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アンドレイ・タルコフスキー 『映像のポエジア ― 刻印された時間』 鴻英良 訳 (ちくま学芸文庫)

「私は実際的な意味で現実に適応できない人が常に気に入っていた。私の映画にはヒーローは存在しなかった。しかし、強い精神的な信念を持ち、他者にたいする責任をみずから引き受ける人々は常に存在していた。このような人々はしばしば、大人の情念を持った子供を思わせる。彼らの立場は、常識的な観点からすればきわめて非現実的であり、無力すぎるのである。」
(アンドレイ・タルコフスキー 『映像のポエジア』 より)


アンドレイ・タルコフスキー 
『映像のポエジア
― 刻印された時間』 
鴻英良 訳
 
ちくま学芸文庫 タ-56-1 


筑摩書房 
2022年7月10日 第1刷発行 
401p+1p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,540円(10%税込) 
装幀:安野光雅 
カバーデザイン:仁木順平 
カバー写真:『サクリファイス』より 


「本書は、一九八八年一月三十一日、キネマ旬報社より刊行されたものに依拠している(図版は削除した)。文庫化にあたっては、著作権者から送られてきた新しいロシア語ヴァージョンを使用した。そのため、旧訳とは若干の異同がある。旧訳における誤りは、適宜訂正した。」



「年譜・フィルモグラフィ」は二段組。



タルコフスキー 映像のポエジア



帯文:

「理想への
絶えざる郷愁 
芸術創造の意味を追求し続けた思考の軌跡」



カバー裏文:

「「それ独自の事実のフォルムと表示のなかに刻み込まれた時間――ここにこそ、私にとって芸術としての映画の第一の理念がある」。その理念が有機的統一をもって結晶する〈イメージ〉。『惑星ソラリス』『鏡』『サクリファイス』など、生み出された作品は、タルコフスキーの生きた世界の複雑で矛盾に満ちた感情を呼び起こす。俳優や脚本のあり方をはじめとする映画の方法は、現代において涸渇した人間存在の源泉を甦らさんとする意図とともに追求された。戦争と革命の時代である二十世紀に、精神的義務への自覚を持ち続けた映画作家の思考の軌跡。」


目次:

序章
第一章 はじまり 
第二章 芸術――理想への郷愁 
第三章 刻印された時間 
第四章 使命と宿命 
第五章 映像について 
 時間、リズム、モンタージュについて 
 映画の構想――シナリオ 
 映画における美術の解決 
 映画における俳優について 
 音楽と騒音 
第六章 作家は観客を探究する 
第七章 芸術家の責任 
第八章 『ノスタルジア』のあとで 
第九章 『サクリファイス』 
終章 

訳者あとがき (1987年11月) 
文庫版訳者あとがき (2022年4月21日) 
年譜・フィルモグラフィ (作成:鴻英良)
 



◆本書より◆ 


「第一章」より:

「もちろん私の視点は、有難いことに、主観的である。しかし、芸術家は作品のなかで、芸術家の個人的な知覚のプリズムをとおして、人生を屈折させ、それゆえに、現実の多様な側面を、反復不可能な角度から見ることができるのである。私は、芸術家の主観とその個人的な世界にたいする知覚に大きな意味を与えている。」

「詩という表現手段を使わなければ、その真実を伝えることのできないような領域が、人生にはある。(中略)ここで私が念頭に置いているのは、夢であれ、回想であれ、幻影や幻想にかかわるものである。」



「第三章」より:

「時はかえらない、と言われる。しかしこのことばは、いわゆる、過去は取り戻すことはできない、という意味においてのみ正しい。しかし、〈過去〉とはその本質においてはいったいなんなのだろうか。すでに過ぎ去ってしまったことのことだろうか。しかし「過ぎ去ってしまった」とは、いったいなにを意味するのだろうか。各人にとって現在という刻々と変化する瞬間の、過ぎ去ることのないリアリティが、まさに過去のなかに蓄えられていくとするならば、過去はある意味で現在よりもはるかにリアルである。あるいはどのような場合であれ、より安定した、揺ぎないものなのだ。現在は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていく。そしてみずからの物質的な重量をただその回想のなかに見出すのだ。(中略)時間はその痕跡を残さずに消えることはできない。なぜなら時間は主観的な意味における精神的カテゴリーだからだ。われわれによって生きられた時間は、時間のなかによこたわる経験としてわれわれの魂のなかに積もるのである。」

「私は、前世紀に上映された天才的映画『列車の到着』をいまだに忘れることができない。すべてはこの映画から始まったのだ。(中略)この映画は全部で三十秒しかない。そこに映っているのは、陽の当たるプラットホームの一角、歩いている紳士と淑女、それに画面の奥からカメラのほうに真直ぐ近づいてくる列車だけである。(中略)ここで誕生したのは、単なる映画技術、世界を複製する新しい手段ではない。新しい美学的原理が生まれたのである。
 この原理は芸術史上はじめて、文化史上はじめて、人間が直接的に時間を刻印する(引用者注:「時間を刻印する」に傍点)手段を見出したということのなかに存在する。それと同時に、この時間の流れを幾度でも好きなだけスクリーンに再現し、反復し、そこに戻っていく可能性を見出したのである。人類は現実の時間(引用者注:「現実の時間」に傍点)の鋳型を手に入れたのだ。目撃され、固定された時間は、いまでは金属製のケースのなかに、長期的に(理論上は永遠に)保存されうるのだ。
 まさにこの意味で、リュミエールの最初期の映画は、新しい美学的原理の種子を秘めていた。」



「第四章」より:

