「ユリイカ」 臨時増刊 総特集: ステファヌ・マラルメ 

「落伍者と言ったって……僕たちは皆なそうなんだよ。他にどうなりようがあるかね。僕たちの有限性を無限性と競わせようとするのだから。僕たちは自分の短い生涯を、か弱い力を、定義そのものからして達しえない理想と釣り合わせようとしているわけだ。つまり、僕たちは皆な、あらかじめ落伍者たるべく運命づけられているのだよ。〔……〕僕はこう思いさえする。他の誰よりもむしろ僕こそ、この落伍者という形容語を奉られる権利があるんだ、とね。僕は異様な企てをあえて試みようとしたのだから、なおさらのことさ」
(マラルメ)


「ユリイカ」 臨時増刊号 
総特集: ステファヌ・マラルメ

第18巻第10号

青土社 
1986年9月25日発行
1992年6月20日(第2刷)
440p 
22×14.2cm 並装 
定価1,800円(本体1,748円)
編集人: 歌田明弘
装幀: 宇野亜喜良
カット: 河原淳一/松浦久美



折込図版(カラー)1点、本文中図版(モノクロ)多数。


マラルメ ユリイカ臨時増刊 01


目次:

Textes de Mallarme
 マラルメ 「魔術」 (訳・解説: 菅野昭正)
 竹内信夫 「「マラルメは答える」 訳・解説」
 井原鉄雄 「J・ドゥーセ図書館とマラルメ」
マラルメの宇宙
 高橋英夫 「マラルメの遺品」
 アバスタド 「マラルメの《書物》――ひとつの神話的自画像」 (訳: 松本雅弘)
 高橋睦郎 「幼溺註――人に驕(あま)えし少年(せうねん)の美(は)しき夢路(ゆめぢ)に その昔(むかし)」
 竹内信夫 「余白に何が書かれているのか?――一つの問題提起」
徹底討議
 菅野昭正・荒川修作・渋沢孝輔 「虚無の闇の中で苦闘したマラルメのあとで」
マラルメと十九世紀
 クリステヴァ 「マラルメにおける〈金銭〉――マラルメのテクスト経済学」 (訳: 松島征)
 高山宏 「白のメトドロジー――詩人ステファヌ・マラルメの世紀末」
 立仙順朗 「パナマ事件とマラルメ銀行」
 川瀬武夫 「マラルメとアナーキズム」
 吉田城 「一八七四年の上流生活点描――『最新流行』をめぐって」
    *
 竹内信夫 「マラルメと同時代の言語学――「ブレアル原理」をめぐって」
 川瀬武夫 「マラルメのドイツ嫌い?」
マラルメを読む
 ド・マン 「マラルメを読むブランショ――あるいは非人格性について」 (訳: 加藤光也)
 三好郁朗 「デリダとマラルメ――「二重の会」について」
 イポリット 「骰子一擲とサイバネティクス」 (訳: 西谷修)
    *
 川瀬武夫 「『死者の太陽』」
生成する詩的言語
 清水徹 「ある対話について――マラルメとヴァレリー」
 兼子正勝 「マラルメの『エロディアード』――あるいは境界線の劇」
 ノイバウアー 「マラルメのアルス・コンビナトリア」 (訳: 山西龍郎)
    *
 丘沢静也 「言語の格子――マラルメ・ツェラン・三島」
マラルメと芸術
 市川雅 「エロスと観念の鳥――S・マラルメと舞踊」
 M・A・コーズ 「マラルメとデュシャン――鏡、階段、そして賭博台」 (訳: 松田嘉子)
 平島正郎 「マラルメとドビュッシィ――夢想から羽搏きあらわれる心象――歌」
 ブレーズ 「ソナタよ、お前は何を私にのぞむのか――『第三ソナタ』について」 (訳: 笠羽映子)
    *
 庄野進 「マラルメの観相学のために」
資料
 田中成和 「マラルメ詳細年譜――マラルメ自身によるマラルメ」
 川瀬武夫 「マラルメ書誌」



マラルメ ユリイカ臨時増刊 04


マラルメ ユリイカ臨時増刊 02



◆本書より◆


「マラルメの《書物》――ひとつの神話的自画像」(クロード・アバスタド)より:

「詩や論稿や書簡などのテクストが書かれるにつれて、来たるべき著作の計画は、接近することも実現することも不可能な絶対的な一つの〈書物〉の観念へと変貌していく。一八六二年にマラルメは「古い祈祷書の黄金の留め金」や「不可侵の象形文字」への憧憬を語ってはいるが、それは未だなお選良主義的態度であり、詩を神聖化して「煩わしい俗衆」を詩から遠ざけたいという欲求にすぎない。これに対して、一八六四年から六六年にかけては、彼の関心は全く別なものになってくる。ボードレールの影響から解放された――彼自身が書くように「脱ボードレール化した」――マラルメは、自らの美学を探究し始めるのである。「僕はひとつの言語を、全く新しいひとつの詩法から必ずや迸り出てくることになる言語を、創り出すのだ」。「僕には自分の作品の計画とその詩的理論とがあります。これは次のようなものになりましょう〔……〕」。「昨夜、僕はとても幸福だった。我が〈詩〉をその裸形において再び見ることができたからだ。今夜その創作に挑んでみたいと思う」。一八六六年、マラルメはまだひとつの(引用者注: 「ひとつの」に傍点)作品のことを語ってはいるが、この年から全(引用者注: 「全」に傍点)作品と〈大いなる作業〉についても語り出す。この用いられる言葉の変化は、これ以後、特定の作品というよりも、むしろ精神的存在の全体性を危険にさらす一つの企てが、マラルメの夢想の対象になる、ということを証している。「僕は壮大な全作品の基礎を据えた。人は誰しも自らの内にひとつの秘密を忍ばせているものだが、多くの者はそれを見出し終えないままに死んでいく」。「僕が君に語りたかったのは、ただこういうことだけなのだ。つまり、僕は自分自身の鍵、穹窿の頂きの要石、〔……〕あるいは中心と言ってもよいが、これを発見し終えた後に、自己の全作品全体の構想を練り終えたところだ、ということだ」。これは人智を超えた創造であり、「〔マラルメの〕諸能力の通常の展開によってではなく、自己の〈破壊〉という罪深くも性急な、また悪魔的で安易な方法によって」見出されたものなのである。この創造は、もし実現するものであるならば、地上における絶対的な《美》の三つの発現(あらわれ)のうちの一つになることであろう。「ミロのヴィーナス(引用者注: 「ミロのヴィーナス」に傍点)〔……〕、ダ・ヴィンチのジョコンダ(引用者注: 「ジョコンダ」に傍点)、この二つの作品がこの地上における〈美〉の二つの大きな燦めきであるように僕には思われますし、現実にそうなのです(引用者注: 「現実にそうなのです」に傍点)。そして僕の夢見ているあの作品、これが三番目の燦めきです」。夢見られた作品は生涯に見合っている。「僕はこう考えています。つまり、作品が完成する前に自分の脳髄が消え去ってしまうなどとは考えられもしない、と思っているのです。というのも、構想を抱く力があった訳だし、今なおその構想を受け入れる力があることを思えば、僕の脳髄は一刻も早くその構想を実現したいとおそらくは望んでいるからです。〔……〕作品が完成すれば、死んでしまってもかまいません。もし生きながらえていれば、長い休息が必要になることでしょう!」。一八六六年には、「僕の予想では、二十年の歳月が必要だろうと思う」と書いている。二十年の後、マラルメが依然として変わることなく語っているのは、未完の作品のことなのである。と言うよりもむしろ、「定義からして達しえない」理想として語っている、と言う方が正確かもしれない。「火曜会」の時代に、ある夜マラルメは、ヴィリエ・ド・リラダンを「落伍者」呼ばわりした記事に激昂しているC・モークレールに向かって、次のように断言する。
 
