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ジョン・ケージ/ダニエル・シャルル 『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 青山マミ 訳

「そういえば、私の全哲学を一言で言ってくれと頼んできたイリノイ州のあるジャーナリストに、こう書いたことがあった。「自分が囚われているどんな檻(ケージ)からも逃れよ。」」
(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 「あとがき」 より)


ジョン・ケージ 
ダニエル・シャルル 
『ジョン・ケージ 
小鳥たちのために』 
青山マミ 訳


青土社 
1982年4月10日 初版発行
1995年3月10日 第13刷発行
270p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,900円(本体1,845円)
装幀: 鈴木昭男



本書「訳者あとがき」より:

「偶然の仕業としかいいようのない見えない糸に導かれて、故間章(『時代の未明から来たるべきものへ』イザラ書房近刊)と出会い、即興演奏の彼方に拡がる地平を模索するうちに様々な即興演奏者達を知り、ケージに出会い、この本と出会うことになった。」
「訳註については、(中略)最低限にとどめた。」
「なお、原本の冒頭にある「ダニエル・シャルルの三十三の質問に対する六十の答え」は、既訳があるので(岩佐鉄男氏訳、『エピステーメー』第四巻十号、一九七八年十一月号)割愛した。」



本書「序にかえて」「訳註1」:

「ジョン・ケージの姓 Cage は、英語でもフランス語でも鳥籠、檻を意味する。従ってこの題名は「Cage pour les oiseaux (小鳥たちのための鳥籠)」とも読むことができる。」


John Cage, Pour les oiseaux, 1976
本文二段組(「序にかえて」「あとがき」「訳者あとがき」は一段組)。
原書はフランス語。英訳を買おうと思ったのですがヤフオクストアで本書が948円(3,000円以上で送料無料)で出品されていたので落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


ジョンケージ 小鳥たちのために


帯文:

「音楽

テクノロジー
現代音楽の鬼才
ジョン・ケージが、
禅や易経との
出会いから、
音楽を超えて、
世界認識そのものの
変革にいたるまでを
真率に語る、
ジョン・ケージの
すべて――」



帯背:

「音楽の革命から
認識の革命へ」



目次:

序にかえて (ダニエル・シャルル)

ジョン・ケージとの問答
  構造と素材: 方法と形態
  若い時代の作品
  プリペアード・ピアノ
  沈黙(サイレンス)の役目
  音楽への禅の適用
  表現性の彼方へ: 偶然の使用
  時間の解放
  『易経』
  いくつかの偶然の出来事(アクシデント)について
  関係について
  組織化から残るもの
  瞬間、持続、反復
  自我(エゴ)の超克
  エレクトロ・アコースティック技術と〈ライヴ・エレクトロニック・ミュージック〉
  空間の重要性~『ミュージサーカス』
  ハプニングの正しい使い方について
  アナーキーと有用なもの(ユーティリティ)
  最近のいくつかのコンサートについて
  反政治
  討論

