ジル・ドゥルーズ 『批評と臨床』 守中・谷・鈴木 訳

「「父親なき社会」の危険がしばしば指摘されてきたが、父親の回帰以外に危険など存在しない。」
(ジル・ドゥルーズ 「バートルビー、または決まり文句」 より)


ジル・ドゥルーズ 
『批評と臨床』
 
守中高明・谷昌親・鈴木雅大 訳

河出書房新社
2002年10月20日 初版印刷
2002年10月30日 初版発行
310p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,500円(税別)
装幀: 戸田ツトム



訳者あとがき(守中高明)より:

「本書は、Gilles Deleuze, Critique et Clinique, Les Éditions de Minuit, 1993. の全訳である。」
「第6章を鈴木雅大氏が、第10章、11章、13章、14章を谷昌親氏が担当し、その他のすべての章を守中が担当した。」



本書はまだよんでいなかったので文庫版でよもうとおもったのですが単行本がアマゾンマケプレで最安値(500円+送料257円)だったので注文しておいたのが届いたのでよんでみました(最安値だけど届いた本はほぼ新品でした)。


ドゥルーズ 批評と臨床


帯文:

「ドゥルーズの遺作
文学とは錯乱であり、
一つの健康の企てである――」



帯背:

「〈文学と生〉を問う
最後の思考」



帯裏:

「カフカ、ベケット、アルトー、ロレンス、ジャリ、ホイットマン、
メルヴィル、マゾッホ、キャロル、カント、スピノザ、ニーチェ……
〈文学と生〉を問う、奇跡の思考」



カバー文:

「この論集は、いくつかの問題をめぐって組み立てられている。それは、書くこと(引用者注: 「書くこと」に傍点)の問題である。
作家は、プルーストの言うように、言語の内部に新しい言語を、いわば一つの外国語=異語を発明する。
彼は、文法上あるいは統辞法上の新たな諸力を生み出すのである。彼は言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出す。
つまり、言語を錯乱(引用者注: 「錯乱」に傍点)させるのだ。」



目次:

序言
第1章 文学と生
第2章 ルイス・ウルフソン、あるいは手法
第3章 ルイス・キャロル
第4章 最も偉大なるアイルランド映画――ベケットの『フィルム』
第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について
第6章 ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ
第7章 マゾッホを再び紹介する
第8章 ホイットマン
第9章 子供たちが語っていること
第10章 バートルビー、または決まり文句
第11章 ハイデガーの知られざる先駆者、アルフレッド・ジャリ
第12章 ニーチェによるアリアドネの神秘
第13章 ……と彼は吃った
第14章 恥辱と栄光――T・E・ロレンス
第15章 裁きと訣別するために
第16章 プラトン、ギリシア人たち
第17章 スピノザと三つの『エチカ』

[訳者あとがき] ドゥルーズと文学の問い (守中高明)




◆本書より◆


第1章より:

「文学とは、ゴンブロヴィッチが言いかつ実践したように、むしろ不定形なるものの側、あるいは未完成の側にある。書くことは、つねに未完成でつねにみずからを生み出しつつある生成変化にかかわる事柄であり、それはあらゆる生き得るあるいは生きられた素材から溢れ出す。それは一つのプロセス、つまり、生き得るものと生きられたものを横断する〈生〉の移行なのである。エクリチュールは生成変化と分かち得ない。書くことによって、人は女に-なり、動物あるいは植物に-なり、分子に-なり、知覚し得ぬものに-なるに至る。」

「世界とはさまざまな症候の総体であり、その症候をもたらす病いが人間と混合される。文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。それはなにも、作家が必ず大いなる健康の持ち主であるということではない(中略)。そうではなく、作家はある抗し難い小さな健康を享受している。その小さな健康とは、彼にとってあまりに大きくあまりに強烈な息苦しい事物から彼が見て取り聴き取ったことに由来しており、その移行こそが彼を疲弊し切らせているのだが、しかしながら、太った支配的健康なら不可能にしてしまうようなさまざまな生成変化を彼に与えてくれてもいるのである。(中略)いったいどんな健康があれば生を解放するに充分なのだろうか――人間によってかつ人間の内部に、つまり、器官組織と類によってかつそれらの内部に生が監禁されているあらゆる場所でそうするには?」
「文学としての健康、エクリチュールとしての健康は、欠如している一つの民衆=人民(引用者注: 「民衆=人民」にルビ「ピープル」)を創り出すことに存する。(中略)それは世界を支配するべく運命づけられた民衆=人民(ピープル)などではない。それはマイナーな民衆=人民(ピープル)、永遠にマイナーな、革命的に-なることの中にとらえられた民衆=人民(ピープル)である。おそらく、それは作家の諸原子の中にしか存在しない――私生児的=雑種的で、下位の、支配された、つねに生成状態にある、つねに未完成の、そんな民衆=人民(ピープル)は。(中略)私は永久に一匹の獣であり、下等人種のニグロである。それこそが作家の生成変化(引用者注: 「生成変化」に傍点)なのだ。中心的ヨーロッパに対するカフカ、アメリカに対するメルヴィルは、マイナーなる一民衆=人民(ピープル)の、あるいはあらゆるマイナーな民衆=人民(ピープル)の集団的言表行為としての文学を提出しており、それらの民衆=人民(ピープル)は作家によってかつ作家においてしかみずからの表現を見出さない。(中略)文学とは錯乱である。そしてこの資格において、それはみずからの運命を錯乱の二つの極のあいだに賭ける。錯乱は一つの病いであり、純粋で優勢だと称する人種を錯乱が打ち建てるたびに、すぐれて病いであるものとなる。しかし、あの抑圧された私生児的=雑種的人種、さまざまな支配の下にあって絶えず動き回り、押し潰し監禁しにかかるあらゆるものに抵抗し、プロセスとしての文学の中にみずからの姿を白抜きに描き出すあの私生児的=雑種的人種の力に訴えるとき、錯乱は健康の尺度となるのだ。(中略)文学の最終的な目的――錯乱の中からこうした健康の創造を、あるいはこうした民衆=人民(ピープル)の創出を、つまりは生の可能性を、解き放つこと。欠如しているあの民衆=人民(ピープル)のために書くこと……。
 文学が言語において行なうことが、いっそうはっきりしてくる。すなわち、プルーストの言うように、文学はそこにまさしく一種の外国語を刻みつけるのだが、この外国語というのは、もう一つの国語でも再び見出された俚言でもない。そうではなく、それは言語が他者に-なること、あのメジャーな言語がマイナー化すること、メジャーな言語を奪い取る錯乱、支配的なシステムから逃れてゆく魔術師の線なのだ。(中略)「言語を守る唯一の方法、それは言語を攻撃することです……。作家の一人ひとりが自分のために自分の言語を作らねばならないのです……」。」



第4章より:

「そして、光り輝く空虚の中に、非人称的な、だがそれでいて特異な一個の原子、他者と区別されたり混同されたりするための〈自己〉などというものをもはや持たない、そんな一個の原子を解き放つ。知覚し得ぬものになることこそが〈生〉なのだ――「絶えず、無条件で」、宇宙的で霊的なるざわめきに到達することこそが。」


第6章より:

「輝ける都のプログラムが掲げられるそのたびに、それが、この世界を破壊し、《居住不可能》にし、無差別的な「敵」狩りに端をひらくやりくちにほかならないのだということを、私たちは身に沁みて知っている。ヒトラーと〈反キリスト〉とのあいだにはさほどの類似点があろうとも思えないが、今日もはやたんなるSFの域をこえ、現実に世界専制国家実現に向かって進む軍事・産業計画の青写真のなかでこの私たちに約束されている未来像と、〈〔来るべき聖都〕新エルサレム〉とのあいだには、幾多の類似点がある。『黙示録』、それは〔ナチスの〕強制収容所(〈反キリスト〉)ではない。新しき国家の、軍・警察・市民が一体となった一大保安体制(〈聖エルサレム〉)なのである。『黙示録』の現代性は、そこに予告された世界滅亡の破局(カタストロフ)にあるのではない。それはプログラムされたその自己栄化に、その栄光の〈新エルサレム〉の建設に、その気違いじみた司法的・道徳的な究極の権力の設立にこそみとめられるのだ。(中略)いささかでも正気をもって『黙示録』を読む者なら誰でも、自分はもうすでにあの硫黄の湖にいると感じていよう。」

「〔ひたすら与えようとする〕キリストの熱情と〔ひたすら得ようとする〕キリスト教徒の貪欲のうちには、愛の宗教と権力の宗教のうちには、同じ宿命がひそんでいる。(中略)まさにその全著作をかけてロレンスが果たそうとしたのは、与えずにただ取ろうとする人々であれ、取らずに与えようとする人々であれ、そうした人々(中略)すべてのもとに、その徴候のあらわれるいたるところに、あの悪しき小さな閃きを診断し、追いつめることにほかならなかった。キリスト、聖パウロ、パトモスのヨハネとつながって、ここに鎖の環は再び閉じる。(中略)裁きの体制(システム)をつくりあげるためには、それらすべてが必要だったのではなかったか。個人〔個の心〕も自殺し、集団〔衆の心〕も自殺するのである。ともどもに自己栄化の歌を奏でながら。」
「だとすれば個の心を、そして衆の心をも救わなければならぬ。だがどうやって? (中略)愛することをやめること。(中略)もはや与えることも受け取ることもなしえなくなる地点、もはや何一つ「供する」もののない地点に到達すること。これはアーロンや〈死んだ男〉の達した境地だ。彼らにとって問題はすでに別のところに移っているからである。流れがそのあいだを流れ、互いに離接し連結し合いながら流れてゆけるような河岸をいかにして築くかという問題に(14)。もはや愛さず、身を与えず、受け取りもしないこと。そうやっておのれ自身の個の部分〔個の心〕を救うことだ。(中略)愛とはむしろ、この個の心を〈自我(引用者注: 「自我」に傍点)〉に仕立てあげるものである。(中略)魂の譲渡不可能な部分は、人が自我であることをやめたとき、初めてそこに姿を現す。」
「(14)孤独になることが、また与えることの拒絶にまでいたることが必要であるというこのテーマは、ロレンスの作品に絶えず現れている。」



