はずっとそこにとどまっていたのである。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」とこたえると、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
          (ヨハネによる福音書八・五―一一)」


「熊の舗石
  Le pavé de l'ours

山に住む一匹の熊――やっと大人になりたての熊――と、庭いじりの大好きなひとりの老人がいて、どちらもひとり(一匹)暮しにあきあきし、友だちを探しに出かけたそうな。そして、一匹とひとりが、出くわしたのだ。すぐに、かれらは友だちになり、一しょに暮すことになった。人間は、好きな自分の仕事にとりかかり、熊は、狩りをして獲物を持って帰った。また、大事な特別の任務も果たした。それは、友だちの老人が寝ているときに、その顔にたかる蠅を追払うという任務だった。

   さてある日、老人が、ぐっすりねむりこんでいると、
   その鼻先に一匹の蠅がやって来て、とまろうとするので、
   熊は、大いに困ったことになった、追払おうとしてもだめなのだ。
   「なんとしてでもつかまえてやるぞ。さあ見ろ」と、叫んだ。
   言ったとおりにさっそく実行だ。忠実な蠅取り役は、
   舗石を一枚はがして、手につかみ、がーんと投げつけたのだ、
   老人の頭は砕け散った、もちろん、蠅もつぶれたけれど。
   役にも立たぬ理屈をこねなかったかわり、すぐれた射手となったのだ。
   急死した老人を、そこへ、そっと寝かせてやった。
          (ラ・フォンテーヌ『寓話』巻の八、一〇、「熊と庭いじりの老人」)

 この寓話からはじまって、不つごうな出来事のことを「舗石」と呼ぶようになった。いや、しかしこれだけでは、まだまだ言い足りない。また、「熊の舗石」と言うことで、どうかすると意図だけは申し分ないのに、へまな結果をもたらしたこととか、さらに広く、礼節の枠をこえて害をもたらすことの多い、下手なあいさつ、下手なほめことばもさすようになった。」


「なめてもらっていない熊
  Un ours mal léhé

 動物の熊にかぎらなくても、フランス語で「熊」(un ours)というと、かなり愛想がわるくて、人づきあいのきらいな人間のことをいう。だからヴォルテールはデファン夫人〔マリー・ド・ヴィシー=シャムロン・――、一六九七―一七八〇〕にあてて書いたのである。「だれのことですって……わたしのことですよ、奥さま……。わたしは、こんなにも長い間、友情をそそいでくださったかたのお言いつけにも従わなかったのです……。わたしは、熊ですが、それでも、まったく礼儀正しい熊であることは、どうかお信じになってください。」
 しかし、熊という熊がみな、これほどに礼儀を心得、社交的であるとはかぎらない。一般には、人並以上に粗野でがさつな人間のことを「十分なめてもらっていない」(mal léhés)やつと形容しているようである。

   あごには、濃いひげを生やしていた。
   毛むくじゃらのそのからだは、
   まるで熊だといってよかったが、「十分なめてもらっていない熊」だった。
          (ラ・フォンテーヌ『寓話』巻の十一、七)」

「ところで、この表現の起源を知ろうとするなら、動物の熊にまで戻らねばならない。それは、ひとつの奇妙な言い伝え――もちろん根も葉もないうそだが、――から来ているので、母熊はその子をなめることで、手足の形を整えるのだとする。この作業は長くかかったのに違いない。なかにはきっと、途中で疲れてしまう母熊もあったことだろう……。ラ・フォンテーヌは別の所で〔『寓話』巻の八、一〇、「熊と庭作り」〕、「山に住む熊の中には、半分しかなめてもらっていないやつがいて……」と語っている。」


「カービン兵のように到着する
  Arriver comme les carabiniers

 すなわち、いつも非常に遅れて着くことをいう。この表現は、オッフェンバッハ〔ジャック・――、一八一九―八〇、ドイツの作曲家〕の喜歌劇『山賊ども』〔一八六九〕の中の、カービン兵〔カービン銃をもった兵士〕の一節をふまえたものである。

   おれたちは、カービン兵
   家々の安全の守り手。
   けれど、なんでもうまくは行かぬ、
   人を助けにかけつけるとき、
   いつも着くのが、大へんおそくなる。」


「万事順調ですよ
  Tout va très bien

 この言葉に、中断符(……)をつけるか、「奥さま(侯爵夫人どの Madame la Marquise)」という呼びかけをつけ加えるなら、それは実際、事柄はもうこれ以上わるくはならないという意味になる。これは、三十年代にはやったシャンソンをそれとなしにさし示す。侯爵夫人が、召使いのジャムに電話している。もう二週間も家をあけているので、何かかわったことが起こっていないかをたずねるために。

   「もしもし、ジャムなの、なにもかわったことはない?」
   ジャムが答える。
   「万事順調ですよ、奥さま、
   万事順調、万事順調ですよ。
   けれど、けれど、申し上げておかねばならぬことがひとつ、
   なんでもない、小さなことですが、悲しいことがひとつ、
   ちょっとした事件、つまらないことですが、
   奥さまの灰色の雌馬が死にました……」

