アッタール 『イスラーム神秘主義聖者列伝』 (藤井守男 訳)

「心の健全は、孤独にのみある」
(ウワイス・カラニー)


ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール 
『イスラーム神秘主義聖者列伝』 
藤井守男 訳


国書刊行会 
1998年6月22日 初版第1刷発行
392p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,900円+税
装訂: 柳川貴代



「訳者まえがき」より:

「本書は、西暦十二世紀後半から十三世紀前半のペルシア文学を代表する神秘主義詩人、ファリード・ゥッディーン・ムハンマド・アッタール Farid al-Din Muhammad Attar が散文で残した『神秘主義聖者列伝』 Tazkirat al-Auliya のペルシア語原典からの抄訳である。(中略)本書では、イスラーム神秘主義とともに、とりわけ、ペルシア文学との関連で重要と思われる「聖者」十四人を選び出し、それぞれの「聖者」に関する内容も訳者の判断で取捨選択して翻訳した。(中略)アッタール自身による自序も、その重要と思われる部分を訳出した。また、読者の理解の手助けとなるように、各項目の最初に簡単な解説を付した。」


巻頭に地図(10~12世紀のペルシア)、訳者解説中に図版(モノクロ)4点。


アッタール イスラーム神秘主義聖者列伝


帯文:

「イスラーム聖者の言行録
12~13世紀ペルシアの大詩人アッタールによって
編まれたイスラーム神秘主義文献の古典。
禁欲と苦行の日々を送り、
神への愛に身を捧げた聖者たちの苛烈な生涯を、
さまざまな逸話・奇蹟譚を織り交ぜて描く。
ペルシア語原典より本邦初訳。」



帯背:

「宗教文学の古典
本邦初訳」



帯裏:

「――舌を切り取られ、日没の礼拝の時、首が切り落された。首が切断されている間、彼は微笑をうかべ、そして絶命した。ハッラージは命運の球を神への服従の広場の極みにまで運んだ。すると彼の四肢の一つ一つから声が聞えた。――
――「我は神なり」――(本文より)」



目次:

訳者まえがき

アッタール自序
ハサン・バスリー
ラービア・アダヴィーア
イブラーヒーム・アドハム
ズン・ヌーン
バーヤズィード・バスターミー
シャキーク・バルヒー
サフル・ビン・トスタリー
マアルーフ・カルヒー
サリー・イェ・サカティー
ユースフ・ビン・ホセイン
ジュナイド・バグダーディー
アブル・ホセイン・ヌーリー
ムハンマド・ビン・アリー・ティルミズィー
ホセイン・マンスール・ハッラージ

解説 (藤井守男)




◆本書より◆


「ハサン・バスリー」より:

「途轍もない恐怖が彼を支配し、座している時も、まるで、死刑執行人の目前にいるような様子であった。誰も彼の唇が笑って綻(ほころ)んだのを見たことがなかった。大きな苦痛が彼にはあったのだった。

 伝えられるところでは、ある日、ハサンは修道場の屋根の上で激しく泣いていた。涙が樋を伝ってある人物に滴った。
 「この水は清いものであるか」
 ハサンが言った。
 「いいや。洗い流すがよい、神に背きし罪深き者の涙だから」」

「ある時、ハサンは犬を見て言った。
 「神よ、この犬にかけて、私を受け入れたまえ」
 「犬とあなたではどちらが上か」と訊かれると答えた。
 「もし、神の責苦から私が逃れられるなら私は犬より上等だが、もしそうでないなら、神の栄光にかけて、犬の方が私のような者が百人いるよりましだ」」

「「ある男が二十年間、集団の礼拝に訪れず、誰とも交際することなく、一隅に座ったままです」とハサンに伝えられた。ハサンはその男の所に出向き、尋ねた。
 「なぜ、礼拝に来て人と交わらぬのかね」
 男は「私をお許し下さい、没頭しておりますゆえ」と答えた。
 「何に没頭しているのかね」と訊かれて男は答えた。
 「神から私に何の恵みも訪れず、そして、私からは、私が神に背くということもなく、私にはいずれも音沙汰がありません。しかし私は、その、いまだ来ぬ恵みへの感謝と、その一度としてなしたことない背きの罪の許しの懇願に没入しているのです」
 ハサンは言った。
 「そのままお続けなさい。あなたは私より優れた方だ」」

