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ギュスターヴ・フローベール 『ブヴァールとペキュシェ』 菅谷憲興 訳

「そもそも、世間など一つの幻想、一つの悪い夢ではなかろうか? なるほど全体として見れば、繁栄と不幸とはつり合いが取れているのかもしれない? だが、人類の幸福は個人の慰めとはならない。「それに他人のことなどどうだっていいじゃないか!」とペキュシェは口にするのであった。」
(ギュスターヴ・フローベール 『ブヴァールとペキュシェ』 より)


ギュスターヴ・フローベール 
『ブヴァールとペキュシェ』 
菅谷憲興 訳



作品社
2019年8月25日 初版第1刷印刷
2019年8月30日 初版第1刷発行
518p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,600円(税別)
装幀: 水戸部功



本書「解説」より:

「最後に強調しておきたいのは、「結末」と題された第Ⅻ章の驚くべき現代性である。医師ヴォコルベイユが県知事に宛てた手紙をたまたま発見した二人の主人公が、そこで語られている自分たちの物語を書き写すというエンディングは、現代の前衛小説によく見られる「自己言及性」の仕掛けを先取りしつつも、はるかに超越しているといえないだろうか。ブヴァールとペキュシェが狂人ではなく、「無害な愚か者」にすぎないことを証明する語りを、思考をいわば停止することで受け入れる二人の姿は、逆説的な聖性をおびているといっても過言ではない。ちなみに、「セナリオ」の最後に記されている「すべてのもの、善と悪、美と醜、無意味なものと特徴的なものは等価である」という言葉は、スピノザの思想を自由にアレンジしたものであり、『聖アントワーヌの誘惑』の悪魔のセリフにも出てくる言葉である。人間が作り出すカテゴリーや分類が意味を失う世界に、アントワーヌ同様、ブヴァールとペキュシェも入りこんだといえようか。」


脚注に参考図版17点。巻末に地図5点。

新訳が出たのであらためてよんでみました。フローベールはたいへん興味深いです。この小説は二人の筆耕が出会って、農業から政治まで、哲学からオカルトまで、恋愛から教育まで、本をよんでいろいろ実践してみるもののどれも挫折して、結局筆耕(=書かれた文字をコピーすること)に戻るという話です。
そこで「筆耕」とは何か、ですが、DNAに書き込まれた情報はそれに基づいてなにかをするためのものではなくて、人間はひたすらDNAそのものをコピーして伝えるためにのみ存在する、そういうことなのかもしれないです。



フローベール ブヴァールとペキュシェ 01



目次:

ブヴァールとペキュシェ
 Ⅰ
 Ⅱ
 Ⅲ
 Ⅳ
 Ⅴ
 Ⅵ
 Ⅶ
 Ⅷ
 Ⅸ
 Ⅹ
 Ⅺ
 Ⅻ

解説
あとがき

関連地図




◆本書より◆


「Ⅰ」より:

「お互いに相手の言うことを聞きながら、忘れていた自分自身の一部を思い出す。そして、(中略)新たな喜び、心が綻びるような感覚、芽生えたばかりの愛情の魅力を感じていた。」
「そして、二人とも筆耕だということが分かると、驚きで両腕を持ち上げ、テーブル越しに抱き合わんばかりであった。」


「Ⅱ」より:

「人付き合いに嫌気がさした彼らは、もうこれからは誰にも会わずに、ひたすら家の中で、自分たちのためだけに生活しようと決意した。」


「Ⅲ」より:

「「科学なんて、空間の片隅から得られるデータに基づいているものなんだな。おそらくそれは、もっと広大な、我々には発見できない未知の領域には当てはまらないのかもしれない」
 二人はこのように、築山の上に立ったまま、星の光を浴びて語り合っていた。時々会話が途切れ、長い沈黙が続く。
 最後に彼らは、星にも人間はいるだろうかと自問した。どうしていないはずがあろうか? 創造物には調和というものがある以上、シリウスの住民はとてつもなく大きく、火星の住民は中くらいで、金星にはとても小さな人間がいるに違いない。もっともそれも、いたるところ同じでなければの話ではあるが? 彼方の世界にも商人や憲兵がいて、密売をしたり、相争ったり、王位を簒奪したりしているのかもしれない!……
 流れ星がいくつか、巨大な火箭のような放物線を描きながら、不意に天空を横切った。
 「おや!」とブヴァールが言う。「こうやって世界が消えてなくなるんだね」
 ペキュシェが答える。
 「もし次は地球がとんぼ返りをしたって、星々の住民たちは、今の我々以上に動揺することもあるまいよ! (中略)」
 「こういったことすべての目的は何だろう?」
 「きっと目的などないんじゃないかい?」
 「しかし!」さらにペキュシェは二、三度「しかし」と繰り返したが、何も言うことが見つからなかった。「構うものか! とにかく、宇宙がどのようにして作られたのかを知りたいものだ!」」

「「いいや! 言わせてください!」すっかり熱くなったブヴァールは、人間は猿の子孫だと言ってのけた!
 教会財産管理委員たちは、誰もがびっくり仰天して、自分たちが猿ではないことを確かめるかのように顔を見合わせた。
 ブヴァールはさらに続けた。「人間の女性の胎児を、牝犬と鳥のそれと比べてみれば……」
 「もうたくさんだ!」
 「私に言わせれば、それどころではありませんな!」とペキュシェが叫んだ。「人間は魚の子孫です!」」



「Ⅳ」より:

「ところで、土墳とは何を意味しているのだろう?
 そのいくつかに納められている骸骨は、母親の胎内における胎児のような姿勢をしている。このことは、墓が死者たちにとって、もう一つの生を準備する第二の懐胎のようなものだったことを示している。それ故、立石が男性器であるのと同様、土墳は女性器を象徴しているのだ。」
「かつては塔も、ピラミッドも、蠟燭も、道路の標石も、樹木さえもが、男根を意味していた。すると、ブヴァールとペキュシェにとっては、すべてが男根になった。」

「読書の間、微風が四阿のブドウの枝をそよがしていた。実った大麦が穂を揺らし、時々ツグミの鳴く声がする。彼らは周囲を見回して、この静寂をしみじみと味わうのであった。」



「Ⅶ」より:

「陰鬱な日々が始まった。
 後でまた失望するのではないかと思うと、もう何も研究する気が起きない。シャヴィニョールの住人たちは彼らに寄りつかなくなった。新聞も、刊行を許されているものは、何一つ情勢を教えてくれない。二人は深い孤独感に苛まれ、完全に暇をもて余していた。」
「こうして、二人は田舎のあの倦怠の中で暮らしていた。真っ白な空がその単調さで、希望をなくした心を押しつぶす時には、この倦怠はとりわけ重苦しく感じられるものだ。誰かが壁に沿って歩く木靴の音や、雨滴が屋根から滴り落ちる音が聞こえてくる。時々、枯葉が窓ガラスをかすめては、くるくる旋回し、またどこかに飛んで行く。弔いの鐘のかすかな音が、風に運ばれてくる。家畜小屋の奥で、牝牛が鳴く声がする。
 お互いに向かい合ったまま、あくびをしたり、暦を調べたり、時計を眺めたりして、食事の時間になるのを待った。それに、地平線の眺めはいつも同じである! 正面には畑、右手には教会、左手にはポプラの並木。その梢は霧の中で、絶えず物悲しげに揺れ動いている!」



「Ⅷ」より:

「とはいえ、我々の中にも、芳香性の管を備えている者が何人かいる。つまり、頭蓋骨の後ろにあり、髪の毛から惑星まで伸びている管のことで、これを通して土星の精霊たちと会話することもできるという。触知できないものが現実でないとは限らない。地球と惑星の間には、往復運動、伝達、絶えざる交流が行われているのである。
 すると、ペキュシェの胸は激しい憧れにふくらんだ。夜になると、ブヴァールは、友が窓辺に立ち、精霊に満ちあふれた光輝く天空を眺めているところを見かけた。」

「どうやったら魔術師になれるのか? この考えは初めは突拍子もないものに思われたが、それでも彼らにつきまとい、悩ませた。そこで冗談にまぎらしながらも、実践してみることにした。」

「彼らの生き方は他の連中とは異なっており、煙たがられていたのである。いかがわしい存在だとされ、漠とした恐怖を吹き込んでさえいた。」

「今度はペキュシェが割って入った。
 「悪徳だって、洪水や嵐と同様に自然の特性ですよ」
 公証人がその言葉を遮った。(中略)
 「あなた方の体系はきわめて不道徳だと思いますね。あらゆる放埓を助長し、犯罪を許し、罪人をかばうものじゃないですか」
 「まさにその通り」とブヴァールが言う。「欲望に従う不幸な人間も、理性に耳を傾ける紳士と同様、自らの権利をまっとうしているのです」
 「怪物を擁護するのはおやめなさい!」
 「なぜ怪物なんです? 盲人や、愚か者や、人殺しが生まれると、我々にはそれが無秩序に思われる。あたかも我々が秩序の何たるかを知っており、自然がある目的のために動いているかのようじゃありませんか!」
 「すると、神の摂理を認めないのですか?」
 「ええ! 認めませんとも!」」

「ブヴァールとペキュシェは他にも機会をつかまえては、唾棄すべき逆説を述べて回った。男の誠実も、女の貞淑も、政府の知性も、民衆の良識も疑ってみせ、一言でいえば社会の基盤を突き崩していたのである。」
「そもそも、世間など一つの幻想、一つの悪い夢ではなかろうか? なるほど全体として見れば、繁栄と不幸とはつり合いが取れているのかもしれない? だが、人類の幸福は個人の慰めとはならない。「それに他人のことなどどうだっていいじゃないか!」とペキュシェは口にするのであった。」

「気分を立て直そうと、彼らは無理やり理性に従って、仕事を自らに課してみたものの、すぐにいっそう強い無気力、深い落胆に陥ってしまった。」
「そして二人は、自分たちが幸福だった頃のことを思い出した。(中略)ある深淵が彼らをそこから隔てていた。何か取り返しのつかないことが起きてしまったのだ。
 かつてのように野原を散歩しようとして、遠くまで行きすぎ、迷ってしまった。空には小さな雲がわいている。燕麦の穂が風に揺れ、牧場に沿って小川がさらさらと流れている。その時、不意に悪臭が鼻をついて、足をとめた。すると茨の間の小石の上に、犬の死骸が転がっているのが目に入った。
 四肢は干からびていた。口元は引きつり、青みがかった唇の下から、象牙のような牙が覗いている。腹のあたりで土色の塊がぴくぴく動いているように見えるのは、蛆虫が蝟集しているのである。」
「これを見ながら、ブヴァールは額に皺をよせ、目に涙を浮かべていた。ペキュシェは毅然として、「我々もいつかはこうなるのさ!」と言った。
 死の観念が彼らの心をとらえた。」
「結局のところ、死など存在しない。霧の中、そよ風の中、星々の中に人は散って行くのである。木の樹液や、宝石の輝きや、鳥の羽毛のようなものになるのかもしれない。自然が貸してくれたものを返すだけのことだし、我々の行く手に広がっている虚無にしても、我々の背後にある虚無より恐ろしいというわけではない。」



「Ⅹ」より:

「こうして、彼らの手掛けたものはことごとく水泡に帰した。
 二人はもはや人生には何の関心も抱いていない。
 各々ひそかに温めてきた良いアイデア。互いに隠してはいるが、時折それが頭に浮かぶと、思わずほくそ笑む。やがて同時にそれを打ち明ける。筆写(コピー)をしよう。」
「書台が二重になった仕事机の製作(中略)。
 帳簿、文房具、艶付け用の樹脂、字消しナイフ等の購入。

 彼らは仕事にかかる。」







こちらもご参照ください:

フローベール 『聖アントワヌの誘惑』 渡辺一夫 訳 (岩波文庫)
フロベール 『サランボオ』 神部孝 訳 (角川文庫) 全二冊











































































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フロベール 『サランボオ』 神部孝 訳 (角川文庫) 全二冊

「殆んど二六時中、彼女は部屋の奧にうづくまつて、折り曲げた左の脚を抱へ、少し口を開け、頤を落して、一點を見つめてゐた。」
(フロベール 『サランボオ』 より)


フロベール 
『サランボオ 
上巻』 
神部孝 訳
 
角川文庫 362


角川書店 
昭和28年7月31日 初版発行
平成元年11月15日 四版発行
215p
文庫判 並装 カバー 筒函
【全2巻】分売不可 セット定価840円(本体816円)
カバー・デザイン: 鈴木一誌




フロベール サランボオ 02



フロベール 
『サランボオ 
下巻』 
神部孝 訳
 
角川文庫 363


角川書店 
昭和29年6月30日 初版発行
平成元年11月15日 四版発行
205p
文庫判 並装 カバー 筒函
【全2巻】分売不可 セット定価840円(本体816円)
カバー・デザイン: 鈴木一誌




フロベール サランボオ 03


下巻所収「解説」より:

「『サランボオ』 Salammbô (1862)は『ボヴァリー夫人』 Madame Bovary (1857)に次いで書かれたフロベール Gustave Flaubert (1821~1880)の作品で、しかもこの歴史小説は傑作であるといふ點では決して後者にひけをとらないものである。作者自身もこの作品を會心の作であるとしてゐたといふことである。
 主題は第一ポニエ戰役後に於ける傭兵たちの反亂にとられてゐる。カルタゴに對して不滿を抱いた傭兵たちは、マトオ、スパンディウス、ナラヴァス等の指揮のもとに反逆し、カルタゴを攻圍するが、マトオとナラヴァスの二人はいづれもアミルカアルの娘、サランボオに對して戀を感じるのである。ところが、マトオはタニット寺院の神秘のヴェエルである「ザインフ」を奪ひ出したので、このとき以來、カルタゴの國運は動搖しはじめる。そこで、師僧はサランボオに命じて、この「ザインフ」の奪還を計る。サランボオは命じられるまゝに、マトオを天幕に訪れ、目的を達して歸る。かくして、反亂は結局傭兵側の敗北となり、マトオは處刑されるが、戀人の熱情に心を動かされたサランボオもこれを見ながら悶絶するといふのである。
 フロベールは『ボヴァリー夫人』を書いてから、「醜惡なこと」や「卑俗な環境」に嫌氣がさし、何とかして數年間は「近代社會から遠くかけ離れて、素晴らしい主題」のなかで生きたいことを希つた。かくして書かれたのが『サランボオ』である。」

「この作品の譯者は今から十數年まへの夏、いまだ春秋に富む身を、惠まれた文才を惜まれながら他界の人となつた。後輩である私は乞はれるままに、かつてもこの譯書の序文を書いたことがあるが、いま再びこの譯書が上梓されるにあたつて筆をとりながら、(中略)感慨なきを得ない。」



「角川文庫創刊40周年記念特別企画 
読者アンケートによる 
角川文庫限定復刊 
リバイバル・コレクション PART II」



ギュスターヴ・フローベール『サランボー』旧訳。
旧字・旧かな。
上巻に挿絵8点、下巻に挿絵7点。



フロベール サランボオ 01



上下二冊が筒型のケースに入っています。


帯文(上下巻共通):

「今は跡かたもなく消え去った
前三世紀のカルタゴを舞台に、
ヌーボー・ロマンの源流に位置する
フロベールが描く
女神官「サランボオ」の至純の恋。
〈小説の世紀〉を代表する傑作。」



上卷 目次:

一 饗宴
二 シッカにて
三 サランボオ
四 カルタゴの城壁の下で
五 タニット
六 アノン
七 アミルカアル・バルカ
八 マカアルの戰



下卷 目次:

九 戰場にて
十 蛇
十一 天幕の下にて
十二 水路橋
十三 モロック
十四 ラ・アァシュの峽道
十五 マトオ

解説 (根津憲三)




◆本書より◆


「一 饗宴」より:

「彼等はあたり構はず切りまくり、打(ぶ)ち壞(こは)し、殺害するのだつた。炬火(たいまつ)を枝葉のしげみの中へ投げつける者達があつた。かと思ふと、獅子の巣の欄杆(てすり)に肱をついて、弓矢でしきりに射殺してゐる者達があつた。大膽極まる連中は、象に向つて行き、彼等の鼻を叩き落し、牙を切り取らうとしてゐるのだつた。
 その間に、もつと樂に掠奪してやらうと思つて宮殿の角を廻つて行つたバレアアルの投石手達は、籐で造られた高い障壁で食ひ止められた。彼等は短劍で錠の革帶を切つた。と、カルタゴの方に向いてゐる正面玄關の下に、刈り込まれた草木だらけの別の庭園に出た。次々に並ぶ幾列もの白い花は、空色の地上に、流星のやうな長い抛物線を描いてゐた。闇に閉された叢林からは甘やかな仄温かい香氣が立ち登つてゐた。あたかも血に塗れた柱のやうに、朱を塗られた木の幹があつた。中央に、十二の銅の臺座の一つ一つに大きな硝子の球が置かれてゐて、赤茶けた微光に滿たされたそれら空洞の球體は、今なほ瞬きもしさうな巨大な瞳のやうだつた。兵士達は炬火(たいまつ)で互ひに足許を照らし合ひながらも、深く耕(す)き返された傾斜地で始終つまづいてばかりゐた。
 けれども、彼等は、靑い石の壁で幾つにも區切られてゐる小さな湖を認めた。寄る波も透き徹つてゐて、炬火の焰は、水底深く、白い小石と金粉との湖床でゆらぐのだつた。水が泡を立て始め、そこここにきららかな砂金が滑つて行つた。と、口のあたり、寶石をちりばめた大きな魚族が水面近く現れた。
 兵士達は大笑ひしながら、鰓(えら)に指を突込んで、それらを食卓の上へ運んだ。
 それはバルカ家の魚だつた。みんな、あの女神のひそんでゐた神秘な卵を孵化させた、原初の鱈鰻(ロット)の後裔だつたのだ。瀆聖をやつてゐるといふ觀念が傭兵共の貪慾さを掻き立てた。彼等は早速靑銅の容器の下に火を入れて、煮え沸る湯の中で美しい魚が苦しみもがくのを見て面白がるのだつた。
 兵士達の群はますます圖に乘つてゐた。」

「宮殿は一擧にして、その最高の望樓までも照らし出され、中央の扉が開いて、一人の女が、黑い衣をまとうた紛ふ方なきアミルカアルの娘が、閾口に現れた。彼女は第一階層に沿うて斜に走る最初の階段を下り、次に第二、第三の階段を下りて、例のガレール船の階段の上の最後の望樓で立ち止まつた。そして身動きもせず、うつむいて、兵士等を見渡すのだつた。」
「ついに彼女はガレール船材の階段を下りた。(中略)彼女は絲杉の並木路に進んで行き、隊長達の食卓の間を靜々と歩いた。彼等は彼女の通るのを見て些か後退りするのだつた。
 カナンの處女達の習ひで、塔の形に束ねられ、紫の砂を播かれた毛髪は、彼女の姿を實際よりは高く見せてゐた。顳顬(こめかみ)に結ばれた眞珠の編物は、半ば綻びた柘榴のやうな薔薇色の口許まで垂れてゐた。胸にはきららかな寶石類の寄せ集めがあつて、その雜多な光彩はうつぼ(引用者注:「うつぼ」に傍点)の鱗にも似てゐた。ダイヤモンドをつけた雙の腕(かひな)は、眞黑な地に赤い花を浮かした袖無しの服(テュニック)からむき出しになつてゐた。踝(くるぶし)の間には、歩調を整へるために、小さな金の鎖がついてゐた。そして、(中略)濃い眞紅の豐かなマントは、後に長く引きずられて、彼女の一足ごとに、後から大きな波がついて行くもののやうだつた。
 僧侶達は時々、七絃琴で、殆んど抑へつけられたやうな和音を掻き鳴らした。そして、音樂の合間(あひま)合間に、彼女の紙草で出來た草履(サンダル)の規則正しい音と一緒に金鎖の微かな響が聞えるのだつた。」
「月こそは彼女の面をいやが上にも蒼白くして、何かしら神々しいものが、そこはかとなき靄のやうに、彼女を包んでゐた。その瞳は、地上の空間を越えて、遠くかなたを見つめてゐるやうだつた。彼女はうつむいたまま歩みを運び、右手には小さな黑檀の七絃琴を持つてゐた。
 彼女の呟くのが彼等の耳に聞えるのだつた。
 ――「死んだ! みんな死んでしまうた! 湖水の縁に腰かけて、お前達の口に西瓜の種を投げてやる時、妾の聲にすなほに寄つて來たお前達の姿はもう見られないのだ! 流れの中の水球よりももつと透明なお前達の眼の底に、タニットの秘密が宿つてゐたものを。」そして、彼女は彼等の名を呼んだが、それは月々の名稱だつた。「シヴ! シヴァン! タムウズ、エルウル、ティシュリ、シュバアル! ――ああ、女神よ、この身を憐み給へ!」
 兵士達は、彼女のいふ言葉の意味は分らなかつたが、まはりにつめ寄せた。(中略)彼女は彼等すべての上に嚴めしい長い視線をさまよはせてから、頭を肩の間に落すやうにして、兩腕を擴げながら、幾度もかう繰り返した。
 ――「お前達は何てことを仕出かしたのか! 何てことを仕出かしたのか!(中略)」」
「「一體、ここをどこだとお考へなのぢや? (中略)バアルの僕(しもべ)、わが父アミルカアル主宰なるぞ! (中略)續けるがいい! 燒くがいい! 妾は、わが家の精靈を、あの白蓮の葉の上に眠つてゐるいとしの黑蛇を連れて行かうよ! 口笛を吹けばついても來よう、ガレール船に乘るならば、わが船の跡を追うて、碎くる浪の水泡(みなわ)の上を泳ぎ渡つて來るでもあらう。」」
「「ああ、哀れなるカルタゴよ! 悲しい都市(まち)よ! お前はもう、海原越えて彼方の岸に、寺々を建てて來た古の強者達には守つて貰へないのだ。あらゆる國がお前の周圍(まはり)で働いてゐた。そして、お前の櫂で耕された海原には、お前の收穫物がゆさゆさ搖れてゐたものを。」
 そこで、彼女は家の先祖で、シドン人達の神たるメルカルトの冒險を歌ひ始めた。
 エルシフォニイ山岳への登攀や、タルテッシュスへの旅や、マジザバルに對する蛇の女王のための復讐戰などを語るのだつた。
 「彼は、森の中、枯葉の上を、銀の小川のやうに尾をくねらせて行く雌の怪物を追ひかけた。とある草原に出て、見れば大きな火を圍み、龍の腰した女人等が尻尾の先で立つてゐる。血の色をした月が、靑白い輪の中で輝いてゐた。漁夫達の銛(もり)のやうに裂けた彼女等の緋色の舌、ペロリペロリ弧を描いて焰の縁邊(へり)まで延びてゐた。」
 それから、立てつづけに、サランボオは語つた。マジザバアルを退治たメルカルトが、打ち取つたその首を船の舳に飾つたいきさつを。――「浪打つ浪の搖れごとに、首は水泡(みなわ)の中に沈んだ。だが太陽はそれを木乃伊(みいら)と化して、黄金よりも硬くした。しかもなほ、その眼は泣きやまず、絶え間なく涙は水の上に落ちるのだつた。」
 彼女はこれらのことをすべてカンナの古い方言で歌つたので、蠻人達にはわからなかつた。」



