清水徹=宮川淳 『どこにもない都市 どこにもない書物』

清水徹=宮川淳
『どこにもない都市 
どこにもない書物』


水声社 
2002年7月30日 印刷
2002年8月10日 発行
216p 目次・著者について他6p 
21×14cm 並装(フランス表紙)
本体カバー 筒函 
定価2,500円
装幀: 菊地信義


「この本は、清水徹のさまざまな文章を素材として、
宮川淳がその切り貼りを行なうというかたちでつくられた。」



本書「新版のためのあとがき」より:

「これは、一九七七年六月、叢書《エパーヴ》第六冊として小沢書店から刊行された清水徹=宮川淳『どこにもない都市 どこにもない書物』の新版である。(中略)宮川淳が(中略)清水徹の書いた文章のなかからいくらかを選んで切り取り、並べ換えるというかたちで書いた(引用者注: 「書いた」に傍点)書物なのだから、若干の誤植と不統一をただす以上の権限は清水徹にはない。ただ、このようなまったく前例のない書物にいくらかの照明を当てるために、初版時には別紙で挿入されていた、この本に対する無署名の書評(中略)と、一九七七年七月十八日付けの『日本読書新聞』に掲載された対談のふたつを、《補遺》として収めることにした。」


清水徹=宮川淳 どこにもない都市どこにもない書物 01

筒函。


清水徹=宮川淳 どこにもない都市どこにもない書物 02

カバー。


清水徹=宮川淳 どこにもない都市どこにもない書物 03

本体表紙。
タイトルを横によめば「などなど/いこいこ/書に都に/物も市も」となります。


目次:
 
どこにもない都市 どこにもない書物

補遺
 『どこにもない都市 どこにもない書物』を読んで (無署名)
 都市と書物――〈読むこと〉の至福へ (清水徹・宮川淳)

新版のためのあとがき




◆本書より◆


対談「都市と書物――〈読むこと〉の至福へ」より:

T.   今度出版された『どこにもない都市 どこにもない書物』という本は、ぼくと宮川さんとの「合作」という非常に不思議な本――いささか自慢していえば、多分これまであまり例がないような本、「どこにもない本」なんです。ぼくがここ何年間かに書いてきた長短いろいろな文章を宮川さんが読んで、そこからのコラージュとしてこの本を作った、――つまり、ある長いエッセーから四百字くらい切り取ったり、四、五篇のそれぞれ対象のちがう書評を二百字くらいずつ切り貼りしたり、そのあいだに七、八枚の文章をまるごと入れたりという仕方で出来ている。宮川さんは、ペンを持つかわりに、鋏と糊をもってこの本を書いたんで、そういうコラージュの地平では、素材となった文章に対するぼくの私有権はあんまりない。
 だから、ここには著者がふたりいるし、読者がまずふたりいる。普通の本ならば、著者がひとりで、もし著者がある程度自分の本を読むことができるとすれば、その著者は同時に最初の読者になる、というのに対して、この本は著者がふたり、読者もふたり。(略)こんな本を作り出す始まりにあった考えというのは、著者とか読者というものに対してこれまで考えられていた輪郭をもっと広げてしまうことにあった」

A.   (中略)ひとつは、ぼく自身が最近やってきた引用論の延長ですね。いままでぼくがやってきたのは、引用と地の文章とを交互に交錯させていくようなスタイルだったわけだけれど、ぼくが考える引用というものは押しつめると引用だけの構成になる、つまり引用だけによる本を作ってみたいという気がひとつあったわけですね。
T.   少しなさったことがあるでしょ、ドゥルーズか何かでね。
A.   (中略)引用というものが、いまおっしゃったように、著者と読者というものの輪郭を大変曖昧にするものであるわけで、あるいは本当は、「著者と読者」というよりは「書くことと読むこと」という非人称的な言い方のほうがいいんでしょうけれども――そういった、「書くことと読むこと」のいままでに確立されているヒエラルキーをおびやかしてみたいという意図なんですね。今までならば、著者=作品の絶対権があって、読者はあくまでそれに従属する――たとえば、その著者の「真意」を読むとか、そういう形で本というものは考えられているわけですけども。それに対して「読むこと」の積極性を強調したい。」