「死が近づくと彼は笑った――誰も彼が笑うのを見たことはなかったのに。そして、「どんな罪ですか」と言うと絶命した。ある老師が彼を夢に見た。
 「生きている間あなたは決して笑わなかった。死に瀕して笑うとはどういうことだったのかね」
 「私は声を聞いたのだ、“死の天使よ、彼に対して厳しくあたれ、いまだ一つの大罪が残ったままだ” と。私はそれが嬉しくて、にこりとしてから、“どんな罪ですか” と訊いて死んだのだ」



「ラービア・アダヴィーヤ」より:

「ハサン・バスリーは自分の説教の場にラービアがいないと説教をしなかったほどであったのだから、そのラービアのことは男性に並べて述べることができるはずだ。いや、それどころか、真理に照してみれば、神の徒と言われる人びとは、唯一性の中に無と帰した人たちのことであり、唯一なる神においては、我と汝の個々の存在が消滅するのであるから、まして、男と女という存在自体がどうしてあり続けようか。」

「伝えられるところでは、ある日、ラービアが四ディルハムを人にやって、「私に安手の毛布を一枚買ってきておくれ」と言うと、その者は「色は黒ですか、それとも白ですか」と尋ねた。ラービアは、即座にお金を取り返すと、チグリス河に投げ捨てた。
 「まだ買ってもいない毛布のことで、黒か白か、いずれかでなければ、という何事も二つに分かつ不和の心が現われたとは」」

「何人かがラービアのもとに行った時、彼女が肉を歯でちぎっていた。
 「ナイフはないのですか」
 「神との間を断ち切られるのが怖くて、ナイフを手にしたことは一度としてないのです」」

「伝えられるところでは、ある日、ラービアの女の召使が油の煮汁をつくっていた。彼女は、もう何日間も、まともな食事をとっていなかった。玉葱が必要となった。召使が「隣りからもらってきます」と言うと、ラービアはこう語ったという。
 「四十年この方、私は、栄光ある神に誓いをたてているのです、神以外には何も求めない、と。玉葱のことなどに気をかけてはなりません」
 即座に、天界から一羽の鳥が降りたって、玉葱をいくつか、皮をむいて彼女の鍋に投げ入れた。しかしラービアは、「私は、まやかしを受けているのかもしれません」と言って、煮汁を口にせず、パンだけを口にしたという。」

「「あなたはどこからやって来るのですか」と問われて、彼女はこう答えた。
 「かの世界からです」
 「どこに行くことになるのでしょうか」
 「あの世界へ参ります」
 「この世であなたのすることは何でしょうか」
 「ただこの世の無念を噛みしめております」
 「どのように」
 「この世の糧食に与かりながら、かの世界に係わることをなしているのです」
 「あなたは何と甘美なる言葉の使い手、あなたこそ、修道の場を総べるお方」
 「私自身、修行場の番人をしております。心の深奥にあるものは明かさず、外界にあるものはその内面に入りこませません。ここにやって来る人がいても、やって来ては去り、私とは何の係わりも持ちません。私は、我が内なる心をひたすら見守ります、花の外見の美しさではなく」」

「伝えられるところでは、彼女は絶えず悲痛の嘆きをもらしていたという。「外見の上では、何の原因もないのに、なぜ、嘆き悲しむのですか」と訊かれて彼女は答えた。
 「原因は胸の奥底にあるのです。医師たちではどうしても治せぬ原因が。私の傷口の膏薬は、彼(引用者注: 神)と一つに結ばれることのみなのです。何かと口実を見つけては、来世にあって目的に到達できぬものかと思案しています。実際に痛みがあるわけではありませんが、苦痛に呻吟する人びとに自分を見たてているのです。これが、最低限の務めというものでしょう」」



「バーヤズィード・バスターミー」より:

「伝えられるところでは、導師がある日、同志の仲間たちと共に歩いていると、狭い曲り角の所で一匹の犬がやってきた。導師は身を退き犬に道を譲った。それを見た弟子の一人の心の中に導師を拒否する気持ちが過ぎった。
 「至高なる神は人間をとりわけ尊厳あるものとしているはずだ。導師は神秘道の階梯を行く者たちの王といわれる方、これほどの高い地位と至誠の弟子を何人も擁する導師でおられるのに、人間である我らを差し置いて犬に道を譲るとはどういうことだ」
 導師が言った。
 「親愛なる者たちよ、犬が心の声で私にこう語りかけたのだ。久遠の昔、天地創造の始源、一体何の落度が私にあり、あなたにどんな特別な功績があって、私が犬の皮膚を身につけさせられ、神秘家たちの王の賜衣をあなたが身にまとうことになったのか、と。この思いが私の心奥に働きかけ、私は彼に道を譲ったのだ」」