 それは、ほんの初めだった。雌馬が死んだのは火事のため、火事で馬小屋が全部焼けてしまいました。万事順調……万事順調です……その火事は、侯爵閣下の焼身自殺が原因でした……。
 シャンソンの終りでも、万事はやはり順調で、もう何ひとつ残っているものはなくなってしまう。どうやら電話機だけらしい。」




Ray Ventura - Tout va très bien madame la marquise









こちらもご参照ください:

シモーヌ・ヴェイユ 『ロンドン論集とさいごの手紙』 田辺保・杉山毅 訳
ジャック・カボー 『シモーヌ・ヴェーユ伝』 山崎庸一郎・中條忍 訳 (新装版)



























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ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)

「Un mot de vous et un mou de veau
 「あなたの一言、と子牛の肺臓」」

(ピエール・ギロー 『言葉遊び』 より)


ピエール・ギロー 
『言葉遊び』 
中村栄子 訳
 
文庫クセジュ 626 


白水社 
1978nen2月20日 印刷
1979年1月8日 発行
178p 
新書判 並装 カバー
定価650円



本書「訳者まえがき」より:

「文例についてはほとんど全部原文とその直訳を掲げ、ついで簡単な解説を施した。訳者の解説はカッコに入れ、活字を小さくしている。(中略)文例の日本語訳にはすべて引用符「 」を付し、原文にある《 》はそのまま再現した。」


Pierre Guiraud: LES JEUX DE MOTS
(Collection QUE SAI-JE ? No 1656)



横組。本文中図版3点。



ギロー 言葉遊び 01



目次:

訳者まえがき

序文 《言葉遊び》とは何か
第1章 代入
 Ⅰ 地口
 Ⅱ 異義復言
 Ⅲ もじり
 Ⅳ なぞ遊び
第2章 連鎖
 Ⅰ いつわりの等位関係
 Ⅱ 同音による連鎖
 Ⅲ 反響による連鎖
 Ⅳ 自己運動による連鎖
 Ⅴ 引出し式なぞ遊び
 Ⅵ 偶然の連鎖
第3章 挿入
 Ⅰ 転換
 Ⅱ 編入
 Ⅲ 内挿
第4章 絵文字遊び
 Ⅰ 判じ絵
 Ⅱ 印書術による判じ絵
 Ⅲ カリグラムと絵文字
 Ⅳ クロスワード・パズル
第5章 副次的遊戯機能: 遊戯以下と遊戯以上
 Ⅰ 言葉の事故
 Ⅱ 文学的機能
 Ⅲ 秘密文書的機能
第6章 遊戯的機能
 Ⅰ 言語誤楽
 Ⅱ 言葉遊びとしゃれ
 Ⅲ 言葉遊び
結論 語源論的考察

訳注
文献目録




ギロー 言葉遊び 02



◆本書より◆


「第1章 代入」「Ⅰ 地口」より:

「地口 calembour とは、この用語の狭い意味では、《おもしろく》しようとする意図による、多かれ少なかれ《濫用》された、音声の類似による両義語である。」
「またこういうのもある
  《Bassompierre, prisonnier à la Bastille, tournait brusquement les feuilles d'un livre: 《Que cherchez-vous, lui demanda le geôlier. ―Un passage, lui répondit Bassompierre, que je ne saurais trouver.》》
  「バスチーユの囚人バソンピエールが本のページを荒々しくめくっていた。《何を探しているのかね。》と看守が尋ねた。バソンピエール答えていわく、《ある条(くだり)(抜け道)だよ。見つかりっこないがね。》」
 (これは名詞 un passage の多義性を利用したしゃれである。この語のもつ多くの意味のうち、ここでは「文章の一節」と「通路」つまり牢獄からの抜け道という意味がかけられている。)」

「実のところ多くの 地口 がほのめかしによって機能している。」
「《Mourir c'est partir un peu》「死ぬとは少し旅立つことなり」(これはpartir c'est mourir un peu 「旅立つとは少し死ぬことなり」を逆にしたものである。)などがそうである。」



「第1章 代入」「Ⅲ もじり」より:

「勘違い pataquès――もじり の形態のひとつに勘違いがある。」
「現在のところは、M.‐C. ギカの『奇語小辞典」と『ことばの魔術』から借用して、もっと凝った言い方のものをいくつか紹介しよう。
  Abdomen: 《Monument mégalithique auprès duquel les peuplades superstitieuses de l'ancienne Gaule croyaient entendre des grondements souterrains et des soupris mytérieux.》
  「腹部: 古代ゴールの迷信的未開人たちが、地鳴りと神秘的なため息の音がそこから聞こえると信じていた巨大な石碑。」
 (abdomen 「腹」を dolmen 「巨石碑」と読み違えた定義である。)」
「  Cyclamen: 《Amateur de bicyclette. Expression originale d'origine anglaise en usage vers 1880: 《Les élégants cyclamens pédalaient dans l'avenue des Acacias》 (Le Gaulois).》
  「シクラメン: 自転車乗り愛好者。1880年頃よく使われた。英語を語源とする独創的表現である。《優雅なシクラメンたちがアカシア通りでペダルを踏んでいた》と『ゴーロワ』紙に見ゆ。」
 (cyclamen (シクラメン)という花の名を英語の cyclist (サイクリスト)「自転車乗り」にあたる言葉だと勘違いしたのである。「~する人」をあらわす接尾語は ist のはずなのに men だろうと思い、さらにそれを単数とみて複数は cyclamens と念を入れている。アカシア通りというのもいかにもイギリス風である。)」