「二 シツカにて」より:

「彼等は兩側に赤茶けた小さな山脈を持つた一種の大きな廊下を進んで行つた。と、嘔氣を催すやうな臭氣が鼻を打つた。そして、いなごまめ(引用者注:「いなごまめ」に傍点)の莖の上に何だか異常なものが見えるやうな氣がした。獅子の頭が葉の上に聳えてゐるのだ。
 彼等はそこにかけつけた。正(まさ)しく獅子だつた。獅子が罪人のやうに、十字架に四肢をくくりつけられてゐるのだつた。その巨大な面を胸に垂れ、兩方の前肢は豐富な鬣で半ば見えないが、鳥の翼のやうに思ひ切つて擴げられてゐた。肋骨(あばらぼね)の一つ一つは張り切つた皮膚の下に浮き出てゐた。後肢は重ねて釘づけにされ、多少高くなつてゐた。そして、毛の中を流れる黑い血は、十字架に沿うて眞直に垂れた尻尾の先に鍾乳石をこびりつかせてゐた。兵士等はまはりで打ち興じた。(中略)眼の中に小石を投げつけては羽蟲を飛び立たせた。
 百歩ばかり先に行くとまた二つあつた。それから、突然、さうした獅子をつけてゐる十字架の長い列が現れた。あるもの達はもうずつと前に死んでゐて、骸骨の殘り屑が木にくつついてゐるだけだつた。またあるものは半ば腐りかかつてゐて、恐ろしいしかめ面で口を捻ぢ曲げてゐた。中には巨大な奴があつて、その重さに十字架の樹木はたわみ、獅子共は風に搖れてゐて、頭上では烏の群が宙でひつきりなしに旋廻してゐた。カルタゴの農民は何か野獸を捕へると、こんな風に腹癒せをやるのだつた。かうした例で他の奴等を懲らしめたいと思つてゐたのだ。蠻人達は笑ふことも止めて、呆れ返つてしまつた。「何て人達だらう」と彼等は考へるのだつた。「獅子を磔刑(はりつけ)にして面白がるなんて!」」

「殆んどしよつちゆうマトオは占考僧のやうに憂鬱な顏をして、日の出頃から野原をぶらつきに出かけた。そして砂の上に寢そべつて、晩までじつとそのまま身動きもしないでゐるのだつた。
 彼は、一人一人、軍中のあらゆる卜者達と相談した。彼等は蛇の歩行を觀察したり、星々に讀み耽つたり、死者達の灰の上を吹いてみたりするのである。(中略)彼は頸飾りや護符を身につけた。そして、バアル・カアモンやモロックや、七人のカビイルやタニットや希臘人達のヴィーナスに次々に祈願した。また、銅の板にある名前を彫つてそれを自分のテントの閾口の砂中に埋めた。スパンディウスは、彼がたつた獨りで呻いたり話したりしてゐるのを耳にしたものだ。
 ある夜更け、彼は中に入つて行つた。
 マトオは、まるで屍體のやうに裸で、顏を兩手に埋め、獅子の毛皮の上に腹這ひになつてゐた。」
「つひにマトオは彼の方に濁つた大きな眼をあげた。
 「聞いてくれ!」と彼は唇に指をあてながら低聲(こごゑ)で言つた。「神々の怒りに觸れたのだ! アミルカアルの娘が俺を追ひ廻す! 俺は恐ろしい、スパンディウス!」彼は幽靈におびえた子供のやうに、われとわが胸を抱きしめてゐた。」



「三 サランボオ」より:

「サランボオは女奴隷に支へられながらおのが宮殿の望樓に登つた。奴隷は燃え立つ炭火を鐵の深皿に入れて持つてゐた。
 望樓の中央には、山猫の毛皮でおほはれた小さな象牙の寢臺と、神々への犠牲で運命を豫言する動物、鸚鵡の羽で出來たクッションがあつた。そして、四隅には四個の長い香爐が立つてゐて、中には甘松や香や、肉桂や沒藥が一杯入つてゐた。(中略)サランボオは極星をじつと見つめた。彼女は靜かに空の四方を拜み、蒼穹になぞらへて金の星を撒いた靑い砂の上に跪いた。それから兩肱を脇腹に當て、上膊を眞直ぐにして手を擴げ、月光の下に顏を仰向けながら、彼女は言つた。
 「おおラベトナ!…… バアレエ!…… タニット!」そして彼女の聲は、誰かに呼びかけでもするもののやうに、物悲しげに尾を曳くのだつた。「アナイティス! アスタルテ! デルセト! アストレエト! ミリッタ! アタラ! エリッサ! ティラタ!…… 秘められたる象徴により、――鳴り響く月琴(シストル)により、――地の畝により、――永遠の沈默と永遠の豐富さにより、――暗い海と靑い濱邊との支配者、おお、濕へるものの女王よ、安かれ!」
 彼女は二三度全身をゆすぶつた。それから兩腕を伸して、額を砂塵の中に埋めた。」
「彼女は頭をあげてじつと月を眺めながら、その言葉に讃歌の章句をまじへながら呟いた。
 「手(た)觸れがたき大空に支へられ、何と輕やかに汝は舞ふぞ! 汝がめぐり、げにつややかなり。汝(な)が不安の動搖こそ、風を、豐かな露を分ち與ふ。汝(な)が増減に、猫の眼や豹の斑點(ぶち)は長くもなり縮まりもする。妻等は生みの苦しみに汝が名を呼ばふ! 汝こそは貝を膨らます! 酒を泡立たす! 屍體(なきがら)を朽ち腐敗(くさ)れしむ! 海の底ひに眞珠を作る!
 そしてすべての胚種は、おお女神よ! 汝が濕潤の暗き深淵に醗酵する。
 汝が現れる時、安靜が地上に擴がる。花は閉ぢ、浪は靜まり、疲れた人々は汝が方に胸を差し出して横たはる。そして、世界はその海洋をも山嶽をも、鏡をのぞくやうな汝が面影の中にうつしてみる。汝は白く、優しく、つややかで、一點の汚れなく、憐れみ深く、淸々しく、朗らかである。」
 丁度その時、三日月は、入江の向う側に、オオ・ショオド山の頂きと頂きとの間の切込みに、姿を見せてゐた。その下に小さな星が輝き、その廻りには靑白い輪がかかつてゐた。サランボオは言葉をつづけた。
 「だが、汝は恐ろしい女神だ!…… 汝こそ、怪物や恐ろしい幽靈を、僞りの夢を作る。汝の眼は建物の石を嚙み食らふ。そして汝が若返るたびに猿共は病氣になるのである。
 そも、いづこへ行くぞ? 絶え間なく姿を變へるは何がゆゑぞ? か細く曲つてはあたかも帆柱の無きガレール船の如く、大空を辷り行き、また星々の中にある時は、羊の群を守る牧人のやうだ。照り滿ちて圓かな汝(なれ)は、戰車の輪にも似て山々の頂を掠め行く。(中略)」」

「サランボオはたつた獨りでこの宮殿の中に住んでゐたのである。」
「そして、サランボオは天體に象られた女神を禮拜したのだ。月から下りてこの處女の上に、ある不思議な力が働きかけてゐた。月が細る時、サランボオは衰へて行つた。晝の間ずつと弱つてゐながら、晩には元氣を取り戻すのだつた。月蝕の間、彼女は死にかかつたのだつた。」

「サランボオは向きを變へた。彼女はシャアバランが衣服の裾につけてゐた金の小鈴の音を聞いたのだつた。」
「それはタニットの大司祭で、サランボオを育てた人だつた。」
「シャアバランは片腕を宙にあげて、語り始めた。
 「神々の前には、ただ闇があるばかりだつた。そして夢を見てゐる人間の意識のやうにぼんやりした重苦しい息吹がただよつてゐた。この息吹が引きしまつて願望と雲とを創り、その願望と雲の中から原初の物質が出て來た。それは黑い、凍つた、深い泥水だつた。その中に、未來に生れる形とは聯絡のない部分部分であたかも聖殿の壁に描かれてゐるやうな無感覺なもろもろの怪物が包藏されてゐた。
 それから物質は凝結した。卵となつた。そして割れた。一半は大地を造り、他半は蒼穹となつた。日輪が、月が、風が、雲が現れた。そして、雷電の爆鳴に、智慧ある動物は眼を覺ました。すると、エシュムウンは星の世界に展び擴がり、カアモンは日輪の中で輝いた。メルカルトは兩腕で、彼をガデエスのところに押しやつた。カビランは花山の下へおりて行つた。そしてラベトナは、乳母のやうに世界の上に身體をかしげ、乳のやうに光を注ぎ、マントのやうに夜闇をかけてやつた。」
 「それから?」と彼女は言つた。」
「「彼女は人間の愛を鼓舞し、支配する。」
 「人間の愛を!」とサランボオは恍惚(うつとり)としながら繰り返した。
 「彼女はカルタゴの魂だ。」と、僧侶はつづけた。「彼女は到る所に擴がつてゐるとはいへ、まさしくここに、神聖なヴェールをかづいてゐられるのだ。」」



「四 カルタゴの城壁の下で」より:

「城砦の外に、別の種族で、起原の不明な人々が住んでゐた。――みんな豪猪(やまあらし)の狩人であり、軟體動物や蛇等を食べてゐた。彼等は洞窟へ行つて鬣狗を生け捕りにし、晩になると、それをメガラの砂の上で、墓碑の間を走らせて面白がつてゐた。泥や藻でこしらへた彼等の小屋は、燕の巣のやうな斷崖に懸かつてゐた。彼等はそこに、政府も神々もなく、素裸體で、ごつちやに暮してゐて、か弱くもあれば兇暴でもあり、もうずつと昔から、その汚ならしい食物のために人々から嫌はれて來た。」


「五 タニツト」より:

「「逃げよう!」と、マトオは叫んだ。「彼女だ! 彼女の氣はいがする。こつちへ來るぞ。」
 「馬鹿な!」とスパンディウスは答へた。「寺院は空つぽだ。」
 その時、眩ゆい光が彼等の眼を伏せさせた。それから、彼等はあたり一面に、無數の獸が、瘠せさらぼへ、喘ぎ、爪を立て、互ひに重なり合ひ、ごつちやになつて、ぞつとするやうな怪しい混亂の中にゐるのを認めた。蛇には足が生えてゐた。牡牛には翼があつた。人間の頭をした魚が果物を嚙つてゐた。鰐の口の中に花が咲いてゐた。そして、象は鼻を上げて、靑空の中を鷲のやうに意氣揚々と通つて行くのだつた。(中略)彼等は舌を出して、魂を吐き出さうとしてゐるやうだつた。そして、ありとある形態がそこには見られた。まるで胚種の受溜器が突然の孵化で破裂して、廣間の壁にぶちまけられたかのやうだつた。
 靑い水晶の十二の球が、虎のやうな怪物に支へられて、ぐるつと圓く廣間を縁取つてゐた。怪物共の眼は蝸牛の眼のやうに飛び出してゐた。そして、その横太りの腰を曲げて彼等は奧の方に向つてゐた。奧には、象牙の戰車に乘つて、至高のラッベエトが、最新發明のオムニフェコンドが輝いてゐた。
 鱗や羽や花や鳥が彼女の腹のあたりまでおほうてゐた。耳環として、彼女は銀のシンバルをつけ、それが頰にぶつつかつてゐた。大きな眼はじつとこちらを見つめてゐた。そして、淫らな象徴として、彼女の額にはめられたきららかな石が、扉の上の赤い銅の鏡に反射して部屋を照らしてゐるのだつた。」

「けれども、その向うに、星々のきらめく雲のやうなものが見えてゐた。累積する襞の中に、もろもろの姿が現れた。カビイルの神々と一緒にゐるエシュムウン、既に見た怪物共、バビロニア人達の神聖な獸、その他彼等の知らないもの等。これがマントのやうに偶像の顏の下を通つて、高く壁の上に擴げられ、隅々を懸けられてゐて、夜のやうに靑味がかつてもゐるし、黎明のやうに黄色く、日輪のやうに眞紅でもあり、無數で、透明で、きららかで、輕やかなものだつた。これこそ、女神のマントだつた。誰も見ることの出來ない神聖なザインフだつた。
 彼等は二人共まつ靑になつた。」

「マトオは欄干のかげに立つてゐた。タニットのヴェエルに包まれた彼は、蒼穹に圍まれた星の神かと見えるのだつた。」



「六 アノン」より:

「マトオはテントの外側まで來て腰を下した。そして血飛沫(しぶき)を浴びた顏を片腕で拭ひ、カルタゴの方に向つて、じつと水平線を見つめるのだつた。」
「マトオは大きな歎息を洩らすのだつた。そして腹這ひになり、大地に爪を掻き立てて涙にむせぶのだつた。吾とわが身がみじめで、か弱く、見捨てられたもののやうに思へるのだつた。たうてい彼女を物にすることが出來さうもなかつた。一つの都市を占領することさへ出來ないのだ。
 夜になると、たつた一人、テントの中で、彼はザインフをじつと見つめてゐた。この神聖な品物も彼には何の役に立たう? 群がる疑惑が突如、この蠻人の心に襲ひかかるのだつた。この女神の衣服も、逆にサランボオあつてこその代物であり、そこに彼女の魂の何物かが、吐息よりもいみじく漂つてゐるかに思へるのだつた。で、彼はそれに觸つてみたり匂ひを貪り吸ひ、顏を埋めて泣きむせびながら接吻するのだつた。」



「九 戰場にて」より:

「誰もみな、家や家族を懷しんでゐた。貧しい者達は、戸口に貝殻をつけ、網を吊してある蜂窩状の小屋のことを、貴族達は、一日のうちでも一番和やかな頃、庭の木の葉のさやぎにまじる巷の仄かな騒音を聞きながら休んでゐると、靑みがかつた夕闇に滿たされて來る大きな廣間のことを懷ふのだつた。――そして、彼等はさうした想ひに耽つて一しほ樂しまうとするもののやうに瞼を半ば閉ぢるのだつた。と、忽ち傷口の搖れる痛さに眼をさまされた。」


「十 蛇」より:

「彼女はもつと高尚な不安に惱まされてゐた。彼女の大蛇、黑ピトンが弱つてゐたのだ。そして、カルタゴ人達にとつては、蛇は國民的な、また個人的な崇拜物だつた。それは、地中から現れ出て走り廻るのに足が要らないので、大地の子と信じられてゐた。その歩き方は川の迂りを想はせ、性質は豐饒さに滿ちた古代のねばねばした闇を想はせ、尾を咬みながら描く道は星々の全體を、エシュムウンの智慧を想はせるものだつた。」
「蛇は絶えずとぐろを卷いてゐて、枯れた葛のやうに身動きもしなかつた。そしていつまでもじつと蛇を見つめてゐると、彼女は遂に心中に螺旋のやうなものを、別の蛇らしいものを覺え、それがだんだん喉の方まで這ひ上つて來て彼女を絞めつけるやうな氣がするのだつた。」

「殆んど二六時中、彼女は部屋の奧にうづくまつて、折り曲げた左の脚を抱へ、少し口を開け、頤を落して、一點を見つめてゐた。」

「時々、幾日もの間、彼女は食物を拒むのだつた。そして濁つた星體が自分の足の下を通つて行く夢を見てゐた。彼女はシャアバランを呼んだ。が彼が來ると、もう別に何も彼に話すことはないのだつた。」

「彼女は未來を知らうと思つて、蛇に近づいた。蛇の態度で占はれてゐたのだ。所が、籃は空つぽだつた。サランボオははつとした。
 蛇は吊床の側の銀の欄干に尻尾で卷きついてゐた。そして、黄色くなつた古い皮を脱がうとして身體をこすりつけてゐた。と、美しいきららかな生身が、半ば鞘から出た劍のやうに延びてゐるのだつた。」

「月が登つた。すると、六絃琴と笛とは、一齊に鳴り出した。
 サランボオは、耳飾りや頸環や腕環を外し、裳の長い白衣を脱いだ。そして、髪の毛を結へてゐた細紐を解いて、さつぱりとするためにしばらくは肩に垂れ下るそれらを靜かに振り分けるのだつた。戸外の音樂はつづいてゐた。(中略)絃は軋り、笛は唸つてゐた。タアナックはその拍子に合せて手を鳴らしてゐた。サランボオは全身を搖(ゆさ)ぶりながら祈禱を唱へてゐた。そして、彼女の着物は一つ一つ次々に彼女のまはりに落ちて行くのだつた。
 重い綴織が搖れて、それを支へてゐる綱の上から、ピトンの頭が現れた。彼は壁を傳つて流れる水滴のやうに、靜かに下りて來ると、脱ぎ散らされた布の間を這ひ、やがて尾をぴつたりと床につけて眞直に立ち上つた。そして、紅玉よりも輝くその眼はじつとサランボオを射るのだつた。」
「ピトンは再び首を下げて來て、胴體のまん中を彼女の頸筋にかけ、頭と尻尾とを垂れて、丁度切れた頸飾りの両端が床に曳きずられてでもゐるやうになつた。サランボオは、それを脇腹に、腕の下に、膝の間に卷きつけた。それから、その頸を捕へ小さな三角の口を自分の齒先まで持つて行き、半ば眼を閉ぢて、月光の下にのけ反り返つた。白々とした光は、銀の狹霧で彼女を包むやうだつた。彼女の濡れた足の跡形が、敷石の上に輝き、星は水底にまたたいてゐた。蛇は金色の斑點のある黑い環で、彼女をしめつけた。サランボオは、その堪へ難い重壓の下に喘ぎ、腰がぐらつき、死にさうな氣持だつた。そして蛇は尾の先で靜かに彼女の腿を叩いてゐた。やがて樂の音が止むと、蛇は解(ほど)け落ちた。」



「十一 天幕の下にて」より:

「彼等は村を通り抜けた。家々は地上に燒け崩れてゐた。壁に沿うて人間の骸骨が見られるのだつた。單峰駱駝や騾馬の骸骨もあつた。半ば腐つた屍體が道をふさいでゐるのだつた。
 夜になつてゐた。空は低く垂れて、雲におほはれてゐた。」

「「おぬしは誰だ?」とマトオは言つた。
 返事もせずに、彼女はゆつくりとあたりを見廻した。と、やがて彼女は、奧の方に、棕櫚の枝でこしらへた寢臺の上に垂れ下つてゐる靑味を帶びてきらめく物に眼を止めた。
 彼女は急いで進み寄つた。かと思ふと、叫び聲をあげた。その後ろからマトオは足を踏み鳴らすのだつた。
 「誰に賴まれて來た? 何の用で來たのだ?」
 彼女はザインフを指しながら答へた。
 「あれを貰ひにぢや!」そして、別の方の手で頭のヴェエルをかなぐり捨てた。彼は兩肱を後に引いて、殆んどおびえるもののやうに口を開けたまま飛び退つた。」

「「恐らくは、おぬしこそ、タニットでなくて何であろう。」
 「妾が、タニットだと!」サランボオは身自らに言ふのだつた。」

「「それを持つて行くがいい!」と彼は言ふのだつた。
 「そんなものに未練はないのだ! だがそれと一緒に俺を連れて行つてくれ! 俺は軍隊を見捨てる! 何もかもあきらめよう! ガデスの向うに、海の上を二十日走ると、金粉と綠樹と鳥につつまれた島がある。山には、溢るるばかりの香料がくすぶり煙る大きな花が久遠の香爐のやうにゆらいでゐる。絲杉よりも高いレモンの林の中には、乳色の蛇が、その口のダイヤモンドで芝生の上に木の實を落してくれる。大氣の和やかさにいつまでも死なないでゐられるのだ。おお! 見てをれ、俺はその島を探し當てる。俺達は、丘の裾に切り出された水晶の洞穴に住むのだ。その島にはまだ誰も住んではゐない。でなければ、俺はその國の王になるばかりだ。」」

「――「ああ! あの月を眺めて夜を過したことがどれほどあつたか知れぬ! 月がおぬしの顏をおほふヴェエルのやうな氣がした。おぬしは月を通して俺を見つめてゐた。おぬしの思ひ出が月の光とごつちやになつて、俺はもうおぬし達を見分けることが出來なかつたものだ!」そして、顏を彼女の胸に埋めて、彼は止めどなく泣き濡れるのだつた。
 「本當にこれが、カルタゴを震へ戰かせてゐる恐ろしい人なのだらうか?」と、彼女は考へるのだつた。」



「十二 水路橋」より:

「馬の屍骸が一連の小山のやうにつづいてゐた。足や、草履や、腕や、鎖帷子や、兜の中に、頤紐で支へられ、球のやうに轉がつてゐる首などが見えるのだつた。髪の毛が茨にぶら下つてゐた。血の池の中で、腸(はらわた)を出した象共が塔を背負つた儘で喘いでゐるのだつた。人々はねばねばしたものの上を歩いてゐた。雨も降らないのに澤山の泥溜りが出來てゐた。
 かうした屍體の散亂が、上から下まで山全體をおほうてゐた。」

