ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『ボルヘス、文学を語る』 鼓直 訳

「言葉はもともと魔術的なものであり、詩によってその魔術に引き戻されるのだという、この考えかた(中略)は真実であると思います。」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『ボルヘス、文学を語る』 より)


ホルヘ・ルイス・ボルヘス 
『ボルヘス、文学を語る 
詩的なるものをめぐって』 
鼓直 訳


岩波書店 
2002年2月18日第1刷発行
219p 目次i
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,800円+税
装幀: 丸尾靖子



1967年から1968年にかけて、ハーバード大学で行なわれた連続講義。ボルヘスは英語で喋っています。
本書は2011年に『詩という仕事について』と改題されて岩波文庫から再刊されています。


ボルヘス 文学を語る 01


帯文:

「私の考えでは、小説は完全に袋小路に入っています。小説に関連した、きわめて大胆かつ興味深い実験のすべての行き着くところは、小説はもはや存在しないとわれわれが感じるような時代でしょう。 ホルヘ・ルイス・ボルヘス
『エーコの文学講義』
『カルヴィーノの文学講義』につぐ、
ハーバード大学ノートン講義(1967―68)の全記録」



帯裏:

「ボルヘスは、はにかむような穏やかな表情で宙をみつめ、まるでテクストの世界――その色彩、構造、音楽などに実際に触れているように思われた。文学は彼にとって実体験のひとつのかたちだったのだ。
カリン=アンドレイ・ミハイレスク(編者)」



カバー裏文:

「20世紀文学の巨人ボルヘスによる知的刺激に満ちた文学入門。誰もが知っている古今東西の名著名作を例にあげ、詩の翻訳の可能性/不可能性、メタファーの使われ方の歴史と実際、物語の語りかたなど、フィクションの本質をめぐる議論を、分かりやすい言葉で展開する。レナード・バーンスタイン、T・S・エリオット、イタロ・カルヴィーノ、ウンベルト・エーコなど、超一流の作家、音楽家、画家、批評家を毎年一人招聘して半年にわたって行なわれる、米国ハーバード大学チャールズ・エリオット・ノートン詩学講義の全記録(1967―68)」


目次:

1 詩という謎
2 隠喩
3 物語り
4 言葉の調べと翻訳
5 思考と詩
6 詩人の信条

気紛れな芸術のあれこれ (カリン=アンドレイ・ミハイレスク)

編者注
訳注
訳者あとがき



ボルヘス 文学を語る 02



◆本書より◆


「詩という謎」より:

「時折りですが、我が家にある沢山の本を眺めていると、読み尽くすことができずに死を迎えるだろうという気がします。しかし、それでも私は、新しい本を買うという誘惑に勝てません。本屋に入って、趣味の一つ――例えば、古英語もしくは古代スカンジナビア語の詩――に関わりのある本を見つけると、私は自分に言い聞かせます。「残念! あの本を買うわけにはいかんぞ。すでに一冊、家にあるからな」。」

「バーナード・ショーは、かつて、聖書は本当に聖霊によって書かれたのか、と訊かれて、次のように答えました。「聖霊は、聖書だけではない、あらゆる書物を書いたのだ」。」

「美は、常にわれわれの周りに存在するのです。ある映画のタイトルとして、われわれのもとを訪れるかもしれない。あるポピュラー・ソングのかたちをとって、やって来るかもしれない。偉大な、あるいは有名な作家の仕事のなかでお目に掛かるかもしれないのです。」

「一篇の作品が、傑出した、あるいはそうでない詩人によって書かれたか否かという点ですが、これは文学史家たちにとってのみ意味のあることでしょう。話を進めるために、仮にこの私が一行の美しい詩を物したとします。これを、いわゆる作業仮説といたします。いったん私が書いてしまった以上、詩行はもはや私には何の関わりもありません。すでに述べたとおりで、詩行は聖霊から、潜在的な自我から、あるいは別の作者から授かったものであるからです。私はしばしば、自分はしばらく前に読んだものを引用しているに過ぎないことを実感します。そしてそれが再発見にも繋がるのです。詩人というのは、恐らく、無名の存在である方がよろしいのでしょう。」



「物語り」より:

「恐らく詩人の意図したところなどは、さして重要ではありません。(中略)実際には彼は、より素晴らしいことを物語っていた。つまり、決して征服できない都市を攻めている、そしてその都市が陥落する前に自分は落命することを知っている男、英雄の話です。そして、その運命がすでに分かっている都市、すでに炎に包まれている都市を守ろうとする男たちについての、遥かに感動的な物語です。これこそが『イーリアス』の真の主題であると、私は思います。」
「ここで二番目の叙事詩『オデュッセイア』を取り上げることにしましょう。(中略)第一の観点からみれば(中略)家郷への帰還、われわれは流謫の身であること、真の家郷は過去、天国その他にあること、われわれは決して家郷に戻ることはないこと、といった観念を見いだします。(中略)われわれがそこに見るのは、一つになった二つの物語です。われわれは、それを帰郷の物語として読むことも、冒険譚として読むこともできる。」
「次にご紹介する三番目の「詩」はこれら二つを遥かに超えるものです。四書の『福音書』がそれです。(中略)信者にとっては、それは人類の罪をあがなう人間の、神の奇妙な物語として読めます。みずから進んで苦しみ、シェイクスピアに言わせれば "bitter cross" 「苦い十字架」のうえで死ぬ神。これは私自身がラングランドの作品の中で見つけたものですが、もっと奇妙な解釈もあります。神は人間の悩みのすべてを知りたいと望んだ、神として許されているように、理性によって知るだけでは十分ではなかった、神はあくまで人間として、人間の限界のなかで苦しむことを望んだ、という考えかたです。」
「何世紀にもわたって、人類にとってはこれら三つの物語――トロイの物語、ユリシーズの物語、そしてイエスの物語――だけで十分でした。人々は飽きもせず、それらを繰り返し繰り返し語ってきました。(中略)私は当時の人間たちが今日の人間たちより創造力で劣っていたとは思いません。新しい陰影が、微妙な陰影が物語に加えられれば十分であると、彼らは感じていたと思います。」



「思考と詩」より:

「私はこれまで幾度となく、意味は詩にとってお添えものではないかと考えました。意味なるものを考える前に、われわれは詩篇の美しさを感じるのだと固く信じています。」


「詩人の信条」より:

「私は一つの考えをもてあそんできました。人間の一生は何千何万という瞬間、そして日々から成り立っているけれども、これらの尨大な瞬間は、これらの莫大な日々は、ただの一瞬に、すなわち自分が何者であるかを人間が悟る一瞬に、人間が自分自身と向き合った一瞬に、つづめ得るのではないか、という考えがそれです。私の想像によれば、ユダがイエスにくちづけた際の、その瞬間のユダは、自分は裏切り者であると、裏切り者となることが自分の宿命であると、そして自分はその呪われた宿命に忠実であったのだと、感じたのでしょう。」

「何かを書いているとき、私はそれを理解しないように努めます。理性が作家の仕事に大いに関わりがあるとは思っていません。現代文学のいわば罪障の一つは、過剰な自意識であります。(中略)私は物を書くとき、自分のことはすべて忘れるように努めます。(中略)私はただ、夢とは何かを伝えようと努めます。そして仮にその夢が曖昧なものであっても、それを美化すること、あるいは理解することもいたしません。」

「私は自分を作家であると見なしています。作家であるとは私にとって、何を意味するのでしょうか? それは単に、自分自身の想像力に忠実であることを意味します。何かを書くとき、私はそれを、事実として真実であるということではなくて(中略)、より深い何物かにとって真実であると考えるわけです。ある物語を書くときも、それを信じておればこそ書くわけです。単なる歴史を信じるというようなことではなく、むしろ、ある夢とか、ある観念を信じるというような按配ですけれど。」
「われわれは、歴史にあまり注意を払わない方がいいのではないでしょうか」

「自分に何ができるか、それが分かる時がやがて来ます。自分の本来の声を、自分自身のリズムを見いだす時がきっと来ます。」
「私は作品を書くとき、読者のことは考えません(読者は架空の存在だからです)。また、私自身のことも考えません(恐らく、私もまた架空の存在であるのでしょう)。私が考えるのは何を伝えようとしているかであり、それを損わないよう最善を尽くすわけです。」
「今の私は、表現なるものを自分はもはや信じていないという結論(中略)に達しました。私が信じているのは暗示だけです。」

「仮にあとで裏切られると分かっていても、人間は何かを信じるよう努めるべきではないでしょうか。」



カリン=アンドレイ・ミハイレスク「気紛れな芸術のあれこれ」より:

「ボルヘスの記憶は伝説的である。ルーマニア出身のアメリカ人教師の語ったところによれば、一九七六年、インディアナ大学でボルヘスと雑談をしたが、その際、このアルゼンチン作家は、ルーマニア語の八連の詩篇を暗誦してみせた。一九一六年のジュネーヴで、年若の難民である作者から教わったものだが、ボルヘス自身はルーマニア語の心得は無かった。彼の記憶力には奇妙な点もあった。他人の言葉や作品はよく覚えていながら、自分の物したテクストは完全に忘れていると言うのだ。」


「編者注」より:

「ボルヘスはウィリス・バーンストーンとの会話のなかで、無名の存在であることへの希望を述べている――「もし聖書が孔雀の羽毛であるとすれば、あなたは、どんな種類の鳥ですか?」と私は訊いた。「そうね」とボルヘスは答えた。「私は鳥の〈卵(エッグ)〉だな。ブエノスアイレスという巣で、まだかえっていなくて、誰からも変わった目で見られない。私は心から、そうありたいと望んでいるんですよ」。」



本講義 mp3 音源(UbuWeb):

Jorge Luis Borges (1899-1986)
The Craft of Verse: The Norton Lectures, 1967-68



ボルヘスのドキュメンタリー(UbuWeb):