「人間関係というのは、いつも、努力を要求する。努力しないで、熱烈な欲求なしで、他人を理解することは、率直に言って、不可能である。」


「第五章」より:

「嘘をつくことのできない人がいる。また霊感に満たされたように確信的に嘘をつく人もいる。さらに嘘をつく能力もないのに嘘をつかないわけにはいかず、へたな面白味のない嘘をついている人もいる。いま問題にしている状況、つまり人生の論理をきわめて正確に遵守しなければならないという状況では、第二の範疇の人、つまり生き生きと嘘をつける人だけが、真実の鼓動を感じることができるのだし、自分の空想の力だけで、人生の真実の気まぐれなひだのなかに、ほとんど幾何学的な正確さで入り込むことができるのだ。」

「ヴァチェスラフ・イワーノフは、象徴(シンボル)についてのその考察のなかで、象徴にたいする自分のかかわり方を次のように表明している(イワーノフが象徴と名づけているものを、私はイメージと結びつけている)。

  象徴が真の象徴となることができるのは、ただそれが、意味において、汲みつくすことも、限定することもできないときであり、その秘められた(中略)暗示と示唆の言語で、外部としての言語に対応することも、言語化することもできない、なにものかを語っているときなのである。象徴は無数の貌(かお)を持ち、無数の意味を持っており、その究極の深みのなかはいつも暗い闇に包まれている……。象徴は水晶のような有機的構成体である。…… 
  象徴はある種のモナドでさえある。(中略)われわれは、その統一的、全一的で神秘的な意味の前では無力なのだ。

 観察としてのイメージ……。ここでふたたび日本の詩を思い出さないわけにはいかない! 
 日本の古典詩に私が魅せられるのは、それが字謎(シャラード)のように徐々に解読されていくこともなく、またイメージの最終的意味を暗示することさえ、原理的に拒絶しているからである。発句(ママ)のイメージに求められているのは、なにも意味しないことだ。最終的意味を捉えることは不可能なのである。言いかえれば、イメージというのは視野の狭い概念的な形式に嵌めこむのが難しいものほど、その使命に正確に答えていると言えるのである。発句(ママ)の読者は、自然に溶け込むように発句に溶け込まなければならない。発句に没頭し、上限も下限もない宇宙のなかにいるときのように、その深みのなかで我を忘れなければならない。
 芭蕉の句を例にあげる。

  古い池。
  水に飛びこむ蛙。
  しじまのひびき。
  〔古池や蛙飛びこむ水の音〕 

あるいは、

  屋根を葺(ふ)くために蘆が刈られた。
  忘れ去られた茎のうえに
  やわらかい雪が降りそそぐ。
  〔雪ちるや穂屋の薄の刈残し〕 

さらにもう一例。

  私がきょう目を覚ましたときの
  このけだるさは突然どこからきたのか?
  春の雨が音を立てている。
  〔不精さやかき起されし春の雨〕 

 なんと簡潔で、また正確な観察だろうか! (中略)これらの詩行が美しいのは、捉えられ停止させられ永遠のなかに落下していく一瞬が、反復不可能なものであるからだ。」

「真の芸術的イメージは、それを見るものに、必ず、複雑で、矛盾した、そしてときとして相互に排除しあう感情を同時に体験させてくれるのである。」

「イメージは、(中略)人生に関する作者の意見や概念ではなく、人生そのものを表現するためのものなのである。イメージは、人生を意味づけたり、象徴したりするのではなく、人生のユニークさ(引用者注:「ユニークさ」に傍点)を表現しながら、具体化するのである。しかし、それでは典型的なものとは一体なんなのだろうか。ユニークさ、反復不可能性というのは、芸術において典型的なものとどのようにかかわるのだろうか。もしイメージの誕生がユニークさの誕生と一致するとすれば、典型的なものに居場所はあるのだろうか。
 パラドクスは、イメージのなかに具体化されているもっともユニークで、反復不可能なものが、奇妙なことに典型的なものになるということだ。どれほど奇妙に思われようとも、典型的なるものは、それとまったく似ていないようであるが、単一的なもの、個人的なものとの直接的な関係のなかに存在している。典型的なものは、普通考えられているような、現象の共通性や類似性が記録されるところではなく、特殊性が示されているところに生まれる。私は次のように定式化すらしている。つまり、普遍は個別に固執しつつ、いわばそこから解放され、あからさまな再現という枠組を越えてしまう。普遍はこのようにして、完全にユニークな現象の存在原理として登場してくるのだと。」

「どのようなジャンルのなかでブレッソンは仕事をしているのだろうか。どんなジャンルでもない! ブレッソンはブレッソンなのである。(中略)彼らはたんに自分自身と同一なだけである。(中略)芸術家というのは、これは固有の小宇宙(ミクロコスモス)である。どうして彼らをあるジャンルの制約された境界のなかに閉じこめることができるだろうか。」

「ブレッソンの俳優たちは、人物像を演じるということはない。彼らはわれわれの目の前で、自分たちの深い内的生活を生きるのである。『少女ムシェット』を思い出してほしい。この映画の主人公を演じていた女優が、一瞬たりとも観客のことを思い浮かべ、彼女に起こっていることの深い意味を観客に伝えようと思いをめぐらしていると、はたして言えるだろうか。(中略)決してそんなことはない。(中略)彼女が生き、存在しているのは、一点に集中し、深みに落ち込んだ、自分の閉じられた世界である。それゆえ彼女は、きわめて強い関心を自分に向けているのだ。それゆえ私は何十年かあとでこの映画が、その封切の日と同じように驚くべき印象を呼び起こすであろうと確信している。」



