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G・マイリンク 『西の窓の天使』 佐藤恵三+竹内節 訳 (世界幻想文学大系) 全二冊

「「普通の人間は……ぼくのことを……もう目にすることができないわけだな?!」私は呆然となって訊いた。ガードナーは、さも愉快げに笑う。「人間が君のことをどう思っているか、知りたいのか」」
(G・マイリンク 『西の窓の天使』 より)


G・マイリンク 
『西の窓の天使 上』 
佐藤恵三+竹内節 訳
 
世界幻想文学大系 38-A
責任編集: 紀田順一郎+荒俣宏

国書刊行会 
昭和60年6月5日 印刷
昭和60年6月10日 初版第1刷発行
341p 口絵(折込)1葉
四六判 丸背紙装上製本 
貼函 函カバー
定価3,000円
造本: 杉浦康平+鈴木一誌
挿画(縁飾): 渡辺冨士雄


G・マイリンク 
『西の窓の天使 下』 
佐藤恵三+竹内節 訳
 
世界幻想文学大系 38-B
責任編集: 紀田順一郎+荒俣宏

国書刊行会 
昭和60年8月5日 印刷
昭和60年8月10日 初版第1刷発行
334p 口絵(折込)1葉
四六判 丸背紙装上製本 
貼函 函カバー
定価3,000円
造本: 杉浦康平+鈴木一誌
挿画(縁飾): 渡辺冨士雄



Gustav Meyrink: Der Engel vom westlichen Fenster
巻末に地図各1点。下巻本文中図版(モノクロ)1点。口絵図版(モノクロ)上巻10点、下巻12点。


マイリンク 西の窓の天使 01


上巻 函カバー表文:

「オカルティスト・マイリンクの傑作大長篇!
此岸と彼岸で進行する奇怪な事件の真相は、
次第に二つの世界の間(あわい)に漂う
中間世界の闇の中に消えてゆく――。
ヨーロッパ・マニエリスムの中心地プラハが育てた
現代ドイツ幻想文学の最高峰!

その時、「お前は誰だ」と訊いたのはわしだったのか、
それともプライスだったのかは、
もう覚えていない。唇が動いた気配もないのに、
天使は冷やかに語勢に力を籠めて言った。まるでわしの胸の奥から共鳴して来るかのようにも聞こえる声だった。
「余はイル、西方の門の使者だ」わしは全力をふり絞って、天使の顔の方に目を上げようとした。
――G・マイリンク『西の窓の天使』より」



上巻 函カバー背:

「ジョン・ディーは
私なのか?
時空を超えた
第三の世界への旅!」



上巻 函カバー裏:

「刑場の周囲はしんと静まり返った。
刑吏だけではない、
邏卒、裁判官、牧師、貴族達までが、
不安と恐怖に足が竦み、声も立てられない。
やがて炎に包まれたバートレット・グリーンの
歌声が、すっかりやんだかと思うと、
司教が一声叫び声のようなものを上げて、
有罪を宣告された人間さながら、
よろよろ立ち上がるのを見た。
一陣の風が処刑台に吹きつけたのだろうか、
それとも実際に魔神の力が働いたのだろうか、
突然、薪の山の一番上の辺りから、
橙色の舌にも似た炎の塊が上がり、
ゆらゆら揺れて拡散し、渦を巻いて
夕暮れの空に斜めに上がったかと思うと、
まさしく司教の玉座が置かれている方向に
向かい、その頭の真上を越えて云った。
――G・マイリンク『西の窓の天使』より

グスタフ・マイリンクは、一八六八年、ウィーンに
生まれ、一八三二年、ミュンヘンで没した。
ルートヴィヒ・トーマに認められ、
パウル・ブソン、M・ブロート、A・クビーン等
ドイツ世紀末文学の担い手達と交遊した彼は、
ブラヴァツキーやシュタイナーに影響されつつ
西洋隠秘学の研究に没頭し、
東洋神秘思想に耽溺するのみならず、実際に
十指に余る秘教的団体と接触もしていた。
本書は、出世作『ゴーレム』と並ぶ、
代表的傑作長篇小説で、
一九二七年に発表された。
錬金術の奥儀を究め、十六世紀英国の王位を狙う
降霊術師ジョン・ディーが、
今世紀初頭のプラハで
ディーの足跡を追う主人公に乗り移り、
両者は時空を超越して一体化する――。
マイリンク・オカルト哲学の全面展開!」



下巻 函カバー表文:

「人間の限界を
踏み超える主人公――
波瀾万丈の終幕!
ジョン・ディーは目指した、
この地上にはない「異なる国」を、
コロンブスが「アメリカ」へ旅立ったように。
――マイリンクの傑作長篇、完訳なる!
解説中に自作解説文を訳載。

目の前には、光輝く人形〈ひとかた〉たちが
金色の数珠を形づくる。そして、ひとつの環が抜け、
私を新しい一員に加えようとしているのを感ずる。
それは、ある別世界での現実的で生き生きとした、活気を与える出来事なのだ、と私は気づいてもいる。
――「受け入れられ、召喚され、選ばれるようになりますよ、ジョン・ディー!」
――G・マイリンク『西の窓の天使』より」



下巻 函カバー背:

「過去と現在が
交錯する
同時進行小説〈ドッペルロマーン〉!」



下巻 函カバー裏:

「こうした秘儀信奉の根底には、
次のような偉大な思想がひそんでいるのです。
動物のように子供を殖やしていくエロスを、
自分を偽るような仕方で犠牲に
供するのではなく、性の神秘そのものというべき
男女間の憎悪だけが、世界の救済や
世界創造者〈デミウルゴス〉の潰滅を図れるのだ、
という思想がね。――低劣な人間なら誰しも、
性の磁極の作用でいつでも
惹きつけられたがっている力、
どうせ嘘なのに、たかをくくって
「愛」という言葉で表面を飾ろうとする力、
これこそデミウルゴスが、自然という無頼の徒を
いついつまでも生かしておく手なのだ、
とイサイス教の奥に秘められた智恵は
教えているのです。
ですから「愛」などというのは卑俗なのです。
――G・マイリンク『西の窓の天使』より」



マイリンク 西の窓の天使 02


上巻 目次:

西の窓の天使 上

イギリス略図・テムズ川沿岸略図



下巻 目次:

西の窓の天使 下

解説 (佐藤恵三)
グスタフ・マイリンク年譜
プラハ略図・フラチャニ城略図



マイリンク 西の窓の天使 03



◆本書より◆


上巻より:

「グラッドヒル侯、ジョン・ディーとかいう人間が書いたものなど、私になんの関係があるんだ? 偏屈な昔のイギリス人であるこの男が、ひょっとしたら母の祖先かもしれないからだというのか?」

「夢のお告げに素直に従って、たった今、最後に手にふれた紙束をつかんだところだ。そこから抜き出して、鼻祖たるジョン・ディーの述懐らしきものを書きとめ始める。」
「こんなことをしてどんな結果になるかは、バフォメットのみぞ知るということかもしれない。」

「緑色のモロッコ革で装丁してあるものの、ぼろぼろになったページがつづいている。ところどころ読みあわせてみてわかったことだが、羊飼はバートレットに密儀を教えたのだ。得体の知れぬ古代の女神の崇拝と、月の満ち欠けの不思議な影響力とに関係しているらしい。また、今日でもスコットランドに民間俗信の形で伝えられている、あの恐ろしい「タイグハーム」という名の儀式とも関係があるのかもしれない。」

「――――羊飼に言われた通り、五十匹の黒猫を入れた荷車を後ろに曳いて来ていた。火を焚いて、満月の禍々しい力を祓い清めた。その時、何とも言いようのない恐怖を感じ、血が奔騰し出して、思わず口から涎を垂らしてしまった。それも収まると、やおら最初の一匹を檻から取り出して串刺しにし、炎で焙りながらゆっくり廻して、『タイグハーム』を始めた。猫の恐ろしい叫び声が耳をつんざくように響いていたのは、三十分程のことだったろうか、(中略)どうしたらこんな恐ろしいことを、五十回もやり遂げられるだろうか、と一人ごちた。最後の一匹まで手を休めてはならぬ、叫び声が跡切れぬよう片時も注意を怠ってはならぬ、と言われていたのは、頭ではわかっていた。(中略)羊飼は俺にこう言ったのさ。お前の中にある恐怖と苦痛は、その隠れた根っこの部分まで拷問責めの手口で、女神に奉納する動物の黒猫にすっかり移し変えてしまえ、というのが『タイグハーム』の意味なのだ。その隠れた根は五十ある、とな。」

「いつかどこかで読んだことがある。年代がかったものには祟りや、人を虜にする魅力や、魔力があって、家に持ちこんでいじくりまわしたりするうちに、その力にやられる、とかいうのだ。夜散歩していて偶然出くわす野良犬に、こっちへ来いと口笛を吹くことがあっても、この先どんな事態になるか誰にもわからないのだ! 仮に、同情して野良犬を暖かい部屋に入れてやったとする。と、突然、悪魔が黒い毛皮のなかから顔を出すことがあるものだ。
私にも――つまりジョン・ディーの後裔にも――かつてのファウスト博士の場合と同じことが起こっているのだろうか?」

「うつらうつらしていると、わしのいる牢の重い鉄の扉が、全く謎としか言えないような仕方で開き、バートレット・グリーンがつかつかと入って来たような気がした。(中略)全くもって啞然たる思いだった。(中略)バートレットが二、三時間前に火焙りにされた事実は、もちろん一瞬だって忘れていなかったのだから、尚更のことだ。(中略)三位一体の御名においてこうj尋ねた。あんたは幽霊なんだろう、それとも、どんな現われ方か、しかとは言えぬにしても、あの世から送られて来たバートレット・グリーンご本人なのか、と。そう訊かれて、バートレットは、例によって例の如く胸の奥底から呵々と笑い、こう答えた。「もちろん幽霊などじゃない。健康で五体満足なバートレット・グリーンさ。それにあの世のものでもない。れっきとしたこの現世の人間だ。今はただ現世を引っくり返して住んでいるだけだ。と言っても、『彼岸』なんかじゃない。俺の言っているそうした世界は、数としては少ないが、現世の至るところに転がっているのさ。その点で多くの、いや無数の透視界と透過現象があって、もちろん俺の住む世界とお前の世界とは、少しばかり違うという訳だがな」」

「イサイスというのは、どんな女の中にも潜む女で、あらゆる女性たる生き物が変身を遂げれば――イサイスとなるのだ!! ということが今になってわかったような気がする。」

「とそのとき、まったく理解を絶することが起こった。私がもう私ではなく、それにもかかわらず私だったのだ。此岸にいると同時に彼岸にいた。(中略)私は「私」であって、他人だった――私は記憶のなかでも、今の今たる意識のなかでも、同時にジョン・ディーだったのだ。」

