ロラン・バルト 『明るい部屋 ― 写真についての覚書』 花輪光 訳

「「観客」としての私は、ただ《感情》によってしか「写真」に関心を寄せなかった。私は「写真」を、一つの問題(一つの主題)としてではなく、心の傷のようなものとして掘り下げたいと思っていた。私は見る、私は感ずる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。」
(ロラン・バルト 『明るい部屋』 より)


ロラン・バルト 
『明るい部屋
― 写真についての覚書』 
花輪光 訳


みすず書房
1985年6月20日 第1刷発行
1986年3月5日 第3刷発行
152p v 著者・訳者略歴1p
口絵(カラー)1葉 
図版(モノクロ)24p
四六判 丸背並装上製本 カバー
定価2,000円
カバー: 「カメラ・ルシダ」を用いて絵を描いているところ



本書「訳者あとがき」より:

「本書はバルトの遺著となった左記の写真論の全訳である。
Roland Barthes: La chambre claire. Note sur la photographie, Cahiers du Cinéma, Gallimard, Seuil, 1980.」



本書でロラン・バルトは、写真をみる時の関心の基礎をなす二つの要素を「ストゥディウム」「プンクトゥム」と名づけています。
「ストゥディウム(studium)」は、「道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとし」「人間的関心」であり、「ある種の一般的な思い入れ」である。
一方、「プンクトゥム(punctum)」は、「ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るもので」あり、「写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る」「プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり、しかもまた、骰子の一振りのことでもある」「ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである」
ストゥディウムは約束事であり、「単一」なものである。それに関心を持ち、理解するとか賛成したり反対したりすることはできるが、「愛」の対象とはなりえない。
「ごく普通には単一のものである写真の空間のなかで、ときおり(といっても、残念ながら、めったにないが)、ある《細部》が、私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私の目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした《細部》が、プンクトゥム(私を突き刺すもの)なのである。」

よくわからないですが、「プンクトゥム」とは校長先生のお説教中に校庭に迷い込んだ犬みたいなものなのではないでしょうか。
本書はカバーが銀で、パラフィン紙が掛けてあります。


バルト 明るい部屋 01


カバー裏文:

「「マルパが息子の死によっていたく心を動かされていると、弟子たちの一人が言った。《師は常々、すべては幻影にすぎないとおっしゃっていたではありませんか。御子息の死もまたしかり、幻影にすぎないのではありませんか?》と。マルパはこれに答えて言った。《しかり、されどわが息子の死は超幻影なり》と」
(『チベットの道の実践』)」



カバーそで文:

「《狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のページをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる》(ロラン・バルト)
 本書は、現象学的な方法によって、写真の本質・ノエマ(《それはかつてあった》)を明証しようとした写真論である。細部=プンクトゥムを注視しつつ、写真の核心に迫ってゆくバルトの追求にはまことにスリリングなものがある。
 本書はまた、亡き母に捧げられたレクイエムともいえるだろう。私事について語ること少なかったバルト、その彼がかくも直接的に、母の喪の悲しみを語るとは! 本書は明らかに、著者のイメージ論の総決算であると同時に、バルトの『失われた時を求めて』となっている。《『明るい部屋』の写真論の中心には、光り輝く核としての母の写真の物語が据えられている》(J・デリダ)」



目次:


1 「写真」の特殊性
2 分類しがたい「写真」
3 出発点としての感動
4 「撮影者」、「幻像」、「観客」
5 撮影される人
6 「観客」――その無秩序な好み
7 冒険としての「写真」
8 鷹揚な現象学
9 二重性
10 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
11 「ストゥディウム」
12 知らせること
13 描くこと
14 不意にとらえること
15 意味すること
16 欲望をかきたてること
17 単一な「写真」
18 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の共存
19 「プンクトゥム」――部分的特徴
20 無意志的特徴
21 悟り
22 事後と沈黙
23 見えない場


25 《ある晩……》
26 分け隔てるもの、「歴史」
27 再認・認識すること
28 「温室の写真」
29 少女
30 アリアドネ
31 「家族」、「母」
32 《それはかつてあった》
33 ポーズ
34 光線、色彩
35 「驚き」
36 確実性の証明
37 停滞
38 平板な死
39 プンクトゥムとしての「時間」
40 「私的なもの」/「公的なもの」
41 子細に検討する
42 似ているということ
43 家系
44 明るい部屋
45 《雰囲気》
46 「まなざし」
47 「狂気」、「憐れみ」
48 飼い馴らされた「写真」

訳者あとがき

参考文献
写真家索引
掲載写真一覧



バルト 明るい部屋 02



◆本書より◆


「分類しがたい「写真」」より:

「何を写して見せても、どのように写して見せても、写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである。
 要するに、指向対象が密着しているのだ。そしてこの特異な密着のために、「写真」そのものに焦点を合わせることがきわめて困難になるのである。「写真」のことを扱った本という本は、(中略)いずれもこの困難の犠牲となっている。ある本は、技術的である。(中略)また他の本は、歴史的ないし社会的である。(中略)しかしどの本も、まさしく私の関心を引く写真、私に快楽や感動を与える写真については語ってくれない、ということがわかって私はいらだたしさを感じた。風景写真の構図の規則など、私にとって何のかかわりがあろう? 「写真」について書かれたものを読むたびに、私は、自分の好きなあれこれの写真のことを考えて、腹が立った。それというのも、私の目には、ただ指向対象だけ、欲望の対象だけ、最愛の人の肉体だけしか見えなかったからである。しかし、その都度、ある執拗な声(科学の声)が、おごそかな口調で私に命じるのだった。《「写真」一般にもどりたまえ。君が眺めて苦しんでいる写真は、ある社会学者のチームが研究した、“素人写真”の範疇に属するものだ。「家」を立て直すためにおこなわれる、成員統合の社会的儀式の痕跡にほかならない》、等々。しかし私は従わなかった。もう一つのさらに強力な声が、そうした社会学的な説明を否定するように私を駆り立てていた。私はある種の写真に対して、野生の状態で、教養文化を抜きにして、向かい合いたいと思っていたのである。」



「出発点としての感動」より:

「そこで私は、こう思った。「写真」について書きたいと望んだ結果、以上のような無秩序とディレンマが明らかになったが、確かにこの状態は、私がいつも味わってきた一種の居心地の悪さを反映するものだ。それは主体が二種類の言語活動、つまり一つは表現的言語活動、もう一つは批評的言語活動の板ばさみになったとき感ずる居心地の悪さであり、さらにこの後者の言語活動の内部において、何種類かの言説、たとえば社会学や記号学や精神分析などの言説の板ばさみになったとき感ずるものである。しかし他方、私がそうした言語活動のいずれにもついに満足していないということは、私のうちにある唯一の確実なもの(たとえそれがいかに素朴なものであっても)を証明している。つまり、あらゆる還元的な体系に反発する私の激しい抵抗感である。(中略)いっそのこと、これをかぎりに、私の個別性から発する抗議の声を逆に道理と見なし、《古代の自我の至高性》(ニーチェ)を、発見のための原理にしようとするほうがよいのだ。そこで私は、自分の探求の出発点として、わずか数枚の写真、私にとって存在することが確実な数枚の写真を採用することに決めた。それは資料体(コルプス)とは何の関係もない、ただいくつかの肉体(コール)にすぎなかった。主観性と科学の関係については、要するに型にはまった例のとおりの議論がおこなわれているが、その議論を通して私は、つぎのような奇妙な考えに到達したのである。いったいなぜ、いわば個々の対象を扱う新しい科学がないのか? なぜ(「普遍学」 Mathesis universalis ならぬ)「個別学」(Mathesis singularis)がないのか? と。そこで私は、自らを「写真」全体の媒介者と見なすことに同意した。私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは「写真」が存在しえないような、「写真」の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。」


「「撮影者」、「幻像」、「観客」」より:

「というわけで、いまや、「写真」に関する《知》の尺度となるのは、私自身である。」


「「観客」――その無秩序な好み」より:

「ここで問題になっているのは、たあいない心情の動きであって、私は好きだ/私は嫌いだと言ってしまえば、それで事がすんでしまう、ということは私にもよくわかっていた。(中略)だがしかし、まさしくそれが問題だったのだ。私はつねに自分の気分を論じたいと思っていたのである。といっても、自分の気分を正当化するためではないし、ましてや自分の個性をテクストの舞台いっぱいに繰り広げるためではない。それどころか、その個性を、主体の科学といったものに捧げ、提供するためである。その科学の名前は大して問題ではないが、ただその科学は、私を還元することも圧殺することもないような、ある一般性に到達するのでなければならない(これは、まだおこなわれたことのない賭である)。そこで、とにかく試してみる必要があった。」


「「ストゥディウム」と「プンクトゥム」」より:

「第一の要素は、明らかに、ある広がりをもつものである。それは、私が自分の知識や教養に関してかなり日常的に認めているような、ある一つの場の広がりをもつ。その場は、(中略)必ず、ある典型的な情報に関係している。(中略)何千という写真が、そうした情報の場によって成り立っており、確かに私はそうした写真に対して、一種の一般的関心、ときには感動に満ちた関心をいだくことができるが、しかしその感動は、道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとしている。そうした写真に対して私が感ずる感情は、平均的な感情に属し、ほとんどしつけから生ずると言ってよい。(中略)私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである(ストゥディウムのうちには、それが文化的なものであるという共示的意味(コノテーション)が含まれているのである)。
 第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(中略)写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた標識(しるし)を表わす語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい痛点のようなものがあり、ときにはそれが斑点状になってさえいるのだ。(中略)それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum)と呼ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでもあり――しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。」



「欲望をかきたてること」より:

「一軒の古い家屋、影になっているポーチ、屋根瓦、昔のアラブ風の装飾、壁に寄りかかって座っている男、人気のない街路、地中海沿岸に見られる樹木(チャールズ・クリフォード撮影の「アルハンブラ」)。この古い写真(一八五四年)は私の心を打つ。私はひたすらここで暮らしたいと思う。この願望は、私の心の奥深いところに、私の知らない根を下ろしている。私を引きつけるのは、気候の暑さか? 地中海の神話か? アポロン的静謐か? 相続人のいない状態か? 隠棲か? 匿名性か? 気高さか? いずれにせよ(私自身、私の動機、私の幻想がどのようなものであるにせよ)、私はそこで繊細に暮らしたいと思う――その繊細さは、観光写真によっては決して満足させられない。私にとって風景写真は(中略)、訪れることのできるものではなく、住むことのできるものでなければならない。(中略)この欲望は幻想的なものであり、一種の透視力に根ざしている。透視力によって私は未来の、あるユートピア的な時代のほうへ運ばれるか、または過去の、どこか知らぬが私自身のいた場所に連れもどされるように思われる。ボードレールが「旅への誘(いざな)い」と「前の世」でうたっているのは、この二重の運動である。そうした大好きな風景を前にすると、いわば私は、かつてそこにいたことがあり、いつかそこにもどっていくことになる、ということを確信する。ところでフロイトは、母胎について、《かつてそこにいたことがあると、これほどの確信をもって言える場所はほかにない》と言っている。してみると、(欲望によって選ばれた)風景の本質もまた、このようなものであろう。私の心に(少しも不安を与えない)「母」をよみがえらせる、故郷のようなもの(heimlich)であろう。」


「少女」より:

「ギリシア人たちは、あとずさりしながら「死の国」に入っていったという。つまり彼らの目の前にあったのは、彼らの過去であった。同様にして私は、一つの人生を、私の一生ではなく私の愛する母の一生を遡っていった。死ぬ前の夏に撮った母の最後の映像(中略)から出発して、私は四分の三世紀を遡り、一人の少女の映像に到達したのだ。」
「時間を遡る「写真」のこの運動(中略)を、私は実生活でも経験していた。(中略)生涯の終わりにさしかかった母は衰弱していた。(中略)母の病気のあいだ、私は母を看病し、(中略)母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていたのだ。ブレヒトの作品では、(中略)息子のほうが母親を(政治的に)教育する。しかし私の母の場合、私は母を教育して、それが何であるにせよ、何かに変えようとは決してしなかった。(中略)母と私は、互いに口にこそ出さなかったが、言葉がいくぶん無意味になり、イメージが停止されるときこそ、愛の空間そのものが生まれ、愛の調べが聞かれるはずだと考えていた。あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた。私はこうして、私なりに、「死」の問題に答を出していた。多くの哲学者が言うように、「死」とは種(しゅ)の冷酷な勝利にほかならず、特殊なものは普遍的なものを満足させるために死ぬのであり、個体は、自分自身以外の個体として自己を再生したのち、否定され乗り越えられて死んでいくというのが事実なら、私は実際には子供をつくらなかったが、母の病気そのものを通して母を子供として生みだしたのだ。その母が死んだいま、私にはもはや高次の「生命体」(種(しゅ))の歩みに身をゆだねる理由はまったくない。私の特殊性は、もはや決して普遍的なものとなりえないだろう(ただ、ユートピアとしては、書くこと(エクリチュール)によってそれが可能となるのだから、今後は書く企てが私の人生の唯一の目的となるのでなければならないのである)。いまや私は、私自身の完全な、非弁証法的な死を待つしかなかった。」

 

「「狂気」、「憐れみ」」より:

「「写真」と「狂気」と、それに名前がよくわからないある何ものかとのあいだには、ある種のつながり(結びつき)がある、ということを私は理解したと思った。私はその何ものかをとりあえず愛の苦悩と呼んでみた。(中略)しかしながら、そうとばかりも言い切れなかった。その何ものかは、恋愛感情よりももっと豊かな感情のうねりだった。「写真」によって(ある種の写真によって)呼び覚まされる愛のうちには、「憐れみ」という奇妙に古くさい名前をもった、もう一つの調べが聞き取れた。私は最後にもう一度、私を《突き刺した》映像(中略)を、残らず思い浮かべてみた。それらの映像のどれをとっても、まちがいなく私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像のなかへ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを腕に抱きしめたのだ。ちょうどニーチェが、一八八九年一月三日、虐待されている馬を見て、「憐れみ」のために気が狂い、泣きながら馬の首に抱きついたのと同じように。」


「飼い馴らされた「写真」」より:

「狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(中略)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる。つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。」
「「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。」



バルト 明るい部屋 04


































































































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J・K・ユイスマンス 『腐爛の華 ― スヒーダムの聖女リドヴィナ』 田辺貞之助 訳

「誰かが前のようにいつもなおりたいと思っているかと聞くと、「いいえ、あたしはただひとつのことしか願っていません。それはこの病気や苦しみがなくならないことです」と答えた。」
(J・K・ユイスマンス 『腐爛の華』 より)


J・K・ユイスマンス 
『腐爛の華
― スヒーダムの
聖女リドヴィナ』 
田辺貞之助 訳


薔薇十字社
1972年11月20日 初版発行
293p
A5判 角背紙装上製本 貼函
定価1,700円
装釘: 野中ユリ



本書は国書刊行会の「フランス世紀末文学叢書」版をもっていたのですがどこかへいってしまったのでアマゾンマケプレで野中ユリさん装幀の薔薇十字社版の最安値(送料込2,255円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。定価より高い古本は基本的に買わないことにしているのですがこれは46年前の定価なので仕方ないのではないでしょうか。


ユイスマンス 腐爛の華 01


ユイスマンス 腐爛の華 02


ユイスマンス 腐爛の華 03


帯文:

「苛烈な醜悪のなかに神秘の極美を描く傑作!!
神との痙攣的な交感に没入し、身霊分離の清澄なドラマを生き、恍惚の奇蹟をなした腐爛の聖華リドヴィナの贖罪の生涯。悪魔主義から矯激な改宗を遂げた絶対の厭世者ユイスマンスの緊迫した玻璃の精神が漲る神秘小説。」



帯背:

「ユイスマンス
晩年の最高傑作」



帯裏:

「そのとたん、聖女の魂は極度の歓喜に押し潰されて液体と化した。しかし、神の子が両腕をのばしたと思うと、たちまち大人にかわった。そして、顔の色艶が消え、肉が落ち、頬には青白い溝がほられ、血走った眼に光が失せた。茨の冠が額のうえにそそけだち、その先から赤い血が真珠のように滴りおちた。足と手に釘の穴がうがたれ、熱っぽい傷口を青味がかった暈がとりまき、心臓のそばには、傷口の唇が生けるがごとく動いていた。ベツレヘムの馬小屋がいきなり磔刑の丘につづき、子供のイエスがいちどきに磔刑のキリストにかわった。
――本書94頁より――」



ユイスマンス 腐爛の華 05


目次

腐爛の華
 壹
 貮
 參
 肆
 伍
 陸
 漆
 捌
 玖
 拾
 拾壹
 拾貮
 拾參
 拾肆
 拾伍
 拾陸

凡例
訳註
あとがき




◆本書より◆


「壹」より:

「リドヴィナはどんな軍勢をも決起させず、どんな団体にも属さず、(中略)どんな僧院の援助も求めなかった。彼女はたったひとりで、ベッドのうえで、迷い児のようにひとりで戦った。しかし、彼女が耐えた攻撃の重味はまさに前代未聞の巨大さであった。彼女はただひとりで一軍に匹敵した。四方八方の敵に立ちむかわなければならない一軍に。」


「貮」より:

「リドヴィナはオランダのハーグのそばのスヒーダムで、一三八〇年の枝の主日に生れた。」
「十二歳のときにはすでにまじめな娘となり、友人や近所の女たちの遊びも好まず、散歩やダンスの楽しみにも加わらなかった。彼女は孤独のなかでしか心がくつろがなかった。」
「彼女をのぞむ青年たちは、財産といい家柄といい、いずれも彼女よりずっとすぐれたものであった。父親のペーテルはそういう望外の幸福をよろこび、心をきめるように娘をせきたてずにいられなかった。(中略)すると、彼女は叫んだ。
 「もしも無理にお嫁に行けとおっしゃるなら、神さまにお願いして、もらい手がみんな逃げだしてしまうような片輪にしていただきますわ」」



「參」より:

「十五歳の年まで、リドヴィナはかなり健康であったようだ。」
「そのころ、彼女はある病気にかかった。その病気は生命にかかわるほどではなかったが、非常に身体が弱り、薬屋のすすめる薬や当時の薬剤師もなおすことができなかった。驚くほど虚弱になり、全身の脱力感になやんだ。頬がこけ、肉も落ち、骨と皮ばかりになった。愛くるしい顔立ちもとがり、くぼみ、白と薔薇色の顔色が緑に、さらに灰色にかわった。彼女の念願はかなえられた。まるで骸骨のような醜さであった。」
「聖母マリアお潔めの祝日(二月二日)の祭りの数日まえ、知合の若い娘たちが見舞に来た。そのときは石も割れるほどに凍てつき、町をつらぬくスヒー川も、すべての運河とひとしく氷っていた。こういうきびしい寒さのときには、オランダ中がスケートに熱狂する。それで、若い娘たちはリドヴィナをスケートに誘った。リドヴィナはひとりでいたいと思って、身体の具合がわるいから一緒にいけないとことわった。それでも、娘たちは運動が足りないのがよくないのだ、外の空気にあたれば気分がよくなると、執拗にすすめたので、ついに彼女も友人たちの好意を無にするわけにいかなくなった。そこで、父親の許可を得て、家のうらにあった運河の堅い氷のうえへ降りていくことにし、椅子から起きあがって、スキー靴をはいて出かけた。しかし、勢いはげしくすべってきた仲間のひとりが彼女にぶつかった。彼女は身をかわす暇もなく氷塊のうえにたおれ、ぎざぎざした氷に胸をうちつけて、右胸の肋骨を一本折ってしまった。
 友人たちは泣きながら彼女を家に送りとどけ、彼女はベッドに横になったが、二度とふたたび起きることができなかった。」
「病気がますます進み、苦痛がどうにも我慢できなくなった。」
「洗者聖ヨハネの生誕の日の前日、苦痛は極限にたっした。(中略)引き裂くような痛みがさらに激しさをくわえ、彼女はベッドからとび出し、身体を二つに折って、そばに坐って涙を流していた父親の膝の上へおちた。そのために膿瘍は外へ破れずに内へ吹きだし、口が膿でいっぱいになった。彼女は頭から足の先まで顫わせながらその膿を吐いたが、膿は非常に多量で、鉢にあふれたのをバケツにあけるのが間にあわないほどであった。そして、ついに最後のしゃっくりとともに意識をうしない、両親は死んでしまったと思った。
 しかし、彼女はやがて意識をとりもどしたが、そうすると、想像もできないほど痛ましい生活がはじまった。両足で立つことができなくなり、しかもつねに場所をかえたいという欲求に駆られて、椅子や家具の角につかまって、膝でいざりあるき、腹ばいになって這った。身体が燃えそうに熱が高く、病的な嗜好にとりつかれて、行き当りしだい汚い水を飲み、ひどい悪心に襲われてそれを吐いた。こうして三年の歳月がすぎた。それまではときどき見舞に来ていた人々も彼女を見はなし、彼女の苦悩をいやました。苦しみ悶える様子や、呻き声や鳴き声や、泣きはらした顔のいまわしい表情が見舞客を追いはらってしまったのである。(中略)父親は根が善良だったので少しも態度がかわらなかったが、母親は看病に飽きて、癇をたかぶらせ、絶えず泣きわめくのを聞いて腹を立て、彼女を手荒くあつかった。」

「やがてリドヴィナは膝でいざることも、箱や椅子にしがみついて動くこともできず、ベッドのなかで寝たきりになったが、そういう状態が死ぬまでつづいたのであった。脇腹の傷が癒着せずに、いっそう悪化し、そこに壊疽ができた。そして腐爛した腹の皮のしたから蛆虫がわき、椀の底ほどの大きさの丸い三つの潰瘍のなかで繁殖した。そのふえ方は怖しいほどで、ブルフマンによると、まるで沸騰するようにうごめいたという。蛆虫は糸巻棒の先ほどの大きさで、身体は灰色で水気があり、頭が黒かった。
 呼ばれた医師たちは、この蛆虫の巣に、新しい小麦粉と蜂蜜と鶏の脂とで罨法をしろとすすめたが、どの医師もそれにクリームか白うなぎの脂をくわえ、そのすべてを炉にかけて乾燥させて粉にした牛肉でまぶすようにすすめた。
 この薬はつくるのに若干の注意を要したが――小麦粉が少しでも黴くさいと、虫は食べないからである――彼女の苦しみをいくぶんやわらげ、二十四時間に百ないし二百の虫を傷口からとることができた。」
「リドヴィナは、小麦粉と脂肪との罨法以外に、時として切ったばかりの林檎の薄片を傷の個所にはって、炎症をひやすことがあった。」
「しかし、そういう一時しのぎの療法がまったく効力を失うときがきた。病気が全身にひろがったのである。潰瘍は依然としてなおらず、寄生虫も、退治するどころか、かえって養殖する結果になったが、それだけでなく、腐敗した肩に腫瘍が現れ、さらにつづいて、中世で非常に怖れられた病気がはじまった。それは丹毒で、右腕をおかし、肉を骨まで焼きつくした。神経がねじれ、一本をのぞいて全部はじけてしまった。その一本は腕をおさえつけ、身体から腕を離すことができないようにした。それ以来、リドヴィナはその側へ寝返りをうつことができあず、頭をおこすにも左腕しか使えなくなったが、その頭もやがて腐ってきた。(中略)額は髪の生え際から鼻のまんなかまで裂けた。顎は下唇のしたではがれ、口が脹れあがった。右の眼が視力を失ない、左の眼はひどく敏感になって、わずかな光にも耐えられずに血を吹いた。しかもさらに激しい歯の痛みがはじまって、時によると何週間もつづき、ほとんど彼女を狂乱におとしいれた。最後に、喉頭炎で呼吸もできなくなったあとで、口や耳や鼻から血を流し、その夥しい分量で、ベッドがぐしょぐしょになるくらいであった。
 この痛ましい場面に立会った人々は、こんなに消耗しつくした身体からどうしてこんなに多量の血が出るのかと怪しんだ。」
「やがて、これらかずかずの病気のうえに、それまでは無難だった肺臓がやられはじめた。全身に紫色の皮下溢血がちらばり、それから赤銅色の膿疱と瘍ができた。少女時代から彼女を苦しめ、一時消え去った尿砂がまたはじまり、小ぶりな卵ほどの結石を排出した。次は肺臓と肝臓にカリエスが起り、それから下疳が鶴嘴のような穴をうがち、肉の奥深く進んで腐蝕させた。最後に、ペストがオランダを襲ったとき、彼女はまっさきにかかった。鼠蹊部と心臓部に腫瘍が二つできた。すると、彼女は「二つでもいいわ。けれども、わが主のお気に召すなら、聖なる三位一体を讃えて、三つにしていただきたいわ!」と言った。すると、三番目の腫瘍がすぐに頬にできてきた。」