「第八章」より:

「『ノスタルジア』において私にとって重要だったのは、〈弱い〉人間というテーマを継続させることであった。この〈弱い〉人間は、見掛けは戦士ではないが、私の観点からすれば、この人生における勝利者である。ストーカーもまたモノローグにおいて、現実的な価値であり、人生の希望でもある弱さを弁論していた。私は実際的な意味で現実に適応できない人が常に気に入っていた。私の映画にはヒーローは存在しなかった。しかし、強い精神的な信念を持ち、他者にたいする責任をみずから引き受ける人々は常に存在していた。このような人々はしばしば、大人の情念を持った子供を思わせる。彼らの立場は、常識的な観点からすればきわめて非現実的であり、無力すぎるのである。
 修道僧ルブリョフは、悪にたいする無抵抗、愛、善について説きながら、無防備な子供の目で世界を見ていた。(中略)『鏡』の主人公は、自分のもっとも身近な人々にたいして無欲な、なにひとつ要求することのない愛を与えることができない、弱い、エゴイスティックな人間である。人生にたいする自分の負債を返済しようと思いながら、人生の終わりに来てしまった人間が抱え持っている精神的な苦痛だけが、彼自身を正当化したのだ。奇妙な、すぐにヒステリックになるストーカーもまた、すべてを覆いつくす腫物のような実用主義に侵されている世界にたいして、自分の確信に満ちた精神的なるものからの声を、毅然と対置していた。ドメニコも、(中略)自分に固有の概念を考えだし、自分に固有の苦悩の道を選択する。ただ、全面的なシニシズムに身を委ねることも、自分の個人的、物質的特権を追求することもなく、自分の犠牲という個人的努力によって、狂気に陥った人類がみずからの破滅へ向かって進んでいく道を止めようとしているのである。」
「私が興味を持っているのは、より高いものに奉仕する心構えができている人間、月並で通俗的な生活上のモラルを受け入れようとしない人間である。なによりも、生きていくことのなかで、精神的な意味において少しでも高い位置に上ろうとするために、われわれの内部にある悪と戦うことが、人間の存在の意義であると意識している人間に、私は興味があるのだ。なぜなら、精神の完成への道に対立するのは、月並な存在と、この人生に順応するプロセスに向かっていく、精神の頽廃の道だからである。なんとこれが今日の唯一の選択肢なのだ。
 私の次の作品『サクリファイス』の主人公もまた、このことばの月並な意味での弱い人間である。彼はヒーローではなく、より高い理念のために犠牲になることができる思索家であり、誠実な人間である。(中略)理解されない、という危険を冒しながらも、彼は決然と振舞うというよりも、自分の身近な人の視点からはきわめて破壊的に振舞う。ここにこそ、彼の振舞いのドラマチズムと正当性の特殊な鋭さがあるのだ。しかし、それでもやはり、彼はこの振舞いを実行し、標準的な狂人になるという危険を冒しながらも、全体的なもの、おそらくは世界の運命にたいする自分の共犯関係を感じながら、許容された正常な人間の行動の一線を踏みこえるのである。(中略)おそらくだれにも気づかれたり、理解されることのない、そのような個人の努力によって、世界の調和は保たれているのである。
 私を引きつける人間の弱さについて語るとき、私の念頭にある弱さとは、個の外的拡張の欠如であり、他の人々および人生全体にたいする攻撃性の欠如のことなのである。」



「第九章」より:

「「はじめにことばありき。ところが、おまえときたら貝のように口を閉ざしている」。映画の始めで、アレクサンデルは自分の息子にこう語る。この子は喉の手術をしたあとなので、枯木についての伝説を父から黙って聞いていなければならない。だがのちに、アレクサンデル自身、核によるカタストロフィについての恐ろしいニュースに影響されて、自ら沈黙の行を引き受ける。「私は口を閉ざし、これからはもうだれとも口をききません。私をこの世の生活と結びつける一切を断念します」。神がアレクサンデルの願いを聞き入れたということのなかに、恐ろしくかつ愉悦にみちた結末の原因があるのである。アレクサンデルが誓いを実際に守り、彼が以前その法則に従っていた世界と最終的に袂(たもと)を分かつということは、恐るべきことのように思われる。そのことによってアレクサンデルは、家族を捨てることになるばかりか、道徳的基準を判断する最小限の可能性も失うのだ。そのことが彼を取り巻くものの目から見ると実に恐ろしく見えるものなのだ。それにもかかわらず、いや正確に言えばまさにそれゆえに、アレクサンデルは私にとって神に選ばれたものの人格化なのである。彼は、彼の考えによれば断崖へ向かっている現代社会の破壊的な力の脅威を感じている男なのだ。そして人類を救うために、現代の世界から仮面を引き剝がさなければならない。」

「あからさまな事実が、迫りくる黙示録的静寂について語っている。こうしたあらゆる徴候にもかかわらず、人間が生き長らえると期待することができるのだろうか。この問いに、おそらく生命の水を失い涸渇した木の苦悩についての古代の伝説が答えるであろう。私は私の創造活動のなかで、私にとってもっとも重要な映画の基礎に、この伝説を置いた。修行僧が、一歩一歩あゆんでバケツで山に水を運び、そして枯れた木に水を注いだ。自分の行動の必要性を疑うことも、創造者への自分の信仰が奇跡を起こすであろうという信仰を手離すこともなかった。それゆえに彼は奇跡を体験したのだ。ある朝、木の枝が蘇り、若葉で覆われていた。だが、はたしてこれは奇跡だろうか。これは真理である。」





