和田博文 他 『パリ・日本人の心象地図 1867-1945』

和田博文・真銅正宏・竹松良明・宮内淳子・和田桂子 
『パリ・日本人の心象地図 
1867-1945』


藤原書店 
2004年2月25日 初版第1刷発行
379p 口絵(モノクロ)8p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,200円+税
カバー地図: 矢本正二『巴里通信』(築地書店、1943年)附録より



久生十蘭『十字街』がすきなので本書をよんでみました。本書には久生十蘭はでてこないです。パリ生活の記録を残していないからです。


パリ 日本人の心象地図 01


帯文:

「明治、大正、昭和前期にパリに生きた日本人60余人の住所と、
約100の重要なスポットを手がかりにして、
従来のパリ・イメージを
一新する、全く新しい試み!
写真・図版200点余/地図10枚」



カバーそで文:

「地理学の分野では一般的に、隠喩としての地図を、認識地図と呼んでいる。また、「頭の中の地図」、メンタルマップ、イメージマップという呼称もあるという。本書で私たちは、心象地図という概念を、ほぼ同じ意味で用いる。日本人のパリへの視線を考えるとき、認知(知識)以上に、心象(イメージ)が、大きな問題として浮上するからである。
 本書の大部を占める第Ⅱ部では、日本人の足跡が刻まれたスポット九三ヵ所と、日本人六三人の住所四六ヵ所の、合計一三九ヵ所で、パリの地図を作成した。スポットの選定に際しては、以下の作業を行っている。まず明治・大正・昭和戦前期にパリに渡った、著名な日本人約一〇〇人の、パリ関係の単行本や雑誌発表エッセイから、三行以上の言及があるすべてのスポットを抜き出した。次にその頻度順リストを作り、頻度が高いスポットと、頻度が低くても重要なスポットを、合計九三ヵ所選んでいる。日本人住所は原則として、第二次世界大戦以前にパリ関係の著書を刊行した日本人で、住所が番地まで判明した者を取り上げた。同一スポットや同一人物で、複数の住所が明らかな場合には、適当な住所一ヵ所を選んでいる。
 一三九ヵ所のスポットと日本人住所は、八つのエリアに分けた。各エリアの冒頭に、スポットと日本人住所を記入した地図を掲載し、エリアの特徴を概説している。エリアが先験的に存在していたのではない。スポットと日本人住所の分布が、結果としてエリアを作り上げた。自ずからここには、日本人の心象地図・パリが、浮き彫りになっているはずである。」



目次:

プロローグ パリ・日本人の心象地図 1867-1945

Ⅰ パリの日本人社会と都市の記憶
 1 パリの日本人社会
  パリの日本人社会
  日本大使館
  日本人会
  日本人商店
  日本人共同体の閉鎖性と同一性
 2 パリのネットワーク――『巴里週報』
  『巴里週報』の誕生
  日本人会・日本大使館からの知らせ
  読者の声――投書・消息より
  上海事変以降の『巴里週報』
 3 パリの日仏文化交流
  パリ万国博と川上一座
  武林文子の興行
  花子と雪洲
  音楽家たちのパリ修業
  文化交流今昔
 4 日本人画家のパリ
  パリという美術修業の場
  オテル住いとアトリエ相互訪問
  カフェとレストランでの交流
 5 ソルボンヌで学んだ日本の知識人
  仏文学研究の泰斗たち
  それぞれの留学事情と自己発見
  孤独の心境と透徹したフランス理解
 6 追憶のパリ――『巴里』『アミ・ド・パリ』
  巴里会の「ビユルタン」
  〈シツクな社交機関〉として
  東京にパリを探す 
  巴里会の変質

Ⅱ 日本人のパリ都市空間
 1 エッフェル塔とパッシー
  エリアの特徴/地図
  エッフェル塔
  アンヴァリッド(廃兵院)
  オトゥイユ競馬場
  岡本かの子・岡本一平
  キク・ヤマタ
  ギメ美術館
  薩摩治郎八
  芹沢光治良
  高浜虚子
  近藤浩一路
  トロカデロ広場
  ブーローニュの森
  牡丹屋(日本料理店)
  ミラボー橋
  柳沢健
  ロダン美術館
  ロンシャン競馬場
 2 凱旋門からルーヴルへ
  エリアの特徴/地図
  有島生馬・小宮豊隆
  ヴァンドーム広場
  エスカルゴ(レストラン)
  凱旋門
  久米正雄・藤原義江
  グラン・パレ(歴史的建造物)
  コメディ・フランセーズ座(劇場)
  コンコルド広場
  サラ・ベルナール座(劇場)
  シャトレ劇場
  シャンゼリゼ座(劇場)
  シャンゼリゼ通り
  武林文子
  チュイルリー公園
  中央市場
  日本人会
  ときわ(日本料理店)
  日本大使館
  プチ・パレ美術館
  深尾須磨子
  プリュニエ(レストラン)
  マドレーヌ寺院
  満鉄事務所
  三木清
  モンソー公園
  ルーヴル美術館
 3 モンマルトル
  エリアの特徴/地図
  サクレ・クール寺院
  北駅
  シャ・ノワール(カフェ)
  諏訪旅館
  バル・タバラン(踊り場)
  東駅
  ムーラン・ド・ラ・ギャレット(踊り場)
  ムーラン・ルージュ(ミュージックホール)
  モンマルトル墓地
  与謝野寛・晶子
  ラパン・アジル(バー)
 4 オペラ座界隈
  エリアの特徴/地図
  美しい牝鶏(娼館)
  オペラ・コミック座(劇場)
  オペラ座(劇場)
  カフェ・アメリカン
  カジノ・ド・パリ(ミュージックホール)
  カフェ・ド・ラ・ペ
  ギャルリー・ラファイエット(デパート)
  コンセルヴァトワール(コンサート会場)
  フォリー・ベルジェール(ミュージックホール)
  サン・ラザール駅
  プランタン(デパート)
 5 カルチェ・ラタン
  エリアの特徴/地図
  エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)
  カヴォ・デ・ズブリエット(酒場)
  クリュニー美術館
  小牧近江
  コレージュ・ド・フランス(大学)
  ソルボンヌ(大学)
  コントルスカルプ広場
  田辺孝次
  ノートルダム大聖堂
  永井荷風・石井柏亭・巌谷小波
  パンテオン(教会)
  トゥール・ダルジャン(レストラン)
  不二(日本料理店)
  モルグ(死体収容所)
  モベール広場
  吉屋信子
 6 リュクサンブール公園とサン・ジェルマン・デ・プレ
  エリアの特徴/地図
  アカデミー・ジュリアン(研究所)
  アリアンス・フランセーズ(語学学校)
  岩村透
  ヴュー・コロンビエ座(劇場)
  オデオン座(劇場)
  カフェ・ヴォルテール
  カルメ(修道院)
  木下杢太郎
  グランド・ショーミエール(研究所)
  コンセール・ルージュ(音楽堂)
  西園寺公望
  サン・ジェルマン・デ・プレ教会
  サン・シュルピス教会
  武林無想庵
  蕗谷虹児
  ドゥ・マゴ(カフェ)
  ボン・マルシェ(デパート)
  正宗白鳥
  柳亮
  リュクサンブール公園
  リュクサンブール美術館
 7 モンパルナス
  エリアの特徴/地図
  石黒敬七
  海老原喜之助
  岡本太郎
  荻須高徳
  金子光晴・森三千代
  カタコンブ(地下墓地)
  河上肇
  クーポール(カフェ)
  岸田國士
  クローズリー・デ・リラ(カフェ)
  黒田清輝
  小松清
  小山敬三・坂本繁二郎・林倭衛・児島虎次郎
  佐伯祐三
  ジョッキー(ナイトクラブ)
  島崎藤村
  高村光太郎
  ダンフェール・ロシュロー広場
  ドーム(カフェ)
  林芙美子
  藤田嗣治・岡鹿之助
  モンパルナス墓地
  山本鼎・正宗得三郎・戸田海笛
  横光利一
  福沢一郎・高畠達四郎・中山巍
  ラ・サンテ監獄
  ロトンド(カフェ)
 8 日本館付近とその他の地域
  エリアの特徴/地図
  岩田豊雄(獅子文六)
  ヴァンセンヌの森
  ヴィクトール・ユゴー記念館
  辻潤・竹中郁・小磯良平
  西條八十
  バスティーユ広場
  ペール・ラシェーズ墓地
  松尾邦之助
  パリ国際大学都市日本館
  モンスーリ公園