「伝えられるところでは、バスタームの名士に一人の禁欲主義者がいた。彼に従う者は数多く、皆に受け入れられる人物であった。バーヤズィードの仲間たちの集会にも欠かさず出席していた。ある日、その彼が言った。
 「導師よ。三十年間というもの断食を続けながら、夜は夜で、寝ずに立ち通す行をしているのに、あなたが言う神智は私には影も形もつかめずにおります。とはいえ、私はその神智を信じておりますし、それをつかんでみたいのです」
 導師は答えた。
 「あなたが、たとえ三百年間、断食を続け、祈りを捧げても、その真なる英智の言葉の僅か一粒さえつかむことは叶わぬ」
 「なぜですか」と彼は問うた。
 「あなたが自分自身の我執によって目を覆われているからだ」
 「癒しの道はありますか」
 「私にはあるが、あなたはそれを受け入れまい」
 「言う通りにします。何年もの間、私はそれを求めてきたのですから」
 すると導師はこう言った。
 「今すぐに頭髪と髭を剃り落とし、着ている服を脱ぎ、粗末な布地の腰まきを締めなさい。それから、あなたのことが他のどこよりも知られている場所の隅に腰かけるのです。そして袋に胡桃を詰めて自分の目の前におき、子供たちを集めてこう言うのです。私を一度平手打ちする子には胡桃を一つ、二度平手打ちする子には二つやろう、と。それから町中を歩き回って、子供たちにあなたの首の後を平手でたたいてもらうようにするのです。そうすることがあなたの治療です」
 (中略)
 禁欲主義者は言った。
 「私にはそれはできません。別の指示を御命じ下さい」
 導師はこう答えたという。
 「あなたの癒しはこれ以外にはない、そしてあなたはそれを受け入れまい、と私は言ったはずだ」」




こちらもご参照下さい:

R・A・ニコルソン 『イスラム神秘主義 スーフィズム入門』 中村廣治郎 訳 (平凡社ライブラリー)























































































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服部正明 『古代インドの神秘思想』 (講談社現代新書)

「真実の自己が見出されるとき、それを被っていた虚妄の自己は壊(つい)え去る。深奥に潜んでいた微細なアートマンは、あらゆる制約をはなれたものとなり、あらゆるところに至り、すべての欲望や意図を実現するものとなる。それは個体の本質であると同時に、全宇宙に遍満する最高実在ブラフマンにほかならないのである。」
(服部正明 『古代インドの神秘思想』 より)


服部正明 
『古代インドの神秘思想
― 初期ウパニシャッドの世界』
 
講談社現代新書 529

講談社 昭和54年1月20日第1刷発行/昭和56年9月30日第4刷発行
208p
新書判 並装 カバー
定価420円
装幀: 杉浦康平+鈴木一誌



服部正明(はっとり・まさあき)は1924年生、インド哲学史。


服部正明 古代インドの神秘思想1


カバー文:

「語は火であり、眼は太陽であり、思考力は月であり、
耳は方位であり、気息は風である――。
小宇宙と大宇宙の対応は何を意味するのであろうか。
個体の本質アートマンと最高実在ブラフマンの一致とは、
何であろうか。本書は、初期ウパニシャッドをもとに、
古代インドに展開されたきわめて特異な叡知、
神秘思想の本質を、はじめて解明した名著。」



カバーそで文:

「アートマンとブラフマンの一体性――「思考力から成り、諸機能を身体とし、
光輝を様相とし、その意図は実現され、虚空を本性とし、一切の行為をなし、
一切の欲望を持ち、一切の香を具え、一切の味を持ち、この世のすべてを包摂し、
言葉なく、関心のないもの、――この心臓の内部にある私のアートマンは、
米粒よりも、あるいは麦粒よりも、芥子粒、黍粒、黍粒の核よりもさらに微小である。
この心臓の内部にある私のアートマンは、地より大きく、空界より大きく、
天より大きく、これら諸世界より大きい。一切の行為をなし、一切の欲望を持ち、
この心臓の内部にある私のアートマン、――それはブラフマンである。」
こうして直観的にとらえられたアートマンとブラフマンの一体性が、
ウッダーラカとヤージニャヴァルキヤという二人の哲学者によって、
ウパニシャッド全篇を代表するような思想へと形成されて行くのである。――本書より」



目次:

はしがき

プロローグ

第1章 古代インドの叡知――ウパニシャッドが現代に伝えられるまで
 1 ウプネカット
 2 ショーペンハウアーからインド古典学へ
 3 古ウパニシャッド
 4 神秘思想

第2章 祭式から哲学へ――ブラーフマナとウパニシャッド
 1 大宇宙と小宇宙の対応
 2 ウパーサナ(念想)
 3 先科学的科学
 4 主知主義への道
 5 祭式の内面化

第3章 ブラフマンとアートマン――最高実在と個体の本質
 1 ブラフマン(梵)
 2 プラーナ(気息)
 3 アートマン

第4章 「有」の哲学――ウッダーラカの学説
 1 有と非有と高次の有
 2 三要素による現象世界の構成

第5章 「非ず、非ず」のアートマン――ヤージニャヴァルキヤの思想(1)
 1 生命原理としての火
 2 認識から成るアートマン

第6章 輪廻と解脱――ヤージニャヴァルキヤの思想(2)
 1 輪廻説とアートマン論
 2 睡眠の考察

第7章 アートマンと外界――カウシータキ・ウパニシャッドの教説

エピローグ

引用文献索引



服部正明 古代インドの神秘思想2



◆本書より◆


「プロローグ」より:

「「ブラフマン」(梵)については後に詳述するが、ウパニシャッドにおいてそれは宇宙の最高原理と認められている。人が「われはブラフマンなり」と知るということは、自らを宇宙の最高原理に合一させること、そうすることによって個体としての自己の本質である「アートマン」(我)とブラフマンとの一体性を自覚することにほかならない。ブラフマンとの合一によって、われ(引用者注: 「われ」に傍点)はもはや他のわれ(引用者注: 「われ」に傍点)から区別された個体として存在するのではなく、この世の一切となるのである。
 「汝はそれ(引用者注: 「それ」に傍点)なり」は、ウパニシャッドの代表的哲学者の一人であるウッダーラカ・アールニが、息子のシュヴェータケートゥに向かって言った語である。師匠のもとでヴェーダを学習し了えたシュヴェータケートゥは、意気揚々たる態度で帰宅したが、父ウッダーラカは、彼が師匠からたいせつな教えを学んでこなかったことを知って、自ら彼に「有の哲学」を教示する。その内容は第四章において考察するが、最高実在である「有」が万物に浸透していることを説いたウッダーラカは、そのことを具体的な例によって示すのである。
 〔ウッダーラカ・アールニが息子シュヴェータケートゥに向かって言った。〕「榕樹の実をそこから持って来なさい。」〔息子は答えた。〕「父上、ここに持ってきました。」「割ってごらん。」「割りました、父上。」「そこに何が見えるか。」「ほんの微(ちい)さな種がたくさんここにあります、父上。」「さあ、そのうちの一つを割ってごらん。」「割りました、父上。」「そこに何が見えるか。」「何も見えません、父上。」父は彼に言った。「まことに、愛児よ、おまえに見えないこの微小なもの、――実に、この微小なものから、愛児よ、この大きな榕樹がこのように生い立っているのだ。愛児よ、信ずるように。この微細なもの、――この世にあるすべてのものはそれを本質としている。それは真実、それはアートマンである。シュヴェータケートゥよ、おまえはそれである(引用者注: 「おまえはそれである」に傍点)(tat tvam asi (タット・トヴァム・アシ))。」」
「「おまえはそれである」という句は、現象的存在であるシュヴェータケートゥという個体が、その本質において最高実在「有」――ウパニシャッドの一般的用語で表わせば「ブラフマン」――と同一であること、換言すれば、個体の本質であるアートマンと最高実在ブラフマンとの一体性を意味しているのである。
 ウパニシャッドは一つのまとまった思想を説く書として編纂されたのではなく、その中にはさまざまな思想が収録されているが、「われはブラフマンなり」および「おまえはそれである」という二つの句に表明されているアートマンとブラフマンの一体性の思想が、全ウパニシャッドの最高峰をなすといってよい。この二つの句は、簡潔な表現の中に深い含蓄をこめた「大文章(マハー・ヴァーキヤ)として古来重視されてきた。アートマンとブラフマンとの一体性は、現象的存在としての自己からの脱却、最高実在ブラフマンへの帰入あるいはそれとの合一の体験を通して自覚される。初期ウパニシャッドは、最高実在との合一、冥合を説く神秘思想を、全編の中で最も代表的な思想としているのである。」






































































