◆本訳書について◆ 


本書は英訳で愛読していましたが、せっかくなので邦訳もよんでみました。が、ところどころ意味がとりにくい箇所があります。たとえば、『鏡』を見た観客から寄せられた手紙には無理解なものもある一方、深い理解を示す好意的なものもあったというくだりで、無理解な手紙の例として、

「「三十分前に映画『鏡』を見ました。力強い映画です。同志タルコフスキー、監督もこの映画を何度かご覧になったでしょう。私にはこの映画を普通の映画と考えることはできないと思われます。私はあなたの創造行為の大きな成功を願っています。しかしこのような映画は必要ではありません。」」

とありますが、「普通の映画」ではない「力強い映画」というから誉めているのかと思うと、「このような映画は必要ではありません」とあって、よくわからないです。英訳では、

「'Half an hour ago I came out of *Mirror*. Well!! . . . Comrade director! Have you seen it? I think there's something unhealthy about it . . . I wish you every success in you work, but we don't need films like that.'」
(三十分前に『鏡』を見終わりました。いやはや! 同志タルコフスキー監督! ご自分であの映画をご覧になりましたか? あの映画には不健全なところがあるように思われます。私はあなたがお仕事で成功することを願っていますが、あのような映画は必要ではありません。)

とあって、少なくとも首尾一貫しています。








こちらもご参照ください:

Andrey Tarkovsky 『Sculpting in Time: Reflections on the Cinema』 translated by Kitty Hunter-Blair















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Malcolm Whyte 『Gorey Secrets: Artistic and Literary Inspirations behind Divers Books by Edward Gorey』

「Be open to everything. Never close your mind because you never know where your next idea may come from. You just never know.」
(Edward Gorey)


Malcolm Whyte 
『Gorey Secrets』

Artistic and Literary Inspirations behind Divers Books by Edward Gorey
Foreword by Peter F. neumeyer


University Press of Mississippi / Jackson, 2021
xv, 159pp, "About the Author" 1p, 26x21cm, clothbound, dust jacket
Printed in Canada




マルコム・ホワイト『ゴーリーの秘密――エドワード・ゴーリーのさまざまな本に隠された美術&文学的影響源』。角背布装上製本。図版(カラー/モノクロ)91点。巻頭&巻末にゴーリ&著者の肖像写真各1点(モノクロ/カラー)。

定番絵本『The Hapless Child』からレアなフリップ・ブック(パラパラまんが)『The Flating Elephant / The Dancing Rock』、変わり種トイ・ブック『The Tunnel Calamity』『Le Mélange Funeste』、トイ・シアター『Dracula: A Toy Theatre』まで、ゴーリー作品の影響源となった美術作品や文学作品、映画やバレエ、人物、各種トイ・ブックの歴史等を探索した研究書にして良心的なゴーリー入門書です。



gorey secrets 01



gorey secrets 02



Contents:

Foreword by Peter F. Neumeyer
Acknowledgments
Introduction

*The Gilded Bat* and *The Lavender Leotard*
*The Lost Lions*
*The Gashlycrumb Tinies*
*The Awdrey-Gore Legacy*
*The Eclectic Abecedarium*
*The Beastly Baby*
*E. D. Ward, A Mercurial Bear*
*The Loathsome Couple*
*The Tunnel Calamity*
*The Stupid Joke*
*The Glorious Nosebleed*
*The Pious Infant*
*Jack the Giant-Killer*
*Rumpelstiltskin*
*The Iron Tonic*
*The Curious Sofa*
*The Floating Elephant / The Dancing Rock*
*The Hapless Child*
*The Jumblies* and *The Dong with a Luminous Nose*
*The Object Lesson*
*Le Mélange Funeste* and *The Dripping Faucet*
*Dracula: A Toy Theatre*

Afterword
Notes
Selected Bibliography
Index




◆本書で取り上げられているゴーリー作品◆ 


『The Gilded Bat』(1966年)
『The Lavender Leotard』(1973年)
ニューヨーク・シティ・バレエに通い詰めたバレエ・マニアのゴーリーが1920年代の花形バレリーナの薄幸の一生を描く絵本『黄金の蝙蝠』と、バレエ・マニアの少年少女がポーズしながらバレエについて会話する絵本『ラヴェンダー色のレオタード』。

『The Lost Lions』(1973年)
うっかりして映画スターになってしまった男とペットの二匹のライオンの顛末を描く絵本『失われたライオン』。著者は各絵本に付された献辞を手掛かりに謎を解明していきますが、本書の献辞は「For Gardner」で、TVスターのガードナー・マッケイ(Gardner McKay)の実話が元になっています。本書に引用されているマッケイの自伝によると、自分の事が描かれた絵本を書店で見つけたマッケイは、その本は買わずに、見かけた旨の手紙をゴーリーに書き、ゴーリーからは数冊の本が小包で送られてきたものの、肝心の『The Lost Lions』は入っていなかったそうです。自分の愛読書を文通相手に贈りつけるのはゴーリーの常套手段ですが、送られてきた本の一冊は「フランスの作家Quenelleによる、バスでの出来事を151通りの文体で描写した本」だったとあるその「Quenelle」はレイモン・クノー「Queneau」のことで(本は『文体練習』です)、文法的にいうと「Quenelle」は「Queneau」の女性形なので、これはマッケイによる韜晦ですが、そのへんのことについては著者は一言も触れていません。しかしクノーはゴーリーが非常に影響を受けた作家で、本書でも取り上げられている『Le Mélange Funeste』や『Dripping Faucet』(ひとつの頁が幾つかのパートに分かれていて、めくり方次第で幾通りもの組み合わせができる本)のアイデアも、クノーの『100兆の詩篇』(10篇のソネット=14行詩が1行ずつばらばらに分かれていて、組み合わせることによって100兆篇のソネットができる本)によるものですが、著者はそれらを扱った章でもクノーには一言も触れずに、禅とか易経の影響で済ませています。

