ジャン・ルーセ 『フランス・バロック期の文学』 伊東廣太・齋藤磯雄 他 訳 (筑摩叢書)

「キルケは、これまた変身しつつある、あるいは分裂を続ける人間、多様な自我の間で幻惑し、現実と外観の間を、仮面と真実の顔の間を揺れ動いている人間の姿に象られた変身の宇宙の変りゆく姿、不安定な本体の世界を象徴している。キルケとその同類、女魔術師と妖術師たちは、十七世紀初頭のヨーロッパの遊戯と夢想の中に群がりはびこって、宮廷バレーの道化と牧歌劇の妖術によって、芝居と装飾に過ぎないこの世界ですべては動きであり、転変常なきもの、幻である、と宣言する。」
(ジャン・ルーセ 『フランス・バロック期の文学』 より)


ジャン・ルーセ 
『フランス・バロック期の文学』
  
伊東廣太・小川茂久・神沢栄三・齋藤磯雄・齋藤正直・渋沢孝輔・高田勇 訳
筑摩叢書 162

筑摩書房
1970年4月10日 初版第1刷発行
1985年7月15日 初版第3刷発行
iv 435p 索引7p
別丁口絵(モノクロ)12p
四六判 並装 カバー
定価1,900円
装幀: 原弘



本書「訳者あとがき」より:

「本書は Jean Rousset: La littérature de l'âge baroque en France, José Corti, 1953 の全訳である。」
「著者ジャン・ルーセは一九一〇年ジュネーヴに生まれ、現在ジュネーヴ大学の教授であるが、(中略)バロック文学の研究家としてばかりでなく、いわゆる〈新批評(ヌヴェル・クリティク)〉の代表的な批評家の一人としても有名である。」



ルーセ フランスバロック期の文学 01


目次:

序論

第一部 変身から変装へ
 第一章 妖女あるいは変身(宮廷バレー)
  一、異常な世界
  二、キルケ
  三、動く世界
  四、バレーをめぐる余談
  五、プロテウス
  六、二重の存在
  七、さかさ世界
  八、世界は一個の劇場である
 第二章 移り気と逃避(牧歌劇)
  一、処世のかがみ
  二、魔法使と変身
  三、移り気な登場人物
  四、移り気礼讃
  五、神秘的牧歌劇
  六、イラスの後裔
 第三章 変装とまやかし(悲喜劇)
  一、一六三〇年の演劇
  二、狂気と変装
  三、心もとなさと疑惑
  四、瓜二つと一人二役
  五、劇中劇
  六、新しい美学について
  七、プロテウスの再登場

第二部 動的な生命
 第四章 死のスペクタクル
  Ⅰ 身の毛のよだつスペクタクル
  一、残酷劇
  二、処刑の庭
  三、ゴシックの残存物?
  Ⅱ 優雅な死から陰気な夢へ
  一、死のイメージ
  二、ロンサールと死
  三、死の詩人たち
  四、死の夢
  五、不吉な光景
  六、痙攣する死
  七、動的な死
 第五章 焰と泡(束の間の生と動きつつある世界)
  一、スポンドからパスカルへ
  二、焰と雪と
  三、雲と虹
  四、はかない生: 泡
  五、動きつつある人間
  六、ベルニーニ対パスカル
 第六章 動きつつある水
  一、湧水
  二、プレシューとベルニーニ流
  三、夢想
  四、泉水
  五、水の間での対話

第三部 バロックについて
 第七章 バロック形式(美術におけるバロックについて)
  一、バロックの泉
  二、ルネッサンスからバロックへ
  三、ファサード
  四、ファサードの優位
  五、内部の炸裂・卵形の平面・ルネッサンスからバロックへ
  六、絵画
  七、バロックの領域
  八、フランスとバロック
 第八章 文学におけるバロック
  一、バロック的作品を検証する規準
  二、既知のものとなった命題の要約
  三、実験例
   (一)隠喩の一典型: 「翼のあるヴァイオリン」
   (二)詩の一典型
   (三)ある詩業の全体: マレルブ
   (四)ある劇作の全体: コルネイユ
   (五)バロック的態度・見せびらかし
 第九章 結論
  一、概括
  二、バロックの逆説
  三、バロックの世紀
  四、前バロック期
  五、フランスとヨーロッパ
  六、イエズス会修道士の役割
  七、バロックとプレシオジテ
  八、バロックと古典主義
  九、ラシーヌ
  十、タルチュフについて
  十一、バロックとロマン主義
  十二、バロックの時


訳者あとがき
索引



ルーセ フランスバロック期の文学 02



◆本書より◆


「序論」より:

「この論文を書いたそもそもの動機といえば、ドレスデンのツヴィンガーの、華やかで流動的な夢の国を見たり、エルベ河の大湾曲部を俯瞰する一連の壮麗な正面(ファサード)や、円天井に接し、いわば電撃的衝動をうけたからである。私のこの傾倒ぶりはくずれ去るどころか、バヴァリアやオーストリアの寺院を見ていよいよ強固なものとなり、ついにベルニーニのローマと接触するにおよんで確固たる愛情となって定着sちあのである。かくて近かれ、遠かれ、何によらずバロックに関する不変の趣味が養われ、それがしだいに文学上のバロックの問題におよんできたのも、ごく自然のなりゆきといえよう。」
「この調査では、手はじめに次のことを明らかにしなければならないだろう。大体において、一五八〇年から一六七〇年まで、つまりモンテーニュからベルニーニに至る一時代全体がこの時代特有の一連のテーマ、即ち、変化、不定、まやかしとよそおい、陰惨な光景、束の間のいのち、変動する世界、等々の検討にふさわしい期間だということである。これらのものは、この時代の想像を支配していたと思われる二つの典型的表徴に肉化されているのを見る。キルケと孔雀、つまり、変身と見せびらかし、運動と装飾である。これらのテーマ、これらの表徴は、古典主義ないし前古典主義の理念と合致せず、いわんやロマン主義のそれとはいっそう相容れぬものである。それゆえ新らしいカテゴリーに助けをもとめることが正しいみちなのである。」
「そもそも、バロックとは何か? 美術から文学芸術への正しい移行の条件とはいったいなんであるか? そこで問題となるのは、ベルニーニ、ボロミーニ、ピエトロ・ダ・コルトーナのローマ建築である。なぜなら、われわれはただこれからのみ、バロックの純粋にして異論なき定義を期待できるからである。ローマ建築は典型的バロック作品の規準を提示する任務を負っている。このようにして十分な普遍性を備えるまでにまとめあげられたこれらの規準は、やがて非造形芸術への尺度の役目を果してくれるだろう。」
「本書における論議の重点は、何よりも先ずフランスに関係してくる。しかし、バロックはヨーロッパ的な運動である。その源泉と活動の中心は外国にある。外国ではバロックの開花に最小限の抵抗をうけたにすぎぬ。この事実をふまえ、外国の文学芸術、とりわけイタリアのそれに眼をそそぎつづけることが肝要である。フランスはといえば、混声合唱団のなかの一歌手しかすぎない。だがフランスのそとで光芒を放つこれらの美術や文学はあくまで比較、参考のためのものである。ねらいの軸は、一瞬たりともフランスの問題、十七世紀フランスであることを忘れてはならぬ。
 十七世紀フランスといっても、ここで問題となるのはその一断面であって、その全体像ではない。従来の解釈にとって代るものであったり、それらを無効にする新たな原則を打立てるつもりはない。むしろそれは見方を変え、伝統的、歴史的規準に幅をもたせ、時代の複雑性をよりよく示してくれる照明で、この世紀にたいするわれらの影像を豊かにしようというのだ。この研究の結論が容認されたからといって、「古典主義」の十七世紀は決して曖昧にもならなければ、へりもしないだろう。それは従来より均質でもなく、直線的でもないように見えるかも知れない。一色に、漸進的発展しつつあった世紀の代りに、平行したり、前後したり、交錯したりするいくつもの十七世紀の展開が見られるであろう。これをふまえてこそ、バロックにおける活動的な酵母と必要な成分のねうちが認められるであろう。」