「サムニット人、エトルリア人、カンパニア人、プリュシオム人等、ラテン族の人々のために、四つの大きな火葬場がこしらへられた。
 希臘人達は、劍の先で穴を掘つた。スパルタ人達は、彼等の血みどろな外套を剝いで、死者達を包んだ。アテネの人々は、死者達の顏を朝日の方へ向けて、寢かしてやるのだつた。カンタブル人達は彼等を小石の塚の下に埋めてやつた。ナザモン人達は彼等を牡牛の革紐でもつて二つに折り曲げ、ガラマント人達は彼等が永久に浪で洗はれるやうに、砂濱へ埋めに行つた。けれども、ラテン人達は、死者達の灰を骨壺へ入れてやれないのを悲しんでゐた。遊牧民達は屍體がミイラになるやうな熱砂がないのを殘念がり、セルト人達は、雨もよひの空の下に、小島の多い入海の奧にある三つの自然石を懷(おも)ふのだつた。」




フロベール サランボオ 04



フロベール サランボオ 05







こちらもご参照ください:

フローベール 『聖アントワヌの誘惑』 渡辺一夫 訳 (岩波文庫)
『太平記 (六)』 兵藤裕己 校注 (岩波文庫)
































マンディアルグ 『ポムレー路地』 生田耕作 訳

「もはや私のうちには期待も、恐怖も、迷いすらもなく、ただおびただしい無気力と涯しないやすらぎの感覚があるだけだった。「自分の番が来たのだ。」」
(マンディアルグ 「ポムレー路地」 より)


マンディアルグ 
『ポムレー路地』 
生田耕作 訳



奢灞都館
1988年8月 発行
58p 
22×15.2cm
角背紙装上製本 カバー
定価2,400円(本体2,300円)



「ポムレー路地」は白水社版短篇集『黒い美術館』にも収録されていますが、本書は写真図版(モノクロ)13点が掲載されているのでよいです。
本書は出たときに ぽると・ぱろうる で見かけて買おうとおもったもののうっかりして忘れていたのをおもいだしたのでアマゾンマケプレで568円(+送料350円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。
この作品がなぜ魅力的なのかというと、地下道やトンネル、アーケードを通り抜けると(胎内くぐり)、人間ではない何か原初的な生きもの(蛇・魚など)に変身して(戻って)しまうという神話的退化、そして港町の広場の群衆に交る鮫人の孤独とノスタルジア――自分は「エレファントマン」なのだ、という自己認識、そんなところなのではなかろうか。



マンディアルグ ポムレー路地 01



◆本書より◆


「悪名高い路地のうちには、ご承知の如く得体の知れぬ獣(けだもの)が悠然と眠り込んでいる場合が多い。
A・ブルトン/Ph・スーポー」

「この七月十四日のすばらしく晴れた日の暮れ方、ナント市の上空には浮遊気球が一つぽっかりと浮かんでいた。」
「私はナントの人ジュール・ヴェルヌのことを、私たちが幼い頃読みふけった書物を飾っていたあの忘れ難い挿絵の数々を思い出すのだった。」
「〈地平線〉、と私は声に出して独り言(ご)ち、「灼熱の地」(フエゴ諸島のこと)の暗い夜空に出現する極光を、真っ赤に燃える一線のような地平の涯てを、そして間もなくこの都会の上に垂れこめる夜の帳を眼(まなこ)に思い描くのだった。」

「その手は手袋屋の看板で、ずいぶん奇妙な〈井戸屋〉という名前がつけられているが、これはおそらくこのようなガラス張りの廻廊のすべてに共通した水底(みなぞこ)的雰囲気の連想からか、それともたいそう傾いた深い階段によって繋がれている二階建ての家並みをおさめたポムレー路地の変わったつくりからきているのだろうか?」
「ぼやけた拱廊の輪郭、この沼地のような植物、湿気、乳白色と海緑色の配合、そうしたもののせいでポムレー路地はまるで、海底に没したアトランチスの列柱が立ち並ぶあたりへ、潜水夫たちが、ネモ艦長に導かれて、海亀や鮫を狩りに出かける、あの『海底二万里』の深海風景の中に位置しているかのように見受けられる。」

「たとえば水族館のガラス越しにかろうじて見分けられるすごく大きな魚がゆっくりこちらへ向かって近づいてくるような、幼い夢の中で私を恐怖でみたした大鯰(おおなまず)、モラ湖の巨大な鯰のような、つかまえどころのない、漠とした不吉な何物か。(中略)夢の目覚めぎわにも必ず訪れ私をその重圧のもとに圧しひしぐこの未来永劫の重みに似た恐ろしい重みはいったいなにものなのか?」

「絶え間なく、私の頭の中でいくつかの言葉が響き渡るのだった。〈宿命の重荷……〉、」

「どれくらい時間が経過したものか、もはや私にはまったく見当もつかなかった。こうした相次ぐ遭遇をはっきり記憶にとどめてはいたが、幻覚の場合といっしょで、そこには時間の観念は入り込まず、同じように途轍もない、しかもそのとてつもなさが現実とちっとも変らぬ自然さで展開する世界の中を引きずり廻されている思いだった。」

「その美しく盛り上った唇は開き、躊躇(ためら)い、(中略)ただひとこと Echidna 「針土竜(はりもぐら)」という言葉を洩らしたのである、そしてこの言葉が人気のない廻廊の虚空の中に長々と尾を引いて反響(こだま)するのだった。」
「こんなふうに叫ばれた「エシイドナ」のうちに(中略)北方の人間がソフィア、パンテア、クラゥディオ、エルミィーア、オノーリョ、カッサンドラ、アポローニァなどといったラテン系やイタリア系やギリシア系の名前の o や a でできた語尾を発音するおりに味わう心(うら)寂しい喜びを私は見出すのだった――こうした名前がそれほどまでに彼らを魅了するわけは、青い海を前にひかえた白い街々や、金色の列柱の周りに巻きつく緑色の植物や、葉が生い茂った廃墟や、地下墓地や、そしてまた地中海的風光の詩を、これらが一つ残らずうちに収めているように思えるからである。イギリス人やドイツ人のあいだに見受けられる真昼のわびしさのすべて、「南」の熱い風のもと、夏の美しい夜に生まれる言うにいわれぬ欲望、そしてやっと雲ひとつない空を前にしたときの虚しさと生のはかなさとの実感を、さよう、私はそのなかに見つけ出したのである。」

「ここまで来てやっと自分を振り返ってみて、私はいましがた巡り終えた奇妙なジオラマの一種の、とりわけこまごました細部が、一つ残らず今後大きな意味をおびずにはすまないことに気づいて、慄然となるのだった。(中略)たとえていえばその最後の動作が彼をそこへ運び上げた絞首台の上から、自分のまわりを眺め渡す死刑囚の場合がそうであろうと思えるような。」

「長い角テーブルが両端(りょうはし)の窓と窓のあいだをすっかり埋めつくしている。その上には、褐色のしみで汚れた布ぎれや、錐(きり)や、針や、よく切れそうな鋏や、世にも奇怪な形をした一揃えの小さなナイフ類などが、まだお目にかかったこともないキラキラ光る他の鋼鉄製器具類と入りまざっているのが見えた。テーブルの下には、詰め物をした、真赤な色の大きなクッションが置かれている。そのクッションの上には、たいそう奇怪なかたちをした生き物がおり、悲しげな様子で私のほうを見つめている。その身体は一部分は豚で、一部分は猫でできているみたいだ。」

「もはや私のうちには期待も、恐怖も、迷いすらもなく、ただおびただしい無気力と涯しないやすらぎの感覚があるだけだった。「自分の番が来たのだ。」」




マンディアルグ ポムレー路地 02








こちらもご参照ください:


谷崎潤一郎 『人魚の嘆き・魔術師』 (中公文庫)
中野美代子 『鮫人』
『神道集』 貴志正造 訳 (東洋文庫)
谷川健一 『古代海人の世界』
『オデュッセイア』 呉茂一 訳 (集英社版 世界文学全集 1)
『閲微草堂筆記 子不語』 前野直彬 訳 (中国古典文学大系 42)
種村季弘 編 『泉鏡花集成 4』 (ちくま文庫)
『神道集』 貴志正造 訳 (東洋文庫)
ジュール・ヴェルヌ 『地底旅行』 窪田般弥 訳 (創元推理文庫)
Edward Gorey 『The Tunnel Calamity』






























































清水徹 『廃墟について』

「世界はやがて終わるだろう。世界が存続しうる唯一の理由は、世界が現に存在しているということだけだ……」
(ボードレール 「火箭」 より)


清水徹 
『廃墟について』



河出書房新社 
1971年4月10日 初版印刷
1971年4月15日 初版発行
306p 
四六判 角背紙装上製本
カバー ビニールカバー
定価950円
装幀: 山崎晨



本書「あとがき」より:

「これまで書いてきた文章のなかから、ぼく自身のいくつかの関心の軸に従って、多少ともまとまったものを選んでみた。
 一見したところずいぶん多様な対象にわたっているが、こんどまとめて読み返してみたら、この十年のあいだじつはたったひとつのことを考えあぐね、それに促されて歩いてきた、いくつかあると自分では思っていた関心の軸も、そうやって歩いてきた一本の道の途中における枝葉にすぎないと解って、われながらいささかあきれている。」
「それならばそのひとつのこととは何か。「廃墟」という言葉にぼくがやや恣意的にあたえた意味内容というしかないように思える。あるいは、中原中也の詩の一句を借りれば、言語をたずさえて「無限の前に腕を振る」作家の姿と言いかえてもいいかもしれない。無限に向って投げかけられた言語は、たぶんはじめから廃墟という形態を取るしかない。ぼくはそうやって「腕を振る」作家たちの姿勢に感動し、またときには廃墟の魅惑的な構造を探るのにつよい悦びを覚えた。そういう作家たちの作品のいわばメタフィジックな側面と言語的な側面とのあいだで、奇妙な往復運動をつづけたとも言えるだろう。
 それにしても、ひとつのことを考えあぐねてきたのなら、ぼくは一冊の長篇エッセーを書くべきだったのだということに当然なる。しかし現実にはこのような形になった。言葉の遊びを許していただけるなら、これらのエッセーはいわば「廃墟」なのである。これらの「廃墟」の上に、ぼくの書くべきであったものの姿をぼんやりとなりと思い浮かべて頂けるようならば、著者として幸福これにすぎるものはない。」




清水徹 廃墟について



帯文:

「清水徹――待望の文学評論
ジッド、プルーストからビュトールまで20世紀作家たちの果断な試みと創造過程を緻密に解析し、現代文学の課題を問う俊英初の評論集」



帯裏:

「「廃墟」の彼方へ
辻邦生

清水徹は詩人的な感性を鋭い知性によってたえず解析することをやめない批評家である。彼の批評は精緻な透し彫りのまわりに白金線を巻きつけた趣がある。そして時に、この白金線が不思議な情熱によって白熱し、光を放つのである。清水徹がビュトールを紹介し、アルトーを語り、バロックの世界をわれわれの前に開いてみせるとき、そこには著者自身の冷たい熱狂が母体となり、それが精緻に分析され、緊密な言語構造体に構築されている。危機意識に駆られた現代文学の試みを凝視する彼の視線は、そこに絢爛たる「廃墟」を発見する。が、同時に「廃墟」の向うに文学の総体性を模索して格闘する著者の情熱を、読者は本書の一行一行にはっきり感じるにちがいない。」



目次 (初出):

