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『郡司正勝 刪定集 第六巻 風流の象/総索引』 (全六巻)

「風流のもつ脱社会性」
(郡司正勝 「風流と見立」 より)


『郡司正勝 刪定集 
第六巻 
風流の象/総索引』



白水社
1992年3月5日 印刷
1992年3月20日 発行
309p 索引193p 口絵(モノクロ)4p
四六判 丸背布装上製本 
ビニールカバー 貼函
定価6,500円(本体6,311円)
装丁: 石黒紀夫

月報第6号 (10p):
郡司さんの学問と遊び心(廣末保)/郡司先生映画夢(落合清彦)/風流と身体動作の研究(吉川周平)/永い時の流れの中で(高橋秀雄)/折口さんと郡司先生(茂原輝史)/郡司学――演劇研究の最高到達点(工藤隆)/『童子考』について(澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』より抜粋)/校正をお手伝いして(和田修)/編集縁起――表裏(須永朝彦)



本書「あとがき」より:

「個人の選集本を出して貰えるなどということは考えてもいなかったことで、望外の幸せと思っている。
 選集ということでもないものをと考えた末に、『北越雪譜』に用いられていた刪定という語を借りて、新しく構成し直した集ということにしたのである。」
「郡司学などという、誰が言い出したのか嫌な言葉が出てきたのに驚いているが、こんな筈ではなかった戦後の世の中には、どうして私の嫌いなことばかりがこう多くなってきたのだろうか。」
「学問というものは、大変なものだと思っているので、私のものなどは、学問に入らぬはみだしもの、あるいは踏み外したものだぐらいに考えてもらえばいい。
 ただ私の生き方と視点が反映しているところに、同感してくれる読者があったら、以て瞑すべしだとおもう。」




最終巻である本巻は『童子考』と『風流の図像誌』の二冊の単行本の全文(あとがきを除く)と、風流関連論文4篇によって構成されています。
本文中図版多数ですが、やや小さめです。



郡司正勝刪定集



帯文:

「異形の人間たちの冥界からの発信を解読する記号論風傑作「童子考」と、日本的コスモロジーの豊饒な可能性を示す「風流の図像誌」を中心に編集。「郡司学」の全貌を明らかにする全六巻の詳細な索引を付す。」


帯背:

「日本的コスモ
ロジーの集積」



帯裏:

「各巻内容
第一巻 かぶき門
 四百年におよぶ歌舞伎史を掘り下げた、独自の点描史。
第二巻 傾奇の形
 戯曲・演技・演出などの構造を、新たな切口で捉える。
第三巻 幻容の道
 人間の原初の動きに立ち帰って伝統舞踊の理念を探る。
第四巻 変身の唱
 放浪芸や見世物などの民間芸能を踏査に基づいて考察。
第五巻 戯世の文
 江戸の戯作者、狂言作者、芝居風俗などの諸論を収録。
第六巻 風流の象
 記号論を越えた記号論風傑作「童子考」を軸に編集。
各巻順に隔月配本。」



目次 (初出):

童子考 (初出題「文芸と芸能のもう一つの随想」/「國文學」昭和52年4月号~12月号 増補し『童子考』と改題して昭和59年7月に単行本刊行(白水社))
 流亡抄
 小人と蜘蛛と
 侏儒考
 笛吹童子
 星の影
 土佐の星神社
 負の七数
 七曜剣
 寅の一天
 瓠の花
 呪詛の人形
 百足と蛭
 蛭の地獄
 一本足の案山子
 髪の形
 王子の誕生
 児ケ淵

山と雲――風流の図像誌 (「現代思想」10巻9号 昭和57年7月 増補し『風流の図像誌』と改題して昭和62年6月に単行本刊行(三省堂))
 はじめに
 動く山
 死出の山
 造り山
 山を移す
 料理の山
 床の山
 「造る」と「見立てる」
 崑崙山と蓬莱の島
 島山
 剣山と剣の山
 「山車」の山
 笠の性
 踊り笠
 笠と傘と
 笠着連歌
 舞台と傘
 唐傘の正体
 天井から吊るす蓋の雲
 雲の意味

風流と見立
 風流と見立 (『国際日本文学研究集会会議録(第12回)』(国文学資料館) 平成元年3月)
 役者評判記――「見立」の発想と趣向 (『歌舞伎評判記集成 第二期 6』(岩波書店)月報 平成元年7月)
 見立の伸縮法――巨人と小人のイメージ (「伝承された巨人と小人のイマージュ」改題/「季刊自然と文化」1985年秋季号 昭和60年9月)
 風流とやつし (「風流とは心の美食」改題/「ぱいぷ」6月号 昭和50年4月)

解題 (上原輝男)

略年譜 (筆者提供の資料に基づき作製: 須永朝彦)
初出一覧

あとがき (郡司正勝)

郡司正勝刪定集総索引
 一般事項
 演目
 書名
 人名




◆本書より◆


『山と雲』「はじめに」より:

「受け売りであるが、もともと「象」は、動物の「ゾウ」(エレファント)の文字で、これを「かたどる」意と転じたのは、「人希見生象也。而得死象之骨、案其図以想其生也。故諸人之所以意想者、皆謂之象也」と『韓非子』にあるのに拠るという。つまり稀にしか見ることのできぬ、あるいは見たこともない象という動物を、意想をもって形象化したことに発するのだということであろうが、逆に、その原像を、図像とか造り物として形象化したものによって、はじめて接し、あるいは想うことができるということなのだとおもう。人間がなんらかの理由があって、想念で造り出した形象で、しかも、ある共同体で、大勢の認識を得たもの、そうした装置・仕掛、それを象徴とも、記号ともいうと考えてみたい。
 そのうえで、問題は、なぜ、人間は、そんな装置・仕掛を必要とするのか。その答を、山口昌男のいう「あちら側」を見るためにという一言で代理させて、私としては、その装置の仕掛としての「風流」という見立の飾り物に焦点を当て、山と雲という一つの主題を鳴らして、人間の創造力や表現力の働きを詠めてみたい。」



「山を移す」より:

「山を移すには、移すための秘儀、手段が必要である。呪物と呪術が、そのための働きとなる。役の行者の後裔を称する山岳信仰の修験道を享けて、室町時代から成立した富士信仰は、江戸時代に入って、当時世界屈指の大都会であった江戸の市中に、富士講が組織され、その隆盛によって多くのミニ富士塚が市中に出現した。(中略)この富士を移すためには、必ず、駿河の本家の富士山中熔岩の石をまず移し、しかるのちにそれを信仰の核として形造る必要があった。富士の生命をまず、小石に移さねばならなかったのである。」
「「うつす」という語は、移動する意のほかに写生するの意もある。「うつし取る」ことは動かす意とともに、生かしたまま撮すのである。江戸の思惟をもった明治人が、写真を撮すことを嫌ったのは、その影を「移し取られる」ことによって寿命が尽きると考えたことを想えば、「移す」ということの民俗信仰の根元の心意伝承の意味がわかる。」



「剣山と剣の山」より:

「天から降り下った剣は、そのまま神の高御座であった。」
「天孫降臨のとき、その使者の建御雷神と天鳥船神の二神が、出雲の伊那佐の小浜で、十掬(づか)剣を柄を下に、浪の穂に刺し立てて、その剣の先に跌(あぐ)み坐し、大国主神に、国譲りの交渉をするという構図には、剣の先を座として勝利の標示が読みとれまいか。
 しかし、剣の座は、仏教説話にもあったとおもわれるのは、『神道集』の「諏訪縁起事」のなかの次のごとき挿話によって知られる。南インドの拘留吠国の玉餝大臣の末娘に好美女がいた。草皮国の大王が大臣を殺し、娘を后に望んだが従わないので、領内から追放したとき、この国ばかりが自分の住処ではないといって抜提河の真中に抜鉾という鉾を立て、その上に好玩団という布団を敷いて住んだ。しかし、その川も自分の知行だといわれ、姫は、早船に乗って日本へ渡り、信濃と上野の国境の笹山の峰に飛び下りた。いま、荒船山といっているのがそこだという。」



「雲の意味」より:

「山にかかる雲は、五雲、紫雲はいうにおよばず、黒雲・白雲にしろ気象を示すものであるから、山と雲の関係から、あるきざしや天象をよみとることができる。これを人工の山と雲に見立ててきた歴史は古い。江戸の庶民は、これをショーに仕立て、見世物とした。
 足芸などもその一つだが、足の上に船形を乗せ、その中から水を吹き出させ、いちばん上に雲の旗が棚引いている形をみせる。見世物ほど記号論の明確なる図像を私は知らない。人間が地上に寝て、天に向かい、宇宙を足蹴にしている図など、まことに諷刺的でショッキングな記号的なショーだといえよう。
 演劇の根源は、まず見世物であって、人生の模擬に熱中することによって、人生を、社会を、変革してゆく記号・旗印・標識なのだとすれば、「見立」こそは、いつも新しい活力の源泉なのだということになろう。仮象の山や雲を造り出して、人間は、その後ろの本体をつねに透視するのだとおもう。いや人間には、仮装の造り物を作り出すほかに、本質に迫る「しかけ」は与えられていないということになるのである。
 こうした想を喪ったとき、人間は枯れ疲れ変わり果ててしまうだろう。なにかを待っている印をわれわれは見失ってはならないのだとおもう。
 一九八二年、富山市で開催された「全国ちんどん屋大会」に出席した。しばらく忘れられていた山と雲に出会ったのは嬉しかった。ここに、山と雲の見事な民衆の伝承の力を見ることができた。傘を背に、幟を棚引かせて奮闘しているチンドン屋の姿は、まさしく機械文明への、蟷螂の斧の姿なのか。」



「風流と見立」より:

「『万葉集』(巻十六)の「乞食者が詠ふ歌」の乞食祝言職の「讃めことば」は、口唱文芸のはじまりともいうべきものであった。「見立」の呪力は、広く深く民間に浸透し、「松魚(かつお)武士」とか「養老昆布」(喜昆布)などとなり、豆腐の「おから」は「卯の花」といい、塩を「波の花」と見立てて、言い直すことにより、讃め言葉は、「世直し」の力を持つものとなる。」


