FC2ブログ

『郡司正勝 刪定集 第一巻 かぶき門』 (全六巻)

「世話物の題材は、多くは殺人とか心中とか犯罪とか、今日ならニュース種になるような事件、新聞の三面記事に載る事件で、これをすぐ舞台にのせたのである。(中略)こういう心中事件や殺人事件を舞台にのせるのは、舞台というものが非業の死をとげた人間を弔ってやる場所であるという心意伝承も、一つにはあった。」
(郡司正勝 「元禄かぶきと新浄るり」 より)


『郡司正勝 刪定集 
第一巻 かぶき門』



白水社
1990年11月15日 印刷
1990年11月30日 発行
376p 
口絵(モノクロ)2p 図版(モノクロ)2p
四六判 丸背布装上製本 
ビニールカバー 貼函
定価4,500円(本体4,369円)
装丁: 石黒紀夫

月報第1号 (8p):
数寄と傾奇(林屋辰三郎)/本物の先達(西山松之助)/かぶきの美学(中村幸彦)/演劇記号学としての郡司学(山口昌男)/怪の芸能(赤江瀑)/郡司さんに負うもの(渡辺守章)/編集部から




郡司正勝刪定集



帯文:

「歌舞伎・舞踊・民族芸能・民俗学・江戸学などの広範囲な分野にわたり、きらびやかで豊かな発想によって日本人の精神風土を重層的にとらえた「郡司学」を、全六巻にわたって体系的に集大成。」


帯背:

「体系的な
歌舞伎通史」



帯裏:

「各巻内容
第一巻 かぶき門
 四百年におよぶ歌舞伎史を掘り下げた、独自の点描史。
第二巻 傾奇の形
 戯曲・演技・演出などの構造を、新たな切口で捉える。
第三巻 幻容の道
 人間の原初の動きに立ち帰って伝統舞踊の理念を探る。
第四巻 変身の唱
 放浪芸や見世物などの民間芸能を踏査に基づいて考察。
第五巻 戯世の文
 江戸の戯作者、狂言作者、芝居風俗などの諸論を収録。
第六巻 風流の象
 記号論を越えた記号論風傑作「童子考」を軸に編集。
各巻順に隔月配本。」



目次 (初出):

かぶきの展望
 かぶきの展望 (「歌舞伎」改題/岩波講座「日本文学史」8 昭和33年11月/『かぶき論叢』(思文閣出版)収録、「歌舞伎戯曲の展開」)

慶長の含笑
 遊女芸の系譜 (書下し)
 三味線の登場 (「初期かぶきの一考察」改題/「歴史日本」2巻10号 昭和18年10月/『かぶき――様式と伝承』(寧楽書房)収録)
 若衆かぶき以前の少年芸 (「演劇研究」4 昭和45年3月、早稲田大学演劇博物館/『かぶき論叢』収録)

元禄の開化
 元禄かぶきと能 (「能と元禄かぶき」改題/「能」7巻3号 昭和28年3月/『かぶきの発想』(弘文堂)収録)
 元禄かぶきと新浄るり (「かぶきと浄瑠璃の交流」改題/『日本の文学4 元禄復興』(至文堂) 昭和41年5月)
 元禄かぶきにおける開帳物 (「国文学研究」7輯 昭和27年10月/『かぶきの発想』収録)
 近松とかぶき (「解釈と鑑賞」22巻1号 昭和32年1月/『かぶきの発想』収録)

天明の花盛
 かぶきと人形浄るり (『日本の文学5 江戸市民文学の開花』(至文堂) 昭和42年4月)
 豊後浄るりと所作事の展開
 天明かぶき (「歌舞伎の隆盛・天明期」改題/『講座日本文学8 近世編Ⅱ』(三省堂) 昭和44年3月)
 天明期の世話物――桜田治助の場合 (「歌舞伎」24号 昭和49年4月)

化政の爛熟
 化政度のかぶきの動向 (「芸能史研究」18号 昭和42年7月)
 生世話物の成立 (「江戸世話物の成立」改題/「歌舞伎」1巻3号 昭和44年1月)
 かぶき・浮世絵の新風 (「歌舞伎・浮世絵の新風」改題/「歴史教育」 昭和39年12月/『鉛と水銀』収録)
 治助・京伝・南北 (「国文学研究」旧18輯 昭和18年12月/『かぶきの発想』収録)
 化政度の舞踊 (「文化文政の舞踊」(国立劇場第四回舞踊公演パンフレット) 昭和42年11月)
 江戸から明治へ (「歌舞伎・江戸から明治」改題/「文学」53巻11号 昭和60年11月)

劇場小史
 近世初期のかぶき劇場と興行 (「近世初期のかぶき劇場」改題/「国文学」7巻15号 昭和37年12月)
 近世後期のかぶき劇場 (「国文学」8巻4号 昭和38年3月)

解題
 郡司学における「かぶき」と「かぶき史」 (守屋毅)

初出一覧




◆本書より◆


「かぶきの展望」より:

「かぶきの演劇としての流れは、大きくみて、舞踊劇としての要素と、セリフ劇としての要素と、この二つを論じなければ十分ではあるまい。
 かぶきを含めた日本の古典演劇史は、一面からみると、そのすべてが舞踊史だということもできる。」
「どうも日本の古典芸能を通じての本質のなかに、窮極は、舞踊的境地を最高のものとして考え、これを支えていたものがあるようにおもわれる。
 また日本の演劇は、かならずしも戯曲(文学性)を芸の上にあるものとはみてこなかった。つまり、文学性をそれほど必要としてこなかったようにみうけられる。これもその舞踊性と関係があるようにおもう。」

「かぶきの出発点となった、ややこ踊も念仏踊もかぶき踊も、当時の「風流(ふりゅう)」の一環のおどりにすぎない。したがって、その性格も風流という祭礼や盆の魂祭りにともなう芸能の形式に掣肘されているはずである。つまり民俗の祭式の構成の影響をうけないはずがないということである。かぶきの発生期における演劇的構成法は、すなわち風流踊の構成法であったといってまちがいはなかろう。
 お国が「かぶき踊」をもって、諸記録にあらわれた慶長八年の翌年(一六〇四)の八月に、豊臣秀吉の七周忌のためにおこなわれた豊国神社臨時祭の風流は、中世から近世への最後の、そして最大のショーであった。上京下京の五百人が、それぞれ組をわけ、風流の飾りものをつくして、踊りまわり、さらに警固五百人、床木持五百人が出たと記録されているが、その光景を描いた屏風絵にも、その絢爛豪華な風流旋風のさまをみることができる。それは中世の能にみられるような静的な「舞」ではなく「飛つはねつ踊上り飛上り拍子を合、乱拍子、上求菩提と蹈鳴らし、手を尽くしてそ打たりける」と記されている、あきらかに「おどり」であった。」



