ヘンリー・ミラー 『暗い春』 吉田健一 訳 (福武文庫)

「「気が変になったんじゃないかしら」とジルがいう。
 「そうじゃないんだよ」とジャブがいう。「わたしはやっと正気になったんで、ただそれはきみたちが考えているのとは違った正気なんだ。」」

(ヘンリー・ミラー 「ジャバウォール・クロンスタット」 より)


ヘンリー・ミラー 
『暗い春』 
吉田健一 訳
 
福武文庫 ミ 0301 

福武書店
1986年11月10日 第1刷印刷
1986年11月15日 第1刷発行
282p
文庫判 並装 カバー
定価620円(本体602円)
装丁: 菊地信義
カバー写真: 瀬尾明男



Henry Miller: Black Spring, 1936


ヘンリーミラー 暗い春


カバー裏文:

「ニューヨークの下町ブルックリンで幼少年時代を過ごし、その後国内各地、アラスカ、さらにはパリを放浪したミラーが、郷愁をこめて綴る幼き日の思い出。機械文明に毒され、第二次世界大戦の翳が忍び寄るアメリカに対する痛烈な批評精神に溢れた名作。」


目次:

第十四地区
春の三日目か四日目
土曜の午後
わたしには天使の すかし が入っている
ジャバウォール・クロンスタット
夜の世界へ……
仕立屋
支那を漫歩する
バーレスク
誇大都市妄想患者

訳者あとがき




◆本書より◆


「第十四地区」より:

「ほかのものはその少年時代の記憶として美しい庭だとか、やさしい母親だとか、海岸に避暑に行ったのを思い出すところなのだが、わたしの場合は、わたしたちがいた家のむかい側にあった罐詰工場の煤(すす)だらけの壁や煙突、それから街にちらばっていた無数の小さな丸いブリキの板のことが頭に焼きつけられている。そのあるものはぴかぴか光っていて、あるものは銅色に錆び、さわると指が汚れた。」
「わたしにとっては、第十四地区が世界の全部だった。もし何かその外で起こっても、それは実際には起こらなかったか、あるいはどうでもいいことか、そのどっちかだった。わたしの父が釣りをしにこの世界から外へ出て行くことに、わたしはなんの関心も持たなかった。わたしはただ父が夕方になって、酒臭いにおいをして帰ってきて、大きな緑色の籠からそこらじゅうを跳ねまわる、まるい眼の怪物どもを床にあけたのしか覚えていない。」



「春の三日目か四日目」より:

「わたしはもう過去も未来もない人間になっている。わたしは存在し、――ただそれだけなのである。わたしは、他のものの好き嫌いなど気にかけない。わたしがいうことを他のものがそのとおりだと思おうと思うまいと、ちっともかまやしないのだ。(中略)わたしはアメリカをだんだん大きくなってゆくひとつの災難、世界にいつのまにかついてしまった黒い染(し)みとみている。わたしは長い夜がこようとしていて、世界を毒した蕈(きのこ)が根から枯れはじめているのを知っている。
 それでわたしはそんなふうにしてすべてが終わるのを予感しながら、――それがあすだろうと、三百年先のことだろうとかまわない、――何かに憑かれたようになってこの本を書いているのだ。(中略)なぜなら、だれもわたしに代わってこういうことをいってくれるものがいないからだ。わたしが口ごもったり、つまずいたりし、どんな表現の形式でも使わずにいられないのは、いわばひとりの神がどもりながら話しているのに他ならない。わたしは世界の壮絶な崩壊に眩惑されているのだ。」

「黄昏や、明け方や、それからおよそ人間などに出会わない時間に歩きまわっているひとりの人間として、自分がまったく孤独で他に自分のようなものはいないという感じがわたしを力づけて、人込みの中にいて自分がもう人間ではなくなり、ただのごみの一粒、唾の一塊りでしかない気がするときでも、わたしは自分が宇宙にただひとりでいて、人間がだれもいなくなった街に自分だけ存在し、住民がすべて逃げ去った後で高層建築の間を歩いているただひとりの人間になって歌い、地上を支配しているのだというふうに考えはじめる。」

「わたしは古い世界の人間で、風に運ばれてきた種であり、その種はアメリカの急ごしらえのオアシスでは花を咲かすところまでいかなかった。わたしは過去の重い木に属していて、肉体的にも精神的にも、かつてはフランス人、ゴール人、ヴァイキング、匈奴(きょうど)、韃靼(だったん)人その他だったヨーロッパの人間に繋がっているのだ。ここがわたしのからだや魂の風土で、ここには活気と腐敗がある。わたしは今世紀の人間でないことを誇りに思っている。」



「土曜の午後」より:

「ロビンソン・クルーソーはなんとか生きて行けたのみならず、比較的に幸福でさえることに成功したというのである。これはまったくたいしたことだ。(中略)なんと非アングロ・サクソン的で、キリスト教以前とでもいうほかないことだろう。(中略)この話をもっと現代ふうに解釈すれば、これはひとりの芸術家が自分でひとつの世界を作ろうとしたということなのであり、あるいはこれが世界で最初にほんものの神経衰弱にかかった男で、自分の時代を離れて自分自身の世界に住み、それは野蛮人ではあっても、とにかくもうひとりの人間と分け合うために、わざと難船したのである。驚くべきことは、彼が神経衰弱にかかってそんなことをしたにもかかわらず、無人島で(中略)比較的な幸福を見つけたということである。マグダレエニアン文化以来の二万五千年間の「進歩」は、こうして彼の神経突起の中で抹殺されてしまった。これが十八世紀の比較的な幸福の観念だったのである。そしてフライデーがやってくると、フライデーは野蛮人で、ロビンソン・クルーソーがいうことがわからないにもかかわらず、その幸福は完全なものになるというのだ。わたしはこの本をもう一度読んでみたい。――いつか、雨が降っているときにでも読むつもりだ。中世紀以来の文化がその頂点に達したときに出た、まったく感嘆すべき本だ。」
「十八世紀の人間は、やがて来(きた)るべき終末にひかれていたのだ。彼らはもうたくさんだと思い、もときた方へ引き返して、母親の胎内にもどりたかったのだ。」



「ジャバウォール・クロンスタット」より:

「ピアノは涼み台のかたわらの隅にあり、これは銀の蠟燭立てがついたいまにもこわれそうな黒い箱で、黒い鍵(けん)はみんなスパニエル種の犬に嚙み取られてしまった。そしてその上には請求書や、マニキュア・セットや、将棋の駒や、ビー玉や、骰子(さいころ)が入っている。ベートーヴェンだとか、バッハだとか、リストだとか、ショパンとか書いたアルバムが重ねてあり、クロンスタットが機嫌がいいときは、ゴヤと書いてあるアルバムをあけて、何かハ調のものを弾いてくれる。彼は歌劇や、メヌエットや、ショッティッシュや、ロンドや、サラバンドや、プレリュードや、フーガや、ワルツや、行進曲や、チェルニイや、プロフィエフや、グラナドスのものが弾けて、弾きながらプロヴァンスふうの歌を即興的に口笛で吹いて聞かせることさえできる。しかしなにをやるにしてもハ調のものばかりなのだ。
 だから黒い鍵がいくらたりなくても、またスパニエル種の犬が子を生もうと生むまいと、そんなことはちっともかまわないのだ。ベルが鳴らなくても、水洗便所が流れなくても、詩が書けなくても、シャンデリアが天井から落ちても、家賃が払えなくても、水道が止まっても、女中が酔っ払っても、流しが詰まっても、ごみ溜めの中のものが腐りはじめても、髪がふけだらけで、寝台が軋っても、花に黴が生えても、牛乳が悪くなっても、流しが汚れていて、壁紙の色があせても、せっかくの特種(とくだね)が古くなって、災難が一度に降りかかっても、息が臭くても、あるいは手がべたついても、氷が溶けなくても、自転車が動かなくても、すこしも気になることはないので、それはそういうものの見方をするのに馴れてしまえば、なんでもハ調で弾けるからなのである。」