「風流とやつし」より:

「芸能にあっても、風流は、この趣向によって飾られ、かぶき狂言は、その趣向のよしあしによってきまる。したがって、この心の働き、気働きによって、成立する芸術が、風流の系譜ということになる。十分に金を使った豪奢な芸術は、風流に遠いので、(中略)金をかけたようには見せぬ趣向がなくてはならない。
 あるいは「風流」とは、貧乏な国で展開した押し詰められた芸術心ともいうべきものであるのかもしれない。」
「今日、著しく風流心が衰えたのは、やはり経済大国に成り上がった現代日本人に成金趣味の心が生じたからである。風流とは貧乏の働きでなければならない。」






こちらもご参照ください:

郡司正勝 『童子考』
『郡司正勝 刪定集 第一巻 かぶき門』 (全六巻)





































































































































『郡司正勝 刪定集 第五巻 戯世の文』 (全六巻)

「美麗なものと醜悪なもの、貞淑なものとその裏腹の執念の恐怖とを、おなじものとみる秋成の思想(中略)。それはまた、のら者の思想でもある。のら者にしてはじめて、見ることが出来る怪異なのである。」
「秋成の怪異の恐怖感は、反社会的のら者の思想が生んだ、天明無頼文学の高潮期の所産であった。」

(郡司正勝 「秋成の怪異」 より)


『郡司正勝 刪定集 
第五巻 戯世の文』



白水社
1991年8月20日 印刷
1991年9月10日 発行
380p 口絵(モノクロ)4p
四六判 丸背布装上製本 
ビニールカバー 貼函
定価4,500円(本体4,369円)
装丁: 石黒紀夫

月報第5号 (6p):
含羞の学問(諏訪春雄)/教わることのみ(野口達二)/「郡司学」の真髄(谷川渥)/こわい話(小笠原恭子)/先生の方法(佐藤恵里)



本文中図版。



郡司正勝刪定集



帯文:

「上田秋成・山東京伝・鶴屋南北・瀬川如皐などの戯作者、狂言作者をはじめ、市川団十郎・中村仲蔵などの歌舞伎役者たちを江戸風俗のなかで考察し、近世芸能と江戸文学との関連を華麗に展開。」


帯背:

「江戸文学と
風俗・芸能」



帯裏:

「各巻内容
第一巻 かぶき門
 四百年におよぶ歌舞伎史を掘り下げた、独自の点描史。
第二巻 傾奇の形
 戯曲・演技・演出などの構造を、新たな切口で捉える。
第三巻 幻容の道
 人間の原初の動きに立ち帰って伝統舞踊の理念を探る。
第四巻 変身の唱
 放浪芸や見世物などの民間芸能を踏査に基づいて考察。
第五巻 戯世の文
 江戸の戯作者、狂言作者、芝居風俗などの諸論を収録。
第六巻 風流の象
 記号論を越えた記号論風傑作「童子考」を軸に編集。
各巻順に隔月配本。」



目次 (初出):

戯作三昧
 秋成、京伝、南北 (『図説日本の古典17 上田秋成』月報(集英社) 昭和56年2月)
 秋成の怪異 (「別冊現代詩手帖 上田秋成」 昭和47年10月/『鉛と水銀』(西澤書店)収録)
 京伝の西欧趣味 (「山東京伝の西欧趣味」改題/「THE LITERATURE」1巻2号 昭和24年12月/『かぶき袋』(青蛙房)収録)
 京伝の蝦夷奥州情報 (「京伝の読本と蝦夷北国情報」改題/『叢書 江戸文庫⑱ 山東京伝集』月報(国書刊行会) 昭和62年8月)
 京伝と黙阿弥――「野晒悟助」をめぐって (「『野晒悟助』と黙阿弥」改題/東横ホール筋書 昭和30年7月)
 柳亭種彦の随筆と小説 (『日本随筆大成』第二期第20巻付録(吉川弘文館) 昭和49年10月/『鉛と水銀』収録)
 洒落本と芝居の台本 (『洒落本大成』第五巻付録(中央公論社) 昭和54年7月)
 かぶきと小説の交流 (「かぶきと『小説』との交流」改題/「季刊歌舞伎」8号 昭和45年4月/『鉛と水銀』収録)
 荷風別れ (『荷風別れ』(コーベブックス) 昭和52年9月)
 鏡花の劇空間 (「國文学」30巻7号 昭和60年6月)
 卑俗と絢爛――江戸と谷崎文学 (「解釈と鑑賞」昭和51年10月号)

かぶき作者と役者
 南北の作品と演出 (「南北研究」2号 昭和57年11月)
 「東海道四谷怪談」 (「解説『四谷怪談』の成立」改題/『新潮日本古典集成 東海道四谷怪談』(新潮社) 昭和56年8月)
 南北の合巻 (「鶴屋南北の合巻・文化期」改題/「ユリイカ」10巻4号 昭和53年4月)
 南北悪評 (「悲劇喜劇」35巻12号 昭和57年12月)
 並木五瓶の晩年 (「初代並木五瓶の晩年」改題/「伝記」10巻8号 昭和18年8月/『かぶきの発想』(弘文堂)収録)
 嘉永期の瀬川如皐 (「季刊歌舞伎」25号 昭和49年1月)
 黙阿弥について (「黙阿弥」改題/『民俗文学講座 6』(弘文堂) 昭和35年4月/『かぶき論叢』(思文閣出版)収録)
 『手前味噌』と仲蔵の代々 (『手前味噌』(北光書房) 昭和19年3月/『かぶき論叢』収録)
 かぶき役者の随筆・日記・自伝 (『燕石十種』第六巻付録(中央公論社) 昭和55年3月)

かぶき絵
 写楽と寛政六・七年の劇界 (「写楽の描いた寛政六・七年の劇界」改題/「太陽」浮世絵シリーズ「写楽」 昭和50年10月/『かぶき論叢』収録)
 幕末の江戸・芝居と浮世絵 (劇団四季「絵師絵金」公演プログラム 昭和47年8月)
 刺青と役者絵 (『原色浮世絵刺青版画』(芳賀書店) 昭和51年1月)

かぶき袋
 かぶきと文字 (「歌舞伎と文字」改題/「QT」63号 昭和61年1月)
 芝居の店舗 (「芝居にあらわれた店舗」改題/「嗜好」490号 昭和58年12月)
 芝居と卵 (「演劇と卵」改題/「嗜好」別冊「卵ブック」 昭和60年5月)
 芝居の豆腐と苅豆 (「芝居の豆腐屋と苅豆」改題/「嗜好」別冊「豆ブック」 昭和62年6月)
 芝居と柿色――柿山伏 (「柿山伏」改題/「嗜好」509号 昭和63年10月)
 かぶきの衣裳 (「服装文化」162号 昭和54年4月 「染色の美」17号 昭和57年6月)
 かぶきの化粧 (「化粧文化」8号 昭和58年5月)
 かぶきの口上 (「日本学」7号 昭和61年6月)

解題
 内山美樹子 「戯世」と学問

初出一覧




◆本書より◆


「秋成の怪異」より:

  「荒にし我軒は、いつしか浮浪子(のらもの)の中宿となりて、長き代のかたみにはあらで、荒唐世説(とりじめもなきよそごと)をいはざれば、夜食の腹ふくるゝよと、宵よりつどひて七つの鐘聞く夜はあまたたび

とは、『世間妾形気』の序文にいうところである。」

「「蛇性の婬」の豊雄という優雅な文学青年も、一般社会からすればのら者にちがいない。(中略)生活設計に勤めようという「過活(わたらひ)心」のない豊雄というのら者には、秋成の青年時代の面影も滲ませていよう。怪異を求める甘美な浪漫派の気持は、おのずからそのうちにある。怪異とは優美心にほかならないからである。
 さらに、戦慄するような怪異は、のら者の至りの「吉備津の釜」の正太郎の身上においてきわまる。」
「秋成には、仏教も儒教も信じないところがあった。自然主義的な思想の持主の秋成は、「おのがままなる奸けたる性」は、宗教や教育ではいかにすることも出来ぬことを知っていた。怪異は、その絶望感から現出する。いわゆる破滅型の人間なのである。」
「美麗なものと醜悪なもの、貞淑なものとその裏腹の執念の恐怖とを、おなじものとみる秋成の思想(中略)。それはまた、のら者の思想でもある。のら者にしてはじめて、見ることが出来る怪異なのである。」
「秋成の怪異の恐怖感は、反社会的のら者の思想が生んだ、天明無頼文学の高潮期の所産であった。」

「秋成の怪異の魅力は、その「骨冷えたる」孤絶の恐怖感にある。」
「いわば宇宙の回帰線上におこった、いや、実は何もおこってはいない恐怖感のようなもの、向こうへ向こうへ、遠くへ透明な世界に引かれてゆく、冷たい引力のようなもの、そんな骨冷えたる恐怖感を秋成の怪異には感じる。」
「秋成の怪異には、共同幻想としての狂気がない。共同幻想に覚め果てたのら者の、孤絶した自我が見てしまった怪異がある。秋成が鬼気迫るのは、このことにほかならない。
 共同幻想としての国家主義意識、全体主義的な本居宣長を、鼻持ちならぬ俗物として、噛みつかねばおさまらなかった秋成には、宣長のいう「大和魂」などという共同幻想は胸くそが悪かったのである。」
「「どこの国でも其国のたましひが国の臭気」だ、というのである。そこには、国家意識といった共同幻想を認めない、彼の個の目覚めがある。ことごとくに宣長に盾ついたのは、宣長がそういった共同幻想を創り出す親玉だったからにほかならない。「やまと魂」という共同幻想が、そののちの歴史にどんな災いを及ぼしたか、いまさら、いうまでもないことである。」