「第一章」より:

「プロテウス、それは自分が変化しない限り生きられない人間である。つねに動き、逃げるのは存在するためだと心に誓い、たえず自分からの離脱をはかる。彼の関心は自己を放棄することである。(中略)それは(中略)継起する見せかけの産物であることを意味する。
 それはイエズス会修道士、ドイツ人バルデの次のラテン語の詩にも現われている。

  われらが生は誘拐と遁走にあけくれる
   われら自身のぬすびとである。
  永遠に新らしいよわいを装うも
   決してわれら自身ではなく
  しかもつねにわれら自身である。
   日ごとにことなり、刻々に変る
  かわれ、かわれ、おお、うるわしの
   プロテウス……

 イエズス会修道士がもうひとり、プロテウスの助力を求めている。それはスペイン人バルタザル・グラシアンである。彼はある小説のなかで廻り道をしながらわれわれをそこへ導いてくれるが、それは一見、宮廷バレーとは縁のないように見える作品である。ある無人島から着いたばかりの小説の主人公ふたりがある世界と接触を保つ。そこは宮廷バレーにおけるがごとく、怪物や妖怪やグロテスクなやからのうごめく偽装と幻影の世界である……新たな怪物が彼らの前に現われた。彼らはべつに驚きもしない。この世界では、もろもろの怪物のなかの一匹にすぎないからだ。彼らは彼らに向って来る一台の四輪馬車を見た。つゆ払いは一匹のキツネ、馬車を引いているのは二匹の蛇である。馬車にはとてつもない怪物、もっとはっきりいえば、もろもろの怪物が集まってひとつになった奴が乗っかっている。そいつは白いかと思えば黒く、若いかと思えば甲羅をへており、ときに小さく、ときに大きく、雄かと思えば雌、人間かと思えば動物に見える怪物である。ついにもろもろの姿で正体を現わすが、クリティロはこいつこそ有名なプロテウスにちがいないと思ったのである。
 このプロテウスはある都市を支配する王の大臣である。そこには偽善通り、虚栄通り、陰謀通りなどと呼ばれる通りがあって、ここでは何ひとつ見かけ通りのものはない。どれもが他のもの似てくる欺瞞のまち、住民はすべて仮面をつけ、物そのものさえ舞台の小道具のように見える演技的な町である。麦粉のパンかと思えば木片、果物かと思えば色のついた樹皮、盃から酒を呑もうとすれば出てくるものは風ばかり。この国の王はその大臣相応の似たものコンビである。醜怪のかたまり、およそ体裁も釣合もとれぬ肉塊、半分が蛇、半分がラクダ、そして人魚の尾っぽをつけている。それが『多形のプロテウス』、背中を向け、鏡の力を借りなければ見ることのできないほどそれほどうまく変装した『欺瞞の王』なのだ。「万物は裏面からのぞいてみてはじめて実相がわかる」からである。世界が裏返しのとき、それを正常の位置にもどそうとすれば鏡をのぞくほかはない。宮廷バレーはその鏡のひとつである。」

「これらふたつのものが重り、あるいはふたつのものが一重に見える存在、反射的に変ったり、自己と反対なものを生み出すこれらの人物、あらゆる定型と訣別するために絶えず自己解体をもくろむこれらすべてのプロテウス、彼らの機能はいったい何んであろうか?
 われわれをいかなる世界にみちびく使命を持っているのだろうか?」

「狂気のバレーは無数だが、いずれも同工異曲であり、その言わんとするところは、つぎの言葉で要約される。

  われは瘋癲、われもし賢者たらんか

  よき賢者たらんには、よき風てんたらんことを
  曰く、うまく賢者を演じるものは風てんのみ

 そして観客に呼びかける。

  ……狂人をあなどってはいけません、
  諸君もみんな、なかば狂人ですぞ。

 万人は狂人である。狂気を通ってこそ、英知への近みちは見出される。「人間は必然的に狂人である。狂人でないということも、べつの狂気の廻りみちをする狂人であるほどである。」(パスカル)
 対照物同士が合体し、老人が青年に変り、女が男を装うのも、すでにいくどか見てきた同じ変形の原則による。
 この点で、ここに典型的といえるバレーがある。それは『変身のバレー』である。魔術師と星占い、つづいて哲学者、医師、巾着切り、毛織工、いかさま師、たばこのみ、とそれぞれにおのれの職業をほこり、こぞって愛を軽蔑する。侮辱された愛の神は復讐をちかい、彼らをたがいに反対の者に変えてしまう。

  きみたちのうちの賢者も
  いまにほんとの狂人となるだろう。

 そこで哲学者は巾着切りに、星占いはいかさま師に、魔術師はたばこのみに、巾着切りは哲学者となって現われるのが見られる……。
 こうした道化の裏には、ひとつのこの時代特有の考えかたがひそんでいる。すなわち、モール人は見かけほど黒くはない、哲学者も巾着切りと大差はない、狂人こそ真の賢者である、変装者はひとの考えるようなものではない、真実はそれ自身に反したところにある。真実はその実体を、その影に見る。だから鏡の御殿に閉じこめられた人間は、鏡のたわむれで錯乱し、己れの真の姿を現わしてしまう。とどまることを知らぬ運動により、不断の「逆転倒置」により、両分され、分解される。
 題名も趣旨も意味深長な『さかさ世界』というバレーが描いている真実もまた同様である。