Profile of a Writer: Borges (1983)
Playlength: 80 minutes
Director: David Wheatley


































































































































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ボルヘス 『伝奇集』 篠田一士 訳 (ラテン・アメリカの文学)

「夢みる男の夢の中で、夢みられた男がめざめた。」
(ボルヘス 「円環の廃墟」 より)


ボルヘス 
『伝奇集』 

伝奇集/エル・アレフ/汚辱の世界史
篠田一士 訳
ラテン・アメリカの文学 1

集英社 
1984年9月15日 第1刷発行
333p 口絵(モノクロ)2p
四六判 丸背紙装上製本
本体ビニールカバー 貼函
定価1,800円
装幀: 菊地信義

月報〈15〉 (8p):
ボルヘス断章(辻邦生)/ラテンアメリカの美術(1)――時間と空間について(加藤薫)/訳者略歴/次回配本/図版(モノクロ)1点



本書は、折からのラテン・アメリカ文学ブームに乗って企画された文学全集「ラテン・アメリカの文学」シリーズ(全18巻)の第1巻として刊行されました。収録内容は集英社版「世界の文学」第9巻ボルヘス編(1978年)と同じです。


ボルヘス 伝奇集 01


本書には、以下の三冊の短篇集が収録されています。
『汚辱の世界史 Historia universal de la infamia』(1935年)――中村健二による訳が晶文社から刊行されています(『悪党列伝』)。
『伝奇集 Ficciones 1935-44』(1944年)――鼓直訳が岩波文庫から刊行されています。
『エル・アレフ El Aleph』(1949年)――土岐恒二訳が白水社から刊行されています(『不死の人』)。


目次:

伝奇集
 第一部 八岐(やまた)の園 (一九四一年)
  プロローグ
  トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス
  アル・ムターシムを求めて
  『ドン・キホーテ』の著者 ピエール・メナール
  円環の廃墟
  バビロンのくじ
  ハーバート・クエインの作品の検討
  バベルの図書館
  八岐の園
 第二部 工匠集 (一九四四年)
  プロローグ
  記憶の人・フネス
  刀の形
  裏切り者と英雄のテーマ
  死とコンパス
  内緒の奇跡
  ユダについての三つの解釈
  結末
  フェニックス宗
  南部

エル・アレフ
 不死の人
 死んだ男
 神学者たち
 戦士と囚われの女の物語
 タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九―一八七四)
 エンマ・ツンツ
 アステリオーンの家
 もうひとつの死
 ドイツ鎮魂曲
 アヴェロエスの探求
 《ザーヒル》
 神の書跡
 アベンハカーン・エル・ボハリー、おのれの迷宮に死す
 ふたりの王とふたつの迷宮
 待つ
 敷居の上の男
 アレフ
 エピローグ

汚辱の世界史
 初版の序
 一九五四年版の序
 汚辱の世界史
  恐怖の救済者 ラザラス・モレル
  真(まこと)とは思えぬ山師 トム・カストロ
  鄭(てい)夫人 女海賊
  不正調達者 モンク・イーストマン
  動機なしの殺人者 ビル・ハリガン
  不作法な式部官 吉良上野介
  仮面の染物師 メルヴのハキム
 ばら色の街角の男
 エトセトラ
  死後の神学者 (エマヌエル・スウェーデンボリ)
  彫像の部屋 (「千夜一夜物語」)
  夢を見た二人の男の物語 (「千夜一夜物語」)
  お預けをくった魔術師 (アラビヤの物語『四十の朝と四十の夜』を出典とするドン・フヮン・マヌエル王子の『パトロニオの書』より)
  インクの鏡 (リチャード・F・バートン)
  マホメットの代役 (エマヌエル・スウェーデンボリ)
  寛大な敵 (H・ゲリング『ヘイムスクリングラ補遺』)
  学問の厳密さについて (スワレス・ミランダ)

解説――ボルヘス JORGE LUIS BORGES(一八九九~ ) (篠田一士)
著作年譜



ボルヘス 伝奇集 02



◆本書より◆


「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」より:

「その夜ビオイ=カサーレスがわたしと夕食をともにし、一人称小説の雄大な構想について長々としゃべっていた。その小説のナレーターは事実を抜かしたり、形をかえたり、矛盾をおかしたりするので、少数の読者――ほんの一にぎりの読者だけしか、小説の背後にかくされた、恐ろしい、あるいは平凡な真実を読みとることができないだろう、ということであった。廊下のはるか奥から、その鏡はわたしたちを凝視していた。わたしたちは、(そういう発見は夜中には避けがたいものなのだが)鏡というものは、なんとなく怪奇なものを漂わせていることに気がついた。するとビオイ=カサーレスが、ウクバールの教祖のひとりが言ったことを思いだした。鏡と性交は、人間の数をふやすがゆえに忌わしいものだと。」

「トレーンの一学派は時間を否定するにいたった。現在は無限である、未来は現在の希望にほかならず、過去は現在の記憶にほかならないというのがその理由である。また、ある学派は、全時間(引用者注: 「全時間」に傍点)はすでに起こってしまったものであり、われわれの人生はやり直しのきかない経過の漠然たる記憶、あるいはおぼろげな反映であって、疑いもなく偽のきれぎれの断片なのだと断定している。」

「トレーンにおいては、すべての知識の源泉は単一で永遠であることを、われわれはすでに知った。
 文学上の問題においてもまた、支配的な概念は、あらゆるものは唯一の作家の作品であるというものである。本は滅多に署名されない。剽窃(ひょうせつ)の観念は存在しない。すべての本は唯一の作家の作品であり、その作家は時も名も限定されていないということが確立している。(中略)批評家は二つの異なる作品――たとえば、『道徳経』と『千夜一夜物語』にしてもよい――をとりあげ、それらを同一の作家のものとみなし、そして心からこの興味深いひとりの文人の心理を探索するだろう……。」



「『ドン・キホーテ』の著者 ピエール・メナール」より:

「メナールは(おそらく自ら望まずして)、新しい技術によって、停頓(ていとん)した未発達の読書術を豊富にしたのだ。その技術とは、意識的なアナクロニズムと作品をちがう作者に帰属させることである。」


「バベルの図書館」より:

「図書館はその正確な中心が任意の六角形であり、その周囲には到達しえないところの一個の天体である。
 五つの棚が各六角形の壁の各面に相当する。それぞれの棚は同型の三十二冊の本をもつ。それぞれの本は四百十ページから成る。各ページは四十行、各行はゴチックの八十字ばかりから成る。」
「図書館は、永遠をこえて存在する。理性ある心の持主ならばだれもこの真理を疑うことができない。その真理の直接の必然的結果は世界の未来の永遠性である。不完全な図書館員である人間は、偶然の、または悪意ある造物主(デミウルゴス)の作品であろう。」

「これらの争う余地のない前提から、彼は図書館がばらばらでなく総体であって、その本棚は二十あまりの字形のあらゆる可能な組み合わせ(その数は厖大ではあるが無限ではない)を蔵していると推論した。言いかえれば、あらゆる言語で、およそ表現しうるものはすべてである。そこにはあらゆるものがある。未来の細密な歴史、大天使の自伝、図書館の信ずべきカタログ、何千という偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の論証、真実のカタログの虚偽性の論証、王たちのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、きみの死の真実の記述、それぞれの本のすべての言語による翻訳、すべての本の中でのあらゆる本の書きかえ。」

「当時のもうひとつ別の迷信も知られている。「本の人」である。どこかの六角形のどこかの棚に、残りのすべてに対する完全な概要である本が存在するにちがいないと人びとは推定した。ある図書館員がそれを精読し、今や神に相似している。その遠い役人崇拝の痕跡は、この地域の言葉にいまだに持続している。多くの巡礼が彼を探ねて歩いた。一世紀のあいだ彼らはきわめて雑多な道を空しくさ迷った。彼のすみかである秘密の六角形をいかにしてつきとめられよう?」

「人類は――唯一無二の人類は――絶滅への途上にあり、他方図書館は永遠につづくだろうと思われる。輝き、孤独で、無限に、完全に不動で、貴重な書物にみち、無用で、無窮に、ひそやかに。」

「図書館は無限でしかも周期的である。もし永遠の旅人がどの方向かにそれを横切るとすれば、数世紀の後に、同じ本が同じ無秩序でくり返されているのを見出すだろう。(その無秩序は、くり返されて、秩序を構成するだろう。秩序そのものを。)わたしの孤独は、この風雅な希望を喜んでいる。」



「八岐の園」より:

「彼らにわたしはこの忠告を与える、「だれでも、なにかすさまじい事業に従事するものは、あたかもそれがすでに成就されたかのように行動し、未来が過去のようにとり返しのつかないものとして自分に課するべきだ」と。このようにわたしは進んだ。すでに死んだ男の眼で、おそらくは最後となる日の動揺を凝視し、夜がひろがってゆくのをみつめながら。」

「わたしは迷路の中の迷路を、うねうねとたえずひろがってゆき、過去と未来を含み、なんらかの意味で星々をも包括するような迷路のことを考えた。このような幻想にわれを忘れて、わたしは自分の運命――追われるものという運命を忘れていた。ぼんやりしていた時間のあいだ、わたしはこの世から切りはなされて、抽象的な傍観者になった気がした。」



「記憶の人・フネス」より:

「われわれは一目でテーブルの上の三つのワイン・グラスを知覚する。フネスはぶどうの木のすべての若枝、房、粒を見る。彼は一八八二年四月三十日の明け方の南の雲の形をおぼえており、それらを、追憶のなかにある、たった一度みたことのある皮表紙の本の大理石模様のデザインと比べることができた。また、それを、ケブラーチョの戦いの前夜に、舟のオールがネグロ川にえがいたしぶきの縞(しま)模様とも比べることができた。(中略)彼はすべての夢やすべての幻想を再現することができた。二、三度、彼は一日全体を再現してみせた。彼は、「わたしは自分ひとりの内部に、この世がはじまって以来すべての人間がもっていた以上の記憶をもっています」と言った。」