「夜の世界へ……」より:

「わたしは、どんな思い出よりももっと古い思い出を、山の下に埋められている石の板に記された神話を、なんとかして探そうとしているが、だめなのだ。」

「それは溺死するような気持ちがするもので、わたしの過去の生涯全体が頭に浮かんでくる。そしてそれはわたしの個人的な過去だけでなくて、全人類の過去であり、わたしはそれを巨大な亀の背に乗って遡って行くのだ。わたしたちは地球とともに蝸牛(かたつむり)のようにのろのろ進んで行き、地球の軌道んぼ限界まできて、それから奇妙に片足をひきずって空っぽになっている天の十二宮の中をよろめきながら、急いで引き返して行く。動物界に属する多くの不思議な格好をした幻影、梯子の上まで登りつめてから海の底に落ちた、いまは絶滅した種属が見える。」

「わたしがいま、世界を喜びも悲しみも感じないで歩いているのは、タラハッシイで、わたしの内臓を取り去ってしまったからだ。こわれた棚の隅で、人びとは汚い手をわたしの中に入れて、錆びたジャック・ナイフでわたしのものだったすべてを、わたしにとって神聖であり、わたしだけのもので、犯すべからざるものを切り取ってしまった。タラハッシイで、人びとはわたしの内臓を取り去った。そして町中を追いまわして、わたしに虎のように縞をつけた。かつてはわたしは自由に口笛を吹いていた。血が鎧戸から洩れてくる光をとおして脈を打っているのを聞きながら、街を歩いて行った。いまでは、カーニヴァルの最中のような騒々しい音がわたしのなかで聞こえる。わたしの腹は、何百万という携帯風琴(ふうきん)の節ではち切れそうになっている。わたしは、かつての悲しみの街を、カーニヴァルの騒音でいっぱいになって、わたしが覚えた節をこぼしながら人とすれ合って歩いて行く。わたしは舗道へとよろめいて行く喜びに満ちた、なまけもので堕落した人間なのだ。重い綱のように揺れている一筋の人間の肉なのだ。」



「仕立屋」より:

「「ヘンリー」とやつらはいった。「明日ミーリア叔母さんを精神病院につれて行きなさい。そして有料にしてもらったりすることはとてもできないんだから、そのつもりでいるんですよ。」
 それならそれもけっこう。なんでもいいから、陽気にしていようじゃないか。翌朝、わたしはミーリア叔母さんといっしょに電車に乗って、田舎に出かけて行った。」
「電車の中でわたしは泣いた。泣かずにはいられなかったのだ。この世に住むのにはよすぎる人間がいると、どこかに閉じ込めてしまわなければならないのだ。よすぎる人間というのは、どこかどうかしているらしい。ミーリアが怠けものだというのはほんとうで、ミーリアは生まれつき怠けものだった。(中略)ミーリアは何もしないで、ただ泣いていた。ミーリアは俯いているだけで、それまではそれでも正気だったのが、もう正気でさえなくなった。ミーリアは、邪魔もの扱いにされどおしの一足の破れた靴下のようなもので、どこに行っても他が迷惑するだけだった。」
「そしてミーリアは柔順(おとな)しく電車の中に腰かけていて、牝牛をめいめいの名前で呼んでいる。月がミーリアにとっては、ひじょうな魅力なのだ。ミーリアは前からわたしだけは信用していて、それで今日もすっかり安心している。わたしはミーリアの気に入りで、頭がすこし変でも、ミーリアはわたしにはいつも親切にしてくれた。他のものは正気ではあっても、心がけがよくなかった。」
「ミーリアには、罪とか後悔とかいうものの観念がぜんぜん違ったようだ。ミーリアは頭がすこし変な天使で、ミーリアは聖者だったのだ。
 ミーリアが雇われている先で暇を出されると、わたしが迎えに行かされることがあった。ミーリアはひとりで家に帰ってくることがどうしてもできなかったのだ。そしてわたしがきたのを見ると、ミーリアは大喜びをした。ミーリアはいたって無邪気に、わたしといっしょに住みたいといった。なぜそうしてはいけなかったのだろう。(中略)ミーリアがそうしたいのなら、なぜ炉端にミーリアがいる場所を作ってやって、勝手に夢を見させておくことができなかったのだろう。なぜだれもかれもが、――天使や聖者でさえもが、――働かなければならないのだろう。なぜ頭がすこし変なものまでが他のものに手本を示さなければならないのだろう。
 これからわたしがミーリアを連れて行く場所にミーリアが行くのは、あるいはいいことかもしれないとわたしは思う。もう働かなくてすむのだ。しかしそれにしても、どこかの家にミーリアがいられる片隅があったほうがいいのだ。」

「壊しちまえ、壊しちまえ。ほかに何もいうことはない。」



「支那を漫歩する」より:

「わたしは自分の国のことばを忘れてしまって、そしてまだ新しいことばが話せるところまでいっていない。(中略)わたしは、変わりつつある現実の中心にいて、まだそのための国語は作られていない。」

「眼を開けたまま夢をみなければならないものにとっては、すべての運動は逆の方向にむかい、すべての行為は万華鏡を覗いているときのように、粉々に砕ける。わたしは、現在の醜悪な世界のなかを歩いて行きながら、眼をつぶる勇気があるもの、現実と呼ばれているものから常に遠ざかっているものだけが、われわれの運命を左右することができることを確信している。(中略)わたしは、生も死も恐れない夢想家だけが、宇宙を一瞬のうちに粉微塵にするほんのすこしばかりの力を発明することができるのだと信じている。わたしは(中略)あの進化論などというものをいっこうに信じない。」























































































































スポンサーサイト

パトリシア・ハイスミス 『変身の恐怖』 (吉田健一 訳)

パトリシア・ハイスミス 
『変身の恐怖』 
吉田健一 訳

ちくま文庫 は-20-1

筑摩書房 
1997年12月4日 第1刷発行
419p 
文庫判 並装 カバー 
定価940円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 田淵裕一
カバー装画: 竹久野生


「本書は一九六六年六月、「世界ロマン文庫16」として刊行された。」(※)

「付記
『変身の恐怖』文庫版の刊行にあたり、訳者自身生前機会があれば手を入れていたと思われるいくつかの箇所を直した。
吉田暁子(著作権継承者)」



※本書巻末にはこのように注記されているのですが、ネット情報によると「世界ロマン文庫」版の初版刊行は1970年のようです。原著刊行年は本書巻頭にも明記されていますが、1969年です。


ハイスミス 変身の恐怖


カバー裏文:

「独立したばかりのチュニジアで、ふとしたことから人を殺してしまったアメリカ人の小説家。しかしゴミを片付けるかのように死体は取り除かれていた。ここでは殺人はありふれたことなのだった。その奇怪な状況に慣れ親しんでいってしまう心の恐怖……。『太陽がいっぱい』と並ぶ最高傑作、待望の文庫化。」


内容:

変身の恐怖

訳者あとがき
付記 (吉田暁子)
解説 (滝本誠)




◆感想◆


「The Tremor of Forgery」(本書の原題)は、本文では「偽造して震える」と訳されていますが、それはこの小説の主人公の小説家インガムがこの小説の中で書いている長編小説に付けようと思っているタイトルです。「偽造して震える」とは、「文書の偽造をするものの手は贋の署名をし始める時とその終りでたいがいはごくわずかに震え、それがあまりにわずかなので顕微鏡で見ないとわからないということ」です。ハイスミス原作の映画「太陽がいっぱい」にも、アラン・ドロンが署名偽造の練習をする印象的なシーンがありました。インガムは現実の人間関係よりも自分の小説の方が自分にとっては「真実ではっきりして」いると思っていますが、その小説は、銀行か何かに勤務している男が「良心の呵責」を知らない二重人格者で、まじめに働く一方で銀行の金を横領してそれを困っている人たちにばらまいて感謝され、罪が暴露してから、その人たちからお金が返済されて横領した銀行に利益を与えることになったら、その罪は許されるか、という、『罪と罰』のような話で、ちょうどこの『変身の恐怖』という小説が『異邦人』のような話なのとパラレルになっています。ところでわたしはネタバレということをするつもりなので気をつけてください。
インガムは映画の脚本を担当することになって、チュニジアに仕事で来たのですが、映画を作る男から何の連絡もないので、異国で待機しているうちに、その男が自殺したという知らせを受けます。それでも帰国せずにとどまるのですが、アラビア人に車上荒しをされたりして、ストレスを感じています。イエンセンというデンマーク人の変わり者の画家や、アダムスという「善と神と民主主義」が世界を救うと考えている典型的なアメリカ人と知り合いになります。イエンセンは愛犬がいなくなったのをアラビア人に殺されたのだと思い込んで、腹を切り裂かれたアラビア人の絵を描いてうさばらしをしたりしますが、インガムはおせっかいなアダムスよりも、いかにも芸術家的なイエンセンの方に親近感を抱きます。いずれにしろ、インガムは欧米人と交際することで、自分とは異質なアラビア人たちの世界に取り込まれてしまう恐怖から逃れようとしているのかもしれません。
インガムは道で、喉を切られて殺されたアラビア人の死体を見かけます。係わり合いになるのを恐れて通報しなかったのですが、だれもアラビア人の死には関心を持たないようです。ここではアラビア人が死んでも、というか人が死んでも(あるいは死ななくても)、たいした問題ではないのです。
ある夜、部屋に侵入しようとしたアラビア人に、インガムはタイプライターを投げつけます。アラビア人は倒れ、どこかに運ばれて行きました。インガムはアラビア人が死んだと思い、知らんふりをしますが、警察の捜査もなく、アラビア人の死はニュースにさえなりません。
インガムは、家宅侵入したアラビア人が死んだとしても当然の報いで、自分には罪悪感はないと思いこもうとしますが、インガムはイエンセンとは違って本質的に宗教的な人間です。インガムは、宗教は人間に罪があるものと決めてかかるからという理由で、家に置いてある宗教の本を見ただけで厭な気持になるような子供だったのですが、それは罪の意識があるからそういうふうに感じるのです。インガムは宗教が嫌いなくせに、イエンセンの犬がいなくなったと知ると、「神よ、イエンセンの犬を戻してください」と祈ってしまいます。なぜ祈るのかというと、犬がアラビア人に拉致され殺されてしまったのだとしたら、それはアラビア人の世界に取り込まれてしまったことになるので、イエンセンの犬の運命はインガム自身の運命になりかねないからです。
インガムがアラビア人にタイプライターを投げつけるのは、神に犬を戻してくれるよう祈ったその晩のことなのですが、(ここからがネタバレです)イエンセンの犬は実は死んでいなくて、痩せてぼろぼろになって帰ってくるのです。インガムがアラビア人にタイプライターを投げつけたのは、イエンセンの犬がアラビア人に殺されたと思い込んだからですが(家宅侵入したアラビア人は犬を拉致したアラビア人とは別のアラビア人でしょうが、欧米人にとってアラビア人はみな同じです。いずれにせよそれはアラビア人たちの世界に取り込まれないためのインガムの必死の抵抗だったわけです)、死んだと思われていたイエンセンの犬が実は死んではいなかったとすると、文学作品の読者としては、タイプライターを投げつけられて死んだと思われていたアラビア人も、実は死んではいないのではないか、と類推せざるを得ません。タイプライターで負傷したアラビア人は、インガムを恐れて行方をくらましただけなのではないか。インガムもそう考えたからこそ、イエンセンの犬が戻ったのを見て、異常なほど大喜びしたのでしょう。
そういうわけで、インガムはアラビア人を殺していないことになって、人殺しの罪悪感もなくなり、アダムス(と犬を戻してくれたアダムスの「神」)に感謝して、チュニジアを後にすることになり、めでたしめでたしです。あたかもアナーキストたちの世界に取り込まれる恐怖を描いたチェスタトンの『木曜の男』(吉田健一訳)で、主人公が結局この世は自分が思っていたほど恐ろしいところではないのだとわかって喜ぶのと同じで、だから怖がり屋の吉田健一は一種の悪魔祓いというか、サイコセラピーとして本書を訳したのだとおもいます。












































































































「ユリイカ 詩と批評」 特集: 吉田健一



「ユリイカ 詩と批評」 
特集: 吉田健一

1977年12月号 第9巻第13号

青土社 
1977年12月1日発行
246p 
22×14.2cm 並装 
定価780円
編集人: 小野好恵
表紙・扉: 飯野和好



「編集後記」より:

「吉田健一氏の特集の企画は、氏がご存命中から決っていた。心ならずも追悼特集の形になってしまった。」


本文中図版(モノクロ)多数。


吉田健一 ユリイカ 01


目次:

連載
 オウィディウス変容譚・最終回――ものが語る世界 (久保正彰)
 しなやかな時の鏡のように・ラスト・デイト――時の過ぎゆくままに (桃井かおり)
 サムシングエルス・オン・シネマ・千秋楽――流れ者とのラスト・デイト (川本三郎)
対話
 現代芸術を挑発する (池田満寿夫・飯田善国)
  作家と批評家/なぜ現代詩を読むか/論争なき批評

 夕暮れ (黒田三郎)
 眼をつぶる (中桐雅夫)
 秋霜記 (窪田般弥)
 欠けたる輪の、密の部分 (本吉洋子)
追悼
 石原吉郎追悼 (清水昶)
 石原吉郎追悼 (佐々木幹郎)
 宮川淳追悼 (渋沢孝輔)
 宮川淳追悼 (阿部良雄)
 稲垣足穂追悼 (加藤郁乎)
 稲垣足穂追悼 (松山俊太郎)

