山田憲太郎 『スパイスの歴史 ― 薬味から香辛料へ』 (教養選書)

「満州の広漠とした原野では馬賊が出没する。当時の日本人は、レジスタンスを貫く現地人の集団をそう称していた。(中略)彼らはつかまると、理屈なしで打首にされる。しかし彼らは観念しているから、おじけも、わるびれもしない。野天の刑場で、腰に縄をしばりつけられながら、自分の首を落される胴体をほうりこむ穴を掘らされる。首を切られると、胴体はこの穴に足で蹴ってすてられる。」
(山田憲太郎 「南海異聞二題」 より)


山田憲太郎 
『スパイスの歴史
― 薬味から香辛料へ』
 
教養選書 87 

法政大学出版局 
1979年4月1日 初版第1刷
1995年6月1日 新装版第1刷
x 293p 口絵(モノクロ)24p
四六判 並装 カバー
定価2,300円+税



山田憲太郎 スパイスの歴史 01


カバー裏文:

「熱帯アジア原産の各種香料薬品が東西の文化圏へ伝播・浸透した経緯を経済・文化・交通の各面から克明にたどり、スパイス・ルート確立の道筋を解明するとともに、スパイスにまつわる風俗史の知られざる深奥をさぐる。大航海時代におけるヨーロッパ人の東洋進出をはじめとして、スパイスをめぐる争いが東西文化交渉史におよぼしてきた重大な影響を説き明かす。」


目次:



第一部 中国の胡椒時代
 一 天の都・杭州と南海の胡椒
  天の都(The City of Heaven)
  杭州市民の食生活
  泉州の胡椒輸入
 二 胡椒の伝来
  中国人の薬味と料物
  中国人の知った胡椒
 三 中国船の南海進出と胡椒
  中国船の構成
  インド(マラバル)とスマトラ(西北部)の胡椒
  中国の需要した胡椒

第二部 香料群島(スパイス・アイランド)
 一 中国人と丁香
  はじめに
  最初のモルッカ見聞記
  中国人の東洋航路と丁香
 二 ヨーロッパ人の渡来と丁香
  ヨーロッパ人最初の記事
  モルッカ社会体制の変化
  丁香の産出量と交易品そして価格
 三 バンダ諸島の肉荳蔲
  肉荳蔲の出現とその効用
  最初のバンダの記事
  ヨーロッパ人の渡来
  薬味料から香辛料へ
 〈附〉スパイス・ルート――肉桂から丁香と竜脳へ
  肉桂の皮と葉(花と果実)と根の匂い
  古代インドと泰西の肉桂
  中国人の肉桂
  モルッカの丁香の発見
  マレイ・スマトラの竜脳の出現
  主要参照書目

第三部 異聞雑色
 一 ガマとダルブケルケとオルタ
 二 媚薬と香料
 三 唐・天竺と日本につながる人生の秘事
 四 南海異聞二題
 五 竜(アンバル)・麝(ムスク)の発香
 六 夏の匂い
 七 楊貴妃と香
 八 マルコ山古墳と竜脳
 九 正倉院の香
 十 クレオパトラの鼻とインド洋のモンスーン
 十一 ゴールド(金)とスパイス(香料)とアニマ(霊魂)の大航海



山田憲太郎 スパイスの歴史 02



◆本書より◆


「南海異聞二題」より:

「一二九六年から翌年にかけて、すなわち中国・元の成宗の時、ベトナム南部の真臘国(現在のタイとカンボジアの領域)を親しく訪れた中国人・周達観の調査報告である『真臘風土記』がある。有名なアンコール・ワットの遺蹟を後世に残したアンコール王朝の文化と文物と諸風俗を今日に伝える代表的な史料である。その中に人間の胆を取って食べる話がある。

  王様は毎年、人間の胆を探し求めている。一つの甕(かめ)に千余枚も(それはそれは沢山、無数に)入っている。夜になると、人民に城中と村落から去るように命令しているが、たまたま夜歩いている者があれば、縄で頭をしばり、小刀を右の脇腹の下に突きさして胆を取る。相当の数に達すると、王様に贈呈する。但し唐人の肝だけは取らない。ある年、一人の唐人の胆を取って本国人の胆の中に混じたら、かめの中の胆が皆腐って臭くなり役に立たなかったからである。近年この胆を取ることは、専門の役人の仕事になって、彼らは北門の中におる。

 あの壮麗雄大で芸術の粋をつくしているというアンコール・ワットを建設し、アンコール王朝の文化を後世に残した王様たちが、こともあろうに人間の生胆(いきぎも)を取らせて食べていたとは、不思議なことである。なにかの誤伝ではなかろうかと、一応は疑いたくなる。
 ところが十四世紀の三~四〇年代に、二回にわたり親しく南方海上諸国を旅行した中国人の汪大淵は、彼の『島夷志略』の占城(チャンパ、現在の南ベトナム)の項に記している。

  毎年正月の元日、人びとに生きた人間の胆を取ることを許可し、役所で売っている。値段は銀と等しい。胆を酒に浸し、一家揃って飲むが、全身元気一杯になる(全身是胆)という。一般の人は敬遠しているが、流行病にかからないとのことである。

 そして十五世紀の初めに、同じくこの国を訪れた馬歓というイスラム教徒である中国人は、

  チャンパの王は正月に生きた人間の胆の汁を水に混じて沐浴するから、各地の頭目は生胆を取って献上している。これは貢(みつぎ)を献じる時のしきたりである。

と、いささか別な報告を残している。また馬歓と同じくこの国を訪れた費信は、
  正月には人びとに生きた人間の胆を取ることを許可し、役所で売っている。この国の酋長や頭目たちは胆が手に入ると酒の中に入れ、一家揃って胆酒を飲み、あるいは胆を浸した水に浴する。これを「通身是胆」という。

