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ジル・ドゥルーズ 『襞 ― ライプニッツとバロック』 宇野邦一 訳

「バロックには、またライプニッツには、いつも襞があふれているのだ。」
(ジル・ドゥルーズ 『襞 ― ライプニッツとバロック』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『襞(ひだ)
― ライプニッツと
バロック』 
宇野邦一 訳



河出書房新社 
1998年10月12日 初版印刷
1998年10月20日 初版発行
248p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,000円(税別)
装幀: 戸田ツトム+岡孝治


「LE PLI: Leibniz et le baroque
 by Gilles Deleuze
Copyright © 1988 by Les Editions de Minuit.」



本文中に図版(モノクロ)2点、図12点、表1点。



ドゥルーズ 襞



帯文:

「《分裂》から
《調和》へ、
あらゆる生命を
つらぬく
《襞》の運動。
一と多、
生と死、
人工と自然を
つなぐ
新たな
交通の方法(マニエリスム)。

ドゥルーズ思想の
到達点。」



帯裏:

「バロックは無限に増殖する「襞」としてとらえられるが、このとき「襞」は同時にライプニッツの方法であり、ライプニッツを読むドゥルーズの方法となり、二つの思想を貫通するマニエリスム(方式主義)となり、一つのエティカにまでなっている。つまり哲学は堂々とした論理の建築や、いかめしい理性の法廷のようなものではなく、織物や服飾や裁縫に似た優しい手作業になっていき、しかも世界の暗い底に繊細な耳を傾け、そこに無数の分岐とざわめきを聞き分け、世界の果てしない音楽を記述するような仕事になっているのだ。……………………
……………………「訳者あとがき」より……………………」



目次:

Ⅰ 襞
 第1章 物質の折り目
  無限にいたる襞
  バロックの館
  下の階:物質、弾性的な力、ばね
  有機体と可塑的な力
  有機的な襞
  なぜもう一つの階が必要なのか、動物的な魂という問題
  理性的な魂の高揚、そしてその有機的かつ非有機的な帰結
 第2章 魂の中の襞
  屈折
  特異性
  バロック的数学と変化:無理数、微分の商、曲線族
  対象の新しい規定
  遠近法主義:変化と観点
  主体の新しい規定
  屈折から包摂に
  区画
  モナド、世界、そして閉鎖の条件
 第3章 バロックとは何か
  窓のない部屋
  内部と外部、上の階と下の階
  ハイデガー、マラルメそして襞
  バロックの光り
  一つの概念の探究
  バロックにおける六つの美学的特徴
  現代芸術あるいはアンフォルメル:繊維と折り畳まれた形態
Ⅱ さまざまな包摂
 第4章 十分な理由
  出来事あるいは述語
  存在の四つのクラス、述語の種類、諸主体の本性、包摂の諸様式、無限のもろもろの場合、対応する諸原理
  物と実体
  内的関係
  ライプニッツのマニエリスム
  述語は属性ではない
  実体の五つの指標
  方式と底
  原理の戯れ
 第5章 不共可能性、個体性、自由
  不共可能性あるいは系列の発散
  バロック的な物語
  前個体的な特異性と個体
  個体化と種別化
  バロック的世界の戯れ
  楽天主義、世界の悲惨そしてマニエリスム
  人間の自由という問題
  動機の現象学
  述語の包摂と生きた現在
  ライプニッツとベルグソン:生起しつつある運動
  バロック的な地獄落ち
 第6章 一つの出来事とは何か
  継承者ホワイトヘッド
  外延、強度、個体
  把握とモナド
  永遠的対象
  コンサート
  現代のライプニッツ主義
  閉鎖の条件の除去そしてネオ・バロック
Ⅲ 身体をもつこと
 第7章 襞における知覚
  身体をもつという要求
  演繹の第一段階:世界からモナドにおける知覚へ
  小さな知覚:凡庸なものと注目すべきもの
  微分的関係
  特異性の復習
  幻覚的知覚の心的メカニスム
  魂における微粒子と襞
  第二段階:知覚から有機的身体へ
  知覚は何に似ているのか
  器官と振動: 刺激の物理的メカニスム
  物質の折り目
  計算の規定
 第8章 二つの階
  二つの半分:一と他、それぞれ
  半分の数学
  極値の役割
  潜在的と現働的、可能的と実在的:出来事
  ライプニッツとフッサール:所属の理論
  魂と身体:反転した所属、仮の所属
  支配と紐帯
  三種のモナド:支配的モナド、支配されるモナド、退化的モナド
  群れ、有機体そして体積
  力
  私的と公的
  襞はどこを通るか
 第9章 新しい調和
  バロック的な衣服と衣をつけた物質
  無限の襞:絵画、彫刻、建築そして演劇
  諸芸術の統一性
  円錐の世界:アレゴリー、紋章そして銘文
  ライプニッツの凝った言い回しへの嗜好
  音楽あるいは上位の統一性
  調和的なもの:数としてのモナド
  協和の理論
  調和の二つの側面、自発性と協調
  調和、メロディーそしてバロック音楽

訳者あとがき




◆本書より◆


「第1章 物質の折り目」より:

「バロックは何らかの本質にかかわるものではない。むしろ、ある操作的な機能に、線にかかわっている。バロックはたえまなく襞を生み出すのであり、事物を作りだすのではない。(中略)バロックは襞を折り曲げ、さらに折り曲げ、襞の上に襞、襞にそう襞というふうに、無限に襞を増やしていくのである。バロックの線とは、無限にいたる襞である。そして何よりもまずこの線は二つの方向にそって、二つの無限にしたがって、襞に差異を与える。あたかも無限は、物質の折り目(replis)と、魂の襞(plis)という、二つの階層をもつかのようである。下の階では、物質が第一の種類の襞にしたがって集積され、ついで第二の種類にしたがって組織される。物質の部分は「異なる仕方で折り畳まれ、いろいろな程度で展開される」器官として組織されるからである。上の階では、魂が神の栄光をうたいあげる。魂は自分自身の襞の中をかけめぐるが、襞をすべて展開することはないからである。「襞には際限がないからである。」一つの迷宮は、語源からしても〈多〉と呼ばれてよい。迷宮はたくさんの襞をもつからである。〈多〉とは、単にたくさんの部分をもつものではなく、たくさんの仕方で折り畳まれるもののことである。まさにおのおのの階層に、一つの迷宮が対応する。すなわち、物質とその部分における連続的なものの迷宮、そして魂とその述語における自由の迷宮である。」


「第5章 不共可能性、個体性、自由」より:

「まさにライプニッツには、「未来をはらみ、過去にみたされた現在」という定式がいつも見つかる。これは内的な意味においてさえも、決定論ではなく、自由そのものを構成する一つの内面性なのである。(中略)アダムは罪を犯さないこともありえた。もし彼の魂があの瞬間に、別の運動の統一性を構成することができるような別の振幅を獲得していたならば。行為はそれが現在における魂全体を表現しているとき自由なのである。
 地獄の罰に関する暗く美しい説ほど、このことをよく示している例はない。この場合でさえも、ユダやベルゼブルのような呪われたものは、過去の行為のために償うのではなく、みずからの魂の現在の振幅を構成し、現在それをみたしている神への憎しみのために償うのである。彼らは過去の行為のために(引用者注:「ために」に傍点)呪われているのではなく、彼らがそのたびに更新する現在の行為によって(引用者注:「よって」に傍点)、彼らがおぞましい歓びを見いだす神への憎しみによって、「罪にまた罪が重なる」ようにたえず彼らが再開するこの憎しみによって地獄に落ちるのである。ユダは神を裏切ったので地獄に落ちるのではない、そうではなく、神を裏切りながら、彼は神をもっと憎しみ、神を憎しみつつ死ぬからである。これは一つの魂にとって、絶対に最小の振幅である。明晰な地帯の中に、たった一つ「神を憎む」という述語しか内包していないのである。これが彼に残ったほんの少しの明るみであり、「理性の執着」なのだ。もう少し振幅を獲得していたら、現在において憎むことをやめていたら、魂は即座に地獄に落ちることをやめていただろう。しかしそれはもう別の魂であって、別の運動の統一性を生み出すのだ。ライプニッツが言うように、呪われたものは永遠に呪われているのではなく、ただ「いつでも呪われうる」のであって、おのおのの瞬間に自分を地獄に落としている。したがって至福を受けた人間と同じように、呪われたものでさえも自由であり、現在において自由である。(中略)彼らは復讐の人、怨念の人であって、ニーチェが後に描くように、彼らはみずからの過去の結果を被っているのではなく、あたかも現在の、現前する痕跡と訣別することができないで、毎日、毎時、それを新たに刻みつけているかのようなのだ。おそらくこの呪われたもののヴィジョンは、非常に深いところで、もっと広大な脈絡で、バロックに属している。バロックこそは、現在における死、進行中の運動としての死、われわれが待つのではなく、われわれが「同行する」死を認識したのである。
 アダムは罪を犯さないこともありえた。呪われたものは自分を解き放つこともできるだろうに。魂が別の振幅、別の襞、別の傾向を獲得するだけで十分だったし、十分なはずなのだ。(中略)しかしまさに、魂にそれができないということは、それをすれば魂は別の魂になるということを意味する。自分がすることを、魂は全体としてするのであり、そこにこそ彼の自由が含まれている。」