ジョン・ケージとの十の対話
 第一の対話
  第一歩: ビューリック、カウエル、シェーンベルク
  時間の重要性について
  フィッシンガーと騒音の問題
  ヴァレーズに対する隔り
  エレクトロ・アコースティック音楽について
  ソルフェージュの概念についての議論
  実験音楽とアナーキー
  関係の批判
  不確定性とその不安定さ
  生成しつつある世界
 第二の対話
  ヴァージル・トムソン
  静と動~どこにも向かわずに
  生活としての芸術
  生の哲学への反論
  スタシスと目的の不在
  弟子達
  大学
  マクルーハン: 存在するものへの開かれた態度
  無秩序への意志
  無心の好機について
  円融無礙
  無の問題
  フラーと三という数
  偶然について
  鈴木大拙と『荘子』
  『易経』について: 道教と近代科学
  騒音と無為に関する議論
  存在するものすべてに対する責任
  有用なもの(ユーティリティ)の重要性
  豊かさと不敬
  自由と自在
 第三の対話
  インドの美学思想と感情理論
  普遍性への道~受容
  クーマラスワミへの敬意
  マイスター・エックハルト
  アラン・ワッツについて: 極東の正しい使い方
  バックミンスター・フラー賞讃
  マルクス主義からの異議
  討論: アナーキーの意味
  ソローの例
  牢獄批判
  詩的生活の必要: ノーマン・ブラウン
  技術に対する態度
  言語に適用された不確定性: 『ソロー・ミックス』
  『デュシャンに捧ぐ』
  文字主義(レトリスム)について
  〈無限の可能性を秘めた詩〉
  『サイレンス』から『ア・イヤー・フロム・マンデー』まで
  文字におけるモザイク式形態または偶然
  ジョイスの意義
  声による音楽: シャシー・バーベリアンと『ソング・ブックス』
  非-線形(ノン・リネアリティ)
 第四の対話
  デヴィッド・チュードア: 演奏家と作曲家
  テュードアとの演奏旅行
  作曲における自我(エゴ)の排除
  『ヴァリエーションズⅡ』の仕事
  時間を解放する方法として考案された記譜法について
  演奏者の蜂起
  空間の意味: 重複された作品と非-線的構造(ノン・リネアリティ)
  録音についての批判: 『ヴァリエーションズⅣ』
  『カートリッジ・ミュージック』について
  対象物(オブジェ)から過程(プロセル)へ
  ライヴ・エレクトロニック・ミュージック: 構想と演奏に関する問題
 第五の対話
  『HPSCHD』: レジャレン・ヒラーとの合作
  プログラミングの難しさ
  コンピューターにかけられたモーツァルト
  『チープ・イミテーション』
  『ピアノのためのコンサート』について: 異なったものの集積
  サーカスの状況
  クセナキスについて
  開かれた状態~偶発性
  会話と伝達
  ラモンテ・ヤングとフェルドマンについて: 対象物(オブジェ)-音楽
  過程(プロセス)の謎
  言語の音楽化
  テリー・ライリーについて
  クリスチャン・ウォルフ賞讃
  コンセプチュアル・アートのこと
  経験を選り分けることはできない~『ヴェクサシオン』の逆説
  ヴィトゲンシュタインをめぐって
 第六の対話
  画家との関わり: ラウシェンバーグとマーク・トービー
  カリグラフィスム
  書法技術の変遷
  『記譜法(ノーテーションズ)』: 水族館
  マース・カニンガムとの共同作業
  空間: 共存と同時性
  ブラック・マウンテンでの最初のハプニング
  アルトーと音楽の演劇化
  ハプニングのいろいろな種類
  カプローとヒギンズ
  白南準
  『レユニオン』とゲームの思想
  『三十三と三分の一』
  観客参加: 『ニューポート・ミックス』『ローツァルト・ミックス』『ヴァリエーションズⅤ』
  ジャズとフリー・ジャズ
  サン・ポール・ド・ヴァンスでの『ミュージアム・イヴェント』について~『カンフィールド』
  ロック賞讃
 第七の対話
  『チープ・イミテーション』: 不確定性の消失?
  音楽における他者の存在
  デヴィッド・チュードアへの敬意
  自我(エゴ)を超えた多数のために
  フランスの状況について
  ピエール・ブーレーズとの交際
  個人主義
  愛と落ち着き
  サティへの愛着
  『ソング・ブックス』の主題: サティとソロー
  ストーニー・ポイントでの生活
  菌類学
  麻薬と同胞愛
 第八の対話
  視覚的効果と映画音楽
  『HPSCHD』における音と映像
  『HPSCHD』の録音
  パリでの『ミュージサーカス』と組織の意義
  秩序と無秩序: シュトックハウゼンとクリスチャン・ウォルフ
  クセナキスについて
  日本と日本の音楽
  徳への招きとしての音楽芸術について
  聴く修練
  フラー式大学へ向けて
  経済と営利に逆らって
  〈行為〉と生産性のもたらす害
 第九の対話
  〈ゼロの時間〉と沈黙(サイレンス)
  作品とゲーム
  規則に逆らって~〈祝典(セレブレーション)〉
  これからの作品
  秩序と無秩序の両立について
  『易経』と分子生物学
  豊かさ~量と質
  世界に住む
  金銭の役割り
  すべてはすでに考察された
  多領域にわたる交流について
  灰皿に内在する生~『ヴァリエーションズⅦ』について
  エレクトロ・エンツァファログラフィー音楽
  シュールレアリスムとダダイスム
  リズムと非整合性
 第十の対話
  ケージにもっとも感銘を与えた十冊の本
  ノーマン・ブラウンの重要性
  性の問題
  新道家思想について
  音楽と環境(エコロジー)の一致
  環境(エコロジー)と体制
  音楽、均衡、事物の調和
  アンリ・プッスールの改良主義について
  主観性の超克
  音楽の世界化
  革命とシナジー

あとがき (ジョン・ケージ)

ジョン・ケージ年譜

訳者あとがき




◆本書より◆


「ジョン・ケージとの問答」より:

ケージ 政治的な行為をするということは、支配の原則を考慮に入れることなのだと言わざるをえません。反対にアナーキーは支配の不在だけを問題にしています。もし私達が、国家というものがない――連合国家さえない――世界に生きていたら、今よりもずっと満足いくように暮らせただろうと思いますよ。そしてその世界にむしろ有用なもの(ユーティリティ)のネットワークがあるならば……。
質問者 どういうことですか。
ケージ すべての人の生活に必要なあらゆるもののネットワークです。」