『The Gashlycrumb Tinies』(1963年)
ファーストネームのアルファベット順に26人の子どもたちが次々と死んでいくゴス絵本『ギャシュリークラムのちびっ子たち』。著者は本書のルーツとして、子どものための「ABCの本」と、童謡「Ten Little Niggers(Indians)」に基づくアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を挙げています。

『The Awdrey-Gore Legacy』(1972年)
は、そのアガサ・クリスティーへのオマージュ絵本です。

『The Eclectic Abecedarium』(1983年)
は、ハードカバー豆本で、「ABCの本」のであると同時に子ども向け道徳絵本のパロディです。

『The Beastly Baby』(1962年)
生まれつき人から嫌われる性格の『けだものじみた赤ん坊』は、最後には鷲に攫われて人間界から厄介払いされてしまいます。私などには身につまされる話ですが、それはそれとして、著者は影響源としてアラビアン・ナイトに登場する「ロック(Roc)鳥」を挙げて、チャールズ・デットモールド(Charles Detmold)による象を鷲掴みにするロック鳥のイラストを掲載していますが、ここは当然、レンブラント「ガニュメデスの誘拐」を挙げるべきでした。鷲に攫われる神話の美少年と本書の嫌われ者の主人公の対比がアイロニーになっています。

『E. D. Ward, A Mercurial Bear』(1983年)
は、テディ・ベアのペーパー・ドール(着せ替え人形)本です。

『The Loathsome Couple』(1977年)
は、「ムーアズ殺人事件」を思わせる『おぞましい二人』ハロルドとモナの犯罪絵本で、犯罪実話ものの著者ウィリアム・ラフヘッド(William Roughead)に献呈されています。モナの幼年時代の劣悪な家庭環境を描いた場面の影響源として、ホガースの「ジン横町」が挙げられています。著者のホワイトさんは良識人なので、最後に犯人たちが獄中で死んで「正義が果たされた(Justice Served)」と結んでいますが、ゴーリーは裁判所に連行されるモナの顔に何者かが「腐りかけたネズミの死骸(putrescent rat)」を投げつける場面を描くことで、「正義」に与する大衆の側の「おぞましさ」を指摘することも忘れていないです。ついでにいうと、公開処刑が行われていた頃のタイバーン刑場やニューゲート監獄では、見物人が死刑囚に投げつける用のネズミの死骸が売られていたという話なので、そのへんのことも書いてほしかったところです。

『The Tunnel Calamity』(1984年)
は、アコーディオン状(蛇腹)に連結された9枚の絵がトンネル内の情景を立体的に構成していて、前面にはめ込まれたレンズから『トンネルの惨事』の情景が観察できる「のぞきからくり」本(a variety of the peep show called a "tunnel book")です。

『The Stupid Joke』(1990年)
「今日は一日ベッドから出ないで過ごそう」と思いついた少年が罰を受ける話(夜になるとベッドに翼が生えて少年を闇の彼方へ連れ去ってしまう)で、著者はドイツの躾絵本『もじゃもじゃペーター』の最終話の、嵐の日に外に遊びに出て暴風に吹き飛ばされてしまう少年との類似を指摘しています。しかしモリッシーも歌っていたように、むしろ今の世の中、ベッドから出ないで過ごす(Spent the Day in Bed)ほうが賢明であって、それは決して『ばかげたジョーク』ではないです。

『The Glorious Nosebleed』(1973年)
A~Zで始まる副詞が要となる『華々しき鼻血』に関連して、トムが何を「どのように」言ったか、という、副詞の使い方で笑わせる言葉遊びの本であるPaul PeaseとBill McDonoughによる『Tom Swifties』が紹介されています。

『The Pious Infant』(1966年)
教えを守って心安らかに死んでいく『敬虔な幼子』に、著者は1960年代アメリカの保守主義への皮肉を見ています。

『Jack the Giant-Killer』(1973年)
『Rumpelstiltskin』(1973年)
『巨人退治のジャック』と『ランペルスティルトスキン』は古典童話で、『ジャック』はアコーディオン・ブック(折りたたみ式絵本)です。

『The Iron Tonic』(1969年)
「寂しい谷間の冬の午後」(A Winter Afternoon in Lonely Valley)とサブタイトルされた『アイアン・トニック』では、ゴーリー自身の家庭の事情とシュルレアリスムという二つの影響源が指摘されています。ゴーリーの友人だったアンドレアス・ブラウン(Andreas Brown)によると、本書のタイトルの裏には、ゴーリーのお母さん(オハイオ州「アイアントン(Ironton)」生まれ)が認知症になったので、ゴーリーが住んでいたケープ・コッドの施設に預ける苦渋の決断を下したいきさつが読み取れるということで、ラストの「みんな去ってしまって役立たずの石だけが残された(They've gone and left it all alone. / An absolutely useless stone.)」に、施設に入れられて厄介払いされたお母さんの象徴を見ているようですが、私見によればこの「役立たずの石」はお母さんではなくゴーリー自身で、本書はゴーリーの母方の曾祖母ヘレン・セント・ジョン・ガーヴェイ(Helen St. John Garvey)に献呈されていますが(グリーティング・カードのデザイナーだったヘレンからゴーリーはミドルネームと才能を受け継ぎました)、独身でアセクシュアルのゴーリーは子孫を残せないので、お母さんがいなくなれば自分で血は途絶えてしまう、そういうことだと思います。一方のシュルレアリスムの影響ですが、マグリットに関する指摘はこの場合は的外れとしかいいようがなく、また裏表紙の顔のある満月の描写にルドンの顔のある花の影響を見るのは、『The World of Edward Gorey』(1996年)所収エッセイでのカレン・ウィルキン(Karen Wilkin)の指摘を受け継いだものですが、満月に顔があるのは欧米文化の伝統なので、特にルドンの影響とはいいがたいです。さらに私見をいえば、ルドンの花はむしろ生命の起源に関係があると思いますが、本書は人類絶滅の寓意絵本であって、アンデルセンふうに地上を見守ってきたお月様が、人類が絶滅して廃墟と化した地球を上空から悼んでいる、そういうことだと思います。

