清水俊彦 『ジャズ・オルタナティヴ』

清水俊彦 
『ジャズ・オルタナティヴ』
 

青土社 
1996年11月30日 第1刷印刷
1996年12月20日 第1刷発行
376p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,884円(本体2,800円)
装幀: 戸田ツトム+岡孝治



本文中図版(モノクロ)多数。

駿河屋で注文しておいた古本が届いたので、イタリア文学再読計画の途中ではありますが、中断してそっちをよんでみました。『世界図絵』『世紀末中国のかわら版』『遠景・雀・復活』『鏡と街』そして本書、計3,400円でした。


清水俊彦 ジャズオルタナティヴ


帯文:

「音楽の
永久革命
のために

ニューヨーク新即興派をはじめとする
音楽の新しい実験者たちは、
ジャズの先端を駆け抜け、境界をくい破りながら、
たえず突然変異を遂げて、
われわれの断片化された世界に挑んでいる。
不断にうみだされる最新の動向に耳をそばだて、
そして投げ返された、
43組/71本におよぶクリティック・ノーツ集成。」



帯背:

「変容する
ジャズの前衛」



目次:

はじめに

第1部 From NY downtown scene
 ジョン・ゾーン John Zorn
  ・ふたたび出現しつつある〈呪われた部分の暴力〉
   ジョン・ゾーンのAVANTレーベルと
   その第一作『ヘレティック(異教徒)』について
  ・ロウアー・イースト・サイドのノイズ・メーカーたちが、
   ソニー・クラークに讃辞を呈した。
   ソニー・クラーク・メモリアル・カルテットの『ヴードゥー』について
  ・ジョン・ゾーンの『コブラ』について
  ・ジョン・ゾーンの『スピレーン』『ニューズ・フォー・ルル』のことなど
  ・べらぼうなハードコアが支配する――『スパイvsスパイ』について
  ・ジョン・ゾーンの『ネイキッド・シティ』は
   ネクスト・ウェイヴの先端を行く
  ・ジョン・ゾーンとネイキッド・シティの三枚のアルバムについて
  ・ジョン・ゾーンの『マサダ』をめぐって
 ビル・フリゼール Bill Frisell
  ・〈Tokyo Music Joy '91〉での
   ビル・フリゼールと彼のバンドの演奏は実に刺戟的だった
  ・リリカルな旋律からめくるめく音の塊に炸裂するビル・フリゼールの断言
  ・ビル・フリゼール――
   宙を舞うペダル・スティールの化身から金属的な機銃掃射へ
 ウェイン・ホーヴィッツ Wayne Horvitz
  ・ダウンタウン・シーンの重要人物のひとりである
   ウェイン・ホーヴィッツと彼の音楽について
  ・ニューヨーク・コンポーザーズ・オーケストラとウェイン・ホーヴィッツ
 フレッド・フリス Fred Frith
  ・突然の介入者あるいはたった二人だけの〈オーケストラ〉による
   ロックの解体学――スケルトン・クルー日本公演’83
  ・フレッド・フリスと彼の『ステップ・アクロス・ダ・ボーダー/
   ミュージック・フォー・ザ・フィルム』について
  ・フレッド・フリスとジーナ・パーキンスの近況の一端について
 エリオット・シャープ Elliott Sharp
  ・秩序と無秩序の接点から噴出する音波の混沌が放射する――
   エリオット・シャープの世界
  ・エリオット・シャープは痛烈な美しさで挑んでくる――
   問題は素材が働いているか否かにある
 クリスチャン・マークレイ Christian Marclay
  ・クリスチャン・マークレイのターンテーブル
 ティム・バーン Tim Berne
  ・ミニアチュール
   『アイ・キャント・プット・マイ・フィンガー・オン・イット』
  ・ティム・バーン『ナイス・ヴュー』について
 ローレンス・“ブッチ”・モリス Lorence 'Butch' Morris
  ・ブッチ・モリスのコンダクション――
   狂気と錯乱の王国へと誘いこむ美しさ、そして魂の記録
  ・いま動いている心のサウンド――
   心が夢を見るブッチ・モリスのメタファー
 ヘンリー・スレッギル Henry Threadgill 
  ・ヘンリー・スレッギル・セクステットの『ユー・ノウ・ザ・ナンバー』
  ・ヘンリー・スレッギルのユニット、ヴェリー・ヴェリー・サークル
  ・ヘンリー・スレッギルの『キャリー・ザ・デイ』
 レジー・ワークマン Reggie Workman
  ・レジー・ワークマンの新しいアンサンブルと
   ニッティング・ファクトリーでのそのライヴ・レコーディング
   『イメージズ』について
 チャールズ・ゲイル Charles Gayle
  ・フリー・ジャズは生きている! チャールズ・ゲイルについて
 ジェイムズ・ブラッド・ウルマー James Blood Ulmer
  ・ジェイムズ・ブラッド・ウルマーの
   『ミュージック・リヴェレーション・アンサンブル: ザ・ネイム・オヴ……』
   をめぐって
 N-BASE
  ・ラウンド・アバウトM-BASE
  ・スティーヴ・コールマン&ファイヴ・エレメンツ
   『ザ・タオ・オヴ・マッド・ファット』
  ・グレッグ・オズビー『3Dライフスタイルズ』
  ・ジャン-ポール・ブレリー『ブラッカデリック・ブルー』
 ドン・バイロン Don Byron
  ・ポスト・モダン・ワールドを浮動するドン・バイロンの折衷主義の精神
 ザ・ジャズ・パッセンジャーズ The Jazz Passengers
  ・ザ・ジャズ・パッセンジャーズの
   『ライヴ・アット・ザ・ニッティング・ファクトリー』について
 ロイ・ナサンソン/アンソニー・コールマン Roy Nathanson / Anthony Coleman
  ・フリー・サンプル――
   ロイ・ナサンソンとアンソニー・コールマンの機知に富んだ企て
 ユニヴァーサル・コングレス・オヴ Universal Congress Of
  ・ハーモロディック・パンクとユニヴァーサル・コングレス・オヴの新作
 ボブ・オスタータグ Bob Ostertag
  ・ボブ・オスタータグのゲイ・ミュージック
 トーマス・チェイピン Thomas Chapin
  ・トーマス・チェイピンの『アニマ』について
 マーティ・アーリック Marty Ehrlic
  ・暗い響きを持つものには“魔力”がある――
   マーティ・アーリックと彼のダーク・ウッズ・アンサンブル
 マイラ・メルフォード Myra Melford
  ・広範な評価を獲得しつつある
   マイラ・メルフォードと彼女のトリオ・アルバム
   『アライヴ・イン・ザ・ハウス・オヴ・セインツ』について
  ・独創的なピアニスト、マイラ・メルフォード
   彼女の新作『マイラ・メルフォード・エクステンデッド・アンサンブル: イーヴン・ザ・サウンド・シャイン』について
 マリリン・クリスペル Marilyn Crispell
  ・マリリン・クリスペルに注目しよう
 ブランダン・ロス Brandon Ross
  ・ジャズの戦士: ブランダン・ロスはどうしているのか?