ケージ (中略)音楽では、耳を開くことで満足すべきでしょう。あらゆる音に対して開かれた耳には、すべてが音楽的に(引用者注: 「音楽的に」に傍点)聞こえるはずです。私達が美しいと判断する音楽だけでなく、生そのものであるような音楽。音楽によって生はますます意味深いものとなるでしょう。
 けれどもこのような状態に達するためには、ある意味で音楽を放棄しなければならないということがわかると思います。少なくとも音楽と呼ばれているもの(引用者注: 「音楽と呼ばれているもの」に傍点)をね。政治に関しても同じことなんですよ。ですから、人が私のことで〈非-音楽〉と言うように、私は〈非-政治〉と言うこともできるわけです。それは同じ問題なんです。私達が、〈音楽〉と名づけられているものをうっちゃっておけるならば、生きること一切が音楽となることでしょう。」



「第一の対話」より:

ケージ (中略)ある日、伝統的な音楽の曲に従って正確に組み立てられた抽象的な映画を作っているオスカー・フォン・フィッシンガーに紹介されたんです。彼は、ブラームスのハンガリア舞曲とか他の〈風俗的〉な曲をもとにして映画を作っていました。でもだれかに自分の映画のための新しい音楽を書いてほしかったのでしょう。私が紹介されたとき、彼はこの世界にあるもの一つ一つに宿っている精霊について話し始めました。その精霊を解き放つには、ものに軽く触れ、ものから音を引き出すだけで充分だ、と彼は言いました。
 これが私をパーカッションへと導いた考えなんです。それに続く数年の間――戦争へ向かってゆく時期ですが――どんな音が宿っているのか発見しようと、ものにさわったり、ものを鳴らしたり、響かせたりすることをやめませんでした。どんな場所であろうと、行く先々でものを聴きしらべたんです。その延長として、友達を集め、私が楽器を指定せずに書いた作品を演奏するようになりました。ただ、楽器のもつまだリストアップされていない可能性を探るために、空地やごみ捨て場、台所や居間に無限にあるはずの音源を探るためにね……。想像しうるあらゆる家具を試してみたものです。」

ケージ (中略)かつて音楽は、まず人々の――特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前に(引用者注: 「以前に」に傍点、以下同)それを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞きとれるようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれとかこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的(ア・プリオリ)に決めてしまうことです。ですから〈具体音〉のソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。また二元論的です。ソルフェージュ主義者にとっては、まわりにある音はみな片端です、調性を欠いています。さて、どうして私がソルフェージュに対して少しも興味を感じないのか、おわかりでしょう。私は音を改善しようなどという考えも、音の品種の改良についてどんな既定方針も抱いていないんです。私は耳を開いているだけです。」

ケージ (中略)〈論理〉という項目のもとに私達が構築しているすべてのことは、出来事や実際に起きることに比べて非常に単純化されたことを表しているので、むしろ私達はそれから身を守ることを学ばなければならない。それが現在の芸術の役目なんです。瞬時、私達が流れ動いてゆく出来事を論理的に矮小化しそうになるのを防ぎ、世界の姿である過程(プロセス)へと私達を近づけることが、その役割なんです。」



「第二の対話」より:

ケージ 私の音楽がどこかへ向かうのをやめるようになることこそ、私が目指していたことなんですよ。私は、音が行くところへ行くに任せ、音を在るがままにしておこうと努めました。その結果、ある連続性へと導かれましたが、それはクライマックスに到ろうとはしない連続性です。静止した連続性なんです。」

「―― あなたは結局、善というもの、つまり他人に対して責任を感じることをなによりも尊重していこうとされるわけですか。
ケージ 他人に対してだけでなく、生きているいないにかかわらず、あらゆる存在に対する、あるいは仏教徒が言うように、感覚を持つ持たないにかかわらず、あらゆる存在に対する責任でしょう。」

ケージ すべての人間が、自分自身で自由に決めたやり方で生きていけるような社会が必要なんです。」
ケージ (中略)なにも強制しないこと。あるがままにしておくこと。各々の音と同じように、それぞれの人が世界の中心であるのを許すこと、です。」



「第三の対話」より:

ケージ しかし労働が、働くという行為が抑圧なんです。あれこれと経済体制を変えてみても、労働という事実を変えることにはなりません。それは労働の増大をひき起こすだけです。問題になっているのは全く別のこと、つまり労働をなくすことなんです。」

ケージ 政治とは結局支配することですし、不要なものが一つあるとすれば、それは支配体制だ、と私はしばしば言ってきました。」

ケージ 支配を肯定し、支配を望むことから政治は成り立っています。ノーマン・ブラウンは、今日の問題は政治上のものではなく、政治と縁を切ることなのだということを見事に示していますね。それはまた私の意見でもあります。」