〔附〕 在パリ日本人年表 1867-1945

〈資料〉
 パリ全図
 パリ/フランス在留日本人数(一九〇七年~一九四〇年)
 パリ在住区別日本人数割合(一九二三年~一九四四年)
 フランス在留日本人の出生・死亡・婚姻・離婚数(一九一九年~一九四四年)
 一九三〇年前後のパリの、日本関係公的機関・銀行・会社・商店等地図
 『巴里週報』オリンピツク水泳号(第二五六号)

あとがき
人名索引



パリ 日本人の心象地図 02



◆本書より◆


「プロローグ」(和田博文)より:

「異郷で亡くなる日本人のなかには、故国への手掛りが、皆無の者も含まれていた。一九四〇年七月八日付公文書(中略)は、曲芸人の安藤源次郎について、こう記している。一八六七年生まれの安藤は、一八九四年二月にイタリア人興行師コメリーの曲芸団に加わり、アメリカ・南米・スペインを経て、フランスで生活するようになった。ここ数年は健康を害し、老齢のために失業して、生活に困窮していたが、六月二日に病死する。同棲中のスペイン人女性が世話をしていたが、貧しいので、日本人会で埋葬費を支払って、共同墓地に埋葬した。日本の家族に関しては一切不明であると。
 安藤の場合はそれでも、死を看取ってくれる親しい人がいた。畑林玉一の死亡について、一九二八年四月一七日付公文書(中略)はこう伝えている。パリ市外の学校で「労役夫」として働いていた彼は、病気を患って解雇される。貯蓄もなく生活に窮して、大使館に相談してきた。医師の診断では肺結核のためすでに重態で、三月三〇日に病院で亡くなる。知友はなく、大使館の負担で、パリ郊外の共同墓地に埋葬した。正式なパスポートは所持していない。着古した衣類以外には、遺留品もないと。畑林のように、大使館に駆け込む余裕がない日本人もいた。一九四一年七月一五日付公文書(中略)によれば、高橋美吉は二年前の四月一日に、リール県の精神病院で死去している。身寄りもなく、大使館から病院への問い合せで、初めて確認されたのである。
 彼らに共通しているのは、日本に経済的な後ろ盾がなかったことだろう。」
「貧困や病気に直面して客死した日本人の、パリの心象地図は、日本で消費された「花の都」イメージや、「芸術の都」イメージと、大きく隔たっていただろう。また安定した収入を背景に、高級住宅街のパッシー地区で暮らした日本人の、心象地図とも異なっていたはずである。無名画家の井田亀彦は、フランスのシャンパーニュ村で、一九二七年六月九日に自殺する。同年一一月二日付公文書(中略)によれば、遺留品はわずかに、洋画一五枚、未完成の洋画一五枚、小鞄一個、化粧道具一組、洋服一着、雨外套一着、洋画用品数種だけだった。前年三月からの未払い下宿代八三四〇フランの請求が、大使館に届いているから、食い詰めて、進退きわまったのだろう。井田家は破産寸前で、借金を支払える状態ではなかった。一九二八年二月二二日付公文書(中略)は、他家に嫁いだ姉も、夫が恩給暮らしで、支払い能力はないと報告している。
 ところが六月二五日に、姉から警視総監に、自分が借金を分納したいという「願書」が提出された。実はその間の三月二三日に、一通の公文書(中略)が送られている。そこには井田の日記帳が見つかったので、本人の遺言により、姉のもとに送ると書いてある。井田にとって姉は、最後の言葉を伝えたい相手だったのだろう。画家としての志を抱きながら、挫折を余儀なくされた青年の、パリの心象地図が、日記帳には記されていたはずである。(中略)井田の心象地図を、確認するすべはもはやない。しかし分納したいという「願書」は、日記帳を読んだ姉の、今は亡き弟に対する、精一杯の応答だったような気がする。」



パリ 日本人の心象地図 03


「モルグ」(和田桂子)より:

「モルグは大革命以前にはグラン・シャトレ(Grand-Châtelet 最高裁判所)に設置されていた。一区と四区にまたがる今のシャトレ広場である。溺死したり殺されたりした人の死体が無造作に横たえられていたという。グラン・シャトレの取り壊しに伴ってモルグは一八〇四年一五区のマルシェ・ナフ(Marché-Neuf)に移転した。かつて魚や野菜の市がたったところだが、古くからの屠殺場もあった。ここがモルグに改装された。死体洗浄の部屋、解剖の部屋のほかに死体掲示場もあった。一八六四年に、モルグは四区のケ・ド・ラルシュヴェシェ(quai de l'Archevêché 大司教埠頭)に再び移転する。ノートルダム大聖堂の裏手である。
 辰野隆(たつのゆたか)はパリの雨の日のセーヌ河岸を思い出してこう書いた。「ベルナルデーヌの街から河岸に出て、橋を渡ると、左には黒いノートル・ダムが高く聳え、右には低い死体収容所が蟠(わだかま)っている」(『え・びやん』白水社、一九三三年)。(中略)ここではガラス窓ごしに誰でも死体を見ることがでいるようになっていた。見せ物にしようというわけではない。死体を民衆に公表して、もの言わぬ死者の身元を早く判別しようというねらいである。
 パリを訪れた巌谷小波は、一九〇〇年八月三〇日に久保田米斎に連れられてこのモルグを見学し、こう書き残している。