「元禄かぶきと新浄るり」より:

「この世話物というのは、当時の庶民社会の生活面を舞台に反映させたものである。こういう性格はかぶきの出発点からの特質である。世間の最も新しい事象、とくにかぶいたる現象をすぐに舞台に取り入れるのは、かぶきの本来の使命でもあった。そういう意味では浄るりよりも近世的な性格を出発点からもっていたのである。
 世話物の題材は、多くは殺人とか心中とか犯罪とか、今日ならニュース種になるような事件、新聞の三面記事に載る事件で、これをすぐ舞台にのせたのである。社会劇というよりは、異常なショックを与えるような事件を、すぐ舞台で見せるのが世話物の元の意義だったと思う。(中略)こういう心中事件や殺人事件を舞台にのせるのは、舞台というものが非業の死をとげた人間を弔ってやる場所であるという心意伝承も、一つにはあった。」



「化政度のかぶきの動向」より:

「南北の作品は、「四谷怪談」など、完成度という点においては、はるかに近松の諸作品におとる。しかし、南北の作品全篇が含むそのエネルギーと発想は、グロテスクな頽廃の極をあらわしながらも、解体期の新鮮な視角と新風をはらんでいる。作品の完成度の問題は、その時代時代の要求がしからしめるものだとおもう。ことに生きている社会の実相を、もっとも敏感に、反映する舞台芸術としてのかぶきにおいては、とくに、そのことをいっておかなくてはならないかとおもう。」


「治助・京伝・南北」より:

「京伝と南北には、もともと感覚的な、異常な鋭さに共通のものがあったのでもあろうが、ひとつには、化政度の世紀末的な頽廃気分が両者をひとしく包んでいたのであろう。しかし、京伝はその感性の繊細さの中に天明振(てんめいぶり)の明るい遊びをのこし、南北には図太く暗い陰惨な血の匂いに幕末を間近に感じさせずにはおかないものがある。あるいはそれは、京伝の文学と、南北のドラマとの質のちがいであったかもしれぬ。」


「江戸から明治へ」より:

「こうした世紀末的な世相の頽廃は、じかに演劇に反映したとともに、民衆は、その悪相を凝視することによって、たしかな写実の目と時勢の流れを感得したにちがいなかった。
 その世界構造は、勧善懲悪の枠をはめられていたにしても、それは政府のお仕着せのお題目を大声に唱えながらも、目は黙って崩れてゆく悪の諸々相を眺めて、同時代の感性で身振いしていたに相違ないのである。」







こちらもご参照ください:

『郡司正勝 刪定集 第二巻 傾奇の形』 (全六巻)












































































































郡司正勝 『地底の骨 ― ヨーロッパの旅』

「みわたす限り荒涼たる、第三紀の花崗岩の岩肌もあらわに、氷河の爪跡を残した島の姿は、まるで地底の骨が、海上に浮び上がったという感じ。その岩盤に、白亜の家が、二、三軒づつしがみついて、吹きさらされている。」
(郡司正勝 「地底の骨」 より)


郡司正勝 
『地底の骨
― ヨーロッパの旅』


アルドオ
1973年7月7日 発行
216p 図版(モノクロ)48p
四六判 角背布装上製本 貼函
私家版 500部



本書「あとがき」より:

「それまで一度も考えたこともなかった海外への旅の機会が、突然与えられて、(中略)思い切って出発したのが、一九六八(昭四三)年の春のことであった。」
「そののち、韓国とインドへゆく機会もわりに容易にきて、西洋と東洋へ躰で入ってゆくことができたのは幸であった。」
「これらの覚えの記録は、大半は、(中略)「国文学」誌上へ、半年に亘って掲載された。(中略)「遁水の記」は、(中略)「文学者」に掲載された。アラン島の「地底の骨」は、写真とともに、「朝日ジャーナル」(一九六九・五・一一)に発表した。その他、断片的に、新聞や雑誌に載ったものもあり、また、こんどの出版にあたって、穴を埋めたところもある。
 挿入した写真版は、すべてカラーで自分が撮ったものであったが、もう色が褪せかけた。」



郡司正勝 地底の骨 01


モスグリーンの函に背文字だけが印刷されています。
タイトルがかっこよいので購入してみました。ネット古書店で1,084円(送料込)でした。見返しに毛筆で「吉岡実様恵存 郡司正勝」とありました。


目次:

露国の春
モスクワの芸術家たち
ソ連でみた舞台
北欧の初夏
イギリスの夏
ロンドンの文楽
ダブリンのバラッド酒場
グリーンダローの峡谷
ゴルウェー行
地底の骨〈アラン島〉
巴里の屋根の下
遁水の記〈スペインの夏よさらば〉
スペインの酒
西洋古寺巡礼〈マリアの首〉
希臘・羅馬の悲夏
花の伊太利
美の都・水の都・雪山の国

韓国民俗芸能の旅
インドのかぶきと舞踊
インドの道で

あとがき



郡司正勝 地底の骨 02



◆本書より◆


「モスクワの芸術家たち」より:

「かなり広い木立の前庭のある廃屋のような病院の前には、亡霊のように裾を曳いた、丈の高いドストエフスキーの巨大な銅像が、上から覗きこむようにつっ立っている。
 明治調のレンガ建ての町並を、小さな電車がゆく。町角で、カスピ海から捕れたという化物のような鯉を二匹、三尺ほどある奴をただそれだけ、店の屋台に乗せて、売っている店が絵のように幻想的である。」



「巴里の屋根の下」より:

「突然、爆竹の裂ける音がして、街路が騒がしくなる。カーテンの隙間から、見下ろすと、オデオン座の方から、白い警棒をもった警官に追われてきた学生が、二人、三人、街角を曲って消えた。遠くの建物の向うで、警官をからかうような口笛がして、火炎ビンの裂ける音。
 やがて、しーんとして、暮れてゆく街角をぼんやり見下ろしていると、哀調をおびた単調なサキソホンのくり返す音が、向い側の屋根裏の窓から聞えてきて、赤いネオンが、舗道の敷石に映り、やがてパリの夜が訪れる。」