ケージ それは詩的生活です。
 ―― どうして詩という言葉にこだわるんですか。
ケージ 私達が本当になにものも所有しなくなったとき、そこに詩があるんです。」

ケージ (中略)沈黙のおかげで、騒音が結局私の音楽に入ってくる。選ばれた騒音ではなく、存在する、また生起するあらゆる種類の騒音が。」

ケージ (中略)ともかく私は一つの活動から他の活動へ向かうとき、最初の活動の記憶を残しておかないようにしようと思っています。自分を閉ざさないために、つまりある価値に囚われたり、なんらかの判断の奴隷とならないためにね。もちろん、たまにしかうまくいきませんけれど。しかしそれこそが詩的生活なのです。それは救いです。しかしまた、私達をゼロへとつき落とす跳躍でもあるのです。」



「第四の対話」より:

「―― ジョン・ケージ作曲の多くの作品は、演奏者次第で、まるで異なったかたちで実現されてきたことは事実です。あなたの作品では、演奏者が作曲家になってしまう。
ケージ そうです。そして聴衆は演奏者になることができるわけです。
 ―― 作曲家はなにになるのですか。
ケージ 聴き手になるんです。」



「第五の対話」より:

ケージ ええ、ありうることすべてを、そしてありうることすべてに対して開くこと、それこそおそらく私の探し求めていることなんです。」


「第七の対話」より:

ケージ そうですね、『荘子』のユーモアを好きなのと全く同じように、私はサティのユーモアが大好きなんです。」
ケージ (中略)実際、サティが書きえたもの、言いえたことで私を感激させないものはなにもありません。現在でも――サティは汲み尽しがたいのです。茸のように。
 ―― どういうことですか。
ケージ 茸を採って二十年もたったら、もう茸を探すのにあきあきするかもしれない、と考えたのです。ところが毎年、春とか夏に再び森にでかけると、新しい茸が見つかる。それは初めてのことみたいに私を興奮させるんですよ。」

ケージ (中略)茸を知れば知るほど、それを識別する自信が薄れていくんです、一本一本が違っていますから。それぞれの茸がそれ本来のものであり、それ自らの中心にあるのです。茸に詳しいなどと言うのは無駄なことです、茸は人間の知識を裏切りますから。」



「第八の対話」より:

ケージ いいえ、〈徳〉は仏教の伝統からとった表現です。〈徳〉を具えているということは、どんな刹那にも好き嫌いから自由であるということです。」
「ケージ (中略)私がチャンス・オペレーションを用いて書くのは、あらゆる種類の好き嫌いから私の音楽を解放するためなんです。」
ケージ (中略)それはあらゆるものを平等に扱うこと、一つ一つのものに対する平等な気持ちのことです。」

ケージ (中略)政治と同様に、経済をなくさなければなりません。経済に私達を支配させておくべきではない――経済について考え直すべきです、経済が私達を束縛するのではなく、私達を解放するように。そのためには、全く時代錯誤の教義(ドグマ)を清算することから始めなければなりません。利益に還元しうる行為(引用者注: 「利益に~」に傍点)という教義(ドグマ)は、大学が守り続けてきたものであり、そのことによって大学は組織と政府の奴隷なのですが、生産性を重んじる――または利益を重んじる教義(ドグマ)です。経済は、私達が〈有用なもの(ユーティリティ)〉ばかりかテクノロジーを用いて行動するのを妨げるのです。経済は組織する行為の表われであり、所有欲をかきたてる。利益をもたらす行為を崇拝しない人達が、彼らにあった生活を追求することを難しくしてしまいます。それこそ私が〈生産性〉と呼んでいるものです。私達はそれを捨て去らなければなりません。」



「第九の対話」より:

ケージ (中略)ちょっと前ゴードン・ムンマから聞いたんですが、今年になって繰り返し三回もエレクトロニクスの機材を盗まれたというんです。これらの機材はとても簡単に売り払えるので、ことさら泥棒の欲望をかきたてるのです。こうたびたび盗まれるので、今ではもう少しも所有の感覚などもちあわせていない、とゴードン・ムンマはつけ加えました。彼は惨めな気持ちで言っているのではなく、むしろ感謝して言っているのです。彼が所有していない、所有権をもっていないと感じるようになったのは、私の本を読んだからではなく、何度も盗まれたからなんです。」
ケージ 私が自分の現実的に必要なものの少なさ、また泥棒がゴードン・ムンマに自覚させた貧しさの感覚を説明するとき、豊かさの感覚と逆方向に向かっているとは思いません。豊かさとは、すべてを所有することではなく、実際に使うものだけを所有することなんです。」

