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『プルースト文芸評論』 鈴木道彦 訳編 (筑摩叢書)

「「文体というものは、ある人びとが考えているのとちがって、いささかも文の飾りではありません。技術の問題でさえありません。それは――画家における色彩のように――ヴィジョンの質であり、われわれ各人が見ていて他人には見えない特殊な宇宙の啓示です。一人の芸術家がわれわれに与える楽しみは、宇宙を一つ余分に知らせてくれるということなのです。」」
(「プルーストによる『スワン』解説」 より)


『プルースト
文芸評論』 
鈴木道彦 訳編
 
筑摩叢書 244 


筑摩書房 
1977年9月30日 初版第1刷発行
2p+293p 図版(モノクロ)2p 
四六判 並装(フランス表紙)
カバー ビニールカバー
定価1,300円
装幀: 原弘



本書「あとがき」より:

「プルーストの文芸評論を筑摩書房の第一次世界文学大系のために翻訳したのは、かれこれ二十年近くも前のことである。今回その翻訳を一冊にまとめてほしいという提案があったのを機会に、新たに三篇の新訳をつけ加えて本書を編んだ。新しく訳出したのは第三部の「晦渋性反説」、第四部の「プルーストによる『スワン』解説」ならびに「献辞(その二)」である。」
「今回の改訳に当り、訳者はこれに大幅に手を加え、部分的には新たに訳稿を作り直し、以前は省略した原註を訳出もしたので、これはほとんど新訳と考えていただいて差し支えない。」



マルセル・プルースト文芸論集。「註」「解題」は二段組。「ジョン・ラスキン」に別丁モノクロ図版2点。



プルースト文芸評論



帯文:

「『失われた時を求めて』の作家は、批評家であることによって小説を書き得た作家だった――ボードレール論、フローベール論、ラスキン論、読書論など生前に公刊された代表的評論を四部構成に編集。本邦初訳「晦渋性反説」他を含む。」


目次:


ボードレールについて
フローベールの「文体」について
 フローベールの文体に関するマルセル・プルーストへの手紙 (アルベール・チボーデ)
或る友に(文体についての覚え書)


ジョン・ラスキン
読書の日々


晦渋性反説


プルーストによる『スワン』解説
献辞(その一)
献辞(その二)


解題
あとがき




◆本書より◆


「ボードレールについて」より:

「ああ、文字どおりの苦悩のなかで次のような明晰さを維持し、悪魔的な詩篇のなかでこれほどに宗教的な調子を保つためには、おそらくボードレールのように、間近に迫った死を自らのうちにかかえ、失語症におびやかされていなければならないのでしょう。

  年老いた猟人に 獲物は酬いをせねばならぬ……
  Il faut que le gibier paye le vieux chasseur...

  本当に信じていたのか、不意を打たれた偽善者たちよ、
  主人をあざけり、欺きおおせると?
  また天国に行き、富める身にもなるという、二つの褒美を
     受けるのが当然のことだと?
  Avez-vous done pu croire, hypocrites surpris,
  Qu'on se moque du maître et qu'avec lui l'on triche,
  Et qu'il soit naturel de recevoir deux prix,
     D'aller au Ciel et d'être riche ?

ヴィクトル・ユゴーには絶対に見出せなかったろうと思われる死に関する見事な詩句をボードレールが書きえたのは、おそらく、死に先立つおそろしい疲労を感じたことがあったからにちがいありません。

  貧しく裸の者たちの寝床を整えてやる〔天使〕。
  Et qui refait le lit des gens pauvres et nus.

 これを書いた者が、寝台を整えてもらうというおそろしい欲求をまだ感じたことがなかったとすれば、彼にこのような詩句を書かせたのは、その無意識の「予想」であり、運命の予感なのでしょう。だから私は、ポール・ヴァレリーの次のような意見に、完全には同意できません。彼は、『エウパリノス』のすばらしい一節のなかで(芸術家がはっきりとした意図のもとに作り上げた胸像を、海がいく世代を経て一つの岩の上に知らず知らず彫り上げた胸像と対置しながら)、ソクラテスをして次のように語らせています。「思考に照らし出された行為は」とヴァレリーは、ソクラテスの名をあげて言っています、「自然の運行を短縮する。人は安心しきってこう言うことができる、一人の芸術家は十万年、千万年、あるいはそれ以上に価する」と。だが私は、ヴァレリーにこう答えましょう、「よく調和のとれた思慮深い芸術家たちが、自然の盲目的な仕事に比べて十万年に価するとしても、彼ら、たとえばヴォルテールのような人物は、ボードレール、あるいはむしろドストエフスキーのような病人に比べて、無際限の時を構成するものではない。これら病人たちは、単に健康というにすぎない千人の芸術家を擁する一族が代々にわたってただの一項目すら作りえないようなものを、ことごとく癲癇(てんかん)やその他の発作の合間に、三十年間で創造してしまう。」」

「さて、いま述べた感情――苦痛や死やへり下った友愛などの感情――のために、ボードレールは、民衆と彼岸にとって自分たちのことをもっともよく語った詩人となるのであり、これに対してヴィクトル・ユゴーは単にそれらをもっとも多く語った詩人にすぎないのです。ユゴーの使う大文字や、神との対話などといった多くの大仰な騒ぎは、哀れなボードレールが苦しんでいる彼の心と体の内奥に発見したものには遠く及びません。その上、ボードレールの発想は、ユゴーのそれから何も受けてはおりません。大聖堂を飾る彫刻者にもなりえた詩人、それは偽の中世詩人ユゴーではなく、詭弁好き(カジュイスト)の、ひざまずき、顔をしかめ、呪われている、不純な信仰者、ボードレールなのです。」



「フローベールの「文体」について」より:

「『シルヴィ』の第一部はある舞台の前でくりひろげられ、一人の女優に対するジェラール・ド・ネルヴァルの恋を描き出す。突然、彼の眼が一つの広告の上に落ちる、「明日、ロワジーの射手たちは……。」この言葉が或る思い出を、というよりむしろ幼時の二つの恋を喚起する。たちまち物語の場が移動する。この記憶現象は、偉大な天才ネルヴァルに場面転換の役を果たしたのであって、私が最初自分の作品の一つにつけた標題『心の間歇』は、ネルヴァルの全作品の標題ともなりうるだろう。彼の場合、とくに作者が狂人であったという事実のために、心の間歇はまた別な性格を持っていたと言う人もあろう。だが文芸批評の観点からいえば、映像相互のあいだ、観念相互のあいだにあるもっとも重要な関係の正しい知覚を成立させる状態を(いわんや、その関係を発見する感覚をとぎすませ方向づける状態を)、狂気と呼ぶことは適当でない。この狂気とは、ほとんど、ジェラール・ド・ネルヴァルのふだんの夢想がいうにいわれぬものとなる瞬間のことにすぎないのだ。そのとき彼の狂気は、彼の作品の延長のごときものである。彼はやがてそこから逃れて、ふたたび書きはじめる。そして前の作品から招来される狂気は、次の作品の出発点に、その素材そのものになる。われわれが毎日眠ったからとて顔を赤らめはしないように、(中略)詩人はもはや過ぎた発作を恥とすることはないのだ。そして彼は、次々と生起する夢を、分類し、描写することに意を注ぐのである。」


「或る友に(文体についての覚え書)」より:

「あらゆる芸術において、才能とは表現すべき対象への芸術家の接近のことであるように思われる。そのあいだに隔たりがある限り、仕事は完成していないのだ。いまヴィオロニストは、巧みにヴァイオリンの一節を弾いている。だがその効果は眼に見え、人はそれに喝采する。彼は達人(ヴィルチュオーズ)である。これらすべてがついに消え失せ、演奏者がヴァイオリンのこの一節に完全に溶けこんで一つになってしまうときに、奇蹟が起こったことになるのであろう。十九世紀以外の時代には、対象と、その対象について説くすぐれた精神たちとのあいだに、いつも一種の距離があったようだ。だがたとえばフローベールの知性は、もっとも偉大な知性の一つとはおそらく言えないだろうが、汽船の震動や、苔の色や、湾のなかにある小島に、なりきろうとしている。そのとき知性が(フローベールのありきたりの知性でさえも)見えなくなってしまう一瞬がくる。そして、「打ち返す波でゆらゆら揺れはじめた筏に出会いながら」進んで行く船が眼前にあらわれる。このゆらゆらする動き、それは変形されて物質のなかに体現された知性なのである。知性はまた、ヒースや、ぶなや、森の下草の沈黙や光にまで到達する。このエネルギーの変貌――そこでは思索する者が姿を消して、もの(引用者注:「もの」に傍点)だけがわれわれの前に連れてこられる――それこそ作家が文体に向かって行なう最初の努力ではなかろうか。」


「ジョン・ラスキン」より:

「小説家の主題、詩人のヴィジョン、哲学者の真理は、ほとんど必然的に、いわば彼らの思想の外部から彼らに課せられるものである。このヴィジョンを表現し、この真理に近づくことを精神に強いるときに、芸術家は本当に自分自身になるのだ。」

「われわれの生のいくつかの時期が永久に閉ざされ、自分が力と自由を持っているように思える瞬間でもその時期の扉をひそかに開けることはもうできないようなとき、われわれが長いあいだおかれていた状態にほんの一瞬たりともふたたびもどることは不可能なとき――、そのようなときになって初めてわれわれは、しかじかのものが完全になくなってしまったと考えることを自らに拒否するのである。(中略)過去の焰をよびさますことはできないとしても、少なくともその灰を集めたいとわれわれは思う。もはやわれわれは蘇生の力を持っていないから、これらのものに関する冷やかな記憶――つまり事実の記憶、われわれに「お前はこんなふうだったよ」と言いはするがわれわれをその状態にもどしてはくれないし、また失われた楽園の現実を主張するばかりで、それを思い出のなかに返してはくれない記憶――、その冷やかな記憶を頼りにわれわれは少なくともこの楽園を描き、その正確な知識を構成したいと考える。」



「読書の日々」より:

「読書は精神的生活の入口にある。われわれをそこに導いてはくれるが、精神的生活そのものを形作りはしないのだ。」
「この上もなく高尚な会話やきびしい忠告も、直接それが独創的活動を作りえない以上、彼には何の役にも立つまい。だから必要なものは何かといえば、他人の介入によってもたらされながら、われわれ自身の奥底で形成されるものである。それはまさに、別な精神からやって来て、しかもこちらの孤独の真只中で受けとめられる衝動に違いない。」
「読書がわれわれをうながすものであり、その魔法の鍵が、入りこむこともできないわれわれ自身の奥底にある住居の扉を開いてくれるものであるかぎり、実人生のなかで果たしている読書の役割は有益である。ところが各人の精神生活にわれわれを眼ざめさせてくれる代りに、読書がその精神生活にとって代わろうとするとき、(中略)読書の役割は危険なものとなる。」



「晦渋性反説」より:

「作品においても人生におけると同様に、人物はどんなに普遍的であろうとも強烈な個性を持たねばならない(中略)。その人物たちはわれわれ各人と同様、彼らがもっとも自分自身であるときにもっとも広く普遍的魂を実現していると言うことができる。」
「詩人はもっと自然から想を汲まねばならぬ。自然においては、いっさいのものの根底が単一かつ晦渋であるとしても、いっさいのものの形態は個別的であり明瞭である。自然は生命の秘密によって、晦渋性への蔑視を詩人に教えるであろう。自然はわれわれに対して太陽を隠すであろうか? むき出しで輝いている無数の星、燦然と光を放ちながらたいていの者の目には見分けのつかないあの星たちを、自然は隠しているであろうか? 自然はわれわれをして、荒々しくまたあからさまに、海や西風の力にふれさせないであろうか? 自然はわれわれ各人がこの地上に滞在しているあいだ、生と死のこの上もなく深い神秘を明瞭に表現することをわれわれに許すのである。」






こちらもご参照ください:

サミュエル・ベケット 『ジョイス論/プルースト論 ― ベケット 詩・評論集』 高橋康也 他訳
岩崎力 『ヴァルボワまで』
井上究一郎 『ガリマールの家』
ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ 〔増補版〕』 (宇波彰 訳/叢書・ウニベルシタス)
マルセル・プルースト 『楽しみと日々』 窪田般彌 訳

























































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シラノ・ド・ベルジュラック 『日月両世界旅行記 第二部』 有永弘人 訳 (岩波文庫)

「一つの洞穴(ほらあな)の暗い凹みが、眠りの湖(引用者注:「眠りの湖」に傍点)の上方にアーチ形になっている。多數の龜が岸邊をのろのろと散歩している。千ものけし(引用者注:「けし」に傍点)の花が水に姿をうつして水に催眠力を傳える。マルモットまでが五十里のところからそこへ水を飲みにやって來るのが見える。そして小波のさえずりは殊に心地よく、いかにも手心を加えながら小石にさわって擦れるかのように、そしてうとうとさせる音樂をつくり出そうとつとめるかのように思われる。」
(シラノ・ド・ベルジュラック 『日月両世界旅行記 第二部』 より)


シラノ・ド・ベルジュラック 
『日月両世界旅行記 
第二部』 
有永弘人 訳
 
岩波文庫 赤/32-506-2 


岩波書店 
1952年9月25日 第1刷発行
1995年3月8日 第3刷発行
191p 
文庫判 並装 カバー
定価460円(本体447円)
カバー: 中野達彦


Cyrano de Bergerac
l'Autre Monde ou les Etats et Empires de la Lune et du Soleil
1657, 1662



旧字・新かな。全二冊。



シラノ・ド・ベルジュラック 日月両世界旅行記 第二部



カバーそで文:

「第二部『太陽諸国諸帝国』(一六六二年刊)。エドモン・ロスタンの名作『シラノ・ド・ベルジュラック』の主人公が執筆したユートピア文学。」


内容:

第二部 太陽諸國諸帝國

譯註




◆本書より◆


「それは極めて輕い、しっかり閉(し)まる一つの大きな箱であった。高さは六尺(ピエ)(中略)そこそこ、廣さは三尺(ピエ)平方である。この箱の下面に穴を一つあけ、同じく穴をあけた天井の上方に、やはり穴をあけたクリスタルガラスの器を一つとりつけた。この器は球體をなしていて、相當に大きく、その頸は、箱のふたにあけた穴のところでちょうど終り、そこにはめこんでおいた。
 ガラス器は殊更多角形につくり、二十面體の形をなしており、各々の切子の面が凸面と凹面をなしているので、その球はあたかも天火鏡の効果を生じるようにしたのである。
 牢番もそれから彼の部下の監視人たちも、私の室へ上って來るごとに、きまって私がこの仕事に專念している姿ばかりを見たが、しかし彼等は、私がみずから發明したといういろいろな珍らしい器械仕掛けを室内にながめて面白がり、少しも不審を抱かなかった。中にも風で動く時計とか、夜見える人工の目、空の中で動く星の運行をそのまま示す天球儀などがあった。すべてそうしたものは、私がつくりつつあった器械もやはり同樣な珍らしいものなのだなと彼等に信じこませた。(中略)さて、午前九時のことだったが、牢番が降りて行っていたとき、空は曇っていたが、私はその器械を塔の頂に、つまり私のテラスのうちで最も廣々と打ちあけた場所に持ち出した。箱はしっかりと密閉されていたので、ただ一粒の空氣でも、二つの穴以外からは、その中へすべりこむことはできなかった。そして私はその中に、腰掛けられるように一枚の小板をはめこんでおいた。
 すべてこういう具合に整備しておいてから、私はその中へ閉じこもった。そして運命の神が私をどう處理するか、それを待ちながら、かれこれ一時間もそのままでいた。
 雲を拂いのけた太陽が私の器械を照らしはじめたとき、この透明な二十面體は、その切子を通して太陽の産物を受けとり、瓶口を通して私の密室へその光をひろげた。その光輝は、何度も碎かれずしては私のところまでたわめられるわけに行かない光線のために、力が弱くなって行き、その弱められた明りはきらきらとして、私の箱を、金の七寶をかけた小さな緋の天空にかえて行くのだった。
 私は恍惚として、この極彩色の美しさに見とれていたが、そのとき急に、ちょうど滑車で地上から引き上げられた人が腹の中に戰慄を感じるように、はらわたがびくっと動くのを感じた。
 この衝動の原因を知ろうと、私は小窓を開けかけたが、手をのばそうとしたとき、私の箱の床板の穴から見ると、私の塔はもう、足の下はるか遠くにあり、私の空中の城は、私の足を上へ向かって押し上げ、一瞬にして、トゥールーズが地の中へ埋まって行く姿を見せたのである。」

「明らかに水の崩壞作用が掘り下げたことを示している龜裂をつたって、私は平野に降りて來たが、そこでは、大地を肥沃にしている泥土(リモン)の厚さのため、私はほとんど歩けなかった。しかしともかく少しばかり歩いたあとで、と或る窪地に着いたが、そこで一人の小男に出會った。彼はまっぱだかで、石に腰かけて休んでいた。私が最初に話しかけたのか、彼のほうが私にきいたのか私は思い出せないのだが、彼が未だかつて私の聞いたことのない言語で、三時間もの間たてつづけにしゃべったという記憶はまざまざとのこっていて、今でもその男の話をきいているような氣がする。それはこの世界の言語のどれ一つとも全く聯關のない言葉だったが、しかも私は、私の乳母の言葉よりもっと早く、もっとわかり易く理解した。このようなふしぎなことを私がせんさくしたとき、彼は、學問の中には常に一つの眞なるもの(引用者注:「眞なるもの」に傍点)があって、それをよそにしては、人は常に容易なるものから遠ざかってしまうということ、また、一つの國語がこの眞(引用者注:「眞」に傍点、以下同)から遠ざかれば遠ざかるほど、それは觀念の下方にとどまってしまい、一層難解なものとなってしまうものだと説明した。「同じことです、」と彼はつづけた、「音樂において、たまたまこの眞にぶつかれば直ちに魂は高揚されて盲目的にそこに結びつくのである。われわれにはその眞は見えないが、しかし自然(引用者注:「自然」に傍点、以下同)にはそれが見えるということをわれわれは感じます。そして、われわれの心がどんなふうに吸いこまれてしまうかはわかりませんが、その眞はやはりわれわれの魂を奪うことにかわりなく、しかもなお、それがどこにあるかを知ることはできません。言語についても全く同樣です。文字、單語、連關についてこの眞理に遭遇する人は、意志表示の際、決して自己の觀念の下方に落ちこむことはあり得ない。彼はいつも自己の思想と對等になって語るのです。(中略)」私は彼に、われわれの世界の最初の男は疑いもなくこの母胎語をつかった、なぜなら、彼が各〃の物に課した各〃の名前はその本質を表明しているからですといった。彼は私をさえぎって、なおつづけた、「その言語は、精神が抱懷するあらゆる事柄を表現するために必要であるばかりでなく、それなくしては、人は萬人から聞いてもらうことができないのです。この言語は本能である、換言すれば自然(引用者注:「自然」に傍点)の聲であるから、自然の管轄にぞくして生きているすべてのものにとって、理解されるはずです。かるが故に、もしあなたにその言葉を理解する力があるならば、あなたはあなたの考えの一切を動物に傳え、談じることができ、また動物は彼等の考えの一切をあなたに傳えることができるわけです。それは、これが自然の言語そのものであり、これを通して自然はあらゆる動物にきこえて來るからであります。
 「それ故に、未だかつてあなたの聽覺にひびいたことのない言葉の意味を、あなたが容易に理解したからとて、それにもう驚かないようにして下さい。私が話しているとき、あなたの魂は、私の單語の一つ一つにおいて、それが手さぐりでさがし求めるその眞に遭遇するのです。そして、よしその理性はそれを理解しないとしても、魂自體の中には、それを理解せずにはおかぬ自然があるのです。」
 「なあるほど! たしかにそれですね、」と私は叫んだ、「その強力な言語を媒介として、その昔われわれの最初の父が動物と會話を交え、動物からも理解されたのですね。(中略)そしてわれわれが今日、彼等を呼んでも、もうわれわれの言葉を理解しないので、彼等は昔のようにもうやって來なくなったのも、全くそのため、(その母胎語が失われてしまったから)ですね。」」

