出口保夫 『ロンドン塔 ― 光と影の九百年』 (中公新書)

出口保夫 
『ロンドン塔
― 光と影の九百年』
 
中公新書 1141

中央公論社
1993年7月15日 印刷
1993年7月25日 発行
iv 182p
新書判 並装 カバー
定価680円(本体660円)



本文中図版(モノクロ)多数。


出口保夫 ロンドン塔


帯文:

「漱石の小品以来親しまれてきた「塔」の華麗にして悲惨な歴史」


カバーそで文:

「二十世紀初頭、夏目漱石の小品「倫敦塔」によって紹介されて以来、われわれにも親しみ深く、ロンドンを訪れる観光客にとっても最も印象の強い観光名所となっているロンドン塔は、現在の静謐な姿の裏に、九百年に及ぶ華麗にして悲惨な歴史を宿している。本書は、塔以前のローマ時代の砦から、ウィリアム征服王による築城、中世から近世への流血の時代を経て、次第に世俗化してゆき、今日に到るロンドンの象徴を通覧する読物である。」


目次:

プロローグ――ロンドン塔再訪
 漱石とロンドン塔
 ビーフ・イーターたち
 ホワイト・タワーを見る
 荘厳な聖(セント)ジョンズ・チャペル
 ヘンリー八世の鎧
 タワー・グリーンの処刑場跡
 聖ピーター教会
 豪華絢爛の宝物館
 城壁を歩く
 ビーチャム・タワーの烏たち
 鍵おさめの儀式

第一章 「塔」の築城
 ローマ時代の砦
 タワー・ヒルの要塞
 ロンドンを制する者は……
 ウィリアム征服王とロンドン
 征服王の初期の築城
 ガンドルフと最初の木造の「塔」
 「塔」の聖なる礼拝堂の方位と構造
 「塔」の恐ろしい外観
 ホワイト・タワーの構造
 ルーフス兄弟と「塔」
 スティーヴン王とキーツの詩
 ヘンリー二世とトマス・ア・ベケット

第二章 華麗な「塔」の完成
 信仰厚いヘンリー三世と「塔」の増築
 華麗なウェイクフィールド・タワー
 「塔」に造られた動物園
 十三世紀の「塔」の生活
 宮廷の人びと
 騎士たちの生活
 ロンドン橋の完成と中世のロンドン
 エドワード一世とビーチャム・タワー
 聖ピーター教会の献堂

第三章 中世動乱期の「塔」
 リチャード二世の華麗な戴冠式
 人頭税に立ち上がる民衆
 タイラーとジョン・ボール
 堅牢なる城塞「塔」
 マイル・エンドでのリチャード王とタイラーの死
 リチャード二世、涙の譲位
 ヘンリー四世とバース勲章の騎士たち
 王の身のまわりを世話する人びと
 「塔」のエドワード五世とヨーク公
 姿を消した王子たち
 リチャード三世とボズワースの戦い

第四章 流血の時代 Ⅰ
 チューダー時代の「塔」
 ヘンリー八世の王宮と改革
 エラスムスとヘンリー八世
 ヘンリー八世と王妃たち
 ウルジーの失脚と大法官トマス・モア
 「塔」でのフィッシャー司教
 トマス・モアの処刑
 シェイクスピア『サー・トマス・モア』
 「塔」に入るアン・ブリン
 アン王妃の最期
 キャサリン王妃の処刑

第五章 流血の時代 Ⅱ
 エドワード六世の戴冠式行列
 エドワードの夭折
 ジェーン・グレー「塔」に入る
 メアリー女王の即位
 ノーサンバランド公の処刑
 ジェーン・グレーの最期
 エリザベス女王と「塔」
 P・ヘンツナーの「塔」訪問
 兵器庫と造幣局
 エリザベス女王と廷臣たち
 エセックス伯への寵愛
 非運なエセックス伯の最期
 サウサンプトン伯と「塔」
 ローリー卿の「塔」の生活
 ローリー卿『世界史』を書く
 ローリー卿の辞世の詩

第六章 「塔」の刻字
 「塔」に留まらなかったジェームズ一世
 ガイ・フォークス事件
 残忍な拷問台
 ビーチャム・タワーの刻字
 ベイリーの人生訓
 ギフォードとアランデルの刻字
 ソールト・タワーの刻字
 クロムウェル時代の「塔」の荒廃
 チャールズ二世による「塔」の復活
 ピープスの宝探し
 大火「塔」を襲う

第七章 世俗化した近代の「塔」
 十八世紀のロンドン
 観光名所となる「塔」
 宝物館の王冠
 宝物館の盗難
 ライオン・タワーとチャールズ・ラム
 一八四一年の「塔」の大火
 ウォータールー・バラックの完成
 発掘された遺骸
 ヘスの「塔」幽閉

エピローグ――漱石と『倫敦塔』
 ロンドンに来た漱石
 「夢の織物」としての「塔」
 チャペルを見落とした漱石
 「塔」とシェイクスピア
 ドラローシュの絵
 エインズワースと漱石

あとがき




◆本書より◆


「プロローグ」より:

「いつ頃だったか記憶は定かでないが、だいぶ以前「塔」の見物に訪れた時、このビーチャム・タワーの窓のところで、不思議な光景を見たことがある。
 ちょうど三時頃だったと思う。派手な制服のヨーマンが、その塔の窓に梯子をかけ、窓辺に水飲み皿と、肉皿を置いて立ち去った。その衛士が立ち去るのを待っていたかのように、数羽の烏が窓の下に集まってきた。まず最初の烏が、トントンと梯子を渡り、窓辺の皿の水を飲み、肉片を食べると飛び去った。すると下で待っていた二番手の烏が、同じように梯子をつたって、窓の下に行き、同じように食べた。三番目も四番目も、同じ仕草で窓の食事を平らげた。
 「塔」の中には、いまも数羽の烏が飼われている。それはいつ頃はじまったか正確にはわからないが、昔から「烏がいなくなったら、塔は滅ぶ」といわれ、羽根を切った烏が飼われ、彼らは遠くに飛べないかわり、終身、毎日、好物の馬肉があたえられている。戦時中、「塔」内では食糧事情が悪化し、空地が菜園と化した時でも、烏の食事は欠かさずあたえられたという。」