「「わたしは、シュタイヤーマルクの小作人の娘(こ)です。ひとりっ娘で、なに不自由なく育ちました。(中略)子供の頃、何度か小旅行はしましたが、オーストリアの国外へ出たことは一度もありません。(中略)ですが、子供の頃ある家や土地のことをよく夢に見ました。意識がはっきりしているときには、一度も見たことのないものです。これはイギリスの建物であり風景なんだな、と、その当時はいつも意識の底にありました。でもどうしてわかったか、またそう思ったかは、わかりません。(中略)子供だったあの頃、古くて陰気な町の夢もよく見ましたが、それがとても正確ではっきりしていましたから、いつしかその町をぶらぶらしたり、通りや広場、家々をなんの不安も抱かずに訪れることができるまでになりました。そこでは、わたしが探していたものが、いつでも見つけられましたし、ですから、夢のなかの話だとは、とても言えないのです。(中略)その町は中ぐらいの川の両側に開け、両端が薄暗い門と防塞塔となっているところから伸びる古い石の橋でつながっていました。川のこちら側の家々がぎっしり立てこんでいて、その上方の緑豊かな丘の間から、ものすごく巨大な城が堂々とそびえ立っています。――いつの日でしたか、それはプラハだ、と言われたことがあります。でも、いろいろわたしが事細かに話してみせたことも、多くは今ではなくなってしまっているか、変ってしまっているようでした。かなり古い地図には、わたしが正確に覚えているものにぴったりのところが、相当ありましたが。――わたしは今日まで、プラハへは行ったことがございません。その町が怖いのです。(中略)その町のことを長く考えていると、激しい恐怖に襲われ、頭にひとりの人が浮かんできて、その人を見ると――なぜかはわかりませんが――血も凍りつくのです。(中略)わたしにはその人が、あの恐ろしい町の悪霊のように思えるのです。」」
「「わたしはその気になれば、意識がはっきりしているときでも、昔のイギリスにあったと言えるあの家に、身をおき換えることができます。その気になれば、何時間でも何日でも、そこで暮らすことができるのです。長くいればいるほど、そこにあるものがなにもかもはっきりしてくるのです。(中略)そんなときわたしは、そこでひとりの老紳士と結婚しているのだ、と空想しているのです。その気になれば、その人をありありと見ることができますが、ただ、見えるものは全部が全部、緑がかった光のなかに浮かんでいます。まるで古い緑の鏡を見ているような、そんな感じなのです――――」」

「大悪党で詐欺師のバートレット・グリーンは、思い上がったわしの一時の迷いのために鴉の頭団一味と盟約を結んだ最初の日から、実に卑劣にもわしを誑かし、悪辣極まる手段を用いて、とんでもない迷路や脇道へと誘い込んでいたのだ。そんなことが恐らくほとんどすべての人間に起こり、この地上で苦難を背負い込む仕儀となる。それもそのはず、掘り起こすべきなのが彼岸で、この地上ではないことがわからないからだ。楽園からの追放という呪いがわからない訳だ! 「彼岸」を見つけるという意味でこそ、此岸が掘り起こさるべきなのを知らないのだ。バートレットは、わしに精神的に堕落する道を辿らせようと考えていたから、王冠が「彼岸」にあることをわしが気づかぬよう、この地上で名誉欲を全うしろと吹き込んだのだ。」

「それからケリーは、目に見えぬ世界の法則に従う緑の天使が、われわれの目の前や、われわれの感覚でも捉まえられるように姿を現わすには、どんな準備をすべきかも打ち明けた。われわれ以外に、特に妻のジェーンは是非ともケリーのすぐ隣りの席に坐らせ、更にもう二人、友人を列席させるように、それも月の欠け始めた夜、ある一定の時間を限って、西向きの窓がある部屋にしなければならない、と言うのだった。


「この仕事部屋に坐っていると、まるで全世界から切り離されていながら、ひとりぽっちではないような気持だ――空ろな宇宙のどこか、人間の時間とはかけ離れた世界に坐っているような気持だ――。
もう間違いない、私の遠祖に当るジョン・ディーは生きている! ディーが出て来ているのだ、ここに。この部屋のここに、ここの椅子の傍らに、私の傍らに――――ひょっとしたら私のなかかもしれない!――よしっ、きっぱりと言おう、十中八九、私が――この私がジョン・ディーなのだ!……ひょっとしたら、ずっと前からそうだったのかもしれない!」
「つまりこういうことだ。ジョン・ディーは断じて死んではいない。ディーは、(中略)これこそというはっきりした願望なり、目標なりをもって働きかけ、実現しようと努力をつづけている、ひとりの彼岸の人物なのだ。謎深くも血でつながっている軌道は、その生命力の「良導体」なのかもしれない。(中略)――仮に、ジョン・ディーの不滅の部分が、電線を流れる電流のように、この軌道を流れるとすれば、さしずめ私はこの銅線の末端といったところで、「ジョン・ディー」という電流は、完全にその彼岸意識というものをこの銅線の切り口に充電しているのだ。(中略)――――あの使命(ミッション)こそ私のものだ。あの目標を達成して王冠を獲得し、バフォメットになることこそ、私がやるべきことだ! 私が――ふさわしければだが! 私が持ち堪えればだが! つまり、私が熟達すれば、ということになる。――――最後の人間たるこの私にかかっているのだ、成功するか永遠に失敗するかは!」

「「わたしは緑の国と呼んでいます。ときどきそこへ行くのです。水中みたいなところで、そこへ行くと呼吸が止まります。そこは水中深いところで、海のなかにあるんです。なにもかも緑色の光に染まっています」
「そこでは、なにひとつよいことは起こりません。そこに行くたびにわかります」と、フロム夫人はつづけた。」