第2部 freedom principle
 サン・ラ Sun Ra
  ・サン・ラ・アーケストラ『ライヴ・フロム・サウンドスケイプ』について
  ・太陽系/サン・ラにまつわるエピソード――
   “これがわれわれの場所だ”
 オーネット・コールマン Ornette Coleman
  ・オーネット・コールマンの『イン・オール・ランゲージズ』について
  ・オーネット・コールマンの『トーン・ダイヤリング』について
 セシル・テイラー Cecil Taylor
  ・セシル・テイラーの新しいユニットのすばらしさと
   詩の朗誦の意味深長さについて
  ・ベルリンのセシル・テイラー
 アンソニー・ブラクストン Anthony Braxton
  ・アンソニー・ブラクストンがモンクの六曲を演奏した
  ・アンソニー・ブラクストン『タウン・ホール1972』CD化によせて
 ジョセフ・ジャーマン Joseph Jarman
  ・ジョセフ・ジャーマンの『ポエム・ソング』
 ハル・ラッセル Hal Russell
  ・シカゴのジャズの反逆児ハル・ラッセルの生涯と時代と音楽
   『ハル・ラッセルNRGアンサンブル/ライヴ』
 スティーヴ・レイシー Steve Lacy
  ・スティーヴ・レイシーのスウィート・ベイジルでのライヴ録音について
 ポール・ブレイ Paul Bley
  ・ポール・ブレイの『ハンズ・オン』について
 ワールド・サキソフォン・カルテット World Saxophone Quartet
  ・ワールド・サキソフォン・カルテット&アフリカン・ドラムス
   『メタモアフォシス』
 ジュリアス・ヘンフィル Julius Hemphil
  ・ジュリアス・ヘンフィルと彼の二枚の新作について
 デイヴィッド・マレイ David Murray
  ・デイヴィッド・マレイのオクテット・アルバム
  ・デイヴィッド・マレイ・ビッグ・バンド

第3部 the forever bad blues
 ラ・モンテ・ヤング La Monte Young
  ・ラ・モンテ・ヤング/ザ・フォーエヴァー・バッド・ブルース・バンド
   『ヤングス・ドリアン・ブルース・インG』
 テリー・ライリー/クロノス・カルテット Terry Reily / Kronos Quartet
  ・テリー・ライリー/クロノス・カルテット
   『カデンツァ・オン・ザ・ナイト・プレイン』
 フィリップ・グラス Philip Glass
  ・ジョン・ケージ以降――フィリップ・グラスの場合
 アンソニー・デイヴィス Anthony Davis
  ・アンソニー・デイヴィスのオペラ
   『X ザ・ライフ・アンド・タイムズ・オヴ・マルコムX』について
 フランク・ザッパ Frank Zappa
  ・フランク・ザッパのたどった道程についての断片的な考察
 ガイ・クルセヴェック Guy Klucevsek
  ・ガイ・クルセヴェックとポルカの逆襲

第4部 the sound and the fury
 高柳昌行 Masayuki 'Jojo' Takayanagi
  ・響きと怒り――
   高柳昌行〈アクション・ダイレクト〉について
  ・高柳昌行ニュー・ディレクション『ライヴ・インディペンデンス』について
  ・高柳昌行の『ロンリー・ウーマン』のCD化によせて
 阿部薫 Kaoru Abe
  ・阿部薫の『ラストデイト』について
 間章 Aquirax Aida
  ・アナーキーな開かれた音楽の地平へ向けて
   間章『この旅には終りはない』『僕はランチにでかける』

あとがき




◆本書より◆


「はじめに」より:

「本書でとりあげるアーティストならびに彼らがうみだしてきたシーンは、ジャズというただひとつの源泉から発したわけではない。その源流はいくつもあり、流れは紆余曲折を繰り返している。(中略)じつに様々なものを貪り吸収していくジャンルだけにそれを解剖することはきわめてむずかしい。それぞれのミュージシャンやアンサンブルや作品がそれぞれ異なる音楽的ヴォキャブラリーやテクニックや影響(必ずしもつねに音楽的な影響に限られるわけではない)を、すなわち、ひと組みの新たな目的論的可能性をもたらしているのだ。
 こうしたミュージシャンや作曲家をひとつの理論的な傘下に置こうとするのは意味のない試みかもしれない(そうするにはあまりにもスタイル上、理論上の矛盾が多すぎる)が、すでに述べたように、彼らに共通する顕著な特徴をいくつか指摘することはできる。別の見方をすれば、たとえば、民族音楽の深い理解を含めて、百科事典的な音楽の知識を持っていることもそうだし、進んで様々な流派の音楽を並置したり、作曲と即興をミックスしたりするのも特徴的だ。また、新しいテクノロジーや新しいメディアを実験したがること、権威や順応主義に敬意を払わないという健全な態度、さらに、あくまでも商業的な音楽のシステムの外側で活動を続けようとする頑固な決意(もちろんそこにもやはり健全な必然性が伴っている)も共通している。こういう点では、彼らの系図はフラクタルなもの、共通の美学的なルーツから様々な方向に同時に枝を伸ばしている系統樹と見なすことができるだろう。コンピューター・ソフトウェアに侵入する〈トロイの木馬〉ともいうべき手に負えないウィルスみたいに、それは急激に変化し、たえず突然変異を遂げてさらに新しい精妙な子孫を生み出し、われわれの断片化された世界に挑んでいる。」

「ここで強調しておきたかったのは次のようなことである。すなわち、取り上げたミュージシャン、作曲家とその作品をひとつにくくる要素は、いわば共通の態度、姿勢ともいうべきものである。それは文化的美学的規範に対する果敢な挑戦であり、合理主義的言語そのほかの社会的・政治的現実、消費的資本によって要求されながら、個々の人間を歪めていった言説への不信であり、したがってアーティストたるもの、コミュニケーションにおける従来の様式に唾を吐きかけるだけでなく、その自己表出のために必要とされるのは、抽象から脱して感覚と感情と結びついた、より〈正統的〉(本質的)な方法を見出さなければならないという決意である。」



「突然の介入者あるいはたった二人だけの〈オーケストラ〉によるロックの解体学――スケルトン・クルー日本公演’83」より:

「絶対に言わなければならないことは、形はどうであれ、さまざまな冒険をして、とにかく表現されねばならない。あらゆる断絶は、カッコつきの〈始源〉の瞬間に立ち戻る。つまり、どこか隅っこにいる誰かが、(中略)あまりにも整合しすぎるものすべて、自分はなにか別のことを言わなければならないと思わせるものすべて、そういったものすべてに、絶対に我慢できなくなった時にたち帰る。(中略)事物のそういう次元での介入・発言はつねに反抗行為なのだ。」


「クリスチャン・マークレイのターンテーブル」より:

「クリスチャン・マークレイが演奏するのを見ていると、彼のレコードに対する軽蔑の気持ちが伝わってくる。彼は五、六台のターンテーブルの前に立ち、トーンアームを押さえつけてサウンド・システムを通して音をたたき出し、用がすむと肩ごしにレコードを投げ捨てる。文字通り切り刻み、張り合わせたレコードから音のループを紡ぎ出し、レコードにつけた糊から大きなズシンという音を引き出すのだ。マークレイにとって、レコードは不可侵の、固定した、一握りの情報ではなく、常に変化する、操作を受ける側のものである。」
「この偶像に対する攻撃、これが、ジョン・ゾーンなどとともにニューヨーク・ダウンタウン・シーンの中心人物の一人であるマークレイがやっていること、少なくともその一つである。音楽会社の聖なる牛、レコードを取り上げて、それをたたきのめすことによって、彼はレコードを聴いたり、〈演奏〉したりするプロセスをもっと多方向的な、オープンなものにしているのだ。
 レコードが閉じられた、完成された記録ではないと考えているマークレイがやっているようなことをすれば、レコードは恒久的なものではなく、傷がついたり、何かほかの変化が起こることがあるのがわかるだろう。彼はメディアそのものを聴こうとしているのであり――音楽がすべてに優先するという念仏を唱えるのではなくて――メディアをオブジェ(モノ)にしてしまうようなものをつくっているのだ。ラップのDJたちも、やはり普通とは違う姿勢をとっている。彼らはレコードを音楽の完成品だとはみなしてはいない。つまり、(中略)レコードは〈アクティヴな〉かたちで使うことができると考えているのである。
 そのオープンなところがすばらしいと思う。なにしろ、ぼくらは音楽は作曲されるもので、ぼくらの前に差し出されたら、もうそれを変えてはならないという観念を植えつけられて育ってきたのだから……。」
「彼はもとの音楽に対して荒っぽいことをするだけでなく、音楽をエンターテイメントとして使うことを拒否している。(中略)「聴きたいかどうかに関わりなく、ぼくらはエレヴェーターや食料品店やいろんなところで音楽を聞かされている」とマークレイは言う、「音楽はそこにある。公けの存在物の一部として、ぼく自身の一部としてあるんだ。だから、ぼくは自分がやっていることが盗作だとは思わない」と。彼は情報をねじ曲げたり、それをもとにして何かをつくったり、修正したり、ノスタルジーをそそるようなかたちでそれを使ったりするのが好きなのだ。また、受動的な聴き手にとどまるのではなく、それと相互的に関わり合うのも好きなのだ。」





こちらもご参照ください:

清水俊彦 『ジャズ・アヴァンギャルド クロニクル1967-1989』



































































































































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清水俊彦 『ジャズ・アヴァンギャルド クロニクル1967-1989』

「永遠に棘でありつづけること、それがコールマンの宿命であり、天賦の才能である。」
(清水俊彦 「フリー・ジャズの未来形」 より)


清水俊彦 
『ジャズ・アヴァンギャルド 
クロニクル 1967―1989』


青土社 
1990年7月5日 第1刷印刷
1990年7月20日 第1刷発行
433p 初出覚書1p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,600円(本体2,524円)
装幀: 戸田ツトム



清水俊彦の本は『ジャズ転生』をもっていたのですがうっかりして古書店に売ってしまいました。本書も出たときに買おうとおもって買い忘れていたのですが、今回アマゾンマケプレで600円(送料込)で売られていたので購入してみました。天にシミ、カバー&帯にイタミおよびカビ臭があるものの本文は良好でした。


清水俊彦 ジャズアヴァンギャルド 01


帯文:

「音楽の冒険者たち
20世紀を駆けぬける芸術のラディカリズムとして、
ジャズの先端に孕まれたアヴァンギャルドは、
さまざまな実験・解体・再生をかさね、
つねに同時代の芸術に対し、
鮮烈な挑発者でありつづけている。
音楽の冒険者たちが到達した極点をたどり、
その地平にジャズの新しい動向を予見。」



帯背:

「前衛ジャズの
行程」



帯裏:

「清水俊彦
一九二九年千葉県生れ。東京大学物理学科中退。故北園克衛に師事、詩を書くとともに、音楽批評、美術批評を書く。著書『清水俊彦ジャズノート』『ジャズ転生』(晶文社)、詩集『直立猿人』(書肆季節社)ほか。

[本書でとりあげられた
おもなアーティスト]
◎アート・アンサンブル・オヴ・シカゴ◎R・エイブラムス◎A・ブラクストン◎エアー◎S・レイシー◎D・ベイリー◎E・パーカー◎H・ベニンク◎O・コールマン◎J・B・ウルマー◎J・ゾーン◎S・コールマン◎ラスト・イグジット◎S・クリョーヒン◎B・フリゼール◎G・アレン」



カバー文:

「ネイキッド・シティ(Naked City)をはじめとして、ゾーンはハードコアの不穏な、反抗的態度や攻撃的な執拗さをさまざまなプロジェクトに利用しようとしている。しかも、この「Spy vs Spy」のなかでは、ハードコアはオーネットをふたたびさまざまなダウンタウン・ニューヨーク・シーン――オーネットの音楽そのものや、彼の飽くことなきパイオニア・スピリットが、このダウンタウン・シーンをつくり出すのに貢献し、それにエネルギーを与えつづけたのだ(ただし、ビル・フリゼールやジェリ・アレンの場合のように、亡きモンクの影響も無視するわけにはいかない)――に結びつける役割を果たしている。だから、ある意味では、ゾーンはハードコアを利用して、オーネットの音楽的系譜を拡大して、現在の予測できない方向へと結びつけ、それと同時に、過去にさかのぼるかたちで、その源であるオーネットの音楽を追認しているのである。…………………………」


清水俊彦 ジャズアヴァンギャルド 03


目次:

はじめに

1 シカゴ前衛派・AACM [’60年代後期―’70年代初期]
《フリー・ジャズの聖家族》の誕生 ロスコー・ミッチェル・セクステット『サウンド』
ユートピアをめぐるもうひとつの立場 リチャード・エイブラムス『レヴェルス・アンド・ディグリース・オヴ・ライト』『ヤング・アット・ハート/ワイズ・イン・タイム』
《集団的な記憶》をかき鳴らす永久祝祭の司祭たち アート・アンサンブル・オヴ・シカゴ『ピープル・イン・ソロウ(苦悩の人々)』
音楽、演劇、政治……あらゆる戦線におけるアタック ジョセフ・ジャーマン『ソング・フォー』
集団表現から個人的探求へ アンソニー・ブラクストン『フォー・アルト』

2 ニューヨーク・ロフト・ジャズとポスト・フリー [’70年代初期―中期]
《自由》の新しい定義をもとめて――ロフト・シーンとジャズの新しい波 サム・リヴァースのスタジオ・リヴビーから
インディペンデント・ジャズ――組織化するアーティストたちとジャズ・オーケストラの可能性 BAG/ヒューマン・アーツ・アンサンブル/CCC/JCOA
音楽的生存の戦術 フランク・ロウ+ラシッド・アリ『デュオ・エクスチェンジ』
歴史意識と即興表現の蜜月 エアー『エアー・ソング』
ポスト・フリーのパラダイムをきりひらく二人の先導者 スティーヴ・レイシー/アンソニー・ブラクストン
ジャズ・アヴァンギャルドの黎明よりつづくもうひとつの道 オーネット・コールマン

3 ヨーロッパ・フリー・ミュージック・シーン [’70年代後期]
《音楽の極北》あるいはフリー・インプロヴィゼーションの位相 デレク・ベイリー『デレク・ベイリー・ソロ』
イギリスのフリー・ミュージックの歩み エヴァン・パーカー+デレク・ベイリー+ハン・ベニンク『トポグラフィー・オヴ・ザ・ラングス』
ひらかれた即興集団カンパニーの誕生 マールテン・ファン・レグテレン・アルテナ+トリスタン・ホンジンガー+エヴァン・パーカー+デレク・ベイリー『カンパニー1』
予定調和への挑戦――カンパニーの実験と展開 エヴァン・パーカー+デレク・ベイリー+アンソニー・ブラクストン『カンパニー2』
ジャズの伝統からのラディカルな逸脱 ハン・ベニンク+デレク・ベイリー『カンパニー3』

4 ニュー・ウェイヴ・ジャズ [’80年代]
フリー・ジャズの未来形――ハーモロディックな流れ オーネット・コールマン+ジェームズ・ブラッド・ウルマー+ロナルド・シャノン・ジャクソン+ジャマラディーン・タクマ
音楽のポスト・モダンあるいは急速に変化する決定的に雑種の音楽 ジョン・ゾーン
表現媒体としてのM-Baseの提唱者とブルックリン=移植=軍団 スティーヴ・コールマン
ジャズを終わりのない冒険にむけて研ぎすましつづけること スティーヴ・レイシー『ザ・キッス』
’80年代の汎文化主義を払拭する《響きと怒り》 ラスト・イグジット『ライン・オブ・ファイヤー』
ソビエトのアヴァンギャルドの合流というメルクマールについて セルゲイ・クリョーヒン『ポリネシア~歴史概論』
エレクトロニクスと即興表現のインターフェイス リチャード・タイトルバウム『コンチェルト・グロッソ』
ギターと散乱 ビル・フリゼール
セロニアス・モンクの影――作曲と即興のバランス ジェリ・アレン

あとがきに代えて

前衛ジャズ関連年表
初出覚書



清水俊彦 ジャズアヴァンギャルド 02



◆本書より◆


「集団表現から個人的探求へ」より:

「本来は驚くべきことなのに、それがひんぱんに起こるので、いつの間にか当たり前のようになってしまうといった現象がよくあるが、ぼくがここでいおうとしているのは、七〇年代に入ってからソロ・アルバムが急にふえてきたということだ。(中略)つまり、かつてはピアニスト(中略)だけによって行われていたこの孤独な冒険は、この時点で他の楽器の演奏者のほとんどすべてに対して開かれるようになったのだ。
 これらのミュージシャンたちの大部分は、現実世界について多くの幻影を抱いていないし、革命的な態度もとってはいない。彼らを惹きつけているのは、個人的な解決を探し求めることだと考えられるが、その受け身の態度は明らかに離脱を示している。」
「「ぼくは曲のタイトルに好んで数学の公式を使いますが、実はそれは何も意味していないのです。というのは、何かをいおうと意図するのではなく、頭のなかを通過したものを書き記すにすぎないからです。それは世界についてのぼくのちょっとした考え、つまり不条理なのです。地球上のすべてのものが、ぼくには不条理に思われます。ぼくにとって人生は意義をもちません。(中略)すべてはぼくにとってどうでもよいことで、人がぼくに押しつける世界を辛うじて横切っていくことだけがすべてなのです……いいかえれば無関心と満足、この二つの言葉にぼくの哲学のすべてが要約されています。ぼくは楽しむ術を心得ており、外部からは何も期待しません。なぜなら、ぼくはうんざりするほど他人の倦怠を耐え忍んできたし、すでに十分自分自身の倦怠ともつき合わねばならなかったからです。」(ブラクストン『ジャズ・オット』誌、一九七一年四月号インタビュー)」
「アート・アンサンブル・オヴ・シカゴの面々とかアーチー・シェップのような《革命的》なミュージシャンたちと違って、彼らは《参加する》ことが絶対に必要だなどとは思っておらず、彼らにとって大切なのは自分自身であり、彼らは自分自身を音楽的に裸の状態に置いているのだ。たとえば、「数年前にぼくははじめてソロ・コンサートを開きましたが、その理由はただ一つ、もう一人の自分自身のようにぼくについて来る伴奏者が見つからなかったからです。ぼくはたった一人で演奏しながら、そのプロセスを思いどおりにコントロールしました。それはヒゲをそったり、風呂に入ったりしながら一人で歌をうたうようなもので、もっぱら楽しみのためなのです。」(ブラクストン/同じインタビュー)というように……。」
「こうした歩みのなかで意味をもってくるのは、政治的あるいは神秘的な企図(意味されるもの)ではなくて、ミュージシャン自身(意味するもの)である。つまり、彼らは社会の鏡としてのアーティストであるよりも、創造者としてのアーティストであることをより多く望んでいるのであり、そこでぼくらは個人の価値の回復という事態に直面するわけである。
 アンソニー・ブラクストンの論述の重要性が強調されねばならない理由の一つは、彼が、以上に述べたようなあり方を最もラディカルに生き抜いている、全く新しいヴォイスの一つであるからだ。」



「《音楽の極北》あるいはフリー・インプロヴィゼーションの位相」より:

「ヨーロッパの即興音楽のミュージシャンたちによる自己の利益の擁護は、もっと徹底している。レコード・ジャケットが手づくりである(中略)のもそのためである。つまり機械に頼るのではなく自分からいろいろな仕事に手を出しているのであり、アマチュア主義なのだ。それによって彼らの企ての統一性は強固になっており、それによって彼らは経済的、社会的な検閲をまぬがれているのである。そしてこのような“野蛮”な生産様式のおかげで、彼らには思いどおりのものを演奏する可能性が与えられているのだ。
 彼らはまた、芸術を、完成した生産物を、つまりは作品を引き渡すのを拒否することによって、活動の場を変えてしまった。その態度を謙虚というのは当たらない。むしろ首尾一貫しているように思われる。彼らにとって競争すること、資本主義のサーキットのなかで機能しているレコード会社と張り合うこと、そしてそれらと同じ音楽をつくり出すことなどは問題ではない。独自の機能を果たそうとするこうした意志は、リーダーがはっきりしたかたちで存在していないという事実にも示されている。そこで行われているのは、まぎれもない集団的な仕事なのだ。
 こうしたことの帰結として、発売されるレコードはドキュメントとして提出される。それは進行中の仕事の痕跡を記録する以外の何ものでもなく、それによって、彼らは規格化とか化石化とか同じ行為のくり返しといった危険を遠ざけている。この解決は別の面でも利益をもたらしている。すなわち彼らには、互いに出会ったり、外部の創造的なミュージシャンたち(中略)を招待したりしながら、今日の音楽の生きた力を、自分のまわりで触媒として作用させるといった可能性が与えられているのであり、動脈硬化や痙攣の発作から逃れることができるようになっているのだ。」
「では、こうした状況のなかで、ヨーロッパの即興音楽はどのように機能しているのだろうか。」
「まず最初にしなければならないのは、一見逆説的に見えるかもしれないが、この音楽がどのように機能しているかということよりも、どのように機能していないかということを明らかにすることである。なぜなら、くり返し述べてきたように、それは従来のジャズからはるかに逸脱しているからであり、この音楽にはその痕跡が見られないといった、いくつかの美学的/音楽的なモデルが存在しているからだ。
 《排除された最初のモデル》は、テーマ/インプロヴィゼーション/テーマという図式である。(中略)ある者たちにとっては、テーマという概念さえ博物館行きになろうとしている。」
「《排除された二番目のモデル》は、ソロイスト/リズム・セクションという伝統的な二分法であり、ヨーロッパの即興音楽のグループ構造はそれにもとづいてはいない。変革の対象になったのはとくにドラマーの役割であるが、他のミュージシャンたちも、グループやリーダーの考えがある範囲内で受け入れにくいと思った時には、それに従わずにもっと先へ進むこともできるのだ。原則にとらわれずに機能することは、プリミティヴな試みの一つにはちがいないが、同時にまた素晴らしいことでもある。」
「このようなヨーロッパの即興音楽について、作品をうんぬんするといったことはもはやできない。このことは、彼らがその組織の一つにつけたインスタント・コンポーザーズ・プールという名称にもはっきりと示されている。彼らの音楽はインスタント・コンポジション(即時的作曲とでもいうべきか)によっているわけだが、こうした概念が完成した作品にあてはまらないことは明らかである。それに接する時、最初にしなければならないのは、あるがままに聴くということだ。(中略)ぼくらはその解読を求められているのであり、それらは別の聴き方を規定し、別の聴き方を引き出そうとしているのだ。
 作品ではなく、それゆえに統一もなければ全体化もない。」

「以上のような状況のなかで即興言語のラディカルな拡張を企てながら、ヨーロッパの即興音楽の頂点に立っているのがデレク・ベイリーである。ベイリーについていえば、単なる言葉が彼の芸術的手腕のあり方を伝えることができるとはとても思えない。もし《ポスト・ウェーベルンのインプロヴァイザー》といった種類の概念があるとすれば、こうした用語によってこそベイリーの方向は真に説明されることができるだろう。」



「予定調和への挑戦」より:

「カンパニーを主宰するデレク・ベイリーがとくに避けようと思っていることは、彼がこれまでにつき合ってきたあらゆるグループのなかに彼が見出した傾向、つまり意識していると否とにかかわらず、同一と見なしうる、そしあて最終的には予測可能な《スタイル》の確立ということである。彼にとって集団音楽の最もエキサイティングな部分は、集団的なヴォキャブラリーが発展する以前の、形成の段階である。その点で、カンパニーは生きいきした真の実験の精神を維持するように計画されている。そして、そこに含まれるミュージシャンたちのすべてをつなぐ共通のきずなは、いうまでもなく彼らのすべてが音楽をつくるための手段としてフリー・インプロヴィゼーションを用いるということだ。しかもそれは非イディオマティックなインプロヴィゼーションであり、ミュージシャンたちがあらゆる種類のことをやれる領域である。彼らはそのなかに入っていき、演奏したいと思う音楽を見つけ出し、それを取り出して演奏することができる。しかし、それは思いのままに自由でありつづけようとする点で、何にもまして困難な仕事である。」


「ジャズの伝統からのラディカルな逸脱」より:

「カンパニーの音楽ひいてはヨーロッパの即興音楽について多くの場合いえることは、肉体的なものが音楽の場に荒々しく侵入してくることほど感動的なものはないということだ。」
「ある批評家によれば、「ヨーロッパの即興音楽はワイセツである。ベニンクは露出症であり、ブロッツマンはマザー・ファッカーであり、ブロイカーは恥知らずだ」という。ワイセツ性は今日では一種の流行のようなものであり、(中略)すでに一般に広く認められているものである。しかしヨーロッパの即興音楽では、プログラム化され、ショーの期待される要素として作用するようなワイセツ性は、ほとんど問題ではない。器質的でより確かなワイセツ性、いうなれば人が肉体を、束縛され閉ざされた状態から解放するや否やたちどころにあらわれてくるようなワイセツ性が問題なのだ。しかし、それゆえにそれは自由に途方も無く発展していく可能性を秘めているのであり、あえていえば音楽の擾乱にほかならない。そしてまた、それゆえにそれは(中略)ジャズの伝統からラディカルに逸脱しているのである。」




こちらもご参照下さい:

『間章著作集Ⅱ 〈なしくずしの死〉への覚書と断片』
植草甚一 『モダン・ジャズの発展』















































































Charles Mingus 『Beneath the Underdog』

「My music is evidence of my soul's will to live beyond my sperm's grave, my metathesis or eternal soul's new encasement. Loved and lovers, oneness, love.」


Charles Mingus 
『Beneath the Underdog』

Edited by Nel King

Vintage Books, Random House, Inc., New York, 1991
8+367pp, 20.5x13cm, paperback

Originally published in hardcover by Alfred A. Knopf, Inc., in 1971



チャールズ・ミンガスの自伝的小説。『負け犬の下で』のタイトルで日本語訳も出ています。


mingus - beneath the underdog


「Some names in this work have been changed and some of the characters and incidents are fictitious.」



