ミシェル・フーコー 『レーモン・ルーセル』 (豊崎光一 訳/叢書・ウニベルシタス)

「自己だけしか言いあらわさない言語の創案者、その倍加された存在において絶対的に単一な言語、言語の言語、われとわが太陽を、その中心にある至高の欠落の中に閉じこめている言語の創始者」
(ミシェル・フーコー 『レーモン・ルーセル』 より)


ミシェル・フーコー 
『レーモン・ルーセル』 
豊崎光一 訳

叢書・ウニベルシタス 60

法政大学出版局 
1975年1月25日 初版第1刷発行
1997年9月20日    第7刷発行
261p 目次1p 口絵(モノクロ)i
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,900円+税

Michel Foucault : Raymond Roussel, 1963



本書「訳者あとがき」より:

「ルーセルの作品はわが国ではまだ一つも翻訳されていない(中略)。彼に関する本が出るのもこれが初めてである。そこで、この余りにも知られざる作家に関する知識を補う意味で、原書にはない二つのテクストを付録として添えた。」


フーコー レーモンルーセル 01


カバーそで文:

「本書『レーモン・ルーセル』が、まさしく全篇これ「ことばともの」の関係についての特殊、個別論であることは見易い。その人にとっては、ことばがすなわちものであった一作家を語ることにより、本書はことばとものとの関わり合いの極限的な一ケースを提出しているのだ。ただ、その主題がことばとものであって人と作品ではないにもかかわらず、本書では人と作品、狂気と作品との関係がはらむ問題の微妙さが、他のどこにおけるよりも突っこんで論じられている。対話体をとった最終章が、その間の事情を雄弁に物語っている。… (「あとがき」より)」


目次:

1 閾と鍵
2 撞球台のクッション
3 韻と理
4 水受板、鉱脈、水晶
5 変身と迷宮
6 ものの表面
7 空のレンズ
8 閉じこめられた太陽

付録I ルーセルに関する資料 (M・レリス)
付録II 恍惚の心理的諸特徴 (P・ジャネ)

訳註
訳者あとがき



フーコー レーモンルーセル 02



◆本書より◆


「5 変身と迷宮」より:

「ルーセルの機械仕掛の数々は存在(いきもの)を作り出しはしない。それらは物を存在の中につなぎとめるのだ。それらの役割は残存させることである――似姿を保存し、遺産や王権を保持し、栄光をその太陽と共に保全し、財宝を隠し、告白を記録し、打ち明け話を埋蔵する、要するに球蓋ガラス(グローブ)の下に維持することである。(中略)だがまた――この維持を限度を越えて確保するために――通過させることでもある。つまり、障害を乗り越え、動、植、鉱物の三領界を股にかけ、牢獄や秘密を覆えし、夜の向こう側にふたたび姿を現わし、眠っている記憶を克ち得ることである(中略)、彼の思い出は実に多くの鉄格子や、沈黙や、陰謀や、世代や、暗号などを乗り越え、道化役者の軽薄そうな頭の中のメッセージになり、クッションの中に隠された人形になるのだ。これらすべての機械仕掛は外界から保護する閉鎖の空間を、それはまたすばらしい通じ合いの空間でもあるが、開くのである。囲いである通過。閾と鍵。『ロクス・ソルス』の冷たい部屋はこの役割を、最も注目すべき経済性をもって演じている――生を死に移行(パッセ)させ、(中略)生と死を分かつ隔壁を打ち砕くことである。だがそうしたすべては、回数の無際限な上演=再現(ルプレザンタシオン)のあいだ変化せずにいる特権を享けている生命という形象を維持するためなのだ。そして生と死は、見られることを可能ならしめるガラス窓に保護され、この透明で凍てついた括弧の陰に身を避けて、一方はもう片方の中に、一方は他方があるにもかかわらず、それらがあるところのものとして無際限にとどまるために通じ合いうるのだ。
 この過ぎ去らない過去、だがそれなのにこれほど多くの通じ合う道が穿たれている過去、それは恐らく、あらゆる伝説がそれを呼吸している過去、唯一無二の、つねに反復される《むかしあるとき》によって、掛け金の同じ一つの音を立てて魔法のように開かれかつ閉じられる過去であるにちがいない――言語のこんなにもこみ入った機械仕掛が産みだす、ルーセルの物語(レシ)の数々は、子供向きの話のような単純さで呈示されているのだ。この世界、そこにひとを導き入れる言葉の儀式によって到達範囲の外におかれている世界では、存在(いきもの)たちはたがいに、盟約を行ない、交わりを結び、ささやきを交し、数々の距離や変貌を乗り越え、他者になりかつ同じ存在であり続けるという不思議な力をそなえている。《むかしあるとき》は事物の、現前する到達不能な中核を、遠くに、過去の間近な宿場にとどまっているがゆえに過ぎ去ることのあるまいものを、露呈するのだ。そしてのっけから、あるとき(ユヌ・フワ)の物語や日々や事物、それらの唯一無二な祝祭があったとおごそかに告げられるその瞬間に、実はそれらがすべてのとき(フワ)において反復されるだろう――言語の飛翔が、限界を乗り越えて、つねに同一であるあの反対(べつの)側にふたたび見出されるたび(フワ)ごとに反復されるだろうということが、言外に約束されているのである。ルーセルの機械の数々は、存在を存在の中に維持するあの同じ滑らかな作動によって、自分自身から物語を創造する――寓話という、花壇のふちによって、絶えず守られている幻想の一形体だ。彼の物語の数々を二つの意味=方向に読みとりうるものにする曖昧さにおいて(中略)、物語を作り出すのは機械仕掛であり、そしてまた同様にして、機械仕掛の中に歩をとどめるのは物語のほうでもあるのだ。レリスはこう卓説を述べている――「ルーセルの想像力の産物は精髄化された紋切型である。彼が大衆にとってどんなに当惑のたねであり奇矯であろうとも、彼は実際には民衆および子供の想像力と同じ源泉に汲んでいたのだ……ルーセルがそれに衝き当たって苦しんだ、あのほとんど一致した無理解は、恐らく、普遍的なるものに到達する能力のなさによるよりも、日常茶飯事と精髄とのこの奇妙な結合によるにちがいない。」 手法(プロセデ)は、既産物に類するものを産み出し、そして太古の物語は、かつて見たことのない機械を生む。この閉じられた言説、その諸反復によって密閉された言説は、内側から言語の最も古い出口に向かって開いており、突如としてこの言語の、過去なき構築を現出させるのである。たぶんその点にこそ、彼のジュール・ヴェルヌとの親近性が感じとられるのだ。」