A.   (中略)この本を作るもうひとつの前提になっていたのは、ぼくのこの前の本(『紙片と眼差とのあいだに』)――この本は自分の昔の文章をバラバラに解体してしまって、それらの断片をさまざまな引用とコラージュしたわけですが、そのとき面白いと思ったのは自分の文章まで引用化される、つまり作者と切り離されるわけです。それがやっぱりひとつの前提になってくる。だから最初は、もっと清水さんの文章をバラバラにしちゃって、もっと断片的な本を作るつもりだったんです。」
T.   そこで、これは断章で書くという問題になるんだけれども、ぼくはずいぶん前から自分の書くものの欠点として、論証の直線的性質が強すぎるということを、非常に感じているんですよ。(中略)ぼくの中には、ある種の論理一貫性に対する過大なまでの要求がどうもあるんで、それが文章を書きにくくさせている。宮川さんが『紙片と眼差とのあいだに』でやった断章で書くやり方を、そのあとぼくも何度かやってみたことはある、そうすると、そこに面白い問題が起こっていると思う。断章で書くことの全体みたいなものと、直線で書くことの全体みたいなものとを考えると、断章で書く全体の方が、何というか、内部の運動性が大きいように感じますね。」
A.   ぼくも実際は文章がつながらないから断片的になってきちゃったというのが本当なんだろうけれども。ただ、今おっしゃったように、接続詞を使うと論理が限定されちゃうんですね。ところが、あるふたつのフラグマン(断章)の間には、いろんなつながり方があり得るわけで、それを接続詞でつながないで余白をおいて並べた時に、いろんな読み方がそこにでてくる。また、同時に、いろいろな断片を並べかえることによって別のコンテクストができあがってくる。同じフラグマンでも別のニュアンスなり意味なりがでてくる。だから、ぼくが考える、もうひとつ作ってみたい本というのは、元のテクストは同じだけども、コラージュの仕方によってまったく違った二冊の本ができるという、そういう本を作ってみたいですね。
T.   たぶんそこに、ユートピアと廃墟の対立問題――これはぼくのひとつのテーマなんだけど――がひとつあって、もうひとつは、それとまったくパラレルにある「読むこと」と「書くこと」の対立および相互転換性なんだな。(中略)ぼくの中にはやはり、緊密な論理を完全に作りあげれば、それはもしかしたら最高のものであるかもしれないという妄想がある。それはぼくにとってのユートピアであるわけです。ぼくはそれをロココというメタファーで語ろうとしている。だけど、と同時に、(中略)ヨーロッパの精神史、美術史、文学史をみた場合に、十八世紀半ばぐらいにできあがったロココ的な見事な調和の関係というものは、その後まったくない、一回かぎりの歴史的事実としてできあがったもの――しかも狭い社会的コンテクストでできあがったもので、ほとんど奇跡でしかない。(中略)とすると、そこで出てくるのが廃墟というテーマで、廃墟という形でしか現代におけるユートピアはありえないんじゃないか。だからもしかしたら、断章構成という形でしか最高の放射力をもちうる書物はないんじゃないか、――こんな考えがぼくにはあるんです。
 たとえば、二十代の若者しか読まないといわれているカミュが、ぼくはいまだに大変好きで、そのカミュの場合、「追放と王国」というテーマがあるでしょ。カミュがあの作品で示しているように、結局「王国」はないわけですよね、「追放」という状態しかカミュにはない。それはカミュにおける「砂漠」というテーマになるし、「砂漠の中における追放」という状態がきわまった時に、それが一瞬、王国になりうるという幻想をカミュは追いつづけていた。」




こちらもご参照下さい:

清水徹 『書物としての都市 都市としての書物』








































































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宮川淳 『引用の織物』

「人間が意味を生産するのは無からではない。それはまさしくブリコラージュ、すでに本来の意味あるいは機能を与えられているものの引用からつねに余分の意味をつくり出すプラクシスなのだ。」
(宮川淳 「引用について」 より)


宮川淳 
『引用の織物』


筑摩書房 1975年3月20日初版第1刷発行/1980年1月30日初版第2刷発行
219p 目次3p 初出一覧1p 
四六判 角背クロス装上製本 機械函 
定価1,700円



宮川淳(みやかわ・あつし)の著書は『鏡・空間・イマージュ』(1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(1974年)、『引用の織物』(1975年)、『美術史とその言説(ディスクール)』(1978年)の四冊。


宮川淳 引用の織物


函表文:

「だがなぜ引用なのか。引用について考えること、それは読むことについて考えはじめることだ。読むとはアルケー、一なる全体、《本》へ送りとどけられることではない。それは逆に還元不能な複数性、くりかえしと差異について考えることだろう。」


函裏文:

「本の存在理由はそこに閉じ込められた意味の亡霊にではなく、本の空間にあるべきではないだろうか。鳥の羽のように折りたたまれ、本を開くことによって象徴的にくりひろげられる空間……そのとき、憑きまとう意味の亡霊から解き放されて、すでに別の軽やかな意味作用へ、あの「ほとんど振動性の消滅」へと向ってすべりはじめるのでないならば、ここに拾い集められたこれらの過去の断片にとって、本とは苦痛以外のものではないだろう。」


目次 (初出):

記憶と現在――戦後アメリカ美術の《プロテスタンティズム》について (「季刊芸術」 8号 1969年1月)
ボードレール再読――「現代生活の画家」をめぐって (「ユリイカ」 1973年5月臨時増刊号 「総特集ボードレール」)
           □
鏡の街のアリス*   見る――ウイリアム・コプリ (「みづゑ」 1969年12月号)
          **すべる――アレン・ジョーンズ (「みづゑ」 1970年3月号)
          *** 迷う――ロナルド・B・キタイ (「みづゑ」 1969年10月号)
引用について (「現代の美術」別巻「現代美術の思想」 1972年5月)
           □
ジャック・デリダと鏡の暴力 (「SD」 1969年6月号)
表面について――ルイス・キャロル (「別冊現代詩手帖」 2号 「ルイス・キャロル」 1972年6月)
回転ドア――マン・レイによる主題と変奏 (「gq」4号 1973年8月)
言語の結晶学――『漆あるいは水晶狂い』をめぐって (現代詩文庫 「渋沢孝輔詩集」 1971年7月)
           □
顔と声の主題による引用の織物――『期待・忘却』をめぐって (「パイデイア」 7号 1970年3月)




◆本書より◆


「鏡の街のアリス* 見る」より:

「コレクションとは、ここでは、《作品》を所有することではなく、《イメージ》を所有すること、いやむしろイメージによって所有されることにほかならない。
 そして、イメージによって所有されることとは、より深く、エデンないし反世界への欲望、自由への欲望ではなくてなんであるだろうか。」



「引用について」より:

「引用はすでに二十世紀前半のもっとも重要な方法的原理のひとつではなかっただろうか。しかし、そこで強調されていたものがいわばディアクロニックな軸ないし歴史意識であり、その彼方に、一冊の《本》であったとすれば、今日、引用のメタファーがあらわれるのはなによりも《本》の廃墟ないしパロディーとしてであり、そこで強調されているのは引用のサンクロニックな構造である。その意味でもっとも象徴的なのは、レヴィ=ストロースが神話的思考を説明するのに用いたブリコラージュの比喩だろう。」

「しかしレヴィ=ストロースがこの比喩で強調しているのは、なによりもブリコラージュを形づくるちぐはぐな総体――いわばシニフィアンとシニフィエとの間の不整合な関係(この不整合はレヴィ=ストロースにとって構造の概念に本質的なものであり、それのみが構造の変換を可能にする)であり、それがある計画によって規定されるのではないこと、したがって全体化(分析と綜合)とは別の原理の存在である。いいかえれば、部分が全体の中で正当化され、全体の中で意味を見出すのではなく、逆に《多をひとつの全体にまとめることをしない、それらのきわめて独自な統一》――まさしくジル・ドゥルーズをして弁証法に対して、《隣接性》、《斜線》、そして《機械》を対置させる原理ではないだろうか(だが、この《機械》はなんとデュシャンの《独身者の機械》を想わせることだろう)。」



「表面について」より:

「だが表面とはなにか。それは存在のあらゆるカテゴリーをのがれるなにものかではないだろうか。表面は存在論の文脈から脱けおちる、それは、表面が、ほとんど定義によって、存在論の対象となりえないからだ。表面は厚みをもたず、どんな背後にも送りとどけず(なぜならその背後もまた表面だから)、あらゆる深さをはぐらかす――そのとき、ひとは軽蔑をこめて表面的と形容するだろう。」

「鏡、あるいはこの底なしの深さのなさ(引用者注: 「深さのなさ」に傍点)。それが鏡の中に入ることをひとに夢みさせるのだ。そして鏡の中で、ひとは無限に表面にいる。われわれは決して奥にまで達することはできない。」




































































宮川淳 『鏡・空間・イマージュ』

「素朴画家たちにとって、事物はそれが眼に見えるものであるから見られるのではない。たとえ眼に見えない事物、存在しない事物であっても、それらが彼らによって見られることを要求するからこそ、彼らはそれを描く。そのとき、彼らはイマージュをなにものかのイマージュとしてではなく、すでにイマージュそれ自体のために描いているというべきだろう。」
(宮川淳 「顔について」 より)