「遁水の記」より:

「宿を出て、サンダルで、廃墟の城址に登る。上からみ下ろすと、海口の三角州の上にできた町らしい。古い六世紀頃の寺院の屋根に可愛らしい怪物の彫刻が付いていて、われわれを見下ろしている。ふと藪のなかで、足に触ったものをみるとほの白い。髑髏であった。土葬の国では、こんなことに驚かないのであろうか。
 黒衣の尼僧が、三三五五、丘の下を、野の花を摘みながらゆくのに、雲が切れて、夏の雷が鳴る。」

「旧教の国スペインは、どこへ行っても、マリヤは観音さまであった。俗悪なということばを使うなら、まるで、見世物の生き人形のような、生々しさから出ようとしていない。これが大衆というものの力かも知れない。芸術などには、なってやるものかという力が、そこにある。」
「それにしても、寺院の壁画や、キリストの責め、聖使徒を殺したものの堕地獄の生々しいばかりの血生臭い、絵画・彫刻はどうしたものだ。浄土を静寂においた日本の寺院とは、なんという大きな違いなのか。
 民衆は、その血生臭い形象に、罪の意識を繰りかえし繰りかえし実感しなければならないのが、カソリックの世界なのであろうか。生きながらの地獄を、ことごとく見てしまった者の罪、見たということの原罪なのであろう。」



郡司正勝 地底の骨 03



こちらもご参照ください:

郡司正勝 『古典芸能 鉛と水銀』


「地獄芝居」より:

「いまでもどこかにあるのだろうか。子供の頃には、地獄極楽の見世物というのがお祭りの日にかかったものであった。」
「極彩色に汚された幕に隠された気味悪い世界、代はお戻りと呼ぶ三途川から出張してきたような中婆に呼びとめられて、ふわふわとしたテント張りの密室のなかに吸いこまれていった中学生のある日の後姿は、悪場所に踏み入れた魂が分離した日でもあった。残された魂は悲しみを知り、入っていった魄は恐ろしい楽しみを知った。」
「なぜ地獄には、かずかずの面白い地獄がたくさんあるのに、極楽はたった一つの退屈な場面しかないのであろう。私は春風に吹かれながら、冥府の鬼たちが、亡者を臼に入れて、等間隔に搗く、コトコトコトコトという音が、いつまでも後から追ってくるのを聞いた。まだ、その頃にはわからなかったが、私は視るということの罪悪感を、やっとこの齢になって識ることができるようになった。視るということは、すなわち地獄を見ることであるということを。人間がみることが出来るのは堕ちてゆくものの姿であって、極楽は、ただ想うものにすぎない。」




その他の紀行文:

武田百合子 『犬が星見た ― ロシア旅行』 (中公文庫)
島尾敏雄 『夢のかげを求めて 東欧紀行』
井上究一郎 『ガリマールの家』















































































































郡司正勝 『かぶき発生史論集』 鳥越文藏 編 (岩波現代文庫)

「江戸文化の二大育成地として、すでに、史家の指摘せる遊里と芝居街とは、当時の社会観からは、二大悪所として忌憚されつづけてきたところであった。遊里は「古来畜生といふ」(『世事見聞録』)人種が住んでいたところであり、芝居は「河原乞食」の世界であって、当時の封建社会観からすれば、いずれも士農工商の階級からはずれた、非人あるいは賤民といわれる部類に属していたので、彼らは人間ではなかったのである。」
(郡司正勝 「河原者と芸術」 より)


郡司正勝 
『かぶき発生史論集』 
鳥越文藏 編
 
岩波現代文庫 文芸 B-52

岩波書店
2002年5月16日 第1刷発行
292p 索引18p 目次・付記x
文庫判 並装 カバー
定価1,000円+税


「本書は岩波現代文庫のために編集されたオリジナル版である。」



本書所収論文のうち、「猿若の研究」「道化の誕生」「力者とその芸能」「河原者と芸術」は『かぶき――様式と伝承』(初版1954年、新版1969年)からの再録です。「若衆かぶき以前の少年芸」(1970年)は『かぶき論叢』(1979年)に収録されています。


郡司正勝 かぶき発生史論集


カバーそで文:

「著者のかぶき発生史に関わる画期的な業績のアンソロジー。かぶき揺籃期の十六世紀末に物真似芸を中心に喜劇的な役柄を演じた「猿若」や道化に関する研究、中世末期の被差別芸能民を扱った「力者とその芸能」「河原者と芸術」などの論考を収録。編者による詳細な注と解説を付し、初学者にも理解しやすい形で紹介する。」


目次:

編集付記

Ⅰ 猿若の研究
 一 文献にあらわれた猿若および従来の学説
 二 猿若のあらわれた画証
 三 民俗舞踊における猿若の発見
 四 猿若とシンボチ
 五 猿楽と猿若の関係について
 六 狂言師と猿若の関係について
 七 猿若の扮装術
  1 服装について
  2 服飾品について
  3 持ち物(小道具)について
   (1) 床几その他
   (2) 釆と団扇
 八 猿若の芸能
  1 唐団扇による演技術
  2 柱による芸能
  3 物真似術
  4 雄弁術
  5 木やりと猿若
  6 しゝおどりと猿若
 九 猿若狂言の変遷
 十 猿若狂言の成立
 十一 道化としての猿若の性格
 十二 猿若の喪失と道化方の出現
 十三 猿若の史的位相

Ⅱ 道化の誕生
 一 「どうけ」という名称
 二 どうけの出現
 三 初期どうけの地位
 四 どうけの扮装術
 五 初期どうけ方の劇術
  1 物真似について
  2 話術について
  3 舞踊について
 六 どうけの役柄
 七 奴・六方・丹前
 八 半道について
 九 初期どうけ方一覧

Ⅲ 力者とその芸能
 一 力者の社会的地位
 二 力者の職業
 三 力者と芸能
  1 芸能会における力者の参加とその職掌
  2 田楽と力者の関係
  3 練ごと

Ⅳ 河原者と芸術
 一 河原者の芸術
  1 芸術の意義
  2 河原者
  3 河原者の社会的地位
  4 かぶき者と非人頭弾左衛門の闘争
  5 河原乞食
 二 河原者とその職業
 三 河原者と劇場
 四 河原者とかぶき子
 五 河原者ときやり