「つまりモナドは「そのあらゆる知覚を展開する」ように招かれていて、それこそがモナドの役割なのだ。ところが同じ瞬間に、無数のモナドがこのように招かれたのではなく、折り畳まれたままで、別の無数のモナドは闇の中に陥り、自分自身の上に折り畳まれ、また別の無数のモナドは、もはや解きほぐすことのできない唯一の襞の上で硬直し、地獄に落とされる。(中略)一つの魂の進歩は、必然的に他を犠牲にして行われると、しばしば言われてきた。しかしそれは真実ではない。そして呪われたものをのぞいて、他のものたちもいつも進歩していたのだ。それはもっぱら呪われたものたちの犠牲によってであり、彼らは自由に自分をのけ者にしたのだ。彼らの最悪の罰はおそらく他人たちの進歩に奉仕しているということだ。彼らが否定的な実例を与えるからではなく、彼らが望まずして、自分自身の明晰さを放棄し、世界に一定量の肯定的な進歩をもたらすからである。この意味で呪われたものは、彼らの意図にかかわらず、誰よりもよく、可能世界の最良のものに属していたのだ。ライプニッツの楽天主義は、無数の呪われたものに根拠をもっているが、彼らは様々な世界のうち最良のものの基盤である。(中略)ベルゼブルの憎しみの叫びは、下の階を震撼させるのだが、この叫びを聞くことなしに、われわれは最良の世界を考えることなどできない。」



「第7章 襞における知覚」より:

「知覚にもどってみよう。あらゆるモナドは、たとえ同じ秩序においてではないにしても、あいまいに世界全体を表現している。それぞれのモナドが自らのうちに無数の小さな知覚を閉じこめている。(中略)モナドを区別するものは、その明晰な、注目すべき、あるいは特権的な表現の帯域なのである。極限では、このような光の帯域をもたない「まったく裸のモナド(引用者注:「まったく裸のモナド」に傍点)」を想定することもできる。そのようなモナドは、ほとんど闇の中、あるいは薄暗い小さな知覚の目眩や茫然自失の中で生きているかもしれない。(中略)しかしこのような極限的状態は、死においてしかあらわれないものであって、(中略)どんな極微動物も明るみをもっており、それによって餌や、敵や、ときには仲間を識別することができる。(中略)ダニの魂は三つの知覚をもつだけだ。光の知覚、餌食への嗅覚、最良の部位に対する触覚である。そして他のすべては、ダニが何とか表現している大自然の中では、目眩であり、薄暗く、統合されることのない小さな知覚の粉塵にすぎないのだ。しかし動物の序列、あるいは動物の系列における「進化」というものがあるとしたら、それはますます数を増し、ますます深まる秩序をもつ微分的関係が明晰な表現の帯域を決定し、その帯域がより大きくなるだけでなく、より強固になり、それを構成する意識的知覚のそれぞれが他の知覚と、相互的な決定の無限のプロセスにおいて結合されるかぎりにおいてなのである。これらは記憶するモナドである(引用者注:「これらは記憶するモナドである」に傍点)。そしてそれ以上に、ある種のモナドは、みずからを拡げ、みずからの帯域を強化し、それらの意識的知覚の真の結合に到達する力をそなえ(単なる結合的な連鎖ではなく)、また判明なもの、十全なものによって明晰なものを裏打ちする力をそなえている。これこそは理性的あるいは内省的モナド(引用者注:「理性的あるいは内省的モナド」に傍点)であって、まさにその自動的発展の条件を、それらの間のあるものたち、〈呪われた者たち〉の犠牲の中に見いだすのである。この者たちはほとんど裸のモナドの状態にまで退行し、唯一の明晰な知覚として、神への憎しみしかもたないのだ。」「もう一人の偉大なライプニッツの弟子、フェヒナーは、モナド的な魂の精神的メカニスムと不可分な心理物理学の創始者として、茫然自失または目眩から、鮮明な生にいたる分類をたえず発展させるだろう。彼はそこに、あらゆる退行や呪われたものの可能性と重ねて、人間の三つの世代を見いだし、彼自身もそれを通過するのである。暗闇の中の部屋または暗い底にまで退き、消化にともなう小さな知覚のうごめきに委ねられたモナド、そしてまた復活の、力強い拡張的な光にむかう上昇の勢いにみちたモナド。ほとんどのモナドは、あるときみずからが地獄に落ちると感じるのである。こんなときには、明晰な知覚が次々に消え、それに比べればダニの一生でさえ奇妙に豊かに感じられるほど闇に迷い込んでいる。しかしまた自由にかかわって一つの魂が自己を克服し、回復したことに驚いてこういうときもくるのだ。「なんてことだ、何年もの間、一体私は何をしていたのだろう」と。」


「第8章 二つの階」より:

「もし私の身体、私に属する身体が集まりの法則にしたがって一つの身体をもつとすれば、それはそのもろもろの部分が大きくなりまた小さくなり、退行し進化し、しかも移動し、消滅し続けるからである(「流動」)。そしてモナドが消滅するとき、それと不可分なモナドはそれにしたがい、あるいは私を逃れていく。私の身体の必要条件とは、「さしあたりその時の」必要条件でしかなかった。所属の理論は、したがって非対称的で逆転した所属を区別するのだが(私の身体は私のモナドに属し、様々なモナドが私の身体の部分に属する)、また恒常的あるいは一時的な所属というものもあるのだ(一つの身体が恒常的に渡しのモナドに属し、様々なモナドが一時的に私の身体に属する)。まさにここで、所属の理論において、半ば異分子であるものが、つまり私の中に具体的存在としてある動物が、あらわになってくる。(中略)魂と身体の結合とともに、今や私の所属の中に発生し、所属を引っ繰り返してしまう異分子とは、動物的なものであり、何よりもまず、私の身体の流動的部分と不可分の小さな動物たちなのである。それらは以前にそうだったように、再び私にとって異分子になるというわけである。「もしシーザーの魂がたとえば、自然のなかで孤立していなければならなかったなら、事物の創造者は、それにもろもろの器官を与えなくてもよかったかもしれない。しかしこの創造者はさらに無数の他の存在を造り、それらはたがいに器官の中に包みこまれている。われわれの身体とは、それもまた存在するに値した無数の被造物で一杯になった一種の世界なのである。」私が外部で出会う動物たちは、こうしたものが大きくなったものにすぎず、ライプニッツの体系にとって本質的なのは、単に一つの動物心理学ではなく、動物的なモナドロジーなのである。」

「個体的にとらえられたモナドはすべて例外なく、世界全体を表現し、ただそれらの表現の区画、明晰な帯域によって区別されるだけである。理性的なモナドたちは、実に幅広く、強度の帯域をもつので、この帯域はそれらを神に接近させる熟慮と深化の働きに身を委ねるのである。しかしあらゆる動物的モナドもまた、ダニでさえも、血液や肝臓のモナドでさえも、どんなに狭くても、それなりに明晰な帯域をもつ。こうしてみずからの個体性に捉えられるとき、あらゆるモナドは一つの単純な実体(引用者注:「単純な実体」に傍点)であり、一つの能動的な始源の力(引用者注:「能動的な始源の力」に傍点)であり、一つの内的な行為や変化の統一性(引用者注:「内的な行為や変化の統一性」に傍点)である。確かにそれは身体をもち、みずからの明晰な帯域に対応する一つの身体と不可分であるが、それは身体を含むのではなく、身体と実在的に区別されるのである。モナドは、みずからの力の制限のために、身体を要求するのであり、このような制限は、その受動的な力能あるいは第一質料(「モル」)を構成する。これは要求するものであるかぎり、支配的モナドである。あらゆる理性的モナドは支配的であり、別の仕方ではありえない。しかし死に際してさえも、身体を失ってしまったように「見える」ときでも、また動物にもどってしまうときでも、少し前に理性的であったモナドは支配的であり続ける。あらゆる動物的モナドは、いかに暗くてもあらゆるモナドは、ある点では、支配的なのである。個体的に考察されるかぎり、一つの身体をもつかぎり、たとえ限りなく退行し、うちひしがれ、手足をもがれても、そうなのである。」



「第9章 新しい調和」より:

「もう既に久しい前から、あらゆる中心(引用者注:「中心」に傍点)も、またあらゆる指定可能な形態も失ってしまった無限の宇宙という仮説が練り上げられている。しかしバロックの特性とは、観点としての頂点(引用者注:「頂点」に傍点)から発する投影によって、このような宇宙に再び一つの統一性を与えたことなのだ。もうずっと前から、世界は根本的に演劇として、夢想あるいは幻影として、ライプニッツがいうように道化の衣裳として扱われている。しかしバロックの特性とは、幻影に陥ることでも、幻影から脱出することでもなく、幻影そのものの中で何かを実現すること、幻影に精神的な現前(引用者注:「現前」に傍点)を伝え、幻影の部分や断片に集合としての統一性を再び与えるようにすることなのだ。ホンブルクの王子や、クライストのあらゆる登場人物は、ロマン主義的というよりも、バロック的英雄である。なぜなら、様々な小さい知覚の目眩にとらえられ、彼らは幻影の中に、失神状態の中に、目眩の中に、たえず現前を実現し、幻影を現前に変えるからである。(中略)バロックの人々は、幻覚が現前を模倣するのではなく、現前そのものが幻覚的であるということをよく知っている。
 ヴァルター・ベンヤミンは、アレゴリーとは失敗したシンボルや抽象的な人称化などではなく、シンボルの力能とはまったく異なる形象化の力能であることを示したとき、〈バロック〉の理解において決定的な一歩をしるしたのである。シンボルは、ほとんど世界の中心で永遠的なものと瞬間的なものとを結合するが、アレゴリーは時間の秩序にしたがって自然と歴史を発見し、もはや中心をもたない世界において、自然を歴史にし、歴史を自然に変えるのである。もしわれわれが一つの概念とその対象との論理的な関係を考察するなら、それを越えるには二つの仕方があることに気づく。一つはシンボリックな仕方、もう一つはアレゴリックな仕方である。」
「ライプニッツは実に深くこのような世界に関与していて、それに欠けていた哲学をもたらすのだ。」

