ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ 〔増補版〕』 (宇波彰 訳/叢書・ウニベルシタス)

「しかし、器官のない身体とは何であろうか。クモもまた、何も見ず、何も知覚せず、何も記憶していない。(中略)眼も鼻も口もないクモは、ただシーニュに対してだけ反応し、その身体を波動のように横切って、えものに襲いかからせる最小のシーニュがその内部に到達する。『失われた時を求めて』は、大聖堂や衣服のように構築されているのではなく、クモの巣のように構築されている。語り手=クモ。その巣そのものが、或るシーニュによって動かされるそれぞれの糸で作られ織りなされつつある『失われた時を求めて』である。巣とクモ、巣と身体は、ただひとつの同じ機械である。」
(ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『〔増補版〕 プルーストとシーニュ
― 文学機械としての『失われた時を求めて』』 
宇波彰 訳

叢書・ウニベルシタス

法政大学出版局 1974年2月25日初版第1刷発行
/1986年6月30日増補版第5刷発行
vii 241p
四六判 丸背クロス装上製本 カバー
定価2,000円
Gilles Deleuze : Proust et les signes, 1964/1970/1976



♪ゆーけーゆけーハーッチー みつばちハッ チー
とーべーとべーハーッチ みなしご

……ハッ!Σ( ̄□ ̄=)


プルーストとシーニュ1


本書「訳者まえがき」より:

「本書は、一九六四年に初版が出版され、一九七〇年に「アンチロゴスまたは文学機械」の部分を加えた第二版が出版された。邦訳はこの第二版によって、一九七四年に刊行されたが、ドゥルーズは一九七六年に、新たに「狂気の現存と機能――クモ――」を追加した第三版を刊行(中略)したのである。」
「この第三版は、第二版の第八章「アンチロゴスまたは文学機械」を新たに「第二部」として独立させ、それを五章に分割し、そのあとに結論(中略)を追加したものである。」
「そこで、この増補版の翻訳も、本来からすれば新しい構成にしたがって章を立て直すべきものではあるが、さまざまな事情から、(中略)旧版の末尾に新しく「狂気の現存と機能――クモ――」の部分を付け加えるというかたちで刊行せざるをえないので、その点に関して読者のかたがたの諒恕をお願いしたい。」



目次:

訳者まえがき――増補版に際して――

第三版の序
第二版の序

第一章 シーニュ
第二章 シーニュと真実
第三章 習得
第四章 芸術のシーニュと本質
第五章 記憶の二次的役割
第六章 セリーとグループ
第七章 シーニュの体系の多元性
第八章 アンチロゴスまたは文学機械
結論 思考のイマージュ
〔増補版・第二部〕 結論 狂気の現存と機能――クモ――

訳注
訳者あとがき
付録 ドゥルーズとプルースト (宇波彰)



プルーストとシーニュ2



◆本書より◆


「第八章 アンチロゴスまたは文学機械」より:

「罪性が、同性愛のセリーにおいて現れるのは当然のことである。そして、プルーストが、呪われた種族としての男の同性愛の図を描く力が想起されよう。それは、《呪いがかかり、嘘といつわりの誓いの中で暮さねばならぬ種族……母のない子……友情のない友人……罪が見つかるまでの束の間の名誉、しばらくの自由しかなく、不安定な地位しかない。》シーニュとしての同性愛は、ギリシャ的なもの、ロゴスとしての同性愛に対立する。しかし読者は、この罪性が、現実的であるよりも外見的なものだという印象を持つ。そして、もしもプルースト自身が、自分の計画の独自性について語り、彼自身、多くの《理論》を経過したのだと宣言するとすれば、それは、彼が呪われた同性愛を特別に孤立させることでは満足しないからである。呪われた種族、あるいは、罪ある種族というテーマは、すべて、植物の性についての無実のテーマとからまり合っている。プルーストの理論の複合性が偉大なのは、それがいくつかのレヴェルを動かしているからである。第一のレヴェルでは、異性間の愛の集合体が、その対照と反復において示される。第二のレヴェルでは、この集合体が、二つのセリーまたは方向に分割される。ひとつは、ゴモラのセリーまたは方向で、(中略)もうひとつはソドムのセリーまたは方向で、(中略)もしこの第二のレヴェルが最も深いものでないとすれば、それはまさにこのレヴェルが、それが分解する集合体と同じく統計学的なものだからである。この意味において、罪性は、道徳的または内化されたものとしてよりも、むしろ社会的なものとして体験される。」
「すでに、同性愛のふたつのセリーの中で、プルーストが関心を持っているもの、また、このふたつのセリーを、厳密にたがいに補うものにしているもの、それは、それらのセリーが実現する分離の予言である。(中略)しかし、もしふたつの性が、同じ個人の中で、同時に存在しまた分離されていることを考えるならば、つまり、最初の両性具有という神秘の中で、ふたつの性は隣接してはいるが、区別され、コミュニケーションがないということを考えるならば、箱または閉ざされた壺という隠喩が、その完全な意味を持つことになるだろう。ここで、植物のテーマが、生きている大きなロゴスとの対立で、完全な意味を持つに至る。両性具有は、今ではなくなってしまった動物的全体性の特質ではなく、同一の植物に、ふたつの性が実際に閉じこめられていることである。《男性器官は、女性器官とは、ひとつの壁によって分離される。》そしてそこに、第三のレヴェルが位置づけられる。与えられた性を持った個人(しかし、与えられた性は、かならず全体的または統計学的である)は、おのれの内部に、それと直接のコミュニケーションができない異性を含んでいる。(中略)第一のレヴェルは、異性間の愛の統計学的集合体によって規定された。第二のレヴェルは、これも統計学的な、ふたつの同性愛的方向によって規定された。(中略)しかし、第三のレヴェルは、両性にわたるものであり(《まちがって同性愛と呼ばれているもの》)、集合体も個人をも越えている。第三のレヴェルは、個人の中に、コミュニケーションのない、部分的事物であるふたつの性の断片の共存を示している。その結果それは植物と同じようになる。つまり、両性具有体は、その女性的部分が生殖でき、あるいは、その男性的部分が、生殖させる力を持つためには、ひとつの第三者(昆虫)を必要とする。異常なコミュニケーションが、区別された性のあいだを横断する次元で形成される。」

「それが帰属する全体の中で、意味を発見すべき器官でありオルガノンであるロゴスに対して、機械であり機械装置であるアンチロゴスが対立する。そしてこのアンチロゴスの意味は、単に機能にのみ依拠するのであり、そしてその機能は、分離された部分に依存する。現代の芸術作品には、意味の問題はない。使用の問題があるだけである。
 なぜ機械なのか。このように理解された芸術作品は、本質的に生産的であり、それも真実を生産するものだからである。」