  「でも、モークレール、落伍者と言ったって……僕たちは皆なそうなんだよ。他にどうなりようがあるかね。僕たちの有限性を無限性と競わせようとするのだから。僕たちは自分の短い生涯を、か弱い力を、定義そのものからして達しえない理想と釣り合わせようとしているわけだ。つまり、僕たちは皆な、あらかじめ落伍者たるべく運命づけられている(引用者注: 「あらかじめ~」以下傍点)のだよ。〔……〕僕はこう思いさえする。他の誰よりもむしろ僕こそ、この落伍者という形容語を奉られる権利があるんだ、とね。僕は異様な企てをあえて試みようとしたのだから、なおさらのことさ」。

 閾は越えられ、決断がなされる。〈書物〉はもはや具体的な計画ではなく、ひとつの「理想」、ひとつの「無限」、ひとつの絶対、さまざまな欲望が備給されたひとつの夢、すなわち、幻想となる。」



「白のメトドロジー」(高山宏)より:

「一方、「言葉」が「もの」に対して透明な媒介者でもはやないという認識はその同時代に完全言語の夢をうみおとした。自らに透明に「もの」をうつし出すオルフィック(オルペウス的)な言語を人々は夢みた。世界とたしかなつながりをもつことのできる言語、というわけである。コメニウスの普遍言語などがそれ。現実の流通言語をその線で「純粋」化しようとする動きや、そういう目的のためにいっそ人工の言語をつくろうとするさまざまな動きがあった。ところで、この夢の言語のプロジェクトが進むうちに、言語が実は外の世界とはひとまず無縁に、言葉同士の内的な関係のみで成り立つ、記号の体系であることがみえてきてしまった。ジョン・ウィルキンズや王立協会の名と結びつけられて考えられている「哲学的言語」という人工普遍言語プロジェクトの孕んだ根本的な問題がそれだった。」
「世界ないし「もの」をうつしとることのない自閉的システムとして言語をみるこうした言語観を、いま名著『近代詩と言語観念』(一九七四)のジェラルド・ブランズにならって「ハーメティック」な言語観と名づけてみよう。「ヘルメース的な」という意味だが、われわれが今般この言葉に感じるような、「活性化する」ものといった意味あいとはむしろ逆に、隠蔽された、とか自閉したとかいう意味の形容詞として、ブランズのいう「ハーメティック」観念は成り立っている。すると、先にいったオルフィックな言語観とハーメティックな言語観が対立しあうことになり、現に「言葉」と「もの」のあいだ(引用者注: 「あいだ」に傍点)が不安定になるような時代には必ずこの対立する言語観が現われる。たとえば、それが右にみた十七世紀の普遍言語運動の周辺の時代、植民地主義とニュー・テクノロジーのインパクトの下、ヨーロッパの室内(アンテリエール)にみる如く「もの」が溢れでてきた十九世紀末にも、「もの」をうつしとる、つまりコミュニケーションの媒介者としての言語の能力への、未曾有の反省意識が生じてきた。
 早速いえば、マラルメの「究極の本(ル・リーヴル)」の観念、そして区々がその観念のためのエスキースであるかの如きマラルメの詩、ことに「骰子一擲」が帯びた、おそろしくハーメティックなあり方というものは、ほぼ世紀末の右のような言語の状況に根を持っているものとおぼしい。
 「あらゆる地上の実在が究極的には一冊の本のなかに含まれなければならない」とマラルメは記した。「世界は一冊の美しい本に到達すべくつくられている」とも。ブランズも言うように、これは「世界の創出は、その世界が芸術作品のなかに存在するようになるまでは完成することはないとみる、ことさらに十九世紀末的な芸術-崇拝(カルト)の動向に掉さした思考形式」なのである。詩人アルフレッド・テニソンの「芸術の殿堂」というテーゼを思いだす。そこでは芸術は「殿堂」なのであり、つまりは世界に対して閉ざされた一空間として成り立っていた。もう一度だけ、ヨーロッパの、自らを〈外〉から隔離し、〈内〉に充足する文化相がついに行きついたものとしての室内(アンテリエール)のことを思いだすべきであろう。」
「たとえば部屋というメタファーと言語というメタファーが重なりあって〈本〉という究極のメタファーをつくりだす。」



