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郡司正勝 『かぶき袋』

「かぶきの美には、一種の逆説的な美を含んでいるのは、かぶきへ加えられた制圧と、それに対してはねのけようとする力と、同時に妥協しようとする性向をも含むといった、相反する矛盾を統一しようとするエネルギーと美意識によるものだと想われる。」
(郡司正勝 「かぶきの美と民衆性」 より)


郡司正勝 
『かぶき袋』



青蛙房 
昭和45年6月25日 発行
355p 
四六判 丸背布装上製本 貼函
定価850円
装画・カット: 著者



本書「あとがき」より:

「岡本経一氏のご好意で、これまでに、おりおり書き溜めた随筆らしいものを、はじめて本にして戴いた。
 「かぶき袋」は、「演劇界」に、一年間連載されたかぶきに関する語彙の、小考といったもので、そのときの題をそのまま、書名とした。山東京傳が、『骨董集』で考証した、浮世狂いをする輩(ともがら)が腰にぶら下げていた「浮世袋」、をイメージにおいて、それにあやかって命名したもので、浮世袋をかぶき袋と言い換えてみたばかりである。
 その一篇は、比較的纏まったシリーズものだが、二篇以下のものは、これまでに、新聞・雑誌などに発表してきた小文を、そのまま持ちこんだら、岡本さんが、みずから整理して、それぞれのジャンルに分け、かぶきの世界・鶴屋南北抄・芸能風土記と、無精な私のために命名して下さったのである。
 なかには、戦時中の若気の至りといったようなものもあり、生硬な論考めいたものあり、思い出や紀行文ありとった、かならずしも芝居や芸能に関係のないものもあるが、私なりの精神風土記の小窓のようなもので、あらためて校正を読みなおしてみると、取り除いてしまいたいものもあるが、いずれも、自分なりの器量のほどの、時の流れを感じさせるので、そのままにしてしまった。」



別丁扉・章扉に著者によるカット計5点。
本書はもっていなかったのでアマゾンマケプレで「良い」が585円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。
「山東京傳の西欧の知識」「北海の民謡」「音声の文芸」「放下歌」「瞽女物語」は『郡司正勝 刪定集』に再録されています。



郡司正勝 かぶき袋 01



目次:

Ⅰ かぶき袋
 馬の脚
 芝居の血
 せり上げ
 衣裳見せ
 化粧声
 かつら
 はな(花・纏頭)
 幽霊の足音
 おこつき
 看板
 幟・丈
 顔見世・そそり

Ⅱ かぶきの世界
 かぶきの天皇
 山東京傳の西欧の知識
 かぶきと衆道
 曽我訓蒙図彙
 能と元禄かぶき
 上演されない「手習鑑」の場面
 唐土廿四孝と本朝廿四孝
 江戸時代の町人生活から見た能・謡
 忠臣蔵の趣向と水滸伝
 かぶきの美と民衆性
 かぶきの出発と茶
 市川団十郎とかぶきの世界

Ⅲ 鶴屋南北抄
 治助・南北・黙阿弥
 南北の笑い
 かぶきと新劇の四谷怪談
 南北と現代
 古典劇としての南北との対決
 鶴屋南北との出会
 「桜姫東文章」演出ノート

Ⅳ 芸能風土記
 象渡来考
 古曲慕情
 私の学究
 茶とかぶき
 アイヌの心
 顔について
 菊慈童
 佐倉宗吾の芝居と史実
 日本喜劇の伝統
 宝生新の思い出
 世阿弥の女躰論
 清十郎ぶし
 白峰行
 「経よみ」ということ
 竹婦人のこと
 民話の景清
 北海の民謡
 道明寺伝説
 紅葉賀
 唄三題
 北九州路の人形群と近松と
 熊本の古代と近代
 「さらし」考
 冬の祇園
 音声の文芸
 加藤清正の芝居
 放下歌
 瞽女物語
 隠岐の島からくる春
 声に骨のある話
 島原の餅搗き
 祭りの空間と演出
 随想天拝山
 うかれの蝶
 失われた大道芸
 馬・牛・羊
 「源氏物語」の芝居
 先生とズボンボと私
 芸術になってやらぬ系譜
 石投げの見得

あとがき




郡司正勝 かぶき袋 02



◆本書より◆


「かぶきの天皇」より:

「高雅なもの、尊厳なものを、地に引きおろして下世話にこれをみたおかしみを狙うのが、江戸の文芸思潮の一般であった。(中略)古典の部類に属する天皇も、やはりこの「俳諧化」をまぬがれるものではなかった。
 将軍のこととなれば、一言半句も口にされず、まして芝居に仕組むなどは思いもよらぬこと、その時世の出来事を脚色するにしても、幕府の施政方針にふれるのを恐れて、足利とか鎌倉の時代に、これを仮託しなければならなかった世に、天皇の御事を笑うことは、いっこう自由であったのである。」
「江戸庶民の考えた天皇は、古風な、多少ユーモラスな存在であり、すくなくも将軍よりは附きあいやすいお方であったに違いない。」



「山東京傳の西欧の知識」より:

「そのころの蘭医といえば、まず外科と眼科がもっとも進み、しかもその根本は解剖学であったから、悪魔の盟友呼ばわりされた西方の国の場合と似たような結果を来たしはしたが、彼の国のごとく烈しい憎悪や否定の対象とはならずに、むしろ空想と好奇心を満す一種の知識欲の対象となったところに、国情の違いと時代の流れがあった。
 京傳が『稲妻表紙』(読本・文化三年刊)の挿絵にみられる、二人の異人が女性の腹部を解剖している「(阿)蘭陀外科」の絵看板を掲げた家は、果して当時の蘭医家の写生でもあったのであろうか。解剖学の妖しい魅力と「一つ家」の伝説が結び付いたのが『優曇華物語』(読本・文化元年刊)の妊婦解体の趣向であった。ここでは科学は悪魔の所行と変貌する。この発想を助けた一つの理由に、当時の外科の進歩が著しく産科を発蒙したことを忘れてはならない。明和三年、賀川玄悦は『産論』を著し、その子、玄迪は安永四年に至り、さらに、その説を完備したのが新しい解剖学による『産論翼』であった。時代は敏感に、すぐそれを反映している。『百戯述略』に、
  其後安永天明の頃か、両国橋にて懐胎十月のさまを造り見世物をいたし候義もこれあり候
とみえ、京傳は黄表紙『作者胎内十月図』(文化元年刊)を創った。すこぶる皮相ではあったが、科学思想はこのようにして文学へいち早く反映している。これら解剖医学の流行の影響をうけた一連の作品には『十四傾城腹之内』(芝全交著・寛政五年刊)『芝全交腹内』(芝山人著・寛政六年刊)『五臓町細見絵図』(同寛政六年刊)『五体和合談』(京傳著・寛政十一年刊)『腹内養生主論』(一九著・寛政十一年刊)『腹中名所図会』(京傳著・文政元年刊)等のごときものがある。解剖学がこれらの文学に、多少なりとも心理解剖と写生主義をもたらさず、作者の内幕を暴露する「穿ち」に結び付いて、たんなる奇抜な趣向に終り、内面的深化をみるに至らなかったのは惜しいことであった。しかもこれらの多くは黄表紙であったために、滑稽の智的遊戯に結び付いたが、さらに合巻や読本の時代を迎え、伝奇的趣味が中心となるにしたがい、感覚的好奇心をのみ狙うようになったのは爛熟頽廃の世相であった。寛政五年七月の堕胎禁止令のごときは如実にその時代を物語っている。
 かくしてアストン氏のいわゆる感覚小説家(センセーションノベリスト)京傳は、読本にその時世相を現わすのであった。
 しかし伝奇小説たる読本は、その地位とプライドから常に古典を踏まえんとする。『優曇華物語』の、妊婦の腹を割いて胎子をとり、蛮方の秘薬を得る条が、蘭方外科を反映しながら、なお安達ケ原の伝統を踏まえ、『曙草紙』や『本朝粋菩提』で、死体が山谷に遺棄せられ、次第に腐敗して骸骨と変化する経過に、科学思想による解体を思わせながらも、なお「二人比丘尼」や「九相図」の古典を標榜しなくてはならぬところに、読本作者の得意と手法があった。この態度には、新知識の科学思想で、古典を見直そうというより、その見立の奇抜さを誇ろうとしているので、このことはどれだけ思想の進歩を渋滞せしめているか知れない。科学は当時の知識階級の学問的態度に影響するところはあったが、一般には何ら思想的革命をもたらすに至らなかったのである。」



「唐土廿四孝と本朝廿四孝」より:

「唐土廿四孝は、中国における二十四人の孝子の話をいうのですが、これは、元(げん)の時代に、郭居敬(兼とも)という人が編集したものだといわれ、日本へ渡ってきたのは、いつの頃であるかはっきりしませんが、近世の初頭、徳川幕府の創建時代、文教政策の波に乗って儒教精神が鼓吹され、忠孝の道が強調されはじめた慶長期に、嵯峨本と世にいわれる当時の富豪角倉(すみのくら)によってまず復刻刊行されたものがもっとも早いものだと言われています。」
「二十四孝が日本へ入ってから、これにならって、日本の二十四孝というものがたくさん考え出され『日本(やまと)廿四孝』とか『今様廿四孝』とか、さらに女性ばかりのものに『本朝女廿四孝』が出るというふうに、日本化されているので、日本の二十四孝の研究をすれば、中国の伝説が日本へ渡って、どういうふうに承け入れられたかの、一つの重要なケースを摑むことができるといえるほどです。」
「「八百屋半兵衛」の母の嫁いびり、「夏祭」の儀平次の「親だぞよ」という権柄づくの孝行の押し付け、「お祭佐七」の養母のエゴイズムによる縁切りなど、みな親らしからぬ親の、孝子いじめであって、孝子劇は、裏を返せば、孝子いじめ芝居にほかならないものだともいえます。
 このことは、すでに忠孝の倫理をもって精神的支柱とした封建社会の人たちにも気付かれていたとみえて、
  唐人も廿四色に子をいじめ (『俳風柳樽拾遺』)
と、するどく穿(うが)っております。
 元禄の井原西鶴は、この二十四孝を逆にとって『本朝廿不孝』を著し、不孝者の列伝を書いていますが、表向きは不孝者の教訓小説であっても、なんとなく不孝者のレジスタンスが漂っているのも、封建社会の家族制度の矛盾に触れるところがあったのでしょう。」



「かぶきの美と民衆性」より:

「たとえば、近松の心中物や殺人物にあらわれた要素を、悲劇的とみることはできても、これを西欧の概念の示す悲劇ということばであらわすことはできない。心中の男女は、この世では恋の成就はできなくとも、あの世では一緒になれるという、希望をもって信じあって死んでゆくという結末なのだから、現実生活からは敗北であっても一種の救いという形で打ち出されているので、これをたんに悲劇といって、割り切ってしまうことができない。」


