FC2ブログ

メアリ・ダグラス 『汚穢と禁忌』 塚本利明 訳

「時として奇妙な変種あるいは個体が出現すると、人間はそれに対してなんらかの嫌忌反応を示す。(中略)けれども人間が人間としての経験を重ねるうちに、自分自身がそれほど正確に宇宙的原理に一致していないことを知るようになる。」
(メアリ・ダグラス 『汚穢と禁忌』 より)


メアリ・ダグラス 
『汚穢と禁忌』 
塚本利明 訳


思潮社 
1985年9月25日
338p(うちモノクロ口絵図版4p) 
「再版へのあとがき」1p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円



本書「訳者あとがき」より:

「本書はメアリ・ダグラス女史(Mary Douglas)の著書 Purity and Danger - Analysis of Concepts of Pollution and Taboo, 1966, の全訳である。」


本書「再版へのあとがき」より:

「このたび旧訳の再版にさいして、本文および訳注について最小限の修正を加えさせていただいた。」


ダグラス 汚穢と禁忌 01


目次:

謝辞
緒言

第一章 祭祀における不浄
第二章 世俗における汚穢(けがれ)
第三章 利未(レビ)記における嫌忌
第四章 呪術と奇蹟
第五章 未開人の世界
第六章 能力(ちから)と危険
第七章 体系の外縁における境界
第八章 体系の内部における境界
第九章 体系内における矛盾
第十章 体系の崩壊と再生

訳者あとがき (1972年2月)
文献表
再版へのあとがき (1985年3月)



ダグラス 汚穢と禁忌 02


ダグラス 汚穢と禁忌 03



◆本書より◆


「緒言」より:

「社会とは中立的な、外圧のない真空中に存在するのではない。それはさまざまな外部的圧迫に曝されている。つまり、その社会と一体でないもの、その社会の一部でないもの、その社会の規範に従わないものはすべて、それに反逆する可能性を蔵しているのである。社会の境界や周辺部に対するこのような圧力を記述するにあたって、私は社会を実際以上に体系的なもののように描きあげたかもしれない。けれども、当面問題となる各種の信仰を理解するためには、そのようにして過度に体系化した表現こそが必要であるのだ。何故ならば、私の信ずるところでは、隔離、潔浄(きよめ)、境界の設定、侵犯の懲罰等々に関する観念は本来無秩序な経験を体系化することを主たる機能としているからである。多少とも秩序に近いものが創出されるのは、内と外、上と下、男と女、敵と味方といったものの差異を拡大し強調することによって初めて可能になるのである。」

「汚穢(けがれ)の考察とは、秩序の無秩序に対する関係の考察を意味し、存在の非存在に対する関係、形式の無形式に対する関係、生の死に対する関係等々の考察を意味するであろう。」



「第二章」より:

「汚(けが)れに関する我々の概念から病因研究と衛生学とを捨象することができれば、そこに残されるのは、汚物とは場違いのものであるという例の定義であろう。 これはきわめて示唆に富んだ方法である。 それは二つの条件を含意する。 すなわち、一定の秩序ある諸関係と、その秩序の侵犯とである。 従って汚(けが)れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない。 つまり汚れのあるところには必ず体系が存在するのだ。 秩序が不適当な要素の拒否を意味するかぎりにおいて、汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物なのである。」
「我々のもっている汚れの概念を検討すれば、それは体系的秩序において拒否されたあらゆる要素を包含する一種の全体的要約ともいうべきものであることを認め得るだろう。 それは相対的観念なのである。 靴は本来汚(きたな)いものではないが、それを食卓の上に置くことは汚いことなのだ。 食物はそれ自体では汚くないが、(中略)食物を衣服になすりつけたりすることは汚いことなのである。 同様に、応接室に浴室の器具を置いたり、(中略)戸外で用いるべきものを室内にもちこんだり、上衣を着るべき場合に下着でいたり等々のことは汚いことなのである。 要するに、我々の汚穢に関する行動は、一般に尊重されてきた分類を混乱させる観念とか、それと矛盾しそうな一切の対象または観念を非とする反応にほかならないのだ。」
「右のような定義を与えれば、汚れとは、我々の正常な分類図式から拒否された剰余ともいうべき範疇のように思われる。」

「我々が知覚する一切のものは、知覚者たる我々が主として構成するパターンに組み込まれると思われる。」
「すなわち、我々は知覚者として、五感に感じられるあらゆる刺戟の中から自己に関心があるものだけを選択するのであり、我々の関心は、時に図式(スキーマ)と呼ばれるパターン形成作用によって支配されるのである(中略)。混沌のまま推移していくもろもろの印象の中にあって、すべての人は安定した世界を――つまり、そこでは対象が認識可能な形態をとり、心の奥深くに位置し、永遠性をもち得るような世界を――構成するのだ。我々が知覚するとき、我々は形成作用を行なっているのであり、ある手懸りを取り上げると同時に別の手懸りを排除しているわけである。最も受け容れ易い手懸りは、形成されつつあるパターンに最も適合し易いそれである。(中略)矛盾する手懸りは拒否される傾向がある。もしその種のものが受け容れられるとすれば、一応形成された構造の全体が修正されなければならないからである。知識が進むにつれて、名辞をもつ対象は増えてくる。対象のもつ名辞が今度は、次に同種の対象が知覚されるときのやり方に影響を与える。つまりひとたび対象に名辞が与えられると、それ以後その種の対象は一層分類され易くなるといったわけなのである。
時が経ち、経験が豊富になるにつれて、我々はますますそういった分類法に力を注ぐことになる。そこに保守的偏向が組み込まれてくる。それは我々に自信を与える。新しい経験に対応するためには、すでに形成された体系をいかなるときでも修正しようとしなければならないのに、ある経験が過去のものと一致していればいるほど、我々は自分が仮定した体系を信じ込んでしまうのである。そういったものにどうしても適合しない不愉快な事実があると、それらが既存の仮定を混乱させないように、我々はそれを無視したり歪曲したりしてしまう。」