小説の可能性――マラルメの線にそって(『世界の新しい文学の展望』 白水社 1967年6月)
廃墟について――『贋金つかい』と『段階』 (「秩序」第11号 1963年7月)
ふたたび廃墟について――『時間割』 (『世界の文学・サルトル/ビュトール』解説 中央公論社 1964年1月)
《開かれた書物》をめざして――『段階』以後 (ビュトール『文学の可能性』解説 中央公論社 1967年11月)
《構築された自伝》について――『仔猿のような芸術家の肖像』のこと (ビュトール『仔猿のような芸術家の肖像』解説 筑摩書房 1969年7月)
密室の内と外――『マンク』をめぐって (「秩序」第9号 1961年7月)
演技と演技以前――サルトルと幻想小説 (「展望」 1965年6月号)
幻想小説的空間の所在――『特性のない男』と『夏の砦』 (「審美」第5号 1967年2月)
ふたつの道――グラックとブランショ (『世界文学全集・グラック/ブランショ』解説 集英社 1967年8月)
あるとき三つの作品を……――ビュトール、シモン、ブランショ (『現代フランス文学十三人集』第4巻解説 新潮社 1966年12月)
ジョルジュ・バタイユ論のために (「世界文学」第3号 1966年5月)
《聖なるもの》をめぐって――バタイユと三島由紀夫 (「国文学」第7号 1970年5月)
アントナン・アルトー粗描 (「現代詩手帖」 1967年6月号)
アルトーの「狂気」のころ (「ユリイカ」 1970年6月号)
バロックの現代性 (「世界文学」第5号 1967年1月)
ロココの再発見 (「文芸」 1969年11月号)
現在時への献身――ボードレールからベジャールへ (「中央公論」 1969年12月号)

あとがき




◆本書より◆


「小説の可能性」より:

「ぼくはさきに、この作品に感じられる時間と空間の奇妙な融合ということを言った。じっさい、プルーストの場合、時間軸と空間軸は特異なからみ合い方をしている。たとえば作品冒頭の深夜の目覚めにおいて、語り手〈私〉はいわばそれ自体のなかで一時停止したような時間に生きると同時に、「自分がいまどこにいるか知らず、自分が誰であるかわからなくさえなって」いる。〈私〉にとって時間が失われると同時に空間もまた失われてしまった。そして〈私〉は「自分がどこにいるのかを知ろうと努力」しはじめる。『失われた時を求めて』は、また「失われた自我を求めて」でもあり、「失われた空間を求めて」でもある。」

「非現実的空間、迷路、彷徨、空しい探索、――これらを一括して謎の空間と呼ぶこともできよう。この謎の空間の特徴は、けっして解読されぬ謎、いや解読されてはならぬ謎ということだ。解読されるような謎はほんものの謎ではない。解読できぬ謎こそ真の謎にほかならぬ。文学とはなにかを解読するものではなく、解読不能のものを暗号のかたちへと転移したものなのである。」

「(あの孤高な詩人マラルメがじつは全人類を救済する芸術を夢みていたということは、おそらくマラルメ理解のためにもっと強調されていい事実である。)」



「廃墟について」より:

「ペシミスムが現実肯定の唯一の形式であるような、あるいは現実肯定はただペシミスムの形式しか取りえぬような態度、しかもこの逆説に脆弱な割れ目はまったく見あたらないような態度――《廃墟の文学》のめざすものはこれである。」


「ふたたび廃墟について」より:

「こんにちぼくたちは途方もない現実の混沌のなかにいて、自分に関しても外界に関しても明確な像を見失いがちである。『時間割』のなかの言葉を借りれば、自分も外界も「のっぺらぼうの空地」のように感じられることがなんと多いことか。それはぼくたちには耐えられない状態だ。あらゆるところから襲いかかり、ぼくたちを粉々に分裂させる力をはねのけ、自分に統一を与えることは、ぼくたちの根源的な願いである。」
「青空がほとんど顔を見せないこの都会、たまに顔を見せても「牛乳の混じった青色」でしかないようなこの都会で、ルヴェルは純粋な青空をかぎりなく憧れる。その憬れをいっそうかきたてるのが、ニュース劇場のスクリーン上で見たクレタ島の青空であり、またアテナイ、ローマ、ペトラなどの遺跡の上にひろがる青空だった。(中略)青空とは失われた聖なるもの、失われた黄金時代である。」
「青空への憬れはルヴェルの心のなかで、古代文明への憬れと結びつく。青空の下にひろがり、まばゆい陽光を浴びて輝くクレタ島のクノッソス宮殿、アテナイのアクロポリス、ローマの円形劇場などの廃墟。それらの廃墟の純粋さはルヴェルの心をとらえ、過去の文明の輝かしさを想わせるのだ。だからこそ彼は、カインの都市の末裔であるブレストンに火を放ち、それを純粋な廃墟へと変貌させたいと願うのである。」
「廃墟をとおして全体性を志向する想像力、人間のすべてに分かち与えられている全体性をめざす精神、――『時間割』はそれに対してささげられた一つの頌(ほめうた)でもある。」



「《開かれた書物》をめざして」より:

「マラルメの場合については、晩年のかれが単語を書きこんだカードをいろいろに並べ換えては愉しんでいたという有名な逸話を想い浮かべるだけにとどめておこう。作者の抱く現実像あるいは幻影を文字によって模写し、そのありのままを伝えようとするのではなく、位置、形態、大きさなどの形而下的側面のすべてを含んだものとしての文字から照射されるなにものかを見つめ、それを組み立てることによって作品をつくりあげるというマラルメの方法は、この逸話からも明瞭に理解できるはずだ。文字を楽譜状に配置したマラルメ最後の作品『骰子の一擲』も、また未完に終わったかれの《書物》にしても(中略)、こうした方法の必然的な帰結なのである。」


「密室の内と外」より:

「ある一群の芸術家がいる。かれらは、現実の世界が、いやかれらの生自体がひとつの密室にほかならぬという体験から出発する。密室のそとに幸福な楽園がひらけているというなぐさめのことばには、かれらは耳もかさない。失われた楽園というようなことばは、かれらにはなんの意味ももたない。密室脱出の希望を、密室の悪意によってむざんにも裏切られてしまったかれらは、残るかすかな希望を芸術創造に託す。
 かれらの内部には、密室への呪詛が逆流し、渦を巻いている。どんなに身をよじり、叫んでみても、密室から脱出し、その悪意を征服することはできない。どんなに意識をとぎすましてみても、かれらの内部にとぐろを巻く呪詛を消すことはできない。そのときかれらは、密室の悪意を発見し、密室への呪詛を産んだ源泉が、じつは、かれらの内部にひそむひとつの暗黒の部分、かれらの魂のなかに大きく口をあけた深淵にほかならぬことを確認する。密室に窒息しないためにかれらに残された方途は、この暗黒の部分にむかって地獄下りを敢行することしかあるまい。そうやって想像力を幽閉から解きはなち、そのたすけを借りて密室の壁を破壊し、内部と外部をつなぐ新しい空間をつくりだすのだ。その新しい空間とは、かつてそこから追放された楽園でもなく、密室の内部ともちがう、いわば「どこにもない場所」である。そこには、怪奇な幻想しか住むことを許されない。たとえば、ボッシュの描いた『快楽の園』やブリューゲルの『聖アントワーヌの誘惑』図が、このふしぎな空間をぼくたちに示してくれる。
 『マンク』の著者マシュー・グレゴリー・ルイスも、密室の悪意に衝突した芸術家のひとりだった。」
「ルイスはたしかに密室のそとの世界を志向していた。しかし、その志向の動機となったかれの内部の暗黒とは、善にたいする悪、理性にたいする本能的衝動というようなものにとどまった。しかもこの対立が激化していって、かれ自身が解体してしまうこともなかった。むしろかれは、禁止され抑圧されたものの復権をめざして悪と本能を肯定したのだ。同時代の一般的な人間観よりはよりひろい視野のなかにおいて人間をとらえ、しかもそのひろげられた枠組が人間的であることをやめなかった。ことばをかえていえば、かれの自我は同時代人より奥行も深くなり、振幅も増大したかもしれぬが、なお確かな人間的枠組を失わなかったのだ。そうでなければ、超自然の出現をあれほど熱情的に描きながら、一方、その出現に内部の核を侵蝕されることのない作中人物をつくりあげることはできなかっただろう。ブルトン流の言い方をすれば、ぼくたちの生きる時間・空間が驚異的なものによって変貌させられねばならぬのだ。『マンク』の迫力にもかかわらず、ぼくたちはなけなしの、じつはほとんど形骸化した「現実」意識にしがみついて、ともすればその迫力から身を引きたがる。このけちくさい「現実」意識を打ち壊し、現実と超現実とを交流させ、幻想が作品の全体を覆うようにするためには、作中人物自身が驚異的なものによって破壊されること、あるいはかれの自我がすでにじつは明瞭な輪郭も統一的核心も失っていると確認させられて漂よい始めることが必要なのである。」
「ぼくたちを密室とはちがう新しい怪奇な空間へと導くのは、超自然の出現と平行した作中人物の変貌であり、あるいは作中人物の変貌ゆえの世界の変貌である。」
「ぼくはいま、ふつう小説の世界では大きな位置をあたえられていない三つの作品を想い浮かべている。ロートレアモンの『マルドロールの歌』と、フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』、そしてネルヴァルの『オーレリア』。」



「幻想小説的空間の所在」より:

「こうしてリアリズムの円環は乗り越えられる。「一連のふしぎな経験」のはじまる空間を「夜」と名づけて、ムシルはこう語る。

  夜は、すべての矛盾を、そのきらきら光る慈しみぶかい母の腕に抱き、その胸に抱かれていると、いかなる言葉も偽りでなく、いかなる言葉も真実でなく、すべての言葉が、人間が新しい考えのなかで経験する、暗黒からの精神の無比の誕生となる。高められた自我は、涯しない無私のなかに光を放つ。そしてこのような夜は、これまで一度もなかったような、いや昼間の零落した理性では想像することもできないようなことが起るだろうという、とてつもない感情に満ちている。

 ウルリッヒが妹アガーテのうちに喪失した自我の核心を見出し、それをついに所有するとは、鞏固な「私」として屹立することではなく、かれ自身が「涯しない無私」と化することであった。この兄妹は「別の生の状態」を生きる。だが、この絶対的瞬間は現実の持続とは相容れない。かれらの試みの挫折はムシルにも見えていた。だからこそかれは草稿の形では破局のページを書いていた。にもかかわらずムシルは、(中略)いわば小説自体の運動に逆らって、ほとんど小説ということをさえ忘れて、「ある夏の日の息吹き」の章に兄妹の愛を美しく歌いあげることに懸命になり、そして死んだ。ムシルが「特性のない男」ウルリッヒを設定し、その相対性をひたすらに追究してゆくうちに、ウルリッヒはリアリズムの円環をぬけだし、「特性のない男」であることをやめ、自我の消滅するもうひとつの空間にはいりこんでしまう。それとともに作者ムシルは、近親相姦という閉ざされた愛を、いわばもうひとつの円環として磨きあげる作業にのめりこむ、だがその空間は、ウルリッヒとアガーテがふたりであることをやめるとき、はじめてかれらを矛盾なく内包しうるようなふしぎな空間なのだ。したがってムシルは、この空間の要請に答えて、かれらの閉ざされた愛をかぎりなく美しく歌いつづけねばならぬ。しかも、そうした無限の試みも、けっしてこの空間の要請を満足させないだろう。それゆえにムシルの小説は未完に終わるのだ。」



