谷川健一 『海の夫人』

「あかつきの夢かがやきて金雀花(えにしだ)の乙女は咲(ゑま)ふ水底(みなそこ)の井戸」
(谷川健一 「海の夫人」 より)


谷川健一 
『海の夫人』


河出書房新社 
1989年10月10日 初版印刷
1989年10月20日 初版発行
187p 口絵(カラー)i 
20×15.5cm 角背紙装上製本 カバー 
定価2,000円(本体1,942円)
写真: 時詩津男
装丁・レイアウト: 山本義信



短歌、評論、紀行文および短篇小説。図版多数。
口絵は青木繁「わだつみのいろこの宮」。


谷川健一 海の夫人 01


帯文:

「文学と民俗学の間を架橋する会心作!
陸と海、現世と他界の接点にスパークする
短歌62首。それに響き合う短篇、評論を収録。
馬場あき子氏、塚本邦雄氏激賞!」



帯背:

「衝撃の短歌」


谷川健一 海の夫人 02


帯裏:

「「海の夫人」はイプセンの戯曲の題であるが、折口信夫はその著作のなかで、ひとたびは結婚するが再び海に還っていく他界妻のことを「海の夫人」と呼んでいる。私もそれにあやかって彦火火出見命と豊玉姫の物語を下敷にしながら、連作を試みてみた。
 「海の夫人」のテーマはながい間、私の中にあったものである。渚に立つとき海の彼方への思慕が「妣の国」を描き出し、思いを切なくする。私はさまざまなエッセイにそれを書き、今も書いている。それら旧稿と新稿とをこの際、短歌の背景の解説となるように、ひとつにまとめることにした。(「あとがき」より)」



目次:

海の夫人 六十二首

   *
評論
 海神の使者
 竜蛇の末裔
 うぶすな
 豊玉姫考
 わだつみのいろこの宮
 渚の民俗学
 海の祝祭
 海神祭の由来
   *
紀行
 海人神話の回廊
   *
短篇
 見る――角膜について
   *
あとがき



谷川健一 海の夫人 04



◆本書より◆


「海の夫人」より:

「潮けぶる波のはたてに海市(かいし)立つ日の悲しみを誰にか告げむ」

「物言はぬ海のけものの群れ遊ぶ月よみの海を喪船ゆくべし」





「豊玉姫考」より:

「古代においては、現世と他界とに双分された世界があった。古代人の世界を見開かれた一冊の書物にたとえるならば、左のページは海の彼方にある他界であり、右のページは、自分たちの住む現世であった。その書物の喉にあたる部分、すなわち中心線が渚であった。」

「青木繁の麗筆で描かれた「わだつみのいろこの宮」が「海の幸」とともに永遠の青春の息吹きをたたえているのは、明治洋画壇の息吹きを伝えていると同時に、日本人の永遠の主題をとらえているからである。豊玉姫の物語には、その説話の文章がいかにも躍動して伝えられている箇所がある。
 たとえば彦火火出見命が海神の娘の豊玉姫にめぐりあうのは、海辺をあるいていて、川雁がワナにかかって苦しんでいる光景を目撃し、そのワナを解いて川雁を放ってやったからである。雁が常世の鳥と思われていたという証拠には、海の霊の塩土翁(しおつちのおきな)があらわれて、命を海神宮に案内する、すると海底にも、陸地とおなじように「可怜小汀(うましおはま)」(美しい小さい浜)があった、と『日本書紀』は伝えている。この世に渚があるように海底の宮殿にも美しく小さな渚があった。現世と常世との相似を表現しつつ、その可怜小汀という語は適切である。
 また豊玉姫が自分の身ごもっていることを彦火火出見命に告げ、間もなく子どもが生まれそうだから、自分のために渚に産屋を作って待っていてほしい。「妾、かならず風濤(かざなみ)急峻(はや)からむ日を以て、海辺に出で到らむ」と言う。この風波の烈しい日にやってくるという言葉に、それを聞くものは心の波立ちをおぼえずにはすまない。
 それは陰暦十月に出雲の海岸に海蛇があがるのを「お忌(いみ)荒れ」というのと似ている。その頃西北方の季節風が吹きはじめ急に天候はわるくなり海は荒れて泡立つ。これを見るとき、出雲の人たちは神聖な何物かの到来を感じるのだ。豊玉姫の物語の一節からこうしたことを連想するのは、それが日本人の伝統的な無意識を刺戟するからに他ならないと私は考える。」