「問題は、プルーストによって、いくつかのレヴェルで提起されている。ひとつの作品を統一させるものは何か。われわれと作品のあいだに、《コミュニケーションをさせる》ものは誰か。芸術の統一性があるとすれば、それを作るのは誰か。部分をまとめるひとつの統一、断片を全体化するひとつの全体を、われわれは探求することを断念した。なぜならば、有機体的全体性としてのロゴスも、論理的統一としてのロゴスも、いずれも拒否するのが、部分または断片の、特性であり、性質だからである。しかし、それらの断片の全体としての、この多様なものの、この多様性の統一であるところのひとつの統一が、存在するし、また存在しなくてはならない。つまり、原理ではなく、多様なものと、その分裂した部分の《効果》であるようなひとつのもの、ひとつの全体が存在しなくてはならない。このひとつのもの、ひとつの全体は、原理としては作用せず、効果として、機械の効果として機能するであろう。それはひとつのコミュニケーションであって、原理として措定されるものではなく、機械と、その分解された部分品、コミュニケーションのないその部分の運動の結果として生まれてくるものであろう。哲学的には、閉ざされた部分、あるいは、コミュニケーションのないものから結果するコミュニケーションという問題を最初に提起したのは、ライプニッツである。戸口も窓もない《モナド》のコミュニケーションを、どのように構想すべきであろうか。ライプニッツの巧みな答は、つぎの通りである。つまり、閉ざされたモナドは、その属性の無限のセリーの中で、同一の世界を展開・表現することにより、また、それぞれのモナドが、他のモナドとは異なった、明確な表現の領域を持って満足することにより、したがってすべてのモナドが、神が展開せしめる同じ世界についての異なった視点であることにより、すべての同じ材料を処理する、というのである。このようにして、ライプニッツの答は、神というかたちのもとに――この神は、それぞれのモナドの中に、世界または情報についての同じ材料を入れ(《予定調和》)、また、孤立したモナドのあいだに、自発的な《対応》を基礎づける神であるが――あらかじめ存在する。統一と全体性とを回復する。プルーストにとっては、もはやそのような見方は不可能である。彼にとっては、さまざまな世界が、その世界に対する視点に対応し、また、統一性・全体性・コミュニケーションは、機械の結果としてのみありうるものであって、あらかじめ存在する材料を構成するものではない。」
「多様なカオスに還元されたひとつの世界においては、統一性として役立つものは――それもあとからであるが――、他のものにかかわらない限りでの、芸術作品の形式的構造だけである。しかし、すべての問題は、この形式的構造の基盤を知ることであり、また、この形式的構造によってのみ可能となる統一性を、どのようにしてもろもろの部分を文体に与えるかを知ることである。ところで、プルーストの作品における横断的次元、横断性が、非常にさまざまな方向で重要であることについては、すでに述べた通りである。この横断性によって、汽車の中で、ひとつの風景についてさまざまな視点を統一することではなく、この横断性に固有の次元にしたがって、またその次元のなかで、それらの視点とのあいだにコミュニケーションをさせることが可能となるのであり、それらの視点に固有の次元によってでは、相互のコミュニケーションはできない。この横断性によって、メゼグリーズの方とゲルマントの方との特異な統一と全体性とが可能になり、しかも両者の差異または距離がなくなることはない。《それらの道のあいだにいくつかの横断線ができた。》この横断性が、冒涜の基礎となり、いつも蜜蜂が訪れている。蜜蜂は、それ自体では区別されている二つの性を連絡させる、横断的な昆虫なのである。ひとつの光が、或る宇宙から、天文学的世界と同じほど異なった別の宇宙へと確かに伝わるようにするのもこの横断性である。したがって、新しい言語上の約束や、作品の形式的構造は、横断性である。それはすべての文章を横切り、書物全体の中で、ひとつの文章から別の文章へと移行し、『失われた時を求めて』を、プルーストが愛した、ネルヴァル、シャトーブリアン、バルザックなどの本と結びつける。なぜならば、もしもひとつの芸術作品が公衆とコミュニケーションを作り、さらに彼らに刺激を与えるならば、また、その作品が、同じ芸術家のほかの作品とコミュニケーションを作り、それらの作品を刺激するならば、また、他の芸術家の作品とコミュニケーションを作り、その作品ができるようにと刺激するならば、それは常にこの横断性の次元においてである。この次元では、統一性と全体性がそれ自体で確立されて、対象または主体を統一したり全体化したりすることはない。(中略)この次元は、さまざまな視点を互いに入りこませ、閉ざされたままの、閉じられた壺にコミュニケーションをさせる。(中略)彼らはそれぞれ囚われた者で、みな横断的にコミュニケーションをするのである。これが語り手の時間であり次元であって、これはそれらの部分を全体化しないままで、それらの全体であり、統一しないままで、それらすべての部分の統一性であるという力を持っているのである。」











































































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ジル・ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 (足立和浩 訳)

「無責任、この最も高貴にして最も美わしきニーチェの秘密。」
(ジル・ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『ニーチェと哲学』 (新装版)
足立和浩 訳


国文社 昭和57年7月20日新装版第1刷発行
/昭和62年2月10日新装版第4刷発行
358p 
A5判 丸背クロス装上製本 カバー 
定価3,500円




本書「訳者あとがき」より:

「本書は Gilles Deleuze, Nietzsche et la philosophie, P.U.F., 1962. の全訳である。」


ニーチェと哲学1


目次:

第一章 悲劇的なもの
 1 系譜の概念
  価値と価値評価
  批判と創造
  系譜という語の意味
 2 意味
  意味と力
  多元論
  解釈と意味
  「高次の段階だけが重要である」
 3 意志の哲学
  力と力との関係:意志
  根源〔起源〕と位階序列
 4 弁証法との対立
  差異と矛盾
  弁証法にたいする奴隷の影響
 5 悲劇の問題
  悲劇的なものについての弁証法的な考え方と『悲劇の誕生』
  悲劇の誕生についての三つのテーマ
 6 ニーチェの発展
  悲劇の誕生における新たな境位
  肯定
  ソクラテス
  キリスト教
 7 ディオニュソスとキリスト教
  生の容認あるいは生への敵対
  弁証法的思惟のキリスト教的性格
  弁証法的思惟とディオニュソス的思惟との対立
 8 悲劇的なものの本質
  悲劇的なものと歓び
  劇から英雄へ
  生存の意味と正義
 9 存在〔生存〕の問題
  罪ある生存とギリシャ人たち
  アナクシマンドロス
  負い目ある生存とキリスト教
  無責任の価値
 10 存在と無垢
  無垢と多元論
  ヘラクレイトス
  生成と生成の存在、多と多の一
  永遠回帰あるいは歓び
 11 骰子(さいころ)ふり
  二つの時間
  偶然と必然:二重の肯定
  骰子(さいころ)ふりと機会(チャンス)の計算との対立
 12 永遠回帰のための諸帰結
  偶然の料理
  混沌(カオス)と循環的運動
 13 ニーチェの象徴法
  大地、火、星
  アフォリズムと詩の重要性
 14 ニーチェとマラルメ
  類似
  対立:偶然の廃滅か、肯定か?
 15 悲劇の思想
  ニヒリズムの対抗手段としての悲劇的なもの
  肯定、歓び、創造
 16 試金石
  ニーチェと他の悲劇的哲学者たちとの差異
  パスカルの賭け
  ニヒリズムと怨恨の問題の重要性

