ロジェ・カイヨワ 『妖精物語からSFへ』 三好郁朗 訳 (サンリオSF文庫)

ロジェ・カイヨワ 
『妖精物語からSFへ』 
三好郁朗 訳

サンリオSF文庫 8-A

サンリオ 
1978年10月15日 初版印刷
1978年10月20日 初版発行
178p 
文庫判 並装 カバー 
定価280円
カバー: 東逸子



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Roger Caillois : Images, Images: Essai sur le rôle et les pouvoirs de l'imagination, José Corti, Paris, 1966 の全訳である。
 第一部「妖精物語からSFへ」は、『幻想物語アンソロジー』(一九五八、一九六六)の序文、および、サイエンス・フィクションに関する部分はマルセル・ティリー『時間に王手を』再版(一九六二)に寄せた序文をもとに、加筆されたものである。
 第二部「夢の威信と問題」は、アンソロジー『夢の権能』(一九六二)の序文、および、カリフォルニア大学と「ディオゲネス」誌の共催でロワイヨーモンで開かれた研究会『夢と人間社会』での報告論文がもとになっている。」
「第三部「ピュロス王の瑪瑙」は本論集が初出であるが、豊富な写真をそえた美本『石が書く』(中略)のもとになった論文と言えよう。」



本書には他に塚崎幹夫による訳書があります(『イメージと人間』、思索社、1978年)。


カイヨワ 妖精物語からSFへ


カバー裏文:

「SFの根は何処にあるのか? カイヨワはそれに答えて、妖精物語から怪奇小説を経てSFに至る系譜をたどってみせる。妖精物語が発達した中世世界では、魔法さえ日常生活の掟となってしまい、なんの驚異ももたらさない。だが現代のように科学的合理精神に支配された恒常的世界観に、一つの亀裂、一つの不可思議をもたらすこと――それも科学自体のもつ曖昧さと矛盾をつきつめていくことによって――現実界を破壊する妖精物語以来もちこされてきた変らぬ人間の聖なるもの、不可能なものへの信頼と希望がSFに現代的な形で復活するのである。
シュルレアリズム運動による幻想的なものの祝祭を潜りぬけてきたカイヨワは、こうして石の断層に描かれた紋様、コノハ蝶やカマキリの擬態、夢の文法から想像力の核を横断する《昼の論理》と《夜の夢》を綜合する百科全書的な対角線の科学を確立したのである。」



カバーそで文:

「Roger Caillois (ロジェ・カイヨワ)
1913年、フランスのランスで生まれる。1938年、高等師範学校で宗教学の学位を得る。一時期、ブルトンらのシュルレアリズム運動に参加するが、後に訣別。明晰な思考と言語、独自な対角線的研究法をもって神秘的なるものの解明に異色な業績をあげている作家、美学者である。著書に『神話と人間』『人間と聖なるもの』『石が書く』『幻想のさなかで』などがある。」



目次:

妖精物語からSFへ――想像力の機能と役割について
 第一部 妖精物語からSFへ――幻想のイメージ
 第二部 夢の威信と問題――夢のイメージ
 第三部 ピュロス王の瑪瑙――類推のイメージ

訳者あとがき
解説 (荒俣宏)




◆本書より◆


「第一部 妖精物語からSFへ」より:

「幻想とは現実界の堅固さを前提とするものである。現実が堅固であればあるほど、幻想による侵害も威力を増すからだ。(中略)幻想の基本的なやり口は、尋常ならざるものの出現である。つまり、神秘など永久に追放されたと思われる世界、完全に測定しつくされた世界のただ中にあって、特定の地点と特定の瞬間に、到底起こりえようはずのないことが起こるのだ。一切は今日のまま、昨日のままに、穏やかで、平凡で、なにひとつ異常がない。そこに、到底容認しがたいものがゆるやかに忍び込む。あるいは突如としてその姿を繰り広げるのである。」

「幻想小説にとっての枠組は、《眠れる森の美女》のあの魔法の森でなく、現代に特有の現代に特有の陰欝な管理社会である。中世世界や古代世界に移されたのでは、幻想小説はその力を失なってしまう。そうした枠組の中では、超自然がずっと自然なものに見えてくるからだと言ってもよかろう。
 それとは逆に、平々凡々たる現代社会という枠組の中へ、不吉な亡霊を闖入させるかわりにいたずらっぽく好意に満ちた妖精物語の奇蹟を移し入れてみたとしても、やはり同じことが言えるだろう。最近のアメリカの短篇に、『三つの願い』とそっくりのものがある。もっとも、願いの数は三つでなく二つなのだが、(中略)妖精物語の要素を現代に移し入れるとどのような雰囲気が生じるか、その好例となっているのだ。」
「海岸から遠く離れたアリゾナの小さな町で、町営プールの管理人が、明け方の人気のないプールの水を溢れさせ、潮の香と海草の香をただよわせながら、噴水孔から騒々しく呼吸している不可解なクジラを発見する。管理人は自分の眼が信じられない。しかし、現実は動かしようがないのだ。そこで彼は証人になってくれる人間を探しに行く。戻って来ると、クジラの姿は消えていた。管理人は夢をみたのか。しかし、「あたりには、浜辺に打ち上げられた海草の臭気と塩くさい泥の跡がひろがっており、プールの殺菌された水の面にも、はるかな海からやってきた褐色の海草がただよっている」のであった。ところで、子供が一人、問題のクジラを夢中になってながめていたはずなのだが、その子の姿もやはりプールから消えてしまっていた。実を言うと、その子は、妖精を捕えるのに成功し、紙袋に閉じ込めて、無理やり願いをかなえてもらおうとしたのだった。そして、その子の一番の願いというのが、生きたクジラを見ることだったのである。魔法の力が介入したのはほんの一瞬にすぎない。世界はたちまちにもとの姿をとりもどし、結果的にはなんの悲劇も起こりはしなかった。」
「要するに、たとえ現代風な道具立ての中に導入されようとも、妖精とその魔力は、あくまで不思議なものであるにとどまる。幻想に特有のあの戦慄を出現せしめるには至らず、楽しい驚きとでもいったものを誘うにすぎない。」