特集: 吉田健一
 本邦初訳・英語論文
  日本の文学情況 (吉田健一/訳: 中矢一義)
  日本人の眼から見る西欧 (吉田健一/訳: 中矢一義)
 エッセイ
  友人として (福原麟太郎)
  吉田健一とケンブリッヂ (ドナルド・キーン)
  吉田健一氏をめぐる時間 (氷上英廣)
 半歌仙
  奥津峡独吟 (安東次男)
 評論
  吉田健一のためのレクイエム (辻邦生)
  アルコールの霧の向うの風景 (飯島耕一)
  汎現在と時間 (高橋英夫)
  『ラフォルグ全集』の余白に (杉本秀太郎)
  吉田健一論 (富士川義之)
 共同討議
  吉田健一をどう読むか (篠田一士・川村二郎・清水徹)
   文学史のなかの位置/文学的出自/吉田健一と保田与重郎/『東京の昔』/吉田健一と英文学/世紀末と頽廃/ ラフォルグとヴァレリー/なぜ伝記なのか
 エッセイ
  文体のことなど (外山滋比古)
  宵のひととき (岡富久子)
 評論
  『フィネガンのお通夜』 (大沢正佳)
  『金沢』 (保苅瑞穂)
  吉田健一の文体 (柳父章)
  おとぎ話 (小佐井伸二)
  黄昏の静かな瞬間 (岡田隆彦)
  生きて書く喜び (宇佐美斉)
  酒・時間・旅 (前川祐一)

評論
 ドゥルーズとカフカ (宇波彰)
連載
 マゾッホの世界――貴婦人修行 (種村季弘)
 宮沢賢治――「峠」の黒い大きな岩 (天沢退二郎)
 断章 (大岡信)
われ発見せり
 おちこぼれ文化 (佐藤忠男)

ユリイカ 1977 総目次

裏表紙: My Back Page 13 ゲイリー・バートン・カルテット"さすらい人”
 都会の子どもの眼に映るもの (対馬佑子)



吉田健一 ユリイカ 03



◆本書より◆


「吉田健一をどう読むか」(篠田一士・川村二郎・清水徹)より:

篠田 (中略)こないだから皆さん方の追悼文を読んでて、高橋義孝さんの短い文章(「海」十月号)、一寸ぼくは気になりましたね。べつに高橋さんの悪口いうわけでもないんだけど、吉田健一というのは、頭はそうよくなかった、だけど非常に一所懸命たえずやってきた男である。ということが書いてあって、ぼくはなるほどなと思ったんだけど、つまり他人を頭がいいとか悪いとか、まあ酒席で、馬鹿だ馬鹿だ、あいつは馬鹿だというのは、いともやさしいけど、活字にして、あいつはあんまり頭よくなかったとかっていうことは、これなかなか勇気のいることでね。その点高橋さんには、なにがしか根拠があろうかと思うんだけど、高橋さんがあそこでそれらしきものとしてあげておられるのは、文章が吉田さん一流の、およそ現行の日本語のスタイルを無視したような文章だ、ということじゃないかな。」
「たしかにぼくも吉田さんと二十年ぐらいおつきあいさせていただいて、まあおつきあいといったって、いつだって素面じゃない。酒を飲んだときだから、ちょっとこれは特殊といやあ特殊な場合だけど、吉田さんの頭脳の働き方というのは、いわゆる日本人には通用しないというか、日本人ばなれした頭脳の働き方をしてて、こういうのをイギリス的といやあイギリス的、よくイギリス人にいるんですよ、ディテールはでたらめで、だけどものの本質だけはきちっとつかむ、そういう人は日本的な受験勉強とかそういうものを階段にする学校組織のなかでは、いつも失敗するんだな。吉田さんが中学以降日本の学校を出ておられぬということは、それと関係あるのかないのか、(中略)高橋さんなんかはその点まあドイツ式というのか、あるいは日本式というのか知らないけど、つまりディテールもきちっとなにもかも押えてて、試験答案なんかはちゃんと書けるという、そういういわゆる優等生ですね。そういう頭脳というものはいい頭脳で、それにはまらないのは、なんか頭悪いんだとか、よくなかったとかいうことは、暗黙のうちにあるんじゃないかな。まあこういうこと言うと高橋さんは優等生嫌いだろうと思うから、そんなことはないとおっしゃるだろうけどね。」
川村 いや、優等生好きだと思うよ、あの人は。御自分が優等生だしね。
篠田 高橋さんは優等生かね。
川村 そりゃそうだよ。それが日本的な意味でそうかどうか、ま、ドイツ的ってことはないと思うけどね。しかし優等生というものについての、やはり日本の常識みたいなものはあって、そこに収まる人でしょうね。吉田さんがそこから外れているということは、これは歴然としてるね。ただその外れ具合が、どうなんだろうね、いま篠田が、ディテールはでたらめだけれども押えるところはちゃんと押えてる、見るところはちゃんと見てると。後の点は全くそう思うんだけど、ディテールの点どうなのかね、案外それも確かなんじゃないの。」
篠田 いや、そうじゃない、かなりでたらめだな。それからとくにまあ酒席というか、酔っぱらいの状態で話するからね、Aのものが簡単にBのものになったりするんでね。こっちは、ああこれはBの話だけど、Aのことを言っておられるんだなというふうに理解して、話をするわけだ。
 まあ、それはつきあいの話だけども、書かれたもののうえでも、かなりそういうところがあるね。ところが吉田さんの方にはそれなりの立派な理由があって、たとえばジョン・ダンをドヌと吉田さんは書かれる。たしかに昔はドヌと読んだ時代もあった。しかし、一九二〇年代の終りか三〇年代の初めに、これはもうダンという発音をしたということが実証的にハッキリ、学者がしたんです。アンダン(undone)という音とジョン・ダンという音をライム踏ましてるのよ。そこはライム踏まなきゃどうしようもない書き方のところでね。だからジョン・ダンは、自分の名前をダンと発音していたことは間違いないんですよ。ぼくは吉田さんと初めて会ったときにそのことを話して、どうしてドヌと書かれるんですか、といったら、いや、なんの根拠もないんだ、(中略)ぼくがドヌと書くのは、ケンブリジにいたころに習ったなんとかという先生がそういったから、それをそのまま信用してるんです、という、これはまたいかにも吉田さんらしいとこなんだな。(中略)やっぱりそういうところも見る人が見りゃ不勉強で頭がよくない。ということになるんだろうか。
川村 まあ、そう思う人は思うんだよね。(中略)まあ高橋さんは、そういう固有名詞のカナ書きについては、恐ろしく神経質な人だね。だからそういう人から見ればドヌなんて書くのは、それはディテールがでたらめということになるのか知らないけれども、ただいまの話のように、ケンブリジの先生がそういったからってのは、これはやっぱりそれとして筋が通ってる。そういう意味での筋の通り方は、吉田さんの書いたものの到る所にあるんじゃないかしらね。」

清水 吉田さんの翻訳ということですけれど、吉田さんから『ドガ・ダンス・デッサン』の見直しを頼まれましてね。大変に面白い発見をしました。まず、ものすごくフランス語ができる人だっていうことを、もう一度ぼくははっきり、こういう公的な席でいわなくちゃいけないと思ってるんです。語学教師的じゃなくて、文章の言わんとするところをスパッとつかまえるあれはそうだれにでも出来ることじゃない。それからね、ヴァレリーっていう人はわりに狒々じいさん的なところがある人でしょう。つまり、しばしばかなりエロティックなことを書く人ですよね。『ドガ・ダンス・デッサン』のなかで、いやらしいところは、吉田さんは訳してない。
篠田 そうだろ。あれ、ちょっといやらしいもんだよな。
清水 二ヵ所あるんですけどね、はっきり、これは脱落じゃないと思うんです、ぼくは。
篠田 しかし、それはどうだろう、当時の検閲を慮って、ということはないかね。
清水 いや、ヴァレリーは手が籠んでますから、そのまま訳したって、どうってことはないんです。だけど、それでも吉田さんの美意識には合わないんだな。」