「十七世紀に、ジョン・ロックは、個々の物体、個々の石、個々の鳥や枝が個々の名前をもつという不可能な語法を仮定し(そして廃棄し)た。フネスもいったん類似の語法を考案したが、それではあまりに概括的で漠然としているというのでやめてしまった。実際、フネスは、どんな森のどんな木のどんな葉もおぼえているばかりか、それを見たり想像したりした折々の一つ一つをもおぼえていた。」
「彼には普遍的、プラトン的な観念をもつことはほとんど不可能だったことを忘れてはなるまい。「犬」という属名が、さまざまな大きさと異なる形の、それほど多くの一様でない実例を包含するということを理解するのは、彼にとってむずかしかったというだけではない。三時十四分の(横から見た)犬が三時十五分の(前から見た)その犬と同じ名前をもつという事実に悩まされたのである。」



「刀の形」より:

「彼は、濁った黄と緑と赤の菱形に区切られた木々と空とを見ていた。少し寒さを感じた、そして、個人的でない、ほとんどだれのものともしれぬ悲しみをも感じていた。すでに夜になっていた。埃っぽい庭から、鳥のむなしい鳴き声がおこった。」


「ユダについての三つの解釈」より:

「『キリストかユダか』の初版には、つぎのような明確な題辞が付いていた。その題辞の意味は、数年後、ニールス・ルーネベルクそのひとによって途方もない敷衍(ふえん)をほどこされることになった。すなわち、これまでイスカリオテのユダに対して付された伝統的解釈は、一つならず、すべて誤りである(ド・クィンシー、一八五七年)。」
「ルーネベルクはこれについて形而上的な証明を示している。(中略)彼は、ユダの行動がいかにむだなものであったかを指摘することからはじめている。彼は(中略)、ユダヤの教会で毎日説教をしたり、何千人もの集会の前で奇跡を行なったりした主を確認するのに、使徒の裏切りなどは必要でなかったと述べているのである。そあれにもかかわらず、裏切りはおこった。聖書のなかに誤りを想像するのはしのびないことである。また、この世界の歴史においてもっとも貴重なドラマのなかに、単なる偶然があったと認めるのもたえがたい。かかるがゆえに、ユダの裏切りは偶然ではない。それは、救いという営みにおいて、神秘的な地位をしめる予定の行為であった。ルーネベルクはつづける。御言葉は肉となったとき、偏在から限定へ、永遠から歴史へ、無限の至福から変転と死へと変わったのであった。こうした犠牲に対応するためには、ひとりの人間が全人類の代表として、それにふさわしい犠牲を払う必要があった。イスカリオテのユダこそ、まさしくその人間であった。使徒たちのなかで、ユダひとりが、イエスのかくれた神性と恐ろしい目的とを直観していた。御言葉が死すべき人間にまで身をおとされたのである。御言葉の弟子たるユダは、(恥辱が待ち受けている最悪の罪である)密告者という役割に身をおとし、永劫に消えることのない火を、甘んじて身に浴びることができたのである。(中略)ニールス・ルーネベルクのユダの謎解きの次第は以上のごとくであった。
 すべての宗派の神学者が彼に反駁した。」
「これらのさまざまな論難はルーネベルクに影響を与えたので、彼はその否認された本を部分的に書き直し、信条を修正した。(中略)彼は、「全能なる神が提供されたかなりな資源にたよることのできる」イエスは、すべての人間を救うために一人の人間を利用する必要はなかったことを認めた。(中略)われわれは知っているではないか。彼が使徒のひとりであり、(中略)えらばれた者のひとりであることを(中略)。救い主がこのように区別された人間は、その行為について最上の解釈をわれわれから受けるに価する。彼の罪を貪欲のせいにするのは(中略)もっともつまらない動機に従うことになる。ニールス・ルーネベルクはその反対の動機を提示した。途方もなく、無限とさえいえる禁欲主義である。禁欲主義というものは、神の、より大きな栄光のために、肉体をおとしめ抑制するものである。ユダは同じことを精神の面で行なったのであった。彼は名誉、善、平和、天国をすて、(中略)恐ろしい平静さをもって、彼はおのが罪を計画した。(中略)殺人には勇気がある。瀆神や不敬には、ある種の悪魔的な光輝がある。ユダはいかなる美点にも見舞われない罪をえらんだ。すなわち信頼の悪用(中略)と密告である。彼は巨大な謙虚さをもって行動した。自分は善には価しないと思ったのである。」
「一九〇七年の終わりごろ、ルーネベルクは原稿を仕上げ校訂した。(中略)一九〇九年十月に、その本は(中略)このはっきりしない題辞をつけてだされた。彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき(『ヨハネ伝』一章十節)。結論は奇怪なものであっても、全体の論旨は別に複雑ではない。ニールス・ルーネベルクはこういう。神は人類の救いのために、おのが身を人間にまでおとしめられた。それゆえ、彼によって提供された犠牲は完全であって、なんらかの遺漏によって、無効にされたり減じられたりするものではないと仮定すべきである。ある午後の十字架上の苦悶(くもん)において、神が悩んだ事柄を、いたずらに局限するのは不敬である。(中略)ケムニッツは、救世主も疲労や寒さ、あるいは、困惑や空腹や渇きをおぼえることはできると認めている。ゆえに、彼が罪を犯し罰を受けることも可能だということを認めるべきであるという。(中略)神は完全に人間になられた。破廉恥にいたる人間、非難と地獄にいたる人間に。われらを救うためならば、彼は歴史の不確かな網の目を共に織りあげる数々の運命のどのひとつでもえらぶことができたはずであった。彼はアレクサンダーかピタゴラス、あるいは、ルーリックかイエスかになることもできたはずであった。しかるに、彼は恥ずべき運命をえらばれた。彼こそユダなのだ。」



「結末」より:

「平原がなにか語りかけようとする午後の一刻がある。それはけっして語らない、いや、無限に語りつづける、いや、たぶんわれわれにはそれがわからない。いやいや、わかっても、それは音楽のように翻訳できないものなのだ……。」


「南部」より:

「彼はたちまちブラジル街の喫茶店(中略)に、まるで横柄な神様のように、愛撫されるにまかせる大きな猫がいたことを思いだした。彼は喫茶店に入った。その猫が眠っていた。彼はコーヒーを注文し、ゆっくりと砂糖をかきまわし、すすり(中略)、それから、猫の黒い毛並みをなでながら考えた。この接触は幻想にすぎず、人間と猫という二つの存在はガラスでへだてられているようなものだ、なぜなら人間は時間のなか、つまり、連続のなかに生きているのに対して、その魔性の動物は現在、すなわち、瞬間の永遠性のなかに生きているのだからと。」


『汚辱の世界史』「一九五四年版 序」より:

「大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい。絞首台や海賊たちがこの本をにぎわわしており、標題の「汚辱」という言葉は大仰だが、無意味な空騒ぎの背後には何もない。すべては見せかけに過ぎず、影絵に等しいのである。(中略)これを書いた男は、当時少しく不幸であった。しかしこれを書くことによってまぎらすことができた。」


「仮面の染物師 メルヴのハキム」より:

「われわれの住む世界はひとつの誤謬(ごびゅう)、無様なパロディーである。鏡と性交とは、パロディーを増殖し確認するが故に忌むべきである。嫌悪こそ第一の徳である。」



『エル・アレフ』に関しては、こちらもご参照ください:

ボルヘス 『不死の人』 (土岐恒ニ 訳)









































































































ホルヘ・ルイス・ボルヘス/マルガリータ・ゲレロ 『幻獣辞典』 柳瀬尚紀 訳

「ユイヌ川はこれといって波瀾のない流れだが、中世にはこの堤に毛むくじゃら獣(La velue)という名で知られるようになった生き物が出没した。この動物は箱舟に乗せられなかったにもかかわらず、どういうわけかノアの洪水を生きのびたのだ。」
(ボルヘス/ゲレロ 「フェルテ=ベルナールの毛むくじゃら獣」 より)


ホルヘ・ルイス・ボルヘス
マルガリータ・ゲレロ
『幻獣辞典』 
柳瀬尚紀 訳


晶文社 
1974年12月25日 初版
1980年4月10日 9刷
225p 索引vi 
19.5×15.5cm 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,200円
イラストレーション: 鈴木康司
ブックデザイン: 平野甲賀



本書「解説」より:

「本書の原書は、スペイン語版 Jorge Luis Borges con la colaboración de Margarita Guerrero: El Libro de los Seres Imaginarios (1967) である。翻訳にあたっては、同書およびその仏訳版(中略)を参照しつつ、英語版 The Book of Imaginary Beings (revised, enlarged, and translated by Norman Thomas di Giovanni in collaboration with the author, E.P. Dutton & Co., Inc. 1969) を用いた。」


ボルヘス 幻獣辞典 01


帯文:

「不思議の国の動物たち
ケンタウロスからチェシャ猫まで、古今東西の幻の動物たちが続々と登場。現代文学の巨人ボルヘスがその驚くべき学殖を傾けて集成した架空存在の書!」



帯背:

「幻想動物のページェント」


目次:
 