◆本書より◆


「"In other words, I am three. One man stands forever in the middle, unconcerned, unmoved, watching, waiting to be allowed to express what he sees to the other two. The second man is like a frightened animal that attacks for fear of being attacked. Then there's an over-loving gentle person who lets people into the uttermost sacred temple of his being and he'll take insults and be trusting and sign contracts without reading them and get talked down to working cheap or for nothing, and when he realizes what's been done to him he feels like killing and destroying everything around him including himself for being so stupid. But he can't - he goes back inside himself."
 "Which one is real?"
 "They're *all* real."」


(「つまり、私は三人いるんだ。一人目はずっとまんなかにいて、無関心、無感動な傍観者で、黙り込んでいる。二人目は怯えた獣みたいで、攻撃されるのがこわくて自分から攻撃する。三人目は愛情深いおだやかな人物で他人がずかずかと土足で上がり込むにまかせ、なんでも頭から信じて、不利な契約をしてタダ働きさせられ、自分が何をされたかに後で気付いてまわりの全てや愚かな自分をめちゃくちゃにしてしまいたいと思ってもできなくて、結局自分自身に閉じこもってしまうんだ。」
「どれが本当の貴方なんです。」
「全部本当の私だ。」)



◆感想◆

 
少年時代に柔道を教えてくれた日本人商店経営者一家との心温まる交遊や、「男らしくなりたい」という妄想に駆られた青年時代の苦悶、若くして死んだファッツ・ナヴァロとの友情などが、精神科医とのユーモラスなやり取りを交えながら、俗語を多用したいかにもアメリカ小説的な文体で描かれています。主人公(ミンガス)の心の病が中心テーマになっているので、ジャズ・ミュージシャンの自伝・回想記というよりは、むしろ『ポートノイの不満』のような一時期流行したサイコセラピー小説の一冊として読むべきかもしれません。かなり本格的な小説になっているのは、「編集」にあたったネル・キングなる人物の手腕なのでしょうか。本書は「難解」だというウワサを聞いていたのですが、俗語を多用しているといっても、意味は文脈であらかたわかるようになっており、外見は野生的なミンガスの内面の繊細さ・弱虫ぶりが興味深く、つるつるっと読めました。ジャズ回想記だと思って購入したので、エリック・ドルフィーに関する記述があまりなかったのが残念といえば残念でした。















































































































ベン・ラトリフ 『ジョン・コルトレーン―私は聖者になりたい』 (川嶋文丸 訳)

唐突ですが、すきなコルトレーンのアルバムは「ライヴ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン!」と「オラトゥンジ・コンサート」です。
今回は「リハビリがてら図書館に行って本を三冊借りて家に帰って寝ながらよみました」シリーズの最終回です。



図書館で借りた本

借りてきたのはこの三冊、今日はその中から、


ベン・ラトリフ 
『ジョン・コルトレーン―私は聖者になりたい』 
川嶋文丸 訳


P・ヴァイン・ブックス
ブルース・インターアクションズ 2008年9月23日初版発行
369p xxiv 口絵4p(うちカラー1p)
四六判 角背紙装上製本 カバー 定価2,381+税
Ben Ratliff : Coltrane: The Story of a Sound, 2007



を紹介します。著者はニューヨーク・タイムズ紙に寄稿するジャズ評論家。
邦訳のサブタイトル「私は聖者になりたい」(I would like to be a saint)は、1966年の来日公演記者会見での発言です。


目次:

イントロダクション
第一部 コルトレーン音楽の変遷
 第一章 ウィリー・メイズって誰だい?
 第二章 これといった成果はなく…
 第三章 プレスティッジ
 第四章 理論マニア
 第五章 ヴァンガード=先駆者
 第六章 二つのコンセプトの同時進行
 第七章 最高の善
第二部 コルトレーンが与えた影響
 第八章 そのスタイル
 第九章 スピリチュアル
 第十章 おまえは死ななければならない
 第十一章 暗い日々
 第十二章 次のコルトレーン

訳者あとがき

出典と謝辞/notes/ディスコグラフィ



音楽にしか興味がなかったコルトレーンのサックスのリードが、練習しすぎて「血で赤くなったことがあるのを、ヒース(ジミー・ヒース)は覚えている」。ヒースは有名なホームラン打者のウィリー・メイズについてコルトレーンに話したが、コルトレーンはウィリー・メイズを知らなかった。そのジミー・ヒースを「誰もがジミーと呼んだが、コルトレーンだけはジムと呼んだ。そう呼ぶのは彼だけだった」。コルトレーンは服装にこだわりがなかった。「彼はインタビューにおいて、いい語り手ではなかった。聖者になりたいと望むにしては、がっかりするほど平凡なことしか喋らなかった」「評論家にとって、音楽を語るのに感情や歴史的な背景について説明しないミュージシャンほど厄介なものはない」。「コルトレーンの性格の特徴として控えめだということが挙げられるが、これは他人に対してだけであって、自分に対してはそうではなかったことは明らかだ」。
「彼は人との付き合いには無関心なタイプだった」(アリス・コルトレーン)
コルトレーンは「理論マニア」だった。

スティーヴ・ライヒ、ラモンテ・ヤング、テリー・ライリーはコルトレーンの熱心なファンだった。

「サンフランシスコにいるころ、『アフリカ/ブラス』が発売された。これほどわたしが影響を受けた音楽はない。なにしろLPの片面全部がEのキーだけで演奏されるんだ。「コードは何だい?」「Eだ」「ほかには?」「Eだけだよ」。Eのキーで三十分も続けるなんて! とてつもない感銘を受けた。その曲に教えられたのは、ひとつのハーモニーを長時間にわたって持続できるということだった。音色を変化させることによって、スケールの十二の音だけで、どんなふうにでも演奏することができるんだ。それがすべてこのレコードに示されていた。」
(スティーヴ・ライヒ)


本書より:

「そこから感じられる性質は、忍耐力であり、ある種の解離した精神であり、持久力であり、バンドやリスナーに捉われることなく、創造的なアイデアが殻のなかからゆっくりと滲み出るのを待つ、不可解とも言えるほどの真摯な心である。どんな方向から攻撃を受けるか分からない開けた平野に立ち入ったよそ者が、あたりを警戒しながら、慎重に、防御の姿勢で身構えているイメージが思い浮かぶ。」

