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石川淳 訳 『癇癖談』 (ちくま文庫)

「その後、またひどくわずらって寝て、五月、六月はただ夢のように明かし暮らすうちに、秋になった。やっと涼しい風が吹き出して、月の影も澄んで来たのに、すこし人ごこちが出て来て、せめて夜ばかりは起きあがって、しめやかな灯の明りに、歌物語などを読むと、わが身のようにもの思いに沈んだ人も昔から多かった。」
(石川淳 訳 「西山物語」 より)


石川淳 訳 
『癇癖談』
 
ちくま文庫 い-24-3 


筑摩書房 
1995年9月21日 第1刷発行
296p 
文庫判 並装 カバー 
定価600円(本体583円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 谷川泰宏


「本書のテクストは、石川活氏の監修によって小社刊『石川淳全集』第十七巻を底本として作製された。」



新字・新かな。
「癇癖談(くせものがたり)」「諸道聴耳世間猿(しょどうききみみせけんざる)」(抄)は上田秋成作、「西山物語(にしやまものがたり)」は建部綾足作、小学館『現代訳日本古典 秋成・綾足集』(1942年)に初出。
「宇比山踏」は中央公論社『日本の名著 21 本居宣長』(1970年)に初出。


石川淳 癇癖談


カバー裏文:

「伊勢物語の風にならって、文化年間の風俗や実在の人物を活写した表題作(上田秋成)の他、秋成の処女作「諸道聴耳世間猿」、建部綾足「西山物語」、本居宣長「宇比山踏」を収録した夷斎石川淳、訳業の粋。」


目次:

癇癖談
 上
 下

諸道聴耳世間猿
 要害は間にあわぬ町人の城廓
 孝行は力ありたけの相撲取
 器量は見るに煩悩の雨舎
 身過はあぶない軽業の口上
 昔は抹香烟たからぬ夜咄
 浮気は一花嵯峨野の片折戸

西山物語
 巻の上
  こがねの巻
  かえの巻
  太刀の巻
 巻の中
  あやしの巻
  琴の巻
  文の巻
  わかれの巻
 巻の下
  露の巻
  よみ(黄泉)の巻
  ほぎ(寿)の巻

宇比山踏

解説 石川淳の「江戸留学」 (野口武彦)




◆本書より◆


「癇癖談(くせものがたり)」より:

「〇むかし、深草(ふかくさ)の里(さと)に、世をいとってか住家をもとめて、隠れている人があった。しばしの宿のつもりでも、はや四五年ばかりになった。さすがに都なつかしいおりおりには、かなたの空をのみ眺めていた。
 用もない窓の下で、枕一つにごろりと寝ると、こんな夢を見た。
 庭の梢にあそぶ小鳥どものさえずる中に、駒鳥の舌なめらかなのが、人のものいうのにかわらず、ひとりごとするには、春ごとにこの庵にあそびに来るが、このあるじは何を生業にするでもない無用の人だ。これでも、世に住むかいがあるのか。まことににくむべきものだという。
 下枝にあそぶうそ姫(原註 うそ姫ものがたりという艸子(そうし)のあるによる名。)これを聞いて、ええ、このあるじはもと都の人ですが、うまれつき量見がせまく、世をわたるには、負目(おいめ)の重荷がこわいのでしょう。世間の人は心がひろいので、わるいということでも、いつわりでも、世の害にさえならないことなら、しぜんに任せてしてのけるのに、あるじはそれを見聞きするたびごとに、なげいたり、おこったり、大さわぎです。また、本を読めば、*昔ばかりがこいしくて、今の世をいやがり、芸にあそべば、昔の人は上手(じょうず)も下手(へた)も心が高いとあがめて、今の人の眼のつけどころをさげすんで、楽しみません。それで、年月を無用にくらすのです。まことにあわれな人ですと答える。(原註 *荘子に、古ヲ尊ミテ今ヲ卑シムハ学者ノ流、とある。)
 駒王は聞いて、からからと笑い、さてこそ世のおごりものか、あさましい量見だという。(原註 駒王とは、うそ姫に対する戯言のみ。王とは鳥毛の王というのではない。唐(とう)の駱賓王(らくひんおう)また梅王松王におなじ。)
 うそ姫いう。あるじはいつもよいきものを著るわけでもなく、うまいものを食べるわけでもなく、紙の夜具、紙の帳(とばり)に満足して、何ごとも倹約をまもっているらしく、おごりのふうが見えません。
 駒王いう。わたしがおごりというのは、そんなことではない。あるじは世にいう癇癖のやまいをつのらして、養生を知らぬおろかもので、おれがおれがとは己惚れもしないが、世間の人をみな濁ったものあつかいをする、こころ奢れる人だ。(原註 世人みな濁れりとは、屈原が漁夫の辞にある。この段はすべてかの辞から採って荘子に合せ、塩梅したものと見える。)このあるじの思うのにかなうような世間も人も、昔からあった例(ためし)がない。日本の本、唐土(から)の本などに、口をすっぱくして教えているのも、世の人がまっすぐでなく、たいがい佞(ねじ)けてばかりゆくのをなげいてのことではないか。その道理をもっともと推しいただいても、その教のとおりに実行する人はいないようだ。あるじもその仲間なのだろう。まあ、するもしないも、おのれの賢愚のみに依るのではなくて、賢人も世におし立てられては、道を行っても、なおかいのないものであろうか。(原註 孔子さえ世におし立てられて、道を行うことかたしとする。)筆をとっては、周の文王武王周公をもそしる人が昔からすくなくない。今の世には、尭舜をさえわるくとっていう人もある。(原註 今、神道者というもの、尭舜をそしるのがある。)さて、そういう当人がさとり顔に本を書く。その墨のかわかぬあいだにも、おのれの及ばないことを知りながら、一ぱし口をきくのが一人天狗のしわざだ。世におし立てられても、おのれが濁らなければ、まあよいという。(原註 漢の卓茂という人が我ハソノ清濁ノ間ヲ行カンといった。)それでも表面はにごらなければ世にはまじわりがたい。ここのあるじの輩はこれを行うことができないものだ。にごるといえば、悪くきこえるが、ただ世のありさまと見れば、何もとりたてて忌みきらうべきものでもない。花見嫁入の晴著はいつか壬生(みぶ)狂言のおどりの衣裳となり、俳諧師のあたまに烏帽子がとまれば、神の玉垣きよめる七五三縄(しめなわ)は関取の褌にまとう。二束三文の宝の山に入って、ときどき市中に薬をあきなう俗隠者もあれば、身分は低くても裕福の名の高いものもある。遊女の書きおくる文(ふみ)に虞世南(ぐせいなん)の筆法がある。大名きどりの町人があれば、阿蘭陀(おらんだ)ばりの機関士(からくりし)がある。蛮学、天文、投壺(とうこ)、盆石、琵琶、明楽(みんがく)、世にすたれたあそびでも、拾う神のめぐみはあるのだから、それこれの相違をいわないで、世とともに移りながら、見たり聞いたりしていれば、怒ったり恨んだりすることもないではないか。(原註 柳下恵という人はよく世とともに推移したという話がある。)それを相違したものがあるといってなげくのは、一人天狗の心おごりだ。粥をすすりひとえものを著るとも、小袖をもらったら重ね著もしよう、御馳走をもらったら食いもしよう。たかぶらないというのではなくて、貧乏がさせる身の行いだぞ。
 そういって、駒王がからからと笑えば、百千(あまた)の鳥もめいめい笑う。うそ姫もききとわらえば山もわらい野もわらう。春の眠けざまし、かんぺき談ともくせものがたりとも、何ともかとも、はて、たわいもない世間ばなしではある。」



「身過(みすぎ)はあぶない軽業(かるわざ)の口上(こうじょう)」より:

「これやこの行くもかへるもと詠んだ逢坂の関の道も、今は大津八丁につづいて、商売店(あきないみせ)の立ちならんだ中に、根元本家(こんげんほんけ)みすや針を売る店がおおい。この店つきは間口を五間十間とひろげて、土地がらの大津絵の襖、あけた向うは座しきではなくて、庭さきの逢坂山が行くもかえるも鼻につかえた構えだ。
 その中に、間口もせまい薬店の、打身薬勝劣散(うちみぐすりしょうれつさん)と、松板に養拙流(ようせつりゅう)で書いた文字もくすぶって見えない一構がある。
 あるじは惣髪の老人竹田周益(たけだしゅうえき)といって、衆方規矩(しゅうほうきく)の虎の巻一冊がたのみの藪医者で、夫婦ふたりきりでさえ朝夕のけむりも立つや立たず。子は一人あったが、とりえのない不孝者ゆえ、家出したなりに尋ねもしない。子のない昔とあきらめて、一代限りの料簡でいるが、さいわい療治もはやらない。
 しかし老舗(しにせ)の打身薬一服二十四文ずつ、街道の雲助が日の岡峠でふみくじいたが、あの薬でけろりとしたといいふらせば、矢橋(やばせ)の船頭の舟で突腕した痛みが一服でなおったとよろこぶ取沙汰、誰いうとなくよく売れるものの、老人夫婦の手仕事なので、売切らすことばかりで、鍋釜のにぎわうときもなく、目のあいた蟬丸夫婦、知るも知らぬもあわれと見よう暮しであった。
 さて、そんな不自由な暮らしのうちに、夫婦二三日へだててふたりとも死んでしまった。家主の針屋耳助(はりやみみすけ)というのがたのもしい男で、跡ねんごろに始末して、家出の息子が戻って来ることもあろうかと、破れ道具に医書四五冊、おのれの手もとに取っておいた。
 ところで、家出の息子三平というのは、年も三十にたらぬ浮気者で、ふと大津八丁の化粧のものといきさつがあって、ありもしない親のきものまで持ち出し、おのれも内証の借金で首がまわらず、あてもなしに逃げだした。おちついたさきは大阪の長町、知合のところだが、いつまで居候もしていられず、近所の旅籠屋に身を寄せて、住吉、堺あたりに宿引に出た。
 これが口さきの芸当で、熊野詣りの旅人を蟻のつづくほどに連れて戻るので、親方はよろこんで、
 「とんだいい男を雇って、この春はお詣りの客衆が多い。利口者じゃ。」
 三平は褒められたのを鼻にかけ、朋輩には我儘いっぱい、往来の雲助相手にはした銭の博奕にこって親方のてまえ二三貫のつかいこみで、ここにもまたいられぬ仕儀となった。だが、うまれつきの弁口で、それが宿引のあいだに甲羅をへて、蘇秦張儀(そしんちょうぎ)そこのけの、舌一枚あれば世界は楽だと、その日ぐらしの度胸がすわって、軽業(かるわざ)の口上(こうじょう)に雇われた。
 天王寺の彼岸じゅう、太夫(たいふ)は長崎仙人鶴之介(ながさきせんにんつるのすけ)という一本綱の名人、小屋がけ高くして初日から大入。喇叭、唐人笛(ちゃるめら)に三味線を合わして、三平は二挺太鼓のうちまぜにつれて、柿色の肩衣といういでたち、
 「東西、とうざい。まかり出でましたは、このたびの太夫、長崎仙人鶴之介、御当地は初のお目みえ。最初つとめまするは、かけわたしました一本綱の上にて、式三番叟の一曲。つぎは花傘居合の一手、達磨大師は坐禅車、獅子の洞入、うぐいすの谷わたり、猿の木のぼり、大津馬の追ちらし、あとは四本綱渡天の一曲、ハリハリトウトウ」
 声をはり上げてしゃべりちらせば、軽業もよくするが口上がうまいと、近年の評判をとった。
 そこを打ち上げてから、阿弥陀ヶ池の開帳、天満天神の境内とまわって、京の四条河原の涼みをあてこんで来ると、太夫仙人鶴之介がとんだ久米の仙人で、京女の何やらに通力をうしない、山雀(やまがら)の逆(さか)おとしに落ちて眼をまわしてしまった。
 これがさしあたり使いものにならないので、涼みの季節の大もうけを取りはぐってはなるまいと、にわかに見世物のもくろみをしたが、思うような因果物(かたわ)もなくて、どうしょうと宿で思案の最中に、壁どなりの油屋の絞りをはたらく男がのら猫をつかまえて、長屋じゅうわめきちらすのを聞くや、ふと思いついて、
 「その猫、わしにもらわして下され。」
 つるさげて戻って来ると、さっそく燃えあがる柴火の中に投げこめば、苦しがって飛び出すのを、打ちこみ投げこみして、髭も毛もさっぱりと焼きはらい、口を押し割って張木(はりぎ)をかえばギャッという音も出ない。
 それを針金の網に追いこんで、
 「サアサア、このたび紅毛(おらんだ)から渡った生きた麝香(じゃこう)はこれだ。正(しょう)のものを生(しょう)でごらんに入れる。」
 はやしたてて、四匁(もんめ)につき十四五文の五種香をやたらにくすべると、見物がたかって来て、
 「これはめずらしい。生きた麝香は今が見はじめだ。しかし、とんと猫に毛のないようなものだ。」
 見ているうちに、口にかった張木が抜けて、一声ニャンと鳴いたので、とたんに見物はおかしがって、
 「この麝香の名は三毛(みけ)とはいいませぬか。」
 大笑いになって、それからは虻もたからない。
 これではいかぬ、大阪の長町に下って何なりともくろんでと、明くる朝、昼舟に飛び乗って銭もうけの工夫(くふう)に夢中で、うかうか煙管(きせる)をくわえていると、乗合の中に、五人前の席を借り切って、供のもの一人、挟箱(はさみばこ)一荷(か)の旅人の、仁体いやしくないのが、三平の顔をつくづく見て、
 「あなたはどこのおひとだな。」
 「わたくしは京都のもの。急用で大阪に下ります。」
 「されば、先刻からあなたの人相を見たところ、あっぱれ秀才、出世するひとだのに、今の商売は何をなさるか知らぬが、妖怪に心神を破られる相が見える。そこで、お尋ねした。生れつきひとの下に立たない身分なのに、ことのほか相を損じられた。」
 三平は肝をつぶして、
 「これは不思議、何をかくしましょう、わたくしも元は相当のものの伜ですが、心がらからおちぶれて、よくない身過(みすぎ)をいたしております。今は大阪の長町へ見世物のもくろみに下ります。こんなことをいたしますのも不孝の罰と、今こそ思い知りました。どうぞひとらしい身になりとうございますが、何をいたしたらよろしゅうございましょう。ついでに、ごらんになって下さいまし。」
 「ふむ。怪異になやむ相がそれで知れました。あなたの相は学道(がくどう)がひらいているので、そろそろ医者でもなさるか、薬屋などもようござろう。」
 そういわれて、気がついたのは大津の親もとの打身薬で、よく売れた老舗であったのに、今はなくなられたと聞けば、跡はどうなったことやら。何でもこれから大津へ行って、家主にたより、あの調合の法をしらべて見ようと、がらりと思案がかわって、
 「船頭、枚方(ひらかた)につけて下され。寄るところがあるので、あがります。」
 人相見に礼をいって、伏見に引っ返し、大瓶谷(かめだに)から大津に出て、八丁のうまれ故郷、針屋耳助のもとに行って、だんだんの不埒を申しわけも嘘八百で、世帯道具も医書もすっかりわたしてもらい、打身薬を調合して、荷物をりっぱに飾りたて、供の奴(やっこ)にかつがせて、大津から京、伏見、淀、鳥羽(とば)のはしはしまで、足のつづくかぎり、口にまかせて、つくり声のひねり口上。
 「てまえ家伝勝劣散、効能の儀は、第一打身、脚気(かっけ)、めまい、中風(ちゅうぶ)、手足のしびれ、血のとどこおり、一切不順(やまい)の妙薬でござる。別しては、産前産後には神妙のききめ、そのほか万病に用いてはずれがない。こう申せば、どなた様も、さように何病にでも利く時には、世界の医者はいらぬはずだと仰せられましょう。いかにも当時町方の医者衆の仕事は、借金の周旋、嫁入の媒人(なこうど)、茶屋文(ちゃやぶみ)の取次、初日桟敷(しょにちさじき)の使走りなどで、そんな医者などの調合した薬をのむのは、追剝の出る原に、わざわざ剝がれようと、蛍狩に行くのも同然でござる。されば、てまえの勝劣散は諸病本復、効能神速をもっぱらにして、人を救うほかに邪念がない。お立合のかたがた、この薬がきくかきかぬかためしてみようと仰しゃるなら、代金お持合せなくてもお召し下さい。なるほどこの薬はあの男が申したとおり、たちまち功を見たとお判りになったら、またまた薬御用の節、代金をおはらい下さい。家伝名法勝劣散、ハリハリトウトウ」
 軽業の口上、舌一枚の芸当は手に入ったものだ。
 もともと薬はまやかし薬でもなく、のんで効能のあらわれるものが多く、日まし夜ましに売りひろめて、次第にふところ工合よく、古里のこととて大津八丁札の辻に五間まぐちの屋敷を買いこみ、店構えはでに飾りたて、見世物師から引きかえした出世だとあって、屋根に金(きん)の麝香(じゃこう)を看板とし、諸国の出店、町町の取次所、岡目で見ても二三百貫の身代とふめた。
 三平も今は緞子縮緬(どんすちりめん)の常服に、金ごしらえの小脇差、小坊主の丁稚をつれて、石山(いしやま)の月、三井(みい)の花とあそんでくらせる身分になったが、こうなってもむかし零落(おちめ)のときには、長町の宿なし住居で、四(よつ)(午前十時)も八(やつ)(午後二時)も食うや食わずでいたからとあって、名を大津屋四茂八(よもはち)と改めて、世をらくらくとわたるのも、親の光は七光り、大津八丁の勝劣散といって、近年の新案大あたりのよし。」



