西郷信綱 『梁塵秘抄』 (ちくま文庫)

「古様から今様を区別するもう一つの目じるしは、公の儀式とのかかわりが今様にはなかった点である。(中略)これは今様が民間から出ただけでなく、質的に小歌としての民間性をずっと持ち続けたことを示すものである。」
「現にそれを管理し伝承していたのは、主として遊女や傀儡子(くぐつ)らであった。」

(西郷信綱 『梁塵秘抄』 より)


西郷信綱 
『梁塵秘抄』

ちくま文庫 さ-6-1

筑摩書房 1990年10月30日第1刷発行
236p 
文庫判 並装 カバー 
定価600円(本体583円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: 門坂流

「この作品は一九七六年三月一〇日、筑摩書房より「日本詩人選」22として刊行された。」



本文中図版(モノクロ)4点(「梁塵秘抄原本(和田本)」「端舟に乗る遊女(法然上人絵伝)」「独楽廻し(慕帰絵詞)」「鵜飼(一遍上人絵伝・村田泥牛模写)」)。


西郷信綱 梁塵秘抄


帯文:

「遊びをせんとや生れけむ
今宵の宿は花のかげ、明日はいずこの空の下。歌い舞う人のこころのたおやかさ。」



カバー裏文:

「歌と舞いを生業として諸国をめぐる女たち。彼女たちが歌い伝えた《はやり歌》――今様。これを後白河院が編んだものが「梁塵秘抄」だ。遊びの歌、男女の歌、日常の喜びや悲しみの歌……。思いをいかにも生き生きと、リズミカルに表現する歌の数々は、平安の人の心を、今の世にまっすぐに伝えている。」


目次:

第一部 梁塵秘抄の歌
 一 我を頼めて来ぬ男
 二 遊びをせんとや生れけむ
 三 遊女(あそび)の好むもの
 四 楠葉(くすは)の御牧(みまき)の土器作り
 五 我が子は十余に成りぬらん
 六 我が子は二十(はたち)に成りぬらん
 七 舞へ舞へ蝸牛(かたつぶり)
 八 いざれ独楽(こまつぶり)
 九 茨小木(うばらこぎ)の下にこそ
 十 頭(かうべ)に遊ぶは頭虱(かしらじらみ)
 十一 鵜飼はいとをしや
 十二 択食魚(つはりな)に牡蠣もがな
 十三 吹く風に消息(せうそく)をだに
 十四 熊野へ参らむと思へども
 十五 仏は常にいませども
 十六 拾遺梁塵秘抄歌

第二部 梁塵秘抄覚え書
 一 梁塵秘抄における言葉と音楽
 二 遊女、傀儡子、後白河院

付 
 和泉式部と敬愛の祭
 神楽の夜――「早歌」について

あとがき (1975年10月)
梁塵秘抄歌首句索引

解説 言葉の魔法 (俵万智)




◆本書より◆


「我が子は二十(はたち)に成りぬらん」より:

「我が子は二十(はたち)に成りぬらん 博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ
国々の博党(ばくたう)に さすが子なれば憎かなし
負かいたまふな 王子(わうじ)の住吉西の宮」

「バクチはバクウチの約で、博奕だけでなくそれを職とする博徒をもいう。(中略)したがってバクチウチは一種の重言である。博徒をヤクザと称するが、これも賽の目の八九三に由来する語らしい。」
「バクチは国禁の遊びであった。(中略)大陸伝来のこの新しい遊戯は人の心をとろかす魔力を持っていたらしく、早くも持統紀に双六を禁断し、文武紀には「博戯遊手之徒」を禁ずとある。」
「「さすが子なれば憎かなし」は古今同じとしても、次に「負かいたまふな、王子の住吉西の宮」とあるのに注目したい。」
「大事なのは、住吉や西の宮が遊女や傀儡子と因縁浅からぬ神であった点だ。そういう神に、「負かいたまふな」と頼みこんでいるのが、ぐれた息子を歎くただの親と素姓を異にするのは明らかである。
 「負かい」は「負かし」の音便だが、この場合、「負かいたまふな」の口頭性が「負かしたまふな」のおも正しさにまさるこというまでもない。」



「頭に遊ぶは頭虱」より:

「頭(かうべ)に遊ぶは頭虱(かしらじらみ)
項(をなじ)の窪(くぼ)をぞ極めて食ふ
櫛の歯より天降(あまくだ)る
麻小笥(をごけ)の蓋にて命(めい)終る」

「陰毛中に巣くうツビジラミにたいし、頭の髪にいるやつをカシラジラミといったのだろう。それにしてもそれを「頭(かうべ)に遊ぶ(引用者注: 「遊ぶ」に傍点)と歌っているのが心憎い。むろん、もぞもぞ動きまわっているということだが、そこには人間とシラミとの永い歴史的友情が感じとれる。」



「遊女、傀儡子、後白河院」より:

「梁塵秘抄に遊女の口の端にかかったとおぼしき歌が相当数あること、それがまた梁塵秘抄の歌風を独自なものにしていることはすでに見てきたところだが、さて肝腎なのは、遊女の歴史と梁塵秘抄とがどこでどう交わっているかにある。
 まず確実にいえるのは、遊女すなわち売笑婦ではなかったことだ。(中略)遊女は、アソビつまり歌舞を表芸にする妓女であり、遊女がアソビとかアソビメとか呼ばれるのも、声うるわしく歌をうたうからであった。」
「職人歌合に絵師とか細工師とか楽人とかと並んで遊女が顔を出しているのは、遊女もまた歌をうたうことを業とする「職人」と目されていたからだろう。そして職人である以上、(中略)その芸は(中略)やはり相伝と習得の過程を経たものであっただろう。」
「前に「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん」というのは生れながらの遊女の口吻に違いあるまいと説いたが、(中略)「遊ぶ子供の声」を聞いて「我が身さへこそゆるがるれ」といざなわれるのも、遊女にとって歌をうたうことが、かく天与の業であったからであろう。」
「もっとも、徂徠にならってこれを果して「種姓」と呼んでいいかどうかには疑問が残る。古代の遊女はいわゆる編戸の民ではなく、律令制の枠の外に生きる流浪の民であったからだ。
 大江匡房の傀儡子記(中略)には、男は弓馬を使って狩猟をこととし、あるいはさまざまの幻術をやったり木偶を舞わしたりする、女は化粧をこらして歌をうたい淫を売ったとある。この傀儡子(くぐつ)の何たるかは日本文化史のもっとも不透明な部分にぞくしており、(中略)まだ定説を見ない。しかし梁塵秘抄にかんするかぎり、(中略)それがジプシーに似た漂泊民であったこと、クグツ女がすなわち遊女であったらしいということで、今のところ私には充分である。」
「そうかといって、クグツはただふらふらと流れ歩いていたわけではない。(中略)その漂泊の本質は、彼らが農耕の民でなく、官僚的支配の外側に生き、課役なき生活を営んでいたことにある。(中略)私が徂徠のいう「種姓」云々に疑問をさしはさむのも、クグツは「団左衛門(非人取締役)ノ支配」などとは縁のない、体制外の非編戸の民であったからで、同じく「賤しき者」であるにしても、官僚的支配の内側にあるか外側にあるかで、その意味は大きく違ってくるはずである。
 古代の律令制国家が、貢租を納めぬ浮浪遊手の徒を取締ることにいかに熱心であったかを示す資料は数々ある。(中略)国家は浮浪人の存在を公然とは許さないのである。(中略)浮浪者を定住させ課税の新たな対象にしようとする政治の意志が(中略)ありありと伺える。」
「折口信夫『古代研究』はウカレビトに的をしぼって文学の発生を説こうとしている。ウカレビトを典型化すれば巡遊詩人ということになるが、とにかく文学の発生――文学は共同体の外側に発生する――がこれらウカレビトを除外して考えられぬのは確かで、遊女もその一端につらなっていたであろう。」
「「平安時代の遊女クグツは、(中略)人に飼われている籠の鳥ではない。天下を放浪する自由なからだである」と法制史家はいう。つまりウカレビトの多くは編戸の民に組みこまれたにたいし、遊女はアウトサイダーとして残ったわけだ。」

「卑賤なものの歌は、勅撰集では読人しらずとするのが故実なのに、遊女はその名を記されている。遊女は身分を超越した非社会(引用者注: 「非社会」に傍点)のもの、当時の用語でいえば非人(引用者注: 「非人」に傍点)であり、そういうものとして歌との間に特殊な因縁があると目されていたのではなかろうか。
 遊女の間には歌はなお口誦伝統として生き続けていたから、彼らは和歌を作ることにも堪能でありえた。(中略)だがいうまでもなく遊女の本領は歌を作るより、歌をうたうことの方に存した。そして彼らのうたう歌が今様として新たな旋律をひびかせるにつれ、それは宮廷世界の奥にまで入りこみ、ついに後白河院をすっかり虜にしてしまったのだ。そのありさまは前に記した通りだが、これは、いよいよ土壇場にきた貴族文化の危機の表現以外の何ものでもない。
 なかんずく注目されるのは、彼が遊女乙前と師弟の契りを結び、乙前に局(つぼね)まで与え、今様のあれこれの曲を習い覚えたとみずから語っている(口伝集巻十)、その打ちこみ様である。このとき乙前はもう七十二の老嫗、今様の時代はもう過ぎ去ろうとしていたと見える。そのことが執心をいっそう募らせもしたのだろうが、とにかくこの人物の今様好みがいかに度外れなものであったか分る。遊女と宮廷との間に独自のチャンネルが伝統的にあったにしろ、ここには一種狂気のごときものがひそむと考えていい。ちなみに乙前が召されたのは、例の保元の乱の翌年にあたっている。
 兼実の日記玉葉の寿永三年三月十六日の条に、後白河院のことを次のように評している。「大外記頼業来ル。文談刻ヲ移ス。此ノ次(ツイデ)に語テ云フ、先年通憲法法師語テ云フ、当今(法皇ヲ謂フナリ)、和漢ノ間比類少キ暗主ナリ、謀叛ノ臣傍ニ在レド、一切覚悟ノ御心無シ、人コレヲ悟ラセ奉ルト雖モ、猶以テ覚ラズ。此クノ如キ愚昧、古今未見未聞ナルモノナリ。但シ其ノ徳二ツ有リ。若シ叡心果シ遂ゲント欲スル事有ラバ、敢テ人ノ制法ニ拘ラズ、必ズ之ヲ遂グ(此ノ条、賢主ニ於テハ大失タリ、今愚昧ノ余リ、之ヲ以テ徳ト為ス、)。次ニ自ラ聞シメシ置ク所ノ事、殊ニ御忘却無シ、年月遷ルト雖モ心底ニ忘レ給ハズ。此ノ両事徳ト為ス云々」(原漢文)。」
「後白河院が何かやりたいことがあると人の意見などおかまいなく必ずこれをやりとげるという性格の持主であり、したがって儒教的な意味で「比類無キ暗主」であったことは疑えない。今様にうつつをぬかし、遊女と師弟の契りを結んでこれに放蕩するといった逸脱ぶりも、そうした性向のあらわれである。」
「さて、我意を通す後白河のやりかたを、玉葉が「賢主ニ於テハ大失タリ」と注しているのは興味ふかい。延喜・天暦の治を見本とする律令制的「賢主」の時代は、もうとっくに終っていた。院政じたい、法と機構によってではなく君主の恣意によって旧体制の枠を維持しようとする危機的・専制的な政治形態であったはずで、その点、後白河は院政そのものの化身のごとき性格の持主であった。「暗主」であることが、むしろ院政を担当する君主の本質であるといってもよく、そしてここに梁塵秘抄という今様集が彼の手に成るのである。」
「乙前八十四歳という春、命旦明に迫ったのを聞き後白河はその病床を見舞い、法華経一巻を誦した後、

  像法転じては 薬師の誓ひぞ頼もしき
  ひと度(たび)御名を聞く人は 万の病なしとぞいふ

という今様をみずから歌って聞かせた。すると乙前は「これを承り候て、命も生き候(さぶらひ)ぬらん」、と手をすって喜び泣いたと見える(口伝集巻十)。沒後にも、あつくその後世を弔った。転法輪抄には、「為郢曲御師五条尼被修追善表白」と題する後白河院の表白を載せている。(五条尼とはいうまでもなく乙前のことである。)これは「賢主」のよくなしうるところではあるまい。仏を前にしては、尊位といえど今や三界具縛の凡夫であった。「賢主」から「暗主」への道ゆきは、伝統的な意味では腐敗堕落に他ならぬけれど、人としては一つの進化でありうる。頼朝が後白河院を「日本国第一之大天狗」(玉葉)と評したあたりにも、そのしたたかぶりがうかがえる。少くとも、歴とした「賢主」よりは、ずっこけた「暗主」の方に私は奇怪な人間的な興味を覚える。
 梁塵秘抄は、この(引用者注: 「この」に傍点)後白河院の撰であることによって、撰者不詳のたんなる歌謡集であるよりは、いっそう大きな文化的射程を持つといえる。」