「第五章」より:

「一六一〇年サー・ローリーは金鉱を求めて、南米はオリノコ河流域の探険隊に加わることを願い出た。その際彼は「もし金銀が見つからない場合は、その場で首をはねてもらいたい」との誓約書を入れた。
 一六一七年になって、その探検が行なわれたが、結果は失敗に終わる。(中略)一六一八年母国に帰るや否や、彼は「塔」のビーチャム・タワーにふたたび幽閉の身となった。」
「処刑は間もなく「塔」ではなく、ウェストミンスターのパレス・ヤードで行なわれた。死に臨んで彼は、少しも動揺しなかった。司祭の祈りの後、卿は首切役人に「その斧はよく切れるか」と訊ね、自分の手で斧の刃に触ってみて「これはよく切れるね、すべての病を直してくれる医者だ」といって微笑んだ。
 目隠しを拒み、処刑台に首を乗せるともう一度腕を伸ばした。首切役人がちょっとたじろいだのを見て、彼は「何が恐ろしいのか、やってくれ、さあ早く」と促した。斧は二度振り下ろされ、卿の首は落ちた。」











































































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出口保夫 『ロンドン・ブリッジ』

「この橋の欄干には、三六個所のアルコーヴという名の窪みが造られていて、激しい雨が降るとその中で雨やどりをすることができた。おそらく暗い雨のそぼ降るロンドン橋の上で、子供時代のディケンズは、淋しい人恋しい気持ちで欄干のアルコーヴの中に入って、行き交う橋上の人々を眺めていたのであろう。」
(出口保夫 『ロンドン・ブリッジ』 より)


出口保夫 
『ロンドン・ブリッジ
― 聖なる橋の2000年』


朝日イブニングニュース社
1984年10月20日 第1刷
193p
19.8×15.2cm
丸背紙装上製本 カバー
定価1,400円
装幀: 道吉剛



本書「まえがき」より:

「この本はロンドン橋の歴史的盛衰、すなわちその聖性の完成と崩壊を、資料をもとに具体的に描いたものである。」
「橋は、いわばその社会の文化的水準を示す物差しである。」
「おそらく、世界の主要都市のなかに、名橋の上を高速道路がまたいでいるような例は、東京や大阪をおいて他にないだろう。(中略)いったい、日本人は、いつからこうも野蛮な人種になり下がったのであろうか。
 われわれは、橋を生活に便利なものとしてだけではなく、聖なるものとした古人の思想に、再び目を向ける必要がある。」



本文中図版(モノクロ)多数。


出口保夫 ロンドンブリッジ 01


目次:

まえがき

第一章 ロンドン橋以前の橋
 ロンドンとテムズ河
 ローマ支配時代の橋
 サクソン時代のロンドン
 ロンドン橋の戦い

第二章 聖なるロンドン橋
 中世の転換期
 ピーター司祭と橋梁修道会
 聖ベネゼの橋
 聖なる橋の建設
 聖トマス・ア・ベケットの殉教
 聖トマス礼拝堂
 聖なる橋の完成
 チャペル・ブリッジ

第三章 ロンドン橋の住人たち
 「聖」と「俗」とをつなぐ橋
 橋の管理
 橋上商店街の繁栄
 中世のロンドン
 カンタベリー巡礼
 農民一揆とロンドン橋

第四章 聖性の崩壊
 壊された礼拝堂
 橋上の曝し首
 ルネサンスのロンドン
 エリザベス女王とロンドン橋
 一六三三年の火災

第五章 大火後のロンドン橋
 疫病とロンドン大火
 ピープスの『日記』
 ロンドン橋の書店
 テムズ河の「凍結市(フロスト・フェア)」
 ロンドン橋の画家たち
 犯罪の巣窟
 「ロンドン橋が落ちた」

第六章 ロンドン橋の終焉
 近代化するロンドン
 取り壊された橋上の商店
 「愚か者たちの橋」
 一八世紀のイギリスの橋
 ディケンズとロンドン橋
 テムズの川底さらい
 ロンドン橋の最期

第七章 一九世紀のロンドン橋
 ジョン・レニーと新ロンドン橋
 短命な新ロンドン橋
 ロンドン橋、アメリカへ

第八章 現代のロンドン橋

あとがき
図版類出典
参考文献
索引



出口保夫 ロンドンブリッジ 02



◆本書より◆


「第四章 聖性の崩壊」より:


「ロンドン橋のはね橋の橋門は、昔から罪人の首を曝す場所として使用されてきた。罪人といっても、主として大逆罪を犯した者に限られる。」

「一五三四年、フィッシャー司教は逮捕され、ロンドン塔に一〇ヵ月幽閉され、翌三五年六月一七日、裁判が開かれ、五日後に処刑が行なわれた。処刑後の出来事を、後年書かれたトマス・ベイリーの『ロチェスター司教フィッシャー伝』が詳しく伝えている。

  バーキング教会の墓地に埋葬された翌日、その首は、熱いお湯で洗われてから棒の先に刺され、ロンドン橋の上に、彼の前に処刑されたばかりの聖なるカルトジオ修道会の人々の首といっしょに高々と曝された。筆者はここで、この首の不思議な様を書かないわけにはいかない。それは、一四日間橋上に曝された後でも非常な暑さに耐え、また熱いお湯で洗われたにもかかわらず、何ら損われることもなく、むしろ日ごとにつやを増し、生存中でさえもさほどとは思われぬくらいであった。頬は美しい赤みを帯び、その顔は通りがかりの人々を見下ろしているかのようだった。