「白峰行」より:

「能でもっとも鑑賞に価するものといわれている三番目物の女能などは、あまり文学的すぎる。私はそれよりも、このごろ五番目物の天狗や鬼が活躍する行動的な鬼畜物の方に引かれていたから、『雨月物語』の白峰の原拠となっている「松山天狗」などの方が興味がある。いまは雨月物語を愛好していた時代とはちがった意味で、相模坊という天狗をしたがえて、大天狗になった崇徳院の怨霊の活躍を、めざましい、中世のネガテブな精神史を、この白峰という土地に印している見えぬ歴史をおもしろいものにおもう。『太平記』を読み直してみると、この書の価値は、歴史的記述よりも、むしろこういった人間の怨霊の活躍するネガテブの部分――これは、この書の半分をしめていて、ちょうど歴史の裏側を覗いている感じのものだということに気がついた。つまり天狗や鬼が活躍する太平記のおもしろさを再認識したわけであるが、能の五番目物は、この『太平記』の思想なしにはわからぬのではないかとおもう。
 天狗や鬼が出現する芸能の場では、おそらく中世の山伏信仰と結びついているのであろうし、正史にはない、ネガテブの歴史を、こういう修験道の人々が芸能の場を借りて、民衆の目の前に、みえない世界の歴史を現出してきたのだとおもうと、文学的でない芸能としての「能」のもとの根源的なものを想ってみることができるかもしれない。」



「祭りの空間と演出」より:

「橋がかりの向うにはなにがある。いうまでもなく能であれば、橋がかりの行きついた揚げ幕のうしろは、「鏡の間」である。鏡の間は楽屋ではない。すでに楽屋で扮装を済ました役者が、鏡の間の大きな姿見に向い、じっと扮装した姿を鏡に映してみつめているうちに、魂が、扮装した神や霊と入れ替るのである。西洋でも、鏡のうらの空間は、あの世ということになっている。鏡の間は、扮装する場所でなく、そこで変身する特別な空間なのである。これは現実にはありえな空間でなければならない。別な場合でいえば、籠り堂といい願所といってもいい。与論島のウガンでもある。そこで人間の一念なり、願なり、祈りなりが成熟するための、特殊な空間にほかならない。ここに籠ることによって、ちょうど繭のなかに籠った生命力が、毛虫から蝶に変身するように、人間の一念が、いちど前身を死んで、蘇生し、生れ返って、変身して出てくるように、鏡の間といわれる空間を必要とするのである。
 島根県美保関の美保神社の四月七日におこなわれる青柴垣(あおふしがき)の神事は、海上に舟を浮べ、その舟の上に青柴垣を作り、そのなかに、神の依人(よりうど)が籠るのである。海上に突然、青い森が出現し、その青い森の中の空間に、神霊が生れるのである。」
「祭りの日に、別火斎戒沐浴して、一つの宿に籠り、祭りの行事を勤める方式は、おのずから日常性を脱出するのにある。人が神となるといわぬまでも、神に近づくことのできる時空は、この特定の空間をつくり出す以外にない。幽暗な、現実とあの世との堺目、さけ目を捜すことである。」
「人間が、甦る空間を、生活の場以外の空間を否定してゆくなら、ますます、痩せて、貧困になり、衰弱してゆくに違いない。
 人間が、祭りの日の空間を失うことは、地獄の沙汰といわねばなるまい。わずかに芸術上の空間のみがいまや一本の頼みの綱なのである。」



「失なわれた大道芸」より:

「このところ急に影をひそめてしまったものの一つに大道芸がある。そのもっとも大きな原因は、大道というものの性格がすっかり変ってしまったことによるのではないかとおもう。
 渡り鳥のように大道を生活の場として、訪れ、また去ってゆくといった大道芸人たちにとって、いや、その芸人たちを迎える人たちにとっても、その両方をつなぐ道が絶たれてしまったということなのではなかろうか。
 道は、都会では、すでに人の歩く道ではなく、まして、生活する場などとは考えにくくなってしまったのである。道で遊ぶなどということは、犯罪ともなりかねないことになってしまった。
 飴売りの太鼓で、道に飛び出すということも、四辻で、猿廻しの芸をのぞきこむということも、これからの子供たちの生活にはないのであろう。
 したがって、大道は、民衆の遊び場であり、楽しみの多かった場所であるということすら、本気にはできなくなる時代がやってきてしまったようにおもう。夏の夜の縁日などのそぞろ歩きも、縁台をもち出し、水を打って、通る人も涼む人も、ながめたりながめられたり、正月には、新しい着物をみせるために、通り、羽根をつき、凧をあげるといったことも、もうそういう空間ではなく、交通整理の信号によって、コンベア式に、押し出され、流されてゆく機械化してしまった人通りは、自由な意志の方向などめったに変更などできたものではないのである。」
「したがって、道を生活の場とし、芸のステージともしてきた大道芸人たちの世界は存在することが許されないことになる。
 彼らは、定着生活をしている社会秩序とは、元来、別な次元に住んでいた人々であり、いわば流離を生活としていたもう一つの世界の人々であった。」
「定着生活の人々にとって、彼らの世界は、自由な無限性をたたえてみえ、一種の憧れの気持をさそってくれたものである。」



「芸術になってやらぬ系譜」より:

「おそらく〈語り〉には、もと〈騙(かた)る〉という表現芸術以前の原罪的性格があって、ながい歴史を騙ってきた古代の傀儡子以来の漂流民が、しっかりと大衆の泣きどころを握んできた悪党の生活がかかってきたのであろう。
 祭の日のジンタとともに、どこからかやってきて、血を騒がし、娘っ子などを家出させ、やがて哀愁を残して、風のごとく去っていってしまう正体なき漂泊の芸人の群の心情は、おそらく今日の〈流し〉にまで、かすかに水尾(みお)を曳いているのだろうが、そこには、身をもってのめり込んでゆく、売りものと買いものがあるだけで、芸術のための表現などという高尚なものはありえないのではないか。むしろ、そこには、「芸術になってやるものか」といった無言の血の伝統の抵抗があるようにおもわれる。
 大衆は、いつも〈生身(なまみ)〉を要求してやまない。フランスやスペインの田舎では、今日もなお、生身のマリアの示顕を求め、キリストはいつも生血を流し続けているのを見たし、先頃みた「当麻(たいま)」の能でも、中将姫は、この世で生身の阿弥陀を見たし、狂言の「金津地蔵」は、肉身の地蔵を、京のスッパに売りつけられているし、佐渡の、のろま人形の「生(いき)地蔵」は、裸身になって小便をする。
 明治以来、ちょんがれ・阿呆陀羅経・でろれん祭文の大道芸が、桃中軒雲右衛門の浪花節と出世し、旅の盲僧の琵琶歌が、錦心流の家元となり、河原の説経節や歌祭文、あるいは浄るりが夷舁(えびすかき)の集団と結び、無形文化財文楽となってゆき、生身で売らずに、表現で売ろうと、芸術に成り上ると、そのとたん、大衆から見放されていった歴史だけが残る。」
「こうして大道芸が高速道路から追われたとき、大衆は、みずからの罪業を背負って、漂泊してくれた〈語り〉の芸人の姿を、おそらく永遠に失ってゆくのであろう。」








こちらもご参照ください:

岡本綺堂 『風俗 江戸東京物語』 今井金吾 校註 (河出文庫)


























































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郡司正勝 『かぶき論叢』

「「遊び」こそが、生きるための救いであることを認識したのが、近世という時代であった。」
(郡司正勝 「近松ノート」 より)


郡司正勝 
『かぶき論叢』



思文閣出版 
1979年11月30日 発行
6p+683p(うち別丁図版2p) 
索引25p 別丁口絵6p
菊判 丸背クロス装上製本 貼函
定価13,500円



本書「凡例」より:

「本書は、著者の発表した既往の諸論考のうち、かぶき史全般にかかわるものを収録して、『かぶき論叢』と題した。」
「編集にあたって、収録論文は原則として初出のままとしたが、著者は多少の加筆訂正をこれに施した。」
「本書の編集及び索引は守屋毅がこれにあたった。」



本書「あとがき」より:

「収録されたもののなかには、依頼原稿も多く論文とはいえぬ随筆風の雑文もあり、卒論のような幼稚なものも含み、まァ八重葎といったところで、いまさらながら才拙なるを愧じても致し方がない。取り柄といえば、苦しんで書いたものは一つもないというところでもあろうか。露伴学人の『冬の日抄』の引に「註解は正に是人の楽みを作すを妨ぐるのみ」と云う、その註解を学問に置き換えたような学問だけはしたくないと想うだけである。」
「それでも非才の空想だけは、未完成交響楽のように大きく、いつかは、自分なりの「かぶき史」をまとめてみたいという気があり、江戸文化が、「かぶき」という芸能の磁気を中心に渦巻き流れ展開する大系を棹さして下る日を夢見ている。
 本書は、その遠望の瀬踏みの形ちでもあり、「かぶき」を主軸として、その周辺におよぶ雑考といった形で、比較的堅いものを集録したものである。
 「叢」という草むらに因んで、私の好きな妹背山の道行の求女の衣裳の露芝の文様を、表紙に印してもらうことにしたのは、内容に似つかわしからぬ贅沢というものであろう。あるいは褄の乱れ心というものかもしれぬ。」



図版(モノクロ)計16点。
本書収録論文中、「若衆かぶき以前の少年芸」「かぶきの役柄――発生・解体」「写楽の画がいた寛政六・七年の劇界」「歌舞伎戯曲の展開」「黙阿弥について」「舞踊論」「舞と踊」「逍遥の『舞踊』という語」「演技、神への変身」「「型」について」「『手前味噌』と仲蔵の代々」は『郡司正勝 刪定集』(白水社)に再録されています。

本書はヤフオクで1,000円(+送料970円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。



郡司正勝 かぶき論叢 01



目次 (初出):

凡例 

 Ⅰ
歌舞伎の歴史と本質 (『歌舞伎全書』 1 昭和31年10月、東京創元社)
若衆かぶき以前の少年芸 (『演劇研究』 4 昭和45年、早稲田大学演劇博物館)
かぶきの役柄――発生・解体 (「かぶきの役柄の発生」 『共立女子大学文学芸術研究所研究叢書』 第5冊 昭和37年3月/「かぶきの役柄の解体」 同 第6冊 昭和39年7月)
歌舞伎十八番 (日本古典文学大系 98 『歌舞伎十八番集』 昭和40年6月、岩波書店)
浄るり・かぶきの芸術論 (日本思想大系 61 『近世芸道論』 昭和47年1月、岩波書店)
写楽の画がいた寛政六・七年の劇界 (太陽浮世絵シリーズ 『写楽』 昭和50年10月、平凡社)
生川春明の『役者評判記古今題名通覧』など (『歌舞伎評判記集成』 5 月報 昭和49年5月、岩波書店)
逍遙の歌舞伎研究 (『総合世界文芸』 16 昭和34年5月)