「あとがき」より:

「作者不詳の歌謡とねんごろにつきあうのには、特殊な困難がある。そこでは作者・作品・読者によって構成される三角形のうち、確かなのは作品と読者との関係だけであって、作者と作品、作者と読者とを結ぶ二辺は、おぼろにかすんでいる。作者が分っていれば、歌をその生活史や伝記のなかに配置したり、人となりとのかかわりを探ったりしつつ作品に及ぶという手もあるが、そんなずるい(引用者注: 「ずるい」に傍点)やりかたは歌謡には通じない。歌謡にあっては、読者である私たちは、ほとんど無媒介に作品そのものに直面する。べた(引用者注: 「べた」に傍点)に書き流さず、一首一首の前で立ちどまり、そのことばを吟味しながら、できるだけゆっくり作品を享受し経験するという形に第一部をしたてたのは、歌謡のもつこうした性格にふさわしいものがあると考えたのによる。その享受が真に徹底化されるならば、歌の図形のかなたに、民衆の生きた歴史の地平がおのずと浮き出てくるだろう。」

































































































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西郷信綱 『日本の古代語を探る』 (集英社新書)

「儒教的な帝国または一神教的な帝国が組織されるにつれ、地上の霊たちは零落を余儀なくされるか、天上に吸いとられ滅んでゆくかする。そのような帝国の制覇することのなかった古代・中世の日本には、さまざまな古い霊たちが、むろん姿をやつしながらもなお根強く生息し続けてきていたように思う。石の霊もその最たるものの一つである。」
(西郷信綱 「石の魂」 より)


西郷信綱 
『日本の古代語を探る
― 詩学への道』

集英社新書 0284F 

集英社 2005年3月22日第1刷発行/同年5月10日第3刷発行
217p 
新書判 並装 カバー 
定価700円+税
装幀: 原研哉



西郷信綱 日本の古代語を探る1


帯文:

「豊葦原水穂国」とは何か
文字以前の世界に降り立った、古代文学研究の泰斗」



カバーそで文:

「神話学や人類学などの成果を踏まえた広い視野で、『古事記』をはじめとする古代文学研究史に巨大な足跡を残してきた西郷信綱氏。本書には、今なお先鋭でありつづける著者による最新の論考が、数多く収められている。
豊葦原水穂国、木と毛、旅、石、東西南北……、片々たる言葉を手がかりに飛翔した想像力は、字義を辞書的に明らかにするだけでは決して辿りつくことのできない豊饒なる古代世界へと、いつしか読み手を誘ってくれる。遥か遠い時代、文字以前のその場所に、私たちはいかに降り立つことができるのか?」



目次 (初出):

序 言葉について
木は大地の毛であった (「一冊の本」 2002年11月)
「タビ」(旅)という語の由来 (書き下ろし)
筑波山三題 (書き下ろし)
キトラ古墳の「キトラ」について (書き下ろし 原型は1994年頃)
方位のことば(東・西・南・北) (書き下ろし)
芭蕉の一句――「シト」か「バリ」か (『廣末保著作集』 第二巻月報No.6、影書房、1998年9月)
ヲコとヲカシと (『大系 日本歴史と芸能』 第十二巻、平凡社、1990年12月)
禅智内供の鼻の話―説話を読む (「日本文学」 1998年9月)
石の魂―『作庭記』を読んで (「月刊百科」 1986年2月)
「シコ」という語をめぐって――一つの迷走 (書き下ろし)
「豊葦原水穂国」とは何か――その政治的・文化的な意味を問う (「思想」 1999年1月)

あとがき
参考文献
初出一覧

解説 そこに降り立つための詩学 (瀧澤武)



西郷信綱 日本の古代語を探る2



◆本書より◆


「木は大地の毛であった」より:

「スサノヲ……乃(すなは)ち鬚髯(ひげ)を抜きて散(あか)つ。即ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、檜(ひのき)に成る。尻の毛は、是柀(まき)に成る。眉の毛は是櫲樟(くす)に成る。已(すで)にして其の用ゐるべきものを定む。(中略)(神代紀上第八段第五の一書)」
「これはスサノヲの体に生えていたあれこれの毛が、あれこれの木になったという話である。(中略)この話から毛すなわち木であり、つまり木は大地に生えている毛にほかならぬとする思考がここに蔵されているのを知りうる。毛野川のケヌが衣(きぬ)川・鬼怒(きぬ)川のキヌに変じたのは、そこに毛=木というこうした原始的な思考法がまだ失われていなかったせいといってよさそうだ。だが毛野川の、そして毛野国の「毛」がもともと「木」と通じあう語であったのは疑えない。宣長の『古事記伝』にも、「上野(カミツケノノ)国、……名義(ナノココロ)未ダ思ヒ得ず、毛(ケ)は草木を云か」と見える。」



「ヲコとヲカシと」より:

「『新猿楽記』をつらぬく風骨からみても、その作者はたんに正統派の儒者というより「ヲコ」な戯作趣味を多分に有する人物であったらしい。この著作は往来物に分類されるのが普通だけれど、戯作文の祖とすることもできそうである。何れにせよ『新猿楽記』は十一世紀の中ごろ、人を「嗚呼(ああ)」と笑わせる猿楽や「ヲコ」の芸が都を舞台に澎湃(ほうはい)と起こってきていた消息をかたっている。」


「ヲコとヲカシと」補注より:

「・守屋毅『中世芸能の幻像』から、次の一節を拝借して、拙論の欠を補わせていただく。いわく「この「をこ」には、いま一つ大切な意味があった。すなわち、ふとどきなこと、不敵なことをいう場合にも、また同じく「をこ」という表現が用いられたのである。『日葡辞書』の「ヲコノモノ」の項目には、「自由気ままで、専横な、しつけの悪い無法者」という説明がなされているほどであった。ちなみに、中世以降、「をこ」の宛字の一つである「尾籠」を音読みして「びろう」といえば、これは失礼・無礼を意味することともなった。『明月記』建仁二年(一二〇二)八月二十三日の条に「此返事、尾籠極りなし。嗚呼と謂ふべし」とみえるが、この場合、「尾籠」は「びろう」、「嗚呼」は「をこ」と読んだのであり、ともに不敵・無礼を意味していたのである。」」