と書いている。(中略)それから馬歓、費信の両人と同じくこの国を訪れた鞏珍(きょうちん)も、馬歓と同じ報告を残している。」

「次は南方ではない。中国東北部のことで、私が聞いた話である。たしか昭和十五、六年頃であったと思う。満州電信電話会社の社員で、北満州の建設現場に長く活躍していた相当えらい人から、直接聞いたのである。満州の広漠とした原野では馬賊が出没する。当時の日本人は、レジスタンスを貫く現地人の集団をそう称していた。電信電話の建設現場を妨害するのは、多くこの人たちであったろう。彼らはつかまると、理屈なしで打首にされる。しかし彼らは観念しているから、おじけも、わるびれもしない。野天の刑場で、腰に縄をしばりつけられながら、自分の首を落される胴体をほうりこむ穴を掘らされる。首を切られると、胴体はこの穴に足で蹴ってすてられる。するとどこからともなく中国人がすばしこく飛んで来て、首の無い胴体を引きあげ、脇腹の下部を小刀で突きさし、ぬくぬくの生胆を取って小さいツボの中に納める。その神技は実に見事なものという。そして数人の生胆を入れたツボを、その場で火にかけ、胆のムシヤキを作り、ホクホクとして引きあげる。彼ら曰く、「生きた人間の胆でなければならない。そしてすぐ黒焼にしなければならない。でないと高貴薬としての効目がうすい。」こうして作った胆の黒焼は絶大な妙薬で、値段はすごく高い。ウソではない。ほんとうのことである。私に話をしてくれたひとが、現場で何度も体験した事実だという。
 こんなことを思い出して十六世紀末の中国の薬物と博物学の大集成である、明の李時珍『本草綱目』巻五二の人部を開いて見たら、人胆の項がある。李時珍大先生の考証は次の如くである。

  北方の蛮人(北狄)は戦場で人間の胆を多く取っている。戦場の切傷に極めて効目がある。これは戦場応急の方法であるが、あるいは胆を乾して用いることもある。理(筋道)にかなわないでもない。しかし残忍な武人が人を殺して胆を取り、酒に入れて呑むと勇気百倍するというのは、軍中の術であっても、君子たる者のなすところではない。

 李時珍先生は、人間の胆の薬物としての処方を若干記している。この記事から、中国では戦乱のさい生胆を取ることが相当行われていた、そして秘薬として高く評価されていたのがうかがえよう。時珍先生は「君子たる者のなすところではない。」というが、それは道学者的な中国一流の表現で――日本もその亜流で同じで――あって、実際にはその反対であったように考えられる。時珍先生の記事と、私が聞いた満州で実際にあった話とは一脈相通じるところがあろう。」





























































































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山田憲太郎 『香談 東と西』

「たとえば古代の日本の名称である「倭(わ)」という名を、初めて西方に紹介したのは、九世紀のアラビアの地理学者イブン・コルダードベーであった。かれはワク・ワク(倭)の国には、黄金がたくさんあると伝えている。」
(山田憲太郎 「乳香は神、没薬は医師、黄金は王」 より)


山田憲太郎 
『香談 東と西』
 

法政大学出版局 
1977年11月1日 初版第1刷発行
2002年6月1日 新装版第1刷発行
v 294p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円+税



本書「あとがき」より:

「本書の各文はこの十年ほどの間に、各方面から乞われるままに草したものである。できる限り平易に、多くの人にわかってもらうように、私の四十数年来の香料史研究の一端を洩らしたつもりである。」
「全体を通読していただけば、史的な随想であっても、東西にわたって香料史全体の姿が浮ぶ筈である。」



本文中図版(モノクロ)多数。


山田憲太郎 香談


カバー裏文:

「脂粉の香・甘美の香・幽玄の香など、失われつつある香料のにおいが、かつて人間生活においてどのような役割を果たしてきたか――香料に関する歴史上のエピソードや、その東西交渉史にまつわる知られざる事実の数々を語りながら、欲望に彩られた風俗の世界を渉猟する。――『香料』『南海香薬譜』『香薬東西』『スパイスの歴史』とともに香料史研究五部作をなす。」


目次:

序・香談

第一部 脂粉の香
 精力的な麝香(じゃこう)(ムスク)
 金髪碧眼の女の追風と竜涎香(アンバーグリス)
 竜涎香の成因――怪談から事実へ
 霊猫香(シベット)の話
 腋臭(わきが)は胡臭である
 正倉院の臥褥(閨房)の香炉

第二部 甘美の香
 乳香は神、没薬は医師、黄金は王
 ソロモン王とアラビアのサバの女王
 アレクサンダー大王のアラビア遠征計画
 植物学の元祖・テオフラストスの乳香と没薬
 幸福なアラビア
 プリニウスの乳香と没薬
 インド洋(エリュトゥラー海)案内記の現実
 南アラビアのサバのゆくえ

第三部 幽玄の香
 沈香の匂い――幽玄を求めて
 せんだん(白檀)とさらし首をかけた木
 せんだん(白檀)は吸血鬼である
 楊貴妃と竜脳

第四部 味覚の匂い
 風味と薬味と香辛料
 黄金の国・西アフリカのマリ王国を求めて
 ポルトガル人のアジア進出はアニマ(霊魂)とスパイス(胡椒)のためだという
 セイロン肉桂(シンナモン)の出現
 血であがなわれたセイロンのシンナモン
 ベニスの喉頸をしめているマラッカの王
 世界はまるいことを証明してくれたモルッカのスパイス
 いたずらに赤きを誇る唐辛子

第五部 雑篇
 鬼市(Silent trade)考
 熱帯アジアのチューインガム
 シーロン島縁起――獅子はいないのに獅子の島という
 十六世紀前夜のインド商人
 南蛮物語――日本におけるキリスト教時代
 日本での愛人の像を畢生の大著にのせたシーボルト先生

あとがき




◆本書より◆


「乳香は神、没薬は医師、黄金は王」より:

「十三世紀後半の世界的な大旅行家であるマルコ・ポーロは、かれの旅行記でペルシア国の話のなかに、次のようなことを語っている。

  ペルシアにサバという都会があるが、イエス・キリストを拝しに行った、かの東方の三人の博士(マギ magi, wise man.)たちは、ここから出かけたのである。……この三人のマギはならんでほうむられ、遺体はいまだに完全で、髪もホホヒゲもそのままである。……サバから三日の行程のところに、カラ・アタペリスタンという町があった。われわれの言葉で、拝火教徒(火を神格化して崇拝する信仰。ここではペルシアのゾロアスター教をいう)の町という意味だ。……住民の話によると、昔あるとき、ちょうどそのころ生まれた予言者を拝しに、その国の三人の王が出かけて行った。黄金と乳香と没薬の三つのささげ物を持って、その予言者は神であるか、現世の王であるか、そうでなければ医師であるのかをたしかめるためであった。もし予言者が黄金を取るなら現世の王であり、乳香を取るなら神である。またもし没薬を取ったら医師すなわちこの世の救い主であるということだった。
 三人の王は、かの子供の誕生の地に着くと、まず一番若い王が一人で訪ねて行った。すると子供は、年格好から姿まで、その王と同じように見えた。この王は、ひどく驚いてそこを離れた。その後から、次に年長の王が入って行った。すると、最初の王のときのように、年格好も姿も自分と瓜二つに見え、この王も胆をつぶして出てきた。次に三番目の王が入ったが、前の二人の王のときと同じようなことが起り、この王もすっかり思いに沈んでそこをはなれた。そこで三人の王は一緒になると、さきほど見たことを語りあった。かれらの驚きは大変なものであったが、今度は三人そろって入ることにした。
 こうして三人そろって、かの子供の前に入って行くと、あたりまえの年格好、すなわち生まれてわずか十三日めの姿であった。そこで三人の王は、かの子供を拝し、黄金と乳香と没薬をささげた。かの子供は、三つのささげ物を受けると、三人にふたのしまった箱を授けた。こうして三人の王は、自分の国へ帰って行った。
 幾日か馬の背中でゆられてゆくうちに、三人の王は、この子供がなにをくれたのか、あけて見ることにした。箱をあけると、中には石が一つ入っていた。かれらはいったいそれがなんであるのか、大いにいぶかった。かの子供は、まさに三人の王に芽生えた信仰が巌石のように固くあれかしというしるしとして、与えたのであった。かの子供が三つのささげ物を取るのを見た三人の王が、これこそ神であり、現世の王であり、医師(救世主)であるときめたことから、かの子供は三人の心のうちに信仰の芽生えたことを承知して、その信仰の堅く長く宿れかしというしるしに、石を与えたのであった。

 というのであったが、かれらはその意味がよくわからなかったので、石コロを井戸の中へ投げこんだ。すると天から焰がおりてきて井戸の中に入り、永遠のほのおが燃えあがった。こうして三人の王は、始めて石の偉大な意義がわかり、その火をうつして持って帰り、立派な教会に安置し、この火を守り神として拝したという。こんなわけで、この国の人びとは火をおがむが、以上の話はみなこの国の町の人びとが直接ポーロ氏に語ったことで、真実なことばかりである。」
「かれより三五〇年ほど前に、有名なアラビアの歴史家マスディーも、同じような話を伝えている。

  ファルスの国に火の井戸というものがある。その近くに寺院がある。救世主が誕生されたとき、コルセー王は、三人の使者をかれのもとに派遣した。一人は乳香の袋を、次は没薬を、そして三人めは金の袋を持って、かれらは王の指示にしたがい、星の案内によって出発し、シリアに到着して、母マリアにいだかれている救世主に会った。」

「前にふれたように前五世紀のヘロドトスは、東方インドのインダスの河畔に黄金が出るとしていた。それから紀元前後になると、ギリシア人とローマ人は、ガンジスの河口からビルマのペグーへ、そしてマレイ半島を黄金の島とさえ見なしていた。さらに時代がくだると、スマトラからジャバ・ボルネオへというふうに、東へ東へと金の産地が移動していった。
 とにかくある時代をとって見れば、泰西の人たちから見て、そのころ人間のすんでいる東方のはしの地帯と見なしたところ、太陽がのぼる東のはしの下にあると考えられた地域から、黄金が多量に出るものと信じていたようである。
 たとえば古代の日本の名称である「倭(わ)」という名を、初めて西方に紹介したのは、九世紀のアラビアの地理学者イブン・コルダードベーであった。かれはワク・ワク(倭)の国には、黄金がたくさんあると伝えている。これが十三世紀後半のマルコ・ポーロの、黄金の国・ジパング(日本)という話になって、日本の名が世界に広まった。」



「せんだん(白檀)は吸血鬼である」より:

「和名のセンダンは、インドのサンタル(中国と日本の白檀)であることは前に説明した。」
「私は英国人が南インドのマイソール州で、サンタル油の生産を独占し、サンタル油が世界の淋病の妙薬として覇権(はけん)をにぎっていた時代のあったことを、前に書いている。それでは、かれら英国人は、いつごろサンタルが一種の寄生植物であることを知ったのだろうか。」
「このような事実上の体験から、サンタルはその生育にあたって、ある種のホスト・プラントを必要とすることを、英国人は初めて知ったのであった。十九世紀後半のことである。」
「ところがである。サンタルが周囲の雑木や雑草の養分を吸って育ち、妙香を出すようになることを、古代のインド人は、おぼろげながら知っていたようである。観仏三昧経(かんぶつさんまいきょう)に説いてある。

  牛頭栴檀(ごずせんだん)(南天竺の牛頭山(ごづさん)(マラヤ山)に生ずるサンタル)は伊蘭(いらん)(サンスクリットerabna. 伝説上の喬木)の叢中に生ず。いまだ長大せずして地下にあるときは、芽茎枝葉(がけいしよう)、閻浮提(えんぶだい)(須弥山(しゅみさん)の南方にある州)の竹筍の如し。故に衆人知らず。この山中すべてイランにしてセンダン無く、イランの臭気は尸(し)(死体)を逢(お)うて薫ずること四十由旬(ゆじゅん)(古代インドの里程の単位。六町一里で、四〇里あるいは一六里の称)という。その華(はな)は紅色にして愛楽すべしと雖も、もし食する者あらば発狂して死す。
  牛頭栴檀すでに生ずと雖も、この林は成就(じょうじゅ)せず。故によく香を発せず。仲秋満月の節、地より出てセンダン樹となる。衆皆(みな)牛頭栴檀上妙(じょうみょう)の香を聞き、永くイラン悪臭の気なし。

 十二世紀後半の平康頼の『宝物集』は、この一文を要領よく翻案している。

  イランという樹(き)あり。その香(か)、臭くして一枝一葉を嗅(か)ぐに、なお酔臥(すいが)(酒によってねる)して死門(しもん)(死去)に入る。そのイラン四十里の間に生い茂らん中に、センダンという樹、その中に生い出(い)でて、未だ二葉におよばずして、葦(あし)の角(つの)ばかりならんが、匂いかんばしくして、イランの臭気を消し失う。

 さらに『源平盛衰記』は、もっと端的に言っている。

  センダンは二葉よりかんばしくして、四十里のイランの林をひるがえし、頻伽鳥(びんがちょう)(仏教で極めて美しい声を持つ鳥)は、卵の中にあれども、その声、諸鳥にすぐれたり。

 イランという、極めて臭い、死臭に近く、食べると発狂して死ぬという、はなはだ物騒な木が広く生い茂っているなかから、サンタルは発芽する。仲秋・満月ころという時の限定はしばらくおくとしよう。どうもロマンチックすぎる表現であるから。とにかくこのように臭い草木のなかから発芽したサンタルは、まわりの臭い草木とは、似ても似つかない至聖至上の妙香を放ち、まわりの臭い草木の匂いはいつしか消されてしまうという。
 古代のインド人は、サンタルが半寄生植物であることまでは、はっきり知っておらなかっただろう。しかし長年の体験から、このような臭い草木が周囲にないと、よく発芽も生育もしないし、匂いも出さないことを知っていたようである。臭い草木のなにものかを吸って育ち、それとはうって変った妙香を放つことを、おぼろげながら感知していたのだろう。」

























































