 Ⅱ
歌舞伎戯曲の展開 (原題:「歌舞伎」/『日本文学史』 8 昭和33年11月、岩波書店)
近松ノート 
 近松の世界 (『日本の文学』 4 昭和41年5月、至文堂)
 近松の出自と作力 (日本の古典 12 『心中天網島』 昭和50年8月、世界文化社)
私説浄るり鑑賞――「菅原」「千本桜」「忠臣蔵」を中心に (『古典日本文学全集』 25 昭和36年2月、筑摩書房)
南北四題 
 南北のドラマトウルギー――生世話について (『悲劇喜劇』 315 昭和51年1月) 南北の肖像 (『歌舞伎』 30 昭和50年10月)
 南北の現代語 (『さんいち』 4 昭和51年11月)
 闇の笑・南北――笑う幽霊・笑われる幽霊 (『早稲田文学』 9―2 昭和52年2月)
山東京伝の読本 (原題:「山東京伝の読本の展開」 『国文学研究』 12 昭和14年6月)
黙阿弥について (原題:「黙阿弥」 『民俗文学講座』 6 昭和35年4月、弘文堂
「二月堂良弁杉由来」考 (『南都仏教』 31 昭和49年1月)

 Ⅲ
舞踊論 (『日本の古典芸能』 6 昭和45年11月、平凡社)
舞と踊 (『民俗文学講座』 3 昭和35年6月、弘文堂)
日本舞踊と近代 (『日本の伝統』 6 昭和43年3月、淡交社)
日本舞踊に対する「新楽劇論」における逍遙の批判 (『歌舞伎』 別冊 「歌舞伎舞踊鑑賞」 昭和49年9月)
逍遙の「舞踊」という語 (『坪内逍遙 研究資料』 7 昭和52年3月)

 Ⅳ
演技、神への変身 (『国文学』 20―1 昭和50年1月)
「型」について――かぶきの場合 (『早稲田大学大学院文学研究科紀要』 8 昭和38年1月)
「対面」の予祝性――曽我の対面まで (『歌舞伎』 39 昭和53年1月)
芸能言語について――日本語の不可能的可能性 (原題:「日本語の不可能的可能性――芸能言語について――」 『ユリイカ』 5 昭和50年5月)
「かぶき」における物語性とかぶき性 (『文学・語学』 21 昭和36年9月)
「語り」――かぶきと浄るり (『悲劇喜劇』 310 昭和50年8月)

 Ⅴ
民衆芸能の母胎 (『日本文化史講座』 6 昭和30年10月、新評論社)
芸人の血脈 (原題:「芸人の血統」 『国文学 解釈と鑑賞』 昭和37年11月)
役者・家・芸 (『伝統と現代』 4 「歌舞伎」 昭和44年11月、学芸書林)
『役者論語』について (原題:「役者論語」 日本古典文学大系 98 『歌舞伎十八番集』 昭和40年6月、岩波書店)
役者説話の形成――市川八百蔵の場合 (『日本の説話』 Ⅴ 昭和50年6月、東京美術)
『手前味噌』と仲蔵の代々――三代目仲蔵の著書 (原題:「『手前味噌』と仲蔵の代々」 『手前味噌』 昭和19年3月、北光書房)
一つの「観客」論 (『芸能史研究』 50 昭和50年7月)

あとがき
初出一覧
索引




◆本書より◆


「近松ノート」より:

「芭蕉と近松が、おなじような下級武士の階級といったある共通せる社会環境があって、それぞれ作家生活に入る動機が、これまたおなじくその主君の死に出会ったこと、いずれも俳諧的教養があったことなど、ある時代の思潮のなかで生れ出た運命帯みたいなものがある。
 当時、主君に身近く仕えた下級武士にとっては、その主君の死は、同時に失業を意味していた。ときには命をも投げ出さなければならぬこともあった。それほどでない身分や立場にあった者でも、その前途は、あかるい望みが絶たれてしまう。つまり、その主君の死は、それを取り巻く、直接の家臣団にとっては、あきらかに、その人生の舞台が、陽の当る場所から陽の当らぬ蔭の世界へと廻ったことを意味していた。次の世代の主君が立つとともに、前代の家臣団は交替をよぎなくさせられるのが通例であったからである。
 まして、その仕えた亡き主君と精神的つながりが深く、その上、多感な二十前後の才能ある、しかも身分は低いというコンプレックスと同時に武士というプライドも加えられている人間ということになれば、これから先の人生をどう生きてゆけばよいのか、その苦悩を想いやることができるようにおもわれる。
 これが、中世だったら、あるいは元禄以前であったら殉死ということにつながったかも知れない。もっとも殉死しなければならぬほど主君の身近で、親しく寵愛されたほどの身分でもないとしたら、なおさらシラケた人生ということになろう。生き残っても生きる屍でしかない。しかも人生はこれからだという青年たちだということになれば、元禄のこうした境遇の武士は、たまたま他に主取りができても、人生としての積極性はなくなり、屈辱の一生となり、生きる屍であることに変りはない。
 芭蕉も近松も、突如としたこうした生きる屍を迎えたとすれば、実社会には新しい人生はありえなくなる。もう一つの人生を求めようとするならば、この士農工商に組み込まれた社会を捨てることしかない。そして二人ともこの世を捨てたのである。したがって形としては、二人が二人とも当時の社会の序列から転落したことになるが、二人が二人ともそれを新しい人生への招来の出発点としたところがちがう。それは社会を捨てること、身分を捨てること、つまり与えられた世を捨てることによって、みずから、その新しい人生の舞台を自分の手で廻したことに意義がある。
 芭蕉が選んだ俳諧、近松の採った浄るりの世界は、社会の序列に入らない遊民の為事である。実社会にとって実なき虚の世界であり、夢幻を売る芸術の乞食の世界である。
 しかも、その幻術の虚の世界は、実社会と対照し、対立することによってはじめて生き、あるいは成り立つ構造をもつ点で、まったく次元のちがうもう一つの社会でもあった。
 芭蕉が身を投じた連歌師・俳諧師とは、実社会からみれば、世捨人であり、乞食の境涯であり、社会的には上中層の町人や武士あるいは金持たちの教養の師であり、また太鼓持でもあった。これを近松の場合でいえば、社会の上層階級からもっと低い河原乞食の世界に身を投じたことになり、その対象は、俳諧の世界よりも、さらにいっそう低い、文字をも知らぬ人々を交えた大衆・庶民ということになる。
 近松と人形浄るりの出会いは、公卿侍というその出自の環境にあり、もっとも高い王朝文化の教養が、もっとも低い大衆へ注ぎこむパイプをなしたことになる。こうして近世の江戸文化は、王朝文化と町人文化との出会いによって芸術の華が開くのである。近松のドラマの義理と人情の葛藤とは、武士の精神を支えた義理と、王朝文化の「もののあわれ」の人情とが出会ったときの緊張と火花であるとみてよい。
 近松の第二の人生は、こうして身を落すことによって、新しい世界と価値を見い出したのである。」

「近松が安泰に公卿侍の身分で一生すごしたら、一介の平凡なあるいは優秀な下級侍の人生で終ったであろうことは十分に考えられる。それは芭蕉にも同じことであろうが、捨てた浮世で、もっと自由な大きな世界を摑んだことと、その世界を、積極的に生きたことが、実は問題なので、たんなる破滅型の人間でないことを示している。」
「近松の芸術観も、そこから発するので、虚の世界を実に転回させる虚実皮膜の間の論理は、いかに「生きる」かという呼吸の論理でもある。」

「近松の「慰み」論は、その語彙が示すところは、一見、消極的にみえる芸術論ではあるが、それは、みずから河原者の世界へ身を投じた者の生の哲学が裏打ちされていて、むしろふてぶてしい芸術の実用性・効用性をふりかざした姿勢に積極性をみてとることができる。
 この「慰み」の精神は、「遊び」において大衆を救うといった大乗的な「情」の世界、「愛」の世界を確認せしめたことにある。
 もし、近松が、「愛の詩人」といわれうるとすれば、それはこれまでも説かれてきたように、その作品の主人公たちに深い同情と愛情をそそいで描き出してみせたというだけのことではなく、人形浄るりという取るぬ足りぬ「慰み」の世界において、人世を救い、自分を救ったということの自信が、大衆の人世の完結を明確にさせてやった愛の世界の確立にあるのだ、ということのほうが大切なのではないかとおもうのである。」
「とくに晩年の世話物にあらわれた、心中・殺人・犯罪を取材したこれらの作品のなかにおける、リアルなまでの仮借なき惨酷な描写はどう説明したらよいのか。むしろ、その残忍な殺しの描写のすぐれている点からは、愛の詩人という語はふさわしくないとさえ言えよう。
 それが晩年の作品に至るほど、たとえば『津国女夫池』や『女殺油地獄』にみられるような悽惨な殺しの場面の描写は、いよいよ深刻さをきわめるのは、なにもかも、人間の世界が見えてきた近松の透明な眼光が澄んできたからであって、そのことによって人世が救われ、完成されることを知ってきたからである。そこに「慰み」があり、開放があることを、「浄るり」というフィクションの世界の真実性に打ち込み、そこで到達した、人生のゆきつくところとなったからである。大衆は、安心して、その残忍な殺しにいよいよ涙を流し、楽しんで、救われたのである。」

「近松の浄るり創作の姿勢は、みずからもいうごとく、「慰み」にある。ある人が、近松に向って、現代は、「理詰の実らしき事」でなければ承知しない時代だから、歌舞伎役者も、実際に近い人物像でなければならないといったものに対する近松の答えは、例の有名な「虚実皮膜論」である。
 私は、これを、浄るりの本質であった「救済」の精神を一転せしめた芸術論であろうとおもう。民衆の生活にとって、現実の世界は、いつの世でも、そのまま受け入れるには苦渋に満ちているのである。それかといって、夢だけでは、これまた生きていかれない。救済とは、苦界をそのままの姿で、救いとることしかない。「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず」といった近松の作劇法の一貫した根本の態度は、近松が、浪人的境涯から民衆の世界に飛び込んで獲得した思想だとおもうが、それと、「古浄るり」の世界が果してきた民衆救済の役割とが一致したところに「慰み」の精神に到達しているのだとおもう。
 「慰み」は、たぶんに「遊び」的要素をもつ。誰もが、もはや浄るりなどに、「救済」を実感するものがなくなっている時代である。新しい芸術観は、近松の作品とともに、「救済」から「慰み」へと一転したことをものがたっている。「慰み」自体、そこに生活の実用性がある。あるいは、これも当時の元禄期の精神の産物であるのだろう。
 近松から「遊び」の時代に入ったのである。「芸」が成立するのも、「芸」というものが「慰み」を精神とすることも、近松から明確になるのだとおもう。「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」という、これが「慰み」を成立させ、これが「遊び」となる。「遊び」こそが、生きるための救いであることを認識したのが、近世という時代であった。」