ケージ たとえばこの灰皿を見てください。灰皿は振動しています。そのことは確かですし、物理学者はそれを証明してくれるでしょう。でも私達はその振動を聞くことはできません。無音室に入ったとき、私は自分が出している音を聞くことができました。そこで今度は私自身の音を聞くかわりにこの灰皿を聞こうとします。そのためには、打楽器にするように、灰皿をたたくのではありません。灰皿に内在する生を聞こうとするのです。私はテクノロジーを応用してそれを実現するでしょう、確かにそのテクノロジーはこの目的のために開発されたわけではないでしょうが。でもそれは同時にこのテクノロジーを高めることにもなる。つまり私は十分にその力を発揮させ、その可能性を発展させることになるのです。」
ケージ (中略)私達は空気が振動で満たされていることを知っていますが、それらの振動は聞こえません。『ヴァリエーションズⅦ』では、この不可聴の環境から音を取り出そうとしたのです。しかしこの環境を物体として捉えることはできません。それが過程(プロセス)であることを私達は知っています。一方灰皿の場合は物体が相手です。それを小さな無音室に入れて、それにふさわしいアンプとスピーカーのシステムを使って聴いてみるのは極めて興味深いことだと思います。物体が過程(プロセス)に変貌する、そして私達は、科学から借りた方法のおかげで、物体の音楽を通して自然のあり方を再発見することができるでしょう。」

ケージ 作曲する際私が気づかうのは、私が遭遇する音の非整合性(引用者注: 「非整合性」に傍点)、制御不可能さに干渉しないという点です。私の音楽は実は、音楽がまだない(引用者注: 「まだない」に傍点)ときに音楽であるようなものを浮かび上がらせることから成り立っています。私の関心をひくのはものごとが存在する(引用者注: 「存在する」に傍点)という事実なのです。」



「第十の対話」より:

ケージ 今日私たちが知っている自然とは――自然をこのように認識することは耐え難いことですが――私達が人類として危機に陥れてしまった自然の姿です。私達は自然に逆らって行動し、自然のあり方に対抗してきた。そこで私達は現在、自然をそれ本来の姿に戻してやることに心を砕かなければなりません。また自然は水と空気、空と大地という具合に分けられているものではなく、これらの要素の〈渾然一体の働き〉あるいは〈渾然一体のゲーム〉です。それは私達が環境(エコロジー)と呼んでいるものです。私が考えているような音楽は環境的(エコロジカル)です。さらに進んで、音楽が(引用者注: 「音楽が」に傍点)環境(エコロジー)だと言うこともできるでしょう。」

ケージ (中略)私が本当に音楽をつくり始めたのは、つまり〈真剣に〉作曲を始めたという意味ですが、それは騒音に注目するためでした。なぜなら騒音は権力から、つまり和声や対位法の法則を免れていたからです。(中略)今日私達は、(中略)騒音のための法則を探し求めるのではなく、むしろ騒音と一体化すべきなんです。」

ケージ 私はものをあるがままにしておこうと考えています。」























































































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John Cage "Silence: Lectures and Writings by John Cage"

"If anybody is sleepy, let him go to sleep."
- John Cage


John Cage
『Silence:
Lectures and Writings by John Cage』


Wesleyan University Press, First printing 1961, Wesleyan Paperback, 1973
xii, 276p, 21x17.5cm, 20.9x17.9cm, paperback



Wesleyan University Press のジョン・ケージ著作集シリーズ一冊目。
わたしが買ったのは2000年代に入ってからの増刷だとおもいます。

シリーズ内容は:

Silence: Lectures and Writings
A Year from Monday: New Lectures and Writings
M: Writings '67-'72
Empty Words: Writings '73-'78
X: Writings '79-'82


john cage - silence 1


Contents:

Foreword
Manifesto

The Future of Music: Credo
Experimental Music
Experimental Music: Doctrine
Composition as Process
 I. Changes
 II. Indeterminacy
 III. Communication
Composition
 To Describe the Process of Composition Used in Music of Changes and Imaginary Landscape No. 4
 To Describe the Process of Composition Used in Music for Piano
Forerunners of Modern Music
History of Experimental Music in the United States
Erik Satie
Edgard Varèse
Four Statements on the Dance
 Goal: New Music, New Dance
 Grace and Clarity
 In This Day
 2 Pages, 122 Words on Music and Dance
On RObert Rauschenberg, Artist, and His Work
Lecture on Nothing
Lecture on Something
45' for a Speaker
Where Are We Going? and What Are We Doing?
Indeterminacy
Music Lover's Field Companion



john cage - silence 2

「Composition as Process II. Indeterminacy」

この講演は極小の活字で組まれていますが、ケージによると、内容が尊大だから、あえて字を小さくしたのだそうです。


john cage - silence 3

「Lecture on Something」



◆本書より◆


「Future of Music: Credo」より:

「Wherever we are, what we hear is mostly noise. When we ignore it, it disturbs us. When we listen to it, we find it fascinating. The sound of a truck at fifty miles per hour. Static between the stations. Rain. We want to capture and control these sounds, to use them not as sound effects but as musical instruments.」

「It was a Wednesday. I was in the sixth grade. I overheard Dad saying to Mother, "Get ready: we're going to New Zealand Saturday." I got ready. I read everything I could find in the school library about New Zealand. Saturday came. Nothing happened. The project was not even mentioned, that day or any succeeding day.」