第9章より:

「自閉症児たちの辿る道ほど多くを教えてくれるものはない――ドゥリニーがその地図を明らかにし、そして、そのいつもの線、その歩き方の線、その蛇行、後悔と後戻り、つまりはそのあらゆる特異性と地図とを重ね合わせて見せてくれている、あれらの道ほどに多くを教えてくれるものはないのである。」

「想像界と現実界とは、同じ一つの軌跡の並置可能ないし重ね合わせ可能な二つの部分、絶えず交換される二つの面、つまりは可動的な鏡なのである。それゆえ、オーストラリアのアボリジニはノマド的な旅程と夢の中の旅とを結び合わせ、両者が一緒になって「一枚の地図として読むべきある広大な空間と時間の切り出しの中で」「行程の交叉網」を組み立てるのである。究極的には、想像界とは現実の対象に結びつく潜在的な[virtuel]像のことであり――その逆もまた言える――、そうしてそれは無意識の結晶を構成する。」
「無意識が関わっているのはもはや人物や対象ではなく、道のりと生成変化の数々である。それはもはや記念=共同記憶化による無意識ではなく、動員=動態化による無意識であり、その諸対象は、もはや大地の中に埋もれたままではいないだけ、いっそう高く舞い上がる(引用者注: 「高く舞い上がる」に傍点)ということである。」

「さまざまな情動のリスト、あるいは強度の星座や地図とは、生成変化のことである。幼いハンスは馬によって父親の無意識的表象をかたちづくっているわけではない。そうではなく、彼は馬に-なることの中に引きずり込まれているのであり、この馬に-なることに両親は敵対しているのだ。」
「生成変化とは想像的なものではなく、それは、旅が現実的なものではないのと同様である。ほんのわずかの道のりを、あるいはその場における不動性をすら旅に変えてしまうのが生成変化なのであり、想像界を生成変化に変えるのが道のりなのである。」

「不定なるものとは、生成変化の限定、その固有の潜勢力、つまりは、一般性ではなくて最高度の特異性であるような非人称的なるものの潜勢力である。たとえば、人は馬というもの(引用者注: 「というもの」に傍点)のふりをするのではないし、そのような(引用者注: 「そのような」に傍点)馬の真似をするのでもない。そうではなく、一頭の(引用者注: 「一頭の」に傍点)馬になるのだ――もはやそこではみずからがなるところのものとみずからとを区別することができないような近接性のゾーンに到達しつつ。
 芸術もまた、もはや何一つ人称的なところも理性的なところも保持していないこのような天上的状態に到達する。それなりの流儀で、芸術は子供たちが語っていることを語るのだ。それは、さまざまな道のりと生成変化からなっており、それゆえ、延長的かつ強度的な地図の数々を作り出す。」
「それはまるで、潜在的な道の数々が現実の道に連結し、現実の道がそこから新たな道筋、新たな軌跡を受けとっているかのようだ。芸術によって線を描かれた、さまざまな潜在性からなる一枚の地図が、現実の地図にみずからを重ね合わせ、その行程の数々を変容させるのである。」



第10章より:

「バートルビーは作家の隠喩でもなく、いかなるものの象徴でもない。それは暴力的なまでに滑稽なテクストであり、滑稽なものはつねに字義どおりだ。クライストや、ドストエフスキーや、カフカや、ベケットの短篇と同様で、バートルビーはそれらとともにみごとな地下水脈を形成している。バートルビーは、ただ実際に声に出して言うことを、そのまま字義どおりに言いたいだけなのだ。そして、彼が口に出して言い、さらに繰り返してみせるのは、「できればせずにすませたいのですが[I would prefer not to]」という言葉だ。これは彼の栄誉を示す決まり文句であり、彼に愛着を示す読者のひとりひとりが、今度はそれを自分で繰り返してみせる。(中略)痩せて青白い顔色の男がこの決まり文句を口にし、そのせいで誰もが取り乱してしまう。だが、この決まり文句の字義どおりさは、どういった性質のものなのだろうか?」

「バートルビーは独身者、カフカが次のように語っているあの〈独身者〉である。「彼にとって地面は両足に必要な部分だけだし、支点は両手で覆える範囲で事足りている」――そしてまた、冬に雪のなかに寝て子供のように凍え死にする人間であり、散歩しかすることはないが、どんなところにいても、動かずに散歩ができてしまう人間でもある。バートルビーは身元保証なき、所有物なき、属性なき、身分なき、特性なき男である。(中略)過去も未来もなく、彼は瞬間を生きる。」

「そこで、われわれはメルヴィルの作品に出てくる偉大な人物を分類できることになる。一方の極には偏執狂ないし悪魔、つまりエイハブ、クラガート、バボ〔『ベニト・セレノ』において反乱を企てる黒人奴隷〕などがいて、虚無を求める意志に引きずられて、途方もない選り好みをおこなう……。だが、もう一方の極には、天使ないし聖なる憂鬱症者がいて、痴呆さながらの彼らは、無垢さと純粋さを持った被造物で、身体は弱いものの、奇妙な美しさを授けられていて、生まれつき石化したかのようだが、選り好みをするかというと……。実は意志がまったくなく、虚無を求める意志というよりも、意志の虚無なのである(憂鬱症的「否定主義」)。彼らは、石と化し、意志を否定し、この宙吊り状態において聖化されることによってしか、生き延びられない。それがセレノであり、ビリー・バッドであり、とりわけバートルビーなのだ。この二つのタイプはあらゆる点において正反対で、一方は裏切る者で他方は本質的に裏切られる者、一方は子供を貪り食う恐るべき父親で他方は父親から見捨てられた息子であるにもかかわらず、両者とも同じ世界に取りついており、互いに交替するのであり、メルヴィルや、さらにクライストの書く文章においてまさにそうであるように、停滞的で硬直した過程と、常軌を逸した速度の手法とが交互に出てくる。(中略)つまり、「プラス」の記号か、「マイナス」の記号の影響だけを受けているという点で、おそらくは同じ被造物なのだ。」
「メルヴィルの世界には、さらに第三のタイプの人物がいるが、この人物は法の側にいて、副次的な本性に属する神的ないし人間的法の番人なのである。(中略)彼らは、無垢な人を断罪しておきながら、いとおしみつづける。(中略)みずからの語りを締めくくる代訴人の言葉は、「ああ、バートルビー! ああ、人間!」というもので、それは(中略)二者択一を示していて、代訴人はバートルビーに背き、あまりにも人間的な法の側を選ばねばならなかったのである。」

「アメリカ小説の根源的な行為は、それはロシア小説の場合と同じで、小説を理性の道から遠く運び去ることであり、そして、虚無のなかに立ち、虚空のなかでしか生き延びられず、自分たちの謎を最後まで保ち、論理や心理に刃向かうああした人物たちを出現させることである。(中略)決まり文句を有していても、もちろん説明的であるはずがなく、「できればせずにすませたいのですが」は謎めいた文句でありつづけ、それは地下室の住人の決まり文句に勝るとも劣らずで、地下生活者は二足す二が四になるのを妨げようとはしないが、それを〈甘受〉はしない(彼は二足す二を四にせずにすませたい(引用者注: 「彼は~」に傍点)、と考える)。メルヴィル、ドストエフスキー、カフカ、ムージルといった偉大な小説家にとって大切なのは、物事が謎をはらんだままで、しかも恣意的でないことである。」

「真の〈独創人[奇人]〉を、たんに目立ったり、奇抜だったり、特徴的だったりする人物と混同するなど言語道断だとメルヴィルは述べる。(中略)独創人は、ひとりひとりが孤独で力強い〈図形(フィギュール)[人物]〉であり、説明可能ないかなる形態からも洩れ落ちてしまう。独創人は燃えるような表現特徴線(トレ・デクスプレッシヨン)を投げつけ、それはイメージなき思想、答えなき質問、極端で合理性を欠いた論理の執拗さを刻み込む。生と知の図形(フィギュール)である彼らは、言葉にできない何かを知っていて、計りしれない何かを生きている。バートルビーには特別なところも、一般的なところもまったくない。〈独創人〉なのだ。彼らは知識を脱し、心理を脱するのだ。彼らが口にする単語さえもが、言語(ラング)の一般法則(「前提」)から、そして言葉(パロル)のたんなる特性からもはみ出るが、それというのも、単語は比類なく、根源的な独創的言語の眩暈ないし投射のごときものであり、言語活動の全体を沈黙や音楽との境界にまで至らせるからだ。彼らには一般的なところなど何もなく、特別でもない。
 独創人たちは根源的〈本性〉の存在だが、彼らは世界や副次的本性から切り離されるわけではなく、そこにおいて自分たちの効果を発揮する。つまり、世界や副次的本性の空虚をあらわにし、法の不完全さ、個別の人間の平凡さ、仮装行列(それはムージルが「平行運動」と呼ぶものだ)にすぎない世界を白日のもとにさらす。(中略)メルヴィルによれば、独創人は環境の影響を受けず、逆に、周囲にむけて、「創世記において物事のはじまりを照らしていた」明かりを思わせる青白い光を投げかけるのである。」