「あとがき」より:

「昭和六十二年十二月中旬から六十三年一月上旬まで、私は一月足らずの入院生活を送った。(中略)暇をもてあました私は、(中略)ノートに短歌めいたものを書きはじめた。(中略)退院して間もなくのこと、歌人の馬場あき子さんと電話で話をすることがあり、私は入院中短歌めいたものを作っていたと白状する始末になった。(中略)馬場さんはその中から五首を抜いて、朝日新聞の毎週金曜日の夕刊にもうけられていた「今様うた合わせ」の欄に推薦してくれた。(中略)その頃私は朝日カルチュアセンターで月一回の講師をしていた。聴講生の中に短歌同人誌「層」の仲間がいて、私に何かエッセイを書いてほしいという。私はそれを書くのは億劫だから、病気のとき書き溜めた短歌をかわりに出してくれないかと言った。(中略)それが活字になって歌人の塚本邦雄さんの目にとまった。塚本さんは雑誌「短歌研究」一九八九年八月号の対談の相手として私を指名し、私の短歌をきわめて好意的に評価してくれた。塚本さんの言い分によれば私の短歌は、いわゆる師承というものがなくそれだけに手垢がついていない、ということであった。
 「海の夫人」の素材である彦火火出見命と豊玉姫の悲劇は、古事記によれば、薩摩半島の西南部を舞台として展開していて、どこか南の島々ともつながる雰囲気をそなえている。私は野間半島を二度訪れたが、無垢の自然が今も残されていることに好ましい印象をもった。写真家で福岡の大学の先生をしている時詩津男さんに頼んで野間半島の風景を撮って貰った。時さんはかつて八重山旅行の際に撮った写真も保存していた。」

「たまたま私は昭和四十一年頃に書いたまま、誰に見せることもなく、二十数年間、筐底にしまいこんでいた短篇小説があった。」

「「海の夫人」のテーマはながい間、私の中にあったものである。(中略)私はさまざまなエッセイにそれを書き、今も書いている。それら旧稿と新稿とをこの際、短歌の背景の解説となるように、ひとつにまとめることにした。その中にはすでにいくつかの雑誌に発表したものもあり、また紀行文のように書き下しもある。
 四十代の後半になって、遅まきながら、私は民俗学に志した。それ以来、私はでき得るかぎり歌わないようにつとめてきた。喉もとまで湧き上る歌を扼殺しつづけることが、私の仕事であったと言ってもいい。自分の追い求めた民俗学の輪廓がかすかに見えてきた昨今、私は自分に向って禁じていた歌を許すいくぶん寛大な気持になっていた。そうした気持がはしなくも褥中詠となって、とつぜんあらわれたのであった。」



谷川健一 海の夫人 03


























































































































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谷川健一 『魔の系譜』

「魔の中に自分があり、自分の中に魔があるという個人的な体験をあじあわなかったものはさいわいなるかな。魔に憑かれている自分を解放したいとおもったり、自分の中にしばられ、とじこめられている魔が、その窮屈な囲(かこ)いをぬけ出したがって、叫び声をあげるのを聞いたことのなかったものは、本書に無縁である。」
(谷川健一 『魔の系譜』 より)


谷川健一 
『魔の系譜』


紀伊国屋書店 1971年5月20日第1刷発行/同年6月10日第2刷発行
223p カラー口絵2葉 モノクロ口絵4p 
四六判 丸背布装上製本 貼函 
定価950円
函写真: 『千金甲古墳』 藤本四八



本書「あとがき」より:

「本書の主要部分はもと雑誌『伝統と現代』に一九六九年一月号から十回にわたって連載したものである。僅かであるが加筆している。「狂笑の論理」と「犬神考」は雑誌『芸術生活』の一九六九年十月号と七〇年三月号に掲載した。「装飾古墳」は雑誌『展望』の一九六九年九月号に発表した。」