第二章 能動と反動
 1 身体
  身体は何をなし得るか
  意識にたいする身体の優越性
  身体の能動的、反動的、構成的な力
 2 力の区別
  反動
  有機体についての反動的な考え方
  可塑的で能動的な力
 3 量と質
  力の量と質
  質と量的差異
 4 ニーチェと科学
  量についてのニーチェの考え方
  永遠回帰と科学
  永遠回帰と差異
 5 永遠回帰の第一の側面。宇宙論的、物理学的教説としての永遠回帰
  最終状態についての批判
  生成
  生成と永遠回帰との総合
 6 力(への)意志とは何か
  力の差異的な(系譜学的な)境位としての力(への)意志
  力(への)意志と力
  永遠回帰と総合
  カントにたいするニーチェの位置
 7 ニーチェの用語法
  能動と反動、肯定と否定
 8 根源と転倒した像
  反動と否定との結合
  ここからいかにして差異の転倒した像が生まれるか
  能動的な力はいかにして反動的になるか
 9 力の測定の問題
  「弱者にたいしてはつねに強者が擁護されねばならない」
  ソクラテスの誤謬
 10 位階序列
  自由思想家と自由精神
  位階序列
  能動と反動という語のさまざまな意味
 11 力(への)意志と〈力〉の感情
  力(への)意志と感性(パトス)
  力の生成
 12 力の反動化〔反動的生成〕
  反動的生成〔反動化〕
  人間への嫌悪
  孤立させる思惟としての永遠回帰
 13 意味と価値の相反的両立性(アンビヴァランス)
  反動の相反的両立性
  反動的諸力の多様性
  反動と否定
 14 永遠回帰の第二の側面。倫理的、選択的な思想としての永遠回帰
  選択的思想としての永遠回帰
  第一の選択:中途半端な意志の排除
  第二の選択:ニヒリズムの完成、否定の変質
  反動的な力は回帰しない
 15 永遠回帰の問題
  反動的生成〔反動化〕
  全体と瞬間

第三章 批判
 1 人間諸科学の変容
  科学の反動的モデル
  能動的な〔科〕学に向けて。言語学
  医者、芸術家、立法者としての哲学者
 2 ニーチェにおける問いの立て方
  「とは何か」という問いと形而上学
  「誰?」という問いとソフィストたち
  ディオニュソスと「誰?」という問い
 3 ニーチェの方法
  「誰?」=「彼は何を意志しているか?」
  劇的構成の方法:差異的、類型学的、系譜学的な方法
 4 先人たちとの対立
  意志の哲学における三つの誤謬
  〈力〉を表象の対象にすること
  〈力〉を既成の価値に依存させること
  〈力〉を闘争や闘いの目的にすること
 5 ペシミズムとショーペンハウアーへの対立
  いかにして哲学はその誤謬によって意志を制限ないしは否定さえせねばならなくなるか
  ショーペンハウアー、このような伝統の帰着点
 6 意志の哲学のための諸原理
  意志、創造、歓び
  〈力〉は意志が意志するものではなく、意志の中で意志する主体である
  贈り与える徳
  差異的、批判的な境位
 7 『道徳の系譜』の見取図
  真の批判を行うこと
  『道徳の系譜』における三つの論文:誤謬推理、アンチノミー、理想
 8 原理の観点からみたニーチェとカント
  カント的批判の不十分性
  いかなる意味においてカント的批判は全く「批判」ではないのか
 9 批判の実現
  批判と力(への)意志
  超越論的原理と系譜学的原理
  立法者としての哲学者
  「カントの成功は神学者の成功であるにすぎない」
 10 諸帰結の観点からみたニーチェとカント
  非合理主義と批判の審級
 11 真理の概念
  劇的構成の方法の実施
  思弁的対立、道徳的対立、禁欲主義の矛盾
  生より優れた価値
 12 認識、道徳、宗教
  二つの運動
  「最も恐るべき推論」
 13 思惟と生
  認識と生との対立
  生と思惟との親縁性
  生の新たな可能性
 14 芸術
  意志の刺戟剤としての芸術
  虚偽の高次の力としての芸術
 15 思惟の新たなイメージ
  真理の教説における諸要請
  思惟の境位としての意味と価値
  低俗さ
  哲学の役割:彗星としての哲学者
  反時代的なもの
  方法と文化との対立
  文化はギリシャ的か、ドイツ的か
  思惟と三つのエピソード

第四章 怨恨からやましい良心へ
 1 反動と怨恨
  反撃としての反動
  活動する不能性としての怨恨
 2 怨恨の原理
  フロイトにおける局所的仮説
  ニーチェによる刺戟と痕跡
  いかにして反動は活動的であることをやめるか
  すべては反動的諸力相互のあいだで行われる
 3 怨恨の類型学
  怨恨の二つの側面:位相学的側面と類型学的側面
  復讐心
  痕跡の記憶
 4 怨恨の諸特徴
  賞讃することの不能性
  受動性
  非難
 5 よい(善)か、わるい(悪)か
  私はよい、ゆえにおまえはわるい
  おまえはわるい、ゆえに私はよい
  奴隷の観点
 6 誤謬推理
  子羊の三段論法
  怨恨における虚構のメカニズム
 7 怨恨の発展。ユダヤ教の僧侶
  位相学的側面から類型学的側面へ
  僧侶の役割
  ユダヤ教的形態における僧侶
 8 やましい良心と内面性
  自己への方向転換
  内面化
 9 苦痛の問題
  やましい良心の二つの側面
  苦痛の外的意味と内的意味
 10 やましい良心の発展。キリスト教の僧侶
  キリスト教的形態における僧侶
  罪
  キリスト教とユダヤ教
  やましい良心における虚構のメカニズム
 11 先史的観点から考察された文化
  訓育と選択としての文化
  人間の類的活動性
  約束(パロール)〔言葉〕の記憶
  負債と罰の方程式
 12 後史的観点から考察された文化
  文化の産物
  主権者的個人
 13 歴史的観点から考察された文化
  文化の方向転換
  火の犬
  いかにしてやましい良心という虚構は必然的に文化に接木されるのか
 14 やましい良心、責任、有罪性
  責任の二つの形態
  反動的諸力の連合
 15 禁欲主義の理想と宗教の本質
  多元論と宗教
  宗教の本質あるいは親縁性
  反動的な力と無への意志との同盟:ニヒリズムと反動
 16 反動的な力の勝利
  総括的一覧表
 
第五章 超人。弁証法との対立
 1 ニヒリズム 
  nihil とは何を意味するか
 2 同情の分析
  三つのニヒリズム:否定的ニヒリズム、反動的ニヒリズム、受動的ニヒリズム
  神は同情によって死んだ
  おしまいの人間たち
 3 神は死んだ
  劇的な命題
  「神は死んだ」ということの意味の多様性
  ユダヤ教的意識、キリスト教的意識(聖パウロ)、ヨーロッパ的意識、仏教的意識
  キリストと仏陀
 4 ヘーゲル主義との対立
  弁証法における普遍と特殊
  諸対立の抽象的性格
  弁証法に向けられた「誰?」という問い
  弁証法における虚構、ニヒリズム、反動
 5 弁証法の転変
  弁証法の歴史におけるシュティルナーの重要性
  再所有化の問題
  自我の理論としての弁証法
 6 ニーチェと弁証法
  超人と価値転換の意義
 7 ましな人間についての理論
  ましな人間の多様な諸人格
  ましな人間の相反的両立性(アンビヴァランス)
 8 人間は本質的に「反動的」か
  人間は反動的生成〔反動化〕である
  「あなたがたは失敗の作品である」
  能力と肯定
  ましな人間に関するニーチェの象徴法
  二匹の火の犬
 9 ニーチェと価値転換。焦点
  自己克服を果した、完成したニヒリズム
  力(への)意志:認識根拠と存在根拠
  没落を欲する人間、あるいは能動的否定
  否定の方向転換、転換の地点
 10 肯定と否定
  ロバの然り
  ツァラトゥストラの猿、悪魔
  積極的なものの否定性
 11 肯定の意味
  ロバとニヒリズム
  いわゆる現実の積極性〔肯定性〕との対立
  「現代の人間たち」
  肯定するとは荷を負うことでも、引受けることでもない
  存在の理論との対立
 12 二重の肯定。アリアドネ
  肯定の肯定(二重の肯定)
  アリアドネの秘儀、迷宮
  肯定された肯定(二次的な力)
  差異、肯定、永遠回帰
  ディオニュソスの意味
 13 ディオニュソスとツァラトゥストラ
  選択としての存在
  ツァラトゥストラと価値転換:獅子
  価値転換から永遠回帰へ、またその逆
  笑い、歓び、舞踏

