『完訳 ペロー童話集』 新倉朗子 訳 (岩波文庫)

「目がさめるときがくるまで、このまま静かに眠らせておくよう王は命じました。」
(ペロー 「眠れる森の美女」 より)


『完訳 
ペロー童話集』 
新倉朗子 訳
 
岩波文庫 赤/32-513-1 

岩波書店 
1982年7月16日 第1刷発行
1984年5月16日 第3刷発行
282p
文庫判 並装 カバー
定価400円



Charles Perrault: Contes de Perrault, 1695, 1697
挿絵図版(扉絵)11点、解説中に図版(「1697年版の口絵」)1点。


ペロー童話集 01


カバー文:

「ペロー(1628―1703)の『童話集』は、民間伝承に材を得た物語集のうちでも最も古いものといってよい。よく知られた「眠れる森の美女」「赤ずきんちゃん」「青ひげ」「長靴をはいた猫」「サンドリヨン(シンデレラ)」を始め、韻文で書かれた「ろばの皮」など全作品を収め、口承文芸研究の視点から注・解説を付した。」


目次:

韻文による物語
 序文
 グリゼリディス
  **嬢へ
  グリゼリディス
  ***氏へ 『グリゼリディス』をお送りするのにそえて
 ろばの皮
 愚かな願いごと

過ぎし昔の物語ならびに教訓
 内親王様(マドモアゼル)へ
 眠れる森の美女
 赤ずきんちゃん
 青ひげ
 ねこ先生または長靴をはいた猫
 仙女たち
 サンドリヨンまたは小さなガラスの靴
 まき毛のリケ
 親指小僧


解説



ペロー童話集 02



◆本書より◆


「グリゼリディス」より:

「大公はといえば、偶然か、運命の定めか、
脇道に入りこみ、
狩りのお供はだれひとりついてきません。
かければかけるほど一行と離れ、
とうとう道に迷って、
犬の吠え声も角笛の音も聞こえなくなりました。

このふしぎな出来事によって大公が導かれた場所は、
水の流れこそ明るいが木々の緑はうっそうと暗く、
目に見えぬ恐怖で心がしめつけられるところでした。
素朴で人の手の加わらぬ自然が
まことに美しく純粋な姿を見せていたため、
道に迷ったことを大公は何度も喜びました。

広大な森と水の流れと野原に
おのずとこころよい夢見心地に浸っていた大公は、
突然思いがけぬものを目にしてはっと心を打たれます。
この世でまだ見たこともない、
感じのいい、優しい、
好ましい相手でした。

それは若い羊飼いの娘で、
小川のほとりで糸を紡いでいました。」



「ろばの皮」より:

「そこで花嫁探しがはじまり
血統にはお構いなく、指輪の合う女性が
このような高い位につくことになるのです。
ひとりだっていやしません、
指を見せに来る仕度をしないものは、
自分の権利を譲ろうとするようなものは。
王子との結婚を望むには、ほっそりした
指の持主でなければならぬとの噂(うわさ)が流れ、
いかさま医師どもは歓心を買うために、
指を細くする秘訣を知っているといいだしました。
ひとりの娘は妙な気紛れをつきつめたあまり
まるで蕪(かぶ)のように指を掻き削り、
別の娘は指の先を切り落としてしまいます。
またある娘は押しつければ指が細くなると思い、
他の娘ときたら、指をなにかの液につけ、
細くするつもりが皮をむいてしまいました。
要するに指輪にぴったりはまる指にするため
ご婦人がたが試みなかった処法は、
一つもないという有様です。」



「眠れる森の美女」より:

「王は騒ぎをききつけてのぼってきていましたが、急に仙女の予言を思い出し、仙女がそういっていた以上、起きるべきことが起きたに違いないと考え、王女を宮殿の中のいちばん美しい部屋に運ばせ、金銀の縫いとりのあるベッドに寝かせました。王女はとても美しく、まるで天使のようでした。気を失っていても、生き生きとした肌の色はもとのまま、頬はうす紅色で、唇は珊瑚(さんご)のようです。目を閉じているだけで、静かに息をするのがきこえますから、死んだのでないことは、はっきりしています。
 目がさめるときがくるまで、このまま静かに眠らせておくよう王は命じました。」



「赤ずきんちゃん」より:

「狼は近道を全速力でかけていきましたが、女の子は遠いほうの道を、はじばみの実を拾ったり、蝶々(ちょうちょう)を追いかけたり、小さな花をみつけて花束をつくったりして、遊びながら行きました。」


「青ひげ」より:

「はじめは窓がしまっていたので、何も見えません。が、しばらくすると、床一面が凝固した血でおおわれ、数人の死んだ女の体が壁際にくくりつけられているのが、その血の海に映って見えてきました。」


「ねこ先生」より:

「「陛下、これなる野兎は、カラバ侯爵殿(これは猫が気に入って自分の主人につけた名前です)から陛下に献上するようにと、言いつかったものでございます」」


「サンドリヨン」より:

「仕事をすませると、娘はいつも炉の片隅に身を寄せ、灰の上に坐ったので、この家では皆から灰尻っ子(キュサンドロン)と呼ばれましたが、下の姉は上の姉ほど無作法ではないので、灰っ子(サンドリヨン)と呼んでいました。」


「まき毛のリケ」より:

「むかし、ある国の王妃が男の子を生みましたが、これがあまりに醜(みにく)く、あまりに不格好だったので、果して人間の姿をしているのかしらと、長いことみんながいぶかったほどです。」
「いい忘れていましたが、この子は生まれた時から、頭にとさかのような小さなまき毛の房があったので、まき毛のリケと名付けられました。リケというのが家の苗字(みょうじ)だったからです。」

「妹は目に見えて醜くなり、そして、姉は一日ごとに愚かさをましていきました。きかれたことに全く答えられないか、あるいは馬鹿げたことを口にするのです。おまけにひどく無器用で、暖炉のへりに磁器を四つならべるときは、かならずそのうちの一つを割ってしまい、コップで水を飲むときは、かならず半分は服にこぼしてしまうほどでした。」



「親指小僧」より:

「そのうえ樵夫婦を悲しませたのは、いちばん下の子がとても体が弱くて、ひとことも口をきかないことでした。この子の心優しさのしるしを、頭の悪さと思い違いしたのです。この子はとても小さくて、生まれた時はやっと親指ぐらいの大きさしかなかったので、みんなから親指小僧と呼ばれるようになりました。
 このかわいそうな子は家じゅうのいじめられ役で、悪いことはいつもこの子のせいにされました。ところが、親指小僧は兄弟じゅうで一番賢く、一番考え深かったのですし、口はほとんどきかなくても、たくさんのことを耳に入れていたのです。」

「人食い鬼には娘が七人いましたが、まだほんの子どもでした。父親のように生肉を食べていたので、人食い娘たちはみなとてもいい顔つやをしていました。(中略)まだひどく邪悪というところまではいってませんが、先は大いに思いやられます。もうすでに小さな子どもたちに噛(か)みついて、生血を吸っていたからです。」



「解説」(新倉朗子)より:

「先に、「赤ずきんちゃん」についてドラリュの検討した結果を紹介したが、検討に先立ち、ドラリュはフランスの伝承に残る三十五話を三群に分ける。すなわち、ペローの話が再び口承に入った二話と、印刷された本から完全に独立した形で伝わる二十話と、両者の混合である残りの十三話である。そして、第二群および第三群の話が、ほとんどロワール河からアルプス北部へかけて、西から東へ引いた線を中心にかたまっていることを確認する。ペローが伝承の話を書き留めたとして、それらの話は現代になって収集される時まで常に語られ続けていたのであるから、それらの話の中からできるだけ原初的(プリミチフ)なモティーフを識別する作業をする。すると、狼がおばあさんの血と肉をそれぞれ壜(びん)や櫃(ひつ)に入れておいて赤ずきんに食べさせようとする、その時猫や鳥が口をきいて何を食べようとしているのかを教える、というモティーフが、ペローの話から独立している第二群に、細部のちがいはあっても共通して存在することがわかる。」










































































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バルザック 『セラフィタ』 蛯原徳夫 訳 (角川文庫)

「彼はセラフィタが天界から追われた者で今その故郷に歸る途中にいるのではないかと思つていた。」
(バルザック 『セラフィタ』 より)


バルザック 
『セラフィタ』 
蛯原徳夫 訳
 
角川文庫 493 

角川書店
昭和29年12月20日 初版発行
平成元年11月15日 再版発行
216p
文庫判 並装 カバー
定価440円(本体427円)
カバー・デザイン: 鈴木一誌



Honoré de Balzac: Séraphita
角川文庫限定復刻 リバイバル・コレクション PART II
旧字・新かな。


バルザック セラフィタ


カバーそで文:

「男女の性質が融合し、
肉欲を離れた両性具有の裡に実現される
天使のような恋愛を描いた本書は、
バルザックの「神曲」とも
「ファウスト」ともいわれる
「神秘の書」である。」



目次:

獻辭
一 セラフィトゥス
二 セラフィタ
三 セラフィタ・セラフィトゥス
四 聖所の雲
五 告別
六 天に至る道
七 昇天

譯註
解説 (譯者)