「「調子はどう?」と彼は言った。わたしは「万事オーケーだよ」と応じた。すると彼は「アインシュタインの相対性理論についてどう思う?」と訊いてきた。
彼は相対性理論についてのわたしの考え方に興味があったわけではないと思う。ただそれについて彼が知ったことを誰かと共有したかったのだ。わたしが何も答えられないでいると、彼は太陽系の対称性についての驚くべき話をとうとうと語り始めた。話は宇宙にあるブラック・ホールや星座や太陽系の全体像にまで及んだ。そしてアインシュタインはどうやってあんな複雑なものをシンプルにまとめることができたのだろうと言った。
最後に彼は、同じようなことを音楽でやろうとしているのだとわたしに説明した。それはわたしたちがもっている自然の原資から派生したもの、つまりブルースとジャズの伝統になるはずだが、何が音楽にとって自然なのかについてはさまざまな見方があると語っていた。」
(ディヴィッド・アムラム)

「モンクに関して、彼は従来の観点からすると誤っているように聴こえる音楽を演奏することに確信を抱いていたと、コルトレーンはブルーム(オーガスト・ブルーム)に語る。「彼の創り出す音楽はいつもミステリアスに響いた。だが彼がやっていることを理解すれば、ちっともミステリアスじゃないのが分かる。彼はそれほど大げさなことをやっていたわけじゃない。真実とは単純なものだ。たとえば、彼は曲を書いていて、ある箇所で『ここはマイナー・コードにして、三度の音を外そう』などと言い出すんだ。彼は『これはマイナー・コードだ』と言う。わたしが『短三度がなければ、メジャーかマイナーか分からないじゃないか』と言うと、彼は『マイナー・コードの見分け方なんて、いったいどこにあるんだ。とにかく、これは三度の音を抜いたマイナー・コードなんだ』と言い張る。そして彼がそれを演奏すると、音はすべて流れのなかにぴったりはまり、正しいヴォイシングになっていて、マイナーに聴こえるんだ」」

「一九六二年六月、コルトレーンと親しい間柄にあったダウンビート誌の編集長ドン・デマイケルは、コルトレーンから次のような手紙を受け取った。

 アーロン・コープランドの素晴らしい本『音楽と想像力』を送ってくれてありがとう。(略)けれども、彼の主張がそのまま“ジャズ”ミュージシャンにあてはまるとは感じなかった。この本は問題を抱えているアメリカのクラシックまたはセミ・クラシック作曲家のために書かれたもののように思う。その問題とは、コープランドによると、自分が音楽コミュニティを構成する一員になっていないという不安感や、自分の音楽の基盤となる実践的な哲学やそれを正当化する根拠を見出せないという焦りだ。“ジャズ”ミュージシャン(これは私たちの意思に関係なく、誰かに押しつけられた用語だが)はそんな実践的、積極的な哲学がなくても思い悩む必要はない。すでにわたしたちのなかに備わっているからだ。音楽のフレージングやサウンドがそれを証明している。わたしたちには生まれつきそれが与えられているんだ。そうでなければ、わたしたちはとっくの昔にこの世から消滅していただろう。コミュニティに関して言えば、地球上のすべての場所がわたしたちの住むコミュニティだ。
(略)
…ところで、ドン、ぼくは今日、ヴァン・ゴッホの生涯について書かれた本を読んでいた。ぼくは途中でしばらく読むのを中断して、あの素晴らしい、永遠に持続する力――創造的な衝動について考えを巡らせた。自分が住んでいる世界に大きな違和感を抱いていたこの男には創造的な衝動があった。どんなに不運が重なり、挫折を味わい、拒絶されても、美しい、生きた芸術が彼のなかからあふれ出てきた…彼がいまここにいたならと思うよ。
真実は破壊することができない。革新者がしばしば非難を浴びるということは歴史が証明している(いまもそうだ)。それは世間に広く普及している表現形態からどれだけ離れているかの度合いによって起こる。変化はいつも受け入れがたいのだ。こういった革新者たちはいつも与えられた分野における現状を、なんとかして活性化し、拡大し、再構築しようとする。おおむね彼らは自分たちが糧をもたらす社会において、欠陥人間であり、落伍者であり、できそこないの市民だ。多くの場合、彼らは人生のなかで途方もない個人的悲劇を耐え忍ぶ運命にある。受け入れられるにせよ拒絶されるにせよ、金持ちであれ貧乏であれ、いずれにせよ彼らはいつまでも、あの偉大な永久不変のもの――創造的衝動によって導かれる。それを慈しみ、神に感謝をささげよう。」

「一九六六年、(ラシッド・アリが)コルトレーン・グループに入ってヴィレッジ・ヴァンガードに出演していたときのこと、開演前にクラブの楽屋でコルトレーンにフランク・ライトについてどう思うかと訊ねられた。ライトは若いフリー・ジャズのテナー奏者であり、その夜クラブにやって来て、グループのライヴに飛び入りで参加させてもらえないだろうかとコルトレーンに頼んだ。そこでコルトレーンはライトと知り合いだったアリに訊ねたのだった。アリの返事はライトにとって好意的なものではなかった。

 「ああ、あいつはそんなに吹けないよ」とわたしは言った。彼がわたしを見つめたので、わたしは繰り返した。「あいつの演奏はたいしたことはないよ」ってね。
時間がきて、わたしたちはステージに向かった。ステージに出た彼は、真っ先に「ヘイ、上がってこいよ」とライトに声をかけた。
そのセットが終わったあと、楽屋で彼はわたしが生涯忘れないことを言った。「どんな演奏をするやつでもかまわない。音楽に真剣に取り組んでいるかぎり、そこにはかならず耳を傾けさせるものがある。たったひとつの音符、たったひとつのサウンドかもしれないが、好ましく思うところがあるはずだ」」

























































シャルル・ドゥローネ 『ジャンゴ・ラインハルト伝―ジャンゴ わが兄弟』 (平野徹 訳)

リハビリがてら図書館に行ってきました。本を三冊借りて、家に帰って寝ながらよみました。



図書館で借りた本

借りてきたのはこの三冊、今日はその中から、


シャルル・ドゥローネ 
『ジャンゴ・ラインハルト伝―ジャンゴ わが兄弟』 
平野徹 訳


河出書房新社 2009年12月20日初版印刷/同30日初版発行
307p 人名索引・ディスコグラフィーlvi 四六判 丸背紙装上製本 カバー 定価2,500円+税
装幀: 前田晃伸
Charles Delaunay : Django Mon Frere, 1968


を紹介します。ジャンゴ・ラインハルトはフランスで活躍したジャズのギターの人です。やけどをしたので左手の小指と薬指がつかえなかったのです。
わたしが二番めにすきなジャズ・ギタリストです。一番すきなのはデレク・ベイリーで、三番めはグラント・グリーンです。グラント・グリーンは同じフレーズを何度も繰り返すところがすきです。
ちなみにいうといちばん好きなロックのギターの人はトニー・アイオミです。1970年代のブラック・サバスのギターパートはぜんぶ耳コピしました。ちなみにいちばん最初に耳コピしたブラック・サバスの曲は「エンブリオ」です。いちばんすきなブラック・サバスの曲は「ソリテュード」です。いちばんすきなブラック・サバスのア