「彼が私に啓示した極めて深遠な秘儀に關するなお一層立ち入った講話ののち、(中略)彼は、太陽に孕まされた一塊の土の小山が彼を生み落としてから、まだ三週間たっていないといった。「その腫物(おでき)をよく見て下さい!」そういって彼は泥の上にある、もぐらの盛り土のような、なんだかよくわからない腫れものに注目させた。「それが腫瘍なのです。もっとはっきりいえば、母胎なのです。そこには九ヵ月このかた、私の兄弟の一人の胎兒がかくされています。私はわざわざここで、その産婆役をつとめるのを待っているのです。」
 その粘土の芝地のまわりで、ピクピク地面が動くのを見かけなかったなら、彼はまだつづけて話したことであろう。それを見ると、よこねくらいの大きさになって、大地が分娩中であると判斷し、その振動はもう、陣痛のいきみだと思った。彼はすぐ私のそばをはなれてそこへかけつけた。そして私は、私の小屋をさがしに行った。」

「「君はこう承知しなければならない、われわれはこの大きな世界の明るい部分、即ち、物質の原理(引用者注:「原理」に傍点)が活動することにあるこの部分の住民であるから、われわれは、不透明な地域の住民よりも遙かに活動のさかんな想像力を持ち、からだの實體も、はるかに一層繊細であるのです。ところでそう前提したなら、われわれの想像力がわれわれを構成する物質の中において何等の障碍物にも出會わないので、想像力は思う通りに物質を處理し、われわれのからだ全體の支配者となり、その微粒子全部を動かしつつ、はじめ小規模に形づくっておいたそういうものを大きく構成するに必要な秩序の中へ、はいりこませてしまうことは確實なことです。そういうようにして、われわれめいめいは、各々が化身しようと欲したその貴重な木の場所や部分を心に描いておいて、この想像の努力によって、われわれの物質を刺戟して、それらを生み出すのに必要な運動を起こさせたので、われわれはそこで化身したのです。(中略)君たち人間はこれと同じことができない、という理由は、君たちのからだの塊りは重く、君たちの想像力は冷えているからです。」」
「そうなると私は、こういうことが理解されはじめた、これらの太陽民族の想像力は、風土の故に、より熟していなければならぬし、彼等のからだも同じ理由によって、より輕く、彼等の一人一人はより動き易いはずである、(中略)つまり私は、この想像力は、いまつくり出した奇蹟の全部を奇蹟なしに引き起こすことができたのだと考えた。われわれの地球の民族共が立證する、これとほとんど同じの幾多の事件の實例が、遂に私を信服させてしまった。イタリー王チップスは、或る日鬪牛を見に行き、その晩は一晩中、想像力を角のことにばかり馳せていたため、翌日は自分のひたいに角が生えているのを見た。ガルス・ヴィティウスは魂を緊張させて、狂氣の本質を躍氣となって抱くように魂を刺戟した結果、ついに、想像の努力によってその物質に、ちょうどこの物質が狂氣を構成するために具えなければならぬのと同じ運動を與えてしまったので、氣違いになった。(中略)私はまた、古代のあの有名な憂鬱症患者(ヒポコンドル)が自分は水がめだと思うとき、もし彼のあまりに緻密な、あまりに重い物質が、彼の空想の感動のあとを追うことができたなら、物質は彼のからだ全體をもって、完全な水がめをつくり出しただろうとさえ確信した。そうしたら、彼は自分だけにとってほんとうに自分が水がめに見えたと同樣に、萬人に對しても、そう見えたことであろう。私はなおその他に多くの實例をあげて滿足したが、そのいずれもが私を承服させた結果、私はもはや、精靈人(引用者注:「精靈人」に傍点)が私に物語ったふしぎのどれ一つとして疑わなかった。」

「「この男は、」とカンパネッラは私のほうへ振り向きながらいった、「臨終の苦悶に陷っている哲學者なのです。というのは、わたしたちは、一度ならず死ぬからです。そしてわたしたちはこの宇宙の部分にほかならないので、わたしたちは他の場所に行って生命をまた囘復するために、形を變えます。このことは少しも苦痛ではないのです。なにしろ、これは自己の存在を完成する道ですし、無際限の知識に到達するための道なのですから。彼の疾病は、ほとんどすべての偉人を死なせる疾病です。」
 この話は、私にもっと注意して病人をながめるようにさせた。そして一にらみするなり、彼の頭が樽のように大きく、ところどころ開(あ)いていることがわかった。「さあ、行きましょう、」とカンパネッラは私の腕を引っぱりながらいった、「どんな援助をこの瀕死の男に與えてやろうと思っても、それは無駄で、ただこの男を心配させるだけです。さっさと通り越しましょう。それにこの病気は不治の病と來ていますから。彼の頭がふくれているのは、あまり精神をつかいすぎたためです。というのは、彼がその腦の三つの器官、即ち小室を滿たしたさまざまの形相は、極めて小さい像ではありますが、それは有形なものであり、從って、それが非常に澤山になると廣い場所を滿たし得るものなのです。ところで御承知願いたいのは、この哲學者は像に像を重ねたあげく、あまり頭腦を大きくしたため、腦はそれを貯めこみきれずに、とうとう破裂したのです。この死に方は、大天才(引用者注:「天才」に傍点)の死に方で、これは頭腦がはちきれる(引用者注:「頭腦がはちきれる」に傍点)というやつです。」」









こちらもご参照ください:

シラノ・ド・ベルジュラック 『日月両世界旅行記 第一部』 有永弘人 訳 (岩波文庫)
カンパネッラ 『太陽の都・詩篇』 坂本鉄男 訳 (古典文庫)
江馬務 『日本妖怪変化史』 (中公文庫)
丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)
パオロ・ロッシ 『普遍の鍵』 清瀬卓 訳 (世界幻想文学大系)
















































シラノ・ド・ベルジュラック 『日月両世界旅行記 第一部』 有永弘人 訳 (岩波文庫)

「すぐに私は、犬どもをこんなに私に向かって驅り立てているのが、ほかならぬ私の出發して來た世界だということに氣づいた。それは、犬どもは月に向かって吠えるのに慣れているので、ちょうど海の上から降りてからしばらくは一種の殘り香、即ち海風の匂いを保っている人のように、私が月からやって來てまだ月の匂いがしていることに感づいたからだった。」
(シラノ・ド・ベルジュラック 『日月両世界旅行記 第一部』 より)


シラノ・ド・ベルジュラック 
『日月両世界旅行記 
第一部』 
有永弘人 訳
 
岩波文庫 赤/32-506-1 


岩波書店 
1952年7月25日 第1刷発行
1985年11月7日 第2刷発行
178p 
文庫判 並装
定価350円



本書「あとがき」より:

「本書の題名は譯者が便宜つけたものにすぎない。その本文は、左の復元決定本によった。
 CYRANO DE BERGERAC, *l'Autre Monde ou les Etats et Empires de la Lune et du Soleil*, nouvelle édition revue sur les éditions originales et enrichie des additions du manuscrit de la Bibliothèque Nationale, avec une Notice bio-bibliographique par Frédéric LACHÈVRE, Paris, Garnier Frères, s. d. (1932).」
「『月世界』の部は、戰前一度弘文堂の世界文庫から拙譯を出したが、當時のこととて若干の伏字を用意しなければならなかった。こんど、(中略)續篇『太陽』をも新しく譯出、併せて岩波文庫から出すことになったのを好機に、舊譯をも全面的に再檢討して一應の定譯を得るに至ったことは、譯者の大きな悦びであり、(以下略)」



旧字・新かな。全二冊。



シラノ・ド・ベルジュラック 日月両世界旅行記 第一部



帯文:

「17世紀フランスの詩人シラノのユートピア小説。月世界に到着した主人公は月人から猿まがいの扱いを受け見世物小屋に放りこまれる。」


内容:

第一部 月世界諸國諸帝國

譯註
あとがき




◆本書より◆


「月は滿月、空は晴れわたり、晩の九時が鳴った頃、パリに近いクラマールからの歸途、(中略)、あのサフラン色の球が與えるさまざまの感想が、みちみちわれわれをひどく興がらせた。そこで、あの大きな天體に目を注いで、或る者はあれは天國のあかり窓で、あそこから、至福者たちの榮華をかいま見るのだといい、或る者は古代の神話を信じこんで、あれはきっとバッカスが、天國で酒場を經營していて、滿月を看板にぶらさげているのだろうといい、或る者はあれはディアナがアポロンの胸飾りを伸ばす火のし(引用者注:「のし」に傍点)だと斷定し、或る者はあれは多分、太陽自體にちがいあるまい、太陽が夕方になって、光線を脱ぎすて、自分の不在中、下界では何をしているのかと穴からのぞいているところだろうという。「で僕はだね、」と私は彼等にいった、「(中略)ただ僕は、月がこの世界と同じような一つの世界であるということ、その世界に對してわれわれの世界が月の役目をしていることを信じるだけなんだ。」すると同行の數人は爆笑をくらわせて私をみつめた。私はいってやった、「きっとそんなふうに、いま月の中でも、この地球を世界だと主張する別の誰かを嘲笑していることだろう。」しかしピュタゴラス、エピクロス、デモクリトス、またわれわれの時代では、コペルニクスやケプラーがこの意見であったことを主張してみても、だめであった。それはますます彼等を笑わせるだけだった。」
「私はもうあやうくそれに降參してしまうところだったが、奇蹟といおうか、椿事といおうか、神の攝理か幸運か、或は人呼んで幻影、虚構、妄想というものか、またお望みとあらば、狂氣の沙汰といおうか、それがこの問題を取り上げる機會を私に提供したのである。家に歸って書齋に上ってみると、置いたはずのない本が一冊、机の上に開けてあるのだ。それはカルダンの本だった(中略)。別にそれを讀むつもりもなかったが、引きずられるように目を落としたところが、ちょうどこの哲人の身の上話で、それによると、或る晩ローソクの明りで研究をしていると、閉(し)めたドアを突き抜けて、二人の丈の高い老人がはいって來るのが見え、彼等はカルダンからあれこれと質問されて、ようやく月の住人であることを答えた。と同時に姿をかき消してしまったというのである。私は獨りでそこへ足を運んで來た本を見て、偶然開かれているそのページといい、その時刻といい、すべてに呆然なすところを知らなかった。そこで私は、こうした偶發事のつながりをすべて、月は一つの世界なりということを世人に知らせるための靈感だと解釋した。」
「人から熱病の發作とでも名をつけられそうなこうした氣まぐれに、やがてそんなにすばらしい旅行を成功させたい希望がつづいた。そこでそれを仕遂げるため、私はかなりへだたった、とある田舎家に閉(と)じこもり、そこでこの問題にふさわしい若干の方法で、自分の夢想をたのしませたのち、大體次のようにして、天界へはいりこんだ。
 まず、露の一パイはいったガラスぶんを澤山からだのまわりにいわいつけた。その上に太陽が光線を強く突き射すと、どんな大きな雲でも熱が引きつけるように、ガラスびんも引きつけて、私のからだを高く持ち上げたので、遂に私は中層圏の上に出てしまった。しかしその引力があまり早く上昇させ、豫期した通り月に近づくかわりに、月は出發の時よりも遠方へ行ってしまったように見えた。そこで私はガラスびんを幾つかこわした。すると次第にからだの重みが引力に打ち勝ち、大地へ向かって再び降りていくのを感じた。(中略)それは出發した時からかぞえてみると、眞夜中のはずだった。ところが太陽はそのとき地平線上最高のところにあり、そこでは正午であることを知った。(中略)さらに私の驚きを増したことは、まっ直ぐに昇ったのだから、出發したのと同じ場所に降りたはずだと思ったのに、そのとき自分のいた土地を全然知らないということだった。」
「そこで私は、フランスはフランスだが、「新」フランスにいるのだと知った。結局しばらくしてから總督に引き合わされたが、(中略)私が彼に、パリから二里(中略)ほどのところから昇りはじめて、ほとんど垂直にカナダに降りたのだから、私の上昇中に地球が廻轉したにちがいないといったときにも、彼は少しも驚かなかった。」