「闇の笑・南北」より:

「幽霊となったお岩は、頑なまでに嫉妬深い邪悪なデーモンに一変する。
 そうなると人間悪・社会悪を一身に背負ったような夫伊右衛門と立場は逆転してしまう。生きている伊右衛門の凶悪さは、人間欲の弱さに一変し、亡霊お岩は、凶悪な凄まじいエネルギーと化してしまう。そこで見物にとって伊右衛門は可哀想な男になり、お岩は怖ろしい女となる。
 その転生の瞬間、世界観の逆転は、女の最後の一念による。闇の笑いは、この瞬間に生れる。世界の逆転、これが闇黒から聞えてくる南北の笑いである。
 生きているとき一破片の笑顔も持てなかったお岩は、あの世へ転生してから大いに逞しく笑うのである。」
「いったい、そのエネルギーはどこに発火点があるかというと、人間最後の一念によるこの世への執着にほかならない。責め抜かれ、苛め抜かれ、虐待されたこの世へ一念を残すこと、暗い、おそろしい、矛盾と滑稽がそこにある。」
「四国の土俗神である犬神をつくるには、犬の目の前に馳走を置いて、そこに犬の執念をこの世に残させて首を打ち落すのだと云い伝えられている。日本では神になるためには、苛め抜かれねばならぬ系譜がある。非業の死を遂げねば神にはなれないのである。御霊(ごりょう)信仰がそれである。これなども、いくらこの世で豪悪を尽した者でも、最後の息を引きとる刻(とき)の一遍の念仏で、極楽往生することができるのだといった浄土宗の教えもこうした庶民信仰の心意伝承の上に立った裏返しがあるのだとおもうが、この生臭い亡霊の笑いは、中世の能の幽霊劇にはなかったところのものである。」

「しかし、幽霊もつねに人間に笑われる対象でもあった。『桜姫東文章』の桜姫に執心の清玄の亡霊は、桜姫が女郎に叩き売られた小塚原の安女郎屋までもついて出る。風鈴お姫と渾名をとった姫の女郎が、いくども鞍替えするのはその幽霊が客の枕元に出るためである。ついに姫も痺を切らして幽霊に喰ってかかる。
  コレ、幽霊さん。イヤサ、そこへ来ている清玄の幽霊どの。付まとう程な性(しょう)があらば、ちつとは聞訳けたがいゝわな。みづからが先々を鞍替へするも、そなたの死霊が付纏うゆへ、馴染の客まで遠くなるわな。エゝ、人の稼ぎの邪魔をするのか。妨ぐるのか。最初はこの身に怖げ立、愛(いと)しやとも不愍なとも、因果の道理と思ひしに、毎夜の事ゆへ馴つこになつて、怖くないよ。幽霊も足が近くちやア、末始終がつまるめへよ。(略)夜が明るよ。幽霊が朝直しでもあるまいサ。消へな、帰りな。エゝ聞わけの悪い。坊主客はこれがうつとしい。コレ、いつぞや何といつたな、わらわは知らねどそつちから、桜姫の前生(さきしょう)は児(ちご)白菊と云やつたからは、云わばそなたにこつちから恨みこそあれ、恨まるゝ、コレ、咄しはねへよ。それぢやアそつちがあんまり横といふものだ。よし恨みつらがあらふが儘、北白川にあるならば、神祇官の吉田の館、禁廷の御政事をとり行ふ少将惟貞、どふして死霊が来られよふ〇 今こふしたしがねへ身になつていると思つて、みづからを見くびつて、壁に見たゆへ付纏ふか。世になき亡者の身を以て緩怠至極。エゝ消へて仕舞ねへよ。
 こうなると、なんとも惨めな幽霊ということになる。「世になき亡者の身を以て、緩怠至極」と叱られる心もとない幽霊となってしまう。人間も堕ちるところまで堕ちれば、幽霊なんぞは怖くもなんともなくなってしまうのである。
 幽霊も、びくびくしながら登場しなければならなくなる。おなじ『桜姫東文章』の桜谷草庵の場で、釣鐘権助が語る幽霊談の幽霊は、ある小町娘に惚れた男が、恋煩いの末に死んで、娘のところへ昼日中に出てくる。江戸の勇みが、とっちめてやろうと待っていると、「青い火が、ぽつと出ると、跡から色の真青な痩た男がひよろ/\と出る所を、飛懸つて、張り倒し、」「ヤイ、間ぬけた幽霊め、うぬは夜るこそ出る物だに、なぜ昼中に出やアがつた。とんだ気まぐれ幽霊だ」と、嚇すと、幽霊が哀れな声で、「夜る出るのは、こわい」と落が付くのである。この咄は、もと落し噺から出たのであろうが、これも惨めな笑われる幽霊の話である。」



「山東京伝の読本」より:

「然して、悪感と嫌悪を来すべき、血の変態的惨劇とグロテスクを文学的表現にまでもたらしたのは、実に京伝の洗練された、芸術の香の高い感性の力である。その近代的に完成された絵画的視覚描写、音楽的聴覚描写は類を絶するものがある。(中略)しきりに絵画趣味を文学にもち込むのは、彼の唯美主義者達と互通し、『安積沼』の画像への変愛はワイルドの『ドリアングレーの絵姿』(Oscar Wilde ; The Picture of Dorian Gray)を想ひ起さしめるものがある。そればかりではない、新鮮な阿蘭銅版の匂も嗅いで、しきりと合巻や読本に移植し、蘭学・蘭医の外科解剖は九相図と結びついて、あやしい香を発散し、『解体新書』の附図の骸骨は『本朝酔菩提』の「臭皮袋図」に変じ、『阿蘭本草ドヽネウス』『紅毛雑話』等と、常に時流の先端に住した京伝の態度は、彼の鋭敏な感覚が決して骨董あさりばかりでなく新鮮な、たへず前進的なものであつた好奇心を証明するものである。かく絶えず時流の動きを読本へ迄もたらしてくるのはさすがに京伝で、馬琴などの及びもつかぬ特殊性であつた。この頃漸く騒がしくなつた対外関係、蝦夷問題を反映しては、『安積沼』『善知鳥』の奥州、北国へと舞台を転ずるが如き、又は支那白話の流行語を移さんとするが如き、やや固定しかけんとする読本に、一種の異国情緒(エキゾチシズム)を齎らしてゐる事は、京伝の読本の新鮮な特色でなくてはならぬ。」


「芸能言語について」より:

「中学時代から文法というものにどうしても苦手だった自分にとっては、言語について語る資格などないのだと、いまでも考えていることに変りがないが、もし文法嫌いにも文法嫌いの言語というものの一分が許されるとするならば、やはり云っておきたいこともないではない。
 それは、あるいは失語言語とかゼスチャー言語とか、ドモリ言語などというものが存在する以上、それらは人間が近づこうとする動物言語や植物言語に類するものではあるまいか、とふと考えてみることがある。それらが日本語を考えてみる場合の、あるいは欠落せる出来損い言語とみるのには、あまりに一方的ではないだろうかという、ちょっとした抵抗があるからである。」
「舞台言語としてのセリフが、ときとして文法を無視するのは、視覚的聴覚を重要視して、これに基本をおくからであることは云うまでもない。日常語でも、われわれはかならずしも文法通りには発声していないのであるが、さらに、日常語と対立した舞台語は、一段と意識され、再組織された、いわゆる芸術言語であるから、いっそう視覚性がつよいといえる。」
「舞台言語としては、これに当然、ゼスチャーが加わるから、視覚と聴覚の一致があってはじめて、一つの世界が完璧となる。したがって、むしろ文法的完熟度は拒否されなければならないので、言語の可能性は、欠落によってこそ高い水準を確保するものだといえよう。」
「さらには、輪廻の思想によって、鳥獣草木は、人間と同次元で生れ替る。そこから鳥獣草木の言語も人間と通ずるとする考えから、それが成立するのが芸能の舞台だということになる。「葛の葉」や「狐忠信」の狐言葉、「柳のお柳」の草木の言葉などの表現は、おなじ擬人化で、人間の言葉を話す西欧の童話などのものとちがうのは、異類が仮りに人間の言葉を用いるのではなくて、異類のしゃべる言葉が、人間と同じものであるという考えによるために、その表現に、人間の言葉と発音の上で、工夫をこらして、狐の泣き声らしく聞かせるのである。つまり鳥獣草木の言葉もよく聞くと人間の言葉と同じだという発想から生れたのが、動植物の言語なのである。
 それは人間の言葉からすれば、欠陥言語にすぎないので、人間の言葉でも、たとえば欠陥のあるドモリ言語とおなじ次元にあるという表現がなされるのである。浄瑠璃の「吃又」は、代表的なドモリ言語を駆使する表現技術が確立している。(中略)つまり欠損言語の完全な表現技術の修練というものが成立するのは、「狐言葉」もおなじことで、ここにも不可能性の可能を疑いなしに求めている態度がみられる。」
「音声を離れた舞台言語というものが成立しないという建前からすれば、言語は、むしろ意味を伝えるというよりは、感情に訴えるための「音遣い」というものを生命とすることになる。
 したがって、ドモリとか、動植物の、ある田舎訛とか、そういった欠損言語の方が、ときにはより多く、感情を伝えるのに大きな可能性を秘めていることもあるのだということを舞台言語はものがたっている。『徒然草』のいう「不具なるこそよけれ」という考え方は、日本語のもつ不具性を、舞台言語として最大の能力を発揮させることになる。」
「日本語には、人称を欠く性質のあることは、『源氏物語』をもち出すまでもない周認のことがらであるが、それをいちいちの人称に整理してみたところで、わかったことになるかどうかはわからない。本当は、どの人物でもよく、他人が云ったのか自分が云ったのか、どっちでもいいといった曖昧さが、実は日本語の特性だったのかもしれないのである。
 そのことは、謡曲でも、浄瑠璃でも、歌舞伎でもいいうることで、極端なことをいうと、役者が、セリフをどう取り違えても、別に奇異ではないことが多々あって、役者の都合によって、AのセリフをBのものとしたり、その一部を他の役にいわせることなど日常茶飯事なのである。」
「舞台言語における、そういった事情はどうしておきるかといえば、もともと日本の舞台芸術は、西欧におけるセリフ劇とはちがうので、どこまでも基本的には、語り物としての性格を脱していないからで、一人で何役をも兼ねるのを本体としたからである。それも不可能性を可能性としている日本芸能の特性である。
 その源流は、本来、巫覡(ふげき)が、神憑(がか)りによって語るうちに、それぞれの人物に乗り移るという仕組みであったがゆえに、役者に憑くというところに、芸が成立してゆくものであった。もともと役者は「化ける」といった二重人格を本態とするものであったから、言語にも二重の翳りがあって、人称を付けることは、その世界の可能性を消滅させてしまう惧れとなるわけである。
 日本の芸能が、二つの世界を往ったり来たりするのもそれで、神事ともどき、様式とリアル、能と狂言、時代と世話が、おなじ舞台で同居し、したがって言語も、韻文と散文を時代世話で使い分けるのを、むしろ正統とするのである。」
「そこに、主語、主体がないから、どんどん世界が転じてゆける可能性がある。曖昧といえば曖昧だが、日本語は、はじめから完成を求めてはいないのである。定義性を嫌う言語がそこにある。」