マラルメ ユリイカ臨時増刊 03

折込み図版は荒川修作「The Virgin, the Vivid, the Fine Today」。




























































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ステファヌ・マラルメ 『イジチュールまたはエルベノンの狂気』

ステファヌ・マラルメ
『イジチュールまたはエルベノンの狂気』
秋山澄夫 訳

思潮社 1984年8月1日新装第1刷/1985年6月1日第2刷
86p 22×14cm 並装 カバー 定価1,000円
Stéphane Mallarmé - Igitur ou la folie d'Elbehnon

 
「訳者あとがき」より:
 
「この作品は、今から百年前、マラルメが二十六、七才の頃、没頭し、完成できないで、草稿のまま筐底にしまいこんでいたものを、作者の死後二十七年もたって、女婿ボニオさんがやっと判読し、なんとか筋道を立てて、出版したものである。」
 
 
イジチュール1
 
 
帯文:
 
「ここには精神の音楽と、顕在的潜在的な響きが織りなす音楽、用語の喚起と反復の探索の果てに到達した思想がある。本を閉じ、蝋燭を消し、孤立した峻厳な姿勢でイジチュールは生涯を終える。無も去り、純潔の<城>が残る。」
 
帯背:
 
「厳密すぎる散文で書か
れた未完の狂気の物語」

 
カバーそで文:
 
「この遺稿は、マラルメがそれを実際に実現しようとまじめに考えていたことを、はっきりと示している。マラルメの理論的な著作は、このような作品の計画を示唆しており、つねにこの作品について考えている。そしてこの作品に対して、つねによりいっそう深められた観点、実現されざる作品がわれわれに対して本質的なかたちで確立されるような観点を投げかけている。この種の保証に対して無関心な人々、相も変らずマラルメのなかに、愚にもつかぬ作品についてのもったいぶったお喋りをし、無意味な紙きれを神秘めかした様子でふりまわして、30年のあいだ世間をだましてきた人物をみてとっている人々は、このような新しい証拠によっても、説得されることはないであろう。
モーリス・ブランショ」

 
 
イジチュール2
 
 
目次:
 
序 (エドモン・ボニオ)
 
  イジチュールまたはエルベノンの狂気
[緒言]
[要旨]
I 真夜
II 部屋から出る
III イジチュールの生涯
IV さいころ投げ
V 遺骸の上の睡眠
 
  註解
タッチ
II 部屋から出るの若干の草案
IV 母の禁止にもかかわらず墓にあそびに行く
 
 
本書より:
 
「―そこで彼は、どうやら、絶対に彼を入れることを許す狂気があるという考えをいだく。が同時に、こうした狂気の事実によって、偶然は否定され、狂気が必然であったと彼は言うことが出来る。何に? (誰もそれをしらない、彼は人類から隔絶している。)」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ステファヌ・マラルメ 『骰子一擲』

ステファヌ・マラルメ 『骰子一擲』
秋山澄夫 訳

思潮社 1984年12月1日改訂版第1刷発行
82p 22×14cm 並装 カバー 定価1,200円
Stéphane Mallarmé - Un coup de dés jamais n'abolira le hasard

 
「骰子一擲(とうしいってき)」。
「アン・クー・ド・デ」。
 
訳者による「日本語訳・骰子一擲・ノート」より:
 
「この作品は、作者の死の前年、1897年5月、<コスモポリス>という雑誌に掲載され、後に、豪華単行本として出版されることになり、死の直前まで手を入れていたようであるが、1898年9月9日の突然の死のため、そのままになってしまった。(略)死後15年以上経過した1914年に、女婿のボニオ氏その他の尽力で、nrf社から大型普及版として刊行された。この版の基礎となったとおもわれる作者自筆の校正刷りは、その後、約半世紀間ゆくえがわからなかったが、1960年の秋、パリの稀覯本商ピエール・ベレース氏の売立目録に載り、これが或アメリカ人の手に買い取られた。スタンフォード大学のマラルメ学者ロバート・グリア・コーン氏の近著にその写真が掲載されたのを機会に、思潮社に於いて決定版テクストの校訂が企画され、ここに日本語訳と同時刊行の実現を見たわけである。」
 
上記の文章における「日本語訳」は、「骰子一擲」仏文テクストおよび「イジチュール」の訳とともに3冊1セットとして限定刊行されたものを指しているが、本書は限定版のうち「イジチュール」を除いて1冊にまとめた小型普及版。「序」および本文の訳、本文写真版(21p)、「最後のマラルメ」、限定版「日本語訳・骰子一擲・ノート」(1968年3月)、普及版「あとがき」(昭和59年6月)より成る。
 
 
骰子一擲1
 
帯文:
 
「死の直前まで校正刷りに手を入れ完璧を期していたマラルメ最後の著作。<なぜ世界はかくあらねばならないか>。マラルメは激しく問い返す。<かくある必要はいささかもなし>。最後の朱入れ校正刷りを挿入した決定訳。」
 
帯背:
 
「言語の内面の音楽性と
外面の造型性との統合」

 
本文は横書。表紙(カバー)は表・裏のデザインが全く同じで、帯文も両面とも同じものが印刷されている。カバーを外すと本体表紙は白紙で何も印刷されていない。
 
表紙絵はオディロン・ルドン。
 
 
骰子一擲2
 
原文。
 
 
骰子一擲3
 
訳文。
 
関係ないが、文字というものは、文化によって右からよんだり左からよんだりするが、下から上に読む本というのはないのではないだろうか。文字はつねに下降していくのではないか。
  
 
1914年版 pdf
http://writing.upenn.edu/library/Mallarme-Stephen_Coup_1914.pdf
 
 
 
ODILON REDON Femme de Profil. Lithograph, 1900
 
「骰子一擲」のために描かれた、オディロン・ルドンのリトグラフ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ステファヌ・マラルメ 『マラルメ 詩と散文』

ステファヌ・マラルメ 『マラルメ 詩と散文』
松室三郎 訳
筑摩書房・筑摩叢書313
1987年8月31日初版第1刷発行/1991年5月10日初版第3刷発行
230p 口絵2p 四六判 並装 カバー 定価1,750円
stephane Mallarme - Vers et prose (2eme edition), 1893