「実を言うと、レーモン・ルーセルの作品くらい、旅することが少なく、じっと動かずにいる作品はない。そこでは何一つ動かない、機械仕掛の閉じられた空間があらかじめ定める内的な動きによる以外は。何一つとして移動しない。すべてが休止の完璧さを歌っており、この休止はみずからを土台にして顫動し、その一つ一つの形象が逸走するのは、みずからの場所をいっそうよく示し、ただちにそこに戻るためにすぎない。ルーセルにおいては未来の先取りもまたない。発明はいかなる未来に対しても開かれていない。それはすべてこれ内向しており、時間とその腐蝕に抗して一つの形象を保護する以外の役割を持たず、この形象を技術的な、むき出しの、冷たい永遠の中に維持する力だけをそなえているのだ。パイプとか、電線とか、磁気の拡散とか、光線とか、化学的発散物とか、ニッケルの列柱とかいったものは一つの未来を設定するために配置されたのではなくて、現在を過去から分かつかすかな厚みの中にだけ忍びこむために、そしてそうやって時間の諸形象を維持するために配置されたのである。だからこそ、それらの装置を利用することなどまったく問題になってこないのだ――無比の人(アンコンパラーブル)たちの難船、彼らの救われた不可思議な装置や能力のすべて、祭のあいだに彼らが行なう、それらの実演などは、カントレルの〈庭園〉の孤独がなおいっそう強調することになるあの本質的無償性を象徴しているのである。これら未知の装置すべては、スペクタクルとしてのそれらの反復と、同一なるものへの回帰とのうちにしかそれらの未来を持たないのだ。
 この回帰の強迫観念こそジュール・ヴェルヌとルーセルとに共通しているものである(空間の円環性によって時間を廃絶しようとする、同じ努力)。彼らは自分たちが絶えず発明し続けるあれら未聞の形象のうちに、出発、喪失、回帰といった古い神話、またそれらと相関的な、〈他者〉になる〈同一者〉と根底では〈同一者〉だった〈他者〉という神話、無限に延びる直線でいながら同一の円環であることの神話を再発見していたのである。」

























































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フランソワ・カラデック  『レーモン・ルーセルの生涯』 (北山研二 訳)

「実際、ルーセルにとってはいかなる言語も、解読する術を心得ねばならない判じ物なのである。」
(フランソワ・カラデック 『レーモン・ルーセルの生涯』 より)


フランソワ・カラデック
『レーモン・ルーセルの生涯』
北山研二 訳


リブロポート 
1989年6月25日 発行
413p(本文中図版32p) 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価4,635円(本体4,500円)
編集: アール・ヴィヴァン
装幀・レイアウト: 東幸見