「A young man in Japan arranged to his circumstances so that he was able to travel to a distant island to study Zen with a certain Master for a three-year period. At the end of the three years, feeling no sense of accomplishment, he presented himself to the Master and announced his departure. The Master said, "You've been here three years. Why don't you stay three months more?" The student agreed, but at the end of the three months he still felt that he had made no advance. When he told the Master again that he was leaving, the Master said, "Look now, you've been here three years and three months. Stay three weeks longer." The student did, but with no success. WHen he told the Master that absolutely nothing had happened, the Master said, "You've been here three years, three months, and three weeks. Stay three more days, and if, at the end of that time, you have not attained enlightenment, commit suicide." Towards the end of the second day, the student was enlightened.」



「Four Statements on the Dance」より:

「In Zen they say: If something is boring after two minutes, try it for four. If still boring, try it for eight, sixteen, thirty-two, and so on. Eventually one discovers that it's not boring at all but very interesting.」


「Lecture on Nothing」より:

「Slowly, as the talk goes on, slowly, we have the feeling we are getting nowhere. That is a pleasure which will continue. If we are irritated, it is not a pleasure. Nothing is not a pleasure if one is irritated, but suddenly, it is a pleasure, and then more and more it is not irritating (and then more and more and slowly). Originally we were mowhere; and now, again, we are having the pleasure of being slowly nowhere. If anybody is sleepy, let him go to sleep.」


john cage - silence 4


「Where Are We Going? and What Are We Doing?」より:

「One of the noticeable things about our going is that we're all going in different directions. That's because there's plenty of room. We're not confided to a path and so we don't have to follow in someone's footsteps even though that's what we're taught to do. We can go anywhere, and if we can't, we concentrate on finding a way to get exactly there (if we know where there is).」


「Indeterminacy」より:

「In the poetry contest in China by which the Sixth Patriarch of Zen Buddhism was chosen, there were two poems. One said: "The mind is like a mirror. It collects dust. The problem is to remove the dust." The other and winning poem was actually a reply to the first. It said, "Where is the mirror and where is the dust?"

Some centuries later in a Japanese monastery, there was a monk who was always taking baths. A younger monk came up to him and said, "Why, if there is no dust, are you always taking baths?" The older monk replied, "Just a dip. No why."」



john cage - silence 5

「Composition as Process I. Changes」



john cage - writings































































































ジョン・ケージ 『音楽の零度 ― ジョン・ケージの世界』 近藤譲 編訳 (エピステーメー叢書)

「私達が必要としているのは、闇の周りを手探りすることなのです。」
(ジョン・ケージ)


ジョン・ケージ
『音楽の零度
― ジョン・ケージの世界』 
近藤譲 編訳

エピステーメー叢書

朝日出版社 
昭和55年12月25日 第1刷発行
157p 
19×11.5cm 
並装(フランス表紙) カバー 
定価880円



著書『沈黙(Silence)』から二篇、ロジャー・レイノルズ(Roger Reymolds)との対談二篇、そして『M』の序文抜粋からなるジョン・ケージ読本。


ケージ 音楽の零度 01


目次:
 
音楽愛好家の野外採集の友
合衆国に於ける実験音楽の歴史
『沈黙』の思想――レイノルズによるインタヴュー
『沈黙』の思想、その後――レイノルズとの対話
変革について――『M』への前書き(抄)

訳者あとがき



ケージ 音楽の零度 02



◆本書より◆


「『沈黙』の思想――レイノルズによるインタヴュー」より:
 
「ひとつの継続した[出来事]の状態を管理することから、言わば、それを管理しないことへと向かって移行し始めたばかりの頃の私は、[次に起こる出来事の]見込みを立てる或る種の経験的な知識というものから未だ解き放たれてはいませんでした。そして、初めの頃の私は、そうしたことから、或る[出来事]が来れば心地好いだろうということを見込み、何か他の心地好いかどうか判断できないことが起こるより、心地好いと判かっているそのことが起こるように望んだわけです。しかし実際には、そうした見込みから外れたことが起こったとき、その出来事が、何が心地好いかということについての私の意識を変えたことに気付きました。つまり、心地好いだろうとは思わなかったことも、事実心地好かったのです。そして、私の見方は徐々に、何が心地好いだろうかといったような定着した考えから、何が心地好いだろうかといったような考えを懐かないということへ変わってゆきました。(中略)今の私は、(中略)見込みを立てるための定着した考えをもとうとはしません。
 言い換えれば、私はむしろ、起こるだろうことについての好奇心と意識とを開いた状態に保ち、そして、次に起こるだろうことを経験的な知識から予測することができないような形に私の作曲の手段を整えるよう努めています。」