結論

原註
訳註

ドゥルーズのニーチェ論 (足立和浩、初出は「現代思想」1974年6月号)
訳者あとがき (足立和浩、1974年6月2日)



ニーチェと哲学2



◆本書より◆


「周知のように、ニーチェの闘いは二重である。批判の作業から価値問題を分離し、実在の諸価値の一覧表を作製して既成の諸価値の名において種々の事柄を批判することに満足している人々、すなわちカントやショーペンハウアーなどのような「哲学の労働者たち」にたいする闘い。しかしまた同時に、諸価値をたんなる諸事実、いわゆる客観的諸事実から引き出すことによって諸価値を批判したり尊重したりする人々、すなわち功利主義者や「科学者たち」にたいする闘い。」
「ニーチェは系譜〔学〕という新しい概念を形成する。哲学者とは系譜学者であって、カント流の裁判官でも、功利主義者流の機械組立工でもない。(中略)ニーチェは、カントの普遍性の原理や功利主義者たちの類似性の原理の代りに、差異や距離(差異的な境位)の感情をもってくる。」
「系譜とは、諸価値の差異的な境位を意味しており、諸価値の価値そのものの発生源である。それゆえ、系譜とは起源あるいは誕生のことであるが、また起源における差異や距離のことでもある。」
「ニーチェは批判の能動性を、復讐や遺恨や怨恨と対比させる。(中略)批判は怨恨〔反作用的感情〕(re-sentiment)という反作用〔反動〕的行為(ré-action)ではなく、能動的実存様式の能動的表現である。つまり、攻撃であって復讐ではなく、存在様式からくる自然的攻撃性であり、神性な悪意――これなくしては完成というものを考えることはできないだろう――である。このような存在様式は哲学者のものである。なぜなら、哲学者は差異的な境位を批判的かつ創造的なものとして、それゆえ一つのハンマーとして、操作することをまさしく提案するからである。(中略)このような系譜という考えによって、ニーチェは多くのものを待ち受けている。すなわち、諸科学の新たな編成、哲学の新たな組織化、未来の諸価値の確定、を。」

「ニーチェ哲学の本質的多元論を考慮に入れないかぎり、ニーチェの哲学は理解されない。そして本当のことを言えば、多元論(別な風に言えば経験論)は哲学そのものと一つでしかない。多元論とは哲学が生みだした本来的に哲学的な思惟方法である。つまり、具体的精神における自由のただひとつの保証であり、暴力的な無神論の唯一の原理である。神々は死んだ。しかし神々は、一人の神がわれこそ唯一の神なりと言うのを聞いて、抱腹絶倒したのである。「神々は存在する。しかし唯一の神など存在しない。それでこそ神聖なのではあるまいか。」そして、われこそ唯一の神なりと言ったそのような神の死は、それ自体複数的である。神の死は、多数の意味をもつ一つの事件だからだ。それゆえ、ニーチェは騒々しいさまざまな「大いなる事件」を信じず、それぞれの事件の意味の沈黙した多数性を信じる。複数の意味をもたぬような事件や現象は一つとしてなく、またそのような言葉や思想も一つとして存在しない。或る事象は、この事象を捕えている諸々の力(神々)に応じて、これであったり、あれであったり、またもっとこみいっていたりする。ヘーゲルは多元論を、最も低次の諸要求をつぶやく幼児のように「これ、あれ、ここ、いま」と語ることに満足している素朴な意識と同一視することによって、嘲笑しようとした。〔ところが〕一つの事象は幾つかの意味をもつという多元論的な考え方のうちには、そしてまた、幾つかの事象が存在し、同一の事象が「これであり、次にはあれである」という考え方のうちには、哲学の放棄や幼年時代ではなく、哲学の最高の勝利、真なる概念の勝利、哲学の成熟があるということがわかる。」
「新たな力が出現し、一つの対象をわがものとなし得るのは、ただ、すでにその対象を占有している先行の諸力の仮面をそもそものはじめから身につけることによってのみである、ということを考えるなら、解釈の複雑性というものが明らかになってくる。仮面や策略は自然の法則であり、それゆえ仮面や策略以上のものである。生はそのはじめから、たんに可能となる為にだけでも、物質を模倣しなくてはならない。一つの力は、自分と敵対する先行の諸力の風貌をまず最初には借り受けるのでなければ、生き残ることはできないであろう。かくして哲学者は、哲学の出現以前に世界を支配していた僧侶や(中略)宗教的な人間の瞑想的な様子をしていなければ、誕生し成長しても、まったく生き残るチャンスをもち得ないだろう。(中略)哲学がその仮面を征服することができるのは、ただそれに新たな意味を与え、遂にはその反宗教的な力の真の本性を表現することによってのみである。おわかりのように、解釈の技術はまた可面の裏側を読みとる技術でもあって、誰が仮面をかぶっているのか、なぜに、またいかなる目的で人々は仮面の型をつくり直しつつその仮面を温存しているのか、ということを発見する技術である。(中略)出生〔起源〕(origine)における差異は最初から現われるわけではない。(中略)哲学が偉大になったときにはじめて、哲学の本質あるいは系譜を把えることができ、哲学が当初それと混同されることをおおいに懸念していたところのものすべてと、哲学そのものとを区別することができる。あらゆる事柄について、このようなことが言える。「あらゆる事柄において、より高次の段階だけが重要である。」というのは、問題が起源〔出生〕の問題ではないからというわけではなく、系譜として考えられた起源〔出生〕がより高次の諸段階との関連においてしか決定され得ないからなのである。」

「多元論は時として弁証法の外観を呈することがある。が、多元論は弁証法のこのうえなく獰猛な敵であり、唯一の根本的な敵である。それゆえわれわれは、ニーチェ哲学の断固たる反弁証法的な性格を真面目に受け取らなければならない。」
「反=ヘーゲル主義は、攻撃性の糸としてニーチェの作品をつらぬいている。」
「否定、対立あるいは矛盾といった思弁的境位を、ニーチェは肯定と享楽との対象である差異という実践的境位に置きかえる。」
「意志が意志すること、それはその意志がもつ差異を肯定することである。意志は、他の意志との本質的関係の中で、自身のもつ差異を肯定の対象とする。「自分が差異をもっていることを知る歓び」、差異の享楽、これが攻撃的で軽快な新しい概念の境位である。」
「差異は、本質と不可分でかつ存在を構成するものでもある実践的な肯定の対象である。ニーチェの「然り」は弁証法の「否」に対立し、差異は弁証法的な矛盾に、歓びや享楽は弁証法的な苦役に、軽やかさや舞踏は弁証法的な鈍重さに、美わしき無責任は弁証法的な責任に、それぞれ対立するのだ。差異についての、簡単に言えば位階序列についての、経験的な感情、これが矛盾についてのあらゆる思弁よりも有効で根本的な概念の本質的原動力である。」