一九六七年版序
一九五七年版序

ア・バオ・ア・クゥー
アプトゥーとアネット
両頭蛇
カフカの想像した動物
C・S・ルイスの想像した動物
ポオの想像した動物
球体の動物
六本足の羚羊(れいよう)
三本足の驢馬
バハムート
バルトアンデス
バンシー
バロメッツ
バジリスク
ベヒーモス
ブラウニー
ブラク
カーバンクル
カトブレパス
天空の雄鹿
ケンタウロス
ケルベロス
チェシャ猫とキルケニー猫
キマイラ
中国の竜
中国の狐
中国のフェニクス
クロノスあるいはヘラクレス
C・S・ルイスの想像した獣
クロコッタとリュークロコッタ
ある雑種
分身(ダブル)
東洋の竜
死者を食らうもの
八岐大蛇
釈迦の生誕を予言した象
エロイとモーロック
エルフ
一六九四年、ロンドンでジェイン・リード夫人が知り、見、出会ったことの実験的報告
フェアリー
ファスティトカロン
チリーの動物誌
中国の動物誌
鏡の動物誌
合衆国の動物誌
ガルーダ
ノーム
ゴーレム
グリュプス
ハニエル、カフジエル、アズリエル、アニエル
雷神、ハオカー
ハルピュイア
天鶏
ヒッポグリュプス
ホチガン
ハンババ
百頭
レルネーのヒュドラー
イクテュオケンタウロス
ユダヤの悪魔たち
ジン

火の王とその軍馬
クラーケン
クジャタ
ちんばのウーフニック
ラミアー
過去を称える者たち(ラウダトレス・テンポリス・アクテイ)
レムレース
レヴェラー
リリス
月の兎
マンドレイク
マルティコラス
ミルメコレオ
ミノタウロス
墨壺の猿
怪物アケローン
亀たちの母
ナーガ
ニスナス
ノルニル
ニンフ
レヴィアサンの末裔
オドラデク
ひとつ目の生き物
パンサー
ペリカン
ペリュトン
フェニクス
ピグミー
雨鳥
レモラ
ルフ
サラマンドラ
サテュロス
スキュラ
海馬(かいば)
フェルテ=ベルナールの毛むくじゃら獣
シムルグ
セイレーン
鎖つきの雌豚、その他のアルゼンチン動物誌
スフィンクス
スクォンク
スウェーデンボリーの天使
スウェーデンボリーの悪魔
シルフ
タロス
饕餮(とうてつ)
熱の生き物
安南の虎
トロール
形而上学の二生物
一角獣
中国の一角獣
ウロボロス
ヴァルキューレ
西洋の竜
ユーウォーキー
ザラタン

解説 ホルヘ・ルイス・ボルヘス、あるいはアダムの肋骨とゴグと主キリストと学識 (柳瀬尚紀)
索引



ボルヘス 幻獣辞典 02



◆本書より◆


「序」より:

「誰しも知るように、むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある。本書の編纂と翻訳でわれわれはそうした喜びをおおいに味わった。古い作家や秘められた文献を捜し求めて、友人の書棚や国立図書館の迷路にも似た筒形天井の部屋をくまなく漁ったときのわれわれの喜びを、読者も分かちあってくださるものと思う。」
「本書の初版は八十二篇から成り、一九五七年メキシコで出版された。そのタイトルは Manual de zoologia fantástica (『幻想動物学案内』)だった。一九六七年、第二版――El libro de los seres imaginarios (『想像の存在の書』)――がブエノスアイレスで出版されたが、これは三十四篇追加したものである。この英語版でわれわれはもとの項目をかなり変更し、訂正、補足、修正を行なった。新たな項目もいくつか加えた。この最新版は百二十篇から成る。」



「一九五七年版序」より:

「プラトンは(中略)子供がすでに原型から成る原初的世界において虎をみており、いま虎をみるやそれだとわかるのだというだろう。ショーペンハウアーは(中略)子供が虎をみて恐れないのは自分がその虎たちであり、虎たちが自分であることを知っているからだ、(中略)もっとも正確には、子供も虎もあの単一の本質、《意志》の形態にほかならないというだろう。」


「球体の動物」より:

「球体は固体のなかで最も形がととのっている。その表面上のいかなる点も中心から等距離にあるからだ。このことゆえに、また一定の場所から離れることなく自転する能力があるゆえに、プラトン(中略)は世界に球体の形を与えたデミウルゴスの判断を是認している。プラトンは世界が生ける存在であると考え、(中略)惑星その他の星も生きていると述べている。このようにして彼はさまざまの巨大な球体動物によって幻想動物学を豊かにし、天体の循環軌道が任意のものであることを理解しない愚鈍な天文学者たちを誹謗した。
 五百年以上後のアレクサンドリアでは、教父のひとりオリゲネスが祝福されたる者は球体となって生きかえり、ころがりながら天国へはいっていくと説いた。
 ルネサンス期には、天国を動物とみる考えがルチリオ・ヴァニーニにふたたび現われる。新プラトン主義者のマルシリオ・フィチーノは地球の毛髪や歯や骨について語っている。またジョルダーノ・ブルーノは遊星がそれぞれ大きなおとなしい動物で、暖かい血が通い、規則正しい習慣をもち、理性を賦与されていると考えた。十七世紀初頭、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーはイギリスの神秘主義者ロバート・フラッドと論争し、「眠っているときと目覚めているときとで変化するその鯨のごとき呼吸によって、潮の満干(みちひ)を引き起こす」生ける怪物として地球を考えたのはどちらが先だったかを張りあっている。この怪物の構造、摂食習性、色、記憶力、想像能力および造形能力を、ケプラーは入念に研究した。
 十九世紀には、ドイツの心理学者グスタフ・テオドール・フェヒナー(中略)が、まったく子供のように真剣になって右に挙げた諸概念をふたたびとりあげている。われらの母なる地球が有機体である(中略)という彼の仮説を軽視しない者があれば、フェヒナーの『ゼンド=アヴェスタ』の敬虔なページに目を通すのがよいだろう。そこにはたとえば、地球の球体という形がわれわれの肉体の最も高尚な器官、人間の目の形であると書かれている。また、「天空が実際に天使の家だとするなら、この天使たちが星であることは明らかである。なぜなら天空に住む者はほかにいないからだ」とも書かれている。」



「墨壺の猿」:

「北方では珍らしくないこの動物は、体長が四、五インチある。目は深紅、皮は漆黒で、絹のようにすべすべして、枕のように柔らかい。奇妙な本能がその特徴である――墨を好むのだ。人が座って書き物をしようとすると、この猿はそのそばに胡座(あぐら)をかき、手を重ね合せてうずくまり、終わるのを待っている。それから残った墨をすっかり飲んでしまうと、満足して静かに尻をついて座る。
ワン・タイハイ(一七九一)」



ボルヘス 幻獣辞典 03







































































































ボルヘス 『不死の人』 土岐恒ニ 訳

「しかし、ある朝、なにか幸福に似たことが起こった。雨が、強く、ゆっくりと降っていたのだ。」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 「不死の人」 より)


ボルヘス 
『不死の人』 
土岐恒ニ 訳


白水社 
1985年9月20日 第1刷発行
1988年1月25日 第3刷発行
256p 口絵i
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,600円



原題は「El Aleph (エル・アレフ)」。
土岐恒ニ訳『不死の人』は白水社「世界の短編」シリーズの一冊として1968年に刊行され、1980年に「世界の文学」シリーズの一冊として再刊されたのを機に大幅に改訳、本書はその新装版です。


ボルヘス 不死の人 01


目次:

不死の人
死んだ男
神学者たち
戦士と囚われの女の物語
タデオ・イシドロ・クルスの生涯
エンマ・ツンツ
アステリオーンの家
もうひとつの死
ドイツ鎮魂曲
アヴェロエスの探求
ザーヒル
神の書跡
アベンハカーン・エル・ボハリー おのれの迷宮にて死す
ふたりの王とふたつの迷宮
期待
敷居の上の男
アレフ
エピローグ

解説 (土岐恒ニ)



ボルヘス 不死の人 02



◆本書より◆


「不死の人」より:

「前にも言ったように、この都は石の台地の上に築かれていた。高い崖にも比すべきこの台地は、城壁に劣らず登攀が困難であった。通路を求めてわたしはいたずらに疲労をかさねた。黒い柱脚はいささかの凹凸(おうとつ)もみせず、のっぺりと続く壁は、一つとしてはいるべき城門を持たないかのようであった。強烈な日射(ざ)しのために、わたしは洞穴(ほらあな)のなかに身を隠さざるをえなかった。その洞穴の奥にひとつの竪坑(たてあな)があり、その竪坑には階段があって下の暗闇のほうに沈んでいた。そこを降りて、雑然とした穢(きたな)らしい地下道をとおり抜けると、ほとんど見通しのきかないほど広大な円形の部屋に着いた。その地下室には九つの扉があって、そのうち八つは、人を欺いてまんまとこの同じ部屋に出るようになっている迷路に面していた。九番目の扉は(別の迷路を通って)この第一室とそっくり同じような第二の円形の部屋に通じていた。こうした部屋が全部でいくつあるのか、わたしにはわからない。ともかくわたしの不運と不安がその数をいっそうふやしたことは確かである。沈黙が敵意をこめてほとんど完全に支配していた。この地底の網の目のような迷路のなkでは、原因不明の地下風のほかにはなんの物音もしなかった。音もなく、岩の亀裂を伝って、鉄気を含んだ水の、糸のような細流が消えていった。恐ろしいことに、わたしはこの奇怪な世界に慣れていった。九つの扉をもった地下室と、分岐する長い地下道以外のものが存在しうるとは信じられなくなっていた。わたしが地下をどのくらい長い時間歩いていなければならなかったかはわからない。ただ、一度、同じノスタルジアのうちに、あの野蛮人たちの恐ろしい村と、鈴なりの果樹にかこまれたわたしの生まれ故郷の町とを、混同したことがあったのをおぼえている。」

「不死の人びとはすべて完璧な平静を保つことができた。いまでもおぼえているが、ある不死の人は決して立ちあがることがなく、その胸の上には一羽の小鳥が巣をつくっていた。」