「陰陽の象徴が東アジアでは最高の崇敬の的だぐらいのことは、もちろん知っている。全体は円だが、ひと筆の紆曲線で分けられ、梨形をしたふたつの面が――ひとつは赤で、もうひとつは青の――互い違いにくいこむようにした組み合わせ図形になっているやつだ。つまり天と地という、男性原理と女性的原理の結婚を表わす幾何学的な模様なのだ。」
「リポーティンは話をつづけた。
「ヤンの宗派の考えですと、その模様に隠された意味は、ふたつの原理が持つ磁力の保持、または固定なのであって、両性の互いの離反に磁力を浪費することではありません。宗派の人々はそれを――半陰陽(ヘルマフロディト)の結婚のようなものだと思っているのです……」」
「またも目の前に雷が空から真っ逆様に落ちたように、ひらめくものがあった。(中略)陰陽、これはバフォメットじゃないか! まったく同じだ!……まったく同じだ!!――」

「私が「向こうで」体験したと考えられることは、全然と言ってよいほど頭に残っていなかった。(中略)フロム夫人が、ガラスのような光を発するところで、黒きイサイスに出会った、と一面緑色に閉ざされた深海のことを話していたが、それと似たような世界を目撃し、渡り歩いたのだな、とぼんやり思い出せるにすぎない。――――私はそこでも、なにか総毛だつものにも出会っていた。私は死にもの狂いの速さで逃げた。そいつは、そいつは――――猫だったと思う。燃えるような大口をあけ、ぎらぎら目を輝かした黒猫だったと思う。」
「それから、想像を絶するような恐怖感にとらわれ、闇雲に逃げているうちに、土壇場で苦肉の策が浮かんだ。「木が生えているところまで行けたらなあ!――母親、母親のところまでたどりつければなあ、赤と青の輪円具足の母親のところまで――あるいはそういったもののところまで……そうすれば助かるぞ」ガラスの山脈とか、渡りきれない沼沢地とか、厄介至極な障害物のはるか上空に、バフォメットの姿を目撃したと思った! (中略)緑色の水底で何世紀にもわたる体験を経たのち、やっと目覚めたのだという気がした。」


「今ふたりに明らかになったのは、ジェーン・フロモントとヨハンナ・フロムが――――私とジョン・ディーが――――いや、どう言ったらいいのだろう――私たちが何世紀にもわたって織りなされる絨毯のひとつの編み目、模様ができあがるまでくり返し結びあわされてゆくひとつの編み目なんだな、ということだった。」



下巻より:

「胸の高さぐらいに灰色の石を方形に組んだものが、次第に目に見えてくる。歩みよって見ると、石積みの囲いで、縦横ともほぼ大人の背丈ほどもあろうか、なかは奈落のような穴がぱっくり口をあけている。「聖パトリックの穴」のことを思い起こさずにはいられない。この穴のことや、これにまつわる世間の噂のことを、ハーイェク博士も話してくれたことがある。その深さは測りかねる。ボヘミアに拡がる伝説では、垂直に地球の中心まで達し、下は淡緑色の丸い湖になっていて、そこにある島に闇の母、母神ガイアが住んでいる、という。松明を落としてみると、何度も見え隠れするうちに、暗闇の毒ガスにやられたか、そう深くもないところに達したなと思ったとたん、消えてしまう。
私は拳大の石を蹴り出す。それを拾って奈落に投げこんでみる。胸壁に身を乗り出して聞き耳をたてる。ひたすら聞き耳をたてる。石が底に達する音は、ことりともしない。石は音もなく深みに消え、まったくの虚無の世界に雲散霧消してしまったかのようだ。」

「ジェーンの姿が、緑がかった光に包まれて浮かんできたように思われた。さびしそうに笑って、こっくりと私に頷いて見せた。ゆらゆら揺れたかと思うと、緑色の水中にすっと吸いとられて消えた。――ジェーンは、今の私と同じように、またも「向こうの」緑色の海底にいるのだ……そういう思いが突如として起こった。」

「「ジェーン! ジェーン!」今度も私は、心のなかに向かって助けを求めようと、叫び始めた。私の心の支えが消えてしまいそうな気がしたからだ。」
「この叫びも徒労に終った。ジェーンは遠くに、私から無限に遠いところにいるのだ、とはっきり感じた。ひょっとしたら、ジェーンはぐっすり眠りこんでいるのかもしれない。自分でも助ける手立てがなく、心ここにあらずとなり、私との精神的な結びつきも一切断たれてしまって。」

「これから先どうなるものか、アジアへと足を運んだものか、これまでもずっと逃避を決めこんでいた夢の世界に沈潜したものか、私にはわからない!――――こうなったら、ますます酔生夢死の生活を送り、周囲の状況もこのまま放ったらかして、さながら一世紀という時の流れも、窓べのそとをただなんとなくかすめ過ぎていくだけ、といったことになるかもしれない。
私の住んでいる場所が、実は中身が食い荒らされてしまった木の実で、表面は黴と埃におおわれ、なかでは私が、もの心もつかぬ幼虫さながら、蛾となる時期を寝すごしてとり逃がしてしまったのでないか、そんな不愉快な気持に急に襲われる。この不快感が、どうしてこんなに不意に湧いたのだろう、と自問してみる。すると唐突にも、なにかが起こったような気がしてならない。今しがた、けたたましく呼鈴が鳴らなかっただろうか。――この家で? 違う、まさかこの家じゃあるまい! 荒れるに任せた家の呼鈴なんか、押してみるほどもの好きな奴がいるものか! それじゃ、私の空耳だったのだろう! 仮死状態になっていた者が再び蘇生するときは、まず聴覚が戻り、それから蘇るものだ、そんな話を前にどこかで読んだことがある。はっと思い当って、われとわが身にこう話してみることもできるようになる。どれだけつづくか口にも言えぬほど長い間、死んだジェーンが蘇生して戻って来るのを、私は待って待って、待ちつづけているのだ、と。昼といわず夜といわず、部屋のあちこちを這いずりまわって、膝頭をついたり爪先立ちながら、ジェーンが現われる兆候を示してくれるように、と天に向かって長いこと祈った。あげくには、時の流れも感ずることすらなくなった。」
「ジェーンは、もはや姿を現わさないどころか、その気配すら感じさせてくれない。この三世紀の長きにわたって、ずっと正式の夫でありつづけたこの私の前に。」