◆本書より◆


「――スウェーデンボルグは」と牧師は語りつづけた。「セラフィッツ男爵をとくに愛していました。この名前はスウェーデンの古い習慣に從つて何時の頃からかラテン語のウスという語尾を取つています。男爵はあのスウェーデンの豫言者の最も熱心な弟子で、あの豫言者も彼に内面的(引用者注: 「内面的」に傍点)なる人間の眼を開かせ、天上からの命令に應じた生活をするように彼を仕立てたのです。彼は多くの女性の中に天使的な靈を探し求めたのでしたが、スウェーデンボルグが幻想の中でそれを彼に見出してやつたのでした。その花嫁はロンドンの靴屋の娘で、スウェーデンボルグによれば、彼女には天上の生命が輝いていて、前生の試煉はすつかり濟んでいたということでした。(中略)夫人は一七八三年に二十六歳で子供を生みました。その懷姙は重大な喜びなのでした。二人はそれによつてこの世に永遠の別れを告げるのでした。なぜかと云いますと、子供は自分で生きる力が與えられるまでは肉の衣を着せられて二人の世話を受けていなければならないが、子供がいよいよその肉の衣をぬぐ時に二人は必ず變容するにちがいない、と夫妻が私に語つていたからなのです。子供は生れましたが、それが今われわれの問題にしているセラフィタなのです。彼女が胎に宿ると父親と母親は前よりもいつそう孤獨な生活をして、祈りによつて天界に激しく憧れていました。二人はスウェーデンボルグに會いたがつていましたが、その望みは信仰によつて叶えられました。セラフィタの誕生の日にスウェーデンボルグがヤルヴィスに現われて、子供の生れた部屋を光で滿しました。彼はこう云つたと傳えられています。『仕事は成し遂げられ、天界は喜んでいる』家の人は旋律のような不思議な音を聞きましたが、それは風に乘つて四方から響いてくるように思われたということです。スウェーデンボルグの靈は父親を家から連れ出してフィヨールドの上へ導き、そこで父親と別れました。ヤルヴィスの幾人かの人はその時セラフィトゥス氏に近づき、次のような聖書の美しい言葉を氏が口にするのを聞いたのでした。『主が我らに遣(つかわ)し給う天使の足は、山の上にていかに美しく見ゆることぞ』 私は家を出て、洗禮や命名やそのほか法律に定められていることを果しに館へ行こうとすると、途中で男爵にばつたり會いました。『貴方にお勤めをして頂かなくてもいいのです』と彼は云いました。『私たちの子供はこの地上では名をつけてはならないのです。それにもう天上の火で授洗を受けましたから、地上の教會の水で洗禮なさらないで下さい。あの子供はいつまでも咲きつづけていて、萎れることはないでしよう。ただ變つてゆくだけなのです。貴方がたは過渡的な存在(引用者注: 「存在」に傍点)をお持ちですが、あの子供は生命を持つています。貴方がたには外面的な感覺がおありですが、あれにはありません。あの子供はすつかり内面的なのです』そういう聲には超自然的な響きがあつて、私はそれに強く打たれました。(中略)セラフィタは他の子供のように裸の姿を見られるということは決してありませんでした。また男の人の手にも女の人の手にも觸れたことがありませんでした。母親の懷に抱かれて純潔無垢に生活し、泣いたこともないのでした。(中略)彼女は教會では他の信者たちと遠く離れています。もしその離れ方が少いと彼女は落ちつかないのです。ですから彼女はたいてい館に籠つています。彼女は姿を見せないのでその生活の詳細も分りません。彼女の能力も感覺もすべてが内面的なのです。彼女はたいていの時は神秘的な冥想に耽つています。そういう冥想はカトリック教徒に云わせるとキリストの言葉の傳統の保たれていた孤獨な初期キリスト教徒に絶えず見られたものだということです。彼女の悟性も魂も肉體も、彼女のすべてのものはわれわれの地方の山の雪のように純潔なものです。十歳になるともう現在貴方がご覽になつているような彼女そつくりになりました。彼女が九歳の時に兩親はそろつて死んだのですが、苦しみもなく、これという病氣もなく、この世を去る時間をあらかじめ告げたのでした。彼女は兩親の足元に立つて、悲しみも苦しみも喜びも好奇心も示さずに、平靜な眼つきで眺めていました。」」