「第3章 挿入」「Ⅰ 転換」より:

「アナグラム anagramme と字なぞ logogriphe――アナグラムは、《1語あるいは1文中の数語の文字の配置を変えて、その文字が全く違う意味を持った他の一語または数語を構成するようにする》ことである。たとえば ancre 「錨」は nacre 「真珠母」の、onagre 「野生ろば」は orange 「オレンジ」のアナグラムである。
 アナグラムはギリシア語で「文字」をあらわす gramma と、転覆、逆行の観念をあらわす ana (たとえば anachronisme 「時代錯誤」、 anamorphose 「奇形」、anastrophe 「倒置」などの例がある)とを合わせたものである。
 しかしながら、アナグラムにおいては《転覆》は自由に行われ、配置転換された文字はどの場所を占めてもよい(cf. 回文 および 逆さ言葉)。
 そこで同じ1語がいくつものアナグラムを提供することができる。たとえば orange からは onagre が作られるだけでなく、organe 「器官、機関」も作られるのである。
 アナグラム では、変形される語を構成する文字の一部だけを利用する不完全なものもあり、たとえば orange から orage 「嵐」や nager 「泳ぐ」などを引き出すこともできる。しかしそれらは もじり でしかなく、アナグラム作成を容易にするために与えられている許容にすぎない。
 アナグラム は文全体に及ぶことがある。たとえばボナパルト(ナポレオン)のクーデターのとき、『フランス革命』紙にはこう書かれていた。《Un veto corse la finira》「コルシカの拒否権が革命を完成するだろう」(これは Révolution française のアナグラムである)。
 原則として、上記の例にかかわらず、アナグラム は固有名詞に適用されるものであり、これは 固有名詞語源論 étymologie onomastique の一形態なのである。
 固有名詞語源論の場合と同じように、アナグラム も名詞の形態が命名された事物の固有性を反映しているという前提に立っている。しかし前者においては同音関係が明白であるのに対して、後者においては一種のコード化によって隠されており、アナグラム解読者はそのコードを解読しなければならない。
 それ故に アナグラム は占いや秘儀において実行されてきたものであり、それも古代に既に始まっていたことがこの用語の語源がギリシア語であることによって知られる。これはカバラ Cabale (ユダヤ教の神秘的聖書解釈術とそれを伝授する宗教家)にも見いだされ、そこでは、アナグラムによる転換は、名称の背後に、神秘的、予言的な隠された意味を発見する術とみなされている。
 これはまた阿諛(あゆ)や諷刺の手段でもあり、それ故宮廷の遊戯であった。ギリシア時代やラテン時代に既に実行されていたのであるが、ルネッサンスの時期に再びこの形のもとに花咲いた。
 中世はアナグラムの語源論的意義にことさらに敏感であった。たとえば Roma の中に Amor (ラテン語の「愛」)があると考え、そのためローマを(神の)愛の都になぞらえた。他方同音による語源論はギリシア語の rôme 《力、権力》をそこに見いだした。
 紋章や銘文にもアナグラムが利用され、たとえばロレーヌ Lorraine 家の紋章には《alérions》(小さな鷲)が描かれているが、それは alerion が Loraine のアナグラムだからである。
 ルネッサンス時代には宮廷やサロンで アナグラム が大流行であった。Pierre de Ronsard は Rose de Pindare 「ピンダロスのばら」となり、シャルル9世の寵妃 Marie Touchet は Je charme tout 「私はすべてを魅惑する」である。」
「爾来アナグラムは一種の遊戯として扱われているが、現在でも多くの人に対して潜在的な語源論的威力を保ち続けている。」
「古典主義者たちは 地口 に対してそうしたのと同様に アナグラム も非難し、双方とも無益で幼稚な遊戯にすぎないとみた。それにもかかわらずアナグラムは根強く生きのび、超現実主義者たちは見逃さずにこれを楽しんだ。アンドレ・ブルトンは Salvador Dali を Avida Dollars 「ドルに貪欲な男」と呼んだ。」
「アナグラムは今日ではもはや遊戯にすぎない。しかし今でもひとびとはある種のひそかな力がこれに備わっていると考えている。その証拠としてアンドレ・テリヴの奇妙な反省がある。彼は《アナグラムには何か人間の技巧以外のものがあるのではないかと考えたくなる》と言い、《たとえば Révolution française 「フランス革命」のアナグラムである Un veto corse la finira 「コルシカの拒否権が革命を完了するだろう」が偶然に生まれたということがどうしてあり得ようか》と自問している。
 同じようにうまくできている例をいくつかあげよう。
  Frère Jacques Clément → C'est l'enfer qui m'a créé.
  「ジャック・クレマン修道士 → 私を創ったのは地獄である。」
  Napoléon empereur des Français → Le pape serf a sacré un noir démon.
  「フランス人の皇帝ナポレオン → 奴隷たる法王は暗黒の魔王を聖別せり」
 Pétain 「ペタン将軍」 → inapte 「不適格者」、vigneron 「ぶどう作り」 → ivrognne 「酔っぱらい」などは言うまでもないだろう。」