吉田健一 ユリイカ 04










































































吉田健一 『怪奇な話』

2013年2月20日。


ひとつ家に お化けも住めり 酒と月 


吉田健一 『怪奇な話』

中央公論社 昭和52年11月1日印刷/同10日発行
232p 四六判 角背布装上製本 貼函 定価1,200円
正字・正かな



吉田健一の没後刊行短篇小説集。雑誌「海」1976年1月号から1977年6月号にかけて発表された九篇を収める。


怪奇な話1


帯文:

「作者の最晩年を飾る傑作短篇集!
奇抜な着想、巧妙なユーモア――お化け物語本来の愉しみの中に生死を超えた静寂さと孤独を漂わせる会心の幻想譚九篇」



怪奇な話4

左は文庫版。


吉田健一 『怪奇な話』
中公文庫 A 50-6

中央公論社 昭和57年7月25日印刷/同年8月10日発行
224p 文庫判 並装 カバー 定価320円
カバー: 渡辺兼人
解説: 三浦雅士
新字・新かな



文庫版カバー裏文:

「孤島に建つ二つの僧院を島ごと入れ替えてしまう魔法使い、月に心を奪われる大工、女の幽霊を冥界から請け出す男、宝籤売りの老婆のお化け、男につきまとう幻の老人――奇抜な着想と巧妙なユーモアに飾られたお化け物語本来の愉しみ、生死を超えた静寂さと人間の孤独を漂わせる幻想譚九篇。」


怪奇な話3


目次:

山運び
お化け
酒の精

幽霊
老人
流転
化けもの屋敷
瀬戸内海



怪奇な話2


吉田健一は長篇エッセイ『時間』で、時間とはつねに現在であり、過去の出来事もそれを思い出している現在の出来事であると言っています。そして神田を歩いていていつの間にか過去のロンドンにいたりするのも現実の出来事であり、エドガー・アラン・ポーの「のこぎり山奇談」で前世の体験が現世において再現されるように現代の瀬戸内海に鎧武者が乗った船が現れて、それがジャンヌ・ダルクのような女戦士だったりすることも現実の出来事です。自分と他人を区別する必要もなくて、かつて誰かが自分と同じように生活していたのであればそれは自分であってもよかった。「何か或るものが全くそのものである時にそれは普遍に繋る」と吉田健一はどこかで書いていました。

「山運び」は魔法使いが小悪魔の召使の協力のもとに周到な準備の上で現実的には何の役にもたたない魔法を人知れずおこなう話で、それが吉田健一のいう「男が成長するためにやらなければならない仕事」というものなのだとおもわれます。禅を学ぶ前には山は山であり、禅を学んでいるうちは山が山でなくなる、しかし禅を学び終えたら山は山に戻る。吉田健一によれば成熟するとは子どもに戻ることですが、それは子どもが子どもであるよりもより純粋に子どもになることです(cf. 『本当のような話』 etc)。魔法使いと小悪魔の関係はシェイクスピアの「あらし」のプロスペロとエアリエルを思わせます。
「お化け」は千夜一夜物語の、というかスティヴンソン「新アラビア夜話」の現代版といった赴きですが、妖術使いに好意を持たれて無償のおもてなしを受けたとしたら、それにどうお返しをしたらよいのか。お化けや幽霊に対しても礼節を重んじるのが吉田健一のしつけのよさのあらわれです。
「月」は晩年の吉田健一の一つの到達点です。「近代」における自我の危機の超克を「人間」性の回復に求めた吉田健一は晩年に至って、期せずしてルドルフ・シュタイナーの人智学の思想に接近していたようにおもわれます。
「シラノが月へ行く方法を並べたてるところがありますね。これはその今一つの方法ですよ。でも、ジュール・ラフォルグの詩にあるように
 哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。
私も何遍やってもおっこちるんですよ」
そう言ってK君は笑いました。」
(梶井基次郎「Kの昇天」より)
「幽霊」は旅先で出会った女の幽霊がだんだんに生身の人間になって主人公の男と東京の家で同棲することになるのですが、「籍に入れたくなったとした所で女の戸籍はもう大分前に消えてなくなっている筈だった。」という落とし話です。これは「牡丹灯籠」あるいは「蛇性の婬」のパロディ、というよりそうした排他的な人間中心主義に対する異議申し立てであり、幽霊は恐いものであるよりも親しみを感じられるものであるべきだという考え方のあらわれです。
「老人」は千夜一夜物語に登場する恐ろしい「海の老人」を、そのような親しみを感じられる存在に浄化するための試みであるといえます。
「化けもの屋敷」もまた晩年の吉田健一の到達点であり、吉田健一にとっては現実の人間関係も、この小説に描かれているような幽霊たちとの付きあいに似たものだったのではないかという気がします。
そして晩年の吉田健一は子どもの頃の愛読書であった長田幹彦訳アンデルセンにしばしば言及していますが、「瀬戸内海」の最後に現れる鎧武者にもアンデルセンの人魚の面影があります。



◆本書より (仮名遣いは原文のまま。漢字は新字に改めました)◆


「山運び」より:

「リラダンによれば生きるといふやうなことは召使に任せて置けばいいことになる。その召使といふものをこの頃は余り見掛けなくてその観念そのものが薄れつつある時にその召使といふのがどこかにゐてもそれがさうなのかどうか直ぐには決め難いに違ひない。要するに人に使はれるのが召使、それを使ふ方が主人といふのがこの消え去つた一つの制度の最も簡単な説明でさうすると今日でも主人と召使は幾らでもゐることが解り、それも同じ人間が召使になつたり主人になつたりしてゐる訳でもあるが身分として召使といふことを殆ど聞かなくなつたことからそれを聞くと混乱するものもゐる。リラダンはただ自分の傍にゐて身の廻りの世話をしてゐた男のことを言つてゐるのである。
又リラダンがさういふことを言つたのも理解出来ないことはない。その関心は生きるといふやうなことと違つた所にあつたので少くともその台詞が出て来る芝居が目指すものは一種の東洋的な神秘の世界だつた。その為に生きてゐるのならば生きるといふやうなことは召使に任せて置けばすむ。又さういふことが目的である人間もゐないことはなくて曽ては錬金術師といふものがあつて魔法使ひもゐた。それが今日ではもうゐなくなつたと言へるものかどうか解らない。この頃聞かされる最も愚劣な言ひ方の一つに今は人工衛星の時代といふのがあつて人工衛星だからどうしたのか、それで人間が息もしなければ酒も飲まなくて男女の縺れも消え去つたのかといふ所まで書けばそれだけでも書き過ぎになる。更に又魔法そのものが目的でなくても魔法を使ふといふこともあり得る。これは考へて見れば重宝なことで普通は出来ないことが出来るならば兎に角それだけ手間が省ける。それだからこそ魔法なのであつて科学に掛けなければならない手間を思へば科学は魔法として落第である。」