「三人がダヴィッドに案内されて家に入つてみると、セラフィタは食卓の傍らに立つていて、食卓にはお茶のお支度ができていた。(中略)セラフィタは三人の客をこの世の世間並みにもてなそうとして、ストーヴに薪をくべるようにダヴィッドに云いつけた。
 「今日は、皆さん」と彼女は云つた。「ベッカーさん、よくいらつしやいました。私の生きている姿をご覽になるのもこれが最後かもしれませんよ。この冬はもう私は死にそうなのです。――どうぞおかけ下さい」と彼女(引用者注: 「彼女」に傍点)はウィルフリッドに云つた。「ミンナさんもそこへおかけ下さい」と彼(引用者注: 「彼」に傍点)は自分の傍らを指さして云つた。」
「「貴女は昨日もまたお苦しみだつたのですか」
 とウィルフリッドは尋ねた。
 「なんでもありません」と彼女は云つた。「ああいう苦しみは私好きです。生命から脱け出るには必要なのですから」
 「死ぬことは怖くはないのですか」
 ベッカー氏は微笑んで云つた。彼は彼女を病氣だとは思つていなかつた。
 「怖くはありません。人には二つの死に方があります。或る人には死が勝利であり、或る人には死は敗北です」
 「貴女は勝つたとお思いになつていらつしやるでしよう」
 とミンナが尋ねた。
 「どうですか」と彼女は答えた。「もう一歩というところでしよう」
 彼女の乳のように白い顏の輝きは消え、眼に瞼がゆつくりとかぶさつた。このほんのちよつとした變化にも好奇の心に燃えた三人は心を打たれ、身體が縮まるような思いであつた。しかしベッカー氏はいちばん勇敢にこう云つた。
 「貴女は純眞そのものでもあり、また神のように善良でもあります。今晩私はお茶の御馳走より外のものをご所望するのですが。或る人たちの話によると貴女は不思議なことをご存じだということです。もしそうだとすれば、私たちの疑いの幾らかでも消して頂ければ有難いのですが」
 「ああ」と彼女は微笑んで答えた。「私は雲の上を歩きます。フィヨールドの深淵の上にもよく參ります。海は轡をはめた私の乘馬です。私は歌をうたう花がどこに生えているか、ものを云う光がどこに射しているか、匂いのある色がどこにきらきらと輝いているか、知つています。(中略)私は仙女です。私が風に命令を與えると、風は奴隷のようにそれを行ないます。私は地中の寶も見抜きます。私は眞珠が身體の前に飛び散る處女です。それから……」
 「それから私たちはファルベルクにも平氣で登れますわね」
 とミンナが口を入れて云つた。
 「貴方だつてそうですよ」と彼女はミンナを輝かしい視線で見やつたので、ミンナはおどおどしてしまつた。それから彼女は三人を刺すような眼ざしで見渡しながら云つた。「貴方がたがなぜここにいらつしやつたかを、もし私が貴方がたの額の中に讀み取ることができないとしたら、私はもう貴方がたがお考えになつているような者ではないわけです」ダヴィッドはこれを聞くと滿足そうに手を揉みながら出て行つた。彼女はしばらく默つていてから云つた。「貴方がたは子供のような好奇心に驅られておいでになつたのです。ベッカーさん、貴方はこの十七歳の少女に分るかどうかと思つていらつしやるのです。學者が眼を空に向けずに鼻を地面につけて探しまわつている、多くの秘密の一つでも分るかどうかと。もし私がどのようにして、又どういうところから植物が動物と通じ合つているかということを申し上げたら、貴方はご自分の疑つていらつしやつたことをまたお疑いになるでしよう。貴方は私にいろいろお尋ねになるおつもりだつたのでしよう。正直におつしやいまし」
 「そうですよ、セラフィタさん」とウィルフリッドが答えた。「けれどもふつうの人間がそう思うのも無理はないでしよう」
 「それでは貴方がたはこの兒に退屈な思いをさせるおつもりですね」
 と彼女はミンナの髪を可愛らしそうに撫でながら云つた。
 若い娘は眼を上げたが、セラフィタの中に融けこんでしまいたいようなふうであつた。」

「「精神にとつては事實、時間も空間もないのです。空間と時間は物質のためにつくられた相對的な大きさなのであつて、精神と物質とにはなんら共通するものがありません。(中略)天使的な靈は死ぬべきものの數から除外されているのです。そして死ぬべきものの言葉を聞いてももうその意味が分らなくなつているのです。またそういうものの動き、たとえば政治と云われているものや、物質的な法律や、社會などというものを見て、驚くのです。(中略)一度も後ろを振り返らず、一言も後悔の言葉を洩さず、もろもろの天體を眺めてその運命を見透すような人々は、口を噤んで、待ち、そして最後の鬪いをじつと堪え忍びます。最も苦しい鬪いは最後の鬪いであり、また最高の德は諦念(引用者注: 「諦念」に傍点)です。追放たれてしかも歎かず、地上のものに氣を惹かれずに微笑み、神のものとなりながら人間たちの間に留つていること、です。(中略)歎くことは墮落なのです。諦めは天國の入口で熟す果實なのです。(中略)どれほど多くの赦された天使たちが殉教から天上へと歸つて行つたことでしよう。シナイもゴルゴタも特定の場所ではありません。天使は至るところで、またあらゆる世界で十字架にかけられるのです。」」





こちらもご参照ください:

高橋和夫 『スウェーデンボルグの思想』 (講談社現代新書)












































































































ディドロ 『盲人書簡』 吉村道夫・加藤美雄 訳 (岩波文庫)

「伝え聞くところでは、或る盲人は布地がどんな色彩のものかを触覚によって知るそうである。」
(ディドロ 「盲人書簡 補遺」 より)


ヂィドロ 
『盲人書簡』
  
吉村道夫・加藤美雄 訳
岩波文庫 青/33-624-4 

岩波書店
1949年10月30日 第1刷発行
2001年2月22日 第3刷発行
143p
文庫判 並装 カバー
定価500円+税



「ヂィドロ」ことディドロの「盲人についての書簡」(Diderot: Lettres sur les aveugles, 1749)の古い邦訳のリクエスト復刊(2001年春)です。法政大学出版局の『ディドロ著作集』にやや新しい邦訳「盲人に関する手紙」(平岡昇訳)が収録されていますが、「盲人書簡」という邦題は寺山修司さんのあれもあるので捨てがたいのではないでしょうか。

本文中挿画1点、図5点。旧字・新かな。


ディドロ 盲人書簡 01


カバーそで文:

「急に視力を得た盲人は眼前の対象を識別できるかどうかという問題をあつかい、ディドロ自身の唯物論・無神論的見解を展開する。」


目次:

まえがき (加藤美雄)

盲人書簡
同 補遺

譯者註
解説 (譯者)



ディドロ 盲人書簡 03



◆本書より◆


「盲人書簡」より:

「ソンダーソンが、ル・ピュイゾーの盲人と共通していた點は、大氣中に起るほんのわずかな移りかわりにも影響されたこと、とくに天候のおだやかなときに、數歩しか隔っていないところに物體があればそれに氣付いたことです。話に聞くと、同氏は或る日、さる庭園で行われた天文觀測に立合っておりましたが、時折雲があらわれて觀測者の眼から太陽の圓盤を覆いかくすときには、彼の顏面に及ぼす光線の作用にかなり著しい異變を惹き起したために、それだけで彼は觀測に都合のよい瞬間とその反對の場合とを悟ったとのことでした。」
「だから、ソンダーソンは皮膚でもってものを見たことになります。つまり彼にあってはこの被いはえもいわれぬ細かい感覺をもっていたものですから、少し馴れると、畫家が氏の掌の上にその似顏を描いてくれるだけで友達の一人を認め得たり、鉛筆によって刺戟された感覺の連續によって、それは某々だ、と言い切れるところまで達していたのだと、確言した人もあるほどだったのです。すると盲人にもまた繪畫があることになり、そうすれば彼らの皮膚がカンヴァスの役をすることになります。」

「彼らには、ソンダーソンになかった兩眼が立派に具っていたのですが、ソンダーソンの方が却って、彼らに缺けている淸らかな習性と率直なる品位とを具えていたのです。だから彼らは盲人として生き、ソンダーソンは眼の見えるもののような死に方をしたのです。」

「すでにこの手紙も餘りに冗長になったようですが、最後に一つ、隨分昔から提示されている問題をつけ加えたいと思います。ソンダーソンの特異な身の上を若干考察しているうちに、この問題が決して十全に解決されていなかったことに氣付いたのです。或る一人の完全に成年に達した生來の盲人に向って、同一金屬のほぼ同じ大きさの立方體と球體とを、その各〃に觸れた場合に、何れが立方體、何れが球體であるかが言い得るほどに、手觸りで識別することを教えたと假定してみましょう。その立方體と球體とが卓上に置かれているときに、その盲人が視覺を使い得るようになったと假定します。そこで彼に向って、手を觸れずに眼で視るだけで、それら二つの區別が出來、どちらが立方體、どちらが球體かを言い得るかどうか、という問いを出すわけです。」



「前掲書簡への補遺」より:

「一 自分の技術の理論にはあくまでも精通するとともに、實際の仕事では誰にも引けを取らぬ或る技術家が私に確言したところでは、彼が小齒輪の丸さを判斷するのは、觸覺であって、視覺ではないとのことだし、その小齒輪を拇指と人差指の間で靜かに廻轉させ、眼の見逃すわずかな凹凸を識別するのは、その連續的感觸によるのだそうである。
二 傳え聞くところでは、或る盲人は布地がどんな色彩のものかを觸覺によって知るそうである。
三 花束の色のニュアンスをいかにも微妙に區別する盲人のことを引き合いに出してもよい。その微妙な感覺は、J・J・ルソーが、眞面目にか或いは冗談半分にか、パリの花賣娘に授業をしてやる筈の學校を開きたいと、友人たちにその計畫を打明けたときに、自慢していたほどのものである。
四 アミアン市には、眼の恩惠に浴しているのと變らぬほどの聰明さで、多數の工房の指圖をしている盲目の織物仕上職人があった。
五 或る具眼の男は眼を用いると手の確かな働きが保證できなかったので、自分の頭を剃るためには、鏡を退けて素壁の前に位置した。盲人は危險に氣がつかぬので、そのため一層大膽不敵になるものだし、一つの斷崖の上に橋として架けられた狹い彈力性の板の上さえ、一層確かな歩調で進むことは疑う餘地がない。大した深淵の光景を見て眼の眩む思いがしない者は先ずないといってよい。
六 あの有名なダヴィエルを知らぬ人も、或いはその人のことを聞かぬ人もないにちがいない。私は幾度も彼の手術に立會ったのだ。彼は或る鍛冶屋の白内障を除去してやったことがあるが、その鍛冶屋はいつも爐の火にさらされ通しだったためにこの病氣に罹り、しかも視力を失っていた二十五年の間に觸覺に賴る習慣をすっかり身につけてしまったので、さて視覺が恢復してそれを用いさせようとすると却って彼を苦しめることになってしまったのだ。ダヴィエルは彼を打ちながらこう云うのだった。『しようがない奴だな、しっかり視るんだぞ!』彼は歩きもしたし、働きもしていた。われわれが眼を開いてすることは何でも、彼の方では眼を閉じてやるという始末だった。」



ディドロ 盲人書簡 02




































































































ディドロ 『ラモーの甥』 本田喜代治・平岡昇 訳 (岩波文庫)