「禅智内供の鼻の話」より:

「こうした流儀をたんなる語路合わせ、または駄洒落にすぎぬと片づけてしまったら、民間伝承のお家芸である言語遊戯の持つ意味をまんまと取り逃がすことになろう。例えば『出雲風土記』とか『播磨風土記』とかの古風土記は、いわば地名叙事詩であり、ほぼ全篇、国・郡・郷の名の起りにかんする語路合わせ風の説話から成り立っている。それもいわゆる言霊の働きの一端であったのだ。」


「石の魂」より:

「サザレ石がイハホになるという石生長譚ともこの「生ひ石」が無縁でないのは、もとよりである。それは、石や岩が植物のように大地から生じると見たのにもとづいているはずで、イハホにたいしイハネがあり、つまりイハにホ(穂)とネ(根)があるのも、そのへんの消息を語っている。」

「儒教的な帝国または一神教的な帝国が組織されるにつれ、地上の霊たちは零落を余儀なくされるか、天上に吸いとられ滅んでゆくかする。そのような帝国の制覇することのなかった古代・中世の日本には、さまざまな古い霊たちが、むろん姿をやつしながらもなお根強く生息し続けてきていたように思う。石の霊もその最たるものの一つである。」



「「シコ」という語をめぐって」より:

「『万葉集』の歌をたんに文字(引用者注: 「文字」に傍点)芸術として捉え、身体的(引用者注: 「身体的」に傍点)要素がそこで果たしている役割をやりすごしがちであったのが、まずかったといえる。古事記歌謡は劇的な構造を有しており、身体的にそれを表現する傾向がいちじるしい。『万葉集』になるとそうした構造は次第に退化し、いわゆる叙情詩的な趣向が主潮となってくる。そのへんのことは周知の通りである。
 しかし、だからといって『万葉集』を『古今集』と同様、たんなる文字芸術として読んでいいかといえば、必ずしもそうではない。文字以前の口頭性にともなう演技の伝統が、ここですっかり消え去ったわけではないからだ。とりわけ、何かを嘲(あざけ)ったり呪ったりするさいに用いられることの多いこのシコという語には、万葉時代になっても無文字時代の歌謡に固有なダイナミックな身体的要素が、まだつきまとっていたと考える方が正しいだろう。」



「「豊葦原水穂国」とは何か」より:

「唯是康彦氏の次のような発言があるのに出会い、私はいささか胸のとどろくのを押さえることができなかった。いわく「水田というのは、日本の生態系の中でつくられてきたものだと思います。湿地帯でアシが生えていた。そのアシがもっていた生態系が等価要因として米に置き換わった。全然生態系をこわさないで食糧増産ができた。湿地帯が水田になって、雨が降っても洪水を防ぎ、温度を緩和したり、ひとつの意味をもっていた。云々」と。」

「ずばりいって「葦原中国」とは、大国主が国ゆずりするより前の、つまり高天の原から新たな王が降りてくる以前のこの国土を指す。すなわち国ゆずりと天孫降臨とはワンセットをなす物語であり、その「葦原中国」の棟梁が大国主だという図柄になる。大国主という名は、あちこち多くの国主すなわち土豪たちを神話的に収斂し、典型化して作り出されたものにほかならない。(中略)だから大国主の率いる「葦原中国」も、また彼の棲む「出雲」も、ともに神話として構成された、非ユークリッド的空間であることを知らねばなるまい。」

「つまり「豊葦原水穂国」は日本国の古称でも美称でも異称でもなく、この「葦原中国」にそれを支配する王制が新たに開始されることを、まさに高天の原から予告し予祝する神話的な用語に他ならないのである。」

「葦と稲は同じ生態系にぞくするけれど、葦が未開の自然であり混沌であるのにたいし、稲は人の手の栽培になる文化であり秩序であるという対抗関係も同時にそこには存する。こうした二重性を「豊」という祝辞(ほぎこと)でめでたく一語に織りなしたところに、「豊葦原水穂国」という語の独自性はある。この語の用法が『日本書紀』で乱れたのは、「葦原中国」というもののもっていた存在感が時代変化のなかで急に薄れ、あるいは忘却されるに至ったあかしにほかならない。現に『書紀』ではこの「葦原中国」の棟梁である大国主は、ただ国ゆずりするための神へとすっかり矮小化されてしまう。『古事記』が大きく採りあげた例の沼河比売(ぬなかわひめ)求婚の歌謡とか、いわゆる稲羽の裸の兎の話とか、スサノヲの棲む根の国訪問の話なども、そこにはもう語られることがない。高天の原の使者タケミカヅチと争ったタケミナカタも、もとより登場しない。『日本書紀』(引用者注: 「日本」に傍点)という書名の示すように、それは外国を強く意識してものされた書である。(中略)こういう「日本天皇」(『書紀』・公式令)の初代にとって、その正妃が蛇身の子であり云々といった話が、いかに恥ずべき野蛮とされたかわかる。ヤマトタケルについても、厠に入った兄をひっとらえ、手足をぶち折り、薦(こも)につつんで投げすてたと『古事記』に見える話は消え、『書紀』は幼にして「雄畧(をを)しき気」ありと観念上の徳目をあげるのみ。」






































































西郷信綱 『古事記注釈 第四巻』

「大著に警戒せよ、大著にはミリタリズムの臭いがする、というようなことをかつていったことがあるが、この信条は今も変りない。本書は四冊から成りはするがそういう意味での大著では決してなく、各駅停車の鈍行に乗っての長い旅路のメモみたいなものと受けとっていただきたい。」
(西郷信綱 『古事記注釈 第四巻』 より)


西郷信綱 
『古事記注釈 第四巻』


平凡社 1989年9月25日初版第1刷発行
520p 
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価5,562円(本体5,400円)
装幀: 原弘



第一巻「凡例」より:

「一、本書は古事記伝を前提とし、また踏襲している点があるので、対照しやすいよう段節の区切りかたもほぼそれに準じることにした。」
「一、本文も古事記伝を底本とし、真福寺本その他を以て校訂した。」
「一、校注は必要最小限にとどめ、本文の解釈にかかわるものは注釈の条でとりあげた。底本もその他の諸本も誤っていると考えた場合は、私見を以て改めた。」
「一、古事記をどう訓み下すかには未解決の問題が多く、今なおそれは不安定な状態にある。(中略)私はまだ何ら確信らしいものが持てないので、古事記伝の訓みを軸とし、諸家の説によってそれを多少手直しするという程度にとどめた。」



目次:

第三十二 応神天皇(品陀和気命)
 系譜
 三子の分掌
 「この蟹や 何処の蟹」
 髪長比売
第三十三 応神天皇(続)
 吉野の国主の歌
 海を渡ってきた人びと
 大山守命
 「海人なれや、己が物から泣く」
第三十四 応神天皇(続々)
 天之日矛
 天之日矛の系譜
 秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫
 ふたたび応神の系譜について
第三十五 仁徳天皇(大雀命)
 系譜
 墨江の津を定む
 「聖帝」
 イハノヒメの嫉妬
 黒日売のこと
第三十六 仁徳天皇(続)
 八田若郎女のこと
 山代河を上る
 鳥山、口子、口日売
 奇しき虫の話
第三十七 仁徳天皇(続々)
 八田部を定む
 女鳥王と速総別
 山部大楯を死刑に処す
 雁の卵
 枯野という船
第三十八 履中天皇(伊邪本和気命)・反正天皇(水歯別命)
 履中天皇の系譜
 墨江中王の反乱
 隼人ソバカリ
 阿知直のことその他
 反正天皇のこと
第三十九 允恭天皇(男浅津間若子宿禰命)
 系譜その他
 氏姓を正す
 軽太子と軽大郎女の相姦
 軽太子を捕う
 軽太子を伊予に流す
 二人の死
巻四十 安康天皇(穴穂御子)
 大日下王殺さる
 目弱王
 童男(ヲグナ)としての大長谷王(雄略)
 目弱王とツブラオミの死
 市辺之忍歯王殺さる
 王子の逃亡
第四十一 雄略天皇(大長谷若建命)
 系譜
 志幾の大県主の家
 赤猪子の話
 吉野の童女
 アキヅ野
第四十二 雄略天皇(続)
 葛城山の猪
 葛城の一言主神
 金鉏岡
 三重の采女
 天語歌
 豊楽の歌
第四十三 清寧天皇(白髪大倭根子命)から武烈天皇(小長谷若雀命)まで
 清寧天皇(白髪大倭根子命)の系譜
 新室楽
 歌垣
 位を譲りあう
 顕宗天皇
 老女置女
 猪甘の老人
 雄略の墓をあばく
 仁賢天皇
 武烈天皇
第四十四 継体天皇(袁本杼命)から推古天皇(豊御食炊屋比売命)まで
 継体天皇
 安閑天皇
 宣化天皇
 欽明天皇
 敏達天皇
 用明天皇
 崇峻天皇
 推古天皇

後記――〈解釈〉についての覚え書き

系図
参考文献
総目次
 補考一覧
総索引



西郷信綱 古事記注釈



◆本書より◆


「第三十三 応神天皇(続)」より:

「日本列島は一衣帯水を以て大陸に接するとよくいわれるが、このことにどんなに深い意味がかくれているか、必ずしもまだ充分には自覚されていないように思う。たとえば日本列島の位置が小笠原群島あたりにあったとしたらどうか。おそらく十四、五世紀ころまで日本列島は石器時代の無文字社会のままでいたであろう。どこからも文明の波動が伝わってこなかっただろうからだ。(中略)逆にもし日本が海を以てへだてられず大陸とべたに(引用者注: 「べたに」に傍点)陸つづきであったらどうか、という場合を想定してみてもいい。おそらく大陸文化ないし漢字文化の強烈な波に未開段階の列島の文化は滔々と呑みこまれ、古事記はおろか万葉集も源氏物語も成立する見こみはなかったと思われる。価値の問題を云々しているのではない。日本の古代文化がいま見るとおりのものとなったのは、他の要因をしばらくカッコに入れていえば、とにかく大陸文化の諸要素が海をこえてこの列島上に硯滴のごとくしたたり落ち、こちらの条件や必要に応じてそれらを摂取培養しえたことと無縁ではないわけで、いうならばそのきわどさをわたしはハッとするような想いで確認したいまでである。万葉仮名(中略)はむろん、後の仮名文字の発明にしても、中国語をあらわすための文字である漢字を長期にわたり飼いならす(引用者注: 「飼いならす」に傍点)ことによってのみ可能であったのだ。」


「第三十五 仁徳天皇」より:

「古事記が上・中・下三巻から成っているのは、かりそめではなかろう。つまり各巻はそれぞれ性質を異にするのであって、かつて私はそれを、上巻は神々の時代、中巻は英雄の時代、下巻はその子孫の時代の物語であると区分し、その特徴を図示したことがあるが、少し修正してそれを次に再録する。」


西郷信綱 古事記注釈4


「上巻と中巻との間に一つの大きな仕切りがあるのは、誰の目にも明らかである。しかし、それを神の代から人の代への転換と見るだけでは充分でない。古代人の意識では、神々の時代が人間の時代へとじかに接するというような形にはなっておらず、前者を後者に媒介するのが英雄の時代であった。英雄先祖(ヒーロー・アンシスター)とか文化英雄(カルチュア・ヒーロー)とか呼ばれるものは、どの民族にもほとんど普遍的である。神々が世界(引用者注: 「世界」に傍点)を創造したとすれば、これら英雄たちは社会(引用者注: 「社会」に傍点)を作ったといってよく、そしてそれが範疇化されたのが英雄たちの時代にほかならない。いうなれば彼らは半神半人であった。それにたいし人の代らしいものが始まるのは下巻、つまり仁徳以降になってからで、少くとも下巻では神武天皇の如き、また神功皇后の如き半神半人はもう出てこない。」


「後記――〈解釈〉についての覚え書き」より:

「テキストとその読み手とは主体と客体、または主観と対象との関係にあるというより、歴史性につらぬかれた対話的関係にあると見る方がいい。むろん知識や事実も無いがしろにはできぬけれども、読みの変化は、むしろこの対話の中味が歴史的に変わるのにもとづくことの方が大きい。これは、ほとんどあらゆるテキストについていうことができる。つまりテキストの秘める諸力が読み手により、時代によりその示現のしかたを異にするわけだ。さきには読み手がテキストに意味を付与するといったが、それは同じ問題を違う側面から見たまでで、そのこととこれは決して矛盾しない。すなわち、読み手は己れの主観を読みこむことによってではなく、テキストの蔵する潜勢的諸力を新たに汲みとることによって解釈と読みを変えるのである。その点、あるテキストを解読することは、自己じしんを解読することとある程度かさなるところの、一つの歴史的な行為にほかならぬともいえる。
 そしてそれが真実かどうかはたんに事実の整合性にあるよりはむしろ、かつて古事記伝がそうであったように、break-through として思考の新しい次元を拓いているかどうかにかかる。」




◆感想◆

本書全四巻は『古事記』をよむ上での必須文献であるといってよいですが、しかし疑問点や物足りない点も散見されます。著者はその著作において事あるごとに「即自性の天国」すなわち「ひとりよがり」の思い込みや「教科書風」の事大主義、教条主義に陥ることを警戒していますが、それは読者へのお説教かと思ったらそうではなくて、著者自身への自戒のことばであるようです。そしてまた著者は、本居宣長が弟子に、師である自分の説だからといって鵜呑みにせず、おかしなところがあれば忌憚なく批判するよういっていることを褒めているので、われわれ読者もそうしたいと思います。
というわけで、本書にもいろいろ疑問点があるわけですが、たまたま必要があって「目弱王」のくだりを熟読して気になった点を二つばかり指摘しておきたくおもいます。

①「第四十 安康天皇 三 童男(ヲグナ)としての大長谷王」
「穴を掘りて立ち随(ながら)に埋(うづ)みしかば、腰を埋む時に至りて、両(ふた)つ目走り抜けて死にき。」
七歳の目弱王は、母と結婚した安康天皇(穴穂御子)が、目弱王の父(大日下王)の殺害者であることを知り、父の仇なので首を斬って殺し、「ツブラオミ」の家に逃げこんで匿われていました。一方そのころ、安康天皇の弟の大長谷王子は、天皇(兄)が誰かに殺されたのでどうしようかと兄たち(黒日子王と白日子王)に相談しますが、二人とも呑気な煮え切らない態度なので「兄が殺されたのにその態度はなんだ」といって兄二人を殺してしまいます。そのとき、白日子王を生きたまま穴に埋めたところ目玉が飛び出して死んでしまったという話ですが、赤塚不二夫のまんがのようでおもしろいですね。
そこで著者の注釈は以下の通りです。
「穴を掘って立ちながら埋めたので、腰を埋める時に及んで両眼が飛び出して死んだというのだが、ここにもやはり、(中略)ヤマトタケルの振舞を彷彿させる苛烈さがある。ただ、ここに「穴を掘りて」とあるのは、穴穂御子(安康)の「穴」と説話的には関連していると思われる。」
ヤマトタケル云々はともかく、「穴を掘りて」が穴穂御子の「穴」と関連していると指摘するのであれば、「両つ目走り抜けて死にき」の「目」が「目弱王」と関連していることのほうがこの場合重要です。案ずるに、穴に埋める云々は、王を殺した人物(「人天皇を取りつ」の「人」)を確定するための卜占の儀式かもしれないです(実際にそういう儀式があったかどうかはどうでもよいです)。目が走り抜けたことから、目弱王が天皇を殺して逃亡したと解いて、逃亡先は目弱王の臣下のツブラオミの家であるとあたりをつけたと考えれば、次の「亦軍を興してツブラオミの家を囲みたまひき」へのつながりがスムーズになります。

②「第四十 安康天皇 四 目弱王とツブラオミの死」
「然るに其の正身(むさね)、参向(まゐむか)はざる所以(ゆゑ)は、」
そこで、ツブラオミの家を取り囲んで戦闘が始まりましたが、大長谷王子がふと気づいて攻撃を中断し、「もしかして私が妻問いしたカラヒメがこの家にいるのではないか」と聞くと、ツブラオミが出てきて「カラヒメは差し上げますが、「其の正身」はそちらに行くことはできません。王が臣下を匿うならともかく、私のように臣下が王を匿うのは前例がないことなので、勝つ見込みはないですが、しかし目弱王がせっかく頼ってきてくれたのだから、私は死んでもたたかうつもりです」と答え、降参せずに抵抗を続けましたが、結局二人とも死んでしまいます。
そこで著者の注釈は以下の通りです。
「《其の正身》 当の本人。この本人をツブラオミじしんと見る向きもあるが、カラヒメと見る方が、「若し此の家に有りや」の問いに対する応答としては、いっそうふさわしい。」
しかしこれだと、カラヒメが「参向はざる」ことになってしまうのでへんです。ツブラオミが、「カラヒメは侍はむ(差し上げましょう)」といっているように、ここでカラヒメがツブラオミの家から出て大長谷王子の方へ来た(参向った)からこそ、王子は心おきなく攻撃を続けられたわけで、カラヒメも無事に大長谷王子(雄略天皇)の妃になることができたのでありましょう。説話的にはイクメイリビコがサホヒメから子どもを受け取るくだりと同じ構図になっています。





























































































































西郷信綱 『古事記注釈 第三巻』

「古事記がもっぱら民族主義的にまつりあげられてきたのは周知のとおりだけれど、視線や問いかたをもっと冒険的に変えて眺めるならば、これほどインターナショナルな契機が押しあいへしあいしている作も他にあまりないということになりそうである。」
(西郷信綱 『古事記注釈 第三巻』 より)


西郷信綱 
『古事記注釈 第三巻』


平凡社 1988年8月25日初版第1刷発行
449p 折込系図1葉
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価5,562円(本体5,400円)
装幀: 原弘



第一巻「凡例」より:

「一、本書は古事記伝を前提とし、また踏襲している点があるので、対照しやすいよう段節の区切りかたもほぼそれに準じることにした。」
「一、本文も古事記伝を底本とし、真福寺本その他を以て校訂した。」
「一、校注は必要最小限にとどめ、本文の解釈にかかわるものは注釈の条でとりあげた。底本もその他の諸本も誤っていると考えた場合は、私見を以て改めた。」
「一、古事記をどう訓み下すかには未解決の問題が多く、今なおそれは不安定な状態にある。(中略)私はまだ何ら確信らしいものが持てないので、古事記伝の訓みを軸とし、諸家の説によってそれを多少手直しするという程度にとどめた。」



目次:

第十八 神武天皇(神倭伊波礼毘古命)
 日向から東へ
 槁根津日子
 日下の蓼津
 熊野の荒ぶる神
 八咫烏
第十九 神武天皇(続)
 兄うかし・弟うかし
 久米歌
 久米歌(続)
 久米歌(続々)
 邇芸速日命
第二十 神武天皇(続々)
 丹塗矢の話
 伊須気余理比売
 当芸志美美の謀反
 神八井耳の系譜
 ミサザキ
第二十一 綏靖天皇(神沼河命)から開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)まで
 綏靖天皇
 安寧天皇
 懿徳天皇
 孝昭天皇
 孝安天皇
 孝霊天皇
第二十二 綏靖天皇から開化天皇まで(続)
 孝元天皇
 開化天皇
 開化天皇(続)
第二十三 崇神天皇(御真木入日子印恵命)
 系譜
 大物主神
 三輪山神話
 タケハニヤスの反乱
 「初国知らしし天皇」
第二十四 垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)
 系譜
 系譜(続)
 サホビコ・サホビメの乱
 サホビコ・サホビメの乱(続)
 ホムチワケの誕生
第二十五 垂仁天皇(続)
 もの言わぬ子
 出雲大神のたたり
 鳥取部その他を定む
 送り返される女
 タヂマモリの話
第二十六 景行天皇(大帯日子淤斯呂和気)
 系譜
 大碓命
第二十七 景行天皇(続)
 兄を殺す
 倭建命の熊曾討伐
 出雲建を討つ
 草なぎの剣のこと
 野火の難
 弟橘比売
 「あづまはや」
 筑波問答
第二十八 景行天皇(続々)
 美夜受比売のこと
 伊吹山の神
 一つ松
 思国歌
第二十九 景行天皇(続々々)・成務天皇(若帯日子)
 八尋白智鳥
 白鳥の御陵
 倭建命の系譜
 成務天皇
第三十 仲哀天皇(帯中日子)
 系譜
 神功皇后の神がかり
 神託
 新羅を侵す話
 鎮懐石のこと
第三十一 仲哀天皇(続)
 香坂王・忍熊王の乱
 気比大神
 酒楽の歌

系図



西郷信綱 古事記注釈



◆本書より◆


「第二十四 垂仁天皇」より:

「伝本が一致しているからといって、日本語としてのありかたからそれを疑ってみることをしないならば、一種の呪物崇拝に堕ちることになりかねない。(中略)少くとも、本文への忠誠さのあまり、逆に(中略)誤りを犯す場合があることを、肝に銘じておかねばなるまい。むろん文献学的 fallacy の他、国文学的な、歴史学的な、また民俗学的な fallacy も少くない。それはただ一つの(引用者注: 「ただ一つの」に傍点)規律にのみ服し、普遍性をかえりみようとしないところに生じる誤謬である。」


「第二十八 景行天皇(続々)」より:

「学者の律儀さを笑うかのごとく、古事記はすこぶることばの遊戯心に富む。つまりそこでは、普通名詞と固有名詞との間の壁がことばの音によってやすやすと乗りこえられ、普通名詞が固有名詞に変身し、しかも両者が反響しあうことを止めぬといった形で話が展開する。」


「第二十九 景行天皇(続々々)・成務天皇(若帯日子)」より:

「記と紀でヤマトタケルの像がかなり違っていることはすでに触れたところだが、紀においてこの人物がほとんど独立性をもたぬ、景行天皇の代理人になり終ったのは、天皇の権威の立場からのみ彼を描こうとしているためである。それにひきかえ古事記のヤマトタケルは、その「建く荒き情(ココロ)」ゆえに天皇と対立し、そして天皇に追放され、ふたたび故郷の大和へ還ることのできぬ一人の英雄(引用者注: 「英雄」に傍点)として存在する。ここにいう「英雄」は概念上、「天皇」の反措定である。そういった「英雄」の概念が、古事記のヤマトタケルを考えるには必要になると思う。それにしても一篇の、右にいう意味での英雄物語を創り出すことが、古事記にどうしてできたのだろうか。それに答えることは難しい。しかしそのさい少くとも、古事記が書紀のような国家の正史ではなく、壬申の乱に勝った天武の個人的な発意ともいえるものにもとづき、一つの世界にたいする回想として作られたこと、そして王権的秩序の制度化、その急速な発展とともに「建く荒き情」または英雄的なものは、いうなれば悲劇的に圧殺されてゆかざるをえぬという過程がしばしば経験されたであろうこと、この二点だけは忘れたくない。げんに例えば、近江朝にたいし壬申の乱を惹き起こし烈しくたたかった大海人皇子は多少とも英雄的といえる存在だったが、それに勝利し天皇になったとき、かれは支配秩序の作り手・担い手になるほかなかった。」































































































西郷信綱 『古事記注釈 第二巻』

「古人がカガシに特殊な呪力を認めていたことは確かである。ボロ着てひとり山田につっ立つ一本足のカガシには、「天の下の事」つまりこの地上のことはすべて見通しだといった風情がなくもない。」
(西郷信綱 『古事記注釈 第二巻』 より)


西郷信綱 
『古事記注釈 第二巻』

平凡社 1976年4月8日初版第1刷発行/1990年9月20日初版第4刷発行
367p
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価5,150円(本体5,000円)
装幀: 原弘



第一巻「凡例」より:

「一、本書は古事記伝を前提とし、また踏襲している点があるので、対照しやすいよう段節の区切りかたもほぼそれに準じることにした。」
「一、本文も古事記伝を底本とし、真福寺本その他を以て校訂した。」
「一、校注は必要最小限にとどめ、本文の解釈にかかわるものは注釈の条でとりあげた。底本もその他の諸本も誤っていると考えた場合は、私見を以て改めた。」
「一、古事記をどう訓み下すかには未解決の問題が多く、今なおそれは不安定な状態にある。(中略)私はまだ何ら確信らしいものが持てないので、古事記伝の訓みを軸とし、諸家の説によってそれを多少手直しするという程度にとどめた。」



目次:

第十 大国主神
 八上比売、稲羽の素菟
 大穴牟遅の受難
 木国の大屋毘古
 根国訪問
 根国訪問(続)
 後日譚
第十一 八千矛神
 八千矛神の歌
 沼河比売の歌
 沼河比売の歌(続)
 再び八千矛神の歌
 須勢理比売の歌
 大国主神の系譜
 大国主神の系譜(続)
第十二 大国主神の国作り
 少名毘古那神
 御諸山の神
 大年神の系譜
 大年神の系譜(続)
第十三 国譲り
 天菩比神
 天若日子
 雉の使
 天若日子の喪屋
 阿遅志貴高日子根神
第十四 国譲り(続)
 建御雷神
 事代主神
 建御名方神
 大国主神の服従
 天の御饗
第十五 天孫降臨
 番能邇邇芸命
 猿田毘古
 五伴緒
 神器
 伊勢神宮
 中臣連、忌部首等の祖
 日向の高千穂
 大伴連、久米直の祖
 笠沙の御前
第十六 天孫降臨(続)
 猿女君
 伊勢の猿田毘古
 島の速贄
 木花之佐久夜毘売
 木花之佐久夜毘売(続)
第十七 海神の宮
 海幸彦と山幸彦
 塩椎神
 豊玉毘売
 塩盈珠・塩乾珠
 隼人(火照命)の服従
 鵜葺草葺不合命
 玉依毘売
 系譜



西郷信綱 古事記注釈



◆本書より◆


「第十 大国主神」より:

「こういうと軽薄な語呂あわせに聞こえるかも知れぬが、しかし書契以前の人びとが言葉の音というものにいかに敏感であり、かつそれでもって地名や物の起源を説くことにいかに絶大な興味を有していたかを知らねばならぬ。それは風土記を一瞥するだけで充分である。地名そのものがすでにして一つの神話であったのだ。(中略)それはいわゆる言霊信仰の一側面であったといえなくもない。」

「根の国はニライと同様、かたがた祖霊の国という側面をも持つといえる。スサノヲがそれを「妣(ハハ)の国」と呼んだゆえんもここにあると思われる。スサノヲはまたオホナムヂにとって祖神にあたるわけで、この関係をぬきにして読むと、オホナムヂの根の国訪問譚は、神話ならぬたんなる説話になってしまう。地下にある祖霊の国というのが、存外、根の国の古義ではなかろうか。」



「第十一 八千矛神」より:

「そこで序でに、古代の神話や説話や歌における登場人物の数について、あらまし考察しておくことにする。たとえば八千矛神と二人の女神、あわせて三人の人物が一つの場面に同時に登ってきて葛藤するというような事態は、古代の作品では考えられぬことであった。登場人物は一場面二人というのが、古代の作品または民間文芸をつらぬく法則(引用者注: 「法則」に傍点)のごときものではなかったかと思う。これを法則と呼んだのは、実はデンマークの Axel Olrik という学者だが、この法則(構造的特質と呼ぶ方を私は好む)は、古事記のあれこれの場面にもほぼ完全にあてはまる。むろん、二人以上の人物がそこにいることをこれは何ら妨げないが、二人以外の人物は、ものいわぬダミーなのであり、(中略)あえていうならそれは人間関係・社会関係における矛盾が、男女の性的対立という自然的な次元からまだ分離しきれていないという状況を語るものではなかろうか。話は飛ぶが、それにたいしアリストテレスは『詩学』で、ソフォクレスの劇において俳優が二人から三人になったと述べている。いうまでもなくこれは演劇史上の一つの大きな革命であった。そしてそれは、人間関係・社会関係における矛盾や抑圧が蓄積され、いっそう複雑化し、より高次のレベルにおける解決が必要とされるようになった事態と結びついているであろう。」


「第十二 大国主神の国作り」より:

「地方地方の多くの国つ神がかくて神話的に大国主という名の神に統合されていったわけで、そのさい特に大物主がここに撰ばれたのは、飛鳥周辺におけるもっとも在地性の強い国つ神であったからだと思う。モノは鬼神・悪霊のいいで、大モノヌシとは鬼神・悪霊の元締の意に他ならぬ。したがって、そういう大物主が大国主とともに国作りし、また「皇孫命の近き守神」になったというのは、まつろわぬモノたちが宮廷に服し、その課する秩序を受け入れるに至ったことを物語る。大国主のうしはく葦原中国が「邪(アラ)ぶる鬼(モノ)」(紀一書)の棲む地とされるわけも、この見地から考えねばならぬ。かくして大国主・大物主による国作りなるものは、オホナムヂ・スクナビコナの国作りが自然とか農業とかにかかわっていたのとは質を異にし、国譲りするための国作り、ないしは国譲りという名の国作りであったことになる。」


「第十三 国譲り」より:

「それにしても、(中略)記録というものの偶然性に今さらのようにハッとする。記中にどう逆立ちしても分らぬ部分が残るのは、当然という気がしなくもない。」


「第十五 天孫降臨」より:

「何れにせよ伊勢神宮の鎮座を、片道だけで考えてはならない。五十鈴の川上には土着の神がすでにいたわけで、神宮はそれを同化することによって聳えた、いわば今来の神であった。」


「第十七 海神の宮」より:

「古い世にあっては、動物と人間、無生物と生物とは互いに一つの世界の仲間であり、両者の境界は線でかっきりとは仕切られていなかった。というより、自然と文化、動物的と人間的との曖昧な境界線こそが神話の棲み家であった。」

「記紀の神代の物語を神代史(引用者注: 「神代史」に傍点)と呼ぶのを止めねばならぬ。それはいかなる意味においても史ではなく、史のかなたに存する超歴史的・無時間的世界である。史でないからこそ、つまりそれは神代なのであって、時間のこうした古代的構造を無視し、史でないものを神代史と呼んだのが、近代の研究の躓きの石であったと思う。あれこれの話を歴史と短絡させて怪しまぬ傾向が、ここに生じる。もっとも、神代の位置、その意味は古事記と書紀では同じではない。神武紀以下を編年体で記した書紀にとっては、神代の物語はもう第一級の価値をもつものではなかった。神代紀が本文のほか多くの異伝を次々に並べるという形をとったのも、神代を歴史的(引用者注: 「歴史的」に傍点)時間のなかですでに対象化しているしるしである。(中略)そしてそれは、愚管抄や水戸の大日本史が神代を削り落し神武天皇から始めた、その伝統に遙かつながるのである。(中略)これに比べると、古事記の態度は一貫して非歴史的・神話的である。そこには歴年という単位がなく、時間の深さはすべて系譜によって測られている。神代も対象化さるべき過去としてではなく、いわば今と包みあう聖なる現在形として存在する。」













































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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