「西山物語(にしやまものがたり)」より:

「その後、またひどくわずらって寝て、五月、六月はただ夢のように明かし暮らすうちに、秋になった。やっと涼しい風が吹き出して、月の影も澄んで来たのに、すこし人ごこちが出て来て、せめて夜ばかりは起きあがって、しめやかな灯の明りに、歌物語などを読むと、わが身のようにもの思いに沈んだ人も昔から多かった。寝られぬままに、
  秋の夜のあくるもしらず啼くむしは我がごとものやかなしかるらむ (古今集)
 今宵(こよい)はことに思い出されて、ただ涙が流れるのに、お経一巻よみ上げようとおもいながら、床の間を見ると、虫などのしわざか、御燈明(みあかし)が二ところまで消えている。尼たちも鼾をしあって寝ているので、火を打ってみあかしを照らし、提婆品(だいばほん)という法華経の巻を心しずかに読みはじめた。
 さて悟(さとり)の道には男女の相(すがた)がないということを竜女に説法された条(くだり)にかかると、御燈明(みあかし)がまた二ところながら暗くなったのに、お経を読みさして、立って灯をかき照らそうとすれば、
 「灯はそのままに、お照らしなさらずに。」という声がする。
 見ると、白い衣(きぬ)を身にまとった少女(おとめ)の、頭の髪はしっとり黒く、うつぶしに伏している。
 「そういわれるのはどなただ。この闇いのに。」
 「忘草(わすれぐさ)の種(たね)をば、早くもお心にお蒔きなされましたな。」
 いうとともに、ほっそりした頭を上げたのを見るや、ただ茫然と心が暗くなって、此世の人かと思いまどいつつ、
 「これは他人行儀のなされようだな。まずこのごろはどこに行かれた。お文(ふみ)もなくて。」
 「さあ、その今行っております国は、穢(けがれ)のみ多くて、人の便(たより)とてはないところなので、心ならずも御無沙汰申し上げました。」
 「そのようなところに、何しに行かれた。」
 すると、少女(おとめ)はしばらくさめざめと泣いて、
 「おそばを離れて、なんの心あってまいりましょう。兄の七郎がわたくしの胸もとをとらえて、何ごとも願は叶わぬ、早く立ち出でよと、氷のような剣(つるぎ)を抜いてわたくしを追い放ちましたので、さかしまになると覚えましたが、まっくらな国に出ました。さてその国のおそろしいことは限りございませぬ。身は消えもしないで、炎の中に焼かれる時もあり、また出ようもなくて、雪氷に閉じられてこごえる時もあり、あるいはまたあやしい鬼けだものが集まって来て、身をずたずたに食い裂かれる時もあり、まして刃(やいば)にかかって死にましたものは、垂氷(つらら)をあおむけに植えならべたような剣(つるぎ)の林を、牛馬の顔をした醜女(しこめ)どもが鉄の鞭をあげて追うままに、せんすべなく走(は)せのぼったり走せ下ったり、そんなことがたびたびでございます。このような苦しみはこちらの国では見も聞きもいたしませぬが、すこしの隙にも立ちかえって来て、恋しい人のお顔を見る時は、その苦しみも忘れ、またその人のお手から水をたべ花をたべ、あるいは恋しいゆかしいとお心に思って下されたり、お言葉に述べて下されたりするのを、影のように附き添ってうけたまわる時は、あの剣を踏み、炎に焼かれ、雪に凍り、鬼に食いさいなまれる苦しみも、このうれしさに引きかえにしてと、そう思われるのでございます。もしいつまでもこうして逢瀬をと、おぼしめされるなら、かならず仏の道に入って悟心(さとりごころ)などおひらき下さいますな。たとえおん身は墨染の衣を召されるとも、お心さえ晴れやらずにおいでなら、恋しいともおぼしめすそのお心に附いて、いくたびも幻(まぼろし)の中に、もとの姿をお見せ申し上げましょう。」
 そういいながら寄り添ったのに、男はうれしく、
 「そんなこととも知らずに、そのまっくらな恐しい国にお伴もいたさず、そなたひとりをさ迷わせておいたとは、くちおしい。こうして通って来られるには、道のほども遠いのでしょう。その時さえ知れれば、お車でもさし上げましょう。願わくは、そんなおそろしい国にはお帰りなさらずに、いつまでもここにお留り下され。兄上にはどのようにも、おとりなし申し上げましょう。」
 少女(おとめ)はまた泣いて、
 「そのように心もそらのおんありさまを見るにつけても、かなしくて、かなしくてなりませぬ。今申し上げましたように、日に千たび夜に百たび、たとえお夢の中でも恋しいとさえおぼしめせば、そのお心こそ何よりの迎えのお車でございます。たとえ炎の中におりましょうとも、そのたびごとには通って来て、お心にお添いいたしましょう。かえすがえすも、わたくしをいとしいとおぼしめすなら、お心の悟(さとり)をおひらき下さいますな。またお心の悟ひらかせられた時はわたくしの返って来るたよりがございませぬ。その時こそ長のお別れと御承知あそばせ。さてこう申し上げるうちに、黄泉(よみ)の大王のお待ちなされるとて、冥府の使の来て呼ぶ声がいたします。今は帰りましょう。あすの夜、また人を寝しずまらせて、ここにお待ち下さいますなら、迷って来てお契いたしましょう。」
 少女(おとめ)はすごすご立って行くかと見えたが、煙のように消えうせた。
 「これはどこへ行くのか。おそろしい国にはなぜ帰る。わたしもともに伴いて行こう。おーいお待ちなされ。」
 そう呼んで、駆けて行こうとすると、看護に附いていた老女どもが「これは夢をごらんなされたか。ものに狂われたような。」と、つと寄って袖袂をとらえるのに、さては夢であったかと思ったが、まざまざと正真であったのに、一そう恋しさがつのって、「かき探っても、手にもふれぬ、夢のあわいの苦しさよ。」と、ひとり口ずさみながら寝たという。」



「宇比山踏(ういやまぶみ)」より:

「すべて上記の本はかならずしも順序をきめて読むにもおよばない。ただ便宜にまかせて、順序にかかわらず、あれもこれもと見るがよい。またどの本を読むにしても、初心のうちはかたはしから文章の意味を解そうとすることはない。まずたいていのところをざっと見て、他の本にうつり、あれこれと読んでは、またさきに読んだ本にもどって、何遍も読むうちには、はじめにわからなかったこともそろそろわかるようになってゆくものである。さてこれらの本を何遍も読むあいだには、そのほかに読むべき本のことも、いかにしてまなぶかという方法なども、おいおいに自分の料簡ができてくるものだから、それからさきのことはいちいちさとし教えるまでもない。めいめいこころまかせに、力のおよぶかぎり、古代の書をも後世の書をも、広く見るのもよかろうし、また読みをしぼって、さのみ広くはわたらなくてもよいだろう。」




こちらもご参照ください:

石川淳 『新釈雨月物語 新釈春雨物語』 (ちくま文庫)
寺山修司 『新釈稲妻草紙』 (ちくま文庫)
『日本随筆大成 〈第二期〉 6』 三養雑記 近世奇跡考 ほか















































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石川淳 『新釈雨月物語 新釈春雨物語』 (ちくま文庫)

「いや、人間の苦痛のさけびは、不思議にも他人の耳には入らぬものらしい。それどころか、住む世界を異にしては、おおきに酒のさかなともなる仕儀じゃ。」
(石川淳 『新釈雨月物語』 「夢応の鯉魚」 より)


石川淳 
『新釈雨月物語 
新釈春雨物語』
 
ちくま文庫 い-24-1 


筑摩書房 
1991年6月24日 第1刷発行
252p 
文庫判 並装 カバー 
定価520円(本体505円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 谷川泰宏「初春」


「本書のテクストは、石川活氏の監修によって小社刊『石川淳全集』第十七巻を底本に、同『古典日本文学全集』第二十八巻「江戸小説集 上」と校合して作製された。」



「新釈春雨物語」「附記」より:

「今日つたえられる春雨物語の内容は十篇であるが、ここには都合に依り五篇を取った。この五篇は、おくれて発見された樊噲下をのぞき、謂うところの富岡本所収のものである。もっとも、わたしの見るところでは、春雨物語に於ける秋成の発明の功は樊噲上に尽きる。下は、惜しむべし、末尾振わず、旧套に落ちている。」


新字・新かな。「新釈雨月物語」に原典より挿絵図版9点。


石川淳 新釈雨月物語


カバー裏文:

「世界にこんなにも美しい怪異というものがあるだろうか。世にも清潔に、かつ澄みきった怖ろしさ、凄さ! 魔道に堕ちた上皇の苦悩をえがく傑作「白峯」、人間の羈絆を脱して鯉に化した僧の眼にうつる絶美の自然をえがく「夢応の鯉魚」……作者上田秋成(享保19〈1734〉年~文化6〈1809〉年)による透徹した美の追求から創造された彫刻的な文体を、独行好学の作家の創意にみちた現代語訳で贈る。」


目次:

新釈雨月物語
 白峯
 菊花の約
 浅茅が宿
 夢応の鯉魚
 仏法僧
 吉備津の釜
 蛇性の婬
 青頭巾
 貧福論

新釈春雨物語
 血かたびら
 天津処女
 海賊
 目ひとつの神
 樊噲 上
 樊噲 下

秋成私論 (石川淳/昭和34年6月27日、上田秋成没後150年記念講演会にて。速記ノママ)
解説 雨月物語について (三島由紀夫/昭和24年9月)




◆本書より◆


「白峯(しらみね)」より:

「こころをつくして諫(いさ)めれば、崇徳院からからと笑って、
 「なんじ知らぬな。ちかごろの世のみだれは、みなこのわしのなすわざじゃ。生きてあった日から、かねて魔道にこころざしをかたむけて、平治の乱をおこさせ、死んでもなお朝廷にたたりしてくれる。いまに見よ、やがて天下に大乱を生ぜしめようぞ。」」

「「その年の秋、わしもまた世を去ったが、うらみの火、いかりの炎、なお燃えさかって尽きざるままに、ついに大魔王となり、三百余類の巨魁(きょかい)とはなった。わが眷族(けんぞく)のなすところは、ひとのさいわいを見ては転じてわざわいとし、世のおさまるを見ては乱をおこさせるのじゃ。」」

「ときに、峯も谷もゆらぎうごいて、風あらきこと林をたおすごとく、砂をも石をも空に巻きあげた。見る見る、陰火むらむらと、崇徳院の膝もとより燃えあがって、ここに山、そこに谷、あかるく昼のごとく照らし出した。光の中につくづく院のありさまをうかがうに、おもてには朱をそそぎ、荒れすさんだ髪は膝に垂れかかるまでにみだれ、白眼をつるしあげて、あつい息をくるしげについている。著たるころもは柿色も褪せすすけて、手足の爪はけもののごとく、長くとがり、生いのびて、さながらすさまじい魔王のかたち、ここにあからさまに現じた。」

