岩崎力 『ヴァルボワまで』

「『仮面の告白』を読んで『異邦人』を連想した人がいるだろうか? ユルスナールはカミュを連想すると言い、こうつけ加える――「そこには自閉症的要素が含まれているから。」」
(岩崎力 「ユルスナールの《三島論》」 より)


岩崎力 
『ヴァルボワまで
― 現代文学へのオベリスク』


雪華社 
1985年5月25日 印刷
1985年6月19日 発行
377p 口絵(モノクロ)8p 
四六判 丸背クロス装上製本 カバー 
定価2,800円



岩崎力(いわさき・つとむ、フランス文学)エッセイ集。プルースト、ラルボー、ユルスナールに関する文章を集成。本文中図版(モノクロ)多数。


岩崎力 ヴァルボワまで 01


目次 (初出):

I
私のプルースト体験 (「海」 1969年10月号)
プルーストと《アール・ヌーヴォー》 (「季刊芸術」 第4号 1967年12月)
プルーストとイタリア (《Etudes de Langue et Littérature Françaises》 第4号 1964年3月)
マルセル・プルースト伝記 (ジョージ・D・ペインター 『マルセル・プルースト――伝記』 邦訳へのあとがき 1972年2月 筑摩書房)
プルーストとリヴィエール (ジャック・リヴィエール 『フロイトとプルースト』 邦訳へのあとがき 1981年5月 彌生書房)

II
ヴァレリー・ラルボーとコスモポリチスム (「比較文学研究」 第10号 1966年2月)
ヴァルボワまで (「季刊芸術」 第16号 1971年1月)
マリー・ローランサンの恋文 (「ちくま」 1972年5月号)
二つの読書論 (「現代詩手帖」 1978年6月号)
小説形式・小説技法の変革 (《フランス文学講座》 『小説II』 1978年3月 大修館書店)

III
ユルスナールの《三島論》 (「海」 1981年5月号)
アレクシ あるいは空しい戦いについて (同書邦訳へのあとがき 1981年7月 白水社)
とどめの一撃 (「海」 1982年5月号 同誌掲載 『とどめの一撃』 邦訳へのあとがき)
ユルスナールを訪ねる (1982年1月執筆 一部を朝日新聞に掲載――1982年2月8日)
心の楽園 (「文芸」 1982年6月号)

あとがき



本書「あとがき」より:

「なお、「プルーストとイタリア」はもともとフランス語で書かれたものであるが、この機会に邦訳した。また上梓に当って、各文に細部の加筆、訂正、削除をほどこしていることをおことわりしておきたい。」



◆本書より◆


「プルーストとイタリア」より:

「「ぼくはもはやヴェネツィアになにひとつ自分のことを語りかけることができず、自分のなにかを定着させることもできなかった。その場で身体を引きつらせているだけ、もはやぼくは脈打つ心臓であるにすぎなかった」
 これはプルーストの本質を示す反応のひとつだと言ってよい。芸術作品であれ都会であれ、人間であれ事物であれ、対象に自己を投影し、即座に対象と自分を結ぶ絆を創り出す。対象に注意を集中できるような心理状態が失われると、同時にいっさいのコミュニケーションが断たれ、外界への関心が完全に消え失せる。」



「プルーストとリヴィエール」より:

「プルーストは究極において《友情》を信じなかった人である。作品のなかでも、そう述べている。しかし同時に、友情を軽蔑する人間が、《幻想を抱くことなく、しかし悔いを覚えながら》最良の友でありうるとも述べている。」


「ヴァレリー・ラルボーとコスモポリチスム」より:

「一九〇八年七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日に、メッサン社から『富裕な好事家(アマトゥール)の詩』と題された無署名の詩集が刊行された。部数わずか二百部の自費出版であった。
 この詩集は、A・O・バルナブースという二十三歳の小柄な青年、南米カンパメントに生れ、十歳のときには両親を失い、莫大な遺産を相続していまはヨーロッパの各地を放浪する青年、放浪とはいっても専用のヨットをもち、専用の寝台車を列車に連結させ、「ロンドンには邸宅を、パリには館を、ローマとナポリには宮殿を、フィエゾレとアバッツィアとケルキラには別荘を」もっていて、心のおもむくままに旅して日を送る、そういうひとりの青年が、彼にとっては外国語であるフランス語でものした作品を、後見人カルテュイヴェルスの甥にあたるトゥルニエ・ド・サンブルが作者の依頼を受け、その伝記を添えて上梓したという体裁をそなえていた。」
「一九一三年の『A・O・バルナブース全集』では、詩篇に大改訂がほどこされたほか、(中略)伝記が削られ、かわりにバルナブース自身の日記が加えられる。」
「この日記は感想録や印象記ではない。それは自我をもとめるひとつの魂の、自己との戦いの記録である。普通の人間には世のあらゆる「幸福」をもたらすはずの「金力」が、彼の場合、彼のこいねがう人間的交流をはばむ無情な柵となる。その柵をのりこえようとして、それを一挙にとりのぞこうとして、彼は自分の不動産のすべてを整理し、一個の人間――億万長者という間ぬけな怪物ではなく――として生きるために旅にでる。フランスの田舎貴族や幼年時代をともにすごしたロシアの大公、オスカー・ワイルド流の耽美主義者、旅興行の一座の踊り子、サディスト趣味をもつ有閑マダム、いまは公爵夫人におさまっているかつての恋人などとの交際を通じて、自尊心との絶望的な格闘に傷つきながらも、彼は生を知り、行動の価値を教えられる。ヨーロッパに疲れた彼はロンドンで同郷の貧しい娘と結婚し、見知らぬ祖国にむけてヨーロッパを去る。
 これはひとつの《Bildungsroman》なのだ。しかし、それはいわば逆むきの《Bildungsroman》である。なぜなら、世人のうらやむ財産、栄華と賛美を尽した生活、それゆえにこそ他人からはひとつの型にはめこまれ、人間的な交流をはばまれ、決して「自分一個の生活」をもちえない青年が、いかにして自己の教養と権力を捨てて一介の人間になったかという過程を描いたものだから。ラルボーが『フェルミナ・マルケス』のなかで、優秀な成績をあげてつねに一番になることにすべての情熱をかたむける中学生ジョアニ・レニオを描いたとき、フランシス・ジャムは「これはひとつの発見だ」とほめたが、バルナブースというこの途方もない人物の創造は、それ以上にラルボーの独創性を印象づけるものであった。
 だが、(中略)ロベール・マレが指摘しているように、ラルボーはこの独創的な人物を創造することによって、彼自身を発見したのであった。「人はすでに自分のなかにあるものしかつくりださない」とポール・レオトーは言ったという。実際ラルボーは、一九〇八年、作品に『富裕な好事家(アマトゥール)の詩』という題をあたえたとき、終生変らない彼自身の特質を見事に定義づけたのだった。つまり彼はつねに《Riche amateur》であった。ラルボーはラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナの金言「なにについてであれ、職業的な専門家になりすぎないこと」を自分のモットーとしていた。しかし《Riche amateur》というこの言葉を誤解してはならない。ラルボー自身、日記のなかでこれをつぎのように定義している。「種々の状況について、とりわけ金銭に関して、ある種の視野の広さをもっていること。明日の生活にたいしてある程度無関心であること。物質的利益よりは快楽をえらびとり、社会的隷属状態に身をおいて豪奢な生活を営むよりは、むしろ糊口の資はつつましくとも自由な生活のほうを好むこと」この定義のなかの「快楽」という言葉にも充分注意しなければならない。「自分の快楽のためにのみ書く」というのが仕事にたいする時のラルボーの信条だったことはすでに述べた。」
「ラルボーが《actualite》を極度に嫌い、彼を時流にのせる可能性のあるものすべてを拒否したこと、たとえば自分の作品を刊行した出版社には一切の誇大広告を控えさせ、雑誌に作品を発表する際にはなるべく発行部数のすくないものをえらんだというのも、もとはといえば先に引用した定義にみられるような《Riche amateur》の精神からでたものであった。」



「ヴァルボワまで」より:

「ヴァルボワ Valbois――それは読んで字の通り谷と森からなる領地である。建物の正面を通りすぎると、例の緑色の四阿のそばにまたひとつ別の門があり、そこを出れば領地はそのまま森につながっている。ラルボーが好んで散策したくましでの並木が両側から枝を寄せあって、夏の日にはさぞ快い木陰を作るにちがいないトンネルを形作っている。」
「ラルボーにとってこの館がなんであったかは、『日記』にみられる次の一節からも読みとれる――「……給仕していたアンナのまえで、あまり深く考えもせずに私はこう言った――《フランスでもイギリスでも、こんなにみごとな苺は見たことがない!》 まるでヴァルボワが正真正銘の《自由国》であり、その《国境》が本物の国境であるかのように。」(中略)ラルボーがこの館と領地を《自由国》とみなす遊びを考えついたのは十六、七歳のころであり、パリを遠く離れて世の果てに来た身の不幸をより強く感じるためだったという。(中略)ラルボーはつねに《逃避》した人間だったし、(中略)のちにはその《自由国》という概念が、逆に、都会の倦怠と卑俗をのがれて、《罰せられざる悪徳》に耽るための隠れ家となったのだった。」



「アレクシ あるいは空しい戦いについて」より:

「しかし、ユルスナールの場合とくに注目に値するのは、彼女が栄光を求めたのではなく、いわば栄光がおのずからその頭上に輝いたということである。アカデミー・フランセーズの場合も、文字通り推挙されたのであって、彼女自身が立候補の意志を表明したのではなかった。『アレクシ』に美しい泉のイメージがある。「たとえば泉を見るがよい。物言わぬ水が水路に溜り、それを満たし、やがて溢れ出る。そしてそこから落ちる真珠は響き高い。音楽は、溢れ出た沈黙以外のなにものでもあってはならぬ。」
 ユルスナールの栄光は、アレクシの理想とした音楽に似ている。言葉を素材とする文学作品を沈黙にたとえるのは当らないかもしれない。しかし、ハドリアヌスの声をまえにしてユルスナールの側に沈黙が生じたように(とはいえ、たとえば次のような声を聞く時、読者は語り手がローマ皇帝なのか、それとも北米東海岸の小島に住むその伝記作者なのか、一瞬自問せずにはいられない――「ここで私は、誰にも打ち明けたことのない告白をしなければならぬ。私はいまだかつて、どんな土地にも――深く愛するアテナイにも、ローマにさえも――自分が完全に属していると感じたことがない。いたるところで異邦人でありながら、私はどこでも自分がとくに孤立しているとは感じなかった」)、こと栄光や名声の追求に関する限り、ユルスナールは沈黙そのものであり、ただ彼女の作品自体が、清澄な響きをたてる真珠なのであった。」



岩崎力 ヴァルボワまで 02


口絵より。

上: 「ラルボーの著書、訳書 すべて羊皮紙装幀 ヴィシー市立図書館所蔵」
下: 「ヴィシー市立図書館のラルボー文庫の壁」

「ヴィシー市立図書館のラルボーの蔵書」は、「フランス語、英語、イタリア語、スペイン語など《領域》別に整理されている」



































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ヴァレリー・ラルボー 『罰せられざる悪徳・読書』  岩崎力 訳

「情熱はなによりも強烈だった。彼は最高の段階を征服したのである。(そして彼の周囲では人々がこう言う――『あいつは落伍者だ』と)」
「かつての情熱が悪徳となる。だがそれは、巧みに育てられ、なにもかも知り尽したうえで味わわれる悪徳(中略)である」

(ヴァレリー・ラルボー 『罰せられざる悪徳・読書』 より)


ヴァレリー・ラルボー
『罰せられざる悪徳・読書』 
岩崎力 訳


コーベブックス 
1976年6月25日 刊行
87p 
A5判 角背紙装上製本 貼函 
定価2,000円



本書「訳者あとがき」より:

「この翻訳はかつて筑摩書房の雑誌「ちくま」に連載したものである(一九七四年一月号~五月号)。今回、(中略)旧訳に手を加え、このような形で本にすることができた。」


ヴァレリー・ラルボーによる読書論。ラルボーが42歳の時(1924年)、ポール・ヴァレリー、レオン=ポール・ファルグらと創刊した季刊文芸誌「コルメス」に掲載されました。


ラルボー 罰せられざる悪徳 01


帯文:

「Valery Larbaud
Ce vice impuni, la lecture
岩崎力訳
本書は、およそ読書と文学的教養に関して書かれたもののうち最も微妙・最も真実・最も美しい「期して待つべき一冊の書物」である。
コーベブックス刊」