「これほどに多くのすばらしいものを見て、胎兒が魂を注ぎこまれるときに感じるというあの快い痛みにくすぐられる思いをしたことは告白しなければならない。」
「「あなたのいわれることはほんとうです。この土地はあなたの地球から見える月です。そしてあなたの歩いているこの場所は樂園です。(中略)いままでに六人の者のほかには誰もはいったことがありません。即ち、アダムとエヴァと、エノクと、エリヤ老人である私と、福音傳道者聖ヨハネと、それから、あなたです。最初の二人がどうしてここから追放されたかはあなたもよく御存知でしょうが、彼等がどんなふうにしてあなたの世界に着いたかは御存知ないでしょう。それはこうです。彼等が二人とも例の禁斷の木(こ)の實(み)を味わったのち、アダムは神が自分の姿を見ていまいましくなってまた罰を重くするのをおそれ、あの月、即ちあなたの地球こそ、彼をつくった造物主の追手をのがれ得る唯一のかくれ家であると思ったのです。ところでその當時は、人間の想像力というものが非常に強烈で、というのは、放蕩によっても不消化な食物によってもまた惡質の病變によってもっまだくさっていなかったので、そのかくれ家に到達したい猛烈な欲望に刺戟された彼のからだは、この熱情の焰によって輕くなったので、彼は、よく哲人に見かけるのと同じ方法でそこへ奪い去られてしまったのです。つまり哲人の想像力というものは、何物かに強く傾倒すると、あなた方が恍惚境と呼ばれるあの喪神状態によって虚空へ持って行かれるのです。」」

「というのは、この國では、わずか二種類の言葉しか使われていないのだ。一つは大官連の用いるもので、一つは庶民に特有のものだった。
 大官連の言葉というのは、要するに、區切りのない音の高低にほかならず、大體われわれの、節(ふし)に歌詞をつけないときの音樂に似たものであり、實際これは、よく調和のとれた極めて便利な大變快い發明である。(中略)彼等はリュートとかその他の樂器を手にとって、これを聲と共に使用して思想を傳え合っていたのだった。」
「第二の、庶民の間に使われる言葉というのは、恐らく人の想像するようなものではないだろうが、四肢を振り動かすことによってなされた。というのは、われわれの身體の或る部分は、完全に一つのまとまった話を意味するからである。例えば、指、手、耳、唇、腕、目、頰などを動かすことは、それぞれ、すべての語句を備えた特定の單文や複文を構成するからである。他の部分は、額に寄せる皺(しわ)とか筋肉のさまざまなおののきとか、手を仰向けにするとか足をふみならしたり腕をねじるとか、そういった身振りは、單に語だけを表わすのに使われる。そこで彼等が話をするときは、彼等のはだかで歩く習わしと共に、その手足は彼等の思想を身振りで表わすのに慣らされ、非常に活潑に動き、一見人間が話しているのではなくて、一つの物體が振動しているように見えるのである。」

「「いや私は、」と彼が答えた、「あなたはもう、われわれの出て來たあの町のほうで、あなたの主人か誰かの食事するのをごらんになったこととばかり思っていたのです。ですからこの土地でどういうふうに食事するかお話しなかったのです。まだ御存知ないようですから申しましょう、ここでは煙ばかりを食べて生きているのです。料理法というのは、食物を料理するときそこから出て來る發散物を、特にそのためにつくった大きな器に詰めこむことなのです。で接待する客の食慾に應じて、數種の異った味の蒸氣を集めると、この匂いを集めた器の栓を抜き、それがすむとまた他のを取り出し、一座が滿腹するまでつづけます。(中略)」
 彼がそう言い終えるか終えないうちに、私は心地よい非常に滋養のある蒸氣が室の中に次から次にはいって來るのを感じ、結局、五、六分も經たぬうちに、全く滿腹してしまった。」

「「肉とかその他すべて感覺ある生命を持ったものを食べないということには私もそれほど驚きません。」と私は答えた、「われわれの世界でもピュタゴラス派の人々、それから若干の聖なる隱者たちまでこの精進を用いたものです。しかしたとえばキャベツを、それを傷つけるといけないからとてあえて切り得ないということは全くこっけいに思われますね。」――「ところで私は、」と魔神が答えた、「あの人の意見に多くのほんとうらしさを見出すのです。なぜなら、(中略)キャベツは、あなたと同樣に神の被造物ではありませんか。(中略)もしこの哀れな植物が身を切られるときに口がきけたら、實際こんなふうにいうだろうと考えませんか、『人間殿よ、親しき同胞(きょうだい)よ、私は死に値するどんなことを君にしたというのですか。私は菜園にしか生えません。安全に暮らすこともできる野原には決して見當りません。(中略)しかし君の園に種まかれるや否や、君にわが親愛を示そうと、私は花を咲かせ君に腕を差し伸べ、種粒としてわが子を君に捧げました。そしてこの愛想のお禮として、君は私の頭をちょん切るのです!』意志の表示ができたら、キャベツはこんなふうに述べ立てることでしょう。ねえ、これは一體なんたることです。不平を訴えることができぬといって、われわれは勝手に、彼の防ぐことのできぬ危害をみな加えていいという意味になりますか。もし私が、しばられている可哀そうな男を見つけたら、彼が防禦できないといって殺しても、罪になりませんか。(中略)どうです! 生物の全財産の中でキャベツの持っているのは、ただ、生長するということだけです。それをわれわれは奪い取るのです。人間を殺す罪も、他に何も希望のないキャベツの生命を奪うほどに大きくはない、というのは、人間は他日生まれかわるからです。あなたはキャベツを死なすことによってその靈魂を滅ぼしてしまうのです。しかし人間を殺すことによっては、あなたはただ靈魂の住居をかえるだけです。」」

「しかし彼が出て行くが早いか、私は熱心にその本や、箱、即ち表紙を眺めはじめたが、その豪華さは實にすばらしいものだった。一つの表紙は單玉のダイヤモンドで刻んであり、その光輝はわれわれのダイヤなどとは較べものにならない立派なものであった。第二のはただ一個の怪物のように大きな眞珠を二つに割ったものとしか思われなかった。(中略)ここにこの二卷の大體の體裁を説明しておこう。
 箱を開けると、中にわれわれの時計によく似た何かわからぬ金屬性のものがあり、何だか目に見えぬ小さなゼンマイや機械で一パイであった。それはなるほど本にちがいはなかったが、しかし小口も活字もないふしぎな本であった。要するにこれは覺えるのに目の不要な本で、耳だけが必要であった。そこで誰かが讀みたいと思うときには、その澤山な各種各樣の小神經によってこの機械にねじをかけ、聽きたいと思う章に針をまわせばいいのだ。と同時に、ちょうど人間の口とか樂器から出て來るように、そこから明瞭な各種の音が出て來て、それがこの偉大な月世界族の中で、言葉の表出の役目をするのである。
 それ以來、本をつくるこのふしぎな發明を考察してみたとき、あの國の靑年たちが、十六乃至十八歳でわれわれのごま鹽ひげたちよりも多くの知識を持っているのをみても私はもう驚かないのである。なぜなら彼等は話すことができれば直ちに讀むことができるわけで、決して讀書しないときがなかったからである。部屋の中であろうと、散歩中であろうと、町であろうと旅行中であろうと、彼等はポケットに入れたりバンドにぶらさげたりして、この種
本を三十冊ばかり持って歩くことができる、そしてただ一章だけ聞くためにはバネを一個、また全卷を聞きたい氣になれば數個、卷きさえすればよい。こうして諸君は、生きていようと死んでいようとすべての偉人を永久に身邊に持っているわけで、彼等は肉聲をもって諸君に語ってくれるのである。この贈り物は私を一時間以上もとらえて離さなかったが、結局私はそれを耳飾りのようにぶらさげて、散歩に出かけた。」

「意識を取り戻してみると、私はとある丘の斜面の灌木地帶にいた。そして數人の牧人に取り卷かれていた。彼等はイタリー語を話していた。(中略)彼等はそこから一マイルほどのと或る村へ私を連れて行った。着くが早いかその土地の犬どもが、むく犬から番犬に至るまで、一せいに私に跳びかかってきたので、一軒の家を見つけてそこ逃げこまなかったなら、私は食い殺されていたことだろう。(中略)すぐに私は、犬どもをこんなに私に向かって驅り立てているのが、ほかならぬ私の出發して來た世界だということに氣づいた。それは、犬どもは月に向かって吠えるのに慣れているので、ちょうど海の上から降りてからしばらくは一種の殘り香、即ち海風の匂いを保っている人のように、私が月からやって來てまだ月の匂いがしていることに感づいたからだった。そこで私はこの惡氣を拂いきよめるために屋上に出て、三、四時間太陽にからだをさらした。そうしてから下に降りてみると、犬どもは、私を自分たちの敵にしたその作用がもう鼻につかなかったので、吠えもせず、めいめいわが家へ歸って行った。」