「言葉には、かならずしも意味を必要としない伝統が、芸能の世界に保存されてきたことは意味深い。中世、仏教の禅宗などの不立文字などといい、「喝」といった音声力に支持されて、芸能の音声は、いよいよ意味の不可能な可能性への完成度を高めてゆくので、つまりは欠落させることによる完成の在り方を示しているのである。」
「「云い尽してなにかあらん」といった芸術言語の源泉は、この芸能の全てを見、全てを聞くことに意味があるのでなく、見えない部分があることを、聞いてはならぬ部分があることを信じさせることに芸能力があることを知らしめることにあったのである。」



「民衆芸能の母胎」より:

「かつて民間に落ちた散楽芸能者の流れが、その技術によって生活するものに対する古代的貴族の賤蔑観に加えて、早くから課役を脱れるために、みずから社会の落伍者たる「濫僧(ろうそう)」となったことは、同時に、無頼の徒の本性をも引出し、また纏頭(はな・かづけもの)をあてにして乞食の所行といわれる芸能者の群を現出したのである。
 唱門師(しょもじ)・散所(さんじょ)・呪師・傀儡子・琵琶法師・御前(ごぜ)・歌比丘尼・河原者と、民間のなかに芸能を植えつけ、全国に渉って漂泊の生活をつづけるもののなかで、田楽法師・猿楽法師は当時の最高の権力者の下に保護されたがために、その芸道に精進する機会を与えられ、芸術的修練から、たまたま人間観に、ある高さや自由を得た芸術家が出現したといっても、生活を彼らに依存している限り、おおむね権力のもとには非力であり、動乱期に、みずからの生活権を守るために「座」を結成した自覚も、権力と結びつく勢力となり、封鎖的(クローズド)な性格となるに至ったのである。」

「古代の傀儡子については、一〇九三年(寛治七年)以降に成った『傀儡子記』などが唯一の文献になっている。
 傀儡または傀儡子は、この国では「くぐつ」とよばれてきた漂泊民である。その水草を追って移動するさまや、各地の分布と勢力については、子記の記するところで、男は、狩猟を事として、弄剣・弄玉をよくし、人形を廻した。また女は遊女をこととしたとある。
 弄剣・弄玉ならば、散楽中の主要曲目として、田楽法師や猿楽法師に承け継がれ、さらに放下から、太神楽にうけつがれる曲芸で、広く、永く民衆に懐しまれてきた技芸であった。あるいは、渡来の散楽芸能人と傀儡との関係を説明する素因をもつものであるかもしれない。」
「彼らがジプシーのごとき漂泊の民で、しかも芸能にはほとんど血の流れとなっているものをもっていたことが『今昔物語』の一節でもうかがえる。それは、ある国司に仕えて目代となった男が、ある日、傀儡子がやってきて役所の前で歌舞をはじめたところが、はじめは拍子などをとっていたが、ついにこらえ切れずに走り出して、かつての仲間といっしょになって踊り狂ったために、元の身分がすっかりわかってしまったという話である。これを物語は「其レハ傀儡神ト云フ物ノ、狂カシケルナメリトゾ」と伝えているが、おそろしいまでに民族の血のさわぎを妖く伝えた話であった。」

























































郡司正勝 『芸能の足跡』 

「宮城県の銀鏡(しろみ)の神楽は、まず「星の舞」の一番から始まる。つまり宵宮だけに舞われるのであるが、この舞は、立願のために舞うのだといわれ、芝居で出てくる天下国家を覆さんとする国崩しの謀叛人は、かならず星を祀って、その大願成就を願ったのである。」
(郡司正勝 「芸能の足跡」 より)


郡司正勝 
『芸能の足跡
― 郡司正勝
遺稿集』 

編集: 須永朝彦


柏書房 
2001年11月1日 第1刷発行
446p 
四六判 丸背布装上製本 カバー
定価3,800円+税
装幀: 石黒紀夫
挿画: 郡司正勝



著者による挿画(扉カット)7点、本文中図版(モノクロ)5点。



郡司正勝 芸能の足跡 01



帯文:

「昭和戦後の歌舞伎研究に画期的な方法を導入して
幾多の成果を挙げ、〈郡司学〉とまで称された
著者晩年の豊かな穣りの景色。待望の遺稿集。
歌舞伎を軸に古代の舞踊から能や民俗芸能、
また日本文化の心意伝承に及ぶ珠玉の論考を一巻に。」



帯背:

「読ませる
古典芸能論」



目次:

 Ⅰ
芸能の足跡 (「演劇界」 1990年1~12月号)
 寅の一点
 鍾馗舞
 九尾狐のルーツ
 庚申の夜
 粂の平内
 大力の女
 伴内と番内
 字舞
 不死身
 誰が袖
 楽屋の神様
 病鉢巻のルート
近世演劇の誕生 (岩波講座 『歌舞伎・文楽』 第一巻 1997年9月)
 1 「かぶき」の時代と位置
 2 「かぶき」の出発とその本質
 3 五条河原とかぶきの発祥
 4 「ややこ踊」について
 5 「かぶき踊」について
 6 「狂言歌舞妓」について
劇場を読む (「文学」 1987年4月号)
江戸の発想 (「TBS調査情報」 264、1981年2月)
かぶきと能の変身・変化 (「自然と文化」 19号、1987年12月)
 北斗七星と七変化
 変化の語源
 化身事
 能とかぶきの変身の形象化
かぶき演出のなかの儀礼――忘れても忘れえざる絵空事の秘めごと (「儀礼文化」 9号、1987年3月、1984年4月14日・儀礼文化学会大会講演)
元禄江戸かぶきが生んだ「打擲事(ちょうちゃくごと)」 (岩波書店・新日本古典文学大系 96 『江戸歌舞伎集』 付録、1997年11月)
かぶきと色子 (「文学」 1995年1月号)

 Ⅱ
黒衣論――黒は影か (「is」 67号、1995年3月)
歌舞伎衣裳の色彩 (講談社 『日本の美と文化 16 きものと文様』、1983年12月)
色とかたち (「國文學」 1996年3月号)
かぶき台本の性格 (北大国文学会創立40周年記念 「刷りものの表現と享受」、1989年11月)
芝居の台帳の性格 (八木書店版・天理図書館善本叢書 66 『仮名曾我当蓬萊』 月報 61、1984年5月)
かぶきの稽古について (「演劇」 34号、1992年5月)
かぶきの正月 (「北海道新聞」 1995年1月5日)
かぶきの桜 (「嗜好」 534号、1995年3月)
動く木働く木 (「嗜好」 別冊 〈木ブック〉、1992年3月)
水を見せる道具仕立 (「草月」 167号、1986年8月)
歌舞音曲の間 (「広邸好人」 1995年8月号)
役者と役者絵 (「歌舞伎」 別冊 「歌舞伎入門と鑑賞」、1978年4月)
役者大首絵について――五世尾上菊五郎の麗姿 国周画「梅幸百種」展講演要旨 (「館報池田文庫」 5、1994年4月)
浮世絵から写真へ (「國文學」 1995年9月号)
歌舞伎の東京 (「現代詩手帖」 1978年7月号)

 Ⅲ
大石内蔵助の虚像と実像 (「日本古典文学会々報」 44号、1976年11月)
 大岸宮内
 家老役という虚像
 大石良雄の実像
「仮名手本」の二人の不義士 (「國文學」 1986年12月号)
南北の金 (「悲劇喜劇」 483号、1991年1月)
「悪婆」と「毒婦」 (「江戸文学」 12号、1994年7月)
田之助と悪婆時代 (ペヨトル工房版 『歌舞伎はともだち③三代目澤村田之助』 1996年3月)
外郎売と御霊神 (歌舞伎座團菊祭筋書、1993年5月)
お七曼陀羅 (国立劇場第135回歌舞伎公演筋書、1986年1月)
道行初音旅 (国立劇場第169回歌舞伎公演筋書、1991年11月)
幽霊は壁を通る (「is」 53号、1991年9月)
日本の亡霊 (「季刊邦楽」 27号、1981年6月)
幽霊の故郷 (「つち」 88号、1984年8月)

 Ⅳ
能と、そのあとに来るもの (「國文學」 1983年10月号)
見てはならぬ芸能 (重要無形文化財「雅楽」特別鑑賞会第10回プログラム、1998年1月)
日本最古の舞踊 (重要無形文化財「雅楽」特別鑑賞会第7回ブログラム、1995年2月)
国風の歌舞のこと (重要無形文化財「雅楽」特別鑑賞会第9回プログラム、1997年3月)
日本の仮面と舞踊 (重要無形文化財「雅楽」特別鑑賞会第5回公演プログラム、1993年1月)
 一、伎楽の時代
 二、舞楽の時代
 三、能の時代
 四、仮面の民俗舞踊
日本の「地獄」の芸能 (パリ・アトリエ舞踏団「新曲」プログラム、1995年4月)
火と水の饗宴 (「月刊文化財」 1982年8月号)
「老い」のかたち (「アーガマ」 129号、1993年12月)
見せるものではない盆踊 (『本田安次著作集』 第10巻付録、1996年9月)
南阿蘇の「にわか」 (「北海道新聞」 1996年11月6日夕刊)
アジア芸能圏のなかの日本の伝統芸能 (「しにか」 1995年6月号)
チルボンの憑依舞踊 (「ゴロゴロ通信 gara gara」 22号、1994年10月)

 Ⅴ
偽りの山 (「is」 59号、1993年3月)
 俗なる山と山師
 山のイリュージョン
 偽物を楽しむ
花鳥風月の系譜 (花と緑の博覧会・印刷物 「花鳥風月祭」、1990年4月)
 花鳥風月という言葉
 「風月」という言葉
 見立てるということ
 花鳥が主人公の劇舞踊
 江戸風流としての花鳥
瑞祥の「花」、循環する生命 (NHKエンタープライズ 『花宇宙 アジアの染め・織り・飾り』 1992年7月)
江戸の芸術 (「國文學」 1990年8月号)
廓のこと (「國文學」 1993年8月号)
江戸時代の中国劇の知識 (「未名」 8号、1989年12月)
日本の三国志 (徽劇公演プログラム、1993年5月)
雛の位置 (『NHK徳川美術館』①、1988年12月)
耳なし譚 (「北海道新聞」 1992年3月4日夕刊)
四季の源流 (「CEL」 32~35号、1995年3・6・9・12月)
 春の源流
 夏の源流
 秋の源流
 冬の源流
忘れゆく美 (「東京新聞」 1984年5月12・19・26日夕刊)
 曖昧さについて
 見せてはならぬもの
 貧と潔癖について
「続く」ということ (「野萩青少年育成財団」 10号、1989年7月)