「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」より:

「一八六九年、彼は地方警察の巡査部長に任命された。(中略)このころの彼は、きっと自分でも幸福だと思っていたにちがいない。もっとも、心底からそうであったとはいえないが。(その彼を、未来のなかに隠れひそんで、輝く根元的な啓示の夜が待ちうけていたのだ。彼がついに彼自身の顔を見た夜、ついに彼自身の名を耳にしたあの夜が。ただしく理解されればその夜は彼の生涯の物語をすべて語りつくしている。さらに言えばその夜の一瞬、その夜の一行為は、と言ったほうがいい。なぜなら、すべての行為はわたしたち人間の象徴なのだから。)およそ運命というものは、それがどんなに長く、また複雑であろうとも、実際には《ただ一つの瞬間》より成っている。その瞬間において、人は永久におのれの正体を知るのである。(中略)彼がおのれの正体を見たのは、ある乱闘とある人物のなかにであった。その事件の次第は次のとおりである。
 一八七〇年六月最後の日、クルスはひとりの悪漢を逮捕せよとの命令をうけとった。その者は、南方国境のベニト・マチャード大佐の指揮する軍の脱走兵であり、酔っぱらって黒人を売春宿で刺殺したのと、これも酔っぱらって、ロハス地区のある住人を殺したのと、二件の殺人事件で裁判にかける必要があるというのだった。手配書には、その者はラグナ・コロラダ出身であるとつけ加えてあった。ラグナ・コロラダといえば、それより四十年ほど前にガウチョの義勇軍が結集し、運つたなく屍骸(しがい)の肉を鳥や犬にあたえたところである。(中略)クルスの生みの親である見知らぬ男もここの出身だった。その地名をクルスは忘れてしまっていた。軽い、しかし説明のできない胸騒ぎをおぼえながら、彼はその地名を認識した…… さて例の犯人は警官たちに追われ、馬に乗って長いあいだ往(い)ったり来たりの迷路を織りなした。しかしながら警官たちは、七月十二日の夜、ついに犯人を追いつめた。彼はわら草の草原に隠れこんだのである。暗闇はほとんど見通しがきかないほど濃くなっていた。クルスと部下たちは、用心深く、徒歩になって、草むらのほうへ前進していった。風に揺れてふるえる草むらの奥には、あの逃げこんだ男が待ち伏せしているか、眠っているだろう。そのとき鷺(チャハー)が鳴いた。タデオ・イシドロ・クルスは、その瞬間をかつて自分が生きたことがあったという印象をうけた。犯人は闘うために隠れ場から姿を現わした。クルスはその恐ろしい姿をほのかにかいま見た。」
「クルスは暗闇のなかで闘っているうちに(あるいは彼の肉体が暗闇のなかで闘っているうちに)理解しはじめた。ある人の運命は他の人の運命よりも恵まれているということはなく、すべての人はおのれの内部に所有している運命を尊重しなければならないということを彼は理解した。肩章や制服はいまや邪魔になることを彼は理解した。群居する犬ではない一匹狼としての彼の内的運命を理解した。そして、その他者こそがおのれであることを理解した。果てしない平原に黎明がやってきた。クルスは制帽を地に投げ捨て、勇者を殺す罪深い行為には賛成できないと叫び、そして、戦闘を開始したのだった、警官たちを相手に、脱走兵マルティン・フィエロの味方になって。」



「アステリオーンの家」より:

「傲慢(ごうまん)であるとか、ときには人間ぎらいであるとか、またときには狂人であるとかいってわたしを告発する者があることは、わたしも知っている。そういう告発をする者は(中略)おこがましいかぎりである。わたしがこの家を一歩も出ないというのは事実だが、この家の扉という扉が(その数は無限にある)人間にも動物にも、昼となく夜となく開け放たれている、ということも、同じく事実である。誰でもなかへはいることが許されている。ここにはいる者は、女(おんな)しい華美や王宮のもつ寛濶(かんかつ)な豪壮さをではなく、静寂と孤独とを見いだす。ここにはいる者は、また、地上のどんな家とも異なる家を見いだすであろう(同じような家がエジプトにもあると称する者があるが、彼らは嘘をついている)。それともう一つ奇妙なことは、かくいうわたし、アステリオーンが、囚(とら)われの身であるということだ。錠をおろした扉はない、と繰り返すまでもあるまい。錠というものがないことを、つけ加える必要はあるまい。その上、ある日の午後、わたしはおもての通りに足を踏みだした。夜になる前にわたしが戻ったとすれば、それは民衆の顔、掌(てのひら)のように青ざめた、のっぺりした顔に恐怖を感じたからである。日はすでに沈んでいたが、火のついたような子供の泣き声や、群衆のぶしつけな嘆願が、わたしの正体が見破られたことを語っていた。群衆は、あるいは祈り、あるいは逃げ去り、あるいはひざまずいた。ある者は《両刃の斧(おの)》の神殿の連柱盤によじのぼり、ある者は小石を拾い集めた。なかの一人は、たしか、海中に身を隠したと思う。(中略)わたしが俗衆と混同されるということは、ありえないことなのだ。もっとも、わたしの慎ましさはそうあることを望んでいたが。
 大事なのはわたしが唯一無二の存在であるということだ。わたしは、ある人が他の人に譲り渡せるようなものには興味がない。哲学者のように、わたしはいかなるものも言葉の記述という技(わざ)をもって伝達されるものではないと考えている。」

「むろん、わたしにも気晴らしがないわけではない。たとえば、いまにも襲いかかろうとする羊のように、目がまわって地面にのめるまで石の回廊を走りまわるとか、天水桶の陰や廊下の曲がりかどに潜んで、自分が捜されているつもりになるとか。屋根がたくさんあるから、血まみれになるまでそこからころがり落ちることもする。その気になれば、目を閉じて、深い呼吸をして、いつでも眠ったふりをすることもできる。(中略)しかし、どんな遊びよりも、わたしはもうひとりのアステリオーンと遊ぶのが好きだ。彼がわたしを訪ねてきて、わたしが彼に家のなかを案内して見せる、と想定するのだ。」

「この家のすべての部分は何度も反復されていて、どの場所も他の場所である。ここには決して一つの天水桶、一つの中庭、一つの水飼い場、一つの秣桶(まぐさおけ)というものはない。秣桶も、水飼い場も、中庭も、天水桶もその数は十四(無限)である。この家は世界と同じ大きさである、というよりも、それは世界である。」

「九年ごとに、この家には九人の人間が、わたしにいっさいの不幸から解放してもらうためにはいってくる。(中略)わたしが自分の手を血で汚すまでもなく、彼らはつぎつぎと倒れてゆく。(中略)わたしは彼らが誰なのかは知らないが、彼らの一人が死の直前に、いつかわたしの救済者がやってくるであろう、と予言したのを知っている。そのとき以来、孤独はつらいものではなくなった。(中略)もしわたしの耳が世界じゅうのすべての音を聞きとることができるなら、わたしは彼の足音を聞くにちがいない。わたしは彼がもっと回廊の少ない、もっと扉の少ないところへわたしを連れていってくれるよう望んでいる。わたしの救済者は何に似ているだろうか? わたしは自問してみる。雄牛だろうか人間だろうか? おそらく人間の顔をした雄牛ではないだろうか? それともわたしに似ているだろうか?」



「アヴェロエスの探求」より:

「前記の物語において、わたしはある敗北の過程を物語ろうと努力した。わたしはまず、神の存在することを証明しようとしたあのカンタベリー大主教のことを考えた。つぎに、賢者の石をもとめた錬金術師たちのことを考えた。つぎに、角の三等分法や円の求長法をむなしくもとめた人びとのことを考えた。それから、自分以外の誰もそれを越えることを禁じられていない境界をみずからに課している人の場合のほうが、ずっと詩的であると考えなおした。」


「敷居の上の男」より:

「やがてまた、彼はゆっくりと話を続けた。
 「どんな世代にも、この世界をひそかにささえていて、主の御前で世界の正当性を弁明する正しい人が四人いるということは周知のとおりじゃ。(中略)だが、そういう人物には、いったいどこでめぐり会えるのだろうか、もし彼らが名も知られずに世界をさまよい歩いていて、出会っても気がつかず、彼らのほうでもその果たすべき至高の務めを知らずにいるとしたら? ある者は当時、もし運命がわしらに賢者を禁じているなら、愚者を探しもとめなければならないと考えた。(中略)最終的な判決はひとりの狂人にゆだねられた。」
 このとき、饗宴(きょうえん)を辞去してきた人たちに彼の話は中断された。
 「狂人のだ」と彼は繰り返した。「なぜかというと、神の叡知(えいち)は狂人の口から語られ、人間の思いあがりを恥じいらせるためだ。彼の名前はすでに忘れられてしまったか、あるいはぜんぜん知られていなかったかだが、ともかく裸のまま、あるいは襤褸(ぼろ)をまとって、親指で指の数をかぞえたり樹木をからかったりしながら、この町の街路をそちこちとさまよい歩いていたのじゃ。」」



「アレフ」より:

「階段の下部の右手のほうに、わたしはほとんど直視できないほどの光り輝く玉虫色の小さな球体を見た。最初、わたしはそれが回転しているのだと思ったが、やがて、その運動は球体が内包する目くるめく光景によって生みだされた幻覚であることがわかった。アレフの直径は二、三センチというところだろうが、しかし宇宙空間がそっくり原寸大のままそこにあった。ひとつひとつの物(たとえば鏡面といったもの)は無数の物であった。なぜなら明らかにわたしはその物を宇宙のあらゆる地点から見ていたから。わたしは人間のごったがえす海を見た。黎明と黄昏(たそがれ)を見た。アメリカの群衆を見た。黒いピラミッドのまんなかで銀色にひかる蜘蛛(くも)の巣を見た。破壊された迷宮(それはロンドンであった)を見た。まるで鏡をのぞきこむように、わたしの内部を間近からじろじろ見ている無数の目を見た。わたしは地球上のことごとくの鏡を見たが、そのどれにもわたしは映っていなかった。またわたしはソレル街のとある奥庭に、三十年前フレイ・ベントスのある家の玄関で見たのと同じ舗石が敷きつめられているのを見た。葡萄(ぶどう)の房、雪、タバコ、金属の鉱脈、水蒸気を見た。赤道直下に起伏する砂漠とその砂粒のひとつひとつを見た。インヴァネスでは忘れえぬひとりの女を見た。(中略)彼女の乳癌(にゅうがん)を見た。とある小径(こみち)で、以前そこに樹木があった跡の、乾いた土の輪を見た。アドロゲにある一軒の別荘、プリニウスの最初の英訳本、フィレモン・ホランド訳を見た。その各ページの文字のひとつひとつを同時に見た(子供のころ、わたしは閉じた本の文字が夜のうちに混じりあって消えてしまわないのを、しばしば不思議に思ったものだ)。わたしは夜を、そしてそれと同時に昼を見た。ベンガルの薔薇(ばら)色を反射するかに見えるケレタロの西方を見た。がらんとしたわたしの寝室を見た。アルクマールのとある陳列室で、二面の鏡のあいだに置かれた地球儀が無限に数を増してゆくのを見た。暁のカスピ海の岸辺をゆく、渦巻く鬣(たてがみ)をした馬たちを見た。一本の手の華奢(きゃしゃ)な骨のかたちを見た。戦いの生残者たちが葉書きを書き送るのを見た。ミルザプールの飾り窓にひと組のスペインのカルタを見た。温室の地面に斜めに落ちる羊歯(しだ)の影を見た。虎とピストンと野牛と大波と軍隊を見た。地に這う蟻(あり)のことごとくを見た。ペルシアのアストロラーベを見た。(中略)わたしの暗い血液の循環を見、恋のからくりや死の変容を見た。わたしはあらゆる地点からアレフを見た。アレフのなかに地球を、そして地球のなかにアレフを、さらにこんどはアレフのなかに地球を見た。自分の顔と自分の臓腑(はらわた)とを見た。あなたの顔を見て眩暈(めまい)を感じ、そして泣いたのだ、なぜならわたしの目は、その名を口にする人は多いが誰も見たことのないあの秘密の、推量するしかないもの、すなわちあの思量を絶した世界を見てしまったのだから。」


ボルヘス 不死の人 03



◆感想◆

『エル・アレフ』は篠田一士訳で読んでいたのですが、篠田訳は文意が不明瞭なところがあるので、土岐恒ニ訳も読んでみましたが、こっちもところどころ文意が不明瞭です。たとえば土岐訳には、「第三は、かのサヴォイ人の筆のすさびから生まれた不滅の駄作です…… 現代芸術が笑いという慰めを、つまりスケルツォを必要としているということを、わたしはあらためて理解しました。きっとゴルドーニは約束を守りますよ。」という文章があります。ゴルドーニは山口昌男の本でおなじみのイタリアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニだと思いますが、突然「ゴルドーニは約束を守りますよ」といわれても意味がわかりません。ここのところは篠田訳では、「第三には、あのサヴォイびとの筆のすさびがわれわれに授けてくれた不滅の駄作です……ぼくはもう一度現代芸術が笑いの香油を、スケルツォを要求していることを認識するのです。断然、ゴルドーニの言葉を用うべきです!」となっていて、篠田訳の「もう一度」よりも土岐訳の「あらためて」のほうが日本語としてはこなれていますが、最後の部分は篠田訳が文脈からいうとあっているようです。原文は「la tercera a la bagatela inmortal que nos depararan los ocios de la pluma del saboyano... Comprendo una vez más que el arte moderno exige el bálsamo de la risa, el scherzo. ¡Decididamente, tiene la palabra Goldoni!」で、どちらの訳も「サヴォイ人」に注をつけていないのは困りものです。これはグザヴィエ・ド・メーストル(ジョゼフ・ド・メーストルの弟)のことで、「不滅の駄作」はローレンス・スターンの影響のもとに書かれた『わが部屋をめぐる旅 Voyage autour de ma chambre』のことです。となると、なぜか両者一致して「不滅の駄作」と訳している「bagatela inmortal」の「bagatela バガテル)は、「駄作」というよりは、「軽読物」あるいは「戯文」といった感じなのではないでしょうか。レトリック的にいうと音楽用語「バガテル」があるからそれに呼応して音楽用語「スケルツォ」がでてくるので、そのへんをどう訳すかも難しいところであるはずです。
といってもスペイン語はこれっぽっちもわからないのでこんなことをいうのはあれですが仕方がないです。
もうひとついうと、土岐訳で「ブエノスアイレス南部の郊外の、さる読むことのできない図書館」というのが出てきますが、これは篠田訳では「(……)つまらない図書館」になっていて、原文は「una biblioteca ilegible」(ある一つの・読めない=読むにたえない/読むに値しない・図書館)で、これは篠田訳のほうが正しい、というか、土岐訳だと日本語として意味がわかりません。これはたぶん「biblioteca」のふたつの意味(「蔵書(本そのもの)」と、施設としての「図書館」)をかけたシャレであって、本にたいする否定的形容(読むにたえない)を図書館そのもののひどさを形容するために使っているのでしょう(ボルヘスは「自伝風エッセー」で、自分が働いていた図書館(蔵書は少ないし同僚は猥談か賭博の話しかしないし館内でレイプ事件が起こったりした)について「わたしは約九年間この図書館で我慢した。濃厚な不幸の九年であった」と回顧しています)。

こんなことをいうと、土岐訳(あるいは篠田訳)をけなしているようですが、原文にあたりつつ複数の訳文を読み比べてあれこれ穿鑿する楽しみのきっかけを与えてくれるという点で、日本語として意味の通らない不備な訳文もむしろ有り難いといえます。

ところで、本書に収録されている「アステリオーンの家」(※)は、自閉症の寓意小説であって、わたしはたいへんすきなのですが、存在そのものが孤独であるアステリオーン(=ミノタウロス)にとって、殺すことそして殺されることだけが唯一可能な他者とのコミュニケーションなのですが、殺すといっても、人間はアステリオーンの傍に来ただけで死んでしまいます。それゆえアステリオーンの唯一の希望は、自分を殺してくれる超人的な誰かの到来を待つことです。アステリオーンは牛頭人身なので、自分を救いに来るのは人頭牛身ではないかとか考えるのですが(人頭牛身なのはダンテのミノタウロスです)、そういう意味では「アステリオーンの家」と内田百閒の「件」を併読すると興味深いのではないでしょうか。
※「アステリオーンの家」には、エピグラフとして、アポロドーロスの引用(「そして女王は御子を生み落とし、御子はアステリオーンと呼ばれた」)が掲げられているので、われわれボルヘスの読者としては原典に当ってみるわけですが、そこには次のようなことが書かれています。
「ポセイドーンは彼が例の牡牛を犠牲に供しなかったので、憤り、この牡牛を猛悪にし、パーシパエーがこれに対して情欲を抱くように企んだ。彼女は牡牛に恋し、殺人の罪でアテーナイより追放せられた工匠ダイダロスを共謀者とした。彼は車のついた木製の牡牛を製作し、これを取って内部を空洞にし、牝牛を剥いでその皮を縫いつけ、かの牡牛が常に草をはんでいる牧場におき、パーシパエーをその中に入れた。牡牛がやって来て、真の牝牛と思って交わった。そこで彼女はアステリオス、一名ミーノータウロスを生んだ。」(高津春繁訳『アポロドーロス ギリシア神話』岩波文庫)
ミノタウロスは、古い時代においては、人々から崇められ畏敬された地方神であったはずですが、アポロドーロスの、というか、偽アポロドーロスの時代(紀元2世紀頃)のローマにおいては、すでに人間中心主義が瀰漫していたので、半獣神ミノタウロスは凋落した古い神として(現代であったら奇形として)、揶揄され疎外される存在になっていたであろうことが、この記述からわかります。わたしとしては、素直な読者が、古文献に書かれていることだからちゃんとした根拠があるまじめな記述なのであろうと信じ込んで、ミノタウロスを貶め辱めようとするローマ人たちに加担することのないよう望みます。このような話がそもそも虚誕であり、酒の席での座興として語られたものだったのが、いつしか真に受けられるようになり、「神統譜」に組み込まれて流布したものであろうことは明白です。

それはそれとして、「アステリオーンの家」は、エドガー・アラン・ポーの詩「孤独(Alone)」(※1)、オスカー・ワイルドの「王女の誕生日(The Birthday of the Infanta)」(※2)、ラヴクラフトの「アウトサイダー(Outsider)」(※3)、等の系譜にありますが、ユダについて書くことによってユダを救済したボルヘスは、この物語を書くことによってアステリオーンを救済したといってよいです。

※1 「子どものころからわたしは、他のひとたちとは
違っていた――わたしは他のひとたちが見るものを
見ることがなく――みんなが夢中になるものに
夢中になることができなかった
わたしのかなしみはみんなの悲しみとは
異なっていた」

※2 「彼自身が〈怪物〉だったのだ(He himself was the monster)」
「「姫さま、おどけものの道化は二度と踊ることはできませぬ」「なにゆえ道化は二度と踊ることができぬのぢゃ」「それというのも、道化の心は壊れてしまったからでござる(Because his heart is broken)」」

※3 「わたしは、じぶんが〈アウトサイダー〉であることを、つまり、この時代の枠組においては、そしてまだ〈人間〉であることをやめられない者たちの間にあっては、ひとりの〈異人〉であることを身にしみて知っているのだ(I know always that I am an outsider; a stranger in this century and among those who are still men)」