「「かの仇(あた)がたきども、ことごとくこの目のまえの海にほろぼしてくれよう。」」



「菊花(きっか)の約(ちぎり)」より:

「播磨の国加古の駅(うまや)に、丈部(はせべ)左門というものがいた。家ゆたかではなかったが、このひと左様なことはとんと気にとめないで、富貴をねがわず、貧賤にめげず、つねづね伴侶とする本のほかには、諸道具ごたごたならべ立てるというような小うるさいことは一切きらった。」


「浅茅(あさぢ)が宿(やど)」より:

「下総(しもうさ)の国葛飾郡真間の里に、勝四郎という男がいた。祖父の代からひさしくこの土地に住んで、田畠おおくもって、ゆたかにくらしていたが、この男、生れつき物にこだわらないたちで、畠仕事はめんどう、はたらくのはいやと、のらりくらりしているうちに、家はいつかまずしくなった。」

「おもうこころの片はしばかりをすらいいえないのは、よくいいうるひとの心底にもまさって、あわれといおうか。」



「夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)」より:

「延長のころといえば、醍醐院治世のむかし、仏法おこなわれ諸芸さかえたおりに、三井寺に興義(こうぎ)という僧がいた。絵にたくみなるをもって、その名は世に知られた。いつもえがくのは、仏像山水花鳥なんぞをもっぱらにせず、寺務にひまのあるときには湖に小舟をうかべて、網をひき釣をする漁師に銭をあたえ、とった魚をもとの江に放って、その魚のおよぎあそぶのを見てはえがく。かくするほどに、年をへて精妙に至った。またあるときは絵におもいを凝らして、うとうと眠にさそわれれば、夢のうちに江に入って、大小の魚とともにあそぶ。めざめれば、その見たままをえがいて、これを壁にかかげて、みずから呼んで夢応の鯉魚とは名づけた。」
「その絵と風狂と、ともに天(あめ)が下にきこえた。
 この興義、ふと病にかかって、床につくこと七日、熱にほてって、くるしさ堪えがたく、すずしい風にでも吹かれたらばすこしは熱もさめようかと、杖をちからに門を出ると、病もどうやら忘れたように、たとえば籠から放たれた鳥の、かるがるとしたきもちになって、山となく里となく行くほどに、やがて江のほとりに達した。みずうみの水のみどりなのをまのあたりに見ると、ほっと息をついて、ここよ、ここに水を浴びてあそぼうものと、うかれごこちに、衣をぬぎ捨てて、身をおどらせて深みに飛びこみ、あちこちおよぎめぐるに、わかいときから水に狎(な)れたというわけでもないが、おもうにまかせてたわむれた。
 そういっても、水に浮かんでは、人間はとても魚のようにのびのびとはうごけない。しぜん心中につぶやくよう、
 「魚の世界にあそぼうというには、やっぱり魚にはかなわぬかな。」
 すると、どこからともなく、ひとつの大魚がそばに寄って来て、
 「和尚さまのお望みはいとやすいことじゃ。お待ちなされ。」
 大魚は水の底はるかにもぐって行くと見えたが、しばらくすると、衣冠に威儀をただしたひとの、かの大魚にまたがって、あまたの魚どもを供に引きつれ、浮みあがって来て、さていうことには、
 「水の神のみことのりじゃ。老僧かねて放生(ほうじょう)の功徳を積み、今江に入って魚のあそびをねがう。かりに金鯉の服をさずけて魚の国のたのしみをさせようぞ。ただ餌のにおいに迷って、釣の糸にかかり、あったら身をばほろぼすなよ。」

「日あたたかのときには浮び、風あらいときには水底にひそんであそぶ。そのうちに、たちまち飢えて食(もの)ほしくなって来た。さて腹がへったぞ。なにかないか。あちこちにあさり求めたが、なにもえられず、およぎ狂って行くほどに、かなたに釣糸を垂れている男を見た。」

「「されば、その魚がすなわち拙僧じゃ。」
 興義、事の仔細をくわしくものがたれば、ひとびと、いよいよ奇異の感をふかくして、しばらくはことばも無かった。助は膝をうって、
 「そういえば、かの魚、いくたびか口をうごかすとは見えたが、声には立たなかった。魚のことばは、人間の耳にはきこえぬものか。かかること、まのあたりに見たのは、何とも不思議じゃ。」
 興義、術(すべ)なげに首をふって、
 「いや、人間の苦痛のさけびは、不思議にも他人の耳には入らぬものらしい。それどころか、住む世界を異にしては、おおきに酒のさかなともなる仕儀じゃ。」」



「仏法僧(ぶっぽうそう)」より:

「伊勢の相可(おうか)という里に、拝志(はやし)なにがし、家督をはやくせがれにゆずって、さっぱりとあたまを丸め、名をも夢然とあらためて、もとより持病とても無い身の、おちこち諸国めぐりの旅を老後のたのしみとした。末の子の作之治というのが一徹の生れつきなのを苦にして、京の風俗でも見習わせようと、二条の別宅にとどまること一月あまり、それから吉野へ、おりしも三月の末、奥の花を見て、懇意の寺に七日ほど逗留、ここまで来たついでに、まだ高野の山を見ないので、とてものことにと、夏のはじめ、青葉の茂みをわけて、天(てん)の川というところから越えて、かの霊山にたどりついた。」

「親子は息絶えて、しばらくは死に入っていたが、やがて東の空しらじらと、ふる露のひややかなのに、ほっと息を吹きかえしはしたものの、まだ夜のあけきらぬおそろしさ、こころぼそさ、身をちぢめて、南無大師南無大師とせわしく唱えつつ、ようやく日の出ると見るや、いそぎ山をくだり、いっさんに京にかえって、鍼(はり)よ薬よと、当座ひたすら保養につとめた。
 「やれやれ、諸国めぐりの旅のはてに、見つけたのは修羅の妄執であったか。風雅の中にも、いくさの鬼はかくれ棲むと見える。おかげで、こちらの身にまで、血しぶきを浴びせられたようじゃ。この血のわずらいに、附ける薬は無いものか。」
 薬がきいたか、ほとぼりがさめたか、やまい次第にうすらぐうちに、いつか夏すぎて、京はもみじの秋、日和(ひより)ほかほか、ひとびと野に山にあそびあるくころになると、夢然、じっとしていられず、ある日二条の家を出た。
 男女たのしく行きかう巷の、いつもながらのにぎわいに、この世のどこに鬼が棲もうともおもわれず、
 「やっぱり泰平の世の中じゃ。」
 夢然もうかれごこちに、どこへ行くともなく、やみあがりの身を杖にまかせて、加茂の水のほとりにかかったとき、
 「あ、」
 いきなりみぞおちを突かれたように、身をかがめて立ちどまった。
 「どうなされました。」
 附きそって来た作之治が駆け寄るのを、手でおさえて、
 「いや、何ともない。」
 しかし、耳のまよいか、たったいまどこかに鳥のなく声の、するどくひびいたのを聞いたようにおもった。何の鳥か、不吉な声であった。ふりあおぐと、雀一羽の影すら見えず、白昼のまぶしいまでに澄みわたったのに、まなこくらめいて、
 「ここはどこじゃ。」
 「三条の橋でございます。」
 かくれもない殺生(せっしょう)関白の悪逆塚はこのあたりと、おもうより足すくんで、夢然、橋の欄干にもたれかかると、たちまち白日の光くもって、風すさまじく、加茂のながれは谷川のせせらぎときこえ、ここはいずこの山の奥、野の末か、行きかうひとびと、みな血にまみれ、髪ふりみだして、男女のわかちなく、たがいにののしり、つかみあい、飛ぶ矢音、打つ太刀音の中に、他人の血をもとめてあらそう悪鬼のすがたをまざまざと現じた。
 面色あおざめた夢然のそばに、作之治ひとりおろおろ、しきりに介抱につとめるのを、通りがかりのひとが見かねたのか、ちかづいて声をかけ、
 「御老体、どこぞおわるいか。お手だすけいたそう。」
 その親切そうなひとの顔まで、油断のならぬ鬼かとうたがわれた。」



「吉備津(きびつ)の釜(かま)」より:

「正太郎、今は黄泉(よみじ)をしたっても亡き魂を招くすべなく、かえりみて古里をおもえば、これは地下よりもさらに遠いここちして、前後に道絶え、あの世この世の堺にただひとり、身の置きどころを知らず、昼はうとうと寝つづけて、夕ぐれになると、かかさず墓のほとりに詣でて見るに、草はやくもおいしげって、虫の声かなしく、この秋のわびしさ、まことにこれわが身ひとつの秋ぞと、生れてはじめてしみじみおもい知った。」


「蛇性(じゃせい)の婬(いん)」より:

「いつのころのことか、紀伊の国三輪が崎に大宅(おほや)の竹助というひとがいた。このひと網元の福をえて、漁師どもおおぜいやしない、大魚小魚これを捕らざるものなく、家ゆたかにくらした。男子ふたり、女子ひとりがあった。長男の太郎はもの堅いたちで、よく家の業につとめた。つぎは女で、これは大和(やまと)のひとに望まれてかの地に嫁に行った。末の子に豊雄というものがいる。うまれつきやさしく、いつもみやびなことばかり好んで、身すぎ世わたりの料簡はとんと無かった。父はこれを苦労のたねにしておもうには、身代をわけてあたえてもいずれはひと手にわたすであろう。さりとて、他家に養子にやっても、いやなはなしを聞かされでもすることになってはつらい。ええい、当人のしたいままにほっておいて、ものの役にたたぬ学者とやらにもならばなれ、木のはしの坊主にもならばなれ、生きてあるかぎりは太郎の厄介者にさせておこうと、しいてやかましいこともいわなかった。」

「九月の末、きょうはことに隈(くま)もなく凪(な)ぎわたった海の、にわかに東南の方に雲おこって、小雨がはらはらと落ちて来た。」

「門を押しあけて、どっとはいった。家のうちは外よりもさらに荒れていた。なお奥のほうへと踏みこんで行く。前栽広くつくりなしてある。池は水あせて水草もみな枯れ、藪はかたむくまでにみだれた中に、松の大木の吹きたおれたのがすさまじい。宮殿の格子戸をひらけば、なまぐさい風がさっと吹きつけて来たのに、たじたじとして、ひとびとあとに引く。豊雄はただ声をのんでなげいていた。さむらいどもの中に、巨勢(こせ)の熊檮(くまがし)ときこえたのが胆ふとき男にて、おのおのわれにつづけと、板敷を荒く踏みならしてすすみ行く、塵つもって一寸ばかり鼠のくその散らばる中に古い几帳を立てて、花のようなる女ひとり、そこにいた。」



「青頭巾(あおずきん)」より:

「「この里の上の山に、一宇の寺がござる。もとは豪族小山氏の菩提所にて、代代大徳がお住みなされた。今の阿闍梨(あじゃり)はなにがし殿と申されるひとの甥御にて、学といい行といい、一きわほまれ高く、この国のひとびとみな香をささげ燈明をはこんでふかく帰依したものでござった。(中略)それが、去年の春のこと、越路の寺に灌頂(かんじょう)の導師としてむかえられて、百日あまり御逗留あったが、かの国より十二三歳の童子をつれておかえりなされ、これに起き臥しの世話をまかせられた。この童子のみめかたち、すぐれてうるわしいのを、ふかくもめでさせられて、年ごろつとめた学も行もいつのまにかおこたりがちの御様子と見えた。ところが、ことし四月のころ、かの童子、かりそめのやまいに臥したのが、日をへておもいなやみとなったのを、なげきかなしみやる方なく、国府の典薬の名あるひとまでも招かれたれど、そのしるしもなくて童子はついにむなしくなられた。ふところの璧をうばわれ、かざしの花を嵐にさそわれたおもいして、泣くに涙なく、さけぶに声なく、悲歎のあまりに、なきがらを火に焼き土に葬ることもせずに、顔に顔をよせ、手に手をとりくんで日かずをすごされるうちに、さしもの阿闍梨(あじゃり)、ついにこころみだれ、生前にたがわずたわむれながら、その肉の腐りただれるのを惜しんで、肉をすい骨をなめて、やがては食らいつくされた。寺中のひとびと、院主こそ鬼になられたぞと、あわてて逃げ去ったのちは、夜な夜な里におりてひとをおびやかし、あるいは墓をあばいてなまなましい屍をくらうありさま、まことに鬼というものはむかしの物語には聞きもしたれど、げんにかくなりはてられたのをこの目で見たことでござった。」」

「「一たび愛欲の道にまよい入って、煩悩の火の燃えさかるままに鬼と化したというのも、所詮はもとこれひたすらに直くたくましき性のなすところじゃ。心をゆるせば妖魔となり心を収めるときは仏果をうるとは、まことかな、この法師の身のうえであった。」」



「血かたびら」より:

「さらばとあって、すなわち官兵をつかわして、仲成をとらえて首はねさせ、奈良坂にさらしものとした。薬子は宮よりさげさせて、これはその家におしこめた。
 また上皇のみこ高丘(たかおか)親王は、今のみかどが上皇の胸中を察して皇太子に定めておいたものだが、これを廃して、僧になれと宣旨があったので、親王かざりをおろし、名をあらためて真如という。この真如法親王、三論を道詮についてまなび、真言の密旨を空海について習い、なお教の奥があろうかと、貞観三年唐土にわたり、行くゆく葱嶺(パミール)をこえ、羅越国(ラオス)に至り、こころゆくまで問いまなんで、帰朝したという。このみこが世を治めたもうたならと、内内には上下ともに申しあったことである。
 薬子はおのれの罪はくやまずに、うらみの気は炎となり、ついに刃に伏して死す。その血飛びはしって、几帳(きちょう)の薄絹にさっとかかり、なまなましく乾かない。つわものが弓に射れどなびかず、剣に打てば刃こぼれがして、鬼気さらに迫った。上皇はまったく知らぬことではあったが、われあやまてりとて、みずからおもい立って、落髪して沙門となり、春秋五十二というまで在世と、史書にしるしてある。」



「天津処女(あまつおとめ)」より:

「さて、嵯峨上皇、閑居の宮にわかく花やかに住みなして、伺候するものには、もろこしの書を読めとすすめた。また草書隷書をよくまなびえて、船のたよりに、唐土の墨蹟のすぐれたものをかずかず撰みもとめた。あるとき、空海を召して、
 「これ見よ。王羲之(おうぎし)の真筆じゃ。」
 空海、手にとって、つくづく見て、
 「これはかく申す空海が唐土にあったおりに、手習したる筆の跡にほかなりませぬ。ごらんあそばせ。」
 紙の裏をすこしそいで見せれば、空海筆としるしてあったので、上皇ことばなし。」



「海賊」より:

「このことを、学問の友に会って、誰だろうときけば、「文屋(ぶんや)の秋津(あきつ)だろう。学問はなかなか博かったが、放蕩無頼で、ついに追いはらいになった。それが海賊となって横行しおるとか。それとても、かれが天からさずかった福運のおかげだろう。どうやら罪にもあたらずに、今までのさばって歩きおるわい。」と話したという。」


「樊噲(はんかい) 上」より:

「年も暮れた。例年よりは大蔵がかせぐので、銭三十貫文(かんもん)を積んで、ことしは景気がよいと、父も兄もきげんよくいうのに、母と兄嫁とは、ほんにそうだと、大蔵に布子(ぬのこ)一枚新しくととのえて着せた。
 新年になって、春がのどかなのに、またぞろいつもの宿にあそびに行き、博奕をはじめて負けたので、銭を催促されて、さすがに気がひけて、一夜二夜(ひとよふたよ)は行きえないでいた。
 母にむかって、「春のお詣りに山にのぼりたい。友だちが行くので。」といって、銭を乞う。
 「早くかえれ。申(さる)(午後四時)過ぎると、おそろしい。」と、母は蔵に行く。
 あとからついて行って、「たくさん下され。」と乞う。
 「お山にお詣りするのに、たくさん何にする。まあ、このくらい。」と、櫃(ひつ)のふたをあけて、つかみ出して、ぱらぱらと百文あまりもあろう。「もって行け。」と、櫃のふたをする内を見ると、緡(さし)にからげた銭が二十貫文(かんもん)ある。
 母にむかって、「例年の春の博奕(いたずら)をして、銭を負けた。友だちがつぐのえといって、たびたび催促するので、その銭をしばらくくれぬか。山かせぎして、元どおり積もう。あすからは山に出かけよう。」と乞うつらがにくい。
 「さてもさても、心を改めたかと思えば、博奕をやめぬな。目代どのから春ごとに御禁制になるいたずらだ。神もおにくしみなさろう。この銭は兄が入れておいたぞ。兄の許しがなくては手はつけまい。」と、櫃の鑰(かぎ)をさそうとする。
 れいの心から、母をとらえて働(はたら)かせず「声たてるな、おやじどのの昼寝がさめるぞ。」と、片手でふたをあけて、二十貫文つかみ出して、母は櫃の中に押しこめて、銭を肩にかついでゆらゆらと出る。
 兄嫁が見て、「その銭をどこへもって行くつもりか。夫がかぞえて入れて置いたに。おやじどの、起きて来て下され。またいたずらの虫がおこりましたぞ。」と、金切声で叫ぶ。
 父は飛び起きて、「おのれ、ぬす人め、赦さぬ。」と、担い棒をとって庭におり、うしろから丁と打つ。打たれても骨が硬いので、あざわらって門口に出る。にくにくしと追いかけたが、足は韋駄天走(いだてんばし)りで逃げて行く。「あれ、とらえて下され。」と、呼ばわり呼ばわり追う。
 兄もかえり道にぶつかって、「おのれ、その銭をぬすまそうか。」と、奪いかえそうとしたが、手に立たず、蹴倒された。父は足よわく、兄よりおくれたのが、このときやっと追いついて、うしろからしかと抱きとめるのを、「年寄の力だて、無用だ。」と、片手で前に引きまわし、横ざまに投げると、道がほそいので、溜池の氷のとけぬ上にころび落ちた。兄は、親を何とすると、助けあがらせるうちに、あいだが遠くなった。父も山そだちなので、気はつよくて、濡れたきものをからげ上げて、また追う。
 谷をわたるところで、友だちが出あい、むかい立ってつよく捕えた。これは力のある男なので、大蔵も腕のかぎりにつらを打ち、ひるむを見て蹴ると、谷の底へころがり落ちた。水のひどくつめたい頃なので、気はつよくても這いあがれないのを、「うぬが博奕の負目(おいめ)を催促しおるから、つぐのおうと、親の銭なれば持って出たのだ。」と、岸に立つ石の大きいのをまた蹴おとせば、這いあがろうとしかけたその頭の上にころびかかって、ふかい谷底に石もろとも落ちこんで、今度はもうあがれない。
 兄と父とは追いかねていたが、このひまにようやく来て、ぜひ銭を奪いかえそうとする。今は大あばれにあばれて、親も兄も谷の流に蹴おとして、韋駄天(いだてん)走りでどことも知れず逃げうせた。父、兄も淵に一所にしずんで、あがれず、こごえこごえて死んだ。」
「大蔵は逃げのびて、このうえはと筑紫にわたり、博多の港にいく日かいて、博奕うつ仲間に入って、何の仕合せか、銭多く勝った。ここにも、しかじかの大罪人をめしとれと、ふれながしがある。やくざもの仲間も大蔵だろうと、目くばせしたのを見て、いちはやくここを逃れて、銭は重いと、木の下に投げ捨て、黄金五枚あるのを心だよりに、旅人のていで、長崎の港にさまよって来た。」



「樊噲 下」より:

「心を納めればたれも仏心、放てば妖魔と、経文に説かれたのは、この樊噲のことであった。」




こちらもご参照ください:

石川淳 訳 『癇癖談』 (ちくま文庫)
田中優子 『江戸の想像力』 (ちくま学芸文庫)
高田衛 『江戸幻想文学誌』 (平凡社選書)









































































石川淳 『狂風記』 (全二冊)

「さしあたつて必要なものは無法のろくでなしどもの手である。乘りかかつた事件のねらひは、仕上げをきれいにすることではなく、醜怪をいやらしいままにそつくりさらけ出すことにあつた。(中略)考へうるすべての惡辣な手はこれをさらにエスカレートしてゆくところに靈的な意味があつた。といふのは、靈の顯現は人間といふ生餌を食ひやぶつて燃えあがるものと、ヒメは堅く信じてゐたからである。」
(石川淳 『狂風記』 より)


石川淳 
『狂風記 (上)』


集英社
1980年10月10日 第1刷発行
452p 口絵(モノクロ)i 
菊判 丸背布装上製本 貼函
定価2,000円
装幀: 栃折久美子



正字・正かな。


石川淳 狂風記上 01


上巻帯文:

「執筆10年、
1440枚の大作
ここに刊行!

怨霊舞い、権謀術数渦巻く
波乱万丈の物語…
アナーキーな風が、
卑俗な現実を笑いとばす!」



上巻帯背:

「比類なく華麗な
小説世界を展開」



上巻帯裏:

「覚悟といふカテドラル
丸谷才一

 『狂風記』は石川淳の文学の集大成とも言ふべき大伽藍である。ここにはこの偉大な文学者のすべてがある。この豪勢な建築は、中国の伝奇の悪夢にSFの宇宙論を加へ、西欧十八世紀小説の論理学を彩るに落語のレトリックをもつてし、そして歌舞伎の社会学の柱としてゴシック・ロマンスの幻想をすゑるといふ方法で作られた。
 しかもこのカテドラルの中心には二巻の巻子本(かんすほん)があつて、謎めいた古文書から発する力が末世のてんやわんやをあやつることになるのだが、このとき作者は、記紀の伝承から幕末の艶話を経てつひに今日の東京のニュース・ストーリーに及ぶといふかたちで、一篇の長篇小説のなかに日本史全体を封じこめたのだらうか。いや、違ふだらう。ここにあるのは民族の歴史などといふちつぽけなものではない。彼は普遍的な人間の運命を叙して、乱世に生きる覚悟を花やかに表明したのである。」



石川淳 狂風記


石川淳 
『狂風記 (下)』


集英社
1980年10月10日 第1刷発行
460p 
菊判 丸背布装上製本 貼函
定価2,000円
装幀: 栃折久美子


「「昴」連載 一九七一年二月―一九八〇年四月」



石川淳 狂風記下 01


下巻帯文:

「現代日本文学に
屹立する
記念碑的作品

卓抜な想像力と
豊饒なパロディ…
華麗な小説言語の世界が、
いま、現代文学を痛撃する!」



下巻帯背:

「現代文学の
記念碑的大作!」



下巻帯裏:

「巨匠、未来を語る
大江健三郎

 戦後乱世の風がなお吹きあれた時分、ハイティーンの僕を支えたのは、ドスのようにポケットにおさめた、石川淳の小説であった。そこに描かれた、えたいのしれぬ生命力のかたまり、しかも美しい娘と若者の肖像は、燃えるような励ましを、ポケットの主につたえたのだ。かれらは同時代の荒野にあって、決然と未来にひとみをさだめていた。
 三十年たって、いま新作に示された、石川淳の宇宙モデルは、その究極の全体像をあらわしている。古代のしるしから、現代のありとある出来事まで、ふくみこんで山なす瓦礫、その裾野を掘るヒメとマゴ。僕はこの娘と若者の肖像に、かつての熱狂をよみがえらせる。古代へさかのぼり、地底へもぐりこむ、石川淳宇宙の奥行きは、かつてのどの作品より深く、現代の混沌と、よくあいわたる広さだが、ヒメとマゴはその総体をおおいつつ、断じて未来をめざすのだ。」



内容:

上巻: 一~二十九
下巻: 三十~五十六


石川淳 狂風記上 02



◆本書より◆


上巻より:

「その奥ふかくなにがひそむとも知れず、まだ發しない震動のけはひが地の底からつたはつて來て、裾野は塵一つあまさず吸ひよせる磁場のやうであつた。むせかへる塵にまじつて、マゴの身柄は今この場の片隅に廢品の中の居候として住みこんでゐる。」

「「オバケを見るやうな目つきで、あたしを見ることはないよ。あたしはちやんと生きてゐる。これからもずつとね。おまへをここに呼び出したのはげんに生きてゐるあたしのカンのはたらきではあるけれど、それもつまりは靈のみちびきだよ。」
 「うむ。それはおれも不思議におもつてるんだ。どうしてここに來るやうなことになつちまつたんだか。」
 「靈から見れば自然の成行だらうね。靈はあたしひとりぼつちぢやない。長野氏代代の靈、それよりもまたはるかに遠い先祖の靈までふくめて、今はみんないつしよにこのあたしの身一つにかたまつてるんだからね。あの位牌に書いてある七つの文字は、未來にかけて、あたしの系圖の全部だよ。」
 「系圖。ふーむ。そんな古くさいものをどうしてここに……」
 「バカだね、おまへは。未來にかけてといつたのが耳にはひらないのかい。現在から未來にむかつてものをいふのが系圖だよ。いいえ、それにものをいはせてやるのが今の代の當主であるあたしのつとめだよ。たとへば、あたしが系圖の中から先祖の靈をぎゆつとつかんで取出して來ると、それが今から生きはじめて、あたしの身に於てあたらしく行動をおこすといふやうなものだね。」
 「ものすごい系圖だな。そんなの、あるかい。」
 「あたりまへだよ。過去にさかのぼつてどこまでも突きつめてゆけば、どうしたつて未來のはうに出ちまふほかないもん。系圖はその道しるべの手がかりだよ。」

「ヒメにとつて、ふりかへつて見ると、過去は遠くまでいちめんに灰がふつてゐた。今日の商賣は葬儀屋として、日常に死者の灰をあたまからかぶつてゐるのも、抜きさしならぬ因縁か。當人はすすんでその因縁の中に飛びこんで、そこよりほかに生きどころはないと、つよい決意をひそめたやうであつた。死者の灰に生きる。これはおそらく先祖代代臍の緒に書きつがれて來た約束なのだらう。ただそれをわが身のことにして必至に來歴の意味をさとるためには、おふくろが死ぬといふ事件……いや、おふくろはどうしてもむざんに殺されなくてはならぬといふ必然があつた。三年前、ヒメがちようど滿はたちになつた日の寒いあけがたに、おふくろは短刀で刺されて、寢てゐた蒲團の中から家の外にまでころがり出て、血まみれのすがたを氷つた道の上に派手にさらしてくれた。(中略)短刀でとどめを刺されるまで地上をのた打ちまはつたその生活の相は死後の今でも消えない。ヒメが世の中に信ずることのできるものは、たつた一つ、さきにおふくろの體内に、今はおのれの體内に流れつづけてゐるところの、代代の血の歴史であつた。
 おふくろのおふくろの、そのまた何代前になるのか、京の三條大橋に生きながらサラシモノにされた女がゐて、ヒメにとつて家の系圖といふものはそれからはじまつた。このイキザラシ一件はおそらく系圖の花として代代傳承されて來たらしく、ヒメのおふくろは橋にくくりつけられた遠い先祖がそのころ麗容をもつてうたはれたことを美人系の證據のやうにそそつかしく取りちがへて、せめてもの自慢のたねに、ヒメの幼時から耳にタコが入るほどくりかへして語つてきかせた。このタコはをさない耳におそろしく、また晴れがましく、戰慄すべき女の榮光を吹きこんだ。イキザラシ。ほとんど神話の世界の出來事であつた。罪の汚辱にも崩れない美貌が水のほとりにつるされたすがたは、あやしいまでに秘密にみちて、たしかに此世ならぬものにちがひない。もしこのすがたを畫にかいたとすれば……いや、少女の想像の中ではすでにそれが畫になつてゐて、空はるかなあこがれの像、現在のヒメとしては、ますます身にしみてふりあふぐべきイコンにひとしかつた。」

「「地下にうづもれた黑い木みたいなもの。うもれ木と見えるもの。それはほんとに木の性で腐つちまふやつもあるだらうし、石になつて冷えこんぢやふやつもあるだらうけど、そんなのばかりぢやないよ。木と見えて燃える石。火を吹く岩。さういふぴりつとしたのもあらあね。その火の性のうもれ木のうちとして、世の中には穴ぼこといふものがあるんだよ。」」