 
訳者による「あとがき」より引用:
 
「翻訳するに当たって私なりの工夫はしてみたものの、殊にマラルメ後期詩篇の中核であるソネにいたっては、いかに試行錯誤を重ねようと、その精妙きわまりない構造を異質の国語の上で再現することなどできる筈がなく、翻訳の提示だけでは当初の意図には程遠いとの感を免れることがどうしてもできなかった。そこで、ソネの中のせめて一篇なりと、訳者と共に身近なものとして読んでいただきたいという願いから、マラルメのソネ中の白眉とされる一篇をとり上げて私なりの読解の試みを活字にし、これを本書の第二の柱とした次第である。(略)かくして本書は、
 ステファヌ・マラルメ『詩と散文』第二版
の全訳、および
 拙論「タイムカプセル 《マラルメ一九五五年》を今…」
の二部より成るが、後者は、私が一九六七年春、季刊《世界文学》6号(冨山房)に「『葬の乾杯』について」を公にして以来、雑誌掲載の形で続行して来たマラルメ後期詩篇註釈ノートの4に相当する。」

 
 
マラルメ 詩と散文 1
 
 
マラルメ 詩と散文 2
 
口絵: マラルメ肖像。ホイッスラーによる石版画。
 
 
マラルメ 詩と散文 3
 
口絵: 「-yx のソネ」 1868年稿自筆原稿。
 
 
目次:
 
緒言
 
I 韻文詩
あらわれ

ためいき
花々
海の微風
青空
詩の贈りもの
・ソネ
懲らされ道化
夏の悲しみ
[―けがれなく、生気にみちて、美しい今日……]
[―倨傲にも勝ち誇って 美しい自殺を遁れ……]
[―その純らかな爪が 高々と 縞瑪瑙をかかげて、……]
[―パフォスの名の上に わが古書は閉じられ、……]
[―お前の歴史のなかに入りこむことは……]
[―時間の芳香のしみこんだ如何なる絹も……]
[―この夕べ、誇らしい自負心のすべては、……]
[―かりそめの脆いギヤマンの……]
[―窓掛のレースは いつしか消えて……]
プローズ (デ・ゼッサントのために)
エロディヤード 断章
半獣神の午後 田園詩
 
II 散文
・ポー詩抄
  ソネ エドガー・ポーの墓 (エピグラフ)
大鴉
ユーラリューム
眠る女
・いくばくかのページ
末来の現象
秋の嘆き
冬のおののき
パイプ
ラ・ペニュルティエーム
栄光
白い睡蓮
聖職者
『ヴァテック』要約のための断章
ヴィリエ・ド・リラダン 回想
第一逍遥遊 詩句に関して
第二逍遥遊 祭式
  *
タイムカプセル 《マラルメ一九五五年》を今… ―後期ソネ註釈の試み― (松室三郎)
あとがき
[口絵説明]
 
 
「秋の嘆き
 
マリアが私を後(あと)に、他の星に行ってしまって―どの星だろう、オリオンか、アルタイルか、それともお前、緑青色の金星だろうか―それ以来私はいつも孤独というものに心惹かれてきた。なんと多くの長い日々を、私は唯独り、私の猫と一緒にすごしてきたことか。「唯独り」というのは、私にとっては、物質的な存在なしにということで、私の猫は、神秘的な伴侶であり、精霊(せいれい)だ。だから私は、長い一日一日を、私の猫と一緒に唯独り、それからまた、唯独り、ラテン頽廃期の最後の作家の一人と一緒にすごしたと言える。それは、あの白い女性がもういなくなってからというもの、なぜだか、妙に私は、「凋落」という言葉に要約されるあらゆるものを愛してきたからだ。」

 
 
マラルメ 詩と散文 4

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Mallarme - Autobiographie ◆ マラルメ 「自叙伝」

Stéphane Mallarmé
Autobiographie : Lettre à Verlaine


L'Échoppe, Paris, 1991
32pp, 18x10.5cm, paperback



マラルメがヴェルレーヌの要請に応じて書いた手紙。その内容から「自叙伝」と呼ばれる。所謂「書物」についても語られている。


mallarme autobiographie 1


mallarme autobiographie 2

マネがマラルメ訳「大鴉」(ポオ原作)のために描いたデッサン。1875年。
本書巻頭に掲載。


mallarme autobiographie 3

ゴーギャンによるマラルメの肖像(デッサン)。1891年。
本書巻末に掲載。


Stéphane Mallarmé
Autobiographie : Lettre à Verlaine
 
Paris, lundi 16 novembre 1885.
 
Mon cher Verlaine,
Je suis en retard avec vous, parce que j’ai recherché ce que j’avais prêté, un peu de côté et d’autre, au diable, de l’œuvre inédite de Villiers. Ci-joint le presque rien que je possède.
 
Mais des renseignements précis sur ce cher et vieux fugace, je n’en ai pas : son adresse même, je l’ignore ; nos deux mains se retrouvent l’une dans l’autre, comme desserrées de la veille, au détour d’une rue, tous les ans, parce qu’il existe un Dieu. À part cela, il serait exact aux rendez-vous et, le jour où, pour les Hommes d’Aujourd’hui, aussi bien que pour les Poètes Maudits, vous voudrez, allant mieux, le rencontrer chez Vanier, avec qui il va être en affaires pour la publication d’Axël, nul doute, je le connais, aucun doute, qu’il ne soit là à l’heure dite. Littérairement, personne de plus ponctuel que lui : c’est donc à Vanier à obtenir d’abord son adresse, de M. Darzens qui l’a jusqu’ici représenté près de cet éditeur gracieux.
 
Si rien de tout cela n’aboutissait, un jour, un mercredi notamment, j’irais vous trouver à la tombée de la nuit ; et, en causant, il nous viendrait à l’un comme à l’autre, des détails biographiques qui m’échappent aujourd’hui ; pas l’état civil, par exemple, dates, etc., que seul connaît l’homme en cause.
 
Je passe à moi.
 