「苦痛をめぐるライプニッツの理論の全体は、もろもろの不協和に一つの「普遍的な調和」によって備え、不協和を解決するための方法である。逆の例は、呪われた人間によって提供される。彼の魂はたった一つの音だけをもつ不協和を生み出す。それは復讐あるいは怨恨の精神であり、神への限りない憎しみである。しかしこれもまた、悪魔的ではあっても一つの音楽であり、和音なのである。呪われた人間は、自分の苦痛そのものから快楽を引き出し、そしてとりわけ別の魂たちにおいて完全な協和が無限に進行することを可能にするからである。
 調和の第一の側面とは次のようなものであって、ライプニッツはこれを自発性(引用者注:「自発性」に傍点)と呼んでいる。つまりモナドは生成されては解体されるもろもろの協和を生み出すが、これらの協和は、にもかかわらず始めも終わりももたず、相互に変形しあい、それら自身変形し、一つの解決あるいは変容にむかう。ライプニッツによれば、悪魔的な協和でさえも変形しうる。つまりモナドは表現であり、自分自身の観点から世界を表現するのである(中略)。観点とは、それぞれのモナドが包摂する世界全体に対して、モナドがおこなう選別を意味し、モナドはこのとき世界を構成する無限の屈折をもつ線の一部から協和を取り出すのである。したがってモナドは、自分自身の底から協和を引き出すのである。(中略)いずれにしても魂はみずから進んで歌うのであって、セルフ-エンジョイメントの基礎なのだ。」
「調和には第二の側面がある。モナドは単に表現ではなく、みずからの表現の外には実在しない同じ世界を表現するのだ。「あらゆる単純実体は、常にそれらの間に一つの調和をもつだろう。なぜならそれらはいつも同じ宇宙を表象するからである。」モナドは閉じていても、(中略)孤独ではなく団結して、同じ世界を表現するからである。(中略)ライプニッツはコンサートの状況を引き合いに出している。そこでは二つのモナドがそれぞれに、相手のパートを知らず、聞くこともないまま自分のパートを歌うのだが、にもかかわらず「完全に協和するのである」。」

「調和の二つの側面はまったく連鎖している。自発性とは、それぞれのモナドの内部にある協和を、その絶対的な表面上に生み出すことである。協調とは対応関係であって、それによれば、一つのモナドの中には、マイナーな協和がなければ、メジャーで完全な協和も存在せず(引用者注:「一つのモナドの中には」以下に傍点)、また逆のことも言える。あらゆる結合が可能であるが、二つのモナドについて同じ協和は存在しない。つまりおのおののモナドはみずからの協和を自発的に生み出すのだが、それは他のモナドの協和と対応関係をもちながらのことである。(中略)「予定調和」という表現において、予定という言葉は、調和と同じくらい重要である。調和は前もって二度確立される。一度はおのおのの表現、おのおのの表現するものによって。それらは何も自分自身の自発性あるいは内面性にしか負うていない。もう一度は共通の〈表現されたもの〉であって、これはあらゆる表現的な自発性の協奏を構成するのである。あたかもライプニッツは、われわれにコミュニケーションについて重要なメッセージを残しているかのようだ。十分なコミュニケーションがないことを嘆くには及ばない。いつもそれは十分にあるのだ。世界において予定された恒常的な量として、十分な理由として。」

「問題はあいかわらず、世界に住み着くことである。しかしストックハウゼンの音楽的な住まい、デュビュッフェの造形的な住まいは、内部と外部、私的と公的の相違を存在させない。それらは変化と軌道を一致させ、モナド論をノマド論によって二重化する。音楽は住処でありつづけたが、変わったのは住処の組織とその性格である。確かに、われわれの世界とテクストを表現するのはもはや協和音ではないが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。新しい外皮とともに新しい折り方を発見するが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。なぜなら問題はあいかわらず折ること、折り目を拡げること、折り畳むことだからである。」



「訳者あとがき」より:

「意識とは無数の無意識からなっており、意識の音楽は、無数の騒音を内包している。この意味で意識は限りない分裂を内包しているが、それでもライプニッツは、この世界には予定調和があるという。世界が現にあること自体が、無数の可能世界から抽出された差異からなる一つの秩序を示しているからである。モナドに窓がないのは、モナドが孤立した自我だということを意味するのではなく、むしろモナドがあらかじめ、無限に世界に開放されていることを意味するのである。」
「たぶんライプニッツは、分裂する世界の悲惨に対して原理を保持するという使命をひきうけて、どうしても予定調和を持ち出さざるをえなかった。(中略)「観点に似た頂点から、射影によって成り立つ統一性」を、モナドの暗い底の、はてしない騒音、曲線、屈折、埃や霧に、さしむけなくてはならない。けれども、確かにこの世界には無数の可能世界がいりみだれ、実体は、安定と中心を欠いた細かい幻覚に侵入されている。だからこそ、そこに強度の垂直的な力として神の射影をみちびき、調和にみちた音楽を響かせなくてはならないのである。」











こちらもご参照ください:

ジル・ドゥルーズ 『フーコー』 宇野邦一 訳
ライプニッツ 『モナドロジー 他二篇』 谷川多佳子・岡部英男 訳 (岩波文庫)
ヴァルター・ベンヤミン 『ドイツ悲劇の根源』 川村二郎/三城満禧 訳 (叢書・ウニベルシタス)














































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ジル・ドゥルーズ 『フーコー』 宇野邦一 訳

「それでは、権力と衝突し、権力と戦い、闇にもどっていく前に権力と「そっけない、鋭い言葉」を交わすことによってだけ姿をあらわすこの無名の生以外には何が残るだろうか。このような生をフーコーは、「汚名に塗れた人びとの生活」と呼び、「彼らの薄幸、怒り、またはあいまいな狂気」のゆえに、彼らを尊重するようにと提案した。」
(ジル・ドゥルーズ 『フーコー』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『フーコー』 
宇野邦一 訳
 


河出書房新社 
1987年10月20日 初版印刷
1987年10月30日 初版発行
228p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円
装幀: 田原桂一
photography: keiichi tahara
typography: universtudio


「FOUCAULT
 by Gilles Deleuze
Copyright © 1986 by Les Editions de Minuit.」



本文中に図1点。



ドゥルーズ フーコー



帯文:

「フーコー=ドゥルーズの思想地図
〈知〉を構成する〈言表〉と〈可視性〉、〈権力〉〈主体化〉など、フーコー思想の鍵となる概念を全著作から抽出し、自らの思想と重ね合わせて描いた二重の思想地図!!」



帯背:

「注目のフーコー論」


帯裏:

「●マルクス以後はじめて新しい何かが出現したかのようだ。国家をめぐる共犯関係が、ついに断ち切られたかのようだ。フーコーは、ある種の概念を再考しなくてはならない、というのにとどまっていない。彼は、それを言うことさえしないで、ただそれを行ない、実践のための新しい座標を提起するのだ。背後では一つの戦いが不気味な音を轟かせている。これにともなう局地的戦術、総体的戦略は、全体化によってではなく、あくまで中継、接続、集中、延長などによって実現されるのだ。確かに重要なことは、何をなすべきか(引用者注:「何をなすべきか」に傍点)、という問いである。
(本書より)」



目次:

前書き

古文書(アルシーヴ)からダイアグラムへ
 新しい古文書学者 (『知の考古学』)
 新しい地図作成者 (『監獄の誕生』)
トポロジー、「別の仕方で考えること」
 地層あるいは歴史的形成、可視的なものと言表可能なもの (知)
 戦略あるいは地層化されないもの、外の思考 (権力)
 褶曲あるいは思考の内 (主体化)
付記――人間の死と超人について

訳註
解説




◆本書より◆


「戦略あるいは地層化されないもの」より:

「変容するのは、(中略)様々な構成力なのである。それらは外からやってきて、他の様々な力と関係する(戦略)。生成、変化、突然変異は、様々な構成力に関連するのであって、構成された形態に関連するのではない。なぜ、一見実に単純なこのような考えは理解し難く、「人間の死」はこんなにも誤解をまきおこしたのか。実在する人間が問題になっているのではなく、単に一つの人間概念が問題になっている、という反論があった。またフーコーにとってニーチェと同様に、実在する人間が、自己を乗り超えることが問題だと考えるものもあった(超人にむかって、というわけだ)。二つの場合とも、フーコーについて、またニーチェについても、無理解がある(中略)。まさに問題になっているのは、概念的であれ実在的であれ、知覚可能であれ言説可能であれ、人間的な構成物ではない。人間の構成力が問題になっているのである。この構成力は他のどんな力と結合するか、その結果出現するのはどんな構成物か、ということである。(中略)人間の力はさらに別の諸力と関係し、神でも人間でもない、さらに別のものを構成することになるだろう。(中略)要するに、構成力と外との関係は、異なる関係のもとで、新しい構成にしたがって、すでに構成された形態をたえず変化させる。人間が潮の満ち干するあいだの砂浜の形である、ということは文字通りに解されるべきである。それは、他の二つの構成、つまり、人間をまだ知らない古典主義的な過去に属する構成と、もはや人間を知らない未来に属する構成とのあいだにだけあらわれる一つの構成なのだ。喜んだり、悲しんだりする余地はない。私たちは頻繁に言っているではないか。人間の力はすでに他の力と、例えば情報の力と関係しており、これは人間の力とともに人間以外のものを構成し、第三種の機械とともに、「人間-機械」という分割不可能なシステムを構成していると。炭素との結合ではなく、むしろ硅素との結合と。」