「「うちの紋のことだがね。先祖の長野主膳は表むきにはなにかほかの紋をつけてゐたやうだけれど、じつをいふと、長野家の紋は九曜なんだよ。むかしはそれを家の秘密として、もしやひとに見つかつたらきつとわるいことがおこるみたいに、大切にかくしてゐたらしいね。九曜は星が九つ。そのうち七曜はだれでも知つてゐる。あとの二つの星はだれも知らない。むつかしい名はついてゐても、どういふ星だかわからない。それはあたしにも不思議な謎だよ。ただ天のずつと遠い高いところ、目がくらくらするほど冴えわたつた丸天井の隅のはうに、ほかの星からは仲間はづれに、黑光りに光つた小さい星が二つある。どこの天文臺でも、どんな精密なレンズでも、見つかりつこない星二つ。それがてつきり九曜の中の二曜だらうよ。あたしにはそれが見える。とりわけてよく見えるんだよ。だつて、それこそうちの先祖の靈が宿つてゐる星にちがひないもん。ふたりともひどい最期をとげた先祖の男と女の靈。未來永劫うらみに燃える世界ぢゆうの靈は、凝りに凝つて、むかしからこの男星女星にあつまつてゐるのぢやないかね。靈のみちびきはこの星が下界にむかつてはなつ光のたよりだよ。」」

「運動の場は死者と生者とがぶつかりあふ境である。そもそも生きたやつの仕打として、死んだやつを僞善的に土の下に埋めてしまふことをおもひついたのは、よつぽどずるい著想にちがひない。たましひはそこに鎭められたのではなくて、ていよく土の牢に閉ぢこめられたことになる。死者にものをいはせるな。過去が息を吹きかへして來て、現在の秩序にひびを入らせることは許さない。一分の隙なく土をかぶせた上にも念を押して、鍬でぺたぺたぶつたたいて、おもい石を置くわけである。しかし、屈伏することを知らないたましひにとつて、過去現在といふ仕切があるだらうか。千年むかしのたましひでも、ものをいふところは今よりほかない。今の秩序を破れ。」



下巻より:

「そのとき、マヤが聲をかけた。
 「先生、それは住む世界がちがふといふおはなしね。さういへば、わたくし、みようなことがあるの。いつどこでも、どんな場所、どんな環境に身を置いても、どうもほかのひとたちとは居どころがちがつてるみたいな氣がするのよ。つまり、對象の受けとめ方がちがふといふわけ。げんにこの場でも、おなじものを見ながら、みんなとおなじやうには見ちやゐない。かう見えるといはれても、さうは見えない。よく不感性だと笑はれるけど、こつちから逆にいへば、みんなはわたくしとおなじやうには感じないらしいわ。これきつと生理的なものね。おまへをかしいぞといはれれば、そつちこそをかしいぞといふことになるわよ。わたくしの感覺の器官には羽衣のやうなうすい膜がかかつてるのね。ほかのひとたちにはさういふ膜がないみたい。どつちがまともか寸たらずか、そんなこと氣にしちやゐない。ただいくぶん世界がちがふとはいへさうね。わたくしにしてみれば、わるいけど、こつちのはうがちつとばかり優越的なきもちよ。」」

「亡靈。千年にあまる歴史の闇をやぶつて、荒ぶる神の形相はあからさまに宵の空にうつり出た。ことばは陰陰と重く、巷の燈火はひたと色をうしなつて地に沈んだかと見えたをりに、はなやぐ娘の聲が歌ふやうにあどけなくさけんだ。
 「遠いまぼろしは今の世のうつつにあらはれたよ。みゆきの道には血の花を。國王オシハノミコのお通りだよ。」」























































































































「すばる」 石川淳追悼記念号


「すばる」 
石川淳追悼記念号

1988年4月臨時増刊

集英社 
1988年4月25日発行
466p(うち別丁口絵40p) 
A5判 並装
特別定価980円
本文カット: 若林奮 
表紙写真: 小沢忠恭



昭和62年12月29日に逝去した石川淳の追悼記念号。石川淳は「すばる」に『狂風記』『六道遊行』『天門』『蛇の歌』(絶筆)と、精力的に長篇小説を発表していました。
集英社からは本誌とほぼ同時に二冊の没後刊行単行本(『蛇の歌』『夷齋風雅』)が刊行されています。


口絵はカラー8p、モノクロ32p。本文中図版(モノクロ)多数。


石川淳追悼号 すばる 01

表紙。
 
 
石川淳追悼号 すばる 02

昭和55年11月、南青山の自宅付近にて。撮影・小沢忠恭。


目次:
 
石川淳アルバム――貌

絶筆 三一五枚
石川淳 「蛇の歌」
井澤義雄 「絶筆「蛇の歌」に寄せて」

発掘 二十代初期作品集
石川淳 「銀瓶」「拳」「瓜喰ひの僧正」
鈴木貞美 「石川淳の軌跡 習作時代から戦中までのメモランダム」
 

大岡信 「火の霊がうたふ 石川淳氏に捧ぐ」

弔辞
安部公房・加藤周一・武満徹・中村真一郎・丸谷才一
 
野口武彦 「ものいう死者の思想――『狂風記』、あるいは地底の千年王国」
篠田一士 「石川淳の小説言語」
川西政明 「魔神へ 昭和十年代、二十年代の作品」
奥野健男 「無頼派(リベルタン)と前衛派(アヴァンギャルド)の切点 石川淳論のうち」
菅野昭正 「石川淳論ノート 昭和小説家の発想法について」
 
石川淳の世界――作家と作品

古井由吉 「五千年の涯」
三枝和子 「女性像・『修羅』の「姫」」
金井美恵子 「感想」
森崎和江 「舞台の灯」
逢坂剛 「石川教の裔」
武市好古 「石川淳はぼくの生涯のアイドルだったのに」

小田切秀雄 「石川さんの底力の一つ」
谷川徹三 「とりとめなく」
高橋英夫 「「型」と無限」
秋山駿 「単純なものと豊富なもの」
新庄嘉章 「石川淳氏とフランス文学」
松山巌 「永遠の捨て子がみる夢」
東野芳明 「石川淳述「マルセル・デュシャン論」、ガ与エラレタトセヨ」
 
夷齋 石川淳と私

埴谷雄高 「石川淳の全的読者」
開高健 「隠者として、風として」
瀬戸内晴美 「菊富士ホテルからかの子へ」
河盛好蔵 「思い出一つ」
宗左近 「冬の鎮魂」
杉本秀太郎 「天地玄黄」

千田是也 「石川先生を悼む」
大塚道子 「『一目見て憎め』のこと」
辻義一 「先生、ありがとうございました」
安引宏 「狂風は地を捲いて」
谷田昌平 「三十年、折々のこと」
田中優子 「救いとしての石川淳」
W・J・タイラー 「花と塵にて笑う精神」
辻邦生 「夷齋先生――ささやかな portrait」
野坂昭如 「一枚の葉書」
宇田健 「「焼跡のイエス」のフランス語訳」
水城顯 「晩年点描」
 
《文庫解説》集成
神西清 「焼跡のイエス」 (新潮文庫 1949年1月刊)
神西清 「処女懐胎」 (新潮文庫 1950年6月刊)
窪田啓作 「黄金伝説」 (河出文庫 1954年6月刊)
佐々木基一 「鷹・珊瑚」 (講談社ミリオン・ブックス 1955年6月刊)
加藤周一 「文学大概」 (角川文庫 1955年10月刊)
窪田啓作 「普賢」 (角川文庫 1956年2月刊)
福永武彦 「紫苑物語」 (新潮文庫 1957年5月刊)
佐々木基一 「焼跡のイエス・処女懐胎」 (新潮文庫 1970年5月刊)
古井由吉 「鷹」 (講談社現代文学秀作シリーズ 1971年7月刊)
中村幸彦 「諸国畸人伝」 (中公文庫 1976年1月刊)
丸谷才一 「文学大概」 (中公文庫 1976年12月刊)
佐々木基一 「普賢」 (集英社文庫 1977年5月刊)
丸谷才一 「おとしばなし集」 (集英社文庫 1977年8月刊)
安部公房 「夷齋筆談」 (冨山房百科文庫 1978年1月刊)
佐々木基一 「白描」 (集英社文庫 1978年4月刊)
竹盛天雄 「森鴎外」 (岩波文庫 1978年7月刊)
澁澤龍彦 「至福千年」 (岩波文庫 1983年8月刊)
高橋源一郎 「狂風記」 (集英社文庫 1985年1月刊)
 
石川淳年譜 (鈴木貞美 編)

鼎談
 佐々木基一・中村真一郎・丸谷才一 「石川淳の文学と位置」



石川淳追悼号 すばる 03



◆本書より◆

 
武満徹「弔辞」より:

「世界はさまざまの異なった考え方によって成り立ち、そして、思想は他者を自覚することなしには生まれようもない。
 という先生のことばは、(中略)実に重く、意味深いものでした。
 江戸音曲について、それを批判的に考察すること。先生はまた、同じ太棹三味線にあっても、野沢喜左衛門と竹沢彌七の芸の違いを識ることで、その世界が、私が高を括っていたほど単純なものではないことを知らしてくださいました。だがそれによって、私はむしろ、困難な道を歩むことになったのですが、そうしたことを識らずに済ました自分を想像すると、先生の示唆に深い感謝の念を覚えずにはいられません。」



辻邦生「夷齋先生――ささやかな portrait」より:

「いつだったか、夷齋先生はひどく酔っておられ、挑発的な、評価するような顔で言った。
 「江戸の春画で一番いい絵描きは誰だと思いますか」」
「「北斎もいいが、本当にいいのは英泉です。英泉がどうしていいか分りますか」
 私は黙って首を振った。
 「それはね、英泉は春画の持つただ一つの目的のために描いているからです。春画の目的は何だと思います? 人間の劣情を刺戟することです。英泉はほかのことは何も考えなかった。ただ劣情をいかに刺戟するか、そのことだけを考え、それを見事に実現している。だから英泉の描く春画が一番立派なのです」」



石川淳追悼号 すばる 04

















































































『增補 石川淳全集 第十四巻』

「はたらけ、はたらけなんぞといふ悪人の掛声にだまされるな。(中略)それよりはおとなしく空巣でもねらつたはうがましだよ。」
(石川淳 「靴みがきの一日」 より)


『增補 石川淳全集 第十四巻』

筑摩書房 昭和50年3月20日第1刷発行
617p 口絵(モノクロ)i 21×16cm 
丸背布装上製本 貼函 定価3,800円



著者生前に刊行された全集。解説・解題等はありません。
現代ものと時代ものがほぼ交互に配置された短篇小説集『天馬賦』、文集『夷齋小識』、文芸時評『文林通言』の三冊を収録。


石川淳全集14-1


第十四巻目録:

靴みがきの一日 (「世界」 昭和39年7月号)
鸚鵡石 (「新潮」 昭和41年1月号)
無明 (「新潮」 昭和41年5月号)
鏡の中 (「新潮」 昭和42年1月号)
一露 (「新潮」 昭和44年1月号)
若菜 (「中央公論」 昭和44年2月号)
虎の國 (「文藝」 昭和44年4月号)
天馬賦 (「海」 昭和44年7月~9月号)
武運 (「海」 昭和45年1月号)

夷齋小識
 わが万太郎 (「新潮」 昭和38年8月号)
 不幸でなさすぎる (「中央公論」 昭和39年1月号)
 京劇雜感 (「読売新聞」夕刊 昭和39年1月13日)
 二十七歳の達觀 (俳優座公演「有福詩人」パンフレット 昭和39年2月)
 三好達治
  その一 (「新潮」 昭和39年6月号)
  その二 (中央公論社版『日本の詩歌』「三好達治」解説 昭和42年12月)
 宗達雜感 (筑摩書房刊『日本文化史』5附録 昭和40年5月)
 ドナルド・キーン著「能」(英文)序 (講談社インターナショナル刊 昭和41年1月)
 倫敦塔その他 (岩波書店刊「夏目漱石全集」第二巻月報 昭和41年1月)
 大みそかの夕 (「東京新聞」夕刊 昭和42年1月7日)
 坂口三千代著「クラクラ日記」序 (文藝春秋社刊 昭和42年2月)
 ゼロツクス (「図書」 昭和42年5月号)
 革命家の夢 (「朝日新聞」夕刊 昭和42年11月11日)
 讀み癖 (「きょうと」 昭和43年1月号)
 佛界魔界 (「太陽」 昭和43年1月号)
 めぐりめぐつて (「東京新聞」夕刊 昭和43年1月8日)
 無法書話 (筑摩書房刊〈講座中国〉 昭和43年1月)
 「中國の孝道」を讀む (「図書」 昭和43年2月号)
 ダダについて (「朝日新聞」夕刊 昭和43年7月1日)
 吉備路 (「朝日新聞」夕刊 昭和44念1月6日)
 千田是也の手 (俳優座公演「アルトゥロ・ウイ」パンフレット 昭和44年2月)
 文學談斷片 (「海」 昭和44年6月発刊記念号)
 タケノコの説 (安部公房作並に演出「棒になった男」公演パンフレット 昭和44年11月)
 無害は有害といふこと (「朝日新聞」夕刊 昭和44年12月3日)
 本居宣長 (中央公論社版『日本の名著』「本居宣長」解説 昭和45年5月)
 高志高興 (筑摩書房刊 「吉川幸次郎全集」二十巻月報 昭和45年12月)
 舌を結ぶ (「海」 昭和46年1月号)
 
文林通言 (朝日新聞文藝時評)
 昭和四十四年
  十二月
 昭和四十五年
  一月
  二月
  三月
  四月
  五月
  六月
  七月
  八月
  九月
  十月
  十一月
  十二月
 昭和四十六年
  一月
  二月
  三月
  四月
  五月
  六月
  七月
  八月
  九月
  十月
  十一月
 人名索引



石川淳全集14-2


口絵: 「昭和五十年二月筆」



◆本書より◆


「靴みがきの一日」より:

「靴みがきの腰掛が世界の中心に据ゑられると、巷のけしきがとたんに安定したようであつた。安定は手のつけられない混雜と騒音と惡臭との渦の底にたしかめられた。低い腰掛は地球の部分である道に吸ひついて、そこに根をおろしてがたりともしない。いいあんばいに、そのところだけ鋪道が崩れてただちに土になつてゐる。比良吉はしぜん腰を低くかまへて兩足を踏ん張つた。目のまへに、車がひつきりなしに排氣ガスを吹きちらしてけたたましく驅けちがふ。屋根裏のネズミよりも猛烈なさわぎで、中にはまぬけな車どうしぶつかつてころがるやつもある。それがなにほどのことか。」
「もともと車に乘つて通りすぎるやつは、みがく必要のある靴をはいてはゐても、靴みがきとなんの關係もない。すなはち、さういふものは人間でないにひとしい。人間でないやつらのごたごたは、ほんのふたり三人死んだぐらゐの輕少なものでも、手のあいてゐる靴みがきにとつてはひまつぶしの見世物でしかない。」