「サイエンス・フィクションは、それ以前の非現実的物語を継承し、全く同じ機能を果している。かつての妖精物語は、いまだ支配しかねる自然を前にした人間の、素朴な願望を表現するものであった。次に来る恐怖小説は、理論的探究と実験諸科学の努力の末にようやく確立され、証明された世界の秩序とその規則性が、突如、悪魔的で憎しみに燃えた暗黒の力の攻撃を受け、敗れ去るのを見る恐怖を表現していた。そして、サイエンス・フィクションは、理論と技術の進歩に対して恐怖を覚えた時代の苦悩を反映しているのである。(中略)科学はもはや真理と安寧をもたらすものではなく、不安と謎を惹き起こすものになったと言えるかも知れない。妖精物語でも、幻想小説でも、サイエンス・フィクションでも、それぞれの作品群に共通する一般的雰囲気、主だったテーマ、基本的着想等はそれぞれのジャンルが花開いた時代の潜在的関心事からこそ生じているのだった。」



「第三部 ピュロス王の瑪瑙」より:

「昔から人間は、(中略)たえず変ったところのある石を探してきた。風変りな特徴をもった石がみつかると、(中略)自然の法則に反する奇蹟のごとくみなされた。そうした特徴が、およそありそうもない偶然の業であることだけはたしかで、そのことが精神を魅了してやまないのだ。(中略)中国では、十六世紀に編集された李時珍の著作に、並の石でも硬玉でもありえない瑪瑙のことが語られている。それによると、この種の鉱物群の中でも最高のものは、人の姿、動物の姿、物の形などが浮き出して見える石だという。(中略)石の内部に閉じこめられたこの種のイメージは、本当らしさに対する一種の挑戦である。だからこそ、模様石と呼ばれたこの種の石の収集が人気を呼び、十六世紀から十七世紀にかけて、王侯貴族や富裕階級の陳列室を一杯にしていたのである。
 すでに大プリニウスが、その『博物誌』の中で、エペロスの王ピュロスの瑪瑙のことを語っている。それによれば、この石にはいっさい人の手が加わっていないのに、それぞれの象徴を身につけた九人のミューズにかこまれて竪琴を弾いているアポロンの姿が見えたという。(中略)ところで、この石のことを語っている者は多いが、実際に見た者は誰もいない。しかも、何世紀にもわたってこの石のことが語りつがれてゆくのだ。十六世紀の中頃には、ジェロラーモ・カルダーノが、この現象に合理的説明を加えようとしている。彼の推測によると、ある画家が問題の場面を大理石に描いた。ところが、故意か偶然か、その大理石画がくだんの「瑪瑙の出土した場所に」埋もれてしまい、「ために瑪瑙へと変化した」。(中略)この突拍子もない説明が、四分の三世紀の余も、そのまま受け入れられていたらしい。一六二九年になって、なかなかの権威であったガファレルが、ほかの多くの石に認められる紋様と同じく、自然のみがこの傑作の作者であると主張する。」
「想像力がその気になれば、石の表面に認められないものなどありはしない。」
「しかしながら、これらの例がすべて漠然とした類推の話でしかないのだとしたら、類似を発見することが人間にとって、強力かつ恒常的な情熱となってきたということで簡単に説明がつくだろうし、このような問題があれほど論争のまとになることもなかったであろう。ところが、一方で、動物や植物の化石が発見されていたのだ。それが本物に似ていることは当然とはいえ、やはり驚きのまとであった。(中略)当時は、まことに正確なこの似姿が、太古に生きていた動物の残した刻印だとは知られていなかったのである。そこで、なんとなく漠然と似ているだけで、ほんのわずかな類似点しかないのに、観察者の熱意のあまり何かにみえてくるような紋様とも、特に区別されてはいなかった。」
「石化作用、すなわち化石の理論は、ライプニッツによって検討されるまではほとんど支持をえられずにきた。十八世紀の中頃になってはじめて、科学は、化石というものが滅亡した動植物の痕跡であり、生命の歴史の証拠として学問の対象となりうること、いかに人の心をとらえようと偶然にできた自然の紋様とは全く異なったものであることを、堂々と主張するようになる。そのことで科学は、自然の紋様を、偶然が生んだ珍品の部類へ追いやってしまった。そうした珍品も、軽薄な精神を楽しませたり、詩人の夢想に満足を与えることはできよう。しかし、正当な科学の対象にはなりえないというのだ。こうして、もはやピュロスの瑪瑙が話題になることはなくなり、フィレンツェの大理石をはじめとするあらゆる形象石(ガマエ)が、これ以後、科学からの手ひどい拒絶を蒙ることになるのである。
 厳密な研究として言うのならその通りであって、問題は決定的かつ見事に結着がついたといえよう。しかしながら、類推の悪魔の絶えざる誘惑は、そのような裁定が下ったからといって一向に衰弱をみせず、その力は手つかずに残されてゆくのである。
 一例をあげるにとどめるが、いたって極端な、錯乱と隣りあわせの例である。今世紀のはじめごろ、ジュール=アントワーヌ・ルコントという隠者がいて、流行の交霊術に病みつきとなり、道ばたで燧石を拾い集めては、洗い、磨き、そこに、複雑で感動的な無数の情景を発見する。彼にしてみれば、そうした場面をほかの連中が見わけられないことの方が驚きであった(習練が足りないせいだと彼は言う)。彼はそうした情景を分類し、スケッチし、中でも素晴しい場面を集めて『紋様石(ガマエ)とその起源』という小冊子を刊行した。彼はこの小冊子の中で、これらのイメージは人間の強烈な感動から生じ、それが精神の照射現象によって石の中へ固定されたものだと説く。」
「ジュール=アントワーヌ・ルコントなる人物が、単に模様石だけでなく、およそ目に入るものならすべて、倦むことを知らず、確固たる信念をもって、解釈しようとしていたこともわかる。「私は、うずくまって右手を差し出している人間の形をしたジャガイモを所有している。床板に親戚の女性の顔を認めたこともある」。
 たえず何かを同定していたいという誘惑は、この燧石愛好者の場合のように、ひとつ間違うと、偏執的で滑稽きわまるものになってしまうが、その実、非常に一般的な誘惑なのである。それは、いわば精神機能の一部をなしている。この種の誘惑を感じないと言える者はいないのであって。大切なのはむしろ、そうした欲求を抑制し、制御することなのである。ピュロスの瑪瑙のアポロンとミューズ以来、石の紋様に認められてきたイメージは、すべて、そうした精神的磁化作用への服従を通じてのみ出現しえたものなのだ。学問や厳密な研究がそうした誘惑に懐疑的なのは当然である。(中略)これに反し、詩はそこにこそ源を発している。詩はこの誘惑に依って立ち、そこから格別に豊かで確実な効果を汲みとっている。詩にとってもまた、あらゆる類推と隠喩は隠された関係を啓示するものであり、それが見えないというのは、想像力の無力のゆえでしかないのである。」
「そのようにして認められる情景が複雑であればあるほど、類似が明確であればあるほど、陶酔も一層大きなものとなる。壁の亀裂、押しつけられたインクのしみ、樹皮の表面などに認められ、解読されるイメージについても、同じことが言えるだろう。かけ離れた二つの事物の間に未開の関係をきらめかせようとする詩人たちのイメージも、また、およそ予想もしないところに類似を――漠としたものであることもあろうし、明瞭なものであることもあろうが――感じ、発見し、確認した精神にとっての、あの満足感にかかわっているのだ。あたかも、人間の精神が、何ひとつ表象しえぬものの内にもなんらかのイメージを求め、何ひとつ意味しえぬものにも意味を与えずにはおかれぬかのようである。決定的なものなど何ひとつ呈示しているように見えない線と形、光と影の構成体にまで、精神は、たえず何かしら見慣れたもののフォルムを読みとり、投影することになる。このような精神的傾向は、心理学にまで利用されているほどなのだ。人の心にひそむ強度の偏愛、隠された性格などを発見しようとする心理学者たちは、被験者に対し、わけのわからぬ漠然としたしみのようなものを見せる。このしみからどのようなフォルムを読みとるかによって、直接被験者の口から聴取するよりも、はるかに確実な結論がえられると考えられているのである。
 私には、これほど恒常的で強力な精神作用のことをないがしろにしてよいとは思えない。ことに、それが、一種の興奮状態からめまいまで惹き起すほどのものであってみれば。」






















