  これがそのさかさ世界、そこでは
  誰もがその役割を演じている……。

 貴族がその従僕に仕える
 狂人が哲学者に学問を教える

  旦那、わしが狂人なら、あなたは
  哲学者、ふたりの帽子は同じ生地
  のうらおもて。

 生徒が先生を鞭でたたく、

  さかさ世界の栄光は
  秩序と様態に変化を与え
  すべてを驚愕のなかに宿らせる。

 病人が主治医の処方をする。
 女房が亭主をひっぱたく。
 めくらが目あきの道案内をする。
 兵士が糸をつむぎ、女房が武器を取る、等々。
 バレーは『夜』と『太陽』の踊りで終幕となる。夜は明るく、太陽は闇をひろげる。
 同様な顛倒が『仮面の仮面』のなかにも見られる。ここでは神々が道化者に、アレキサンドロスとカイサルが奴隷に、十二人の恐ろしげな巨人が愛くるしい小娘に、『勇気』が『恐怖』に、『七賢人』が『気違い病院の狂人』にそれぞれ姿を変えている。

 世界は裏がえしか、顛倒せんばかりに動揺し、『よろめく』。現実は舞台の道具立のように不安定で幻覚的である。人間もまた決してあるがままの通りでもなければ、見せかけの通りのものでもないという確信から、平衡を失い、マスクの下からちらちら顔をのぞかせるが、演戯が巧みでどれがほんとうの顔か、マスクか見わけがつかない。
 『豪勇』を『恐怖』に、『英知』を『狂気』に偽装するとき、宮廷バレーはその手に負えぬ真理を茶化しながら吐露している。すなわち、舞台と書割にほかならぬ世界において人間は仮装であると。この真理はのちに、グラシアンやラ・ロシュフーコーやコルネイユ、パスカルなどが――それぞれ独自の意図と調子をもってふたたび取りあげるため、それに一層の厚みと鋭さが加わるのである。」



「第八章」より:

「バロック的作品を検証する規準

 今やわれわれはバロック的作品をつくりあげている本質的特徴を掌中におさめたわけであるが、それを図式化するならば次の四項目に要約される。
一、不安定
  後に再びそれが回復されるまで、今まさに解体されようとしている均衡の不安定。
  膨張したりあるいは砕け散る表面の不安定。次第に消えてゆく形の、曲線や渦線の不安定。
二、動性
  観客自らその位置を移動させて、作品に対する視点(多元的ヴィジョン)をふやすように要求する動く作品の動性。
三、変身
  より正確には、まさに変身を遂げようとしている多様な形を具えたひとつの全体のかもしだす動的な統一性。
四、装飾の優位
  すなわち機能が装飾に支配されること。捉えどころのない外観をした網目、幻覚の戯れが構造にとって替ること。」

「既知のものとなった命題の要約

 この著作の初めの数章は、モンテーニュからベルニーニに至る時代のいくつかの比喩表象やテーマを検討して次の点を明らかにした。
 (一)キルケとプロテウス、それはオペラの前身である宮廷バレーや仕掛け芝居に現われた変身や動く宇宙や倒錯した世界に君臨する多様な姿をした神である。
 (二)牧人劇における移り気、見せかけの感情、多様な仮面をつけた心。その牧人劇は不安定と動性の心理学を編み出し、(中略)現実の自分ではないものに見せかけ、己を装飾として作り上げることに腐心している人物を登場させる。
 (三)悲喜劇における変装、まやかし、劇中劇の鏡の効果。悲喜劇では舞台が絶えず動き、己がまとっている外観とは違った形へと常に移り変ろうとしている故に己自身に対して信をおけない主人公が幅をきかせている。
 (四)死は、一方では陰気な装飾の流行をもっともなものと感じさせ、生を死の仮装した姿とし、死を生ける姿に作りなす劇的な光景として演ぜられる。
 (五)他方では、生と死は捉えがたい生を歌う多くの詩人にあっては、水、焰、球と泡、雲と風のイメージをまとって現われる。彼らは生を忽ち消えてゆく蜃気楼、移り変る外観のたゆたいのように扱っているのである。モンテーニュからパスカルやベルニーニに至るまで、人間は変化、仮装、移り気や運動のような言葉で定義されてきたのである。」



「第九章」より:

「バロック的逆説が存在することをよく見極めなければならない。バロックはその奥底に完成された作品に対する敵意の芽を育んでいるものである。あらゆる安定した形の敵であるバロックはデーモンに駆り立てられて、常に己を超え、一つの形を完成するやすぐにそれを破壊して他の形に向って進むように強いられている。どんな形でも堅固さと停止を必要とする。しかるにバロックは運動と不安定によって定義されるものである。従ってバロックは次のような矛盾の前に立たされているように見える。つまり、バロックたることを否定して一箇の作品として自己完成を成し遂げるか、あるいはあくまで作品に抵抗して本来の自己に忠実にとどまるかっである。」

「古典主義的な物の観方に育まれた精神がバロックの中に無秩序、「不規則」あるいは未完成しか認めることができないのはうなずける。われわれはここで、たとえバロックが一般に規則を拒み、自らを改新者、近代主義者と宣言していることが事実であっても、バロックにもまたそれ自身の法則があり、バロックの成功した作品はそれなりに有機的な構成を持ち、「完成された」ものであることを示そうと努めたのである。」

「われわれは、旋回し、外部へと爆発するベルニーニ的、ルーベンス的バロックと並んで、より内面に沈潜し、より瞑想的で静かなレンブラント的バロックを認めることができるのではないだろうか。しかし、われわれは矛盾をおかすことなしに内面的バロックというものを問題にすることができるであろうか。バロックは反バロックをすでにその内部に秘めていたのではないであろうか。事実自己を離れ、自己を否定してゆくのがバロックの本質である。
 バロックは多様である。バロックというものは、それを捉えれば消え去り、プロテウスのように新しい姿をして再び現われるのがその本質なのである。その定義そのものがそれを定義することに抵抗することを要求しているのである。」

「バロックはロマン主義と同じものではない。(中略)バロックは仮装と装飾の中にその真実を探し求め、ロマン主義はあらゆる仮面に対して戦を宣告する。ロマン主義が裸にするものをバロックは飾り立てる。バロックの自我は外に現われた内密な心であり、ロマン派の自我は孤独の中に啓示される秘密である。バロックは存在を外見の方向へ移動させようと努め、ロマン主義は存在の奥底の辺りの襞を表現する。バロックは演劇によって、ロマン主義は告白によって己を表現する。」


































































