「メルヴィルは、キリスト教的な「慈悲」や父性的「博愛」に対する友愛の根本的対立を激化させつづけるだろう。人間を父親的機能から解放し、新しい人間ないし特性なき人間を生まれさせ、独創人と人間を結びつけて、新たなる普遍としての兄弟社会を構成するのだ。」
「メルヴィルの描く独身者バートルビーは、カフカの作品の独身者と同様、「自分が散歩する場所」、つまりアメリカを見出さねばならない。(中略)アメリカとは特性なき人間、独創的〈人間〉の可能性である。」
「アメリカの超越主義(エマーソン、ソロー)の時代に生きたメルヴィルは、早くもプラグマティズムの特徴線(トレ)を描き、それをさらに延長する。まず最初におこなわれるのは、過程にある(引用者注: 「過程にある」に傍点)世界、群島としてある(引用者注: 「群島としてある」に傍点)世界の肯定だ。ピースどうしを合わせて全体ができあがるようなパズルでさえなく、むしろ、セメントで固められていない石の壁のようなものであり、その個々の要素はそれ自体で価値を持つが、それでいて他の要素との関係でも価値を持つ。孤立集団で、かつ流動的関係、島で、かつ島どうしのあいだ、動点で、かつ蛇行線となるが、それというのも、〈真実〉にはつねに「虫食いだらけの縁」があるからだ。」
「新しい共同体が必要であり、その構成員は「信頼」、つまり自分自身にたいする、世界にたいする、生成変化にたいするあの信用をいだけるようになる。独身者バートルビーは旅を試み、姉を見つけ出して、彼女とともにジンジャー入りビスケットという新たなる聖体パンを食べるだろう。(中略)そして、旅を妨げられるなら、彼の居場所はもはや監獄しかなく、彼はそこ、ソローに言わせるなら、「自由な人間が名誉を守って生きられる唯一の場所」で、「民事上の不服従」のために死ぬのである。(中略)アメリカの新たなる若き娘「デイジー・ミラー」はごくわずかの信頼しか求めず、自分の求めていたこのわずかのものが得られないばかりに、死に身をまかせる。そしてバートルビーも、代訴人にたいして、わずかの信頼以外に何を求めたというのだろう、それなのに代訴人は、慈悲で、博愛で、父親的機能のあらゆる仮面で応えてしまったのだ。」
「「父親なき社会」の危険がしばしば指摘されてきたが、父親の回帰以外に危険など存在しない。」
「緊張病と食欲不振症の徴候を示してはいても、バートルビーは病人ではなく、病めるアメリカの医者、呪医(メディシン・マン)であり、新たなるキリスト、あるいはわれわれすべてにとっての兄弟なのである。」



























































































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G・ドゥルーズ 『スピノザ ― 実践の哲学』 鈴木雅大 訳 (平凡社ライブラリー)

「スピノジストとは(中略)、ヘルダーリンであり、クライスト、ニーチェである。彼らは速さと遅さ、緊張症的凝固と高速度の運動、形をなさない要素群、主体化されない情動群をもって思考しているからだ。」
(G・ドゥルーズ 『スピノザ』 より)


G・ドゥルーズ 
『スピノザ
― 実践の哲学』 
鈴木雅大 訳
 
平凡社ライブラリー と-6-1

平凡社
2002年8月10日 初版第1刷
2010年5月20日 初版第5刷
317p
16×11cm 並装 カバー
定価1,300円(税別)
装幀: 中垣信夫
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル
カバー図版: C.D. フリードリヒ《孤樹》(部分)


「本書は、一九九四年三月、小社より初版刊行の同名の著作を改訂・増補したものです。」



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Gilles DELEUZE, Spinoza: philosophie pratique (Éditions de Minuit, 1981) の全訳である。」


本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値(626円+送料350円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


ドゥルーズ スピノザ


カバー裏文:

「大切なのは、単なる理論でも実践でもない。
概念の発明と情動の開放とを結びつけること。
生の総体を自由な出会いと相互触発へと
促してやまないスピノザからの力強い風を
ドゥルーズが増幅して私たちに届けてくれた。
付論、年譜・書誌を併収する増補改訂版。」



目次:


第一章 スピノザの生涯
第二章 道徳(モラル)と生態の倫理(エチカ)のちがいについて
第三章 悪についての手紙(ブレイエンベルフとの往復書簡)
第四章 『エチカ』主要概念集
第五章 スピノザの思想的発展(『知性改善論』の未完成について)
第六章 スピノザと私たち

書誌
原注
訳者あとがき
平凡社ライブラリー版 訳者あとがき
付論
ジル・ドゥルーズ年譜・書誌




◆本書より◆


第一章より:

「スピノザのいう〈自然〉とは、必要〔需要〕から出発してそのための手段や目的に応じて生きられる生ではなく、生産力から、持てる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きられる生のことである。」

「ここに哲学者の孤独もその完全な意味を得る。というのも彼は、どんな環境にも取り込まれることができないし、歓迎されることもないからだ。(中略)思惟の力能は、一国家や一社会の目的を超え、あらゆる環境の枠を超えてもう少し先まで届いている。スピノザが明らかにしてみせるように、どんな社会でもそのかなめとされているのは服従であり、それ以外のなにものでもない。あやまちや功罪、善悪といった観念がもっぱら社会的なものであり、服従や不服従にかかわっているのもそのためだ。(中略)だがどんな場合にも、彼は自身の目的と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。彼は思惟のうちに、あやまちはもちろん服従そのものからものがれてしまうような力をもとめ、善悪のかなたにある、賞罰・功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていたからである。その暮らす国家、出入りする環境はさまざまに異なっても、哲学者は、いわば隠者として、影として、漂白者として、家具付き下宿の間借り人として、そこに生きているにすぎない。(中略)どこに行こうと、彼はただおのれ自身とその尋常ならざる目的とが寛大に許容されることをもとめ、公算はともあれ、ただひたすらそれを要求したにすぎないからである。」

「哲学者が裁判でその生涯を終えることはけっしてまれではないが、破門と暗殺未遂をもって開始するというのはそうそうあることではない。」

「『神学・政治論』の中心に据えられた問題のひとつは、なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「もとめて」闘うのだろう、なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう、なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう――ということだった。(中略)これほど激しい反駁や排斥を買い、罵られ、呪われた書物はあまりない。(中略)「スピノザ主義」とか「スピノザ的な」といった表現が、ひとを侮辱することば、威すことばになったのもこのときからである。」

「スピノザは、既成の価値観念を転倒し、ハンマーをもって哲学するあの「在野の思想家」の系譜に属し、「講壇哲学者」(ライプニッツの讃辞にしたがえば、体制的な感情や公序良俗をそこなわないひとびと)に属してはいなかったのだ。」
「どのようなかたちで生きようと、また思惟しようと、つねにスピノザは積極的・肯定的な生のイメージをかかげ、ひとびとがただ甘んじて生きている見せかけだけの生に反対しつづけた。彼らはたんにそれに甘んじているというにとどまらない。生を憎悪する人間、生を恥じている人間、死の礼讃をはびこらせる自己破壊的な人間がそこにはいて、圧制者・奴隷・聖職者・裁判官・軍人の神聖同盟をかたちづくり、たえずこの生を追いつめては、それをさいなみ、じわじわとなぶり殺しにかかり、法や掟、所有権、義務、威権をもってそれを塗り込めよい、窒息させようとしている。まさしく世界におけるそうした徴候をこそ、そうした全自然や人間そのものに対する裏切りをこそ、スピノザは診断したのだった。」
「のちにヘーゲルはスピノザが否定的なものを知らず、その力を知らなかったと非難しているが、それこそはスピノザの栄誉、無垢のあかしであり、まさしく彼が発見したものだったのだ。彼は、否定的なものに蝕まれたこの世界のなかで、そうした死やひとびとの殺戮衝動を、善悪・正邪の規範それ自体を疑問とするに足るだけの十分な信頼を生そのものに対して、生のもつ力に対していだいていた。(中略)それがどのようなものであろうと、生を辱め、破壊するすべての行為やふるまいには、すべての否定的なものには、その流れがひとつは外に向かい、ひとつは内に向う、二つの源があると彼は考える。怨恨とやましさ、憎しみと罪責感である。「人類の根源的な二つの敵、憎しみと後悔」。この二つの源泉は人間的意識のあり方に深く根ざしており、新たな意識なしには、世界の新たなとらえ方、生への新たな欲望のあり方なしには、それを根絶しえないことを、徹底して彼はあばき、示しつづけた。」

「スピノザは、希望も、勇気さえも信じていなかった。彼は喜びしか、洞察する視力しか信じなかった。他のひとびとが彼の生き方にかまわないでさえいてくれれば、彼らの生き方にはかまわなかった。ただ霊感を与え、目を覚めさせ、ものが視えるようにさせること、それしか彼はのぞまなかった。」



第二章より:

「スピノザが、身体に対する心のいかなる優位も認めなかったのは、心に対する身体の優位をうちたてるためではない。(中略)この心身並行論の実践的な意義は、意識によって情念〔心の受動〕を制しようとする〈道徳的倫理観(モラル)〉がこれまでその根拠としてきた原理を、それがくつがえしてしまうところに現れる。身体が能動的にはたらけば心は受動にまわり、反対に心が能動に立てば今度は身体がはたらきを受けずにはおかない、とこれまではいわれてきたのだった(中略)。『エチカ』によれば、そうではなく、心における能動は必然的に身体においても能動であり、身体における受動は心においても必然的に受動なのである。心身両系列のあいだには一方の他に対するいかなる優越も存在しない。」
「身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにも(中略)この私たちの意識を超えたものがある。(中略)無意識というものが、(中略)ここに発見されるのである。」

「〈善〉も〈悪〉もない。〔場合に応じた個々の具体的な〕いい・わるい(引用者注: 「いい」「わるい」に傍点)があるだけだ。(中略)いい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの・合わないものという客体的な、しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。」
「かくて〈エチカ〉〔生態の倫理〕が、〈モラル〉〔道徳〕にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解(タイポロジー)の方法である。道徳とは神の裁き〔判断〕であり、〈審判〉の体制(引用者注: 「〈審判〉の体制」に傍点)にほかならないが、〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(〈いい〉〈わるい〉)がとって代わるのである。」

「まさしくスピノザには「生」の哲学がある。文字どおりそれはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発しているからである。私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその贖いといった概念によって毒されている。生を毒するもの、それは憎しみであり、この憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。」
「彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。」

「一個の個体は、まずはひとつの個的・特異的な本質、すなわちひとつの力能の度〔強度〕である。(中略)たとえば動物の場合も、類や種といった抽象的な概念によるよりはむしろ、それら個々の動物のもつ変様能力によって、それらが触発に応じてどのような変様をとげることが「できる」か、その持てる力能の限界内でどのような刺激に対して反応するか、によって定義されることになる。」

