宇野邦一 『アルトー 思考と身体』

「思考の不可能と空虚について思考する思考は、いくたびも麻痺状態をくぐりぬけながら、失われた思考を回復しようとするのではなく、失われる思考について思考を持続し、さらにそれを失おうとする試みである。」
「「私」は考えることができない。「私」はだから存在しないが、考えられないことをめぐって断続的に考える「私」は、コギトの確実さとはまったく異なった潜在性に触れている。」

(宇野邦一 『アルトー 思考と身体』 より)


宇野邦一 
『アルトー 思考と身体』


白水社 
1997年5月15日 印刷
1997年5月30日 発行
347p 文献リストiii 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,300円+税
装幀: 菊地信義



本文中図版(モノクロ)4点。


宇野邦一 アルトー 01


帯文:

「「器官なき身体」の謎を解く、
アントナン・アルトー精読の結晶。
加速された身体をめぐる思考をアルトーの全生涯・全作品にたどり、
20世紀思想の火山脈にふれる実験を解明する、
著者渾身の力作評論。」



帯背:

「著者
渾身の
力作評論」



帯裏:

「アルトーを
読むことは、
私にとって、他のどんな読書にもまして、読むという行為自体が試されることであった。読むことは、読みつくせないものによって成り立つ。読むことは、読めない何かを読むことであり、その不透明な厚みにこそ、アルトーが彼固有の仕方で提出した思考と身体の問題がある。
(本書「付記」より)」
 


目次:

序論 問いと軌跡

第一部 思考不可能をめぐる詩学
1 引き裂かれる石/2 思考を生みだすこと/3 自動人形と死/4 病と火山/5 思考の純粋性に関する二つの立場/6 限界の記号学/7 強度の記号学/8 言葉を食べること/9 炎と地質学/10 細い断片/11 空間なき幾何学あるいは膜/12 震動の度合としての思考/13 音響機械/14 身体の発見/15 アルトーはどこまでシュールレアリストか

第二部 記号の創造―映画と演劇
1 映画と夢/2 速度と映画/3 身体の映画/4 思考と演劇/5 力の演劇/6 演劇と音/7 悲劇と音楽/8 連続変化/9 言語との対決/10 形而上学と身体/11 演劇にとっての石あるいは金属/12 心理主義に抗して/13 演劇の分身/14 残酷について/15 病と演劇/16 近親相姦と演劇/17 戦争と演劇/18 情動的空間

第三部 ヘリオガバルス論
1/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15/16/17/18/19/20/21/22/23/24/25/26

第四部 最後のアルトー
1 心の娘たち/2 受肉の神秘/3 身体にかなう思考/4 知覚しえないものは知覚されるか/5 奇妙な〈仕事〉/6 詩の必要/7 顕在化しないもの/8 存在と身体/9 対決/10 絵画であり絵画でないもの/11 私の内部の夜の身体を拡張すること

付記
アルトー文献リスト



宇野邦一 アルトー 02



◆本書より◆


「序論 問いと軌跡」より:

「アントナン・アルトー(Antonin Artaud)の生涯(一八九六~一九四八)とその試みの軌跡は、今も私たちを震撼し続けてやまない。」
「一人の青年が、器質的な障害によるものか、精神の病によるものか、原因を特定できない奇妙な苦痛に恒常的に悩んでおり、大学入学資格試験も放棄しなければならず、兵役もすぐに免除になる。(中略)彼の表現の根拠とは、むしろあらゆること(なかんずく思考すること)が不可能であるという事態に直面し、あらゆることが何にも還元不可能な混乱の中に投げ込まれ、問い直されることにある。」
「「人間は誤って作られている」と叫びつつ、アルトーが一生つらぬく根源性の身振りは、彼が早くから対面し続けてきた〈思考不可能なもの〉と切り離せない。」
「この本の第一部「思考不可能をめぐる詩学」で、私はアルトーの散文詩と初期の書簡を読み解きながら、彼の思考不可能がどのような破壊と生成のプロセスであったかを描きだすだろう。」

「今でも多くの人々にとってアルトーは何よりもまず今世紀初めの演劇の革新者であり、破壊者である。」
「たしかに彼は演劇によって、思考不可能なものとしての身体をまさに構築しようとしたが、ただ身体をじかに思考の前に出現させ、介入させればいいと考えたわけではない。(中略)身体と思考の間には、記号が介在するのである。身体と思考を改革するには、その間にある記号を変形し、記号と身体、記号と思考の関係を改めなくてはならない。」
「アルトーはメキシコに旅行し、インディオのタラウマラ族のもとを訪れる(一九三六年)。あたかも、彼が〈思考不可能なもの〉として、つまり身体として追い求めたものを、もうフランスにも西欧にも見出すことを放棄し、絶望したかのように。それどころか、ヨーロッパの歴史と文明そのものを〈身体〉の不倶戴天の敵にするようにして、彼は〈思考不可能なもの〉の探究を続けるのだ。」
「しかし、メキシコもインディオも、アルトーの根源的な問いに決定的な答を与えはしない。アルトーの魂はますます引き裂かれ、〈思考不可能なもの〉のますます深い闇に落ちていくだけだ。」
「この本の第二部で私は、映画と演劇によって、アルトーがどんなふうに〈記号の創造〉を試みたかを述べるだろう。また第三部では、『ヘリオガバルス』という物語を、アルトーがどんな探究と実験として書き、同時にヨーロッパからの脱出を準備していたかを考えるだろう。」