マイリンク 西の窓の天使 04



◆感想◆


本書はだいぶまえに古書店で購入して途中で挫折したまま放置していたのを今回ちゃんとよんでみました。
ところで、本書上巻に登場する儀式「タイグハーム」の訳注に、

「作者は Taighearm と表記しているが、恐らくは Taghairm の誤記か、この別形かと思われる。
後者はスコットランド高地で見られた俗信のこと。剝いだばかりの雄牛の皮に人をくるみ、
谷川などに放置して瞑想に耽けるがままにしておくと、予知などの霊力が授かるという。」


とあるのは、なにやら内田百閒の短篇「件」を連想させるではありませんか。
「Taghairm」に関しては英語版ウィキペディアに記事がありました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Taghairm
Taghairm にはいくつかのやり方があって、マイリンクは黒猫を使う方法について記述していますが、雄牛を使う方法についてはウォルター・スコットが「湖上の美人」第四章への注で述べています。

「The Highlanders, like all rude people, had various superstitious modes of inquiring into futurity. One of the most noted was the Taghairm, mentioned in the text. A person was wrapped up in the skin of a newly-slain bullock, and deposited beside a waterfall, or at the bottom of a precipice, or in some other strange, wild, and unusual situation, where the scenery around him suggested nothing but objects of horror. In this situation, he revolved in his mind the question proposed; and whatever was impressed upon him by his exalted imagination, passed for the inspiration of the disembodied spirits, who haunt these desolate recesses.」

そういうわけで、内田百閒「件」の元ネタがウォルター・スコットであったことがわかりました。スコットといえば百閒の先生である夏目漱石(英文学者)の専門なので、漱石から聞いたのかもしれないです。
スコットは岩波文庫の訳(『湖の麗人』)を以前もっていて一応通読したはずなのですがうっかりしていました。
なにはともあれ、本はよんでみるものであります。




Bill Nelson - The Angel at the Western Window




Tangerine Dream - The Angel from the West Window






こちらもご参照ください:

グスタフ・マイリンク 『ゴーレム』 今村孝 訳 (河出海外小説選)
フランセス・イエイツ 『魔術的ルネサンス ― エリザベス朝のオカルト哲学』 内藤健二 訳
ピーター・J・フレンチ 『ジョン・ディー エリザベス朝の魔術師』 高橋誠 訳 (クリテリオン叢書)













































































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ルドルフ・シュタイナー 『治療教育講義』 高橋巖 訳 (ちくま学芸文庫)

「数年来、人智学運動の中で、私がひどくつらいと感じているのは、老人も若者も、しっかりと自分の足で立ち続けていることなのです。人びとがどんなに自分の足でしっかりと立っているかを考えてみましょう。いいですか。ニーチェは本質的にそうではありませんでした。たとえ彼がそのため病気になったとしてもです。彼はツァラトゥストラを踊り手として描きました。皆さんも踊り手になるべきなのです。ツァラトゥストラの意味においてです。」
(ルドルフ・シュタイナー 『治療教育講義』 より)


ルドルフ・シュタイナー 
『治療教育講義』 
高橋巖 訳
 
ちくま学芸文庫 シ-8-6 

筑摩書房 
2005年5月10日 第1刷発行
294p 付記1p 口絵(カラー)2p
文庫判 並装 カバー
定価1,200円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 神田昇和
装画: 『ルドルフ・シュタイナーの100冊のノート』より



本書「訳者あとがき」より:

「本書は一九八八年に角川書店から出版されたが、今回あらためて全体に眼を通し、より読みやすくなるように手を加えた。」
「本文庫版では新たに付録として、アルブレヒト・シュトローシャインの「人智学的治療教育の成立」(中略)を加えた。本書の内容をなすシュタイナーの連続講義が行なわれた頃の現場での思いが直接伝わってくる貴重な文献だと思えたからである。」



シュタイナー 治療教育講義 01


カバー裏文:

「「ゲーテは植物が異常を現わすとき、そこに〈原植物の理念〉を見つけ出す最上の手がかりを見ています。……霊的な生きものである人間の場合にも、基本的には同じことが言えるのです。人体に潜んでいる異常性は、人間本来の霊性を外に開示してくれるのです」。この直観を宇宙大に拡張し、人類を巨大な障害児と見れば、〈原人間の理念〉探究に捧げられた人智学の使命が理解できよう。本書は医療と教育の現場に向けて語られた唯一の治療教育本質論であるとともに、シュタイナー思想の極北でもある。貴重な証言「人智学的治療教育の成立」(A. シュトローシャイン)を併載。改訳決定版。」


目次:

第一講 治療教育の基本的観点
第二講 本来の魂のいとなみ
第三講 精神遅滞とてんかん
第四講 ヒステリーの本質
第五講 硫黄過多の子と硫黄不足の子
第六講 治療教育の実際 その一
第七講 治療教育の実際 その二
第八講 治療教育の実際 その三
第九講 治療教育の実際 その四
第十講 治療教育の実際 その五
第十一講 治療教育の実際 その六
第十二講 まとめの話

付録 人智学的治療教育の成立――『われわれはルドルフ・シュタイナーを体験した――弟子たちの回想』一九六七年より (アルブレヒト・シュトローシャイン)