「『エチカ』のすべての道は内在に徹するところに切り開かれる。だが内在とは、まさに無意識そのものであり、同時にその無意識を克服することなのだ。」



第六章より:

「すべての属性にとってただひとつの実体というスピノザの第一原理を、知らない者はいない。しかし、すべての身体や物体にとってただひとつの自然、無限に多様に変化しつつ自身もひとつの個体であるような自然、という第三、第四、第五の原理も、みな知っているのではないだろうか。これはもう唯一の実体を定立しているのではない。すべての身体や物体、すべての心、すべての個体がその上にあるようなひとつの内在的な共通平面(プラン)(引用者注: 「内在的な共通平面」に傍点)を展(ひら)き延べているのである。」
「ひとつの体〔身体や物体〕をスピノザはどのように規定するか。スピノザはこれを同時に二つの仕方で規定している。すなわち、一方ではひとつの体は、たとえそれがどんなに小さくとも、つねに無限数の微粒子をもって成り立っている。ひとつの体を、ひとつの体の個体性を規定しているのは、まず、こうした微粒子群のあいだの運動と静止、速さと遅さの複合関係〔構成関係〕なのである。他方また、ひとつの体は他の諸体を触発し(アフェクテ)、あるいはそれらによって触発される。ひとつの体をその個体性において規定しているのは、また、その体のもつこうした触発しあるいは触発される力〔変様能力〕なのである。」
「スピノザにとって、ひとつひとつの身体や心は、実体でもなければ主体でもなしに、様態であることを、スピノザの読者なら誰でも知っている。」
「スピノザの〈エチカ〉はモラル〔人間的道徳・倫理〕とは何の関係もない。彼はひとつのエトロジー〔éthologie=動物行動学、生態学〕として、いいかえれば、そうした内在の平面の上でさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発しまた触発される力がとげる構成の問題として、これをとらえているのである。だからこそ彼は真実叫びをあげて言うのだ。君たちは、(中略)自分に何ができるか知ってはいない。君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない、と。」
「今や問題は、各個を構成している関係相互が(またどんな構成関係をもつものどうしが)直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと「拡がりの大きい」構成関係をかたちづくることができるかどうか、各個のもつ力が相互に直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと「強度の高い」力、力能をつくりあげることができるかどうか、にある。もはや個的利用や捕捉ではなく、社会を形成する力、共同体の成立が問われているのだ。さまざまの個体がどのように複合して、より高次の一個体を形成し、(さらにこの高次の個体がまた複合をかさねていって)ついには無限にいたるか。いかにして一個の存在は他を、相手のもつ固有の構成関係や世界を破壊せずに、あるいはそれを尊重しながら、しかもみずからの世界にとらえることができるか。(中略)これはもう対位法的な関係や、一世界の選択形成の問題ではない。大いなる自然の交響楽、次第に拡がりを増し強度を増してゆくひとつの世界の構成の問題なのだ。」
「おのおのの部分は無限に多様に変化しながら、その全体において最大の強度と拡がり幅をもつひとつの〈個体〉をかたちづくっている、大いなる自然の平面。」













































































ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ 〔増補版〕』 (宇波彰 訳/叢書・ウニベルシタス)

「しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。(中略)眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。」
(ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『〔増補版〕 プルーストとシーニュ
― 文学機械としての『失われた時を求めて』』 
宇波彰 訳

叢書・ウニベルシタス

法政大学出版局 1974年2月25日初版第1刷発行
/1986年6月30日増補版第5刷発行
vii 241p
四六判 丸背クロス装上製本 カバー
定価2,000円
Gilles Deleuze : Proust et les signes, 1964/1970/1976



♪ゆーけーゆけーハーッチー みつばちハッ チー
とーべーとべーハーッチ みなしご

……ハッ!Σ( ̄□ ̄=)


プルーストとシーニュ1


本書「訳者まえがき」より:

「本書は、一九六四年に初版が出版され、一九七〇年に「アンチロゴスまたは文学機械」の部分を加えた第二版が出版された。邦訳はこの第二版によって、一九七四年に刊行されたが、ドゥルーズは一九七六年に、新たに「狂気の現存と機能――クモ――」を追加した第三版を刊行(中略)したのである。」
「この第三版は、第二版の第八章「アンチロゴスまたは文学機械」を新たに「第二部」として独立させ、それを五章に分割し、そのあとに結論(中略)を追加したものである。」
「そこで、この増補版の翻訳も、本来からすれば新しい構成にしたがって章を立て直すべきものではあるが、さまざまな事情から、(中略)旧版の末尾に新しく「狂気の現存と機能――クモ――」の部分を付け加えるというかたちで刊行せざるをえないので、その点に関して読者のかたがたの諒恕をお願いしたい。」



目次:

訳者まえがき――増補版に際して――

第三版の序
第二版の序

第一章 シーニュ
第二章 シーニュと真実
第三章 習得
第四章 芸術のシーニュと本質
第五章 記憶の二次的役割
第六章 セリーとグループ
第七章 シーニュの体系の多元性
第八章 アンチロゴスまたは文学機械
結論 思考のイマージュ
〔増補版・第二部〕 結論 狂気の現存と機能――クモ――

訳注
訳者あとがき
付録 ドゥルーズとプルースト (宇波彰)



プルーストとシーニュ2



◆本書より◆


「第八章 アンチロゴスまたは文学機械」より:

「罪性が、同性愛のセリーにおいて現れるのは当然のことである。そして、プルーストが、呪われた種族としての男の同性愛の図を描く力が想起されよう。それは、《呪いがかかり、嘘といつわりの誓いの中で暮さねばならぬ種族……母のない子……友情のない友人……罪が見つかるまでの束の間の名誉、しばらくの自由しかなく、不安定な地位しかない。》シーニュとしての同性愛は、ギリシャ的なもの、ロゴスとしての同性愛に対立する。しかし読者は、この罪性が、現実的であるよりも外見的なものだという印象を持つ。そして、もしもプルースト自身が、自分の計画の独自性について語り、彼自身、多くの《理論》を経過したのだと宣言するとすれば、それは、彼が呪われた同性愛を特別に孤立させることでは満足しないからである。呪われた種族、あるいは、罪ある種族というテーマは、すべて、植物の性についての無実のテーマとからまり合っている。プルーストの理論の複合性が偉大なのは、それがいくつかのレヴェルを動かしているからである。第一のレヴェルでは、異性間の愛の集合体が、その対照と反復において示される。第二のレヴェルでは、この集合体が、二つのセリーまたは方向に分割される。ひとつは、ゴモラのセリーまたは方向で、(中略)もうひとつはソドムのセリーまたは方向で、(中略)もしこの第二のレヴェルが最も深いものでないとすれば、それはまさにこのレヴェルが、それが分解する集合体と同じく統計学的なものだからである。この意味において、罪性は、道徳的または内化されたものとしてよりも、むしろ社会的なものとして体験される。」
「すでに、同性愛のふたつのセリーの中で、プルーストが関心を持っているもの、また、このふたつのセリーを、厳密にたがいに補うものにしているもの、それは、それらのセリーが実現する分離の予言である。(中略)しかし、もしふたつの性が、同じ個人の中で、同時に存在しまた分離されていることを考えるならば、つまり、最初の両性具有という神秘の中で、ふたつの性は隣接してはいるが、区別され、コミュニケーションがないということを考えるならば、箱または閉ざされた壺という隠喩が、その完全な意味を持つことになるだろう。ここで、植物のテーマが、生きている大きなロゴスとの対立で、完全な意味を持つに至る。両性具有は、今ではなくなってしまった動物的全体性の特質ではなく、同一の植物に、ふたつの性が実際に閉じこめられていることである。《男性器官は、女性器官とは、ひとつの壁によって分離される。》そしてそこに、第三のレヴェルが位置づけられる。与えられた性を持った個人(しかし、与えられた性は、かならず全体的または統計学的である)は、おのれの内部に、それと直接のコミュニケーションができない異性を含んでいる。(中略)第一のレヴェルは、異性間の愛の統計学的集合体によって規定された。第二のレヴェルは、これも統計学的な、ふたつの同性愛的方向によって規定された。(中略)しかし、第三のレヴェルは、両性にわたるものであり(《まちがって同性愛と呼ばれているもの》)、集合体も個人をも越えている。第三のレヴェルは、個人の中に、コミュニケーションのない、部分的事物であるふたつの性の断片の共存を示している。その結果それは植物と同じようになる。つまり、両性具有体は、その女性的部分が生殖でき、あるいは、その男性的部分が、生殖させる力を持つためには、ひとつの第三者(昆虫)を必要とする。異常なコミュニケーションが、区別された性のあいだを横断する次元で形成される。」

「それが帰属する全体の中で、意味を発見すべき器官でありオルガノンであるロゴスに対して、機械であり機械装置であるアンチロゴスが対立する。そしてこのアンチロゴスの意味は、単に機能にのみ依拠するのであり、そしてその機能は、分離された部分に依存する。現代の芸術作品には、意味の問題はない。使用の問題があるだけである。
 なぜ機械なのか。このように理解された芸術作品は、本質的に生産的であり、それも真実を生産するものだからである。」