「彼はもう一度、彼を精神の闇にまでみちびいていった〈思考不可能なもの〉についての問いと、〈身体〉についての問いを問いなおす。詩によって、残酷劇によって、異なる文明との出会いによってたどってきた道をもう一度たどり、自分の肉の発生をキリストの受肉に重ねながら、存在以前の存在について思考しようとする。そして、「身体は器官を必要としない」と宣言する。身体と器官は別のもので、〈器官〉はあらゆる制度や形式や序列や拘束が身体に侵入したものにすぎないと考え、身体ではなく器官に宣戦布告するのだ。」
「アルトーが描いてきた脱出の線は、もう一度アルトーを生み出したヨーロッパの中にもどり、その中心を襲う。彼は自身の肉の発生から、彼自身の生成をたどりなおし、もっと厳密に、もっと広大な次元にむけて開いた身体の政治学を試みることになる。それは同時に、取り返しのつかない災厄や戦争や残虐をもたらしたヨーロッパの歴史の地獄そのものをみつめる作業である。
 こんなふうにしてアルトーが書き残した言葉は、一つの形式や領域や秩序におさまることがありえず、本質的に作品の形をとることがありえないものだった。彼の書きしるしたすべての言葉が、「たぶん私に与えられる言語は、(中略)まだ私が一つの単語も知らない言語であり、沈黙する物たちが私に語る言語であり……」というチャンドス卿の呟きと響きあい、「決してどんな言葉も、どんな書物を書きはしないだろう」、という呟きを含んでいるのだ。書物も作品もジャンルもおよそ不可能となるような状態が、アルトーの場合ほど必然性をもって示された例はまれだ。思考不可能なものによって彼は身体に直面するが、その身体がまさに思考不可能なのである。」
「この本の第四部で私は、ロデーズ時代と、パリにもどった最晩年のアルトーの書簡とノートを読み解き、彼の身体の思想の途轍もない屈折と広がりにせまってみたい。」



「第一部 思考不可能をめぐる詩学」より:

「もちろん私たちは、思考と言語と身体をめぐるこのような強制の問題を、西欧の歴史と資本主義の形成をつらぬく経済と権力の錯雑した網目のなかにおいてみようとするだろう。アルトーの生きたプロセスは確かに分裂症的な何かと切り離せないが、私たちは、それを既成の精神医学や精神分析をモデルにして解こうとは思わない。アルトーを考えるのにモデルになるものは、アルトーの生きた現実にしかない、という立場を私たちはつらぬきたい。分裂症を説明するのはアルトーの生と作品であり、分裂症がアルトーを説明するのではない。そして彼は、同時に病者であり医者であるような存在として、敏感で、硬質で、不安定な言語を果てまで手放さずに、治癒として、実験として、病気として思索を続けたのであった。思考が、文学からも哲学からも科学からも逸脱するしかなく、詩が、美からも形式からも物語からも離脱するしかない状況を、必然的に、具体的に生身で生きることになったアルトーは、その身体とエクリチュールに、一つの世界が別の世界へ移っていく断層の恐怖や歓喜をとらえ、異なる世界において、異なる物質や肉体や声や光や記号が交錯する瞬間を、信じがたいほどの濃度でしるし、まだ私たちの知らない未来や、私たちの考えの届かない古代とだけ共振するかもしれない響きを生みだしたのだ。」


宇野邦一 アルトー 03





























































































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アントナン・アルトー 『神の裁きと訣別するため』 宇野邦一 訳

「人間に器官なき身体を作ってやるなら、
人間をそのあらゆる自動性から解放してその真の自由にもどしてやることになるだろう。
そのとき人間は再び裏返しになって踊ることを覚えるだろう。
まるで舞踏会の熱狂のようなもので
この裏とは人間の真の表となるだろう。」

(アントナン・アルトー 『神の裁きと訣別するため』 より)


アントナン・アルトー 
『神の裁きと訣別するため』 
宇野邦一 訳


ペヨトル工房 
1989年7月14日 発行
136p 著者・訳者紹介2p
四六判 角背紙装上製本 函 
定価3,000円(本体2,913円)
装幀: ミルキィ・イソベ+馬場かおる

付: カセットテープ (46分) 

Antonin Artaud : Pour en Finir avec le Jugement de Dieu
Le Theatre de la cruaute



アルトーによるラジオドラマの音源を収録したカセットテープと訳書が入ったボックスセット。1989年にはCDが主流になりつつあったはずですが、カセットテープです。
本は帯とビニカバを付けて単独でも売られていました(定価1,800円/本体1,748円)。


アルトー 神の裁きと訣別するため 01


帯文:

「ドゥルーズ=ガタリに
“器官なき身体”を
もたらした
アルトーのラジオドラマ。
今、甦える
アルトーの
肉声!
シュルレアリスムの
詩人にして演劇の革命家、
アルトーの
肉体言語の真髄が
ここにある。

●カセットテープ46分
●一四四頁上製本」



帯裏:

「アントナン・アルトー
1896年マルセイユに生まれる。詩人、映画俳優、演劇人。一時はシュルレアリスム運動の中心的な存在として積極的に活動したが、後に除名される。明晰な狂気をもつ天才と称され、その狂気は、分裂症とも、幼児期に患った骨髄膜炎の後遺症とも、鎮痛のために常用した麻薬のためともいわれる。この作品は晩年のアルトーがラジオ放送のために制作、収録したものだが、フランス国営放送は内容のあまりの過激さゆえに放送を拒絶した。後年、ドゥルーズ=ガタリから土方巽、寺山修司まで、厖大な影響を与えたこの録音には、アルトー解読のキーワード“器官なき身体”の真髄がこめられている。」



アルトー 神の裁きと訣別するため 03


左より、函、本体(元パラ付)、カセット(まわりの白い部分は発泡スチロール)。


目次:

神の裁きと訣別するため
 トゥトゥグリ――黒い太陽の儀式
 糞便性の探究
 問いが提出される……
 結論

残酷劇
 残酷劇
 〈追伸〉
 《追伸》

『神の裁きと訣別するため』をめぐる書簡

アルトーの問い (宇野邦一)



