FC2ブログ

梯久美子 『狂うひと ― 「死の棘」の妻・島尾ミホ』

「それにしても、文学者としての姿勢を糾されて、妻に言われたからと言い訳するのは、すでに確固たる地位を築いていた六十代の作家のすることとは思えない。」
(梯久美子 『狂うひと』 より)


梯久美子 
『狂うひと
― 「死の棘」の妻
・島尾ミホ』



新潮社 
2016年10月30日 発行
2016年12月10日 3刷
666p+3p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,000円(税別)
装幀: 司修


「初出
 「島尾ミホ伝 『死の棘』の謎」として、『新潮』二〇一二年十一月号~二〇一六年六月号に掲載されました(中略)。なお、単行本化にあたり大幅に加筆修正しました。」



本書「謝辞」より:

「本書は、敏雄・ミホ夫妻それぞれの日記や手紙から、草稿やノート、メモのたぐいまで、膨大な資料をもとに執筆しており、その中には本書で初めて公開されるものが多くある。」
「取材では敏雄・ミホ夫妻を知る多くの方に話を聞かせていただいた。」



「「死の棘」あらすじ」「島尾ミホ・敏雄 年譜」は二段組。巻頭に地図、各章扉に図版(モノクロ)。


梯久美子 狂うひと 01


帯文:

「『死の棘』の愛人の正体は?
あの日記には
何が書かれていたのか。
そして、
本当に狂っていたのは
妻か夫か――。

「そのとき私は、
けものに
なりました」

ミホの面影が立ちのぼる
トシオの言葉がよみがえる

比類ない
愛の神話を壊し、
そして創り直した
評伝の極北。
川村湊氏

戦後文学史に残る伝説的夫婦の真実に迫り、『死の棘』の謎を解く衝撃大作」



帯裏:

「その晩私は野獣に戻った。夫の日記に書かれたたった一行の十七文字を目にした時、突然ウォーウォーとライオンのほう吼が喉の奥からほとばしり、体じゅうに炎に焼かれるような熱気が走り、毛髪は逆立ち、四つ這いになって、私は部屋の中を駈け巡った。
 「『死の棘』の妻の場合」より

島尾夫妻それぞれの
日記や手紙、草稿、
ノート、メモなど、
膨大な未公開資料によって
妻・ミホの生涯を辿る、
渾身の決定版評伝。」



目次:

序章 「死の棘」の妻の場合
第一章 戦時下の恋
第二章 二人の父
第三章 終戦まで
第四章 結婚
第五章 夫の愛人
第六章 審判の日
第七章 対決
第八章 精神病棟にて
第九章 奄美へ
第十章 書く女
第十一章 死別
第十二章 最期

「死の棘」あらすじ
島尾ミホ・敏雄 年譜
謝辞
主要参考文献



梯久美子 狂うひと 02



◆本書より◆


「序章 「死の棘」の妻の場合」より:

「やはりそうだった。妻の側から見た“もうひとつの『死の棘』”をミホは書いていたのだ。
 しかし原稿は未完だった。」



「第二章 二人の父」より:

「大正八(一九一九)年生まれのミホは、二歳のとき、実母の実家があった奄美大島の瀬留から加計呂麻島の押角にやってきた。実父の姉の嫁ぎ先である大平家の養女となったのである。」
「私は、最初のインタビューのとき、「ミホさんが子供のころ、お父さまは何をなさっていましたか」と訊いてみた。すると彼女は笑って「なーんにもしておりませんでした」と答えた。
 「書院の表座敷に座って、書をしたためておりました。あとは漢籍を読んでいましたね。いわゆる仕事というものをしているところを見たことはありません。若いころは、いろいろな事業に手を染めたようですが」」
「しかしいずれも利益を上げるところまではいかず、最後に手がけたのが真珠の養殖だった。ミホの記憶にあるのは、物心ついたときわずかに施設が残っていたこの事業だけである。ミホと文一郎の年齢差は五十一歳であるから、文一郎は五十代の後半になるまでにほとんどの事業に挫折していたことになる。
 真珠の養殖事業で文一郎が目指したのは、奄美が生息の北限であるマベ貝を使って真珠を作ることだった。」
「核を植え付けるためのマベ貝を海底から採取してくるのは、沖縄の久高島から来ている漁師たちだった。その親方であるナベという男から買い取った貝を文一郎が開けてみると、すでに核入れ手術が施してあり、文一郎の養殖場から盗んできたものだとわかった話が『海辺の生と死』の中に出てくる(「真珠――父のために」)。親方はこうした行為を何度も繰り返したが、文一郎はいつも笑って許した。」
「あるとき親方は、ほとんど真珠ができかけた大量のマベ貝を文一郎の養殖場から盗み、大阪からきた商人に売り払おうとして警察につかまった。(中略)警察署まで出かけていった文一郎は親方を放免してくれるよう頼み、身柄をもらい下げてきたという。(中略)「父や母はどんな不都合に出合っても、いつもにこにこ笑っていました」とミホは書いている。」
「文一郎の仕事を尋ねたとき、「なーんにもしておりませんでした」と言って笑ったミホの声には、誇らしさのニュアンスがあった。何もせず、何も生み出さなくとも、いるだけで尊敬される存在で父があったことへの誇りである。」
「南島では国境を越えて人や物が行き来した。文一郎の膨大な漢籍は、半分は京都、もう半分は中国から直接買ったものだったという。海に閉じこめられた孤島は、海によって世界とつながってもいたのである。」
「集落の人は誰でも自由に大平家の庭に入り、好きな花を剪ってよいことになっていたと前に書いたが、ミホによれば大平家が所有する山も同様で、人々は自由に木を伐り、薪にして売って現金収入を得ていたという。」



「第三章 終戦まで」より:

「第一章で紹介した「はまよはゆかず いそづたふ」のノートには、「モウ誰モ信ジナイ、広イ世ノ中ニボクノ味方ハオ前ダケダ ボクニハ ボクノ任務ト オ前ダケシカ コノ世ノ中ニハナイ(アル怒リノ日ニ)」「命令ヲシタリサレタリスル世界ニ私ハ住ミニクイ、住ミタクナイ」といった文章も見える。(中略)思いつくままに書かれた文章だけに鬱屈した思いもそのまま記されており、(中略)当時の島尾の生な実感がにじんでいる。

   あらゆる悪いこと みにくいこと行き違ひ誤解等は総て何の能力もない私一個の身体で濾過する さうすることだけが逆に私の唯一の能力であるかのやうに感じられたのだ 私の身体にどんなみにくい腫物が出来ても我慢する どんなに高熱を生じても黙つてゐる 決して自分以外の者に訴へない もし少しでもその事をしやべつてしまへば世のみにくいものをみんな自分の身体に吸収しやうとする神通力は失つてしまふやうに思はれたのだ