本書「訳者あとがき」より:

「本書は(略)一九三〇年代から五〇年代にかけて、フランスをはじめ欧州各地で活躍したジャズ・ギタリストで作曲家のジャンゴ・ラインハルトの評伝で、著者自身が聞き取りをおこなった証言や雑誌の批評記事によって、その大部分が構成されています。」「著者のシャルル・ドゥローネ(1911-1988)は、冒頭に述べられているように、ジャンゴ本人の友人であり、プロモート、マネージメント面でジャンゴと長い関係をもつことになった人物です。」


目次:

人物
ミュージシャン
むかしむかし
喧騒の少年期
真のデビュー
弦楽五重奏団
ステファン・グラッペリ
弦楽五重奏団(承前)
戦争
一九四四年、戦争末期
アメリカ合衆国
フランスへの帰還

訳者あとがき (平野徹)

ディスコグラフィー
人名索引


本文中モノクロ図版(写真)多数。


本書より:

「パリやその市街にめぐらされた城壁のことを、幼い子たちはおぼえていなかった。中世の通行税という遠い昔の伝統を想起させる入市税関がおかれ、格子で囲まれた城門からは、手続きを終えた人々が吐き出されていた。城門から数百メートル離れたところから、郊外地域がひろがっていく。城壁と郊外地域に挟まれた帯状の地域は「ゾーヌ」と呼ばれ、垣根やごく小さな庭が複雑に入り組み、迷路のようになっていた。ここには日曜になると、熱心な園芸家たちがやってきて、ごったがえしていた。それぞれの城門の周辺には、巨大なごみ捨て場や、用途を終えた溝を埋め立てる目的で運びこまれた産業廃棄物の山ができていて、異臭がただよっていた。菜園のあるまともな集落からは隔離され、都会のはきだめとなった不衛生な貧民街ではあったが、この地域は旅芸人たちが縁日の興行をおこなう場所であり、「のみの市(マルシェ・オ・ピュス)」の名で知られる骨董市でにぎわい、昔日の名残をいまに伝えている。
放浪民たちがキャラバン(ジプシーが移動に用いた木造の家馬車)の野営地としたのはこうした場所だった。」

「ジャンゴはアーティストとしての自分にはうぬぼれが強く、広告などには細部まで注文をつけ、ポスターなどに自分の名がちゃんと大書されているかどうかまで確認していた。メディアの賛辞にはめっぽう弱く、自分について書かれた記事があれば切り抜いて集め、それらをうれしそうに友人に見せていた。」

「信じがたいほど現実世界に適応できなかったジャンゴは、まゆつばものの儲け話をちらつかせる興行主の甘言に、ころりと騙されていた。」

「周囲の人々を何度失望させても、ジャンゴの空想の度がやわらぎ、行動があらたまることはなかった。年がたつごとに、友人たちにたいするジャンゴの猜疑心は強まり、自分を食い物にしようとしているのではないかと、自分で採用したミュージシャンにさえ疑いの目を向けた。」

「ジャンゴの怒りっぽさは有名で、聴衆にたいしてさえも例外ではなく、演奏になにか注文をつけられようものなら、即座にギターをおいてその場を去ってしまうのだった。」

「ジプシーは古来からの自分たちのしきたりを守り、基本的には無一文で、種々の手仕事、祭りでの芸能、楽器演奏や運勢占いなどで生計を立てていた(略)。労働は彼らの中心的活動ではない。ジプシーの男たちの目には、はたらくことは恥とさえうつる。」

「彼は不器用で、自分を表現するのが苦手なだけだった。言葉は荒っぽいけど、なにかやさしいものがある。そう感じた。」(ステファン・グラッペリ)

「そのころのジャンゴはまるで原始人で、世の中で価値あるとされる物には目もくれず、なにより好きな音楽のためだけに生きている感じだった。(略)ジャン・コクトーは、ジャンゴに想を得て、『恐るべき子供たち』の登場人物のひとりを描いた。」(アンドレ・エキヤン)

「マナーなどこれっぽっちも知らないし、身なりはこっけいで、なによりも人見知りで気まぐれな性格のせいで、彼が一般社会でやっていくのは少なからぬ困難がともなっていた。」

「(ニューヨーク)滞在中にジャンゴは衣装を三着も買って、真青の色の靴を履いて出たんだけど、何ともいえない奇妙な恰好だった。こんな服装に興味を示すのはジャンゴ本人だけというような、信じがたいいでたちだったよ。」(ジャン・サブロン)

「ジャンゴからぼくらが学んだ重要な教訓は、彼がそうしてみせたように、完全に自由に自分を表現することだったと思う。
ほんとうに素晴らしい夜が何度もあった。彼がいろいろなアイデアを発見したからというより、彼があえてやってみせた ― 彼にしかあんなふうにはできない ― ことが素晴らしかったのだ。
ジャンゴにはリーダーの資質はなかった。アンプは調整不足でしょっちゅう問題を起こしていた。だけどジャンゴには個性があった。まさに彼だけの、独自のハーモニーによって演奏する方法を、ジャンゴはもっていた。たとえ知らないアメリカの曲であっても、無意識のうちに、さっと彼独自のやりかたで和音を代理させて調和させてしまう。」(レイモン・フォル)


ジャンゴは文字の読み書きができなかったが、音に関しては優れた能力があった。重いものを持つのがきらいだったので、ツアーにギターを持っていかなかった。法外なギャラを要求し、それをすべて賭け事に使ってしまった。仕事にはしょっちゅう遅刻してきた。前歯がぼろぼろに欠けてしまっても、治療がこわいから人に無理やり連れていかれるまで歯医者に行こうとしなかった。
晩年にはギター演奏よりも絵を描くことに夢中になり、「自分はもう人から理解されない、引退して家で静かにすごしたい」「自分にはもう運は向いてこない」と口にしていた。

引用は、本ブログの趣旨に沿って、自閉症的・鬱病的な記述を意図的に選んだものですが、本書そのものは、〈天才〉ジャンゴ・ラインハルトに対する共感と畏敬の念に基いた、フランス的「C'est la vie」精神を感じさせる楽しいながらもほろ苦い読み物になっています。ジャンゴの奇抜な行動や遅刻癖も、ジャンゴがそういう人だったというだけのことなので、よいもわるいもないのです。

本書は、よい本なので、そのうち購入したいと思います。



































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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