定方晟 『須弥山と極楽』 (講談社現代新書)

「だが、インド人は、現実を無視してまで、その対称主義、斉合主義をつらぬく。」
(定方晟 『須弥山と極楽』 より)


定方晟 
『須弥山と極楽
― 仏教の宇宙観』
 
講談社現代新書 330

講談社 1973年9月26日第1刷発行/1993年12月1日27刷発行
193p 新書判 並装 カバー 定価600円(本体583円)
装幀: 杉浦康平+辻修平
カバーカット: 須弥山図拓本〈大津・泉福寺蔵〉



本書「まえがき」より:

「本書は仏教宇宙観を紹介することにより、仏教の解脱の思想が、どのような人生観を前提として築かれたものか、それを示すことを目的としている。」


『須弥山(しゅみせん)と極楽』。著者・定方晟(さだかた・あきら)は1936年生、印度哲学。
本文中図版(モノクロ)多数。

本書はこのまえよんだ諸星大二郎『孔子暗黒伝』と中野美代子『ひょうたん漫遊録』に参考文献として挙げられていたので、持っていなかったのでヤフオクで購入してみました。


定方晟 須弥山と極楽1


カバー文:

「須弥山とは
高さ五十六万キロ、
三十三人の天神が
住む想像上の
高峰である。
紀元五世紀、
インドで集大成された
『倶舎論』は、この須弥山に
はじまり、人間が宇宙をどう把えていたかを、詳細に描写している。本書は、この『倶舎論』を
基礎に、仏教の宇宙観の変遷をさぐり、輪廻(りんね)と解脱(げだつ)の二つの思想の
誕生・発展の経緯を明らかにし、その現代的意味を説く。」



カバーそで文:

「仏教にはさまざまな経典や言葉があるけれど、
結局は輪廻と解脱の二つの思想に帰するといえよう。
仏教者はこうした輪廻的宇宙と解脱への道との両方を、
それぞれ吟味し、研究し、やがてそれらを一つの壮大な体系に
したてあげた。そのような体系を示す書物の一つに、インド五世紀の仏僧
ヴァスバンドゥの『倶舎論』がある。この中に須弥山説と呼ばれる
仏教宇宙観が示されている。これが、後に“地獄と極楽”にまつわる
さまざまな考え、描写へと発展し、日本にも大きな影響をあたえた。
一見、過去のもの、われわれとは無縁のものと思われる仏教宇宙観も、
実は、いまや新しい世界観を樹立する上で、重要な役割をになおうとしている。
――本書より」



目次:

まえがき
1 人間は宇宙をどう把えたか
 1 須弥山説の世界
 2 仏教に説かれたインド亜大陸
 3 太陽と月
2 仏教の“地獄と天界”
 1 地獄の世界
 2 天界の構成
 3 禅定者の世界
3 極大の世界と極微の世界
 1 三千大千世界
 2 物質の根源 四大と極微
4 仏教宇宙観の底を流れるもの
 1 時間と人生
 2 宇宙の生成と消滅
 3 業と輪廻
5 西方浄土の思想
 1 娑婆と極楽
 2 西方浄土の思想の起源
6 地獄はどう伝えられたか
 1 エンマの変身
 2 三途の川
 3 賽の河原と地蔵菩薩
7 仏教の宇宙観と現代
 1 実践的宇宙観から神話へ
 2 仏教の宇宙観が示すもの



定方晟 須弥山と極楽2



◆本書より◆


「須弥山というのは、仏教宇宙観に出てくる想像的な山である。この宇宙観によると、虚空(こくう)の中に風輪(ふうりん)というものが浮んでいる。形は円盤状で、大きさは周の長さが「無数」厚さが百六十万由旬(ゆじゅん)ある。一由旬の長さはいろいろ説があってはっきりしないが、一説によれば約七キロメートルである。また「無数」というのは(中略)巨大な数の一単位である。」
「この上に水輪(すいりん)がある。形は同じく円盤状で、大きさは直径が百二十万三千四百五十由旬、厚さが八十万由旬ある。水輪の上に金輪(こんりん)がある。形は円盤状で、大きさは直径百二十万三千四百五十由旬、厚さが三十二万由旬ある。金輪上の表面には山、海、島などが載(の)っている。」
「注意深い読者なら気づかれたであろうが、水輪と金輪の直径は同じである。それもそのはず、この二つはもともと一つの輪(というよりむしろ円筒)を成していたのである。そしてその輪は水輪であったのだが、煮沸された乳汁に表膜ができるように、上部に金輪ができたのである。そして水輪と金輪のさかいめは金輪際(こんりんざい)と呼ばれ、「もう金輪際いたしません」というような表現に使われる。」