「象徴性については、私は特にそれが好ましいと思ったことはありません。
 私はそれについてひとつの異なった見方をもちつつあります。それが一対一の関係にあるとき、つまり、或る特定のものが他の特定のものの象徴である場合は、それが好ましいとは思えません。しかし、もし、世界の内に在るひとつひとつのものが、世界の内に在るほかのすべてのものの象徴として見られるのだとすれば、それは好ましいことだと思うのです。」

「私は『沈黙』で、中国の書『易経』の中の、人の生の奥義を示す六爻のことを話しました。その六爻は、通例、《芸術》[作品が人の心に働き掛ける様子]をも示すとされているわけです。そこでの《芸術》は、或る山の頂きで輝く光に譬えられます。その光は、周囲の闇を或る程度明るく照らします。こうした見方によって、《芸術》は、或る程度まで、生を貫く場に位置付けられるでしょう。さて、もし芸術と生とを分離したとすれば、或るいはこう言ってしまいましょうか、つまり、もしその光に着目し――光は闇よりも善く、闇よりも明るい――、それを《芸術》と呼ぶとすれば、……人はその明るさだけを手にすることになります。ところが、私達が必要としているのは、闇の周りを手探りすることなのです。なぜかといえば、(いつもではないにせよ、少くとも或るとき、殊に、私達にとって生が不確かになったとき)そこが私達の生きる場となるからです: 闇の中、或るいはキリスト教で言われるように「魂の暗い夜」。《芸術》が働くのは、こうした状況の中でなのです。そしてそのとき、それは只《芸術》であるのではなく、私達の生にとって有用なものとなるでしょう。」

「もし私がヴィヴラフォンを好きになれば、私にとって、世界はより開かれたものになるでしょう。それは私にはまったくよく判かっているのです。私はミューザックが嫌いですが、それについても同じことであって、もしそれが好きになれば、私にとって、世界はより開かれたものとなるでしょう。私はそうなるように努めるつもりです。ヴィヴラフォンやミューザックと折り合ってゆけるようになるために私が最も簡単に行なえることといえば、そうしたものを私の仕事に使うことでしょう。そしてこのような方法は、いわゆる未開の人々が彼等を脅かす野獣達と付き合うために行なったことと同じであると思うのです。」

「そう、社会状況の中で人が自分の行動方針をもち、その舵をどう取ってゆけばよいのかを知るのは、多くの場合難しいことだ、と私は思います。そこで私は、次のことを一種の羅針盤として使うことを決めたのです: 肯定的な行動を執ること、そして否定的な行動を採らないこと。否定的な行動とは、批判的な又は反論的な行動と言ってもよいでしょうが、たとえその批判の対象、戦いの相手が明らかに悪であるときでさえ、そうした行動を採らないこと。言い換えれば、私は悪を攻撃するよりも、私が肯定的だと考えることを促進したいのです。」








































































































John Cage "A Year From Monday: New Lectures and Writings"

John Cage
『A Year From Monday:
New Lectures and Writings』


Wesleyan University Press, 1967, First paperback edition March 1969
167p, 21x17.5cm



Wesleyan University Press のジョン・ケージ著作集シリーズ二冊目。
わたしが買ったのは2000年代に入ってからの増刷だとおもいます。

シリーズ内容は:

Silence: Lectures and Writings
A Year from Monday: New Lectures and Writings
M: Writings '67-'72
Empty Words: Writings '73-'78
X: Writings '79-'82


john cage - a year from monday 1

 
「音楽にたいする興味をしだいに失いつつあるのは、環境音やノイズの方が音楽文化によって作られる音よりも美学的に有用だということがわかったためだけではなく、つまるところ、作曲家というのがたんに他のだれかに指図するだれかであるにすぎないということがわかったからだ。わたしはわたしたちの活動をもっと社会的な(それもアナーキーに社会的な)ものにしたい。」
(「序文」)

「鈴木(大拙)先生は語った。「禅を学ぶまえには、人間は人間であり、山は山である。禅を学んでいるうちに、ものごとの区別がつかなくなって、なにがなにでどれがどれなのかわからなくなる。禅を学んだあとでは、人間は人間であり、山は山である」。そこで質問が出た。「鈴木先生、禅を学ぶまえの人間は人間であり山は山であると、禅を学んだあとの人間は人間であり山は山であるとの違いはなんですか?」。鈴木は答えた。「同じだよ。ただちょっとだけ、足が地面から離れたような気がするだけさ」。
 さて、音楽を学ぶまえには、人間は人間であり、音は音である。音楽を学んでいるうちは、ものごとはあいまいだ。音楽を学んだあとでは、人間は人間であり、音は音である。すなわち、最初のうちは、音をきくと、それが人間ではなく、見るべきものではないとわかる。音は高いか低いかでしかない。」
(「ジュリアード講演」)



CONTENTS:
 