 橋門の上のフィッシャー司教の首を見に集まった人々は、皆そこに立ちすくんだという。一四日目の夜、その首は人目に触れないようにしてテムズ河に投げ込まれ、その後に、聖トマス・モアの首が置かれることになった。」

「この頃が、ロンドン橋の歴史の最も暗い時代だったのではないだろうか。はね橋のわきの橋門の上に曝し首が絶える時はなかった。しかし、フィッシャーやトマス・モアのように、斬首されて曝されるのはまだいいほうである。一五三七年の五月、むごたらしい限りの処刑が行なわれた。司祭のコッカレル、サー・ジョン・ボルマー、サー・ハマートン、それに修道士のピカリング博士らは、ロンドン塔からタイバーンに送られ、その処刑場でまず絞首刑にされ、のちに臓器を取り出され、そのうえ四つ裂きにされて、斬られた首だけ曝された。」

「ただ、こうした陰惨な光景も、中世や近世の人々には、現代人が考えるほど衝撃的ではなかった。『ロンドン庶民生活誌』のミッチェルが、

  橋上に曝された罪人の首の陰惨な光景すら、ここを訪れる見物人にとって見逃がすことのできない光景のひとつと考えられていた。

と指摘しているように、橋上の曝し首もまた、いわば物珍しい風景として大勢の見物人たちを集めていた。」






こちらもご参照ください:

平林章仁 『橋と遊びの文化史』











































































石井美樹子 『シェイクスピアのフォークロア ― 祭りと民間信仰』 (中公新書)

石井美樹子 
『シェイクスピアのフォークロア
― 祭りと民間信仰』
 
中公新書 1114

中央公論社
1993年1月15日 印刷
1993年1月25日 発行
vi 196p 
新書判 並装 カバー
定価680円(本体660円)



本書「あとがき」より:

「ルネッサンスの申し子として、シェイクスピアはたしかに「新しい学問」の洗礼を受けていた。しかし、シェイクスピアが作劇の土台としたのは、かれの血のなかに色濃く残る文化と演劇の土着の土壌だ。それは、作者と観客を結ぶ一種の暗黙の契約のようなものであり、個人の恣意や、生活体験を越えた集団的な無意識とでもいってよい。」


本文中図版(モノクロ)21点、地図(「本文関連州名図」)1点。


石井美樹子 シェイクスピアのフォークロア 01


帯文:

「妖精や幽霊が身近だったころ、人々はなにを演じていたのか」


カバーそで文:

「シェイクスピアが活躍していた十六世紀ころのイギリスは民衆文化(フォークロア)の宝庫であった。人々は民間信仰を根強く持ち続け、豊穣を祈る祭りをとり行なった。型にのっとって寸劇をし、美しい衣装を着て踊り、それに夢中になる王侯貴族もいた。社会道徳を守らぬ者には見せしめがあり、学者たちは幽霊の存在をめぐり真剣な論争を繰り広げていた。近代以降急速に失われていった活気に満ちた民衆文化の世界をシェイクスピア劇の中に探り出す。」


目次:

はじめに

第一章 祭りの広場にて
 伝統文化の復興
  セシル・シャープとモリス・ダンスの出会い
  祭りの広場にて
 張り子の馬は健在なり
  ジャック・ケイドの乱とモリス・ダンス
  宮廷の余興としてのモリス・ダンス
  ロビン・フッドの一味がやってyきた
  道化とひしゃく
  張り子の馬は健在なり
  ハムレットのホビー・ホース
 五月祭のケーキ
  ロンドン橋のさらし首
  子羊のエール
  五月祭のケーキ

第二章 フォーク・プレイ
 女王様も見た民衆の祝祭劇
  ホック祝節劇
  豊穣祈願の模擬戦
  イギリスの民衆芸能
 ハムレットのフォーク・プレイ
  宮廷の余興を装ったねずみ取り
  王殺しのフォーク・プレイ
  黙劇は「王殺し」のフォーク・プレイ
 スキミントン――娯楽を装う制裁
  スキミントン
  鹿狩り
  スキミントンの演劇性
  『ウィンザーの陽気な女房たち』
  ハムレットのスキミントン

第三章 『リア王』のメルヘン
 チャイルド・ローランド
  エドガーの呪文
  チャイルド・ローランド
 エドガーの通過儀礼とシンデレラ物語
  イギリスのシンデレラ物語
  コルシカのシンデレラ物語
  エドガーの通過儀礼
  メルヘンから人間の悲劇に

第四章 幽霊のフォークロア
 幽霊のフォークロア
  幽霊が闊歩するチューダー朝
  煉獄をすみかとする幽霊
  幽霊は悪魔なり
  『ハムレット』の亡霊
  古典の復興とオカルト主義者たち
  幽霊のフォークロア
  シェイクスピア劇の主人公たちが見た幽霊

あとがき



石井美樹子 シェイクスピアのフォークロア 02



◆本書より◆


「五月祭のケーキ」より:

「橋の両側には、フィレンツェのベッキオ橋のように、二階建ての店が立ち並び、通行人や買物客でごったがえしていた。当時の様子は、民話「スワファムの行商人」の冒頭に、生き生きと描かれている。「今はずっとむかし、まだロンドン橋の上に端から端までずらりと店が並び、橋桁の下を鮭が泳いでいたころのこと、ノーフォークのスワファムに一人の貧しい行商人が住んでいた……」(『イギリス民話集』河野一郎編訳、岩波文庫)。橋をほぼ渡り終え、劇場や見世物小屋などが立ち並ぶサザック側の入り口のグレイト・ストーン・ゲイトに着くと、まず目に入るのは、日乾しになって槍の先にぶらさがる犯罪人の首だった。
 さらし首の慣習は一三三九年にはじまり、一六七八年まで続いた(中略)。いまから考えるとぞっとするような光景だ。だが、(中略)当時のロンドンっ子にはお馴染みの光景、血まみれの首を見て驚くロンドンっ子はいなかった(中略)多いときには、三十個以上もの首がさらされていたという。
 一五九二年というと、シェイクスピアの『ヘンリー六世第二部』が書かれてからほぼ一、二年後のことであるが、ドイツのウルテンベルクのフレデリックという旅行者がこんな記述を残している。