訳者あとがき



シュタイナー 治療教育講義 02



◆本書より◆


第一講より:

「私たちは病気の本質の中に深く入っていかなければなりません。」
「例を挙げて説明しましょう(口絵表・図例1――以下同)。ここに人間の肉体(白い線)があります。成長期にある幼児の肉体です。この肉体から魂のいとなみ(黄色い点線)が立ち現われてきます。私たちはこの魂のいとなみを正常であるとか、異常であるとか言いますが、本来子どもの魂、あるいはそもそも人間の魂の正常か異常かを決めようとしても、平均して「正常」とする以外に、どこにもそれを決めるよりどころはありません。常識人の眼が一般に通用させているもの以外のどこにも、判断の基準はないのです。ですから何かを理にかなっているとか賢いとかと言う常識人の眼から見て、「正常」な魂のいとなみでないものはすべて、「異常」な魂のいとなみなのです。
 目下のところそれ以外の判断の基準は存在しません。ですから私たちが異常であることを確定しようとして、いろいろな試みをすればするほど、その判断は混乱したものになります。正しい判断をしていると思っている人が、その反対に天才的な素質を追い出してしまうことにもなりかねないのです。そのような評価の試みをいくらしてみても、そもそも何も始まりません。なすべきことのまず第一は、医者と教育者がそのような評価を拒否して、賢いとか理にかなっているとかと評価する思考を超えたところに立とうとすることです。実際この分野でこそ、すぐに判断するのではなく、事柄を純粋に観察することが、この上もなく必要なのです。」
「今取り上げたのは、どんなひどい教育者にも分かるような、表面にはっきりと現われている魂のいとなみ(黄色い点線)ですが、私たちはこれから、そのような魂のいとなみとは別に、身体の背後に存するもう一つの霊魂の働き(赤い線)にも眼を向けようと思います。それは受胎と誕生のあいだに霊界から降りてくるのですが、地上の意識はそれを外から見ることができずにいます。(中略)この霊魂は霊界から降りてきますと、先祖代々の遺伝の力(青い線)によって作られる身体(白い線)に働きかけます。
 この働きかけが異常な仕方で行なわれますと、たとえば肝臓に働きかけて病的な肝臓を生じさせてしまいます。また、遺伝的に肉体とエーテル体に病的なところがあった場合にも、身体は一定の病気を現わします。同じことは他のどんな身体器官についても言うことができます。どんな身体器官でも霊界から降りてくるものと間違った結びつき方をすることがあるのです。そしてこの結びつきが、つまり霊界から降りてくるものと遺伝されたものとの結びつきが作られたときはじめて、通常、思考と感情と意志として観察される私たちの魂(黄色い点線)が生み出されるのです。思考と感情と意志はそもそも単なる鏡の像のようなものですから、眠ると消えてしまいます。本来の持続的な魂はその背後にあるのです。背後に降りてきて、転生(てんしょう)を重ねる地上生活を貫いて存在し続けるのです。」

「さてここで次のような考察をしてみましょう。誰か大人のことを考えてください。この人は、たぶん七歳の頃に歯が生え変わり、十四歳の頃に思春期を迎え、そして二十一歳の頃には人格がしっかりとしてきたことでしょう。人間はそのように七年毎に大きな節目を迎えます。(中略)この転換期には、人体の変化がいつも目立って現われています。人体は毎年変化していきます。絶えず体内からは何かが外へ排出されています。体内成分を輩出するこの外への絶えざる遠心的な流れは、七年か八年かけて、体内の成分のすべてを一新させます。
 そこで考えていただきたいのは、この身体成分の更新が、歯の生え変わる七歳の頃に特別重要な意味を持っている、ということです。
 生まれてから歯の生え変わる頃までの身体は、いわば単なるモデルにすぎません。この身体は遺伝の力を通して、両親からこのモデルを受け取ります。祖先が子どもの身体形成に協力しています。さて私たちは最初の七年間にこの最初の身体成分を外に排出しますが、それによって何が起こるのでしょうか。まったく新しい身体が生じるのです。歯の生え変わった後の身体は、もはや遺伝の力によってではなく、前述した霊魂の力によって作られるのです。(中略)この時期には、遺伝による身体成分を排出する一方で、その人の個性の力で新しい身体が作り出されるのです。」



第二講より:

「個性の力が遺伝の力よりも強い場合には、歯の生え変わる頃に、子どもは遺伝の力を多かれ少なかれ克服して、身体も魂の在り方も個性的になるでしょう。けれども子どもの個性が弱ければ、個性は遺伝の力に抑えられ、魂も身体もそのモデルに従った模像を示すことになります。本来の意味での遺伝的特徴はその場合にのみ見られるのです。(中略)ですからこの時期に遺伝的な特徴が現われるのは、個性がそれを克服するにはあまりに弱すぎて、カルマの求めるような個性的な働きができず、そのため本来のカルマ衝動が遺伝的な特徴に圧倒されている場合です。」

「精神疾患は最高の叡智の歪(ゆが)んだ模像なのです。」

「障害のある子を教育するということは、そうしなければ、あるいは間違った教育を与えたならば、その子が死に、そしてふたたび次の地上生活に生まれ変わるまで、待たねばならないであろうようなことを行なうことなのです。それほどにまで深く子どものカルマに関わることなのです。」



第四講より:

「障害のある子どものための先生になろうとする人は、完全な先生では決してありえません。どの子もそれぞれが新しい課題であり、新しい謎です。ですから子どもの本質に導かれて、個々の場合にどのようになすべきかを理解しようとすることが大切です。」
「病気の徴候を深い関心をもって辿るとき、私たちは最上の自己教育を行なっています。病気の徴候は、本来何かすばらしいものだ、という感情を持つことが大切です。(中略)すなわち異常な徴候が現われるとき、そこには、霊的に見て、健全な身体を持った人間の活動よりも、もっと霊的な働きが見られるのです。この霊的なものに近い状態は、健全な身体においてはそのようにはっきりとは示されません。」