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ロジェ・カイヨワ 『メドゥーサと仲間たち』 中原好文 訳 (新装版)

「人類がおしなべて現に仮面を着けているか、あるいは過去において着けたことがあるということは一つの事実である。この謎めいて、有益な目的をもたない小道具は、梃子や弓や銛、あるいは鋤などの道具よりも広範に行き渡っている。いくつかの民族全体が、(中略)もっとも貴重なこれら道具のかずかずを知らずに過してきた。ところが彼らはいずれも仮面というものは知っていたのである。」
(ロジェ・カイヨワ 『メドゥーサと仲間たち』 より)


ロジェ・カイヨワ 
『メドゥーサと仲間たち』 
中原好文 訳
 
新装版

思索社
昭和63年10月10日 印刷
昭和63年10月28日 発行
193p 図版12p
四六判 丸背紙装上製本
定価1,800円
装丁: 高麗隆彦



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Roger Caillois: Meduse et Cie., Gallimard, Paris, 1960 の全訳で、邦題もほぼ原題そのままである。」


邦訳初版は1975年、本書はその新装版です。
別丁モノクロ図版19点。


カイヨワ メドゥーサと仲間たち 01


目次:

問題提起
  対角線の科学
  擬人主義(アントロポモルフィスム)に関する短い覚え書

自然に復原(もど)された人間
  ウスバカマキリについておこなったある研究について
 1 紋様か構想か
  蝶の翅
  自然の絵画
 2 対比と類似
  擬態のもつ三つの機能
   変装(トラヴェスティ)
   偽装(カムフラージュ)
   威嚇(アンティミダシオン)
    1 眼状紋
    2 メドゥーサ
    3 妖術
    4 ビワハゴロモ
    5 結論

原注・訳注
訳者あとがき



カイヨワ メドゥーサと仲間たち 02



◆本書より◆


「対角線の科学」より:

「認識における進歩というのは、ひとつには、あらゆる表面的な類似性をしりぞけて、深い、恐らく目にはそれほどつきにくいかもしれないが、より重要で、意味深い親縁性(パランテー)のかずかずをあばき出すことにある。十八世紀においてもなお、動物を脚(あし)の数によって分類し、たとえば、トカゲとハツカネズミとを同類として扱うような動物学上の著作がいくつか公にされている。今日では、トカゲは、脚はまったくないけれども、同じように卵生動物で鱗(うろこ)に覆われているナミヘビ科と同じ項目に入っている。これらの特質は、当然のことながら、脚の数という、最初に人目を奪った特質よりもさらに重要ないくつかの帰結からはっきりと浮かびあがってきたものである。同様にして、その外見にもかかわらず、鯨が魚の仲間でないことも、コウモリが鳥の一種などでないこともよく知られている。
 私はわざと初歩的で異論の余地のない一例を取りあげてみた。だが、ごくおおざっぱにもせよ、もろもろの科学の成立に関する歴史をひもといてみるならば、すぐさま、そこには無限ともいうべき罠のかずかずがしかけられていて、科学者たちがたえずそれらの罠を避けながら、有益な識別基準、つまりそれぞれの学問分野を固定するさまざまな識別の基準に誤りがないかどうかを確認してきたことに気付くのである。
 あまつさえ、これらの罠、人を欺きやすいこれらの外見は、単なる見せかけでないばかりか、実を言えば外見ですらもない。それは現実なのであって、それらの現実には、他のいくつかの現実に対して与えられる係数に比べてより重要性の低い一つの係数が最終的に結びつけられたというにすぎないのだ。トカゲだとかカメは、哺乳類などではまるでないのに、哺乳類同様四肢をそなえているし、コウモリは、鳥の仲間でないにもかかわらず、翼をそなえている、というようなことは疑いようのない現実なのである。」
「だから、視点をどこに定めるかによって、二義的なもの、あるいは問題にもならないとされているようなこれらの分類の仕方が、突如として本質的なものとなってくる場合もいぜんとして存在するのである。たとえば、私が羽の機能を研究しようと思えば、今度は、コウモリを鳥のみならず蝶や蛾とさえも結びつけ、それぞれの成員をいくつかの異なった種類、つまり無脊椎動物・鱗翅類、脊椎動物・鳥類、等々に分類せしめるにいたったさまざまな理由(中略)のいかんにかかわらず、羽族全体を調べてみなければならなくなることは明らかである。さらに、私が羽のもつ機能の特殊な一面、たとえば、定点飛行、つまり羽の振動によって空中の同じ場所にとどまったまま、体を静止状態に保つ飛び方を検討するものと仮定するならば、私はハチドリとスズメガ科のホウジャク類というように、近接した種類には属していない動物の図解説明に頼る以外になす術がないわけであり、これらの動物はいずれも花の上方に静止し、口吻または長い尖った嘴をもちいて、花から離れたまま食物を摂取するのである。」

