副島輝人 『日本フリージャズ史』
「ジャズをやるってことは、何かヤバイ暗い地下への階段を降りるみたいな感じだった。だけど、俺はあえてそれを降りて、飛び込んでしまったんだ」
(坂田明)
副島輝人
『日本フリージャズ史』
青土社
2002年4月30日 第1刷発行
400p 索引・文献・資料 xxii
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円(税別)
装幀: 松田行正
本文中図版(モノクロ)多数。
ちなみにわたしが尊敬する日本のフリージャズの人は吉沢元治です。

帯文:
「一撃で世界を覆す〈音〉が
夜ごと放たれていた…………
60年代末、擾乱の時代の旗頭として登場した日本のフリージャズは、
世界を先取りする屹立した表現を生み出してきた。
揺籃期から今日までミュージシャンと共闘して
シーンを切り拓いてきた著者が証す、渾身の書き下ろし。」
帯背:
「叛音楽史覚書」
目次:
第1章 自立への鳴動
新世紀音楽研究所の運動
フライデー・ジャズ・コーナーの実験的演奏
日本のジャズ自立への意識
ジャズ・ギャラリー8の開店
日本初のフリージャズ・グループ、富樫雅彦カルテット
渡辺貞夫の帰国と、世界のフリージャズ情況
第2章 日本フリージャズの確立と展開
ジャズは銀座から新宿に移る
新宿ピットイン
初期の山下洋輔グループ
ニュー・クリティシズムの台頭
吉沢元治トリオ
富樫雅彦の活動
初期の佐藤允彦トリオ
ESSGというグループ
形相のジャズ・山下洋輔トリオ
ジャズ界組織化への幻想
日本初のフリージャズ・コンサート
山下洋輔のコンセプト
富樫雅彦のコンセプト
高柳昌行の主張と佐藤允彦のメソッド
フリージャズの意味と方法
高柳昌行ニュー・ディレクション
フリージャズにおける空間の概念
第3章 突出した前衛として
ニュージャズ・ホールの創設と富樫の事故
映画『連続射殺魔』とレコード『アイソレーション』
高柳昌行のニュージャズ・ホール離脱
阿部薫という男
阿部薫の生と死
ナウ・ミュージック・アンサンブルの出現と、その時代背景
ナウ・ミュージック・アンサンブル――過激から狂気へ
ナウ・ミュージック・アンサンブル――聴衆への挑発
六〇年代イヴェントの突出度
タージ・マハル旅行団
ニュージャズ・シンジケート
現代詩との共演
アンダーグラウンド映画との提携
沖至のイメージするもの
高木元輝と豊住芳三郎の抽象的対話
がらん堂
コンポーザーズ・オーケストラ
ニュージャズ、地方に進出
ニュージャズ・ホールの閉幕
第4章 栄光の時代
プルチネラ・ライヴの発足
プルチネラを襲った低気圧と高気圧
坂田明の登場
梅津和時、片山広明、近藤等則等の出現
ミクスド・メディアのイヴェント『グローバル・アート・ヴィジョン♯71』
暗黒舞踏『四季のための二十七晩』への参加
第一回フリージャズ大祭『インスピレーション&パワー14』
豊住・高木の外遊と、沖のフランス移住
山下洋輔トリオのヨーロッパ大遠征
『スピリチュアル・ネイチャー』
『四月は残酷な月だ』
『インスピレーション&パワー Vol.Ⅱ』
佐藤允彦ソロ・ピアノ三部作
金井英人とキングス・ロアー
中村達也の創造的オリジナル楽器
第5章 ポップ・アヴァンギャルドの創出
明田川荘之の『アケタの店』と、八王子『アローン』の梅津和時
井上敬三の登場
半夏舎と間章の死
近藤等則の脱日本的あり方
日本発ポップ・アヴァンギャルド
坂田明の場合
『どくとる梅津バンド』
フリージャズ第一世代の動向
『藤川義明&イースタシア・オーケストラ』
フリージャズ vs 現代音楽――『パンムジーク・フェスティバル16東京』
海外フリージャズ・ミュージシャンの招聘
『メールス・ジャズ祭』への進出
世界的視野から見たポップ・アヴァンギャルド
ミュージシャンと批評家の関係の一例