「問題は、プルーストによって、いくつかのレヴェルで提起されている。ひとつの作品を統一させるものは何か。われわれと作品のあいだに、《コミュニケーションをさせる》ものは誰か。芸術の統一性があるとすれば、それを作るのは誰か。部分をまとめるひとつの統一、断片を全体化するひとつの全体を、われわれは探求することを断念した。なぜならば、有機体的全体性としてのロゴスも、論理的統一としてのロゴスも、いずれも拒否するのが、部分または断片の、特性であり、性質だからである。しかし、それらの断片の全体としての、この多様なものの、この多様性の統一であるところのひとつの統一が、存在するし、また存在しなくてはならない。つまり、原理ではなく、多様なものと、その分裂した部分の《効果》であるようなひとつのもの、ひとつの全体が存在しなくてはならない。このひとつのもの、ひとつの全体は、原理としては作用せず、効果として、機械の効果として機能するであろう。それはひとつのコミュニケーションであって、原理として措定されるものではなく、機械と、その分解された部分品、コミュニケーションのないその部分の運動の結果として生まれてくるものであろう。哲学的には、閉ざされた部分、あるいは、コミュニケーションのないものから結果するコミュニケーションという問題を最初に提起したのは、ライプニッツである。戸口も窓もない《モナド》のコミュニケーションを、どのように構想すべきであろうか。ライプニッツの巧みな答は、つぎの通りである。つまり、閉ざされたモナドは、その属性の無限のセリーの中で、同一の世界を展開・表現することにより、また、それぞれのモナドが、他のモナドとは異なった、明確な表現の領域を持って満足することにより、したがってすべてのモナドが、神が展開せしめる同じ世界についての異なった視点であることにより、すべての同じ材料を処理する、というのである。このようにして、ライプニッツの答は、神というかたちのもとに――この神は、それぞれのモナドの中に、世界または情報についての同じ材料を入れ(《予定調和》)、また、孤立したモナドのあいだに、自発的な《対応》を基礎づける神であるが――あらかじめ存在する。統一と全体性とを回復する。プルーストにとっては、もはやそのような見方は不可能である。彼にとっては、さまざまな世界が、その世界に対する視点に対応し、また、統一性・全体性・コミュニケーションは、機械の結果としてのみありうるものであって、あらかじめ存在する材料を構成するものではない。」
「多様なカオスに還元されたひとつの世界においては、統一性として役立つものは――それもあとからであるが――、他のものにかかわらない限りでの、芸術作品の形式的構造だけである。しかし、すべての問題は、この形式的構造の基盤を知ることであり、また、この形式的構造によってのみ可能となる統一性を、どのようにしてもろもろの部分を文体に与えるかを知ることである。ところで、プルーストの作品における横断的次元、横断性が、非常にさまざまな方向で重要であることについては、すでに述べた通りである。この横断性によって、汽車の中で、ひとつの風景についてさまざまな視点を統一することではなく、この横断性に固有の次元にしたがって、またその次元のなかで、それらの視点とのあいだにコミュニケーションをさせることが可能となるのであり、それらの視点に固有の次元によってでは、相互のコミュニケーションはできない。この横断性によって、メゼグリーズの方とゲルマントの方との特異な統一と全体性とが可能になり、しかも両者の差異または距離がなくなることはない。《それらの道のあいだにいくつかの横断線ができた。》この横断性が、冒涜の基礎となり、いつも蜜蜂が訪れている。蜜蜂は、それ自体では区別されている二つの性を連絡させる、横断的な昆虫なのである。ひとつの光が、或る宇宙から、天文学的世界と同じほど異なった別の宇宙へと確かに伝わるようにするのもこの横断性である。したがって、新しい言語上の約束や、作品の形式的構造は、横断性である。それはすべての文章を横切り、書物全体の中で、ひとつの文章から別の文章へと移行し、『失われた時を求めて』を、プルーストが愛した、ネルヴァル、シャトーブリアン、バルザックなどの本と結びつける。なぜならば、もしもひとつの芸術作品が公衆とコミュニケーションを作り、さらに彼らに刺激を与えるならば、また、その作品が、同じ芸術家のほかの作品とコミュニケーションを作り、それらの作品を刺激するならば、また、他の芸術家の作品とコミュニケーションを作り、その作品ができるようにと刺激するならば、それは常にこの横断性の次元においてである。この次元では、統一性と全体性がそれ自体で確立されて、対象または主体を統一したり全体化したりすることはない。(中略)この次元は、さまざまな視点を互いに入りこませ、閉ざされたままの、閉じられた壺にコミュニケーションをさせる。(中略)彼らはそれぞれ囚われた者で、みな横断的にコミュニケーションをするのである。これが語り手の時間であり次元であって、これはそれらの部分を全体化しないままで、それらの全体であり、統一しないままで、それらすべての部分の統一性であるという力を持っているのである。」











































































ジル・ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 足立和浩 訳

「無責任、この最も高貴にして最も美わしきニーチェの秘密。」
(ジル・ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『ニーチェと哲学』 
足立和浩 訳


国文社 
昭和57年7月20日 新装版第1刷発行
昭和62年2月10日 新装版第4刷発行
358p 
A5判 丸背クロス装上製本 カバー 
定価3,500円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Gilles Deleuze, Nietzsche et la philosophie, P.U.F., 1962. の全訳である。」


ドゥルーズ ニーチェと哲学


目次:

第一章 悲劇的なもの
 1 系譜の概念
  価値と価値評価
  批判と創造
  系譜という語の意味
 2 意味
  意味と力
  多元論
  解釈と意味
  「高次の段階だけが重要である」
 3 意志の哲学
  力と力との関係:意志
  根源〔起源〕と位階序列
 4 弁証法との対立
  差異と矛盾
  弁証法にたいする奴隷の影響
 5 悲劇の問題
  悲劇的なものについての弁証法的な考え方と『悲劇の誕生』
  悲劇の誕生についての三つのテーマ
 6 ニーチェの発展
  悲劇の誕生における新たな境位
  肯定
  ソクラテス
  キリスト教
 7 ディオニュソスとキリスト教
  生の容認あるいは生への敵対
  弁証法的思惟のキリスト教的性格
  弁証法的思惟とディオニュソス的思惟との対立
 8 悲劇的なものの本質
  悲劇的なものと歓び
  劇から英雄へ
  生存の意味と正義
 9 存在〔生存〕の問題
  罪ある生存とギリシャ人たち
  アナクシマンドロス
  負い目ある生存とキリスト教
  無責任の価値
 10 存在と無垢
  無垢と多元論
  ヘラクレイトス
  生成と生成の存在、多と多の一
  永遠回帰あるいは歓び
 11 骰子(さいころ)ふり
  二つの時間
  偶然と必然:二重の肯定
  骰子(さいころ)ふりと機会(チャンス)の計算との対立
 12 永遠回帰のための諸帰結
  偶然の料理
  混沌(カオス)と循環的運動
 13 ニーチェの象徴法
  大地、火、星
  アフォリズムと詩の重要性
 14 ニーチェとマラルメ
  類似
  対立:偶然の廃滅か、肯定か?
 15 悲劇の思想
  ニヒリズムの対抗手段としての悲劇的なもの
  肯定、歓び、創造
 16 試金石
  ニーチェと他の悲劇的哲学者たちとの差異
  パスカルの賭け
  ニヒリズムと怨恨の問題の重要性

第二章 能動と反動
 1 身体
  身体は何をなし得るか
  意識にたいする身体の優越性
  身体の能動的、反動的、構成的な力
 2 力の区別
  反動
  有機体についての反動的な考え方
  可塑的で能動的な力
 3 量と質
  力の量と質
  質と量的差異
 4 ニーチェと科学
  量についてのニーチェの考え方
  永遠回帰と科学
  永遠回帰と差異
 5 永遠回帰の第一の側面。宇宙論的、物理学的教説としての永遠回帰
  最終状態についての批判
  生成
  生成と永遠回帰との総合
 6 力(への)意志とは何か
  力の差異的な(系譜学的な)境位としての力(への)意志
  力(への)意志と力
  永遠回帰と総合
  カントにたいするニーチェの位置
 7 ニーチェの用語法
  能動と反動、肯定と否定
 8 根源と転倒した像
  反動と否定との結合
  ここからいかにして差異の転倒した像が生まれるか
  能動的な力はいかにして反動的になるか
 9 力の測定の問題
  「弱者にたいしてはつねに強者が擁護されねばならない」
  ソクラテスの誤謬
 10 位階序列
  自由思想家と自由精神
  位階序列
  能動と反動という語のさまざまな意味
 11 力(への)意志と〈力〉の感情
  力(への)意志と感性(パトス)
  力の生成
 12 力の反動化〔反動的生成〕
  反動的生成〔反動化〕
  人間への嫌悪
  孤立させる思惟としての永遠回帰
 13 意味と価値の相反的両立性(アンビヴァランス)
  反動の相反的両立性
  反動的諸力の多様性
  反動と否定
 14 永遠回帰の第二の側面。倫理的、選択的な思想としての永遠回帰
  選択的思想としての永遠回帰
  第一の選択:中途半端な意志の排除
  第二の選択:ニヒリズムの完成、否定の変質
  反動的な力は回帰しない
 15 永遠回帰の問題
  反動的生成〔反動化〕
  全体と瞬間

第三章 批判
 1 人間諸科学の変容
  科学の反動的モデル
  能動的な〔科〕学に向けて。言語学
  医者、芸術家、立法者としての哲学者
 2 ニーチェにおける問いの立て方
  「とは何か」という問いと形而上学
  「誰?」という問いとソフィストたち
  ディオニュソスと「誰?」という問い
 3 ニーチェの方法
  「誰?」=「彼は何を意志しているか?」
  劇的構成の方法:差異的、類型学的、系譜学的な方法
 4 先人たちとの対立
  意志の哲学における三つの誤謬
  〈力〉を表象の対象にすること
  〈力〉を既成の価値に依存させること
  〈力〉を闘争や闘いの目的にすること
 5 ペシミズムとショーペンハウアーへの対立
  いかにして哲学はその誤謬によって意志を制限ないしは否定さえせねばならなくなるか
  ショーペンハウアー、このような伝統の帰着点
 6 意志の哲学のための諸原理
  意志、創造、歓び
  〈力〉は意志が意志するものではなく、意志の中で意志する主体である
  贈り与える徳
  差異的、批判的な境位
 7 『道徳の系譜』の見取図
  真の批判を行うこと
  『道徳の系譜』における三つの論文:誤謬推理、アンチノミー、理想
 8 原理の観点からみたニーチェとカント
  カント的批判の不十分性
  いかなる意味においてカント的批判は全く「批判」ではないのか
 9 批判の実現
  批判と力(への)意志
  超越論的原理と系譜学的原理
  立法者としての哲学者
  「カントの成功は神学者の成功であるにすぎない」
 10 諸帰結の観点からみたニーチェとカント
  非合理主義と批判の審級
 11 真理の概念
  劇的構成の方法の実施
  思弁的対立、道徳的対立、禁欲主義の矛盾
  生より優れた価値
 12 認識、道徳、宗教
  二つの運動
  「最も恐るべき推論」
 13 思惟と生
  認識と生との対立
  生と思惟との親縁性
  生の新たな可能性
 14 芸術
  意志の刺戟剤としての芸術
  虚偽の高次の力としての芸術
 15 思惟の新たなイメージ
  真理の教説における諸要請
  思惟の境位としての意味と価値
  低俗さ
  哲学の役割:彗星としての哲学者
  反時代的なもの
  方法と文化との対立
  文化はギリシャ的か、ドイツ的か
  思惟と三つのエピソード