タイモン・スクリーチ 『江戸の身体を開く』 高山宏 訳 (叢書メラヴィリア)

「一にとってあるひとつの絶対の「内」が存在したのに、他にとってはついに空無に行きつく積層の連続体があったにすぎない。そもそも、ひとつの内などというものが存在するのか。それとも、その内なるものはもっと奥に重畳していく内というひだの、かりそめのひとめくりにすぎないのだろうか。」
(タイモン・スクリーチ 『江戸の身体を開く』 より)


タイモン・スクリーチ 
『江戸の身体を開く』 
高山宏 訳
 
叢書メラヴィリア 3 
Serie Meraviglia......No. 3

作品社
1997年3月1日 初版第1刷印刷
1997年3月5日 初版第1刷発行
347p 図版(カラー)8p 
著者・訳者略歴1p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,700円(税別)
造本・装幀: 阿部聡
ロゴマーク: 建石修志 画



Timon Screech: Opening the Edo Body
カラー図版6点。本文中図版(モノクロ)多数。


スクリーチ 江戸の身体を開く 01


帯文:

「解剖=「切り開くこと」の衝撃!
人体解剖
から見た
江戸文化論。」



帯裏:

「解体新考!
解剖=人の身体を切って調べること」を高らかに謳いあげて『解体新書』は上梓された。蘭医とは即ち「切る医者」であり、江戸の人々は死体を切り、生身の人間を切る「切る医術」へのスプラッタ・ホラーじみた好奇心と怖れを隠さない。「全体として生きて在ること」を捉えようとする日本の知と、「切って中身をさらし、くまなく光をあて」ようとするヨーロッパ近代知の出会い。「解剖」から見た気鋭の江戸文化論!」



目次:

序◆アクセスの図像学

第一章 刃
 人斬りは、はや時代遅れ
 人々は刃に異国を見た
 鋏、花、そして人体
 舶来の鋏
 ブルータルな魅力
 箱と折りたたみナイフと

第二章 身体を切る
 外科と外科道具
 オランダ医学
 切る医者

第三章 さらされる身体
 人間は一個のプロセス
 西洋の絵のインパクト
 彼らは本当に切ったのだろうか
 解剖と権力

第四章 つくられていく身体
 骨のある話
 内外真偽、それ条件次第也
 「食物合戦」のメタフォリックス
 オランダ料理、切られる食材
 内に身体ができる

第五章 身体と国家
 手
 身体地理学
 解剖と旅行
 循環
 身体は世界に開かれる

エピローグ
結び


図版一覧
写真提供



スクリーチ 江戸の身体を開く 02



◆本書より◆


「アクセスの図像学」より:

「蘭学の感覚では、何にもせよ理解の対象となるにはその内部を開示されなければならないのである。」
「現象の充足した外貌にではなく、その内部に目を向ける強迫観念じみた眼差しというものは日本的思考にありふれたものではなかった。(中略)日本ではその逆に、あるがままの一個の総体としての事物が意味を持っていた。(中略)それらの事物はその全体性(トータリティ)によってこそ意味を持っているのだから、その統一性を破ろうとするのは平衡破壊の愚挙である。そんなことをされれば事物は理解されるどころか、かえって誤解されてしまうだろう。」

「こうした状況と比較してみると面白そうなのが同時代のヨーロッパ、とりわけオランダの状況である。オランダ美術の研究者たちがその静物画ジャンルにふれていつも言ってきたことだが、低地地方には「内部へ」という大きな文化的衝迫と言うべきものがあった。芸術的表象の世界では絵の中の果物はそのままで見物者の目にさらされるばかりではなく、皮を剥(む)かれたり、刃を入れられたりして自らの内部をも見せようとする。ティーカップが転がって中がのぞけ、牡蠣(かき)はからをこじ開けられている。オランダの風俗画(ジャンル・ペインティング)さえ、そういえば開いた窓、扉、戸棚のたぐいを得手(えて)とするが、絵を見る人間が中を(引用者注: 「中を」に傍点)のぞけるようにというわけだ。」

「「開ける(オープニング)」現象を追ってみるのがこの本の狙いである。もっともその主題を全面展開するには紙幅が足りない。「開かれる」ものをそこで差し当り人の身体に限ってみることにする。この選択は思いつきのものではない。ヨーロッパでは人の身体は小さな世界、壮大な全創造(マクロコスモス)を小さく凝縮したところの「小宇宙(ミクロコスモス)」であるとされていた。従って、切り開かれた人体はその向こうに広がるさまざまな意味を持ち、外のものを、宇宙全体の現象を指示していた。従って身体はぜひこれを知る必要があったし、それを知ることはある意味ではすべてを(引用者注: 「すべてを」に傍点)知ることであった。」



「さらされる身体」より:

「ヨーロッパでだって死体が手に入れにくいことにちがいはなかった。であればこそ、新(にい)墓をあばき、盗掘した死体を医療関係に流す「蘇生業者(resurrection men)」が十九世紀の墓地に跳梁したのである。しかし西洋では、犯罪人や狂者の死体を相手にするということで問題は解決されていた。レンブラントの『トゥルプ博士の解剖学講義』中の死体は、殺人の罪で処刑されたアリス・キントという人物のそれである。」

「死後の制裁――普通には晒(さらし)もしくは四肢の切断――は「死体晒(さら)し」として知られていた。死者の身元を明かして辱しめようというのだから、解剖とはまるで目的がちがっていたわけだが、結果を見る限り、両者は似通っており、解剖は死体晒しに近いものという甚だ居心地悪い位置ずけであった。(中略)幕府は一七五八年、夫殺(せつ)害の大犯をおかした女への判決を、彼女が死んだ後、その死体を医者たちにやって良いという条件と引き替えに磔(はりつけ)から打ち首に替えることで、いつの間にか解剖イクォール死体晒しという連想に根拠を与えてしまった。」