『The Curious Sofa』(1961年)
は、ゴーリー唯一の「ポルノグラフィー」で、とはいえゴーリーはアセクシュアルなのでポルノグラフィックな描写は皆無ですが、『O嬢の物語』を下敷きにしているようです。最後には『珍妙なソファ』が引き起こす惨劇が暗示されていますが、「エロティシズムとは、死にまで至る生の称揚である」(バタイユ)、そういうことだと思います。

『The Floating Elephant / The Dancing Rock』(1993年)
は、見開きの一方に象が、一方に岩が描かれていて、めくると象が空中を浮遊し、ひっくり返してめくると岩が空中を踊りまわるパラパラまんが(限定版)です。「人間にとっては大地も人生も重いものなのだ。それは重力の魔のしわざである! しかし軽くなり、鳥になりたいと思う者はおのれ自身を愛さなければならない」(ニーチェ)、そういうことだと思います。

『The Hapless Child』(1961年)
は、ゴーリー自身によればフランスの無声映画『L'Enfant de Paris』に基づく『不幸な子供』の物語ですが、著者はその他にバーネット夫人『小公女セーラ』との類似を指摘しています。

『The Jumblies』(1968年) 
『The Dong with a Luminous Nose』(1969年?)
は、エドワード・リアのノンセンス・ソング『ジャンブリーズ』とそのスピンオフ『輝ける鼻のどんぐ』にエドワード・ゴーリーが新たに絵をつけた、二人のエドワードの夢の共演ですが、二人とも猫好きで人間嫌い、生涯独身の似た者同士でした。

『The Object Lesson』(1958年)
『実物教育』は、ゴーリー自身によると、18世紀の劇作家サミュエル・フット(Samuel Foote)が俳優の記憶力を試すために書いた荒唐無稽なストーリーのノンセンス詩「The Grand Panjandrum」の影響から生まれたノンセンス絵本です。

『Le Mélange Funeste』(1981年) 
『Dripping Faucet』(1989年) 
『いまわしい混合体』『水もれする蛇口』は前述。

『Dracula: A Toy Theatre』(1977年) 
紙製の舞台&背景に切り抜き人物を配置して劇場ごっこをする「トイ・シアター」のゴーリー版です。箱入り新装版が現在も入手可能だと思います。



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上:『The Loathsome Couple(おぞましい二人)』より。
下:ホガース「ジン横町」。












































宇野邦一 『ドゥルーズ 流動の哲学 [増補改訂]』 (講談社学術文庫)

「ニーチェもドゥルーズも、病をかかえながらも、一貫して、ある〈健康〉を、スピノザのいう「喜び」の思想を追求した哲学者ではなかっただろうか。その健康は、しかし、ある種の倒錯を必要とし、倒錯によってこそ実現され、強化されたのである。」
(宇野邦一 『ドゥルーズ 流動の哲学』 より)


宇野邦一 
『ドゥルーズ 
流動の哲学 
[増補改訂]』
 
講談社学術文庫 2603 


講談社 
2020年2月10日 第1刷発行 
337p+1p 
文庫判 並装 カバー 
定価:本体1,260円(税別) 
カバーデザイン:森裕昌 
カバー写真:UFERAS GERARD / RAPHO / アフロ 


「この本は、二〇〇一年に講談社選書メチエの一冊として刊行されたものに加筆を施し、書誌情報などを最新版に改訂したものです。」




宇野邦一 ドゥルーズ 流動の哲学



帯文:

「全主要著作をていねいに読み解く――
最初に読むなら、
定評あるこの1冊。」
「大幅な加筆・訂正を
施した決定版!」



帯背:

「有無を言わせぬ決定版」


帯裏:

「最初にこれを書いたときには、苦しみ右往左往しながら、険しい山を登っていく感触があった。もう一度この山に登ってみて、私の眺望を確かめつつ、曖昧と思えるところを再考した。ドゥルーズの思想の細部の組み立てについては、まだまだ見極めたい点はある。そう思って『流動の哲学』も、あくまでも未完の試みとして書き上げたのだった。しかし、いつまでも模索が続けられるわけではない。いまはドゥルーズについて書くべきことを書き終えなければ、と思う。量ではなく、質の問題、いや、まさに強度の問題である。それを見失ったら、もうドゥルーズのことを書けなくなるだろう。(本書「この本にいたるまで――学術文庫版に寄せて」より)」


カバー裏文:

「二〇世紀後半の哲学を牽引した思想家ジル・ドゥルーズ(一九二五―九五年)。哲学史的な著作から出発し、『差異と反復』と『意味の論理学』を経て、ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』に到達した哲学者は、大著『シネマ』へと向かっていく――生涯をたどりつつ主要著作を読み解いていく定評ある書に加筆・訂正を施した決定版。」


目次:

この本にいたるまで――学術文庫版に寄せて 

プロローグ――異人としてのドゥルーズ 

第一章 ある哲学の始まり――『差異と反復』以前 
 1 運動と時間の哲学 
 2 経験論はドゥルーズに何をもたらしたか 
 3 力と記号 

第二章 世紀はドゥルーズ的なものへ――『差異と反復』の誕生 
 1 差異そして反復 
 2 理念そして強度 

第三章 欲望の哲学――『アンチ・オイディプス』の世界 
 1 ガタリとは誰か 
 2 アルトーと器官なき身体 
 3 欲望する機械 
 4 欲望と資本主義 

第四章 微粒子の哲学――『千のプラトー』を読み解く 
 1 問いの転換 
 2 一五のプラトー 

第五章 映画としての世界――イマージュの記号論 

第六章 哲学の完成 

エピローグ――喜びの哲学 

文献一覧 

あとがき
学術文庫版あとがき

ジル・ドゥルーズの生涯と主要著作
 



◆本書より◆ 


「プロローグ」より:

「そこで改めて問う。いったいドゥルーズを理解するとは、何を理解することなのか。(中略)ドゥルーズ自身は、ことあるごとに、「理解すること」は重要ではなく、むしろ「使用すること」のほうが大切だと述べていた。理解することは、どうしても一度考えられ、書かれたことを正確にたどり、みずからの思考の中に転写し、再現することをともなうだろう。
 ところが、再現することも、転写することも、あるいは正確さということさえも、重要であるどころか、むしろ避けるべきことだとドゥルーズは考えている。むしろ、どんな断片でもいいから、それを手にとって、使ってみること、たたいたり、裏返したり、匂いを嗅いだりしてみて、いっしょに時間をすごし、別の脈絡に移動させ、それぞれに使いみちを見つけること。もちろん全体を相手にする必要はなく、必要に応じて断片を扱うだけでいい。そんなイメージを、ドゥルーズは思想を「理解する」のではなく、「使用する」こととして提唱しているのだ。ときに「工具」を用いるように、と比喩的に語ったこともあるが、哲学は決して「釘を打つ」という目的のために、「金槌を用いる」ようにして使えるものではない。世界の認識は、隣接する部分から部分へと、触覚に頼るようにして、局地的に進むことでしか実現できない。哲学の諸概念は、そのためにこそ使用される。ドゥルーズの、この全体を拒否するプラグマティズムは、いたるところで徹底されている姿勢なのだ。」

「私自身がドゥルーズの人生について知るエピソードはわずかしかない。若いときはかなりダンディで、瀟洒なスーツで決め、白い手袋まではめて、ときにはコートを肩に羽織ったまま、しばしば声色を演出して講義や講演をした。かなりスノッブで社交好きでもあった。いつ頃からか知らないが、ヴァンセンヌの大学で講義をしているときは、もうすっかり服装は地味で、無精髭のことも多く、少しホームレスめいた雰囲気があった。手の爪は伸ばしっぱなしで、蔓(つる)を巻いたように螺旋になっていた。
 のちに両肺を失うことになるほど肺を病んでいて、肺活量は通常の八分の一といわれたのにヘヴィー・スモーカーで、講義中も喫煙した。アルコールにもかなりのめり込んで、『意味の論理学』を書いているときなど、朝少し執筆したあとは一日中ウィスキーを飲んでいたという(中略)。幸いなことに(と彼はいった)、肺のほうがアルコールに耐えきれず、中毒の果てまでいかずにすんだ。ミルク製品に対するアレルギーがあったようで、チーズなどは口にしなかった。
 病身のせいもあり、ほとんど旅はしなかった。日本にもたびたび招かれたが、ついに来日は実現しなかった。やむをえない場合を除いて、インタビューや講演はしないことを原則とした。大学での講義だけは創造的な仕事と位置づけ、ノートを見ながら、決してそれを読み上げるのではなく、ゆったりとした口調で講義した。いつもユーモアにみちたつぶやきから始め、しだいに集中を深め、うまくいくと朗々と嗄(しわが)れ声を絞り出すクライマックスに達した。時宜を得ない不躾な質問で集中の波がとぎれると、ものすごくイライラすることがあった。
 多くの講義が書物として結晶したが、講義自体は、ていねいに、飛躍なしに進み、年々独特のスタイルと思想を極めながらも、あくまで教育的であった。総じて書物の思考のほうは、教育的であるよりも、はるかに探究的で冒険的であった。講義の思索を踏み台にして、さらに遠くへ行こうとするように書物を書いた、と思う。
 ドゥルーズのこうした伝記的エピソードは、些細なことではあっても、決してどうでもいいことではないし、無意味でもない。その意味を読もうとしてみれば、どれも彼の思想、方法、気質、姿勢を実によく物語っている。そして、とりわけひとつの思想に対応するひとつの身体を描き出している――「身体は何をなしうるのか」という問いは、ドゥルーズが終始考え続けた問いのひとつであった。
 フリードリヒ・ニーチェは未完の主著『権力への意志』にこう書いている。「私は誰にも哲学を説きすすめようとは思わない。哲学者が変わり種であるということは必然であり、おそらくはまた望ましいことでもあるからである」。」
「いったいひとりの哲学者が「変わり種」であるということの哲学的意味は何だろうか。ドゥルーズが変わった哲学者だったとして、その変わっていたことは、どんな意味をもっていたのだろうか。彼の講義だけでなく、彼の思考の仕方そのものが、かなり変わっていたし、また著作の書き方は決定的に他の哲学者たちと異なっていて、しかもつねに変化していった。そのように変わっていたことのすべてが、思索の対象の選び方と切り離せず、その対象と結ぶ独特の関係性と切り離せなかった。」