アルトー 神の裁きと訣別するため 02



◆本書より◆


「糞便性の探究」より:

「そこには血だけが存在し
骸骨の鉄くずだけが存在し
かちとるべき存在などはなく
生を失うだけでよかったのに。」

「私は洗礼もミサも否定する。
内面的性欲的次元にあって、
いわゆるイエス・キリストの
祭壇への降臨ほどに
いまわしい人間の行為は
ほかにない。

人はわたしを信じまい
みんなが肩をすくめるのがここから見える
しかしキリストという名の男は
神という毛虱を前にして
身体なしで生きることに同意したものにほかならない、
ところが十字架から降りてきた
人々の一団がある、
神は久しい前から彼らを十字架に釘付けしたものと信じていたが、
彼らは反乱し、
鉄、
血、
炎と骨で武装し、
〈見えないもの〉を罵倒しながら進んでいく
《神の裁き》と訣別するためである。」



宇野邦一「アルトーの問い」より:

「アントナン・アルトーは一九四八年三月に肛門にできたガンがもとで死ぬ直前に、一つのラジオ・ドラマを作った。(中略)四七年一一月に、アルトーはいくつかのテキストを口述筆記させ、彼自身と、三人の俳優(マリア・カザーレス、ロジェ・ブラン、ポール・テヴナン)でこれを演じて録音を完了した。アルトーのテキストそのものが、瀆神的、糞尿的な言語に充満した破格なものであるばかりでなく、彼はそれに、意味のない音声、激しい叫びを挿入して、確かにラジオ・ドラマや、詩人自らによる詩の朗読といった枠をまったく逸脱するユニークなパフォーマンスを実現したのだった。
 作品のタイトルは『神の裁きと訣別するため』(Pour en finir avec le jugement de Dieu)である。一九四八年二月二日月曜日の午後一〇時四五分という遅い時間帯にセットされていたこの番組は、しかし放送中止になってしまう。」

「録音された『神の裁きと訣別するため』の構成を、簡単にふりかえっておこう。
1 まずアルトー自身の朗読による導入部――さまざまな年令、人格のあいだを移動するように変化するアルトーの声色は、人工受精と高度なテクノロジーによる新たな世界戦争の予感を、乾いた激しい口調でのべる。世界戦争の危機をはらみながら、資本とテクノロジーの支配はたえまなく進行し、生命と身体に深く浸透するだろう。権力はじかに生命にかかわる技術となるだろう。奇妙に正確な予告を、アルトーは脅迫し、嘲笑するような演出で、まず電波にのせようとした。
2 アルトー自身の鋭い叫びと太鼓
3 マリア・カザーレスの朗読による「トゥトゥグリ、黒い太陽の儀式」――「トゥトゥグリ」は、アルトーがメキシコのタラウマラ族を訪れたときに見た儀式で、太陽神の庇護を祈願するダンスを含むものであったらしい。(中略)タラウマラは古来の民俗に、キリスト教を折衷的にとりいれていたが、アルトーはこれをあくまで「十字架の廃棄」と読み、キリストの否定と理解する。馬と人と大地と岩と太陽の間に、力強い交感が生まれ、潜在的な世界戦争とはまったく異質な速度をもつ「残酷な」力の循環が確かめられる。
4 シロフォンによる効果音
5 ロジェ・ブランの朗読による「糞便性の探究」――神と糞と肉に対する悪罵、これらは「細々とした内部の道」を強いる。これに対置されるのは、鉄と血と炎と骨であり、このような無機質の身体こそが、「神の裁きと訣別し」、「無限の外部への道」を開くだろう。身体の有機性は、神の支配のなかに組み込まれている。権力は有機的な身体においてたえず機能するのである。
6 アルトーとブランの間の意味不明な音声(舌語)いよるかけあい、太鼓とシロフォンの伴奏が入る。(中略)
7 ポール・テヴナンの朗読による「問いが提出される……」(中略)アルトーは「意識」の限定について語る。そして、あらゆる拘束と限定のシステムにとってかわるべき実在を「私の内部の夜の身体」、「無の身体」、「無思考」として提起する。彼の狂気とは、この「夜の身体」の叫びにほかならないのである。
8 再びアルトーの絶叫、長くこだまする叫びの繰り返し、太鼓と銅羅による効果音。
9 アルトー自身の朗読による「結論」――アルトーがアルトー自身に問いかけるインタビューの形をとっている。まずこの放送の目的について。(中略)一気に「残酷」が定義される。「残酷とは、神という、人間の無意識の獣性の、動物的な偶然を、それが存在するいたるところで、血によって、血にいたるまで、根こそぎにすることである」。神は、身体を生まれながらにして剥奪する。身体器官とは、すでに神の手先である。そこで人間は、「器官なき身体」を発見し、「裏返しになって踊ること」を学ばなくてはならない。
10 太鼓による一種のマーチ、「器官なき身体」たちのパレードだろうか。」

「アルトーは自らの狂気のなかで、たえずどこからこの狂気がやってきたか問う。彼の狂気は、世界の狂気からやってきた。彼は世界の狂気と闘おうとする。この闘いによって、ほんとうに狂っている世界に、彼はもう一つの狂気を対立させる。彼はしかし、自己の狂気から覚めることによって、世界の狂気に妥協しようとはしないだろう。彼は世界の狂気をわが身に引受け、世界の狂気を自分の身体に地図のように書込み、世界と一緒に狂うようにして、世界の狂気の根源を切開するのである。アルトーの「狂気」の生きのび方には、何か不思議な戦略がこめられているように感じられる。」




Antonin Artaud : Pour en Finir avec le Jugement de Dieu
































































アントナン・アルトオ 『タラユマラ』 (伊東守男 訳/夜想叢書)