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植田祐次 訳編 『フランス幻想民話集』 (現代教養文庫)

「そのとき、昼間は死んでいる地獄に堕(お)ちた人々が、マリウッチャが歩いたのとは反対側の道からやってくるのが見えた。
 「なんということだろう、あの人たち全部が呪われているなんて」と彼女は思った。それから彼女はその不幸なすべての人々に混じって、地獄へ入っていった。」

(「十字架の護符」 より)


植田祐次 訳編 
『フランス幻想民話集』
 
現代教養文庫 1047/D 597

社会思想社 
1981年4月30日 初版第1刷発行
1982年8月30日 初版第3刷発行
222p
文庫判 並装 カバー
定価360円
カバー絵: ベルナール・ルエダン



本書「あとがき」より:

「なお、訳出に当って使用したテクストは、(中略)Les littératures populaires de toutes les nations, paris, G.-P. Maisonneuve & Larose, 1881-92, 30 vol. であるが、この叢書はこの三十巻のほかに増補版とも言うべき四十七巻が一八八一年から一九〇二年にかけて刊行されている。」


フランス幻想民話集


カバーそで文:

「「けものが話し、石が歩いていたころのこと、不仕合せな者に思いやりのある一人の美しい仙女がいた――」(「仙女の恋」より)
 なんと奔放で、詩情にあふれた書き出しであろうか! 読者は否応なく、無限にひろがるファンタジーの世界に誘い込まれてしまう。
 本書は、フランスの各地で、人々によって語りつがれた民話の中から、幻想的なはなしを拾い、まとめたもの。あなたを、恐ろしくも美しい夢の国へご招待いたします。」



目次:

恋人たち
 心臓を食われた恋人
 ナイチンゲールを恋した娘
 マリア
 許婚(いいなづけ)
 愛の残骸
 仙女の恋
 司祭とその恋人
 煉獄からの復讐
 生首
 フィアンセの亡霊

悪魔
 コケットな娘と悪魔
 娘たちにつきまとう悪魔
 フージュレの医者
 十字架の護符
 妖術師見習

領主
 フルート
 青ひげ
 四季精進日の夜
 妖怪狼(ルー=ガルー)になった領主
 不信心な領主
 神罰
 レオナルド伯爵の財宝

求道者
 行者と羊飼いの娘
 死なねばならぬ
 袋に入れ!

死者
 真夜中の葬列
 シャントルーの鐘つき
 黄金の足
 大食いの娘
 生首に変ったパン

亡霊
 死者のミサ
 けちんぼうな女
 亡霊のミサ
 水晶の城

あとがき




◆本書より◆


「ナイチンゲールを恋した娘」より:

「ある女にベッラドナという名の娘がいた。この娘の可愛らしさときたら、類(たぐい)まれだった。
 この娘が生まれたとき、仙女たちがあらゆる種類の贈物をしてくれたが、その中でもとりわけ、娘が望みのものに変身できる魔力の贈物があった。
 ある日、ベッラドナは母親にいった。
 「ママン、わたし結婚したいの」
 (中略)
 「毎朝、柘榴(ざくろ)の木の上で歌っているあのナイチンゲールと結婚したいの」
 「ナイチンゲールと結婚したいですって。いったいおまえは気でもふれたのかい、それともわたしをからかっているのかい」
 「本気よ。好きな鳥と結婚しなければならないの」
 母親は気の毒にもすっかり途方に暮れてしまった。
 「ねえ、いいかい、おまえ。おまえを幸せにしてくれる、やさしい、美しい、お金持の人を選びなさい。おまえが一緒に暮らしていける方と結婚しなさい」
 「わたしの考えを変えようなどとしないで。わたしはナイチンゲールがいいの」
 「ああ、おまえは木々の間を駆け回りたいのかい。その鳥のあとをどこへでも付いていくには、おまえは大きすぎますよ」
 「わたしはナイチンゲールにだって姿を変えることができるわ」
 母親はうまく娘を説得できないと悟ると、娘が何かに姿を変えて家を出ることを恐れ、娘を部屋に閉じ込めて鍵を二度回して錠をかけた。
 ある日、母親が近在の祭に遊びにくるよう親戚の女に招かれたので、ベッラドナは屋敷の礼拝堂付司祭の手もとに預けられた。
 母親が出かけると、娘はいった。
 「司祭さま、やさしい司祭さま。門の前にあるあのきれいな柘榴の実を一つ摘ませてくれませんか」
 「いいや、お嬢さま。あなたのお母さまが、あなたを勝手に外へ出すことをかたくお禁じになられたのです」
 「では、わたしに食べさせるために、せめて司祭さまが摘んでくださいな」
 「それなら、結構」
 司祭はベッラドナのいる部屋の戸を開けた。
 娘はすぐに心の中で言った。「蠅(はえ)になれ」
 すると、たちまち娘は舞い上がり、家から出ていった。
 いったん外に出ると、自分がしとやかな女であることを思い出して、またいった。
 「ベッラドナになれ」
 すると、彼女はふたたびもと通りになった。
 それから娘は、愛するナイチンゲールを探して野原を駆けていった。
 戻ってみて、ベッラドナの姿が見えなかったときの司祭の驚きようはたいへんなものだった。
 「何に姿を変えたのだろう」と司祭はつぶやいた。
 司祭はいたるところ探し回ったが、空しかった。
 (中略)
 司祭は家出娘を探しに出かけた。一日中歩き回っても娘を見つけられなかったが、ようやく川辺で休んでいる娘の姿を見つけた。
 「ベッラドナ、ベッラドナ、こわがらなくてもよいのだ。お母さまはあなたを許してくださった」
 娘は司祭を見ると、鰻(うなぎ)に姿を変え、川の中に飛び込んでしまった。
 司祭は川辺に近づいて探したが、川の中をのぞき込むと、ぐるぐる泳ぎ回る一匹の鰻が見えるだけだった。ベッラドナの影すらなかった。
 夜が近づいてきたので、屋敷に戻り、母親にいった。
 「川のほとりでお嬢さまに会って話しかけさえしたのですが、わたしを見るなり不意に姿を消し、どこへ行ったのか分からなくなりました。鰻が一匹だけ水の中で遊び回っていましたが」
 「それでは、その鰻が娘だったのです。もしあなたがつかまえていてくれたら、娘はもとの姿に戻っていたでしょうに」
 司祭はまた出かけていった。
 広い平野があり、それがベッラドナだということが分かった。
 司祭が急いで駆けていくと、平野は人跡未踏の森林に変った。哀れな司祭はその中で道に迷った。
 司祭はやむをえず屋敷に戻って、一部始終を話した。
 「もしあなたが森の木の枝をつかんでいてくれたら、ベッラドナはあなたに付いて来ざるをえなくなり、わたしたちは娘を手もとに置くことができたでしょうに」
 司祭は三度(みたび)、出かけていった。
 ある村の入口に礼拝堂が眼に入った。そのすぐそばで一人の主任司祭が聖務日課書を読んでいた。
 「つい今しがた、ここを若い娘が通るのを見かけませんでしたか」
 「今はミサを行っているところでな」
 「そんなことをたずねているのではありません。娘さんが通るのを見かけましたか」
 「中にお入りなさい。まだ間に合う」
 「おまえもおまえのミサも、悪魔にさらわれてしまえ」
 司祭はベッラドナの母親の方へ戻っていった。
 「あなたは何を見たのです」
 「礼拝堂と、そのすぐそばで聖務日課書を読んでいる司祭を見ました」
 「それでは、その司祭が娘だったのです。もしあなたが娘をつかまえていてくれたら、娘はあなたに付いて来ざるをえなかったでしょうに」
 「あの司祭のもったいぶった態度ときたら……」
 「お黙りなさい。あなたはなんの役にも立たない。わたしが自分で出かけます」
 そういって、女は出ていった。
 三日以上も歩いたあげくに、ベッラドナの母親は、娘が一本の木の下に坐って愛するナイチンゲールに話しかけているのを見つけた。
 恋する美しい娘は発見されたと知ると、ばらの木に姿を変えた。
 だが、今度ばかりは娘にも運がなかった。母親は花が満開に咲き乱れているそのばらの木をつかまえると、屋敷へと戻っていった。
 戻る道すがら、ナイチンゲールが悲しげに歌うのだった。