「ディオニュソスは、現われるものすべてを、「このうえなく苛烈な苦悩さえも」肯定し、いっさいの肯定されるもののうちに現われる。多様な肯定、あるいは多元論的な肯定、これが悲劇的なものの本質である。(中略)そのためには、多元論の努力と才能とが、また変身の能力、ディオニュソス的八ッ裂きが、必要である。ニーチェに苦悶と嫌悪が現われるのは、つねに次の点に関してである。つまり、いっさいは肯定の対象に、すなわち歓びの対象に、なり得るだろうか、ということだ。」
「悲劇的であるもの、それは歓びである。だがこのことは、悲劇は直接的に歓びに満ちており、悲劇に恐怖したり同情したりするのは、その道徳的昇華作用や医学的下剤作用といった(中略)効果を悲劇にあてこんでいる鈍感な観客や病的で道学者ぶった聴衆だけなのだ、ということを意味している。」
「多様な肯定の論理、それゆえ純粋な肯定の論理、そしてその論理に対応する歓びの倫理、これが、ニーチェ哲学の全体を貫いている反弁証法的で反宗教的な夢である。悲劇的なものは、否定と生との関係に基づくのではなく、歓びと多様なもの、積極的なものと多様なもの、肯定と多様なもの、との本質的関係に基づくのだ。「英雄〔主人公〕は陽気である。このことを、悲劇の作者たちは今まで見損ってきたのである。」悲劇、この率直で躍動する陽気さ。」
「陽気な英雄、軽やかな英雄、舞踏する英雄、戯れる英雄。われわれを軽やかにし、われわれに舞踏することを教え、われわれに遊戯の本能を与えるのが、ディオニュソスの任務である。」

「おまえが悪い、おまえが悪いと言われ続けると、ついには告発されている者が「私は悪い」と言うようになり、絶望的な世界の中にはこのような嘆きの声とその反響がひびき渡るようになる。(中略)ニーチェは怨恨(おまえが悪い)、やましい良心(私が悪い)、及びそれらの共通の結果(責任)のうちに、たんなる心理学的出来事をみるのではなく、セム人的キリスト教的な基本的思惟カテゴリー、存在一般を思惟し解釈するわれわれのやり方、を見る。新たな理想、新たな解釈、別の思惟方法、ニーチェはこのようなものを自己の課題とする。「無責任というものにその積極的な意味を与えること。」「私が望んだのは、全き無責任という感情をかちとり、自分を讃辞と非難から、また現在と過去から、独立させることであった。」無責任、この最も高貴にして最も美わしきニーチェの秘密。」












































































ジル・ドゥルーズ 『ニーチェ』 (湯浅博雄 訳/ポストモダン叢書 新装版)

「今日では、天才とは一粒の良識の代わりに一粒の狂気を身につけている人である、という言葉をよく耳にするけれども、古い時代の人々にとっては、およそ狂気の存するところには必ず一粒の天才と知恵が存する(中略)という考え方のほうが、ずっと身近なものであった。いやむしろ彼らは、もっと明確に言いきった――「最も偉大な、数々の恩恵をギリシアにもたらしたものは、狂気なる者である」」
(ニーチェ)
(ジル・ドゥルーズ 『ニーチェ』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『ニーチェ』 (新装版)
湯浅博雄 訳

ポストモダン叢書 8

朝日出版社 1985年6月25日第1刷発行
/1987年1月10日第3刷新装版発行
/1988年4月20日第4刷発行
216p 目次1p 著者・訳者紹介1p
四六判 丸背紙装上製本(薄表紙) カバー
定価2,100円
photo: hatsuhiko okada
design: seiichi suzuki



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Gilles Deleuze, Nietzsche, Collection SUP 《Philosophes》, Presses Universitaires de France, 1965. の全訳である。」


ニーチェ1


目次:

生涯
哲学
ニーチェ的世界の主要登場人物辞典

ニーチェ選集

ニーチェの著作
関係書誌


訳者あとがき



ニーチェ2



◆本書より◆


「生涯」より:

「彼の健康までもが失われた。激しい頭痛や胃痛、視覚障害、言語困難などに悩まされるのである。彼は教職を断念することになる。「病気が私をゆっくりと解放してくれた。病気のおかげで私は、仲たがいをしなくてもすむようになったし、波風の立つ、厄介な奔走に苦しまなくてもよくなった……。病気は私に、自分の習慣を根本的に変える権利を授けてくれた。」」

「彼の病いはますます重くなった。「読むことができない! 書くこともめったにできない! 誰一人訪れることもなく、音楽を聴くことさえかなわぬ!」一八八〇年に彼は自分の状態を次のように書いている。「苦痛が絶え間もないのです。毎日何時間にもわたって船酔いに似た嫌な感覚が続き、半ば身体が麻痺しているせいで言葉がうまく話せません。そしてそれを忘れさせるのは、狂ったような発作だけなのです(以下略)」」

「彼はむしろ病いのなかに、健康に対する一つの視点を見出す。そして健康のなかに、病いに対する一視点を見出すのである。「病者のうちにより健康な諸概念、より健康な諸価値を見てとること、次には逆に豊かな生命の高み、あり余るほどの自信に充ちた生命の高みから、衰退(デカダンス)の本能が秘かに作動している深みへと眼差しを投じること、これこそ私がしばしば自分を鍛えた実践なのである……」」



「哲学」より:

「ひとが神の代わりに人間をすえたとき、つまり神を逐ったように見えて、実はその本質部分を(中略)保持したとき、ひとは神を殺しただろうか? 唯一生じた変化は次のことだけである。人間は外から荷物を担わされる代わりに、自分自身で重荷を手に取り、背中に背負ったのである。未来の哲学者、医者である哲学者は、いろいろ異なった症候の下に同一の病いが継続していると診断を下すであろう。」
「ニーチェは、諸価値の転倒=転換を実行するためには、神を殺すだけでは十分でないということを、われわれに教えてくれた最初の人である。」
「ニーチェの言わんとすることは、人間がある外的な権威を必要としなくなって、これまで受動的に禁じられていたものを自分自身で禁止し、自発的に警察力と重荷を背負うとき、つまりもはや外から来るとは思えない禁圧の力や重荷を自ら引き受けるとき、人間はさらにいっそう醜くなったということである。こうして哲学の歴史は、ソクラテス学派からヘーゲル主義者に至るまで、人間の長い服従の歴史であり、その服従を正当化するために人間が自分に与える数々の理由の歴史なのである。(中略)それは歴史における一つの事実というのではなくて、歴史の原理そのものであり、われわれの思想や生を、腐敗の症候として決定したさまざまな事件のほとんど大部分は、その原理に由来するのである。従って未来の哲学としての真の哲学は、永遠の哲学ではないのと同様に歴史的な哲学でもない。それは反時代的、つねに反時代的でなければならない。」