   或ルトキハ鬼ニナツテ怒ラウト思ツタ 触レレバ必ズ斬ラウト心ヲ灰色ニシテ風ヲ蕭々ト吹カセタ 又或ルトキハ月ノ磯辺ヲサマヨウテ スベテヲ許サウ、スベテニ怒ラズ沈黙シテ笑ツテヰヨウト思ツタコトモアツタ
   風強ク岬ノ岩ノ上ニ立ツテヰルト怒濤ガ打寄セ身体ハ吹倒サレサウニナツタ 沖デハ白波ガ牙ノヤウニ歯ヲムイテ幾重ニモ重ツテ岸ノ方ニヤツテ来タ(部下ニ対シテ、八月一日)」

「島尾には、いつか島に審(さば)かれるはずだとの思いがあったはずだ。それは怖れであると同時に希求でもあった。」



「第四章 結婚」より:

「ミホが島尾の日記を読むことが、新婚のころから半ば習慣になっていたことは、『死の棘』の成立過程を知る上でも大きな意味を持つ。ミホを狂乱させたあの日記も、読まれることを意識しつつ書かれたものではないかと考えることができるからだ。」


「第六章 審判の日」より:

「やはり、島尾は心のどこかで待ちのぞんでいたのではなかったか。ことが起こるのを、ある期待と怖れをもって。ただ、ミホがあそこまで見事に狂うことは予想していなかったかもしれないが。」


「第九章 奄美へ」より:

「本土から見れば辺境である奄美群島だが、旧くから海上の交通路によって大陸や東南アジアの島々との往来があった。海に閉じこめられた小島は、海を媒介に世界と直接つながっている土地でもあったのだ。
 どんな人たちが島にやってきたのかについて、ミホはこう記している。

   その旅の人々は、沖縄芝居をする役者衆、支那手妻をしてみせる人たち、親子連れの踊り子、講釈師、浪花節語りなどの旅芸人や、立琴を巧みに弾いて歌い歩く樟脳売りの伊達男、それぞれ身体のどこかに障害を持った「征露丸」売りの日露戦争廃兵の一団、それに帝政時代には貴族将校だったという白系ロシア人のラシャ売り、辮髪を残した「支那人」の小間物売り、紺風呂敷の包みを背中に負った越中富山の薬売りなどでした。(「旅の人たち――沖縄芝居の役者衆」より)

沖縄、中国、日本本土、そしてロシア。なんとさまざまな土地から人々はやってきたことか。
 旅人は、遠くからだけやってきたのではない。近い距離にいながら、生活の場を異にする人々もまた訪問者としてあらわれた。

   それに旧暦の朔(ついたち)と十五日には必ず朝から夕方まで続く、癩病患者の物乞いの群れもありました。手先のなくなった腕に櫂を褸布でしっかりくくりつけ、丸木舟や板つけ舟を上手にあやつりながらやって来るのですが、集落を家ごとに巡り歩いてお金や味噌、黒砂糖、米など生活に必要な品々を、首の両側から吊した二つの三角袋に恵んで貰っては、また何処かへ漕ぎ帰って行きました。(同前)」

「それにしても、着物の色柄から舞台上の演者の動きまで、ミホの文章が幼少期の記憶を細部にわたって再現していることに驚かされる。これは以前にも触れた、一度見たものを忘れることがないというミホの能力のためで、ある場面を思い出そうとすると、映画のフィルムが廻っているかのように、そのときの情景が目の前に見えてくるのだという。」

「ミホは「見ること」にタブーを設けない。島尾が奄美での日々を(中略)日記形式で綴った『日の移ろい』の中に、捕鼠器にかかった鼠をミホが殺す場面が出てくる。ホースの水を勢いよく浴びせかけられて瀕死となった鼠を正視できず、その場を立ち去ろうとする島尾にミホは言う。
 「見て、見て、ほら、よく見て。奇麗な色でしょう。鼻と足のうらの色があんなにあざやかなピンク色」
 「もっと近くによってよく見て下さい」
 だが島尾は見ることに耐えらえない。逃げるように家に入り、しばらくしてもう一度出て行くと、ミホは「もう死んじゃった」と、「やさしい表情」で言うのである。」

「人と人ならざるもの、生者と死者の境界をやすやすと超えるミホの世界を、島尾は畏れつつ、まぶしい思いで見ていたに違いない。」



「第十章 書く女」より:

「養母の吉鶴はミホに、あらゆることをよく見るようにと教えたという。料理でも裁縫でも、見さえすれば自分のものにできる、と。
 「心をこめて見れば、見たものが自分の中に入ってくる――母はそう言いました。以来私は、何でも一生懸命に見る人になりました。そうすると、見ているものと自分がひとつになる感じがあります」
 見ることで対象が自分の中に「入ってくる」という感覚を身につけて育ったミホは、おそらくは生まれつきの資質もあって、見たものを鮮明に記憶し、忘れることがないという特性をもつ人になった。
 思えば、ミホの狂気は島尾の日記を「見る」ことから始まっている。そしてさらに、見てしまった「あいつ」の顔が自分の中から消えずに苦しむのである。」



「第十一章 死別」より:

「家族三人で島尾の骨を分けたのは、昭和六十一年十二月四日のことである。宇宿の家の居間のテーブルの上に新聞紙を敷き、骨壺から骨を出して広げた。そのときのことを、直接にミホが記したノートが残っている。

   ミホ、伸三、マヤ三人、
   敏雄さまの骨つぼ二個をビニールのシートの上にあけて、骨をえりわける。
   先ず歯と指の骨をさがす。
   歯六本がまずでてきた。奥歯の冠歯の一つが出て来た。
   せきついの骨、足の関節のまるみをおびた骨。足のすねの骨の10センチ位の骨の中はまるで、めのあらいスポンジのように、又はめのこまかなヘチマのすのようになっている。せきずいの神経の通っていたところがこれだと伸三はいう。白い、まっ白い足の骨はずしりと重みがある。
   まるでウルのように白く、さわるとウルのようなかさかさとした音がする半円型の形のせきついの骨。

 見ることにタブーを設けない彼女は、夫の骨を前にしても、細密な「目」を失っていない。(中略)ウルとは珊瑚のことで、おもに乾いて石灰化したものを指す。ミホはこの語に傍線を引き、その横に小さな字で「サンゴ」と記している。」




新潮社サイト
https://www.shinchosha.co.jp/book/477402/




こちらもご参照ください:

『埴谷雄高作品集 6 随想集』
島尾伸三 『星の棲む島』
武田百合子 『富士日記 (上)』 (中公文庫)
































































スポンサーサイト



島尾敏雄 『魚雷艇学生』 (新潮文庫)

「私は当直将校を見つけると、彼のそばに行き、温習室でキャラメルを食べたことを口に出して言った。そしてふいっと何だかとても馬鹿(ばか)げているという気持になっていた。彼は私よりずっと年下のはずだ。その彼に私はキャラメルを食べましたなどと申し立てていたのだ。」
(島尾敏雄 『魚雷艇学生』 より)


島尾敏雄 
『魚雷艇学生』
 
新潮文庫 し-11-4 


新潮社 
平成元年7月15日 印刷
平成元年7月25日 発行
205p 付記1p 
「文字づかいについて」1p
文庫判 並装 カバー
定価280円(本体272円)
カバー: 糸園和三郎


「この作品は昭和六十年八月新潮社より刊行された。」



島尾敏雄 魚雷艇学生


カバー裏文:

「予備学生として魚雷艇の訓練を受け、のちに特攻志願が許されて震洋艇乗務に転じ、昭和19年11月、第18震洋特攻隊の指揮官として180余名の部下を引きつれ奄美諸島加計呂麻島(かけろまじま)の基地に向かう――。死の淵から奇蹟の生還をとげた著者が、悪夢のような苛烈な体験をもとに、軍隊内部の極限状況を緊迫した筆に描く。野間文芸賞、川端康成文学賞を受賞した戦争文学の名作。」


目次:

第一章 誘導振
第二章 擦過傷
第三章 踵の腫れ
第四章 湾内の入江で
第五章 奔湍の中の淀み
第六章 変様
第七章 基地へ

解説 (奥野健男)




◆本書より◆


第一章より:

「しかし私のからだは夕食までが限界であった。煙草を吸いたいとも思わず、入浴も面倒であった。ただじっと動かずに居たかっただけだ。木製の共同長椅子に腰をおろし、食卓に崩れるように俯(うつぶ)すと、そのまま酔ったようになって、うつらうつらしていた。まわりの仲間たちの喧騒(けんそう)は、まるで潮騒(しおさい)のように耳をかすめるだけであった。私にも私なりに休息時でなければできない用事があったのに、からだが言うことをきかず、どうしても上体が起こせなかった。からだが溶けてしまいそうなほどに活力を失い、濡(ぬ)れ雑巾(ぞうきん)のようになって私は食卓に俯していた。いつまでもそうして居たかった。頭の中で何かを考えているというのではなかった。何も考えずしびれたように限りなくそうして居たかったのに、時刻はたちまちにして経過し、ほんのしばらくうとうとしただけと思えるのに、温習の時間が近づいたことを知らせる、課業始め五分前、の号令がラッパの合図と前後して、たちまちにして深い安らぎの中に居る私の耳をおびやかしてくるのであった。」

「両腕を前に真っすぐ伸ばして肩の高さまで持ち上げたあと、急に力を抜いて体側に落とし、そのはずみで又左右に伸ばしたまま肩の高さまで上げることを繰り返す運動である。肩に力は要れず、前、横、前、横、と永久運動の振り子さながらに振りつづける単純なもので、誘導振という名前が与えられていた。海軍体操には数多くの型が定められていたが、号令をかけながら次に移る型をふと決めがたくなった場合など、この誘導振は実に柔軟な効果をあらわしてくれた。ユードーシン、と一度号令をかけて置きさえすれば、次の型を思いつくまではいつまでもそのままにして猶予(ゆうよ)を得ることができた。(中略)課業の中で課せられたことだから、自分から進んで行なう気持にはなれない所もあったが、強(し)いられてでもそれをはじめると、やがて快い律動の中にはいりこんでいる自分を発見することができた。」



第二章より:

「私はできることならその勤務から免(まぬが)れたいと思わないわけには行かない。でもおそらくは私には廻ってこないだろう。なにしろ一千名もの学生が居たのだから、一日一人の割合いで全員を一巡するには三年近くもかかる計算になる。(中略)とにかくあれはいやだなと思い、しかしまずその勤務に立つことはあるまいと高を括(くく)って、なるべくそのことは考えないようにしていた。ところがそれが私に廻ってきたのだ。避けたいことはかえって免れようなくまともにやってくる、というあれだ。過去にも何度か経験したその観念にまた陥(お)ち込むことになった私は、準備も無いままに激流に飛び入る心境であった。」


第三章より:

「ところが或(あ)る日ふと右足の踵のあたりに異和を感じた。歩くとへんに疼(うず)く箇所のあることに気づいたのだ。そのうち消えてしまうかと気にとめずにいたが、やがてはっきりと膿(うみ)を持ってきた。」

「軍医長は私の顔など見ようとはしなかった。下士官から無言でメスを受け取り、踵の腫れた部分にあてがうと、片手だけで有無を言わさずに切り裂いた。途端に驚く程の量の膿が吹き出し、軍医長の白衣に飛び散った。顔にも少し飛沫(ひまつ)がかかったろう。思わず私は笑いかけ、勿論それは押さえたが、彼は高い鼻の目立つ白皙(はくせき)の顔をしかめていた。」
「一つの事件があっけなく終わった。なぜあんなに私は力んでいたのだったか。精神まで抑えつけられたような陰にこもった痛みは、ひりひりした開放的な肉のそれに変わった。しかしそれももう治癒(ちゆ)へ向かっての余韻でしかない。こんなことで終わるならもっと早く受診すればよかったと思わぬでもなかったが、充分に膿ませたからこそ一挙に根絶できたのかも知れなかった。」



第四章より:

「特攻隊などはるかな他人事(ひとごと)であったのに、まさかまともに自分の頭上にふりかかってくるなど思ってもみないことであった。(中略)実はS少佐の言葉を聞き終わったときに既に、私は結局は志願してしまうにちがいない気がしていた。するとたちまちのうちにも出撃命令がかかってきそうなせわしない気分になった。もうこの世を捨ててしまったのだから、早く整理しなければいけないとせきたてる声が聞こえていた。なにをどう整理していいか、わかったわけではないのに。」


第七章より:

「われわれ第十八震洋隊は(中略)、ひとまずは海没の非運に遇(あ)うこともなく予定された基地に到着し得たのだ。(中略)しかし予(あらかじ)め基本的な設備を既に設けてあると聞いてきた基地は、南海の島かげに奥深く眠るが如くに横たわる、山上湖ともまごうおだやかな自然のままの入江であって、浮標(ブイ)一つ用意されてはいなかった。澄み切った入江の青い海は、両岸の樹木の影を深々と写し、古代さながらの清らかな静けさに満ちていた。私はどれ程そこに基地の施設などは作らずにいつまでもそのままにそっとして置きたい思いにかられたことか。しかし既に特攻隊の基地として定められた以上、両岸の樹木は次々と伐採され、兵舎が建てられ、特攻艇の格納壕(かくのうごう)としての三十メートルも奥行のある横穴が、十二個も掘削されなければならなかったのだ。」




こちらもご参照ください:

「カイエ」 臨時増刊号 総特集: 島尾敏雄











































































島尾伸三 『中国茶読本』 (コロナ・ブックス)

「中国二大淡水湖の一つである洞庭湖に君山という島があります。君山は昔は洞庭山と呼ばれていました。洞庭山は仙人や仙女が住む島で、大きな不思議な宮殿があり、そこでは仙女の奏でる音楽が一年中響いていて、ときどき外にもその音がこぼれて聞こえたのだそうです。
 ここで採れる美味しいお茶が「君山銀針」です。」

(島尾伸三 『中国茶読本』 より)


島尾伸三 
『中国茶読本』
 
コロナブックス 10

平凡社
1996年5月20日 初版第1刷発行
126p
B5変形判(16.6×21.7cm)
並装 カバー
定価1,553円(税別)
装丁・レイアウト 桜井久+鈴木香代子+和田光弘
表紙イラスト: 瀬戸照
写真: 島尾伸三・潮田登久子/平凡社写真部



著者のお父さんは作家の島尾敏雄であります。
本文中図版(カラー/モノクロ)多数であります。


島尾伸三 中国茶読本 01


目次:

お茶との出会い

飲茶清談

六大分類
 茶葉のいろいろ
 お茶の名前は、謎解きゲーム
 茶摘みと季節

烏龍茶
 贅沢な烏龍茶
 風流な待ち時間
 烏龍茶は青茶といいます
 烏龍茶のいろいろ
 鉄観音
 鉄観音の名前の由来
 お茶道楽は、一に暇、二にお金
 スワトーへ
 工夫茶
 工夫茶をいれてみる

緑茶
 中国緑茶
 中国人も緑茶を飲んでる
 茅山青峰――静岡新茶のように
 葉巻の香りの流溪茶
 桂峰81――とっておきのお茶
 四絶――四つの絶品
 緑茶の楽しみ方
 ふた付きのカップで飲む
 粗茶は茶壷で飲む
 ふたのない桃の急須
 ガラスコップで茶を愛でる

白茶・黄茶
 うぶ毛の生えたお茶
 二人だけで飲んでいます
 三つの白茶
 仙人の住む島で採れる君山銀針
 蒙頂茶――若返りのお茶

紅茶
 英国式と中国式
 腐った烏龍茶
 中国アメリカ茶貿易
 英徳紅茶
 工夫紅茶
 煙でいぶしたお茶
 父のロシアン・ティー
 ペニンシュラで紅茶を

黒茶
 普洱茶は奥が深い
 緊圧茶と散茶
 丸くて固い緊圧茶
 黒茶のいろいろ
 ワインのように寝かせて
 普洱茶は痩せる?
 エスニックな酥油茶
 香りと味の謎
 醇――ちょうどいい

花茶・薬茶
 花の香りを楽しむお茶
 花と美人とジャスミン
 むせぶジャスミンの香り
 虎丘名物ジャスミン茶
 薬茶
 減肥茶――みるみる痩せるお茶
 五花茶――五つの花のお茶
 凉茶――熱くなりやすい人に
 花茶・薬茶のいろいろ

茶具
 茶具文物館
 私の集めたお宝茶具

茶楼
 飲茶物語
 香港の茶楼は家族のたまり場
 点心何でも
 点心のいろいろ
 茶楼はチンピラの館
 アヘンを吸うな
 茶博士
 仙人茶館
 茶楼の石になったおとうさん

飲茶雑話
 お茶にまつわる13の小話
 神農
 お茶とお酒の関係
 お茶自慢
 よい香りのするお寺
 茶宴でお茶に酔う
 羽が生えて空を飛べる?
 地獄のお茶
 詩に讃えられたお茶の効用
 婚礼とお茶
 黒社会の茶碗陣
 お茶を食べる人たち
 烤茶
 天下第一の水
 九龍城からの眺め
 中国茶を買いにいく
 中国茶分類表
 中国茶の歴史
 参考文献



島尾伸三 中国茶読本 04



◆本書より◆


「風流な待ち時間」より:

「昔のお茶は磚茶の状態で運搬、販売されていましたので、買ってきたお茶を砕くことから始めます。
 七輪に火をおこし、お湯を沸かしている間に、お茶の固まりを碼船(薬研(やげん))で砕き、茶臼で粉にしてから、茶具を席に並べ、おもむろにお茶をたて始めるのです。
 電気ポットはもちろん、魔法瓶も無かった、私の子供の頃の奄美大島では、お祖母さんに連れられて親戚の家を訪問すると、お茶を出すのに、薪や炭に火をおこすところから始めるのです。」
「その間、お客は、じっと待っているのですが、家に伯母さんが一人しかいなかったりすると、台所のほうから火をおこす様子や、井戸水を汲み上げる様子が音となって聞こえて来るのです。」
「あの、のんびりした時間の使い方は、定職も無くブラブラしている今の自分の暮らしから比べても、とても贅沢だったなアと、羨ましく思い出すのです。
 今の私たちは、そんなに手間をかけてお茶をいれる暮らしの流れの中にはいませんが、とっておきの烏龍茶をいれる時、あの、風流な待ち時間の、待ち遠しさの心持ちが、フッとよみがえるような気がします。」



コラム「壁の悪霊」:

「中国ではお茶のお湯は、壁ぎわで沸かすのがマナーのようにいわれていますが、多少腑に落ちないところがあります。それは、壁の中には、悪霊や悪い鬼が蠢いていると、迷信深い人々には信じられているからです。部屋の中でも、外を歩く時でも、壁にもたれ掛かったり触って歩くと、壁の中の悪霊にとりつかれるというのです。壁ぎわでお湯を沸かすと、そこに鬼が飛び込んで来るのではないかと私は心配するのです。しかし、火をおこすと、成仏できぬ霊や、鬼や、動物の下等霊が集まってきて、煙を食べ、お腹いっぱいになると、どこかへ消えて行くので悪霊払いになってかえってよいということでした。また、お茶のような芳しい香りの立ち昇るところには、仙人や神仏が集まって来るのだそうで、私の心配は間違っていたことになります。」


「父のロシアン・ティー」より:

「東欧やソ連の文学が好きだった私の父は、紅茶にいちごジャムを入れて、甘ったるくして飲むロシア式が好きでした。大粒のいちごがそのまま入っていたブルガリア産のいちごジャムを入れると、カップの底に残ったいちごは、甘さが抜けて、小さな小さな種をかみつぶすのが楽しみでした。
 来日する度に夕食に誘ってくれる亡き父のガールフレンド、イリーナさんは、蜂蜜をこってりと入れた紅茶を、美味しそうに飲むのです。(中略)イリーナさんの話によると、昔のようにアルコールを燃料にしたサモワールで、ゆっくり沸かしたお湯で飲む紅茶はとても美味しいのだそうです。」



島尾伸三 中国茶読本 02


島尾伸三 中国茶読本 03



























































































































島尾敏雄 『新編・琉球弧の視点から』 (朝日文庫)

「私が言いたいのは、日本の広さということをもう一度考えてみたいということです。それぞれの地方には、それぞれの歴史もあるし、それぞれの文化や考え方もあるということ。そうした広さをもう一度胸の中にたたみ込む必要があるのではないかという気がするのです。」
(島尾敏雄 「明治百年と奄美」 より)


島尾敏雄 
『新編・
琉球弧の
視点から』
 
朝日文庫 し 8-1

朝日新聞社
1992年7月15日 第1刷印刷
1992年8月1日 第1刷発行
385p
文庫判 並装 カバー
定価690円(本体670円)
カバー写真: オノデラユキ
地図製作: 石井啓之
カバー装幀: 笹川寿一
表紙・扉: 伊藤鑛治


「本書は、「島尾敏雄全集」(全十七巻・晶文社)のなかから、南島に関するエッセイを新たに編んだものである。」



巻頭に地図1点。


島尾敏雄 琉球弧の視点から


カバー裏文:

「琉球弧は先史の時代から、本土への文化的、政治的な影響を飛び石伝いに運びこむ海上の道であった。日本の国の歴史的な曲りかどにはかならずこの道すじからの歴史的契機の信号によって、国の命運の方向を設定してきたにもかかわらず、本土はこの島々の役割を見ぬき評価することができなかった。」