「アナグラム から派生し、同じように文字の配置転換にもとづいているのが 字なぞ である。(中略)それはアナグラム化された語が定義と同じ役割を果たし、なぞ遊びと同じように、これも多くの場合韻文で書かれた判じ物を構成しているのである。
 字なぞ logogriphe はギリシア語の logos 「論述」と griphos 「網」から来ている。つまり《なぞの形をとった、難解な、ひっかかりやすい論述》なのであり、その名称が示すとおり、ギリシア・ローマ時代に既に知られていた。
 なぞ遊び が全体を音節に分解するのに対して、字なぞ は文字の配置がえ、または削除によってアナグラムを引き出す。」
「しかし『19世紀ラルース辞典》も次のように指摘している。
 《本当の字なぞは、とりわけ通俗文学で花咲いた形としては、もっと複雑である。いくつかの例をあげてみよう。
   私より古く、私ほど美しいものはありません。
   私の名の綴字から3番目の字を消しなさい。
   年老いても若くても私はひどく醜いのです。
   きみの手で各瞬間に2番目の字を取り除けば
   私はきみの意志に反してふえるのです。
   きみの当惑はお気の毒さま、
   きみは私を一度も水、私を知ることができません。
   だがすくなくとも私の前半分を認めなさい。
   きみはそれが死に、再び生まれるのを見ました。
 なぞの語は ange 「天使」である。この語の3番目の字を除去すれば âne 「ろば」となり、2番目の字を除去すれば âge 「年齢」となる。またこの語の前半を分離すれば an 「年」が得られる。」

「換字地口 contrepèterie――換字地口 は昔 もどり歌 antistrophe と呼ばれていたもので、1語ないし数語の文字の配置転換を行なって、その語尾同音 consonance は変えずに意味を変えるという一種のアナグラムである。たとえば
   Un sot pâle et un pot sale
   「蒼白い馬鹿と汚いつぼ」
   Vendre votre terre et tendre votre verre
   「あなたの土地を売る、とあなたのコップをさし出す」
   Un mot de vous et un mou de veau
   「あなたの一言、と子牛の肺臓」」

「語順転換 antimétabole あるいは語彙転換 contrepètrie lexicale」
「次のは作者不詳である。
   On entre on crie
   Et c'est la vie
   On crie on sort
   Et c'est la mort.
   「人は入場し泣き叫ぶ
   それが生だ
   人は泣き叫び退場する
   それが死だ。」」



「第5章 副次的遊戯機能」「Ⅲ 秘密文書的機能」より:

「思考を伝達するために作られている言語は、ある状況のもとでは、思考を隠蔽することもある。軍事上、外交上の秘密コードがそれにあたり、その場合メッセージはその構成要素の転換や代入によって作成される。
 同様に神話、呪文、技法伝授、予言などは隠された形式のもとに正体をくらます。たとえば錬金術の原典はひとつの象徴体系としてわれわれに伝わっているのであるが、その体系を正確に知ることができないためわれわれには閉ざされたままである。
 ヘルメス学は秘密のないところでは秘密を探究してそれらしきものを設定する。たとえばカバラは聖書のコード化術であり、聖書の文字や語句の代入と転換によってそこに秘密の意味を探索し、発見する。
 固有名詞語源論は、既にのべたとおり、原則として表面上の意味の下に隠されている真の意味を見破ることを目的とする占いの術なのである。宗教、神話、道徳、さらには技術さえもがなぞと判じ物の形のもとにその真理を語ることをやめなかった。
 昔から言語をもてあそんできたこのヘルメス学的思索は、言葉の下に思考を隠す方法を想像しうる限りことごとく動員した。代入、転換、挿入、なぞ、判じ絵、魔術の方陣などである。」
「そこで、繰り返して言えば、遊戯的機能と秘密文書的機能との間には深い類縁関係が見られる。
 事実、ある条件のもとではこの2つは混同されることあがる。政治的状況や世情によって 2重の意味 が要求されている時代には特にそうである。
 それ故に 言葉遊び は独裁政権のもとでは政治的諷刺の主要な武器となる。それは宗教戦争、大革命、占領下の時代に、さらに身近なところでは大部分の警察国家において花開いた。」
「束縛やタブーに対して嘲笑を動員するということが遊戯的機能の主要素のひとつなのである。」



「第6章 遊戯的機能」「Ⅲ 言葉遊び」より:

「言語の壊乱――遊戯の無償性を強調しながらも、一般的に多くの遊戯が、とりわけ多くの 言葉遊び が諷刺と嘲笑の機能をもっていることを指摘しないわけにはゆかない。この特色はごくひんぱんに発揮されるので、このジャンルに内在するものとみなすことができる。」
「無教養でばかげた言述は、子供のしかめっ面や、おしやつんぼのまねをしてからかう人の嘲弄と同じように、話相手にさし向けられる鏡である。(中略)《これはばかげたことだが、おまえにはちょうどよい》と言っていることになる。だからこれに対する古典的な返答は、ばかばかしさの度合いをさらに強めた物言いをすることである。
 それと同時に不統一は、発言者自身によって、彼の身上だとされている卑俗さに徹しようと決意して採用されることがある。地口という(悪)趣味は、強迫的、錯乱的な加-被虐趣味の形をとることがある。それはシャルル・クロの「燻製にしん」のように、《まじめな、まじめな、まじめな人たちを激怒させる》ために作られたもので、《軽薄さ》の免状を獲得する一方法なのである。」
「さて、《悪趣味》(中略)は実際の社会的機能を持つことがある。それはベル・エポック時代に(アルフォンス・アレやジャリなどによって)、ブルジョアの侮蔑の的であった芸術家(芸術家のほうでもブルジョアを軽蔑していたのだが)がこの悪趣味という評判を受けて立っていた社会において花咲いた。それは《良い趣味》という概念が(《良き慣例》や《洗練された態度》と同じように)本来相対的なものであり、ある階級の支配が承認されている社会ではその支配階級の趣味に合致するものであるゆえにますますそういう事態になるのである。
 そこでこの《悪趣味》に階級闘争の武器とまではゆかずとも、とにかく風俗、慣例、趣味に対する有効にして重要な異議申し立ての一方法を見ることが許されるであろう。
 それ故に悪趣味はそれを看板にしている作家たちによって正当性を主張されている。《われわれのしるしは、狂った精神、時宜はずれの時宜、的をはずれた冗談、なれあいの謹厳さ、凝った地口、微妙に露骨な悪趣味である》とジュリアン・トルマはその『幸福感促進法』で宣言している。そしてこの言葉を引用しているリュック・エチエンヌは結論する。《なぜ悪趣味はよい趣味と同じほどに、おそらくはそれ以上に洗練されていないというのか》と。
 それは、究極のところ、問題にされているのが事物や人間ではなく、言語であり、さらに言語を通じて言語が媒体の役を果たしている社会制度なのだからである。同時に言語は社会制度の中でも最も重要な制度のひとつなのである。
 言語は機能を停止した瞬間に滑稽なものとなり、言語とともに修辞学、コード、文書(codex=écrits)、原則、論理、概論など、言語がそこに現われるものはみな滑稽なものとなる。その点をジードは『架空会見記』の中でジョイスに関して極めて適切に見抜いている。《ジョイスの投石は制度や風俗に向けられているというよりむしろ言語の形態に向けられており、思想や感情に向けられるのではなく、その表現に向けられている。思想や感情は世上の事物以上にわれわれを欺くのである。ジョイスは外被と外見を引き裂き、現実を裸にする。》
 それ故に言葉遊びをする人たちの術策は伝統的な成句表現や、スローガンや特にことわざに対して働きかけることをやめなかった。」

「ご覧のとおりに笑いは遊戯的機能の根底をなすものであるが、必ずしも無邪気なものとは限らない。事実これは壊乱的な笑いなのである。そして笑いは、(中略)人物や、制度や、紋切型や、社会秩序の表現を、その主たる保証人である言語を通じて攻撃するのである。」
「この観点からすれば、禁制とタブーに対する闘いにおいて 言葉遊び がどのような位置を占めるかが明らかである。
 われわれは既に、この本の途中において、宗教抗争や、革命や、占領下や、警察国家において 言葉遊び が果たす役割を見た。そういう状況が現われるたびに 言葉遊び はしばしば同じ姿のもとに花咲いたのである。現代のあらかた民主化された社会ではその鋭鋒はなまっているが、それでも『鎖につながれたあひる』のようないくつかの政治的新聞が今日でもその伝統を保持している。
 それに反して、最近になって攻撃の矢面に立ってはいるが、相変わらず根強く生き残っている禁制のカテゴリーがある。それは性と排泄に関するタブーである。」
「しかし 言葉遊び の本当の機能はもっと深く、もっと油断のならない、もっと猥褻なタブーと闘うことである。便器を展示するマルセル・デュシャンは芸術のイメージそのものを破壊し、その本質とその目的を俎上にのせる。」
「同様に地口も、論理や、文学や、修辞学や、既成秩序とその権力の独断的教養や画一主義に奉仕している言語を俎上にのせるのである。」








こちらもご参照ください:

「風の薔薇」 5 特集: ウリポの言語遊戯
丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)
レーモン・ルーセル 『アフリカの印象』 岡谷公二 訳 (平凡社ライブラリー)
塚本邦雄 『新装版 ことば遊び悦覧記』
シルヴィー・ヴェイユ、ルイーズ・ラモー 『フランス故事・名句集』 田辺保 訳
