こちらもご参照ください:

エドモン・ロスタン 『シラノ・ド・ベルジュラック』 辰野隆・鈴木信太郎 訳 (岩波文庫)
ルキアノス 『本当の話 ― ルキアノス短篇集』 呉茂一 他 訳 (ちくま文庫)
ジュール・ヴェルヌ 『月世界へ行く』 江口清 訳 (創元推理文庫)
たむらしげる 『フープ博士の月への旅』
Michel Butor 『Herbier lunaire』
M・H・ニコルソン 『月世界への旅』 高山宏 訳 (世界幻想文学大系)
谷川渥 『幻想の地誌学 ― 空想旅行文学渉猟』
松岡正剛 『ルナティックス』 (中公文庫)
















































エドモン・ロスタン 『シラノ・ド・ベルジュラック』 辰野隆・鈴木信太郎 訳 (岩波文庫)

シラノ (中略)だが、それも大いに宜かろう。私は凡てに失敗した。死ぬ時までもだ。」
(エドモン・ロスタン 『シラノ・ド・ベルジュラック』 より)


エドモン・ロスタン 
『シラノ・ド・ベルジュラック』 
辰野隆・鈴木信太郎 訳
 
岩波文庫 赤/32-563-1 


岩波書店 
1951年7月5日 第1刷発行
1983年12月16日 第38刷改版発行
323p 
文庫判 並装
定価400円


Edmond Rostand
CYRANO DE BERGERAC
1897



巻頭に図版(モノクロ)1点(「一八九七年 初演におけるコンスタン・コクランのシラノ」)。



ロスタン シラノ 01



帯文:

「ご存知あの鼻のシラノの悲恋のドラマ。17世紀の実在の人物がロスタン(1868-1918)の劇化でフランスきっての人気者となった(改版)」


目次:

第一幕 ブウルゴーニュ座芝居の場
第二幕 詩人無銭飲食軒の場
第三幕 ロクサアヌ接吻の場
第四幕 ガスコーニュ青年隊の場
第五幕 シラノ週報の場

解説 (辰野隆・鈴木信太郎)




ロスタン シラノ 02



◆本書より◆


第一幕より:

第一の侯爵 シラノとは何者だい?
キュイジイ 剣にかけては、達人という男さ。
第二の侯爵 貴族かね?
キュイジイ まあそうだ。近衛の青年隊(カデエ)なんだがね。」
ラグノオ 詩人で!
キュイジイ 剣客で!
ブリッサイユ 理学者で!
ル・ブレ 音楽家だ!
リニエール それにあの顔ときたら、また飛切りだね!
ラグノオ まったくですよ。偉大なフィリップ・ド・シャンペエニュ大人だって、決してあの顔が描けようとは思えない。面妖(めんよう)で破天荒で言語道断で捧腹絶倒ですよ。つらつら惟(おも)んみるに、故人ジャック・カッロが、その似顔絵の中に獰猛な剣客の尤物(ゆうぶつ)を入れるとしたら、もってこいという代物(しろもの)ですな。帽子に三本の羽根飾、(中略)鶏(とり)の自慢の尾羽根のように、後(うしろ)にゃ華奢(きゃしゃ)に剣先(けんさき)の、ぴんとつき出るマントを引っかけ、(中略)ピュルシネッラ型の頸飾(くびかざ)りから、鼻つき出して濶歩なさるじゃ!…… ああ! 殿方、この鼻こそは、変化(へんげ)の鼻!」

ル・ブレ ええッ! 驚いたなあ、一体、その女は誰なんだ?……
シラノ 想うまいと思うが、何がさて生死の大事だ、考えまいと思うそばから、あの命取(いのちと)りの美しさ。思わず知らず落ち込む陥穽(わな)、蘭麝(らんじゃ)の薔薇花、恋の伏勢(ふせぜい)だ! あの微笑こそ完全無欠だ。静にして典雅、動にして霊秀。法螺貝(ほらがい)に打ち跨がった波の上の光るヴェニュスも、花咲く森に歩みを移すディアヌといえども、鸞輿(かご)に揺られて、巴里の町をねり歩く、あの御方(ひと)の姿には遠く及ぶまい!……
ル・ブレ 正に一大事だ! わかった。もう明瞭だ!
シラノ 朧ろだ。
ル・ブレ 君の従妹のマグドレエヌ・ロバンだろう?
シラノ そうだ、――ロクサアヌだ。
ル・ブレ そんなら! 願ったり適(かな)ったりだ! 君は想いこがれているのだね? 思い切って打ち明けるさ! 君は今日あの女(ひと)の眼の前で無上の名誉を獲たのだぜ!
シラノ ねえおい、俺を見てくれ。その上、この張出しがどれだけの希望(のぞみ)を残せるか教えてくれ! ああ! 俺にゃ自惚(うぬぼ)れなんか毛頭ないのだ!――とは云うものの、うん、それでもたまには、青く澄んだ夜なんざあ、やる瀬ない気にもなるのだ。夜風も薫る頃合いに、俺は庭園(にわ)にさまよい込む。で、ね、哀れなでっかい醜(みにく)い鼻で春の息(いぶき)をぐっと吸うのだ――銀の光線(ひかり)の漂う下で、一人の男の腕にすがって、何処の女だか歩いているのが目にはいる。そんな時には俺もなあ、月の光に楚々として腕にすがる女性を一人持ちたいと思って、夢中で、我を忘れて、……と、その拍子に気がついて見りゃ、庭の壁に俺の横顔が写っているのだ”
ル・ブレ (感動して)まあ、そう言うなよ!……
シラノ ええ、おい、俺でも、ふさぎ込む時があるのだ! 時々は、よくもこんなに醜いと思うと、ひとりぽっちで……
ル・ブレ (彼の手を取りながら激しく)泣くのかい?
シラノ なあに! そうじゃあない。泣くものか! いいや、こんな鼻の上をするすると涙が流れたら、見られた態(ざま)かい! 俺が身の程を忘れぬ限りは、涙の神々しい美しさを、こんな卑しい醜い鼻で汚(けが)させるものか!……ねえおい、涙より気高いものは無いのだ、無いのだぜ。」



第二幕より:

シラノ その男は青年隊(カデエ)なのですか?
ロクサアヌ 近衛の青年隊(カデエ)でございます。
シラノ 名前は?
ロクサアヌ クリスチャン・ド・ヌーヴィレット男爵。」

シラノ ロクサアヌは今晩、文(ふみ)を待ち焦(こが)れているんだよ。
クリスチャン 困ったなあ!
シラノ 何故だい、そりゃ?
クリスチャン 黙っているうちが花で、口をきいたらお終(しま)いなんです!
シラノ 何んだって?
クリスチャン ああ! まるで気がきかないんで、穴にでも入りたい位です!」
クリスチャン (中略)勿論私だって、一種の気軽な軍人気質はあります、が、女の前に出ちゃ、ぐうの音(ね)も出ないのです。唯、女の前を通り過ぎるだけなら、まんざらでもない秋波を送られるんですがねえ……
シラノ だから、停(た)ち止(どま)れば尚のこと女の心まで蕩(とろか)すだろうじゃないか?
クリスチャン 大違いです! 私はねえ――自分で知ってるのです……で、それが悩(なや)みの種なんですが!――到底恋を語り得ない木偶(でく)なんです。
シラノ ふむ!……俺の体をもっと念入りに作ってさえくれたなら、俺こそは恋を語ることの出来る人間なんだろうがな。
クリスチャン ああ! 物を典雅(みやび)に言うことが出来ればいいのだがなあ!
シラノ 颯爽として練(ね)り歩く美貌の軍人だったらなあ!」
クリスチャン (絶望して)華々しい弁舌が欲しいなあ!
シラノ (思い出したように)俺が貸してやろう! 君は、心を惑わす美しい肉体を貸してくれ。そして二人一緒に、小説の主人公になろうじゃないか!」



第三幕より:

ド・ギッシュ (中略)一体この男は、何処から落ちて来たのだ?
シラノ (しゃがんで、ガスコーニュ訛りで)月世界からだ!
ド・ギッシュ 月世(げっせ)?……
シラノ (夢現(ゆめうつつ)の声で)はて何時だろう?
ド・ギッシュ 気は確かなのかな?
シラノ はて何時(なんじ)だろう? はて何処(どこ)だろう? はて何日(いつ)だろう? 抑〃季節はいつなんだ?
ド・ギッシュ それどこでは無いわ……
シラノ 俺は眼を廻したんだ!
ド・ギッシュ 君……
シラノ 月世界から鉄砲玉のように墜落したんだ!
ド・ギッシュ (じれったがって)いい加減にしてくれ! ねえ君!
シラノ (起き上って、猛烈な声で)俺は墜落したんだぞ!
ド・ギッシュ (たじたじと退いて)わかった! わかった! 月世界から墜落したんだとも!……こりゃきっと気狂いだ!
シラノ (彼の方に進みよって)俺が墜ちたなあ、比喩噺(たとえばなし)たあわけがちがうぞ!
ド・ギッシュ そりゃ兎に角……
シラノ 想い起せば百年前、いや待てよ、一分前だったかな、――何時(いつ)墜ち始めて、何時墜ち切ったんだか、まるっきり無我夢中なんだ!――俺は何でも、サフラン色の世界にいたんだがなあ!
ド・ギッシュ (肩を聳(そび)やかして)そうだとも。通らしてくれ!
シラノ (さえぎって)ここは何処なんだ? はっきりさせて貰おう! 隠し立てをするものじゃない! ねえ君! 一体全体、抑〃身共は、虚空を貫く隕石(いんせき)の、何処のどの地に、墜ちたんだ?」
シラノ (中略)おはずかしい次第だが!――最近(いましがた)の竜巻(たつまき)に巻かれてやって来やした。まだ少々エーテルを覆(かぶ)ってるがね。何しろ偉(えら)い道中をして来たんだからね! 眼の中は、星屑(ほしくず)で一杯さ。拍車の先にゃ、まだ惑星のうぶ毛もくっついてらあ!
     (袖のあたりから何か除(と)りながら)
 どうでえ、俺の胴著(どうぎ)にぁ、彗星の尻尾(しりっぽ)の毛もぶら下ってるぜ!……
     (それを吹き飛ばす)
ド・ギッシュ (怒って)おい君!……」
シラノ 何を隠そう、我こそは天道様の御使者なるぞ!
     (腕を組んで)
 とは真赤(まっか)な詐り! 天国失墜の道すがら、ちらりと睨んだ天狼星、すっぽり被(かぶ)った軽羅の覆面、どうだい、まんざら嘘とも思えまい!」
ド・ギッシュ 頼む!
シラノ 俺様の口から、尋(き)きたいことはな、お月様はどんな風に出来上ってるかとか、その南瓜(かぼちゃ)形の円みの中にゃ誰(だれ)か住んでるか、とか言うことだろう?
ド・ギッシュ (叫んで)そんな事じゃない! 俺は……
シラノ どうやって俺が昇ったのだか知りたいのだろう。そりゃ俺様が発明した方法で昇ったんだ。
ド・ギッシュ (がっかりして)愈〃狂(ふ)れてるな!
シラノ (軽蔑した調子で)俺は、レジオモンタニュスのやったべら棒な鷲だの、アルキタスの臆病な鳩だのの、作り代えはやらないのだ!……
ド・ギッシュ 確かに狂(ふ)れてるぞ、――だが学者の気狂(きちがい)だな。
シラノ いいや、俺は誰か前にやらかした事なんざあ、これっぱかしも真似しやしない!
     (ド・ギッシュは通り過ぎるのに成功して、ロクサアヌの戸口の方へ歩む。シラノは彼を摑(つかま)えようとして、後から追う)
 俺(おり)ゃな、誰もまだ手を附けない処女(きむすめ)すがたの蒼空(あおぞら)を、存分自由にする術を、六つまで発明したんだぞ!
ド・ギッシュ (振り返って)六つだと?
シラノ (饒舌を弄して)裸(はだか)蠟燭よろしくの、すってんてんの丸裸(まるはだか)、小壜(こびん)に詰めた曙(あけぼの)の空の涙の朝露を、振りかけ振りかけ日に晒(さら)しゃあ、露を吸い込むお天道様の、吸い込みついでに俺までも、虚空遥かに吸い上げらあ!
ド・ギッシュ (驚いて、シラノの方へ一歩進んで)成程! そうだ。そりゃ一法だ!
シラノ (反対の方向へ彼を連れて行こうとして身を退(ひ)きながら)先ず手初めに柏香樹(セエドル)の箱を抱(かか)えて息(いき)を吹っ込み、二十の鏡で照り返しゃあ、中の空気が軽くなる。それを合図に空行く風を逆落(さかおと)し、風は下界に墜(お)ちて行き、箱は箱は天国へ昇って行かあ!
ド・ギッシュ (又一歩進んで)それで二(ふた)アーツと!
シラノ (絶えず後へさがりながら)さて又、身共はお聞き及びでもござろうが、機械(からくり)の名人、花火の親玉、細工はりゅうりゅう鋼のゼンマイ、仕掛けた玩具(おもちゃ)の蝗(いなご)に跨り、硫黄(いおう)の火気(かき)で、飛びも飛んだわ、星が草食う天の原だ!
ド・ギッシュ (思わず知らず彼に引かれて、指で数えながら)三ーツと!
シラノ 揚がる煙の昇天気質(かたぎ)、しこたま詰め込む、だん袋、ひらりと打乗り、ふうわりふわり!
ド・ギッシュ (同じ仕草、次第次第に驚きを増しながら)四オツ!
シラノ 弓張月の幼(おさな)くて、乳を求めて育つ時、牛の髄気(ずいき)を身に塗れば、月の世界に吸い上げらりょう!
ド・ギッシュ (驚歎して)五ーツ!
シラノ (喋りながら、辻の反対側まで彼を引っぱって来て腰掛(ベンチ)の傍で)さてどん尻のからくりは、ゆらりと乗った鉄の板、投(な)げる磁石は空へ行く! 此奴ァ妙計、鉄板(てついた)が磁石の跡を追っかける。投げりゃ追い著く、追い著きゃ投げる。投げりゃ追い著く、追い著きゃ投げる。投げりゃ追い著く……素敵だぞ! 昇るわ昇るわ際限ねえ!……
ド・ギッシュ 六ーツと!――だが六ツともに素晴らしい遣(や)り口(くち)だ!……ところで六ツの中、君はどの方法を選んだのかい!
シラノ 七番目の奴さ!
ド・ギッシュ えええ、驚いたなあ! どんなのだ?
シラノ そのくらいの方法(やりかた)ならお手のものよ!……
ド・ギッシュ こいつはだんだん面白くなって来るわい!
シラノ (大袈裟な神秘的な身振で浪の音を真似しながら)ドドドドド・ザザザザァ! ドドドド・ザザザァ!
ド・ギッシュ それがどうしたのだ!
シラノ 解(わか)ったのか?
ド・ギッシュ 解らん!
シラノ 干潮(ひきしお)の浪の音さあ!……月に曳かるる海原(うなばら)の、干潮時(ひきしおどき)を見計い、ざんぶり飛び込み一游(ひとおよ)ぎ、しっぽり濡(ぬ)れて砂浜に憩(やす)んだ処に――其処だよ。濡れた髪の毛はなかなか乾(かわ)くもんじゃない。だからさ――月が招くか海の水、ぬれた頭も昇り出す。天女のように静々と、夕雲棚曳く空一文字、なんの苦もなく一文字。とたんにどしんと衝(ぶつ)かる物音!……その時だあ……
ド・ギッシュ (好奇心に引かれて、長椅子(ベンチ)に坐りながら)その時に?
シラノ その時に……
     (普通の声になって)
 先ず先ず十五分相たち申した。もうお引留めは致さぬ、結婚の式も済みましたからな。
ド・ギッシュ (一跳(と)びに飛び起きて)南無三、ぬかった、してやられたか!……」
ド・ギッシュ (ロクサアヌに)あなたが!
     (クリスチャンとわかって驚いて)
 この男と?
     (感歎してロクサアヌにお辞儀しながら)
 あなたは実に聡明です!
     (シラノに向って)
 飛行機の発明者なる君に向って、俺(わし)はお祝いを申すよ。(中略)委(くわ)しく書き給え。そりゃ確かに一冊の本になる!
シラノ (礼しながら)閣下、その御助言は必ず服膺いたしましょう。」



第四幕より:

シラノ (中略)ところで我はデカルトを読まん哉だ。」


第五幕より:

ル・ブレ 何から何まで、私が前から言っている通りです。世の中からは捨てられて、見すぼらしい有様です! 公開状(エピイストル)で又もや新奇の敵を作っているので! 彼奴は似而非(えせ)貴族や、似而非(えせ)信者や、似而非(えせ)勇者や、剽窃作家や――誰でもかまわず片端から、攻撃するんですからねえ。
ロクサアヌ でもあの人の剣には、みんな恐れていますからねえ。誰だってあの人を負かす者はございませんわ。
公爵 (頭を振りながら)さあ、どうですかな?
ル・ブレ 私の恐れているのは闇討(やみうち)じゃあない、孤独や、餓死ですよ、あの暗い部屋の中に、こっそり入って来る十二月の寒さです。これこそ寧ろあの男を殺してしまう刺客なのですよ!――毎日のように、帯皮の一穴ずつ腹が細くなって行くのです。みじめな鼻は、古渡(こわた)りの象牙(ぞうげ)のような色合になって来ました。彼奴はもう黒いセル地の粗末な著物一著(ちゃく)きりしか持って居ないのです。」

シラノ 落葉か!
ロクサアヌ (首をあげて遠方の並木のある道を眺める)木の葉の色はヴェネチヤ風のブロンドでございますね。御覧遊ばせ、散りますわ。
シラノ 美しく散って行くなあ! 樹の枝から土までの短い旅だが、末期(まつご)の美しさを忘れないのが実に佳い、地に堕(お)ちて朽ちる恐れも何かは、散り行く命に飛翔(ひしょう)の栄(はえ)あれと云う心だなあ!」

シラノ (中略)だが、それも大いに宜かろう。私は凡てに失敗した。死ぬ時までもだ。」

シラノ (中略)私は永く女の優(やさ)しさを知らなかった。母は私を醜い子だと思ったのです。私には妹も無かった。男になってからも恋しい女の目に宿る嘲笑(あざけり)が恐ろしかった。唯あなたがいられたからこそ、少くとも、女の友達を一人持つ事が出来たのです。(中略)
ル・ブレ (樹の枝を漏れて来る月光を、シラノに指示しながら)彼処に、君のもう一人の女性の友も会いに来た!
シラノ (月に向って微笑しながら)解っている。」
シラノ なあル・ブレ、今日こそは、もう機械(からくり)を工(たく)らむにも及ぶまい、このまんま、朧(おぼ)ろに霞(かす)む月の世界に一足飛びだ……
ロクサアヌ 何んでございますって?
シラノ いや他(ほか)でもない、あの月の世界に送られて、其処で極楽往生を遂(と)げようと云う事です。月の中には一人ならず私の好きな人達が居る。恐らくソクラテスにもガリレオにも会(あ)えるでしょう!」

シラノ (中略)うん、貴様達は俺のものを皆奪(と)る気だな、桂の冠も、薔薇の花も! さあ奪(と)れ! だがな、お気の毒だが、貴様達にゃどうしたって奪(と)りきれぬ佳(い)いものを、俺(おり)ゃあの世に持って行くのだ。それも今夜だ、俺の永遠の幸福で蒼空(あおぞら)の道、広々と掃き清め、神のふところに入る途すがら、はばかりながら皺一つ汚点(しみ)一つ附けずに持って行くのだ、
     (彼は剣を翳(かざ)して躍り上る)
 他(ほか)でもない、そりゃあ……
     (剣は彼の手から離れ、彼はよろめいて、ル・ブレとラグノオの腕に倒れる)
ロクサアヌ (シラノの上に身をかがめてその額に接吻しながら)それは?……
シラノ (再び目を開いて、ロクサアヌを認めて、かすかに笑いながら)私の羽根飾(こころいき)だ。」