「そりゃそうです。しかし、おきてとか作法とかいうものをわしがほとんど問題にしていないってことにあんたは気がおつきでないようだ。公式の入用な者は決して成功しません。天才はわずかしか読まないで、大いに実行し、自分で自分を作りあげます。」
(ディドロ 『ラモーの甥』 より)


ディドロ 
『ラモーの甥』 
本田喜代治・平岡昇 訳
 
岩波文庫 青/33-624-3 

岩波書店
1940年3月26日 第1刷発行
1964年7月16日 第3刷改版発行
1992年11月16日 第18刷発行
224p
文庫判 並装 カバー
定価520円(本体505円)



本書「解説」(平岡昇)より:

「この翻訳は、前訳者本田喜代治氏の御依頼で、私の改訳したものである(中略)。訳注は主としてモンヴァル、ファーブル、ベナック、デスネなどの注を参照して作ったが、とくにファーブル氏の注に負うところが多く、同氏に深い感謝をささげたい。」


ディドロ ラモーの甥


カバー文:

「百科全書派の巨匠ディドロ(1713―84)の最高傑作とされる対話体小説。大作曲家ラモーの実在の甥を、体制からはみ出しながら体制に寄食するシニックな偽悪者として登場させ、哲学者である「私」との対話を通して旧体制のフランス社会を痛烈に批判する。生前には発表されず、1805年ゲーテのドイツ語訳によって俄然反響を呼んだ。」


内容:

ラモーの甥

訳注
解説 (平岡昇)




◆本書より◆


「私――伯父さんといえば、時々その伯父さんに会うかね。
 彼――ええ、街を通って行くところを見かけますよ。
 私――伯父さんはなんにも君のためになることをしてくれないかね。
 彼――あの人が誰かにそんなことをしてくれるとすれば、そりゃなんかの間違いでやるんです。あれもあれなりに哲学者ですからな。あれは自分のことだけしか考えちゃいない。自分以外の世界のことはあの人にとっちゃ一文の値打もありませんや。娘と女房は好きな時に死ねばいいんで。彼女たちのために鳴らされる教区の鐘が十二度と十七度の音とをいつまでも響かせていさえすれば、なにもかもそれでいいんです。それがあの人にとって幸福なことなんでさあ。これがわしが天才というやつのうちでとくに高く買っている点ですよ。彼らはただ一つのことにしか役に立たないんです。それから先は、ろくでなしなんだ。市民とか、父親とか、母親とか、親類とか、友だちとかであることがどんなことだか、彼らにゃわかりゃしません。ここだけの話ですがね、ひとはあらゆる点で彼らに似るようにしなけりゃなりませんな。もっとも、天才の種がだれにもあることを望んだってだめです。普通の人間が必要なんです。天才なんかいりませんや。いやまったく、そんなものはちっとも必要じゃない。ところが、地球の表面を変化させるのは彼らなんだ。」