「インド人はこのような非現実的な宇宙像を、西紀後までも持ちつづけた。(中略)この世界像は自己中心主義で、われわれの世界「贍部洲」は、インドの形をしているのであった。そして、インド人の世界観の中心には、無意識的につねにヒマラヤが存在し、それは贍部洲においては雪山となり、金輪上では須弥山となっているのである。」

「不二とは絶対(仏教では絶待と書く)の思想である。仏教では真なるものは絶対なるものであって、相対なるものは仮りの存在、いつわりの存在である。なぜそのように考えるのだろう。仏教はこの世を苦とする考えから出発し、いかにしたら苦をとり除くことができるかを追求する。そしてその原因をこの世の相対的存在性に求める。すなわち、「わたし」と「わたしならざるもの」があるから、苦悩が生ずるのである。「わたし」が「わたしならざるもの」によって苦しむのである。このような嫌悪すべき相対的世界が真の世界であるはずがない。相対の消滅した世界、絶対の世界には苦悩はない。それこそ真の世界である、と。
 だから仏教は、「絶対」とはなにかを、追求することに驚くべき心血をそそいだ。仏教の見地からいえば、世間一般に通用している「絶対」の概念は、非常に低級なものである。それは「相対」に対する(引用者注: 「対する」に傍点)「絶対」であって、そのような「絶対」は真の「絶対」ではない。(中略)「絶対なる神」とはなにか。もしそれが、「すべてのものの上にたつ存在」というのなら、それはいまだ「絶対なる神」ではない。「すべてのもの」と対立する「相対的な神」なのである。真に「絶対なる神」とは、われわれがすなわち神であるところの神である。このようにして仏教の思想は汎神論的になる。
 バラモン教の言葉でいえば「梵我一如(ぼんがいちにょ)」である。梵(ブラフマン)とはいっさい宇宙のこと、我(アートマン)とは私(引用者注: 「私」に傍点、以下同)、つまり根元的自我のことである。この二つは実は一つなのである。私がいっさい宇宙と私とを別の存在と考えているのは、迷いによって生じた私が、自分で勝手につくりだした見解に執着しているからである。」
「いまバラモン教の言葉を出したが、実際、この不二絶対の思想は仏教だけのものではない。バラモン教の聖典ウパニシャッドにも脈々と流れる思想である。」

「宇宙は、四つの段階を一周期とする変化を、永遠にくりかえす。どの段階も二十中劫(中劫は単に劫というのに同じ)の長さからなり、四段階を一周するには八十中劫かかる。四段階とは、消滅しゆく時期(壊劫(えごう))、消滅した状態のつづく時期(空劫(くうごう)、生成しゆく時期(成劫(じょうごう)、生成して存在しつづける時期(住劫(じゅうごう)である。」










































































































































































































Stuart Cary Welch - A King's Book of Kings : The Shah-nameh of Shah Tahmasp

Stuart Cary Welch
A King's Book of Kings :
The Shah-nameh of Shah Tahmasp

The Metropolitan Museum of Art, New York, 1972, reprinted 1976
200pp, 31.5x22.5cm, clothbound, dust jacket


「タフマースプ王のシャー・ナーメ」は、1576年、サファヴィー朝ペルシャのタフマースプ1世の時代に完成した、『王書(シャー・ナーメ)』(10世紀後半~11世紀前半に活動した詩人フィルドゥスィーが著した叙事詩)の写本。48×32cm、759葉、細密画258点。現在は解体され、各地に分散して保存されている。メトロポリタン美術館には細密画ページ78点が所蔵されており、本書にはそのうち28点が部分拡大図と共に金を含むカラーで掲載されている。

The Shahnama of Shah Tahmasp (The Metropolitan Museum of Art)
Houghton Shahnameh (Columbia University)


kings book of kings 1


kings book of kings 2


kings book of kings 3


kings book of kings 4


kings book of kings 6


kings book of kings 7
 
 
kings book of kings 9


Contents:

Statement by Amir Aslan Afshar
Foreword
Acknowledgments

A KING'S BOOK OF KINGS

PAGES FROM THE HOUGHTON SHAH-NAMEH

Checklist of paintings in the Houghton Shah-nameh
Bibliography of Safavid painting

 
 
kings book of kings 5

 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 

  
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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