Oui, né à Paris, le 18 mars 1842, dans la rue appelée aujourd’hui passage Laferrière. Mes familles paternelle et maternelle présentaient, depuis la Révolution, une suite ininterrompue de fonctionnaires dans l’Administration de l’Enregistrement ; et bien qu’ils y eussent occupé presque toujours de hauts emplois, j’ai esquivé cette carrière à laquelle on me destina dès les langes. Je retrouve trace du goût de tenir une plume, pour autre chose qu’enregistrer des actes, chez plusieurs de mes ascendants : l’un, avant la création de l’Enregistrement sans doute, fut syndic des Libraires sous Louis XVI, et son nom m’est apparu au bas du Privilège du roi placé en tête de l’édition originelle française du Vathek de Beckford que j’ai réimprimé. Un autre écrivait des vers badins dans les Almanachs des Muses et les Étrennes aux Dames. J’ai connu enfant, dans le vieil intérieur de bourgeoisie parisienne familial, M. Magnien, un arrière-petit-cousin, qui avait publié un volume romantique à toute crinière appelé Ange ou Démon, lequel reparaît quelquefois coté cher dans les catalogues de bouquinistes que je reçois.
 
Je disais famille parisienne, tout à l’heure, parce qu’on a toujours habité Paris ; mais les origines sont bourguignonnes, lorraines aussi et même hollandaises.
 
J’ai perdu tout enfant, à sept ans, ma mère, adoré d’une grand’mère qui m’éleva d’abord ; puis j’ai traversé bien des pensions et lycées, d’âme lamartinienne avec un secret désir de remplacer, un jour, Béranger, parce que je l’avais rencontré dans une maison amie. Il paraît que c’était trop compliqué pour être mis à exécution, mais j’ai longtemps essayé dans cent petits cahiers de vers qui m’ont toujours été confisqués, si j’ai bonne mémoire.
 
Il n’y avait pas, vous le savez, pour un poète à vivre de son art même en l’abaissant de plusieurs crans, quand je suis entré dans la vie ; et je ne l’ai jamais regretté. Ayant appris l’anglais simplement pour mieux lire Poe, je suis parti à vingt ans en Angleterre, afin de fuir, principalement ; mais aussi pour parler la langue, et l’enseigner dans un coin, tranquille et sans autre gagne-pain obligé : je m’étais marié et cela pressait.
 
Aujourd’hui, voilà plus de vingt ans et malgré la perte de tant d’heures, je crois, avec tristesse, que j’ai bien fait. C’est que, à part les morceaux de prose et les vers de ma jeunesse et la suite, qui y faisait écho, publiée un peu partout, chaque fois que paraissaient les premiers numéros d’une Revue Littéraire, j’ai toujours rêvé et tenté autre chose, avec une patience d’alchimiste, prêt à y sacrifier toute vanité et toute satisfaction, comme on brûlait jadis son mobilier et les poutres de son toit, pour alimenter le fourneau du Grand Œuvre. Quoi ? c’est difficile à dire : un livre, tout bonnement, en maints tomes, un livre qui soit un livre, architectural et prémédité, et non un recueil des inspirations de hasard, fussent-elles merveilleuses… J’irai plus loin, je dirai : le Livre, persuadé qu’au fond il n’y en a qu’un, tenté à son insu par quiconque a écrit, même les Génies. L’explication orphique de la Terre, qui est le seul devoir du poète et le jeu littéraire par excellence : car le rythme même du livre, alors impersonnel et vivant, jusque dans sa pagination, se juxtapose aux équations de ce rêve, ou Ode.
 
Voilà l’aveu de mon vice, mis à nu, cher ami, que mille fois j’ai rejeté, l’esprit meurtri ou las, mais cela me possède et je réussirai peut-être ; non pas à faire cet ouvrage dans son ensemble (il faudrait être je ne sais qui pour cela !) mais à en montrer un fragment d’exécuté, à en faire scintiller par une place l’authenticité glorieuse, en indiquant le reste tout entier auquel ne suffit pas une vie. Prouver par les portions faites que ce livre existe, et que j’ai connu ce que je n’aurai pu accomplir.

Rien de si simple alors que je n’aie pas eu hâte de recueillir les mille bribes connues, qui m’ont, de temps à autre, attiré la bienveillance de charmants et excellents esprits, vous le premier ! Tout cela n’avait d’autre valeur momentanée pour moi que de m’entretenir la main : et quelque réussi que puisse être quelquefois un des morceaux ; à eux tous c’est bien juste s’ils composent un album, mais pas un livre. Il est possible cependant que l’Éditeur Vanier m’arrache ces lambeaux mais je ne les collerai sur des pages que comme on fait une collection de chiffons d’étoffes séculaires ou précieuses. Avec ce mot condamnatoire d’Album, dans le titre, Album de vers et de prose, je ne sais pas ; et cela contiendra plusieurs séries, pourra même aller indéfiniment, (à côté de mon travail personnel qui je crois, sera anonyme, le Texte y parlant de lui-même et sans voix d’auteur).
 
Ces vers, ces poèmes en prose, outre les Revues Littéraires, on peut les trouver, ou pas, dans les Publications de Luxe, épuisées, comme le Vathek, Le Corbeau, Le Faune.
 
J’ai dû faire, dans des moments de gêne ou pour acheter de ruineux canots, des besognes propres et voilà tout (Dieux Antiques, Mots Anglais) dont il sied de ne pas parler : mais à part cela, les concessions aux nécessités comme aux plaisirs n’ont pas été fréquentes. Si à un moment, pourtant, désespérant du despotique bouquin lâché de Moi-même, j’ai après quelques articles colportés d’ici et de là, tenté de rédiger tout seul, toilettes, bijoux, mobilier, et jusqu’aux théâtres et aux menus de dîner, un journal, La Dernière Mode, dont les huit ou dix numéros parus servent encore quand je les dévêts de leur poussière à me faire longtemps rêver.
 