「科学者というのは、たとえば、生体組織の瘢痕(はんこん)形成と結晶組織の瘢痕形成とを比較することなどは一つの冒涜、スキャンダル、ないしは妄想と見なしがちなのである。にもかかわらず、事実に徴してみるならば、結晶体も有機体同様、思いがけぬ出来事の結果自らのうちに生じた毀損部分を構成し直すのであり、被害をこうむった部分は一段と活発な再生活動の恩恵に浴するのであって、この再生活動の増大は、きずによって創り出された損壊、不均衡、不相称の埋め合わせをすることを目的としているのである。(中略)ともあれ、ひとつの強力な作用が生じて、それが、動物におけると同じように鉱物においてもその規則正しい秩序を回復するということは事実なのである。私は、無生物と生物とを隔てている深淵を知ることにおいて人後に落ちるものではない。だが私はまた、そのいずれもがさまざまな共通の特性を示しうるのであり、これらの特性は、無生物であると生物であるとを問わず、その構造の全体性を回復しようとする傾向をおびているのだとも考えるのである。むろん私とて、数限りない世界を包みこんでいる一つの星雲と、海中に棲息するなにか軟体動物の分泌によって作られた一箇の貝殻とを比較対照するなどという試みは、それがたとえいかに控え目なものであろうと、人を見くびったものであることぐらい知らないわけではない。にもかかわらず、私にはそれらが二つながら、螺旋状の発達という同一の法則に従っているものと考えられるのである。しかも、螺旋というものが、とりわけ、相称と生長という宇宙の基本的な二つの法則の綜合をおこなうものであってみれば、これとてなんら驚くにはあたらないであろう。螺旋とは生長発達における秩序を構成するものなのだ。生きものも、植物も、あるいはまた天体も等しくその支配を受けざるをえないのである。」



「偽装」より:

「コノハチョウ(Kallima)という蝶は、その主たる葉脈と葉柄だけを残した、披針形形の枯葉のような姿を示す。ナナフシの雌は、緑色もしくは黄ばみつつある木や草の葉を模倣する。ブラジル産のドラーコニア・ルーシーナ(Draconia rusina)という蝶は、ポールトンによって研究されたものであるが、その翅には極端に深い切れこみをもったぎざぎざや、細い翅脈の走っているいくつかの透明な斑点があり、鱗粉がその斑点をいっそう強烈に描き出しており、そうしたものがこの蝶に、毛虫にいためつけられ、茸にやられて、黴の生えた落葉のような外見を与えている。」
「このような例は数え切れないほどある。ブラジルに生息するフロエイド科(Phloeidae)の昆虫は見まごうばかりに地衣を模倣しているし、カミキリムシ上科(Chlamys)の昆虫は植物の種子そっくりであり、ツノゼミ類のウンボーニア(Umbonia)は棘に、アズチグモは鳥の糞に似ている。
 そのうえさらに、姿態(アティテュード)がその形を補ってより完全なものとしている。昆虫は一般に認められている類似性を最大限に利用することのできるような行動を本能的に採り入れるのだ。そこから、なにはともあれ、そうした類似性を単なる錯覚であると見なすことはどうしても困難であり、あるいはまた、いかなる影響力ももたないにせよ、同じ一つの目的に向かっているかのように思われる植物と動物との類似的な適応作用の驚くべき結果をすらも単なる錯覚と見なすことはある程度困難になるだろう。なぜならば、類似性は開発されるものだからだ。ナナフシはその長い脚をだらりと垂らしたままにし、コノハチョウはその下翅の一部が伸びてできた尾状突起を茎や樹幹にくっつけて、それを自分が模倣している草や木の葉の葉柄のように見せかけようとする。(中略)シャクトリムシは、自分が真似ている灌木の若い枝木のように、体を硬ばらせて直立したままでいるので、時として庭師に刈込みばさみでちょん切られたりする。」

「ところが、擬態は有害なものではないにしても、無益なものである。昆虫の外敵は獲物の臭気だとか運動によってその存在に気付くのであり、外見によってその存在に気付くのはごく稀なことだからである。(中略)しかも、プテロクローザ(Pterochroza)という大型のバッタに関して、ヴィニョンがきわめて適切に指摘しているように、手つかずで無疵の葉も、いたんだ葉と同じようにやはり葉であることにかわりないのだ。そこからただちに、これらのバッタたちをして、枯葉だとか、なかば分解し腐敗した葉の疵や黴、さては透けて見える部分などまで模倣させる、この過度の凝(こ)りようは一体何の役に立つのかという疑問が生まれてくるのである。
 擬態という現象はいぜんとして神秘にとざされたままである。」



「威嚇」より:

「さしあたり、私は眼状紋の効力を書き留めるだけに限ろうと思う。」
「まさしく、問題は、眼状紋が目を真似て描いた紋様、目の見せかけであるかどうか、そしてその機能が昆虫のかわりになにかの脊椎動物がいるのだと思いこませることにあるのかどうかを知ることである。ここで思い出しておいた方が良いのは、固定されたどのような円もおのずから催眠的な作用をもっているということである。長時間見つめていると、それは見る者を不安にさせ、麻痺させ、眠りこませるのだ。しかも暗い、空虚のような中心の周囲にある鮮明できらきらと輝く環がその円に目のような姿をとらせるということ、それがまさしく不安と恐怖との補助的な源泉であり、魅惑と眩暈の可能性を増大させるのである。こうした曖昧さが純粋に視覚的な作用につけ加わり、人間にあっては、想像力を揺さぶるのだ。
 私には、眼状紋が目の略図などではないということを証明するのは不可能なことではないように思われる。まずもって、類似の根拠となっているのは、目という器官とこの紋とに共通に見られる円い形状だけである。しかし問題は二つの異った現実なのであり、そのいずれかが他方を連想させたり、その象徴となったりしているのではないということをもっとも見事に証明しているのは、これら二つの現実がたがいに連合されうるということである。(中略)見えるのは大きく見開かれた目だけであるが、それはもはや目などではない、すなわち、単純で当り前の視覚器官ではなく、さながらあの世からでも現われ出でたかのごとき超自然的なまぼろしであり、大きくて、盲で、無感覚で、燐光を発し、幾何学の図形のようにじっと動かず、奇妙なほどの完成度を示しているのである。一つの神話がほとんど一致して期待に応えるにはもはやこれで充分であろう。フクロウとミミズクとは縁起の悪い鳥であり、死の前兆であり、悪意に満ちた魂の化身なのである。眼状紋のもつ幻惑の力とはこのようなものなのだ。」
「兇眼、つまり、眼状紋は呪いをかけ、呪いを運ぶ。この不吉な眼差しから遁れ、なにか適当な魔除けによってそれから身を守ることが大切である。もっとも良いのは、その脅威を外らし、敵と自分との間に、同じように不吉な呪いの効力をそなえた目から発する、恐ろしい力を置くことである。」