「私はここで、異例なるもの(アノマリー)と曖昧なるもの(アンビギュイティ)とを同義に用いることに対して弁明をしておきたい。 厳密にはこの両者は同義ではない。 異例とは所与の体系もしくは系列に一致しない要素であり、曖昧とは二様の解釈が可能な特徴もしくは陳述である。 しかし具体例から考察を進めると、この区別を実際に適用してもほとんど意味がないことが判明するのだ。」

「あるものが異例であるとして明確に分類されれば、そのものを異例として排除するような体系の概要が明らかになるわけである。」

「異例なるものを扱うにはいくつかの方法がある。 消極的には、それらを無視する――つまりそれらを全く知覚しない――こともできるし、それらを知覚しても否定することもできる。 積極的には、異例なるものに慎重に対処し、それを容れるべき場をもった、現実のパターンを新しく創ろうとすることもできる。 ある個人が自分だけの分類体系を改めることなら不可能ではあるまい。 しかし、いかなる個人も孤立して生きることはないのであり、彼の体系はたぶん、いくぶんかは他の人々のものを受け容れたものなのである。 ある共同体において標準化された公的な価値という意味での文化は、多くの個人の経験を調和させたものである。 それはあらかじめ、いくつかの基本的範疇を――つまり、もろもろの観念や価値を整然と秩序づけている積極的パターンを――設定している。 そしてとりわけ、それは権威をもっている――何故ならば、他の人々がそれを認めている以上、誰もがそれを認めざるを得ないからである。 けれどもそれが公的性格を有しているため、その範疇は一層硬直したものになる。 個人ならば自己の仮定した体系を自由に改めることができるだろう。 それは彼一人の問題だからである。 しかし文化的範疇とは公的なものである。 この範疇を改めることはきわめて困難である。 にもかかわらず、それは異例なる形式の挑戦を無視することはできないのだ。 いかなる分類体系も異例なるものを生まざるを得ないし、いかなる文化もその前提条件に公然と反抗するような事象に直面することは避けられない。」
「第一には、なんらかの解釈で満足することによって曖昧なるものが消失することが多い。例えば、奇形児が生まれたような場合には、人間と動物との境界線が脅かされることになるだろう。 しかし、もしこの奇形児がある特別な種類の事象だと分類されれば、もとの範疇は恢復される。 そこで、ヌーア族は奇形児を、たまたま人間から生まれた河馬の子供として取り扱う。 このように分類すれば、それにふさわしい処理は明らかであろう。 彼等は奇形児を、本来の棲家である川に(中略)入れてやるのである。
「第二に、異例なるものの存在を物理的に管理するといったこともあり得る。 例えば、ある西アフリカの種族においては、双生児は出産に際して殺さなければならないという掟が存在するのであり、そのために社会的異例が(中略)除かれることになる。 あるいは、夜中に啼く鶏(にわとり)の例をとってもいい。 もしそういった鶏の首を速かにひねってしまえば、その命は失われて、夜明けに啼く鳥を鶏とするという定義に矛盾が生ずることはなくなるのである。」
「第五に、曖昧なる象徴は、祭式において、詩や神話でそれが用いられると同一の目的のために――つまり、生の意味を高めるためとか、存在の別の次元に注意を喚起するために――用いられることがある。 最終章において我々は、祭式が異例なるものの象徴を用いることによって、一元的で壮大な統一的パターンの中に、いかにして生と善ばかりでなく、悪と死をも一体化し得るかを見るであろう。
結論的にいおう。 もし不浄(アンクリーンネス)とは場違いのものであるということができるとすれば、我々は秩序の観念を通して不浄の問題にとり組まなければならないのである。不浄もしくは汚物とは、ある体系を維持するためにはそこに包含してはならないものの謂いである。このことの認識が、汚れ(ダート)に対する洞察の第一歩であるのだ。 我々は聖なるものと世俗的なるものとの明確な区別を見出す必要はないだろう。(中略)更にまた、我々は未開人と現代人との間に特別な区別を設ける必要もないであろう。 何故ならば、人間はすべて同一の規範に支配されているからである。」



「第六章」より:

「無秩序が形式(パターン)を破壊することは当然であるが、一面では形式の素材を提供する。一方秩序は制約を意味している。秩序を実現するためにはありとあらゆる素材から一定の選択がなされ、あらゆる可能な関係から一定の組み合わせが用いられるからである。従って無秩序とは無限定を意味し、その中にはいかなる形式も実現されてはいないけれども、無秩序のもつ形式創出の潜在的能力は無限なのである。これこそが、我々が秩序の創造を求めながら、ただ無秩序を否定し去るといったことをしない理由である。我々は、無秩序が現存する秩序を破壊することは認めながら、それが潜在的創造能力をもっていることをも認識しているのだ。無秩序は危険と能力(ちから)との両者を象徴しているのである。
祭式は無秩序のもつ潜在的能力を認めている。精神の混乱において――つまり夢、失神状態および狂気において――祭式は、意識的努力によっては到達し得ない能力(ちから)や真実を見出そうとする。意のままに人々を支配する能力や病者を癒す能力は、一時理性的抑制を放棄し得る人々に与えられるとされるのだ。アンダマン島の住民は、時に自らが属する集団を離れて狂気のように森林を彷徨(さまよ)うことがある。彼が正気に返り人間社会に復帰するときには、病者を癒す神秘的能力を得ているという(中略)。」
「こういった信仰の中には、混沌たる世界に対する二重の働きかけがある。つまり、第一に、精神の混乱した領域への冒険的没入があり、第二に、社会の限界を超えようとする冒険的試みがあるのだ。このような近づき難い領域から帰還した人々は、理性と社会との支配内に留った人々には得られない一つの能力(ちから)を獲得するのである。」



「第十章」より:

「こうしてすべてが崩壊した最後の段階では、穢れは完全に明確な形態を失う。ここで一つの円環(サイクル)が完成したのである。穢れとはもともと精神の識別作用によって創られたものであり、秩序創出の副産物なのである。従ってそれは、識別作用の以前の状態に端を発し、識別作用の仮定すべてを通して、すでにある秩序を脅かすという任務を担い、最後にすべてのものと区別し得ぬ本来の姿に立ちかえるのである。従って、無定形の混沌こそは、崩壊の象徴であるばかりでなく、発端と成長との適切な象徴でもあるのだ。」

「このように考えれば、不浄が最後の相を帯びたとき、それは創造的混沌にふさわしい象徴となるであろう。しかし、不浄なるものがその力を獲得するのは、その初期の相からなのである。つまり、秩序の限界を侵すことによって招かれる危険こそが能力(ちから)となるのである。善き秩序の破壊をもたらそうとする不安定な辺境部や外部から襲来する力は、宇宙に内在するもろもろの能力を表象している。善き秩序のためにこれらの能力を利用し得るときはじめて、祭式は強力な効果をもつことになるのだ。」





こちらもご参照ください:

井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)
レスリー・フィードラー 『フリークス ― 秘められた自己の神話とイメージ』 (伊藤・旦・大場 訳)
















































































スポンサーサイト



松岡正剛 『ルナティックス』 (中公文庫)

「世の中、ルナティックな一派がいささか見えにくくなっているように思う。ルナティックであろうとするとは、世の中からの誤解を恐れずに、月光りんりん、断乎として非生産的な夜陰の思索に耽けるということなのである。堀口大學の「月下の一群」に与することなのだ。」
(松岡正剛 『ルナティックス』 「文庫版あとがき」 より)


松岡正剛 
『ルナティックス
― 月を遊学する』
 
中公文庫 ま-34-4 


中央公論新社 
2005年7月25日 初版発行
342p 
文庫判 並装 カバー
定価933円+税
カバーデザイン: 松田行正


「『ルナティックス――月を遊学する』 一九九三年八月、作品社刊」



本文中図版(モノクロ)30頁。


松岡正剛 ルナティックス 01


カバー裏文:

「いかがわしいほどに高貴で、すましているのに何をしでかすかわからない――。“月明派”を自認する著者が、文学から奇想科学、神話、宗教、現代思想、先端科学に至る古今東西の月知を集成した「月の百科全書」。長年の月への憧れを結晶化させた美しい連続エッセイ。」


目次:

睦月 月球儀に乗って
如月 遊星的失望をこめて
花月 月がとっても青いから
卯月 月のタブローは窓越しに
遊月図集 Ⅰ
皐月 月は今宵も遠ざかっている
水無月 お盆のような月が出る
文月 神々はモノリスの月に棲む
葉月 月の女王の帝国
遊月図集 Ⅱ
菊月 熱い月と冷たい月
神無月 花鳥風月の裾をからげて
霜月 遠い月の顚末
極月 今夜もブリキの月が昇った

旧版あとがき
新月 われわれはいかにして月をめざしたか
月神譜
文庫版あとがき

解説 (鎌田東二)



松岡正剛 ルナティックス 02



◆本書より◆


「睦月」より:

「ここにいたって、私は月を擁護するための論陣を断固として張らなければならないとおもったのである。なんとか月にひそむフラジャイルな「かけがえのなさ」や「薄弱な意図」というものを、あるいは月にひそむ悪戯(いたずら)っぽい「気取り」や「邪険な意志」というものを応援しなければならないと決意したのだ。」

「そもそも「ルナティック」(lunatic)という言葉には「月球的」という意味とともに「狂気的だ」という意味がある。「そいつは月球的だ」ということと「そいつはちょっとおかしいぜ」ということとはほぼ同じ意味になる。」
「ルナティックであること、それは平安王朝の感覚語の極北「をかし」という感覚にも近い。もともと私にとってケプラー的幻想は「をかし」であり、ポール・ディラックの電子物理学も「をかし」、ポオの『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』もまた「をかし」なのである。それらは、つまり月球的なのだ。
 ざっとこんな按配で、私は「月」と「月的なるもの」を強い決意で擁護しようとしている。」

「太陽というもの、それは活動をせきたて、いたずらに生産を奨励し、人々に頑丈な健康を押しつけ、法の裁きを決定づける。それに大きすぎるし、熱すぎる。」
「それにくらべ、月はなんともつつましく、なんと清冽で、なんとたよりないダンディズムに包まれていることか。なによりも太陽は熱源であり、月はただ反射をこころがけているだけなのである。これでは、どうみても月の懐かしさに分があると言うべきだ。すでにハネカーが『月光発狂者』の中に次の言葉を綴っていた、「われわれは太陽の暗示のない夢を織り出したいのです」。」



「如月」より:

「ここで「遊星的失望」とは、本書が隠しているアンダーモチーフのひとつであって、もともとは「遊星的郷愁(プラネタリー・ノスタルジー)」から導かれてきた感慨だ。これは、しょせん地球からは脱出できないこの身なのだから、せめて地球に生れてきたことを失望しつつ、けれどもやはり地球にしか生まれえなかった自身の宿世の余分の息を、いっとき届かぬ月に託しつつ、いたずらに月の話などしてみようという、そういう感慨だ。しかも、そのことを誰かに説明したいような、誰にも説明などしたくないような、そんな奇妙な感慨なのである。
 あえて言葉にするのなら、さしずめ種田山頭火の句「月があかるすぎるまぼろしをすする」のようになっていく。まさにこういう幻をすする(引用者注:「幻をすする」に傍点)という感覚なのだ。」



「皐月」より:

「まずもって、月の誕生から始めるのが順序というものだろうが、実はこの最初の問題がいちばん解明しにくい。(中略)なおしぶとく候補にのぼっている仮説は次の四ツである。」
  「a――太陽系の中で地球と月とは一緒に生まれた兄弟である。
  b――太陽系の中で地球が生まれ、月はその地球から生まれた子供である。
  c――太陽系のある場所で地球が生まれ、別の場所で月が生まれた。
  d――太陽系とは別の場所で月は生まれ、何らかの飛行を経て、地球の軌道にとらえられた“もらい子”である。」
「私はどうかというと、(中略)「月の孤立者としての尊厳」を賞揚したいほうだから、どちらかといえば(d)説に近い「月は宇宙の迷走者だった!」に依拠したい。そうではあるのだが、といって、そのための科学的条件を寄せ集める気はあまりなく、もし科学を持ち出すのなら、正直なところ(c)が真相に近いのではないかとおもっているのが現状だ。しかし「科学以上」ということだってある。」



「文月」より:

「しかし、ディアーナの謎を解くことは、きっとヨーロッパのみならぬユーラシア全域にひそむ「月知神」の本質を解くことになる。それは、いまだ一度も正面きって論じられてこなかった歴史である。」
「私はおもうのだが、歴史はディアーナを(ということはまさに「月」をということになるのだが)、彼女のもっている記憶が“原初の記憶”だというただそれだけの理由で、男性原理のメカニズムによって弾き飛ばそうとしすぎたのである。(中略)バッハオーフェンなら母権制社会の解体と結びつけるところだが、おそらくはキリスト教型の国家が管理する物語の出現と関係するのだろうとおもわれる。物語は各地の権力の統括のためにつくりかえられてきたからだ。それは巫女型のシャーマニックな論理が近代社会から完全に消えることを意味していた。」



「葉月」より:

「あえてその未知の原郷に分け入る者もいた。二十世紀初頭でいえば、最後のケルト観念の照射を知るロード・ダンセーニやウィリアム・バトラー・イエイツがその偉大な介入者の代表である。かれらは詩の言葉を使いつつ“直観の月”の構造の内側に入りこみ、その裏側へも回っていった。方法は二つあった。ひとつはダンセーニがそうだったのだが、月をスーパートリックスターにしてしまうという方法だ。」
「月には裏返しの邪険な意図(引用者注:「邪険な意図」に傍点)というものがあり、その月知神的な裏腹の意図をつかんでやることが重要なのである。たしかに月に入門するには、まずもって月光の無常や月影の美学を堪能することもよい。これがなければ何もはじまらない。これはしかし第一歩でしかない。次の段階は、月がわれわれをあしらう準超越的な存在であることである。それはひょっとしてカラクリ仕掛けじゃないのかとおもえることなのだ。とりわけ何か“別のもの”を掠めるという盗賊的な感覚とお月様にはそれが見破られているという感覚とを、ふたつながら結んでしまうことなのだ。(中略)月には何もないから、そこに贅沢を賭けたくなるのだ。
 もうひとつの方法は、イエイツが得意な方法であるが、月の見えない部分からなんらかの消息を耳をすまし目を凝らして聞くということだ。月をヴィジョンそのものとする方法だ。(中略)月の消息なんて何もなさそうなのだが、その何もないところから、何かを聞く。あるときそこに、ふいにシュメール人やエジプト人がシン神やトート神に託した謎の文字が浮かび上がってくる。」
 イエイツは詩やエッセイのなかで「何もないところに神様がいらっしゃる」ということをよく言うが、その何もない場所こそ月だった。」

「ふたたび強調しておくが、月はともかく変なところ(引用者注:「変なところ」に傍点)がいいのである。いかがわしいほどに高貴で、すましているのに何をしでかすかわからないところが月らしさというものなのだ。遠くから見れば光り輝いているくせに、近づくとただ荒涼の土地ばかり、そこがダンディの所以なのだ。」



「菊月」より:

「一般人なら誰だってまずもって太陽を享受するものだ。まぶしい朝の光に生命のかぐわしき発端をおぼえ、健康にはちきれた肉体を太陽からもらおうとするものだ。その王者たる太陽に叛いたラフォルグが少数の人々のみに愛されるしかなかったとしてもやむをえなかった。」
「なにも私は白昼を嫌って真夜中に心酔しようという鳥目人をめざすわけではない。ただ、「太陽は野暮だ、月は粋だ」と断言しているだけなのだ。「鉄屑色の空にむかって、そこでは月が自分の葬式をしているのだ」(ピエロたちの話)といった倫理が太陽に欠けているのは、致命傷ではないかと言っているまでなのだ。」
「ラフォルグにとって、太陽は「生活」のことだったにちがいなく、彼は生活を脱して魂が抽象化されることを希んだのである。」

「私はこの、無の発祥(引用者注: 「無の発祥」に傍点)に立ち会おうとするラフォルグの立場に「遊星的失望者」というすばらしい称号を贈る。誰がこの宇宙を闇からひきずりだしたのか。ラフォルグのこの苛烈な問いこそが、私の主題「香ばしい失望」にふさわしいものなのだ。これは絶望ではない。もはや絶望はチャチなのだ。」



「霜月」より:

「もはや「月」とは必ずしも「月そのもの」であるのではない。(中略)「月的なるもの」が魂におよぼす玲瓏な月色の飛沫こそ主題となってきたのである。月はその幽かな発振体であればよい。」


「極月」より:

「歴代の月光派三傑は、ヨハネス・ケプラー、ジュール・ラフォルグ、そして稲垣足穂だろう。三人は三人とも月を多く語っただけではなく、月魄の精神の大いなる所有者でもあった。ツクヨミこのかたの月魄の精神こそ、今日のわれわれにおける最も巨きな忘れ物なのだ。」


「文庫版あとがき」より:

「最近は月に関する本がふえてきた。(中略)それはそれで結構だが、どうも月的ではない。(中略)本気のファンタジーがなくなっているのだ。危ういほどのフラジリティが光っていないのだ。(中略)月を選ぶということは、月にのみ加担をするということなのだ。(中略)私は月に関しては過激でありたいのである。(中略)だから、あえて太陽的なるものに対決を迫って辞さない覚悟ももっている。生活的ではないこと、そこにルナティックなることの真相が兆すのである。」