  しかるべき立派な人物の首が三十四あまりさらされていた。騒乱罪やその他で有罪とされ、首を切られた人たちだ。(W. B. Rye, England as Seen by Foreigners, London, 1865)

 『ヘンリー六世第二部』の四幕一場、サッフォーク公爵は、王妃の使節としてフランスに赴くとちゅう、ケント州の海岸で小艦隊の捕虜になる。家臣が命乞いをと諭すと、公爵は敢然といい放つ。

  サッフォークの帝王なるわがはいの舌は峻厳苛烈だ、
  命令することには慣れていても、なさけを乞うことは知らぬ。
  こんなやつらに、卑屈にも命乞いをして
  名誉を与えてなるものか。断じてできない。
  天国の神と、主君たる国王以外の者にこの膝をまげるくらいなら、
  首切り台のうえに身を投げ出したほうがまだまし。
  帽子をとってげす野郎どものまえに身をさらすより、
  生首を血まみれの竿(ポール)のうえで踊らせるほうがよい。

 かの悪名高いタイバーン処刑場で処刑された犯罪人の首は、身分の上下にかかわりなく胴体から切り離され、ロンドン橋でさらされた。大法官という最高の位にのぼりつめたにもかかわらず、ヘンリー八世の離婚に反対して王の憎しみを買い、ついには断頭台の露と消えたトマス・モアのような有名人が処刑され、その首がさらされたときなどは、見物客がどっと押し寄せた。当時の処刑がそうであったように、さらし首も、熊いじめや芝居と同様に、庶民の娯楽のひとつだったのだ。
 サッフォーク公のせりふを耳にしたロンドンっ子たちは、すぐさま、ロンドン橋のさらし首を心に思い描いたことであろう。と同時に、とくに、シェイクスピアと同郷のウォリックシャーや、オックスフォードシャー出身の人は、「血まみれの竿(ポール)」のうえで「踊る生首」と聞いただけで、「五月祭のケーキ」を連想したのではないだろうか。」

「オックスフォードから西方へ十四マイルほどゆくと、バンプトンの村に着く。この村の聖霊降臨祭の行事は、今日まで、五百年以上も続けられている。祭りの主役はケーキである。丸い缶に入ったケーキを剣持ちが掲げて歩く。剣の先が突き刺さるように、缶の一部に切れ目が入っている。バターがたっぷり入ったパウンドケーキで、ケーキを一切れもらった人には好運が訪れると信じられている。」

「これらの五月祭に共通するのは、生きた動物を屠り、その肉を村人で分けあって食することである。生きた動物のかわりに、ケーキを分けあって食べる場合もある。カートリントンの「小羊のエール」では、小羊の肉からパイのケーキが作られる。(中略)動物の肉やケーキを食べたり、保存したり、身につけたりすることによって、動物や植物の生命力にあやかろうとするのだ。
 さて、バンプトン村の五月祭で動物のかわりをするのはケーキだ。(中略)C・J・シャープは、踊り(モリス・ダンス)を伴うこのような祭りの起源について、こう述べている。

  手短にいえば、大昔に、共同体のあいだに広くゆきわたっていた季節に伴う異教の風習の名残りで、動物と植物とをとわず、生きとし生けるものの豊穣を願う儀式とかかわりがあったのかもしれない。この儀式の中心的な行為は、聖なる動物を犠牲として屠り、その屍を神聖なものとして崇め、おごそかな宴をはることにある。……聖なる動物の犠牲と、それに続く宴の目的は、神と共同体の構成員とのきずなを強めることにあった。(C. J. Sharp, The Morris Book)

 動物や穀物の犠牲を神に捧げて神の怒りを和らげ、共同体の平和と繁栄を祈願する儀式は、原始の時代から、世界中いたるところで行なわれてきた。(中略)バンプトンのポールに突き刺されたケーキも、共同体の安寧のための犠牲をあらわす。テムズ川の橋に掲げられた、槍のうえで踊る、血まみれの首も国家の秩序の安定のための犠牲といえよう。首を見世物にする為政者、そして、その首をひとめ見ようとむらがる群衆。人権意識の発達した現代にあっては想像を絶する残酷な場面だ。だが、(中略)郷土の五月祭の行事に慣れ親しんで育ったロンドンの市民たちには、血にまみれた反逆者の首は、ウィッチウッド森の鹿や槍のうえのケーキのように、かれらと国家とを結ぶきずなだったのだ。さらし首を見あげる見物人は、鹿を射止めて勝ちどきの声をあげる狩人のように、秩序の安泰に安堵し、勝利に酔い痴れたのにちがいない。」














































































平野敬一 『バラッドの世界』

「バラッドはもともと(中略)社会の被疎外者たちが好むものだった。私は、ここで日本の旅芸人や(小沢昭一のいう)「放浪芸」のことをも連想したりするのだが、民族の文化や伝承の中の、ある貴重なものが社会の疎外者たちによって守られ、伝承されるのは、なにもイギリスだけに限られた現象ではなさそうである。」
(平野敬一 『バラッドの世界』 より)


平野敬一 
『バラッドの世界』


ELEC出版部 
1979年10月1日 初版発行
223p 
四六判 
角背紙装上製本 カバー 
定価1,900円
ジャケットデザイン: 野田儀保



本書「あとがき」より:

「本書は『英語展望』(ELEC Bulletin)誌の第49号(1975年4月)から第65号(1979年4月)にいたるまで、ほぼ4年間、15回に亘って執筆連載した文章をまとめたものである。」


本書より:

「どう厳密に定義しても、なにかがはみ出るに決まっているが、バラッドとは、要するに、ある展開するストーリーがあり(抒情とか詠嘆だけでは不可)、それが韻文で表現され、メロディーがついていて、作者不詳のまま、主として口頭により民間に伝承されてきた唄、というふうに考えれば、ほぼカバーできそうである。日本語訳としては「物語り唄」と訳せないことはないが、たんに「バラッド」、あるいは「文学的バラッド」と区別して「伝承バラッド」とするのが、いちばん無難であるように思われる。」