「ペルセウスはとある洞窟の中で眠りこんでいるゴルゴーンの三姉妹を見出す。目をそむけ、鏡に助けられて、彼はメドゥーサの姿を直接見ないでその首をはねる。(私は彼がむしろ、その怪物に、見る者を眩惑する自分自身の顔を射返すために鏡を利用したのではないかと思う。)
 切り落された頭についている眼差しはその効力を完全に保っている。(中略)彼はこの無敵の武器によってアトラースを山脈に変え、ポリュデクテースやその他の者を化石にする。」
「ある人びとによれば、(中略)彼はそれをアテーナーに捧げ、アテーナーは火と鍛冶の神、ヘーパイストスに依頼してそれを自分の楯の上に着けてもらったという。」

「擬態と眼状紋との関連は単なる偶然によるものではありえないだろう。これら二つの現象の間には一定の脈絡があり、それを明らかにすることこそ望まれるのだ。私としては、見るものを眩惑するこれら眼状紋が露呈するメカニズムの中にそれを認めることができるように思う。眼状紋が存在するというだけでは不充分で、それが不意にあらわれることが必要なのだ。最初見えなかったのに、爆発でもしたかのように、突如としてくっきりと現われ出ることなのである。擬態は単にこれら眼状紋を隠すのみならず、同時にその所有者の姿をもまんまと見えなくする。つまりそれは眼状紋の所有者を周囲の色だとか形と混然一体とさせ、見分けられるのを妨げる。ところが、なにもないように思われていたところ、いわば一種の不在、あるいは少なくとも中性的で見定めにくい、あやしげな存在から、突然、ありうべからざるような、強烈な色彩をそなえた巨大な円が浮かびあがり、それがじっと動かないのだから、見る者は眩惑されるのだ。」
「昆虫は恐れを与える術をわきまえている。のみならず、それは一種独特な恐れ、つまり誇張された、想像上の恐怖を惹き起すのであるが、それはなんら実際的な危険の裏づけを伴わない恐怖であり、威嚇だけの威嚇であって、不可思議さと異様さとによって作用をおよぼし、まさに超自然的な外観をとり、なんら現実的なものに依存しないで、あの世から現われ出でて、その犠牲となるものを惑乱させ、それに麻痺ないしは混乱以外のいかなる反応をも禁ずるもののように思われる。」




















































ロジェ・カイヨワ 『斜線』 中原好文 訳

ロジェ・カイヨワ 
『斜線
― 方法としての対角線の科学』 
中原好文 訳


思索社
昭和53年11月30日 印刷
昭和53年12月20日 発行
233p
四六判 角背紙装上製本 カバー
定価1,800円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Roger Caillois: Obliques precede Images, images......1975, Editions Stock の後半、Obliques の全訳である。前半を占める Images, images...... の部分は、すでに先頃、『イメージと人間』の表題で、塚崎幹夫氏の訳により、本書と同じく思索社から刊行されている。」
「邦訳では、『斜線』という、そのままではいささか曖昧さの残る原題に、〈方法としての対角線の科学〉という副題を補った。」



カイヨワ 斜線


目次:



第一部
 1 ラマルクの誤謬
 2 循環的時間、直線的時間
 付録 自然における幻想的なものに関する逆説的観念

第二部
 Ⅰ 現前している想像の世界
  1 火による浄化
  2 美術館の神々
  3 月からの石
 Ⅱ 変化発展しつつある想像の世界
  4 『フェードル』と神話学
  5 空想科学小説
  6 地獄の変容
  7 記号の世界としてのシュルレアリスム

結論にかえて
 詩への接近――アラン・ボスケへの手紙

原注・訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「序」より:

「表題の『斜線(オブリック)』は《対角線の科学》という考え方を反映したものである。」
「問題は、主として、既得の知識をいろいろな形で横方向に切断することによって、時として危険なまでに細分化してしまっている様々な探求分野の区分を補整することにあった。」



「ラマルクの誤謬」より:

「ここに幻のようなひとつの石英がある。そこには、厳密に相同で、雲のように薄い層状をなして、幽霊のようなものがいくつも重なり合っている。そしてこの石英の全体は、一定間隔の時間を置いて、なにかの植物の生長する様を次々に感光させたフィルムに最もよく似たものとなっている。両者の間には関係がないか、あるいはそうした関係はまやかしのものであり、類似は見かけだけのものにすぎないということを私はよく知っている。しかし何がそうした類似を生じさせたのかを私に充分解き明かしてくれる者はいない。だからもしも私が、偶然であるにしてはあまりにも明確なかかる類似を説明してくれるであろうなんらかの一般法則を夢みたにしても、(中略)罵られることはよもやあるまいと思う。動物界、植物界、鉱物界といった異なった界に属し、どう見ても相容れないと思われるようなもろもろの現象を互いに引き寄せて比較対照するということは、明らかに大胆不敵な行為であり、そうした行為は、迷妄であると同時に刺激興奮を呼び起こすものでもある。私に関していえば、私はそうした行為の孕む危険と幸運とをふたつながら受け入れるべきだと思っている。」


「循環的時間、直線的時間」より:

「ギリシャの思想家たちはひじょうに早くからこの永劫の反復という性質とその重要性について尋ねている。エンペドクレスは破壊されたものは絶対に自己同一的なものとして再生することはなく、ただ種として κατ' είδος 同一であるにすぎないと考えていた。事実、理論家たちはふたつの仮説の間で逡巡していた。第一の仮説に従うならば、各の人間はかつて存在したときと絶対的に同じものとして再生し、かつてと同一の様々な行為を遂行する。第二の仮説によれば、似たような人間が同じような性格をもって再生し、いくつかの類似の行為を遂行する。キリスト教徒であるとともにグノーシス派でもあったタティアノスの述べるところによると、キティオン(キプロス島)のゼノンは、アニュトスとメレトスがなおもいくつかの誣告を行ない、ブシリスはまたその宿泊客たちを殺し、ヘラクレスはさらに数々のすばらしい武勲をなし遂げるであろうと断言していたという。しかし彼もソクラテスが再び犠牲者となり、ブシリスがまったく同一の宿泊客たちを殺し、ヘラクレスが同一の勲功を立てるであろうとは断定していない。オリゲネスは、(中略)ストア学派の人々が述べるところによると、《再び生まれてくるであろうのはソクラテスではなく、ソクラテスにそっくりで、クサンティッペとまったく同じような女性と結婚し、アニュトスとメレトスと少しも違わないような人々によって告発されるであろうような人物である》という説明さえも加えている。」
「しかしながら、四世紀の新プラトン学派のキリスト教徒、ネメシオスが、ストア学派の教理は各の事件の反復を、その細部に至るまで、そしてその細部のさらにまた細部に至るまで肯定したものであると明言する時、彼はあきらかにクレアンテスとクリュシッポスの考え方に従っているのである。
 《……それから、これらの天体が再び同じ運行を開始する時、世界は再構成されるのだ。それぞれの天体は、かつて辿ったと同一の軌道を再び描き、それに先立つ周期において生じた各の事柄が、再度、まったく同じようにして実現されるのである。ソクラテスはプラトンが存在するであろうと同じように、また各の人間がその友人たちや同国人たちとともに存在するであろうと同じように再び存在し、彼らの各が数々の同じ事柄に耐え、同じ道具を使うであろう。(中略)あるいはむしろ、同一の様々な事柄が際限なく、そして絶えず再生するであろう。(中略)あらゆる事柄が、同じようにして、いかなる相違もなしに反復されるのであり、しかもそれはごく些細な事柄に至るまでも同様なのだ》。
 シンプリキオスはエウデモスのある立論について報告しているが、彼によれば、ピタゴラス学派の人々はもろもろの存在が種としての類似性においてのみならず、いわばひとつひとつ、そしてどこからどこまで同一のものとして永遠に反復すると主張していたという。(中略)《彼らの言うところによれば、と彼は説明している。私はこの同じ杖を手にして、あなたがたにこの同じ話を新たにしていることになるのであって、あなたがたは現にこうして坐っているように、またいつか腰をおろすことになるのであり、あらゆる事柄についてもまた同じことが言えるわけなのだ》。
 こうした教理を徹底的に押し進めようとすることに対する抗いがたい魅惑のようなものが存在する。最も反逆的な人々さえも論理の与えるこうした眩暈には屈するのである。」




























ロジェ・カイヨワ 『反対称』 塚崎幹夫 訳 (新装版)

ロジェ・カイヨワ 
『反対称
― 右と左の弁証法』 
塚崎幹夫 訳


思索社
1991年1月5日 印刷
1991年1月25日 発行
152p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,900円(本体1,845円)
装丁: 高麗隆彦



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Roger Caillois; La dissymétrie, 1973, Gallimard の全訳である。」


カイヨワ 反対称 01


目次:

日本の読者に (ロジェ・カイヨワ 1975年)
訳者まえがき

序言

Ⅰ 問題の提起
Ⅱ 厳密な意味での対称について
Ⅲ 反対称の進化論
Ⅳ 宇宙に遍在する反対称
Ⅴ 右と左
Ⅵ 逆エントロピーの働き

補遺
 社会と芸術における反対称の役割について

原注および訳注
訳者あとがき (1975年)
新版への追記 (1990年)



カイヨワ 反対称 02


◆本書より◆


「問題の提起」より:

「ある一点についてはすべてを知っているが、他についてはほとんど何も知らないというのは、あまり良い方法だとはいえません。この方法では、小さな断片的な区域を、全体の文脈のなかに正しく位置づけることさえできません。とくに、文脈が遠くへだたり、展望が思いがけないものであるときには、まったく不可能だといえます。そのような思いがけない展望のなかにこそ、問題を解くかぎが秘められているのに、です。諸科学を対角線で結んで対話させる対角線の科学(シアンス・ディアゴナル)が、生まれなくてはならない理由がここにあるのです。(中略)他から切り離されている場合には彼らを途方にくれさせる規則はずれの現象も、結びつけられると、互いに他を解き明かすかぎとなるかも知れません。」
「諸科学を対角線で結んで対話させるというこの着想の対象となるものは、現在至上命令になっている分離の原則の犠牲になっている諸研究です。ばらばらの分野でそれぞれ孤立して進められる結果、互いに結びつく点がありうるとは、一度も考えられたことはなかったと思われる諸研究です。これらの分野が異質で不調和だというのは、いまはそう見えているというだけのことです。しかし、いまさら申しあげるまでもないことですが、科学は見かけを拒否するところから、見かけの後ろに隠された、深い同一性を探究しようとするところから始まります。」

「非対称(アシメトリ)とは、平衡の、この場合は対称の、作り出される前の状態をいう。反対称(ディシメトリ)とは、平衡あるいは対称の破壊された後の状態をさす。反対称から推測される、あるいは引き出される結論は、秩序の否定ということです。すなわち、既成の秩序への将来における干渉、必要になった壊乱、あるいは計画的な変更という性格を、反対称は明らかにもっているように見えます。」



「宇宙に遍在する反対称」より:

「さきに、反対称は、行動の自由を奪う重力に支配されながら、絶えずこの力をあざむいて、少しずつ困難な道を切り開いていく革新である、と申しました。しかし、反対称は単にそれだけのものではないことが、いまや明らかになりました。反対称は、極限の粒子の繊細な織物のなかに、すでに存在していたことがわかったのです。そして、反対称を含んだこの繊細な織物の発展こそが、世界の多様な豊かさをもたらしたのです。最初から、反対称は世界の本質に結びついたものでした。(中略)反対称は、宇宙の全体の輪郭を支配していると同時に、その内部の構造のなかにもはっきりと姿を現わしているのだからです。」


「逆エントロピーの働き」より:

「Ⅰ 均質で等方性のすべての媒質は、対称をまったく持たないと定義することもできるし、同様に、特権的な軸や中心や面が存在しない、無限の潜在的な対称を持っていると定義することもできる。この二つの定義の意味しているものは同じで、両者に違いはない。正確にいって、無対称(アシメトリ)とはこのような状態を指す。
Ⅱ すべての無対称的(アシメトリック)な状態は自然に安定の方向に向かう。安定は平衡を生み、平衡は一つあるいはもっと多くの有効な対称を発生させる。
Ⅲ 確立された完全な対称のなかに、部分的で、偶発性のものでない破壊が突如として生ずることがある。この破壊はすでに形成されている平衡を複雑にする。このような破壊が厳密な意味での反対称(ディシメトリ)である。反対称は、結果として、反対称が生じた構造あるいは組織を豊かにする。すなわち、これらに新しい特性を与え、より高度の組織の水準に移行させる。