「世の中、ルナティックな一派がいささか見えにくくなっているように思う。ルナティックであろうとするとは、世の中からの誤解を恐れずに、月光りんりん、断乎として非生産的な夜陰の思索に耽けるということなのである。堀口大學の「月下の一群」に与することなのだ。この一冊の文庫がふたたび月明派の台頭を促すことを期待したい。」





こちらもご参照ください:

M・H・ニコルソン 『月世界への旅』 高山宏 訳 (世界幻想文学大系)
Jenny Uglow 『The Lunar Men』
『バルトルシャイティス著作集 3 イシス探求』 有田忠郎 訳
ニコライ・ネフスキー 『月と不死』 岡正雄 編 (東洋文庫)
北村昌士 「月神懸かりて曰く」 (「The OWL 2」 1999年)
『現代歌人文庫 11 山中智恵子歌集』
Michel Butor 『Herbier lunaire』
たむらしげる 『フープ博士の月への旅』
萩原朔太郎 『月に吠える』 複刻版
中井英夫 『月蝕領宣言』
イタロ・カルヴィーノ 『柔かい月』 脇功 訳 (ハヤカワ文庫 SF)
『タルホ事典』



Andrew Wyeth 「Moon Madness」 (1982)
https://sumally.com/p/449879



Camel 「Lunar Sea」 (Album: Moonmadness, 1976)










































岡本隆三 『纏足物語』 (福武文庫)

「中国が生んだ独創的な風習を三つあげるとすれば、まず宦官(かんがん)、科挙(かきょ)そして纏足(てんそく)であろう。」
(岡本隆三 『纏足物語』 「まえがき」 より)


岡本隆三 
『纏足物語』
 
福武文庫 お0701 


福武書店 
1990年8月6日 第1刷印刷
1990年8月13日 第1刷発行
241p 付記1p 
文庫判 並装 カバー
定価600円(本体583円)
装丁: 菊地信義


「本書は一九八六年六月、東方書店から刊行された。」



本文中「図」13点。
初版『纏足』は1963年、弘文堂刊。改訂版『纏足物語』(東方選書 13)は1986年刊。本書はその文庫化。


岡本隆三 纏足物語 01


帯文:

「中国の男たちを
媚惑してやまなかった
「10センチの足」」



カバー裏文:

「清朝末期の纏足禁止令まで約1000年にわたって、中国の男たちは「三寸金蓮」(理想的な纏足の異名)の女を所有(引用者注:「所有」に傍点)することに執着してきた。人類史上空前絶後の奇習・纏足の背後にある、恐るべき人権蹂躙と歪められた貞操観念の交錯の歴史を、秘められた男女関係のエロスを通して究明する。」


目次:

まえがき (1963年11月21日)
東方選書へのまえがき (1986年4月5日)

Ⅰ 纏足の秘密――その誕生と性の開発
 1 中国社会の生んだ奇習
  人体改造手術
  宦官と纏足
  三つの去勢族
 2 纏足の方法と魅力
  足の魅力
  生殺しの施術
  纏足の準備
  布の縛り方
  纏足の順序と奥儀
  「試纏」~「試緊」~「緊纏」
  足の指を折り曲げる「緊纏」
  奇々怪々の施術
  恐怖の竹箸
  施術後どうなるか
  纏足スタイル
  纏足の魅力
  求愛の手段
  纏足百科
  男性の纏足
  纏足速成法
  纏足武器
 3 纏足の起源
  纏足縁起話
  纏足は北宋(そう)に興る
  「新月」形の足
  「金蓮」の系譜
  金の蓮の花を咲かせた足
  美女合徳(ごうとく)の足
  胡旋舞
 4 纏足芸術とその効用
  纏足論は花盛り
  五式・三貴・十八名
  漢字のいぶし
  纏足美の効用
  纏足の魔力
  秘められた官能の開発
  纏足靴の効用
  観光用の纏足族

Ⅱ 纏足の興亡――その社会史的背景
 1 女性と中性の支配した王朝
  男女関係の歴史を描いた纏足
  自由だった男女関係
  居酒屋王朝
  歴史を変えた空閨の恨み
  嫉妬におののく男性たち
  羽根をのばす「内親王」
  すてばちな「皇子」族
  「女寵」政治後宮に悩まされた武帝
  宦官政治の登場
 2 嫉妬・恐妻・媚惑
  母の貞操
  お妾奴隷の「家妓」
  近代的な女性解放の足音
  荒淫・殺人趣味
  記録破りの嫉妬
  恐妻天子第一号
  宮女六千以上
  最大の女性チャンピオン
  女に恐るべきもの三つ
  唐代女性の解放感
  行気の術
  赤い汁
  黒い口紅
 3 貞節の極限化
  「姑悪(こあく)」の声
  「女性」づくり
  鼻と腕を切りおとした貞女
  歪められた貞操観念
  蒙古王朝の嫉妬と名節
  自殺の強制
  お祭りさわぎの貞節
  淫蕩帝と女狐(めぎつね)皇后
  纏足の普及を早めた国難
  纏足に根負けした康熙帝
  歴史的な纏足禁止令
  狂える儒者
  指名手配された中国のルソー
 4 纏足解放
  嫉妬は女性の悪徳か
  女性のユートピア――「女児国」
  纏足と文学
  太平天国とキリスト教女学校
  日清戦争と不纏足運動
  礼教のたそがれ
  魯迅の貞節論
  消滅しない苦痛と嘆き
  解かれた纏足
  「重纏」
  纏足のたそがれ
 5 纏足は現代に生きている
  「あなたは殺されつつある」
  全世界女性の恐怖
  新纏足論

解説 (中野美代子)



岡本隆三 纏足物語 03


「図12 漢族の女性(左)と満州族の女性(右)
満州族の女性はふつう纏足をしなかった」




◆本書より◆


「纏足の方法と魅力」より:

「ところで、中国の女性は纏足すると歩行が不自由なので、どうしても外を出歩かぬようになり、裁縫、刺繍、洗濯、客のもてなし、といった室内での仕事が多くなった。
 その間、三日に一回は布をとって、足を洗い、また巻きつけなければならない。これは一生つづくので、大変な仕事であった。しかも布でしめつけているので、血液の循環をよくするため、散歩が必要で、晴れた日は庭先を、雨の日は室内をぐるぐるまわった。
 だいたい三百六十歩を一里として、毎日五里くらい散歩すると、纏足からくる故障を防ぐことができるといわれた。できれば太極拳(たいきょくけん)を前後十六回くらいやるのが一番いいとされた。
 しかし纏足したからといって遠出をしないわけではない。ただ、布を取りかえる手間が大変であったし、ともかく歩行は不自由だったろう。
 『聊斎志異』の「人間の皮」という篇に、太原(たいげん)の王(おう)という書生が朝早く歩いていたところ、娘が包みをかかえて一人で歩いていた。ひどく歩きなやんでいるふうだったので――これは纏足していたからである――追いついてみたら、十六歳くらいの美人だった、という一節がある。」
「纏足はだいたい揚子江以北がさかんで、山西省が最も盛んであったが、南方の山岳地帯に住む少数民族の間では行なわれなかった。婦人もはだしで山野をかけめぐって労働するからである。
 足の小さい点では、広東を筆頭に、山西省の大同(だいどう)、甘粛(かんしゅく)省の蘭州(らんしゅう)、湖南(こなん)省の益陽(えきよう)、四川(しせん)省の成都(せいと)がこれに次いでいて、纏足の名産地として名高く、とくに大同と蘭州の女性の足については、李笠翁の証明があり、纏足のたそがれ時の民国に、これをまた再確認した物好きな纏足狂がいる。」



「解説」(中野美代子)より:

「ついでながら、ウィリアム・A・ロッシの *The Sex Life of the Foot & Shoe* (New York : Ballantine Books, 1976) も紹介しておこう。(中略)ロッシは、中国人の纏足嗜好を “unnatural” な形態への志向と結びつけている。「アンナチュラル」とは、「不自然な」というより「人工的な」ということである。「無為自然」を尊ぶ気風は中国にもあったが、しかし、自然のままを嫌い人の手を加えることに芸術の神髄を見るのが中国人の一般的な思考方法であった。(中略)バーナード・ルドフスキーも、『みっともない人体』(加藤秀俊・多田道太郎訳。一九七九年、鹿島出版会刊)において、「(中国人は)自然の産物に満足するよりもむしろどんなに粗野な未完成なものであるにしろ工芸品に無限の満足を見い出すものなのである」と述べている。」


岡本隆三 纏足物語 02


「図14 羊の蹄のような纏足(写真)と、X線透視図による靴をはいたときの纏足」




こちらもご参照ください:

大室幹雄 『パノラマの帝国』
中野美代子 『カニバリズム論』 (福武文庫)
中野美代子/武田雅哉 編訳 『世紀末中国のかわら版』 (中公文庫)



















































『山渓カラー名鑑 日本のきのこ 特装版』

『山渓カラー名鑑 
日本のきのこ 
特装版』
FUNGI OF JAPAN
 

編・解説: 今関六也・大谷吉雄・本郷次雄
解説: 青木孝之・内田正宏・前川二太郎・吉見昭一・横山和正
写真: 伊沢正名・木原浩・菅原光二・水野仲彦


山と渓谷社 
1988年11月10日 1刷発行
1995年10月10日 4刷発行
623p 
20.4×21.5cm
バクラム装 
本体カバー 貼函
定価7,500円(本体7,282円)



本書「凡例」より:

「本書は全体が5章で構成された写真図鑑です。章の配列順番は、分類学の順番ではなく、いわゆるきのこ形の馴染みのあるものから並べた便宜上のものです。(中略)また章の配列順は『原色日本新菌類図鑑Ⅰ・Ⅱ』(保育社)と呼応していますので、同書を併用するとさらに情報量が増し、便利かと思われます。」
「各章の「類」というタイトルについて
この「類」は分類学上の言葉ではなく、本書で便宜上使用したものにすぎません。分類学上からみると、巻頭の「日本産菌類科別リスト・目次」のようになり、それぞれの位置するところ及び意味がわかります。」



日本のきのこ 01


内容:

日本産菌類科別リスト・目次
日本のきのこ総論 (大谷・本郷)
凡例・本書の使い方
用語解説
第1章 ハラタケ類 (編: 本郷/解説: 本郷・横山/533種)
第2章 ヒダナシタケ類 (編: 今関/解説: 今関・横山・前川/190種)
第3章 腹菌類 (編: 本郷/解説: 吉見/56種)
第4章 キクラゲ類 (編: 大谷/解説: 青木・大谷/21種)
第5章 子のう菌類 (編: 大谷/解説: 大谷/145種)
あとがき――菌を知ることの意義 (今関)
きのこと料理 (内田)
毒きのこときのこ中毒について (横山)
学名さくいん
和名さくいん
著者紹介



日本のきのこ 02



◆本書より◆


日本のきのこ 03


「コムラサキシメジ」。


日本のきのこ 04


「ルリハツタケ」。


日本のきのこ 05


「スリコギタケ」「ホソヤリタケ」「コスリコギタケ」。


日本のきのこ 06


「モエギホウキタケ」「チャホウキタケモドキ」「ヒメホウキタケ」。


日本のきのこ 07


「カンゾウタケ」。


日本のきのこ 08


「オニフスベ」。





こちらもご参照ください:

中村庸夫・中村武弘 『美しいくらげ』
山田英春 『不思議で美しい石の図鑑』
中野美代子 『奇景の図像学』






















































渡辺隆次 画・文 『きのこの絵本』 (ちくま文庫)

「唐突なはなしだが、ぼくは、この世には居候している、といったおもいが漠然とある。」
(渡辺隆次 「ヤグラタケ」 より)