『スタジオ200』での『月例インスピレーション&パワー』
第6章 越境と変貌
〈無国籍/無境界〉音楽
価値紊乱者、ジョン・ゾーン
邦楽との遺伝子交換
富樫雅彦と映画『千年刻みの日時計』
アジアからの風、姜泰煥
高瀬アキと橋本一子
新しい俊英たち
“熱さ”について
高柳昌行のアクション・ダイレクトという方法
逝ける人々
第7章 今日から更なる明日に向けて
九〇年代俯瞰
大友良英の新しい音への挑戦
不破大輔『渋さ知らズ』の疾走
あとがき
参考文献・資料
人名・グループ名索引

◆本書より◆
「普段でも阿部(引用者注: 阿部薫)の意識は、彼の演奏のように日常的世界から飛んでいたようだ。しばらく姿を見せないことがあった後、人に聞かれると「ヨーロッパを巡っていた」とか「アルゼンチンに行って戦争に参加していた」と答える。それを冗談とも思えないクールな真面目さで云うのだ。(中略)幡ヶ谷のジャズ・スポット『騒(がや)』に、少女のメイクをしてランドセルを背負い、ニコリともしないで現れたのは有名な話だ。」
「阿部自身が語ったり書きつけたりしたものから、二、三選び出してみる。
――七四年八月十六日の軍楽隊のコンサートについてですけど、軍楽隊を組織した目的みたいなものは何ですか。
阿部 それは人間の敵というか、生命の敵に突撃する為に創ったんです。生きるという事が、かなりコントロールされているし、感受性なんかも本当は自分のものを持っていても、他から持ってこられた感受性である場合が非常に多いんじゃないかと思うんです。それは目に見えないものなんだけれども、やっぱりある種の生きて行く上での敵というものがあると思うし、それに向って突っ込んでいくみたいな事で、僕は創ったんです。別に政治的意図なんていうのはありません。」
「――演奏している時は、どんな感じなんですか。
阿部 どんな感じって……音を出すという事に徹している。よく愛だの平和だの言うけど、僕の場合は、それがない訳ね。憎悪の感ていうのが、ものすごくあって、それがあればある程、僕は良い音が出せると思うし。(月刊『音楽』誌七四年八月号)」
「判断の停止をもたらす音。消えない音。あらゆるイメージからすりぬける音。死と生誕の両方からくる音。死ぬ音。そこにある音。永遠の禁断症状の音。私有できない音。発狂する音。宇宙にあふれる音。音の音……。(『スイングジャーナル』誌七〇年四月号)」
「吉沢元治も、九八年九月十二日に世を去った。彼もまた肝臓を病んで、長い闘病の日々を送った後のことだった。ジャズ・ミュージシャンは、例え肉体がボロボロになっていてもステージに立ち、観客に裸の心を晒して表現行為を行うのだから、ライヴを見ていても痛々しい。しかし、それが人間の生きざまとして、人々を感動させる。
三十年近くも昔、若い元気な吉沢が言った言葉が思い出される。
「ジャズを分ろうと思ったら、まずジャズマンってものを分ってもらわなくっちゃ」
その通りだと思う。とりわけ吉沢の場合は、自分の心の赴くままに、自由な風のように生きていた人だったし、彼の心は極めてストレートに音楽となっていた。
彼は七〇年代に入った後は、自分のグループを作ることはもとより、特定のバンドのメンバーにさえ絶対に加わろうとはしなかった。風のような一匹狼だった。」
「彼の旅も生き方も、即興的なのである。私は、ふと捨聖と呼ばれた一遍上人を思い出す。来りては、また去って行く。説法の代りに、心おもむくままのベースを弾いて。何に執着する訳でもない。」
「吉沢が最後に見出した究極の共演者は、知的障害を持つ僧のグループ『ギャーテーズ』だった。吉沢は彼等の中に飛び込んで演奏した。死の一年くらい前だったか、電話で話した時に吉沢は
「彼等はいいよ。お経を合わせて唱えることも難しい連中なんだけど、その代り一人一人が全く純粋な心で声を出すんだ。これが本当のインプロヴァイジング・ミュージックだな」