Ⅴ 若衆かぶき以前の少年芸
 一 若衆躍の時代
 二 若衆かぶきの名称
 三 若衆と少年
 四 芸態について
 五 その周辺
 六 以前の少年芸
 七 若衆狂言とかぶき踊
 八 女かぶき禁止まで

解説 (鳥越文藏)

人名索引
事項索引




◆本書より◆


「猿若の研究」より:

「女猿楽が、まったく、女性の能楽であったことは、『看聞御記』にも、「観世などに不劣。猿楽之体神妙也」と評していることによっても明らかで、梅玉本の『かふきの草子』が、阿国かぶきを「四座(よざ)の猿楽の仕舞(さま)もこれにはいかてかまさるへき」と讃美しているのをもって、阿国かぶきまでが同じ猿楽であったとは考えられない。とくに、両者の芸能は、本質的にまったく違うものであった。阿国が、女房狂言、女猿楽の間に伍して、ひとり庶民の熱狂的支持を得て、断然頭角をあらわしたのは、すでに、貴族階級の芸能としての能楽を見限ったからであって、形は、先代の古典芸能に似通っていても、その内容に至っては、まったく違った、もっとも生々しい、現実味の豊かな、民間芸能を、民衆の生活のなかからとり上げたところに、阿国かぶきの史的意義と位置があったので、その内容と精神には雲泥の違いがあったといってもいい。」

「もともと、猿若は、阿国かぶきの当初よりの音頭取りであったのである。」

「猿若は、まず、この「太鼓持ち」の資格を備えた新しい道化師であった。」



「道化の誕生」より:

「かくして、かぶきの揺籃期に、重大な役目を勤めた「猿若」は、名実ともに、次期の「どうけ」に、その地位を譲り渡していたのである。」

「かくして、どうけの特殊技術であった「ものまね」は、さらに、島原狂言などに、あげやの亭主のまね、かいてのまね、たいこのまねと進展し、元禄に入って、戯曲的内容が発達するにつれ、その基礎になる写実的ものまねとして発展的解消を遂げるのであり、いっぽう、かぶき舞踊の中に「しかたまね」的要素を深く植えつけたが、どうけ自身は、「ものまね」的要素が二の次になり、笑いにのみその劇術を頼ったがために、いつのまにか、一端役に取り残されてしまったのであろう。しかし、これは、いずれの国の道化師達もが辿った運命であったともいえるのである。」



「河原者と芸術」より:

「上州利根郡利南(となみ)村の孝養寺の山門に至って、まず、目につくのは「禁芸術売買之輩」という、天明六年(一七八六)の建立にかかる石碑である。
 おそらく、これは放浪の乞食芸人や、香具師(やし)や、博徒などが境内に入り込むのをふせぐためのものであったろうが、芸術に携わる人間などには、門前払いを喰わせてしかるべき性質のものであったことが、いまから百五十年ばかりまえの「芸術」ということばの感覚であったのである。」
「ことに、江戸芸術のもつ卑賤性というものは、軽蔑もされ、問題にもなるが、それは芸術の社会における価値と地位もさることながら、芸術に携わった人々の特殊的地位階級によるものであったというべきである。
 江戸文化の二大育成地として、すでに、史家の指摘せる遊里と芝居街とは、当時の社会観からは、二大悪所として忌憚されつづけてきたところであった。遊里は「古来畜生といふ」(『世事(せじ)見聞録』)人種が住んでいたところであり、芝居は「河原乞食」の世界であって、当時の封建社会観からすれば、いずれも士農工商の階級からはずれた、非人あるいは賤民といわれる部類に属していたので、彼らは人間ではなかったのである。しかも江戸の芸術は、直接間接にこの二大悪所なくしては生まれ得なかったところに、芸術としての憧憬と侮蔑感とが入り交った、矛盾した不思議な感動として残ったのである。」

「実際上はともかく、表立っては、一般庶民と共同の住居はもちろん、夏冬にかかわらず編笠にて面を覆い、交際することをさえ拒否されていたのである。そしてその理由は、天保十二年十二月十八日の指令によれば、
   一体、役者の儀は、身分の差別もこれあり候処、いつとなく、其の隔てもこれなきやうに成り候付、元来右役者共は、河原者と申す本意を忘れ、正業の町人共等に相混り候より(『浮世の有様』北組総年寄の触書)
というのにあるのである。「身分をも顧ず」とか「身分の差別もこれあり」ということが、つねにこの差別感の根底をなしているので、「河原者」がいかなる身分なのかということは明示してはないが、ことさらこのときに、役者を何匹と数えたと伝えられることによっても、ほぼその指すところを想像することができる。演劇に携わった江戸の芸術家たちのなかには、しばしば、大名を凌ぐ経済生活をもちながら、彼らみずから自覚せるごとく「錦きた畳の上の乞食かな」(白猿)であったのである。」









































































































郡司正勝 『古典芸能 鉛と水銀』

「虚がみごとに現実と張りあうほどの実力を見せたときに、演劇は、実社会と対等に対立して、その実在と価値を主張し得るのである。
 女方の存在は、現実を確かに突き放すことによってのみ、現実を批判し得る「虚」の世界に生きることができる。」

(郡司正勝 「女形と色気の原論」 より)


郡司正勝
『古典芸能 鉛と水銀』


西澤書店 
昭和50年1月29日 発行
414p 
A5判 丸背紙装上製本 貼函 
定価2,600円



須永朝彦「編集後記」より:

「この本は、これまでに郡司先生が雑誌や新聞に書かれた御文章の一部をまとめたものである。出版書肆からの慫慂を私が仲介したこともあって、編集をすることになった。(中略)編集に際しては、膨大な劇評類は別の機会に譲り、評論随筆に類するものを、先生と相談して取捨した。」


郡司正勝評論集。各章の扉に図版(計7点)。


郡司正勝 鉛と水銀 01

函。


郡司正勝 鉛と水銀 02

本体表紙。


郡司正勝 鉛と水銀 05


目次 (初出):
 