「はたらけ、はたらけなんぞといふ惡人の掛聲にだまされるな。はたらきたがるやつが車のぶつけつこをすることになるんだ。こつちの知つたことぢやないがね。それよりはおとなしく空巣でもねらつたはうがましだよ。」

「さう、人間には二種類あつて、一は靴みがき、一は靴をみがかせるやつ、他は人間ではありえず、そして靴をみがかせるやつは例外なく惡人といふのが比良吉の人間觀の根本であつた。
そもそも土の道に砂利だのセメントだので作つたカサブタをかぶせたといふことが惡のはじまりであつた。雨がふると土の道はどろんこになる。あたりまへではないか。土に咎はない。問題は雨のはうにある。雨をほどほどにふらせるやうに、土にほどほどのしめりけをあたへるやうに、すなはち靴みがきの生活權をはなはだしく侵害しないために、あるひはのべつに泥靴を發生させてこの商賣を繁昌させるために、なにか妙手を打つのが人間の智慧といふものではないか。自然と人工がシノギを削るといふのはこの呼吸だらう。それがカサブタとはなにごとか。上から落ちて來る雨におじぎをしたやつが足の下の土をぶんなぐつて押しつける。惡役人の手口そつくりである。くさいものにフタといふのがくさい思想であるのと同樣に、どろんこにフタはどろんこ思想にほかならない。文明はそれを自慢しても、靴みがきはそれをガマンしない。土にできたカサブタがひろがつてからこのかた、人間は二本の足でのんびり道をあるくといふ自由をうばはれた。道に飛ぶのは泥ではなくて血のしぶきである。その血を吹いたカサブタの上を車で突つぱしるやつらは、靴みがきから見れば、ぷつつり足が無い。もし足があるなら一度この臺に靴を突き出してみろ。エナメルを剥いで正體を見やぶつてやる。」



「無明」より:

「おぬしがいらざるじやまだてをしたばかりに、おれは一世一代の死にどころをうしなつたぞ。かくては世に生きてひとに合せる顔なし。おれはこの場からすぐに世を捨て、ひとも捨て、この太刀も……と、かの佩刀を松並木の下にあるこやしの桶の中にぶちこんで、さつさとあるき去つた。」


「鏡の中」より:

「むかし知つてたやつに出逢つたとき、わかつてはゐても、おいそれとおもひ出してやりたがらない癖がおれにある。かつて知つてたといふことに抵抗したいやうなきもちだな。むかしといへば過去だ。過去のある人間。いやだねえ。どうせろくなものぢやない。おれの過去だつてろくなものぢやなかつた。過去といふやつはおれはきらひだ。中學生のとき、歴史といふ課目はどうも好きになれなかつた。だれかの遠い先祖が九州の片田舎から大和くんだりまで這ひのぼつて來てドえらい出世をしたとかいふ日が何月の何日であらうとなからうとおれの知つたことぢやない。てんで無意味ぢやないか。なにがおもしろくて無いも同然の過去をバカ丁寧にねちねちほじりだすのか。」


「天馬賦」より:

「さう、その義足のことである。事件がおこつた十年前のある土曜日の午後五時といふ時間は義足に定着してゐて、それが完全に過ぎ去つた日とならうことは一生ありえない。その日、大岳は市中のホールにみづから講演會を催して、午後二時から四時五十分ごろまで、たつしやな足で壇上に立ちつづけた。當時はちやうど國會總選擧のさわぎのさいちゆうであつた。しかし、大岳の講演は政治にはつよくふれたものの、選擧にはまつたく關係しなかつた。いや、選擧の愚劣をたたき、すべての票をつぶすべきことを説いて、デモクラシイと稱する議會制度そのものの否定のはうにみちびいてゆくところに、講演の内容が繋つてゐた。支配力を核としてもつやうなすべての組織は、それが革命をうたふ黨の組織であつても、自由にとつては敵にほかならない。自由は他のなにものの宰領も受けつけないもの、まして上から下にといふ命令の仕掛のごときはみとめないものである。絶對自由。大岳はそれについてまづ歴史から説きおこして、十六世紀のはじめごろ中部ヨーロッパにきざした宗教思想であるアナバプティズムの運動を事例にあげた。「二度目の洗禮」といふ。すなはち、人間が幼兒のときに受けた最初の洗禮は無效としてしりぞけられて、長じて後あらためて受けた洗禮こど意義あるものとされる。靈肉とものふたたび水にぶちこみ直さなくてはならない。その水に洗はれた目は、最初の神を見おくつたあとに、いかなる神を見直すことになるか。それは神と呼ばれるものかどうか。ただこの「二度目の洗禮」の教理はあきらかにローマ教會の仕掛に反對するものであつた。さらにすすんで、その教會を支へる世の中の仕掛一般に叛逆する羽目にまで、アナバプティズムの運動は必然にぶつかつて行つた。それは小さいながらに後世にいふ革命運動に似た。すでにして事は社會にまた政治にかかはる。アナバプティストの生活はしたがつて俗に入らざることをえない。その末流に至つては、あるひは俗情のにくむところとなるやうな汚濁の飛沫をあげたのはやむをえぬことだらう。あらたに興つたこの使徒のむれは、清濁をあはせて、みな福音書の世界を去つて默示録の世界に移つたやうであつた。運動も生活も、ともに渾沌。この渾沌の中に信仰ではなくて絶對自由の精神の種子を見つけたのは後世の著眼である。このとき、生活上の律法は天からふつて來るのでもなく、つよいやつらから押しつけられるのでもなく、一囘的にしか生きることのできない自己に於てぎりぎりに發明するほかない。おれはかうすることができる。だからおれはかうしなくてはならない。これまた後世の智慧が發したことばである。この自己のことばは天の聲、掟の威よりもきびしい。據るべき德目はこれ一つとなつて、後世の革命エネルギーの運動は……その後世からさらに下つて現在までのあひだ、絶對自由の精神がどこにあらはれ、どこに消えたか、いかにたたかひ、いかにやぶれたか、いくたびやぶれてもつひに亡びることを知らない所以のものを、大岳は東西諸國に起伏した運動の波に照らして、事こまかに、理あきらかに、論じて盡きるときなしと見えたが、會場の時刻せまつて、講演はやうやくをはつた。大岳は數人の靑年にまもられてホールを出た。その身のまはりには警戒の必要があつた。すなはち、げんに總選擧の興行をぶつてゐる政府側からも、謂ふところの左翼右翼の雙方からも、敵としてねらはれる理由があつた。ホールのまへは廣い大通。そこに車が待つてゐる。ときに午後五時。その車のはうに踏み出した靴のさきに、横から驅けて來た男の子ひとり、ランドセルをしよつたのが、いそいで驅けぬけようとして、つまづいてころんだ。大岳はみづからこどもを抱きおこした。なんのこともない。こどもはすぐ驅け去つた。その一瞬の隙に、警戒がゆるんだ。たちまち、通行人にまぎれて、だつとぶつかつて來たやつがあつた。こどもがつまづいた大岳の片あしを、ゑぐるまでに深く、ナイフが刺しとほした。」
「こどもは傷ついたのではない。ひとりで起きもするだらう。大岳はこれを踏み越えて、目もくれずに、さつと車に乘ることができた。いや、さうしなくてはならぬ状況にあつた。こどもを抱きおこしたのはほとんど失策である。すくなくとも、態度としてあまかつた。それがただちにヒユーマニストのしぐさだともいへまい。しかし、このあまい態度ではとてもヒユーマニズムを切ることはできまい。ヒユーマニズムを切つて默示録の世界に入れ。これこそ大岳が早くから説きつづけて來た主張ではないか。その日の講演の趣旨もまたそこにあつた。みづから發したことばである。そのことばは當人の身に於て、義足にかけて、今なほ生きることをやめてはゐない。おもへば、絶對自由のための運動の歴史の中でも、たたかふ個人についていへば、謂ふところの挫折の例はいくつもかぞへられた。それには脱落とか、錯誤とか、裏切とか、他の思想への乘換とか、目に見えて卑俗なものもまじつてはゐるが、別に個人の内部にあつて、その善意にも係らず、精神のさまたげとなるやうなものがひそんでゐて、おもはぬやぶれを招くといふこともまたありえた。けだし、切つたつもりでも切れのこつたヒユーマンな心情の所爲にちがひない。ヒユーマンとはなにか。さだめて人間どうしの心情上の交渉に於て、かなしみ、よろこび、愛、にくしみなんぞの性格をさしていふことだらう。絶對自由の精神の目から見れば、これすべて意味おぼろげな雜念のみ。この雜念は啓蒙思想の獻立をつくる調味料ぐらゐにはあしらひうるとしても、默示録といふ非情の世界に乘りこむには腹のたしどころか、ときに有毒なキノコになるだらう。絶對自由はきびしい條件をもち、精神の運動は苛烈な作用をする。個人は自己にも他人にも心情上殘酷であることのはうにかたむくほかない。(中略)ところで、殘酷を德目として説いた大岳の生活では、實際にはこの殘酷といふものの價値はしをれた花よりもあはれに落ちてゐた。といふのは、この當人が他人に親切といふ因果な習性をもつてゐたからである。ころんだこどもを抱きおこすやうなことはほんの瑣末な一例にすぎない。他人をいたはり、やさしくする。他人の苦境を救ふために手を貸さうとする。傲慢な惡癖。いや、運動の側からいへば、卑怯な逃避にひとしかつた。この習性をたたき直すやうにみづから強制しえなかつたことは、それだけ自己をあまやかして來たといふことになるだらう。破滅はつひに足をおそつた。車椅子に居すわつた今となつて、大岳はやうやく他人を拒否する姿勢をとることができた。じつは他人から見捨てられたといふべきである。うごけない老人のそばにちかづいて來るやうなまぬけなやつはゐない。」

「アナバプティズムの運動には、この地上にかならず實現すべき世界が待つてゐた。すなはち、人間がそこから堕ちる以前のエデンの園である。この使徒にとつて、エデンの園は過ぎ去つた昨日の夢ではなくて、明日に招く國であつた。(中略)今日ただちに、一氣にそこに突入する。とても理想とかユートピヤとかいふやうなのんびりした未來の靑冩眞ではなかつた。かくあるべき世界を今からすぐに手でつかまなくてはならない。信仰はいきほひ急である。ここに千年王國といふ啓示はこれを今日に生きなくてはならぬ約束となつた。「今いまし昔いまし後きたり給ふ主」といふ。昔あつたものは後に來る。それが來る後といふのは今にほかならない。今がすなはちその場である。(中略)絶對自由の精神はこの瀬戸ぎはにめざめたやうであつた。そのめざめたところが現在とすれば、これはどうしても現在に負はされてゐるものに、その仕掛に、またその政治にぶつかつて、これとたたかはずにはすまされない。たたかひは歴史を踏みわたつて、性質はちがひ樣相はちがつても、後世までつづいて來た。ところで、後世の絶對自由の精神がきびしく神を追放したときよりもさきに、そもそも默示録には「主」がゐたのだらうか。かの「二度目の洗禮」は最初の主を捨てたにひとしい。主に一度目と二度目の別があるのだらうか。もし別がありえたとすれば、そこに主と見えたものは魔であつたやうに見える。すくなくとも、大岳は默示録を魔の書として讀んだ。」

「「ムラキ、おまへは鬪爭につよい。だが、どうも心棒がぐらついてるやうだな。」
「心棒て、なんだ。」
「ふらふらぢや主體性がしつかりしてるとはいへまい。
「主體性だつて。つまり、理論によわいといふのかい。そりやまあさうだな。おれは本なんぞろくに讀まないし、なにか書いたり論じたりといふことになると、てんでいけない。ベンキョーはにが手だよ。(中略)うちのおやぢは運送會社をやつてる。試驗ベンキョーなんぞほつたらかして、會社のトラツクの運轉手になつて、おもい荷物を積みこんで、がーつとぶつ飛ばしたくなつた。(中略)もし欲するなら、ダンプカーぐるみどこかの壁にぶつつけて、どかんとぶつこ抜くことだつて、考へられないことぢやない。(中略)大學のことでいへば、今度はダンプカーでなくておれの生きたからだだ。敵は制度といふ硬い壁だね。制度がわるいからあらためろ。おれの主張はたつたそれだけだよ。こんな簡單な主張を表現するために生きたからだをぶつつけなくちや通じないといふのは、おもしろい世の中だな。このたた鬪爭には勝負の觀念はない。ダンプカーだらうと生きたからだだらうと、さつきいつたとほり、そこがおれの生活の場だよ。ぶつかつてゆけば、粉みぢんにもなるだらう。こつちがさ。つまり、死ぬといふことだな。おれの死だ。おれの主體性といへば、まあそのへんにあるのぢやないかな。」
「死ぬものときめてかかつてゆくのは、どうも敗北主義みたいな發想だ。」
「おまへ、はじめてバカなことをいつた。敗北主義。それは敗北させようとする側のやつら、勝たうといふ料簡のやつらが考へ出したことばぢやないか。そいつら、たぶんおまへみたいな本ずきベンキョーずき理窟ずきの秀才だらうよ。できさうに見えることがいろいろちらついてるだらうから、負けることなんぞ考へられまい。ところで、世の中には、ほかのことは知らないが、死ぬことはできるといふ人間だつてゐるだらう。さういふ人間に勝負の結果なんぞを考へてるひまがあるもんか。」