 熱力学の第二法則を補う、これと対になるものがなかったら、宇宙は絶対的で終局的な、緊張のない平衡の状態に沈み込んでいってしまうことになります。」
「しかしながら、これに対抗する力のまったく同じように静かで着実な活動の存在を、だれもが確かであると認めています。この力の作用の結果、統計学の予測が規則的にくつがえされています。すなわち、第二法則に対立する、宇宙の組織化と複雑化が増大しているという原理が認められるのです。それは常により多くの選択、創意、ためらい、自由を可能にする原理です。この原理は普通負のエントロピー、あるいはネガントロピーと呼ばれています。私自身は、逆エントロピーと名づけたほうが良いと思っています。」
「ところで、逆エントロピーは熱力学の第二法則に反する原理だと申しましたが、実際は見かけだけのことにすぎません。エネルギーの散逸は絶えず起こっています。このエネルギーの散逸は非常にロスの多いもので、回路の外に流れ、放置されているエネルギーも少なくありません。反対称は、この分散したすべてのエネルギーを吸収し、この力を一つにまとめるのです。反対称はこうして、いくつかの明確にしぼられた決定的な点で、まれに全体の流れを逆にすることに成功し、逆エントロピーを実現するのです。」



















































































ミッシェル・セール 『分布 〈ヘルメスⅣ〉』 豊田彰 訳 (叢書・ウニベルシタス)

「子供のままでいるのだ。子供になるのだ。(中略)時間を逆転させるのだ。」
(ミッシェル・セール 『分布』 より)


ミッシェル・セール 
『分布 
〈ヘルメスⅣ〉』 
豊田彰 訳
 
叢書・ウニベルシタス 312 

法政大学出版局
1990年1月30日 初版第1刷発行
iii 429p 人名索引5p
四六判 丸背布装上製本 カバー
定価3,914円(本体3,800円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、ミッシェル・セール『ヘルメスⅣ 分布』(HERMES IV La Distribution, Paris, Les Editions de Minuit, 1977)の全訳である。
 ここには、セール氏が一九七〇年代の中頃に発表した諸論文が収められている。」



セール 分布


目次:




 点、面(網目)、雲

 原動機、(付)後退
小川
 狼、鳩、娘の指し手

カオス
 永劫回帰
分子
 ボルツマンとベルクソン

混合
 スープ、嵐、女
腐敗
 『アンチクリスト』――感覚と概念の化学

襤褸
 言説と行程
群衆、市、荒野
 スペクトル分析

暗騒音
 言語の起源

航海
 船位推算

原注
訳注
訳者あとがき
人名索引




◆本書より◆


「嵐」より:

「歴史の黎明以来、哲学者の仕事は疑うことにある。そしてまた再び、たったひとりで、ひとりで絶望し、一切のグループから離れ、いかなる権力をも永久に剥奪され、たったひとりで、力のどんな見せかけも拒否し、自分らの利益のために辞書を盗んでいった者どもによってあざむきのことばを奪われ、透明になるまでにひとりである私は、すべてを疑っていくであろう。昔の世界、木々、天、地と海だけでもなければ、苦悩と平安に貫かれた私の身体だけでもない。諸々の力が築き上げた世界、単なるイメージであるどころか到るところでしかと見定められる欺瞞の諸力が築き上げた世界を疑うのだ。これらの力がその綺羅を飾っているこの世界という劇場をである。」


「混合」より:

「われわれは世界から排除されている。テキストの中に、単語の中に、文章の中に、言語の中に、語られたものの中に、書かれたものの中に、横たわるものの中に、主体の対象の中に閉じ込められているのだ。諸文化、諸イデオロギー、ひとを締めつけるさまざまないかがわしいしきたりからなる政治的場所(ポリトープ)の中に排除されているのである。われわれが知覚するものはといえば、もはや計算だけである。繁文縟礼、相手の裏をかこうとする駈け引き、嘘の代数学とでもいったもの。哲学はある種の人々(モンド)に迎合して、世界(モンド)を見失った。哲学にはもはや物が見えず、物がこわくなり、物の重さを見積ることも、それらの活発なエネルギーを評価することも、もうできないのである。(中略)主体が私からわれわれに、忠実性から恣意性に、必然性から文化に移動するからといって、観念論の機能の本質的なものが、いささかなりとも変化するわけではない。つまり、対象の世界を括弧に入れて、もはやわれわれの表象だけにしか注意を払わないことにしようというわけである。(中略)物ではなくて、その効果、その語られた効果、その盗まれた効果だけなのである。物理学ではなくて、言語活動なのだ。確かに世界は以前より尊大(アンペリエ)でなくなるが、われわれは世界の支配と引き換えに、人間集団と人文諸科学の帝国主義(アンペリアリスム)を受け入れてしまったのだ。(中略)語られた効果と掲示された諸表象の哲学、そして圧力集団の権力の哲学。ことばの、隔壁の、錯覚の牢獄から自らを解放しなくてはならない。外へ出るのだ。(中略)物じしん。そうだ、唯物論へ、忘れ去られた唯物論へ回帰するのだ。」