渡辺隆次 画・文 
『きのこの絵本』
 
ちくま文庫 わ-5-1 

筑摩書房 
1990年9月25日 第1刷発行
237p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価890円(本体864円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 渡辺隆次


「この作品はちくま文庫のためのオリジナルである。」



きのこ画(カラー)23点、きのこデッサン20点、目次頁にきのこカット。


渡辺隆次 きのこの絵本 01


カバー裏文:

「静かなアトリエを求めて八ヶ岳山麓に移り住んだ一人の絵描きは、いつしか四季折々のきのこのとりこになってしまっていた。華奢で美しい色のウラムラサキ、恐しい毒で人を地獄に落とすドクササコ、名前がかわいそうなバカマツタケ……。42種のきのこをめぐるエッセイと美しいスケッチ。絵描きならではのまなざしが、きのこの新たな魅力をひきだし、山歩きをしたくなる一冊。カラー多数。」


目次:

梅雨から晩夏へ
 キツネタケ 狐茸
 ムジナタケ 貉茸
 カワリハツ 変わり初
 ドクベニタケ 毒紅茸
 クロハツ 黒初
 ヤグラタケ 櫓茸
 ケシロハツ 毛白初
 チチタケ 乳茸
 アイタケ 藍茸
 ヤマドリタケ 山鳥茸
 アカヤマドリ 赤山鳥
 ヤマイグチ 山猪口
 オニイグチ 鬼猪口
 ウラムラサキ 裏紫
 アンズタケ 杏子茸
 キチチタケ 黄乳茸
 ヤケアトツムタケ 焼跡紡錘茸
 サナギタケ 蛹茸
 タマゴタケ 卵茸
 ドクツルタケ 毒鶴茸
 ドクササコ 毒笹子
 ベニテングタケ 紅天狗蕈

秋、冬、ふたたび春へ
 ハツタケ 初茸
 アミタケ 網茸
 マツタケ 松茸
 バカマツタケ 馬鹿松茸
 ハタケシメジ 畑湿地
 サクラシメジ 桜湿地
 ハナイグチ 花猪口
 オトメノカサ 乙女の傘
 ホテイシメジ 布袋湿地
 アシナガヌメリ 足長滑り
 クロカワ 黒皮
 コウタケ 香茸
 キシメジ 黄湿地
 ムラサキシメジ 紫湿地
 シモフリシメジ 霜降り湿地
 エノキタケ 榎茸
 アミガサタケ 編笠茸
 ヒトクチタケ 一口茸
 キクラゲ 木耳
 ハルシメジ 春湿地

あとがき
参考文献

解説 人生居候心得 (種村季弘)



渡辺隆次 きのこの絵本 02



◆本書より◆


「ドクベニタケ」より:

「赤い切り餅や和菓子、それに完熟トマト、これらはみな、生前の父が苦手としていた食べ物だ。「父さんはね、変なひとなんだよ」。その父を、母はいつもぼくら子供に向ってとりなしていた。赤味をおびた食べ物を、かたくなに手さえつけなかった父の原因が、なんであったかいまとなっては知るよしもない。」

「キノコ狩りでなんといっても、一番眼につくものは赤い色をしたキノコだろう。
 暗い林床が、赤い傘のキノコで一面に占められてしまうようなことがある。発生地も針葉樹林、広葉樹林を問わない。湿度や気温の他に、どんな条件が重なるのか、年に一、二度は赤いキノコのすさまじい群生の場に出会う。そんなときは、眼も覚めるような鮮やかな赤を、美しいとばかりはいっていられない。なにかキノコたちのたくらみの渦中に巻き込まれてしまったかと、不安にさえなる。」



「クロハツ」より:

「大昔のひとびとにとって、流れ星はさぞかし神秘的であったろう。そのためにしばしば、隕石は崇拝の対象になり、なかでも黒色のものが尊ばれたという。メッカにあるイスラム教徒の聖石、カーバはその代表的なものである。
 黒への崇拝は、そのまま夜の闇への畏怖にも通ずる。幼い頃、あれほど身近にあった夜の闇も、嘘のように忘れ去り、いつのまにか大人になっていた。
 山麓のアトリエ開きは、十三年前の七月下旬、梅雨も終わりよく晴れわたる夏の一日だった。おそい日没と共に、眼前の鳩川渓谷が漆黒の夜気で埋まるのを見て息を呑み、第一夜にして先がおもいやられた。しかし気持を取り直して仰ぐ夜空に、音を立てるほどの星座の瞬きがあり、思い詰めた胸の張りもゆるんだものだ。夜の闇も、もともと昼の光と同じ比重で存在しているのだ。」

「黒は、万物を生み出す力、そして生も死も、光も闇も呑みこむ色彩以前の根源的な色を象徴するようだ。」



「ケシロハツ」より:

「その頃のぼくたちの遊び場のひとつは多摩川だった。八高線の鉄橋近く、滑(なめ)と呼ばれる一帯があった。そこには、河原の石と異なる白い物体がせせらぎに洗われ点々と連なり、夏の日差しを受けて鈍く光っていた。水浴びの際には、義経の八艘飛びと興じたり、馬の鞍に見たて跨ったりもした。足の裏や裸の肌に、ざらざらとした独特な感触だった。
 長じて、ここは古層がむき出しになった場所で、白い物体は実は、全長一六メートルの、クジラの化石であったと知った。」



「ヤケアトツムタケ」より:

「昭和二十年、終戦の年には、東京、大阪をはじめ各地の都市のほとんどが、キレイさっぱり焼野原になった。言うまでもなく、B29の執拗な爆撃による戦禍である。都市といってもその頃までの日本の街並みは、ほとんどが木と竹と紙で建てられていたようなわけだから、ひとたび火が付けば造作もなく灰に帰した。内部がすっかり燃えつき、黒焦げになったコンクリート建てのビルが点在する以外は、視界を遮るものとてない。どこからでも海や川、山が間近に眺められ、都市とは作物(つくりもの)であったかと、変にさっぱり得心した思い出を持つ人も多いのではないか。
 ヤケアトツムタケをはじめ、火の跡に生えるキノコの仲間たちにとっては、この年ほどわれらの繁栄を謳歌できたことはない。悦ばしさに小さな傘を、うちふるわせていたことだろう。焼土にキノコ、抜けるばかりの青空を背景に、コスモス、ヒマワリばかりがやけに輝く。巨大なキノコ雲があらわれたのもこの年だ。」



「サナギタケ」より:

「冬虫夏草を、いままで紹介してきたキノコのカテゴリーから説明することはできない。キノコは多く樹木の根などと共生関係にあるが、冬虫夏草では、いわゆる寄主になるものが、アリ、トンボ、カメムシ、ハチ、ガのサナギなどである。しかも、かならず生きた昆虫類にとりついて、これを殺し、その死体から栄養をとってキノコを発生させる。一方的関係で、「殺生(さっせい)」という特異なものである。
 お観音山から持ち帰ったのは、冬虫夏草の中でも代表種のサナギタケというものだった。里山から高山まで発生分布は広く、主として北半球の温帯以北に集中する。棍棒形のキノコの高さは二~一〇センチ、朱橙色の他に明るい橙黄色もあるという。頭部はつぶつぶに一面おおわれ、柄は頭部より細く、その根もとはサナギの頭や胸にしっかりとつく。死体からニューッと、昆虫の魂が伸び出たように見える。」
「冬虫夏草の世界的権威、清水大典氏は次のように言う。
 「出る場所には何十年とつづけて毎年出る。しかしそこから五〇メートル離れると、もう発生しない」。生きた昆虫にキノコの胞子がどのようにして寄生するのか、同じく氏の研究によるが、実に驚くべきメカニズムが展開される。
 胞子は死んだ昆虫に寄生するのではない。すべて生きている虫にとりつき、虫は電流を受けた時のように待ったなしの状態で殺される。例えば、椿の小枝の先をアリが行列をつくりなにごとか労働に励んでいる。夏の庭などでよく見かける光景だ。と、そこへ胞子が襲い、アリたちは行列の歩みそのまま等間隔で死ぬ。やがてその一匹一匹のアリの体からキノコが発生してくる。シャクトリムシの伸び上った体、尻から針を出したままのハチの体からも発生する。種類にもよるが、キノコが出るまでの期間は五~十年かかる。小枝から落ちるとか、外敵との死闘に列を乱すとかいう姿はない。」



「ドクツルタケ」より:

「ドクツルタケの異名は、「殺しの天使(Destroying Angel)」である。姿が真っ白のうえ形もととのった美しいこのキノコが猛毒とは、一見して誰でもがいぶかる。(中略)味や匂いは特別どうということもなく、一命をとりとめた人の話からは、むしろおいしかったという。」


「ドクササコ」より:

「一般的にいって、毒キノコを誤食し徴候があらわれるまでの時間は、通常二十分~数時間後、長くて十時間ほどだといわれる。(中略)ところがドクササコは、食後数日から一週間もたって症状があらわれてくる。」
「毒は神経系に作用する末端痛紅毒で、手足のさきが赤くはれ、そこへ焼け火箸か針をキリキリ突き刺すような激痛が襲う。(中略)日夜の境もなく耐え難い激痛が、一か月、もしくは二か月近くも続くため、七転八倒、断末魔の地獄絵になる。関節運動、接触などにより、痛み、灼熱感はさらに増強される。それほどでありながら、体温や血圧、その他の一般的所見に異常はない。なす術もなく、はれあがった手足を冷水につけ、それも実に一か月、二か月の長期にわたるため、手足の肉は白くぶよぶよにふやけ、ついには骨が出てくる。そこから黴菌が入り、二次感染で、あるいは衰弱して亡くなる人もあるという。
 ドクササコのなんの怨念がこれほど人間を痛めつけるのか、いまだにその正体もよくは分らない。」



「ハタケシメジ」より:

「採ってきたハタケシメジの株を、黒い食卓の上に一晩、置き放しにしたことがある。翌朝、持ち上げてみると、傘裏のヒダから舞い落ちた白い胞子が、黒い食卓上の表に不思議な紋様をつくっている。緻密なヒダそのまま、白い刃(エッジ)状の放射線をくっきり残すもの。あるいはまた、閉め切った室内で、胞子が微かな空気の流れを映す、遠い彼方の星雲のようなグラデーション。キノコによって一夜のうちに描き出された、思いがけない造形(胞子紋――sporeprint――)を眼前に、ぼくはしばし呆然とした。
 その後もさまざまなキノコを採ってきては、寝しな、食卓上に置いてみた。夜明けにつづく夢のように美しい胞子紋を見るため、ぼくは飽きもせず繰り返した。」



「アミガサタケ」より:

「麗らかな日差しを浴び褞袍(どてら)姿の村の老人が、石垣にもたれて日向ぼっこをしている。
 「やっとしのぎやすくなりましたね」
 老人の赤く火照った笑顔が、相づちを打ちながら返ってくる。
 「長い冬の間、どうしてたんです」
 「寝ていたさ。するこたぁねえし、へぇ、それが一番ズラ」
 なるほど、冬眠からいま老人は目覚めたということか。おせっかいにも、老人の一日の睡眠時間を訊ねてみたぼくは、少し呆気にとられた。それによると、冬の間は時計の針が午後三時を過ぎれば寝床にもぐり、翌日の昼近くになって起き出すという。」
「老人のお陰で、ぼくが積年抱いてきた疑問が一つ解けた。大昔、山麓一帯に住んだ縄文人たちは竪穴住居にこもり、冬の間は寝ていたのだ。」





こちらもご参照ください:

種村季弘 『人生居候日記』
『山渓カラー名鑑 日本のきのこ 特装版』






























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本