「ジョルジュ・バタイユ論のために」より:

「神という頂点を欠いたバタイユの思想の構造は、いわばヘーゲル的弁証法から総合の契機を除いた残りの、頂点が虚像の三角形である。あとに残ったのは、たがいに矛盾し合うふたつの力を両端にもつ不安定な底辺だけだ。そしてバタイユにとっては、この不安定に対処する道は矛盾の激化しかなかった。
 かれの思想を一言で名づければ極限的ニヒリズムと言えよう。形式論理学はしばしばニヒリズムについて冷ややかにこう語る、――ニヒリズムとは論理的誤謬なり、なんとなれば、すべてを無と見なし、すべてを否定せんとするニヒリズムは、かく言うニヒリズム自体をも否定するに至るべきものなればなり、と。しかしバタイユはこのニヒリズムの自己矛盾をみずから生きようと試みた。少年のころまでは敬虔なカトリック者であり、あるとき「神の死」を体験したバタイユのなかには、サルトルの表現を借りていえば「確乎とした、しかもたがいに対立するふたつの要求、――いまや神は死に、口を閉ざし、われわれはもはや神の死体にしか触れていない、私は飽くまでそう言い張るだろうということと、私のなかのすべてが神を求めている、神を忘れることは私にはできないということと――この両者」がけっして和解してはならぬ状態において共存していた。この解決不能の矛盾をそのまま激化させ、しかもなにかまやかしによってニヒリズムから脱却しようなどとはけっして意図しない、――というか、ニヒリズム脱却の意図ははじめから完全に消し去っておく。
 バタイユの矛盾の力学は本質的に論理性の外にある。サルトルのバタイユ論が、いかにさまざまな知識を動員し、緻密な論理を繰りひろげても、ついにバタイユそのひとと平行線をたどるに終わったのは、サルトルが、バタイユの本質をなす絶対的矛盾を見ぬかなかったからだ。というか、矛盾は、みずからそれを生きぬくかぎり、そしてその苦しみの道程におけるめくるめきの体験こそみずから求むべきものだと知悉しているかぎり、矛盾はその主体自身にとっては矛盾ではないという奇怪な思想が、ついにサルトルに理解できなかったともいえる。だからサルトルは、バタイユを評して「やがて神か空虚かに到達するだろう」と語る。じつはなにものへも到達しなかったことがバタイユの意志だったのに。」



「アントナン・アルトー粗描」より:

「アルトーは最晩年に『ヴァン・ゴッホ論』を書いている。みずからの内なる社会を殺害したひとアルトーは、ゴッホに自分と同じ精神種族を認めたのであり、ゴッホを語るかれの言葉は、そのままかれ自身の自己分析に等しい。
  真の精神錯乱者とはなにか。
  それは、人間の名誉に関するある種の観念に背くよりは、社会で理解されているような意味で狂人となるほうを好んだひとのことだ。
  精神錯乱者とは、また、その言葉を社会が聞きたくなかったひと、耐えがたい真実のかずかずを表明するのを、社会が妨げようとのぞんだひとのことだ。
 アルトーの提唱した《残酷の演劇》は、究極的な肯定の方途としては社会にとってあまりにも耐えがたかったので挫折したのではなかったか。天使への道を敢然としてつき進んだアルトーという存在は、ぼくたちにとってあまりにも耐えがたい真実を表明しているとはいえないだろうか。
 ゴッホが死の直前に描いた有名な鴉の飛びかう絵に触れて、アルトーはこう語る。
  死の二日まえに描かれたこれらの鴉は、かれの他の絵と同じく、死後の栄光といった扉をかれに開いたのではない。描かれた絵画、いや描かれぬ自然へと向けて、可能な彼岸の、可能な永遠の現実の玄妙な扉を開いている、ヴァン・ゴッホによって開かれた扉を越えたさきの、謎の不気味な彼岸の扉を開いているのだ。
 アルトーによって開かれた扉のさきに垣間見えるもの、それもまた「謎の不気味な彼岸」である。かれは、だれひとりとして証言することのできぬ精神の冒険へと身を投じ、ぼくたちを戦慄させる、――冒険の足もとから飛び散ったこんな破片をぼくたちに残しながら。
  ぼくはだれか。
  どこから来たのか。
  ぼくはアントナン・アルトー
  そう言えるのだから
  ただちに
  そう言ってのけよう
  そのとききみは見るだろう ぼくの現在の身体が
  粉々に飛び散るのを
  そして二万もの周知の面を見せて
  また集まり
  新たな身体をつくりあげるのを
  その身体を見れば
  きみはもはや永遠に
  ぼくを忘れられぬだろう」



「現在時への献身」より:

「祝祭的芸術を語る人びとは、しばしばその理論的支柱としてアントナン・アルトーの名前を口にする。アルトー、この《残酷演劇》の提唱者は、たしかに、「情熱的で痙攣的な生という観念を演劇に連れもどす」ことをめざした。しかしそれはけっして無秩序な生の暴発ではない、アルトー自身はっきりと定義しているように、かれの言う「残酷」とはサディスムでもすさまじい流血でもたんなる暴力でもなく、それは「まず明晰なもの、一種の厳格な指示、必然への服従である。」
 「苦悩の避けがたい必然性の外に出て生が営まれるというようなことはありえない」という意味での、生に必然的な苦悩、それがかれの言う「残酷」なのだ。この確認の上でアルトーは残酷演劇の目ざすところとその実現の方法を、きわめて綿密に決定してゆく。だから、アルトーの残酷演劇に見られるものは、祝祭、お祭りではなく、祭儀性の復活なのである。
 再現しえぬものという地平で考えられた生それ自体、「個人的な生とか、性格が勝ち誇っている、生のあの個人的な側面ではなく、いわば〔個人から〕解放された生、――生から人間の個人性を一掃して、人間がもはや生の一つの反映にすぎなくなってしまう――そんな生と同等になるべきもの」それが残酷演劇の基本的な定義である。それゆえに、かれはアリストテレス以来の模倣(ミメシス)の観念に絶縁状をたたきつける。なぜなら、ミメシスとはある原型を模倣すること、つまり分裂を導入するものであり、かれが舞台の上に実現し展開したいとのぞんでいるのは、いかなる分裂もないまるごとの生、いわば生きることの苦悩の裸形の姿に他ならぬような生だからである。こうして、かれは戯曲台本からはなれる。(中略)言葉の発声法を変え、オノマトペ(しかしなにものにも同一化しえぬような)を導入し、叫びか呪文に他ならぬ言葉をつくりだそうとする。(台詞のもつ音と意味という二重性を拒否するために)。俳優たちの物真似ならぬ、しかし表出力の強い動作、「まったく習慣にない音響的性質と振幅をもつ」音楽。等々……。要するにアルトーは、舞台の上において、裸形の生以外のなにものも指示しないような生、純粋に視覚的なものと純粋に感覚的なものとのいわば自己提示が、観客を震撼させるほど暴力的に実現されることを求めている。生を苦悩としてとらえているのだから、かけがえのない、しかも死すべき運命にある生の現存、《現在時》における、けっして繰り返されることのない生の現存を舞台上にくりひろげる、と言い直すこともできるだろう。おそらく、これ以上に純粋な《現在時の芸術》はあるまい。
 だが、アルトーの《残酷演劇》についてこれ以上触れるのはやめよう。なによりもそれは、かれが夢として抱いた理論に他ならず、かれの想い描いた真の演劇は「まだ存在しはじめたことがない」のだから。」

「人間の消えたあとにまでなお残りつづけるこの絶望的な「期待」は、いったいなにを待っているのか。

  絶対的に現代人でなければならぬ。
  頌歌はない。かち取ったこの歩みをつづけよう。辛い夜! 乾いた血がぼくの顔の上で煙り、背後にあるものとては、あの身の毛もよだつばかりの灌木だけだ!…… 精神の闘いは人間同士の戦いと同じように荒々しい。
  ところで、いまは前夜だ。流れ入る力強さと真の情愛のすべてを受け入れよう。そして曙には、熱烈な忍耐で身を鎧い、ぼくらは光輝く都市に入ってゆくだろう。

 イヴ・ボンヌフォワは、『地獄の季節』のなかのこの有名な一節に触れてこう書いている。「熱烈な忍耐は、ふりかかってくるものを引き受けてきたものに変え、苦悩を存在に変え、《死んだ身体たち、やがて裁かれるであろう身体たち》をあの可能な前夜、その真実が、暁とともに、《ひとつの魂とひとつの身体のなかに》、ふたたび始められる実在のなかに、打ち立てられるのが見られるであろうあの前夜へと変える。」苦悩の重圧下にある闇のなかで、身体は死ぬ。しかしなお、「熱烈な忍耐」をもって待ちつづけるとき、すでに一切の手だての断ち切られた希望になおあえて同意するとき、暗黒の前夜は、おそらくあるはずのもう一つの前夜に――やがてその夜が明ければ輝かしい永遠に包みこまれることができるような、そんな希望の前夜に――変換されるのだ。この永遠、それは「昼と夜のかなた、時間とさらには希望さえものかなたで、のぞみ焦がれた解放にただ一息で身をまかせる幸福」をあたえてくれよう。だがそれは、ランボーの同名の詩に歌われたように、人間の姿はすでになく、燦然と輝く太陽があくまで青い海に溶けこむ、ただそれだけのものであるかもしれない。《現在時》に献身する芸術がもだえながら熱烈に求めているものも、おそらくそれなのだ。」









こちらもご参照ください:

清水徹 『書物について ― その形而下学と形而上学』
清水徹 『書物としての都市 都市としての書物』
清水徹 『吉田健一の時間 ― 黄昏の優雅』
ビュトール 『時間割』 清水徹 訳 (中公文庫)
アントナン・アルトー 『神経の秤・冥府の臍』 粟津則雄・清水徹 編訳
ヴァレリィ 『ドガに就て ― ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一 訳
阿部良雄 『ひとでなしの詩学』
間章 『非時と廃墟そして鏡 ― 間章ライナーノーツ』
谷川渥 『廃墟の美学』 (集英社新書)
クリストファー・ウッドワード 『廃墟論』 森夏樹 訳
















































『プルースト文芸評論』 鈴木道彦 訳編 (筑摩叢書)

「「文体というものは、ある人びとが考えているのとちがって、いささかも文の飾りではありません。技術の問題でさえありません。それは――画家における色彩のように――ヴィジョンの質であり、われわれ各人が見ていて他人には見えない特殊な宇宙の啓示です。一人の芸術家がわれわれに与える楽しみは、宇宙を一つ余分に知らせてくれるということなのです。」」
(「プルーストによる『スワン』解説」 より)


『プルースト
文芸評論』 
鈴木道彦 訳編
 
筑摩叢書 244 


筑摩書房 
1977年9月30日 初版第1刷発行
2p+293p 図版(モノクロ)2p 
四六判 並装(フランス表紙)
カバー ビニールカバー
定価1,300円
装幀: 原弘



本書「あとがき」より:

「プルーストの文芸評論を筑摩書房の第一次世界文学大系のために翻訳したのは、かれこれ二十年近くも前のことである。今回その翻訳を一冊にまとめてほしいという提案があったのを機会に、新たに三篇の新訳をつけ加えて本書を編んだ。新しく訳出したのは第三部の「晦渋性反説」、第四部の「プルーストによる『スワン』解説」ならびに「献辞(その二)」である。」
「今回の改訳に当り、訳者はこれに大幅に手を加え、部分的には新たに訳稿を作り直し、以前は省略した原註を訳出もしたので、これはほとんど新訳と考えていただいて差し支えない。」



マルセル・プルースト文芸論集。「註」「解題」は二段組。「ジョン・ラスキン」に別丁モノクロ図版2点。



プルースト文芸評論



帯文:

「『失われた時を求めて』の作家は、批評家であることによって小説を書き得た作家だった――ボードレール論、フローベール論、ラスキン論、読書論など生前に公刊された代表的評論を四部構成に編集。本邦初訳「晦渋性反説」他を含む。」


目次:


ボードレールについて
フローベールの「文体」について
 フローベールの文体に関するマルセル・プルーストへの手紙 (アルベール・チボーデ)
或る友に(文体についての覚え書)


ジョン・ラスキン
読書の日々


晦渋性反説


プルーストによる『スワン』解説
献辞(その一)
献辞(その二)


解題
あとがき




◆本書より◆


「ボードレールについて」より:

「ああ、文字どおりの苦悩のなかで次のような明晰さを維持し、悪魔的な詩篇のなかでこれほどに宗教的な調子を保つためには、おそらくボードレールのように、間近に迫った死を自らのうちにかかえ、失語症におびやかされていなければならないのでしょう。

  年老いた猟人に 獲物は酬いをせねばならぬ……
  Il faut que le gibier paye le vieux chasseur...