「わたしは時々この道化者が人間や性格を観察する眼の正しさに驚かされた。そこで彼にそのことを知らせてやった。

 彼――つまり、そりゃ――と彼はわたしに答えた。――よからぬ交際やだらしのない生活からも利益をひっぱり出せるってことですな。純潔さを失う代りには偏見も失うんで、つぐないがつくわけでさ。悪人の社会じゃ、悪徳が仮面をとって大っぴらに現われるんで、悪人の見分けがつくようになるんです。それに、わしも、少しは本を読みましたからな。
 私――何を読んだかね。
 彼――テオフラストスやラ・ブリュイエールやモリエールを読みましたよ。今でも読んでますし、始終読み返してるんですよ。
 私――みなりっぱな本だ。
 彼――人が思ってる以上にいい本だね。しかし、誰がああいうものの読み方を知っていますかね。
 私――誰だって知ってるよ、それぞれの才能の寸法に合わせてね。
 彼――まず誰も知っちゃいませんね。人がああいうものに何をもとめてるか、あんたにはちゃんと言えますか。
 私――娯楽と教訓だよ。
 彼――しかし、どんな教訓です? だってそれが肝腎(かんじん)な点なんだから。
 私――自分の義務を識ること、徳を愛すること、悪を憎むことだな。
 彼――わしなら、およそ何をしなくちゃならんか、何を言ってはならんかを、あそこから学び取りますな。そこで、わしが『守銭奴』を読めば、わしは自分に言い聞かせます。「なりたければけちん坊にもなれ、だがけちん坊みたいな口の利き方をしないように用心しろよ。」とね。わしが『タルチュフ』を読めば、わしは自分に言い聞かせます。「なりたけりゃ、偽善者にもなれ。だが偽善者みたいな口の利き方をするなよ。お前の役に立つ悪徳は大事にしまっておけ。だが、そんな調子や様子は身につけるなよ、そのためにお前は笑い物になるかも知れんから。」そうした調子や様子が身につかないようにするには、そういう悪徳をよく識っていなくちゃなりません。ところが、こういう著者たちは、そういう悪徳を見事に描き出しているんです。わしは、わしだ、どこまでもあるがままのわしです。しかし、わしは自分につごうのいいようにやりもし、喋(しゃ)べりもします。わしはよくある、モラリストを軽蔑するような連中の仲間じゃありません。とりわけ、道徳を実行に移した人たちには、大へんためになるものがみつかりますな。悪徳というものは時折ひとの気に障るだけですが、悪徳の性格が表に現れると、そいつは朝から晩までひとの気に障るもんです。多分、横着な顔つきをしているよりは、実際に横着者であるほうがいいでしょう。横着な性格の奴はたまにしかひとを侮辱しないものですが、横着な顔付の奴はしょっちゅう侮辱してるんです。(中略)わしの取柄というのは、大抵ほかの連中が本能でやることを、系統だてて、正しく頭を働かせて、道理にかなった真実な見方でやったということだけでさあ。まあ、そんなわけで、奴らは、本を読んでもわしほど悧巧にはなりません。奴らはそうなるまいと思っても、やはり笑い物にされている始末です。ところが、わしなどは自分の好きな時だけしか笑い物にはされない。(中略)というのは、或る場合には笑い物にならない方法をわしに教えてくれるその同じ技術が、また別の場合には見事に人の嘲笑を引き出す方法を教えてくれるからでさあ。わしは、その時、ほかの連中の言ったことや、自分の読んだことをすっかり思い出します。なお、そいつに、わし独特の分までもすっかり附け加えるわけなんですが、その独特の分というのがこの種のものとしては、恐ろしく内容豊富なものなんです。
 私――そういう秘伝を明かしてくれたのは大変よかったね。さもないと、僕は、君を矛盾だらけの人間と思ったかも知れないよ。
 彼――わしはちっとも矛盾しちゃいませんよ。なぜって、笑われることを避けなくちゃならん場合が一度あるとすれば、幸いなことに、思いっきり笑われなくちゃならない場合が百度もあるんですからな。お偉ら方のそばでは道化役に勝る役はありませんよ。長い間、道化という肩書で王様に仕えた道化はありました。が、どんな時代にも、賢者という肩書で王様に仕えた賢者はありませんでしたからね。わしなんか、ベルタンやそのほか沢山の連中の道化でさ。現在は多分あんたの道化でしょう。ひょっとしたら、あんたがわしの道化かも知れませんな。賢明な人だったら、道化なんかもたないでしょうよ。だから、道化をもっている者は賢者じゃない。もしその男が賢者でないなら、道化です。たとえ王様だったとしても、その男は多分自分の道化の道化というわけでしょう。おまけに、いいですかな、風俗のような変りやすい事柄については、絶対的に本質的に一般的に真実だとか虚偽だとかというようなものはないんですよ、ただ利害関係の命ずるとおりのものに、つまり、善良にも邪悪にも、賢者にも道化にも、礼儀正しくも滑稽にも、正直にも不徳にもならなくちゃならないことは別として。もしなにかのはずみで美徳が財産への道を開いたとしたら、わしも徳を守っていたのか、それともほかの奴と同じように徳のあるふりをしていたのかもしれませんな。人はわしが馬鹿げたまねをするのを見たがりました。だから、わしはそうやったまでで、不徳のほうは、わたしが苦労しないでも、自然がひとりで引き受けてくれましたよ。わしはいま不徳と言ったが、それはあんたがたの言葉を使っているからで、わしらがもし自分の言葉の意味をはっきりさせるとなれば、あんた方のほうでは、わしが徳と言ってるものを不徳と言い、わしが不徳と言ってるものを徳と言わないともかぎりませんよ。」
























































































ディドロ 『ダランベールの夢 他四篇』 新村猛 訳 (岩波文庫)

「なぜ僕はこうなのか? そりゃ、こうでなけりゃならなかったからだ。」
(ディドロ 「ダランベールの夢」 より)


ディドロ 
『ダランベールの夢 
他四篇』 
新村猛 訳
 
岩波文庫 青/33-624-2 

岩波書店
1958年6月5日 第1刷発行
1986年11月20日 第13刷発行
218p
文庫判 並装
定価400円



本書「はしがき」より:

「本書に収めたのは、ディドロが一七六八年十月から一七七四年夏にかけて、すなわち五十五歳の時から六十一歳の時にかけて、執筆したと推定される対話体の著作五篇の邦訳(中略)である。」


ディドロ ダランベールの夢


帯文:

「観念論に対し唯物論の立場を説き、さらに既成の性道徳を鋭く批判したディドロの主著。対話形式を用い表現を工夫した独特の思想書。」


目次:

はしがき

ダランベールとディドロとの対談
ダランベールの夢
対談の続き
或哲学者と✖✖✖元帥夫人との対談
肖像奇談

訳註
解説 (新村猛)




◆本書より◆


「ダランベールの夢」より:

ダランベール  なぜ僕はこうなのか? そりゃ、こうでなけりゃならなかったからだ。……ここではそうなんだが、ほかのところでは? 北極では? 赤道直下では? 土星では?……数千里の距離が僕の種(しゅ)を変えるとすれば、地球の直径数千倍の間隔(かんかく)にできないものがあるもんか……いたるところで宇宙の光景が僕に示しているように、万物がすべて流転(るてん)するとすれば、数百万世紀の継続期間と変転から、この地上やほかのところで、どんなことでも生れるだろう。土星に住んで思考し感情をもつ存在はどんなものか、誰が知っていよう?……だが、土星に感情や思考があるだろうか?……ないはずがどうしてあるもんか……土星に住んで感情をもち思考する存在は、僕よりも多くの感官をもっているんだろうか?……もしそうなら、土星人は何て不しあわせなんだろう!……感官が多ければ多いほど、欲求もそれだけ多いからな。
ボルドゥー  あのひとのいうことはもっともですよ。器官が欲求を生みだし、逆に欲求が器官を生みだすのです。
レスピナッス嬢  先生、あなたも譫言(うわごと)をいってらっしゃいますの?」

ダランベール  僕はこうなんだ。こうでなくてはならなかったからだ。全体を変えたまえ。そうすりゃあ必ず僕を変えることになるさ。ところが、全体は絶えず変っている。……人間はありふれた結果にすぎず、怪物は稀(まれ)に見る結果にすぎない。両方ともひとしく自然であり、ひとしく必然的であり、同じように宇宙普遍の秩序にかなっている。……別に驚くことはないじゃないか?……すべての存在、従ってすべての種(しゅ)が互いに内部で循環しているのだ。……万物は絶えず流転(るてん)している。……あらゆる動物は多かれ少なかれ人間であり、あらゆる鉱物は多かれ少なかれ植物であり、あらゆる植物は多かれ少なかれ動物である。自然には何一つ分明なものはない。(中略)あらゆる事物は多かれ少なかれ何らかの事物、つまり、多かれ少なかれ土であり水であり空気であり火であり、また、多かれ少なかれ一つの界に属するか他の界に属するかである……従って、一個の特定の存在の本質に属するものは何もない……いや、確かにない。(中略)……おお、地球を測量(そくりょう)したアルキタスよ! 君はいまどうなっているのか? ひと握(にぎ)りの灰じゃないか?……存在って何だ?……一定数の傾向の総和だ。……僕だって一つの傾向以外のものになれるのか?……いや、僕は或限界に向っているのだ。……では種(しゅ)は?……種とは、みずからに固有な共通の限界をもつ、いくつかの傾向にすぎない。……では生命は?……生命とは一連の作用と反作用だ……生きているときは、僕は塊をなして作用し反作用する。……死ねば、無数の分子となって作用し反作用する。……いったい僕は死なないのか?……いや、確かに、この意味では、僕もどんなものも死にはしない。……生まれ、生き、滅びるとは形を変えることだ。……一つの形だってほかの形だってかまうもんか。どんな形にも固有の首尾(しゅび)・不首尾があるものだ。象から綿虫に至るまで……綿虫から万物の根原たる感性あり生命ある分子に至るまで、全自然のなかで、苦しみもせず喜びもしないものは一点もないのだ。」

「(長い沈黙ののち、ド・レスピナッス嬢は夢想から我(われ)に返り、次のような質問をして医者をも我(われ)に返らせた。)
 とんでもない考えが浮びましたわ。
ボルドゥー  どんな考えです?
レスピナッス嬢  おそらく男は女の畸形(きけい)にほかならないし、でなければ女が男の畸形にほかならないっていうんです。
ボルドゥー  もし次のことをご存じだったら、その考えはもっとずっと早くあなたの頭に浮んだでしょうな。というのは、女も男にあるすべての部分をそなえていて、唯一の相違は、袋が外にぶら下っているか或は袋が内側にまくれこんでいるかであり、女の胎児は見違えるばかり男の胎児に似ていますし、時に見誤りをひきおこす部分は、女の胎児にあっては内側の袋がひろがるにつれて窪(くぼ)んでゆきます。けれども、その部分は、始めの形を失うほどには消えず、始めの形を小さな規模で保(たも)ちます。それは同じ運動をすることができ、また肉欲の動機でもあります。それは、みずからの腺と包皮をもっており、その先端には後でとざされた尿道の穴であったと覚しき一つの点が認められます。また、男にも肛門(こうもん)から陰嚢(いんのう)にわたって会陰(えいん)と呼ばれる隙間(すきま)があり、陰嚢から男根の先端までの間に仮縫された陰門の再来かと思わせる縫目があります。過度に発達した陰核をもっている女には髯(ひげ)があり、宦官(かんがん)には髯が少しもなく、その腿(もも)はふとくなり、腰は朝顔形にひろがり、膝は丸味を帯び、男性特有の構造を失うことによって宦官は女性特有の形状に逆戻りするのです。アラビヤ人のうちでも乗馬の慣習のため去勢された男たちは髯を失い、か細い声になり、女の服装をして、車の上で女たちの間に伍(ご)し、小用をするためにうずくまり、女の風俗や習慣を見習います。……ところで、だいぶ本題からそれましたな。(中略)
ダランベール  レスピナッスさんに何やら卑猥(ひわい)なことをいっておいでのようですな。
ボルドゥー  科学の話をするときには術語を使わなければなりませんからね。」






























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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