本文横組。


平野敬一 バラッドの世界 01


カバーそで文:

「英米のフォーク歌手E. マッコール、J. リッチー、J. バエズ等によって歌われ一躍世界的注目を集めるにいたったバラッド。そして、最近日本の若者たちの間でブームになりつつあるバラッド。
一体、バラッドとはなにか? その魅力はどこから来るのか? 
マザー・グース研究の第一人者である平野敬一教授は、豊富な音声資料(レコード)に関連づけながら、バラッドのもつ魅力の秘密を口誦という伝承過程の中でとらえて説明してくれる。」



目次:

1. バラッドの魅力と「酷き母」
 はじめに
 バラッドの定義
 「酷き母」をめぐって
 英文学との関係
 「酷き母」と子供の世界
2. 「ロード・ランダル」
 童謡とバラッドの関係
 “Lord Randal”
 “Lord Randal”の起源
 マッコールの“Lord Randal”
 ヴァージョン間の異同
 “The Croodin Doo”について
3. 「ビリー・ボーイ」
 キャッソンの「ビリー・ボーイ」
 “My Boy Willy”
 “The Comedy of Billy and Betty”
 再びバラッドと童謡について
4. 「アッシャーズ・ウェルのおかみ」(その 1)
5. 「アッシャーズ・ウェルのおかみ」(その 2)
 “The Wife of UW”の朗読
 唄としての“The Wife of UW”
 アメリカにおける“The Wife of UW”
 アメリカ特有のヴァージョン
6. 「アッシャーズ・ウェルのおかみ」(その 3)
 ナイルズの“The Cartin Wife”
 さまざまのアメリカ・ヴァージョン
 グリアの“The Three Babes”など
 アメリカ・ヴァージョンの意味
7. 「ヴァンディー、ヴァンディー」
 承前
 “Vandy, Vandy”について
 ウェルマンのSF短篇
8. コック・ロビンの唄
 “Lamkin” (Child #93) について
 コック・ロビンの唄と「ラムキン」のつながり
 「ラムキン」のアメリカ版
 再び「コック・ロビンの唄」
9. 「エドワード」(その 1)
 岡倉編 Old English Ballads について
 “Edward”というバラッドの特性
 Percy Version の特性
10. 「エドワード」(その 2)
 Motherwell Version について
 Percy Version の問題点
 殺人の動機の問題
 Percy Version の位置
11. 口笛を吹くヨセフ、他
 民衆の代弁者
 伝承の中の「聖家族」
 “The Cherry Tree Carol”をめぐって
 “The Bitter Withy”について
12. 方法についての弁明、他
 A. B. フリードマンの名解説
 音声資料の価値/フリードマンの選集
13. 「タム・リン」(その1)
 チャイルドのフェアリー・バラッド
 “Tam Lin”について
 バラの花を摘むタブー
14. 「タム・リン」(その2)
 タム・リンの身の上話
 悪魔と妖精の関係
 妖精のイメージ
 フェアリーランドからの救出
 キリスト教的なものの忌避
 変身のモチーフ
 水のモチーフ
 救出完了と妖精の女王の怒り
15. 生きているバラッド伝承
 伝承への接近法
 スコットランド研究所の業績
 Betsy Johnston の“Tam Lin”
 採録のいきさつ
 被疎外者の唄

あとがき
索引



平野敬一 バラッドの世界 02



◆本書より◆


「しかしバラッドというあの無限の豊かさをもった大人の世界の作品群が、研究対象としても、講義題目としても、マザー・グースほどではないにしろ、ほとんど問題にされないのは、どういう理由によるのだろうか。
 一つには、バラッドに対して本国のイギリス人がかつて有していた偏見があり、それがいまなお根強く尾を引いている、という事情があるのかもしれない。イギリス人が有していた偏見とはなにか、いちばんその偏見を端的に示しているのは例のブリタニカ百科大辞典の初版(1771)の“ballad”の項の解説かもしれない。それは次のようになっている。
 「下層階級の頭の程度に合わせた一種の唄。下層の連中はバラッドというこの詩の形態にひどく魅せられているものだから、その日常の身の処し方においても、このバラッドの影響を少なからず受けるのである。したがって悪事を企むような輩は、民衆を自分の側に引きつけるため、常にバラッドの流布に意を用いるのである。」
 いまからみると信じられないほどの偏見に満ちた書き方であるが、これを、いちおう18世紀イギリスの有識者(あるいは支配層)の代表的見解とみなしていいかと思う。要するに、バラッドは、程度の低い層の嗜好に合ったもの、という考え方が根本にあるのである。(中略)またバラッドが、その中に反権力的志向をもち、それが支配階級に嫌われる――というより本能的に恐れられる――原因となったことも、上の定義から読みとれる。」