「当局が罪人の死体を晒すときには、その傍に捨札(科書(とががき))が立って犯罪者の名と犯行の仔細を伝え、通行人への「見懲(みこら)し」とした。解剖死体もまったく似た扱いだった。というのは、(中略)『平次郎臓図』のような巻物をうむことになる橘南谿指揮の解剖がそうであったが、解剖された人間は名前で(引用者注: 「名前で」に傍点)呼ばれたのである。(中略)こういう状況を考えてみると、実地の解剖自体、一種の死体晒しであるばかりでなく(中略)、その後に続く学問的議論や、知見を記す出版物の中でもその死体ははっきり名指しされるわけで、恥辱は耐えがたいほど末代にまで引き延ばされることになる。(中略)絵というものは長い間、消滅することがないからである。
 イタリア・ルネッサンスの「恥辱絵(さらしえ)(pittore infamanti)」製作の伝統のことを思いださせる。その肉体の滅びの後にも恥辱をずっと引き延ばそうとして死者の姿を留めるための無残な絵である。」

「平次郎や三之助を描いた日本の解剖図譜は(中略)、西洋のどんな絵とも異なるある特殊な性格を帯びている。まず、巻物(スクロール)であることが多い。(中略)このフォーマットは進行する(プログレッシヴな)ところに特徴がある(中略)。不可避的に一個の語り(ナラティヴ)が生じる。実際、日本の解剖学書に付された絵は絵による物語としてつくられ、解剖の事象の時間的継起を改めて追復する。(中縷訳)即ちそこに現に描かれている身体がどういう具合に切り分けられていくかを示すのである。(中略)死体がそこから医学情報を得るため、切られ、剥がされ、ぶっちぎられ、ばらばらにされる過程を展開する迫力ある視の世界である。」



スクリーチ 江戸の身体を開く 03


スクリーチ 江戸の身体を開く 05


スクリーチ 江戸の身体を開く 04


スクリーチ 江戸の身体を開く 06


スクリーチ 江戸の身体を開く 07




こちらもご参照ください:

荒俣宏 編著  『Fantastic Dozen  第11巻  解剖の美学』
石鍋真澄 『聖母の都市シエナ ― 中世イタリアの都市国家と美術』
杉田玄白 『蘭学事始』 緒方富雄 校註 (岩波文庫)
石井良助 『江戸の刑罰』 (中公新書)






























































































芳賀徹 『平賀源内』 (朝日選書)

芳賀徹 
『平賀源内』
 
朝日選書 379

朝日新聞社
1989年6月20日 第1刷発行
ii 428p 
四六判 並装 カバー
定価1,300円(本体1,262円)
装幀: 多田進



本書「選書版のためのあとがき」より:

「この本はもと「朝日評伝選」の一冊として、昭和五十六年(一九八一)七月二十日に刊行された。」


本文中図版(モノクロ)多数。


芳賀徹 平賀源内 01


帯文:

「評伝 平賀源内
18世紀の江戸、物産学に戯作に油絵に鉱山開発に、八面六臂の大活躍をした、風来山人こと平賀源内。神出鬼没、江戸の知と感性の枠組みを痛快にゆさぶった「非常の人」の生涯を鮮かに描く。朝日評伝選の選書版。」



目次:

一 ホルトの木の蔭で
二 源内哀悼
三 博物学の世紀
四 源内の長崎
五 讃岐から江戸へ
六 物産学修業
七 物産ハ多く、見覚え候心ハ一ツ
八 東都薬品会
九 『物類品隲』の世界
 1 紅毛博物学へ
 2 『物類品隲』記述の態度
 3 「人参」の比較文化史
一〇 戯作者の顔
 1 風来山人の出発
 2 『根南志具佐』
 3 『風流志道軒伝』
一一 秩父山中
一二 神田白壁町界隈
一三 紅毛の博物書
一四 再び長崎へ
一五 古今の大山師
一六 秋田行
一七 憤激と自棄
一八 非常の人

あとがき
選書版のためのあとがき
平賀源内年譜
主要参考文献



芳賀徹 平賀源内 02



◆本書より◆


「博物学の世紀」より:

「だいたい、今日から遠く十八世紀の世界に眼を放ってみれば、東西を問わずこの世紀は博物学の世紀だったともいえるのではなかろうか。(中略)遠い大洋をへだてたこの日本の孤島でも、松平頼恭や薩摩藩主島津重豪や熊本藩主細川重賢(しげかた)や富山藩主前田利保などをはじめとして、上は大名連から下は旗本や諸藩の潘医や市井の学者や商人や地方の豪農などにいたるまで、実に多様な階層職種の人間が、本草学・物産学・地誌・園藝などの名のもとに趣味と実利とを兼ねた博物研究に熱をあげ、競いあっていたというのは、思えばまことに不思議にも面白い文化史的平行現象だったのではなかろうか。」

「博物学は、(中略)なんといっても本来は本草(薬用、herbal)の学として出発し、やがて殖産興業とか「国益」開発とかを公の契機とし、またおそらく私の動機ともして、発達したはずである。(中略)ところが、前にも触れたように、その専門家たちの周辺に、上下各層にわたって数多くの博物愛好家が輩出したのである。博物図譜を作ったのは、この愛好家たちのなかの上層に属する者が多かったのは当然だが、いわばこの愛好家群が博物学を実学志向から開放し、そこによい意味での趣味的な要素をゆたかにもちこんだといえる。博物学という学問にもともとそのような性格がひそんでいるのでもあろうか。自然の造化の千変万化の不思議と美とに惹かれてこの学問に従うとき、そこに、ホイジンガも十八世紀ヨーロッパの博物蒐集熱について指摘したような「遊戯の躍動(エラン)」が働くのは当然である(中略)。むしろ、この「遊び」の要因こそが博物学の学問としての自律性といきいきとした豊かさとを保証していたともいえよう。
 徳川後期の日本の博物学についても、それはたしかに強く働いていた。釣りと猟の好きな松平頼恭が動植物をとりまぜて七百数十点もの標本を集めて、これを極彩色の図録におさめ、さらにその図を長崎在留の中国人のもとに送って中国名による同定を求めたりしたとき、また細川重賢が昆虫の幼虫から蛹(さなぎ)となって羽化し成虫となるまでの生態を観察して、それを賦彩も美しい『昆虫胥化図』にまとめ、伊勢長島藩主増山雪斎(一七五八~一八一九)が数百種にも及ぶ蝶やトンボを目の前において、一つ一つ虫眼鏡を使ってトンボの翅の筋一本、蝶の翅の縞や斑点一つにいたるまでを克明に濃彩で描きわけていったとき――彼らがホイジンガのいう「いかなる疑惑の念によっても弱められることのない献身」(中略)、つまり「遊戯のエラン」につき動かされていたことは、疑いえない。そのとき彼らの努力は、もはや殖産興業の掛け声や「薬用」の観念とは、なんの直接のかかわりをももっていなかったろう。博物を蒐集し観察すること自体のよろこび、面白さに、彼らは夢中になっていたのにちがいない。私たちはその点を十分にたっぷりと評価しなければならない。彼らの博物学と博物図譜とが、明治以後の「近代的」動植物学にいかにつながり、寄与したか、あるいは寄与しなかったか、といった直線的一方向の史観からのみ彼らの仕事を眺めてはならないのである。」



