ロジェ・カイヨワ 『妖精物語からSFへ』 三好郁朗 訳 (サンリオSF文庫)

ロジェ・カイヨワ 
『妖精物語からSFへ』 
三好郁朗 訳

サンリオSF文庫 8-A

サンリオ 
1978年10月15日 初版印刷
1978年10月20日 初版発行
178p 
文庫判 並装 カバー 
定価280円
カバー: 東逸子



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Roger Caillois : Images, Images: Essai sur le rôle et les pouvoirs de l'imagination, José Corti, Paris, 1966 の全訳である。
 第一部「妖精物語からSFへ」は、『幻想物語アンソロジー』(一九五八、一九六六)の序文、および、サイエンス・フィクションに関する部分はマルセル・ティリー『時間に王手を』再版(一九六二)に寄せた序文をもとに、加筆されたものである。
 第二部「夢の威信と問題」は、アンソロジー『夢の権能』(一九六二)の序文、および、カリフォルニア大学と「ディオゲネス」誌の共催でロワイヨーモンで開かれた研究会『夢と人間社会』での報告論文がもとになっている。」
「第三部「ピュロス王の瑪瑙」は本論集が初出であるが、豊富な写真をそえた美本『石が書く』(中略)のもとになった論文と言えよう。」



本書には他に塚崎幹夫による訳書があります(『イメージと人間』、思索社、1978年)。


カイヨワ 妖精物語からSFへ


カバー裏文:

「SFの根は何処にあるのか? カイヨワはそれに答えて、妖精物語から怪奇小説を経てSFに至る系譜をたどってみせる。妖精物語が発達した中世世界では、魔法さえ日常生活の掟となってしまい、なんの驚異ももたらさない。だが現代のように科学的合理精神に支配された恒常的世界観に、一つの亀裂、一つの不可思議をもたらすこと――それも科学自体のもつ曖昧さと矛盾をつきつめていくことによって――現実界を破壊する妖精物語以来もちこされてきた変らぬ人間の聖なるもの、不可能なものへの信頼と希望がSFに現代的な形で復活するのである。
シュルレアリズム運動による幻想的なものの祝祭を潜りぬけてきたカイヨワは、こうして石の断層に描かれた紋様、コノハ蝶やカマキリの擬態、夢の文法から想像力の核を横断する《昼の論理》と《夜の夢》を綜合する百科全書的な対角線の科学を確立したのである。」



カバーそで文:

「Roger Caillois (ロジェ・カイヨワ)
1913年、フランスのランスで生まれる。1938年、高等師範学校で宗教学の学位を得る。一時期、ブルトンらのシュルレアリズム運動に参加するが、後に訣別。明晰な思考と言語、独自な対角線的研究法をもって神秘的なるものの解明に異色な業績をあげている作家、美学者である。著書に『神話と人間』『人間と聖なるもの』『石が書く』『幻想のさなかで』などがある。」



目次:

妖精物語からSFへ――想像力の機能と役割について
 第一部 妖精物語からSFへ――幻想のイメージ
 第二部 夢の威信と問題――夢のイメージ
 第三部 ピュロス王の瑪瑙――類推のイメージ

訳者あとがき
解説 (荒俣宏)




◆本書より◆


「第一部 妖精物語からSFへ」より:

「幻想とは現実界の堅固さを前提とするものである。現実が堅固であればあるほど、幻想による侵害も威力を増すからだ。(中略)幻想の基本的なやり口は、尋常ならざるものの出現である。つまり、神秘など永久に追放されたと思われる世界、完全に測定しつくされた世界のただ中にあって、特定の地点と特定の瞬間に、到底起こりえようはずのないことが起こるのだ。一切は今日のまま、昨日のままに、穏やかで、平凡で、なにひとつ異常がない。そこに、到底容認しがたいものがゆるやかに忍び込む。あるいは突如としてその姿を繰り広げるのである。」