「ほんらい口から口へと伝えられてきたバラッドは、極端にいうと、歌う人ごとに、そして歌うたびごとに、どこか違っているところがあり、固定した「正しい」形というものはそもそも最初から存在しない。おおよその筋さえ知っておれば、あとは成句を適宜組み合わせ、それにリフレインをつけて、いわば興にまかせて歌うということになるので、こういうバラッドを、完成された文学作品の definitive edition を分析鑑賞でもするような気持で、綿密に読んでいったりすると、つじつまの合わないところや説明のつけられないことが続出して、立ち往生をするということになろう。一字一句をそのまま伝えようという気持が、もともと歌う方にそう強くない上に、伝承の過程でとうぜん起こる聞き違いや言い違いも加わるので、細部で筋道が通らないところがある方がむしろ普通なのである。「酷き母」というバラッドも、もちろん例外ではない。話の筋としては、女が堕胎して殺した自分の2人(ときには3人)の子の亡霊にたたられる話しだということは分かるが、こまかく詞句を辿っていくと不分明な点が少なくない。」
「多くの伝承童謡の場合と同じく、このバラッドの起源もはっきりしない。初出文献という活字の証拠は、口承の世界では、あまり意味をなさない。チャイルドが挙げている A version の出典は1776年だから、文献的にこのバラッドがかなり古いものであることは分かるが、その前に口承で伝わっていた時期が何十年、あるいは何世紀あったのか、見当もつかないのである。
 ただ、このバラッドには、原始的なフォークロアのモティーフというべきものがいくつかあり、その出自の古さを暗示している。たとえば第6連に母親がペンナイフの血を拭っても拭っても止めることができない場面が出てくるが、読者はマクベス夫人のあの夢遊病の中の幻覚
  What! will these hands ne'er be clean?
  (おや! この手はどうしてもきれいにならないのだろうか)
を想い起こすであろう。といっても、私は、このバラッドがシェイクスピアの『マクベス』に由来するかもしれない、といおうとしているのではない。シェイクスピアがあれほどみごとにそこから養分を汲み取ったフォークロアの世界(私がかつて「もと唄の世界」と呼んだもの)に、この「酷き母」も、深く根を下ろしているということを指摘したいのである。殺害された者の血は、加害者がそばにいると、あるいは近づくと、とめどなく流れるというのは、古いフォークロアであって、シェイクスピアの創意ではないのである。」

「伝承バラッドは、(中略)イギリスの民衆が、生者死者を問わず、人間をどうみていたか、また神とか動物とか妖精などの「超自然」をどう受けとっていたか、それらに対してどういうイメージをもっていたか、を明らかにしてくれるものである。それも表向きの建てまえとしてでなく、本音としてどう思っていたか、ということを明らかにしてくれるのである。バラッドは本音の世界――裏切りや肉親殺害や近親相姦といった(中略)人間関係が、おおっぴらに歌いあげられる世界なのである。」
 
「イギリスのバラッドや民謡の伝承において(中略)ジプシー系の歌手たちが果たしている役割は、はかり知れぬほど大きい。(中略)イギリスの社会でいまも疎んじられているこの被差別、被疎外者集団が、イギリスの伝承文化の貴重な、かけがえのない担い手となっているふしぎな、皮肉な状況は、いろいろのことを私たちに考えさせる。バラッドはもともと支配階層でなく社会の被疎外者たちが好むものだった。私は、ここで日本の旅芸人や(小沢昭一のいう)「放浪芸」のことをも連想したりするのだが、民族の文化や伝承の中の、ある貴重なものが社会の疎外者たちによって守られ、伝承されるのは、なにもイギリスだけに限られた現象ではなさそうである。」





こちらもご参照下さい:

平野敬一 『マザー・グースの唄』 (中公新書)
R・D・オールティック 『ヴィクトリア朝の緋色の研究』 村田靖子 訳
久保寺逸彦 『アイヌの文学』 (岩波新書)













































小野二郎 『紅茶を受皿で ― イギリス民衆芸術覚書』

「下品、俗悪、法外にもかかわらずではなく、まさにそのゆえに、「尊厳(ディグニティ)」を獲得するということは、いささか唐突だが、民衆芸術と前衛芸術の出会う場所だろうと思う。」
(小野二郎 「ミュージック・ホール」 より)


小野二郎 
『紅茶を受皿で
― イギリス民衆芸術覚書』


晶文社
1981年2月20日 初版
1982年7月10日 7刷
306p 参考文献iv 初出一覧1p
19.3×15.6cm 
丸背紙装上製本 カバー
定価2,300円
ブックデザイン: 平野甲賀



本文中図版(モノクロ)多数。


小野二郎 紅茶を受皿で 01


カバーそで文:

「紅茶をカップから受皿にあけて、そこからすする――アイルランドの田舎町で偶たま目にした老婦人の作法が、民衆文化の基層を垣間見させる。お茶の飲みかたにも、器物と人間との交渉の深い歴史がかくされている。
 パイ。プディング。ケーキ。蜂蜜酒。ワイン。注器。陶器人形。版画。ちらし。絵本。壁紙。チンツ。ミュージック・ホール。石。樹木。庭園。……「もの」の触感を手掛りにイギリス民衆の生活芸術を掘り起す。

 ウィリアム・モリスの主張しているようなレッサー・アート(大芸術に対する小芸術、民衆芸術、装飾芸術)の広い世界にふれたい。さらに、レッサー・アートとさえいえないような事柄を、イギリス民衆の生活史のなかのあちらこちらから見つけていきたい。
 民衆の神話形成力というものは、時には日常生活の微妙な形にあらわれると私は信じます。その神話に不意に出会う時、私の想像力は大いに刺激されるというわけです。
小野二郎」



目次 (初出):


紅茶を受皿で (「展望」 1975年2月)
ビートン夫人の料理術 (「現代思想」 1976年9月)
オーウェル「イギリス料理の擁護」の擁護 (筑摩書房「世界文学大系」第87巻付録 1975年8月)
パイとプディングとパイのパイ (「現代思想」 1976年8月)
バーミンガムのワイン・バー (「現代思想」 1977年2月)
蜂蜜酒の故郷――リンディスファーン・ミード (「翻訳人」 1977年7月20日)
注ぐ (「手」2号 1978年8月)
スタッフォードシャ陶器人形 (「グラフィケーション」 1980年10月)


ブロードサイド物語――イギリスの「瓦版」 (「グラフィケーション」 1980年7月)
チャップ・ブックの伝統――イギリスの「立川文庫」 (「グラフィケーション」 1980年8月)
トイ・ブックスの周辺――絵本の源流 (「グラフィケーション」 1980年1月)
十九世紀の版画工房――W・J・リントンのことなど (「グラフィケーション」 1980年2月)
ウォルター・クレインの絵本 (「グラフィケーション」 1980年3月)
ヴィクトリア朝絵本を見る視点 (「ほるぷ図書新聞」 1980年4月5日)
端物印刷物の世界――ビラ・チラシ・切符など (「グラフィケーション」 1980年9月)