「その日の夕方、瓦大岳は車椅子の上から壁にはめこみのテレビを見てゐた。このうごかない位置からのぞくことのできる外の世界のうごくけしきといへば、わづかに壁にうつるニユースの影しかなかつた。今テレビがつたへてゐるのは、けふの午後にかの研究室の封鎖をめぐつておこつたあらそひの實況である。ちかごろではめづらしくないゲバ棒が揉みあふ祭の花の影を、そこにおそらく參加してゐるだらうイヅミのすがたをさがしもとめるやうに、大岳は目で追ひつづけた。そして、當人がむかしそこから飛び出した建物、今はむなしいその扉に堅い封印をつけて、イヅミをふくめてたたかふ學生のむれの中に、おのれの靑春の時間をたしかめ直したやうにおもつた。攻撃側と守備側と、畫面のかぎりではごたごたして、どう鳧がついたとも見わけにくかつたが、つひに封鎖はやぶれず、小ぜりあひをくりかへしたのち、攻撃側は散つたとアナウンスは告げた。ただ門の外にまたさわぎがおこつて、正規の武裝たけだけしい一隊がそこに待ちかまへて、網にかかつた學生を荒れくるふ棒の下に……そのシーンはみじかく切れて、テレビはあつけらかんと他の人さらひかなにかのニユースに移つた。」
「壁の影が消えたあと、かなしみが大岳の身に湧きひろがつた。げんに棒の下に打ちひしがれる靑年のむれと、遠くたたかひの季節を切り抜けて來たおのれの靑春のすがたと、今は一つにかさなつて目のまへの現實となつた。流血の中の歴史。廣く人間の歴史から見れば、似たやうなことのくりかへしもあるだらう。(中略)そこに進歩を見ないにしても、ただこのくりかへしに於て人間の、すくなくとも個人の經驗の意味がたしかめられる。」
「「大學もひどいことになりましたわね。」
「ひどいめに逢つたのは、たたかれたガキどものはうだ。」
「學問のはうはどうなりませう。」
「今は學問の筋をつたへるやうな公卿も坊主もゐない。(中略)今後もし學問をやらうといふとぼけたやつが出て來るとしたら、それはかならず今あばれてゐるガキどもの中からだ。」」

「イヅミは服は泥まみれでも、ケガはなく、ピクニツクのかへりのやうにこころよい疲れにゆすぶられてゐた。ただ友だちを一人つれてこの書齋にあらはれたのは意外であつた。今までにさういふ例は一度もない。それになま若いやつはめづらしくもある。大岳はわるい顔はしなかつた。
「このひとムラキといふの。運送屋さんよ。わたくしがあやふく棒でやられさうになつたのを助けてくれたのよ。」
「運送屋。そのとほりだよ。なにしろイヅミといふお荷物を往復ともに運搬しちやつたんだからな。」」
「「わたくしは逃げるといふことは考へもしなかつた。ただこつちに打ちかへす力、すすんで勝つ力、あべこべに殺してやる武力がなかつたもんだから、つまり武器で負けたもんだから、よんどころなく逃げたことになつちやつたけれど。」
「ふーむ。よくそんなふうに考へられるもんだな。おれはいつもいつてるとほり、負けるか負けないかといへば、負けるにきまつてる、おれが死ぬにきまつてると、たつたそれだけで、ぶちあひの現場に出ても、考はちつともそのさきに進行しないんだ。勝つとか殺してやるとかいふのはムダな考のやうにおもふよ。ひとを殺すことがいけないことだから殺さないんぢやない。殺すことができないから殺せないんだ。おれはどうしてもテロリストにはなれさうもないよ。たださう簡單には死ねないもんだから、現場となると、逃げの一手だよ。一目散に逃げまはる。全然いさましくなれないな。(中略)おれは逃げまはつてるはうがたのしいな。敵を殺して敵の血で自分をうつくしくする。これはどうしたつて女のセツクスが編み出した化粧法ぢやないか。博覽會にでも出したいやうなもんだが、おれは關係ない。」
「さういふムラキだつて、いよいよ敵の手にかかつて死ぬといふまぎはには、殺すつもりはなくても、襲つて來た敵の一箇ぐらゐはつい殺しちやふことになるんぢやない。そのときでも殺すことができないなんぞとセリフをいつてられるかしら。」
「おれの死の作用に依つて死ぬやつがあつたところで、それはおれの手で殺すことができたといふことになるだらうか。電線をつかんだやつが電氣に打たれて死ぬやうなものだな。そんなこと電氣の知つたことぢやないだらう。そいつらに……けふのことでいへば、あの武裝したやつらに聞いてみたらどうだ。あいつらは月給もらつてる合法的なコロシ屋だから、自分が殺されたときの哲學みたいなものを、せめて月給の分ぐらゐ、ちつとは自分で考へてみてもいい義理があるね。ひとが考へることをおれが考へるわけにいかない。もともと考へるといふことはおれヘタクソだもんな。」
「わたくしの主觀でいへば、けふのあいつらはわたくしばかりねらつてたやうよ。わたくしを殺すつもりだつたのかしら。どういふ料簡でせうね。むかしにもあの手のものがあつたといふけれど、今も似たやうなものかしら。どう、おぢいさま。」
意見をもとめられたといふよりも、やうやく發言を許されたといふかたちになつた。大岳は口おもくぽつりといつた。
「めづらしくもない。統治といふものの傳統的な手段だな。どこの國の政府でも、むかしから似たり寄つたりの手を使ふ。それつきりだ。」
まつたくそれつきりで、ほとんどそつぽを向いたのを、イヅミは追ひつめて、
「それで……それつきりなの。ほつきりしないわ、おぢいさま。」
「どこの政府でも好んで使ふ支配の手段はテロリズムだといふことだよ。新選組はいつどこにでもあつた。ナチだらうとロシヤだらうと、その他もろもろ、下つては今日のなんとか隊に至るまで、みな忠實に傳統にしたがつたやつらだな。政府みづからテロはいかんと口癖のやうにいつてをるくらゐだから、これはよつぽどわるい仕掛に相違ない。したがつて……」
そこでまた切れて、尻切とんぼかと見るまもなく、大岳はあとをつづけた。
「このわるい仕掛を根本的にほろぼすためには、そもそも政府といふものにこの地上から消えてもらふほかないといふことになつても、ふだんの口癖のてまへ、政府はよもや文句はあるまいて。政府といへば、もとより權力をもつた組織だな。その下つぱのヘルメツトでも、權力の灰で塗つてある。それにイヅミのいふ武器だ。新選組のむかしには、コロシ屋にもまだ個性があつた。刀の個性だよ。そのかぎりでは、すこしは買ひかぶつて、刺客といふもののおちぶれたすがたともいへるだらう。しかし、今日のヘルメツトにはすでに個は無い。あるものは集團だ。そこには個はおろか人間すら無い。機械の集團。ひとを殺傷することができる機械のな。もし刀からガス銃までを武裝人間の文明的進化とすれば、もう一段すすんで、人間は不要、武裝だけあればよいことになるだらう。ロボツトだよ。ぼたん一つ押せば、ロボツトがぞろぞろつながつてうごく。司令はぼたんの思想だ。これは核兵器のぼたんに直通するものだな。すでに核兵器は權力の手中にある。そして、武裝人間は今日はやくもロボツトにひとしい。統治の手段としてのテロは今や機械だ。これこそ暴力そのものではないか。しかも、正當化された暴力。人間と機械との關係でいへば、ハナシアヒなんぞといふ微笑にみちた場はそこにありえない。ロボツトにむかつて禮樂を説くことができるか。説得はただちに破壊。いや、制度を説得するためには、核兵器をふくめて武裝人間のすべての武裝を解除することからはじめるほかない。」

「ちやうどテレビのニュースがはじまる時刻であつた。(中略)アナウンスはまず「暗殺」といふ刺戟的なことばを使つてその未遂事件がおこつたことを告げた。事の次第はかうである。けふの五時ごろ、さるところの料亭と呼ばれる建物の門前で大型の外車が一つ火を發した。黑こげになつたその冩眞が出る。車にはさる官衙のナンバーが附いてゐて、乘つてゐたのはその官衙の長のAといふつらつきのよくない男であつた。Aの冩眞が出る。車が料亭の門前にとまつたとき、をりしも籠を載せてはしつて來た自轉車がまともにぶつかつた。自轉車がたふれ、乘つてゐた靑年がたふれ、籠からは鷄の大きいのが二羽、小さいのが三羽飛び出して、ばたばた大さわぎ。鷄の冩眞が出る。鷄にはきのどくであつた。そこの門前に番卒らしいのが立つてゐたが、これはまづ鷄をおさへるのにいそがしかつた。番卒はそのときおそらく腹がすいてゐたために靑年よりも鷄のはうに食慾をそそられたのだらう。そのひまに、靑年は起きあがつて、籠の中にかくしてあつた火炎びんを取つて、車めがけて三本まで投げつけた。車が火を吹くよりもさきに、運轉手はすばやく飛びおりて無事。Aはとりみだしてころげ落ち、それを支へようとしてもう一人、護衞もいつしよにころげて出た。Aは這ひながら料亭の中に逃げこむ。護衞はピストルをもつて靑年に立ちむかふ。靑年もまたピストルをかまへてうごかず、むしろすすんで打ちかかるかと見えた。護衞はあわてて發射した。靑年は即死。あとで靑年のピストルをしらべてみると、これはおもちやであつた。そのおもちやのピストルの冩眞が出る。あつぱれといふ印象がないこともない。テレビは未遂にしても「暗殺」ときめつけたが、そこには靑年の血のほかには鷄一羽の血すらながれなかつた。官の損害は燃えた車一つ。逆に殺人といふ犯罪をおこなつたのは事實として官のはうであつた。(中略)最後に靑年の身許が知れた。(中略)名はオギといふ。オギの顔冩眞が出た。」

「イヅミがあつまりを見わたして、席の中ほどにすすみ出た。
「オギはいつはりをいはなかつた。具體案をもつて來ると約束したわね。絶對にまちがへなく、確實なものをぶつつけて來たわ。(中略)案といへばかならず實行。オギの消えたことろに事ははたされた。オギはここにゐる。これよりたしかな出席の仕方はありつこない。やぶれ去つた刺客第一號のために、花を。」
イヅミの手から、しぶき立つものがぱつと散つた。薔薇である。薔薇はいくつも、つづいてまたいくつも、テープを張りわたすやうに投げられて、にほひは室にみちあふれ、花が落ちたあとまでも、花は無限に舞ひ散るやうであつた。」」
「「オギが自轉車をぶつつけたとき、もしその場に一人でも協力者がゐたとしたなら、きつとうまく行つたらうにな。車からころげ落ちたやつをみすみす逃がしちまふことはなかつたのに。」
イヅミはうなづかなかつた。
「さう考へることは無意味のやうよ。肝腎なことはオギがそこで破裂したことぢやない。それだけで體制に大きくゆさぶりをかけたわ。學内の體制にまでね。ころげ落ちたやつは勝手にどこまでもころがつて行つて首の骨でも折ればいいことよね。」
「それぢや、ねらつた目的をはづしたつていいといふのかい。」
「オギは目的をはづさなかつたわ。あとは成功とか失敗とかいふ俗論ぢやない。」」
「イヅミはためらひなくいつた。
「わたくしは受諾する。第一號が碎け散つたあとには第二號が出る番ね。受諾したといふのは、わたくしがその第二號といふことよ。わたくしの具體案はやつぱり實行でお目にかけるわ。」」

「「死んだか。」
ムラキはまぢかに立つて、
「死んだのとはちがひますね。」
トラツクの上では、ワクがカヴァーを刎ねて、寝てゐるものが見えるやうにした。毛布を深くかぶつて、あたまだけ外に。はらはらと落ちかかる雪の下にも、そのあたまをそつくり包んだ布がしらじらと光つた。大岳はぢつとそれを見つめてゐたが、やがてそのままの姿勢でいつた。
「死んだのとちがふとは……」
「イヅミはうまれかはつたんです。今までとは別のものにね。若い女の顔に、はすかひの切傷とは。ひどい、むごい。目もあてられないきもちだつたけれど、さつき手當のあひだに、まともにその顔を見てゐるうちに、ぼくはいきなり目をひつぱたかれたやうにおもつた。なんといふバカな、からつぽの目だ。これが見えなかつたとは。これがね。變相。そんな百面相みたいなもんぢやない。この、この崇高なもの……いけないな。ぼくが知つてる程度の表現ぢや追つつかない。」
ムラキはいつのまにか「ぼく」にあらたまつてゐた。
「神話についてのぼくの漫畫的知識をフルに使つていふとしたら、これは傷つけるケンタロスかな。どうもをかしい。きどつてるみたいで、ズレがあるな。やつぱり漫畫ぢやないか。なに、そんなことはない。別別に見るからをかしいんだ。兩方いつしよに見たら……さうだ。傷つけるケンタロスは人間の少年だ。カワイイ少年だ。じつに今のイヅミにぴつたりぢやないか。ぼくは今まで男でも女でもカワイイとおもふやうな人間には一度もぶつかつたことがなかつたけれど、この傷つけるイヅミはしんそこカワイイな。ぼくのカワイイ少年の友だち。この少年の友だちとならいつしよに行ける。どこにでも行ける。」
「どこへ行くつもりだ。」
ムラキは笑つた。元のムラキに刎ねかへつたやうであつた。
「まかしといて。おれ運送屋だもんな。なにしろ、おれイヅミと約束しちやつたんだ。まちがつても逮捕はさせられないよ。おたくにおいちやだめだ。ガサをくつたら一囘のをはりだよ。まづトラツクで吹つとばす。車のきかないところにぶつかつたら、船もあるし飛行機もあら。商賣がら、どつちにも連絡がつくよ。密航だつて、できない相談ぢやないもん。さあ、まごまごしちやゐられない。行かう。」」
「ムラキが運轉のはうに乘りこむと、ついそこの道にワクが立つてゐた。」
「「なんといつたらいいか、おれのテレビでしこんだガクでいふと、おまへはもしかしたらさまよへるユダヤ人といふやつぢやないかな。永遠のな。」
「それもきらくな旅らしいや。」
「きらくにしたつて、おまへ行つたさきでどうして食ふつもりだ。」
「氣にしない。靴みがきでもなんでもやるさ。」」



「武運」より:

「道存のもとに出入するものがこの佐渡の申條をつたへれば、道存いふには、分別者めがさかしげにほざいたぞ。世にいふ名刀は茶器とおなじく泰平のもてあそびよ。されば、本阿彌なんぞは目ききの商法、よい刀と見れば正宗と極めをつけをる。戰場に出ては名刀なにほどのものぞ。水もたまらぬといつても、よく金(かな)かぶとを斷ち割つて、鎧武者をいくたり斬れるか。おれの手にあつて益なきものだ。細川の武道はいつも旗色よき方に附きたがるゆゑ、亂軍のこころえは知らぬさうな。陣やぶれたとき、正宗も貞宗もあつたものか。かの福嶋口のいくさに、おれは手なれの槍をぶち折つたあとは、落ち散つた槍刀を見さかひなくつかみ取つて、つひには木を投げ石を投げてまでたたかつた。しりぞくときにはただ泥まみれに逃げるだけのことよ。武者振なんぞをかまふひまもない。武邊には名刀無用だといひきる。客、さりとて無刀ではいくさはできまいといへば、なに鋤鍬でもいくさはできるぞとうそぶくのに、鋤鍬とは異なことを申されると、客はけげんな顔つきをした。」


「三好達治」より:

「三好の詩はうはべには苦澀の色をあらはさない。また當人みづから苦心談をぶつてみせるやうな御息災なやつではなかつた。それとはすこし事情はちがふが、三好の苦澀の顔を一度見たことがある。小學校の校歌を作ることを賴まれたといふはなしが出たときであつた。校歌はどうもこまる。小學校のこどもがうたふ歌だからね。その歌を作つたのがどんな人間かといふことになると、おれはこまるんだ。醉拂つてうつかりへんなこともできない。三好はさういつた。さういふ人間であつた。しかも、醉拂つてもおそらくへんなことはしまいとおもはれるやうな人間であつた。そのときの校歌の依賴はことわつたらしい。小學生のための歌はあへて作らうとしなかつた三好はバカなおとなのためのはやり唄はどうか。これは作らうにも作れなかつたにきまつてゐる。」


「倫敦塔その他」より:

「「倫敦塔」。これはすげえものだと、わたしは一も二もなく感服した。(中略)漱石先生のものといふと、わたしはいまだに「倫敦塔」からかぞへる癖がついてゐる。」
「「倫敦塔」の主人公は塔の門に入つたとき「余は此時既に常態を失つて居る」といふ。わたしが氣に入つたのはおそらくそこである。常態といふやつはむかしからどうもおもしろくなかつた。たとへば歴史の本にしても、天下大いにみだれてまさに中原に事あらうとするくだりは讀むのに張合が出たが、學問藝術がおめでたく榮えるやうな間のびした時勢になつて來たところはがつかりしたものである。「倫敦塔」は、あとから見ると、謂ふところの自然主義にかたむきかけた文學の世界に事あらしむべき運動のきざしであつた。」



「革命家の夢」より:

「未來にむかつて實現すべき世界の模型を過去にさかのぼつて求めるといふのは、をかしいやうには見えるものの、めづらしいことではない。西洋でも古くは革命家の夢は過去に係る傾向があつた。中世このかたの革命思想がどこかで深くクリスチアニスムとちながつてゐる所以である。この消息をうかがふためには、すでにノーマン・コーンの「ミレニヤムの探究」(Norman Cohn: The pursuit of the millennium.)があり、ちかごろではジェイムズ・ジョルの「ザ・アナーキスト」(James Joll: The anarchists.)がある。二書とも英文としてはやさしくてたれにでも讀めるだらう。わたしも一度お目にかかつたことのあるジョルさんは、中世に異端と見られたところの一群の運動について、かう書いてゐる。
「このたぐひの運動はその社會變革への要望の根據をどこに置いたかといへば、ミレニヤムはただちに可能だといふ信仰からこれを發した。つぎに來るものと、堕落以前のエデンの園の黄金時代への復歸との結合。」」



「ダダについて」より:

「しかし、人間の生活はすべての哲學概念から自由である。いや、他からあたへられ課せられたものの一切は、制度でも律法でも道德でも美學でも、自由にとつてはじやまな仕掛である。自由につける條件はない。このはしにも棒にもかからぬもの。それは根本に於て絶對なるべきものである。絶對自由の精神は古今ダダをつらぬいて折れない。そのかぎりでは、ダダは舊に依つてアナーキズムと縁がある。」


「文學談斷片」より:

「文學の仕事でも、書き出してゆかなくてはさきがどうなるかわからない。ついさきが見とほせるやうなものは仕事といふに値しない。行手は未知の雲のやうではあるが、それは一囘的にしか生きない人間のエネルギーが充實すべき世界である。このとき、未來といふ觀念はどこに入りこむ隙があるのか。未來像なんぞといふ俗惡な設計はコドモの、いや、オトナのおもちやにあてがつておいて、文學は左樣ないやらしい心配はいたさぬものである。ただ今日にあたへられたものの中にくるまつて決して雛にはかへりさうもないヴィジョンとかいふ流行語をあたためてゐるよりは、可能な現實のはうにハダシでぢりぢり入りこんでゆくところに、文學の今日性がある。ひとをしてあるひは無をさとらしめうるやうなものを、その實物を、文學のはうではレアリテといふ。
可能な現實のはうにむかつてゆかうとしても、今日の壁があまりに堅すぎるときは、そこに衝突といふ物理現象、いや、政治現象がおこる。堅くてつよいやつといへば權力にきまつてゐる。文學はハダシで手ぶらなのだから、もともと無力である。むかしから今日まで無力でなかつたやうな文學といふものがあるだらうか。それが權力とぶつかつたとなると、この勝負は易の表にも裏にもはつきり負と出てゐる。そのとき、理性はどちらの側に附くか。こいつは元來つよいやつの家に飼育されてふとつたネズミなのだから、さつそく本性をあらはして、當然權力の側に飛びつく。負けるにきまつたやつが勝つにきまつたやつにぶつかつて勝たうといふのは合理的でない。それがおそらく一點の非の打ちどころもない理性の論理である。文學のはうにはあいにく家といふ觀念がない。したがつて、理性の相手にぴつたり釣合ふやうなネズミもブタも觀念的にすら飼つてゐない。ときに、ちかごろよく聞くことに、學生の暴力といふのがある。けしからんと型のごとく理性がいふ。この古風なおいぼれネズミには今日の暴力の意味がさとれぬらしい。學生の暴力とはもはやたたかひの手段なんぞではなくて、負けるにきまつた無力なやつが必死の場に見つけたところの、たつた一つの政治上の主張の論理ではないか。これはよそながら文學の無力を痛感させるやうな、いぢらしいまでに可憐な、すつきりした發言ときこえる。」



「文林通言」より:

稻垣足穂「宇治桃山はわたしの里」について:

「イナガキ君は興福寺の阿修羅を他人のことのやうに引合に出してゐる。知らぬがホトケといふことだらう。わたしは理想化された人間は男女の別なく美少年の形容を取るものと信じてゐるから、現在のものとしては、その美少年像の祖型を興福寺の阿修羅に見つけてゐる。出身が外道だらうと、性別が女だらうと、すでに佛法に歸依したといふことは理想化されたといふことにひとしい。そして阿修羅の運動するところは教義上のたたかひの場とすれば、つぎの驛はさだめて地獄の一丁目である。」
「わたしはイナガキ君をこそ、ちかごろの冩眞に出るづんぐりむつくりの入道樣式にも係らず、興福寺系の變種の一と見る。タルホ少年いまだに御息災といふ所以である。」


島尾敏雄「那覇に感ず」について:

「じつは、この「自分のうちがわ」といふところに島尾君の思考の本質がひそんでゐるのではないかと、わたしはおもふ。おそらく、ことばに發することではなくて、逆にことばを噛み殺すことに依つて、みづからくるしく「うちがわ」に沈みこんでゆきながら、思考の筋をさぐるといふたちの人物のやうである。それにしても、「あかるい太陽のもと」にして、このひとをもつとも手ひどく「うちのめし」たのは、ある日地元の新聞に見たといふ記事のために相違ない。
戰中に、沖縄のトカシキ島に敵軍が上陸したとき、そこに駐屯してゐた日本陸軍部隊の指揮官であつた陸軍大尉某は住民に集團自決を命令したといふ。かりに命令の件は責任者が後日にごまかすことをあへてしうるにしても、三百餘人の非戰鬪員の自決者が出たといふ事實はうごかすことができない。しかるに、この住民おほぜいの死について直接に責任のある元陸軍大尉某は、二十五年後の今日に生きのびてゐて、トカシキ島の慰靈祭に參列するためと稱して、のめのめと那覇に舞ひこんで來た。地元の新聞はこの記事を掲げて、某に對して告發、抗議、詰問するどく、論はやがて沖縄戰の性格、沖縄の立場にまでおよんださうである。人民の番人が殺した人民の慰靈とはなにごとか。島尾元海軍大尉のゐた島にはさいはひにこの慘事はおこらなかつた。しかし、かの某の鐵面皮に反して、島尾君は「想像」も「理解」もつかぬ某の愚行をただちにわが身のことに受け取り、この状況のみにくさまで「うちがわ」に取りこんで、錯亂したかと見えるほど、絶望的に恥ぢ、なげき、くるしんでゐる。その心身をなげうつところはただ苦患の海。他人が酒色におぼれるやうに、このひとは他人の分までふくめて苦患におぼれる。島尾君の文學のスゴミはさだめてここから出るものか。かくのごとき人物を、わたしは他に知らない。」


吉田健一「ヨオロッパの世紀末」について:

「ただこのがたんと相場がさがつた十九世紀の「複雜」に對して、フランス革命以前の十八世紀文明は、いかに巨視的に見たにしても、ちとの異物もまぜずによく單純に「優雅」でありえたといへるものかどうか。文明といふものはすべて代代の惡人が奸智を滿足させるために作りあげた不透明な仕掛のやうに、またそれは優雅と非優雅一般とをもつてかならず複雜であるやうに、わたしはおもふ。」

鈴木信太郎「虚の焦點」について:

「鈴木さんみづから生涯をかへりみて、かういふ。「人生とはこんなに速く過ぎ去るものであらうか。まだ遊び足りないし、爲殘してゐる仕事もある。」あそびたりないとは、よく立派なことをいひのこしてくれた。至言である。」

今西錦司・藤澤令夫「自然・文明・学問」について:

「ここにロゴスといふものが出て來る。藤澤さんはいふ。「秩序を秩序としてはっきりとらえるのが合理性じゃないですか。秩序がなかったら、合理が成り立たない。(中略)合理性という言葉が狭く解釈されている。合理の理は、ギリシアの言葉でいうと、ロゴスで、これは必ずしも狭い意味での原因、結果だけに限られないので、それこそ自然全体のもっている一つのことわりがロゴスなんです。それに徹することが合理性なんです。」またいふ。「理性の立場というでしょう。理性というのはなぜあんなに出てきたかというと、非合理的なもの、非理性的なものがいっぱいあって、やりきれなくて、やむにやまれずに理性が出てきたというところがある。」この發言を受けて、「それはいいね、適応というのはそういうものです」と、今西さんはいつてゐる。
秩序のはうがぐらついてゐるとき、すなはちロゴスの「理」をうしなはせるやうな仕掛の上に見かけの秩序が作られてゐるとき、この「適応」はすらすらゆくまい。今西さんは「ロゴス中心主義を合理主義とすりかえてるところに現代のまちがいがある」と見る。「合理主義と非合理主義といえば角が立つけどね、この二つのものはもともと、人間のなかに昔も今も存在してるはずなんや」である。合理主義の專制に對して「反逆」がおこるのは當然だらう。人間の正氣はかならず合理的なワクの中にあるとでもいふやうな理窟がまかり通れば、「狂気の復権」といふ聲があがるのは必至である。「狂気」の側にしてみれば「やりきれなくて、やむにやまれずに」といふにちがひない。ここに、今西さんはつぎのみごとな見識を示してゐる。
「私はね、人類死滅の時期について、これ以上長生きしてもむだだから、ここらで死滅しましょうというのは、哲学の役だと思う。(中略)まだ科学で説明できていないものはいくらでもあるから、これもやらにゃならん。それをやってくれてもええが、それからもう一つ先の話で、さあ死滅しましょういうのは哲学だ。その問題を投げかけておきたい。」
哲學のはうのことは知らないが、この「問題」はそつくり文學の場にいただける。文學といふものは元來理窟とか筋とかいふのを呑みたがらないものである。早くいへば、ものわかりがよくない。それどころか、ものわかりがよいといふことは文學に於てなにもわかつちやゐないといふことにひとしい。建前は無筋なのだから、とても長生の術はおぼつかないが、さあ死にませうといふ相談ならすぐに乘る。といふのは、基本に死滅の觀念を配置してゐないやうなものはおそらく文學ではないからである。つづけてもう一つ、今西さんの發言をいただく。紙幅が切れさうだから、すこし無理だが、前後を飛ばして引用する。
「人類の歴史からいうたら、言葉をつくったり、道具をつくったというても、いままでの歴史の九九パーセントまでは原始生活をしておった。時間的にいえば最後の一パーセントで、パッとものすごい新しい試みをやってるのですね。(中略)いつまでもせちがらい、おもしろうない世の中では困るわね。(中略)いずれにしても、もういっぺん生物のような安定した生活に帰らにゃいかん。(中略)人間といえども生物でね、いろんなことをやってみたけど、やっぱり生物なみだいうのやったらええんだということやな。(中略)いろんな付焼刃で変ったようにみえるけど、人間は地球上の生物のなれの果てですぜ。(中略)ギリシアがあれだけの文明をつくり出したのがぽしゃったでしょう。ローマもそうですね。(中略)だから民族が文明をつくり出すいうけど、いっぺんつくったら、その役目を果してぽしゃるんじゃないか……」
文明の手に侵された今日の人間といへども、まだ幸運にして地球上の生物のナレノハテださうである。すなはち、そのナレノハテの肉體の中には、まだいくぶんはナマの生物が踏みとどまつてゐるらしい。ナマの自然にかへるのではなく、このナマの生物である殘存の部分から、そこを極として、人工的環境にむかつて、精神は運動をおこし、文學は仕事に取りつくほかない。仕事といつても、根元には「死滅」がつれそつてゐるから、ナガモチなんぞと無意味なことを考へるわけがない。わたしの流儀では破裂といふことばを使ふが、さう角を立てないで、ここでは今西さんの「ぽしゃる」といふイキなことばを借りる。仕事はじつに「ぽしゃる」ためにある。文學の世界はミクロ的な偏見にみちてゐるとしても、この「ぽしゃり」の效果に依つて、すべての偏見はロゴスの「理」に……さあ、これがおとなしくつながるものかどうか。むしろつながつてゆかないところに、偏見は「反逆」に生きるやうである。」














































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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