Au fond je considère l’époque contemporaine comme un interrègne pour le poète, qui n’a point à s’y mêler : elle est trop en désuétude et en effervescence préparatoire, pour qu’il ait autre chose à faire qu’à travailler avec mystère en vue de plus tard ou de jamais et de temps en temps à envoyer aux vivants sa carte de visite, stances ou sonnet, pour n’être point lapidé d’eux, s’ils le soupçonnaient de savoir qu’ils n’ont pas lieu.
 
La solitude accompagne nécessairement cette espèce d’attitude ; et, à part mon chemin de la maison (c’est 89, maintenant, rue de Rome) aux divers endroits où j’ai dû la dîme de mes minutes, lycées Condorcet, Janson de Sailly enfin Collège Rollin, je vague peu, préférant à tout, dans un appartement défendu par la famille, le séjour parmi quelques meubles anciens et chers, et la feuille de papier souvent blanche. Mes grandes amitiés ont été celles de Villiers, de Mendès et j’ai, dix ans, vu tous les jours mon cher Manet, dont l’absence aujourd’hui me paraît invraisemblable ! Vos Poètes Maudits, cher Verlaine, À Rebours d’Huysmans, ont intéressé à mes Mardis longtemps vacants les jeunes poètes qui nous aiment (mallarmistes à part) et on a cru à quelque influence tentée par moi, là où il n’y a eu que des rencontres. Très affiné, j’ai été dix ans d’avance du côté où de jeunes esprits pareils devaient tourner aujourd’hui.
 
Voilà toute ma vie dénuée d’anecdotes, à l’envers de ce qu’ont depuis si longtemps ressassé les grands journaux, où j’ai toujours passé pour très-étrange : je scrute et ne vois rien d’autre, les ennuis quotidiens, les joies, les deuils d’intérieur exceptés. Quelques apparitions partout où l’on monte un ballet, où l’on joue de l’orgue, mes deux passions d’art presque contradictoires, mais dont le sens éclatera et c’est tout. J’oubliais mes fugues, aussitôt que pris de trop de fatigue d’esprit, sur le bord de la Seine et de la forêt de Fontainebleau, en un lieu le même depuis des années : là je m’apparais tout différent, épris de la seule navigation fluviale. J’honore la rivière, qui laisse s’engouffrer dans son eau des journées entières sans qu’on ait l’impression de les avoir perdues, ni une ombre de remords. Simple promeneur en yoles d’acajou, mais voilier avec furie, très-fier de sa flottille.
 
Au revoir, cher ami. Vous lirez tout ceci, noté au crayon pour laisser l’air d’une de ces bonnes conversations d’amis à l’écart et sans éclat de voix, vous le parcourrez du bout des regards et y trouverez, disséminés, les quelques détails biographiques à choisir qu’on a besoin d’avoir quelque part vus véridiques. Que je suis peiné de vous savoir malade, et de rhumatismes ! Je connais cela. N’usez que rarement du salicylate, et pris des mains d’un bon médecin, la question dose étant très-importante. J’ai eu autrefois une fatigue et comme une lacune d’esprit, après cette drogue ; et je lui attribue mes insomnies. Mais j’irai vous voir un jour et vous dire cela, en vous apportant un sonnet et une page de prose que je vais confectionner ces temps, à votre intention, quelque chose qui aille là où vous le mettrez. Vous pouvez commencer, sans ces deux bibelots. Au revoir, cher Verlaine. Votre main
 
STÉPHANE MALLARMÉ
 
Le paquet de Villiers est chez le concierge : il va sans dire que j’y tiens comme à mes prunelles ! C’est là ce qui ne se trouve plus : quant au Contes Cruels, Vanier vous les aura, Axël se publie dans La Jeune France et l’Ève future dans laVie Moderne.




『世界文学大系43 
マラルメ/ヴェルレーヌ/ランボオ』
鈴木信太郎・他 訳


筑摩書房 昭和37(1962)年2月28日発行
422p 口絵i 菊判 丸背バクラム装上製本 貼函 定価500円
装幀: 庫田叕



マラルメ ヴェルレーヌ ランボオ


筑摩書房版・旧版世界文学大系本。「自叙伝」が鈴木信太郎訳で収録されている。


目次:

◆マラルメ
ステファヌ・マラルメ詩集 (鈴木信太郎訳)
綺語詩篇 (鈴木信太郎訳)
詩の危機 (南條彰宏訳)
書簡
 自叙伝 (鈴木信太郎訳)
 詩に関する書簡 (松室三郎訳)
リヒァルト・ワグナー (南條彰宏訳)
音楽と文芸 (南條彰宏訳)

◆ヴェルレーヌ
ヴェルレーヌ詩集 (鈴木信太郎・河上徹太郎訳)
呪はれた詩人達 (鈴木信太郎・高畠正明訳)
懺悔録 (高畠正明訳)

◆ランボオ
地獄の一季節 (秋山晴夫訳)
イリュミナシオン (鈴木信太郎・小林秀雄訳)
詩 (鈴木信太郎訳)
ルイ十一世に宛てたるシャルル・ドルレアン太公の書簡 (鈴木信太郎訳)
文学書簡 (平井啓之訳)

「私は時をりマラルメに語った……」 ヴァレリー (鈴木信太郎訳)
「ヴェルレーヌ」 シュアレス (高畠正明訳)
アルチュウル・ランボオ著作集の序 クローデル (渡辺守章訳)