第四章 怨恨からやましい良心へ
 1 反動と怨恨
  反撃としての反動
  活動する不能性としての怨恨
 2 怨恨の原理
  フロイトにおける局所的仮説
  ニーチェによる刺戟と痕跡
  いかにして反動は活動的であることをやめるか
  すべては反動的諸力相互のあいだで行われる
 3 怨恨の類型学
  怨恨の二つの側面:位相学的側面と類型学的側面
  復讐心
  痕跡の記憶
 4 怨恨の諸特徴
  賞讃することの不能性
  受動性
  非難
 5 よい(善)か、わるい(悪)か
  私はよい、ゆえにおまえはわるい
  おまえはわるい、ゆえに私はよい
  奴隷の観点
 6 誤謬推理
  子羊の三段論法
  怨恨における虚構のメカニズム
 7 怨恨の発展。ユダヤ教の僧侶
  位相学的側面から類型学的側面へ
  僧侶の役割
  ユダヤ教的形態における僧侶
 8 やましい良心と内面性
  自己への方向転換
  内面化
 9 苦痛の問題
  やましい良心の二つの側面
  苦痛の外的意味と内的意味
 10 やましい良心の発展。キリスト教の僧侶
  キリスト教的形態における僧侶
  罪
  キリスト教とユダヤ教
  やましい良心における虚構のメカニズム
 11 先史的観点から考察された文化
  訓育と選択としての文化
  人間の類的活動性
  約束(パロール)〔言葉〕の記憶
  負債と罰の方程式
 12 後史的観点から考察された文化
  文化の産物
  主権者的個人
 13 歴史的観点から考察された文化
  文化の方向転換
  火の犬
  いかにしてやましい良心という虚構は必然的に文化に接木されるのか
 14 やましい良心、責任、有罪性
  責任の二つの形態
  反動的諸力の連合
 15 禁欲主義の理想と宗教の本質
  多元論と宗教
  宗教の本質あるいは親縁性
  反動的な力と無への意志との同盟:ニヒリズムと反動
 16 反動的な力の勝利
  総括的一覧表
 
第五章 超人。弁証法との対立
 1 ニヒリズム 
  nihil とは何を意味するか
 2 同情の分析
  三つのニヒリズム:否定的ニヒリズム、反動的ニヒリズム、受動的ニヒリズム
  神は同情によって死んだ
  おしまいの人間たち
 3 神は死んだ
  劇的な命題
  「神は死んだ」ということの意味の多様性
  ユダヤ教的意識、キリスト教的意識(聖パウロ)、ヨーロッパ的意識、仏教的意識
  キリストと仏陀
 4 ヘーゲル主義との対立
  弁証法における普遍と特殊
  諸対立の抽象的性格
  弁証法に向けられた「誰?」という問い
  弁証法における虚構、ニヒリズム、反動
 5 弁証法の転変
  弁証法の歴史におけるシュティルナーの重要性
  再所有化の問題
  自我の理論としての弁証法
 6 ニーチェと弁証法
  超人と価値転換の意義
 7 ましな人間についての理論
  ましな人間の多様な諸人格
  ましな人間の相反的両立性(アンビヴァランス)
 8 人間は本質的に「反動的」か
  人間は反動的生成〔反動化〕である
  「あなたがたは失敗の作品である」
  能力と肯定
  ましな人間に関するニーチェの象徴法
  二匹の火の犬
 9 ニーチェと価値転換。焦点
  自己克服を果した、完成したニヒリズム
  力(への)意志:認識根拠と存在根拠
  没落を欲する人間、あるいは能動的否定
  否定の方向転換、転換の地点
 10 肯定と否定
  ロバの然り
  ツァラトゥストラの猿、悪魔
  積極的なものの否定性
 11 肯定の意味
  ロバとニヒリズム
  いわゆる現実の積極性〔肯定性〕との対立
  「現代の人間たち」
  肯定するとは荷を負うことでも、引受けることでもない
  存在の理論との対立
 12 二重の肯定。アリアドネ
  肯定の肯定(二重の肯定)
  アリアドネの秘儀、迷宮
  肯定された肯定(二次的な力)
  差異、肯定、永遠回帰
  ディオニュソスの意味
 13 ディオニュソスとツァラトゥストラ
  選択としての存在
  ツァラトゥストラと価値転換:獅子
  価値転換から永遠回帰へ、またその逆
  笑い、歓び、舞踏

結論

原註
訳註

ドゥルーズのニーチェ論 (足立和浩、初出は「現代思想」1974年6月号)
訳者あとがき (足立和浩、1974年6月2日)




◆本書より◆


「周知のように、ニーチェの闘いは二重である。批判の作業から価値問題を分離し、実在の諸価値の一覧表を作製して既成の諸価値の名において種々の事柄を批判することに満足している人々、すなわちカントやショーペンハウアーなどのような「哲学の労働者たち」にたいする闘い。しかしまた同時に、諸価値をたんなる諸事実、いわゆる客観的諸事実から引き出すことによって諸価値を批判したり尊重したりする人々、すなわち功利主義者や「科学者たち」にたいする闘い。」
「ニーチェは系譜〔学〕という新しい概念を形成する。哲学者とは系譜学者であって、カント流の裁判官でも、功利主義者流の機械組立工でもない。(中略)ニーチェは、カントの普遍性の原理や功利主義者たちの類似性の原理の代りに、差異や距離(差異的な境位)の感情をもってくる。」
「系譜とは、諸価値の差異的な境位を意味しており、諸価値の価値そのものの発生源である。それゆえ、系譜とは起源あるいは誕生のことであるが、また起源における差異や距離のことでもある。」
「ニーチェは批判の能動性を、復讐や遺恨や怨恨と対比させる。(中略)批判は怨恨〔反作用的感情〕(re-sentiment)という反作用〔反動〕的行為(ré-action)ではなく、能動的実存様式の能動的表現である。つまり、攻撃であって復讐ではなく、存在様式からくる自然的攻撃性であり、神性な悪意――これなくしては完成というものを考えることはできないだろう――である。このような存在様式は哲学者のものである。なぜなら、哲学者は差異的な境位を批判的かつ創造的なものとして、それゆえ一つのハンマーとして、操作することをまさしく提案するからである。(中略)このような系譜という考えによって、ニーチェは多くのものを待ち受けている。すなわち、諸科学の新たな編成、哲学の新たな組織化、未来の諸価値の確定、を。」

「ニーチェ哲学の本質的多元論を考慮に入れないかぎり、ニーチェの哲学は理解されない。そして本当のことを言えば、多元論(別な風に言えば経験論)は哲学そのものと一つでしかない。多元論とは哲学が生みだした本来的に哲学的な思惟方法である。つまり、具体的精神における自由のただひとつの保証であり、暴力的な無神論の唯一の原理である。神々は死んだ。しかし神々は、一人の神がわれこそ唯一の神なりと言うのを聞いて、抱腹絶倒したのである。「神々は存在する。しかし唯一の神など存在しない。それでこそ神聖なのではあるまいか。」そして、われこそ唯一の神なりと言ったそのような神の死は、それ自体複数的である。神の死は、多数の意味をもつ一つの事件だからだ。それゆえ、ニーチェは騒々しいさまざまな「大いなる事件」を信じず、それぞれの事件の意味の沈黙した多数性を信じる。複数の意味をもたぬような事件や現象は一つとしてなく、またそのような言葉や思想も一つとして存在しない。或る事象は、この事象を捕えている諸々の力(神々)に応じて、これであったり、あれであったり、またもっとこみいっていたりする。ヘーゲルは多元論を、最も低次の諸要求をつぶやく幼児のように「これ、あれ、ここ、いま」と語ることに満足している素朴な意識と同一視することによって、嘲笑しようとした。〔ところが〕一つの事象は幾つかの意味をもつという多元論的な考え方のうちには、そしてまた、幾つかの事象が存在し、同一の事象が「これであり、次にはあれである」という考え方のうちには、哲学の放棄や幼年時代ではなく、哲学の最高の勝利、真なる概念の勝利、哲学の成熟があるということがわかる。」
「新たな力が出現し、一つの対象をわがものとなし得るのは、ただ、すでにその対象を占有している先行の諸力の仮面をそもそものはじめから身につけることによってのみである、ということを考えるなら、解釈の複雑性というものが明らかになってくる。仮面や策略は自然の法則であり、それゆえ仮面や策略以上のものである。生はそのはじめから、たんに可能となる為にだけでも、物質を模倣しなくてはならない。一つの力は、自分と敵対する先行の諸力の風貌をまず最初には借り受けるのでなければ、生き残ることはできないであろう。かくして哲学者は、哲学の出現以前に世界を支配していた僧侶や(中略)宗教的な人間の瞑想的な様子をしていなければ、誕生し成長しても、まったく生き残るチャンスをもち得ないだろう。(中略)哲学がその仮面を征服することができるのは、ただそれに新たな意味を与え、遂にはその反宗教的な力の真の本性を表現することによってのみである。おわかりのように、解釈の技術はまた可面の裏側を読みとる技術でもあって、誰が仮面をかぶっているのか、なぜに、またいかなる目的で人々は仮面の型をつくり直しつつその仮面を温存しているのか、ということを発見する技術である。(中略)出生〔起源〕(origine)における差異は最初から現われるわけではない。(中略)哲学が偉大になったときにはじめて、哲学の本質あるいは系譜を把えることができ、哲学が当初それと混同されることをおおいに懸念していたところのものすべてと、哲学そのものとを区別することができる。あらゆる事柄について、このようなことが言える。「あらゆる事柄において、より高次の段階だけが重要である。」というのは、問題が起源〔出生〕の問題ではないからというわけではなく、系譜として考えられた起源〔出生〕がより高次の諸段階との関連においてしか決定され得ないからなのである。」