「幻想小説にとっての枠組は、《眠れる森の美女》のあの魔法の森でなく、現代に特有の現代に特有の陰欝な管理社会である。中世世界や古代世界に移されたのでは、幻想小説はその力を失なってしまう。そうした枠組の中では、超自然がずっと自然なものに見えてくるからだと言ってもよかろう。
 それとは逆に、平々凡々たる現代社会という枠組の中へ、不吉な亡霊を闖入させるかわりにいたずらっぽく好意に満ちた妖精物語の奇蹟を移し入れてみたとしても、やはり同じことが言えるだろう。最近のアメリカの短篇に、『三つの願い』とそっくりのものがある。もっとも、願いの数は三つでなく二つなのだが、(中略)妖精物語の要素を現代に移し入れるとどのような雰囲気が生じるか、その好例となっているのだ。」
「海岸から遠く離れたアリゾナの小さな町で、町営プールの管理人が、明け方の人気のないプールの水を溢れさせ、潮の香と海草の香をただよわせながら、噴水孔から騒々しく呼吸している不可解なクジラを発見する。管理人は自分の眼が信じられない。しかし、現実は動かしようがないのだ。そこで彼は証人になってくれる人間を探しに行く。戻って来ると、クジラの姿は消えていた。管理人は夢をみたのか。しかし、「あたりには、浜辺に打ち上げられた海草の臭気と塩くさい泥の跡がひろがっており、プールの殺菌された水の面にも、はるかな海からやってきた褐色の海草がただよっている」のであった。ところで、子供が一人、問題のクジラを夢中になってながめていたはずなのだが、その子の姿もやはりプールから消えてしまっていた。実を言うと、その子は、妖精を捕えるのに成功し、紙袋に閉じ込めて、無理やり願いをかなえてもらおうとしたのだった。そして、その子の一番の願いというのが、生きたクジラを見ることだったのである。魔法の力が介入したのはほんの一瞬にすぎない。世界はたちまちにもとの姿をとりもどし、結果的にはなんの悲劇も起こりはしなかった。」
「要するに、たとえ現代風な道具立ての中に導入されようとも、妖精とその魔力は、あくまで不思議なものであるにとどまる。幻想に特有のあの戦慄を出現せしめるには至らず、楽しい驚きとでもいったものを誘うにすぎない。」

「サイエンス・フィクションは、それ以前の非現実的物語を継承し、全く同じ機能を果している。かつての妖精物語は、いまだ支配しかねる自然を前にした人間の、素朴な願望を表現するものであった。次に来る恐怖小説は、理論的探究と実験諸科学の努力の末にようやく確立され、証明された世界の秩序とその規則性が、突如、悪魔的で憎しみに燃えた暗黒の力の攻撃を受け、敗れ去るのを見る恐怖を表現していた。そして、サイエンス・フィクションは、理論と技術の進歩に対して恐怖を覚えた時代の苦悩を反映しているのである。(中略)科学はもはや真理と安寧をもたらすものではなく、不安と謎を惹き起こすものになったと言えるかも知れない。妖精物語でも、幻想小説でも、サイエンス・フィクションでも、それぞれの作品群に共通する一般的雰囲気、主だったテーマ、基本的着想等はそれぞれのジャンルが花開いた時代の潜在的関心事からこそ生じているのだった。」



「第三部 ピュロス王の瑪瑙」より:

「昔から人間は、(中略)たえず変ったところのある石を探してきた。風変りな特徴をもった石がみつかると、(中略)自然の法則に反する奇蹟のごとくみなされた。そうした特徴が、およそありそうもない偶然の業であることだけはたしかで、そのことが精神を魅了してやまないのだ。(中略)中国では、十六世紀に編集された李時珍の著作に、並の石でも硬玉でもありえない瑪瑙のことが語られている。それによると、この種の鉱物群の中でも最高のものは、人の姿、動物の姿、物の形などが浮き出して見える石だという。(中略)石の内部に閉じこめられたこの種のイメージは、本当らしさに対する一種の挑戦である。だからこそ、模様石と呼ばれたこの種の石の収集が人気を呼び、十六世紀から十七世紀にかけて、王侯貴族や富裕階級の陳列室を一杯にしていたのである。
 すでに大プリニウスが、その『博物誌』の中で、エペロスの王ピュロスの瑪瑙のことを語っている。それによれば、この石にはいっさい人の手が加わっていないのに、それぞれの象徴を身につけた九人のミューズにかこまれて竪琴を弾いているアポロンの姿が見えたという。(中略)ところで、この石のことを語っている者は多いが、実際に見た者は誰もいない。しかも、何世紀にもわたってこの石のことが語りつがれてゆくのだ。十六世紀の中頃には、ジェロラーモ・カルダーノが、この現象に合理的説明を加えようとしている。彼の推測によると、ある画家が問題の場面を大理石に描いた。ところが、故意か偶然か、その大理石画がくだんの「瑪瑙の出土した場所に」埋もれてしまい、「ために瑪瑙へと変化した」。(中略)この突拍子もない説明が、四分の三世紀の余も、そのまま受け入れられていたらしい。一六二九年になって、なかなかの権威であったガファレルが、ほかの多くの石に認められる紋様と同じく、自然のみがこの傑作の作者であると主張する。」
「想像力がその気になれば、石の表面に認められないものなどありはしない。」
「しかしながら、これらの例がすべて漠然とした類推の話でしかないのだとしたら、類似を発見することが人間にとって、強力かつ恒常的な情熱となってきたということで簡単に説明がつくだろうし、このような問題があれほど論争のまとになることもなかったであろう。ところが、一方で、動物や植物の化石が発見されていたのだ。それが本物に似ていることは当然とはいえ、やはり驚きのまとであった。(中略)当時は、まことに正確なこの似姿が、太古に生きていた動物の残した刻印だとは知られていなかったのである。そこで、なんとなく漠然と似ているだけで、ほんのわずかな類似点しかないのに、観察者の熱意のあまり何かにみえてくるような紋様とも、特に区別されてはいなかった。」
「石化作用、すなわち化石の理論は、ライプニッツによって検討されるまではほとんど支持をえられずにきた。十八世紀の中頃になってはじめて、科学は、化石というものが滅亡した動植物の痕跡であり、生命の歴史の証拠として学問の対象となりうること、いかに人の心をとらえようと偶然にできた自然の紋様とは全く異なったものであることを、堂々と主張するようになる。そのことで科学は、自然の紋様を、偶然が生んだ珍品の部類へ追いやってしまった。そうした珍品も、軽薄な精神を楽しませたり、詩人の夢想に満足を与えることはできよう。しかし、正当な科学の対象にはなりえないというのだ。こうして、もはやピュロスの瑪瑙が話題になることはなくなり、フィレンツェの大理石をはじめとするあらゆる形象石(ガマエ)が、これ以後、科学からの手ひどい拒絶を蒙ることになるのである。
 厳密な研究として言うのならその通りであって、問題は決定的かつ見事に結着がついたといえよう。しかしながら、類推の悪魔の絶えざる誘惑は、そのような裁定が下ったからといって一向に衰弱をみせず、その力は手つかずに残されてゆくのである。
 一例をあげるにとどめるが、いたって極端な、錯乱と隣りあわせの例である。今世紀のはじめごろ、ジュール=アントワーヌ・ルコントという隠者がいて、流行の交霊術に病みつきとなり、道ばたで燧石を拾い集めては、洗い、磨き、そこに、複雑で感動的な無数の情景を発見する。彼にしてみれば、そうした場面をほかの連中が見わけられないことの方が驚きであった(習練が足りないせいだと彼は言う)。彼はそうした情景を分類し、スケッチし、中でも素晴しい場面を集めて『紋様石(ガマエ)とその起源』という小冊子を刊行した。彼はこの小冊子の中で、これらのイメージは人間の強烈な感動から生じ、それが精神の照射現象によって石の中へ固定されたものだと説く。」
「ジュール=アントワーヌ・ルコントなる人物が、単に模様石だけでなく、およそ目に入るものならすべて、倦むことを知らず、確固たる信念をもって、解釈しようとしていたこともわかる。「私は、うずくまって右手を差し出している人間の形をしたジャガイモを所有している。床板に親戚の女性の顔を認めたこともある」。
 たえず何かを同定していたいという誘惑は、この燧石愛好者の場合のように、ひとつ間違うと、偏執的で滑稽きわまるものになってしまうが、その実、非常に一般的な誘惑なのである。それは、いわば精神機能の一部をなしている。この種の誘惑を感じないと言える者はいないのであって。大切なのはむしろ、そうした欲求を抑制し、制御することなのである。ピュロスの瑪瑙のアポロンとミューズ以来、石の紋様に認められてきたイメージは、すべて、そうした精神的磁化作用への服従を通じてのみ出現しえたものなのだ。学問や厳密な研究がそうした誘惑に懐疑的なのは当然である。(中略)これに反し、詩はそこにこそ源を発している。詩はこの誘惑に依って立ち、そこから格別に豊かで確実な効果を汲みとっている。詩にとってもまた、あらゆる類推と隠喩は隠された関係を啓示するものであり、それが見えないというのは、想像力の無力のゆえでしかないのである。」
「そのようにして認められる情景が複雑であればあるほど、類似が明確であればあるほど、陶酔も一層大きなものとなる。壁の亀裂、押しつけられたインクのしみ、樹皮の表面などに認められ、解読されるイメージについても、同じことが言えるだろう。かけ離れた二つの事物の間に未開の関係をきらめかせようとする詩人たちのイメージも、また、およそ予想もしないところに類似を――漠としたものであることもあろうし、明瞭なものであることもあろうが――感じ、発見し、確認した精神にとっての、あの満足感にかかわっているのだ。あたかも、人間の精神が、何ひとつ表象しえぬものの内にもなんらかのイメージを求め、何ひとつ意味しえぬものにも意味を与えずにはおかれぬかのようである。決定的なものなど何ひとつ呈示しているように見えない線と形、光と影の構成体にまで、精神は、たえず何かしら見慣れたもののフォルムを読みとり、投影することになる。このような精神的傾向は、心理学にまで利用されているほどなのだ。人の心にひそむ強度の偏愛、隠された性格などを発見しようとする心理学者たちは、被験者に対し、わけのわからぬ漠然としたしみのようなものを見せる。このしみからどのようなフォルムを読みとるかによって、直接被験者の口から聴取するよりも、はるかに確実な結論がえられると考えられているのである。
 私には、これほど恒常的で強力な精神作用のことをないがしろにしてよいとは思えない。ことに、それが、一種の興奮状態からめまいまで惹き起すほどのものであってみれば。」






















