「源内の長崎」より:

「たとえば、(中略)ドドネウスの『阿蘭陀本草』にしても、源内はもうこの宝暦二年の長崎で見ていたのではなかろうか。彼はこの高価な大冊を、十三年後の明和二年(一七六五)春三月には、ついに無理算段して買入れて、わが宝の一つとするのだが、それも長崎以来の執心のせいではなかったか。(中略)この本は本草学者としての源内の一生につきまとったといってもよい。この書物は彼の野心であり、誇りであり、夢想であり、そしてまた最後には慙愧の種ともなったのである。」


「非常の人」より:

「安永八年(一七七九)冬の源内は、事件の起るしばらく前から、やはり言動が異常であった。境町人形芝居で、門弟森島中良作の浄瑠璃が大当りで、自分の作は不評だったことから、異様に嫉妬心を起し、楽屋裏で顔色をかえて中良を罵ったという(鳥海玄柳『弘釆録』)。そのころはごく些細なことで癇癪を爆発させるようになり、この回想をしるす鳥海玄柳自身も叱られること度々であったという。またあるときは、大田南畝らが源内を訪ねて書を乞うと、「我此頃甚だ得意の絵あり」と言ってすぐに描いてくれたのは、なんと、岩上から一人が小便をしていると、岩下の一人がそれを頭から浴びて有難涙を流しているという、ついにまったく意味不明の図であった。南畝は、「此時已に癲狂の萌ありけるにや」と、後に語っていたと伝えられる(『鳩渓遺事』)。
 事件は同年十一月二十日の深夜から翌未明にかけて、その年の夏から引越して住んでいた神田橋本町の源内宅で起った。それは代々不吉なことのつづいた凶宅として人々が敬遠していたのを、安くて大きいからと源内が買いとった家だったといわれる。事件の実相については諸説紛々である。」
「いずれにしても、この雨もよいの冬の夜明け方の源内乱心によって、一人の男が手傷を負って死んだ。後代の精神病理学者によって、「わが国で、天才・狂気・犯罪が手を結んであらわれたことが明瞭な最初の例」と呼ばれる(小田晋『日本の狂気誌』思索社、昭和五十五年)事件が、ここに発生したのである。源内はその日のうちに官に従って伝馬町の獄に入り、一月ほど後の安永八年十二月十八日(一七八〇年一月二十四日)、獄中で病死した。これも一説によれば破傷風、一説によれば後悔と自責から絶食して死んだのだという。歿年五十二歳であった。」





こちらもご参照ください:

杉田玄白 著/緒方富雄 校註 『蘭学事始』 (岩波文庫)
荒俣宏 『増補版 図鑑の博物誌』 (集英社文庫)












































ヘルベルト・ヴェント 『世界動物発見史』 小原秀雄・羽田節子・大羽更明 訳

「原生動物には精神生活、つまり魂があるのだ。動物心理学者コンラート・ローレンツの「すべての生き物に魂があるか、どんな生き物にも無いかどちらかである」という言葉は、ゾウリムシにも当てはまるのである。」
(ヘルベルト・ヴェント 『世界動物発見史』 より)


ヘルベルト・ヴェント 
『世界動物発見史』
 
小原秀雄・羽田節子・大羽更明 訳

平凡社
1988年8月25日 初版第1刷発行
1991年12月10日 初版第4刷発行
701p 口絵(カラー4p/モノクロ31p)
B6判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,200円(本体4,078円)
カバー・表紙装幀: 戸田ツトム



本書「訳者あとがき」より:

「本書はヘルベルト・ヴェント著「Auf. Noahs Spuren」(G・グローデ出版、一九五六年)の全訳である。(中略)図と写真は原著のものを全部収めた。」


『物語・世界動物史』改題。
本文二段組。本文中図版(モノクロ)多数。


ヴェント 世界動物発見史 01


カバー文:

「ヘルベルト・ヴェントの
この大著の
主役はあらゆる時代の
人間といっていい。彼らは
真理探究家や懐疑論者であり、
冒険家や大胆なリアリストであり、
また天才的な科学者や
ロマンチックなディレッタント
である。だからこの本は、
動物界について書かれた
多くの専門的な著書とは違って、
いわば博物誌的な興味で
書かれている。」



目次:

はじめに

第一章 怪物の部屋
 混乱の時代
 「神々の馬車」の野生人
 古代の戦車
 ユニコーンとサイ
 不思議な獣
 大汗の動物園
 海の悪魔と真夜中の驚異

第二章 自然の宝庫
 心の薬、目の保養
 幻の野牛
 『昆虫のもてなし』
 ゴクラクチョウと政治と熱帯の死
 海竜とこびと魚
 ロック鳥
 すべてはゴンドワナに始まった

第三章 新世界
 モンテスマの動物園
 ウルティマ・エスペランサの秘密
 飛びまわる宝石
 いんちき猿人の噂
 人魚をどうするか
 タキシード姿の鳥たち
 だが、下の方は恐ろしい

第四章 生きている化石の大陸
 観察不十分
 カモノハシのパラドックス
 オーストラリアの動物の謎
 バーネット・サケには肺がある
 最後の恐竜
 恐鳥の謎
 よみがえった鳥

第五章 黄金の牧場、閉ざされた王国
 総督とバク
 三種類のオラン
 雪男
 地主李の白熊
 塀越しに垣間見た
 ウマとロバを間違える
 コモド島のドラゴン

第六章 雨林に轟く太鼓の音
 コンゴの伝統
 デュシャーユ氏の奇談
 古代アフリカは解読される
 ジャングルから伝説の動物が
 かわいらしい動物をつかまえた
 黒人の髪飾りになった二枚の謎の羽根
 四つ足の魚の物語

謝辞

解説 (小原秀雄)
訳者あとがき

参考文献
索引(人名・動物名・図版・写真)



ヴェント 世界動物発見史 02



◆本書より◆


「幻の野牛」より:

「メキシコの征服者エルナンド・コルテスがアステカ族の酋長モンテスマの動物園で発見し、後の開拓者たちが北アメリカの草原で見つけたアメリカバイソンは、急激に滅びていった。一九世紀の初頭には何百万という群れが、アパラチア山脈とロッキー山脈の間を力強くさまよい歩いていた。だが、インディアンの狩猟民がバイソンを生活の糧にしていたので、白人たちは彼らインディアンを殺すために、バイソンを大量に殺した。それでも、南北戦争当時にはまだ六〇〇〇万頭がいると見られていた。」
「一八六九年に、アメリカ太平洋鉄道が開通した。一八七一年には五〇〇〇人にのぼるハンターがカンザス・シティからバイソンの大量殺戮のため平原へ向かった。一八七四年の夏には、リッカリー川沿岸だけでも、二〇〇〇人のバッファロー狩りの狩人たちがキャンプした。彼らの一人当りの捕獲数は一日六〇頭で、一シーズンに一二〇〇頭を記録した。狩人の一団は、一年間に二万八〇〇〇頭を殺すことができた。毛皮が使われたわけではなく、肉が食用に供されたわけでもなかった。草原には一面にバッファローの死体が散らばっていた。一八七五年には、以前三〇〇万頭と見積もられていた、鉄道の南側のバイソンは四散し、一〇万頭あまりに減っていた。この残りのバイソンも、一八七七年と一八七八年の冬に徹底的に撃ちまくられた。生き残りの小さな一群がテキサス州へ逃れたが、一八八九年その地で彼らは虐殺者たちの手に落ちたのである。
 だが、鉄道の北側にはまだバイソンが残っていた。アメリカ人の開拓者たちの間では、バイソンを一頭殺すことはインディアン一人を減らすことだといわれ、彼らに攻撃の矢が向けられた。撲滅運動は一八八一年から一八八三年まで続けられた。スー族との戦争の間だけでも一万頭のバッファローが殺された。六年後には合衆国にいた数百万頭のバイソンのうち、捕えられずに生きのびたのはわずか八九頭だけだった。」



「『昆虫のもてなし』」より:

「レーゼル・フォン・ローゼンホフが顕微鏡の下に躍動する「おもしろい」微生物に魅せられたのはちょうどこの頃だった。彼はたちまち最初の大発見をした。全生物のうち最も単純な原生動物(プロトゾア)、つまりこの名のもととなった神プロテウスのように絶えず形を変えるアメーバーを見つけたのだった。何という奇妙な生き物であろう。それは凝集して球になるかと思えばまた広がり、その粘体から足を出して歩きまわり、その足で食物を探し求める。それはまた、まわりから包み込むようにして藻をのみ込み、青虫のようにはい、溶岩のごとくに転げまわり、分裂し、結合する。直径がやっと〇・五ミリの小さな点ほどの原形質の塊であると同時に、レーゼルがその名づけ親に選んだ変身巧みな太古の神の象徴なのだ。」

「たとえはっきりした意識をもたないとしても、原生動物には精神生活、つまり魂があるのだ。動物心理学者コンラート・ローレンツの「すべての生き物に魂があるか、どんな生き物にも無いかどちらかである」という言葉は、ゾウリムシにも当てはまるのである。」
「植物学者のラオル・フランセのいうように、ゾウリムシですら「幸福に対するほのかな憧れをもっている」のである。」



「海竜とこびと魚」より:

「いったいぜんたいホライモリは何ものなのだろう。(中略)ドラゴンの子供でもなく、水生の恐竜でもない。一見イモリのようでもあるが、本物のイモリでもない。ホライモリは体長二五センチほどで目がなく、人間の指のように毛がなくて白い色をしている。また萎縮したちっぽけな肢があり、頭の両側に大きな赤い外鰓がある。そして、イストリア、ダルマチア、カルニオラ、ヘルツェゴビナ地方の地下水の中にしか見られない。(中略)こういう生物をどう考えればよいのだろう。どの分類棚に並べ、どんなラベルをつければよいのだろう。その発見史にさかのぼって考えてみよう。
 『カルニオラ公国の誇り』の著者J・W・ヴァルヴァソルは、一六八九年のある日スロベニアの農夫から、ヴルフニカの近くのベラ谷の地下にドラゴンがすんでいて、大雨の後ときどきドラゴンの子が、地下の棲み家から地表の小川に流されてくるという話を聞いた。そこで、ヴァルヴァソルは、興味しんしんで次のどしゃぶりを待っていたところ、はたして数匹の「ドラゴンの子」が、水溜まりの中でのたうっているのが見つかった。」
「ヨハン・アントン・スコポリは(中略)何年間もかけてウナギ形をした「こびと魚」を研究した。そしてついに一七七二年にライプチヒで発表したラテン語の論文で、これは外鰓がありオタマジャクシ形をしてはいるが、伝説の生き物の幼生ではなくて、一人前に成長したイモリであって、ちゃんと生殖能力もあるといいきったのだった。」
「パリ大学の老教授ジャン・バティスト・ラマルク(中略)は、すでにホライモリを長時間光にさらしておくと奇妙な変化が起こることに気づいていた。皮膚の下に眼があらわれはじめ、外鰓の色があせ、体中に斑点ができ、体色はしだいに濃くなる。あるものは濃い赤褐色に、あるものは青灰色になり、アメリカのネクトゥルスに大変よく似てくるのだ。ラマルクがいうには、鰓をもったイモリはその環境の産物なのである。この動物はもともと、ほかのイモリとそれほど異なってはいなかったのだが、あらゆる生物を生存条件に適応させる自然の力によって、泉にすむアホロートルには鰓が発達し、イリノイの川にすむネクトゥルスはウナギ形になり、ミシシッピーの沼地のオオサイレンはいらなくなった後肢を失ない、カルストの洞穴にすむホライモリは盲目になったというわけだ。」
「それは一八六五年の九月二十八日パリの植物園でのことだった。三月に卵から孵った四匹のアホロートルの子が鰓を失ない、色が変り、陸地にはい上って、「有鰓の両生類」から肺で呼吸するサンショウウオに、それも既知の種類のサンショウウオに変身したのである。(中略)いったいどうしてこんなことが起こりうるのだろう。このときフランスやドイツの動物学者たちの頭に浮かんだのはラマルクだった。「有鰓のイモリ」を陸生のサンショウウオに変えるには環境の変化が必要だったのだろうか。彼らはアホロートルの鰓を切り取って、むりに肺で呼吸させてみたり、アホロートルを浅い水の中で飼ってたえず空気にさらしてみたりした。そしてとうとう、フライブルクの昆虫学者マリー・フォン・ショーヴァンはアホロートルを人工的に陸生動物に変えることに成功した。
 このアホロートルの現象は、今日「幼形成熟(ネオテニー)」と呼ばれているものである。アメリカサンショウウオは、中央ヨーロッパのマダラサンショウウオと同じ科に属し、したがって正真正銘「有肺の両生類」なのだが、おそらく地殻の大変動の結果、メキシコの深い泉や湖にとじ込められ、完全なサンショウウオに成長せずに終わるようになったのである。彼らは幼生段階にとどまったまま、性的に成熟するようになったが、事情が許せば、肺呼吸するサンショウウオに成熟しうるのである。したがって、彼らは(中略)成長が阻害された種類にすぎないのだ。その祖先はふつうのイモリなのである。
 同じことがホライモリについてもいえるだろうか。(中略)実験はすべて失敗に終った。鰓を取り除いて生き残るホライモリはいなかった。だが、生殖の問題は解決した。(中略)生殖に関しては老ラマルクが正しくも予言したように、「こびと魚」は環境に自らを適応させているのである。」
「アメリカの化石研究の第一人者であったコープは、ラマルクの自然環境説を支持する新ラマルク派の学者だった。ダーウィンとは反対に、種の進化の原動力は、生存競争よりも、環境の影響に求むべきだというのが彼の信念だった。コープによれば、器官の用不用、食物、気候、機械的影響、それぞれの生活条件があらゆる種類の動物の典型的な特徴を創り出すのである。例えば、ホライモリやサイレンが、幼生的な形をとどめ、外鰓や、萎縮した肢をもっているとしても、それは原始性を証明することにはならず、「環境の影響」、つまり深い水中での生活への徹底的な適応を物語っているにすぎない。
 コープは母国の「有鰓両生類」サイレンを徹底的に研究して、その発生が、従来考えられていたのとは正反対であることを突きとめた。ごく幼い段階ではサイレンは、サンショウウオの幼生とほとんど違うところがない。頭骨も、上膊骨も、腰帯も、四肢も同じである。ある時期には彼らは、水から陸へ上る直前のサンショウウオの幼生と同じように、鰓呼吸から肺呼吸に「切り換え」さえするのである。だがここで突然陸生動物への発生が止まる。その後のサイレンは成長するにつれてますます「原始的」になる、つまり魚類に似てくるのだ。ここに至ってコープはこう書いている。「サイレンがサンショウウオに似た陸生動物の子孫であり、ごく最近になってもっぱら水中生活に適応するようになったことは疑いない」と。
 この発見は、問題の本質を突くものであった。これはホライモリにも当てはまる。ホライモリは、肺呼吸をするサンショウウオの子孫で、地下水にすむようになったものである。地下水では陸にあがる機会がないのでアホロートル同様幼形成熟を遂げたが、ここで暗闇の生活に完全に適応した結果、アホロートルとは違って、もはやそこから脱出できなくなったのだ。ホライモリは、常にいかなる状況でも、生涯性的成熟を遂げた幼生のままである。発育が阻害された結果、「絶対的幼形成熟」が生じたのである。それは古い原始的な生物ではなく、進化した新しい生物なのである。」