「だが私は私自身の力で生れたのであり、母親から生れたのではありません。」
(アントナン・アルトー 「アンリ・パリソへの手紙」 より)


アントナン・アルトオ 
『タラユマラ』 
伊東守男 訳

夜想叢書 1

発行: ペヨトル工房
発売: 皓星社 
1981年3月9日 発行
172p 
18×13cm 並装 カバー 
定価1,500円

Antonin Artaud : Les Tarahumaras



アルトオ タラユマラ 01


目次:

タラユマラス族におけるペヨートルの儀式
 タラユマラス族におけるペヨートルの儀式
 あとがき

タラユマラス郷への旅について
 記号の山
 ペヨートルの舞踊
 アンリ・パリソへの手紙 ロデスにて。一九四五年九月七日

チュチュグリ

「エル・ナショナル」誌に発表されたタラユマラス関係の三論文
 魔師の王たちの郷
 原理的なる人種
 アトランティス王の儀式

「ヴォワラ」誌に発表された論文
 失われた人間たちの種族

タラユマラス郷への旅の追記
 タラユマラス郷への旅の追記
 附記

ペヨートルに関する覚書き

タラユマラス関連の手紙
 ジャン・ポーランに パリにて、一九三七年二月四日
 ジャン・ポーランに 一九三七年二月二七日土曜
 ジャン・ポーランに 一九三七年三月十三日土曜日
 ジャン・ポーランに パリにて、一九三七年三月二八日
 ジャン・ポーランに ソオ、一九三七年四月十三日
 アンリ・パリソに ロデス・一九四一年十月十日

解説 (伊東守男)



アルトオ タラユマラ 02



◆本書より◆


「タラユマラス族におけるペヨートルの儀式」より:

「我々が質問するたびに我々の「我」はいつでも同じような反応を示す。つまり答えているのは彼、つまり「我」であり、他者ではないのである。だがインディアンにあってはそうではないのだ。
 およそヨーロッパ人であれば誰も自分が自分の肉体で感じ、認識したこと、自分を揺さぶった感動、思いついた奇妙な考え、その美によって彼を夢中にさせた考えは実は彼のものではなく、他者がそれらを自分の肉体で感じ、生きたものだなどということを決して認めようとはしないだろう。さもなかったら彼は自分の気が狂っていると思いまた他人も彼のことを精神病患者だといいたがるであろう。タラユマラスはこれとは反対に彼が思考した感じ、創り出したものの内で彼自身のものと他者のものを組織的に区別する。だが狂人と彼の違いは彼の個人的意識はこの内的分離と区分の作業にあってかえって増大したのであり、その作業にあってはペヨートルが彼を導き、彼の意志を強固にしてくれる。彼は自分でないものと、自分がそうであるところのものを前よりもずっと良く承知しているようであり、彼は自分が何者であるかを心得ており、我々が自分達が何者であり、何を望んでいるかを心得ている以上に、もっとはっきりと彼自身なのだ。「すべての人間の内にはまだ神の古い残像が残っており、我々はそこに、ある日魂の内に我々を投げこんだこの無限なるものの力の姿を認めることができる。ペヨートルが我々を導いていくのはこの力に向ってである。なんとなればチグリが彼のもとに我々を呼びよせているからだ。」



「ペヨートルの舞踊」より:

ペヨートルの妖術師達は森の内に三年の間引きこもった後、本当に何かを身につけたようなのだ。」
「一体何を森から強引に学んだのだ。森は何を彼らに誠にゆっくりと教えたのだ。」



「アンリ・パリゾへの手紙」より:

「だが私は私自身の力で生れたのであり、母親から生れたのではありません。」


「魔師の王たちの郷」より:

「太陽の天文学的崇拝がどこでも記号で表わされているのがわかった時、そしてそれらの記号がヨーロッパの馬鹿げた言語が普遍的神秘主義と名付けた、古代の完璧な科学の記号と同一なのがわかった時、これらの記号――エジプト人のT型十字架、二重の十字架、中心に点のある大十字架、相対する二つの三角形、三つ星、東西南北に位置した四つの三角形、黄道十二宮などといったもの――が中近東でもメキシコでも、神殿や原稿にやたらと現われるものの、タラユマラス山中のように自然の風景の内でひんぴんと現われるのを見たことはなかったのに気づいた時、こういったことを良く心得ていて、突然文字通り記号に取りつかれた郷に入って行く時、ある人種の仕種や儀式がその記号を表わしているのに気づく時、そしてその人種の男や女や子供たちがその記号をマントに織りこんでいるのを見る時、人はなにか謎の源にたどり着いたようにおかしな興奮に取りつかれてしまう。
 だがタラユマラス山脈は巨人たちの骸骨が初めて見つかったところであり、今私がこの原稿を書いているこの瞬間にも新しい骸骨が見つかっていると思うと、伝説の多くは単なる伝説ではなくなり、現実のものとなる。それは超人間的なものには違いないがそれでも自然の法則を持った現実だ。十六世紀のルネッサンスが絶縁してしまった現実なのだ。
 ルネッサンスのヒューマニズムは人間の拡大ではなく卑小化なのだ。なぜならば人間は自らを自己の大きさに戻すために自然の高さまで上昇することをやめて自然を自分たちの尺度に引きずり降したのだ。人間的なるものを排他的に重視したため自然的なるものが失われてしまった。
 その時、その生命が太陽のまわりを回転している天文学が秘密なものになってしまった。」



「アトランティス王の儀式」より:

「私はインディアンが存在していることなどは今日の世界の趣味には合っていないことは承知している。しかしながら、このような種族が現存している以上私は、近代的生活は何かと比べた場合遅れているということができ、タラユマラス・インディアンが現代世界と比べて遅れているのではないといえる。
 彼らは、すべての前進、純粋に物理的文明の支配によって獲得された便宜は失墜と、堕落を意味するとわかっている。
 従って、進歩などということは真実の伝統の前には問題にならない。真実の伝統は進歩などはしない。なんとなればその伝統はすべての真実の最も進歩している極点を表わすものだからだ。」



「失われた人間たちの種族」より:

「メキシコの北部、メキシコ市から四十八時間のところに、純粋な赤色インディアンの種族、タラユマラス族がいる。四万人の人間がそこでは聖書の大洪水の前の時と同じような状態で生活をしている。彼らは、進歩に関して絶望している故に、進歩のことしか話題にしない我々の世界に対する挑戦なのである。」
「こんなことをいうといかにも信じ難く思えようが、タラユマラス・インディアンはまるでもう死んでいるように生活している……彼らは現実を見ようとはせず、文明に対して懐いている軽蔑の情から、魔力的な力を得ているのである。」
「タラユマラス族は町にやって来ると、乞食をする。それもまことに注目すべきやり方で行なう。家々の戸口の前で足を止め、尊大な侮蔑を浮かべながら、家に対して横に構える。彼らはこう言いたげだ。「お前は金持ちの犬だ。俺はお前より上等な人間だ。俺はお前に唾を吐く。」
 彼らに施しをしても、またしなくても彼らはいつでも同じだけ時間が経つと引き退る。なんとなれば、何も持たぬ者に恵みを与えるというのは彼らにとっては別に義務でさえない。それは白人世界が裏切ってしまった物理的な相互扶助性の法則である。彼らの態度はこういっているようだ。「法則に従うことによって、お前はお前のためになっているのだ。従って私はお前に礼をいう必要はない。」
 このように乞食をして稼いだ金は帰路の食糧を買うために費される。なんとなればタラユマラスの森林では金は何の役に立つかわからないからだ。
 我々が慈善と呼んでいる物理的な相互扶助性の法則をインディアンたちはごく自然に、なんの憐憫もなく実行しているのである。何も持たぬ人々、そうなった原因には数々あろう。収穫を失ってしまったから、とうもろこしを燃してしまったから、父親が何も残さなかったから、あるいは別に正当化する必要もない理由からか何も持たぬ人々は朝日が昇るとき、何かを持っている人々の家にたどり着く。直ちに、家の女主人は彼女が持っているすべてを彼らに施す。誰も何も見ないのだ。与えるものも、施しに授かる者も。食った後に、乞食は感謝することもなしに、誰も見ずに去ってしまう。
 タラユマラス族の全生活はペヨートルのエロティックな儀式を中心に繰り拡げられる。ペヨートルの根は両性具備なのである。(中略)野性のインディアンたちの全秘密はこの儀式の内にあるのである。その力はやすり、つまり刻み込みに覆れた曲った一種の木によって象徴化されているようである。幾晩もの間、ペヨートルの妖術師たちはリズミカルに小棒をこすりつけてきしらす。だが一番奇妙なのは、これらの妖術師たちの補充方法である。突然彼らにやすりを手にするように霊感を受けたと感じる。そうして山の聖域にやすりを探しに行く。そこにはもう何千年の昔から他の妖術師たちが埋めて置いた信じられない位のやすりが集まっているのだ。やすりは木製である。熱い土のところで育った木で作ったものだ。タラユマラス族のものはこのやすりの農園の上で三年を過す。そうして三年経つと、この大切な儀式をものにして戻って来る。
 これが、いかなる文明も影響し得ないこの奇妙な人々の生活なのだ。」




















































































アントナン・アルトー 『神経の秤・冥府の臍』 (粟津則雄・清水徹 編訳)

「その中心は、炸裂する音のモザイク、いわばむざんにゆがんだ重さをもつ、堅い宇宙のハンマーであり、たえず一個の額(ひたい)のように、蒸留されたような騒音とともに、空間にうちおろされていた。」
(アントナン・アルトー 「冥府の臍」 より)


アントナン・アルトー 
『神経の秤・冥府の臍』 
粟津則雄・清水徹 編訳


現代思潮社
1971年10月25日 第1刷発行
1990年5月25日 第3刷発行
323p 目次5p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,884円(本体2,800円)



本書「解題」より:

「この第一巻(※)の中心をなすのはアルトーにおける「思考することの不可能性」の主題、彼の好んだ造語を用いていえば「思考することができぬという不能力(impouvoir)」の主題であり、それは具体的には『ジャック・リヴィエールとの往復書簡』と『神経の秤』によって、(中略)示されている。
 しかしこの《不能力》の主題はただたんにアルトー出発のころのみにかかわるものではない。言語と思考との奇怪な関係の認識にはじまって、自分は本当の意味での自分ではない、自分には本当の意味の思考もなければ本当の意味の肉体もないという認識にまで到るこの主題は、アルトーの全生涯にわたるもの、いわば《アルトーという事件》を成立せしめる根源的な主題なのである。」



※本書ははじめ日本語版「アルトー全集」の第一巻として刊行されましたが、第一巻だけで中断してしまいました。


アルトー 神経の秤 冥府の臍 01


カバー裏文:

「これらのページはすべて、
精神の中を氷塊のように
徘徊する。
わが絶対の自由を許されよ
私は私自身のいずれの十秒
をも区別することをみずか
らに禁ずる。
私は精神に局面というもの
を認めない。
          アルトー」



アルトー 神経の秤 冥府の臍 03


目次:

序言 (清水徹 訳)
ローマ教皇への上奏文 (清水徹 訳)
ダライ=ラマへの上奏文 (清水徹 訳)
ジャック・リヴィエールとの往復書簡 (粟津則雄 訳)
冥府の臍(へそ) (大岡信 訳)
 他の連中は……
 思考する、……
 おれといしょに……
 博士 ……
 鳥のポールまたは恋の広場
 拝啓 ……
 ある肉体の状態の描写
 黒い詩人よ
 立法議会議員殿への手紙
 詩人たちは……
 酸性の、不安にみちた……
 血が噴き出す
神経の秤 附・ある地獄日記の断片 (清水徹 訳)
 神経の秤
 私信
 第二の私信
 第三の私信
 ある地獄日記の断片
初期詩篇 (一九一三~一九二三) (大岡信・釜山健 訳)
 神秘の船
 死んだ詩人について
 夢のなかで
 夕べ
 幽霊のでる宮殿
 初雪
 夕べの諧調
 伝説の香気ゆたかな……
 南極
 振子時計
 酒瓶とグラス
 酒を飲むヴェルレーヌ
 奥義伝授
 恋歌(マドリガル)
 海辺のバー
 水族館
 バー
 アッシジの聖フランチェスコの詩
 アレゴリー
 潮
 清寂
 秘密の論理
 黒い庭
 黒い庭
 辻公園
 潮汐
 海景
 あなたを愛しているわけではない……
 夕べ
 鳥肌
 マンゴーの実
 夕暮れの時がやってくるとき
初期散文作品 (篠沢秀夫 訳)
 新教育課程ノ一案
 聖母被昇天
 青い眼鏡の復習監督
 心霊漫歩
 哀れな楽師の驚異の冒険
 『偏見の流れに沿って』への序
 モーリス・メーテルリンク
空の双六(トリク・トラック) (飯島耕一 訳)
 ドイツのオルガン
 雪
 祈り
 愛
 罠
 ロマンス
 オルガンと硫酸
 月
ビルボケ (豊崎光一 訳)
 雑誌が十分の数だけない、……
 恍惚
 夜の祭
 われわれは稀にしか、……
 ランボーと現代作家たち
 精神の画家
 火の河
 音楽家
 水準
 小作家
 コクトーとアルフレッド・ポワザ


解題 (清水徹)



アルトー 神経の秤 冥府の臍 02



◆本書より◆


「序」より:

「われこそは存在する人間だ、先天的に存在する人間だと信じている馬鹿ものどもがいる。
 かく言う私は、存在するためには自己の先天性を鞭打たねばならぬ人間だ。」

「インスピレーションなどひとつの胎児でしかないし、言語による表現もまた胎児でしかない。俺は知っている、書こうとのぞんだとき、自分の言葉をつかまえそこなった、それだけのことなんだ。
 それ以上のことが俺に解ったためしがない。
 俺の書く文章が、さてフランス語の響きを立てるか、パプア語として響くのか、それこそまったく俺の知ったことか。
 だが、ある激烈な単語を釘のように打ちこんでやるならば、俺はその単語を文章のなかで、まるで穴がぶすぶすあいた斑状内出血みたいにして化膿させてやりたい。」
「俺が書くのは文盲たちのためだ。」
「声に出して語る言葉とは泥土のようなもの、存在の方向へと照らし出されることはないが、存在の断末魔の苦悶の方向へは照らし出される。
 詩人である俺には、もはや観念の世界には属さぬいろいろな声が聞えてくる。
 なぜなら、俺のいるところでは、もはや思考する必要がないからだ。」



「ローマ教皇への上奏文」より:

「ところで、この私が一九三七年九月から一九四六年五月にかけて、逮捕され、投獄され、拘禁され、毒を盛られたその理由は、かつて、二千年すこしまえ、イェルサレムで、私が逮捕され、鞭打たれ、磔刑に処せられ、そして掃溜の山の上に投げ棄てられたときの理由と同じなのだ。
 いやそれは、二千年よりさらにずっとまえのことだ。
 というわけは、この二千年という数は、ゴルゴタの丘の上の磔刑者の死以後こんにちまでに流れた二千年の歴史的生活を表現するものだからである。歴史的、言いかえれば公的に取り集められ、目印をつけられ、年表上に整理された、という意味である。というわけは、じつはあの日、時間は事物に恐るべきとんぼ返りをひとつ打たせたからであり、(中略)私は完璧に記憶しているのだが、自分が死んだと感じられるまで待ってから、起き上る決意をしようとして、掃溜の山の上に三日半滞在し、そののち私が外に出たとき、処刑の苦痛の想い出ではなく、公衆の面前で衣服を剥ぎ取られ、ついで司祭たちの特別命令により鞭打たれたという淫猥な侮辱の想い出が、顔の上に平手打ちや拳骨の雨をふらされ、ただ私がアントナン・アルトーであったから(これがいまと同じく、二千年まえの私の名前でもあった)という以外には何らの公言しうる理由もなく、私を憎悪していた無名の下司野郎から、背中に棍棒を幾度も見舞われたことの想い出が、つまり、卑しむべきじつに数多くの手が、縁もゆかりもなく、なにひとつ手向かいもしなかった私の顔を殴打したという愕然たる記憶が、私をそれこそむかむかさせたため、私はその嫌悪感で自分が破裂してしまうのを、それこそ肉体的に私の胸が破裂してしまうのを感じたのであり、それゆえに歴史は、それ以後につづいた服喪期間の記憶をとどめなかったのだ。
 ところで、この私は一九三七年から一九四〇年にかけて、教皇庁の諜報機関やゲーペーウーや警察の命令により、そして同時にフランス国家警察の命令により、毒殺されたのだ。」



「ジャック・リヴィエールとの往復書簡」より:

「私は、精神のおそるべき病いに苦しんでいます。私の思考は、ありとあらゆる段階において私を離れ去ってしまうのです。思考という端的な事実の段階から、語によるその具体化という外部化された事実の段階までのね。」