宮川淳 
『鏡・空間・イマージュ』

風の薔薇叢書

発行: 書肆風の薔薇
発売: 白馬書房 
1987年2月10日 印刷
1987年2月20日 発行
211p 別丁図版24p 
四六判 並装 
本体カバー 機械函 
定価2,500円
装幀: 中山銀士



初版は1967年、美術出版社より刊行。本書はその新装版。
モノクロ図版23点、装画(藤松博)4点。


本書「あとがき」より:
 
「このエセー集で扱われている対象はかならずしも美術のみには限られていない。また美術の問題が論じられている場合でも、ぼく自身としては美術評論と看做されることも、しかしまた、いわゆる〈文学〉というふうにいわれることも好まない。むしろ、単純に〈言語〉とでも呼んでもらえれば幸いである。文学作品にふれている場合も同様である。ぼくの関心はジャンルの区別をこえて、いやさらには芸術をも思想をもすべて含めて、次第に現代のイマジネールの構造そのものに向っているのだから。〈鏡〉の主題もまたそこから生まれている。
 この本には、新たに書き下ろした「鏡について」(ただし、執筆の過程で一、二の断章を未定稿のまま発表したが)を中心に、これまで(一九六三―六六年)さまざまな機会に書かれた文章を集め、終章として「出口について」を新しく書き加えた。旧稿は再録にあたって、多かれ少なかれ手を加えたが、その大半は『別冊みづゑ』に発表されたものである。」



「著者について
宮川淳(みやかわあつし)
1933年、東京に生まれ、1977年、東京に没した。専攻、美学、美術史。」



宮川淳の単行本は『鏡・空間・イマージュ』(1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(1974年)、『引用の織物』(1975年)、『美術史とその言説(ディスクール)』(1978年)の四冊。 


宮川淳 鏡 空間 イマージュ1


帯文:
 
「《似ていること》の魅惑と危険

宮川淳は、鏡のおもて、その「底なしの深さのなさ」に向かって降りていく。自己でも他者でもないもの、いやむしろ、〈私〉であると同時に〈私〉でないもの、この中性のシミュラクルの出現、「自己同一性の間隙からのある非人称の出現」に立ち会うために。
浅田彰

二十世紀芸術のあらゆるジャンルにおける冒険をつきうごかしてきた精神のベクトルを、宮川淳はたったひとこと「鏡」のイメージをもって、いちはやくとらえつくしてみせた。
この本がはじめて世にあらわれてから、すでに二十年がすぎた。しかし、そのあいだにぼくたちの精神は、この本が予見し、到達した地点をどれだけ越ええただろうか。
中沢新一」



帯背:
 
「真冬の思考」


カバー文:

「鏡のなか――そこにいるのはわたしだろうか。
だが、そこではわたしのどのような行為もイニシアチヴを失い、なにごとをも
はじめえないだろう。わたしが断定するとき、すでにそこには
同じ断定が先取りされていて、わたしの断定がわたしのものであることを
蝕んでしまうだろう。このコギトの崩壊。
わたしは見ているが、それはもはや、わたしの見ることの
可能性によってではなく、ある非人称的な見ないことの不可能性によってなのだ。
そこにいるのはだれか。そして、だれが語っているのか。」



カバー裏文:

「宮川淳はやさしい声をしている。いや、声ばかりではない。
かれはじつにやさしい男だ。ところが、かれの書くエッセイには、情感のなまな
湧出はまったく見られない。その文体はあくまでも知的で、しかも、
端正な緩徐調といったリズムゆえに冷たさとは無縁である。おそらくここに
宮川淳の秘密がある。感性的なものを知性によって透明化しながら同時に
論理の展開そのものにおいて感性のフォルムを伝える――そういう過程で、かれは
しばしば驚くべき思考の冒険を試みる。ある作品に触れたかれが、
数日間沈黙していたあとで、突然、淡々とした口調で眼を見はるような解明を
語りだすのを、ぼくは何度も経験したものだ。かれがいま鏡に憑かれながら、
イマジネールなものの構造を究めようとしているというのは、
まさしくかれの本質的な主題に突入したことを意味しよう。(1967.3)
清水徹」



目次:
 
A
鏡について

B
神話について ギュスターヴ・モロー
街について ベル・エポックのポスター
顔について 素朴画家たち
鳥について ジョルジュ・ブラック
夜について ホアン・ミロ
訪れについて 三岸好太郎と佐伯祐三
眼について アンドレ・ブルトン
ランプについて イヴ・ボンヌフォア
出口について 清岡卓行

あとがき



宮川淳 鏡 空間 イマージュ2



◆本書より◆


「鏡について *」より:

「ポール・エリュアールは書く。
 
  そして ぼくはぼくの鏡のなかに降りる
  死者がその開かれた墓に降りてゆくように
 
 コクトオのオルフェもまた鏡をとおりぬけて冥府に降りてゆく。そして、なによりもわれわれは鏡のなかに落ちることをおそれるのだ。
 鏡のなか、鏡の底――この表現は、しかし、どこから生まれてくるのだろうか。鏡の背後に水のイマージュがあり、そして、そこにひとりの若者が自分の姿を映している……いや、ナルシスの神話でさえ、逆にこのような表現を生み出したイマジネールに根づいてこそ、成立しえたのではないだろうか。
 想像力が鏡を夢みるのは決してその表面の反映のためではない。その反映が抗いがたく鏡の底を夢みさせるのだ。そこから鏡のすべての魅惑とすべての危険が同時に生まれる。
 平面である鏡がなお深みをもち、ひとつの空間でありうること、想像力にとって、鏡の主題はそこにしかありえないのである。そしてこれこそが、日用品でありながら、鏡が特権的な地位を与えられてきた理由だろう。
 
 落ちる、鏡のなかに落ちる……
 だが、われわれはどこに落ちるのか。鏡の空間はどこにあるのか。われわれはどこにいるのだろうか。それはここではない、とはいえ、他処でもない。どこでもない? とすれば、しかし、それはそのとき、どこでもないところがここであり、ここがどこでもないところであるからなのだ。ここ、この現実の空間に重ね合わされ、それを蝕んでしまうもうひとつの曖昧な空間。ここであり、しかも、どこでもないところ。この空間はなお距離であるとしても、しかし、その距離はしたがって、決してのりこえることはできないだろう。そこから魅惑が生まれる。
 距離は見ることの可能性である。見ることが可能になるためには、わたしと対象との間に距離を必要とする。」

「この見ることをやめることのできない眼、閉じることを忘れてしまった眼が見ているもの、それはまさしく鏡に映っているもの、対象そのものではもはやなく、イマージュ、すでにそれ自体イマージュと化してしまった対象でなくてなんだろうか。
 いや、すでに鏡がそれ自体イマージュと化した空間だろう。それゆえにこそ、この距離は横切ってゆくことができない。鏡のなか、それはイマージュの魅惑の体験なのだ。そして魅惑そのものが鏡の危険な魔力にほかならない。鏡のなかに落ちる。だが、われわれはどこに落ちるのか。イマージュの空間、それ自体イマージュと化した空間。われわれがそこから排除され、近づくことのできないこの純粋な外面の輝き、鏡。」



「鏡について *******」より:

「今日の芸術の曖昧性はつぎのように要約できるだろう――芸術は、一方において、いよいよわれわれの日常の行為とえらぶところのない無名性にまで達しながら、にもかかわらず、他方において、ついになにものにも還元することのできないなにものかとして残らざるをえないのだ、しかし、光の透明さのなかの黒い影のように。」

「芸術はもはや可能性としては成立しえない。しかも、それは芸術の終末を意味しないのだ。逆に芸術はいよいよその影をあらわす(引用者注: 「その影をあらわす」に傍点)。影――もはや存在することの可能性ではなく、存在しないことの不可能性。それは不可能性そのものの現前であり、その体験にほかならない。
 不可能性の現前、不可能性の体験と化した芸術、しかし、それは決してなんらかの挫折を意味するものではない。それは不可能性がそこでは、可能性の単なる逆、純粋にネガティヴな様態ではなく、逆にひとつの肯定形としてあらわれる、ある非人称的な領域にかかわる根源的な体験なのだ。不可能であるのは、そこではそのような根源的な不可能性そのものが自らを語ろうと試みるからであり、非人称的であるのは、そこではもはやわたし(引用者注: 「わたし」に傍点)という力が失われるからだ。鏡のなか――なぜなら、そこにいるのはわたしだろうか。だが、そこではわたしのどのような行為もイニシアチヴを失い、なにごとをもはじめえないだろう。わたしが断定するとき、すでにそこには同じ断定が先取りされていて、わたしの断定がわたしのものであることを蝕んでしまうだろう。このコギトの崩壊。わたしは見ているが、それはもはや、わたしの(引用者注: 「わたしの」に傍点)見ることの可能性によってではなく、ある非人称的な見ないことの不可能性によってなのだ。そこにいるのはだれか
 そして、そこでは言語もまたおしゃべりと化す。それはもはや、わたしがわたしとして他者に語りかけるもの、わたしのうちにはじまり、あなたのうちに達して終るこの橋、意味のコミュニケーションではなく、わたしのそとで、それ自体においてくりひろげられてゆく言語であり、くりひろげられた純粋な外面なのだ。そこ、わたしの消滅のうちにあらわれるのは、それ自体における言語の非人称的な存在にほかならない。だが、そのとき、そこにいるのはだれか、そして、だれが語っているのか。」