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、François Caradec: Vie de Raymond Roussel, Jean-Jacques Pauvert, Paris, 1972. の全訳である。」


本文二段組。図版ページはセピア印刷。


レーモンルーセルの生涯 01


目次:

なぜ私はこの本を書いたか
日本語版への序文

第1章 完全な幸福 1877-1897
第2章 「アフリカの印象」 1898-1911
第3章 「ロクス・ソルス」 1912-1922
第4章 「額の星」「無数の太陽」 1923-1927
第5章 「新アフリカの印象」 1928-1933

レーモン・ルーセルの家系図
レーモン・ルーセルの作品
参考図書

訳者あとがき



レーモンルーセルの生涯 03



◆本書より◆


「第1章 完全な幸福」より:

「「私は子供時代のえもいわれぬ思い出を忘れない。そこでこの上のない幸福の数年間を過ごしたと言える」。それが彼の唯一の「思い出」と思われる。レーモン・ルーセルは絶えずその子供時代を懐かしんだからである。」

「ルーセルは文字通り母親のスカートの中で暮らし、母親を崇拝した。母親は、彼女を知る人によれば、「威圧的で」、美しく、独裁的で威厳に満ちていた。」

「マダム・ルーセルは、寡婦になってからは、収入の二〇〇万金フランの恩恵に浴して、湯水のごとく浪費した。」
「また、彼女はモルヒネ中毒患者とも言われていた…
 確かなこと、それはロジェ・ヴィトラックが伝えている次のような逸話は他ならぬマダム・ルーセル本人が語ったものにちがいないということである。「マダム・ルーセルはインド旅行に行くことを決めてから、一艘のヨットを買い込んで出帆した。船旅は快適だった。船が港に近づいたとき、この金持ちの旅行者は望遠鏡を要求した。《あれがインドなの? 船長、フランスに引き返しましょう!》と叫んだのだった」」

「「あなたがどう思われようとも」と、ルーセルはジャネ博士に言った。「偉大な運命を担うべく選ばれた人たちがいるのです! 詩人が言いますように、実際、額に火傷を感じる例があるのです…額の輝ける星を、です。そうです、自分が額に星をもったとかつて感じたことがあり、それは永久に忘れません」」
「「詩的な形、額の星 l'étoile au front の形――それを生まれながらもった人が何人かいるが、後天的に得られるものでは決してない――、美のあらゆる形のうち偉大なる創造者の至高なるしるし」」

「長年にわたって、ジャネ博士の治療が続く間レーモン・ルーセルは、自分が理解されず、自分が受けて然るべきあの「栄光」に浴すことがないという絶望感を告白した。「既得の栄誉に人が尊敬の念を抱かないのは恐るべきことです。たった一人の中傷者でも、私にとっては三〇〇万の称賛者以上にショックなのです。自分の感情が平静となるには満場一致が必要です」。」
「まさにこの恐るべき失敗、この転落のために、彼はもはや人前に姿を現さず、次第に引き籠って生きて行かざるを得なくなる。その臆病な性格は病的となり、彼自身それを承知する。彼は広場恐怖症に苦しみ、その最後の逃亡に至っては彼を外国に、シシリー島へと避難させる。その島では彼を知るものは一人もおらず、その失敗のほどを知るものも一人もいないからだ。」



「第2章 アフリカの印象」より:

「レーモン・ルーセルは文学を放棄しない。彼の著作は人の知るところとはなり得ない。「しかし、著作が成功するにしろ失敗するにしろ、ほとんど重要なことではない。それは、他人が栄光を外から確認するのを遅らせることはあっても、栄光の現実を傷つけることはない」。」

「ピエール・ジャネ博士は、幾度も自分の病人の孤独を検討し直している。
 「マルシャル(引用者注: ルーセルのこと)が中傷恐怖症にかかったとき、自分の前でなされる批判は何であれ聞くことの恐怖、自分の愛する友人や音楽家を擁護しなければならないという心配、自分の意思の一つを擁護しなければならなかったり、それを変えねばならないという不安が彼の社会的交際全てを禁じたのである。そしてその通常の神経衰弱状態に比べて際立つその時期はとくに憂鬱症に近かった」
「私はマルシャルの生活ぶりを思い出した。彼は一人で生き、引き籠って、友人もなく、交際もなく、細かい規則に従い、軽薄な娯楽に気を安めるわけでもなく、自分の規則的仕事以外は何一つとして関心を示さず、そして実際は何かしら附随的な行動に自身をさらすことをつねづね恐れているのである。《友人をもてば、お祝い状やお悔み状を友人に送る義務に身をさらすことになります》というのである。」」
「ミシェル・レリスは言う。「デュフレーヌ夫人によれば、ルーセルは朝、平均三時間執筆していた。事務員のように時間きっかりと始め、時間きっかり終わるのだった。しかしこうした仕事時間の効果の方は大変むらがあった。こうした三時間をかけても、ルーセルは、一人の登場人物の名しか見つけぬこともときとしてあった。ときどき彼は、鎧戸を閉め、電灯のもとで仕事していた。」」