目次:

一部 ヤポネシアと琉球弧
 ヤポネシアと琉球弧
 琉球弧の吸引的魅力
      *
 加計呂麻島呑之浦
 軍政官府下にあった名瀬市
 琉球弧の感受
      *
 回帰の想念・ヤポネシア

二部 奄美と沖縄と 1955~78
 加計呂麻島
 奄美大島から
 南西の列島の事など
 久慈紀行
 アマミと呼ばれる島々
 沖縄らしさ
 悲しき南島地帯
 島の中と外
 奄美体験の途上で
 九年目の島の春
      *
 請島の結婚式
 奄美の妹たち
 奄美大島の食生活
 庭植えのパパイヤ
      *
 沖縄・先島の旅
 奄美・沖縄・本土
 沖縄紀行
 私の中の琉球弧
 明治百年と奄美
 沖縄島の城跡
 那覇に感ず
 「琉球弧」、改めて検討を
 那覇からの便り
      *
 名瀬だより(抄)
  一 名瀬の町、その最初の印象と町のすがたのあらまし
  三 町の人々と背後の歴史
  六 市民生活など
  七 災厄――台風とハブと癩と
  八 名瀬のことば
 那覇日記

巻末エッセイ “ヤポネシア”概要 (川村湊)




◆本書より◆


「ヤポネシアと琉球弧」より:

「ヤポネシアということばは、今までおそらく誰も使わなかったはずです。というのは、わたしはそれをどこかから借りてきたのではなくて、自分で組み合わせてこしらえたのですから。ヤポネシアと言うと、おそらく、ポリネシアだとかインドネシア、あるいはミクロネシア、メラネシアなどという名前が頭に浮かぶんじゃないか思いますが、つまり、それと似たような意味でわたしはヤポネシアということばを使いたいのです。太平洋の地図を見る時、たいていわたしたちは、アジア大陸がまん中になった地図をみるわけですが、それをずらして、太平洋をまん中にしてみますと、まず、当初は何もみえないほどですが、よくみると、ポリネシアなどはもちろんですが、もう一つ似たような島の群があり、それに「日本」という名前がついているのです。わたしはいっそのことそれにヤポネシアという名前をつけてみたらどうだろうかというのが、そもそもこの発想のはじまりなのです。
 日本という名前がついているのに、どうしてヤポネシアで呼びたいのかと言いますと、わたしは、「もう一つの日本」というようなことを考えたいからです。」
「この日本という国の、今までの歴史をふり返ってみますと、どうしても大陸の方にばかり向いていたのではないかという気がするのです。」
「それには何かこう固い画一性があるような気がしてなりません。みんな一色に塗りつぶされてしまうという息づまるような何かがあって、わたしはそこからどうしても抜け出したいという気持がおさえられないのです。」
「この抜け出せない日本からどうしても抜け出そうとするなら、日本の中にいながら日本の多様性というものを見つけていくより仕方がないんではないか。その日本の多様性というのは、ちょっと片寄った考え方かもしれませんが、(中略)もう一つの日本、つまりヤポネシアの発想の中で日本の多様性を見つけるということです。そういう気持でみますと、日本というところもかなり多様性を持っている国ではないか。(中略)たとえば方言一つとってみても、日本というところはたいへん多様性を持った国だということに気づくはずです。」
「ところで多様性を持ったいろいろな地方の中でもことに強く独自性を持った地方が琉球弧であり東北ではないかというのがわたしの考えですが、(中略)どうも琉球弧と東北というところは、一般的な日本のイメージの中に素直に入らないのではないかという気持がでてきたのです。」
「まず東北という地方について少し考えてみますと、あそこは国はじめの時から征伐ばかりされてきた地方です。たびたびの蝦夷征伐、それに「前九年の役」、「後三年の役」。それから、平泉の藤原氏が何か中央をまねした文化をこしらえかけたところ、それも亡ぼされてしまうし、伊達政宗が出かかってもうまくいかずに挫折してしまい、明治維新をむかえるのですが、新政府ができる後先に見舞われたあの「戊辰の役」にしてもやはり一種の東北征伐と見ることができるでしょう。」
「それともう一つ、この琉球弧が、やはり一種の異端の立場に立たされていると思えるのです。これまで中央の本流に流れこんだことはないし、本土からも何となくちがう場所だという待遇を受け、そういう考えられ方をし続けてきています。いわばまん中の日本をはさんで、はじっこの東北と、それから琉球弧が、全体の日本の中で、そういう位置を持っているということは、わたしにはなかなか興味深いのです。そのつもりで見ると、この両地域はいろいろな点で似ているところがあるような気がしてくるのも面白いことです。」
「何かまだ解明されない関係があって、北と南とが、ある近似を持っているのじゃないかという気がしてなりません。現実のアイヌは北海道にいるのですが、わたしは日本人の中にとけこんだ幻のアイヌがいて、東北と琉球弧により濃く入りこんでしまったのではないか、これはまったく学問的な根拠のない話かもしれませんが、そういうことさえ考えたくなるのです。というのも、両方の地方が、日本の歴史の中で果した役割みたいなものが、非常に似ている気がして仕方がないからです。」



「琉球弧の感受」より:

「実を言うと、本土で僕はコンプレックスのかたまりみたいなところがあったんです。生まれは横浜で、神戸で育ったり、九州の学校へ行ったりしたんですが、両親は東北ですから、どうも東北の血のせいか、「俺は友達とはいろんなことが違うな」という劣等感に襲われていたんです。特に神戸と九州の時にその思いが強くありました。その当時は自分が性格的に優柔、或いは内向的なんだろうと自分を責めるふうにばかりはたらいていたのが、奄美で生活するようになって、何となく自分のような性格でも許容されているという気がしたんです。遠い先祖の地に行ったように感じたということは、前にもちょっと言いましたけれど、それはここのところとつながっていたのかもしれません。つまり奄美の人たちが、自分たちは日本人だろうかという疑問も持っているという姿勢が、僕にはぴったりと心に感応するところがあったんです。」
「たまたまオセアニアの地図を見て、ふと或る考えが浮かんだんです。オセアニアは地図をごらんになるとわかりますが、その真ん中は太平洋です。もちろんポリネシアとか、ミクロネシア、メラネシア、オーストラリアが主体ですから、そういう地域が中心になるように按配すると、真ん中の大部分は太平洋になってしまうんです。そしておもしろいことに、日本列島の中の小笠原諸島と琉球弧がちらっと左上のはじっこに顔を出しているんです。あとさき考え合わせ、「あっ、われわれの列島は海洋性の強いところのはずだぞ」と思ったんです。日本人はいつも大陸のほうにばかり目を向けてきた。(中略)それにしてもいわば太平洋の中の島嶼群であることは事実なのだから、われわれの祖先は、海と密接なかかわりを持った生活をしていたにちがいない。そうすれば、ポリネシアとか、メラネシアという言い方があるのですから、(中略)われわれの島嶼群はヤポニアのネシア、つまり「ヤポネシア」じゃないか、と思ったわけです。その手がかりは、琉球弧でした。そこからの視点が持てたので、そのように写ってきたんです。」