   午前米斎君の案内で、巴里随一の古寺院、ノウトルダムを見物し、それから其の後の、変死人掲示場を見た。これは仏蘭西の探偵小説には、よく引合に出る所なので、即ち変死人の素性の解らぬものを、薬剤の作用で腐らぬ様にして、其まゝ諸人に見せる所である。
 此日は珍らしくも大入りで、男女の死体が七八個あつた。それが何れも変死当時の有様で、硝子越しに列べてあるのだから、随分気味のよくないものだが、さて又『恐い物見たし』で、見物人は押合ふ許り、尤もあまり残酷な死体は、正物の代りに写真が出してあつたが、鼻を剥ぎ、髪毛を抜き取り、其上手足を切り放した死骸などは、たとひ写真で見ても、余等の様な気の弱いものは、戦慄をせずには居られない。聞けばその写真は疾うから此処に掲げられて、大金の懸賞で、その解死人を探して居るのだが、未だに手掛りが無いとやら。これが其中解つたら、又面白い探偵実話が出来やう」(『小波洋行土産 下巻』博文堂、一九〇三年)。

 見せ物にする意図はなかったと書いたが、小波の記述を見るかぎりでは、恐いもの見たさの群衆の心理をある程度は意識していたと考えられる。小波の説明に「薬剤の作用で腐らぬ様にして」とあるのを、大塚要が「これは薬剤の作用に非ず冷蔵庫の一種にて冷却したる空気の作用に御座候」と訂正した(『小波洋行土産 下巻』)。一八八一年から、モルグでは冷蔵装置を利用していたようである。」




こちらもご参照下さい:

河盛好蔵 『藤村のパリ』 (新潮文庫)
江口雄輔 『久生十蘭』
『定本 久生十蘭全集 8』
堀切直人 『浅草 大正篇』



































































































































スポンサーサイト

陣内秀信 『ヴェネツィア ― 水上の迷宮都市』 (講談社現代新書)

陣内秀信 
『ヴェネツィア
― 水上の迷宮都市』
 
講談社現代新書 1111 

講談社 
1992年8月20日 第1刷発行
1994年12月21日 第6刷発行
278p 「図版出典」1p
新書判 並装 カバー
定価650円(本体631円)
装幀: 杉浦康平+赤崎正一



本文中図版(モノクロ)多数。


陣内秀信 ヴェネツィア 01


カバー文:

「内海(ラグーナ)に浮かぶ「アドリア海の花嫁」。四季折々の呼吸がたちのぼる大運河(カナル・グランデ)、路地(カッレ)に感じる街の体温、光と闇を彩る祝祭(フェスタ)。足で識(し)り五官でつかむ、水の都へ道案内。」


カバーそで文:

「獅子の帰還――セレモニーを行うのに、これ以上の舞台はない。……
広場の東側には壮麗なゴシック様式の総督宮殿、
西側には古典的なマルチアーナ図書館が建つ。
共和国時代とまったく同じ趣向で設営された演劇空間に我々はいるのだ。
紐が引かれ、白い布が移動して、獅子の姿が現れてきた。
ところがいかにもイタリアだ。布が引っ掛かって動かなくなってしまった。
いささか慌てて逆に引っ張ってみても、うまくいかない。
人々の間に溜め息がもれる。
ヴェネツィアの未来に暗雲がただよいかけたその時、
紐を切ったことによって、白布は無事にはずれ、
獅子の美しい姿が円柱の上に浮き上がったのだ。
我がヴェネツィアの象徴は拍手とともに元の位置に戻った。――本書より」



目次:

はじめに

1 浮島
 アックア・アルタの襲来
 水都の形成と「海との結婚」
 ラグーナというエコロジカル装置
 ジュデッカ島の漁師たち
 〈内〉と〈外〉の両義構造
 「浮島」の基礎構造
 運河を行き交う渡し舟
 ゆったりとリズミカルに流れる時間

2 迷宮
 地中海をとりまく迷路都市
 寄せ木細工のような島々
 とっておきの抜け道
 イスラム都市と似た〈袋小路〉と〈中庭〉
 生活を彩る屋上テラス「アルターナ」
 秩序と混沌の多様性

3 五感
 ヴェネツィアの四季
 一日の移ろい
 サウンドスケープが語るヴェネツィア

4 交易
 コスタ・クラッシカ号の船出
 国際的な港湾都市として
 「海の税関」と「陸の税関」
 四つの穀物倉庫
 オリエント文化を反映した商館建築
 〈異人〉が生み出す〈都市〉
 街角に立つムーア人たち
 「ゲットー」の誕生
 ギリシャ人とスラボニア人
 現代に蘇る巡礼施設「神の家」
 各地からきた奴隷と娼婦

5 市場
 リアルトの朝の〈祝祭〉
 市場の構成と衛生管理
 権力装置としても機能したリアルト
 水辺の華やかな商空間
 モニュメントとしてのアーチ橋
 ヴェネツィアの「仲見世」メルチェリーア
 通りの名にもなった居酒屋(オステリア)
 娼婦たちの「乳房の橋」

6 広場
 ヴェネツィアっ子たちの舞台
 自然発生的な広場の形成
 貯水機能を担うカンポ
 庭園ブームと緑への志向
 リアルト橋からアカデミア橋への「カンポ通り」
 「広場の中の広場」ピアッツァ・サン・マルコ
 獅子の帰還

7 劇場
 広場のパフォーマンスがBGM
 十六世紀の都市改造プロジェクト
 〈劇場〉と化したサン・マルコ小広場(ピアッツェッタ)
 水上(ラグーナ)に浮かぶ「世界劇場」
 カナル・グランデ沿いに並ぶ舞台装置
 貴族の館で楽しまれた演劇
 民衆のための喜劇の隆盛
 「テアトロ」をめぐる異界空間
 オペラの世紀の始まり
 水のアプローチをもつフェニーチェ劇場
 〈リドット〉と〈カジノ〉

8 祝祭
 「アドリア海の花嫁」の春の婚礼祭
 レデントーレの舟祭り
 大運河でのゴンドラ・レガッタ
 舟を仕立ててレガッタ見物
 政治的・社会的装置としての祝祭
 橋がかりの「サルーテ」祭り
 仮面カーニバルの享楽
 復活した「コンパニア・デッラ・カルツァ」