◆感想◆


シラノが何故デカルトを読むのかというと、シラノが恋敵の美男クリスチャンのために恋文の代筆をし、声色を使ってロクサーヌへの愛を語るうちに、ロクサーヌは美貌(身体)ゆえにクリスチャンを愛しつつも、クリスチャンを通してそれとは知らずにシラノの心意気(精神)を愛するようになるのですが、デカルト的心身二元論では精神の優位が説かれているので、それが本作の登場人物である醜貌恐怖症のシラノにとってはせめてもの慰めになるわけです。実在のシラノ・ド・ベルジュラックのデカルト観は本人の著書『日月両世界旅行記』第二部をご参照ください。
ロクサーヌとクリスチャンの結婚を邪魔されぬようシラノがド・ギッシュを押しとどめる場面は、梶井基次郎の短篇「Kの昇天」で「シラノが月へ行く方法を並べたてるところ」として言及されていますが、これらの方法についてはシラノ・ド・ベルジュラック本人の著書『日月両世界旅行記』第一部に詳述されています。
第四幕「ガスコーニュ青年隊の場」は、ロクサーヌが馬車でクリスチャンのいる陣営に乗り付けて兵士たちに御馳走をふるまう、いわば戦場のピクニックです。






こちらもご参照ください:

シラノ・ド・ベルジュラック 『日月両世界旅行記 第一部』 有永弘人 訳 (岩波文庫)
モルナール 『リリオム』 飯島正 訳
『アリオスト 狂えるオルランド』 脇功 訳
『シャルル・ノディエ選集 第一巻 パン屑の妖精』 篠田知和基 訳


















































ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)

「Un mot de vous et un mou de veau
 「あなたの一言、と子牛の肺臓」」

(ピエール・ギロー 『言葉遊び』 より)


ピエール・ギロー 
『言葉遊び』 
中村栄子 訳
 
文庫クセジュ 626 


白水社 
1978nen2月20日 印刷
1979年1月8日 発行
178p 
新書判 並装 カバー
定価650円



本書「訳者まえがき」より:

「文例についてはほとんど全部原文とその直訳を掲げ、ついで簡単な解説を施した。訳者の解説はカッコに入れ、活字を小さくしている。(中略)文例の日本語訳にはすべて引用符「 」を付し、原文にある《 》はそのまま再現した。」


Pierre Guiraud: LES JEUX DE MOTS
(Collection QUE SAI-JE ? No 1656)



横組。本文中図版3点。



ギロー 言葉遊び 01



目次:

訳者まえがき

序文 《言葉遊び》とは何か
第1章 代入
 Ⅰ 地口
 Ⅱ 異義復言
 Ⅲ もじり
 Ⅳ なぞ遊び
第2章 連鎖
 Ⅰ いつわりの等位関係
 Ⅱ 同音による連鎖
 Ⅲ 反響による連鎖
 Ⅳ 自己運動による連鎖
 Ⅴ 引出し式なぞ遊び
 Ⅵ 偶然の連鎖
第3章 挿入
 Ⅰ 転換
 Ⅱ 編入
 Ⅲ 内挿
第4章 絵文字遊び
 Ⅰ 判じ絵
 Ⅱ 印書術による判じ絵
 Ⅲ カリグラムと絵文字
 Ⅳ クロスワード・パズル
第5章 副次的遊戯機能: 遊戯以下と遊戯以上
 Ⅰ 言葉の事故
 Ⅱ 文学的機能
 Ⅲ 秘密文書的機能
第6章 遊戯的機能
 Ⅰ 言語誤楽
 Ⅱ 言葉遊びとしゃれ
 Ⅲ 言葉遊び
結論 語源論的考察

訳注
文献目録




ギロー 言葉遊び 02



◆本書より◆


「第1章 代入」「Ⅰ 地口」より:

「地口 calembour とは、この用語の狭い意味では、《おもしろく》しようとする意図による、多かれ少なかれ《濫用》された、音声の類似による両義語である。」
「またこういうのもある
  《Bassompierre, prisonnier à la Bastille, tournait brusquement les feuilles d'un livre: 《Que cherchez-vous, lui demanda le geôlier. ―Un passage, lui répondit Bassompierre, que je ne saurais trouver.》》
  「バスチーユの囚人バソンピエールが本のページを荒々しくめくっていた。《何を探しているのかね。》と看守が尋ねた。バソンピエール答えていわく、《ある条(くだり)(抜け道)だよ。見つかりっこないがね。》」
 (これは名詞 un passage の多義性を利用したしゃれである。この語のもつ多くの意味のうち、ここでは「文章の一節」と「通路」つまり牢獄からの抜け道という意味がかけられている。)」

「実のところ多くの 地口 がほのめかしによって機能している。」
「《Mourir c'est partir un peu》「死ぬとは少し旅立つことなり」(これはpartir c'est mourir un peu 「旅立つとは少し死ぬことなり」を逆にしたものである。)などがそうである。」



「第1章 代入」「Ⅲ もじり」より:

「勘違い pataquès――もじり の形態のひとつに勘違いがある。」
「現在のところは、M.‐C. ギカの『奇語小辞典」と『ことばの魔術』から借用して、もっと凝った言い方のものをいくつか紹介しよう。
  Abdomen: 《Monument mégalithique auprès duquel les peuplades superstitieuses de l'ancienne Gaule croyaient entendre des grondements souterrains et des soupris mytérieux.》
  「腹部: 古代ゴールの迷信的未開人たちが、地鳴りと神秘的なため息の音がそこから聞こえると信じていた巨大な石碑。」
 (abdomen 「腹」を dolmen 「巨石碑」と読み違えた定義である。)」
「  Cyclamen: 《Amateur de bicyclette. Expression originale d'origine anglaise en usage vers 1880: 《Les élégants cyclamens pédalaient dans l'avenue des Acacias》 (Le Gaulois).》
  「シクラメン: 自転車乗り愛好者。1880年頃よく使われた。英語を語源とする独創的表現である。《優雅なシクラメンたちがアカシア通りでペダルを踏んでいた》と『ゴーロワ』紙に見ゆ。」
 (cyclamen (シクラメン)という花の名を英語の cyclist (サイクリスト)「自転車乗り」にあたる言葉だと勘違いしたのである。「~する人」をあらわす接尾語は ist のはずなのに men だろうと思い、さらにそれを単数とみて複数は cyclamens と念を入れている。アカシア通りというのもいかにもイギリス風である。)」



「第3章 挿入」「Ⅰ 転換」より:

「アナグラム anagramme と字なぞ logogriphe――アナグラムは、《1語あるいは1文中の数語の文字の配置を変えて、その文字が全く違う意味を持った他の一語または数語を構成するようにする》ことである。たとえば ancre 「錨」は nacre 「真珠母」の、onagre 「野生ろば」は orange 「オレンジ」のアナグラムである。
 アナグラムはギリシア語で「文字」をあらわす gramma と、転覆、逆行の観念をあらわす ana (たとえば anachronisme 「時代錯誤」、 anamorphose 「奇形」、anastrophe 「倒置」などの例がある)とを合わせたものである。
 しかしながら、アナグラムにおいては《転覆》は自由に行われ、配置転換された文字はどの場所を占めてもよい(cf. 回文 および 逆さ言葉)。
 そこで同じ1語がいくつものアナグラムを提供することができる。たとえば orange からは onagre が作られるだけでなく、organe 「器官、機関」も作られるのである。
 アナグラム では、変形される語を構成する文字の一部だけを利用する不完全なものもあり、たとえば orange から orage 「嵐」や nager 「泳ぐ」などを引き出すこともできる。しかしそれらは もじり でしかなく、アナグラム作成を容易にするために与えられている許容にすぎない。
 アナグラム は文全体に及ぶことがある。たとえばボナパルト(ナポレオン)のクーデターのとき、『フランス革命』紙にはこう書かれていた。《Un veto corse la finira》「コルシカの拒否権が革命を完成するだろう」(これは Révolution française のアナグラムである)。
 原則として、上記の例にかかわらず、アナグラム は固有名詞に適用されるものであり、これは 固有名詞語源論 étymologie onomastique の一形態なのである。
 固有名詞語源論の場合と同じように、アナグラム も名詞の形態が命名された事物の固有性を反映しているという前提に立っている。しかし前者においては同音関係が明白であるのに対して、後者においては一種のコード化によって隠されており、アナグラム解読者はそのコードを解読しなければならない。
 それ故に アナグラム は占いや秘儀において実行されてきたものであり、それも古代に既に始まっていたことがこの用語の語源がギリシア語であることによって知られる。これはカバラ Cabale (ユダヤ教の神秘的聖書解釈術とそれを伝授する宗教家)にも見いだされ、そこでは、アナグラムによる転換は、名称の背後に、神秘的、予言的な隠された意味を発見する術とみなされている。
 これはまた阿諛(あゆ)や諷刺の手段でもあり、それ故宮廷の遊戯であった。ギリシア時代やラテン時代に既に実行されていたのであるが、ルネッサンスの時期に再びこの形のもとに花咲いた。
 中世はアナグラムの語源論的意義にことさらに敏感であった。たとえば Roma の中に Amor (ラテン語の「愛」)があると考え、そのためローマを(神の)愛の都になぞらえた。他方同音による語源論はギリシア語の rôme 《力、権力》をそこに見いだした。
 紋章や銘文にもアナグラムが利用され、たとえばロレーヌ Lorraine 家の紋章には《alérions》(小さな鷲)が描かれているが、それは alerion が Loraine のアナグラムだからである。
 ルネッサンス時代には宮廷やサロンで アナグラム が大流行であった。Pierre de Ronsard は Rose de Pindare 「ピンダロスのばら」となり、シャルル9世の寵妃 Marie Touchet は Je charme tout 「私はすべてを魅惑する」である。」
「爾来アナグラムは一種の遊戯として扱われているが、現在でも多くの人に対して潜在的な語源論的威力を保ち続けている。」
「古典主義者たちは 地口 に対してそうしたのと同様に アナグラム も非難し、双方とも無益で幼稚な遊戯にすぎないとみた。それにもかかわらずアナグラムは根強く生きのび、超現実主義者たちは見逃さずにこれを楽しんだ。アンドレ・ブルトンは Salvador Dali を Avida Dollars 「ドルに貪欲な男」と呼んだ。」
「アナグラムは今日ではもはや遊戯にすぎない。しかし今でもひとびとはある種のひそかな力がこれに備わっていると考えている。その証拠としてアンドレ・テリヴの奇妙な反省がある。彼は《アナグラムには何か人間の技巧以外のものがあるのではないかと考えたくなる》と言い、《たとえば Révolution française 「フランス革命」のアナグラムである Un veto corse la finira 「コルシカの拒否権が革命を完了するだろう」が偶然に生まれたということがどうしてあり得ようか》と自問している。
 同じようにうまくできている例をいくつかあげよう。
  Frère Jacques Clément → C'est l'enfer qui m'a créé.
  「ジャック・クレマン修道士 → 私を創ったのは地獄である。」
  Napoléon empereur des Français → Le pape serf a sacré un noir démon.
  「フランス人の皇帝ナポレオン → 奴隷たる法王は暗黒の魔王を聖別せり」
 Pétain 「ペタン将軍」 → inapte 「不適格者」、vigneron 「ぶどう作り」 → ivrognne 「酔っぱらい」などは言うまでもないだろう。」