「秋成は、別号を剪枝畸人と称した。畸人は片輪者の意。剪枝は、剪指、指を切りつめたものの意。」
「また別号を無腸という。無腸は蟹の異名。秋成は、左右の指が、二、三本、蟹のごとくに折れ曲がった畸人であった。五歳の折に悪性の天然痘にかかったために、「右の中指短かき事第五指の如し。又左の第二指も短折にて用に足(た)たざれば、筆とりては右の中指なきに同じく、筆力なき事患うべし」とみずから『胆大小心録』に記すところがある。ここに、不具を誇示して別号とした彼の意識の底にあるもの、つまり構えがある。
 科rえの姿勢には、だれを恨むのでもない、この怨恨のかたちが籠められている。(中略)そこには文人気質の超脱思想がある。これが根深く人間形成の基本となることがある。跛(あしなえ)て名優の資質が発揮されるのもおなじであろう。病む人には常人にないものが見えたりするものなのである。それは世の狂人とはちがう、骨冷えて覚めきっているがゆえに、狂うことを識る者たちである。みずから片輪者をもって任ずる裏返しの誇りがあるからである。」
「秋成の『雨月物語』の漢文の序は、本文の名文に引きかえ、佶屈怪僻、厭味たらしい、読むに堪える代物ではないというのが通評である。したがってほとんど無視されてきたのが、これまでの現状である。
 しかし、私は、「剪枝畸人書」と署名した、この序文こそは、片輪者のみが知ることができる真実を、地獄に堕ちたもののみが知る文学の迫真性を、確認せしめる力があるとおもう。怪異を見てしまった栄光をさえ誇っている慄然たる文章をほかに知らないのである。
 世のつねならぬ佶屈怪僻の文章とは、世のつねの人のいうこと、これほど鬼気迫る、醜悪を辞さぬ芸術の美神に仕える瞬間の名文を知らない。彼が、みずから畸人としたのには意味がある。言いがたいことを言い尽くしているのである。片輪者のみが観た地獄の世界を、怪異の世界を誇らしく語り尽くしているからである。」
「文学とは、本来こういうものであったはずである。文学は代書屋ではない。文章を書けば、地獄に堕ちずにはいない。それが小説家の宿命、秋成のいう業(ごう)であろう。
 もし小説家にして、「三世生唖児」、「堕悪趣」する恐怖を感じないとしたら、それはおそらく偽者であり、売文の徒にすぎまい。本当の小説家なら、かならずや怪異を見ずに済ますことはならぬはずである。」



「かぶきと文字」より:

「かぶきでは舞台の上で字を書くというのが一つの芸になっています。「葛の葉」で、女に化けていた狐が障子に書置をしますね。「子別れ」の場面です。「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信田(しのだ)の森のうらみ葛の葉」。これを初め右手で書いて、赤ん坊が泣くので抱きかかえて、今度は左手で書いて、あとは口で書く。しかも裏文字といって左右を逆にした字です。裏側から見た字ですね。それを口で、床のチョボに合わせ所作をしながら書くわけですから、これは一種の「芸」です。」
「舞台の上で字を書くといえば、筆で紙に書くのではなく、宙空に書くことがあります。多くは大詰の幕切れに刀で「大入」という字を書くんです。これはたとえば立廻りがあり、相手を斬るつもりで「大入」という字に書く場合もありますし、また「大入叶(かのう)」と書く時もあります。(中略)これは一種の縁起物です。
 それからかぶきの独特な化粧法である隈取のなかに文字の隈があるんです。「大入隈」といいますが、「大入」という字を紅でもって顔に書くんです。(中略)これも「お客がたくさん来るように」という願いがこめられている呪術(まじない)と遊びでしょうね。」

「ところで「菩薩」という字は昔は一般には画数が多くて複雑なものだから、「菩薩」の上の草冠だけをとってくっつけて「廾サ」と書き、それで「菩薩」と読んでいました。俗に「ササ菩薩」というものです。略字というか、一種の記号、そしてもう象徴なんですね。それがしまいには印になるわけです。
 こういう、字引を引いても出てこないような字というのが、かぶきにはけっこうあるんです。実際にはなく、かぶきだけで使われる虚構の字というものがたくさんありますから、『歌舞伎字典』というのが一冊できてもいいくらいです。
 たとえば「相合傘」なんていうのは手偏にさらに手を添えて書くと手と手をとるということになり、これで相合傘になる。手偏に手を書く。これが外題に出てきます。」







こちらもご参照ください:

『郡司正勝 刪定集 第六巻 風流の象/総索引』 (全六巻)
































































































『郡司正勝 刪定集 第四巻 変身の唱』 (全六巻)

「自分を殺すこと、人間性を脱すること、神への変身に課せられた一つの通過儀式、俳優は、ぜひともこれを行わなくてはならなかった。」
(郡司正勝 「演技、神への変身」 より)


『郡司正勝 刪定集 
第四巻 変身の唱』



白水社
1991年6月15日 印刷
1991年6月28日 発行
380p 口絵(モノクロ)4p
四六判 丸背布装上製本 
ビニールカバー 貼函
定価4,500円(本体4,369円)
装丁: 石黒紀夫

月報第4号 (6p):
郡司さんの贈りもの(中村雄二郎)/郡司先生と見た白石島の盆踊り(武井協三)/おっとせい(織田紘二)/カイミーラ・郡司正勝先生(西村博子)/“郡司病院”のご恩(小沢昭一)



本文中図版。



郡司正勝刪定集



帯文:

「地芝居・祭祀・放浪芸・見世物など日本の民間芸能や、中国・韓国・インドなどアジア各国の伝統芸能の実態を、広く民俗学との関連において考察し、これら芸能の発生とその精神を多面的に捉えた労作。」


帯背:

「民間芸能の
発生と精神」



帯裏:

「各巻内容
第一巻 かぶき門
 四百年におよぶ歌舞伎史を掘り下げた、独自の点描史。
第二巻 傾奇の形
 戯曲・演技・演出などの構造を、新たな切口で捉える。
第三巻 幻容の道
 人間の原初の動きに立ち帰って伝統舞踊の理念を探る。
第四巻 変身の唱
 放浪芸や見世物などの民間芸能を踏査に基づいて考察。
第五巻 戯世の文
 江戸の戯作者、狂言作者、芝居風俗などの諸論を収録。
第六巻 風流の象
 記号論を越えた記号論風傑作「童子考」を軸に編集。
各巻順に隔月配本。」



目次 (初出):

民俗と芸能
 演劇史における民俗芸能の役割 (「芸能復興」18号 昭和33年4月)
 芸能の発想と文学――江戸芸術の基底にあるもの (「文学」38巻2号 昭和45年2月/『地芝居と民俗』(岩崎美術社)収録)
 琉球の「組踊」とかぶきの「仕組踊」 (「舞踊学」3号 昭和55年6月)
 演劇とフォークロア (「テアトロ」319号 昭和44年12月/『地芝居と民俗』収録)
 道行の芸能の心 (「国文学」18巻9号 昭和48年7月)
 演技、神への変身 (「国文学」20巻1号 昭和50年1月/『かぶき論叢』(思文閣出版)収録)
 小屋・見物 (「夜想」4号 昭和56年10月)
 仮面と化粧 (「住まいの文化誌・人世祭事」昭和61年8月)
 くまどり・れんぷ・その他 (「悲劇喜劇」282号 昭和49年4月)
 白と黒の舞 (「季刊・自然と文化」1985年新春号 昭和59年12月)
 風の神と風祭 (「季刊・自然と文化」1984年春季号 昭和59年3月/「CEL」8号 昭和63年11月)
 鳥の祀り・鳥の踊り (「CEL」7号 昭和63年7月)
 動物芸能の系譜 (芸団協主催公演「芸能 鳥獣戯画」プログラム 昭和53年3月)
 祭を構成する造形 (「草月」148号 昭和58年6月)
 雪中の田遊び (「雪中の空想劇場」改題/「世界」435号 昭和57年2月
 住宅における幻想空間 (住宅建築研究所「研究所だより」3号 昭和61年9月)
 放浪芸能の系譜 (「解釈と鑑賞」38巻1号 昭和38年1月/『鉛と水銀』(西沢書店)収録)
 地獄芝居 (「グラフィケーション」71号 昭和47年5月/『鉛と水銀』収録)
 蛇の道 (「民俗芸能」58号 昭和53年2月)
 天道念仏――那須の天祭 (「南那須の天祭」改題/「民俗芸能」29号 昭和42年6月)
 甲府の獅子芝居 「甲府の獅子舞」改題/「芸能復興」19号 昭和33年11月)
 小豆島のかぶき――香川県小豆郡土庄町肥土山・池田町中山 (『祭りと芸能の旅5』(ぎょうせい)昭和53年6月)
 ある女形の運命と地狂言 (「演劇学」25号 昭和59年3月)
 瞽女物語 (「御前物語」改題/「民俗芸能」8号 昭和40年10月/『かぶき袋』(青蛙房)収録)
 人形と人形芸 (講演筆記/「芸能」28巻8・9号 昭和61年8・9月)
 北海道を舞台にしたかぶきのこと (「北海道新聞」 昭和58年4月27日夕刊)
 かぶきの蝦夷錦・蝦夷模様 (「東京新聞」昭和57年6月3日夕刊)
 創成川上の見世物の思い出 (「GA」223号 昭和52年10月)
 北海の民謡 (「ヤマハニュース」64号 昭和36年7月)
 思い出の盆踊 (「北海道新聞」平成元年8月19日夕刊)