「多元論は時として弁証法の外観を呈することがある。が、多元論は弁証法のこのうえなく獰猛な敵であり、唯一の根本的な敵である。それゆえわれわれは、ニーチェ哲学の断固たる反弁証法的な性格を真面目に受け取らなければならない。」
「反=ヘーゲル主義は、攻撃性の糸としてニーチェの作品をつらぬいている。」
「否定、対立あるいは矛盾といった思弁的境位を、ニーチェは肯定と享楽との対象である差異という実践的境位に置きかえる。」
「意志が意志すること、それはその意志がもつ差異を肯定することである。意志は、他の意志との本質的関係の中で、自身のもつ差異を肯定の対象とする。「自分が差異をもっていることを知る歓び」、差異の享楽、これが攻撃的で軽快な新しい概念の境位である。」
「差異は、本質と不可分でかつ存在を構成するものでもある実践的な肯定の対象である。ニーチェの「然り」は弁証法の「否」に対立し、差異は弁証法的な矛盾に、歓びや享楽は弁証法的な苦役に、軽やかさや舞踏は弁証法的な鈍重さに、美わしき無責任は弁証法的な責任に、それぞれ対立するのだ。差異についての、簡単に言えば位階序列についての、経験的な感情、これが矛盾についてのあらゆる思弁よりも有効で根本的な概念の本質的原動力である。」

「ディオニュソスは、現われるものすべてを、「このうえなく苛烈な苦悩さえも」肯定し、いっさいの肯定されるもののうちに現われる。多様な肯定、あるいは多元論的な肯定、これが悲劇的なものの本質である。(中略)そのためには、多元論の努力と才能とが、また変身の能力、ディオニュソス的八ッ裂きが、必要である。ニーチェに苦悶と嫌悪が現われるのは、つねに次の点に関してである。つまり、いっさいは肯定の対象に、すなわち歓びの対象に、なり得るだろうか、ということだ。」
「悲劇的であるもの、それは歓びである。だがこのことは、悲劇は直接的に歓びに満ちており、悲劇に恐怖したり同情したりするのは、その道徳的昇華作用や医学的下剤作用といった(中略)効果を悲劇にあてこんでいる鈍感な観客や病的で道学者ぶった聴衆だけなのだ、ということを意味している。」
「多様な肯定の論理、それゆえ純粋な肯定の論理、そしてその論理に対応する歓びの倫理、これが、ニーチェ哲学の全体を貫いている反弁証法的で反宗教的な夢である。悲劇的なものは、否定と生との関係に基づくのではなく、歓びと多様なもの、積極的なものと多様なもの、肯定と多様なもの、との本質的関係に基づくのだ。「英雄〔主人公〕は陽気である。このことを、悲劇の作者たちは今まで見損ってきたのである。」悲劇、この率直で躍動する陽気さ。」
「陽気な英雄、軽やかな英雄、舞踏する英雄、戯れる英雄。われわれを軽やかにし、われわれに舞踏することを教え、われわれに遊戯の本能を与えるのが、ディオニュソスの任務である。」

「おまえが悪い、おまえが悪いと言われ続けると、ついには告発されている者が「私は悪い」と言うようになり、絶望的な世界の中にはこのような嘆きの声とその反響がひびき渡るようになる。(中略)ニーチェは怨恨(おまえが悪い)、やましい良心(私が悪い)、及びそれらの共通の結果(責任)のうちに、たんなる心理学的出来事をみるのではなく、セム人的キリスト教的な基本的思惟カテゴリー、存在一般を思惟し解釈するわれわれのやり方、を見る。新たな理想、新たな解釈、別の思惟方法、ニーチェはこのようなものを自己の課題とする。「無責任というものにその積極的な意味を与えること。」「私が望んだのは、全き無責任という感情をかちとり、自分を讃辞と非難から、また現在と過去から、独立させることであった。」無責任、この最も高貴にして最も美わしきニーチェの秘密。」












































































ジル・ドゥルーズ 『ニーチェ』 湯浅博雄 訳 (ポストモダン叢書 新装版)

「今日では、天才とは一粒の良識の代わりに一粒の狂気を身につけている人である、という言葉をよく耳にするけれども、古い時代の人々にとっては、およそ狂気の存するところには必ず一粒の天才と知恵が存する(中略)という考え方のほうが、ずっと身近なものであった。いやむしろ彼らは、もっと明確に言いきった――「最も偉大な、数々の恩恵をギリシアにもたらしたものは、狂気なる者である」」
(ニーチェ)


ジル・ドゥルーズ 
『ニーチェ』 
湯浅博雄 訳

ポストモダン叢書 8 新装版

朝日出版社 
1985年6月25日 第1刷発行
1987年1月10日 第3刷新装版発行
1988年4月20日 第4刷発行
216p 目次1p 著者・訳者紹介1p
四六判 丸背紙装上製本(薄表紙) カバー
定価2,100円
photo: hatsuhiko okada
design: seiichi suzuki



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Gilles Deleuze, Nietzsche, Collection SUP 《Philosophes》, Presses Universitaires de France, 1965. の全訳である。」


ドゥルーズ ニーチェ 01


目次:

生涯
哲学
ニーチェ的世界の主要登場人物辞典

ニーチェ選集

ニーチェの著作
関係書誌


訳者あとがき



ドゥルーズ ニーチェ 02



◆本書より◆


「生涯」より:

「彼の健康までもが失われた。激しい頭痛や胃痛、視覚障害、言語困難などに悩まされるのである。彼は教職を断念することになる。「病気が私をゆっくりと解放してくれた。病気のおかげで私は、仲たがいをしなくてもすむようになったし、波風の立つ、厄介な奔走に苦しまなくてもよくなった……。病気は私に、自分の習慣を根本的に変える権利を授けてくれた。」」

「彼の病いはますます重くなった。「読むことができない! 書くこともめったにできない! 誰一人訪れることもなく、音楽を聴くことさえかなわぬ!」一八八〇年に彼は自分の状態を次のように書いている。「苦痛が絶え間もないのです。毎日何時間にもわたって船酔いに似た嫌な感覚が続き、半ば身体が麻痺しているせいで言葉がうまく話せません。そしてそれを忘れさせるのは、狂ったような発作だけなのです(以下略)」」

「彼はむしろ病いのなかに、健康に対する一つの視点を見出す。そして健康のなかに、病いに対する一視点を見出すのである。「病者のうちにより健康な諸概念、より健康な諸価値を見てとること、次には逆に豊かな生命の高み、あり余るほどの自信に充ちた生命の高みから、衰退(デカダンス)の本能が秘かに作動している深みへと眼差しを投じること、これこそ私がしばしば自分を鍛えた実践なのである……」」



「哲学」より:

「ひとが神の代わりに人間をすえたとき、つまり神を逐ったように見えて、実はその本質部分を(中略)保持したとき、ひとは神を殺しただろうか? 唯一生じた変化は次のことだけである。人間は外から荷物を担わされる代わりに、自分自身で重荷を手に取り、背中に背負ったのである。未来の哲学者、医者である哲学者は、いろいろ異なった症候の下に同一の病いが継続していると診断を下すであろう。」
「ニーチェは、諸価値の転倒=転換を実行するためには、神を殺すだけでは十分でないということを、われわれに教えてくれた最初の人である。」
「ニーチェの言わんとすることは、人間がある外的な権威を必要としなくなって、これまで受動的に禁じられていたものを自分自身で禁止し、自発的に警察力と重荷を背負うとき、つまりもはや外から来るとは思えない禁圧の力や重荷を自ら引き受けるとき、人間はさらにいっそう醜くなったということである。こうして哲学の歴史は、ソクラテス学派からヘーゲル主義者に至るまで、人間の長い服従の歴史であり、その服従を正当化するために人間が自分に与える数々の理由の歴史なのである。(中略)それは歴史における一つの事実というのではなくて、歴史の原理そのものであり、われわれの思想や生を、腐敗の症候として決定したさまざまな事件のほとんど大部分は、その原理に由来するのである。従って未来の哲学としての真の哲学は、永遠の哲学ではないのと同様に歴史的な哲学でもない。それは反時代的、つねに反時代的でなければならない。」