こちらもご参照下さい:

多田智満子 『鏡のテオーリア』
川崎寿彦 『鏡のマニエリスム』 (研究社選書)
由水常雄 『鏡の魔術』 (中公文庫)
谷川渥 『鏡と皮膚 ― 芸術のミュトロギア』




Kraftwerk - The Hall of Mirrors



























































































































































宮川淳 『美術史とその言説』

「(だから、ぼくとしてはこれは自分の本ではなく、かといって君の本でもなく、むしろ〈だれ(ペルソンヌ)のものでもない〉本、すでにディスクールの無名性に属したものとなってあらわれることをのぞんでいる。)」
(宮川淳 「阿部良雄との往復書簡」 より)


宮川淳 
『美術史とその言説』


水声社 2002年11月11日第1版第1刷印刷/同22日発行
373p 目次3p 図版目録4p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,800円+税
装幀: 戸田ツトム



『美術史とその言説(ディスクール)』初版は宮川淳没後、1978年に中央公論社から刊行されました。本書はその新装版です。
本文中図版(モノクロ)多数。


本書「書誌」より:
 
「本書は、一九六一年から一九七四年にかけての十四年の間に、著者が雑誌に発表したもの、およびさまざまな「美術全集」のために書いたもので、原則として、この間に刊行された著者の三冊の著書に収録されなかった文章を収録している。(中略)ただ、最終章の「ボードレール再読」のみは、すでに『引用の織物』に収録された文章であるが、『引用の織物』収録の際に若干の個所が書き改められているのに対して、本書では雑誌発表のまま収録した。」
「本書の後半部をなす、「美術史とその言説をめぐる阿部良雄との往復書簡」は、著者の要請に阿部良雄氏が応じて、本書のためにとり交わされたものである。」

 

「書誌」末尾に、宮川淳による小文「現代と近代」(人文書院版 『ボードレール全集』 4 「月報」 1964年)および「アンリ・マチス 豪奢と静けさと官能のよろこび」(『ファブリ世界名画集』 45 平凡社、1970年)が追加収録されています。

宮川淳の単行本は『鏡・空間・イマージュ』(1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(1974年)、『引用の織物』(1975年)、『美術史とその言説(ディスクール)』(1978年)の四冊。


宮川淳 美術史とその言説1


目次 (初出):
 
I
絵画における近代とはなにか (「美術手帖」 1962年1月号)
アンフォルメル以後 (「美術手帖」 1963年5月号)
 
II
セザンヌとスーラ (美術出版社刊「現代絵画」2『セザンヌとスーラ――形態の追求』 1961年6月)
ヴァン・ゴッホ (社会思想社刊「近代世界美術全集」(現代教養文庫版)第四巻『ゴッホ、ゴーガンとその周辺』 1963年)
象徴派 (同上)
新印象主義 (同第三巻『セザンヌ、ルノワール、ルドン』 1964年)
 
III
ジョルジュ・スーラ (中央公論社版「世界の名画」19『スーラと新印象派』 1972年)
ポール・シニャック (『ファブリ世界名画集』91 平凡社、1972年)
マティスと世紀末芸術 (「季刊芸術」 1968年秋季号)
アンリ・ルソー (集英社版『現代世界美術全集』10『ルドン/ルソー』 1971年/原題: 「作家論 ルソー像とその作品」)
 
IV
ポール・ゴーギャン (『新潮美術文庫』30『ゴーギャン』 1974年)
ギュスタヴ・モロー (「ちくま」 1973年6月号/原題: 「スタロバンスキーの余白に――モローをめぐる引用と注」)
ボードレール再読 (「ユリイカ 総特集ボードレール」 1973年5月臨時増刊号)
 
美術史とその言説(ディスクール)をめぐる阿部良雄との往復書簡
 
書誌
あとがき 宮川陽子

二〇〇二年版へのあとがき 阿部良雄



宮川淳 美術史とその言説2



◆本書より◆
 
 
「アンフォルメル以後」より:

「アンフォルメルがよかれあしかれ、戦後最大の絵画運動でありえたのは、それが、散在的にあらわれた戦後絵画のさまざまな体験(中略)のシステマティクな集約であったからだが、それが、しばしばいわれるように、近代芸術の伝統からの全的断絶であったとして、しかし、否定されたのは、単にそのフォルムのシステム、表現形式、要するに様式概念としての近代だけであったのか。(中略)むしろ、それは、単なる表現の次元をこえて、なによりも表現論の次元における断絶でありえたのであり、あるべきであったのではないだろうか――近代芸術が、近代的自我の小宇宙に対応する表現の自律性において成立したとすれば、本来、手段であるべき表現行為の自己目的化に、しかも、それが表現主体の唯一のアンガジュマンたらざるをえないという逆説において、現代の表現の正当性を賭けたひとつの冒険。
 たとえば、ポロックのドリッピングについて、それがすでにマックス・エルンストによって試みられている、と指摘することはむずかしくはないだろう。しかし、問題は、エルンストにあってはさまざまな他の技法とともに、ひとつの手段としてあったものが、ここでは目的と化しているということであり、しかも、それにもかかわらず、それが無償の行為に陥るのではなく、逆に、ほとんど倫理的といいうるほどの要請にまで転化されているという事実なのだ。
 しかし、アンフォルメルが、単に抽象芸術のアカデミスム化に対する反動という契機において、近代芸術の言語を一挙に否定し、無垢で、完全な表現を求める、いわば「絵画のテロル」としてのみ規定されたとき、そこにはらまれていた現代の真の可能性もまた流産してしまった。(中略)すでに表現行為の自己目的化はだれの眼にも明らかだったはずだが、しかし、それは相変わらず近代のコンテクストの中で、いわば<激情の対決>とうけとられることによって空転し、無償の饒舌と化すほかはなかった。そして、その破産のあとに残されたものは反芸術であった。
 
 最近のいわゆる具象の巻き返しは論外としても、問題はもはや抽象か具象かではありえないことはすでに自明というべきだろう。現代の批評の自己欺瞞が完成するのは、アンフォルメルのこのような失権が、にもかかわらず、抽象の行きづまりにすりかえられるときである。」



「アンリ・ルソー」より:

「ルソーはみずから〈写実派〉をもって任じたが、しかし、彼にとって、事物が見られるのは単にそれが目に見えるものであるからなのではない。むしろ、それが彼によって見られることを要求するからこそなのだ。
 たとえば、しばしば指摘されるように、ルソーにあっては、木の葉は一枚一枚が丹念に描かれ、しばしば葉脈までが描き込まれている。しかし、それはそう信じられがちなように、決して〈見えるとおりにではなく、知っているとおりに描く〉という真実への要求からではないように思える。そうではなく、彼はたとえ現実に見えないものであっても、それが見られることを要求するかぎりにおいて、描くのである。そこにあるのはむしろ愛、イメージの愛であろう。そして、この愛の対象であるかぎりにおいて、遠いものも近いものも、主題も副次的なモティーフも、すべてが対等なのだ。したがって、ここではもはや真実という観念は――しかしまた虚偽という観念も――ありえない。イメージはなにものかのイメージとして、われわれをなんらかの現実に送りとどけるのではなく、逆にちょうど夢の中でのように、イメージがイメージそのものでしかない世界の魅惑へとわれわれを導くのだ。」

























































































宮川淳 『紙片と眼差とのあいだに』

「背後のない表面。のみならず、われわれを決して背後にまで送りとどけることのない表面。われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない。アリスの冒険について、ジル・ドゥルーズがいみじくも指摘しているように、表面の背後はその裏がわ、つまりまたしても表面なのだ。」
(宮川淳 「ルネ・マグリットの余白に」 より)


宮川淳 
『紙片と眼差とのあいだに』

エパーヴ1

小沢書店 1974年3月20日初版発行/1984年2月25日四版発行
86p 引用出典・初出一覧2p 
19×13cm 並装 
定価950円



宮川淳の単行本は『鏡・空間・イマージュ』(1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(1974年)、『引用の織物』(1975年)、『美術史とその言説(ディスクール)』(1978年)の四冊。


清水徹『どこにもない都市 どこにもない書物』「新版のためのあとがき」(2002年6月)より:

「たしか七〇年代のはじめ、彼としゃべっていたとき、薄い本を出したいですね、紙と印刷がよくて、せいぜい百枚から百五十枚くらいの厚さ、新著でも埋もれていた旧著でも入れられる叢書をつくってみたいんですよ、と彼がいつもの冷静で小さな声で言ったことを覚えている。そのころから《引用》と《寄せ集め細工(ブリコラージュ)》の問題への潜入をはじめていた彼は、やがて「エディシオン・エパーヴ」社主の白倉敬彦と一緒に計画した叢書《エパーヴ》の第一巻として、彼がそれまで書いた文章からの切り貼り=寄せ集め細工による著作を出そうと考えるに到った。それが、一九七四年三月に刊行された『紙片と眼差とのあいだに』である」