イングリッシュ・チンツのデザイン (「Color Design」 1979年6、8、9月)
 1 最初期の木版プリント
 2 銅版プリントの導入
 3 木版プリント――一七七〇年代以降
 4 ローラー・プリンティングの導入
 5 染料・染色法の変化
 6 ローラー・プリンティングのデザイン――一八二〇~五〇年代
 7 ウッド・ブロック・プリンティングのデザイン――一八二〇~五〇年代
 8 モリス以前のイギリス・チンツ・デザインの特徴
 9 モリス登場前夜のデザイン状況
 10 一八〇〇年から一八三〇年のウッド=ブロック・プリント
 11 ウィリアム・モリス
 12 モリスの後継者たち
 13 リバティ=ファブリックス
壁紙の歴史 (「in」1号~4号 1980年1月~9月)
 1 壁紙の前史
 2 壁紙の揺籃期
 3 壁紙の発展
 4 第一回万国博前後
 5 モリス前夜
 6 A・W・N・ピュージンとオーウェン・ジョーンズ
 7 モリス・ペイパー
 8 最初期のモリス・ペイパー
 9 最盛期のモリス・ペイパー
 10 モリス以後
 11 ウォルター・クレイン
 12 C・F・A・ヴォイジイ
アール・ヌーヴォーのプロデューサー――『リバティ百貨店』 (「翻訳の世界」 1979年7月)


ミュージック・ホール (「グラフィケーション」 1980年4、5、6月)
 1 始めに
 2 イン・タヴァーン・パブ
 3 遊園地とサルーンズ
 4 ソング・アンド・サパー・ルームズ
 5 「カンタベリー・ミュージック・ホール」とサム・コウエル
 6 「ライオン・コミックス」
 7 ミュージック・ホールの天才マリー・ロイド


自然・風景・ピクチュアレスク
 1 ザ・ランドスケイプ・ガーデン (「カイエ」 1979年9月)
 2 コンスタブル (美術出版社 世界の巨匠シリーズ「コンスタブル」 1979年9月)
イギリスのオークについて (「現代思想」 77年11月~12月)
イギリスの雑木林(コピス) (集英社 「吉田健一著作集」第25巻月報 1980年10月)
コッツウォルド・ストーン (「グラフィケーション」 1980年11月)


ウィリアム・モリスと古代北欧文学 (「ユリイカ」 1980年3月)
ウィリアム・モリス『世界のかなたの森』 (晶文社 「世界のかなたの森」あとがき 1979年10月)
C・S・ルイス『別世界にて』 (「翻訳の世界」 1975年5月)
D・G・ロセッティとジェイン・モリスの往復書簡 (中央公論社「新版・世界の名著」第52巻「ラスキン・モリス」月報 1979年11月)

あとがき
参考文献
初出一覧



小野二郎 紅茶を受皿で 02



◆本書より◆


「紅茶を受皿で」より:

「W・B・イエイツの故郷スライゴーでも私は相変らずスーパーマーケットをうろついた。」
「そのスーパーの入口の向って右側に屋根の低い工事現場の簡易プレハブ風の建物があり、それが食堂だった。ちょうど昼時でもありそこに入りこんだ。私のテーブルの隣りに一人の小柄な、というか色々な理由でちぢんでしまったようなおばあさんが坐っていた。やがて運ばれてきたものは一杯のお茶と薄いトースト二枚である。」
「私はおばあさんの次の行為にあっと息をのみ、説明しがたい感動のようなものにとらわれたのである。それはそれほど奇矯な振舞いというのではなくて、ただお茶をカップから受皿にあけて、そこからすすっただけのことである。だが私は一人勝手に昂奮してしまった。ジョージ・オーウェルが第二次大戦中、BBCにつとめていたころ、仲間のインテリに対するいやがらせとしてこれと同じことをしたという話を即座に思い出したからである。」
「私の印象、記憶では、オーウェルはいやがらせのために、ただ不作法な下品な行為をしたということになっていた。(中略)そういう記憶をもっていたからこそ、そのおばあさんの所作に一撃をくらったのである。あのオーウェルの振舞いは、単なる下品、無作法なものでなく、それ自体一個のいわば作法であり、思いつきの出鱈目というのではなく、あるひとびと、あるいはある階級にとっては正統な行動様式なのではなかろうかということである。それが今は何かによって圧しつぶされ、表にあらわれなくなってきているのに、あのおばあさんはその抑圧から自由に生きて、何気なく無心に行動してそれを表現したのだった。確信にみちて静かに受皿からお茶をすすっているおばあさんに、他の誰れも自分はそうしているわけではないけれど、特に注意を払わない。自分たちはカップで飲んでいるだけである。
 ああオーウェルのあの行為の背景にはこういう「伝統」があったのだ(中略)。オーウェルはそれを素直に表現できなかった。できるわけがなかった。それが人に不作法に映ずること、不愉快に思われることはわかりきっているからだ。だからいやがらせになる。あてこすりになる。
 しかしオーウェルが憧れているものには実体があった。」



「ブロードサイド物語」より:

「これら印刷されたバラッドは、一枚の紙の片面のみにそうされていたのでブロードサイドと呼ばれた。これにはバラッドだけではない。ニュース、情報もまた刷られ、大衆の手にわたった。いやバラッドもまたニュースの役割りを果たしもしたのである。十六世紀初め、テュダー朝から十九世紀半ばまで、持続的に存在した。
 これ以前は、バラッド・シンガーたちは、さまざまな行商仕事と結びつけて、地方地方を唄い旅していたのだが、今やそのバラッドのコピイを唄ってきかせて売ることができるようになったのである。
 古い馴染みの節(ふし)に新しい歌詞がつけられるというのが、よくやられる手であった。細長い紙の頭のところは、大きな木版画(ウッド・カット)で飾られ、紙の長さは歌詞の分量で色々だった。デザインも作りも粗っぽく、活字は重苦しいブラック・レター(ひげ文字)で木版も洗練にほど遠いものであったが、その木版画は未熟な技術にかかわらず、原始芸術の力強さ、直截性、自由、に似た不思議な魅力をもっている。しかも、ゴシックの彫刻(中略)のもつユーモアとグロテスクの精神とあふれんばかりの幻想とにもみちみちている。
 この怪奇な幻想は、大衆の求めるセンセイション、露骨にしてきわどいユーモアによって強められた。」