内容:

罰せられざる悪徳・読書

訳註
訳者あとがき



ラルボー 罰せられざる悪徳 02


本書「訳者あとがき」より:

「小学校で読み書きを習う段階から、さまざまな障害・困難・誘惑をのりこえ克服して「理想的読者」の域に達するまでの過程を記述し検討したこの一文は、(中略)きわめて説得力に富んでいると同時に、ある決意をもって選びとった立場の闡明ともなっている。それはまた(中略)なにが彼の統一性を保証していたかを明らかにしている。一言でいえばそれは「riche amateur」としての態度であった。(中略)文字通りに訳せば「金持のアマチュア(中略)」ということになる。しかし彼の場合 amateur というこの単語には、語源的な意味もひそかにこめられていた。つまり「(愛に価するものを)愛する人」の意である。そしてその場合には riche という形容詞も、たんに「金持の」という意味ではなく、「豊かな」という意味合いを帯びることになる。(中略)次のような言葉からも充分に推測できる――「(中略)言いかえれば、決して自己に無理強いしなかった人、自分の楽しみのためにしか書かなかった人(中略)ジョイスがやったこと、とくに裕福ではなくとも多くの人々がやったことはまさにそれなのだ。だから「riche amateur」という種族は、社会的、経済的な事実というよりはむしろある精神状態なのだ。つまり種々の状況、とりわけ金銭に関して、一定の視野の広さをもっていること、明日の生活についてある程度無関心であること、物質的利益よりは快楽を選びとり、社会的隷属状態に身をおいて豪奢な生活を送るよりは、むしろ糊口の資はつつましくとも自由な生活のほうを好むこと。」
「一九三五年、脳溢血で倒れたラルボーは、没年の一九五七年まで、実に二十二年という歳月を半身不随・失語症に冒されたまま生きた。(中略)繊細・微妙な言語感覚を備えた芸術家が、こうしていっさいの言語活動を奪われたのだった。もちろん、作家としては廃人同様であった。」



本書の表題は、次のようなローガン・ピーアソール・スミスの散文詩に由来しています。

「慰め

 先日、打ちひしがれたような気持で地下鉄に乗っていたとき、私は、われわれ人間の生活に留保されたさまざまな喜びのことを考えながら、そのなかに慰めを探し求めていた。しかし、ほんのすこしでも関心を払うに値する喜びはひとつとしてなかった。酒も栄光も、友情も食物も、愛も徳の意識も。してみれば、このエレヴェーターに最後まで残り、それらに比べてより陳腐ならざるものはなにひとつ提供してくれそうにもない世界に、ふたたび上っていく価値がいったいあるのだろうか?
 だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった。」


ローガン・ピーアソール・スミスに関しては、ボルヘスの編集したアンソロジー『ボルヘス怪奇譚集』に、次の断片が「社交の上首尾」と題して収録されています:
 
「召使いがわたしの外套と帽子を差し出した。わたしは自己満足にほてる思いで夜のなかへと歩き出した。「愉快な晩だった」とわたしは思った。「この上なくいい人たちだ。財政とか哲学とかの話に聞きほれてくれた。豚の鳴き声を真似たときなど腹をかかえて笑ってくれたし。」
 ところがまもなく、「ふん、身の毛がよだつ」とわたしはつぶやいた。「死んだほうがましだ。」」


本書は、ラルボー自身の読書遍歴をふまえて、「理想的な読書家」の辿るべき道を、ジョン・バニヤン『天路歴程』の巡礼者になぞらえつつ描いています。

「事実、読書は一種の悪徳なのだ。私たちがつねに強烈な愉悦感をもってたちかえる習慣、私たちがそのなかに逃避し、ひとり閉じこもる習慣、私たちを慰め、ちょっとした幻滅の憂晴らしともなる習慣、そういった習慣がすべて悪徳であるように。(中略)また、つぎのような理由にもよる。すなわち、(中略)これは、他の悪徳と同じく、例外的で異常な習慣だということ。正常な人間が本を読むのは職業上の必要に迫られてのことであり、さもなければ仕事や労苦から気をまぎらせるためである。読書の楽しみだけのために読書し、熱心にその楽しみを追い求める人間は例外的存在なのである。」
「この快楽は、他のあらゆる快楽と同じく、諸君のうえに(中略)非難を、ときには迫害さえひきよせるだろう。(中略)どうみても役立ちそうにもない作品を諸君が読んでいるのをみつければ、そんなものはただの暇潰しだ、お前の性根をねじまげるだけだと言って諸君を叱りつけるだろう。」