「アクセルは月明りか星が出てゐる下で島を運ぶといふ考へを喜んでそれ故にそれが出来ることを信じた。或はそれは出来るといふやうな性質のことだつただらうか。それは既に誰かが何かの目的があつてすることでなくて或る時になつて或る場所で起ることだつた。又それは異変ではなくて異変である途上で平常に戻ることだつた。
従つてアクセルは既にそのことをすませたのだつたとも言へる。併しそれ故にそれはなされなければならなかつたので先にそのことがなされてからそのことがその通りになるのは時間の上での多少のずれとも見られることに過ぎなかつた。」



「月」より:

「萬七は正気の人間と同じことをして人間並の暮しを立ててゐた。併し月がそのやうに萬七に働き掛けることになつたのが異常でなかつたとは言ひ切れない気がする。ここでも何が異常かと反問することは出来る。併し兎に角ありのままに言へば萬七には既に夜しかなくなつてゐるか或はさうなりつつあつたのでその精神が黄昏に向つて行く状態にあつたと見られる。萬七自身はそれで少しも構はなかつたので一日が過ぎれば夜が来てそれは朝目を覚ますやうなものだつた。或はその爽かな感じの代りに夕闇が濃くなつて親しげに五官に訴へる夜を迎へ入れるのは萬七にとつては同じことで生き生きするといふ点からすれば萬七は間違つてはゐなかつた。」

「一つは昼間は人間の計算が具体的、或は物理的でなければならなくても夜はそれが殊に夜になつてからの萬七ならば具体的であるべき理由が崩れて行くといふことがある。それまでの時間と違つて視界も著しく狭められるからその闇に何を設定するのも自由であり、これに差す月の光もものの形をその通りのものに見る為でない。寧ろそれに陰翳を加へて具体的に、或は日の光で見るのと違つたものをそこに出現させる方に働いてそれで木の葉が女の髪に変つたり木に被せられた布が光つてゐるのを思はせたりする。これは視覚に訴へて来るものと視覚まで届かないものの差が月の光では縮められることで光そのものが想像や聯想を助ける。又それは理由もない物質の尺度に縛られてゐないことであるから快くて萬七の座敷から拡る月夜の眺めはその眺めでありながらそれだけに止つてゐなかつた。併し月の光そのものは変ることがなくてその光が漂はせる幻想も初めからその光の中にあつたものとも考へられる。それ故にその幻想、或は錯覚、或は想像は何れも月の光の性格を帯びて親しげで幽霊も月光を浴びてゐれば優しく見えるに違ひない。」

「既に萬七は頭の一部で地上を離れてゐたとも言へる。それでも暮して行けるもので仕事をしたり請求書を書いたりその金を受け取りに行つたりするのは夜でも出来ることであるから夜の積りで萬七は昼間のうちにそれを片付けた。或る時萬七は建て掛けの家の棟から昼間の空に白い月が出てゐるのを見て少しも動かされなかつたのを不思議とも思はなかつた。それは空に白い月が出てゐるといふのが明かに昼間の世界に属することでその一切に萬七は背を向けてゐるからだつた。従つて萬七が離れ掛けてゐたのは地上よりもそこでの昼間の時間なのだつたが夜は自然の形では廻りが見えないから眼が空に向けられて月を眺めてゐればその方に心が行つた。萬七は星には関心がなかつた。或はもしあつたとすればそれは夜が来たことを告げる宵の明星位なもので一体に星は小さ過ぎて何も照さず月がない晩に空一杯に星がきらめいてゐたりするとその満天の星が月を隠してゐるのに似た苛立ちを感じた。
地上を離れ掛けてゐた萬七がその形でそのことを意識してゐたかどうかは解らない。萬七は曽て地上での暮しに不満を感じたことはなかつた。さういふ不満があるといふことは多くは他人が人間はかうあるべきものとかどうあることが望ましいとか言ふのを聞いて何となく自分もその気持になることから来ていて境遇か性格か恐らくはその両方から萬七は大臣大将とか或は今ならば社長に政治家とか、或は一家の団欒とか社会に貢献するとか大学とか団体旅行とかいふことで頭を悩ましたことがなかつた。ただ大工に弟子入りして一人前の大工になつてからはそれで通して来たので人並にその日その日が無事に過ぎて行けばそれだけでよかつた。」
「月の光は人を溺れさせない。寧ろ頭は冴えて来てその冴え方とその上で眼に映るものに尽きない魅力を覚えるのでそれで夜毎に月を眺めることにもなる。併しそれが振り切れるかどうかといふことになるとやはり溺れるといふこともあることを認めなければならなくなると同時にそれを振り切る必要があるかといふ問題も出て来る。ただ月を眺めるだけで身代は潰せない筈である。」

「萬七は何に専心するのでもなくてただ月の光に惹かれてゐたのである。」
「併しこれは当然であつて或るものに魅せられるといふのはそれそのものになのである。」

「併し萬七にとつてはその光と影がどれだけの響を発しようと又絵巻を繰り拡げようとそれを生じてゐるのが月であつて又その光が月のものであることは疑ひの余地がなくて又それで充分だつた。萬七は古式通りに新月よりも朧ろ満月を愛するやうになつてゐた。そこに出てゐる隈も今は何の形を表すものでもなくてただ月の光を引き立てる為にそこにあり、その明暗が満月の月といふものになつて輝き渡つた。もうその光が差す所よりも月そのものが萬七を惹き付けてその時に何の考へも浮かばなくて考へることが月を眺めることだつた。その光は血を凍らせるやうであつてその血を温めもしてそれが萬七を包み、そこから萬七の眼は又月の方に戻つて行つた。それが見詰めてゐられる為に萬七は視力を衰へさせたのだつた。その光は萬七の眼を労り、それに明るく映つて萬七はその光を燃え立つてゐるやうにも笑つてゐるやうにも感じた。もしその時にそれを端から見たならば萬七は既にそこにゐなくなつてゐたかも知れない。」



「幽霊」より:

「その翌日の晩男は女に教へられた通りに坂道を登つてその上の木立ちに囲まれた古い寺まで行つた。そこは寺の裏口になつてゐて先づ墓地があり、その中を通つてゐると男も女と付き合つてゐるうちに鍛へられたのか方々の墓にまだ骨が残つてゐるものは半欠けの骸骨の恰好で、もう骨が朽ち果てたものは常識で直ぐにそれと解る姿をして幽霊が墓石に腰を降して月見をしたり何を眺めてゐるのかいつまでも同じ場所に立つたりしてゐるのが目に止つた。もう幽霊といふものがあるかないかどころでなかつた。併し前から男には幽霊が現れれば人に害をすると考へるのが異様、或は少くとも普通は見られないものに対する恐怖からの早合点としか思へなくてその晩それだけ多くの幽霊がそこにゐても月見をしてゐるものは月見を続けてどこかを眺めてゐるものは男の方に向き直りもしなくてこれに墓地といふものの静寂が加つて月光が冴えてゐた。この光はそこの幽霊のやうに輪廓が必ずしも明確でないものを引き立てる。」


「老人」より:

「それは自分がその周囲に拡つて行くことでもあつて澄んだ青空と自分の区別がなくなつた。その空の下には葉の緑が黄色く透けて見える木立がなければならなくてそこに自分がゐるのでなくてそれが自分だつた。それ程その日は光に満ちたものだつたのである。もし光に満ちてゐれば自分といふやうなものは消えてなくなり、それは自分がその光が差す場所に拡ることでもあつた。
これは自分といふものが消え去ることによるその充実だつた。それで男はヨーロツパの中世紀の神学に天使といふのが神の考へがちぎれて独自の存在を得たものといふ説があつたのを思ひ出した。」