   《わたしに妻を返しておくれ。
   ふたりは永遠に結ばれている。
 婚礼では、花嫁に付添う娘は雲雀(ひばり)、
 かわらひわ と百合の花が二人の立会人だった。
   わたしに妻を返しておくれ。
   ふたりはたがいに恋しあっていた。
 このひとの心とわたしの心はただひとつ、
 このひとが死ねば、わたしも死ぬ》

 しかし、ベッラドナの母親は耳を貸そうとしなかった。母親は、友だちの仙女からもらったある水で急いで娘の魔法を解こうとあせりながら、相変らず屋敷へ向かって歩いていった。
 けれども、ばらの木は死にかかっていた。花びらが一枚、そして一枚、また一枚と途中で落ちた。それにつづいてほかの花びらも落ちた。母親が家に着いたとき、ばらの木はもうすっかり枯れ果てていた。
 ナイチンゲールは妻のあとを追って離れなかった。三日のあいだ、毎朝その鳥は悲しげに柘榴(ざくろ)の木の上で鳴いていた。
 四日目になって、ナイチンゲールは歌わなくなった。彼もまた苦しみのあまり死んでしまったのだった。」







































『集英社版 世界の文学 7 セリーヌ なしくずしの死』 滝田文彦 訳

「わたしは人でなしだ、それだけのことだ!」
(セリーヌ 『なしくずしの死』 より)


『集英社版 
世界の文学 7 
セリーヌ』 
なしくずしの死 
滝田文彦 訳


集英社
1978年10月20日 印刷
1978年11月20日 発行
564p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 丸背布装上製本 貼函
定価1,500円

月報《33》 (2p):
権力は直撃する(長谷川龍生)/訳者紹介/次回配本



二段組。


セリーヌ なしくずしの死 01


帯文:

「集英社版 世界の文学 第33回配本 ⑦セリーヌ
なしくずしの死
滝田文彦訳
パリ貧民街で繰り返される不幸と怒りの日々。
おぞましい貧困、
すべてが狂気の沙汰だ。
人間社会全体に憎悪と呪詛を投げつけた
セリーヌの衝撃的作品『なしくずしの死』を収録。
定価=特大巻1,500円」



帯裏:

「『なしくずしの死』(一九三六年)
貧しい両親は、わたしを育てるために必死になって働かなくてはならなかった。母は祖母の店で売子として働き、父は勤め先の保険会社で上役にどなられてばかりいる。一家にとってわたしは厄介の種。父はわたしの欠点を数えあげ、豚野郎!…不潔なガキ!…四六時中平手打ちを食わす。やがて学校を卒業して人生を始めるときがきた。奉公先の洋品店ではまたしてもいざこざと中傷、そして失業。次に小さな彫金屋に就職するが、そこでもまた盗みの疑いをかけられる。「こいつは泥棒になるくらいじゃおさまらないぞ、人殺しになるぞ! いつの日かおれたちを殺(ばら)してくれるさ」と、父。母は呪われた子を悲しく諦めるが――パリ貧民街の開業医フェルディナンが回想する、貧困と抑圧にあえぐ悪夢のような日々。

セリーヌ
LOUIS-FERDINAND CÉLINE
(一八九四~一九六一)
パリ近郊で生まれる。父は保険会社の下級社員、母は露店商。小学校卒業と同時に見習店員として働き、独学で医師免状を手に入れる。第一次大戦に従軍し重傷を負い、強い反戦思想をもつようになる。復員後パリの場末で医者を開業。三二年、自伝的小説『夜の果ての旅』を発表し、衝撃的な内容と革新的な文体で、文壇の注目するところとなる。以来、医業のかたわら執筆を続けたが、第二次大戦で戦犯の罪に問われ、投獄。五一年に出獄したものの、文壇からは黙殺され、不遇と貧困のうちに世を去った。」



セリーヌ なしくずしの死 02


目次:

なしくずしの死 (滝田文彦訳)