宮川淳 紙片と眼差とのあいだに


目次:
 
ルネ・マグリットの余白に
レヴィ=ストロースの余白に
スーザン・ソンタグの余白に
マルセル・デュシャンの余白に
《想像の美術館》の余白に
ミシェル・フーコーの余白に
記号学の余白に
ジル・ドゥルーズの余白に



初出一覧:
 
現代の図像学――ポップ・アート断章 『美術手帖』 1967.10
手の失権 『美術手帖』 1969.2
絵を見ることへの問い 『美術手帖』 1969.9
引用について――ロナルド・B・キタイ 『みづゑ』 1969.10
ナンセンス詩人の肖像の余白に――ファール・シュトレーム 『みづゑ』 1969.11
異説・キャンプについての覚書――デヴィッド・ホクニー 『みづゑ』 1970.1
続・引用について――リチャード・ハミルトン 『みづゑ』 1970.2
ルネ・マグリット、あるいは表面の発見 『みづゑ』 1971.5
引用について 『現代美術の思想』(講談社『現代の美術』別巻) 1972.5
ジル・ドゥルーズの余白に 『現代詩手帖別冊』 1972.6
美術季評 『季刊芸術』 1972
見ることの記号学 I-IV 『日本読書新聞』 1972.5~8




◆本書より◆


「レヴィ=ストロースの余白に」より:
 
「引用あるいは《本》の失綜。
 
 ――われわれは一冊の本を読み、それを注釈する。注釈しながら、われわれはこの本がそれ自体ひとつの注釈であり、この本が送りとどける他の何冊かの本を本にしたものでしかないことに気づく。われわれの注釈はといえば、われわれはそれを書き、それを著作の地位にまで高める。公けにされ、公けのものとなって、こんどはそれが注釈を惹きつける番だ、つぎにはその注釈が……*

 《本》とはつねにすでに(引用者注: 「つねにすでに」に傍点)引用であるとしたら? とはいえ、ここで問題になっているのはいわゆる影響源ではない。後者はつねに絶対的なはじまり、テクスト・オリジナルあるいは先在敵シニフィエにさかのぼろうとする。引用について考えること、それは逆に《根源(アルケー)》の不在について、シニフィアンの無限のたわむれについて考えることだ。あるシニフィアンがひとつのシニフィエに送りとどける、だが、それはもうひとつのシニフィアンでしかなく、さらに別のシニフィアンに送りとどけるだろう。この鏡のたわむれをのがれうるような超越的なシニフィエはない。

 《本》の不在とは単に《本》が存在しない(いいかえれば、かつて存在し、あるいはやがて存在するだろう)ことではなく、おそらく不在ないし空位が《本》のあらわれる様態であることなのだ。ない本(引用者注: 「ない本」に傍点)、あるいは《本》のオプセッション。《本》のオプセッションとはマラルメ以来、不在のモチーフにおいてあらわれる《本》の観念ではなかっただろうか。そしてそれが今日の引用を引用たらしめる。」

* M. Blanchot: Pont du bois (ENTRETIEN INFINI)



「《想像の美術館》の余白に」より:

「いわゆる《作品》を成り立たせるもの、それは作品の背後に(引用者注: 「背後に」に傍点)あるなにものか(超越的なシニフィエ)ではなく、その手前に(引用者注: 「手前に」に傍点)形作られる見ることの厚み(シニフィアンの運動)なのだ。複製メディアが明かし、かつ(同時に)もっともよく体現するのはこのような構造であるように思われる。」


「記号学の余白に」より:

「作家もまた無から、あるいはただ自然に汲むことによって制作するのではないだろう。彼もまた、すでに(引用者注: 「すでに」に傍点)このシステムないしディスクールの中にいることによって作家になるのであり、彼の作品とはそれ自体、すでにひとつのテクストである。このテクスチュエルな関係もまた――創造/享受との対比において――まさしく引用として捉えることができるだろう。」

「《作品》を成立させる構造がつねに背後あるいは深さ(引用者注: 「背後」「深さ」に傍点)であり、シニフィエの超越的な先在性であったとすれば、テクストのそれはシニフィアンの無限の送りとどけが織りなすテクスチャー、あるいは表面である。」

「読むとき、われわれは単に一冊の本を読んでいるのではないだろう。そこには同時に複数の読むこと(過去の、しかしまた未来の)が参加しているのであり、そこではすでにひとつのテクストが書かれている。」































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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