民族と芸能
 東洋の演劇理念について (「文学」55号 昭和62年9月)
 インドのかぶきと舞踊 (「インドのかぶき」「インド舞踊を訪ねて」改題/「演劇界」30巻4・5号 昭和47年4・5月/『地底の骨』(アルドオ)収録)
 劇という宗教儀式――クリヤッタム (オフィス・アジア主催公演「クリヤッタム」プログラム 昭和63年7月)
 インドの道で (「インドの道で出会った音楽」改題/東芝レコード「インド音楽舞踊の旅」別冊付録 昭和48年/『地底の骨』収録)
 新中国の芸能 (「芸能復興」10号 昭和31年8月)
 長安細雨 (「悲劇喜劇」394号 昭和58年8月)
 碧眼の名旦、夏華達に会うの記 (「演劇界」43巻2号 昭和60年2月)
 成都に川劇を観る (「演劇界」45巻8号 昭和62年7月)
 かぶきと京劇の立廻りについて (中国京劇院三団招聘公演「歌舞伎・京劇 立廻り比較公演」プログラム 昭和60年3月)
 かぶきに入った京劇の意匠 (国際交流基金主催「中国錦繍展」図録 昭和57年9月)
 北京の春節 (「北海道新聞」昭和63年1月8日夕刊)
 四川の春 (「北海道新聞」昭和63年5月11日夕刊)
 南音紀行 (「悲劇喜劇」461号 平成元年3月)
 インドネシアの旅 (「外史とのインドネシヤの旅」改題/「ガイ氏瓦版」10号 平成元年1月)
 影絵夢幻――ジャワ・バリの旅 「北海道新聞」平成元年2月17日夕刊)
 広島のマンクヌゴロ王家舞踊団の印象 (「ゴロゴロ通信」12号 平成元年10月)
 芸能世界に生きる竜 (「アニマ」15巻14号 昭和62年12月)
 日本における玄宗と楊貴妃の芸能 (中国上海昆劇団公演「長生殿」プログラム 昭和63年9月)
 日本の花軍 (四川省芙蓉花川劇団公演プログラム 平成2年5月)
 日本の鍾馗 (「日本の鍾馗さま」改題/日本文化財団「鍾馗さま」プログラム 平成元年5月)
 江戸の関羽 (「邦楽と舞踊」41巻1号 平成2年1月 「歌舞伎舞踊の研究・御名残押絵交張」のうち)

解題
 山路興造 郡司学の方法 絵画資料と民俗芸能

初出一覧




◆本書より◆


「芸能の発想と文学」より:

「かぶき台本が、公刊されることを、永いあいだ拒否してきたのは、あくまでも完成度をモットーとする文学性を拒否しようとした、ハプニングの力を承認した無意識の抵抗があったのだとおもう。」


「演劇とフォークロア」より:

「いま、直接には、お政の伝記は必要としないので、それには触れない。ただ、毒婦として喧伝され、刑を終えて娑婆へ出てきた者が、なぜ役者となって自分の行為を芝居に仕組み、みずからその正体を見せてきたのだろうかということである。本題にかかわる点があるとしたら、ここに演劇と民俗の問題があるのではないかということである。」
「その後、三十二年の「五寸釘寅吉」、三十六年の「花井お梅」など、みなみずから舞台に立った刑余の人々である。
 花井お梅は、箱屋殺しとして、いっそう有名で、いまもなお「明治一代女」の名で、新派の重要なレパートリーの一つになっているが、お梅本人も、三十六年に特赦で出獄したあとは、やはり女役者になって、自分の罪跡を仕組んだ芝居をして歩いている。」
「たんに犯罪者に対する好奇心はむろんながら、実は、ここに民俗としての演劇の本質にかかわってくるパターンが隠されているようにおもわれる。
 まず第一は、見世物になるパターンである。それは、それらの罪業の数々を見てもらい、聞いてもらわなくては、その因果の果てを尽くすことにならないという心意伝承である。見世物のうちの因果物は、こうして成立する。」
「もっとも新しくおこった例では、昭和四十三年に没した、大石順教尼である。明治三十八年、大阪堀江の廓で六人斬りという惨劇が世間を騒がせた。そこの楼主が嫉妬に狂って、五人が殺され、その生き残りの一人が、この順教尼の、当時、当家の養女として芸妓に出ていた十八歳の妻吉で、文字どおりの巻き添えであった。それも両腕を切り落とされたのだから、やはり興行者の手にかかり、因果物扱いで、世にも珍しい娘芸人松川妻吉という触れ込みで全国を廻り、小屋掛で唄い、また踊ったのである。彼女自身、その自伝『妻吉物語・無手の法悦』(昭和二十四年版)に、

  私の寄席での売物は外でもありません「不具者」といふ事なのです。「両腕のない六人斬りの生き残りの女」といふのが売り物で、私は表面こそ高座では笑顔でゐましても心の中では泣きながら生きてゆかねばなりませんでした。さうした親娘三人の生活――

と書いている。」
「この妻吉の場合は、別に犯罪者ではない。ただ飛ばっちりを食っただけのことであるが、それでも、養父に両腕を切られたのは、なにかの因縁であるとして扱われたことはまちがいない。そうでなkれば、仏門に入り、教団に属し、順教尼となって説教をして歩かなくともよかったとおもわれる。」
「彼女には、歌や踊の素養があり、のちには口で字や絵を描いたが、芝居はしなかった。しかし、自伝によれば、先に川上音二郎から一座へ出るようにと勧められ、貞奴もわざわざ出向いて来たというが、両腕のないものになにができるものかとおもい、兄も「俺れはよね(妻吉の本名)を見せ物にはせん」といったという。つまり、新派が、両腕のない妻吉を買いにきたこと、そして、それを「見せ物にはせん」と兄が断ったのは、芝居と見世物を、あきらかに同一視していることによったのである。両腕を落とし、両足を切ってまで舞台で芝居したのは、三代目沢村田之助であった。田之助に因果譚みたいなものが、やはり出版されているのは、その面影に、役者の業を見物が二重にみたからである。」
「江戸時代に、願人坊主という街頭の乞食坊主があった。『嬉遊笑覧』は「もとより乞食にて代待代垢離かきなとして有しもの故願人とはいふなり」という。代参、代詣、代待、代垢離などを引き受けて、代りに願人となる者の謂(い)いである。すたすた坊主などという裸形の者も、代垢離姿の願人である。つまり、人の罪業、穢れなどを引き受けて、わずかな賽銭を受けて願参りをする坊主のことである。それらは社会の秩序の外にあった、坊主という賤民世捨人である。賤民世捨人といえば、中世の能役者ももと阿弥号をもつ僧形の世捨人であり、猿楽法師であった。かぶき俳優こそは、僧籍などではないが、士農工商の四階級の認められた社会制度外の人間、つまり制外人(にんがいにん)であって、社会の埒外におかれている地位はおなじなのである。
 その俳優は、社会人の罪業・悪徳・汚穢を一身に引き受ける役を舞台で演じたのである。かぶきは、まず「念仏踊」からはじまった。殺される役、斬られる役、幽霊の役、悔恨と懺悔を、「物語」や「くどき」で表現するのが、そのクライマックスであった。見物は、それゆえに自分らの世の姿を見、浄化されるのである。
 生きながら社会の埒外にはみ出して、死を語り、死霊となって冥府の有様をみせるというのが能の本質であり、浄るりも、かぶきも、そうした伝承を受け継がないわけはなかった。」
「生きているうちに立てる塔婆を寿塔(じゅとう)というそうであるが、死の病にあるとき、死んだものとしてこの寿塔を立て、いったんこの世から、みずから葬って、生きのびる方法である。だれがいつ考え出したものであるかしらぬが、民俗としてこの国に残っている。(中略)これは一種の生まれ替わりの思想から出たものだといっていい。いったん死んだことにして生まれ替わるのである。そのためには、一度世を捨てねばならない。重い病いを得たときに出家するのもおなじことで、この世を捨てることによって生きのびる方法であった。
 その代役を、舞台で勤めるのが俳優の本質にあった。俳優に、忌み嫌われる面と、めでたい二様の面があるのはそれである。もと、巫覡(ふげき)より出て、生き身の憑坐(よりしろ)となった点に、その本質がある。心中・殺人・犯罪などで死んだ人物を、舞台に招きよせ、みずから憑坐となって、その因果の業を、語り、くどく技術が俳優であったとすれば、世話物は、というより、劇は、そこから出発し、その底流にそれが、つねに流れていることになる。」
「みずから尼となって、生まれ替わった毒婦といわれる者が、過去の罪業を懺悔することによって弔い、また人にも示して、役者となったのは、世阿弥とおなじく、世捨人が役者となるべき資格と伝承があったからである。」



「小屋・見物」より:

「もともと舞台は、見てはならぬものが見える場所であり、空間であったともいえる。
 幼き日に、北海道の地平線が暮れて、祭の夜がやってくると、興行師は、大きなスクリーンを、曠野を遮断するように張って、これに年に一度の活動写真を映し出した。私の印象に残っているのは、のちに知ったのであるが、「蘆屋道満大内鑑」の葛の葉狐の物語であった。野原に狩り出されて遁げてくる白狐の姿が映し出されたとき、子供の私は、そのスクリーンの裏と表を幾度も行き来して、空間の不思議な世界を知ったのであるが、幕の裏側という魅力は、遁れ難い舞台の魅力でもあり、劇場の魅力に繋がっていたにちがいない。」

「つまり演劇とは、劇を演ずるなどというものではなく、(中略)劇場を幻想小屋化することではなかったか。いわば乞食小屋・非人小屋・見世物小屋・芝居小屋の小屋の、魅力的な魔のパワーを秘めている姿に還元することではなかったのか。」