「実際、ルーセルにとってはいかなる言語も、解読する術を心得ねばならない判じ物なのである。」



「第4章 「額の星」「無数の太陽」」より:

「「新しいものは全て私を困惑させる」とルーセルはジャネ博士に語った。そしてシャルロット・デュフレーヌによると、彼は一つのことを反復し、やり直すことがあった。一度あることを行うと、この先立つ行為が彼に対してこれを習慣とする義務感を負わせるからだった。ジャネ博士はさらに付け加えて言う。「彼は、この世界にあっては何ものも変わらないことを望んでいる。彼は、流行が変化するのを、時代色が変わるのを見ると怒り狂う。長らく彼は行動することを、もしそれが何かしら新しいもののように思えたら、拒否したのだった。」」


レーモンルーセルの生涯 04




















































「夜想」 27 特集: レーモン・ルーセル

「大人になったクロード・ミグレルは、広範な知識から生まれた気高い望みに対して自分の遺伝的性格が邪魔をしているのを我がうちに感じた。
 虚しい努力を幾度も繰り返したのち、彼は自分を落伍者と認めざるを得ず、頑として自分のなかに閉じ込もり、結婚適齢期もやり過ごして、母親が死ぬと、厭世感にひたされたままただひとりでいた――そしてそれは、ある日、故郷からの手紙で、やもめの従兄弟が死に、その三歳になる子供はこのままでは救済院送りになることを知らされるまでつづいた。」

(レーモン・ルーセル 「第二の資料」 より)


「夜想」 27 
特集: レーモン・ルーセル

Yaso #27 Raymond Roussel: Les machine celibataires

ペヨトル工房 
1990年10月20日発行
192p 
A5判 並装
定価1,200円(本体1,165円)
Art Direction: ミルキィ・イソベ
Senior Editor: 小川功



雑誌「夜想」の「レーモン・ルーセル/独身者の機械」特集号。
1987年にはペヨトル工房から岡谷公二訳『ロクス・ソルス』の翻訳が出、1988年には西部美術館の「アール・ヴィヴァン」がルーセル特集号を出し、1989年にはフランソワ・カラデックの『レーモン・ルーセルの生涯』(北山研二訳)翻訳がリブロポートから出、そして1990年には本誌、そして明けて1991年早々には、ありな書房からミッシェル・カルージュ『独身者の機械』が高山宏氏の訳で出て、さらにその年の11月にはミシェル・レリスのルーセル論集の翻訳がペヨトル工房から出る……そういう時代でした。


夜想 レーモンルーセル 01


目次:

レーモン・ルーセルについての対話 (ミシェル・レリス 聞き手: ピエール・バザンテ/訳: 岡谷公二)
旅行者とその影 (ミシェル・レリス/訳: 岡谷公二)
ある熱狂の考古学 (ミシェル・フーコー 聞き手: シャルル・リュアス/訳: 北山研二)
ルーセルを読むにはショーペンハウエルを読んでおく必要があるか――フランソワ・カラデックとの対話 (フランソワ・カラデック 聞き手: ピエール・バザンテ/訳: 北川正)
詩篇の解読――「新アフリカの印象」について (ジャン・フェリー/訳: 塚原史)
第二の資料 (レーモン・ルーセル/訳・解説: 谷昌親)
 
アフリカの印象 (寺山修司×東野芳明 「地下演劇」第9号、1976年 より再録)
複数のルーセル (北山研二)
空想科学小説家レーモン・ルーセル (谷昌親)
ルーセル的ランドスケープ (彦坂裕)
ルーセル=ルソー (岡谷公二)
ルーセルとジャネ博士の微妙な関係 (塚原史)
ガスパール・ヴァンクレールの系列 (酒詰治男)
 
PANORAMA
 独身者機械
 レーモン・ルーセル
 模型世界
 パノラマ・パラノイア
 孤独の部屋
 
レーモン・ルーセル略年譜 (北山研二)
BIBLIOGRAPHIE (谷昌親)



夜想 レーモンルーセル 03



◆本書より◆


ミシェル・フーコー、インタヴュー「ある熱狂の考古学」より:

「ルーセルはそれでも、伝統ではないにしても、たとえばある作家系列に属しています。どのような言語にも、「言葉遊び」の問題に文字通り取り憑かれたそうした作家がいるものです。彼らにとって、文学的構成とこの「言葉遊び」とは直接結びついています。それが伝統であるとは申しません。言葉遊びのやり方は作家が変わるたびに失われてしまうようですから。そうしたやり方は伝達されずに、再発見されるものです。ですから、かなり似たことが時としてあって、再び現れるんです。
 ルーセルが仕事をしていた当時、一九二五年ころ、彼はかなり孤独で孤立してました。彼は理解されなかったんだと思います。実際彼は二つの文脈でしか、つまり問題を、たとえば自動言語の問題を抱えたシュルレアリスムの文脈と、五〇―六〇年代、つまり文学と言語構造との関係の問題がただ理論的テーマであるだけでなく、文学的領域でもあった時代という文脈でしか反響を見出しませんでした。」

「実際のところ、作家である一人の人はその本において、自分が発表するものにおいて作品を作っているのではありません。その主要な作品とは結局のところ、自分の本を書く彼自身なのだと考える方がいいと思います。そしてその活動の、そして作品の中央点、炉床であるのは、彼自身と本との、人生と本との関係なのです。ある個人の私的生活、その性的選択、その作品はお互いに結びついているものです。作品が性生活を表わしているからではなくて、作品がテクストに劣らず人生を含んでいるからです。作品は作品以上なのです。つまり書く主体は作品の一部をなしています。」



フランソワ・カラデック、インタヴュー「ルーセルを読むにはショーペンハウエルを読んでおく必要があるか」より:

「読みたいのに書店にはない、そんな本をルーセルは書いたのだ、とロベール・ド・モンテスキウは述べています。(中略)適当な伝記がないので、わたしがそれを書くことにしたのです。それにいくつかの伝記や遺漏についても調べてみたかったのです。ロートレアモンについては、なんなく多くの情報が得られました。レーモン・ルーセルについても同じように知りたかったのです。テクストだけが重要視される(中略)ある種の流行には逆って、わたしはこう考えました。ルーセルの生涯に通じていればテクストの理解にも進捗(しんちょく)がある。というのもルーセルの作品は常人のそれではありえないのだからと。わたしは今でもそう確信しています。」













































































レーモン・ルーセル 『アフリカの印象』 (岡谷公二 訳/小説のシュルレアリスム)

「みみずは毎日、チターの最初の音をきくや、すぐに川から出てきた。ハンガリア人は、練習が済むと、その川の中へ自分の手で急いでみみずを戻してやるのだった。」
(レーモン・ルーセル 『アフリカの印象』 より)


レーモン・ルーセル 
『アフリカの印象』 
岡谷公二 訳

小説のシュルレアリスム

白水社
1980年8月20日 第1刷発行
1983年11月25日 第3刷発行
347p 口絵(モノクロ)i
四六判 丸背紙装上製本 函
定価2,300円
装幀: 野中ユリ

Raymond Roussel : Impressions d'Afrique, 1910



本書「解説」より:

「『アフリカの印象』は、一九〇九年『ゴロワ・デュ・ディマンシュ』紙に新聞小説として連載され、翌年ルメール社から出版された。」


ルーセル アフリカの印象 01


帯文:

「小説のシュルレアリスム
 チターを弾く大みみず、仔牛の肺臓製のレールの上をすべる奴隷の彫像。人とり遊びをする猫… 熱帯アフリカを舞台に繰広げられる奇想の数々。これは真の神話であるとともに、大胆で徹底した言語実験の輝かしい成果でもある。ブルトンが「現代における最も偉大な催眠術師」と呼んだルーセルの代表作。



目次:

アフリカの印象

解説 (岡谷公二)



ルーセル アフリカの印象 02



◆本書より◆


「16」より:

「私たちのエジュル到着以来、ハンガリア人のスカリオフスツキーは、澄んだ、心にひびく音色のチターを毎日練習していた。
 これまで一度も脱いだことのないジプシーの楽士の制服を窮屈そうに着て、この名人は聴く者を唖然とさせるような数々の難曲を演奏しては、原住民を感心させるのだった。
 彼が練習するたびに、沢山のポニュケレ人が集まってきては耳を傾けた。
 この偉大な芸術家は、邪魔な聴衆に苛立ち、練習のため、うるさい見物にわずらわされることのない、人気がなくて、魅力的な場所にゆきたいと思った。
 チターと、それをのせる折畳み式の台とを持って、彼はベユリフリュアンまで行き、方角については何のためらう様子もなく、大樹の茂る林の中へと足早に入っていった。
 かなり長いあいだ歩いたあと、彼は、風趣豊かな場所に至るや、或る泉のほとりで足を止めた。
 スカリオフスツキーは、すでにこの塵外の秘境を知っていた。彼は一日、雲母質の岩に砕けてはきらめき流れる澄んだ小川で、水浴びをしようとしたことさえあった。しかし、あきれたことに、水の抵抗に打ち勝つことができなかった。水はおどろくほど密度が濃くて、少しも中に入りこめなかったのである。だから両手と両膝をついてさえいれば、水の表面にのったままで、体ひとつぬらさずに、この重い川を四方八方へと渡ることができたのだった。
 今度はこの不思議な流れには目もくれず、彼は、腰掛け代わりになる低い岩の前にいそいでチターとその台とを据えつけた。
 やがて楽器の前に坐ると、名人は甘美と憂愁にみちた或るハンガリアの旋律をゆっくりと奏しはじめた。
 数小節を終えたとき、彼は、小さい棒の往復運動に注意をうばわれていたけれども、川の方でなにか微かな動きが生じたのを視野の中で感じとった。
 一瞥で、彼は、一匹の巨大なみみずが水から出て、土手をよじのぼりはじめたのを認めることができた。
 彼は手を休めることなく、この入来者がチターの方へそっと近づいてくるのを、ちらちらと見た。
 台の下でとまると、みみずは怖れることなく、ハンガリア人の足のあいだにとぐろを巻いた。彼は眼を下に向けて、地面にじっと動かぬみみずの姿を見た。
 スカリオフスツキーは、この出来事はすぐに忘れて練習を続けた。三時間たっぷりのあいだ、ハーモニーの波が、彼の詩情豊かな楽器から流れ出た。
 夕方がきて、彼は演奏をやめて、やっと立ち上がった。そして空を見上げて雨のおそれのまったくないのを知るや、次の練習の時まで楽器をこのままにしておこうと決めた。
 隠れ場所を去る瞬間になって、彼はみみずに気づいた。みみずは道を引き返して土手の方へ向かい、やがて川の底に姿を消した。
 翌日、スカリオフスツキーはまた奇妙な泉のそばに腰を据え、仕事の皮切りにゆるやかで気まぐれなワルツを弾いた。
 最初の反復のあいだ、名人は巨大なみみずにいくらか気をとられた。みみずは、流れから出ると、前日の場所にまっすぐやってきて、音楽演奏の終わるまで、そこに愛らしくとぐろを巻いたままでいた。
 今度もまた、スカリオフスツキーは、立ち去る前に、この無害な爬虫類が、メロディーに堪能して音もなく静かな流れに沈むのを見ることができた。
 同じことが数日のあいだ繰り返された。彼の才能は、蛇使いが蛇をひきつけるように、音楽好きのみみずをひきつけていたのだった。みみずは一度とりこになると、もはや陶酔の味を忘れることができなかったのである。
 彼は、この心服振りに驚いて、みみずに強い関心を持った。夕方、練習が終わると、馴らしてみようと手で行く手をふさいだ。
 みみずは、怖れる様子もなく、彼が差し出した指に這いのぼり、手首の上に何重もとぐろを巻いてうずくまった。彼は袖を少しずつまくり上げた。
 スカリオフスツキーは、腕で支えなければならないみみずのあまりの重さに驚いた。川水のあのように密度の濃い環境に適応しているので、みみずはその体の柔軟さにもかかわらず、大変な体重の持主だったのである。
 この最初の実験につづいて、他の多くの実験が行なわれた。みみずはやがて主人を見分け、一寸でも呼べばすぐ従うようになった。
 このような従順さは、スカリオフスツキーに、貴重な成果を生むかもしれない訓練の計画を思いつかせた。
 彼は、大気中に鳴りひびく音に対するこの不思議な嗜好を我慢強く育ててゆけば、みみずひとりの力で、チターを弾くように仕向けることができるかもしれないと考えたのだった。
 熟慮の末、スカリオフスツキーはみみずの住む特殊な水の重力を利用するのに適した装置を考案した。
 彼は、小川の岩から四枚の丈夫で透明な雲母板を得、それらを手際よく切って、粘土で接合して、目的に適った容器を作りあげた。チターの左右の地面に垂直にさしこまれた二本の丈夫な枝が、先端の二股の部分で、底が細長くて薄い、飼槽のように仕立てられたこの容器を支えた。
 スカリオフスツキーは、みみずが雲母の容器の中に入りこみ、体をのばして、底にしつらえた溝をふさぐことができるよう訓練した。
 彼は、果実の大きな莢(さや)でもって、泉から数パイントの水をいそいで汲み、それを透明な水槽にあけた。
 それから、四分の一秒ほどのあいだ、小枝のさきで、横たわっているみみずの体のほんの一部を持ち上げた。
 水滴が下へ流れ落ちて絃を打ち、とても澄んだ音をひびかせた。
 みみずの体の他の部分を使って、同様の実験が数度繰り返された結果、器楽部をなす一連の音が得られた。
 突然、同じ器楽部がみみずによって繰り返された。みみずは、必要な場所で、誤たずに次々と身を躍らせては、自分ひとりで水を滴らせたのである。
 スカリオフスツキーは、こんなにのみこみが早いとは予想もしていなかった。彼の仕事は以後容易になり、十分な成果が見込めそうに思われた。
 彼は、激しいものや憂愁にみちたものなどハンガリアの曲をいくつか、小楽節ずつみみずに教えた。
 彼は、教え込むのに最初は小枝を使ったが、みみずはそのあと、何の助けも借りずに、同じ個所を繰り返してみせた。」