「主は彼女に種々の責苦を課し、顔つきを変え、生来の明るい顔のかわりに脹れあがったひどい顔を与え、涙や血で溝のほれたライオンの鼻面のようにした。しかもまた骨と皮ばかりにし、呆れるばかりの痩身に水の満ちた腹の滑稽なドームをふくらませた。彼女の姿は外観だけしか見ないものには、醜悪極まりないものであった。しかし、神は彼女のうえに外見上のあらゆる不幸をつみかさねたとしても、繃帯の取換えを受持つ看護人たちが、傷口から必然的に発散するにちがいない腐敗臭のために、慈善の仕事を嫌って放棄することのないようにはからったのであった。
 神は不断の奇蹟を演じ、あらゆる傷口を芳香の香炉となした。膏薬をはがすと蛆虫がうようよしていたが、そこから馥郁と香りが漂いだした。膿汁もよい匂いがし、吐瀉物も快い香りを放った。彼女はおむつを当てられていたが、神はそういう病人を非常に恥かしがらせる哀しい要求を憐れみ、彼女の身体から東洋の香料に似た上品な匂いをつねに発散させた。その匂いは同時に力強くまたやわらかな芳香であった。それはあたかも聖書で語られ、またまったくオランダ的な、肉桂の香りに似たものであった。」



「伍」より:

「しかし、そのあいだにも、病気の群れは彼女を引き裂きつづけた。狂気のすさまじさで彼女に襲いかかった。彼女の腹は、まるで熟した果物のように、ついに割れてしまった。内蔵を押しもどして外へ流れだすのをふせぐために、毛布のクッションを当てておかなければならなかった。やがて、ベッドのシーツをかえるために動かすときには、手足をタオルやテーブル・クロスでしっかり縛らなければならなかった。そうしなければ、世話をする人々の手のなかで身体がばらばらに分解してしまう心配があったからである。」

「最後に、彼女はまったく何も飲まなくなり、眠りたい気持も次いで消えさった。」
「このような絶食と完全な不眠とは世人の残酷な侮辱と下劣な悪口をまねいた。若い娘が何も口にせず全然眠りもせずに、しかも死ぬ気配すらないという、不思議な病気のことが町中に知れわたり、その噂は遠くまで広まった。この不思議は多くの人々には真実とも思われなかった。(中略)彼らは好奇心にひかれ、ぞろぞろと彼女の家を訪れた。それで、彼女は絶え間なくしらべられ、質問を浴せられた。彼女を中傷する者は、ヨブの友人たちのように四人ではなく、一連隊であった! 大部分の者は額から鼻まで切り裂かれた頭や、柘榴のように割れた顔や、肉が溶けおちるので、ミイラのように細い繃帯でしっかりおさえておかなければならない身体しか見ず、そのようなすさまじい症状に嫌悪をおぼえるばかりであった。」
「他の人々はもっと無遠慮に彼女を罵り、「図にのるのはおやめ。わしらはその手には乗らないよ! お前さんは物を喰わずに生きている振りをしているが、人に隠れて何か喰っているのだろう。お前さんは嘘つきのペテン師さ」と叫んだ。
 リドヴィナはこういう悪口雑言に驚き、そんな嘘をついてなんの得になるのだと聞いた。そして、「食べるということは罪ではないし、食べないということは少しも光栄ではないのですから」と言った。」



ユイスマンス 腐爛の華 04



◆感想◆


署名入りでした。

著者はまずリドヴィナの生きた時代と社会の悪を詳細に記述し、そうした人間社会の罪を一身に背負わされたスケープゴートとしてのリドヴィナのねたきりの生涯を詳細に綴っています。著者によればそうしたスケープゴートはリドヴィナに限らずいつの時代にも連綿と跡絶えることなく存在し続けているので、本書の後の方ではそうした数々のねたきり病人修道女たちを列挙しています。
そこで問題になるのはリドヴィナの自己犠牲の根拠ですが、それは人間と世界に対する愛というよりはイエス・キリストただ一人に対する愛であって、責苦がひどくなればなるほどキリストに近づくゆえに、リドヴィナは健康よりも病気を選ぶわけです。
本書は小説(フィクション)ではなく聖者伝(ハギオグラフィ)ですが、世界文学でいうと『ヨブ記』~カフカの系譜に、フランス文学でいうと『ナナ』~『O嬢の物語』の系譜に、サブカルチャーでいうと諏訪縁起(甲賀三郎伝説)~日野日出志「蔵六の奇病」~山野一『どぶさらい劇場』の系譜に位置するのではないでしょうか。だからどうとかはないです。





こちらもご参照ください:

J.=K. ユイスマンス 『大伽藍』 出口裕弘 訳 (平凡社ライブラリー)
ティオフィル・ゴーチェ 『スピリット』 田辺貞之助 訳
フュステル・ド・クーランジュ 『古代都市』 田辺貞之助 訳 (新装復刊)







































































































フローベール 『聖アントワヌの誘惑』 渡辺一夫 訳 (岩波文庫)

「己は、(中略)体をくねくねと捻りたい。あらゆるところへ体を分けてしまい、あらゆる物象(もの)のなかへ入りこんでしまいたい。香気とともに発散し、植物のように成長し、水のように流れ、音のように震動し、光のように輝き、あらゆる形体の上に蹲り、各原子の中に滲透し、物質の奥の奥にまで下りたい。――物質になりたいのだ!」
(フローベール 『聖アントワヌの誘惑』 より)


フローベール 
『聖アントワヌの誘惑』 
渡辺一夫 訳
 
岩波文庫 赤/32-538-6 

岩波書店
1940年7月2日 第1刷発行
1957年9月25日 第2刷改版発行
1997年10月6日 第5刷発行
280p+31p
文庫判 並装 カバー
定価560円+税
カバーカット: ジャック・カロの『聖者アントワヌの誘惑』



聖アントニウスの誘惑とか稲生物怪録とかはいろんな妖怪がでてくるのでたのしいです。わたしもひきこもり生活をしているのですがあまりものを考えないほうなので妖怪とかはでてこないです(たまに幻聴はあります)。聖アントニウスは動物の守護聖人なのでありがたいです。


フローベール 聖アントワヌの誘惑


カバー文:

「作者が30年の歳月をかけて完成した、一種の夢幻劇的小説。紀元4世紀頃、テバイス山上で隠者アントワヌは、一夜の間に精神的生理的抑圧によって見たさまざまな幻影に誘惑されながら、ついに十字架の下を離れず、生命の原理を見いだして歓喜する。幻覚の発生様式、当時の風俗習慣など、完璧な美しさと厳密な様式を持つ傑作。」


目次:

原著者献詞
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章

訳者註
解説 (渡辺一夫・平井照敏)
固有名詞略解及び索引




◆本書より◆


「第一章」より:

  「聖アントワヌ
    (長い鬚、長い髪、山羊皮の下衣(テュニカ)を纏い、踞坐(あぐら)を組んで茣蓙を編んでいる。陽が沈むと、深い溜息をつき、地平線を眺めながら言う。)
 また一日! また、一日が過ぎ去った!
 それにしても、以前は己もかほどに惨めではなかったのだが! 夜の明けぬうちに、祈祷を始め、それがすむと、水を汲みに河へ下り、革嚢を肩に担ぎ聖歌を吟じながら、また嶮しい山経(やまみち)を登って来たものだ。それから、色々な物を小屋のなかに並べては興がって居った。細工道具をいじくり廻し、茣蓙にはむらが出来ないように籠は軽やかになるようにと、懸命になったものだ。それというのも、あの頃は、いかに些細な行為でも、少しもつらいところがない義務のように思われていたからだ。
 定められた時刻になると仕事をよした。そして両腕をさし伸べて祈祷を捧げると、慈悲の泉のようなものが、天上からこの胸に注ぎ込まれると覚えた。今はこの泉も涸(か)れてしまった。何故なのだろう?……
    (彼は巌に囲まれたなかを、ゆるゆると歩く。)」



「第四章」より:

  裸形仙人(ギムノゾフィステ)はまた言う。
 わしは犀のように孤独のなかに入りこんだ。わしは、この後の樹に棲んでいたのだ。
    (事実、無花果樹の大木の窪みは、人の入れるぐらいの自然の洞穴になっている。)
 そして、わしは、花や果実で我が身を養い来ったが、一匹の犬ですら、わしが物を喰うのを見たことがないほどに、固く掟を守り通してまいったのじゃ。
 存在は腐敗から生じ、腐敗は慾望より、慾望は官能より、官能は接触より生ずるものじゃによって、わしはすべての行為、すべての接触を避けた。そしてじゃ、――墓石ほどにも動かずに、二つの鼻孔より息を吐き、鼻の頭を凝然と見つめたまま、己が心中の精気、己が肢体のうちの世界、己が胸中の月を打ち眺めて、――生命の原義がたゆる間もなく火花のごとくに迸り出づる大霊の本質に思いをはせて居ったのじゃ。
 ついに、わしはすべての生物中に至高の霊を捉え、至高の霊のなかにすべての生物を捉え得た。――かくて、わしは、予(あらかじ)め五官をわが霊魂のなかに復帰せしめておいたから、この霊魂をして至高の霊に参入せしむることを得たのだ。
 わしは、あたかも降る雨脚の中に非ずんば渇を医さぬというチャタカ鳥の如くに、天より直接に智慧を獲るのじゃ。
 わしが森羅万象を識り尽せるが故に、万象はもはや存在せぬ。
 わしにとっては、今や、希望もなく、苦悶もなく、至福もなく、功徳もなく、昼もなく、夜もなく、汝もなく、我もなく、絶対に何一つとして存在せぬ。
 恐ろしき難行苦行のはてに、わしは諸神の力を凌駕するにいたった。わしの思想が僅かに痙縮するだけで、優に王者の子弟百人を殺し、神々の座を奪い、天地を覆すことも出来るのじゃ。
    (彼はかようなことを単調な声で語った。)
    (周囲の木の葉は、収縮してしまう。鼠が何匹も地面を走って逃げて行く。)
    (彼は、燃え上る炎に悠々と眼を落して、かく付け加える。)
 わしは、形体を嫌悪し、知覚を嫌悪し、認識それ自体までも嫌悪する。――何故とならば、思想は、その発生の因となる過渡の現象が滅びた後まで生き残りうるものにあらず、また精神も他の一切と同じくして、一つの幻にすぎぬものだからじゃ。
 産み出されたる一切は滅びるであろうし、死せる一切は蘇らねばならぬ。目下消え失せている生物は、未だ形作られざる子宮の中に宿るであろうし、苦悶しつつも他の生物に仕うるがため地上に再来するであろう。
 しかし、わしは、神々、人間、獣(けもの)の外観のもと、無限に多様なる存在の間を経巡って来たるが故に、もはや生命(いのち)の旅は放棄いたすぞ。もうこういう疲労は御免蒙りたい! 肉を壁土とし、血で赤く塗られ、醜悪な皮膚に包まれ、汚物に充たされた、わが肉体の穢らわしい宿屋は遺棄いたすぞ。――そして、わが身の労を犒(ねぎら)わんがために、絶対の最も深きところ、「虚無寂滅」の中に漸く眠らんとして居るのじゃ。
    (炎が彼の胸までたち上る。――次に、彼を包みこむ。彼の顔が、壁の穴からのぞくように、焰越しにちらと見える。彼のぎょろりと見開いた眼は相変らず一点を凝視している。)
  アントワヌは立ち上る。
    (地面の松明から木の切り屑に火が燃え移り、焰が彼の鬚を軽く焦した。)」

 「何故だろう?……この小屋も、あの岩も、あの砂も、恐らくもう現実のものではないのかも知れぬ。気が狂いそうだ。落着け! 己はどこにいたのだっけな? 何が起ったのだったっけ?
 ああ! 裸形仙人(ギムノゾフィステ)の奴め!……ああいう死方は、印度の賢人たちの間ではごくありふれたことだぞ。カラノスはアレクサンデルの面前で己(おの)が体を焼いて殪(たお)れたし、別の男もアウグストゥス帝の時代に同じことをいたして居る。余程生きていることが厭わしいものとみえる!」
 「その前にはどうしたっけな? ああ、そうだ! 異端の教祖たちの群れに会ったのだっけ……」



「第五章」より:

    「(次に、魚の体に人間の頭をつけた珍妙な生物が現れる。尾で砂を叩いて、宙に浮き上りながら、真直ぐに進んで来る。――そして、腕がちっぽけな癖に長老のような顔をしているのでアントワヌは噴き出してしまう。)
  オアンネス
    (哀れっぽい声で)
 己を敬え! 己は原始生物と同じ時代の生き物だ。
 己は、未だ形の定まらぬ世界に住んでいたが、そこには、淀んだ大気の重量(おもみ)の下、暗澹たる海水の深みのなかに、両性を具有する動物が眠りを貪っていた。――その時分には、指も鰭も翼も混沌として混り合い、未だ眼窩に収められぬ眼球が、人の顔をした雄牛や犬の脚を持った蛇の間を、軟体動物のように漂うて居った。
 これら生物全体の上に、オモローカは、あたかも輪のように身を捩じ彎げて、その女体を横たえ居った。ところが、ベルースは、その体を截然と二分して、一ぽうをもって地を作り、他ほうをもって天を造った。さればこそ、この等しい二つの世界は互いに眺め合うているのだ。
 渾沌神(カオス)の最初の意識である己は、物質を固くし、形体を定めんがために、深淵から浮び上って来た。而して、人間どもに、魚を漁り、種を蒔き、文字を記すことを、また神々の物語を教えて遣わした。
 その後己は、世界大洪水の名残りたる池水の中で暮して居る。しかるに、池の周囲には沙漠がますます広がってきた。風は砂を吹き入れるし、太陽は水を貪り飲む。――されば、己は、水中より空の星辰を眺めながら、河底の水泥の床で死んで行くのだ。己は戻ることにいたす。
    (彼は跳び撥ねて、ナイル河中に没してしまう。)
  イラリヨン
 これはカルデヤ人たちの古い神ですよ。
  アントワヌ
    (皮肉に、)
 この分だと、バビロンの神々はどんなだったろうな?
  イラリヨン
 お目にかけましょう!」

  「アントワヌ
 何という女神だ?
  イラリヨン
 あれです!
    (そう言って、彼は、並木路の遙か奥の、燈明の点った洞穴の入口にある石の塊を示すが、それは女の生殖器を象ったものである。)
  アントワヌ
 穢らわしい! 神に性別をつけるとはもっての他の冒瀆だ!
  イラリヨン
 でも、あなたは、神を生きている人間のようにお考えになっている筈ですが!
    (アントワヌは再び闇黒に閉されてしまう。)」



「第七章」より:

    「(そして、スフィンクスは、段々と砂の中に埋まって行き、遂に消え去る。一ぽうキメラは舌を出して、匍い廻っていたが、いくつも輪を描きながら遠ざかってしまう。)
    (その口から洩れる吐息から霧が生ずる。)
    (この霧の中にアントワヌは、くねくね巻かれた雲のような、朧気(おぼろげ)な曲線状のものを認める。)
    (最後に、彼は人間の体のような形をしたものを認める。)
    (するとまず、)
  アストミの群れが進み出る。
    (皆、日光に貫かれた空気の球のようである。)
 あんまり強く吹いてくれるな! 己たちは雨の滴でも怪我をする。調子はずれの音をきいても擦傷(かすりきず)を負うし、暗闇では盲目(めくら)になるぞ。微風と香気とで出来ている己たちは、ころころ転がって行く。漂うて行く。――夢よりはいささかましだが、生まるものとは言い切れぬ己たち……
  ニスナス
    (片目、片頬、片手、片脚、半分の身体、半分の心臓しか持っていない。)
    (そして、非常に大きな声で呼ばわる。)
 己たちは、この半分の棲家の中で、半分の女房や子供と極めて気楽に暮して居るわい。
  ブレンミー
    (全然首がない。)
 お蔭様で己たちの肩は外の奴らより広いわい。――だから、牛でも犀でも象でも、己たちの担ぐものを担げる奴は他にいないのさ。
 目鼻立ちのようなものが、つまり朧気な顔みたいなものが、胸の上に刻まれているだけさ! 己たちは消化作用によって物を考え、分泌作用によって細かい思弁もするのだぞ。己たちにとっては、神は体内の乳糜の中に飄々乎として漂ってござるわい。
 己たちは、あらゆる汚穢泥濘の中を通り、あらゆる深淵に添うて真直ぐに、道を進むのじゃ。――従って、己たちは、世にも勤勉な、いとも幸福な、最も有徳な者どもなのじゃ。
  ピグメ
 人のよい小人(こびと)の我々は駱駝の瘤に集(たか)っている小虫のように、地球の上をうようよ蠢いているのです。
 火で焼かれ、水に浸けられ、踏み潰されます。しかも尚、我々は相も変らず姿を現し、更に元気よく、更に数を増すのです。――数から言ったら恐ろしいくらいですよ!
  スキヤポデス
 蔦葛のように長い髪の毛で地上へ引き止められ、日傘のように拡がった足の蔭で、我々は生長して行く。陽の光は、踵の厚みを通して射して来る。少しも動かず、少しも働かぬ!――顔を出来るだけ低くすること、こいつが幸福の秘訣だ!
    (木の幹のように空へもたげた太腿が、見る見るうちに数を増す。)
    (すると、森が現れる。大きな猿が四つん這いになって、そこを走っている。犬の首をした人間である。)」

    「(今は植物も動物ももはやその区別がつかない。無花果の樹のように見える珊瑚樹は、枝の上に手を生やしている。アントワヌが二枚の葉の間に毛虫がいると思っていると、それは蝶であって、飛び去ってしまう。彼が、磧石を踏んで歩もうとすると、一匹の灰色のばった蝗が飛び跳ねる。薔薇の花弁のような昆虫が、小さな灌木に一ぱい集(たか)っている。蜉蝣(かげろう)の脱殻(から)が地上に積って雪のような層を作る。)
    (その次には、植物と鉱物とが混淆してしまう。)
    (小石は脳に似ているし、鍾乳石は乳房に、方解石(フロス・フェルリ)は、画像を織り込んだ壁掛のように見える。)
    (アントワヌは、氷の破片の中に、草叢や貝殻の萌芽や痕跡を認めるが、――果してそれがこれらのものの痕跡なのか、それともその物自身であるのかは判らなかった。金剛石は眼のように光り輝き、鉱石はぴくぴく動いている。)
    (彼はもはや恐くない!)
    (彼は腹這いになり、両肘を突いて、息を殺して眺め入る。)
    (胃の腑のない昆虫が物を喰い続けている。干涸びた歯朶にまた花が咲き、無くなっていた身体の部分がまた生えて来る。)
    (最後に彼は針の頭ほどの大きさで、周囲に繊毛を具えた粒々(つぶつぶ)したものの小さな塊を認める。それは振動によって動いているのである。)
  アントワヌ
    (狂気のようになって、)
 ああ! 嬉しい! 嬉しい! 己は生命の誕生を見たのだ! 運動の始元(はじめ)を見たのだ! 己の血は高鳴って、血管が破れそうだ。己は、飛びたい。泳ぎたい。吠えたい。唸りたい。叫びたい。己は、翼と甲羅がほしい。殻皮(かわ)がほしい。煙を吐きたい。長い鼻がほしい。体をくねくねと捻りたい。あらゆるところへ体を分けてしまい、あらゆる物象(もの)のなかへ入りこんでしまいたい。香気とともに発散し、植物のように成長し、水のように流れ、音のように震動し、光のように輝き、あらゆる形体の上に蹲り、各原子の中に滲透し、物質の奥の奥にまで下りたい。――物質になりたいのだ!」

































































『完訳 ペロー童話集』 新倉朗子 訳 (岩波文庫)

「目がさめるときがくるまで、このまま静かに眠らせておくよう王は命じました。」
(ペロー 「眠れる森の美女」 より)


『完訳 
ペロー童話集』 
新倉朗子 訳
 
岩波文庫 赤/32-513-1 

岩波書店 
1982年7月16日 第1刷発行
1984年5月16日 第3刷発行
282p
文庫判 並装 カバー
定価400円



Charles Perrault: Contes de Perrault, 1695, 1697
挿絵図版(扉絵)11点、解説中に図版(「1697年版の口絵」)1点。


ペロー童話集 01


カバー文:

「ペロー(1628―1703)の『童話集』は、民間伝承に材を得た物語集のうちでも最も古いものといってよい。よく知られた「眠れる森の美女」「赤ずきんちゃん」「青ひげ」「長靴をはいた猫」「サンドリヨン(シンデレラ)」を始め、韻文で書かれた「ろばの皮」など全作品を収め、口承文芸研究の視点から注・解説を付した。」


目次:

韻文による物語
 序文
 グリゼリディス
  **嬢へ
  グリゼリディス
  ***氏へ 『グリゼリディス』をお送りするのにそえて
 ろばの皮
 愚かな願いごと

過ぎし昔の物語ならびに教訓
 内親王様(マドモアゼル)へ
 眠れる森の美女
 赤ずきんちゃん
 青ひげ
 ねこ先生または長靴をはいた猫
 仙女たち
 サンドリヨンまたは小さなガラスの靴
 まき毛のリケ
 親指小僧


解説



ペロー童話集 02



◆本書より◆


「グリゼリディス」より:

「大公はといえば、偶然か、運命の定めか、
脇道に入りこみ、
狩りのお供はだれひとりついてきません。
かければかけるほど一行と離れ、
とうとう道に迷って、
犬の吠え声も角笛の音も聞こえなくなりました。

このふしぎな出来事によって大公が導かれた場所は、
水の流れこそ明るいが木々の緑はうっそうと暗く、
目に見えぬ恐怖で心がしめつけられるところでした。
素朴で人の手の加わらぬ自然が
まことに美しく純粋な姿を見せていたため、
道に迷ったことを大公は何度も喜びました。

広大な森と水の流れと野原に
おのずとこころよい夢見心地に浸っていた大公は、
突然思いがけぬものを目にしてはっと心を打たれます。
この世でまだ見たこともない、
感じのいい、優しい、
好ましい相手でした。

それは若い羊飼いの娘で、
小川のほとりで糸を紡いでいました。」



「ろばの皮」より:

「そこで花嫁探しがはじまり
血統にはお構いなく、指輪の合う女性が
このような高い位につくことになるのです。
ひとりだっていやしません、
指を見せに来る仕度をしないものは、
自分の権利を譲ろうとするようなものは。
王子との結婚を望むには、ほっそりした
指の持主でなければならぬとの噂(うわさ)が流れ、
いかさま医師どもは歓心を買うために、
指を細くする秘訣を知っているといいだしました。
ひとりの娘は妙な気紛れをつきつめたあまり
まるで蕪(かぶ)のように指を掻き削り、
別の娘は指の先を切り落としてしまいます。
またある娘は押しつければ指が細くなると思い、
他の娘ときたら、指をなにかの液につけ、
細くするつもりが皮をむいてしまいました。
要するに指輪にぴったりはまる指にするため
ご婦人がたが試みなかった処法は、
一つもないという有様です。」



「眠れる森の美女」より:

「王は騒ぎをききつけてのぼってきていましたが、急に仙女の予言を思い出し、仙女がそういっていた以上、起きるべきことが起きたに違いないと考え、王女を宮殿の中のいちばん美しい部屋に運ばせ、金銀の縫いとりのあるベッドに寝かせました。王女はとても美しく、まるで天使のようでした。気を失っていても、生き生きとした肌の色はもとのまま、頬はうす紅色で、唇は珊瑚(さんご)のようです。目を閉じているだけで、静かに息をするのがきこえますから、死んだのでないことは、はっきりしています。
 目がさめるときがくるまで、このまま静かに眠らせておくよう王は命じました。」



「赤ずきんちゃん」より:

「狼は近道を全速力でかけていきましたが、女の子は遠いほうの道を、はじばみの実を拾ったり、蝶々(ちょうちょう)を追いかけたり、小さな花をみつけて花束をつくったりして、遊びながら行きました。」


「青ひげ」より:

「はじめは窓がしまっていたので、何も見えません。が、しばらくすると、床一面が凝固した血でおおわれ、数人の死んだ女の体が壁際にくくりつけられているのが、その血の海に映って見えてきました。」


「ねこ先生」より:

「「陛下、これなる野兎は、カラバ侯爵殿(これは猫が気に入って自分の主人につけた名前です)から陛下に献上するようにと、言いつかったものでございます」」


「サンドリヨン」より:

「仕事をすませると、娘はいつも炉の片隅に身を寄せ、灰の上に坐ったので、この家では皆から灰尻っ子(キュサンドロン)と呼ばれましたが、下の姉は上の姉ほど無作法ではないので、灰っ子(サンドリヨン)と呼んでいました。」


「まき毛のリケ」より:

「むかし、ある国の王妃が男の子を生みましたが、これがあまりに醜(みにく)く、あまりに不格好だったので、果して人間の姿をしているのかしらと、長いことみんながいぶかったほどです。」
「いい忘れていましたが、この子は生まれた時から、頭にとさかのような小さなまき毛の房があったので、まき毛のリケと名付けられました。リケというのが家の苗字(みょうじ)だったからです。」

「妹は目に見えて醜くなり、そして、姉は一日ごとに愚かさをましていきました。きかれたことに全く答えられないか、あるいは馬鹿げたことを口にするのです。おまけにひどく無器用で、暖炉のへりに磁器を四つならべるときは、かならずそのうちの一つを割ってしまい、コップで水を飲むときは、かならず半分は服にこぼしてしまうほどでした。」



「親指小僧」より:

「そのうえ樵夫婦を悲しませたのは、いちばん下の子がとても体が弱くて、ひとことも口をきかないことでした。この子の心優しさのしるしを、頭の悪さと思い違いしたのです。この子はとても小さくて、生まれた時はやっと親指ぐらいの大きさしかなかったので、みんなから親指小僧と呼ばれるようになりました。
 このかわいそうな子は家じゅうのいじめられ役で、悪いことはいつもこの子のせいにされました。ところが、親指小僧は兄弟じゅうで一番賢く、一番考え深かったのですし、口はほとんどきかなくても、たくさんのことを耳に入れていたのです。」

「人食い鬼には娘が七人いましたが、まだほんの子どもでした。父親のように生肉を食べていたので、人食い娘たちはみなとてもいい顔つやをしていました。(中略)まだひどく邪悪というところまではいってませんが、先は大いに思いやられます。もうすでに小さな子どもたちに噛(か)みついて、生血を吸っていたからです。」



「解説」(新倉朗子)より:

「先に、「赤ずきんちゃん」についてドラリュの検討した結果を紹介したが、検討に先立ち、ドラリュはフランスの伝承に残る三十五話を三群に分ける。すなわち、ペローの話が再び口承に入った二話と、印刷された本から完全に独立した形で伝わる二十話と、両者の混合である残りの十三話である。そして、第二群および第三群の話が、ほとんどロワール河からアルプス北部へかけて、西から東へ引いた線を中心にかたまっていることを確認する。ペローが伝承の話を書き留めたとして、それらの話は現代になって収集される時まで常に語られ続けていたのであるから、それらの話の中からできるだけ原初的(プリミチフ)なモティーフを識別する作業をする。すると、狼がおばあさんの血と肉をそれぞれ壜(びん)や櫃(ひつ)に入れておいて赤ずきんに食べさせようとする、その時猫や鳥が口をきいて何を食べようとしているのかを教える、というモティーフが、ペローの話から独立している第二群に、細部のちがいはあっても共通して存在することがわかる。」










































































バルザック 『セラフィタ』 蛯原徳夫 訳 (角川文庫)

「彼はセラフィタが天界から追われた者で今その故郷に歸る途中にいるのではないかと思つていた。」
(バルザック 『セラフィタ』 より)


バルザック 
『セラフィタ』 
蛯原徳夫 訳
 
角川文庫 493 

角川書店
昭和29年12月20日 初版発行
平成元年11月15日 再版発行
216p
文庫判 並装 カバー
定価440円(本体427円)
カバー・デザイン: 鈴木一誌



Honoré de Balzac: Séraphita
角川文庫限定復刻 リバイバル・コレクション PART II
旧字・新かな。


バルザック セラフィタ


カバーそで文:

「男女の性質が融合し、
肉欲を離れた両性具有の裡に実現される
天使のような恋愛を描いた本書は、
バルザックの「神曲」とも
「ファウスト」ともいわれる
「神秘の書」である。」



目次:

獻辭
一 セラフィトゥス
二 セラフィタ
三 セラフィタ・セラフィトゥス
四 聖所の雲
五 告別
六 天に至る道
七 昇天

譯註
解説 (譯者)