「褶曲あるいは思考の内」より:

「内が、外の褶曲によって成立するとすれば、内と外とのあいだには位相的な関係が存在する。自己との関係は、外との関係と相同的である。そして、二つの関係は、相対的に外部的な(それゆえ相対的に内部的な)環境にほかならない様々な地層を媒介にして接触するのである。内のすべてが、様々な地層の限界で能動的に外にむけて出現するのだ。内は過去(長い持続)を、少しも連続的でない様々な様式によって凝縮するが、この過去を外からやってくる未来と衝突させ、過去を交換し、再創造する。思考することは、限界として働く現在の地層のなかに住まっている。(中略)しかしそれは、内で凝縮されたものとしての過去を、自己との関係において考えることである(私のなかには、一人のギリシャ人が、またはキリスト教徒がいる……)。現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること、つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように、思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。」
「力はいつも外から、どんな外部性の形態よりも遠くにある一つの外からやってくる。だから、力の関係のなかにとらえられた特異性だけが存在するのではない。力の関係を変え、転倒し、不安定なダイアグラムを変更するような傾向をもつ、抵抗の特異性もまた存在する。そして、外の線そのものの上で、まだ拘束されないで、まさに亀裂の上で激しく沸騰している野性の特異性さえ存在するのである。それはまさに嵐の上で、あらゆるダイアグラムをかきまわす恐ろしい線である。(中略)しかし、この線がどんなに恐ろしいものでも、それはもはや力の関係によっては測りしれず、恐怖を超えて彼方に、人を連れていく生命線である。なぜなら、亀裂のある所で線は輪になっているからだ。「台風の目、そこで人は生きのびることができ、そこにはとりわけ〈生命〉がある。」あたかも、わずかしか持続しない加速された速度が、もっと長い持続において、ある「緩慢な存在」を成立させたかのようだ。それは松果体に似て、たえず方向を変えながら再構成され、内に属するけれども、あらゆる外の線と共通な広がりをもつ一つの空間を描き出す。最も遠いものが、最も近いものへの転換によって内的となる。「襞のなかの生」。それは中心の部屋であるが、もう私たちは、それが真空ではないか憂慮することはない。自己をそこにおくだけでいいからだ。ここで人は、自己の速度の主人となり、この主体化の帯域で、相対的に自己の分子たち、自己の特異性たちの主人となる。」



「人間の死と超人について」より:

「人間における力は、外の力と関係する。炭素にとってかわる硅素の力、有機体にとってかわる遺伝子的な要素の力、シニフィアンにとってかわる非文法性の力などである。これらすべてに関して、超襞の作用を探究する必要があるだろう。「二重螺旋」は、そのもっともよく知られた場合である。超人とはいったい何であろうか。それは、これらの新しい力と結びついた、人間における力の組み合せの形態である。それは、力の新しい関係から出現する形態である。(中略)超人は、ランボーの定式によれば、まさに動物でみちた人間である(中略)。それは、鉱石そのもの、あるいは無機的なものでみちた人間である(硅素が主流であるような場所)。それは、言語の存在でみちた人間である(「形のない、啞の、何も意味しない、言語が、その言おうとすることからさえ解き放たれているあの地帯」で)。フーコーがいうであろうように、超人は、決して存在する人間の消滅などではなく、しかも一つの概念の変化よりはるかに重大なものである。それは、〈神〉でも人間でもない、新しい形態の到来であり、私たちは、この形態が、前の二つの形態に比べて、もっと劣悪ではないことを希望することができる。」
















































ジル・ドゥルーズ 『批評と臨床』 守中・谷・鈴木 訳

「「父親なき社会」の危険がしばしば指摘されてきたが、父親の回帰以外に危険など存在しない。」
(ジル・ドゥルーズ 「バートルビー、または決まり文句」 より)


ジル・ドゥルーズ 
『批評と臨床』
 
守中高明・谷昌親・鈴木雅大 訳

河出書房新社
2002年10月20日 初版印刷
2002年10月30日 初版発行
310p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,500円(税別)
装幀: 戸田ツトム



訳者あとがき(守中高明)より:

「本書は、Gilles Deleuze, Critique et Clinique, Les Éditions de Minuit, 1993. の全訳である。」
「第6章を鈴木雅大氏が、第10章、11章、13章、14章を谷昌親氏が担当し、その他のすべての章を守中が担当した。」



本書はまだよんでいなかったので文庫版でよもうとおもったのですが単行本がアマゾンマケプレで最安値(500円+送料257円)だったので注文しておいたのが届いたのでよんでみました(最安値だけど届いた本はほぼ新品でした)。


ドゥルーズ 批評と臨床


帯文:

「ドゥルーズの遺作
文学とは錯乱であり、
一つの健康の企てである――」



帯背:

「〈文学と生〉を問う
最後の思考」



帯裏:

「カフカ、ベケット、アルトー、ロレンス、ジャリ、ホイットマン、
メルヴィル、マゾッホ、キャロル、カント、スピノザ、ニーチェ……
〈文学と生〉を問う、奇跡の思考」



カバー文:

「この論集は、いくつかの問題をめぐって組み立てられている。それは、書くこと(引用者注: 「書くこと」に傍点)の問題である。
作家は、プルーストの言うように、言語の内部に新しい言語を、いわば一つの外国語=異語を発明する。
彼は、文法上あるいは統辞法上の新たな諸力を生み出すのである。彼は言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出す。
つまり、言語を錯乱(引用者注: 「錯乱」に傍点)させるのだ。」



目次:

序言
第1章 文学と生
第2章 ルイス・ウルフソン、あるいは手法
第3章 ルイス・キャロル
第4章 最も偉大なるアイルランド映画――ベケットの『フィルム』
第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について
第6章 ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ
第7章 マゾッホを再び紹介する
第8章 ホイットマン
第9章 子供たちが語っていること
第10章 バートルビー、または決まり文句
第11章 ハイデガーの知られざる先駆者、アルフレッド・ジャリ
第12章 ニーチェによるアリアドネの神秘
第13章 ……と彼は吃った
第14章 恥辱と栄光――T・E・ロレンス
第15章 裁きと訣別するために
第16章 プラトン、ギリシア人たち
第17章 スピノザと三つの『エチカ』

[訳者あとがき] ドゥルーズと文学の問い (守中高明)




◆本書より◆


第1章より:

「文学とは、ゴンブロヴィッチが言いかつ実践したように、むしろ不定形なるものの側、あるいは未完成の側にある。書くことは、つねに未完成でつねにみずからを生み出しつつある生成変化にかかわる事柄であり、それはあらゆる生き得るあるいは生きられた素材から溢れ出す。それは一つのプロセス、つまり、生き得るものと生きられたものを横断する〈生〉の移行なのである。エクリチュールは生成変化と分かち得ない。書くことによって、人は女に-なり、動物あるいは植物に-なり、分子に-なり、知覚し得ぬものに-なるに至る。」

「世界とはさまざまな症候の総体であり、その症候をもたらす病いが人間と混合される。文学とは、そうなってくると、一つの健康の企てであると映る。それはなにも、作家が必ず大いなる健康の持ち主であるということではない(中略)。そうではなく、作家はある抗し難い小さな健康を享受している。その小さな健康とは、彼にとってあまりに大きくあまりに強烈な息苦しい事物から彼が見て取り聴き取ったことに由来しており、その移行こそが彼を疲弊し切らせているのだが、しかしながら、太った支配的健康なら不可能にしてしまうようなさまざまな生成変化を彼に与えてくれてもいるのである。(中略)いったいどんな健康があれば生を解放するに充分なのだろうか――人間によってかつ人間の内部に、つまり、器官組織と類によってかつそれらの内部に生が監禁されているあらゆる場所でそうするには?」
「文学としての健康、エクリチュールとしての健康は、欠如している一つの民衆=人民(引用者注: 「民衆=人民」にルビ「ピープル」)を創り出すことに存する。(中略)それは世界を支配するべく運命づけられた民衆=人民(ピープル)などではない。それはマイナーな民衆=人民(ピープル)、永遠にマイナーな、革命的に-なることの中にとらえられた民衆=人民(ピープル)である。おそらく、それは作家の諸原子の中にしか存在しない――私生児的=雑種的で、下位の、支配された、つねに生成状態にある、つねに未完成の、そんな民衆=人民(ピープル)は。(中略)私は永久に一匹の獣であり、下等人種のニグロである。それこそが作家の生成変化(引用者注: 「生成変化」に傍点)なのだ。中心的ヨーロッパに対するカフカ、アメリカに対するメルヴィルは、マイナーなる一民衆=人民(ピープル)の、あるいはあらゆるマイナーな民衆=人民(ピープル)の集団的言表行為としての文学を提出しており、それらの民衆=人民(ピープル)は作家によってかつ作家においてしかみずからの表現を見出さない。(中略)文学とは錯乱である。そしてこの資格において、それはみずからの運命を錯乱の二つの極のあいだに賭ける。錯乱は一つの病いであり、純粋で優勢だと称する人種を錯乱が打ち建てるたびに、すぐれて病いであるものとなる。しかし、あの抑圧された私生児的=雑種的人種、さまざまな支配の下にあって絶えず動き回り、押し潰し監禁しにかかるあらゆるものに抵抗し、プロセスとしての文学の中にみずからの姿を白抜きに描き出すあの私生児的=雑種的人種の力に訴えるとき、錯乱は健康の尺度となるのだ。(中略)文学の最終的な目的――錯乱の中からこうした健康の創造を、あるいはこうした民衆=人民(ピープル)の創出を、つまりは生の可能性を、解き放つこと。欠如しているあの民衆=人民(ピープル)のために書くこと……。
 文学が言語において行なうことが、いっそうはっきりしてくる。すなわち、プルーストの言うように、文学はそこにまさしく一種の外国語を刻みつけるのだが、この外国語というのは、もう一つの国語でも再び見出された俚言でもない。そうではなく、それは言語が他者に-なること、あのメジャーな言語がマイナー化すること、メジャーな言語を奪い取る錯乱、支配的なシステムから逃れてゆく魔術師の線なのだ。(中略)「言語を守る唯一の方法、それは言語を攻撃することです……。作家の一人ひとりが自分のために自分の言語を作らねばならないのです……」。」