「彼は、もはや演奏家としてではなく、調教師として祝典に出場しようと決心し、数日のあいだ教える仕事に熱心に没頭した。
 しまいには殊更に難題に挑み、十本の指のそれぞれに長い小枝を細紐で結びつけ、彼のレパートリーには普通入らない、多音の、みみずに軽業を課することになる曲を沢山教えた。」

「みみずは毎日、チターの最初の音をきくや、すぐに川から出てきた。ハンガリア人は、練習が済むと、その川の中へ自分の手で急いでみみずを戻してやるのだった。」



「解説」より:

「『アフリカの印象』は、明示されてはいないけれども、あきらかに第一部、第二部にわかれている。」
「第一部はもっぱら、熱帯アフリカにあるポニュケレ国の黒人王タルー七世の聖別式、それに伴うさまざまな行事、漂着してタルー王に捕えられた、ヨーロッパの客船リュンケウス号の船客たちの演じる演芸や展示の記述にあてられている。
 まったく説明抜きで、奇抜な場面が次々と展開するので、はじめてルーセルを読まれる方々は、戸惑われるかもしれない。ルーセル自身、そのことを意識していたと見えて、初版本には、「レーモン・ルーセルの芸術に通じていない読者」に対し、第二部に相当する部分から読みはじめることをすすめる小さな紙を插入している。
 第二部は、いわば謎解きの部分で、リュンケウス号の難破・漂着の経緯、ポニュケレ国の歴史からはじまって、リュンケウス号の船客たちの演目の成り立ちまで、一切の事情が明かされる。このような二部形式は、『ロクス・ソルス』をはじめ、彼の多くの作品にみられるもので、あきらかにルーセルの発想そのものと密接に結びついた形式である。」

「私たちは、この世界の中で生き、呼吸することができる。しかし、そこで生きようと望んだのは、誰よりもまずルーセル自身だった。作品が現実性を獲得するとは、彼にとって、単なる欲求以上に、当為だった。なぜなら、彼には、作品の世界以外に、ほかに生きる世界がなかったのだから。」
 


ルーセル アフリカの印象 04

リーヴル・ド・ポッシュ版原書。








































































































レーモン・ルーセル 『ロクス・ソルス』 (岡谷公二 訳)

「どちらの場合も、卑怯な迫害を受けた無垢な存在が、試練に打ち勝って、自分に災厄や危険をもたらした手先その人を救いにやってくるのであった。」
(レーモン・ルーセル 『ロクス・ソルス』 より)


レーモン・ルーセル 
『ロクス・ソルス』 
岡谷公二 訳


ペヨトル工房
1987年5月24日発行
185p
21×13.2cm
並装(フランス表紙) 函
定価2,500円
造本: ミルキィ・イソベ

Raymond Roussel : Locus Solus, 1914



本書「解説」より:

「本書は、レーモン・ルーセル(一八七七~一九三三)の長篇小説『ロクス・ソルス』 Locus Solus (一九一四)の全訳である。」


ルーセル ロクスソルス 01


函カバー文:

「輝く水アカ=ミカンス
断頭された首が百年後に喋り始める
ガラスの死体蘇生装置
踊り子の髪の毛は音をだす
血の汗をかく小人
肉のない唇が話す
血文字を書く雄鶏
音を奏でるタロット・カード
糸の先に吊られた脳
空飛ぶ水球の影が殺人を犯す
痛みを与えない磁気抜歯装置
奇数棒のシストラム
歯を運ぶ奇妙な装置、空飛ぶ撞槌
水中を遊泳する電気猫
青や茶色の歯や歯根で作られた巨大なモザイク
生きながら埋葬されてしまったアーグ
暗殺の調教を受けた巨大な鳥
女王の発作は、無実の人々を処刑しなければおさまらない
突然鳩に変えられ飛び去ったウルフラ
無敵の護衛たる力士ヴィルラス
電気は脳に浸透して、死後硬直に打ちかった
水を引き寄せる力を持つ金塊
死者の頭に蘇生剤を注入する
爪に錫メッキする男
タツノオトシゴの水中レース」