「全てが逆立ちしている。奴隷たちが主人と名のり、虚弱者たちが強者と自称し、低劣さが高貴さと呼ばれる。あたかもある人間は、彼が荷を担うからこそ強く、高貴であるかのごとくみなされる。(中略)価値評価はこれほど歪曲されているので、荷を担う者は奴隷であるということ、彼が背負っているのは奴隷という状態であること、(中略)すなわち創造者の、舞踊者の正反対だということ――が、もはや見えなくなっているのである。」
「ニーチェの考えでは、神の死は騒々しい大事件であるが、しかしけっして十分ではない事件なのである。なぜならニヒリズムは持続し、ほとんど形を変えないからである。以前ニヒリズムは、高位の価値の名において生の価値を貶めること、生を否定することを意味した。そしていまやこれらの高位の価値を否定すること、それらの代わりに人間的な――あまりに人間的な価値を置くことを意味するのである(道徳が宗教にとって代わる。有用性、進歩、歴史そのものが神聖な諸価値にとって代わる)。なにも変わっていない。なぜなら同じ反動的な生、同じ奴隷状態のままであって、かつては神聖な価値に守られて勝利していたのが、いまは人間的な価値によって勝ち誇るだけだからである。同じ担い手、同じ〈驢馬〉のままであって、それがかつては神の御前で責任をもって引き受けた聖なる遺物の重荷を背負っていたのが、いまや自分の責任において、一人で自分自身を担うだけのことだからである。さらには、ニヒリズムの砂漠へ向かってもう一歩踏み出したとさえ言えよう。というのは、いまやひとはあらゆる〈現実(ル・レエル)〉を把握するのだと自負することになるのだが、実はひとが把握しているのは、(中略)反動的な諸力と虚無の意志の残滓だけなのである。だからこそニーチェは(中略)彼が「高位の人間たち」と呼ぶひとびとの大いなる悲惨を描いているのである。高位の人間たちは神にとって代わろうと望み、人間的な諸価値を担い、さらには〈現実〉を再発見するのだとさえ、また肯定の意味を取り戻し、回収するのだとさえ信ずる。しかしながら彼らに可能な唯一の肯定は、ただ驢馬の〈然り(ウィ)〉だけ(中略)なのである。すなわちニヒリズムの産物を自分自身で背負う反動的な力、そして一つの〈否(ノン)〉を担うたびごとに〈然り(ウィ)〉と言うのだと信じこむ反動的な力だけなのである。」
「そうして〈高位の人間たち〉の後には、最後の人間が出現する。「一切は空しい、むしろ受動的に消え去ることだ! 虚無の意志よりもむしろ意志の虚無だ!」と呟く最後の人間が現われるのである。しかしながらこういう決裂を発条として、こんどは虚無の意志が反動的な諸力に敵対するようになり、反動的な生それ自身を否定しようとする意志になる。そして人間に、自分自身を能動的に破壊したいという欲求を抱かせるのである。最後の人間を超えた彼方には、だからさらにまだ滅びようと望む人間がいるのである。そしてニヒリズムが成就するこの地点において(すなわち〈真夜中〉において)、全てが準備されているのである――つまり価値転換への準備がととのうのである。」
「ツァラトゥストラとは、純粋な肯定なのである。が、その肯定は、否定を一つの能動へと変え、肯定する者、作り出す者に役立つ一つの審級へと変えることによって、まさしく否定を、その最高段階へともたらすのである。」
「価値転換とは、肯定-否定の諸関係をこのように転倒することを意味するのである。ただし価値転換とは、ニヒリズムの後で、その出口においてしか可能でないことが見てとれるだろう。否定がついに反動的な諸力に叛旗を翻し、それ自身一つの能動となり、上位の肯定に奉仕するよう移行するためには、人間たちの最後の者にまで至らねば、そして次には滅びようと望む人間にまで至らねばならなかったのである。(ニヒリズムの克服、しかしニヒリズム自身による克服……というニーチェの言い回しは、この点に由来するのである。)
 肯定とは意志の最高の〈力〉である。しかしなにが肯定されるのか?」
「むしろそれは多数多様なものであり、また生成ということなのである。ニヒリズムは生成を、罪を償わねばならないなにものか、そして〈存在〉のうちへと吸収され、解消されるべきなにものかとみなしている。また多数多様なものを、なにか不当なもの、裁かれるべきもの、そして〈一なるもの〉のうちへ吸収・解消されるべきものとみなしている。生成と多数多様は有罪である、というのがニヒリズムの最初の言葉であり、かつ究極の言葉なのである。」
「それとは正反対に、価値転換の第一の形象は多数多様と生成を、最高の〈力〉にまで引き上げる。」
「多数多様なものは多数多様として肯定され、生成することは生成として肯定される。ということはつまり肯定はそれ自身多数多様であり、また同時に肯定はそれ自身生成する、ということである。そして生成と多数多様はそれら自身肯定である、ということである。よく理解された肯定のうちには、鏡の戯れのようなものがある。(中略)価値転換の第二の形象は、肯定の肯定である。肯定の二重化、ディオニュソス-アリアドネの神聖なカップルである。」
「ソクラテスは高位の価値の名において、生を裁き、断罪したのであるが、ディオニュソスは生とは裁かれるべきものではないということ、生はそれ自身で十分正しく、十分聖なるものであることを予感していたのである。ところでニーチェがその著作の過程を進むにつれて、真の対立が明らかに現われてくる。もはやソクラテスに対するディオニュソスでもなく、〈十字架にかけられた者〉に対するディオニュソスなのである。両者の殉教は共通のように見えるけれども、この殉教の解釈、価値評価は異なる。なぜなら一方においては、生に敵対する証言と、生を否定することで成り立つ復讐の企てが見られるのであり、他方にあるのは生の肯定なのだからである。すなわち生成と多数多様を肯定すること、ディオニュソスが八つ裂きにされ、手脚がバラバラとなる状態に至るまで肯定することであるから。舞踊、軽やかさ、笑いがディオニュソスの諸特性である。」
「多数多様はもはや〈一なるもの〉に依存することはなく、生成はもはや〈存在〉に依存することはない。しかし〈存在〉や〈一なるもの〉は単にそれらの意味を失うというのではなく、むしろもっとさらに歩を進めるのである。それらはある新しい意味を持つことになるのであるから。というのもいまや〈一なるもの〉とは、多数多様としての(諸々の破片、あるいは断片としての)多数多様なものについてそう言われるのである。〈存在〉とは、生成としての生成についてそう言われるのである。ニーチェ的な転倒とはこのようなことであり、それが価値転換の第三の形象となる。ひとはもはや生成を〈存在〉に対立させないし、多数多様を〈一なるもの〉に対立させない。その逆に、ひとは多数多様の〈一なるもの〉を肯定し、生成の〈存在〉を肯定する。あるいはニーチェが言っているとおり、ひとは偶然の必然を肯定するのである。ディオニュソスは賭博者である。真の賭博者は、偶然を肯定の対象にする。彼は偶然の諸断片を肯定し、偶然の諸要素を肯定する。そしてこの肯定から必然的な骰子の目の数が生まれ、それが再び骰子の一擲を連れ戻すことになるのである。(中略)それは〈永遠回帰〉の賭=戯れなのである。回帰することとは、まさしく生成の存在であり、多数多様の一なるものであり、偶然の必然なのである。」
「ニーチェ独特の秘密は、〈永遠回帰〉とは選択的である、ということである。そして二重に選択的なのである。まず第一に、思想として。なぜかというと〈永遠回帰〉は、全て道徳というものを脱却した意志が自律へと至るために、一つの法則をわれわれに与えてくれるからである。私がなにを欲するにせよ(たとえば私の怠惰、貪欲、卑劣、あるいは私の美徳でもよいし、悪徳でもよい)、私はそれが永遠に回帰することもまた欲するような仕方で、それを欲するのでなければならない。「生半可な意欲」たちの世界はふるい落とされる。「いちどだけ」という条件でわれわれが欲するようなものは、全てふるい落とされるのである。たとえ卑劣さ、怠惰であっても、それらが自らの永遠の回帰を欲するとするならば、怠惰や卑劣さとは別のものになるだろう。それらは能動的になり、そして肯定の〈力〉となるであろう。」
「ただ肯定のみが回帰するのであり、肯定されることが可能なものだけが回帰し、歓びのみが戻ってくる。全て否定されることがありうるもの、全て否定であるものは、〈永遠回帰〉の運動そのものによって追い払われる。(中略)〈永遠回帰〉は車輪に譬えられるはずである。そして車輪の運動は遠心力を授けられており、その遠心力はあらゆる否定的なものを追放するのである。〈存在〉は自分が生成であるとはっきりと告げるのであるから、肯定に反対するあらゆるものを、またニヒリズムと反動のあらゆる形態を、自己から振り払うのである。疚しい心、怨恨……などというものは、ひとはたったいちどしか見ることがないであろう。」
「〈永遠回帰〉は〈反復〉である。が、それは選分ける〈反復〉であり、救う〈反復〉なのである。解き放ち、選分ける反復という驚くべき秘密なのである。
 従って価値転換は、第四の、最後のアスペクトを持つ。それは当然の帰結として超人を含み、生み出すのである。なぜなら(中略)人間とは一つの反動的な存在であり、自らの諸力をニヒリズムと組合わせているからである。〈永遠回帰〉は人間を拒み、追い払う。」