「日本歴史を倭のにおいの強い目つきで見ると、琉球弧はどうも様子がちがった所になってしまうし、東北は、(中略)何となく異和の残る地域ということになるでしょう。時に風変わりな思想家が出てきたりするわけですから。しかしそういうさまざまな個性のある地域をヤポネシアという視点で見ると、その総体こそが日本であって、倭的な伝統ばかりが日本ではなくなり、そして今まで見えなかった事物が見えてくるんじゃないか、と考えているわけです。」



「加計呂麻島」より:

「一字姓のその起りは島津藩に強制されたものだが、結果として島びとの選んだ文字の素晴らしさに私は眼をみはる。その多くは、たとえば和(ニギ)、太(フトリ)、盛、基、祝、計(ハカリ)、禱(イノリ)、喜(キ)、与(アタイ)などはなはだ観念的な文字を選び、その文字をつきつけられるたびに、うかつなヤマトッチュを思わずどきりとさせる何かがあるではないか。
 それから私は彼らの古い名付け方を羨望する。それも今は次第に本土風に平板化されつつある。稲祥喜(イナショキ)、実祥喜(サネショキ)、赤坊果(アハボッカ)、佐栄百玖(サエモク)、伊能国(イノクニ)、前峰(マエミネ)、坊金(ボウガネ)などをいまの小学生徒の中に見つけることは困難であろう。私は島びとのそれらの名前にでくわしたときにはちょうど「古事記」を読んでいて、その中の耳ざわりのいい古代人の名付けをうらやんでいたが、それがその痕跡を眼前に見せつけられたのだ。いや痕跡などと遺物のようないいかたはよくあるまい。その感受性の豊かな独自の表現に驚いたのだ。
 また前 前広(マエ・マエヒロ)、福 福島(フク・フクシマ)、里 里禎(サト・サトテイ)などと苗字と名前とを重複させたユーモラスな方法にも眼を開かれたのに。しかしそれらも次第になくなってしまうだろう。それはなぜか私の心を寂しくさせる。」



「名瀬のことば」より:

「女生徒の「名瀬普通語」はいうまでもなく、男生徒の島ことばにしても、年よりたちのつかうことばよりずっとくずれたかたちになっているのはいたしかたなかろう。敬語などにもあまり頓着しなくなっているようだ。
 「おい。ときちゃん、帰らん?」「えー。帰りますが。まったい。帰っといっていいが。ごめん」「なんでえ」――これは女子高校生の会話だ。東京のあたりでなら、たぶん「ねえ、ときちゃん、帰らない?」「ええ、帰るわ。あ、だめ! 先に帰っててよ。ごめんなさい」「あら、どうして」――とでもいうところだろう。女生徒どうしの呼びかけは(小中学生も)すべて「おい」だ。「あたし」は「わし」という。「おい」も「わし」も少してあらいが、(中略)ききなれると、むしろ、さわやかなひびきもある。「先生、来(コ)んのは、なんでえ、あれなんか、もう裏山にのっとるよ。早くこんばあ」、これも職員室に教師を迎えにきた女子生徒のことばだ。先生どうしていらっしゃらないのですか、みんなはもう裏山にのぼっていますよ、早くおいで下さい、といえばいうところだ。敬語はほとんど考慮のなかにはいっていないだけでなく、少しこまかい表現になると標準語としての語彙がでてこず、またテニヲハがうまくつけられない。「あのひとのおこりー、おもしろいね」、これは「あのひと、怒ってるわ、おもしろいね」のことだし、「わしなんか、こっちから、帰ったんばよ」は「あたしここから帰ったのよ」の「名瀬普通語」的な言い廻しだ。」





こちらもご参照ください:

谷川健一 『孤島文化論』
岡谷公二 『島の精神誌』


















































































島尾敏雄 『夢のかげを求めて 東欧紀行』

「私は計画のうつろな世間知らず。」
(島尾敏雄 『夢のかげを求めて』 より)


島尾敏雄 
『夢のかげを求めて 
東欧紀行』


河出書房新社
1975年3月25日 初版発行
1975年5月25日 再版発行
552p 「発表誌」1p
別丁図版(モノクロ)4p
折込「東欧紀行旅程」1葉
四六判 丸背クロス装上製本 貼函
定価1,900円
装幀: 駒井哲郎
本文写真: 著者
旅程図: 浜田洋子

「■発表誌
東欧への旅 (「文藝」 一九六八年三月号~一九七四年一月号 断続連載)」



島尾敏雄 夢のかげを求めて 01


帯文:

「空気がきしり音をたてて刻々と夜を凍結させる冬のモスクワ。旅先でのそれぞれの朝に、揺れ動くためらいを鎮めてくれる、例えばひときれのパン、例えば熱いお茶――。
日本に置いてきた〈日常〉との濃密なモノローグをたずさえて、白い寒気の国々、ポーランド、チェコ、ハンガリー……を経巡り、新たな紀行文学の塑像を樹てる、著者初の長篇紀行。」



帯裏:

「■紀行文学の一傑作!
(「朝日新聞」書評)
 五百五十ページあまりの大冊は、多くの出来事を次々を語りながら、それらの出来事の克明な叙述が均一な全体を形づくっているために、読みはじめたら最後まで一気に読み通さずにはいられない気持にさせられる。(中略)
 ことばのほとんど通じない国で、雲をつかむようなたよりなさ、不審さの中に宙づりにされながら、見たまま、感じたままを逐一語って行くという著者の一貫した態度は、かえってこの旅行記に底知れぬ奥行きと厚みを与えていて、紀行文学の一傑作と呼ぶべきものが、ここに実現している。」



目次:

ワルシャワまで
ワルシャワにて
墓地のにぎわい
ワルシャワの町歩き
ワルシャワでの日々

クラクフへ
クラクフにて
カメドゥウフ修道院まで
カメドゥウフ修道院にて
ヴィェリチカまで
ヴィェリチカにて

ふたたびワルシャワへ
スターレ・ミアスト界隈
ニェポカラヌフへ
ニェポカラヌフにて

またワルシャワへ
イェジョルナ散策
トゥウシチへ
トゥウシチにて
トゥウシチから

二人のスタニスワフ
チェンストホーヴァへ
チェンストホーヴァにて
オシヴィェンチムへ
オシヴィェンチムまで
ブジェジンカにて
さらばワルシャワ!