解説 (滝田文彦)
著作年表



セリーヌ なしくずしの死 03



◆本書より◆


「こうしてわれわれはまたも孤独だ。すべてはこんなにも遅く、重く、もの悲しい…… もうじきわたしは年をとるだろう。そしてついにはこれも終りになるだろう。わたしの部屋にはおおぜいの連中がやって来た。やつらはいろいろなことを言った。たいしたことじゃなかったが。そして出ていった。やつらはめいめい世界の片隅(かたすみ)で年をとり、惨めで、のろくなった。
 昨日、八時に、門番のベランジュ婆(ばあ)さんが死んだ。夜のあいだに大嵐(あらし)が起る。われわれの住んでいるてっぺんの方じゃ、家は震える。彼女はやさしくて、親切で、信頼がおける友だった。明日、ソール街で埋葬がある。本物の年寄りで、まったくよぼよぼの婆さんだった。咳(せき)をはじめた最初の日、「とにかく横になっちゃだめだ!…… 寝床で坐ってるようにしなさい!」と、言ってやったものだ。あぶないとは思ってた。たら、とうとう…… でもまあ、仕方がない……
 医者というこの糞(くそ)おもしろくもない商売を、わたしはずっとやっていたわけじゃない。ベランジュ婆さんは死んだと、わたしを知っていた連中、婆さんを知っていた連中に手紙を出すつもりだ。やつらは今どこにいる?……
 わたしは嵐がもっともっと荒れまくり、家々の屋根が崩れ、春がもう帰ってこず、この家が消え失せればいいと思う。
 ベランジュ婆さんは知っていた、悲しいことはみんな手紙でやって来るのを。わたしはもう誰に手紙を書いていいかわからない。連中はみんな遠くにいる…… やつらの魂は変った、裏切り方、忘れ方がうまくなり、いつもほかのことをしゃべっていられるように……
 年とったベランジュ婆さん、誰かが来てやぶにらみの彼女の犬を引き取り、連れていってしまうだろう……」
「臨終まぎわには、門番の婆さんはもうなにも言えなかった。息がつまり、わたしの手をにぎって引きとめていた…… 郵便配達がはいってきた。彼は婆さんが死ぬところを見た。ちょっとしたしゃっくり。それでしまいだった。昔は、おおぜいの連中がわたしを訪ねて、彼女のところへやって来た。彼らはみんな遠く、はるか遠く忘却の中に、魂を求めて行ってしまった。郵便配達は制帽を脱いだ。わたしは憎悪をぶちまけてやることもできるだろう。わかってる。もっと後で、もしやつらが帰ってこなかったらそうしよう。それより話をするほうがいい。やつらがわたしを殺しに世界の隅々から、わざわざもどってこざるをえないような話をしてやろう。そうすればこいつにも片がつき、満足が得られるというものだ。」

「わたしの悩みは睡眠だ。もしいつもよく眠れたら、一行だって書きはしなかったろう……
 「きみもなにか楽しい話を書けばいいんだ……たまにはな……」、それがギュスタンの意見だった、「人生ってのはそんなに汚いことばっかしじゃないさ……」ある意味ではそれはかなり正しい。わたしの場合には、一種の偏執、偏見がある。」


「だが、一族でいちばん無能なのは、まちがいなくロドルフ叔父であり、完全に頭がおかしかった。人が話しかけると静かにくすくす笑った。自分で質問して答えていた。それが何時間もつづくのだ。彼は戸外でしか暮したがらなかった。一度として、どんな店にも、事務所にも、番人や夜番としてさえ働いてみようとしたことがなかった。屋外で、ベンチの上でものを食べるほうが好きだった。屋内には不信を抱いていたのである。ほんとうに腹が減ってたまらなくなると、わたしたちの家にやって来た。夜、あらわれた。ということは、万事が巧くゆかなかったということだった。
 《荷物運び》、それが駅での彼の臨時収入だったが、(中略)彼はそれを二十年以上もやった。」
「彼はルピック街の《ピュイ=ド=ドームの待ち合わせ》という名の、中庭に面したぼろ屋に住んでいた。持物を床に並べて、椅子もテーブルも一つもなかった。〈万国博覧会〉のとき、彼は〈南仏吟遊詩人(トルーバドゥール)〉になったことがあった。張りぼての居酒屋が並んだ河岸に立って、《古きパリ》への呼び込みをやったのである。あらゆる色のぼろ布をつぎはぎにした、キルトをはいて。「さあさあ、《中世》をごらんなさい!……」彼は怒鳴りまくり、ばたばた足踏みをして身体を暖めた。(中略)事態がますますめんどうになったのは、叔父が《自堕落な女》とくっついたことである――ロジーヌというその女は、厚紙に色を塗ってつくった穴倉の酒場の、別の入口で呼び込みをやっていた。かわいそうに、その女はすでに肺を吐き出すような咳をしていた。そいつは三ヵ月とつづかなかった。彼女は《待ち合わせ》の彼の部屋で死んだ。ロドルフは女が運び去られるのを欲しなかった。戸に錠を下ろした。毎晩、女のそばに寝にもどった。悪臭のため、みんなが気づいた。で、彼は激怒した。事物が滅びることを理解しなかったのである。無理やりに人々は彼女を埋葬した。」
「とうとう彼はアンヴァリードの広場(エスプラナード)の真前で、見張りの役にもどったが、わたしの母は怒っていた。「カーニバルの仮装みたいな格好をしてさ! この寒さだというのに! まったく恥知らずだよ!」母を特に苛々させたのは、彼が外套(がいとう)を着ないことだった。彼はわたしの父さんのやつを一着、ちゃんと持っていた。わたしは様子を見に行かされた、というのはわたしは子供なので、金を払わずに回転木戸を通り抜けられたからである。
 彼は吟遊詩人の格好をして、棚の背後にいた。満面に微笑を浮べたもとのロドルフにもどっていた。「こんちは!」と、彼は言った、「こんちは、坊や!…… わたしのロジーヌが見えるだろ?……」彼はわたしにセーヌ河よりもっと遠く、原っぱ全体……靄(もや)の中の一点を指さした…… 「見えるだろ?」わたしは「うん」と答えた。逆らいはしなかった。そして両親に安心するように言った。ロドルフってのはじつに愉快なことを考えてる!
 一九一三年の終り、彼はサーカス団にはいって行ってしまった。それから彼がどうなったかはまったくわからなかった。それっきり、わたしたちは二度と会わなかった。」


「彼女はたえずちびのジョンキンド、特別な子で《知能遅れ》の子に食べさせるのにかかりっきりだった。一口食べるごとに、まあそれに近く、いちいち世話をやいてその子を助け、きれいにしてやり、口から垂れたものをみんな拭いてやらねばならなかった。それはたいへんな仕事だった。
 その白痴の子の両親はずっとインドにいて、会いに来ようともしなかった。こんな頭のおかしい子の世話はすごく厄介で、特に食事の時なんぞは、その子はテーブルの上のあらゆるもの、小匙や、ナプキン・リングや、胡椒や、油や酢の小瓶や、そしてナイフまでも飲み込んでしまった…… 飲み込むことがその子の情熱だった…… 本物の蛇みたいにあんぐり口をいっぱいに拡げてやって来て、リノリウムの床直接に、どんな小さなものでも吸い込んでしまい、すっかりよだれで被ってしまった。そしてそれをしながらうんうん唸り、泡を吹いた。メリウィン夫人はその度ごとにそれを止めさせ、子供を物から遠ざけた、いつも非常にやさしく、倦むことを知らず、一度だって荒っぽくしたことはなかった……
 飲み込むということを除けば、その子はそんなに手におえなくはなかった。むしろ扱いやすいくらいだった。(中略)彼はごくなんでもないことにも脅えて、メリウィン夫人がいつもおなじ二言で安心させていた、「ノー・トラブル〔だいじょうぶよ〕! ジョンキンド! ノー・トラブル!……」
 彼は自分でも毎日つづけて鸚鵡(おうむ)のように、なんにでもその言葉を繰り返していた。チャタムで数ヵ月をすごしたあと、わたしが覚えたことといえばそれだけだった…… 《ノー・トラブル、ジョンキンド!》」