「われわれニーチェの読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違えを避けるようにしなければならない。(一)〈力〉の意志に関して(〈力〉の意志が、「支配欲」を、あるいは「〈力〉を欲すること」を意味すると信じこむこと)。(二)強者と虚弱者に関して(ある社会体制において、最も〈力〉の強い者が、まさにそのことによって「強者」であると信じこむこと)。(三)〈永遠回帰〉に関して(そこで問題となっているのが、古代ギリシア人、古代インド人、バビロニア人……から借りた古いイデーであると信じこむこと。だからサイクルが、〈同一なもの〉の回帰が、同一への回帰が問題となるのだと信じこむこと)。(四)最も後期の諸著作に関して(それらの著作が度を越した行き過ぎであると、あるいは狂気のせいで既に信用を失ったものであると信じこむこと)。」



「ニーチェ的世界の主要登場人物辞典」より:

「占い師――彼は、「一切は空しい」と語る。彼はニヒリズムの最後の段階を告知している。すなわち人間が、神にとって代わろうとするその努力の空しさを推測して、もはや虚無を欲するよりも、一切なにものも意欲しないほうへと傾斜する瞬間を告げている。従ってその占い師は、最後の人間を予告している。ニヒリズムの終極の先触れである彼は、高位の人間たちよりも既に遠くへ行っている。しかし彼に欠けているもの、それは最後の人間を超えたなおまだ彼方にあるもの、滅びようと望む人間、自分自身の没落を欲する人間である。その人間とともに、ニヒリズムは実際に完了し、ニヒリズム自体によって克服される。価値転換と超人は、間近いのである。」

「ツァラトゥストラは彼自身の子供たちによってのり超えられるのである。(中略)彼は人間が、それらの条件のうちで自己をのり超え、のり超えられるような諸条件、〈ライオン〉が〈小児〉へとなるようなあらゆる条件を作り出すことによって、(中略)人間のうちにおける〈超人〉の産出を確実にするのである。」









































































ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ 『カフカ マイナー文学のために』 (叢書ウニベルシタス)

"Il n'y a de grand, et de révolutionnaire, que le mineur. Haïr toute littérature de maîtres. (...) Mais, ce qui est intéressant encore, c'est la possibilité de faire de sa propre langue, à supposer qu'elle soit unique, qu'elle soit une langue majeure ou l'ait été, un usage mineur. Être dans sa propre langue comme un étranger"
Gilles Deleuze/Félix Guattari "Kafka", Les éditions de minuit, 1975, p.48
(偉大で革新的なのはマイナーなものだけだ。巨匠の文学くそくらえ。特殊な言語であれ、メジャーなあるいはかつてメジャーだった言語であれ、自分自身の言語をマイナーなやり方で使用することができるかどうかが関心事なのだ。自分自身の言語においてよそ者のようであること)


ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ 
『カフカ マイナー文学のために』
宇波彰/岩田行一 訳
 

叢書ウニベルシタス
法政大学出版局 1978年7月10日初版第1刷発行/1986年6月30日第8刷発行
202p 四六判 丸背布装上製本 カバー 定価1,800円
Gilles Deleuze/Félix Guattari : Kafka; Pour une littérature mineure, 1975



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「カバーの図版はカフカ自筆の素描。「ミレナへの手紙」(S. Fischer Verlag)より。」


目次

第一章 内容と表現
 うなだれた頭、挙げられた頭
 写真・音

第二章 ふとりすぎのオイディプス
 二重の超越
 社会的三角形、動物への変身

第三章 マイナー文学とは何か
 言語
 政治
 集団的なもの

第四章 表現の構成要素
 愛の手紙と悪魔の契約
 物語と動物への変化
 長篇小説と機械状鎖列

第五章 内在と欲求
 法に対する違反、罪など
 プロセス、隣接・連続・無限定

第六章 セリーの増殖
 権力の問題
 欲求・分節・線

第七章 連結器
 女たちと芸術家
 芸術の反=美的主義

第八章 ブロック・セリー・強度
 カフカによる構築物の二つの状態
 ブロック、そのさまざまなかたちと長篇小説の構成
 マニエリスム

第九章 鎖列とは何か
 言表と欲求、表現と内容

訳注
訳者あとがき (宇波彰)
付録・カフカの表現機械 (宇波彰)



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「ドゥルーズ(右)とガタリ(左)[éditions de minuit のポスターより、1975]」


本書より:

「偉大で、革命的なのは、マイナーなものだけである。大作家たちのすべての文学を憎むこと。(中略)もっと興味があるのは、彼に固有の言語が独自なものであり、それが主要な言語であるか、かつてそうであったと仮定して、その言語についてマイナーな使用をする可能性である。自分の言語のなかで異邦人のようであるというのが、カフカの「偉大な水泳選手」の状況である。独自なものであっても、ひとつの言語はオートミールであり、精神分裂病的な混合物、寄せ集め――それを通してきわめて多様な言語活動の動機と、権力のさまざまな中枢が作用するような寄せ集め――であり、語られうることと語られえないこととを振り分けている。ひとつの機能を別の機能に対して働きかけさせ、相対的な領域性と非領域化の係数が働かせられよう。たとえ多くのひとびとが使う言語であっても、ひとつの言語はそれを創造的な逃走の線にしたがって展開させるような、またきわめてゆっくりしていて慎重なものであるにせよ、今度は絶対的な非領域化をかたち作るような、強度な使用が可能である。創造は単に語彙だけのものではない。語彙はほとんど取るに足らない。犬のように書くためには、冷静なシンタックス的創造が肝心である。(しかし、犬はまったく書かない。)それはアルトーがフランス語についてしたこと、つまり叫び=息であり、別の線にしたがってセリーヌがフランス語についてしたこと、つまり至高点における叫び声である。(中略)ここに真のマイナーの作家がある。言語・音楽・エクリチュールにとってのひとつの出口、それはポップと呼ばれるもの、ポップミュージック・ポップ哲学・ポップエクリチュール、つまりことばの逃走(ヴェルターフルヒト)。自分の言語のなかで、多言語使用をすること、自分の言語についてマイナーまたは強度な使用をすること、この言語の抑圧された特徴を、この言語の抑圧者的な特徴に対立させること、非文化と未開発の地点、言語の第三世界の地帯――そういう場でひとつの言語が逃げて行き、一匹の動物がくっつき、ひとつの鎖列が作られるのだが――を見出すこと。たとえまったく小さなものであっても、何と多くのスタイル、ジャンルまたは文学運動がただひとつの夢、言語の大きな機能を満たし、国家の言語、公式の言語としての仕事をしようと申し出る夢しか持っていないことであろう。(中略)それとは逆の夢を見ること。マイナーなものへの生成変化を作れるということ。」