◆本書より◆


「――スウェーデンボルグは」と牧師は語りつづけた。「セラフィッツ男爵をとくに愛していました。この名前はスウェーデンの古い習慣に從つて何時の頃からかラテン語のウスという語尾を取つています。男爵はあのスウェーデンの豫言者の最も熱心な弟子で、あの豫言者も彼に内面的(引用者注: 「内面的」に傍点)なる人間の眼を開かせ、天上からの命令に應じた生活をするように彼を仕立てたのです。彼は多くの女性の中に天使的な靈を探し求めたのでしたが、スウェーデンボルグが幻想の中でそれを彼に見出してやつたのでした。その花嫁はロンドンの靴屋の娘で、スウェーデンボルグによれば、彼女には天上の生命が輝いていて、前生の試煉はすつかり濟んでいたということでした。(中略)夫人は一七八三年に二十六歳で子供を生みました。その懷姙は重大な喜びなのでした。二人はそれによつてこの世に永遠の別れを告げるのでした。なぜかと云いますと、子供は自分で生きる力が與えられるまでは肉の衣を着せられて二人の世話を受けていなければならないが、子供がいよいよその肉の衣をぬぐ時に二人は必ず變容するにちがいない、と夫妻が私に語つていたからなのです。子供は生れましたが、それが今われわれの問題にしているセラフィタなのです。彼女が胎に宿ると父親と母親は前よりもいつそう孤獨な生活をして、祈りによつて天界に激しく憧れていました。二人はスウェーデンボルグに會いたがつていましたが、その望みは信仰によつて叶えられました。セラフィタの誕生の日にスウェーデンボルグがヤルヴィスに現われて、子供の生れた部屋を光で滿しました。彼はこう云つたと傳えられています。『仕事は成し遂げられ、天界は喜んでいる』家の人は旋律のような不思議な音を聞きましたが、それは風に乘つて四方から響いてくるように思われたということです。スウェーデンボルグの靈は父親を家から連れ出してフィヨールドの上へ導き、そこで父親と別れました。ヤルヴィスの幾人かの人はその時セラフィトゥス氏に近づき、次のような聖書の美しい言葉を氏が口にするのを聞いたのでした。『主が我らに遣(つかわ)し給う天使の足は、山の上にていかに美しく見ゆることぞ』 私は家を出て、洗禮や命名やそのほか法律に定められていることを果しに館へ行こうとすると、途中で男爵にばつたり會いました。『貴方にお勤めをして頂かなくてもいいのです』と彼は云いました。『私たちの子供はこの地上では名をつけてはならないのです。それにもう天上の火で授洗を受けましたから、地上の教會の水で洗禮なさらないで下さい。あの子供はいつまでも咲きつづけていて、萎れることはないでしよう。ただ變つてゆくだけなのです。貴方がたは過渡的な存在(引用者注: 「存在」に傍点)をお持ちですが、あの子供は生命を持つています。貴方がたには外面的な感覺がおありですが、あれにはありません。あの子供はすつかり内面的なのです』そういう聲には超自然的な響きがあつて、私はそれに強く打たれました。(中略)セラフィタは他の子供のように裸の姿を見られるということは決してありませんでした。また男の人の手にも女の人の手にも觸れたことがありませんでした。母親の懷に抱かれて純潔無垢に生活し、泣いたこともないのでした。(中略)彼女は教會では他の信者たちと遠く離れています。もしその離れ方が少いと彼女は落ちつかないのです。ですから彼女はたいてい館に籠つています。彼女は姿を見せないのでその生活の詳細も分りません。彼女の能力も感覺もすべてが内面的なのです。彼女はたいていの時は神秘的な冥想に耽つています。そういう冥想はカトリック教徒に云わせるとキリストの言葉の傳統の保たれていた孤獨な初期キリスト教徒に絶えず見られたものだということです。彼女の悟性も魂も肉體も、彼女のすべてのものはわれわれの地方の山の雪のように純潔なものです。十歳になるともう現在貴方がご覽になつているような彼女そつくりになりました。彼女が九歳の時に兩親はそろつて死んだのですが、苦しみもなく、これという病氣もなく、この世を去る時間をあらかじめ告げたのでした。彼女は兩親の足元に立つて、悲しみも苦しみも喜びも好奇心も示さずに、平靜な眼つきで眺めていました。」」

「三人がダヴィッドに案内されて家に入つてみると、セラフィタは食卓の傍らに立つていて、食卓にはお茶のお支度ができていた。(中略)セラフィタは三人の客をこの世の世間並みにもてなそうとして、ストーヴに薪をくべるようにダヴィッドに云いつけた。
 「今日は、皆さん」と彼女は云つた。「ベッカーさん、よくいらつしやいました。私の生きている姿をご覽になるのもこれが最後かもしれませんよ。この冬はもう私は死にそうなのです。――どうぞおかけ下さい」と彼女(引用者注: 「彼女」に傍点)はウィルフリッドに云つた。「ミンナさんもそこへおかけ下さい」と彼(引用者注: 「彼」に傍点)は自分の傍らを指さして云つた。」
「「貴女は昨日もまたお苦しみだつたのですか」
 とウィルフリッドは尋ねた。
 「なんでもありません」と彼女は云つた。「ああいう苦しみは私好きです。生命から脱け出るには必要なのですから」
 「死ぬことは怖くはないのですか」
 ベッカー氏は微笑んで云つた。彼は彼女を病氣だとは思つていなかつた。
 「怖くはありません。人には二つの死に方があります。或る人には死が勝利であり、或る人には死は敗北です」
 「貴女は勝つたとお思いになつていらつしやるでしよう」
 とミンナが尋ねた。
 「どうですか」と彼女は答えた。「もう一歩というところでしよう」
 彼女の乳のように白い顏の輝きは消え、眼に瞼がゆつくりとかぶさつた。このほんのちよつとした變化にも好奇の心に燃えた三人は心を打たれ、身體が縮まるような思いであつた。しかしベッカー氏はいちばん勇敢にこう云つた。
 「貴女は純眞そのものでもあり、また神のように善良でもあります。今晩私はお茶の御馳走より外のものをご所望するのですが。或る人たちの話によると貴女は不思議なことをご存じだということです。もしそうだとすれば、私たちの疑いの幾らかでも消して頂ければ有難いのですが」
 「ああ」と彼女は微笑んで答えた。「私は雲の上を歩きます。フィヨールドの深淵の上にもよく參ります。海は轡をはめた私の乘馬です。私は歌をうたう花がどこに生えているか、ものを云う光がどこに射しているか、匂いのある色がどこにきらきらと輝いているか、知つています。(中略)私は仙女です。私が風に命令を與えると、風は奴隷のようにそれを行ないます。私は地中の寶も見抜きます。私は眞珠が身體の前に飛び散る處女です。それから……」
 「それから私たちはファルベルクにも平氣で登れますわね」
 とミンナが口を入れて云つた。
 「貴方だつてそうですよ」と彼女はミンナを輝かしい視線で見やつたので、ミンナはおどおどしてしまつた。それから彼女は三人を刺すような眼ざしで見渡しながら云つた。「貴方がたがなぜここにいらつしやつたかを、もし私が貴方がたの額の中に讀み取ることができないとしたら、私はもう貴方がたがお考えになつているような者ではないわけです」ダヴィッドはこれを聞くと滿足そうに手を揉みながら出て行つた。彼女はしばらく默つていてから云つた。「貴方がたは子供のような好奇心に驅られておいでになつたのです。ベッカーさん、貴方はこの十七歳の少女に分るかどうかと思つていらつしやるのです。學者が眼を空に向けずに鼻を地面につけて探しまわつている、多くの秘密の一つでも分るかどうかと。もし私がどのようにして、又どういうところから植物が動物と通じ合つているかということを申し上げたら、貴方はご自分の疑つていらつしやつたことをまたお疑いになるでしよう。貴方は私にいろいろお尋ねになるおつもりだつたのでしよう。正直におつしやいまし」
 「そうですよ、セラフィタさん」とウィルフリッドが答えた。「けれどもふつうの人間がそう思うのも無理はないでしよう」
 「それでは貴方がたはこの兒に退屈な思いをさせるおつもりですね」
 と彼女はミンナの髪を可愛らしそうに撫でながら云つた。
 若い娘は眼を上げたが、セラフィタの中に融けこんでしまいたいようなふうであつた。」

「「精神にとつては事實、時間も空間もないのです。空間と時間は物質のためにつくられた相對的な大きさなのであつて、精神と物質とにはなんら共通するものがありません。(中略)天使的な靈は死ぬべきものの數から除外されているのです。そして死ぬべきものの言葉を聞いてももうその意味が分らなくなつているのです。またそういうものの動き、たとえば政治と云われているものや、物質的な法律や、社會などというものを見て、驚くのです。(中略)一度も後ろを振り返らず、一言も後悔の言葉を洩さず、もろもろの天體を眺めてその運命を見透すような人々は、口を噤んで、待ち、そして最後の鬪いをじつと堪え忍びます。最も苦しい鬪いは最後の鬪いであり、また最高の德は諦念(引用者注: 「諦念」に傍点)です。追放たれてしかも歎かず、地上のものに氣を惹かれずに微笑み、神のものとなりながら人間たちの間に留つていること、です。(中略)歎くことは墮落なのです。諦めは天國の入口で熟す果實なのです。(中略)どれほど多くの赦された天使たちが殉教から天上へと歸つて行つたことでしよう。シナイもゴルゴタも特定の場所ではありません。天使は至るところで、またあらゆる世界で十字架にかけられるのです。」」





こちらもご参照ください:

高橋和夫 『スウェーデンボルグの思想』 (講談社現代新書)












































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。


うまれたときからひとでなし、
なぜならわたしはねこだから。

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