 Ⅵ
かぶき道――私の中の歴史 (「北海道新聞」 1993年8月2~12日、聞き手・山口勝次郎記者)

編集後記 (須永朝彦)




郡司正勝 芸能の足跡 02



◆本書より◆


「芸能の足跡」「寅の一点」より:

「寅の一点は、暁天の三時から五時にかけての時刻の始めで、北斗星の柄(斗柄という)が寅の方向を指すのが正月であった。
 西宮の夷(えびす)舞わしが「西の宮の恵比須三郎左衛門の尉(じょう)、生れ月日は何時(いつ)ぞと問へば、福徳元年正月三日、寅の一点」などといって、夷人形を遣ってきたのである。」
「この初寅を定める基準は、冬至から数えるのである。十一月朔日(ついたち)は、星の化身とされる妙見の冬至の星祭の日で、妙見詣をする。」
「宮城県の銀鏡(しろみ)の神楽は、まず「星の舞」の一番から始まる。つまり宵宮だけに舞われるのであるが、この舞は、立願のために舞うのだといわれ、芝居で出てくる天下国家を覆さんとする国崩しの謀叛人は、かならず星を祀って、その大願成就を願ったのである。「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の入鹿とてもその例を漏れるものでない。大判事の遅参を叱した入鹿が「アレ見よ、今日は午の上刻。流星南に出でて北に拱(たんだく)するは。万乗の位に即く丸(まろ)が吉星。それ程の事知らぬ大判事でなし」といっている。
 しかも「月は西の嶺にかくれ、星は北の空に集まる頃」は、幽霊が出現する(『伽婢子』「金閣寺の幽霊に契る」)。さすれば、ハムレットが、父王の亡霊に出合うのも、まさしく地獄の口があくといわれる「北斗星の西に当る、あれ、あの星が、恰ど唯今光りをる辺へ参つたるころ」(「ハムレット」坪内逍遙訳)であった。ハムレットの叛逆の兆しは、このときに吹き込まれるのである。」



「劇場を読む」より:

「能楽における造り物は、その系統として、かぶきにも承け継がれている。上方で大道具を造り物と称してきたのは、伝統性の強い風土によるとおもうが、かぶきにおける大道具は、それとは別に、祭礼のときの山車の機巧とその性質を同じくするものであった。
 したがって、舞台そのものが、山車の風流の仕掛を導入したものといえる。しかも舞台は常に動こうとしている点が、能舞台や能の造り物と違うところである。」
「かぶきの舞台は、はじめから野外的な空間をもつものだといってよかった。」
「つまり大道具は、祭礼の山車であり、風流の飾物であり、仕掛ものである。これは、演劇の背景ともまたちがうもので、その証拠には、大道具のセリ出しは、囃子が伴わないと動かない。大道具自体が主役であって、その上に乗っている人物は、人間の餝りものにすぎないのである。」
「明和七年十二月廿七日より大坂の小川座にかかった、並木正三の「桑名屋徳蔵入船物語」は、その大道具の変化の極致をみせたものであった。深川の遊里が、そのまま居所替りで、遠州灘の檜垣舟に変ずる道具である。台本によると、若殿の亀次郎に、家老の多度津一角が「コレ、阿房殿、こなたは此処を鎌倉の深川ぢやと思うて御座るか」というと、亀次郎が「深川でなうて、そんなら此処はどこぢや」と急(せ)いていうと、一角が「此処は遠州灘の大難所で御座るわいの」というと同時に、二重舞台前の蹴込みが舟の縁に返る。(中略)こうした大仕掛の大道具の変化は、この期に至って美事に絶頂をきわめているといってよい。」

「「御船」と舞台をいうのは、今日の文楽の「船底」と呼ぶのと同意であろう。かぶきの劇場の見物席にも「引舟」とか「後舟」とかいう名称が残っていたのも、なんらかの心意伝承があろう。かぶきの舞台が、両花道を備えて土間・切落しの客席を囲っているのも、舟であり、この見物席を取り囲んだ空間それ自体が舞台であったといえる。
 かぶきの演出では、しばしば見物席すらもが舞台になった。『かぶき草子』(大谷本)によれば、出雲の阿国は、見物人を舞台に引き上げて一緒に踊ったし、名古屋山三の亡霊に扮した役者は、見物の中から舞台へ上がった。こうした演出は、元禄時代では盛んに行なわれたもので、(中略)見物席のなかを逃げ廻る趣向は再三あったし、(中略)桟敷を舞台とした例も一二ではなかった。」
「しかも、見物席が、舞台の上まであったので、(中略)席のない舞台に自由に坐り込んだのは、里神楽の神楽殿さながらで、(中略)つまり演劇空間は、舞台と見物席の別があっても、自由に位置転換を行なったのが、かぶき本来の劇場意義であったといえる。」



「かぶき演出のなかの儀礼」より:

「我々はその京劇を拝見しまして、「あっ、かぶきにも昔こんなものあったが、それがどうしてなくなっていったのか」と気づくことがございます。(中略)たとえば、梅葆玖という方が得意にしている出しもので、楊貴妃が酔っ払う芝居がございます。「貴妃酔酒」と申します。これは梅蘭芳の当り役でございまして、(中略)これを拝見しておりますと、まあ、劇的なストーリーなんていうものは別にございません。一時間十五分の間、楊貴妃が酔っ払う所作だけでございます。これはやっぱり驚きでございますね。ただかぶきにも昔はこのことがあったのだと、心に思いあたることがございます。とかくかぶきでは、腹を切ってから長々とその一場の物語をする、腹を切って三十分も、それは人間がもつはずのものではない。その間の回想シーンをずっと引き伸ばしたものを見せる、これがあの芸だったと思います。ですから、人間の動作の一部を非常に引き伸ばして、そしてそれを回想して見せる、というのがかぶきの芸にも昔はあった。それが今日はストーリーばかりを追うようになりまして、その芸がみんな脱落していってしまう。」


「黒衣論」より:

「黒衣は無くていいということでなく、晴れの舞台の介添役として、立派な後見の一種であり、儀式としての目立つ重要な役目なのである。人形芝居で、開幕に先立って口上を述べるのは、やはり黒衣である。したがって、いつでも主役に故障の起ったときは、代役しなければならぬ実力を持っていなければ勤まらぬ役なのである。(中略)影の支え、影の力が黒衣の役目だといっていい。無い者だと想えという約束ではないのである。黒い色は、力の象徴とみてよいのかも知れぬ。」
「隠れることによって目立つという、黒の芸能の美学といっていい。」



「色とかたち」より:

「昨年、白内障で右の一眼を手術し、人工膜を入れて気のついたのは、両眼の色彩感覚の差異である。義眼の人工網膜の方は硝子質だから水色で、青空など見ると青色が鮮やかに増加されるが、手術しない左の肉眼の方は、黄色がかった世界であることに気がついた。」

「「青」は、かぶきでは庶民の色である。たとえば「菅原伝授手習鑑」の武部源蔵、「忠臣蔵」の六段目の早野勘平など、武士にしても身分の低い落魄(おちぶ)れた者が着る衣裳の色である。そして、それらの者と苦労をともにする女房たちのほとんどの衣裳は浅葱(浅黄)色である。これは中国の京劇でも同じで、「青衣旦」という、貧しいが節婦という女方(旦)の役柄がある。おそらく、この青色は「青人草」からきた感覚で、高山彦九郎ではないが「草莽(そうもう)の臣」の草原の色で、日本人にとっては、青色も緑色も「あを」なのである。二月堂のお水取りにあらわれる「青衣の女人」も、たんに青色の衣服を着た女性というのではなく、名もなき民草の女性ということの記号色なのだといえる。」
「青色の布は、紺屋が染める。水色と紫色のあいだが「紺青」で、「紺碧」ともいう。江戸時代には、紅染屋と区別され、「青屋」といって賤民扱いされ、「駄染屋」といわれた商売であった。江戸を代表するかぶき作者鶴屋南北も、浮世絵師の傑物歌川国芳も、紺屋世界の出身者であった。その発想や意匠の奇抜さは、その出自に由来するところが多いとみたい。
 青色には、白色と紛れる方向と、反対色の黒色へゆく道があった。」

「祇園の下級神人「犬神人(つるめそ)」の衣服は柿色であった。(中略)黙阿弥の「網模様燈籠菊桐」の中間小猿七之助が、身分が上の御守殿の滝川を犯す「洲崎土手の場」の扮装は、紺看板に赤合羽というなりである。紺色も赤合羽の柿色も下賤の色である。これに対して、滝川は白地の衣裳となる。これで、色が色を犯す芝居となるのである。魔道に堕ち、天下を覆さんと天魔となった崇徳院は「柿の御衣に篠懸(すずかけ)」(謡曲「松山天狗」のアイ)という禍々しい御姿となった。」



「かぶきの桜」より:

「おなじく所作事で、有名なのが「関の扉」の桜で、これは雪中に返り咲きした墨染桜の精が、傾城となって現われるという幻想的なもので、桜の精は、のちに薄鼠地の着付に枝垂桜の模様で、桜の大木の洞(うろ)から出現し、桜の枝をもっての立廻りになると、華やかなトキ色に枝垂桜の模様の着付にぶっ返る。」

「「祇園祭礼信仰記」の「金閣寺の場」では、桜の大樹に縛られた狩野雪姫が、縄付きのまま、散る桜の花片を足先で集めて鼠を描くと、白鼠があらわれて縄を嚙み切るという奇跡を見せるが、この場のことを「爪先鼠」という。」



「歌舞伎の東京」より:

「明治二十四年の一月に、歌舞伎座で、黙阿弥作の「風船乗」が上演された。常磐津の大切所作事で、本名題を「風船乗評判高閣(うわさのたかどの)」といった。当時、来朝して評判の高かった英人のスペンサーの風船乗りと、前年に完成した浅草の十二階を舞台で見せようというものである。
 前場は、上野公園博物館前の場で、スペンサーを待つ見物の雑踏する新風俗を見せ、五代目尾上菊五郎が、黒のシャッポに鼠色の洋服で出て、軽気球に乗りこんでビラを撒く。軽気球は宙乗りで上ってゆくと、道具が替って空中となり、子役が遠見のスペンサーとなって、軽気球から落下傘に飛び移ると、本役のスペンサーに入れ替って、落下傘のまま奈落へ下りてゆく。また上野の場になって、人力車に乗ったスペンサーが出で、ガス樽の上で、英語の演説をする。
 次に、浅草の凌雲閣(十二階)の場に替って、風船をみてから酉の市へゆく、菊五郎二役の三遊亭円朝で出るといったもので、常磐津や清元に西洋音楽を加えたかなりの際物であったから、初演だけで終ったが、上野公園博物館前とか、浅草の十二階の場など、江戸では見られなかった新東京の風景が舞台になった。」
「時計を出してみて、もう昇る時刻だなどともいう。浅草公園の場は、江戸時代とおなじ観音堂や茶屋の風景でありながら、その後に、煉瓦造りの凌雲閣の十二階をニョッキリとみせたところは江戸と東京の新旧を目のあたり、その異和感こそが東京だといってよかった。」