9 流行
 盛んだったファッション産業
 靴職人たちのスクオラ
 シンボル・マークを掲げた工房(ボッテーガ)
 ファッションを支える周辺地域
 見本市(フィエラ)という祝祭
 コンスタンチノープルから来たカフェ
 横丁の「酔っ払い天国」

10 本土
 ブレンタ川のヴィッラ巡り
 フォスカリ家の「不満の別荘」とピザーニ家の別荘
 本土とセットになった田園生活
 東方貿易から本土経営への経済転換
 統一的かつ多様な貌(かお)をもつヴェネト地方
 一対の市(コムーネ)をつくるヴェネツィアとメストレ
 水都の国際センターとして



陣内秀信 ヴェネツィア 02



◆本書より◆


「浮島」より:

「ヴェネツィアでは、運河がまさに普通の街の道路にあたっている。そのことをよく物語るものがある。ヴェネツィアの本島から南のキオッジャまで、ラグーナを巡(めぐ)る運河を舟で進むと、途中、何ヵ所かで、水上に杭(くい)を立て、小さなマリア像を祀(まつ)っている感動的な光景に出会えるのだ。ちょうど大陸の街で道端や辻にマリア像などの祠(ほこら)をおいているのと、まったく同じ意味をもつ。海の上を生活圏とする漁師が、安全や豊漁を祈り、願をかける対象でもあっただろう。
 ヨーロッパの都市には、日本やアジアの都市のような、水が異界につながるという発想や、水に聖なる意味を見出すといった考え方はあまりない。だが、自然との緊密な交流の中に人間を置いて考える古代のギリシャ人やローマ人は、水に畏敬(いけい)の念や聖なる意識をもち、水辺に神殿を建設した。こうして都市の中にゲニウス・ロキ(地霊)が成立したが、キリスト教の価値観が支配的になるにつれ、自然のもつ霊的な力は色あせ、水辺の特別な意味合いは薄れたものと思える。
 ところが水とともに生きるヴェネツィアには、こうした異教的ともいえる聖なる水のイメージが強く残ってきた。今も漁業が活発なキオッジャの街の海からの入口の近くに、十三世紀に創設された重要な信仰の場、サン・ドメニコ教会がある。内陣の奥に十字架にかけられたキリスト像があるが、その木彫の苦痛にゆがんだ荘厳な顔は、海から流れついたと信じられているのだ。ちょうど、隅田川で漁師の網にかかった観音像を祀ったという浅草寺(せんそうじ)の場合とよく似ている。」
「宗教行列の際には、このキリスト像を舟に乗せ、水上でのパレードも行われる。また奥の部屋の壁には、嵐に巻き込まれ難破した漁船をキリストが救っている場面を描いた絵馬のような絵がたくさん掛けられており、水への祈りのような敬虔(けいけん)な気持ちがよく表現されている。
 どこか異教的な水との結び付きを示す象徴儀礼が、中世の早い時期からヴェネツィアの水上を舞台に行われてきた。「海との結婚」(スポザリーツィオ・デル・マーレ)と呼ばれる、官能的なこの水の都にふさわしい華麗なる祭礼だ。
 キリスト昇天祭(中略)の日に、サン・マルコの岸辺からお召し船(ブチントーロ)に乗った総督がリドの海まで行き、金の指輪を海に投げ、「海よ。永遠の海洋支配を祈念してヴェネツィアは汝(なんじ)と結婚せり」と唱(とな)えた。」

「ヴェネツィアの人々はよく、「世界に一つしかない都市だ」といって自分の街を誇る。現代人の常識から逸脱したような特異な場所に都市を築くのに、最初から困難をたくさんしょいこんだ。だが、それを克服する努力の積み重ねで、逆に他にはないユニークな技術が育(はぐく)まれ、それがまた環境に対する人々の独自の美的感覚を生み出したのだ。」

「この街には独特のゆったりした〈時間感覚〉がある。この心地よい時の流れは、いつの時代にも変わることのない水の存在からもたらされているのだろう。」

「自由と独立を誇り、華麗な文化を開花させたヴェネツィアは、いつの時代にも人々の憧(あこが)れの的(まと)だった。」
「十六世紀に、フィレンツェがメディチ家の独裁におちいり、ローマが外国軍隊に蹂躙(じゅうりん)され、自由を失った頃も、ヴェネツィアだけが輝かしき共和制を貫(つらぬ)き、自由と独立を謳歌(おうか)していた。この都市は表現の自由を求める思想家や芸術家にとって、ある種の逃避の場ともなったのである。都市全体が海の上に浮かぶ巨大なアジール空間(保護区または解放区)だったともいえよう。」



「迷宮」より:

「迷宮のような街をつくることは、地中海の古い都市文明に共通した知恵だったともいえよう。紀元前二〇〇〇年頃に繁栄したメソポタミアのウルの都市が、中世以後のイスラム都市の迷路と同じ構造をもっていたことが、考古学の調査でわかっている。外敵から身を守るのに都合がよく、住民にとって居心地のいい縄張(なわば)りをつくりやすい迷宮空間というのは、都市の普遍的なモデルだったのである。」

「土木の技術力と経済力がついてくると、人間は運河をまっすぐ整えたがる。しかし、中世の早い時期にできたヴェネツィアの古い都市部分では、すべての運河が面白い形で湾曲している。都市の形を決める最も重要な運河網がまず曲がったり複雑に歪(ゆが)んだりしているのだから、全体が巨大な迷宮になるのは当然だった。
 この街では、都市を開発する全体計画は存在しなかったし、それは不可能だった。ラグーナの水上にわずかに顔を覗かせる小さな陸地(島)の集合体に人が住みつき、開発が進められたから、そもそもが寄せ木細工のような都市なのである。」

「混沌とし、わかりにくい都市のように見えて、ヴェネツィアには実は逆に、理にかなった全体の秩序がある。異なる多くの要素を複合化させ、お互いに矛盾なく見事に機能させる巧みな知恵が働いていたのである。」



「市場」より:

「ヴェネツィアには男色がおおいに流行(はや)った。(中略)それを憂慮した政府は、十五世紀の終わり頃、法律を制定して男色を厳しく禁じ、各コントラーダには二人の監視人を置いた。それでも摘発された者には、サン・マルコ小広場の二本の円柱の間での絞首刑が待っていた。」


「祝祭」より:

「自由都市ヴェネツィアであっても、カーニバルにつきものの仮面の使用をめぐっては、為政者と民衆の間の長い争いがあった。十三世紀の中頃から、この街では仮面の使用が認められていたが、しばしばそれが乱用され風紀が乱れたので、その使用を制限する政令が継続的に出された。一四五八年、男が女装して女子修道院に行くことを禁じたのに続き、一四六一年にはすべての仮面が禁止された。だがそれも空文化していたようで、十六世紀には、仮面をつけた人々の姿がしばしば絵に描かれている。カーニバルの期間中の仮面の使用が正式に認められるのは、十七世紀に入ってからだが、実際にはそれ以前からカーニバルにおいて仮面が広く使われていたのである。なお、ヴェネツィアで仮面がカーニバルの時以外にも一般に用いられるようになるのは、十八世紀のことだ。」
「カーニバルで使われる仮面はそもそも、日常的秩序を破るものであり、普段の社会的ヒエラルキーや階級差を消し去って、匿名(とくめい)性を獲得し、自由と混沌の中に身を置くことを可能にするものだったのである。」



陣内秀信 ヴェネツィア 03


































































































































































小池滋 『チャールズ・ディケンズ』 (ちゅうせき叢書)

「私は日常の事物のロマンチックな面を、ことさらに強調したのである。」
(チャールズ・ディケンズ)


小池滋 
『チャールズ・ディケンズ』
 
ちゅうせき叢書 20

沖積舎 
1993年10月30日 発行
204p 
四六判 丸背紙装上製本 
カバー ビニールカバー
定価3,000円(本体2,913円)
装釘: 戸田ヒロコ



本書「あとがき」より:

「著者としては、執筆依頼を受けた当初から、構想をまとめ、実際に脱稿するまで、終始我儘勝手な自己流のやり方を通し続けて来たので、全然思い残すことはないのだが、(中略)このシリーズの性格をいささか逸脱し、他との統一を乱したものが出来上ってしまったのではないかと申訳ない気もする。例えばディケンズの生涯にフォローして論を進めるという方法を完全に放棄してしまったために、(その代りに、というつもりで)年譜に詳しい伝記的記述を盛り込みすぎたきらいがあるかもしれない。」
「今回、沖積舎から再刊するに当って、必要な訂正、増補を行うことができたことを嬉しく思っている。」



本書は1979年に冬樹社「英米文学作家論叢書」の一冊として刊行された『ディケンズ――19世紀信号手』の新版です。


小池滋 チャールスディケンズ


帯文:

「19世紀イギリスの大文豪を従来ない方法で著者独特の見方による時代の産物・鉄道などに依拠して論ずるディケンス論。」


帯裏:

「鉄道とか推理小説という極めて趣味的な道具を武器にして、19世紀イギリスの大文豪に立ち向おうというのは、ひどく恣意的で、不真面目にさえ見えるかもしれない。だが、この本すべてに共通したアプローチである科学精神は、決して単なる個人の好みの問題に留まるわにはいかないし、19世紀イギリスだけの固有の特質でもない。
「あとがき」より」



目次:

一 信号手を求めて
二 猟犬の向う側
三 因果帝国の遺跡にて
四 物量の饗宴

あとがき (1978年9月/1993年5月)

ディケンズ略年譜
ディケンズ主要文献
索引




◆本書より◆


「信号手を求めて」より:

「チャールズ・ディケンズに関する研究書は、伝記的研究、作品論、その他諸々をひっくるめて、既におびただしい量に及び、日本語で書かれたものだけに限定しても、新参者を気落ちさせるに充分なほどの点数となっている。だから、ここでは標準的なアプローチをもって、ディケンズの人と作品に迫ることははじめから断念することにして、私の、よく言えば個性的、悪く言えば手前勝手なやり方で、筆を進めさせていただきたいと思う。」

「なるほど信号手の悲劇は、劣悪な職場環境の下で、単純で退屈な、しかし重い責任を伴う機械的作業を強いられたから生じたものだろう。しかし(中略)労働者の待遇改善要求としてこの物語を読むのも、どうも不自然だ。(中略)彼がもっと快適な職場環境と週休二日制が欲しいと抗議し、読者がそれに共感の拍手を送れば、すべてうまく片がつくわけではないのだ。かりに彼を、他のもっと明るい光の射す職場に配置変えしても、おそらく彼の幻覚・幻聴から解放されることはあるまい。彼が電信と信号装置を使って列車運転の安全を確保するという重責から解放されない限り、つまり彼が「信号手」であることをやめない限り、彼の苦悩、「精神的拷問」は続く。
 だが、困ったことに、上記の事実にもっとも気づいていないのが、他ならぬ信号手自身なのだ。彼を苦しめる幽霊が妄想にすぎぬとか、その原因が最新の科学技術に従事している自分の職業にあるとは、夢にも思っていない。自分の仕事、ひいては科学そのものに不信・嫌悪どころか、正反対の誇りを持っている。」
「このように考えると、「信号手」であることとは、ヴィクトリア朝のイギリス人が置かれた人間の条件を、如実に示したもののように思える。科学の力によって世界でもっとも早く近代化を成しとげ最高の文明を誇り、その恩恵に浴した彼らにとって、科学を否定したり、信じなくなることは、とりもなおさず文明国人でなくなることだ。つまり自分の存在を失うことに等しい。だから、科学が未来永遠にわたって人類に幸福をもたらしてくれるはずだと信じて疑わない。あるいは疑うまいと必死になる。だが、なぜかは本人にもはっきりわからぬながら、何かがおかしいという不安が、何かとんでもない危機が警告されているのではないかという恐怖が、しかもその危機が何であるのか、いつ到来するのかは予告されていないために生ずる焦燥が、彼ら全体ではなくて、その中の誰かに襲いかかる。つまり、学問の体系的研究や、論理的操作の帰結によってではなく、直観的本能によってその警告を感じ取る能力を持ったもの、例えばチャールズ・ディケンズのような人間が、まさにあの「信号手」の位置に据えられたのである。」



「因果帝国の遺跡にて」より:

「ディケンズの小説『デイヴィッド・コパーフィールド』の中の一人物、主人公で語り手であるデイヴィッドをむしろしのぐほど、強烈で、忘れ難い印象を読者に与えてくれる人物――といえば、誰でも知っての通り、それはウイルキンズ・ミコーバーだ。だが、ミコーバーの現代の読者にとっての魅力は、果してどこにあるのだろうか。
 どんな不運に見舞われても、いつも「そのうち何とかなるだろう」と、のんびりきめ込む、そのしぶとい庶民のヴァイタリティ、いわば草の根のオプティミズムだろうか。
 しかし、この点となると少し怪しくなって来る。というのは、ミコーバーがそのピンチから脱するのは、決して自分自身の力によるものではないからだ。精神的には「絶対に主人を見すてませんわ」と繰返し繰返し(中略)断言する健気なミコーバー夫人の援助によって、しかし、もっと実質的には、金を貸してくれる上に、返して貰うことなど全然あてにしていない親切な友人(中略)の犠牲的奉仕によってである。(中略)社会的見地からすればまさに社会の害虫であり、抹殺すべき存在だろう。」
「ミコーバーの言葉使いもそうであるが、彼の行動そのものが、因果律への挑戦ないし嘲弄になっている、という事実に注目しよう。ミコーバー語録のどれでもいいから一つをとって、眺めてみるとわかるように、あの有名な「要するに……」は、全然要していない。普通の議論の中でしばしば果しているような、問題の弁証法的発展の役割を決して果していないのだ。議論の場合、前提となるべき事実を提示し、それについてのさまざまな論理的操作を展開し、最後に「要するに……」と言った時には、当然聴き手は、ここで議論が一段階上の次元で要約され、結論がひき出されると予想するだろう。それが論理における因果関係の常識的帰結である。ところが、ミコーバーの「要するに……」は、少しもアウフヘーベンしない。前と同じ次元ですらない。前よりずっと下の日常的で平凡卑俗な次元へと転落する。ここにおかしさが発生するのだ。つまり、レトリックにおける「泰山鳴動ねずみ一匹」であって、因果律にアンチ・クライマックスの肩すかしをくわせ、笑いのめそうというわけである。
 ミコーバーの実際行動も、すべてこれと同じパターンを踏んでいる。いちばん簡単なこととして、ものを食べたりすれば、その結果としてつけが来る、というのが一般の常識であるのに、彼はそれを無視する――というより、むしろ、知っていて無視するのではなくて、その因果関係にあらかじめ気づくことができないのだ。だから、勘定取りが来ると当惑し、うろたえる。ミコーバー夫人の言うように、「石から血を絞り出すわけにはいきませんわ。主人からもいまのところは、何をしたって一文も出るわけありません」という次第なのだ。彼のお得意の「そのうち何とかなるだろう」にしても、ある前提があるから、つまり、これこれの事実があるから、または、しかじかのことをやってあるから、そのうちどうにかなるという帰結が到来するわけではない。ただ、そのうち何とかなるだろう、なのである。つまり、因果律への完全な――そして無意識のうちの――挑戦だ。
 ミコーバーにあやかって、偉そうな大弁舌をふるうわけではないが、西欧の近代科学思想のめざましい発達の母胎となったもの、それこそがこの因果律であった。だから、この観念がその栄華の極みに到達したのが、十九世紀であったことも容易に理解できるだろう。学問や日常生活のみではなく、文学もまた、この因果律の洗礼から免れることができなかった。」
「普通「ビルドゥングスロマン」と名づけられた小説は、一人の主人公――主として若者――を中心として、この自由意志と因果律の鎖がもっともはっきりと現れ出る種類のものだから、十九世紀から二十世紀の初期にかけて、世界でもっとも流行したことに不思議はない。ディケンズもご多聞に洩れずこのジャンルに、つねづねゼスチャーを示していたことは、周知の事実である。そこで問題なのは、『デイヴィッド・コパーフィールド』が、ディケンズの書いたビルドゥングスロマンの一つであるかどうか、という点であるが、(中略)ただ一つ言えることは、少くともミコーバーは、絶対にビルドゥングスロマンの主人公にはなれない、ということだ。
 それは何も、彼が中年男で、若者の特権たる未来への可能性を持っていないから、という理由からではない。むしろ逆に、永遠の若者でありすぎるからだ。(これがもっとひどくなると、『荒涼館』のハロルド・スキムポールで、彼は「大人の子供」と自ら任じている。)ミコーバーはある状況の下で一つの行動の撰択を意識的に行い、その結果に対して全責任を取りつつ、また次の行動の撰択に進む、というような生き方はとてもできはしない。彼の行動はいつも行き当りばったり――つまり過去の何かの結果でもなければ、未来の何かへの原因でもない。ある人生の重大事を経験して、その結果精神に大きな刻印が残され、それが次の行動の方向を決定するというような、人生体験の積み上げはまるっきりないのだ。」
「彼にとって、体験の蓄積などというものは考えられないことで、いわば賽の河原に積んだ石が、オートメイション機械によって崩されるようなものだ。(中略)ミコーバー氏の困窮の体験という石は、ある一定のところまで達すると、誰か、あるいは何かによって――それが誰だろうと何だろうと、彼にとってどうでもいいことだ――まるで自動装置によるかのように、消えてしまう。だから、彼の人生は永遠のもとの黙阿弥、西洋音楽に一時流行した「無窮動」なのだ。
 少々脱線気味になるが、ついでに申し添えておきたい。この「無窮動」の比喩は、決して一時の気まぐれから湧いて来たものではない。科学者にとって見果てぬ夢であったこのアイデアを、(中略)音楽家たちが、好んで一種の遊びの音楽として採り上げたのは、西洋古典派音楽の礎石ともいえるソナタ形式に対する、一つの やゆ だったのではないか、と私は考えるからだ。二つの極めて対立的な(中略)しかし互いに関連する調性で書かれてある複数の主題を提示し、展開し、次に一つの共通調性にまとめて再現し、終結させる、というソナタ形式は、因果律にしはいされた世界の現象の弁証法的解釈の典型であって、これがビルドゥングスロマンとともに、十九世紀に最盛期を迎えたというのは、偶然ではなかろう。それに反して、あるところまで進むと完全に最初に戻って、何の変化も展開もなく、全くの繰返しとなり、途中思いがけないところでふっと消えてしまう「無窮動」は、まさにピカレスク小説である。」
「余談はさておき、このミコーバーの生きざまは、私たち現代人にある興味ある事実を思い出させてくれる。二十世紀の現在に生きる私たちは、私たちの人生がある一定の方向に向って着々と進み、弁証法的発展を遂げる、ビルドゥングスロマンであるとは、もはや素直に信じられなくなっているのだ。それは何も、レイモン・クノーやサミュエル・ベケットの不条理ドタバタ小説を耽読しすぎたからではあるまい。人生の根元にあるという因果律そのものを、うさん臭く感じるようになったからだ。例えば一人の人間のこの世における存在は、果して因果律によって始まったものかどうか。私という人間(中略)が、まさに性的偶然によって、行き当りばったりに、何ということなくこの世に現れて来ることは、誰でも知っている。先刻以来ミコーバーお得意の言葉として引用した「そのうち何とかなる」を原文により忠実に訳すならば、「何かが現れる」――'Something turns up.'――となるが、この言葉こそ人間誕生を記述する、もっとも正確な表現ではないか。」
「主人公の行く先ざきで、何度も何度もひょっこり「現れる」ミコーバー氏は、何か象徴的存在、(中略)アーキタイプとしての人間ではなかろうか、とさえ思いたくなって来る。しかも、そう考える理由が、まさに彼がいつまでたっても発展しない人間だから、E・M・フォースターのいわゆる完全に「フラット」な人間だから、因果律の世界から閉め出されて、偶然律のまにまに生きているから、という点に存するのだから、ますます面白くなって来る。」
「私たち二十世紀の人間が、ミコーバーというキャラクターの中に見出すことのできる魅力は、十九世紀という因果律大帝国の遺跡の中に発見した、一つの偶然律の破片のもたらす驚きである。普通それは、それ以前に亡びてしまったピカレスク小説の名残り、と言われている。確かに、現象としてはその通りであるのだが、いまになってわかってみると、それは次に来るべきもの、その大帝国自身が崩壊してしまった後に来るべきものの予告でもあった。世界というものが、明確な「はじめ」と「終り」を持ち、時間が常に一定方向に向って着々と進むのであれば、そしてそのような線状(リニアー)の世界のどこか途中に置かれた個々の人間が、やはり時間に沿って一定方向に向って人生の旅をしているのならば、因果律とビルドゥングスロマンとは厳然として君臨するだろう。一度過ぎ去ったものは、二度と戻ることはない。結果から原因へと逆にさか上る可逆反応は、起り得ないのだ。
 だが、もし、ひょっとして、その線的(リニアー)な世界観自体が信じられなくなったら、どうなるだろうか。世界がもし無限の円環運動を続けている(何世紀も昔にヴィコはそう言った)のだったら……そして因果律の規制から自由になってしまったら……
 その時、ミコーバー氏の「要するに……」は、無意味で滑稽なたわごとであることをやめてしまうだろう。(中略)デイヴィッド・コパーフィールドが成功した社会からは、笑うべき変り者、社会の害虫、適応不能な追放者として、オーストラリアに島流しになってしまう人も、この世界へだったら、すぐに舞戻って来ることができるはずだ。なぜなら、そこでは厳格苛酷な「原因」というものがなくても、「何か」が、あるいは「誰か」が、必ず「現れ出る」に違いないからである。その誰かとは、言うまでもない。人間の不滅のアーキタイプ、(中略)テイル・オイレンシュピーゲル(中略)のように、もっこ担ぎのフィネガンのように、何度でも死と再生の偶然のドラマを永遠に経験できるもの、要するに――ウイルキンズ・ミコーバーのことだ。」