「百科学的な系列が再び始まる。天文学。ニュートンの引力は、エンペドクレス的な愛なのだ。(中略)初めてスタート・ラインに立った者にとっての、知の信じ難いまでの陶酔。(中略)毎日が新しく、世界の美しさは増すばかりである。毎朝が彼にとっては(中略)新たな言語の中で万物が結びうる同盟である。(中略)民衆の学問はその振動によって、理論とエロスとの不可避的な混合によって、それと知ることができるであろう。ある体系が誤謬とエロスという二つの振動するためらいを除去するや否や、それは支配階級の産物になるのだ。誤りを犯すことのできない、そして情動的な(パテティック)面を空白にする病んだ理性。パトス、パトスの論理(patho-logique〔=病理学〕)は、認識の健全な部分である。民衆をたわ言や教義によって押しつぶす代わりに、彼らに学問の道を開いてやれば、(中略)権力は感情の洪水の中に崩れてしまうことだろう。(中略)知は歓喜と涙の側に属するものなのだ。(中略)というのも、打ち明けていえば、かつて偏微分方程式が私を感動させたことがあるからであり、そのとき私は潮汐のリズムを計算する前に一個の振動する絃であったからである。」
「百科学も一つのサイクルなのだ。すべてのサイクルのサイクルであり、一切の循環、一切の交換、一切の混合に関する包括的な知なのである。そして、それだからこそ生命が問題になるのだ。循環を停めて見給え。海は塩とごみと結晶とで埋まってしまう。それはごみ箱としての海だ。死んだ海だ。それは死である。海は走り、輸送し、循環し、交換し、混合する。海は生きる。このように知も生きるのである。(中略)百科学とは海なのだ。サイクルのサイクルとしての海なのである。(中略)ライプニッツにとって、知とは、恣意性を伴わずにはエチオピア海とかカレドニア海とかに分割できない海のことである。(中略)ライプニッツにとって、知は分離できないものである。水っぽい環境における結合法の網であって、場所伝いに肥沃になっていくものである。(中略)流動的な百科学者であるライプニッツは、異宗派協調論者(イレニスト)である。海、平和。」

「プラトンの『ティマイオス』。一人の非常に年老いたエジプトの神官が語る。ソロンよ、ソロンよ、あなたがたギリシャ人たちは、いつまでも子供なのだ。ギリシャ人が年をとるということは決してないのだ。あなたがたはことごとく、心が若い。あなたがたには、古い伝統に根ざした昔からの信念もなければ、長い年月を閲した科学もありはしない。それは、火、雷、火災、太陽の息子であるパエトン、それから焰が歴史を破壊するためだ。それは、水、大水、洪水、それに海が歴史を断ち切るためだ。火や水の手から記憶を保護し、血統を守るか、さもなくば、天変地異が起きるごとに再び無知蒙昧になり、永劫回帰のサイクルごとに幼児にかえるかである。ギリシャでは、記録文書は失われてしまった。」
「ギリシャは燃え、アメリカは燃える。文書や古い系図を燃やすのである。ばかげた引き写しの反復を。それは新しい時間を創り出す。幼年期の時間を。(中略)幼年期の時間、科学の黄金時代は、系譜的な時間を逆転させる。プラトンは『政治家』の中で、そのことを語っている。老人が子供になると。(中略)記憶の保管庫をもたない子供の時間。幾何学は子供たちの時間である。ギリシャの少年幾何学者たち。(中略)伝統、規則、規範を屁とも思わぬ新来の、無知で無学な子供たち、水と火の息子たち、(中略)オイディプスから、系譜を抹消し、謎を解決する教育を受けた者たち。化石化したステレオタイプを大口を開いて笑い飛ばすようにと。(中略)最も正確に受信して、伝統的な連鎖の中で次の場所にいる人に順序よく伝達するのではなくて、循環の向きを逆転するのだ。川上に向かって伝達するのだ。老人たちはもはや何も知らない。(中略)エジプトの神官たちも、(中略)ヨーロッパの父祖たちも。ギリシャ人たるものは決して老いることがなく、(中略)子供のままでいるのだ。子供になるのだ。親は消えていく。(中略)時間を逆転させるのだ。驚くべき発見であるが、科学史は系譜学と相い容れないのである。そして多分、歴史とも。」



「暗騒音」より:

「内岸の絶えざる崩潰と山々の非可逆的な侵食の中にあって、流れるけれども安定な川。ひとはつねに同じ川に身を浸すのであるが、同じ岸辺に腰をおろすことは決してないのだ。川の水は、蒸発や雨や雲に対して開いた系として、その流れの中、そのクレオドの行程の中にあって安定している。それはいつでも、しかし確率的に、同一の水をもたらす。徐々に壊れていくのは、固い岸辺の方だ。安定なのは液体で、不安定なのは、磨滅する固体である。ヘラクレイトスとパルメニデスは、二人とも同時に正しかったのである。だからこそ、ホメオレイシス(homéorrhèse)である。生きた系は、ホメオレイシス的なのだ。
 可逆的ではないとはいえ、殆ど安定しているこの川、落ち着きの悪いずれの上で、そして死に向かうその流れの中でほぼ平衡を保っている流水、それはエネルギーと情報、つまりエントロピーとネゲントロピーを、秩序と無秩序を運ぶ。(中略)生きた有機体は、個体発生・系統発生の別なく、あらゆる時間に属している。その意味は、有機体が、永久的なものであるというのではさらさらなくて、われわれの知性が分析し、われわれの実践が識別し、あるいはわれわれの諸空間が支えている一切の時間で織り上げた独特の複体であるということである。ホメオレイシス的ということばは、少なくとも次のことを意味する。流れ(rhèse)は流れていくのだが、類似性が川上に向けて成長し、抵抗するということである。向きあるいは矢印を備えたすべての時間的ベクトルは、ここ、この場所では、星状に配置されている。有機体とは何か。時間の束である。生きた系とは何か。時間の花束である。
 こういう結論がもっと早く出ていなかったのは、全く驚くべきことである。おそらく、多重時間性というのは、直観するのが難しかったのであろう。しかしながら、われわれは、身の回りの事物がすべて同一の時間に属するものではないことを、何の苦もなく受け入れる。エントロピーの海の上あるいは中にあるネゲントロピーの島々、あるいはボルツマンの意味での個々の宇宙、つまり、増大するエントロピーの中における局所的な秩序の溜り場、灰燼のただ中にある結晶の保管庫、これらはどれもこれも、われわれの眉をひそめさせるようなものではないのだ。生きたシレイシスが、海と島々とを再結合する。全く新しい意味で、有機体は共時的なのである。(中略)有機体は、時間的なインターチェンジの上に立っているのだ。いや、有機体は時間のインターチェンジなのである。」

「流れの中にあって、殆んど安定している乱流。今後は、存在するとか認識するとかいうことは、次のようにいい換えられることであろう。ごらん、ここには島々があるよと。稀有な、あるいは幸運に恵まれた島々。偶然的に、あるいは必然的に生じた島々。」



「訳注」より:

「ホメオレイシス(homéorrhèse) セール氏が、恒常的な静止状態を含意するホメオスタシス(homéostasie)に対置するべく作った語。恒常的な流動状態をいう。」




こちらもご参照ください:

ミッシェル・セール 『五感 ― 混合体の哲学』 米山親能 訳 (叢書・ウニベルシタス)




























































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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