第4章より:

「そして、光り輝く空虚の中に、非人称的な、だがそれでいて特異な一個の原子、他者と区別されたり混同されたりするための〈自己〉などというものをもはや持たない、そんな一個の原子を解き放つ。知覚し得ぬものになることこそが〈生〉なのだ――「絶えず、無条件で」、宇宙的で霊的なるざわめきに到達することこそが。」


第6章より:

「輝ける都のプログラムが掲げられるそのたびに、それが、この世界を破壊し、《居住不可能》にし、無差別的な「敵」狩りに端をひらくやりくちにほかならないのだということを、私たちは身に沁みて知っている。ヒトラーと〈反キリスト〉とのあいだにはさほどの類似点があろうとも思えないが、今日もはやたんなるSFの域をこえ、現実に世界専制国家実現に向かって進む軍事・産業計画の青写真のなかでこの私たちに約束されている未来像と、〈〔来るべき聖都〕新エルサレム〉とのあいだには、幾多の類似点がある。『黙示録』、それは〔ナチスの〕強制収容所(〈反キリスト〉)ではない。新しき国家の、軍・警察・市民が一体となった一大保安体制(〈聖エルサレム〉)なのである。『黙示録』の現代性は、そこに予告された世界滅亡の破局(カタストロフ)にあるのではない。それはプログラムされたその自己栄化に、その栄光の〈新エルサレム〉の建設に、その気違いじみた司法的・道徳的な究極の権力の設立にこそみとめられるのだ。(中略)いささかでも正気をもって『黙示録』を読む者なら誰でも、自分はもうすでにあの硫黄の湖にいると感じていよう。」

「〔ひたすら与えようとする〕キリストの熱情と〔ひたすら得ようとする〕キリスト教徒の貪欲のうちには、愛の宗教と権力の宗教のうちには、同じ宿命がひそんでいる。(中略)まさにその全著作をかけてロレンスが果たそうとしたのは、与えずにただ取ろうとする人々であれ、取らずに与えようとする人々であれ、そうした人々(中略)すべてのもとに、その徴候のあらわれるいたるところに、あの悪しき小さな閃きを診断し、追いつめることにほかならなかった。キリスト、聖パウロ、パトモスのヨハネとつながって、ここに鎖の環は再び閉じる。(中略)裁きの体制(システム)をつくりあげるためには、それらすべてが必要だったのではなかったか。個人〔個の心〕も自殺し、集団〔衆の心〕も自殺するのである。ともどもに自己栄化の歌を奏でながら。」
「だとすれば個の心を、そして衆の心をも救わなければならぬ。だがどうやって? (中略)愛することをやめること。(中略)もはや与えることも受け取ることもなしえなくなる地点、もはや何一つ「供する」もののない地点に到達すること。これはアーロンや〈死んだ男〉の達した境地だ。彼らにとって問題はすでに別のところに移っているからである。流れがそのあいだを流れ、互いに離接し連結し合いながら流れてゆけるような河岸をいかにして築くかという問題に(14)。もはや愛さず、身を与えず、受け取りもしないこと。そうやっておのれ自身の個の部分〔個の心〕を救うことだ。(中略)愛とはむしろ、この個の心を〈自我(引用者注: 「自我」に傍点)〉に仕立てあげるものである。(中略)魂の譲渡不可能な部分は、人が自我であることをやめたとき、初めてそこに姿を現す。」
「(14)孤独になることが、また与えることの拒絶にまでいたることが必要であるというこのテーマは、ロレンスの作品に絶えず現れている。」



第9章より:

「自閉症児たちの辿る道ほど多くを教えてくれるものはない――ドゥリニーがその地図を明らかにし、そして、そのいつもの線、その歩き方の線、その蛇行、後悔と後戻り、つまりはそのあらゆる特異性と地図とを重ね合わせて見せてくれている、あれらの道ほどに多くを教えてくれるものはないのである。」

「想像界と現実界とは、同じ一つの軌跡の並置可能ないし重ね合わせ可能な二つの部分、絶えず交換される二つの面、つまりは可動的な鏡なのである。それゆえ、オーストラリアのアボリジニはノマド的な旅程と夢の中の旅とを結び合わせ、両者が一緒になって「一枚の地図として読むべきある広大な空間と時間の切り出しの中で」「行程の交叉網」を組み立てるのである。究極的には、想像界とは現実の対象に結びつく潜在的な[virtuel]像のことであり――その逆もまた言える――、そうしてそれは無意識の結晶を構成する。」
「無意識が関わっているのはもはや人物や対象ではなく、道のりと生成変化の数々である。それはもはや記念=共同記憶化による無意識ではなく、動員=動態化による無意識であり、その諸対象は、もはや大地の中に埋もれたままではいないだけ、いっそう高く舞い上がる(引用者注: 「高く舞い上がる」に傍点)ということである。」

「さまざまな情動のリスト、あるいは強度の星座や地図とは、生成変化のことである。幼いハンスは馬によって父親の無意識的表象をかたちづくっているわけではない。そうではなく、彼は馬に-なることの中に引きずり込まれているのであり、この馬に-なることに両親は敵対しているのだ。」
「生成変化とは想像的なものではなく、それは、旅が現実的なものではないのと同様である。ほんのわずかの道のりを、あるいはその場における不動性をすら旅に変えてしまうのが生成変化なのであり、想像界を生成変化に変えるのが道のりなのである。」

「不定なるものとは、生成変化の限定、その固有の潜勢力、つまりは、一般性ではなくて最高度の特異性であるような非人称的なるものの潜勢力である。たとえば、人は馬というもの(引用者注: 「というもの」に傍点)のふりをするのではないし、そのような(引用者注: 「そのような」に傍点)馬の真似をするのでもない。そうではなく、一頭の(引用者注: 「一頭の」に傍点)馬になるのだ――もはやそこではみずからがなるところのものとみずからとを区別することができないような近接性のゾーンに到達しつつ。
 芸術もまた、もはや何一つ人称的なところも理性的なところも保持していないこのような天上的状態に到達する。それなりの流儀で、芸術は子供たちが語っていることを語るのだ。それは、さまざまな道のりと生成変化からなっており、それゆえ、延長的かつ強度的な地図の数々を作り出す。」
「それはまるで、潜在的な道の数々が現実の道に連結し、現実の道がそこから新たな道筋、新たな軌跡を受けとっているかのようだ。芸術によって線を描かれた、さまざまな潜在性からなる一枚の地図が、現実の地図にみずからを重ね合わせ、その行程の数々を変容させるのである。」



第10章より:

「バートルビーは作家の隠喩でもなく、いかなるものの象徴でもない。それは暴力的なまでに滑稽なテクストであり、滑稽なものはつねに字義どおりだ。クライストや、ドストエフスキーや、カフカや、ベケットの短篇と同様で、バートルビーはそれらとともにみごとな地下水脈を形成している。バートルビーは、ただ実際に声に出して言うことを、そのまま字義どおりに言いたいだけなのだ。そして、彼が口に出して言い、さらに繰り返してみせるのは、「できればせずにすませたいのですが[I would prefer not to]」という言葉だ。これは彼の栄誉を示す決まり文句であり、彼に愛着を示す読者のひとりひとりが、今度はそれを自分で繰り返してみせる。(中略)痩せて青白い顔色の男がこの決まり文句を口にし、そのせいで誰もが取り乱してしまう。だが、この決まり文句の字義どおりさは、どういった性質のものなのだろうか?」

「バートルビーは独身者、カフカが次のように語っているあの〈独身者〉である。「彼にとって地面は両足に必要な部分だけだし、支点は両手で覆える範囲で事足りている」――そしてまた、冬に雪のなかに寝て子供のように凍え死にする人間であり、散歩しかすることはないが、どんなところにいても、動かずに散歩ができてしまう人間でもある。バートルビーは身元保証なき、所有物なき、属性なき、身分なき、特性なき男である。(中略)過去も未来もなく、彼は瞬間を生きる。」