目次:

第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章

解説 (岡谷公二)



ルーセル ロクスソルス 02



◆本書より◆


「第一章」より:

「友人の科学者マルシャル・カントレル先生は、四月初めのこの木曜日に、モンモランシーの美しい別荘をとりまく広大な庭園を見に来てくれと、数人の親しい人たちともども、私を誘ってくれていた。
 ロクス・ソルス荘――これが、この大邸宅の名前だ――は、カントレルが、すぐれた成果を生み出している、さまざまな研究に落ち着いて没頭している静かな隠れ家である。この人里離れた場所(ロクス・ソルスというラテン語の訳語)では、彼は、パリの喧騒に少しも煩わされず、その一方、研究の必要上、どこか特殊な図書館に行かねばならない時とか、学界で、好評嘖々(さくさく)の講演を行い、その中でセンセーショナルな発表をする時とかには、十五分足らずで首都までゆくことができる。
 彼のたえざる発見に感嘆し、その研究の完成を骨身を惜しまず助けている熱心な弟子たちにかこまれて、カントレルが、一年の大半を暮しているのは、このロクス・ソルス荘である。別荘の中には、沢山の助手が働く、設備の完備した模範的な実験室がいくつかある。そして彼は、大資産家で、係累のない独身者ときているので、目的のさまざまな、苦労の多い研究の途中で、どんな物質上の困難が生じても平気で、心おきなく、全生活を科学に捧げている。」



「解説」より:

「ルーセルのもう一つの長篇小説『アフリカの印象』(一九一〇)の邦訳を読まれた方々は、彼がこの作品において、その独自な世界を一層ゆるぎなく確立しているさまを御覧になるだろう。
 本質的な点では、ほとんどなにも変わっていない。たとえば構成は、ここでもきわめて単純である。『アフリカの印象』が、アフリカのポニュケレ国に漂着したヨーロッパの客船リュンケウス号の船客たちの演じる演芸大会の描写と説明にほぼ終始しているとすれば、『ロクス・ソルス』の方は、パリ郊外モンモランシーに住む科学者マルシャル・カントレルが、その広大な邸内に設置した発明品の数々を、一群の人々が数時間にわたって見てまわるだけの話である。
 人の意表をつく奇想が、応接のいとまもないほど次々と現われるところも同じだ。『アフリカの印象』において、チターを弾く大みみずや、仔牛の肺臓製のレールの上を辷ってゆく鯨のひげで作られた奴隷の彫像や、河水の中にさまざまなイメージを描き出す水中花火に驚いた人々は、ここでは、撞槌に似た軽飛行機が人間の歯を使って作り出すモザイクや、「アカ=ミカンス」と呼ばれる光り輝く液体でみたされた巨大な水槽の中に浮かぶダントンの首や、特殊な薬を脳に注射されて生きかえり、その生涯でもっとも運命的な場面を演じている死者たちの住むガラス張りの建物に目をうばわれるだろう。
 ただし、『アフリカの印象』が、奇想の数々が呈示される第一部と、その奇想の種明かし――それ自体が奇想から成り立っているのだが――がなされる第二部とにはっきりと分けられているのに対し、『ロクス・ソルス』では、発明品の一つ一つについて、その都度カントレル博士の口を藉りて説明が加えられる、という仕組みになっていて、こちらの方が構成としては有機的である。
 文体自体も変わらない。それは、『アフリカの印象』では、河水を利用した自動織機の、『ロクス・ソルス』では撞槌に似た軽飛行機の内部構造の説明に典型的に見られるように、マニアックなまでに克明で、正確である。読者は時として、小説よりも機械のマニュアルを読んでいるような錯覚にとらわれる。」

「ルーセルの文体の秘密は、どれほど少ない言葉で、どれほど多くの内容が表現できるか、の賭けにあったと思われる。これは彼が自分に課した唯一の、そして至上の命令であり、規則であった。この規則のあまりにも厳密な適用は、ときにはアクロバット的な構文を生み出しているほどである。」
「ルーセルは、規則がなければなにもできなかった。彼自身の表現に従うなら、「規則マニア」だった。彼が文章に課したこの規則は、彼が「方法(プロセデ)」と呼んだ、もう一つの隠れた規則とあきらかに連動している。」

















































































































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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