ウィークリー 『ことばのロマンス ― 英語の語源』 寺澤芳雄・出淵博 訳 (岩波文庫)

「読者の中には、トランプの club (クラブ)と spade (スペード)の名称の由来について、しばし疑問を抱かれた向きも少なくないに違いない。たしかにスペードのほうは鋤(すき)(spade)に多少似たところはあるが、お話に出てくるどんな巨人でも三つ頭のついた棍棒(club)など手に持ってはいない。そのわけはこうである。英国のトランプは図柄としてフランス式図柄、すなわちダイヤ(carreau)、心臓(ハート)(cœur)、矛・槍の切っ先(pique)、三つ葉のクローバー(trèfle)を採用したが、名称についてはあとの二つに対してイタリア・スペイン式、つまり矛とクローバーの代わりに剣と職杖を表わす語、イタリア語の spada と bastone にならって、spade と club を用いたのである。」


ウィークリー 
『ことばのロマンス
― 英語の語源』 
寺澤芳雄・出淵博 訳
 
岩波文庫 青/33-671-1 


岩波書店 
1987年7月16日 第1刷発行
1989年12月5日 第3刷発行
445p 索引46p
文庫判 並装 カバー
定価720円(本体699円)



本書「凡例」より:

「本訳書の原書は、英国の英語学者・フランス語学者アーネスト・ウィークリー(Ernest Weekley, 1865-1954)が英語の語源に関して著わした数多い一般的解説書中でも、とくに広く知られている *The Romance of Words* (John Murray, 1912)である。翻訳にあたっては、(中略)決定版(John Murray, 1961)を底本として、全訳した。」



ウィークリー ことばのロマンス



カバー文:

「ロミオの恋人の名 Juliet は jilt (男たらし)と同語源。skirt (スカート)はラテン語の「短い」に由来。steward (執事)はもともとは「豚小屋の番人」。――英単語の歴史をたずねると興味津々たる事実が次々とあらわれる。語源辞典編纂者であった著者が、語源探究の魅力を伝えるべく、一般読者のために蘊蓄のかぎりを傾けて成った名著。」


目次:

凡例
初版序文

第一章 英語の語彙
第二章 ことばの遍歴
第三章 民間造語
第四章 語と地名
第五章 音の変化
第六章 語と意味
第七章 意味論
第八章 隠喩
第九章 民間語源
第一〇章 二重語
第一一章 同音異義語
第一二章 姓名
第一三章 語源研究――その事実と虚構

訳注
解説 (寺澤芳雄)
人名・書名索引
語句索引




◆本書より◆


「第三章 民間造語」より:

「英語の植物名を見ると、民衆の想像力の様々なはたらき方が認められる。cowslip (桜草の一種)は古形が cowslop で、「牛の糞(slop)」という露骨な命名であり、ほかにもいろいろ口憚(はばか)るような古い名称や、sweet william (アメリカ撫子(なでしこ)、〔原義〕美わしのウィリアム)、lords and ladies (天南星(てんなんしょう)、〔原義〕貴族と貴婦人)、bachelors' buttons (矢車菊、〔原義〕独身男のボタン。花がボタン状)、dead men's [man's] fingers (青白い指状根のある蘭(らん)の一種、〔原義〕死者の指)のような奇妙な命名のある一方、forget-me-not (勿忘草(わすれなぐさ)、〔原義〕私を忘れずに)、heart's-ease (ビオラ・トリコロル、パンジーの原種、〔原義〕心の安らぎ)、love in a mist (くろたね草、〔原義〕霧に包まれた愛)、traveller's joy (仙人草、〔原義〕旅人の喜び)などのような詩的香りの高い造語が見られる。また、その薬効に基づく名称をもつ一群の花もある。例えば、feverfew (夏白菊、〔原義〕熱払い)は febrifuge (解熱剤)と同語源で互いに二重語をなし、tansy (よもぎ菊。中世に不老長寿薬として用いられた)は、「不死」を意味するギリシャ系ラテン語 athanasia をフランス語形 tanaisie を経由して借入したものである。なお比較に値するものに、雪(ゆき)の下(した)(stone-break(er))の学術名 saxifrage (〔原義〕岩(石)砕き)があり、スペイン語から入った sassafras (サッサフラス。その根皮は香料・薬用)と同語源の二重語をなしている。雪の下のドイツ語名は Steinbrech (〔原義〕岩(石)砕き)である。
 かつては、素朴な形での詩的本能がすべての民族の中に内在していた時代があったと思われるが、未開の民族や子供たちの間には今なおその傾向が残っている。しかし、西欧諸民族の間では、この本能は永久に消えてしまったらしい。今日の英国ではもはや、そのような命名を山や花に与えることはないのである。」



「第四章 語と地名」より:

「ところで、地名と産物を結びつける場合に誤解の生じることがある。例えば、赤色の染料に用いられる *brazil* wood (ブラジル蘇芳(すおう)材)は、ブラジル原産ではあるが、Brazil という国名によったのではなく、その逆である。この木材は、すでに十二世紀には染料材として知られており、その名はヨーロッパの多くの言語に借入されている。ポルトガルの航海者たちは南米にこの蘇芳の木がおびただしくあるのをみて、これを国名としたのである。彼らはまた同様な理由からアフリカ北西岸沖の島を Madeira (マデイラ島、〔原義〕木材。ラテン語形 materia)と命名した。鳥の canary (カナリア)はカナリア諸島原産だが、この名はれっきとしたラテン語である。この群島中最大の島 Canaria (カナリア島)は、この島に産した大型の犬(ラテン語で canis)を見てローマ人が名づけたものという。*guinea* gold (もとギニー金貨を鋳造するのに使った二十二カラット金)はアフリカ西岸のギニア(Guinea)原産だが、guinea-pig (天竺鼠(てんじくねずみ)、モルモット、〔原義〕ギニアの豚)はブラジル原産である。この名称は、三角航路をとるのを常とした Guinea-man すなわち Guinea との「奴隷貿易船」に由来すると思われる。この貿易船は英国の産物を積んでまずアフリカ西岸の Guinea に航海し、そこで産物と交換した奴隷を載せて、今度は西インド諸島に向かう途中、いわゆる「航海の中間地獄」(middle passage)で少なからぬ奴隷を死亡させた後、生き残りを西インド諸島で売り渡し、新世界の産物を買い入れて英国に帰った。その時船員たちが持ち帰った物の中に guinea-pig があったに違いない。そこで Guinea-man にちなんで guinea-pig とよばれたのであろう。七面鳥(turkey)も十七世紀には guinea-fowl (〔原義〕ギニアの鳥)とよばれていたが、これも同様の理由によると思われる。guinea-pig のことをドイツ語で Meerschweinchen というが、これは「海を渡ってきた小豚」が原義であろう。
 Guinea はたしかに十七世紀にはばくぜんとした地理用語だったが、India (インド)や Turkey (トルコ)の方がもっと曖昧(あいまい)である。India(n) ink (墨汁)は中国産であるし(フランス語では encre de Chine 「中国のインク」という)、Indian corn (とうもろこし)はアメリカ産である。七面鳥に付けられた名称 turkey に至っては異常といわざるをえない。アメリカ種の鳥であるから、West Indies (西インド諸島)、Red Indian (アメリカインディアン)などのように、これを India と連想してもよかったところである。Turk (トルコ人)という語は、十六、十七世紀にはばくぜんと非キリスト教徒を意味していたのである。」



「第五章 音の変化」より:

「いろいろに綴られる奇妙な語 ampersand は and per se and に由来するが、an- は後続する p の影響で m となった。ampersand というのは略記号 & のよび名だが、私はたまたま二、三日の間に二人の現代の文筆家の文章でこの語が用いられているのに出会うまでは、もう廃語になったものと思っていた。
  One of my mother's chief cares was to teach me my letters, which I learnt from big A to *Ampersand* in the old hornbook at Lantrig.
  母が私のためにとくに気を使った事の一つは、文字を教えることだったが、私は大きな A から最後の Ampersand すなわち & までの文字をラントリッグで古い文字板(ホーンブック)を使って覚えた。
          (クイラー=クーチ『死者の岩』二章)
  Tommy knew all about the work. Knew every letter in it from A to *Emperzan*.
  トミーはその作品について何もかも知っていた。その中のすべての文字、A から Emperzan すなわち & に至るまで知っていたのである。
          (W・P・リッジ『従軍記』)
昔、子供たちはアルファベットを覚えるのに、A per se A, B per se B (A はそれ自体で A, B はそれ自体で B)と言いながら最後に and per se and (& はそれ自体で &)と言い、これを繰返し唱えたのであった。」



「第九章 民間語源」より:

「民間語源という用語は、しばしば狭義に、語源・起源についての誤解に基づく語の歪曲現象を指して用いられる。教育のない人々は、なじみのない、あるいは理解できない語を何とか意味の分る形に歪曲する傾向が認められる。(中略)たとえば(a)sparagus (アスパラガス、(中略))を、雀(sparrow)の食べる草(grass)だからと sparrow-grass と言ってみたり、ディケンズの作品中で悪党ライダーフッドが affidavit (宣誓供述書)をもじって、Alfred David と言ったりする場合である。
  'Is that your name?' asked Lightwood. 'My name?' returned the man. 'No; I want to take a *Alfred David*.'
  「あんたの名前かね?」とライトウッドが訊ねた。「俺の名前だって?」と男は答えた。「いいや、『アルフレッド・デイヴィッド』てえのがほしいんで」
          (『われらが相互の友』一二章)
また、間違った連想がはたらくような場合もある。例えば、primrose (桜草)、rosemary (マンネンロウ)、tuberose (月下香)は、いずれももともと rose (ばら)とは何のゆかりもない。primrose ははじめ primerole, つまりラテン語 primula (プリムラ)に由来する古期フランス語の形であったし、rosemary はフランス語 romarin に由来し、さらにラテン語 ros marinus (海の露)にさかのぼる。tuberose はラテン語の形容詞 tuberosus (英語の tuberous 「塊茎状の」)からである。またラテン・ギリシャ語系の難しい語の言い換えが試みられることもある。例えば、ディケンズの『ピクウィック・ペーパーズ』の登場人物サム・ウェラーが Habeas Corpus (人身保護令状、〔原義〕汝自身を保つべし)のかわりに、Have his carcase (字義どおりには「死体をもらっておけ」)と言ったり、田舎者が bronchitis (気管支炎)や erysipelas (丹毒)のような病名を奇妙な名で呼んだりする場合である。次のキプリングの短篇に登場する駄洒落好きのマルヴァニー二等兵の言う locomotor ataxy (=ataxia)(歩行性運動失調症)のもじりも、この類例に数えることができよう。
  'They call ut *Locomotus attacks us,' he sez, 'bekaze,' sez he, 'it attacks us like a locomotive.'
  「『汽車にやられる(ロコモトス・アタックス・アス)』ってんだ」と彼は言った。「何せ、そいつは汽車みてえに、俺たちをやっつけちまうんだから」
          (『女たちにぞっこん』)
 英語は、そのお得意の借物上手によって、とくにこうした外国語の転訛形の宝庫に恵まれている。」