「そこで、われわれはメルヴィルの作品に出てくる偉大な人物を分類できることになる。一方の極には偏執狂ないし悪魔、つまりエイハブ、クラガート、バボ〔『ベニト・セレノ』において反乱を企てる黒人奴隷〕などがいて、虚無を求める意志に引きずられて、途方もない選り好みをおこなう……。だが、もう一方の極には、天使ないし聖なる憂鬱症者がいて、痴呆さながらの彼らは、無垢さと純粋さを持った被造物で、身体は弱いものの、奇妙な美しさを授けられていて、生まれつき石化したかのようだが、選り好みをするかというと……。実は意志がまったくなく、虚無を求める意志というよりも、意志の虚無なのである(憂鬱症的「否定主義」)。彼らは、石と化し、意志を否定し、この宙吊り状態において聖化されることによってしか、生き延びられない。それがセレノであり、ビリー・バッドであり、とりわけバートルビーなのだ。この二つのタイプはあらゆる点において正反対で、一方は裏切る者で他方は本質的に裏切られる者、一方は子供を貪り食う恐るべき父親で他方は父親から見捨てられた息子であるにもかかわらず、両者とも同じ世界に取りついており、互いに交替するのであり、メルヴィルや、さらにクライストの書く文章においてまさにそうであるように、停滞的で硬直した過程と、常軌を逸した速度の手法とが交互に出てくる。(中略)つまり、「プラス」の記号か、「マイナス」の記号の影響だけを受けているという点で、おそらくは同じ被造物なのだ。」
「メルヴィルの世界には、さらに第三のタイプの人物がいるが、この人物は法の側にいて、副次的な本性に属する神的ないし人間的法の番人なのである。(中略)彼らは、無垢な人を断罪しておきながら、いとおしみつづける。(中略)みずからの語りを締めくくる代訴人の言葉は、「ああ、バートルビー! ああ、人間!」というもので、それは(中略)二者択一を示していて、代訴人はバートルビーに背き、あまりにも人間的な法の側を選ばねばならなかったのである。」

「アメリカ小説の根源的な行為は、それはロシア小説の場合と同じで、小説を理性の道から遠く運び去ることであり、そして、虚無のなかに立ち、虚空のなかでしか生き延びられず、自分たちの謎を最後まで保ち、論理や心理に刃向かうああした人物たちを出現させることである。(中略)決まり文句を有していても、もちろん説明的であるはずがなく、「できればせずにすませたいのですが」は謎めいた文句でありつづけ、それは地下室の住人の決まり文句に勝るとも劣らずで、地下生活者は二足す二が四になるのを妨げようとはしないが、それを〈甘受〉はしない(彼は二足す二を四にせずにすませたい(引用者注: 「彼は~」に傍点)、と考える)。メルヴィル、ドストエフスキー、カフカ、ムージルといった偉大な小説家にとって大切なのは、物事が謎をはらんだままで、しかも恣意的でないことである。」

「真の〈独創人[奇人]〉を、たんに目立ったり、奇抜だったり、特徴的だったりする人物と混同するなど言語道断だとメルヴィルは述べる。(中略)独創人は、ひとりひとりが孤独で力強い〈図形(フィギュール)[人物]〉であり、説明可能ないかなる形態からも洩れ落ちてしまう。独創人は燃えるような表現特徴線(トレ・デクスプレッシヨン)を投げつけ、それはイメージなき思想、答えなき質問、極端で合理性を欠いた論理の執拗さを刻み込む。生と知の図形(フィギュール)である彼らは、言葉にできない何かを知っていて、計りしれない何かを生きている。バートルビーには特別なところも、一般的なところもまったくない。〈独創人〉なのだ。彼らは知識を脱し、心理を脱するのだ。彼らが口にする単語さえもが、言語(ラング)の一般法則(「前提」)から、そして言葉(パロル)のたんなる特性からもはみ出るが、それというのも、単語は比類なく、根源的な独創的言語の眩暈ないし投射のごときものであり、言語活動の全体を沈黙や音楽との境界にまで至らせるからだ。彼らには一般的なところなど何もなく、特別でもない。
 独創人たちは根源的〈本性〉の存在だが、彼らは世界や副次的本性から切り離されるわけではなく、そこにおいて自分たちの効果を発揮する。つまり、世界や副次的本性の空虚をあらわにし、法の不完全さ、個別の人間の平凡さ、仮装行列(それはムージルが「平行運動」と呼ぶものだ)にすぎない世界を白日のもとにさらす。(中略)メルヴィルによれば、独創人は環境の影響を受けず、逆に、周囲にむけて、「創世記において物事のはじまりを照らしていた」明かりを思わせる青白い光を投げかけるのである。」

「メルヴィルは、キリスト教的な「慈悲」や父性的「博愛」に対する友愛の根本的対立を激化させつづけるだろう。人間を父親的機能から解放し、新しい人間ないし特性なき人間を生まれさせ、独創人と人間を結びつけて、新たなる普遍としての兄弟社会を構成するのだ。」
「メルヴィルの描く独身者バートルビーは、カフカの作品の独身者と同様、「自分が散歩する場所」、つまりアメリカを見出さねばならない。(中略)アメリカとは特性なき人間、独創的〈人間〉の可能性である。」
「アメリカの超越主義(エマーソン、ソロー)の時代に生きたメルヴィルは、早くもプラグマティズムの特徴線(トレ)を描き、それをさらに延長する。まず最初におこなわれるのは、過程にある(引用者注: 「過程にある」に傍点)世界、群島としてある(引用者注: 「群島としてある」に傍点)世界の肯定だ。ピースどうしを合わせて全体ができあがるようなパズルでさえなく、むしろ、セメントで固められていない石の壁のようなものであり、その個々の要素はそれ自体で価値を持つが、それでいて他の要素との関係でも価値を持つ。孤立集団で、かつ流動的関係、島で、かつ島どうしのあいだ、動点で、かつ蛇行線となるが、それというのも、〈真実〉にはつねに「虫食いだらけの縁」があるからだ。」
「新しい共同体が必要であり、その構成員は「信頼」、つまり自分自身にたいする、世界にたいする、生成変化にたいするあの信用をいだけるようになる。独身者バートルビーは旅を試み、姉を見つけ出して、彼女とともにジンジャー入りビスケットという新たなる聖体パンを食べるだろう。(中略)そして、旅を妨げられるなら、彼の居場所はもはや監獄しかなく、彼はそこ、ソローに言わせるなら、「自由な人間が名誉を守って生きられる唯一の場所」で、「民事上の不服従」のために死ぬのである。(中略)アメリカの新たなる若き娘「デイジー・ミラー」はごくわずかの信頼しか求めず、自分の求めていたこのわずかのものが得られないばかりに、死に身をまかせる。そしてバートルビーも、代訴人にたいして、わずかの信頼以外に何を求めたというのだろう、それなのに代訴人は、慈悲で、博愛で、父親的機能のあらゆる仮面で応えてしまったのだ。」
「「父親なき社会」の危険がしばしば指摘されてきたが、父親の回帰以外に危険など存在しない。」
「緊張病と食欲不振症の徴候を示してはいても、バートルビーは病人ではなく、病めるアメリカの医者、呪医(メディシン・マン)であり、新たなるキリスト、あるいはわれわれすべてにとっての兄弟なのである。」



























































































G・ドゥルーズ 『スピノザ ― 実践の哲学』 鈴木雅大 訳 (平凡社ライブラリー)

「スピノジストとは(中略)、ヘルダーリンであり、クライスト、ニーチェである。彼らは速さと遅さ、緊張症的凝固と高速度の運動、形をなさない要素群、主体化されない情動群をもって思考しているからだ。」
(G・ドゥルーズ 『スピノザ』 より)


G・ドゥルーズ 
『スピノザ
― 実践の哲学』 
鈴木雅大 訳
 
平凡社ライブラリー と-6-1

平凡社
2002年8月10日 初版第1刷
2010年5月20日 初版第5刷
317p
16×11cm 並装 カバー
定価1,300円(税別)
装幀: 中垣信夫
カバー・マーブル制作: 製本工房リーブル
カバー図版: C.D. フリードリヒ《孤樹》(部分)


「本書は、一九九四年三月、小社より初版刊行の同名の著作を改訂・増補したものです。」



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Gilles DELEUZE, Spinoza: philosophie pratique (Éditions de Minuit, 1981) の全訳である。」


本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値(626円+送料350円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


ドゥルーズ スピノザ


カバー裏文:

「大切なのは、単なる理論でも実践でもない。
概念の発明と情動の開放とを結びつけること。
生の総体を自由な出会いと相互触発へと
促してやまないスピノザからの力強い風を
ドゥルーズが増幅して私たちに届けてくれた。
付論、年譜・書誌を併収する増補改訂版。」



目次:


第一章 スピノザの生涯
第二章 道徳(モラル)と生態の倫理(エチカ)のちがいについて
第三章 悪についての手紙(ブレイエンベルフとの往復書簡)
第四章 『エチカ』主要概念集
第五章 スピノザの思想的発展(『知性改善論』の未完成について)
第六章 スピノザと私たち

書誌
原注
訳者あとがき
平凡社ライブラリー版 訳者あとがき
付論
ジル・ドゥルーズ年譜・書誌




◆本書より◆


第一章より:

「スピノザのいう〈自然〉とは、必要〔需要〕から出発してそのための手段や目的に応じて生きられる生ではなく、生産力から、持てる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きられる生のことである。」