「第三章 欲望の哲学」より:

「欲望とは、はたしてみたされるべき欠如や空虚のようなものだろうか。欠けている何らかの対象で、空虚をみたせばすむものだろうか。ドゥルーズとガタリは、欲望をこのようにあらかじめ否定的な観点から捉えることを拒む。(中略)欲望とは、はてしなく、終わりのないものだ。しかし決してみたされない容器のようなものではなく、たえず変身し、何かと合体し、何か未知のものを生み出すものでもある。」
「欲望はそれ自体、差異と反復の中にあり、また差異と反復を内包している。その差異と反復は、無数の微粒子のひしめきからなり、潜在性から現働性にいたる振幅の中にある。」

「あらゆるところに欲望の連結と切断を見ること、家族のイメージにリビドーを閉じ込めないこと。この発想は、性欲と性倒錯を、社会を調和的に構成するための肯定的要素とみなしたシャルル・フーリエ(一七七二―一八三七年)の発想の延長線上にある。それはまた「空想的社会主義者」と呼ばれるフーリエの思想を決して「空想」とみなすのではなく、経済の根底にあって経済を規定する多形的な要素として欲望を再発見しようとしている。
 経済はたえず欲望を隠蔽し、排除し、変形しているが、にもかかわらず、欲望こそが経済を動かし、経済の目標にもなっている。欲望こそが、経済よりも根源的である。しかし欲望は、確かにひとつの展開の経路として、経済という次元を構成する。新しい『資本論』を書くことをひとつの目標とした『アンチ・オイディプス』は、まさにこのことを本質的に考え直そうとしたのだ。」
「経済とは、欲望の経済であり、資本主義とは欲望の資本主義であるに違いないが、資本主義経済は、貨幣の形態と、それにあくまで従属する労働の形態によって欲望を変形し、屈折させている。家族も、性愛も、そのような欲望の経済の中に組み込まれている。欲望は、このような経済の外部から、経済をたえず突き動かしているのに、この経済は、あくまでみずからの内部にこの欲望を屈折させ閉じ込め、しばしば欲望の表象だけを流通させているのだ。」
「ドゥルーズ=ガタリにとって、分裂症とは、まさにこのような欲望の外部性が、内部に向けて押しつぶされるところに現れるような「病」である。分裂症は欲望の外部性のしるしである。資本主義は、欲望を内部の領域として構成する(内部化する)機械であり、そのような機械として成立する。ドゥルーズ=ガタリは、資本主義のこのような側面を「公理系」と呼んでいる。
 資本主義は、たえず分裂症という極限(外部性のしるし)に向けて歩みながら、みずからに独自の「公理系」によって分裂症を排除する。欲望そのものは、少しも病ではない。病は、欲望を変形しようとする装置の効果、その変形の効果として現れるだけだ。
 この世界に生起するすべてのことを、分裂症を基準として見つめることは、欲望の外部性をたえず視野に置き、この社会の外部と内部の境界上で、あらゆる事象を見つめることである。分裂症は、分析の対象や症例ではなく、分析の原理となり、方法となる。だからこそドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』の後半で、「精神分析」ではなく、「分裂者(スキゾ)分析」を提唱している。
 「分裂者分析」の第一の課題とは、欲望そのもののリアリティを見出し、欲望の平面と過程を発見することである。」



「第三章 欲望の哲学」「注」より:

「「精神分裂症(スキゾフレニア)」は、現代の医学界では「統合失調症」と呼ばれるようになっている。この病をむしろ肯定的な文脈で捉えようとする立場に立つなら「精神分裂症」という呼称を保存したい。「統合失調症」という呼称のニュアンスは、あまりに消極的と感じるからだ。」


「第四章 微粒子の哲学」より:

「地層や生命や国家の発生にさかのぼるドゥルーズ=ガタリの思考は、いつも発生を現在と同時点にあるものとして捉える。思考においても実践においても、すっかり進化し、完成してしまったように見える秩序や形態の傍らに、われわれはいつでも、器官なき身体のようなもの、卵のようにコンパクトで未分化な差異の状態、いや、未分化に見えて実は豊かな差異の萌芽を含む力のスペクトラムを思考し、実践することさえできるのではないか。
 退行とは確かに異なる「逆行(involution)」という概念に、ドゥルーズ=ガタリは繰り返し触れている。「退行するということは、分化の度合いが最も低いところに向かう運動である。だが、逆行するということは、与えられた複数の項の「あいだ」を、特定可能な関係にしたがって、みずからの線に沿って逃走するようなブロックをなすことなのだ」。単に「未分化」の状態に復帰するのではなく、「未分化」といわれる状態の差異の帯域にじかに触れるようにして、新たに「分化」をやり直すような「逆行」がありうる。「生成変化」とは、その意味で、進化でも退化でもなく、あたかも未分化であるかのような強度の状態に密着する分化なのだ。
 動物になり、植物になり、遊牧民になるという生成変化も、その意味では決して「退行」ではなく、「逆行」であり、逆方向の因果律を、その場で再現するような試みでもある。ドゥルーズ=ガタリが「生成変化」について書く文章は、しばしば異様に美しい。」













































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、土方巽、デレク・ベイリー、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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