「民間語源に似たものに、混成(contamination)、つまり二つの語が一つに接合した現象がある。これは、未開人に似かよった言語本能をもつ子供たちの場合にしばしば見られる。ロンドン動物園に生まれて初めて連れていってもらった女の子が canimals (camels 「駱駝(らくだ)」+animals 「動物」)をぜひ見たいと言っているのを聞いたことがあるが、これはじつはキリンのことだった。(中略)イングランド中部地方のある学校(コレッジ)で、Turpin (ターピン)という名の学生の隣りに坐っていた Constantine (コンスタンティン)という学生が、教師から Turpentine (テレビン油(ターペンタイン))と呼ばれてびっくりしたという話がある。」

「語の真の意味が分らないために冗語法(pleonasm)に陥ることがある。例えば、greyhound (グレイハウンド)は、hound (犬)に加えて、第一要素がアイスランド語の grey (犬)を表わすので、「犬-犬」ということになってしまう。peajacket ((水夫の着る)ピージャケット)はオランダ語の pij に対する民間の解釈を示している。この pij は古形が pye で『ヘクサム蘭英』によれば、「パイ・ガウン(py-gown)すなわち兵士や水夫が着る粗い布のガウン」であるから peajacket は冗語ということになる。Greenhow Hill (グリーンハウの丘)は「緑の丘-丘」となるし、Buckhurst Hold Wood (バッカースト・ホールド森)は「橅(ぶな)の林-林-林」となるが、これは、もとの語 how (丘)や hurst (林)が廃れてしまうにつれて、あとから hill (丘)や hold (=holt 「雑木林」)さらに wood (森)が新たに説明としてつけくわえられていったのである。salt-cellar (塩壷)の後半部は、wine-cellar (葡萄酒貯蔵室)の後半部と同じ語ではない。前者の -cellar はフランス語の salière 「塩壷(salt-*seller*)」(『コトグレーヴ仏英』)に由来する語なので、salt (塩)は不要ということになる。」



「解説」より:

「一方私的生活の面では、一八九八年ノッティンガムに引きあげる直前にドイツで過した休暇の間に、アルザス・ロレーヌの知事を務めたリヒトホーフェン男爵の次女フリーダ(中略)を見初(みそ)め、翌年結婚、二人の間に一男二女をもうけた。しかし、(中略)結婚十三年で破局を迎えることになる。二人の前に現われたのは、フリーダより六歳年下で、ウィークリーのフランス語の授業に出席したこともあるローレンス(中略)、やがて『チャタレー夫人の恋人』(一九二八)などで文学の世界のみならず社会に大きな波紋を投じることになる若き日のローレンスであった。たまたまウィークリーはローレンスを昼食に招き、ローレンスは一度は辞退しながら再度の招待に応じて来訪する。そこではじめて言葉をかわした二人は、たちまち相思の仲となり、数週間後フリーダは家庭を棄てて、ローレンスとともにドイツに駈け落ちをした。二年後ウィークリーとの離婚が成立、フリーダはローレンスと正式に結婚することになる。」
「その後ウィークリーは再婚することなく、両親と三人の子供たちをかかえ、教育と著作に専念することになる。英語の語源に関する最初の著作が本書『ことばのロマンス』であり、その初版の出版は一九一二年三月、奇しくもその同じ月にウィークリー自身の招きで、ローレンスが夫人と会うことになったことは前にのべたとおりである。」
「ウィークリーは、戦災その他の事情から、いく度か転居を重ねたが、最後はロンドンのパットニーに居を構え、長女の家族と平和な生活を楽しみ、一九五四年五月七日九十歳で長逝した。」







こちらもご参照ください:

H・ブラッドリ 『英語発達小史』 寺澤芳雄 訳 (岩波文庫)
佐竹昭広 『古語雑談』 (岩波新書)






























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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