読書は情熱である。
読書家の遍歴の始まりは子供向けの本だ。

「表紙にはジュール・ヴェルヌの名前しか書かれていない、しかし子供の読む本は、ジュール・ヴェルヌと協力して書いた彼自身の本なのだ。自分の経験、感情、発見、あるいはもっとも古い夢想などをもちこんで、彼はその本を豊かにする。さまざまな冒険を引き伸ばし、複雑に絡みあわせ、自分で創作した挿話や人物をつけ加える。」

その後は、現代作家の小説や詩集、

「あらゆる方向への乱読、(中略)読者の欲望に、好奇心と虚栄心とがつけ加わる。それはもはや、下心なく求められ味わわれた快楽だけではない。しかじかの目新しい名前のかげになにがかくされているかを知りたいという欲求、すべてを読み、そのことを自慢したいという欲望がつけ加わるのだ」

そしてさまざまな誘惑。

「もっとも粗野な欲望やもっとも卑俗な性向に訴える本が好きになるように彼を仕向け、野放図な色話とか政治的な宣伝書の類を文学作品だと思いこませる誘惑」

有名な作家が秀れた作家であり、無名作家にはなんの価値もないのだ、という思い込み。それとは逆に、

「同時代の有名作家をとるにたらぬものとみなしたくなる誘惑」

そして古典文学の発見。さらに、

「物質的なものとしての本」

の、

「形、重さ、紙の質、開き易さ、そしてある種の本が新しいときにもっている快い香りなど」

を愛する、という新しい誘惑。

「彼は自分の蔵書を大切に扱い、愛撫する。彼の悪徳のこの形態が、完全に彼を支配し、読書そのものから遠ざけてしまうことさえありうる。彼はひたすら愛書家としての読者になってしまい、諦めてその段階にとどまり、そこで満足するというようなことにもなりかねないのである」

その次にあらわれる誘惑は「博識」である。

「作品の成立過程や(中略)ある作家の文法と語彙に関する研究などなど」「内部構造を見てとり、解剖し、歴史を知り、(中略)それらの本にふくまれる遺伝的欠陥を見つけだすこと。そしてそれらすべてを語ること」

しかしそれも妨げになるのだ。

「博学な好奇心というべきもの(中略)は文学への情熱とは次元を異にする。(中略)博識のために博識たらんとする人間は、ほどなく、作品のなかに自分の研究対象となるような面しか見ようとしなくなる。ちょうど、人間自体よりはその病気のほうが興味深く、より現実的なものになってしまう医者のように。純粋な博学者は、やがて、わざわざ足をとめて文学作品の美に眺め入ろうとはしなくなる。彼はひたすらその作品の歴史的背景とか特殊状況のことしか考えなくなる。」

「しかしながら私たちの読者は、(中略)この最後の誘惑にも打ち勝った。(中略)情熱はなによりも強烈だった。彼は最高の段階を征服したのである。(そして彼の周囲では人々がこう言う――『あいつは落伍者だ』と)」

「かつての情熱が悪徳となる。だがそれは、巧みに育てられ、なにもかも知り尽したうえで味わわれる悪徳(中略)である」


ここまでくれば、

「一冊の本の価値を、ほとんど最初の一瞥で明確に見抜く」

こともできるようになる。ニセモノに欺かれなくなる。同時に、

「出現したばかりの天才を発見する喜び」

も味わうことができるようになる。そして最後の誘惑――

「書くこと。今度は彼自身が批評家になりたいという誘惑である。しかし、書いたところでなにになろう?」
「私たちとしては、叡智の道を遠く歩んできた彼は虚栄心さえのりこえたものと考えたい。彼は一介の読者であることに満足し、自分の愛する本、いまのところほとんど人目を引かないが、二十年後には有名になっているはずの本を、ひそかに、最良の友たちに推奨するだけで満足する」



ラルボー 罰せられざる悪徳 03


本書は活字が大きいのでたいへん読みやすいです。











































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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