「物量の饗宴」より:

「実際ディケンズの作品の大都会の情景の中で、特に注目に価するもののかなり多くが、夜の散歩の際になされた観察であったことは記憶しておいてよいだろう。」

「ディケンズの言う「ロマンチック」とか、「実人生」ないし「日常生活のロマンス」とは、まさに「平凡の中における異常」ということであり、ゴシック的な古城の暗闇の中に鎧冑を着けた幽霊が出て来るのではなく、ランプの明かりでぼんやり照らされた夜の大都会を舞台に、ありきたりの市民によって演じられる、奇妙なドラマを指す。」






















































































(*゜∇゜)ノThe Raincoats



The Raincoats -
"Go Away" and "
No Sid
e to Fall In"
liv
e



















































































Th・W・アドルノ 『アルバン・ベルク』 (平野嘉彦 訳/叢書・ウニベルシタス)

「彼は、つねに放心しつつ生きることをのぞんだのである。」
(アドルノ 『アルバン・ベルク』 より)


テーオドール・W・アドルノ 
『アルバン・ベルク
― 極微なる移行の巨匠』 
平野嘉彦 訳

叢書・ウニベルシタス 125

法政大学出版局 
1983年10月20日 初版第1刷発行
1993年8月30日 初版第3刷発行
iv 277p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,987円(本体2,900円)

Theodor W. Adorno : Berg. Der Meister des kleinsten Ubergangs, 1968



作曲家アルバン・ベルクの弟子アドルノによる、アルバン・ベルクの人と作品。
本文中「譜例」34点。


アドルノ ベルク 01


目次:

序言

音調
回想
作品
 楽曲分析とベルク
 『ピアノ・ソナタ』
 『ヘッベルとモンベルトの詩による歌曲』
 『初期の七つの歌曲』
 『弦楽四重奏曲第一番』
 『アルテンベルク歌曲集』
 『クラリネット小品集』
 『管弦楽小品集』
 『ヴォツェック』の性格規定のために
 『室内協奏曲』のためのエピレゴメナ
 『抒情組曲』
 演奏会用アリア『酒』
 『ルル』覚え書

作品目録
本文解題

訳者あとがき



アドルノ ベルク 02



◆本書より◆


「音調」より:

「彼の音楽は、本来けっして主題を設定しないように、そもそも自己自身を措定するということがないのである。いかなる種類の我執も、そこには無縁である。エネルギーも能動性も、ベルクにあっては、形成の過程のなかに解消されてしまっている。その結果生じるのは、受身のままに従容として流れおちていく何ものかである。それは、けっして鏡に映るおのが姿にみとれることもなく、鷹揚の身振りをもってはいるが、ベルクの人柄に根ざしているこの身振りは、自己消滅の瞬間を即自己実現の瞬間として祝うヴァーグナー流の忘我の、かつてほとんど達しえなかったところのものであった。ヴァーグナーにとっては、無意識はつねにこのうえない悦楽でありつづけるのに比して、ベルクの音楽は、おそらくは我を執することなきもののみが破滅を免れうるという暗黙の希望をいだきつつ、自己自身を、そしてそこで語りつつある主体をも、みずから空疎のゆえをもって放下するのである。ベルクを過去の伝統と併せ考えるとしても、比較すべきは、ヴァーグナーよりもむしろシューマンであろう。かの『幻想曲ハ長調』が最後に広大無辺の彼方にあふれでていきながら、さりとておのれ自身を解脱したものとして聖化するわけでもなく、それどころかわが身に思いをいたすことすらない、それは、ベルクの音調の内奥の秘密を先取するものである。もとよりそうした親和力によって、彼は、音楽史において健全と称するところの、曰く生への意志、肯定の姿勢、幾たびもくりかえすあるがままの讃美、そうしたことどもにきびしく対立する。俗見さながら世におこなわれる音楽的判断基準に巣食っている、度しがたい、この健全さなる概念は、実は画一主義と共謀している。健全さは、生存競争において強者たることを誇示しうる者、すなわち勝者となれあっているのである。ベルクは、晩年のシューベルトやシューマンや、そしておそらくは、その音楽において逃亡兵の側に身を投じるマーラーの先例にならって、そうした協定の破棄を通告する。手ずからこころをこめて辛抱強くとぎすまされたその音楽が、縁なき衆生には、シェーンベルクほどの切れ味の鋭さをみせることがないのは事実であるとしても、その分ラディカルかつ衝撃的であるのは、ベルクなりの人間性の象徴たる弱者、敗者にたいする、その執着ぶりである。当代のいずれの音楽をとってみても、彼の音楽ほどに人間的なものはなかった。そして、それこそが、人間どもからベルクの音楽を遠ざける所以なのである。」