  本当に信じていたのか、不意を打たれた偽善者たちよ、
  主人をあざけり、欺きおおせると?
  また天国に行き、富める身にもなるという、二つの褒美を
     受けるのが当然のことだと?
  Avez-vous done pu croire, hypocrites surpris,
  Qu'on se moque du maître et qu'avec lui l'on triche,
  Et qu'il soit naturel de recevoir deux prix,
     D'aller au Ciel et d'être riche ?

ヴィクトル・ユゴーには絶対に見出せなかったろうと思われる死に関する見事な詩句をボードレールが書きえたのは、おそらく、死に先立つおそろしい疲労を感じたことがあったからにちがいありません。

  貧しく裸の者たちの寝床を整えてやる〔天使〕。
  Et qui refait le lit des gens pauvres et nus.

 これを書いた者が、寝台を整えてもらうというおそろしい欲求をまだ感じたことがなかったとすれば、彼にこのような詩句を書かせたのは、その無意識の「予想」であり、運命の予感なのでしょう。だから私は、ポール・ヴァレリーの次のような意見に、完全には同意できません。彼は、『エウパリノス』のすばらしい一節のなかで(芸術家がはっきりとした意図のもとに作り上げた胸像を、海がいく世代を経て一つの岩の上に知らず知らず彫り上げた胸像と対置しながら)、ソクラテスをして次のように語らせています。「思考に照らし出された行為は」とヴァレリーは、ソクラテスの名をあげて言っています、「自然の運行を短縮する。人は安心しきってこう言うことができる、一人の芸術家は十万年、千万年、あるいはそれ以上に価する」と。だが私は、ヴァレリーにこう答えましょう、「よく調和のとれた思慮深い芸術家たちが、自然の盲目的な仕事に比べて十万年に価するとしても、彼ら、たとえばヴォルテールのような人物は、ボードレール、あるいはむしろドストエフスキーのような病人に比べて、無際限の時を構成するものではない。これら病人たちは、単に健康というにすぎない千人の芸術家を擁する一族が代々にわたってただの一項目すら作りえないようなものを、ことごとく癲癇(てんかん)やその他の発作の合間に、三十年間で創造してしまう。」」

「さて、いま述べた感情――苦痛や死やへり下った友愛などの感情――のために、ボードレールは、民衆と彼岸にとって自分たちのことをもっともよく語った詩人となるのであり、これに対してヴィクトル・ユゴーは単にそれらをもっとも多く語った詩人にすぎないのです。ユゴーの使う大文字や、神との対話などといった多くの大仰な騒ぎは、哀れなボードレールが苦しんでいる彼の心と体の内奥に発見したものには遠く及びません。その上、ボードレールの発想は、ユゴーのそれから何も受けてはおりません。大聖堂を飾る彫刻者にもなりえた詩人、それは偽の中世詩人ユゴーではなく、詭弁好き(カジュイスト)の、ひざまずき、顔をしかめ、呪われている、不純な信仰者、ボードレールなのです。」



「フローベールの「文体」について」より:

「『シルヴィ』の第一部はある舞台の前でくりひろげられ、一人の女優に対するジェラール・ド・ネルヴァルの恋を描き出す。突然、彼の眼が一つの広告の上に落ちる、「明日、ロワジーの射手たちは……。」この言葉が或る思い出を、というよりむしろ幼時の二つの恋を喚起する。たちまち物語の場が移動する。この記憶現象は、偉大な天才ネルヴァルに場面転換の役を果たしたのであって、私が最初自分の作品の一つにつけた標題『心の間歇』は、ネルヴァルの全作品の標題ともなりうるだろう。彼の場合、とくに作者が狂人であったという事実のために、心の間歇はまた別な性格を持っていたと言う人もあろう。だが文芸批評の観点からいえば、映像相互のあいだ、観念相互のあいだにあるもっとも重要な関係の正しい知覚を成立させる状態を(いわんや、その関係を発見する感覚をとぎすませ方向づける状態を)、狂気と呼ぶことは適当でない。この狂気とは、ほとんど、ジェラール・ド・ネルヴァルのふだんの夢想がいうにいわれぬものとなる瞬間のことにすぎないのだ。そのとき彼の狂気は、彼の作品の延長のごときものである。彼はやがてそこから逃れて、ふたたび書きはじめる。そして前の作品から招来される狂気は、次の作品の出発点に、その素材そのものになる。われわれが毎日眠ったからとて顔を赤らめはしないように、(中略)詩人はもはや過ぎた発作を恥とすることはないのだ。そして彼は、次々と生起する夢を、分類し、描写することに意を注ぐのである。」


「或る友に(文体についての覚え書)」より:

「あらゆる芸術において、才能とは表現すべき対象への芸術家の接近のことであるように思われる。そのあいだに隔たりがある限り、仕事は完成していないのだ。いまヴィオロニストは、巧みにヴァイオリンの一節を弾いている。だがその効果は眼に見え、人はそれに喝采する。彼は達人(ヴィルチュオーズ)である。これらすべてがついに消え失せ、演奏者がヴァイオリンのこの一節に完全に溶けこんで一つになってしまうときに、奇蹟が起こったことになるのであろう。十九世紀以外の時代には、対象と、その対象について説くすぐれた精神たちとのあいだに、いつも一種の距離があったようだ。だがたとえばフローベールの知性は、もっとも偉大な知性の一つとはおそらく言えないだろうが、汽船の震動や、苔の色や、湾のなかにある小島に、なりきろうとしている。そのとき知性が(フローベールのありきたりの知性でさえも)見えなくなってしまう一瞬がくる。そして、「打ち返す波でゆらゆら揺れはじめた筏に出会いながら」進んで行く船が眼前にあらわれる。このゆらゆらする動き、それは変形されて物質のなかに体現された知性なのである。知性はまた、ヒースや、ぶなや、森の下草の沈黙や光にまで到達する。このエネルギーの変貌――そこでは思索する者が姿を消して、もの(引用者注:「もの」に傍点)だけがわれわれの前に連れてこられる――それこそ作家が文体に向かって行なう最初の努力ではなかろうか。」


「ジョン・ラスキン」より:

「小説家の主題、詩人のヴィジョン、哲学者の真理は、ほとんど必然的に、いわば彼らの思想の外部から彼らに課せられるものである。このヴィジョンを表現し、この真理に近づくことを精神に強いるときに、芸術家は本当に自分自身になるのだ。」

「われわれの生のいくつかの時期が永久に閉ざされ、自分が力と自由を持っているように思える瞬間でもその時期の扉をひそかに開けることはもうできないようなとき、われわれが長いあいだおかれていた状態にほんの一瞬たりともふたたびもどることは不可能なとき――、そのようなときになって初めてわれわれは、しかじかのものが完全になくなってしまったと考えることを自らに拒否するのである。(中略)過去の焰をよびさますことはできないとしても、少なくともその灰を集めたいとわれわれは思う。もはやわれわれは蘇生の力を持っていないから、これらのものに関する冷やかな記憶――つまり事実の記憶、われわれに「お前はこんなふうだったよ」と言いはするがわれわれをその状態にもどしてはくれないし、また失われた楽園の現実を主張するばかりで、それを思い出のなかに返してはくれない記憶――、その冷やかな記憶を頼りにわれわれは少なくともこの楽園を描き、その正確な知識を構成したいと考える。」



「読書の日々」より:

「読書は精神的生活の入口にある。われわれをそこに導いてはくれるが、精神的生活そのものを形作りはしないのだ。」
「この上もなく高尚な会話やきびしい忠告も、直接それが独創的活動を作りえない以上、彼には何の役にも立つまい。だから必要なものは何かといえば、他人の介入によってもたらされながら、われわれ自身の奥底で形成されるものである。それはまさに、別な精神からやって来て、しかもこちらの孤独の真只中で受けとめられる衝動に違いない。」
「読書がわれわれをうながすものであり、その魔法の鍵が、入りこむこともできないわれわれ自身の奥底にある住居の扉を開いてくれるものであるかぎり、実人生のなかで果たしている読書の役割は有益である。ところが各人の精神生活にわれわれを眼ざめさせてくれる代りに、読書がその精神生活にとって代わろうとするとき、(中略)読書の役割は危険なものとなる。」



「晦渋性反説」より:

「作品においても人生におけると同様に、人物はどんなに普遍的であろうとも強烈な個性を持たねばならない(中略)。その人物たちはわれわれ各人と同様、彼らがもっとも自分自身であるときにもっとも広く普遍的魂を実現していると言うことができる。」
「詩人はもっと自然から想を汲まねばならぬ。自然においては、いっさいのものの根底が単一かつ晦渋であるとしても、いっさいのものの形態は個別的であり明瞭である。自然は生命の秘密によって、晦渋性への蔑視を詩人に教えるであろう。自然はわれわれに対して太陽を隠すであろうか? むき出しで輝いている無数の星、燦然と光を放ちながらたいていの者の目には見分けのつかないあの星たちを、自然は隠しているであろうか? 自然はわれわれをして、荒々しくまたあからさまに、海や西風の力にふれさせないであろうか? 自然はわれわれ各人がこの地上に滞在しているあいだ、生と死のこの上もなく深い神秘を明瞭に表現することをわれわれに許すのである。」






こちらもご参照ください:

サミュエル・ベケット 『ジョイス論/プルースト論 ― ベケット 詩・評論集』 高橋康也 他訳
岩崎力 『ヴァルボワまで』
井上究一郎 『ガリマールの家』
ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ 〔増補版〕』 (宇波彰 訳/叢書・ウニベルシタス)
マルセル・プルースト 『楽しみと日々』 窪田般彌 訳

























































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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