芝居の中の酒 (「ひげ」 46年12月)
曾我祭と曾我狂言 (第55回国立劇場歌舞伎公演筋書 48年1月)
双面の趣向 (第40回国立劇場歌舞伎公演筋書 46年4月)
五大力伝説 (劇団青年座筋書 44年6月26日)
白石噺蛇足 (東横ホール筋書 29年6月)
「馬盥」の光秀と燕手の性格 (「東劇」 筋書 25年4月)
「引窓」の詩と技巧 (「東劇」 筋書 25年1月)
生きていた古かぶき踊り (「朝日ジャーナル」 42年8月27日号)
浮世狂い (「太陽」 44年5月号)
芝居と刺青 (「生きている浮世絵・刺青展」 47年)
家の芸 (十一代市川団十郎襲名興行筋書 37年5月)
隈取・団十郎 (「人物叢書」 附録52号 35年8月)
役者と俳優 (「言語生活」 40年7月号)
鉛と水銀 (「ばんぶう」 48年8月)
『かぶき讃』と『名優と若手』 (「毎日新聞」 28年5月25日)
 

女形と色気の原論 (「演劇界」 43年3月号)
団十郎と荒事の世界 (「歌舞伎」 別冊第一号 44年9月)
磁石・羅針盤・坤天儀・望遠鏡・鉄砲 (「科学主義工業」 17年10月号)
江戸かぶきのもう一つの眼 (「演劇界」 48年11月号)
歌舞伎・浮世絵の新風 (「歴史教育」 39年12月)
かぶきと「小説」との交流 (「歌舞伎」 第8号 45年4月)
南北の美学 (「演劇界」 39年7月号)
みしまごのみ 風流山車(だんじり)かぶき (「演劇界」 44年12月号)
三島かぶき (三島由紀夫作品連続公演Ⅲ筋書 48年4月)
協同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎(座談会) (「演劇界」 32年5月号)
 

七代沢村宗十郎略伝・追憶 (「幕間」 別冊 24年)
中村翫右衛門 (「キネマ旬報」 34年6月)
片岡我童 (「演劇界」 増刊 「歌舞伎俳優百科」 34年12月)
脂粉の匂の漂わぬ役者・猿翁 (「日本読書新聞」 39年6月29日)
市川団蔵の死
 1 ある歌舞伎役者の芸と家 (『東京新聞」 41年1月14日)
 2 見るべきほどのことは見つ (「太陽」 41年8月号)
中村芝翫 (「歌舞伎」 別冊第2号 46年12月)
中村歌右衛門 (「演劇界」 増刊 「歌舞伎俳優名鑑」 48年10月)
 

放浪芸能の系譜 (「解釈と鑑賞」 48年1月号)
「説教」という芸能 (小沢昭一取材構成音盤 「節談説教」 解説書)
河原者とかぶきの前夜 (「歌舞伎」 第14号 47年10月)
地獄芝居 (「グラフィケーション」 第71号 47年5月)
演劇とことば・映画とことば (「国文学」 38年1月号)
芝居言語 (「言語」 48年10月~12月号)
演劇における変身と呪術 (「東宝」 48年2月号)
 

文楽のかけ声 (第24回国立劇場文楽公演筋書 47年11月)
「見る」ことの執念 (能楽春秋会第8回公演プログラム 44年4月23日)
仮面劇と伝統 (「観世」 40年3月号)
春を呼ぶ鬼 (「朝日ジャーナル」 40年1月3日号)
京の念仏狂言・江戸の里神楽 (第196回三越名人会プログラム 41年5月28日)
至芸とは (「朝日ジャーナル」 38年3月17日号)
伝統と新作舞踊 (国立劇場第3回舞踊公演プログラム 42年3月)
芸と意気地と (三越名人会200回記念「名人鑑」 41年9月)
荒神琵琶の世界 (「芸術生活」 45年7月号)
講談と民衆 (講談芸術祭プログラム 37年)
オッペケペと書生ニワカ時代 (「労演」 第93号 38年11月)
戦後という後遺症について (劇団青俳筋書 「青俳手帖」 42年8月8日)
土方巽という古典舞踏 (「美術手帖」 48年2月号)
 

秋成の怪異 (「別冊現代詩手帖・上田秋成」 47年10月)
柳亭種彦の随筆と小説 (「日本随筆大成」 第2期第20巻 月報)
『源氏物語』の芝居 (「太陽」 42年7月号)
能狂言と民話劇 (「国文学」 36年2月号)
元禄・近松・現代 (「解釈と鑑賞」 45年10月号)
演劇からみた坪内逍遥 (「早稲田学報」 第690号 34年4月)
『尾竹竹坡伝・その反骨と挫折』 (「朝日新聞」 44年1月21日)
 

花札伝綺 (「ノブルス」 45年8月31日)
明治の言葉 (「紅」 第69号 43年4月15日)
活動写真の想い出 (「演劇学」 第13号)
北海道の食べものと想い出 (「料理の手帖」 40年2月号)
義経記 (「日本経済新聞」 47年1月8日)

編集後記 (須永朝彦)



郡司正勝 鉛と水銀 04



◆本書より◆


「鉛と水銀」より:

「かぶき役者は、職業上、つねに白粉をふんだんに使用するが、とくに女形になれば、厚化粧をし、手や襟首まで塗るので、昔から鉛毒に犯されて短命だと言い伝えられている。
 今日では、白粉も改良されているから毒性がなくなったが、大正ぐらいまでは、そうだったのである。伊勢白粉などは水銀で製したし、とくに光沢があって艶やかに見えたものは、鉛白を用いたもので、慢性の鉛中毒に犯されることが多かった。薄い青味があって、冷たい冴えた白さに仕上がる古典的な感覚は、鉛毒のある白粉に勝るものがなかったから、それと知りつつも瞬時の舞台の命にかける女形の執念は、現実の生命を縮めながらも、虚の栄光の命に生きてきたわけである。
 五代中村歌右衛門は、二十代からこの鉛毒のためにしばしば発病し、晩年はほとんど手も足も動かすことが困難だった。」
「文楽では、大隈太夫は、(中略)若いとき、その美声を妬まれて水銀を飲まされたのだという風説があった。悪声でありながら、あれだけの名人になった人への、世論の一つの解釈の方法であったかも知れない。
 しかし、やはり人形浄るりの世界では、昔から美声の太夫が水銀を飲まされたという伝説みたいなものがあって、太夫が床(ゆか)に登るとき、とくに信頼のある弟子に、白湯汲みをさせることになっている。こういった弟子は、師匠が床で一段語り終えるまで、目を離さずに床下に端坐して、聴き覚えて修業するのである。
 しかし、そういう目を盗んで、白湯の茶碗の中に水銀を仕込む者があった。」
「今日ではそんな話も絶えて聞くことがなくなったが、芸の世界には、こうした闇の部分があった。」