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イタロ・カルヴィーノ 『冬の夜ひとりの旅人が』 脇功 訳 (ちくま文庫)

「「……子供のころ私は鶏小屋に隠れて本を読んでいたんですよ……」」
「彼にとって本当の本は別にある、それは本が彼にとって別の世界からのメッセージであったころのものである。作者にしても同じことだ、(中略)作者とは本がそこから生まれ出てくる目に見えないある一点、空想の駆けめぐる虚空、彼の子供のころの鶏小屋と別の世界とを結んでいた地下のトンネルなのだった……」

(イタロ・カルヴィーノ 『冬の夜ひとりの旅人が』 より)


イタロ・カルヴィーノ 
『冬の夜ひとりの旅人が』 
脇功 訳
 
ちくま文庫 か-25-1

筑摩書房
1995年10月24日 第1刷発行
376p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価840円(本体816円)
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 鈴木成一


「本書は一九八一年、松籟社より刊行された。」



「文庫版 訳者あとがき」より:

「今回、『冬の夜ひとりの旅人が』が「ちくま文庫」版であらためて刊行されることになったのを機会に、旧訳に少し手を加えたことを付け加えておく。」


Italo Calvino: Se una notte d'inverno un viaggiatore, 1979


カルヴィーノ 冬の夜ひとりの旅人が


カバー裏文:

「次々に斬新な方法を創り出すイタリアの作家の、型破りな作品。すぐに中断してしまう、まったく別個の物語の断片の間で右往左往する「男性読者」とそれにまつわる「女性読者」を軸に展開される。読者は、作品を読み進みながら、創作の困難を作者と共に味わっている気持ちになる、不思議な小説。」


目次:

第一章
冬の夜ひとりの旅人が
第二章
マルボルクの村の外へ
第三章
切り立つ崖から身を乗り出して
第四章
風も目眩も怖れずに
第五章
影の立ちこめた下を覗けば
第六章
絡みあう線の網目に
第七章
もつれあう線の網目に
第八章
月光に輝く散り敷ける落葉の上に
第九章
うつろな穴のまわりに
第十章
いかなる物語がそこに結末を迎えるか?
第十一章
第十二章

訳者あとがき
文庫版 訳者あとがき




◆本書より◆


「第一章」より:

「本屋のショーウィンドーの中であなたは自分が探していた題名が書いてある表紙を見て、視覚に残ったその痕跡を頼りに、陳列台や書棚からあなたを脅かすようにしかめっつらをしてあなたをにらみつけているあなたが読んだことのない本がぎっしりとひしめきあった障壁の間をかきわけるようにして店の中を進んで行った。だがあなたはなにも恐れる必要などないということを、そこには読まなくてもいい本が、読書以外の用途のために作られた本が、書かれるより以前にもう読まれてしまっているというような類に属する限りでは開く必要さえもなくすでに読んでしまったとも言える本が、長々と展開しているにすぎないことを知っている。こうして最初の防壁を突破すると、あいにくあなたの人生は今あなたが生きているものでしかないので仕方がないがあなたがもっといくつもの人生を生きることができたら喜んで読むかもしれない本からなる歩兵どもが襲いかかってくる。あなたはすばやくそれらを蹴散らすと、読むつもりではあるが先にほかのものを読むことにしている本、値段が高くて半額で再販される時に買うまで待っていてもよい本、同じくポケット版で再販されるまで待っていてもよい本、誰かに貸してくれと頼める本、みんなが読んでいるのであなたも読んでしまったような気になっているような本からなる密集陣のまっただなかに突っ込んでいく。それに風穴を開けると、あなたは砦の塔の下にたどりつく、そこを固めているのは
  ずっと以前から読む予定にしていた本、
  長年探していたが見つからなかった本、
  現在あなたが没頭している事柄に関する本、
  必要な折りにはすぐ手の届くところに置いておきたい本、
  この夏にでも読むために取っておいてもよい本、
  あなたの本棚のほかの本と並べて置くのに欲しい本、
  はっきりした理由はわからないが不意にやたらと好奇心がそそられる本

などの面々だ。
 こうしてあなたは戦場に並んだ無限の軍勢の数をまだまだ大軍ではあるがともかく勘定可能な限定された数にと減らすことができたのだが、それでほっとするわけにはいかない、ずいぶん以前に読んだため今もういっぺん読んだらいいような本や読んだふりをずっとしてきたが今本当に読んでみる気になった本などが待ち伏せして罠をはっているからだ。
 あなたはすばやくジグザグを踏んでその罠を逃れ、著者なり題材なりがあなたを惹きつける新刊書の砦の中に躍り込む。この砦の内部でもあなたは防備の軍勢を(あなたにとっても絶対的に言っても)新しからざる作者あるいは題材の新刊書や(少なくともあなたにとっては)まったく未知の作者あるいは題材の新刊書とに分割してその間に突破口を開き、そしてそれらの新刊書があなたに働きかける魅力をあなたの欲求なり必要に基づき新しいものと新しからざるもの(新しからざるものの中にある新しいものと新しいものの中にある新しからざるもの)とに区別することができるのだ。
 こう言ったところで、あなたは本屋に陳列された本の題名にすばやく視線を走らせ、まだ印刷したての『冬の夜ひとりの旅人が』が山と積んであるところに歩を運び、それを一冊手に取って、その本に対する所有権を確立すべくそれを勘定台に持っていっただけのことだ。」





















ロジェ・カイヨワ 『メドゥーサと仲間たち』 中原好文 訳 (新装版)

「人類がおしなべて現に仮面を着けているか、あるいは過去において着けたことがあるということは一つの事実である。この謎めいて、有益な目的をもたない小道具は、梃子や弓や銛、あるいは鋤などの道具よりも広範に行き渡っている。いくつかの民族全体が、(中略)もっとも貴重なこれら道具のかずかずを知らずに過してきた。ところが彼らはいずれも仮面というものは知っていたのである。」
(ロジェ・カイヨワ 『メドゥーサと仲間たち』 より)


ロジェ・カイヨワ 
『メドゥーサと仲間たち』 
中原好文 訳
 
新装版

思索社
昭和63年10月10日 印刷
昭和63年10月28日 発行
193p 図版12p
四六判 丸背紙装上製本
定価1,800円
装丁: 高麗隆彦



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Roger Caillois: Meduse et Cie., Gallimard, Paris, 1960 の全訳で、邦題もほぼ原題そのままである。」


邦訳初版は1975年、本書はその新装版です。
別丁モノクロ図版19点。


カイヨワ メドゥーサと仲間たち 01


目次:

問題提起
  対角線の科学
  擬人主義(アントロポモルフィスム)に関する短い覚え書

自然に復原(もど)された人間
  ウスバカマキリについておこなったある研究について
 1 紋様か構想か
  蝶の翅
  自然の絵画
 2 対比と類似
  擬態のもつ三つの機能
   変装(トラヴェスティ)
   偽装(カムフラージュ)
   威嚇(アンティミダシオン)
    1 眼状紋
    2 メドゥーサ
    3 妖術
    4 ビワハゴロモ
    5 結論

原注・訳注
訳者あとがき



カイヨワ メドゥーサと仲間たち 02



◆本書より◆


「対角線の科学」より:

「認識における進歩というのは、ひとつには、あらゆる表面的な類似性をしりぞけて、深い、恐らく目にはそれほどつきにくいかもしれないが、より重要で、意味深い親縁性(パランテー)のかずかずをあばき出すことにある。十八世紀においてもなお、動物を脚(あし)の数によって分類し、たとえば、トカゲとハツカネズミとを同類として扱うような動物学上の著作がいくつか公にされている。今日では、トカゲは、脚はまったくないけれども、同じように卵生動物で鱗(うろこ)に覆われているナミヘビ科と同じ項目に入っている。これらの特質は、当然のことながら、脚の数という、最初に人目を奪った特質よりもさらに重要ないくつかの帰結からはっきりと浮かびあがってきたものである。同様にして、その外見にもかかわらず、鯨が魚の仲間でないことも、コウモリが鳥の一種などでないこともよく知られている。
 私はわざと初歩的で異論の余地のない一例を取りあげてみた。だが、ごくおおざっぱにもせよ、もろもろの科学の成立に関する歴史をひもといてみるならば、すぐさま、そこには無限ともいうべき罠のかずかずがしかけられていて、科学者たちがたえずそれらの罠を避けながら、有益な識別基準、つまりそれぞれの学問分野を固定するさまざまな識別の基準に誤りがないかどうかを確認してきたことに気付くのである。
 あまつさえ、これらの罠、人を欺きやすいこれらの外見は、単なる見せかけでないばかりか、実を言えば外見ですらもない。それは現実なのであって、それらの現実には、他のいくつかの現実に対して与えられる係数に比べてより重要性の低い一つの係数が最終的に結びつけられたというにすぎないのだ。トカゲだとかカメは、哺乳類などではまるでないのに、哺乳類同様四肢をそなえているし、コウモリは、鳥の仲間でないにもかかわらず、翼をそなえている、というようなことは疑いようのない現実なのである。」
「だから、視点をどこに定めるかによって、二義的なもの、あるいは問題にもならないとされているようなこれらの分類の仕方が、突如として本質的なものとなってくる場合もいぜんとして存在するのである。たとえば、私が羽の機能を研究しようと思えば、今度は、コウモリを鳥のみならず蝶や蛾とさえも結びつけ、それぞれの成員をいくつかの異なった種類、つまり無脊椎動物・鱗翅類、脊椎動物・鳥類、等々に分類せしめるにいたったさまざまな理由(中略)のいかんにかかわらず、羽族全体を調べてみなければならなくなることは明らかである。さらに、私が羽のもつ機能の特殊な一面、たとえば、定点飛行、つまり羽の振動によって空中の同じ場所にとどまったまま、体を静止状態に保つ飛び方を検討するものと仮定するならば、私はハチドリとスズメガ科のホウジャク類というように、近接した種類には属していない動物の図解説明に頼る以外になす術がないわけであり、これらの動物はいずれも花の上方に静止し、口吻または長い尖った嘴をもちいて、花から離れたまま食物を摂取するのである。」