「御存知のように私の詩はばらばらでまとまりがないし、形のうえでいろいろ欠点があるし、私の思考というやつがまた、いつも曲りくねっていますが、これは、習練が不足しているせいだとか、使っている方法手段を充分わがものにしていないせいだとか、知的な展開が欠けているせいだとか、そんなふうに考えるべきものじゃないのです。魂の中心部に起る或る崩壊や、本質的であると同時に束の間のものでもある思考の腐蝕とでも言うべきものや、私の展開の具体的な獲得物の一時的な喪失や、思考の諸要素の異常な分離などのせいと考えるべきなのです。」

「読者は、そこにあるのが時代的な現象などといったものではなく、本当の病気であると思わねばならぬ。存在の本質に、その中心的な表現の可能性にかかわる病気であり、生の全体に向けられた病気である、と思わねばならないのです。
 魂のもっとも深い現実性に作用を及ぼし、そのさまざまなあらわれに病毒を注ぐような病気。存在の毒、本当の麻痺なのです。人びとから、ことばも思い出もとりあげ、その思考を根こぎにするような病気なのです。」



「冥府の臍」より:

「他の連中は作品を差出すというがいい、私はここに私の精神以外のなにものをも示す気はないのだ。
 生きるとは、もろもろの問を燃えあがらすことだ。
 私は作品を生から遊離してあるものとは考えない。
 私は遊離した創造は嫌いだ。私はまた、精神がおのれ自身から遊離してあるものだとも考えない。私の作品の一つ一つ、私自身のさまざまな面の一つ一つ、私の内なる魂の氷室の開花の一つ一つが、私に対して悪態をつく。」

「この本を、私は生のまっただなかに宙ぶらりんにさせてやろう。私はこれが、外部の事物によって、そうだ、何よりもまず、あらゆるヤットコの跳躍や、来たるべきわが自我のすべてのまばたきによって、噛みつかれることを願う。
 これらのページはすべて、精神の中を氷塊のように徘徊する。わが絶対の自由を許されよ。私は私自身のいずれの十秒をも区別することをみずからに禁じる。私は精神に局面というものを認めない。」

「私はねがわくば人々を狼狽させるを作りたい。ひとつの開かれた扉であり、人々が決して行きたがらなかったはずのところへかれらを導く扉であり、つまり単純に現実に接している扉である本を。」

「人間どものいかなるむこうみずな科学も、私がみずからの存在に関して持ちうる直接認識よりもすぐれたものではないのだ。私は私の内にあるものの、唯一の審判者なのだ。」



「神経の秤」より:

「きみたちはばか者だ、いや、きみたちは犬だよ、用もないのに外でほえわめいている、夢中になって理解しまいとしているんだから。ぼくは自分自身を知っている。それでぼくには充分だ、充分でなくてはかなわぬ。ぼくが自分自身を知っているのはぼくがぼく自身に立ち会っているから、ぼくがアントナン・アルトーに立ち会っているからだ。」
「ぼくの思考機構の各段階には、さまざまな穴、かずかずの停止がある、時間的な段階について言っているのではない、解ってくれたまえ、ある種の空間内でのことなんだ(ぼくには自分のことは解っている)。縦にながく伸びた思考、いろいろな思想の持続としての思考の話をしているんじゃない。ひとつの思考、たったひとつの、内部にある思考のことを言っているんだ。」
「自分の言語が、思考とのさまざまな関係において唖然とするばかり混乱していることをだれよりも感じた男、ぼくはそんな男だ。自分のもっとも内奥な、もっとも疑うべからざる地すべりの瞬間をだれよりもよく見定めた男、ぼくはそんな男だ。まったく、世のひとが夢みるように、自己の思考に迅速にもどってゆくように、ぼくはぼくの思考のなかに迷いこみ、みずからを失ってゆく。自己喪失の奥まった隅々を知っている男、ぼくはそんな男だ。」

「そしてぼくはきみにもう言った。作品もなく、言語もなく、ことばもなく、精神もない、なんにもない、と。
 なんにもない、あるのはただ、みごとな「神経の秤」だけだ。
 精神のなか、すべてのものにかこまれた真中での、一種の理解できぬ、直立した停止状態。」

「あらゆる人間活動を越えたなにものかがある。
 あの単調な磔刑、魂がそこで失われてゆくことを止めぬあの磔刑という手本がそれだ。」

「ぼくが自分のことを思考するとき、ぼくの思考は新しい空間のエーテルのなかにおのれを探求する。ほかのひとびとは露台で月を眺めているが、ぼくは月のなかにいる。ぼくの精神の断層のなかで、ぼくは惑星の重力作用に協力する。」

「肉体の方からも、精神の方からも、期待すべきなにものもぼくにはない。ぼくにあるのは、永遠の苦悩と影、魂の夜、そしてぼくは叫ぶための声をもたぬ。」

「ぼくは苦悩と影の領域を選んだ、ほかのひとびとは物質の光輝と堆積の領域を選ぶが。」



「空の双六」より「ロマンス」:

「音楽は窓から流れ出る
溶けてしまうがいい ぼくたちの骨髄
街ぐるみひっくりかえる
心地よい痙攣(スパスム)のうちに

暗い街に音
きついハンドルをつかって
晦渋なオルガンがつくり出す音
ひろがれ ひろがれ ふるえるたびに

おお 街は骨でいっぱいだ
あのまたとないリキュールの骨
そいつは耳から またリキュールのグラスの穴から
街に洪水を起すのだ

一つの沈黙が酔ったメロディの
奥に住む
予感にみちた街じゅうが
深々としたオルガンの中心に汲むメロディの

予感は繰返される
建物の張り出しのつくる空間で
いつわりの心臓をもつハンドルが
明澄な音楽に刻みこむその場所で

どんなアラビア人が どんなアフリカ人が
ぼくたちの探すルフランをもっているか
ぼくたちの額の氷をくだくがいい
おお 音楽、いたみをあたえる音楽よ。」



「ランボーと現代作家たち」より:

「ランボーはわれわれに存在の新しい仕方を、事物のまっただ中に身を持するという仕方を教えた。」















































































































アントナン・アルトー 『ヴァン・ゴッホ』 (粟津則雄 訳/筑摩叢書)

「私は、流星のごとき不在を、燃えあがるふいごのごとき不在を持っている。」
(アントナン・アルトー 「力の鉄床」 より)


アントナン・アルトー 
『ヴァン・ゴッホ』 
粟津則雄 訳

筑摩叢書 303

筑摩書房
1986年10月25日 初版第1刷発行
1990年1月30日 初版第5刷発行
188p 目次2p モノクロ図版2p 
カラー図版2葉
四六判 並装 カバー
定価1,340円(本体1,301円)
装幀: 原弘



本書「あとがき」より:

「本書におさめた文章のなかで『ヴァン・ゴッホ 社会が自殺させた者』及び『神経の秤』は、『ヴァン・ゴッホ』と題して、一九七一年に新潮社から上梓したものである。」
「今回、筑摩叢書におさめるにあたって、『神経の秤』とともに彼の初期を代表する作品のひとつである『芸術と死』を加えた。」
「新版に際して、旧訳に能うかぎり手を加えたのはもちろんだが、『アルトー全集』増補新訂版(Ed. Gallimard)その他を参照して、旧訳の底本に見られた読みのあやまりや誤植を正し、新たに訳註を付した。」



アルトー ヴァンゴッホ 01


帯文:

「狂気に隣接して生きた詩人にして残酷演劇の実践者アルトーの、最晩年に一気に書下された美術論の傑作。「単なる批評的産物というよりも、この異様な詩人がゴッホに覚えた全身的な共感が生み出した血の叫びとでも言うべきもの。」最初期の作品『神経の秤』および『芸術と死』(本邦初訳)を加える。図版4点収録。」


目次:

ヴァン・ゴッホ
 序文
 追記
 社会が自殺させた者
 追記
 追記

神経の秤
 〔たしかに私は感じたのだ〕
 私信
 第二の私信
 第三の私信
 或る地獄日記の断片

芸術と死
 或る種の不安の……
 女占者の手紙
 エロイーズとアベラール
 明るいアベラール
 毛のウッチェロ
 力の鉄床
 自動人形
 愛のガラス

訳註
あとがき (1971年2月/1986年8月)




◆本書より◆


「ヴァン・ゴッホ」より:

「こうして、社会は、自分が厄介払いをしたいとか、遠ざけておきたいとか思ったすべての人間たちを、精神病院で窒息させてしまったわけです。彼らが、或る種のいどく不潔なふるまいに関して、社会の共犯者になることを拒んだためにね。」

「ヴァン・ゴッホは、全生涯を通じて、異様な力と決意とをもって、彼の自我を求め続けた。
 もっとも、彼は、この自我に至りつけないのではないかという不安から、狂気の発作に襲われて自殺したわけではない。
 それどころか、彼は、その自我に至りつき、自分がいかなる存在であり、何者であるかを見出したばかりだった。そしてそのときに、社会の一般的な意識が、彼が、社会から離れ去ったことへの罰として、
 彼を自殺させたのである。」

「すべての狂人のなかには、理解されざる天才がいて、かつて彼の頭のなかで輝いていたこの天才の観念が人びとをおそれさせたわけだが、この天才は、人生があらかじめ彼に課した八方ふさがりの状態から抜け出す道を、錯乱のなかにしか見出しえなかったのだ。」

「ヴァン・ゴッホは正しかった。人は無限のために生きることができるし、無限によってのみ満足することができる。この地上と諸天体には、無数の偉大な天才を満足させられるだけの無限がある。そして、ヴァン・ゴッホが、おのれの生全体を無限にさらしたいという欲求をみたしえなかったのは、社会が彼にそれを禁じていたからだ。
 はっきりと、意識的に禁じていたからだ。
 ジェラール・ド・ネルヴァルや、ボードレールや、エドガー・ポオや、ロートレアモンにたいする迫害者がいたように、ヴァン・ゴッホの迫害者がいたのである。」

「それに、いかなる人も、自分だけの力で自殺しはしない。
 いかなる人も、ひとりで生れはしなかった。
 いかなる人も、ひとりで死にはしないのだ。
 だが、自殺の場合は、肉体にたいして、われとわが生を奪い去るというような不自然な行為を決意させるには、一群の悪しき存在が必要なのだ。
 そして、私は思うのだが、究極の死の瞬間においては、つねに、他の誰かがいて、われわれから、われわれ自身の生命を奪うのだ。」



「明るいアベラール」より:

「あわれな男よ! あわれなアントナン・アルトーよ! 星たちによじのぼり、おのれの弱さを諸要素の方位基点と対質させようと試み、自然の、微妙な、あるいは凝固した各面のそれぞれから、ゆらぐことのない思考と、しっかりと立ったイメージとを作りあげようと努めているこの不能者、これこそまさしく彼なのだ。」
「アルトーにとって、喪失は、彼がのぞんでいるあの死のはじまりだ。だが、去勢された男とは、なんと美しいイメージだろう!」



「毛のウッチェロ」より:

「私は、私の歩みが引きずってゆくこの世のあらゆる石や、ひろがりのはなつ燐光が、私を通して、それぞれの道を辿るのを感ずる。それらは、私の頭の牧場のなかで、ただひとつの暗黒のシラブルから成る語を形作る。君は、ウッチェロよ、君は、ただ単に、一本の線となることを、或る秘密の高められた段階となることを、学ぶのだ。」
























































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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