ところで、『砂の本』所収の短篇「人知の思い及ばぬこと」をラヴクラフトに捧げているボルヘスは、晩年のインタビューにおいて、ラヴクラフトを「読むにたえない作家」として一蹴しています。それは、基本的にはボルヘスと同類であるラヴクラフトが、その文学において、みずから進んで「不幸」になろうとしていると、ボルヘスは考えたからであろうと思われます。自分が犯した最大の罪は「幸福」になろうとしなかったことだと言うボルヘスが、ワイルドを賞賛するのは、童話「幸福な王子」の主人公が頑として「幸福」であることを貫いたからでありましょう。さればこそ、他人の目で(客観的に)自らを見ようとしたために自らを否定するに至った「王女の誕生日」の道化の「心」が、いとも簡単にこわれてしまったのに対して、自らを恃んだ(主観的な)幸福な王子の「心」は、灼熱の溶鉱炉で焼かれてもこわれることはなかったのであります。

「アレフ」にでてくる謎の物体「アレフ」は、華厳経にでてくる宝珠を思わせます。ハックスリーのメスカリン体験記『知覚の扉』にも「アレフ」を思わせる記述があります。
「〈総体〉が総体(すべて)のものにある――〈総体〉が実際にすべての個々である(……)宇宙のすべてのところで生ずることすべてを知覚する」
(A・ハックスリー『知覚の扉』河村錠一郎訳)





























ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『砂の本』 篠田一士 訳 (現代の世界文学)

「彼は「ウンドル」という言葉を発した。それは「驚異(ワンダー)」の意である。」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 「ウンドル」 より)


ホルヘ・ルイス・ボルヘス 
『砂の本』 
篠田一士 訳

現代の世界文学

集英社 
1980年12月10日 第1刷発行
1981年2月28日 第2刷発行
169p 著作年表1p 
口絵・図版(モノクロ)3葉
四六判 ソフトカバー カバー 
定価850円
装幀: 杉浦康平+赤崎正一
イラスト: 渡辺冨士雄
版画: 星野美智子(「ボルヘスの鏡」「為:〈会議〉」「為:〈砂の本〉」)



訳者による「あとがき」より:

「『砂の本』(El Libro de Arena)は一九七五年に刊行された、ボルヘスの四冊目の小説集である。」


ボルヘス 砂の本 01


カバー文:

「変幻
これは真実だと主張するのが、いまや、あらゆる架空の物語の慣例である。しかしながら、わたしの話は、本当に本当なのである……印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませ……わたしの分身は、新奇な比喩の発明や発見を信じていた。わたしはといえば、身近で、自明な相似に対応する比喩、そして、われわれの想像力がすでに受け入れているような比喩を、信じていた。人間の老境と落日、夢と人生、時の流れと水……表題作ほか、粒よりの名短篇」



ボルヘス 砂の本 02


カバー裏文:

「「夜の引きあけに」と詩人は語った。「最初自分にも分らぬ
言葉を口にしながら目ざめました。それらの言葉は一篇の詩でございました。
私は罪を犯したかのように感じました。恐らく、聖霊の許したまわぬ罪を。」
「その罪を、今こそ予もそちと分かち合おう」と王は囁いた。
「美を知ってしまったという罪、それは人間には禁断の恵みなのじゃ。
今われらはその罪を贖わねばならぬ。予はすでに鏡と黄金の仮面を汝に与えた。
さて、ここに、第三にして、最後をかざる贈り物がある。」
王は、詩人の右手に一振りの短剣をおいた。――〈鏡と仮面〉

……ページをめくってみる。裏面には、八桁の数字がならぶ番号がうたれていた。よく辞書に使われるような小さな挿絵があった。
子供がかいたような、まずいペンがきの錨だった。
見知らぬ男がこう言ったのはその時だ。
「それをよくごらんなさい。もう二度と見られませんよ。」
声にではないが、その断言の仕方には一種の脅迫があった。その場所を
よく心にとめて、わたしは本を閉じた。すぐさま、また本を開いた。一枚一枚、
あの錨の絵を探したが、だめだった。狼狽をかくすためにわたしは言った。
「これはインド語訳の聖書ですな、ちがいますか?」
「ちがいます」と彼は答えた。それから、秘密を打ち明けるように声をおとした。――〈砂の本〉」



目次:

他者
ウルリーケ
会議
人智の思い及ばぬこと
三十派
恵みの夜
鏡と仮面
ウンドル
疲れた男のユートピア
贈賄
アベリーノ・アレドンド
円盤
砂の本

後書き (J・L・B)

訳者あとがき



ボルヘス 砂の本 03



◆本書より◆


「他者」より:

「「もしこの朝とこのめぐり合いが夢であるならば、わたしたち二人は、めいめいが、自分こそ夢見る人だと信じねばならない。もしかしたら、わたしたちは夢見るのをやめられるかもしれないし、やめないかもしれない。それはそれとして、ともかく、わたしどもが守るべき明らかな義務は、その夢を受け入れることです。わたしたちが宇宙を受け入れてきたように、われわれが生まれ、目で見、呼吸することを受け入れているように。」
 「じゃあ、もし夢がつづくとすれば?」彼は不安気にたずねた。
 彼の不安、そして、わたしの不安をしずめるために、しかと感じてもいない確信を装って、わたしは言った。
 「わたしの夢はもう七十年も続いているんだよ。結局のところ、思えば、自分自身に出会わない人間はひとりとしていないのだ。それが、いま、われわれに起っている――われわれが二人いるということを除いてはね。ところで、わたしの過去を、なにがしか知りたいとは思わないかね。君の未来になるわけだが。」」

「「われわれのお祖母さんも同じ家で死んだんだ。死ぬ数日前に、一同を呼び集めてこう言ったものだ。『わたしは、もう年も年だから、ゆっくり、ゆっくり死ぬんだよ。だから、ごく当りまえのありふれたことで、騒ぐ必要はないんだよ』とね。」」

「「日に日に、わが祖国は偏狭な地方性をましつつある。ますます偏狭で、ますますひとりよがりになって、まるで目をしっかりつぶっているようなものだ。」」

「彼は、自分の詩集は全人類の兄弟愛の頌歌なのだと説明した。現代の詩人は、時代に背を向けることはできないのだと。
 わたしはしばらく考えてから、本当にあらゆる人間に同胞愛を感じているのかとたずねた。たとえば、あらゆる葬儀屋、あらゆる郵便配達夫、あらゆる潜水夫、偶数街に住んでいるあらゆる人間、さらに、あらゆる失声症の人たちに感じることができるのか。彼は、自分の本は、抑圧され、疎外されている大衆のことを問題にしているのだと言った。
 「君のいう、抑圧され疎外されている大衆なんて、たんなる観念にすぎないんだよ」と、わたしは答えた。「いやしくも存在するものがあるとすれば、個人のみが存在するのだ。(中略)この、ジュネーヴだか、ケンブリッジだかのベンチにすわっているわれわれ二人が、おそらくその証拠なんだ。」」

「いま思いだしたが、彼はそのまえに、ウォルト・ホイットマンの短い詩を熱烈にくりかえしていた。詩人が、心から幸福であった海辺の一夜を、よび起している詩だ。
 「ホイットマンがその夜をうたっているとすれば、それは彼が望んだだけで果たさなかったからだ」とわたしは言った。「詩というものは、現実の記録ではなくて、憧れの表白と見定めてこそ、はじめて、その真価があらわになるのだ。」」



「ウルリーケ」より:

「わたしが彼女の姿を見たのは、このときだった。ウィリアム・ブレイクの詩の一行は、柔媚な銀の、あるいは、猛々しい金の乙女たちを語っているが、ウルリーケには、金と柔媚さとが同居していた。ほっそりと背が高く、とがった顔立ちと灰色の目をしていた。その顔ほどではないが、わたしは彼女の謎めいた物静かさに打たれた。すぐほほえむ、するとその微笑が、彼女を遠ざけるようだった。」

「「オックスフォード・ストリートで」と彼女は言った。「ロンドンの群衆にまぎれたアンを探すド・クィンシーの足跡をたどるのよ。」
 「ド・クィンシーは」とわたしは答えた。「彼女を探すのをやめた。ぼくは生涯、探しつづける。」」



「会議」より:

「わたしは、ちょうど、七十歳といくつかになろうとしており、(中略)優柔不断のせいか、無精のせいか、それとも他の理由からか、結婚歴はなく、ずっと、ひとりである。孤独に悩むことはない。自分と、自分のくせ(引用者注: 「くせ」に傍点)とに折り合ってゆくので精一杯だ。自分が刻々と年とってゆくのは分っている。そのまぎれもない徴候は、新奇なものに対して、もはや興味をもつことも、目をみはることもない、という事実である。多分、そうしたものには、本質的な新しさなどなにひとつなく、小心なバリエーションにすぎないことに気がついているからだろう。若い頃は、黄昏や場末や悲運に魅かれた。今は、都心の朝や静穏の方がいい。」


「人智の思い及ばぬこと」より:

「ここの住人とは、いったいいかなるものだろうか。われわれにとって彼がおぞましいと同様、彼にとっておぞましいはずのこの地球上に、彼はなにを求めているのか。天文学、あるいは、時間の、いかなる謎の地域から、いかなる蒼古の、今となっては測り知れぬ薄明のなかから、この南米の郊外、しかもほかならぬこの夜に、それは到達したというのか。
 わたしは自分が混沌への侵入者のような気がした。戸外では、雨はすでにやんでいた。」



「三十派」より:

「私がかくも多くの恩恵を蒙っている神意は、この教派の名前の、真正にして秘密の由来を発見せしめたもうた。どうやらその教派の発生地点とおぼしいケリオスに、「三十の銀貨」と呼ばれる秘密集会が今なお存続している。これは原名であって、われわれに鍵を与えてくれるものである。十字架の悲劇には――私はこれをしかるべき崇敬の念をこめて書いているのだが――自覚する、しないとにかかわらず、いずれも不可欠、かつ、いずれも宿命的な役者たちがいた。銀貨を渡した祭司たちも自覚してはいなかったし、恩赦の対象に盗賊バラバを選んだ民衆も、ユダヤの総督も、主の受難の十字架をたて、釘を打ち、主の衣をくじ引きで分けたローマの兵士たちも、自覚していたわけではない。はっきりと自覚していた役者はただ二人―― キリストとユダである。後者は、魂の救いの代償である三十枚の銀貨をなげうち、直ちに首をくくった。このとき、彼は、「人の子」と同じく三十三歳であった。その教派は、両者をひとしく崇(あが)め、他のすべての者を赦(ゆる)す。罪ある者はひとりもいない。知る、知らざるを問わず、神慮にもとづく計画の遂行者でない者はいなかったのである。思えば、すべての者が、栄光を分かち合っているのだ。」


「鏡と仮面」より:

「「その罪を、今こそ予もそちと分かち合おう」と王は囁いた。「美を知ってしまったという罪、それは人間には禁断の恵みなのじゃ。今われらはその罪を贖わねばならぬ。」」


「疲れた男のユートピア」より:

「「しかし、事実を話すことはやめましょう。事実は、もはや、だれにとっても問題にはなりません。そんなものは、発明と推理への、たんなる出発点に過ぎません。われわれは、学校で、懐疑と忘却術を教えられる。とりわけ、個人的、ならびに地方的なものを忘れる術です。われわれは、連続的な時間のなかに生きています。しかし、『永遠の相の下に』生きようとしているのです。過去については、まだいくつかの名前が残っているが、言語はそれを失いかけている。われわれは無用の細部を回避します。年代も歴史もない。統計もありません。あなたはエウドーロという名だとおっしゃいましたね。ところが、わたしの方は、名乗ることができないのです。なにしろ、『ある者』と呼ばれているんですから。」
 「では、父上のお名前は?」
 「名はありませんでした。」」

「「二千冊もの本を読める者はいません。わたしも、今まで生きてきた四世紀のあいだに、半ダースの本も読んではいません。それに、大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです。」
 「わたしのおかしな過去には」とわたしは言った。「毎日、夕方から朝にかけて事が起り、それを知らないでいるのは恥だ、という迷信がはびこっていました。(中略)やれ、最近の教育者会議の末端の細目とか、さし迫った外交関係の断絶とか、秘書官の秘書官が、そのジャンルにふさわしい周到な曖昧さで練り上げた大統領布告とかとなると、みな、実によく知っていたのです。
 こういうものは、すべて、忘れるために読まれるのです。なぜなら、いずれも、まもなく、別の些事がそれをかき消してしまうのですから。」」

「「百歳になると、人間はもう、愛だの友情だのをなしですますことができます。悪や、不本意な死も、もうこわくない。芸術、哲学、数学のどれかを実践したり、チェスのひとり勝負をしたりする。自殺したければしてもいい。人間はおのれの生の主人であり、また、おのれの死の主人にもなります。」
 「それはなにかの引用ですか?」とわたしは訊ねた。
 「たしかに。もはや、われわれは引用しかしないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。」
 「で、わたしの時代の大冒険、宇宙旅行は?」とわたしが言った。
 「そういった旅行は、もう何世紀も前にとりやめられました。それはたしかにすばらしいものでした。しかし、われわれは、決して、『ここ』と『いま』とから逃れることはできませんからね。」
 微笑をうかべながら、彼はこうつけ加えた。
 「それに、どんな旅行でも宇宙的です。一つの天体から別の天体へ行くのは、向いの農場へ行くようなものだ。この部屋に入ってこられたとき、あなたは、ひとつの宇宙旅行を成し遂げたのですよ。」」



「アベリーノ・アレドンド」より:

「平屋根をうつ雨の音が、いつも彼の友だった。囚人や盲人にとって、時間は、さながらゆるい勾配を下る川のように流れる。幽居の半ば頃には、アレドンドも、一度ならずそのような時外の時を経験した。第一の中庭に天水桶があって、その底に一匹のがま(引用者注: 「がま」に傍点。以下同)がいた。しかし、永遠と境を接しているがまの時間が、彼の求めるものだったとは、ついぞ思いおよばなかった。」


「砂の本」より:

「わたしは何気なくその本を開いた。知らない文字だった。粗末な印字の、古びたページは、聖書によく見られるように二列に印刷されていた。テクストはぎっしりつまっており、一節ごとに区切られているページの上の隅には、アラビヤ数字がうってあった。偶数ページに(たとえば)四〇五一四という数字があるとすると、次のページは九九九になっているのが、わたしの注意を引いた。ページをめくってみる。裏面には、八桁の数字がならぶ番号がうたれていた。よく辞書に使われるような小さな挿絵があった。子供がかいたような、まずいペンがきの錨(いかり)だった。
 見知らぬ男がこう言ったのはその時だ。
 「それをよくごらんなさい。もう二度と見られませんよ。」」

「「わたしは、平原の村で、数ルピーと一冊の聖書と引きかえに、それを手に入れたのです。(中略)彼が言うには、この本は『砂の本』というのです。砂と同じくその本にも、はじめもなければ終りもない、というわけです。」」
「「この本のページは、まさしく無限です。どのページも最初ではなく、また、最後でもない。なぜこんなでたらめの数字がうたれているのか分らない。多分、無限の連続の終極は、いかなる数でもありうることを、悟らせるためなのでしょう。」
 それから、あたかも心中の考えごとを口にのぼせるように、「もし空間が無限であるなら、われわれは、空間のいかなる地点にも存在する。もし時間が無限であるなら、時間のいかなる時点にも存在する。」」




◆感想◆

「他者」は分身(過去の自分)と出会う話です。「相手は夢のなかでわたしと会話したのであって、それ故にこそ、わたしを忘れることができたのだ。一方、わたしの方は、目ざめた状態で彼と会話したので、現在にいたるまで、その記憶に悩まされているのだ。」とありますが、講演録『七つの夜』では「未開人や子供にとって夢は目覚めているときの挿話ですが、詩人や神秘主義者にとっては目覚めの状態がすべて夢だということもありえないことではない。」と言っています。

「ウルリーケ」が「わたしはフェミニストです」といい、「男性のまねはしたくありません」というのを、ボルヘスが「こういう科白(せりふ)」は「彼女らしからぬものだ」と評しているのは、ウルリーケが「ヴォルスンガ・サガ」の「ブリュンヒルト」(ブリュンヒルデ)であることが判明するからですが、シーグルト(ジークフリート)がブリュンヒルトと出会ったとき、ブリュンヒルトは男のように甲冑を身にまとっていました。

「会議」は、チェスタトン『木曜の男』の変奏ですが、チェスタトンの楽天主義とは異なり、すべては「この世の空しさ」に解消されてしまいます。

「人智の思い及ばぬこと」は、ボルヘス自身もコメントしているようにラヴクラフトの模作あるいはパロディですが、ボルヘスはほかのところ(対談)でラヴクラフトを「bogus (いんちき、にせもの)」であると断言し、読むに値しないと一蹴しています。しかしボルヘスとラヴクラフトには資質的にかなり近いものがあるのではないでしょうか。本作はまた、『ボルヘス怪奇譚集』にも収録されているチェスタトンの短篇「いかにしてわたしは超人を見つけたか」を連想させます。チェスタトンのブラウン神父物にも「ダゴン」が登場するし、ラヴクラフトとチェスタトンにも資質的に近いものがあるのではないでしょうか。

かつて「ユダについての三つの解釈」でグノーシス派の「ユダの福音」を発展させたボルヘスは、「三十派」で、ふたたび汚辱にまみれた人々の救済を試みます。『ボルヘスの「神曲」講義』所収のエッセイ「慈悲深い死刑執行人」でボルヘスは、地獄にいる人々が犯した罪は運命によって定められた必然的なものであって「自由に選び取られたものではなく、網のように張りめぐらされた不可避の状況にあらかじめ定められ、強要された行為である」「それゆえ、不当でない刑罰はない」と言い、にもかかわらず不当な刑罰を甘んじて受け入れる汚辱にまみれた人々のことを書きました。暗殺者「アベリーノ・アレドンド」も、そのような人々の一員ですが、大統領を暗殺したアベリーノは死刑になることも自殺することもなく穏やかな余生を送ります。前著『ブロディーの報告書』にも、世間から卑劣漢や卑怯者と呼ばれるような行動をとりながらも余生を穏やかに過ごした人々が登場していました。「若い頃は、黄昏や場末や悲運に魅かれた。今は、都心の朝や静穏の方がいい。」と本書「会議」にありますが、ユダを主人公に小説を書いたとしたら、ユダにも穏やかな余生を過ごさせたことでしょう。文学の使命のひとつは、そのような汚辱にまみれた人々を歴史の悪夢から救い出すことにあります。

「疲れた男のユートピア」は、何世紀にもわたる穏やかな余生を過ごした後で、自らガス室に赴いて穏やかに自殺する未来の人々の話です。「この本のなかで、もっとも正直、かつメランコリックな一篇だ」(ボルヘスによる「後書き」より)。

晩年の紀行文集『アトラス』では、俳句という「たった一行」の詩を発明した功徳によって人間は神々による破滅を免れますが、「鏡と仮面」では、「たった一行」の詩を発見してしまったゆえに詩人は「美を知ってしまったという罪」を贖わねばならなくなります。

「円盤」は「片面だけしかない」円盤、「砂の本」は無限のページをもつ一冊の本という、不可能なオブジェを主題としたオブジェ小説です。




















































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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