「ジョンキンドはまたしても羊のほうが好きで、大はしゃぎして、よろめいたりひっくり返ったりする若い羊を追っかけて走った。羊といっしょに湿った草の上に転がり、いっしょになってめえめえと鳴いた…… 楽しんで恍惚となった……本物の動物になった…… 肌までびしょ濡れになって家に帰った。」

「ジョンキンドが一人で会話をにぎやかにしていた! 《ノー・トラブル!》。彼は別の言葉も覚えていた! 《ノー・フィアー!》〔心配ない〕。それが得意で嬉しがった。ひっきりなしにそう言った! 《フェルディナン! ノー・フィアー!》と、一口食べるごとにたえずわたしに向かって怒鳴った……」


「わたしは建物の入口の穹窿(きゅうりゅう)の下に立っていた…… そこにはいつもたっぷり影があって、危険な隙間風が吹いていた…… わたしはものすごくくしゃみをした…… 考えるときそれが習慣になった…… いつもたえまなく考えた結果、わたしは父の言うことがほぼ本当だと思った…… 経験によってわかった……自分はなんの価値もないこと…… わたしは嘆かわしい性質でしかない……すごく愚鈍で、怠け者だ…… (中略)わたしは自分がすっかり無価値で、膿(うみ)がだらだら流れて不潔なように感じた…… なにをなすべきかはよくわかり、絶望的に闘っていたが、だんだんうまくいかなくなってきた…… 年はとってもよくならなかった…… (中略)わたしは真夏に腐敗し、汗と恥とに溶け、階から階へとよじ登り、呼鈴をじくじく汗でぬらし、恥も道徳心も失ったままに、完全にぼたぼた溶けていた。」

「わたしは人でなしだ、それだけのことだ!」





こちらもご参照下さい:

マルセル・ムルージ 『エンリコ』 安岡章太郎・品田一良 訳














































































































セリーヌ 『夜の果ての旅 (下)』 生田耕作 訳 (中公文庫)

セリーヌ 
『夜の果ての旅 (下)』 
生田耕作 訳
 
中公文庫 C 22-2

中央公論社
昭和53年5月10日 初版
昭和62年2月25日 三版
378p
文庫判 並装 カバー
定価480円
カバー絵: Clément Serveau による挿画より



本書「解説」(生田耕作)より:

「この翻訳は中央公論社より「世界の文学」第四十二巻として、大槻鉄男氏との共訳で刊行されたものであるが、今回「中公文庫」に収めるに当って、生田が単独に全面的改訳を施し、(中略)個人訳として発表することに改めた。」


セリーヌ 夜の果ての旅 下


カバー裏文:

「全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭け、ついに絶望的な闘いに傷つき倒れた《呪われた作家》セリーヌの自伝的小説――人生嫌悪の果てしない旅をつづける主人公バルダミュの痛ましい人間性を、陰惨なまでのレアリスムと破格な文体で描いて、「かつて人間の口から放たれた最も激烈な、最も忍び難い叫び」と評される現代文学の巨篇」



◆本書より◆


「彼女は、アンルイユ婆さんは、快活だった、不満で、垢(あか)じみてはいたが、快活だった。この不自由な暮らし、二十年以上住みついてきた不自由な暮らしも、彼女の魂になんの被害も与えてはいなかった。逆に彼女は外部に対して身構えていた、まるで、寒気も、一切の忌わしい事柄も死も、外部からしか訪れず、内部からは訪れるわけはないみたいに。内部からは、彼女は何ひとつ恐れてはいないようだった。自分の頭脳に対しては、絶対的な確信をいだいているようだった、否定しがたい、永久に了解ずみの事柄みたいに。
 僕のほうときては、自分の頭脳を夢中で追いかけまわしているというのに、それも、世界じゅう駆けめぐって。
 《気違い女》と世間ではこの女のことを、この老婆のことを噂していた、そう言ってしまえば簡単だ、《気違い》だと。彼女はこの十二年間この侘住居から三度以上外に出たことはなかった、それだけのことだ! この女にはおそらくそれなりの理由があるのだ! 彼女はなにものも失いたくないんだ……僕たちにその理由を打ち明けたくないだけだ、僕たちに人生なんかわかるものか。」


「甘い考えは捨て去ることだ、人間は互いに語り合うなにものも持ってはいない、めいめい互いに自分の苦労を口にするだけだ、知れたことだ。」


「ある日、どうした風の吹きまわしか、アンルイユ婆さんが、彼女の離れと、息子と、嫁をほっぽり出して、すすんで僕を訪ねて来る気を起こしたのだ。悪い話じゃない。それからというもの、たびたびおしかけて来ては、僕が本当に彼女を気違いと思っているかどうか問いただすのだった。わざわざ僕にそいつを詰問しにやって来ることが、婆さんにはいわば気散じになっていたんだ。いつも僕を待ち受けているのだった。」


「僕らの不安に仲間入りしたものの、司祭は僕ら四人のあとについて夜の中を進むにはどうすればいいかよくわからなかったのだ。ささやかな一味、(中略)どこを目指して進むのか? (中略)僕たちはいまでは同じ旅の道連れなのだ。この男も、司祭も、僕らのように、ほかの連中のように、夜の中を歩むことに慣れるだろう。(中略)みんなでとことん進むまでだ、そのとき初めてこの冒険の中になにを求めにやって来たかがわかるだろう。人生とはそういうものだ、末は闇の中に没した一条の光。
 そのうえ、ついにはわからずじまいかも、なにも見つからぬかも知れぬのだ。死とはそういうものだ。
 さしあたってはなんとか手探りで進むだけだ。それに、ここまで来てしまったからは、もはや退きようもないのだ。選択の余地はない。奴らの汚らわしい正義とかいうしろものが、《法律》と手を組んでいたるところに、どの廊下の隅にも目を光らせていた。(中略)僕たちはみんないっしょだった。そうなんだ、僕はさっそくそのことを包み隠さず司祭に教えて聞かせた。そして彼は理解したようだった。」
「僕らがたどりついた場所にはもはや道も光もなく、代わりにいわば慎重な行動があるだけだった、そいつを僕たちはもう一度、検討し直してみたが、それほど頼りになりそうにも思えなかった。こんなさいには気安めを言い合ってみたところで言葉は完全にしらじらしい。反響(こだま)は返ってこない、僕たちは《社会》の埒外(らちがい)にいるのだ。恐怖は賛成も、反対もとなえない。そいつは、恐怖は、僕たちが口にし考える一切をとらえるだけだ。
 こんなおりには闇野中で目を見開いたところで、なんの役にも立たない。怯(おび)え損、それだけだ。そいつは、闇は、すべてを、視覚までもとらえてしまったのだ。僕らを骨抜きにしてしまったのだ。それでも手をつないでいなくちゃならん、ころぶからだ。日向(ひなた)の連中にはもはや僕たちは理解できない。恐怖で僕たちは彼らと完全に隔てられているのだ。そしてそいつに圧しつぶされつづけるのだ。なんらかの形で終局を告げる日まで。そのとき初めて僕たちはろくでなしどもと、一つ穴の むじな どもと、死の中で、あるいは生の中で、いっしょになることができるのだ。」