「原始に、観客はない。(中略)古代の秘儀は、すべて参加であって、祭祀にかかわりなく見物するなどということは許されようもないことであった。」

「物見の「もの」は、もと見てはならないものの「もの」で、魂とか、カミとか、霊とかを指していったのである。」
「沖縄では、普通の人の見えないものを視ることのできる人を「シー高い人」という。いわば巫覡性をもつ人である。また、そういう場所のことも「シータカイ」という。霊が集まる場所である。これはまた舞台でもあった。能は幽霊劇などともいわれるように、すべて、神や霊が主人公として登場してくる劇であるが、舞台は、そういう「もの」の集まる、あるいは集める場であり、アメノウズメが、招魂・鎮魂をおこなってきた「槽(うけ)」の伝統をもつものでもあった。」
「見物は、見てはならぬものを見たとすれば、一種の犯罪人である。祭というものの犯罪性は、その共同犯行にある。祭という一夜の秘密結社性こそが、演劇のパワーの根元であろうとおもう。」
「江戸時代の芝居は、遊里とともに悪所とされていたが、その悪所へ踏み込む者は、一種の犯罪者にちがいはない。遊里の人々も芝居の人々もともに制外者であった。こうしたなかで生まれた心意気が、芝居を支えてきたのである。」
「当時、劇場への道は、刑務所の入口へと繋がっていたのである。」
「そもそもかぶきの発祥地である京の四条河原が戦国期の死体捨場であり、焼却場であり、刑場であって、念仏聖(ひじり)の念仏場であり、そして出雲のお国の念仏踊は、ここに始まったのである。劇場という芝居小屋は、こうした死体廃棄場の空間と共栄したのであった。悪所のこうした構造は、至るところに指摘することができる。前衛演劇が限りなく小屋に憧れ、「小屋者」をもって自認するのは、アングラが原点の復権を叫ぶものとして、既成の演劇に対する殴り込みのパワーの源泉をもつ以前の闇黒の世界がものをいっているのだといっていい。北方や闇黒へ向かう志向性も、本来、演劇の悪所としての死の世界からの教唆によるもので、あるいは、見物とは、すでに、この世で、亡者になっている人々の魂ではないかとすら想えてくる。」



「仮面と化粧」より:

「人間が日常の生活を脱して、もう一つ別の次元を獲得しようとするとき、自己を変身させる手段として、仮面ならびに化粧の表現手段があるのだといえよう。」


「住宅における幻想空間」より:

「住宅における空間という点だけからすると、無駄な空間がないということが、第一に息苦しくさせている原因ではないかとおもう。子供の頃育った地方の家の中には、子供の秘密な場所が、二、三箇所はあったものだ。それは(中略)ちょっとした廊下の突きあたりの庇の下とか、押入でもよかったのだが、今日びの都会の住宅の押入などというものは、もう子供たちが隠れんぼするような空間すらないといっていい。」
「いま考えるだけでも、誰も住みついていない廊下は、子供にとって、一つの自分の空間王国であった。」
「その廊下は、表の大道の写しでもある遊び空間でもあった。開放的な表とちがって、廊下は独り遊びの空間であり、行き止まりの小路でもあった。ぼんやりと光線が流れ、風が吹き抜ける。よその猫が忍び込み、ときには雀の子が迷い込む空間でもあった。誰のものでもないこうした空間は、空想が忍び寄るにはまことに都合がよかった。
 生活の場とは何だ、住み心地のよいということは、どんなことをいうのか。私は、人間がはみ出した情況にあるときに、居る空間があることではないかとおもったりすることがある。」







こちらもご参照ください:

『郡司正勝 刪定集 第五巻 戯世の文』 (全六巻)





























































































『郡司正勝 刪定集 第三巻 幻容の道』 (全六巻)

「白色は狂気の色。存在のあり方を確かめるために、今日も彼らは白粉を塗る。」
(郡司正勝 「白塗り地獄考」 より)


『郡司正勝 刪定集 
第三巻 幻容の道』



白水社
1991年4月5日 印刷
1991年4月20日 発行
388p 口絵(モノクロ)4p
四六判 丸背布装上製本 
ビニールカバー 貼函
定価4,500円(本体4,369円)
装丁: 石黒紀夫

月報第3号 (6p):
飄逸のひと郡司さん(南博)/転機の光明(花柳寿楽)/真の自由人(大笹吉雄)/学恩(今尾哲也)/追悼 守屋毅(郡司正勝)



本文中図版。



郡司正勝刪定集



帯文:

「歩、走、飛、跳、踏、伸、屈など、肉体の原初の動きに立ち還って伝統舞踊の理念を探る一方、かぶき舞踊の歴史と実態から、現代の暗黒舞踏に至るさまざまな動きの意味を説き明かす、第一級の舞踊研究。」


帯背:

「伝統舞踊の
理念と実態」



帯裏:

「各巻内容
第一巻 かぶき門
 四百年におよぶ歌舞伎史を掘り下げた、独自の点描史。
第二巻 傾奇の形
 戯曲・演技・演出などの構造を、新たな切口で捉える。
第三巻 幻容の道
 人間の原初の動きに立ち帰って伝統舞踊の理念を探る。
第四巻 変身の唱
 放浪芸や見世物などの民間芸能を踏査に基づいて考察。
第五巻 戯世の文
 江戸の戯作者、狂言作者、芝居風俗などの諸論を収録。
第六巻 風流の象
 記号論を越えた記号論風傑作「童子考」を軸に編集。
各巻順に隔月配本。」



目次 (初出):

伝統と舞踊
 「舞踊」という語 (「逍遥の『舞踊』という語」改題/「坪内逍遥研究資料」7 昭和52年3月/『かぶき論叢』(思文閣出版)収録)
 舞踊論 (『日本の古典芸能6 舞踊』(平凡社)昭和45年11月/『かぶき論叢』収録)
 舞と踊 (『民俗文学講座3 芸能と文学』(弘文堂)昭和35年6月/『かぶき論叢』収録)
 踏む・足拍子 (「日本の舞踊と足拍子」改題/国立劇場公演「日本舞踊の流れ1*踏む」プログラム 昭和55年3月)
 歩く・走る (「歩くと走る」改題/国立劇場公演「日本舞踊の流れ4*歩く・走る」プログラム 昭和58年3月)
 飛ぶ・跳ねる (「飛ぶ・跳ねるの芸能化」改題/国立劇場公演「日本舞踊の流れ3*飛ぶ・跳ねる」プログラム 昭和57年3月)
 伸びる・屈む (「《伸びる》と《屈む》と」改題/「夜想」9 昭和58年7月)
 鬼の踊り足 (「国立能楽堂」14 昭和59年10月)
 振と物真似 (国立劇場公演「日本舞踊の流れ2*身振りと物真似」プログラム 昭和56年3月)

かぶき幻容
 おどりを支えるもの (『おどりの美学』(演劇出版社)昭和32年11月)
 日本舞踊の場 (同)
 振付と振付師と (『西山松之助著作集7』付録 昭和62年10月)
 伝統と新作舞踊 (国立劇場第三回舞踊公演「舞踊名作集」プログラム 昭和42年3月/『鉛と水銀』(西沢書店)収録
 役者の踊と舞踊家の踊 (「演劇界」増刊号「舞踊名作事典」昭和61年2月)
 風流踊 (「風流踊歌」改題/『日本古典文学大系96 近世随想集』(岩波書店)月報 昭和40年9月)
 かぶき踊歌 (『日本古典文学大系76 栄花物語下』(岩波書店)月報 昭和40年10月)
 近松の怨霊事まで (『近松全集15』(岩波書店)月報 平成1年12月)
 「道成寺」の世界 (『道成寺』(小学館)昭和57年11月)
 「一奏現在道成寺」 (「『現在道成寺』について」改題/「第七回花ノ本寿舞の会」プログラム 昭和54年10月)
 顔見世所作事と「色手綱」 (国立劇場歌舞伎公演「御摂勧進帳」筋書 昭和63年1月)
 「うしろ面」 (「日本舞踊」41巻3号 平成1年3月)
 「お陰参り」 (「『お陰参り』について」改題/「三津二郎をどりの会」プログラム 昭和54年10月)
 「紅葉狩」 (「『紅葉狩』について」改題/「藤蔭満州野古典発表会」プログラム 昭和52年5月)
 「羽衣」その近世 (「羽衣とかぶき・その近世」改題/芸団協主催公演「羽衣」プログラム 昭和63年3月)
 「隅田川」子隠しの世界 (芸団協主催公演「夢か花か 子ども――隅田川の世界」プログラム 昭和60年2月)
 おどり転生 (「演劇界」昭和63年1~12月号)
 おどり変相 (「演劇界」平成1年1~12月号)
 おどりの四季 (「演劇界」昭和62年1~12月号)

伝統と叛逆
 肉体と象徴について (「舞踊学」10 昭和62年12月)
 変身と舞踊 (銅鑼魔館「ハヤチネ」プログラム 昭和62年7月)
 破戒のなかの婚儀――舞踊への道 (「現代詩手帖」20巻4号 昭和52年4月)
 舞踏と禁忌 (「現代詩手帖」28巻6号 昭和60年6月)
 土方巽という古典舞踏 (「死という古典舞踏」改題/「美術手帖」昭和48年2月号/『鉛と水銀』収録)
 白塗り地獄考――超自然の色彩 (日本文化財団主催公演「舞踏懺悔録集成」プログラム 昭和60年2月)
 舞踏という舞踊の季節 (「朝日新聞」昭和60年2月19日夕刊)
 死せる北の舞踏 (鈴蘭党写真集『舞い舞いLOVE』昭和56年10月)

音曲転生
 音曲と日本人 (「閑暇活人」(住まいの文化誌)昭和60年8月号)
 日本音楽展望 (『総合芸術としての日本音楽』改題/『日本の伝統音楽』(音楽の友社)昭和44年12月)
 音声の文芸 (『日本古典文学大系74 歌合集』月報 昭和40年3月/『かぶき袋』(青蛙房)収録
 薗八の音色は (「薗八の音色は哀し」改題/「日本経済新聞」昭和30年12月22日)
 私と音曲 (「宮薗の家元に」改題/「季刊邦楽」16 昭和53年9月)
 薗八節追考 (「国文学研究」昭和29年3月/『かぶきの発想』(弘文堂)収録)
 鳥辺山 (芸団協主催公演「道ゆく芸能」プログラム 昭和56年3月)
 かぶきに登場する尺八 (「歌舞伎に登場する尺八」改題/「季刊邦楽」16 昭和53年9月)
 放下歌 (『日本古典文学大系79 狭衣物語』月報 昭和40年8月/『かぶき袋』収録)
 民謡と踊 (「国文学」25巻5号 昭和55年6月)
 佐原囃子 (キングレコード「佐原囃子」解説 昭和37年)
 諏訪太鼓 (キングレコード「諏訪太鼓」解説 昭和37年)
 葬送と歌舞音曲 (民族博物館報「みんぱく」一三八 平成1年3月)