Foreword
Diary: How to Improve the World (You Will Only Make Matters Worse) 1965
Diary: Emma Lake Music Workshop 1965
Seriously Comma
Happy New Ears!
Two Statements on Ives
Mosaic
Diary: Audience 1966
Diary: How to Improve the World (You Will Only Make Matters Worse) Continued 1966
26 Statementes Re Duchamp
Jasper Johns: Stories and Ideas
Miro in the Third Person: 8 Statements
Nam June Paik: A Diary
Where Do We Go From Here?
Juilliard Lecture
Lecture on Commitment
Rhythm Etc.
How to Pass, Kick, Fall, and Run
Talk I
Diary: How to Improve the World (You Will Only Make Matters Worse) Continued 1967
Afterword



john cage - a year from monday 2


「Two Statements on Ives」


john cage - a year from monday 3


「Juilliard Lecture」
 
 
john cage - a year from monday 4


「How to Pass, Kick, Fall, and Run」


john cage - a year from monday 5

「Talk I」






































































John Cage "Empty Words: Writings '73-'78"

John Cage
『Empty Words: Writings '73-'78』


Wesleyan University Press, 1979, First paperback edition 1981
187p, 21x17.5cm



Wesleyan University Press のジョン・ケージ著作集シリーズ四冊目。
わたしが買ったのは2000年代に入ってからの増刷だとおもいます。

シリーズ内容は:
 
Silence: Lectures and Writings
A Year from Monday: New Lectures and Writings
M: Writings '67-'72
Empty Words: Writings '73-'78
X: Writings '79-'82


john cage - empty words 1


「私は楽観主義者(オプティミスト)だ。それが私の存在理由(レゾンデートル)だ。」
(「序文」)

「お腹が減ったら食べ、のどが渇いたら飲みなさい。
Eat when you're hungry, drink when you're thirsty.」
(鈴木大拙)


john cage - empty words 3



Contents:
 
Foreword
Preface to "Lecture on the Weather"
How the Piano Came to be Prepared
Empty Words
Where Are We Eating? and What Are We Eating?
Series re Morris Graves

Sixty-One Mesostics Re and Not Re Norman O. Brown
Writing for the Second Time through Finnegans Wake
The Future of Music

Mesostics
 Many Happy Returns
 A Long Letter
 Song
 For S. Fort, Dancer
 For William McN. who studied with Ezra Pound
 Wright's Oberlin House Restored by E. Johnson
  "I'm the happiest person I Know." (S.W.)



john cage - empty words 5


余白に飛び散るパーレン、コンマ、ピリオド、疑問符、感嘆符などの約物。


「1930年代後半、私はシアトルのコーニッシュ・スクールのモダン・ダンスのクラスの伴奏者の仕事にありついた。学生の中にすぐれたダンサーのシヴィラ・フォート(Syvilla Fort)がいて、バッカナーレ(Bacchanal)のための音楽を依頼された。そのころの私の作曲法は二通りあって、ピアノやオーケストラ楽器には十二音音楽を書き(私はアドルフ・ヴァイスとシェーンベルクに学んだ)、一方で打楽器アンサンブルのための音楽も書いていた。シヴィラのダンスはアフリカっぽいものだったから、打楽器でやりたかったのだが、コーニッシュ・シアターは狭くて打楽器を設置する場所がなかった。仕方なくピアノ曲を書くことにしたが、アフリカっぽい十二音音列を思いつけなかったので、うまくいかないのはピアノのせいにして、自分を変える代りにピアノを改造することにした。
 私はヘンリー・カウエルの生徒でもあったので、彼がピアノの弦を指でつまんだり手でおさえたりして音を変化させるのをきいたことがあった。私は台所に行って大きめの皿をとってきてピアノの弦の上に載せて弾いてみた。皿は震動であちこち飛び跳ねてうまくいかなかったので、もっと小さいものをと思って、釘を弦の間に挟んでみたが、すぐに落っこちてしまった。ネジやボルトなら安定するんじゃないかと思いついて、やってみたらうまくいった。一つの処理で共鳴音と弱音の二つの音が出せることがわかって喜んだ。」
(「ピアノはいかにしてプリペアされるに至ったか」)


「耳が悪くなるから、でかい音はよくないという人が相変らずいる。Zaj の演奏会で、ものすごくでかい音をきく機会があった。スピーカーの近くに陣取って、一時間ばかり、左右の耳をまんべんなく音にさらした。音がやんでも耳鳴りはやまなかった。次の日の夜になってもやまなかった。夜が明けてから耳鼻科に予約を取って、診察を受けに行く途中でだいぶよくなった。検査の結果はなんともなくて、障害は一時的なものだった。私の、でかい音にたいする態度は変ることはなかった。機会さえあれば、よろこんで耳を傾けるだろう、適度な距離を保った上で。」
(「音楽の末来」)


john cage - writings































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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