解説 (鈴木信太郎)
年譜


「ステファヌ・マラルメ (鈴木信太郎訳)
自叙伝 ヴェルレーヌ宛の手紙

巴里、1885年十一月十六日、月曜日

わが親愛なヴェルレーヌ君

貴君の御用件に関して遅れましたのは、ヴィリエの未発表作品で、私が、残念ながら、少々あちこちに、貸してしまったものを探していたからです。同封しましたのは、私の所有している殆ど僅かなものです。
然しこの親しい、居るかと思えば居なくなる旧友に関する正確な情報については、何も私は持っておりません、その住所さえ知らないのです。どこかの街の曲り角で、毎年、何か神様が存在するからでしょう、われわれ二人の手は互に、前日別れた時のように、再び握り合うのです。それは別として、ヴィリエは会合の約束には正確でしょう、そして『今日の人物』のためにもまた同様に『呪われた詩人』のためにも、貴君がよろしければ、彼の『アクセル』刊行のため種々(いろいろ)と用事がある筈のヴァニエ書房で彼と会おうと望まれる日に、そこに指定の時間に行かないなどとは、疑念のないこと、何の疑う余地もないと、私は思っています。文字通りに、誰も彼以上に時間が正確なものは居ない。それゆえ先ずヴァニエに彼の住所を照会して、この親切な出版者に対して今まで彼の代理をしていたダルザン氏から、所書を得べきです。
(ヴィリエの包はコンシェルジュに預けてあります。言うまでもなく、私は自分の眼の玉ぐらいに大切にしているのです。それは最早見出せないものです。『残酷物語』については、ヴァニエが貴君にお見せするでしょう、『アクセル』は「若きフランス」誌に、『末来のイヴ』は「近代生活」誌に掲載されています。)
若しこれら全てが何にもならなかったら、いつか一日、水曜日あたりが好適なのですが、日暮方、貴方をお訪ね致しましょう。そして、話し合ってお互に、今日聞き漏らしている伝記的な詳細の一つ一つに到達するでしょう。それも例えば、係争中の人間だけが知っている、身分とか、日付とか、其他ではなくて。
私自身の問題に移りましょう。
そうです、一八四二年三月十八日、巴里の生れで、街は今日はラフェリエール小路と称ばれている所です。私の家は、父方も母方も、大革命以来、登記管理局の官吏として代々出仕していた。役所ではいつも殆ど高官に昇ったのであったが、私は襁褓の自分から定められていたこの職業を巧みに遁れたのであった。多くの祖先の中には、証書類を記録するより以外のことに、筆を執る趣味のあった形跡が見られる。或る一人は、身分登記制度の設立以前だが、ルイ十六世治下の書籍商の組合長であった。そしてその名前が、ベックフォード著『ヴァテック』のフランス語である初版の、劈頭にある国王の出版許可証の下に見られた。その本を私が再び刊行したのです。祖先の他の一人は、戯作の詩を『詩女神年鑑』や『御婦人方への贈物』の中に書いている。私は子供の頃、巴里の中流市民の古風な家庭の中で、[欠字]・マニアン氏を識った。又従兄弟(またいとこ)の子で、全く勇ましくも浪曼的な「天使」とか「悪魔」とか題された本を一冊刊行していた。これは私が貰う古本屋のカタログの高価本の部類に、時折見かけられた。
私は先程、巴里市民の家庭と言った、それはいつも巴里に住んでいたからである。然し発祥の地はブウルゴーニュであり、またロオレーヌであり、オランダでさえもある。
私は全く幼少の時、七歳で母を失い、祖母に可愛がられて、その手で始め育てられた。それから諸処の寄宿学校や中学校を転々し、ラマルチーヌのような浪曼的な気持で、或る友人の家で会ったことのあるベランジェに、いつかは取って代ろうという望みを秘かに懐いていた。さていよいよ実行に移す段になると、なかなか込み入っていたので、長い間、私は詩の小さな練習帳に百冊も練習したが、記憶が正しいとすれば、いつも取上げられて仕舞ったように私は憶えている。