「女形と色気の原論」より:

「虚がみごとに現実と張りあうほどの実力を見せたときに、演劇は、実社会と対等に対立して、その実在と価値を主張し得るのである。
 女方の存在は、現実を確かに突き放すことによってのみ、現実を批判し得る「虚」の世界に生きることができる。
 アンドレ・ジッドが、「若い女形が女優に取って代られたとき、演劇の衰微が始まる」(『コリドン』)と言ったのは、そこに、演劇の「虚」の存在が、「実」に屈伏してゆく象徴を見たからであろう。」



「協同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」より:

郡司 「オルフェ」を歌右衛門にやらせたら、どんなものでしょうねえ、三島さん。
三島 いいと思いますね。(中略)花魁というのは、巴里の街に出没しておかしかないですね。チョンマゲはおかしいが。(笑) 白づくめの高尾太夫みたいなのが巴里を歩いてもおかしくないなあ。(笑)
郡司 ほんとにそういえますね。コクトオの映画だって、あれは能みたいなものですからね。ねえ、三島さん、巴里の街をガラス売りが通るところなんか何べん見てもいいですね。
三島 ええ。ぼくも一度だけ向うで見ましたよ。めったに通らないですがね。「ビットリエ」といって通るんです。このガラスについちゃ、こういう奇談があるんです。コクトオが『オルフェ』の練習をしていたときの話なんですが、「この手袋をはめると、この鏡の中をくぐれます」という件りがあるんですけど、その練習を盛んにやってたら、ガチャンと廊下で音がしたんで、稽古を一時やめて廊下に出たら、廊下の突き当りにある鏡が自然と割れていたというんです。
郡司 南北調じゃないですか。(笑)
三島 「オルフェ」は、映画の方はほんとにストイックになってますけど、原作じゃ茶番が多いんですよ。」



「放浪芸能の系譜」より:

「宿命的と言おうか。ここに、永遠に芸術とはなり得ない漂泊の芸能がある。放浪の芸能と言ってもいい。定着を嫌うのである。定着したとたんに、その生命が止まってしまうのを宿命とする。そんな芸能は、演劇などと呼ばれる舞台芸術とはなんら関係のない生命圏をもつものである。私はかつて、そのような芸能を「芸術になってやらぬ芸能」と言ったことがある。
 ところが、芸術となっていった舞台芸術は、これらの底流する漂泊の芸能から、その養分を吸い上げて形成される。そして芸術化して定着する。しかし放浪の芸能は、そんなことには係わり知ったことではない。放浪の芸能は、吸い上げられてなくなってしまうとったものではない。永遠に彷徨(さまよ)って生きてゆくのである。しかも転落してきた芸術をも迎え入れるにやぶさかではない。」

「漂泊の芸は、劇場という檜舞台を最後まで拒否する。舞台は、民家の庭先であり、大道であり、河原であり、衢(ちまた)であった。」
「「歩く」ということが「旅」であった感覚の日々はすでに遠く過ぎ去った。旅芸人が渡り鳥のように現われた季節感ももう喪われた。小屋掛けの見世物ですら、盛り場や空地からも追われてしまった。これからの子供たちは、これらの旅芸人を喜び、あるいは恐れ、侮蔑感と憧憬をもって迎え、そして、淡い郷愁を残して、風のように去っていったその人生の味わいを、もはや知ることはないであろう。
 かつて、いずこからかやって来て、いずこへか去ってゆく者は、神か、あるいは神が人の姿をかりたものであったときがあった。きまった季節ごとにやってくるものと、なにかがあるとき、またはなにかを告げる必要のあるとき、そういう者が姿をあらわした。予祝として吉兆をもたらすものもあり、あるいは邪悪な黒い風をもちこむものもあった。それらに対する敬愛と惧(おそ)れは二重に重なるのが常であった。」


「地獄芝居」より:

「いまでもどこかにあるのだろうか。子供の頃には、地獄極楽の見世物というのがお祭りの日にかかったものであった。恐さと気味悪さは人間の見たいものの重要な犯罪であり、その罪によって、救われるものでもある。演劇には、こうした本質がひとつあるようにおもわれる。芝居が悪場所であるとされるのは、封建制の社会制度からばかりきているのではなく、人間の魂の悪場所でもあるからだということも無視できない条件なのではないかとおもう。
 極彩色に汚された幕に隠された気味悪い世界、代はお戻りと呼ぶ三途川から出張してきたような中婆に呼びとめられて、ふわふわとしたテント張りの密室のなかに吸いこまれていった中学生のある日の後姿は、悪場所に踏み入れた魂が分離した日でもあった。残された魂は悲しみを知り、入っていった魄は恐ろしい楽しみを知った。
 いくつかの地獄が箱の中にあった。等活・黒縄・衆合(石割地獄)・叫喚・大叫喚・焦熱・無間(阿鼻地獄)・倒懸などの八大地獄や六道巡りのほかに、もっと卑近な地獄のミニチュアがたくさん詰めこまれていた。」
「最後は極楽の場面であった。しかしそれは一場面であった。極楽鳥が舞をまい、蓮の池から生えた蓮座の上に、小さな小さな人形の仏さまたちが手を合わせて睡っていた。妙なる音楽が聞えるはずであった。しかし、この極楽世界を見たとき、いままでの地獄の興奮はいちどに覚めてしまい、にわかに色褪せた、埃っぽいおもちゃ屋の店先のように見えたのはなぜであろう。
 なぜ地獄には、かずかずの面白い地獄がたくさんあるのに、極楽はたった一つの退屈な場面しかないのであろう。私は春風に吹かれながら、冥府の鬼たちが、亡者を臼に入れて、等間隔に搗く、コトコトコトコトという音が、いつまでも後から追ってくるのを聞いた。まだ、その頃にはわからなかったが、私は視るということの罪悪感を、やっとこの齢になって識ることができるようになった。視るということは、すなわち地獄を見ることであるということを。人間がみることが出来るのは堕ちてゆくものの姿であって、極楽は、ただ想うものにすぎない。」



「土方巽という古典舞踏」より:

「彼が暗幕の前の、透明なアクリル板の後ろで、徐々に、一本足を選んで、絶体絶命の一点に立つと、死のエクスタシーを呼び起した。まるで、死神の踊りが始まるような予感が走り、それは、ほとんどエロティックですらあった。
彼の肉体は、見るもいじましく責めぬかれていて、その故里の東北の荒れ田圃のなかで、雪みぞれに打ち砕かれて立つ、骨になった破れ案山子に想いを馳せさせた。
 その肉体は、俗に肉体と言われるものと対決しており、死という古典の形象に迫って、はなはだ甘美な骨寄せの舞踏の、無音の音楽を奏で始めていた。まことに美事に吹きさらされた地獄の古典舞踏と言うほかない。
 しかも、土方巽は、洞窟のなかを通りすぎてゆくように肉体の内部を、刻々と覗いていて、自分の肉体でいて、自分の肉体でないものを視ているような、そこには、見せる、見るといった関係は成り立っていないようであった。見物も、土方の踊っている肉体を見、土方も、その肉体を視ていて、世の常の舞台芸術と、その情況を異にするかのようである。ほとんどは若い見物であるが、その反応の仕方は、まるで、一方的で、一種の唸りのようなものになっている。同血族意識的な呪術の荒野と言うほかはあるまい。
 それは民俗芸能のうちにしか見出すことのできない種類のもののようにおもわれる。たとえば、天龍川上流の山間の流域で、真冬に行われる「花祭」や「雪祭」の舞人と見物のあいだには、見る見せるという関係は成り立っていない。見る者は他所者であって、追い出される。一つの世界を成就するためには同族でなければならないという原則が働くのである。見る見られるといった関係では、いつまでも芸術は不毛なのであろう。
 それは、血の舞踏とか死の舞踏としか言うより仕方のないものであろう。年中かなりの舞踊発表会をみるのだが、しいて想い出そうとしなければ、ほとんどは忘れ去ってしまううちに、こちらが想い出そうとしなくても、ふっと、視界をよぎるのは、花祭の火影のなかの舞と土方巽のそれである。そのとき、一種の土の匂いのようなものが立ちこめる。」
「若い見物たちの反響は、その呪術の解かれるのを嘆き、拒否し、恋い慕う、それであった。私は、こんな反応の仕方をした、舞台を惜しむ拍手は聞いたことがない。」

「そこには、これまでの芸術的舞踊と言われるものとは異なる、そんなものが色褪せてしまう、迷って、覚めている舞踊の故郷がある。私は、彼の舞踏は、新しいのではなく、根元に触れたがゆえの、人間の古典があるのだとおもう。」

「土方の舞踏を、東北の歌舞伎などという言い方があるのだというが、おそらく、いまの歌舞伎などの知ったことではあるまい。もし日本人の胎内のうごめきを、歌舞伎というなら、今日の歌舞伎が、ことごとく脱落させていったもの、その肉塊を拾いあつめて、骨(こつ)寄せした幻影なのであろうとおもう。それを古典と言うなら、その古典の根拠は、おそらく彼の生まれた東北にあるからである。」
「土方の前こごみの猫背になる姿勢は、恥ずかしさにはにかみ、優しさの極をみせるが、その途端、地獄から吹いてくる風が、骨のきしみを奏でる。骨寄せの優雅な手先は、霊妙な音楽となって立ち昇る。
 そこには、世のつねの段階をふんだ肉体の修練というものがない。表現、素材といった肉体の修練を無視した骨身が呼んでいる動きがあるだけである。修練、積み重ねといったマヤカシがない。
 少年の日に、東北地獄のなかで、美しき肉身の死という女人をみてしまった彼の生の日々は、そこからはじまっているかのようである。彼も、そういった雪女に出会ったひとりなのであろう。あれはたしかに少年の日の死につながっていよう。そこには老婆と少年がいる。そういった世界構造が、彼の舞踏を支えているようにおもわれる。舞台という孤独な懐しい地獄で、彼は、いま、徐々に徐々に、その片足で、たしかに立っているのである。これを古典と言わなければ、なにをもって名づけるのか。そこに、東北の原日本人がいる。生という不当なものをだんだんに背負ってゆく彼の姿勢がある。」

「気味の悪さは、アミーバーのように、ひろがってゆく動きであり、形のない蚕食の動きのたしかさにある。また興行師のイカガワシさは、その演出のおもしろさにある。
 とにかく、私は、土方巽の舞踏に、刻々に肉体が死んでみせるときに、エロスが発散され、死の古典が成就してゆくのをたしかに見た。」



郡司正勝 鉛と水銀 03

見返し。



































































































郡司正勝 『鶴屋南北』 (中公新書)

「自分の葬式の台本を書いて、死後を演出した人間は、かつて南北のほかに、いただろうか。
 南北の葬式は、江戸文化の一つの頂点といえるのではないか。いや江戸文化の終末を意味するものであったかも知れない。自分の死を茶番化してのけた遊び心は、その文化のゆきついた果てであった。またそれを許したのも江戸美学であるといっていい。」

(郡司正勝 『鶴屋南北』 より)


郡司正勝 
『鶴屋南北
― かぶきが生んだ
無教養の表現主義』

中公新書 1221

中央公論社
1994年12月10日 印刷
1994年12月20日 発行
223p 目次2p 
新書判 並装 カバー 
定価700円(本体680円)



本書「あとがき」より:

「本書は「鶴屋南北伝」ではない。南北の伝記を書こうとしたのではなく、わたしに住みついた南北像を彫り出してみようと試みたものである。
 しかし、小説ではないので、できるだけ資料に沿うて、わたしなりの南北像を追求してみた。
 これまで南北翁の作品に、舞台でつきあってきた機会があって、その貧弱な経験から育(はぐく)まれた南北像があるので、ひとつの想いこみがあり、当っているかどうかは覚つかないが、その人間像に迫ってみたいという思いがあった。」



本文中図版(モノクロ)多数。


郡司正勝 鶴屋南北 01


帯文:

「あらゆる常識・権威・価値の逆転をもくろみ続けた奇才の全貌」


帯裏・カバーそで文:

「江戸後期のかぶき作者四世鶴屋南北の作品は、「東海道四谷怪談」をはじめ、「桜姫東文章」「天竺徳兵衛韓噺」など、現代でも上演の機会が多い。しかし、彼の案出した奇趣奇想のかずかずは、時代を隔ててそのまま作品だけを受容しても、理解や共感が得られにくい。本書は、南北の出自、師弟関係を含む人脈、寛政期から化政期への政治経済的な変動、当時の庶民の嗜好、遊里や見世物との関わりなどを手懸りに、一つの南北像を描く試みである。」


目次:

発端・「おお南北」か「だい南北」か
南北の肖像
南北の街
劇界に身を投ずる
立作者となる
南北無学説
奇想「鯨のだんまり」
出世作「天竺徳兵衛」
寛政かぶきのリアリズム
小幕作者時代と道化方
南北襲名
生世話の誕生
小説の視覚化
見世物と南北
「桜姫東文章」とその時代
薬と毒薬
「四谷怪談」とその前後
南北独り旅「五十三駅」
死もまた茶番

あとがき



郡司正勝 鶴屋南北 02



◆本書より◆


「南北の街」より:

「南北は、紺屋の型付職人、海老屋伊三郎の子として生まれた。」
「つまり封建社会のなかの制度としては、紺屋も、駕籠屋も傾城屋も芝居者も差別されていた同一の身分ということになる。しかも(略)江戸の文化生活のスターは遊女であり、役者であり、それにファッションの染物を着飾らせるということになろう。」
「これらの悪所の世界は、庶民文化の源泉でありながら、身分の悪さという二重構造をもつ、江戸の政治社会が造り出したものであった。かぶき戯曲の世界構造が二重構造であるのも、よくその二重構造を駆使して綯(な)い交(ま)ぜ式様式性を最高度に発揮しているのも、南北の生まれ育った環境文化が血肉となっていたからなのだとおもう。」



「小説の視覚化」より:

「「妖婦伝」における、子供の腹を裂かせながら琴を弾じさせ、それを見物するなどもその一つで、伝統的な「責め場」のパターンを承けながら、いっそうリアルに、これでもかこれでもかと、長々と演出したのであろうとおもわれる。一瞬の部分を一時間も延ばして一幕にしてみせるのがかぶきの特質である。(中略)南北の「四谷怪談」のお岩は、髪梳の変貌を一幕かかってみせる。化政度の頽廃は、さらにそれらに拍車をかけたとみてよい。
 文化五年九月二十日の日付のある、地本問屋蔦屋重三郎より、上方に旅行中の馬琴に宛てた次のような手紙が『著作堂雑記』にみえる。

   一、男女共兇悪の事
   一、同奇病を煩ひ、身中より火抔燃出、右に付怪異の事
   一、悪婦強力の事
   一、女并幼年者盗賊筋の事
   一、人の首抔飛廻り候事
   一、葬礼の体
   一、水腐の死骸
   一、天災之事
   一、異鳥異獣の図
  右之外、蛇抔身体手足へ巻付居候類、一切夫婦の契約致し、後に親子兄妹等の由相知れ候類、都而当時に拘り候類は不宜候由、御懸り役頭より、名主山口庄左衛門殿被申聞候に付、右之趣仲ヶ間申合、以来右体の作出板致間敷者旨取極致置候間、御心得にも相成可申哉と、此段御案内申上候
九月二十日 蔦重

 この手紙にみえる小説界への禁止箇条は、ことごとく当時の合巻ならびに読本の挿絵にみられる特徴ある諸相であるばかりでなく、いちいち実例は引かぬが、南北の戯曲作品の特色をそのまま箇条書に指摘したようである。
 こうしたおぞましい怪奇残虐の趣向が、敵討という徳川時代の儒教の大義名分の倫理に支えられた美徳な行動としての世界の中に嵌めこまれている二重構造こそが、当時の美学である。」



「見世物と南北」より:

「南北は好んで見世物の場を舞台に設けた。南北の活躍期の化政度は、また見世物の全盛期でもあった。
 江戸の盛り場は、両国の東西の橋袂、浅草の奥山、上野の山下、江戸橋広小路、さらに寺社の境内、門前など、開帳を名目に、それぞれ見世物で賑わったことは空前絶後であった。
 見世物は、民衆娯楽のもっとも底辺的なものである。これらは、今日いうところの健全娯楽的なものとはほど遠い。世に奇怪なる異形なるもの、目眩(めくら)ましといわれる怪しい術、精巧な技術で偽ものを造る細工物といった、およそスポーツなどとはその質を異にするものであるが、興行性という点では一致するものがあるといっていい。
 これに、宣伝のための、納得させる「口上」という舌耕術を伴ったものが、その様式である。
 いったい「かぶき」の出自も、もともとは京の四条河原の見世物集団のなかの一団の座として、「舞」とはちがう、いかがわしい「踊」を売りものにしたものが展開したものである。
 これらの見世物集団を成立させている思潮には、底流する民間仏教の俗信の裏打ちがあった。
 河原は、もともと人間が死して故郷へ帰る港であり、死体を流し、あるいは焼いて灰にして送り出す場所であり、中世では刑場を兼ねたのである。つまり、それらの亡者のための宿場であり、救世の渡し場でもあったので、しばしそれらの死者を弔い慰める饗宴の芸能の場ともなったのである。
 「かぶき踊」の起こりとされる亡者と一緒に踊る「念仏踊」も、その饗宴の本貫をなすものである。またいろいろな見世物は、人間の前世の姿、来世の姿を見せ、因果の道理を説いて成仏を完遂させるという俗信に裏打ちされていることになる。また、逆立ちすること、手足のないものが曲芸をするのは、この世の業(ごう)を尽し、果すことによって成仏が約束されるという理に基づいて成立している。見世物とは因果の理を形でみせたものである。
 しかして、これらに携わる者は、すなわち「河原者」である。死の汚れを一身に負う聖なる者の謂である。」



「死もまた茶番」より:

「自分の葬式の台本を書いて、死後を演出した人間は、かつて南北のほかに、いただろうか。
 南北の葬式は、江戸文化の一つの頂点といえるのではないか。いや江戸文化の終末を意味するものであったかも知れない。自分の死を茶番化してのけた遊び心は、その文化のゆきついた果てであった。またそれを許したのも江戸美学であるといっていい。」




こちらもご参照下さい:

廣末保 『四谷怪談』 (岩波新書)
服部幸雄 『さかさまの幽霊 ― 〈視〉の江戸文化論』 (イメージ・リーディング叢書)

















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本