「ここに哲学者の孤独もその完全な意味を得る。というのも彼は、どんな環境にも取り込まれることができないし、歓迎されることもないからだ。(中略)思惟の力能は、一国家や一社会の目的を超え、あらゆる環境の枠を超えてもう少し先まで届いている。スピノザが明らかにしてみせるように、どんな社会でもそのかなめとされているのは服従であり、それ以外のなにものでもない。あやまちや功罪、善悪といった観念がもっぱら社会的なものであり、服従や不服従にかかわっているのもそのためだ。(中略)だがどんな場合にも、彼は自身の目的と一国家や環境が目的としているものとを混同しなかった。彼は思惟のうちに、あやまちはもちろん服従そのものからものがれてしまうような力をもとめ、善悪のかなたにある、賞罰・功罪とは無縁のまったく無垢な生のイメージをかかげていたからである。その暮らす国家、出入りする環境はさまざまに異なっても、哲学者は、いわば隠者として、影として、漂白者として、家具付き下宿の間借り人として、そこに生きているにすぎない。(中略)どこに行こうと、彼はただおのれ自身とその尋常ならざる目的とが寛大に許容されることをもとめ、公算はともあれ、ただひたすらそれを要求したにすぎないからである。」

「哲学者が裁判でその生涯を終えることはけっしてまれではないが、破門と暗殺未遂をもって開始するというのはそうそうあることではない。」

「『神学・政治論』の中心に据えられた問題のひとつは、なぜ民衆はこんなにも頑迷で理を悟ることができないのだろう、なぜ彼らは自身の隷属を誇りとするのだろう、なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「もとめて」闘うのだろう、なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう、なぜ宗教は愛と喜びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう――ということだった。(中略)これほど激しい反駁や排斥を買い、罵られ、呪われた書物はあまりない。(中略)「スピノザ主義」とか「スピノザ的な」といった表現が、ひとを侮辱することば、威すことばになったのもこのときからである。」

「スピノザは、既成の価値観念を転倒し、ハンマーをもって哲学するあの「在野の思想家」の系譜に属し、「講壇哲学者」(ライプニッツの讃辞にしたがえば、体制的な感情や公序良俗をそこなわないひとびと)に属してはいなかったのだ。」
「どのようなかたちで生きようと、また思惟しようと、つねにスピノザは積極的・肯定的な生のイメージをかかげ、ひとびとがただ甘んじて生きている見せかけだけの生に反対しつづけた。彼らはたんにそれに甘んじているというにとどまらない。生を憎悪する人間、生を恥じている人間、死の礼讃をはびこらせる自己破壊的な人間がそこにはいて、圧制者・奴隷・聖職者・裁判官・軍人の神聖同盟をかたちづくり、たえずこの生を追いつめては、それをさいなみ、じわじわとなぶり殺しにかかり、法や掟、所有権、義務、威権をもってそれを塗り込めよい、窒息させようとしている。まさしく世界におけるそうした徴候をこそ、そうした全自然や人間そのものに対する裏切りをこそ、スピノザは診断したのだった。」
「のちにヘーゲルはスピノザが否定的なものを知らず、その力を知らなかったと非難しているが、それこそはスピノザの栄誉、無垢のあかしであり、まさしく彼が発見したものだったのだ。彼は、否定的なものに蝕まれたこの世界のなかで、そうした死やひとびとの殺戮衝動を、善悪・正邪の規範それ自体を疑問とするに足るだけの十分な信頼を生そのものに対して、生のもつ力に対していだいていた。(中略)それがどのようなものであろうと、生を辱め、破壊するすべての行為やふるまいには、すべての否定的なものには、その流れがひとつは外に向かい、ひとつは内に向う、二つの源があると彼は考える。怨恨とやましさ、憎しみと罪責感である。「人類の根源的な二つの敵、憎しみと後悔」。この二つの源泉は人間的意識のあり方に深く根ざしており、新たな意識なしには、世界の新たなとらえ方、生への新たな欲望のあり方なしには、それを根絶しえないことを、徹底して彼はあばき、示しつづけた。」

「スピノザは、希望も、勇気さえも信じていなかった。彼は喜びしか、洞察する視力しか信じなかった。他のひとびとが彼の生き方にかまわないでさえいてくれれば、彼らの生き方にはかまわなかった。ただ霊感を与え、目を覚めさせ、ものが視えるようにさせること、それしか彼はのぞまなかった。」



第二章より:

「スピノザが、身体に対する心のいかなる優位も認めなかったのは、心に対する身体の優位をうちたてるためではない。(中略)この心身並行論の実践的な意義は、意識によって情念〔心の受動〕を制しようとする〈道徳的倫理観(モラル)〉がこれまでその根拠としてきた原理を、それがくつがえしてしまうところに現れる。身体が能動的にはたらけば心は受動にまわり、反対に心が能動に立てば今度は身体がはたらきを受けずにはおかない、とこれまではいわれてきたのだった(中略)。『エチカ』によれば、そうではなく、心における能動は必然的に身体においても能動であり、身体における受動は心においても必然的に受動なのである。心身両系列のあいだには一方の他に対するいかなる優越も存在しない。」
「身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにも(中略)この私たちの意識を超えたものがある。(中略)無意識というものが、(中略)ここに発見されるのである。」

「〈善〉も〈悪〉もない。〔場合に応じた個々の具体的な〕いい・わるい(引用者注: 「いい」「わるい」に傍点)があるだけだ。(中略)いい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの・合わないものという客体的な、しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもっている。」
「かくて〈エチカ〉〔生態の倫理〕が、〈モラル〉〔道徳〕にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようをとらえるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解(タイポロジー)の方法である。道徳とは神の裁き〔判断〕であり、〈審判〉の体制(引用者注: 「〈審判〉の体制」に傍点)にほかならないが、〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。価値の対立(道徳的善悪)に、生のありようそれ自体の質的な差異(〈いい〉〈わるい〉)がとって代わるのである。」

「まさしくスピノザには「生」の哲学がある。文字どおりそれはこの私たちを生から切り離すいっさいのものを、私たちの意識の制約や錯覚と結びついて生に敵対するいっさいの超越的価値を告発しているからである。私たちの生は、善悪、功罪や、罪とその贖いといった概念によって毒されている。生を毒するもの、それは憎しみであり、この憎しみが反転して自己のうえに向けられた罪責感である。」
「彼はニーチェに先立って、生に対するいっさいの歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。」

「一個の個体は、まずはひとつの個的・特異的な本質、すなわちひとつの力能の度〔強度〕である。(中略)たとえば動物の場合も、類や種といった抽象的な概念によるよりはむしろ、それら個々の動物のもつ変様能力によって、それらが触発に応じてどのような変様をとげることが「できる」か、その持てる力能の限界内でどのような刺激に対して反応するか、によって定義されることになる。」

「『エチカ』のすべての道は内在に徹するところに切り開かれる。だが内在とは、まさに無意識そのものであり、同時にその無意識を克服することなのだ。」



第六章より:

「すべての属性にとってただひとつの実体というスピノザの第一原理を、知らない者はいない。しかし、すべての身体や物体にとってただひとつの自然、無限に多様に変化しつつ自身もひとつの個体であるような自然、という第三、第四、第五の原理も、みな知っているのではないだろうか。これはもう唯一の実体を定立しているのではない。すべての身体や物体、すべての心、すべての個体がその上にあるようなひとつの内在的な共通平面(プラン)(引用者注: 「内在的な共通平面」に傍点)を展(ひら)き延べているのである。」
「ひとつの体〔身体や物体〕をスピノザはどのように規定するか。スピノザはこれを同時に二つの仕方で規定している。すなわち、一方ではひとつの体は、たとえそれがどんなに小さくとも、つねに無限数の微粒子をもって成り立っている。ひとつの体を、ひとつの体の個体性を規定しているのは、まず、こうした微粒子群のあいだの運動と静止、速さと遅さの複合関係〔構成関係〕なのである。他方また、ひとつの体は他の諸体を触発し(アフェクテ)、あるいはそれらによって触発される。ひとつの体をその個体性において規定しているのは、また、その体のもつこうした触発しあるいは触発される力〔変様能力〕なのである。」
「スピノザにとって、ひとつひとつの身体や心は、実体でもなければ主体でもなしに、様態であることを、スピノザの読者なら誰でも知っている。」
「スピノザの〈エチカ〉はモラル〔人間的道徳・倫理〕とは何の関係もない。彼はひとつのエトロジー〔éthologie=動物行動学、生態学〕として、いいかえれば、そうした内在の平面の上でさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発しまた触発される力がとげる構成の問題として、これをとらえているのである。だからこそ彼は真実叫びをあげて言うのだ。君たちは、(中略)自分に何ができるか知ってはいない。君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない、と。」
「今や問題は、各個を構成している関係相互が(またどんな構成関係をもつものどうしが)直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと「拡がりの大きい」構成関係をかたちづくることができるかどうか、各個のもつ力が相互に直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと「強度の高い」力、力能をつくりあげることができるかどうか、にある。もはや個的利用や捕捉ではなく、社会を形成する力、共同体の成立が問われているのだ。さまざまの個体がどのように複合して、より高次の一個体を形成し、(さらにこの高次の個体がまた複合をかさねていって)ついには無限にいたるか。いかにして一個の存在は他を、相手のもつ固有の構成関係や世界を破壊せずに、あるいはそれを尊重しながら、しかもみずからの世界にとらえることができるか。(中略)これはもう対位法的な関係や、一世界の選択形成の問題ではない。大いなる自然の交響楽、次第に拡がりを増し強度を増してゆくひとつの世界の構成の問題なのだ。」
「おのおのの部分は無限に多様に変化しながら、その全体において最大の強度と拡がり幅をもつひとつの〈個体〉をかたちづくっている、大いなる自然の平面。」













































