御存知の通り、私が生活を始めた頃、詩人にとっては、仮令その芸術を数段卑俗に引下げても尚、芸術によっては生活のしようも無かった。而も私は、それを決して悔んだことがなかった。唯単にポオをもっとしっかり読もうと思って英語を修めた私は、二十歳の時英国に出掛けた。主として、遁れ去るためであったが、一方にまた、英語を話してそれを学校で教え、静かに、他の強いられた糊口の手段を免れるためでもあった。私は結婚していたので、それは差し迫っていた。
茲に二十年以上も経た今日になってみると、実に多くの時間を空費したにも拘らず、私はよくもやったものだと、悲しい気持で、思っている。それは、わが青年期の散文作品及び詩篇とは別に、また、それらに引続いた作品で、文芸雑誌の創刊号が刊行される度毎に、殆ど到る処で発行されて、評判となった創作とは別に、私はいつも、煉金道士が、偉大な仕事(「偉大な仕事」に傍点)鎔鑪に糧を与えるために、その家具もその家の大梁(おおはり)さえも燃したように、あらゆる虚栄とあらゆる満足とを犠牲にする覚悟をしていた、道士の辛抱強さを以て、他の一事を夢みて試みたのであった。何であるか。それは説明するのが難(むずか)しい。簡単に言えば、数巻からなる一の書物である。一の書物とは一の書物であって、建築的であり予め熟考されたものであり、如何に驚嘆すべき霊感であったとしても、偶然の霊感の蒐集ではない…… 更に突込んで言うならば、それを書いたところの誰かによって、精霊(「精霊」に傍点)にさえよって、その知らぬ間に試みられた、根本に於いてただ一つしかないと確信される、書物(「書物」に傍点)というものである。地球(「地球」に傍点)のオルフェウス派神秘主義的解釈、それこそ詩人の唯一の義務であり、極めて優れた文学的遊戯である。何故なら、その時に非個性的で而も生きている、書物の律動それ自体は、その頁付けに於いてまで、この夢、即ちオード(「オード」に傍点)の方程式に並列されるのである。
これが、親愛なる友よ、赤裸々な、私の悪徳の告白です。私はこれを千度も投げ棄てました。疵のついた或は疲れ切った精神ですが、それが私に取り憑いて、恐らく私はやり遂げるでしょう。それもこの著作をその全体として作るのではなく(そのためには誰だか私の知らない人が必要でもありましょう)、ただその製作されたものの一断片を示すだけ、その光栄ある真正さを或る場所によって燦(かが)やかせるだけで、残余の全体については一生涯かかっても足りないことを示すのみです。作られた部分部分によってこの書物が存在していることと、私が完成し得なかったであろうものを私は知っていたと証明すること。
幾多の既に知られている断片が、時々、愛すべきまた秀れた精神(その最初が貴君だが)の好意を私に齎らした、その数多い断片を蒐集することをあまり急がなかったような場合は、これほど簡単なことはありません。それら全ては、私にとっては自分の腕を保とうとする以外の、一時的な価値を持ってはいなかった。そして時折、その[一語欠字]の一つが彼等全てに如何に成功を獲ち得ようと、それらは一冊のアルバムを構成しているかどうかであって、一の書物でないことはまさに正確であります。併しながら出版者ヴァニエがそれらの断片を私から奪うことは可能でありますが、然し私はただ頁の上に、数百年前の乃至は貴重な、襤褸切の蒐集を人が貼付けるやうにしか、それらを貼付けないでしょう。『アルバム・ド・ヴェール・エ・ド・プローズ』という題名のアルバム(「アルバム」に傍点)に、この有罪宣告的な語義があるとは、私は知りません。それは種々な系列を含むでしょう、無限に拡がることまで可能でしょう(私の個人的な仕事はその傍らに、無名のまま、本文(「本文」に傍点)はそこに彼自身について語りながら、作者の声なしに、存在するだろうと思われます)。
これらの詩句、これらの散文詩を、文芸雑誌以外に於いて、見出し得るし、贅沢版に於いても、『ヴァテック』や『大鴉』や『半獣神』のように、絶版となっているわけではない。
私は、窮境に陥った時や、破産しそうに金のかかる端艇(カノー)を買うために、本当の勤労をしなければならなかった、そしてそれだけの話だが(『昔の神々』や『英語の単語』だ)、語らない方が良かろう。これを除いて、必要に対してもまた快楽に対しても、譲歩したことは多くはなかった。併しながら、或る時期に於いては、自分自身から捻り出す独断的な駄本に希望を失って、あちらこちらに幾つかの雑文を持込んでから、たった一人で新聞を、それも化粧だの、宝石だの、家具だの、芝居や食事の献立に至るまで、編輯を試みたが、この新聞『最新流行』の発行された八号だか十号だかは、未だに私が塵を払って取出す時には、私を長い間夢想に沈ませるのに役立つのである。
実際、私は現代の時期を、そこに介入する必要のない詩人にとっては、空位時代と考えている。即ち、この時期は、後年を或は永久を目標として秘法を以て仕事をして時々生きている人々に訪問名刺を送ることよりも、他の仕事を為すべきためには、あまりに中絶の時であり又あまりに沸騰準備的時代である。その訪問名刺は、スタンス乃至ソンネであって、そうする筈はないとしても彼等から石を投げつけられて抹殺されないためである。
孤独は必然的にこの種の態度を伴うのです。そして我家(それは現在はローマ街八十九番地ですが)への帰途を除いて、私が自分の時間の十分の一税を取立てられた方々の場所、コンドルセとか、ジャンソン・ド・サイイとかの国立高等中学校や、最後のロラン高等中学校に於いては、殆ど休息しません。家の者にとって禁じられている住宅の中の全てのものよりも、古めかしいが身に親しい家具調度の間に居ることを、また屡々白紙ではあるが紙の方を、私は好むからです。私の大きな愛情は、ヴィリエと、マンデスとのそれでした。そして私は、十年、毎日毎日、わが親愛なマネーと会っていたので、その今日の不在は私には真実ではないように思われます。親愛なヴェルレーヌよ、貴君の『呪われた詩人』と、ユイスマンスの『さかしまに』とは、長く開かれなかったわが火曜会に於いて、若い詩人たちの興味をそそった。彼等は(マラルミストは別して)われわれを愛していて、そこにはただ邂逅しかなかったのに、私によって試みられた或る影響があると人は信じたのです。鋭く尖っていた私は、同じような若い精神が今日そこに転向すべき方向に十年先きに向ったのでした。
以上が逸話をはぶいた私の全生涯です。随分長いこと以前から、種々の大新聞が、いつも私を甚だしい変人と見做して、くどくどと繰返したこととはあべこべです。私は穿鑿してみて、毎日の倦怠や、歓喜や、内心の悲しみを除いては、他の何物も見ません。何かのあらわれ(「あらわれ」に傍点)が、舞踊の上演されるところ、オルグの演奏されるところ、到るところに現れる。これは私の二つの、殆ど矛盾している芸術的情熱であるが、その感覚は炸裂するでしょう、そしてそれだけです。私は、私の遁走曲(フーガ)を忘れていた。私は、精神が疲労し過ぎると直ちに、セーヌ河畔でフォンテーヌブローの森の辺の、同一地点に、数年来逃げて来る。ここでは、私は、ただ川逍遥の船遊びにばかり夢中の別人となった。私は、河がその水の中に毎日の一日中を、その日々を失ったという印象も後悔の一片影すらも人が持つことなく、呑み込ませてしまうのを尊敬している。マホガニーの端艇に乗る単独な散歩者、だが、熱狂した帆走者は、彼の小船隊が甚だ御自慢なのです。
親愛な友よ、これで失礼する。遠く離れた友達同志の、声も張り上げない、あの楽しい会話の時の調子を残すようにと、鉛筆でノートしたこれら全てを、貴君は読まれるでしょう、貴君はこれらを、眼先きで軽く走り読みするでしょう、そしてここに、散らばらに幾つかの選ぶべき微細な伝記的事項で、多少真実の見解を持つ必要があることを、見出されるでしょう。貴君が御病気である、リウマチスを患っておられると知って、どんなに私は心を痛めていることか。私もその病気を知っています。非常に稀にしかサリチル酸を用いなさるな、そして服薬量の問題が極めて重大だから、良い医者にお懸りなさい。私は昔、この薬を用いて後、疲労し切って、精神の虚脱のような空隙を感じました。私の不眠症もこの薬の所為にしています。だが、そのうち、ソンネ一篇と散文一頁とをお届けしながら、貴君にお会いして、そのことをお話しましょう。それらの作品は、貴君の意志によって、それを入れようとする場合に合うような代物です。この二つのがらくた詩篇(「がらくた詩篇」に傍点)なしに、貴君が書き始めても大丈夫です。これで失礼します、親愛なヴェルレーヌよ。さよなら。

ステファヌ・マラルメ」


(原文は正字・正かな。引用にあたり新字・新かなに改めた。)







































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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