こちらもご参照下さい:

生田耕作 『黒い文学館』  (中公文庫)
セリーヌ 『夜の果ての旅 (上)』 生田耕作 訳 (中公文庫)

















































































































セリーヌ 『夜の果ての旅 (上)』 生田耕作 訳 (中公文庫)

セリーヌ 
『夜の果ての旅 (上)』 
生田耕作 訳
 
中公文庫 C 22 

中央公論社
昭和53年2月25日 印刷
昭和53年3月10日 発行
335p
文庫判 並装 カバー
定価400円
カバー絵: Clément Serveau による挿画より



下巻「解説」(生田耕作)より:

「この翻訳は中央公論社より「世界の文学」第四十二巻として、大槻鉄男氏との共訳で刊行されたものであるが、今回「中公文庫」に収めるに当って、生田が単独に全面的改訳を施し、(中略)個人訳として発表することに改めた。」


セリーヌ 夜の果ての旅 上


カバー裏文:

「全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭け、ついに絶望的な闘いに傷つき倒れた《呪われた作家》セリーヌの自伝的小説――人生嫌悪の果てしない旅をつづける主人公バルダミュの痛ましい人間性を、陰惨なまでのレアリスムと破格な文体で描いて、「かつて人間の口から放たれた最も激烈な、最も忍び難い叫び」と評される現代文学の巨篇」




◆本書より◆


「この世は旅さ
冬の旅、夜の旅
一筋の光も射(さ)さぬ空のもと
俺たちゃ道を求めて進む
              「スイス衛兵の歌」一七九三年」


「旅に出るのは、たしかに有益だ、旅は想像力を働かせる。
これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。僕の
旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。
それは生から死への旅だ。ひとも、けものも、街(まち)も、自然
も一切が想像のものだ。これは小説、つまりまったくの作
り話だ。辞書もそう定義している。まちがいない。
それに第一、これはだれにだってできることだ。目を閉じ
さえすればよい。
すると人生の向こう側だ。」


「「本当なの? フェルディナン、あなたほんとに気が狂っちまったって」
 ある木曜日ローラはたずねた。
 「そのとおりだよ!」
 僕は正直に言った。
 「それで、ここでなおしてくださるの?」
 「ローラ、恐怖をなおしたりはできないさ」
 「そんなに恐ろしいの?」
 「そんなどころじゃないさ、ローラ、わかるかい、恐ろしいのなんのって、僕が死んでも、火葬だけはご勘弁ねがいたいほどさ! 土の中にそっとしといて、そこで、墓場で、静かに腐らせてほしいんだ、いつでも生き返れる姿勢でね……万に一つということもあるからね! ところが焼いて灰にされちまえば、わかるかい、ローラ、もうおしまいさ、完全におしまいさ……骸骨(がいこつ)のほうが、なんといっても、まだしも人間に近いからね、灰よりはまだ生き返りやすい……灰になればおしまいだよ! ちがうかい?……だからさ、戦争が……」
 「まあ! そいじゃ、あなたは本当に腰抜けなのね、フェルディナン! なさけない人、どぶ鼠みたい……」
 「そうだよ、ほんとの腰抜けさ、ローラ、僕は戦争を否定するね、それに戦争のお添え物も、何から何まで……僕は戦争に弱音をはいたりはせんよ……僕はあきらめんつもりだ、僕は……めそめそ泣いたりはせん……僕はそいつをきっぱり否定するんだ、そいつに荷担する連中も、なにもかも、その連中とも、戦争とも、僕はなんのかかり合いも持ちたくない。たとえ奴らが七億九千五百万人で、僕のほうはひとりぼっちでも、まちがってるのは奴らのほうさ、ローラ、そして正しいのは僕のほうさ、なぜなら僕の願いは僕にしかわからんのだから。僕はもう死ぬのはごめんさ」
 「でも戦争を否定したりはできないわ、フェルディナン! 祖国が危機に瀕しているときに、戦争を否定するなんて、気違いか臆病者(おくびょうもの)ぐらいよ……」
 「そんなら、気違いと臆病者万歳さ! いや気違いと臆病者生き残れだ。たとえばだよ、ローラ、君は百年戦争のあいだに殺された兵隊のうちの一人でもその名前を思い出せるかい? そういう名前の一つでも知ろうという気を起こしたことが今までにあるかい?……ないだろう、どうかね?……君は一度だってそんな気になったことはなかっただろう? その連中は君にとっては、この文鎮のいちばん小さい粒や、君の毎朝の うんこ と同じくらい、名もない、興味もない、もっと無縁な存在だよ……だからわかるだろう、奴らは犬死したんだ、ローラ! まったくの犬死さ、ばかな奴らさ! 断言していいね! こいつは証明ずみさ! 値打ちのあるのは命だけさ、今から一万年もすれば、賭(か)けてもいいね、この戦争も、今はどんなに重大な出来事に見えていても、完全に忘れられてしまうだろう……十人ほどの学者がたまに機会があれば、議論するぐらいが関の山さ、この戦争の名を高めた主な殺戮の日付けについてね……数世紀後、数年後、いや数時間後に、この問題について世間の奴らが発見する記憶に値するものといったら、それくらいのものさ……僕は未来なんか信じないね、ローラ」
 僕がおのれの恥ずべき状態をぬけぬけとひけらかす人間に変わったのを知ったとき、ローラは僕に対する同情をすっかりひっ込めてしまった……人間の風上にも置けぬ奴と判断したのだ、きっぱり。」


「どこへ行っても、人間には高望みがついてまわるものである。僕の場合は、病人になる使命を授かっていた、常に病人。人さまざまだ。」





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セリーヌ 『夜の果ての旅 (下)』 生田耕作 訳 (中公文庫)























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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