「人魚をどうするか」より:

「イタリアの作家クルツィオ・マラパルテの『皮膚』という小説の中に、滑稽だがぞっとする一場面が出てくる。そこでは水族館のセイレネス(カイギュウ、人魚)が主役になっている。(中略)一九四四年にアメリカ海軍の水夫たちがこのセイレネスを水槽からとりだして、煮たうえでサラダ菜をつまに添え、高級士官連中の食卓にのせた。その姿は陽気な恐怖を引き起こした。アメリカ人たちは、「晩餐に、ゆでた女の子にマヨネーズをつけて食べる」のはいやだったので、この人間のような動物をけっきょくおかかえの牧師の監督の下に荘重に埋葬することにした。」
「マラパルテは、こう書いている。「料理した、つまり煮た娘を見るのは初めてだった。私は恐怖にのどを絞めつけられて黙ってしまった。皮膚はあちこちに傷ができたり、ゆでられてはがれたりしていた。肩や腰が特にひどかった。はがれた皮膚の下には、金色や銀色の柔かそうな肉がのぞいていた。熟れた果物の皮が破れて実がはじけるようにその皮膚からスープの熱気が吹き出している有様は、古い磁器が光を放つのに似ていた。唇は突き出し、額は出ていて狭く、眼は丸くて緑色だった。短い腕の先は広くて指がなく、鰭のような手になっていた。この娘は銀の皿に横になり、眼を開けたまま眠り込み、夢を見ながら笑っているようだった。その夢は海の夢、海は彼女の失われた故郷、夢の国、セイレネスの幸せの地…………」」



「だが、下の方は恐しい」より:

「一九三〇年六月六日、数回の試験潜水を終えてから、ビービとバートンは鋼鉄製のカプセル内に乗り込み、楽な姿勢に身をおいて水中におろすよう命じた。
 数分後にはバティスフェア号はバミューダ海の水面下二四〇メートルの深度にあった。二人はその深海のすばらしい生物たちを初めて自分の目でながめた。二度めの潜水のときには、海上との唯一の連絡装置の電話線が切れてしまった。後にバートンはその時のもようをこう書いている。「われわれは本物のプランクトンになった。海上を漂いつづける幽霊船のように永遠に水中にぶらさがっているさまが脳裏をかすめた。青緑色の窓の外は冷たく敵意にみちていた。われわれはいっしょうけんめいサーチライトで合図した。私の脳の一部は落ちつき払って活動し、泳ぎすぎてゆくクラゲを二四匹数えることができた。それから急速にわれわれは海面に浮かびあがった」。」
「六月一九日には、この潜水球は四三〇メートルの深さにおろされた。二人の科学者はハンカチで口と鼻を抑えてうずくまり、冷たいガラス窓に額を押しあてた。ビービはこう書いている。「とたんに、大きな感動の波が私を襲い、しばらくはあらゆる状態がほとんど超人的、宇宙的であるように感じられた」。この深さで水圧は二九五〇トン以上であった。ビービは「スペクトルの中を長いクモの巣のようなケーブルがこの孤独な潜水球につながり、その球の中にきっちり閉じこめられた正気の人間が二人、まるで軌道を外れた惑星のように孤立して、水中にぶらさがったまま、深海の暗闇の中を凝視している」さまを思い浮かべた。彼は「近くをうろついているがはっきりわからない大きな胴体――大きな、まさに生きている動物の影」を見たが、あまりに興奮してしまっていて、彼は外観をメモしただけだった。そのメモにはこう書かれている。「発光魚が窓の外にいる」」



ヴェント 世界動物発見史 03



































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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