「回想」より:

「自己にむけられたイロニーと、彼の作品のなかで忍耐強い自己批判としてあれほどまでに並はずれてゆたかな成果を生んだ、かの懐疑とは、彼の自恃をまえにしても、とどまるところを知らなかった。彼は、あるとき、笑いながら私にこういったことがある、「作曲しているときには、私は、いつもベートーヴェンになったような気分でいるのだが、あとになってからようやく、自分がたかだかビゼーにすぎないことに気がつくのだ」と。自身の物事にたいしてさえむけられる彼の不信のなかには、人疎しさならぬ我疎しさともいうべき何ものかが感じられた。ベルクは、白昼夢に耽る者のなかなかに醒めやらぬ目付きでみあげては、太古的なまでに大きな仕草で、立居するのであった。」
「彼は、何事にも徹底的に反応した。彼の穏和さは、一瞬たりとも、既存のものと妥協することはなかった。この孤独者は、突如としてあらゆる偽りの平和を破壊しかねなかった。」
「彼は、つねに放心しつつ生きることをのぞんだのである。」
「彼は、多くをのぞみはしたが、何も期待してはいなかった。」

「過ぎ去りしものへの、父祖の世界への、彼の奇妙な偏執、そしてまた、おそらくは不安にまで昂じていくシェーンベルクへの従属」
「自分の病気の心理的要因をさえ、彼は洒落のめしていた。微恙のおかげで、彼は、手厚く看護される病人にのみ許される、しばしば至福にみちた幼児の世界にたちかえることができた。総じていえば、彼は、いくらかのめりこむように、病むことに固有の多幸症的な特性を享受していた。神経症的な症状は、表にあらわれるものもすくなくなかった。たとえば彼は、鉄道コンプレックスに悩んでいた。彼は、列車に遅れまいとして、原則として早目に、ときには数時間も早く、姿をあらわすのであった。あるときには、彼自身語るところによれば、発車時刻の三時間まえにそこに着いてしまって、それでいてなお列車に乗り遅れる始末であった。」

「彼には、ただ偉大な芸術家たちにのみ許されるような何かが与えられていた、すなわち下界にあって、いまだまったき形をなさぬ有象無象が至高の存在へと変容する、そうしたある領域に参入する資格であり、それは、もっとも遠くはバルザックに比すべきものがある。ベルクは、バルザックに、とくに『ヤコブの梯子』に痕跡をとどめているシェーンベルクの神智学の主たる典拠のひとつである『セラフィタ』に、強くひきつけられていた。」

「はたしてベルクは、およそピアノの名手などではなかった。むしろ、当然のことでもあろうが、楽器の熟練にたよるようなあらゆる作曲にたいして、不信感をいだいてもいた。」

「彼は、バルトークにたいしては、おおいに敬意をはらいつつ、その『弦楽四重奏曲第四番』に『抒情組曲』の影響を認めて、それを誇りに思っていることを隠さなかった。ただすこしばかり彼を傷つけたのは、ときおりウィーンへ足をむけるバルトークが、けっして彼のもとへも、あるいはまた他のシェーンベルク楽派の誰彼のところへも、姿をあらわさなかったということであった。しかし、両者の気質、ベルクの都雅とこのハンガリー人の一徹なまでの無愛想とは、およそ相容れないものであった。」

「ベルクの外的な生活は、困窮とたたかいつつ辛うじてたちゆく生活であり、つねにその影を背負っていた。ヘレーネ・ベルクが彼のためにつくしたあらゆる努力のうちで、さまざまな労苦を、とにもかくにもそれがめだたぬように克服しえたことは、やはり大きかった。二人がひそかにどれほどの不如意を忍んでいたのか、彼らの生活をとりまく周囲の人たちにとっては屈辱でしかないような心配事に、どれほどの時間を費やしたか、それは、おそらく二人の自尊心のみが語りうることであろう。しかし、個人にとっては、貧富とは、即無条件に事実上の経済状態と一致するわけでもなく、市民社会の内部では、たしかにそれは別物であった。私は、たとえば高名な大学教授や放送局のディレクターで、高禄を食みながら、どこか貧乏くささから抜けきれない、そうした人たちを知っていた。逆に、その日暮らしのくせして、貧しいという印象をけっして与えない人たちもいる。そのひとりがベルクであった。その雰囲気は、文字どおりどこか王侯貴族的なものをただよわせていた。」

「彼は、独特の単子論的な身構えによって、個人の自己保存の不可侵なる世間的ルールを遵守し、その鎧のしたでみずから無傷でありおおせようとした。私が彼の知遇を得た十一年間に、私は、たえず多少の差はあれはっきりと、彼は経験的人格としてはどこかしら上の空で、こころここにあらぬていで存在している、という印象を禁じえなかった。(中略)彼は、実存なるものの理想が讃美してやまぬ自己同一性など、所詮もってはいなかった。彼には、(中略)独特の近寄りがたさ、さらには超然とした傍観者的な風貌があった。情念でさえも、彼がそれに身をゆだねるときには、芸術作品の素材に一変してしまうのだった。(中略)ベルクの経験的現存在は、生産の絶対的優位のもとにあった。彼は、われとわが身をその道具として彫琢した。そして、彼が獲得した世才も、もっぱらみずからの身体の虚弱さと心理的な抵抗とからむりやりにでも作品をつかみとることを可能にする、そうした条件をつくりあげる作業にむけられていた。彼は、おのれがつねに死に近くあることを知っておればこそ、生を空蝉と観じつつ、無情にも我執にも陥ることなく、持続するやもしれぬものにのみ、ひたすら思いを託したのである。かつてベルリンで、彼は、地下鉄の線路上から、もう一秒でも遅ければ轢かれてしまっていたであろう乗客を救いあげたことがある。根本においては、彼は、すべてを、もっとも大事なもの、すなわちみずからの命数さえも、捨て去る覚悟ができていた。人間的な事柄にたいして彼がたもっていた距離は、人間たちのあいだで人間的でとおっている事柄よりも、はるかに人間的であった。彼は、おのが生に執着することもなく、その生は、ナルシス的でありながら同時に無私であること、さながら但書条項に含まれているかのようであった。彼のイロニーも、おそらくそこに由来している。(中略)ベルクは、のぞみうるかぎりもっとも家父長には遠い存在であった。彼の権威は、権威的資質を完璧に欠いていた。彼は、幼児期にとどまることなく、それでいて大人にならぬことに成功したのであった。」




















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本