と嬉しそうだった。」
(坂田明)
副島輝人
『日本フリージャズ史』
青土社
2002年4月30日 第1刷発行
400p 索引・文献・資料 xxii
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円(税別)
装幀: 松田行正
本文中図版(モノクロ)多数。
ちなみにわたしが尊敬する日本のフリージャズの人は吉沢元治です。

帯文:
「一撃で世界を覆す〈音〉が
夜ごと放たれていた…………
60年代末、擾乱の時代の旗頭として登場した日本のフリージャズは、
世界を先取りする屹立した表現を生み出してきた。
揺籃期から今日までミュージシャンと共闘して
シーンを切り拓いてきた著者が証す、渾身の書き下ろし。」
帯背:
「叛音楽史覚書」
目次:
第1章 自立への鳴動
新世紀音楽研究所の運動
フライデー・ジャズ・コーナーの実験的演奏
日本のジャズ自立への意識
ジャズ・ギャラリー8の開店
日本初のフリージャズ・グループ、富樫雅彦カルテット
渡辺貞夫の帰国と、世界のフリージャズ情況
第2章 日本フリージャズの確立と展開
ジャズは銀座から新宿に移る
新宿ピットイン
初期の山下洋輔グループ
ニュー・クリティシズムの台頭
吉沢元治トリオ
富樫雅彦の活動
初期の佐藤允彦トリオ
ESSGというグループ
形相のジャズ・山下洋輔トリオ
ジャズ界組織化への幻想
日本初のフリージャズ・コンサート
山下洋輔のコンセプト
富樫雅彦のコンセプト
高柳昌行の主張と佐藤允彦のメソッド
フリージャズの意味と方法
高柳昌行ニュー・ディレクション
フリージャズにおける空間の概念
第3章 突出した前衛として
ニュージャズ・ホールの創設と富樫の事故
映画『連続射殺魔』とレコード『アイソレーション』
高柳昌行のニュージャズ・ホール離脱
阿部薫という男
阿部薫の生と死
ナウ・ミュージック・アンサンブルの出現と、その時代背景
ナウ・ミュージック・アンサンブル――過激から狂気へ
ナウ・ミュージック・アンサンブル――聴衆への挑発
六〇年代イヴェントの突出度
タージ・マハル旅行団
ニュージャズ・シンジケート
現代詩との共演
アンダーグラウンド映画との提携
沖至のイメージするもの
高木元輝と豊住芳三郎の抽象的対話
がらん堂
コンポーザーズ・オーケストラ
ニュージャズ、地方に進出
ニュージャズ・ホールの閉幕
第4章 栄光の時代
プルチネラ・ライヴの発足
プルチネラを襲った低気圧と高気圧
坂田明の登場
梅津和時、片山広明、近藤等則等の出現
ミクスド・メディアのイヴェント『グローバル・アート・ヴィジョン♯71』
暗黒舞踏『四季のための二十七晩』への参加
第一回フリージャズ大祭『インスピレーション&パワー14』
豊住・高木の外遊と、沖のフランス移住
山下洋輔トリオのヨーロッパ大遠征
『スピリチュアル・ネイチャー』
『四月は残酷な月だ』
『インスピレーション&パワー Vol.Ⅱ』
佐藤允彦ソロ・ピアノ三部作
金井英人とキングス・ロアー
中村達也の創造的オリジナル楽器
第5章 ポップ・アヴァンギャルドの創出
明田川荘之の『アケタの店』と、八王子『アローン』の梅津和時
井上敬三の登場
半夏舎と間章の死
近藤等則の脱日本的あり方
日本発ポップ・アヴァンギャルド
坂田明の場合
『どくとる梅津バンド』
フリージャズ第一世代の動向
『藤川義明&イースタシア・オーケストラ』
フリージャズ vs 現代音楽――『パンムジーク・フェスティバル16東京』
海外フリージャズ・ミュージシャンの招聘
『メールス・ジャズ祭』への進出
世界的視野から見たポップ・アヴァンギャルド
ミュージシャンと批評家の関係の一例
『スタジオ200』での『月例インスピレーション&パワー』
第6章 越境と変貌
〈無国籍/無境界〉音楽
価値紊乱者、ジョン・ゾーン
邦楽との遺伝子交換