「動物のなかにあるすべてのものは変身である。そして変身は、動物が人間に変化することと、人間が動物に変化することという同じ回路のなかにある。」
「つまり、人間が、動物に逃げることを強制したり、それを従属させることによって、動物に与える非領域化と、人間がひとりでは考えないような出口または逃走の手段(分裂病的逃走)を人間に示すことによって、動物が人間に提示する非領域化という二つの非領域化があるが、変身はこの二つの非領域化の結合として存在する。そしてこの二つの非領域化のそれぞれが、もうひとつの非領域化に内在し、それを駆り立て、それに境界を越えさせる。」
「そうすると、重要なことは、動物への変化の相対的な遅さなどではない。なぜなら、その変化がどれほど遅くても、また遅ければそれだけ一層、人間が移動し、旅をすることによって自分自身に行う相対的な非領域化に対して、人間の絶対的な非領域化を構成するからである。動物への変化は、動かないまま、その場で行なわれる旅であり、強度においてでなければ体験されたり理解されることのできないものである(強度の境界線を踏み越えること)。
動物への変化には隠喩的なものはない。いかなる象徴表現も、いかなるアレゴリーもない。それはまた、ひとつのあやまちや呪いの結果ではなく、罪性の帰結でもない。アハブ船長の、鯨への変化についてメルヴィルが言うように、それは《パノラマ》であって《福音書》ではない。それは強度を示す地図である。それは、人間がひとつの出口をさぐる限りにおいて彼に付着している、すべてがたがいに異なったもろもろの状態の集合である。それはおのれ自身以外の他のいかなるものについても語ることを望まない、創造的な逃走の線である。」


































































































































ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ 『哲学とは何か』 (財津理 訳)

ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ 
『哲学とは何か』 
財津理 訳


河出書房新社 1997年10月3日初版印刷/同13日初版発行
318p 丸背紙装上製本 カバー 定価3,000円+税
装幀: 戸田ツトム・岡孝治
Gilles Deleuze & Felix Guattari : Qu'est-ce que la philosophie?, 1991



ドナドナドーナードーナー、子牛をのーせーてー。そういうわけで、どうも、私だよ。愛唱歌は「ドナドナ」だよ。梶井基次郎は葉っぱを見ていてじぶんも葉っぱになってしまったけれど、私は子どものころ「ドナドナ」をきいて子牛になってしまったよ。そして荷馬車から逃げたいとおもったよ。それ以降の私の人生は荷馬車から逃げることに費やされたといってもよいです。私が逃げることによって子牛もまた逃げることができるのです。というか、私が子牛になって人間社会から逃げることによってしか、子牛は荷馬車から逃げることはできないのです。だから私はじぶんが逃避主義者(エスケーピスト)であることに、たいへん誇りを抱いているのです。


哲学とは何か1


帯文:

「カオス
から
脳へ

哲学、科学、
芸術を貫く
独創的思考。

今世紀最大の哲学者
ドゥルーズと
ガタリの
思索の総決算。

世界的
ベストセラー、
待望の邦訳。」



帯背:

「思索の総決算
記念碑的名著」



帯裏:

「『哲学とは何か』という書物は、
アントニオ・ネグリによれば、
『千のプラトー』を引き立たせる
啓蒙版ということになる。
しかし、わたしはそう思わない。
この書物は、
最初期の『経験論と主体性』から、
『スピノザと表現の問題』、
『差異と反復』、
さらには『シネマ』などを
カヴァーするドゥルーズ/ガタリの
哲学の総括である。……
哲学と科学と芸術の連関を
明らかにしようとして、
二人が書いた本である。
それは、まさしく
「この時代に逆らって、
来たるべき時代のために」
書かれた書物である。
――「訳者あとがき」より」



目次:

序論 こうして結局、かの問は……

I 哲学
 1 ひとつの概念(コンセプト)とは何か
 2 内在平面
 3 概念的人物
 4 哲学地理学

II 哲学――科学、論理学、そして芸術
 5 ファンクティヴと概念(コンセプト)
 6 見通し(プロスペクト)と概念(コンセプト)
 7 被知覚態(ペルセプト)、変様態(アフェクト)、そして概念(コンセプト)

結論 カオスから脳へ

訳者あとがき



本書より:

「つねに新たな概念を創造すること、それこそが哲学の目的なのである。」

「哲学は、概念のうえでおのれを再領土(テリトリー)化するにしても、その条件を、民主主義国家の現在の形式のなかに、あるいは反省的コギトよりもはるかに疑わしいコミュニケーション的コギトのなかに見いだすわけではない。わたしたちはコミュニケーションを欠いてはいないのであって、反対にコミュニケーションをもちすぎている。だが、わたしたちには創造が欠けている。わたしたちには現在に対する抵抗が欠けているのである。概念創造は、それ自身において、未来の形式に助けを求める。概念創造は、ひとつの新たな大地と、まだ存在していない民衆を呼び求めるのだ。」

「なぜなら、芸術あるいは哲学が呼び求めるような人種は、純粋だと主張される人種ではなく、或る虐(しいた)げられた、雑種の、劣った、アナーキーな、ノマド的な、どうしようもなくマイナーな人種だからである(中略)。アルトーはこう言っていた――文盲の者たち「のために」書くこと――失語症の者たちのために語ること、無頭(アセファル)の者たちのために思考すること。それにしても、「ために pour」とは何を意味しているのだろうか。それは、「~の意図において〔~に向けて〕」ということではなく、「~のかわりに」ということでさえもない。それは、「直面して」ということなのである。それは生成に関するひとつの問である。この思考者〔アルトー〕は、無頭であるのでも、失語症であるのでも、文盲であるのでもなく、むしろ、そうしたものに生成するのだ。彼は、《インディアン》に生成し、《インディアン》に生成してやむことがない。そうするのはおそらく、《インディアン》であるところの《インディアン》がそれ自身、他のものに生成し、おのれの断末魔から引き離されること「のために=に直面して」である。ひとは、もろもろの動物そのもの〈のために=に直面して〉思考し、そして書く。ひとは、動物もまた他のものに生成すること〈のために=に直面して〉、動物に生成する。一匹のネズミの断末魔、あるいは一頭の子牛の屠殺が、思考のなかに現前したままであるのは、憐憫の情からではない。その現前は、人間と動物のあいだの交換ゾーンとしてあるのであって、そのゾーンにおいてこそ、互いに何かが相手のなかに移行するのである。それは、哲学と非哲学との構成的関係である。生成はつねに二重であり、この二重の生成こそが、来たるべき民衆と新たな大地を構成するのである。哲学者は、非哲学が哲学の大地とその民衆に生成すること〈のために=に直面して〉、非哲学者に生成しなければならない。」



哲学とは何か2


「カントの機械状の肖像」





























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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