「「悪婆」と「毒婦」」より:

「「悪」という字は、道徳的にわるいという語に、後世になって統一されてしまったが、もとはむしろ剛(つよ)い、あばれ者などを意味している例は、いまさらいうまでもなく、悪七兵衛景清をはじめ、藤原頼長の悪左府、悪源太義平のごとく、狂言の「悪太郎」のごとく、社会の秩序に抗した者に冠せられたもので、彼らは一方のスターだといってよかった。」


「見てはならぬ芸能」より:

「「見てはならぬ芸能」。したがって「見せてはならぬ芸能」を、宮中の御(み)神楽をもって第一とする。
 ご存じのように、神楽には「御神楽」と「里(郷)神楽」がある。宮中のを「御神楽」、そのほか国々地方の神社の神に仕える楽を「里神楽」という。われわれは里神楽は見ることができるが、御神楽はふつう見ることができない。里神楽は御神楽の「もどき」である。したがってわれわれは、もどきの芸能は見ることができるが、その本体は拝むことができない。それは神の所作だからである。」

「本来「あそぶ」とは神の所作をいったもので、東北地方の「いたこ」がおしら神を遣うのを「おしら遊び」といっている。(中略)「遊び」とは、もっとも神に近い行動・行為のことであった。」



「日本の仮面と舞踊」より:

「かぶきは、仮面を捨てた踊に始まるのであるが、趣向として面を使うものがある。古くから「後面(うしろめん)」と称して、頭の後に面をつけて、前後で、別人格となって踊り分けるのが特色であった。男女となったり狐が化けたりするのである。」


「忘れゆく美」「曖昧さについて」より:

「曖昧さというと、道徳的には後ろ暗い貌で悪徳となりそうだが、美の世界では倫理を越えた境地である。そして、明瞭さというものが人間を生かすかどうかは、すこぶる疑問であろう。
 近代の機械文明のなかでも、電気照明は文明の重要な尺度となっているが、その精巧さは曖昧の世界を止めどもなく追い出してしまったように思える。だれか、電気照明の明るさのなかで滅んでしまったものを数えたことがあったろうか。」
「芸術はこうして追い詰められて、誤解を惧(おそ)れず高揚する場を失い、誤りを許されずに低姿勢を強いられてゆくのであろうか。完成度というものを否定してきたこの国の伝統的美意識は変貌せざるをえないのであろう。」



「かぶき道」より:

「昨年夏、長崎県の対馬で見た盆踊は、特定の家の青年、それも長男だけで十二人が、位牌を並べたお寺の縁側の前で踊っていました。崖ぷちの狭い場所で電気もなく、真暗なところで子供が何人か見ているだけで、私が行ったら「見せるものじゃない」といわれました。
 聞かせてはならない歌、見せない芸能というものがあることを改めて実感しました。」






こちらもご参照ください:

服部幸雄 『江戸の芝居絵を読む』
守屋毅 『中世芸能の幻像』
網野善彦 『悪党と海賊』 (叢書・歴史学研究)
白川静 『文字逍遥』 (平凡社ライブラリー)
細馬宏通 『浅草十二階』









































郡司正勝 『かぶき ― 様式と伝承』 (ちくま学芸文庫)

郡司正勝 
『かぶき
― 様式と伝承』
 
ちくま学芸文庫 ク-12-1 

筑摩書房
2005年2月10日 第1刷発行
511p
文庫判 並装 カバー
定価1,500円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 渡辺千尋
装画: 「四条河原遊楽図屏風」(部分)


「本書は一九五四年、寧楽書房より刊行されたのち、一九六九年七月、學藝書林より再刊された。本文庫は、學藝書林版第二刷(一九七六年九月刊)を底本とした。」



本文中図版(モノクロ)多数。

本書収録論文中、「力者とその芸能」「河原者と芸術」「猿若の研究」「道化の誕生」は岩波現代文庫版『かぶき発生史論集』に、「「かるわざ」の系譜」「たての源流」「六法源流考」「猿若の研究」「三味線の登場」は『郡司正勝刪定集』に収録されています。


郡司正勝 かぶき


帯文:

「芸能研究の金字塔
かぶきに結実する芸の源流と変遷を追う」



カバー裏文:

「日本の芸能研究に大きな足跡を刻んだ著者の、幻の名著。荒事、悪態、かるわざ、六法などかぶきの様式の源流について、また猿若、道化といった役柄の出現と変遷について、さらにそうした芸能を担った人々の実像について、独自な視点で掘り下げた、克明な実証的研究。既成の演劇理論に捉われず、広く民俗芸能を視野に入れ、社会史・風俗史からのアプローチも取り入れて、時代の息吹のなかでのかぶき生成の実相に迫った本書は、その後の研究に大きな影響を与えた。」


目次:

序(初版) (河竹繁俊)

第一編 かぶきの様式
 饗宴の芸術――かぶきの本質とその様式
 荒事の成立
  荒事の意義
  荒事における民話力
  荒事とその表現
  見得とつけ
  「草摺引」の意義
  押戻しの意義
  力紙考
  仁王襷考
 悪態の芸術
  悪態の饗宴
  悪態の式典化
  悪態の家系
  悪態のスタイル
  悪態狂言の系譜
  悪態の環境と本質
 髪梳の系譜
  髪梳の発想
  風呂上り
  髪梳の演出
  髪梳の唄
  髪梳とめりやす
  髪梳という愛情の表現
  髪を梳く恐怖
  髪梳の伴奏
  嫉妬と変貌の様式
  怨恨と哀傷の唄
 「かるわざ」の系譜
  蜘舞の流行とその伝承
  蜘舞の源流と変貌
  蜘舞の行なわれた場所と携った人々
  早雲長吉とかぶきに入った蜘舞
  かぶきにおける蜘舞の技術
  かるわざと戯曲の結合
  かるわざと所作事
  怨霊事、ケレン、宙乗り
 たての源流
  「たて」と軽業
  かぶきに入った棒踊
  棒踊の流布と伝承
  棒の性質とその芸能化
 六法源流考
  「歩く芸」の系譜
  「練」とその伝統
  六方と六方衆
  技術としての「練」
  「振る」と「踏む」と
 出端と引込みのノート
  「出端」と「引込み」の意義と変遷
  出端の性格
  「引込み」の性格

第二編 かぶきの成立
 力者とその芸能
  力者の社会的地位
  力者の職業
  力者と芸能
 河原者と芸術
  河原者の芸術
  河原者とその職業
  河原者と劇場
  河原者とかぶき子
  河原者ときやり
 猿若の研究
  文献にあらわれた猿若および従来の学説
  猿若のあらわれた画証
  民俗舞踊における猿若の発見
  猿若とシンポチ
  猿楽と猿若の関係について
  狂言師と猿若の関係について
  猿若の扮装術
  猿若の芸能
  猿若狂言の変遷
  猿若狂言の成立
  道化としての猿若の性格
  猿若の喪失と道化方の出現
  猿若の史的位相
 道化の誕生
  「どうけ」という名称
  どうけの出現
  初期どうけの地位
  どうけの扮装術
  初期どうけ方の劇術
  どうけの役柄
  奴・六方・丹前
  半道について
  初期どうけ方一覧
 のろま管見
  のろまの発生
  のろまの先駆者
  のろまの後継者
  のろまとそろま
  間狂言としてののろま
  のろまの劇術
  のろまの扮装
  のろまの性格
  のろまの演出
  のろまの衰退
  のろまの復興
  佐渡ののろま
 茶かぶき
  「かぶき茶」とその性格
  唐様の茶会について
  茶会における芸能
  茶会から歌舞伎へ
  茶屋の街頭進出
  遊女の茶会とその演劇性
  茶会の狂言「茶湯丹前」
 三味線の登場
  三味線登場の日
  三味線の座とその弾奏者
  三味線の座席
  座席を飾るもの

あとがき
復刊あとがき

解説 いまここにない歌舞伎への憧憬 (古井戸秀夫)

索引




◆本書より◆


「饗宴の芸術」より:

「かぶき十八番に「毛抜」という狂言がある。その主人公は、しばしば演技なかばで見物に話しかけ、相談をもちかけるのである。侍女や若衆にしなだれかかって、振られると、この英雄の主人公は、自分の醜態を見物に向かって「近頃面目次第もありませぬ」と謝る。見物は、ここで劇中人物と俳優の二重の親近性を感じて声をあげて喜び、この一齣は完成するのである。(中略)また「義経腰越状」の五斗兵衛は、花道に立って「俺が酒をのむのが無理か、どうだ」と見物席に向って意見を求める。観客の中から「尤(もっと)もだ」という声がかかると、劇はさらに進行する。『ピーターパン』のフィヤリーが弱ってくると、見物に拍手を求め、ふたたび元気を吹き返す格であるが、これらを仮に見物との共同演出といったのである。演劇の始原には純粋な見物というものは存在しなかった。すべてが執行人である。その場に集まった人々は少なくとも囃子詞(はやしことば)やかけ声をかけねばならぬ義務があったのである。かぶきはこの原始的饗宴性の上に居心地よく坐り込んでいるのである。」

「当時のかぶき役者の人気というものは、ほとんど庶民の王者であって、風俗流行の源泉であり、美人の標準であり、小説の挿絵はすべて彼らを似顔とし、錦絵は争ってかれらの舞台姿を彩り、商標はこれを利用したものである。(中略)しかるにその人気に反して彼らの社会的待遇は、士農工商の四つの人間階級にも入れられぬ「河原乞食」であり、正式には社会との交際を禁じられ、種々の生活制限をうけたので、このことはあるゆがんだ暗い蔭をかぶき芸術に落さずにはおかなかったのである。」

「またかぶきの化粧のなかには、眼球や舌に化粧するというすさまじいものがあった。碇知盛(いかりとももり)の血走った目を表現するのに、紅を眼の中に入れ、舌を出したり、カッと口を開けてみせるために、口に紅を含んだのである。これは怒りや恐ろしさをリアルに表現するというより、いわゆる蕪村の「閻王の口や牡丹をはかんとす」の華麗さをねらったものであった。かぶきはこんな表現に身命を賭ける。」



「荒事の成立」より:

「柳田国男は『妹の力』のなかで御霊信仰を説き、その「ごりょう」ということばから「五郎」という英雄神を生み出し、鎌倉権五郎景政や、大人弥五郎などの人物を作り出したといわれているが、曾我の五郎という名において荒人神になったのには、やはりこの御霊信仰の基盤があったのである。そのほか、荒事の主人公たちが多く、この五郎の名をもっていることも無意味のこととはおもわれない。「暫」の篠塚五郎・鎌倉権五郎、「押戻」の大館左馬五郎とか竹抜五郎などの役名は、みな荒人神の御霊信仰から生まれた荒事神であったというべきである。」

「さて、逆境にあって臥薪嘗胆の末、復讐を遂げるという異状な抵抗と、時の権威の圧力のためにその結果が死刑に終わったことによる民衆の恐れと同情が、憤怒の神を形成せしめ、荒神となって権力者に祟るという民衆の発想と、その一連の民話の様式が、かぶきの荒事を形成せしめている原動力となっているとおもう。」



「「かるわざ」の系譜」より:

「この「かるわざ」「早替」「ケレン」「宙乗」という曲芸が、歌舞伎史上に、いかに、舞台機巧・装置・衣裳・鬘等を進展せしめたかは想像以上であって、歌舞伎の本質と考えられるスペクタクル性の大半は、ここに発しているといってもよく、その源流は早雲長吉およびその一派の河原者、放下、力者らの賤民が、散楽・田楽と、連綿と受け継いで、かぶきに渡した蜘舞とその一連の技芸の展開に帰すべきものであろうと思う。」




こちらもご参照下さい:

郡司正勝 『かぶき発生史論集』 鳥越文藏 編 (岩波現代文庫)









































郡司正勝 『地芝居と民俗』 (民俗民芸双書)

「その俳優は、社会人の罪業・悪徳・穢れを一身に引き受ける役を舞台で演じたのである。かぶきは、まず、「念仏踊」からはじまった。殺される役、斬られる役、幽霊の役、悔恨と懺悔を、「物語」や「くどき」で表現するのが、そのクライマックスであった。見物は、それゆえに自分らの世の姿をみ、浄化されるのである。」
(郡司正勝 「演劇とフォークロワ」 より)


郡司正勝 
『地芝居と民俗』
 
民俗民芸双書 58 

岩崎美術社
1971年2月5日 第1刷発行
1972年3月22日 第2刷発行
273p 口絵(モノクロ)8p
B6判 角背紙装上製本 貼函
定価1,300円



本書「あとがき」より:

「幼少のころ、芝居好きの祖父につれられてみた地芝居は、札幌の薄野口にあった大黒座であった。ちょうど廓の入口近くにあり、そこには、地付きの役者がいて、旅役者を迎えては一座を仕組んで、いろいろな芝居をみせてくれた。
 祖父は、大きな声で、屋号を呼んだ。花道のスッポンから出てきた、地役者の座頭は、切穴を覗きこんだ子供のわたしに、思いがけず、扇子で顔をかくしていながら、赤い舌をぺろりと出してみせた。そのときの驚きは、いまもって胸が痛むほどだ。芝居を憎む心と、その魅力にいちどにとり憑かれたといっていい。」
「各地の探訪に歩きまわっているうちに、しばしば、目の前で消滅してゆく地芝居にいくたびか遭遇した。(中略)そのたびごとに、身を切られるように感じたものである。
 小さなノートに書き止めてきた、雑駁な見聞記ではあるが、そうした記憶を、かぶきの底辺を支えてきた民衆の心のなかに、その伝播と共感を考えるための資料の一端として、ここにまとめておく機会が与えられた。
 そこで、その発想とでもいうべき、風流の精神と、地狂言の周辺を考えてみたものを、第一部とし、地方を歩って出会った地芝居の記録を、第二部として纏めてみた。」



郡司正勝 地芝居と民俗 01


目次:

第一部 民俗と芝居
 芸能の発想と文学
 演劇とフォークロワ
 かぶきの地方流伝
 地芝居の特質
 地狂言の呪術性
    ○
 旅芝居
 俄について
 茶番狂言について
 照葉狂言

第二部 地芝居探訪
 烏山の「山揚げ」祭
 栗山の地狂言
 牧かぶき
 群馬の地芝居
 伊能かぶき
 秩父の屋台芝居
 奥多摩の舞台
 伊豆の舞台
 長野禰津村の舞台
 長浜の曳山かぶき
 小松の曳山芝居
 虫生の舞台
 小豆島のかぶき
 金丸座見聞記
 金丸座後追
 香川町の祇園座
 伊根の屋台舟かぶき
 興居島の船踊
 切山かぶき
 隠岐島の地芝居

あとがき



郡司正勝 地芝居と民俗 02



◆本書より◆


「芸能の発想と文学」より:

「俳諧が、もと和歌の本歌取りから転じて、その主体性を主張したのは、見立を、働きとして、その自主性を高揚したからによる。俳諧は、談林を通って、はじめて独立宣言することができたのだとみれば、それは「見立」という働きによってであるはずであった。」
「それは、風情にあるのではなくて、意外性の驚きの働きにあったはずである。「目のさめたる作意」が、すなわち「新しさ」であり、見立てなのである。俳諧は、文学的であるよりは、より芸能的であるのは、芭蕉のいうごとく、「文台を下ろせば、すなわち反古」という、その発想尊重の精神にある。こうして江戸文学は、芸能の下に、隷属するか、またはその芸能性において、江戸文学としての特色を主張し、あるいは獲得するのだといいたい。
 さらに、一歩進めて、
  わざと天地をさかさまに云なし、直なる物を無理にまがらし、一句の妙体をたてじ、月日を下部(しもべ)の仕物(つかえもの)にし、太神宮を紙屑買にたとへ、天満神を傾城になし、天の逆鉾を摺少木にし、帝王に犬の馬痢をなめさせ。(『破邪顕正』)
ということになれば、さらに、神聖を犯す「おかし」としての領域に、一歩進めることになる。「もどき」には、もと、本意に逆らうの意がある。かぶきの殿様が「予が意をもどくか」というとき、そこには一種の反逆精神を指摘したことになる。
 「おかし」も「もどき」も、滑稽、笑い、二の次の精神に隠れた反抗精神を含むものだといっていい。」

「風流が、これらの今来(いまき)の神の祭りのために、新しい趣向をこらして、さかんになるのは、やはり、新しい力と働きを具体化して求められたからである。新しさは、疫神を押えるための、もう一つの荒々しい力にほかならない。祭りの趣向は新しいほどその祭りの実力を発揮することになる。それは古い力では、押えきれぬ現代の要請ということになる。古来のしきたり、権威にとっては、そこに一種の破壊行為と意志をみることになる。施政者側が、しきりに、風流の禁を行なったのは当然であろう。
 南北朝から近世初頭にかけて、この新しい精神が、しばしば旧社会制度の秩序の破壊をしめすものとしてあらわれてくるのが、「婆沙羅」の精神である。バサラ風流は、まず行為としてあらわれる。『太平記』にあらわれるバサラの大将として、佐々木道誉などの行為を指したが、それが異形、異風というかたちで、風流と結んだのが、バサラ風流である。」
「その異風体を、おもしろきとみる精神が、やがて、かぶきを生み出す基盤となるので、(中略)出雲の阿国の異風は、大衆の憧れの的となる。」



「演劇とフォークロワ」より:

「江戸時代に、願人坊主という街頭の乞食坊主があった。(中略)代参、代詣、代侍、代垢離(ごり)などを、引き受けて、代りに、願人となる者の謂である。すたすた坊主などという裸形の者も、代垢離姿の願人である。つまり、人の罪業、穢れなどを引き受けて、わずかな賽銭をうけて願参りをする坊主のことである。それらは社会の秩序の外にあった。坊主という賤民世捨人である。賤民世捨人といえば、中世の能役者ももと阿弥号をもつ僧形の世捨人であり、猿楽法師であった。かぶき俳優こそは、僧籍などではないが、士農工商の四階級の認められた社会制度外の人間、つまり制外人(にんがいにん)であって、社会の埒外におかれている地位はおなじなのである。
 その俳優は、社会人の罪業・悪徳・穢れを一身に引き受ける役を舞台で演じたのである。かぶきは、まず、「念仏踊」からはじまった。殺される役、斬られる役、幽霊の役、悔恨と懺悔を、「物語」や「くどき」で表現するのが、そのクライマックスであった。見物は、それゆえに自分らの世の姿をみ、浄化されるのである。
 生きながら社会の埒外にはみ出されて、死を語り、死霊となって冥府の有様をみせるというのが、能の本質であり、浄るりも、かぶきも、そうした伝承をうけつがないわけはなかった。慰みも浄化も娯楽も、それらの代替りがあってこそ、自分たちのものとなるのである。
 生きているうちに立てる墓、塔婆を、寿塔(じゅとう)というそうであるが、死の病いにあるとき、死んだものとしてこの寿塔を立て、いったんこの世から、みずから葬って、生きのびる方法である。だれがいつ考え出したものであるかしらぬが、民俗としてこの国に残っている。(中略)これは一種の生まれ替りの思想から出たものだといっていい。いったん死んだことにして生まれ替るのである。そのためには、一度世を捨てねばならない。重い病いを得たときに、出家するのもおなじことで、この世を捨てることによって生きのびる方法であった。
 その代役を、舞台で勤めるのが俳優の本質にあった。俳優が忌み嫌われる面と、めでたい二様の面があるのはそれである。もと、巫覡(ふげき)より出て、生き身の憑坐(よりしろ)となった点にその本質がある。心中、殺人、犯罪などで死んだ人物を、舞台に招きよせ、みずから憑坐となって、その因果の業を、語り、くどく技術が俳優であったとすれば、世話物は、というより、劇は、そこから出発し、その底流にそれが、つねに流れていることになる。「曽根崎心中」のお初が、観音めぐりからはじまるのは招魂された俳優の肉体を借りて冥府からこの世に呼び出される道行振りであったとみたい。舞台は、この世ならぬ神聖な場所であるから、ここに現われた、生霊・死霊・神仏は拝まれたので、尊敬と罪悪の捨て場とみた蔑視は、俳優の両面であったのである。」



「俄について」より:

「「俄」という芸能は、もとにわかに仕組んだ、つまり即興劇の謂で、今日の流行語でハプニングというのに当るかとおもわれる。
 したがって、本来の一回切りの、二度とはやれないというのが、その本質であろう。演劇のもっとも本質的な、もしくは初原的な要素だといっていい。演劇は、その俄性の上で成立している芸術である。」
「さて、ハプニングは、かならずといっていいように、喜劇性と諷刺性をもつことを忘れてはならない。」

「ある祭日に、にわかに雷鳴し、たちまちに晴れ上ったとき、鬼に扮したものが太鼓を背負い、毎戸ごとに廻ってきて、腰をかがめながら、「ただ今は、さぞおやかましうございましたでしょう」と挨拶してゆくのなど、典型的な流し俄であり、まったくその日と、その事態でなくては通じない俄の本質をうかがうに足るものである。」




















































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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