「化けもの屋敷」より:

「少しでも家らしい家、間数が必要であるだけなのを越えてゐる家に住んでゐれば、殊にそこに一人でゐれば家といふものは必ずしも予期してゐないこと、又説明も付かないことが起つても驚くことはない。それで障子も開いて又締ること、少くともその音がすることがあり、その家に自分の他に誰もゐない筈なのに人の話し声が聞えて来るやうに思へることもある。木山は前から二間か三間に限られたのでない家に一人でゐて家といふのを一種の生きものに考へてゐた。そこに住んでゐるものから生命を得るやうでその証拠に余り長い間空き家になつたままでゐたのは死んでゐる感じがした。」


「瀬戸内海」より:

「気味悪いといふのは恐怖が取る形の一つで恐怖は理解力の抛棄である。」

「大内氏の山口がどういふ町だつたかは今は僅かに残つてゐる遺跡から憶測する他ない。併し神戸の町はあつて男は岬の宿屋にゐて雨が降つてゐると神戸の町の鋪道が雨に濡れて光つてゐる所が頭に浮んだ。瀬戸内海といふのが法外なことを考へて支配するとか制覇する君臨するとかいふことを望む気を起すのを妨げる海なのかも知れなかつた。」

「丁度男が立つてゐる辺まで先頭の船が来た時にその舳に一人の鎧武者が現れた。その兜は黄金の鍬形の前立てを打つた見事なもので鎧は紫縅し、これに草摺りが普通の鎧よりも多く付いてゐるやうなのがその鎧武者の姿に何か艷なものさへ添へてゐた。それが兜を脱ぐと長い髪が四方に流れて男はそれが女であることを知つた。その女は兜を小脇に抱へて舳から海に飛び込んで男は具足が重しになるのだと思つた。それでその船もこれに続くものも視界から消えたことは言ふまでもない。その後に瀬戸内海とその眺めが残り、それだけで充分だつた。」




「言葉」と「人間」が吉田健一の生涯を通してのテーマであったといえますが、それは同時に躓きの石であったともいえます。吉田健一本人にとっても、われわれ読者にとってもです。なぜなら、学校の先生が教えるような言葉が言葉なのだとしたら、吉田健一のいう言葉は言葉ではなく、現実社会が求めるような人間が人間なのだとしたら、吉田健一のいう人間は人間ではないからです。

吉田健一が認めた数少ない日本の詩人の一人である中原中也は(※)、
「「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる、その手が深く感じられてゐればよい。」「名辞以前だとて、光と影だけがあるのではない。寧ろ名辞以前にこそ全体性はあるのである。」
と書いています。
吉田健一は「何も言ふことがないこと」(『言葉といふもの』所収)で、
「或る言葉を得た時の自分の状況といふものを点検するならばそれを得たのが自分であるといふ意識は全くなくてその言葉が得られてその言葉が響くのが自分といふものに取つて代るのを感じるばかりである。又それが確実に言葉を得た証拠になる。それまでは言葉を探す自分といふものがあつた。併し既にそれを得たのならば自分に用はなくてその代りにその言葉がそこにある。」
と書いています。
※吉田健一が認めた明治以降の日本の詩人は森鴎外、三好達治、中原中也、富永太郎、中村稔、大岡信です。それはそれで見識ですが、しかし北原白秋も萩原朔太郎も宮沢賢治も西脇順三郎も安西冬衛もいない日本の詩の世界は日曜日の神田古書店街のようで退屈です。

そして吉田健一がいう「人間らしい人間」の規範を求めるとしたら、木とか犬とか馬(フウイヌム)とか、あるいは吉田健一が幼少時に愛読したワイルド「幸福な王子」の彫像の王子とかツバメとか、お化けとか、あるいは「やくざ」とか(※)、人間社会の外の存在に行き着くことになります。ついでにいうと吉田健一が物惜しみをしない人だったとか、原稿を依頼されれば断ることをしなかったとかいうのは、「幸福な王子」の読書の影響であるということもできます。
※「喩へて言へば、取り澄した人間ばかりの集りを離れてやくざの社会に入る時、始めて人間らしい人間に会つた思ひをするのと同様に、我々は大衆文学と呼ばれてゐる作品を読んで文学の上での正気に返る。所が、やくざはやくざ自身が人間の社会の外にあることを認めてゐるのに対して、その同じやくざの比喩を用ゐるならば、文学の世界ではやくざであることが、といふのは、真実の人間であることが絶対に要請されてゐるのであつて、この一線を踏み越えた時に、我々は文学の世界にゐなくなる。」(『横道に逸れた文学論』所収「大衆と文学」より)

そこでたとえば精神科医オリバー・サックスの『妻を帽子とまちがえた男』 (高見幸郎・金沢泰子訳)に描かれている自閉症者ウィリアムの「人間」も「言葉」もない世界に、吉田健一の文学の世界を重ね合わせてみるとよいです。
「ときおり彼は、病院の静かでおだやかな庭へとはいってゆく。そして静寂のなかで、自分自身の平静をとりもどすのである。(中略)植物、静かな庭、人間のいない世界では、対人関係に気をつかう必要はない。だから彼は、アイデンティティの混迷状態から脱し、興奮状態から解放され、くつろいで平静になれるのだ。静寂と、十全にして満ち足りた雰囲気、しかもまわりはすべて人間以外のものばかりとあって、はじめて彼は静穏と充足感を味わうのである。人間のアイデンティティだの人間関係だのはもはや問題ではなくなり、あるものはただ、自然との、ことばによらない深い一体感である。そしてこの一体感を通じて彼は、この世に生きていること、偽りのない真正な存在であることを感じとるのだ。」



こちらもご参照下さい:
鬼海弘雄 写真集 『東京迷路』





































吉田健一 『絵空ごと』

「少くとも我々は何もしていませんよね。又している振りもしない。」
(吉田健一 『絵空ごと』 より)


吉田健一 『絵空ごと』

河出書房新社 1971年7月15日初版発行/1976年6月10日再版発行
237p 四六判 角背布装上製本 貼函 定価1,200円
装幀: 飯島啓司
新字・新かな



吉田健一の長篇小説。
たとえばスタージョンの『人間以上』やヴァン・ヴォークトの『スラン』のようなSFミュータントものだと、なにかものすごい能力を持ったアウトサイダーたちが集結してなにか巨大な敵と戦ったりするわけですが、本書では、なにもしていない隠者のような人たちが寄り集まって、結局のところ、なにもしません。だが、それでよいのです。


絵空ごと1


初出は、第一章が「画廊」として「文藝」昭和46年1月号に、第二章以降は「絵空ごと」の表題で「文藝」昭和46年3月号に発表されました。
本書はのち昭和52年9月に「河出文藝選書」の一冊として並装(ソフトカバー)で再刊されています。
昭和55年3月に刊行された集英社版『吉田健一著作集』では、長篇評論『文學が文學でなくなる時』とともに第十八巻に収録されていますが、そこでは表記が著者慣用の正字・正かなに改められていて、表題も「繪空ごと」になっています。