富樫雅彦と映画『千年刻みの日時計』
アジアからの風、姜泰煥
高瀬アキと橋本一子
新しい俊英たち
“熱さ”について
高柳昌行のアクション・ダイレクトという方法
逝ける人々
第7章 今日から更なる明日に向けて
九〇年代俯瞰
大友良英の新しい音への挑戦
不破大輔『渋さ知らズ』の疾走
あとがき
参考文献・資料
人名・グループ名索引

◆本書より◆
「普段でも阿部(引用者注: 阿部薫)の意識は、彼の演奏のように日常的世界から飛んでいたようだ。しばらく姿を見せないことがあった後、人に聞かれると「ヨーロッパを巡っていた」とか「アルゼンチンに行って戦争に参加していた」と答える。それを冗談とも思えないクールな真面目さで云うのだ。(中略)幡ヶ谷のジャズ・スポット『騒(がや)』に、少女のメイクをしてランドセルを背負い、ニコリともしないで現れたのは有名な話だ。」
「阿部自身が語ったり書きつけたりしたものから、二、三選び出してみる。
――七四年八月十六日の軍楽隊のコンサートについてですけど、軍楽隊を組織した目的みたいなものは何ですか。
阿部 それは人間の敵というか、生命の敵に突撃する為に創ったんです。生きるという事が、かなりコントロールされているし、感受性なんかも本当は自分のものを持っていても、他から持ってこられた感受性である場合が非常に多いんじゃないかと思うんです。それは目に見えないものなんだけれども、やっぱりある種の生きて行く上での敵というものがあると思うし、それに向って突っ込んでいくみたいな事で、僕は創ったんです。別に政治的意図なんていうのはありません。」
「――演奏している時は、どんな感じなんですか。
阿部 どんな感じって……音を出すという事に徹している。よく愛だの平和だの言うけど、僕の場合は、それがない訳ね。憎悪の感ていうのが、ものすごくあって、それがあればある程、僕は良い音が出せると思うし。(月刊『音楽』誌七四年八月号)」
「判断の停止をもたらす音。消えない音。あらゆるイメージからすりぬける音。死と生誕の両方からくる音。死ぬ音。そこにある音。永遠の禁断症状の音。私有できない音。発狂する音。宇宙にあふれる音。音の音……。(『スイングジャーナル』誌七〇年四月号)」
「吉沢元治も、九八年九月十二日に世を去った。彼もまた肝臓を病んで、長い闘病の日々を送った後のことだった。ジャズ・ミュージシャンは、例え肉体がボロボロになっていてもステージに立ち、観客に裸の心を晒して表現行為を行うのだから、ライヴを見ていても痛々しい。しかし、それが人間の生きざまとして、人々を感動させる。
三十年近くも昔、若い元気な吉沢が言った言葉が思い出される。
「ジャズを分ろうと思ったら、まずジャズマンってものを分ってもらわなくっちゃ」
その通りだと思う。とりわけ吉沢の場合は、自分の心の赴くままに、自由な風のように生きていた人だったし、彼の心は極めてストレートに音楽となっていた。
彼は七〇年代に入った後は、自分のグループを作ることはもとより、特定のバンドのメンバーにさえ絶対に加わろうとはしなかった。風のような一匹狼だった。」
「彼の旅も生き方も、即興的なのである。私は、ふと捨聖と呼ばれた一遍上人を思い出す。来りては、また去って行く。説法の代りに、心おもむくままのベースを弾いて。何に執着する訳でもない。」
「吉沢が最後に見出した究極の共演者は、知的障害を持つ僧のグループ『ギャーテーズ』だった。吉沢は彼等の中に飛び込んで演奏した。死の一年くらい前だったか、電話で話した時に吉沢は
「彼等はいいよ。お経を合わせて唱えることも難しい連中なんだけど、その代り一人一人が全く純粋な心で声を出すんだ。これが本当のインプロヴァイジング・ミュージックだな」
と嬉しそうだった。」
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