第六講より:

「この子を教育するには、何が必要でしょうか。重たい雰囲気ではなく、ユーモアです。本当のユーモア、生活のユーモアです。必要な生活のユーモアがなければ、どんな頭のいい手段を講じたとしても、こういう子どもを教育することはできません。ですから人智学運動においても、軽やかさの感覚を持つ必要があるのです。」


第十講より:

「今後私たちに必要なのは、(中略)「細事への畏敬」です。特に青年はこのことを身につけなければなりません。青年はあまりに抽象的な事柄に安住しています。しかしそうするとすぐに虚栄心のとりこになってしまうのです。」
「俗人が障害児について語ることばはたいていの場合、間違っていますが、そういうときに大切なのは、眼の前にある事実を直視することです。」

「大事なのは、真実を体験したときの熱狂なのです。今必要なのはこのことです。数年来、人智学運動の中で、私がひどくつらいと感じているのは、老人も若者も、しっかりと自分の足で立ち続けていることなのです。人びとがどんなに自分の足でしっかりと立っているかを考えてみましょう。いいですか。ニーチェは本質的にそうではありませんでした。たとえ彼がそのため病気になったとしてもです。彼はツァラトゥストラを踊り手として描きました。皆さんも踊り手になるべきなのです。ツァラトゥストラの意味においてです。」



第十一講より:

「仕事をしようとするときには、(中略)正しい見方は、未来へ向かって働くカルマを求める熱意から生じるのです。(中略)家具付きの家に移り住んだとき、私たちはその家具をすべて外へ放り出したりはしません。可能なら(中略)次のように考えるでしょう。「すでにそこにある家具をどのように利用することができるだろうか」。
 「すでにあるものを、どのように利用できるのか」。このように問うことが皆さんにとっては大切なのです。」



「付録 人智学的治療教育の成立」(アルブレヒト・シュトローシャイン)より:

「会話が始まった。ルドルフ・シュタイナーは私たちよりイェーナのことをよく知っていた。彼は私たちに、昼間でも星を見ることのできる塔があると語った。」
「ルドルフ・シュタイナーは庭を歩きながら、「本当はどの子もここにあるすべての樹木と草花の名が言えなければならないのです」、と私たちに言った。」



「訳者あとがき」より:

「シュタイナーによれば、今から数百万年以前にまで遡る太古の時代に、人間の霊魂ははじめて、進化の過程を辿って発展してきた身体の中に降りてくることができるようになった。それ以前は人間の霊魂を受容できるほどにまで身体は進化を遂げていなかったので、人間の霊魂は物質素材によって創られた肉体の中に受肉したくても、肉体の方でそれを自分の中に宿らせることができない状態が続いた。かろうじて受肉できたとしても、初めの頃は決して正常な受肉のプロセスを辿ることができず、一度受肉した霊魂も、肉体を通して自己を表現できぬままに、ふたたび肉体を去って、本来の故郷である霊界へ戻っていった。そのような過程が繰り返される中で、肉体そのものも進化を続け、ある段階に達してからは、霊魂を正常に受容できるようになった。
 この過程は諸民族の神話の中でもさまざまな仕方で語られているが、そのもっともよく知られた例はアダムとエバの楽園追放の話であろう。この二人の人類の祖先の霊魂は、はじめて天国から離れて、地上の世界に受肉することになったが、そうなると人間は肉体を通してしか自己を意識できなくなってしまい、いわば「受肉の苦しみ」を、つまりドイツ・ロマン派のいう「世界苦」を背負わされる。もし人間の霊魂が肉体に受肉しないですますことができるのなら、人間は老いることも、病むことも、死ぬこともないし、障害を背負うこともない。仏陀が人間の根源的な苦悩と呼んだ生老病死の四苦は、地上におけるどんな人間も避けることのできない基本的な生活条件になっている。しかし人間はそのような条件の下に甘んじて生きていくべき存在なのだろうか。
 『治療教育講義』はこのような問題意識から出発している。」






























































































飯吉光夫 編訳 『ヴァルザーの詩と小品』 (大人の本棚)

「「ああ、面倒くさい、このままにしておけ」。」
(ローベルト・ヴァルザー 「どうしてまた?」 より)


飯吉光夫 編訳 
『ヴァルザーの
詩と小品』
 
大人の本棚

みすず書房 
2003年10月14日 印刷
2003年10月24日 発行
254p 著者・編訳者略歴1p
四六判 別丁図版2葉
丸背紙装上製本(薄表紙) 
カバー
定価2,400円+税


本書「解説」より:

「本書はローベルト・ヴァルザー(一八七八―一九五六)の詩と小品を集めている。(中略)「詩」はヴァルザーが一九〇八年に発表した処女詩集『詩篇』をまるまる初訳したもの、「小品」は、ヴァルザーが生涯にわたって書いた彼のいわゆる散文小品 Prosastück からいくつかの一定系列に属するものを選び出して、訳出したものである。このうち、「喝采」までは一九八九年に筑摩叢書の一冊として出た『ヴァルザーの小さな世界』に収めたものの改訳、「夢(Ⅰ)」から後はヴァルザーの兄カールの挿絵がある小品の初訳である。」