「科学者というのは、たとえば、生体組織の瘢痕(はんこん)形成と結晶組織の瘢痕形成とを比較することなどは一つの冒涜、スキャンダル、ないしは妄想と見なしがちなのである。にもかかわらず、事実に徴してみるならば、結晶体も有機体同様、思いがけぬ出来事の結果自らのうちに生じた毀損部分を構成し直すのであり、被害をこうむった部分は一段と活発な再生活動の恩恵に浴するのであって、この再生活動の増大は、きずによって創り出された損壊、不均衡、不相称の埋め合わせをすることを目的としているのである。(中略)ともあれ、ひとつの強力な作用が生じて、それが、動物におけると同じように鉱物においてもその規則正しい秩序を回復するということは事実なのである。私は、無生物と生物とを隔てている深淵を知ることにおいて人後に落ちるものではない。だが私はまた、そのいずれもがさまざまな共通の特性を示しうるのであり、これらの特性は、無生物であると生物であるとを問わず、その構造の全体性を回復しようとする傾向をおびているのだとも考えるのである。むろん私とて、数限りない世界を包みこんでいる一つの星雲と、海中に棲息するなにか軟体動物の分泌によって作られた一箇の貝殻とを比較対照するなどという試みは、それがたとえいかに控え目なものであろうと、人を見くびったものであることぐらい知らないわけではない。にもかかわらず、私にはそれらが二つながら、螺旋状の発達という同一の法則に従っているものと考えられるのである。しかも、螺旋というものが、とりわけ、相称と生長という宇宙の基本的な二つの法則の綜合をおこなうものであってみれば、これとてなんら驚くにはあたらないであろう。螺旋とは生長発達における秩序を構成するものなのだ。生きものも、植物も、あるいはまた天体も等しくその支配を受けざるをえないのである。」



「偽装」より:

「コノハチョウ(Kallima)という蝶は、その主たる葉脈と葉柄だけを残した、披針形形の枯葉のような姿を示す。ナナフシの雌は、緑色もしくは黄ばみつつある木や草の葉を模倣する。ブラジル産のドラーコニア・ルーシーナ(Draconia rusina)という蝶は、ポールトンによって研究されたものであるが、その翅には極端に深い切れこみをもったぎざぎざや、細い翅脈の走っているいくつかの透明な斑点があり、鱗粉がその斑点をいっそう強烈に描き出しており、そうしたものがこの蝶に、毛虫にいためつけられ、茸にやられて、黴の生えた落葉のような外見を与えている。」
「このような例は数え切れないほどある。ブラジルに生息するフロエイド科(Phloeidae)の昆虫は見まごうばかりに地衣を模倣しているし、カミキリムシ上科(Chlamys)の昆虫は植物の種子そっくりであり、ツノゼミ類のウンボーニア(Umbonia)は棘に、アズチグモは鳥の糞に似ている。
 そのうえさらに、姿態(アティテュード)がその形を補ってより完全なものとしている。昆虫は一般に認められている類似性を最大限に利用することのできるような行動を本能的に採り入れるのだ。そこから、なにはともあれ、そうした類似性を単なる錯覚であると見なすことはどうしても困難であり、あるいはまた、いかなる影響力ももたないにせよ、同じ一つの目的に向かっているかのように思われる植物と動物との類似的な適応作用の驚くべき結果をすらも単なる錯覚と見なすことはある程度困難になるだろう。なぜならば、類似性は開発されるものだからだ。ナナフシはその長い脚をだらりと垂らしたままにし、コノハチョウはその下翅の一部が伸びてできた尾状突起を茎や樹幹にくっつけて、それを自分が模倣している草や木の葉の葉柄のように見せかけようとする。(中略)シャクトリムシは、自分が真似ている灌木の若い枝木のように、体を硬ばらせて直立したままでいるので、時として庭師に刈込みばさみでちょん切られたりする。」

「ところが、擬態は有害なものではないにしても、無益なものである。昆虫の外敵は獲物の臭気だとか運動によってその存在に気付くのであり、外見によってその存在に気付くのはごく稀なことだからである。(中略)しかも、プテロクローザ(Pterochroza)という大型のバッタに関して、ヴィニョンがきわめて適切に指摘しているように、手つかずで無疵の葉も、いたんだ葉と同じようにやはり葉であることにかわりないのだ。そこからただちに、これらのバッタたちをして、枯葉だとか、なかば分解し腐敗した葉の疵や黴、さては透けて見える部分などまで模倣させる、この過度の凝(こ)りようは一体何の役に立つのかという疑問が生まれてくるのである。
 擬態という現象はいぜんとして神秘にとざされたままである。」



「威嚇」より:

「さしあたり、私は眼状紋の効力を書き留めるだけに限ろうと思う。」
「まさしく、問題は、眼状紋が目を真似て描いた紋様、目の見せかけであるかどうか、そしてその機能が昆虫のかわりになにかの脊椎動物がいるのだと思いこませることにあるのかどうかを知ることである。ここで思い出しておいた方が良いのは、固定されたどのような円もおのずから催眠的な作用をもっているということである。長時間見つめていると、それは見る者を不安にさせ、麻痺させ、眠りこませるのだ。しかも暗い、空虚のような中心の周囲にある鮮明できらきらと輝く環がその円に目のような姿をとらせるということ、それがまさしく不安と恐怖との補助的な源泉であり、魅惑と眩暈の可能性を増大させるのである。こうした曖昧さが純粋に視覚的な作用につけ加わり、人間にあっては、想像力を揺さぶるのだ。
 私には、眼状紋が目の略図などではないということを証明するのは不可能なことではないように思われる。まずもって、類似の根拠となっているのは、目という器官とこの紋とに共通に見られる円い形状だけである。しかし問題は二つの異った現実なのであり、そのいずれかが他方を連想させたり、その象徴となったりしているのではないということをもっとも見事に証明しているのは、これら二つの現実がたがいに連合されうるということである。(中略)見えるのは大きく見開かれた目だけであるが、それはもはや目などではない、すなわち、単純で当り前の視覚器官ではなく、さながらあの世からでも現われ出でたかのごとき超自然的なまぼろしであり、大きくて、盲で、無感覚で、燐光を発し、幾何学の図形のようにじっと動かず、奇妙なほどの完成度を示しているのである。一つの神話がほとんど一致して期待に応えるにはもはやこれで充分であろう。フクロウとミミズクとは縁起の悪い鳥であり、死の前兆であり、悪意に満ちた魂の化身なのである。眼状紋のもつ幻惑の力とはこのようなものなのだ。」
「兇眼、つまり、眼状紋は呪いをかけ、呪いを運ぶ。この不吉な眼差しから遁れ、なにか適当な魔除けによってそれから身を守ることが大切である。もっとも良いのは、その脅威を外らし、敵と自分との間に、同じように不吉な呪いの効力をそなえた目から発する、恐ろしい力を置くことである。」

「ペルセウスはとある洞窟の中で眠りこんでいるゴルゴーンの三姉妹を見出す。目をそむけ、鏡に助けられて、彼はメドゥーサの姿を直接見ないでその首をはねる。(私は彼がむしろ、その怪物に、見る者を眩惑する自分自身の顔を射返すために鏡を利用したのではないかと思う。)
 切り落された頭についている眼差しはその効力を完全に保っている。(中略)彼はこの無敵の武器によってアトラースを山脈に変え、ポリュデクテースやその他の者を化石にする。」
「ある人びとによれば、(中略)彼はそれをアテーナーに捧げ、アテーナーは火と鍛冶の神、ヘーパイストスに依頼してそれを自分の楯の上に着けてもらったという。」

「擬態と眼状紋との関連は単なる偶然によるものではありえないだろう。これら二つの現象の間には一定の脈絡があり、それを明らかにすることこそ望まれるのだ。私としては、見るものを眩惑するこれら眼状紋が露呈するメカニズムの中にそれを認めることができるように思う。眼状紋が存在するというだけでは不充分で、それが不意にあらわれることが必要なのだ。最初見えなかったのに、爆発でもしたかのように、突如としてくっきりと現われ出ることなのである。擬態は単にこれら眼状紋を隠すのみならず、同時にその所有者の姿をもまんまと見えなくする。つまりそれは眼状紋の所有者を周囲の色だとか形と混然一体とさせ、見分けられるのを妨げる。ところが、なにもないように思われていたところ、いわば一種の不在、あるいは少なくとも中性的で見定めにくい、あやしげな存在から、突然、ありうべからざるような、強烈な色彩をそなえた巨大な円が浮かびあがり、それがじっと動かないのだから、見る者は眩惑されるのだ。」
「昆虫は恐れを与える術をわきまえている。のみならず、それは一種独特な恐れ、つまり誇張された、想像上の恐怖を惹き起すのであるが、それはなんら実際的な危険の裏づけを伴わない恐怖であり、威嚇だけの威嚇であって、不可思議さと異様さとによって作用をおよぼし、まさに超自然的な外観をとり、なんら現実的なものに依存しないで、あの世から現われ出でて、その犠牲となるものを惑乱させ、それに麻痺ないしは混乱以外のいかなる反応をも禁ずるもののように思われる。」




















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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