ジル・ドゥルーズ 『記号と事件 1972-1990の対話』 宮林寛 訳

「La philosophie cependant n’est pas une Puissance. Les religions, les États, le capitalisme, la science, le droit, l’opinion, la télévision sont des puissances, mais pas la philosophie. ( . . . ) N’étant pas une puissance, la philosophie ne peut pas engager de bataille avec les puissances, elle mène en revanche une guerre sans bataille, une guérilla contre elles. Et elle ne peut pas parler avec elles, elle n’a rien à leur dire, rien à communiquer, et mène seulement des pourparlers. Comme les puissances ne se contentent pas d’être extérieures, mais aussi passent en chacun de nous, c’est chacun de nous qui se trouve sans cesse en pourparlers et en guérilla avec lui-même, grâce à la philosophie.」
(Gilles Deleuze 『Pourparlers』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『記号と事件 
1972-1990の対話』 
宮林寛 訳



河出書房新社 
1992年4月20日 初版印刷 
1992年4月30日 初版発行
305p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,800円(本体2,718円)
装幀: 森啓



本書「訳者あとがき」より:

「本書の原題は《Pourparlers》、直訳すれば『折衝』である。「折衝」という語の意味するところは、ドゥルーズ自身が序文で述べているとおり、ある力が外部から侵入してきたとき、その力を内側に折り曲げ、自己との戦いをくりひろげるということだ。したがって、外部の力として把握されたメディアへの対応を実践してみせる本書のタイトルは、素直に『折衝』と訳すべきだったのかもしれない。(中略)『記号と事件』は、もともと本書の第四部に収められた「哲学について」のインタビューが雑誌に掲載されたときの題名だ。それを総題に採用したのは、このインタビューが本書のなかでももっとも総括的なものになっているだけでなく、ドゥルーズのいう〈事件〉の考え方をつうじて、メディアとの対決姿勢がより鮮明になるのではないかと考えたからである。」



ドゥルーズ 記号と事件



帯文:

「思想のゲリラ!! 哲学の戦い!!
『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』、
映画論、フーコーの肖像、哲学について、政治の問題など、いま世界で最も注目を集めている哲学者ドゥルーズの二十年間の対話!!」



帯背:

「思想のゲリラ!!」


帯裏:

「●哲学は時代にたいする怒りから切り離せないということはたしかだ。しかし、もう一方では哲学が静謐の感をもたらすということも、やはり見落としてはならない。哲学は力をもたない。力をもつのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであって、哲学はけっして力をもたない。……しかし、そのかわりに哲学は戦いなき戦いをたたかい、諸力にたいするゲリラ戦を展開する。また、哲学は他の諸力と語りあうこともできない。……哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである……。
ジル・ドゥルーズ」



目次:

Ⅰ 『アンチ・オイディプス』から『千のプラトー』へ
 口さがない批評家への手紙
 フェリックス・ガタリとともに『アンチ・オイディプス』を語る
 『千のプラトー』を語る

Ⅱ 映画
 『6×2』をめぐる三つの問題(ゴダール)
 『映像=運動』について
 『映像=時間』について
 想像界への疑義
 セルジュ・ダネへの手紙――オプティミズム、ペシミズム、そして旅

Ⅲ ミシェル・フーコー
 物を切り裂き、言葉を切り裂く
 芸術作品としての生
 フーコーの肖像

Ⅳ 哲学
 媒介者
 哲学について
 ライプニッツについて
 レダ・ベンスマイアへの手紙(スピノザについて)

Ⅴ 政治
 管理と生成変化
 追伸――管理社会について

訳者あとがき




◆本書より◆


「序文」より:

「およそ二十年にもわたる期間に、しかも散発的におこなってきた対談のテクストを、いま、なぜ一冊の本にまとめるのか? 折衝が長引いたあげく、それがいまだに戦争に属しているのか、あるいはすでに平和に足を踏みいれているのか、判然としなくなることがある。哲学は時代にたいする怒りから切り離せないということはたしかだ。(中略)哲学は力をもたない。力をもつのは宗教や国家、資本主義や科学や法、そして世論やテレビであって、哲学はけっして力をもたない。(中略)みずからが力ではないところからして、哲学には他の諸力と戦いをまじえることができなくても当然なのである。しかし、そのかわりに哲学は戦いなき戦いをたたかい、諸力にたいするゲリラ戦を展開する。また、哲学は他の諸力と語りあうこともできない。相手に向かって言うべきこともないし、伝えるべきことももちあわせていないからだ。哲学にできるのは折衝をおこなうことだけである。哲学以外の諸力は私たちの外にあるだけでは満足せず、私たちの内部にまで侵入してくる。だからこそ、私たちひとりひとりが自分自身を相手に不断の折衝をつづけ、自分自身を敵にまわしてゲリラ戦をくりひろげることにもなるわけだ。それもまた哲学の効用なのである。」


「管理と生成変化」より:

「私たちが「管理社会」に足を踏み入れているのはたしかです。社会はもはや規律型とは言いきれないものになっているのです。フーコーは、規律社会と、その主たる技法である「監禁」(病院や監獄だけでなく、学校や工場や兵舎もそこに含まれる)の思想家とみなされることが多い、しかし、じつをいうと、フーコーは、規律社会とは私たちがそこから脱却しようとしている社会であり、規律社会はもはや私たちとは無縁だということを述べた先駆者のひとりなのです。私たちは管理社会に足を踏み入れている。管理社会は監禁によって機能するのではなく、不断の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている。管理社会について、分析の口火をきったのはバロウズでした。(中略)いま、手探りの状態でその形をととのえつつあるのは、新しいタイプの懲罰であり、教育であり、また治療であるわけです。(中略)いま目前にせまった、開放環境における休みなき管理の形態にくらべるなら、もっとも冷酷な監禁ですら甘美で優雅な過去の遺産に思えてくることでしょう。とにかく「コミュニケーションの普遍相」の探究には慄然とするしかありません。もっとも、実際に管理社会がととのえられる以前にも、さまざまな形の犯罪や抵抗があらわれることもあります。たとえばハッキングやコンピューター・ウイルスがそうだし、これがストライキや十九世紀に「サボタージュ(怠業)」と呼ばれた行為(機械に投げ込まれた木靴(サボ)を意味する)にとってかわることになるでしょう。(中略)言論やコミュニケーションは金銭に毒されている。しかもたまたまそうなったのではなく、本性からして金銭に支配されている。だから言論の方向転換が必要なのです。創造とコミュニケーションはこれまでも常に別々のものだったのです。そこで重要になってくるのは、管理をのがれるために非=コミュニケーションの空洞や断続器をつくりあげることだろうと思います。」


「哲学について」より:

「授業とは、一種のシュプレッヒゲザング(レシタティーヴォ)であって、演劇よりは音楽に近いといえるでしょう。というか、授業がすこしばかりロック・コンサートに似通ったものになるのをさまたげるものは原則としてひとつも存在しないのです。(中略)哲学科では「知識の累進性」という原則を拒否しました。同じひとつの授業が第一学年の学生とn学年の学生を対象にしておこなわれ、学生も学生でない者も、哲学の学生も哲学以外の学生も、さらに若い人と年配の人が一緒になり、しかもさまざまな国籍の人たちをひとまとめにしていたのです。(中略)各人が、自分の必要とするもの、自分の欲しいものを手に入れたし、自分の専門とはかけはなれたものであっても、何かに使えるとなれば、それをつかみとっていったのです。」
「そして哲学とは、厳密な意味で、議論とは何のかかわりももたないものなのです。誰かが問題を提起するとき、(中略)その問題を豊かなものにするだけでいいのです。問題の条件に変化をつけ、補足し、つなぎ合わせることがもとめられているのであって、けっして議論をしてはならないのです。ひとつの着想が、まるでいくつものフィルターを通過したような状態になってかえってくる、エコーのこだまする部屋とか円環のようなもの。そこでは哲学が、概念を用いる哲学的理解を必要とするだけでなく、知覚内容と情動による非哲学的理解もきわめて重要なのだということがわかりました。二通りの理解が必要なのです。(中略)生き生きとした哲学を殺してしまう知の過剰というものも存在する。非哲学的理解とは、不十分なものでも暫定的なものでもなく、ふたつの伴侶の片割れ、ふたつある翼のうちのひとつなのです。」

「記号は生の様態や生存の可能性を表示している。だから記号は、沸き起こるように活発な生命や、枯渇した生命を示す症候となるのです。しかし、芸術家は、枯渇した生命で満足することも、個人的な生活に満足することもできない。自分の自我や自分の記憶や自分の病では文章は書けないからです。書くという行為のなかでは、生命に手を加えて、個人を超える何かに作りかえる、そして生命を閉じ込めるものから生命を解き放ってやろうという企てがある。(中略)文章は、まだ言語をもたない、来るべき人民を想定して書かれるものなのです。創造とは、伝達することではなく、耐久力をもつことです。記号と〈事件〉と生命と生気論のあいだには、深い関係がある。それは非=有機的生命の潜在力であり、絵画や文章や音楽の線にもそなわることのある潜在力なのです。死んでいくのは有機体のほうであって、生命は死ぬことがない。生命に出口を教えないような、そして敷石と敷石のあいだの隙間に一本の道を穿ってくれないような作品など存在しないのです。私が書いたものは、すべて生気論になっている、いや、そうあってくれればいいと思っているだけかもしれませんが、とにかく私の本はすべて、記号と〈事件〉の理論を形成しています。」























































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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