「全てが逆立ちしている。奴隷たちが主人と名のり、虚弱者たちが強者と自称し、低劣さが高貴さと呼ばれる。あたかもある人間は、彼が荷を担うからこそ強く、高貴であるかのごとくみなされる。(中略)価値評価はこれほど歪曲されているので、荷を担う者は奴隷であるということ、彼が背負っているのは奴隷という状態であること、(中略)すなわち創造者の、舞踊者の正反対だということ――が、もはや見えなくなっているのである。」
「ニーチェの考えでは、神の死は騒々しい大事件であるが、しかしけっして十分ではない事件なのである。なぜならニヒリズムは持続し、ほとんど形を変えないからである。以前ニヒリズムは、高位の価値の名において生の価値を貶めること、生を否定することを意味した。そしていまやこれらの高位の価値を否定すること、それらの代わりに人間的な――あまりに人間的な価値を置くことを意味するのである(道徳が宗教にとって代わる。有用性、進歩、歴史そのものが神聖な諸価値にとって代わる)。なにも変わっていない。なぜなら同じ反動的な生、同じ奴隷状態のままであって、かつては神聖な価値に守られて勝利していたのが、いまは人間的な価値によって勝ち誇るだけだからである。同じ担い手、同じ〈驢馬〉のままであって、それがかつては神の御前で責任をもって引き受けた聖なる遺物の重荷を背負っていたのが、いまや自分の責任において、一人で自分自身を担うだけのことだからである。さらには、ニヒリズムの砂漠へ向かってもう一歩踏み出したとさえ言えよう。というのは、いまやひとはあらゆる〈現実(ル・レエル)〉を把握するのだと自負することになるのだが、実はひとが把握しているのは、(中略)反動的な諸力と虚無の意志の残滓だけなのである。だからこそニーチェは(中略)彼が「高位の人間たち」と呼ぶひとびとの大いなる悲惨を描いているのである。高位の人間たちは神にとって代わろうと望み、人間的な諸価値を担い、さらには〈現実〉を再発見するのだとさえ、また肯定の意味を取り戻し、回収するのだとさえ信ずる。しかしながら彼らに可能な唯一の肯定は、ただ驢馬の〈然り(ウィ)〉だけ(中略)なのである。すなわちニヒリズムの産物を自分自身で背負う反動的な力、そして一つの〈否(ノン)〉を担うたびごとに〈然り(ウィ)〉と言うのだと信じこむ反動的な力だけなのである。」
「そうして〈高位の人間たち〉の後には、最後の人間が出現する。「一切は空しい、むしろ受動的に消え去ることだ! 虚無の意志よりもむしろ意志の虚無だ!」と呟く最後の人間が現われるのである。しかしながらこういう決裂を発条として、こんどは虚無の意志が反動的な諸力に敵対するようになり、反動的な生それ自身を否定しようとする意志になる。そして人間に、自分自身を能動的に破壊したいという欲求を抱かせるのである。最後の人間を超えた彼方には、だからさらにまだ滅びようと望む人間がいるのである。そしてニヒリズムが成就するこの地点において(すなわち〈真夜中〉において)、全てが準備されているのである――つまり価値転換への準備がととのうのである。」
「ツァラトゥストラとは、純粋な肯定なのである。が、その肯定は、否定を一つの能動へと変え、肯定する者、作り出す者に役立つ一つの審級へと変えることによって、まさしく否定を、その最高段階へともたらすのである。」
「価値転換とは、肯定-否定の諸関係をこのように転倒することを意味するのである。ただし価値転換とは、ニヒリズムの後で、その出口においてしか可能でないことが見てとれるだろう。否定がついに反動的な諸力に叛旗を翻し、それ自身一つの能動となり、上位の肯定に奉仕するよう移行するためには、人間たちの最後の者にまで至らねば、そして次には滅びようと望む人間にまで至らねばならなかったのである。(ニヒリズムの克服、しかしニヒリズム自身による克服……というニーチェの言い回しは、この点に由来するのである。)
 肯定とは意志の最高の〈力〉である。しかしなにが肯定されるのか?」
「むしろそれは多数多様なものであり、また生成ということなのである。ニヒリズムは生成を、罪を償わねばならないなにものか、そして〈存在〉のうちへと吸収され、解消されるべきなにものかとみなしている。また多数多様なものを、なにか不当なもの、裁かれるべきもの、そして〈一なるもの〉のうちへ吸収・解消されるべきものとみなしている。生成と多数多様は有罪である、というのがニヒリズムの最初の言葉であり、かつ究極の言葉なのである。」
「それとは正反対に、価値転換の第一の形象は多数多様と生成を、最高の〈力〉にまで引き上げる。」
「多数多様なものは多数多様として肯定され、生成することは生成として肯定される。ということはつまり肯定はそれ自身多数多様であり、また同時に肯定はそれ自身生成する、ということである。そして生成と多数多様はそれら自身肯定である、ということである。よく理解された肯定のうちには、鏡の戯れのようなものがある。(中略)価値転換の第二の形象は、肯定の肯定である。肯定の二重化、ディオニュソス-アリアドネの神聖なカップルである。」
「ソクラテスは高位の価値の名において、生を裁き、断罪したのであるが、ディオニュソスは生とは裁かれるべきものではないということ、生はそれ自身で十分正しく、十分聖なるものであることを予感していたのである。ところでニーチェがその著作の過程を進むにつれて、真の対立が明らかに現われてくる。もはやソクラテスに対するディオニュソスでもなく、〈十字架にかけられた者〉に対するディオニュソスなのである。両者の殉教は共通のように見えるけれども、この殉教の解釈、価値評価は異なる。なぜなら一方においては、生に敵対する証言と、生を否定することで成り立つ復讐の企てが見られるのであり、他方にあるのは生の肯定なのだからである。すなわち生成と多数多様を肯定すること、ディオニュソスが八つ裂きにされ、手脚がバラバラとなる状態に至るまで肯定することであるから。舞踊、軽やかさ、笑いがディオニュソスの諸特性である。」
「多数多様はもはや〈一なるもの〉に依存することはなく、生成はもはや〈存在〉に依存することはない。しかし〈存在〉や〈一なるもの〉は単にそれらの意味を失うというのではなく、むしろもっとさらに歩を進めるのである。それらはある新しい意味を持つことになるのであるから。というのもいまや〈一なるもの〉とは、多数多様としての(諸々の破片、あるいは断片としての)多数多様なものについてそう言われるのである。〈存在〉とは、生成としての生成についてそう言われるのである。ニーチェ的な転倒とはこのようなことであり、それが価値転換の第三の形象となる。ひとはもはや生成を〈存在〉に対立させないし、多数多様を〈一なるもの〉に対立させない。その逆に、ひとは多数多様の〈一なるもの〉を肯定し、生成の〈存在〉を肯定する。あるいはニーチェが言っているとおり、ひとは偶然の必然を肯定するのである。ディオニュソスは賭博者である。真の賭博者は、偶然を肯定の対象にする。彼は偶然の諸断片を肯定し、偶然の諸要素を肯定する。そしてこの肯定から必然的な骰子の目の数が生まれ、それが再び骰子の一擲を連れ戻すことになるのである。(中略)それは〈永遠回帰〉の賭=戯れなのである。回帰することとは、まさしく生成の存在であり、多数多様の一なるものであり、偶然の必然なのである。」
「ニーチェ独特の秘密は、〈永遠回帰〉とは選択的である、ということである。そして二重に選択的なのである。まず第一に、思想として。なぜかというと〈永遠回帰〉は、全て道徳というものを脱却した意志が自律へと至るために、一つの法則をわれわれに与えてくれるからである。私がなにを欲するにせよ(たとえば私の怠惰、貪欲、卑劣、あるいは私の美徳でもよいし、悪徳でもよい)、私はそれが永遠に回帰することもまた欲するような仕方で、それを欲するのでなければならない。「生半可な意欲」たちの世界はふるい落とされる。「いちどだけ」という条件でわれわれが欲するようなものは、全てふるい落とされるのである。たとえ卑劣さ、怠惰であっても、それらが自らの永遠の回帰を欲するとするならば、怠惰や卑劣さとは別のものになるだろう。それらは能動的になり、そして肯定の〈力〉となるであろう。」
「ただ肯定のみが回帰するのであり、肯定されることが可能なものだけが回帰し、歓びのみが戻ってくる。全て否定されることがありうるもの、全て否定であるものは、〈永遠回帰〉の運動そのものによって追い払われる。(中略)〈永遠回帰〉は車輪に譬えられるはずである。そして車輪の運動は遠心力を授けられており、その遠心力はあらゆる否定的なものを追放するのである。〈存在〉は自分が生成であるとはっきりと告げるのであるから、肯定に反対するあらゆるものを、またニヒリズムと反動のあらゆる形態を、自己から振り払うのである。疚しい心、怨恨……などというものは、ひとはたったいちどしか見ることがないであろう。」
「〈永遠回帰〉は〈反復〉である。が、それは選分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選分ける反復という驚くべき秘密なのである。
 従って価値転換は、第四の、最後のアスペクトを持つ。それは当然の帰結として超人を含み、生み出すのである。なぜなら(中略)人間とは一つの反動的な存在であり、自らの諸力をニヒリズムと組合わせているからである。〈永遠回帰〉は人間を拒み、追い払う。」

「われわれニーチェの読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違えを避けるようにしなければならない。(一)〈力〉の意志に関して(〈力〉の意志が、「支配欲」を、あるいは「〈力〉を欲すること」を意味すると信じこむこと)。(二)強者と虚弱者に関して(ある社会体制において、最も〈力〉の強い者が、まさにそのことによって「強者」であると信じこむこと)。(三)〈永遠回帰〉に関して(そこで問題となっているのが、古代ギリシア人、古代インド人、バビロニア人……から借りた古いイデーであると信じこむこと。だからサイクルが、〈同一なもの〉の回帰が、同一への回帰が問題となるのだと信じこむこと)。(四)最も後期の諸著作に関して(それらの著作が度を越した行き過ぎであると、あるいは狂気のせいで既に信用を失ったものであると信じこむこと)。」



「ニーチェ的世界の主要登場人物辞典」より:

「占い師――彼は、「一切は空しい」と語る。彼はニヒリズムの最後の段階を告知している。すなわち人間が、神にとって代わろうとするその努力の空しさを推測して、もはや虚無を欲するよりも、一切なにものも意欲しないほうへと傾斜する瞬間を告げている。従ってその占い師は、最後の人間を予告している。ニヒリズムの終極の先触れである彼は、高位の人間たちよりも既に遠くへ行っている。しかし彼に欠けているもの、それは最後の人間を超えたなおまだ彼方にあるもの、滅びようと望む人間、自分自身の没落を欲する人間である。その人間とともに、ニヒリズムは実際に完了し、ニヒリズム自体によって克服される。価値転換と超人は、間近いのである。」

「ツァラトゥストラは彼自身の子供たちによってのり超えられるのである。(中略)彼は人間が、それらの条件のうちで自己をのり超え、のり超えられるような諸条件、〈ライオン〉が〈小児〉へとなるようなあらゆる条件を作り出すことによって、(中略)人間のうちにおける〈超人〉の産出を確実にするのである。」









































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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