「さてその唄の中身と言えば、様々だが、労働者階級の欲求不満と怒りが表現されていると言ってしまえば簡単すぎようが、(中略)下層階級の街頭生活の暴力と即物主義を反映するのは当然、おすましの気取った連中を無残に嘲弄する唄もまた愛好された。
 しかし、ベスト・セラーはやはり犯罪物であった(物語が散文で書かれ最後にバラッドがあるという形式)。犯罪と言ってもむろん殺人で、当時世間を騒がせた事件だが、よりセンセイショナルに仕立ててあるわけである。殺人者や犠牲者の絵ばかりでなく、殺人現場を生々しく再現した。」



「ミュージック・ホール」より:

「イギリスが自分が生んだものだと誇らかに、かつ正当にも宣言しうる芸術があるとすれば、それはミュージック・ホールだという。」
「その最盛期とされている一八九〇年代(中略)のスター中のスターであった、例えばダン・リーノウやマリー・ロイドの芸や歌の輝きの質が、居酒屋の真只中から生まれてきたものであったということが肝心だ。汚濁と洗練、暗い悲哀と乾いた機智。」

「ミュージック・ホールの歴史を飾るスターたちは数多くあったが、もっとも強い光を発する存在といえば、男性ではダン・リーノウ(Dan Leno 1860~1904)であり、女性はマリー・ロイド(Marie Lloyd 1870~1922)というところが動かないようだ。」
「一九二二年、マリー・ロイドが、幕が降りた直後舞台の袖で倒れ、三日後に死んだ時、イギリス全土がいかに一瞬息を止めたか、プルウストやエリュアールが死んだ時のフランスと同じだったと言っているのは、フォード・マドックス・ブラウンである。実際、新聞の売り子が「マリー・ダイズ! マリー・イズ・デッド!」と叫んで通りを走り抜けた時、すべての交通は三十秒止まったと言う。」
「T・S・エリオットは「クライテリオン」の二号に短文ながらマリー・ロイドという文章を寄せて、その中でこう書いている。
 「民衆の魂を表現する能力にかけてマリー・ロイドは無類だったと思われる。……しかし、彼女が他の喜劇役者たちと違っていたのは、その演技の完璧よりもその用い方にかけてであった。マリー・ロイドのやることには畸型的なものが何もなくて、そのおかしさは少しも誇張に頼らず、まったく選択と集中の結果だった。」
 またこうもいう。「彼女は他の寄席芸人よりも、ある意味では倫理的に優れていたのであって、彼女の民衆に対する理解と共感、及び民衆がその私生活でもっとも高く評価しているいくつかの美徳を彼女が体現しているのを、民衆の方で知っていたことが、マリー・ロイドに彼女の生前に占めていた地位を与えたのだ。」つまり民衆は彼女のなかに「彼ら自身の生活の表現と尊厳(ディグニティ)を見出していた」というのである。
 「尊厳(ディグニティ)」ということが肝心だと思う。ほぼ四十年も経ってから、ジョン・デイヴィッドソンというスコットランド生まれの世紀末詩人のことを、同じ言葉を使って論じている。この詩人は今はほとんど忘れられてしまっているが、『フリート街牧歌』その他ロンドンの陋巷を歌い、T・S・エリオットにラフォルグに向わせたといわれている。週三十シリングの安事務員を歌うのに、通常の詩語でなく、民衆の卑語俗語が用いられ、それがテーマの偉大さを誘い出し、その事務員の存在に尊厳(ディグニティ)を与えているというのである。
 下品、俗悪、法外にもかかわらずではなく、まさにそのゆえに、「尊厳(ディグニティ)」を獲得するということは、いささか唐突だが、民衆芸術と前衛芸術の出会う場所だろうと思う。」



「ウィリアム・モリス『世界のかなたの森』」より:

「だがイエイツの言葉はとても素晴らしいので引用したくなります。少年時代のことです。
 「私は、それまで不幸な人たちを同情しなさいと、さんざん教えられ、うんざりしてしまうほどだった。ところが、まったくモリスのロマンスを読んだおかげで、あふれんばかりの橅(ぶな)の木の枝や、はちきれそうな麦の穂を心のうちに持っていて、何もかも幸福の種にしてしまうような人間の存在に気づき共感できるようになったのだ。」
 また中世ヨーロッパ文学のすぐれた学者であり、「ナルニア国物語」の作者であるC・S・ルイスの少年期からの愛読書でもありました。彼はいいます。
 「モリスの想像世界はスコットやホメーロスのそれのように、風が吹き、手でしっかりと触わられ、響きを発し、立体的である。」
 モリスは風景(ランドスケイプ)を描くことに関心がない、ただ土地の形勢(ライ)を伝えるだけだ。他の人の物語は景色があるだけだが、モリスのには地理がある、ルイスはこのようにもいいました。」



小野二郎 紅茶を受皿で 03




こちらもご参照下さい:

角山栄 『茶の世界史』 (中公新書)
R・D・オールティック 『ヴィクトリア朝の緋色の研究』 村田靖子 訳 (クラテール叢書)
平野敬一 『バラッドの世界』
ウォルター・クレイン 『書物と装飾 ― 挿絵の歴史』 (高橋誠 訳)
川崎寿彦 『森のイングランド』
富士川義之 『幻想の風景庭園』
『1800 Woodcuts by Thomas Bewick and His School』 ed. by Blanche Cirker




























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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