「アナグラム から派生し、同じように文字の配置転換にもとづいているのが 字なぞ である。(中略)それはアナグラム化された語が定義と同じ役割を果たし、なぞ遊びと同じように、これも多くの場合韻文で書かれた判じ物を構成しているのである。
 字なぞ logogriphe はギリシア語の logos 「論述」と griphos 「網」から来ている。つまり《なぞの形をとった、難解な、ひっかかりやすい論述》なのであり、その名称が示すとおり、ギリシア・ローマ時代に既に知られていた。
 なぞ遊び が全体を音節に分解するのに対して、字なぞ は文字の配置がえ、または削除によってアナグラムを引き出す。」
「しかし『19世紀ラルース辞典》も次のように指摘している。
 《本当の字なぞは、とりわけ通俗文学で花咲いた形としては、もっと複雑である。いくつかの例をあげてみよう。
   私より古く、私ほど美しいものはありません。
   私の名の綴字から3番目の字を消しなさい。
   年老いても若くても私はひどく醜いのです。
   きみの手で各瞬間に2番目の字を取り除けば
   私はきみの意志に反してふえるのです。
   きみの当惑はお気の毒さま、
   きみは私を一度も水、私を知ることができません。
   だがすくなくとも私の前半分を認めなさい。
   きみはそれが死に、再び生まれるのを見ました。
 なぞの語は ange 「天使」である。この語の3番目の字を除去すれば âne 「ろば」となり、2番目の字を除去すれば âge 「年齢」となる。またこの語の前半を分離すれば an 「年」が得られる。」

「換字地口 contrepèterie――換字地口 は昔 もどり歌 antistrophe と呼ばれていたもので、1語ないし数語の文字の配置転換を行なって、その語尾同音 consonance は変えずに意味を変えるという一種のアナグラムである。たとえば
   Un sot pâle et un pot sale
   「蒼白い馬鹿と汚いつぼ」
   Vendre votre terre et tendre votre verre
   「あなたの土地を売る、とあなたのコップをさし出す」
   Un mot de vous et un mou de veau
   「あなたの一言、と子牛の肺臓」」

「語順転換 antimétabole あるいは語彙転換 contrepètrie lexicale」
「次のは作者不詳である。
   On entre on crie
   Et c'est la vie
   On crie on sort
   Et c'est la mort.
   「人は入場し泣き叫ぶ
   それが生だ
   人は泣き叫び退場する
   それが死だ。」」



「第5章 副次的遊戯機能」「Ⅲ 秘密文書的機能」より:

「思考を伝達するために作られている言語は、ある状況のもとでは、思考を隠蔽することもある。軍事上、外交上の秘密コードがそれにあたり、その場合メッセージはその構成要素の転換や代入によって作成される。
 同様に神話、呪文、技法伝授、予言などは隠された形式のもとに正体をくらます。たとえば錬金術の原典はひとつの象徴体系としてわれわれに伝わっているのであるが、その体系を正確に知ることができないためわれわれには閉ざされたままである。
 ヘルメス学は秘密のないところでは秘密を探究してそれらしきものを設定する。たとえばカバラは聖書のコード化術であり、聖書の文字や語句の代入と転換によってそこに秘密の意味を探索し、発見する。
 固有名詞語源論は、既にのべたとおり、原則として表面上の意味の下に隠されている真の意味を見破ることを目的とする占いの術なのである。宗教、神話、道徳、さらには技術さえもがなぞと判じ物の形のもとにその真理を語ることをやめなかった。
 昔から言語をもてあそんできたこのヘルメス学的思索は、言葉の下に思考を隠す方法を想像しうる限りことごとく動員した。代入、転換、挿入、なぞ、判じ絵、魔術の方陣などである。」
「そこで、繰り返して言えば、遊戯的機能と秘密文書的機能との間には深い類縁関係が見られる。
 事実、ある条件のもとではこの2つは混同されることあがる。政治的状況や世情によって 2重の意味 が要求されている時代には特にそうである。
 それ故に 言葉遊び は独裁政権のもとでは政治的諷刺の主要な武器となる。それは宗教戦争、大革命、占領下の時代に、さらに身近なところでは大部分の警察国家において花開いた。」
「束縛やタブーに対して嘲笑を動員するということが遊戯的機能の主要素のひとつなのである。」



「第6章 遊戯的機能」「Ⅲ 言葉遊び」より:

「言語の壊乱――遊戯の無償性を強調しながらも、一般的に多くの遊戯が、とりわけ多くの 言葉遊び が諷刺と嘲笑の機能をもっていることを指摘しないわけにはゆかない。この特色はごくひんぱんに発揮されるので、このジャンルに内在するものとみなすことができる。」
「無教養でばかげた言述は、子供のしかめっ面や、おしやつんぼのまねをしてからかう人の嘲弄と同じように、話相手にさし向けられる鏡である。(中略)《これはばかげたことだが、おまえにはちょうどよい》と言っていることになる。だからこれに対する古典的な返答は、ばかばかしさの度合いをさらに強めた物言いをすることである。
 それと同時に不統一は、発言者自身によって、彼の身上だとされている卑俗さに徹しようと決意して採用されることがある。地口という(悪)趣味は、強迫的、錯乱的な加-被虐趣味の形をとることがある。それはシャルル・クロの「燻製にしん」のように、《まじめな、まじめな、まじめな人たちを激怒させる》ために作られたもので、《軽薄さ》の免状を獲得する一方法なのである。」
「さて、《悪趣味》(中略)は実際の社会的機能を持つことがある。それはベル・エポック時代に(アルフォンス・アレやジャリなどによって)、ブルジョアの侮蔑の的であった芸術家(芸術家のほうでもブルジョアを軽蔑していたのだが)がこの悪趣味という評判を受けて立っていた社会において花咲いた。それは《良い趣味》という概念が(《良き慣例》や《洗練された態度》と同じように)本来相対的なものであり、ある階級の支配が承認されている社会ではその支配階級の趣味に合致するものであるゆえにますますそういう事態になるのである。
 そこでこの《悪趣味》に階級闘争の武器とまではゆかずとも、とにかく風俗、慣例、趣味に対する有効にして重要な異議申し立ての一方法を見ることが許されるであろう。
 それ故に悪趣味はそれを看板にしている作家たちによって正当性を主張されている。《われわれのしるしは、狂った精神、時宜はずれの時宜、的をはずれた冗談、なれあいの謹厳さ、凝った地口、微妙に露骨な悪趣味である》とジュリアン・トルマはその『幸福感促進法』で宣言している。そしてこの言葉を引用しているリュック・エチエンヌは結論する。《なぜ悪趣味はよい趣味と同じほどに、おそらくはそれ以上に洗練されていないというのか》と。
 それは、究極のところ、問題にされているのが事物や人間ではなく、言語であり、さらに言語を通じて言語が媒体の役を果たしている社会制度なのだからである。同時に言語は社会制度の中でも最も重要な制度のひとつなのである。
 言語は機能を停止した瞬間に滑稽なものとなり、言語とともに修辞学、コード、文書(codex=écrits)、原則、論理、概論など、言語がそこに現われるものはみな滑稽なものとなる。その点をジードは『架空会見記』の中でジョイスに関して極めて適切に見抜いている。《ジョイスの投石は制度や風俗に向けられているというよりむしろ言語の形態に向けられており、思想や感情に向けられるのではなく、その表現に向けられている。思想や感情は世上の事物以上にわれわれを欺くのである。ジョイスは外被と外見を引き裂き、現実を裸にする。》
 それ故に言葉遊びをする人たちの術策は伝統的な成句表現や、スローガンや特にことわざに対して働きかけることをやめなかった。」

「ご覧のとおりに笑いは遊戯的機能の根底をなすものであるが、必ずしも無邪気なものとは限らない。事実これは壊乱的な笑いなのである。そして笑いは、(中略)人物や、制度や、紋切型や、社会秩序の表現を、その主たる保証人である言語を通じて攻撃するのである。」
「この観点からすれば、禁制とタブーに対する闘いにおいて 言葉遊び がどのような位置を占めるかが明らかである。
 われわれは既に、この本の途中において、宗教抗争や、革命や、占領下や、警察国家において 言葉遊び が果たす役割を見た。そういう状況が現われるたびに 言葉遊び はしばしば同じ姿のもとに花咲いたのである。現代のあらかた民主化された社会ではその鋭鋒はなまっているが、それでも『鎖につながれたあひる』のようないくつかの政治的新聞が今日でもその伝統を保持している。
 それに反して、最近になって攻撃の矢面に立ってはいるが、相変わらず根強く生き残っている禁制のカテゴリーがある。それは性と排泄に関するタブーである。」
「しかし 言葉遊び の本当の機能はもっと深く、もっと油断のならない、もっと猥褻なタブーと闘うことである。便器を展示するマルセル・デュシャンは芸術のイメージそのものを破壊し、その本質とその目的を俎上にのせる。」
「同様に地口も、論理や、文学や、修辞学や、既成秩序とその権力の独断的教養や画一主義に奉仕している言語を俎上にのせるのである。」








こちらもご参照ください:

「風の薔薇」 5 特集: ウリポの言語遊戯
丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)
塚本邦雄 『新装版 ことば遊び悦覧記』
シルヴィー・ヴェイユ、ルイーズ・ラモー 『フランス故事・名句集』 田辺保 訳
鈴木棠三 『ことば遊び』 (中公新書)
レーモン・ルーセル 『アフリカの印象』 岡谷公二 訳 (平凡社ライブラリー)























プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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