解題
 古井戸秀夫 幻容と舞踊
 市川雅章 舞踊と原型

初出一覧




◆本書より◆


「舞踊論」より:

「能という舞踊劇は、幽霊劇といわれるごとく、死霊・生霊が、舞をみせ、舞語りをするところにある。それを引き出してくるために、諸国一見の僧といった世捨人という条件をもった者が通りかかると、その土地に執念をのこした亡霊があらわれて問い弔って貰って成仏する、といった形式をとる。
 その問い弔いを、狂いや、舞や、働きや、語りで表現することとなる。この問いの手順に、夢――狂い――舞――告白といったコースを取ることが多い。
 これは中世劇の一特色とみれば、日本ばかりでなく西欧でもおなじことがいえるようである。

  すなわち、エリザベス朝時代の演劇および前記古典主義時代のフランス演劇の中の発狂の場面は、夢と同じく作劇術の一部なのであり、それが少し後になると、告白の場面に代わるのである。その場面は演劇を空想から真実へ、誤った解決から真の結末へと導くのであり、また同時代の小説と同様このバロック演劇の本質的原動力の一つなのである。騎士物語の偉大な冒険は、もう彼らの空想を抑制せず、常規を逸した精神の現われになる。ルネッサンスの末期、シェークスピアとセルヴァンテスがこの狂気の偉大なる栄光を証言している。(ミシェル・フーコー著・内藤陽哉訳『狂気と文化』)

 このコースをバロック演劇の本質的なものの一つとみ、時代が下ると、それらの夢と狂乱のシチュエーションは、告白の場面に代わるとみているが、このことは、日本の場合にもいえるのかもしれない。
 男性の主人公なら「語り」、女の主人公なら「くどき」で、これが告白にあたるということになろう。しかし、これらは、真実の解決のためでなく、あくまでも舞踊的次元の表現をとるところに、西欧と東洋の展開の仕方のちがう点があるのかもしれない。
 しかも、「狂乱」には、「狂気」といっただけの精神病的な概念一般では解けない、いわゆる「風狂」があり、いわば「遊び」という精神が根源的にあるところに「憑く」という微妙な精神的な空間があるようにおもう。したがって能の舞では、おもしろう憑き、おもしろう狂う精神が、その芸術心を保つこととなる。」
「それが「踊」となると、原始的意味は別として、仏教、ことに浄土宗と結びつき、平安末期の空也あたりから、勇躍歓喜の宗教舞踊の性格において展開したから、それに死霊がついてまわり、ことに御霊会(ごりょうえ)に発した御霊信仰が強大になってくる過程において、「憑く」形式は、舞の一人にでなく、踊の形式を借りた群集の陶酔となって展開した。」

「風流が、もと「フリ」と同義語だとすると、風流踊といわなくとも、すでに「踊」のことである。久寿二年四月二十日の賀茂祭に、左中将隆良朝臣は、風流車に乗って、都大路を往った(『百錬抄』)とあるが、ゆらりゆらりと、花に飾られた牛車が、今日も葵祭の日にゆくのと同様ではあるが、風流傘などは、ゆさゆさと揺れ動いてゆくところに風流としての風情があろう。叡山の僧兵たちが「御輿を振り奉る」(『太平記』)という場合の「振り」も神威を動かすことに相違なかろう。
 しかし、そこには常規を逸した振舞が、目にあまるものであったにちがいない。後世、建物や細工が、基準から外れてずれてしまうこと、つまり「狂う」ことを、「フリ」といっている。「フリ」には、こうした面があって、「風流」そのものが、施政者側からすると常規を逸脱したものをもっていることが、しばしば禁止をもたらしたものとなったと考えられるのもそれである。たんに贅沢過差ばかりが憎まれたものではあるまい。「異形風流」(『看聞御記』応永二十六年七月十四日)といった念仏拍物(はやしもの)にともなった異形なる集団感覚、それを当局は惧れたにちがいないのである。」

「もともと「フリ」は、躍動の精神と知的作用を必要とする両面をもつものであった。近世封建社会の保守的な機構の完備と堕落のなかで、あかるい機智に富んだ解放的な抵抗精神にみちていたはずの「見立」や「やつし」の「フリ」がもつ積極的な働きの面が、しだいに「うがち」や「粋」や「しぶみ」の消極的な狭い細い世界に傾斜していったものとみたい。」



「肉体と象徴について」より:

「「から」は、空・虚・殻で、「亡骸(なきがら)」の「から」である。「だ」は「立」だとすれば、「からたち」で、「立ち」は、「一本立ち」の「たち」で、生きていること、存在していることを顕示していることで、日本語の「立ち」には、かなり複雑な意味深長さがある。
 とにかく、「からだ」とは、空虚なもので、この点からしても、西洋的身体、肉体とはちがう概念から出発していることはあきらかであろう。」
「この「からだ」を、日本人は、古来から「うつせみ」と形容し、「空」ということ「身」ということを同一視してきた文学の伝統がある。
 「うつせみ」は「空蝉」とも書き、蝉の脱けがらのことである。(中略)魂のない空の入れものであり、頼りにならぬ世の人の身のこととしたのが、日本の身体論のはじまりであったことは、知っておかなくてはなるまい。」
「つまり、肉体は、どこまでも「仮の宿」としての無色透明な、露の命の入れ器としてみる見方なのである。」
「コンクールは洋舞にはふさわしくても、日本舞踊にとっては邪道であるようにおもわれる。」
「この国の舞踊には、バレエにみるような競技性はなかったといっていい。」
「この国の舞踊のための身体は、訓練こそ必要とするものであるが、その肉体は、仮の宿とすべき幽玄の器となること、俗肉を脱落せしむべきためであって、豊満な完全美を目的としていない。いみじくも暗黒舞踏家土方巽がいった「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」というのが、東洋の身体の理念であったのではなかろうか。
 日本の舞踊家の祖の巫覡の多くが、肉体的に欠陥のある人々によって司祭された例もけっして少なくはない。生まれながらにして、病弱な、一度は死線を越えた者が、舞踊家の資格を与えられることもある。土佐の山中の神楽の太夫たちのなかには、山仕事の重労働に向かぬ虚弱な孤独な夢みがちの体質のものがなっているのだということも聞いたことがある。
 おそらくそれは身体ばかりでなく、ふかく魂に傷ついたものが、仮宿の身体を求めて、烈しい舞踊の始原へ戻る「魂振り」の運動・表現に、日本の舞踊は求められたのではなかったか。つまり影身を表現する色身の哀しさ、日本舞踊にそこはかとなく漂うもの、いまわれわれは、それを失おうとしている。」



「変身と舞踊」より:

「舞踊の極限の原理は、カミへの変身にあろう。
 韓国の仁川の巫女(ムーダン)祀で出逢ったムーダンの変身ぶりは、それぞれの神の役柄をも表出していて、忘れがたい強い印象をのこした。豚を犠牲にして、血だらけになった巫女が、座敷から庭へ飛び出し、さらに街頭へ駆け出すといった神懸りの舞踏をみていると、日常生活の場の境界線から逸脱して、神の自転のなかで、一つの宇宙を創り出し、いっぺんに、異次元の時間へ遡ってゆく思いに囚われずにはいられなかったほどであった。
 とにかく、こんな烈しい、荒々しい舞踏を日本ではみたことがなかったので、まさしく人間が失った時間を、取り戻すことができるのは、いまやムーダンの世界にしかないのではないかと思い知らされたほどであった。」



「舞踊と禁忌」より:

「もともと「白」は、なんらの色なき世界をあらわす「死の世界」の表識である場合と、生まれる前の白明を暗示する「生の世界」の表識である場合との両義をもつものであるといえよう。」

「この世俗に「白子」とよぶものは、日本では見世物になった。朝倉無声の『見世物研究』には、その白子の見世物が、文政二年(一八一九)、天保六年(一八三五)、同九年、嘉永六年(一八五三)にかかったことを伝える。
 文政二年二月に、名古屋の大須で見世物になったものは、「肥前登り猩々太夫松浦福寿斎」と名づけられた猩々と海女とのあいだに生まれた白子という因縁話が添えられており、髪の毛は、ことごとく柿色であったとされる。その太夫に猩々舞をさせたのは、色にちなんだ白子の舞踏であった。
 この畸人をみるときは、無病長寿だという迷信が、おおいに人気を煽ったという。つまりむかしの人は、不具者を、福寿の神としたところに元の深い心意があった。常人とちがう人を稀人(まれびと)とみ、常世の国からの客人として迎えたのである。医学理論や科学に駆逐された転落を、今日の暗黒舞踏は、その白に怨恨を加えて立ち上がった姿勢かもしれぬとみたのはそのためである。
 白塗りのタブーを、怨みに変えたところにいかがわしさの聖境をおもいださせたともいえよう。白には怨念がある。辺境の地で、生まれた子の面(かお)に、白布を当てたり、濡らした白紙を貼って、間引くのを「白人(しらひと)」といった。」
「舞踏の白塗りの軀位が、屈む姿には、胎内回帰の想念がある。(中略)舞踏の白子は、世の禁忌とする殺さねばならぬ闇の世界の姿であったといえよう。」
「暗黒舞踏の白塗りは、堕ちたる神の姿をおもわせる。(中略)白は、閉ざされた彼方の光の在り方を示しているようにおもう。
 肉体という「空駄(からだ)」の闇の存在を暗示するために、白色を塗りたくったのである。」



「舞踏という舞踊の季節」より:

「彼らが暗黒舞踏といわれる共通のイメージには、この死の国の風土が、近代への対立となっていることが指摘し得る。そして、その死の視点から肉体を観念したときに、肉体観の革命が生まれたのではないか。
 彼らはギリシャ以来の西洋流の美しい肉体を烈しく拒否した。彼らの舞踏は、ほとんど白骨をおもわせる白粉を塗った骸骨踊であり、賽の河原の地蔵尊か五百羅漢のそれに似たイメージをもつ。
 もともとこの国には、即身成仏を憧れたミイラ信仰が底流している伝統と、さらに東洋的骨肉解脱の登仙の思想とがある。痩身鶴のごときの美、さらにいえば、難行苦行に耐えた飢餓の美への憧れすら、美徳であった。大駱駝艦の男性群舞の構造は、それらをほとんどエロチックに転換させたものである。彼らは、獣になり、木になり、石になり、あるいは胎児へと回帰してゆく。彼らが、そうした肉体を美しいと感じる世界へ解放したとき、これまでの西洋舞踊の理念を仮装としてきた肉体は、軽薄な借りものとなり、舞踊の肉体として使用に耐えない醜悪なものとなってしまう。価値の転換である。そしてここに舞踏が誕生する。
 さらにいえば、この国には亡者踊の伝統がある。(中略)盆踊とは、亡者がこの世に帰ってきて家族の者とともに踊るものであった。(中略)能は、みな亡者の仮面をつけて、冥土からこの世にあらわれる劇であるし、念仏踊から誕生したかぶきは、かぶき者の亡者がありし日の華やかなかぶき振りの姿で登場するものであった。」
「暗黒舞踏家の肉体には、しばしば母や姉や、あるいは憧れの人の霊が棲みついている傾向がある。大野一雄には母が、土方巽には姉が棲みついていた。それもイタコ(巫女)がもつ伝統的な風土なのだといえる。」



「日本音楽展望」より:

「日本音楽では、「語り物」というジャンルが大きな分野を占める。」
「どうして、語り物と音楽が分離してゆかなかったか。これらは、はじめから、言葉と音楽とを総合させたものでなく、もともと、この国の民俗は、言葉と音楽を別ものとは考えなかったところに、大きな原因の一つがあるようにおもわれる。
 つまり、「声」と「音」とは、区別しながらも、その半面では、おなじものと考えるという点があり、「音声」と一つにして使ってしまうといっそうわからなくなる。つまり、「鳥の声」と聞くこともあり、「鳥の音(ね)」と聞くこともあったので、鳥の声というときは、そこに意味をもつ言葉を聞きとっているので、ホトトギスは、「本尊かけたか」と啼き、梟は天気をみて「糊つけ、干せ」と啼くという類である。それは獣の声もおなじことで、鳥獣の声に、一種のお告げを聞きとろうとした態度は、その魂を、人間のものと別ものだとは考えなかったことによるもので、そのうえに、仏教の因果、輪廻の思想が、根を下ろしてゆくことになる。
 したがって、音として、その音色やテンポやリズムに引かれるよりは、意味を感じとることのほうが大きい、というよりは、分離して考えることができなかったのだとおもわれる。それは、日本最古の楽器の一つといわれる「琴(こと)」においても、琴の「こと」は、詞の「こと」とおなじく、紀記にみえる「天の詔(のり)琴」は、「宣(の)りごと」つまり「のりと」とおなじことで、琴の音に、神の言葉を聞きとろうとした古代人の感覚から、琴は、彼らにとって、たんなる器楽の音色ではなかったのである。」



「鳥辺山」より:

「かぶき舞踊あるいは人形浄るりでは、「道行物」というジャンルが、もっとも大きな分野を占める。道行は、たんにAの地点からBの地点へゆくことではない。現実の地点にもう一つ、あの世の道が重なっているのである。それは心情の世界の出来事であるといってもいい。心中への道行は、心情的には、主人公たちはすでに死んでいるのであるから、同時にあの世の道を辿ることでもある。実景は、この世であっても、魂はもう別次元の世界をゆくというのが本質である。「道行」はもと、地霊の名を唱えてゆく「もの尽し」にはじまるのであろうから、一種の名寄せでもある。「山づくし」「橋づくし」は、道行の根幹をなすのだといっていい。」






こちらもご参照ください:

『郡司正勝 刪定集 第四巻 変身の唱』 (全六巻)

























































































『郡司正勝 刪定集 第二巻 傾奇の形』 (全六巻)

「芸能にたずさわる人間は、やはり一般社会からは特定の者たちで、盲僧・瞽女・唱門師・散所法師・田楽法師・猿楽法師などのいわゆる中世の賤民芸能者の群であり、世捨人であり、アウトサイダーの立場にたつ人々で、そういう人々こそ、夢幻能のワキを果たすべき役柄と資格が与えられていたのだといってよかろう。」
(郡司正勝 「かぶき戯曲を支えるもの」 より)


『郡司正勝 刪定集 
第二巻 傾奇(かぶき)の形』



白水社
1991年1月25日 印刷
1991年2月5日 発行
388p 口絵(モノクロ)4p
四六判 丸背布装上製本 
ビニールカバー 貼函
定価4,500円(本体4,369円)
装丁: 石黒紀夫

月報第2号 (6p):
独創の演劇学(戸板康二)/郡司先生と私(ドナルド・キーン)/発生期の感覚(三浦雅士)/郡司学を仰ぎ見て(服部幸雄)/カット: 米島貞宏



本文中図版。



郡司正勝刪定集



帯文:

「戯曲の発想・演技・演出「構造」、発生から解体までの「役柄」、たて・六法・だんまりといった「技術史」などの歌舞伎の様相を、民俗学の深い造詣を援用しながら考察した郡司学の秀峰。」


帯背:

「歌舞伎の諸
様相を探る」



帯裏:

「各巻内容
第一巻 かぶき門
 四百年におよぶ歌舞伎史を掘り下げた、独自の点描史。
第二巻 傾奇の形
 戯曲・演技・演出などの構造を、新たな切口で捉える。
第三巻 幻容の道
 人間の原初の動きに立ち帰って伝統舞踊の理念を探る。
第四巻 変身の唱
 放浪芸や見世物などの民間芸能を踏査に基づいて考察。
第五巻 戯世の文
 江戸の戯作者、狂言作者、芝居風俗などの諸論を収録。
第六巻 風流の象
 記号論を越えた記号論風傑作「童子考」を軸に編集。
各巻順に隔月配本。」



目次 (初出):

構造の発想
 かぶきの世界構造について (講演筆記/「芸能史研究」87号 昭和59年10月)
 かぶきと民俗学 (「文学」24巻11号 昭和31年11月/『かぶきの発想』(弘文堂)収録)
 御霊信仰・風流・かぶき (「芸能復興」14号 昭和32年4月/『かぶきの発想』収録)
 演出と演技の発想 (「創造への形式」改題/「演劇評論」21号 昭和30年6月/『かぶきの発想』収録)
 戯曲の発想 (「演劇評論」23号 昭和30年8月/『かぶきの発想』収録)
 かぶき戯曲の構造と発想 (「綜合世界文芸」14輯(「時代・世話の複式構造について」)昭和33年6月/「芸能復興」4(「かぶきと盆狂言」)昭和28年8月/『かぶきの発想』収録)
 かぶき戯曲を支えるもの (「国語と国文学」35巻10号 昭和33年10月/『かぶきの発想』収録)

役柄の研究
 猿若の研究 (「日本演劇」7号 昭和21年7月/『かぶき――様式と伝承』(寧楽書房)収録)
 かぶきの役柄――発生・解体 (「共立女子大学文学芸術研究所研究叢書」第5冊(「かぶきの役柄の発生」)昭和37年3月/「同」第6冊(「かぶきの役柄の解体」)昭和39年7月/『かぶき論叢』(思文閣出版)収録)
 「型」について――かぶきの場合 (「早稲田大学大学院文学研究科紀要」8 昭和38年1月/『かぶき論叢』収録)

演技の系譜
 「かるわざ」の系譜 (「歌舞伎芸の成立」改題/日本演劇学会誌Ⅲ『歌舞伎の新研究』 昭和27年10月/『かぶき――様式と伝承』収録)
 たての源流 (『かぶき――様式と伝承』収録)
 「立て」の歴史 (『歌舞伎のタテ』(講談社)収録)
 六法考 (「六法源流考」改題/『かぶき――様式と伝承』収録)
 だんまり考 (「だんまりの発想」改題/「演劇学」1 昭和34年1月/『かぶきの発想』収録)

解題
 鳥越文蔵 郡司学形成前後 臥作と坐作

初出一覧




◆本書より◆


「かぶきの世界構造について」より:

「例の『古事記』のなかに、イザナギ・イザナミノミコトがこの秋津島に天下りまして、「天の御柱をみたて、八尋殿を見立て給ひき」というところがあるが、これがおそらく、「見立て」の出てくるいちばん最初の記録でしょう。「見立て」の呪力です。実際にそこへ柱をたてたり、御殿をたてたりしたのではなくて――これは折口信夫も「見立て」だといっているように、そこへ柱を見立てることによって「世界」を見立てている。共同幻想でそこへ御殿を見立てているんだと考えていいのではないか。これはやっぱり、演劇の力の根元ではないかとおもいます。」
「つまり、「見立てる」というのは一つの呪力ですが、芸能というものはこの「見立て」の呪力そのものだ、芸能とは立てるものだ、本来、時空を立て直すことが芸能ではなかっただろうか、とおもうわけです。
 元禄かぶきの絵入狂言本をみますと、「見立随一」ということばが出てくる。にわかや茶番のなかにも「見立茶番」などというものがありまして、品物、景物を出して、それを見立ててせりふをいう。見立てると、そのものになってしまう。「見立て」の世界をそこに現出させてしまう。眼前に景物があって、それにせりふをいうことによってそこに一つの世界が約束される。そのせりふでそれを定着させる。「見立て」を定着させるというのが、演劇の本質ではなかったか。」



「かぶきと民俗学」より:

「それは民俗芸能を採訪して地方を歩いてみて痛切に感ずることであるが、すでに都市では滅び去っていった芸能の数々が、まったく文字というものをもたない、山間僻地の人々のあいだに、確実に伝えられてきた驚くべき伝承の力というものの事実についてである。
 都市生活ではとうてい考えおよばないのは、台本や詞章をもってこれらの民俗芸能は伝承されていないということである。たまたま台本や詞章がのこっていることがあっても、それは村のインテリが好事的に偶然に書きのこしたものか、あるいは他に理由があったので、稽古用にするためではなかった。これらの伝承はすべて肉体から肉体へ伝えられるもので、こういう場では文学の力は信じられていないといってもいい。
 したがって、その詞章の内容はほとんどが理解されていないのが通常である。それはまったく肉体的習練にともなうもので、理解も分析も入りこむ余地がなく、また必要としない世界だともいえる。
 それはちょうど、彼らの日常生活の営みと似ているコースをとっているので、たとえば「しでの田長(たおさ)」とよばれたほととぎすが鳴き出せば、いやおうなしに田植の生活行動に移るということを、先祖代々毎年狂いなく続けなければ、たちまち生活が破滅してしまう農村にとっては、そういう生活を分析している暇も余裕もないのであって、これを外見からみれば、型通りの単調な繰り返しにすぎないが、農民にとっては必死の生活力なのである。
 そういう生活のなかで、毎年繰り返される祭の芸能も、彼らにとっては一つの解放であるとともに、不安なくその生活を続けるためにも、芸能は生活体である肉体でもって正確に繰り返されて伝えてゆかねばならぬものであった。歌はリズムによって、踊は肉体運動による「型」で覚えてゆくので、頭で覚えるものではなかった。その「型」を理解しようという近代的操作がはじまるとともに、その型はそこから崩壊してゆくべき運命を辿ることになる。」



「御霊信仰・風流・かぶき」より:

「かぶきの発祥が中世から近世の変革期に行われた風流(ふりゅう)を基盤とすることは、すでに定説となっているが、その風流を動かし運んだ精神について、これを十分に解明したものがまだないといっていい。」
「ことにかぶきが風流から承け継いだ精神的エネルギーを問題とする場合には、この風流を発せしめた「御霊(ごりょう)信仰」とその祭の力に触れないでは、かぶきに興行を与え、演技を開き、戯曲を凝集した風流の本質に切りこむことができないのだとおもう。」

「芸能それ自体が、日常の生活とちがった不思議な現象でありえたこと、舞台は一つの目にみえない奇蹟を現出する場所であったことは、やがて芸能の場へ怨霊が近づくこととなり、ここだけは、ある時期に限って目にみえないものの真の姿がみえることになったのであろう。
 「今年多くの不思議打続く中に、洛中に田楽を翫ぶ事法に過ぎたり」(『太平記』巻二十七「田楽事」)と、ここにも田楽の流行は、人意によるものでなく、ひとつの不思議とみている心持があらわれている。しばしば田楽の流行が、「霊狐の所為」とか、「神々所好」などと公卿衆の日記にも記されていることは、芸能とは、なにかあの世からの表象のように考えられたからである。
 高時が田楽によって滅びたのも天狗の所為であった。有名な四条河原の桟敷崩れの田楽も、天狗倒しによるものであった。この世に執心をのこした怨霊は天狗道へ堕ちるのが、この時代の思想であったから、したがって舞台の芸能者の所作にも、なにかしら、この世のものでないものをみていたのである。

  斯る処に、新座の楽屋八九歳の小童に猿の面をきせ、御幣を差上て、赤地の金襴の打懸に、虎の皮の連貫(つらぬき)を蹴開き、小拍子に懸て、紅緑のそり橋を斜に踏で出たりけるが、高欄に飛上り、左へ回り右へ曲り、抛返りては上りたる在様、誠に此世の者とは見えず、忽に山王神託して、此奇瑞を示さるるかと、感興身にぞ余りける。(巻二十七「田楽事」)

 「誠に此世の者とは見えず、忽に山王神託して、此奇瑞を示さるるか」と表現したところに、芸能の本来の姿がみえる。だからこの桟敷が崩れたときにも、「厳(いつく)しき女房の練貫(ねりぬき)の褄高く取けるが、扇を以て幕を揚るとぞ見へ」て、上下二百四十九間の桟敷が将棋倒しになったのであり、不思議な山伏が「余に人の物狂はしげに見ゆるが憎きに、肝つぶさせて、興を醒させんずるぞ、騒ぎ給ふなと云て座より立て、或桟敷の柱をえいやえいやと推と見へけるが二百余間の桟敷、皆天狗倒に逢てげり」と芸能の場の不思議な珍事を記さずにはおかれなかったので、今日のように舞台と現実を分けて考える意識といったものがありえなかった時代の芸能の性格を物語っているようにおもう。
 このように芸能の場は、ともすれば天狗や鬼や怨霊の集まる場であったことが、やがて猿楽や田楽の能に劇的構成力を与え、鬼畜物などを生む力となったのだとおもう。
 そのもっとも烈しい怨霊は、「切(きり)」においてあらわれるべきで、あるいは、その切の時刻が、夜の更けきわまる時と一致していたのかもしれないことは、花祭の鬼や、遠山祭の天伯(てんぱく)や、出雲や隠岐神楽の切部(きりべ)の鬼の出現をもおもいあわせ、切能の鬼畜物を考えるべきかとおもう。
 われわれは、それらがやがて風流とともに街頭に練り出した姿をみることができる。これはいずれが先か後かということを論ずるよりも、舞台と街頭を選別する考え方のほうが、まちがっているといったほうがよかろう。赤いシャグマをかぶって風流を踊り狂って出る鬼や天狗は、怖るべき性格のなだめられた、庶民の願いを聞き入れてくれる鎮護の神々と変じ、もはや恐怖を感じさせるものではなくなっている姿をみることができる。
 赤い着物をき、シャグマをかぶって、いまも京の街々を花鎮めの踊りをしてあるく「やすらい花」を、われわれは、ビルの窓から、これを精霊の姿とはみることができなくなっているまでである。」



「かぶき戯曲の構造と発想」より:

「風流が、先祖神とちがう、非業の死を遂げた荒(現)人神を慰撫するための祭に発したものであることは民俗学ですでにあきらかなことであるが、新しい時代の雰囲気のなかで、能の幽霊劇の過去の歴史的人物でなく、現代人の、もう一歩突っ込んでいえば、一代のかぶき者の死を思慕し悼むのを、芸能の形を借りて再現せしめたのが風流のなかから生まれたかぶきの舞台の本命であった。」


「かぶき戯曲を支えるもの」より:

「日本の戯曲における構成力に、個性の力の稀薄なことは、はじめから個性などは問題にならない、つまり演劇というものにそんなものは求めていない、いわば、つねに典型をみせることが演劇であったといえるのではないか。」

「芸能にたずさわる人間は、やはり一般社会からは特定の者たちで、盲僧・瞽女・唱門師・散所法師・田楽法師・猿楽法師などのいわゆる中世の賤民芸能者の群であり、世捨人であり、アウトサイダーの立場にたつ人々で、そういう人々こそ、夢幻能のワキを果たすべき役柄と資格が与えられていたのだといってよかろう。
 つまり夢幻能の舞台に立ったワキは、彼ら自身であり、見物側からすれば、神霊をみた証人たちであり、あるいはその証人が舞台にいることによって、夢幻の神霊がたしかに登場を約束されるのだともいえよう。
 そういう点では、やがてかぶきがこれらの芸能者の群のなかから歩き巫女の出雲のお国の登場によって導き出されるのは必然である。しかも能がすでに武家貴族の式楽たる様相をおびて、一般民衆から浮き上がった存在になってしまったときに、民衆と接するその始源的な立場において、約束を果たすのは、これら寺社の隷属に名を借りた芸能者の群でしかありえない。」

「巫女お国の舞台に、名古屋山三の霊があらわれるのは、かぶきは御霊信仰に支えられた風流であったからである。梅玉本『かふきの草子』にみえる、業平狂乱を演じたのは、やはり王朝のかぶき者を、男と女のふた業平の面影からこれを登場させたものであろう。
 元禄の上方のかぶきで「怨霊事」が重要な女方のパターンとして形成され、江戸のかぶきで「荒事」が成立してゆくのは、舞台にはなにかを祀る意識の拠りどころがあったからで、江戸の曾我狂言が百五十年間の毎年の正月のレパートリーとして、一年は曾我ではじまり曾我で終わりをつげる観を抱かせたのは、曾我神社に祀られた五郎神(御霊神)の荒人神の登場を祭典として繰り返したためであろう。
 かぶきは、のちには興行経済のうえから一年中のべつ上演されるようになったが、もとはやはり、盆や祭に寺社の境内においてその支配下にあって興行しなければならなかったこと、つまり、のちにも節句節句が狂言の替り目になっていたことなどを考えると、その祭典の構造がかぶき戯曲の構成におよぼした精神的形態は大きかったとおもう。」
「世話狂言の中心が、いつも心中物や殺しにあり、近松の心中物が、心中場で凄惨なまでにその死の直前の状況を精彩に描写しなければならなかったこと、また何人斬といった殺人の血みどろな場面や「四谷怪談」のお岩の凄惨な逆境をとくに描写しつづけたのは、その深刻さが強調されればされるほどかえって救われるのだという約束のもとで、一種の懺悔譚に似た因縁話を説くことになるので、見物にしても、そういうニュース事件は衆知の事実であって、その死の直前の光景を作者も見物もはっきりと実感的に描き出すことによって、その因縁はこうであるのだという劇的分析に入ってゆくので、世話物における戯曲構成法は、そういう過程で成り立っていったのではあるまいか。だから劇というものは、すでに結末はわかっているので、当然なるようになっていったのだという因縁と、ああそうであったのかという証の過程を指摘してゆけばよかった。芝居というものは、民衆の総意の納得のうえで、いかにして主人公の怨念を救い慰めるか――これは民衆を浄化することなのだが――にその目的がかかっていたのではあるまいか。
 つまり約束事の果たし方の過程をみるのが、日本の戯曲を支えている心意構成なのではあるまいかということである。」







こちらもご参照ください:

『郡司正勝 刪定集 第三巻 幻容の道』 (全六巻)




















































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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