プラハまで
プラハにて

マジャールを越えて
ベオグラードのホテルにて
ベオグラード市街瞥見
人形劇場
カレメグダン城址
ラコヴィツァ往復

ふたたびモスクワへ
ふたたびモスクワにて
モスクワの凍え
コロミンスコエ村へ
さらば! モスクワ



島尾敏雄 夢のかげを求めて 02



◆本書より◆


「ワルシャワまで」より:

「どんな魔がさしたか、東欧に行ってみたい気になっていた。東欧と言っていいかどうか、私の言いたいのは、ロシヤ人とドイツ人にはさまれた地帯のこと。たとえばそこには、ポーランドとか、チェコスロヴァキヤ、そしてハンガリー、ルーマニヤ、ブルガリヤ、ユーゴスラヴィア、アルバニアなどの国々がある。そこは私のヨーロッパ理解の中で、うまく消化できずにわきにどけて置いた場所のようにも思う。もっとも二年ほどまえ、ポーランドを十日ばかりのぞいてきた。それがあるいは誘いになったかもしれず、またスラヴの人たちにひきつけられるかたむきを私は持っているから、知らず識らず、そのあたりに思いが駈けるのか。ナホトカ航路のあとハバロフスクからモスクワを通る道を選び、そして帰りも同じ道をもどってくることを考えていたから、そのほとんどを、スラヴの人たちのあいだを縫うことになるようであった。」

「私は計画のうつろな世間知らず。」

「鍵でドアをあけ自分の部屋にはいってしまえば、もう外に出たくなくなるのがふしぎだ。じっとあれこれと心配の種を反芻するだけで時間はどんどん過ぎ、ラジオ(きくことのできるネットはひとつだけに固定されていたが)のスイッチをひねれば、音楽か人間の声がきこえ、それを耳にしているだけで時はおもしろいほど刻まれて行った。部屋の中だけが、自分の城郭、一歩足をドアの外にふみだせば、もうその廊下の絨毯のところから特別な緊張を強いられると感じた。服装を崩してみても正しても、身にそぐわぬ根拠、などと思ってしまう。でもどこかの時点では、意を決して自分を外に押しださねばならない。」

「ラジオの箱から出てくる声も、個性的なものとしてより、この国の受苦の果てのそれとしか私は受けとりようがない。私には私の環境から受けた累積があり、そのかぎりで私のかたちがあらわされているが、なぜ異質のものに、折々に心を奪われることが起こるのだろう。でも私はその思考を放棄しよう。思いつめるとへんに意識がむずがゆくなり、その揚句にそれが剥がれでもすれば厄介なことだ。」



「ワルシャワにて」より:

「そして私はかつて落ちた感受の中にふたたび落ちたことに気づく。モチロンということばが彼女の口から出されると、ふだん使われる意味とどことなく少しずれていることがわかるのだが、それがまるきりまちがっているのではなく、かえってそのことばの意味の広がりか、または開拓された可能性のようにきこえてくることがおかしかった。もしかしたらポーランド語のふだんのことばに「モチロン」と感応しやすいそれがあって、彼女はそのことばをかさねながらモチロンを使っているのではないか。」


「墓地のにぎわい」より:

「この国の度かさなる国境の移動は、まるで自分の場所を見つけるための作業にそっくりだと考えたのであったか。ときにその領域を広げすぎたかと思うと全く居場所を失ったかの如くそのかげを失い、錯誤をかさねて二枚あわせのガラスの領域図を右にずらせ左に移ししているうち、現在の立場にようやく焦点が合った様子なのだが、それがこのまま動かずにすむとも思えない。もともと自分はなにものなのかと、遡行を試みてもその確かなみなもとなどわかるはずもないが、しかし私が私以外のなにものでもないことは、それらの作業のあいだにいよいよ色濃くわき立ってくるようなのだ。しかし自分の中に含みもつ混沌の地下道はどこにつづいているのか定かでないことがむしろ私の日々を支えている、というようなことなのか。」


「ワルシャワでの日々」より:

「ワジェンキは公園につけられた名まえだが、十八世紀のころは当時の王様の夏の別荘であった。ワジェンキのもとの意味についてアンナはなんとか言ったが、よくわからず、Kがいろいろききだした結果、風呂場ということばに落ちついた。Kと私が微笑すると、「デモ、イマ、ワ、デントーテキ、ナ、ナマエ、ダケデス」と彼女は言っていた。「デスガ、コノ、キューデン、ノ、ソバ、ニ、タクサン、ノ、ドーゾー、ガ、アリマス」。彼女はスタニスワフにくらべると、文脈も筋が通り、語彙も豊富だけれど、その言いまわしは私にはふしぎなことばとしてきこえた。彼女が母語をはなすときと、声の調子が別に変わるわけもないと思えるが、日本語のときの彼女のそれには或る甘さが感じられたのはなぜだろう。それはクリスティーナにもあったし、ことばの使い方には共通のくせがあり、それは日本語のひとつの方言として私の耳は受けたのだった。小鳥も草花もそしてにんげんもおなじ動詞の活用のなかで生かされ、むしろ日本語のあたらしい表現を装っているかのようにきこえた。「タトエバ、コノ、キューデン、ノ、ヨーシキ、コテン、ノ、ヨーシキ、デス。コノ、タテモーノ、ノ、ナマエ、ワ、ミカン、デス。ナカ、ニ、アツイ、クーキ、デシタ。デスガ、イマ、ワ、レモント、ダケ、デス。ザンネンデス」。それはどうしてもひとつの奇妙な空間とでもいえるもののかたちが誘いだされ、ミカンやレモンがでてくると私は果実のにおいにむせ、その意味をわかろうとする努力を捨てていたようなのだが、Kは日本語とポーランド語を使いわけて彼女の言おうとする単純なことがらをあきらかにすることをやめようとしない。宮殿につけられた名まえを日本語に直せば蜜柑だったか或るいは未完のことだったか。レモントはポーランド語で修復のことのようで、修理中で施設は休んでいるらしかった。ソビエトでもそうだったが、日本語では宮殿としか訳せない名まえの施設がいたるところにあって、私に現実と童話の境界をあいまいにさせる作用が与えられた。キューデンがミカンやレモンで、中はアツイクーキだという場所を見たいと思ったのは、スタニスワフが言った塩でできた地下の教会にうごいたこころとかわらない。でもそれはこころがうごいただけで、それを実際に見たいとも思わせぬほど、数少ないことばのなかで私の想像をゆたかにしてくれた。」

「たとえ、この国での食堂での晩餐に不文律ながら守った方がいい習慣があったとしても、それを私が知るはずもないし、きき知ったところで手なれた実行に移せるものではない。あたりまえのことだけれど、私は私のやり方をすすめるより仕方がなく、それにはどうしてもためらいもともなうが、ためらいつつも手さぐりでよその国の習慣の中にはいって行くことには、軽い冒険のたのしみもないわけではない。どういうわけか、ステージのまえのあたりの食卓はすべて空席になっていたのだが、足がまずそちらの方に向いてしまっていたから、引きかえすことはあきらめ、いっそのことまともに向かう一番まえの食卓の、ステージと対面した椅子をえらんで坐ったのだ。」



「クラクフへ」より:

「なにやら自分もワルシャワ市民のひとりになったつもりのやすらぎがあった。つと異様な服装が入口のあたりから私の視野にはいりこみ、それが広がり近づきふたりの少女とわかっただけでなくしかもまっすぐ私たちのテーブルに向かって来たことが確かめられたときは、咄嗟にはその状況が理解できなかった。少女たちは時代おくれな裾長のひだの多いスカートをまとい、肩かけなどもしていて全体に装飾の多すぎる感じを与えていたのだから、もしなにかのじょうだんでなければ、ポーランドの国以外のひとかも知れぬと考えたとき、私の頭のなかではインドの観光客か留学生かもしれぬと思っていたのだった。皮膚があさぐろく目もとのくろずんだ肉のうすい容貌もそう思わせるだけの似通いがあったのに、なぜ彼女たちは店にはいるとすぐ、ほかの客には目もくれずに私たちのテーブルにやってきたのか。そしてそばにつっ立ったままで、となえごとのようなひとりごとを年かさの方の少女が言いはじめたのだ。臆せずにじっと見つめてくる目には、ここと定めた場所はどんなことがあっても動かない決意が光っていて、むしろ憎しみをぶつけてくるぐあいに受けとれた。彼女の手にはトランプがにぎられ、にぶい動作でそれをいじっているのが目についた。ジプシーの娘だと気づいたのは、そのトランプを見たときだったかもしれぬ。Kははじめからわかっていたはずだけれど、私は彼には注意を向けずに少女たちの異様さに押されていたので、彼から教えられるすきがなかった。私がどうしてよいかに迷ったのは、少女たちの冷たい目つきとかたくなに固守しているその固有の服装にばかりではない。「どうしよう」と、ついKに相談をかけたけれど、Kはだまっていた。もし反対に私がKからそう言われても、おそらく返事などできなかったろう。少女たちの目的がトランプ占いにあるのではないことぐらい、私にも見当がつき、つまり私は硬貨を彼女の手ににぎらせるかどうかを問われていたのだった。「やらない方がいいなら、こっちも頑張ってみようか」と言ってみても、私はもう十ズウォーティの硬貨をポケットの中でにぎっていた。「日本人がよくねらわれるよ。彼女たちのいいお得意さんらしい」とKはうつむいて言って菓子を食べていた、「だからまっすぐこっちにやってきただろう」。少女は物乞いのことばをとぎらせずに言いつづけていたから、店のなかの客や従業員がみな私たちの方に視線を向けている痛い気配が感じとれた。「このひとたちに、ぼくはよわい。だめなんだな」そう言って、Kにわからぬようにつかんだ硬貨を少女の手のひらにおしつけてやったとたん、彼女はそれまでのおしゃべりをぷつりとやめたかと思うと、くるりとくびすをかえし、そのままほかの客には見向きもせずに外に出て行ってしまったのだ。私はそこでなにをしたことになったのだったか。なぜだかのこりの食べものもそこそこにして、ふたりはその店を出たが、すくなくとも私は、さきの少女たちが人々から背中に受けた視線は、私の背中にも射こまれたような気持になっていたのだった。しかし彼女たちはその視線をはねかえす無関心ですきまもなくこころをよろっていたけれど、私のそれはどんな防具もないように思えたのだった。」


「ヴィェリチカにて」より:

「つい吸いこまれるように一行のあとにつづき私はくらい地の底への入口を越えていたが、へんなことに、死刑の宣告を受けた者が刑場に引かれるときもきっとこんなだ、などと考えていたのだ。この塩鉱のかたちについてははじめからはぐらかされ通しでまるきり予想のつかなくなっていた私は、心構えようもない中腰のままの手さぐりでしか進めず、気持を処理した上で、というふうではなく、改札口を買い求めた切符を手渡しつつ通りすぎるや否や、地の底へ開いた小さな穴を底深く降りて行く螺旋なりの木の階段に足をかけさせられていた。それでもなおまだバスが用意されたところに出るつもりでいたのだから、ここのところを早くすませて、ぐらいにしか思っていなかった。階段は二つ三ついっしょにとび越えるようにし、ものごとの途中はよく噛まずに呑みこんで、と言わぬばかり、目的のところに早く到達したいあせりに噛みつかれ、先にあるものの見きわめもつかぬまま、私だけでなくみんなが駈け足でとびおりて行った。」
「改札口を通りぬけるや有無を言わされず、地の底へなだれるように落ちこんだ最初のいきおいの速度を誰も変えようとしなかったのは、ここのところはほんのわずか、すぐにも目のまえに別の状況の展開があらわれると期待したからだ。(中略)しかしその見当はすっかりはずれた。当初私たちをおそったはしゃぎは、急に日常のつくろいを崩され解放を感じたからだ。(中略)すぐ行きつくと思った場所はどこまでも下に逃げ、まるで底無しの下降をつづけなければならぬ気分になってきた。私に追いせまり追い越して行く者のいるあいだはそれでもよかったが、やがて前の者と後の者の距離がしだいに開いてきて、ふと立ちどまっても、しばらくは次の者の姿があとにあらわれてこなくなった。足もとにばかり気をとられていたせいか、ふみ板の方は汚損や危険な箇所まで見えていたのに、まわりがどうなっていたかはいっこうに思いだせない。ただ早く前の者に追いすがらないと、どこに行ったか見当がつかなくなり、後から来る人たちにも迷惑をかけることになりはしないかなど、あせりぎみになっていた。でも果たして誰かが先導してくれているのか。そうではなく、ただやみくもに憑かれたように前の者を追って走り下りているだけではないのか。それは不安ごっこのように私の頭脳をよぎり、Kともはぐれ何人かに追い越された自分はどのあたりを歩いているかもわからない。(中略)すると、危険に追われた私が地底深い坑道に逃げこんだ状況がかさなってしまい、自分は体力ぎりぎりのところで難渋しているのに、かれらは、ふざけて音をあげ、さわぎ声を出してみせたりしながらも、その実取るべき処置はすばやく取り終え、悠々としているのではないかと思われてきたのだ。そのときなぜか私は残酷な仕組みのなかに取りのこされたと思った。それは長い長いあいだの度かさなる体験のあとで身につけたかれらの活力のなかに、無謀にもまぎれこんだあわれな生きもののように自分が見え、どこかをまちがえてこんなことになってしまった、とふと正体のはっきりしない恐怖がちらと通りすぎて行った気になった。」



「オシヴィェンチムまで」より:

「そして広い畑の中の道をゆるいカーヴを描きながら進んだそのつきあたりのところに、行手をはばむような建物が横たわっているのが見えてくる。煉瓦造りの一階建て。だが横に長くてまるで城壁のようだ。中央にひときわ丈高く鎌首をもちあげたぐあいの塔は望楼にちがいあるまい。拒むことのできぬ吸引力がその建物全体からもやもやとたちのぼり、私たちの方にのびてきて有無を言わさず包みくるみ、その建物の中に引っぱりこんで行きそうな気がしてきた。その中はどんな光景になっているのか。タクシーの運転手は待つことをにべもなくことわって田園の中の道を引きかえしてしまう。まるでここまで送りとどけられたものの帰途は絶たれて無気味な建物の門前に投げだされたぐあいだ。天はいっそうかげりを濃くしてきた。ここにつれてこられた以上は帰りの心配など末の末のことだ。一種の恍惚とした感動が身うちをかけまわり、吸いこまれるように私は望楼の下の門に近づいた。押しかぶさるような天井と両わきの煉瓦の壁からひたひたと冷たい気配がにじみ出てくる、上部をアーチなりにくりぬいた空間がその向こうの世界を収斂している。そこをくぐりぬけなければならぬ私の皮膚は誰何される鋭い声を期待しつつ死に急いでいるかのようだ。


島尾敏雄 夢のかげを求めて 03


島尾敏雄 夢のかげを求めて 04





















































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本