「詩篇」に挿絵(デッサン)16点、小品に挿絵6点(カラー2点/モノクロ4点)、「解説」中に図版(モノクロ)1点(いずれもヴァルザーの兄カールによるものです)。
本書はもっていなかったのでアマゾンマケプレの天牛書店さんで「可(カバーヤケ)」が1,080円(+送料257円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。背にうっすらヤケ・少褪色があるもののそれ以外は使用感もなくたいへんよい状態でした。


ヴァルザーの詩と小品 01


帯文:

「「言葉もなく、ぼくはみんなからはずれた所にいる。」ベンヤミンが、ブランショが、ソンタグが評価した伝説の作家ローベルト・ヴァルザー。生誕125年記念。」


カバー裏文:

「「ローベルト・ヴァルザーは散文によるパウル・クレーだ、クレー同様に繊細で神経質だ、彼はまた心やさしいベケットだ、さらにはカフカとクライストの間のミッシング・リンクだ。」(スーザン・ソンタグ)
 20世紀文学において特異な位置を占めるスイスの作家ヴァルザーは、ベンヤミンが、ブランショが高く評価しながらも、再発見はカフカよりずっと遅れた。カフカの「天井桟敷で」のもとになった散文小品「喝采」をはじめ、兄カールの挿絵全点を収めた『詩篇』の全訳、やはりカールのおそろしく現代的な絵に付された小品などの初訳を含む、ベスト版一巻選集。」



目次:


 事務所で
 ホームシック
 夕暮
 冬の陽ざし
 どうしてまた?
 暁の明星
 祈り
 木立ち(あるバラード)
 世間
 明るさ
 寝かしつける
 ざわめき
 今日、陽は射さないのか?
 いつものとおり
 深い冬
 雪
 不安
 牧歌的な時
 帰宅
 静けさ
 さらに前方に
 罪
 月あかりのもとで
 ちっちゃな風景
 胸の中ですすり泣きながら
 窓辺に
 みんなからはずれた所に
 寝る前に
 哲学的すぎる
 若者の愛
 幻滅
 重苦しい光
 気軽に言う
 おびえ
 きみらには見えるかい
 立ち去った、と
 時間
 疲労困憊
 錯覚
 日中の手風琴
 旅人
 落書き

小品
 神経の疲れ
 何ごとにも気づかぬ男
 ストーヴへの演説
 とんま
 道化者
 逸話
 二つの話
 ブレンターノ
 レーナウ
 ヘルダーリン
 ビューヒナーの逃走
 ケラーの短篇小説
 セザンヌ考
 ヴァン・ゴッホの絵
 パガニーニ
 音楽
 ソナタ
 夢(Ⅱ)
 一つの町
 夜の散策
 一つの世界
 夢想
 湖の話
 ティーアガルテン
 気球旅行
 恋人同士
 インディアンの女性
 列車の中のアヴァンチュール
 素描(スケッチ)
 類似(メタ)
 菫
 恋文
 友情あふるる手紙
 ある物語
 グレートヒェン
 キス
 夫と妻
 あまりぱっとしない話
 昼休み
 艀
 喝采
 夢(Ⅰ)
 笑い
 隠者の住処
 舞踏会場
 窓辺の女性
 婦人の肖像
 退位
 ベルリンと芸術家
 『タンナー兄弟』

解説
ローベルト・ヴァルザー略年譜



ヴァルザーの詩と小品 02



◆本書より◆


「寝かしつける」:

「ぼくはあともう少し起きているだけで、
ほかは何もしたくない。
ひとりまだ起きていて、身体をあれこれ動かしているのは
なかなかいいことだ。
そう、ぼくはもう半分横になって、
自分を寝かしつけようとしている、――眠りこむまで、
ほら、もう夢の中まで。」



「哲学的すぎる」より:

「どんな時もぼくは、
おそらく一度として適切にふるまったことがないのだ。
ぼくは忘れられた遠い場所を
歩むべく定められている。」



「ヘルダーリン」より:

「子供時代へ還ることに彼は病的に憧れ、転生を、死を願った。」


「隠者の住処」より:

「ここには隠者がひとり住んでいる。(中略)彼は言葉を用いることなく、他人とかかわりをもつことなく、ただその日その日を送っている。」


「婦人の肖像」より:

「この世の生きとし生けるものは幸福になるべきだ。誰ひとり不幸になってはならない。」


「『タンナー兄弟』」より:

「猫はぼくの脇の、文章をいっぱい書きこんだ紙の上にいつも坐りこんで、黄色の、何を考えているのかまるで分からない眼をぱちくりさせながら、ぼくを奇妙な、物問いたげな顔つきで見ていた。この猫の存在は、無口で不思議な妖精の存在に似ていた。この可愛らしい、物静かな猫からおそらくぼくは、数多くの恩恵を授けられた。」


ヴァルザーの詩と小品 03



◆本書について◆


本書所収の「小品」のうち、最初の41篇(本書全体のほぼ半分の頁数を占めています)は、既刊の筑摩叢書版『ヴァルザーの小さな世界』収録の訳に手を加えたもので、筑摩叢書版所収のヴァルザー作品は、やや長めの「トゥーンのクライスト」を除いて全て本書に再録されています(「スミレの花」は「菫」に、「恋文(ラブ・レター)」は「恋文」に改題)。とはいうものの、「トゥーンのクライスト」は重要作だし、叢書版には他に訳者によるやや長めの序文および解説と、ヴァルザーを主人公にしたユルク・アマンによる小説「ローベルト・ヴァルザーの狂気、あるいは不意の沈黙」が収録されているので(筑摩叢書版の頁数のほぼ半分を占めています)、むしろそちらの方がヴァルザー入門/ヴァルザー読本としては適しています。本書はヴァルザーの長編作品にも画家として登場する兄カールによる挿絵が掲載されている点に独自性があります。












































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ねたきり読書日記。

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。


うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから

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