絵空ごと3


本書中扉の表題の横にエピグラフとして、
「Ecrasez l'infame. - Voltaire.」
とありますが、これについては、前記著作集の「解題」(清水徹)によると、「扉にエピグラフとして掲げられたヴォルテールの言葉「恥知らずを粉砕せよ」は、迷信と狂信とに戦いを挑むヴォルテールが、友人宛の手紙のなかでいわばスローガンのように繰り返して用いていたもの」だとあります。
恥知らずとは、ヴォルテールではカトリック教会ですが、本書では、お金儲けや土地開発に余念のない高度経済成長期の「はたらくおじさん」たちのことです。


石川淳「文芸時評」(「河出文藝選書」版付録「絵空ごと 書評・時評・作品論集」掲載)より:

「ここに至つて、わたしはどうも新版の桃花源記を読まされたのではないかとおもつた。いにしへの桃源は人間が無為孤独にして自然の中に見つけるものであつたが、今日では自然が手狭になつたため、人間みづから人智をつくし人工をかさねてこれを都会のまんなかに作り出さなくてはならぬのかも知れない。」


菅野昭正「虚実の変幻」(同上)より:

「この小説の主人公格の落合勘八、「今日の東京にも東京が残り、それを拠りどころに確かな生き方をしている人間」である落合勘八は、せわしない非生活を生活だと思いこんでいる人間の近視眼から見れば、絵空ごととしか思えないような本物の生活にたいする、吉田氏のあかるい憧憬からうまれた人物である。彼はできあいの観念にあわせてものを見たり、多数者の今日的な常識でものを判断したりするのではなく、あくまでも自分の眼で見る人間、自分の頭で判断する人間であって、そのことによって心に豊かさやゆとりをたえず蓄えつづけている。(中略)この本物の人間である勘八のまわりに、同じような「確かな生きかた」をしている幾人かの人物が配置され、「日が暮れ掛っている時に夕暮を感じ、初夏の日光に夏の匂いを嗅ぎ取る」これらの人物たちの、せせこましさをきれいさっぱり洗いおとしたような交友の経緯にしたがって、小説はすすめられてゆく。そして、ヨーロッパの絵画の模写を蒐集した元さんの家での一夜、ホテルでの招宴、さらに元さんの蒐集を飾るための家の建築など、どの場面も夢のように淡々しい外観しか示していないにもかかわらず、この絵空ごとを生きている人物たちの輪郭のほうは、それと反比例的にくっきりとうかびあがってくるのだ。」


絵空ごと2


本書より:

「この頃の東京は東京でないと言ってしまえば簡単である。併しそれで東京に住んでいるものはどうすればいいのか。尤もその場合も色々と分けなければならないに違いなくて、そこに住むものの多くが今日では自分がどこにいようと全く無頓着な人種である時に東京がどんなであっても少しも構わない訳であるが、それが東京にとって別に喜ぶべきことなのではない。どこの町でもそこが他所でも構わない人種というのは有難くないものでそういう人間の数が殖えるに従って町が町らしくなくなる。これは全く妙なものである。又そんな風に町が町でないのがやり切れないものも別にいて、そこが曾てはその町だったことを知っているものにとってはなお更である。」

「小峰さんはそこの天井を見上げた。「(中略)昔の金持は何もしなくてそれが公認されてたでしょう。今だって本当の金持はそうだろうけれど、それ程でなければ何かしている振りをしていなければならない。実際には大部分のものが何もしちゃいないんですよ。ただ金が昔と違ってどこにあるか解らないから、或は寧ろ社会全体のものになっているからその分け前に与る為に何かしている振りをしてそれに然るべき名前を付けて貰ってるんですよ、例えば会社員とかね。貴方は海軍の甲板掃除ってものを知ってますか。」
勘八は小峰さんが聞いたことの意味が解らなくて黙っていた。
「船に乗っている時はあんなものじゃないでしょう。併し陸地の兵舎の中でも甲板掃除って言いましてね、殊に末期になって乗る船ももうなかった頃には兵舎での甲板掃除も全くの形式でただ何となく飛び廻っていればよかったんです。それを本当にはたきで埃を払ったりしていれば却って懶けているように見えて上のものが喜ばない。だから床をがたがた言わせて走り廻るんです。それが何かしているっていうことで今もそのことに変りはないんですよ。」
「だから出来ればその振りもしないでいることでしょう。少くともそうすれば嘘がない。」
「その通りですよ。ただ振りをしなければ食って行けないっていうこともある、分け前に与る資格がないと思われるから。それから実際に仕事をするのに恐しく多くの無駄なことを余分に押し付けられるっていうこともある。併し兎に角自分じゃ自分が本当はどうなのか知っていなくちゃね。それなのに自分まで解らなくなるから又無駄が殖えるんだ。」
「少くとも我々は何もしていませんよね。」勘八は漸く用件を思い出した。「又している振りもしない。それでそういうのを貴方や元さんにもう一人紹介したいんです。(後略)」



ところで、「絵空ごと」というコトバの出所(でどころ)はどこか。いや、出所などどうでもよいですが、石川淳「南画大体」(『夷斎遊戯』所収)というたいへんよい文章があるので、よむとよいです。池大雅の絵について書いています。

「さしあたり、美学なんぞに用は無い。ただ見る、金地六曲一双の空間に、線のはしるところ、色のにほふところ、山あり、木はかがやき、水あり、波は鳴る。山には楼閣うごかず、水には唐船、さざなみをうつてゆらぎ出る。その船にも、また陸にも、人間がひよこひよこ顔を出して、この顔がただものでない。(中略)詩酒管絃すべて出そろつて、遨遊は四季のわかちなく、夜をもつて日に継ぎ、その夜もあけて、今ここに照つてゐる光は朝か昼かと見まがふときは、すなはちわれわれもまたいつのまにかこの場に招待されてゐることに気がついたときである。」
「高山流水、またこれ人間の往来するところ。げんに、この楼閣山水には、そこにぶらぶらする人間のすがたがゑがかれてゐて、ひとは招待されてそのむれに入る。効果を論ずれば、けだし幸福への招待である。生活はまさにかくあるべし。ひとは大雅の胸中山水に適応するやうな生活様式に目をひらかなくてはならない。そして、大雅の世界観から幸福感といふみやげをもらふことになる。」
「南画には南画の約束がある。線と色とだけに附合ふつもりでかかつても、もしそれが画としてすぐれたものならば、ついそこに余計ものの道具だてが陰に陽にならんでゐて、さういふ道具だてをちらほらさせるやうな世界観にぶつかつてしまふ羽目になるのは、鑑賞上必然のいきほひのやうである。(中略)およそ画中の山水には、生活上の可能が賭けてある。この賭はまた精神上の強制でもある。鑑賞はそこから目をそらすことができない。生活はかくあるべしと見るのは、けだし達観か。(中略)さて、可能とか達観とか幸福感とか、ずらりと無用のことばをならべ立てて、そこからなにが出るか。じつに、虚妄といふほかに、なにも無い。絵空事とは、このことである。ただこの虚妄は実在の世界につよく対決をせまる力をそなへてゐる。

「万巻の書を読み千里の道を行く」(石川淳「南画大体」)特殊能力を備えた虚妄のミュータント神仙たちは、南画の世界の平和を守るため、まさになにもしないことによって、実在の世界の「恥知らず」たちと対決していたわけです。

この小説で吉田健一は石川淳のエッセイを「本歌取り」しているとおもえばよいです。















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本