本文中図版(モノクロ)多数。


谷川健一 魔の系譜1


目次:

怨念の序章
聖なる動物
崇徳天皇
バスチャン考
仮面と人形
再生と転生
地霊の叫び
魂虫譚
犬神考
狂笑の論理
装飾古墳

あとがき



谷川健一 魔の系譜2



◆本書より◆


「怨念の序章」より:

「私は日本の歴史に触れて、しだいに一つの考えを抱くようになった。死者が生者を支配する――といった現象が、日本の歴史においてあまりに多いように思うのだ。死者が生者を支配する――というのは周知のようにコントの有名な言葉だが、それは死者と生者の連帯を意味するのであろう。ヨーロッパでは伝統とは死者と生者の連帯というほかにない。
 しかし日本では先祖とのつながりはあるにしても、普遍的な死者との連帯はない。あるのは対立だ。しかも死者が生者を支配するのだ。
 死者が生者をうごかす。生者は死者のそうした力を信じ、おそれ、それをとりなすためのあらゆる努力を傾ける。こういえば、悪霊を鎮める未開社会の心理を連想するだろうが、日本のばあいは未開社会とちがう発展の歴史をもっている。しかも日本ほどたやすく死者の復活を信じている国民はすくないだろう。」
「普遍的な発展の法則にしたがっている日本歴史の裏側に、もう一つの奇怪至極な流れがある。それは死者の魔が支配する歴史だ。(中略)それは表側の歴史にたいしては挑戦し、妨害し、畏怖させ、支配することをあえて辞さない。死者は、生者が考えるほどに忘れっぽくないということを知らせるために、ことあるごとに自己の存在を生者に思い出させようとするかのようだ。
 この魔の伝承の歴史――をぬきにして、私は日本の歴史は語れないと思うのだ。
 しかも、この場合、死者は敗者であり、生者は勝者なのだ。弱者が強者を、夜が昼を支配することがあっていいものか。弱肉強食が鉄則になっているヨーロッパの社会などでは考えられないことだが、敗者が勝者を支配し、死者が生者を支配することが、わが国の歴史では、れんめんとつづいている。」
「敗者の地位に立たされた日本人が全力を尽くして考え抜いたことは、いかにして被害者が加害者となり得るかということであった。」
「戦後の日本人が生きのびたというそれだけの理由のために勝利者づらをするのを許さない死者たちがいる。彼らは、被害者から加害者への道をひらくことにおのれを賭けて、生者をゆさぶり、ひっぱたき、生者たちを眠りこませないようにしている。
 もとよりそうした死者は、戦死者だけではない。政治的事件や叛乱に参加して処刑された死者たちも含まれるのである。彼らの企ては挫折し、彼らは敗者としての死を強制された。勝者にたいして一言の抗弁もゆるされないときに、彼らができることといえば何か。」
「『地蔵堂通夜物語』によると佐倉惣五郎(木内宗吾)は処刑の際に眼をかっと見開いて「極楽往生に望みなし、念仏供養も頼み致さず」といいきった。このとき一天俄かにかき曇り篠をたばねたような大雨がふりかかって、雷が鳴りわたり、処刑に立ち会った連中はいっせいに逃げ去ったという。
 成仏――つまり死者の安らかな眠りを断乎として拒否し、悪鬼として復活をねがう瞬間に、私たちは立ち会っているのだ。(中略)怨恨と呪詛がついに「魔」の誕生を必然化させる過程をここにみることができる。」



「再生と転生」より:

「小泉八雲の作品をほんやくした田代三千稔氏は八雲の思想を要約して、次のようにいう。
 「われわれの霊魂は、幾億兆の霊魂の複合物である。つまりわれわれは、一人のこらず、過去に生きていた生命の断片の、かぎりない混合体であって、いかなる人間の思想も感情も、詮ずるところ、死滅した幾億兆の過去の人々の、感情や観念や欲望の、習合ないしは再集合にすぎないのである。それゆえ、われわれの歓喜も恐怖も、そして恋愛の情熱すらも、すべて既往の人々の数限りない生活を通じて蓄積された記憶の再現であり、また美的感覚も芸術的技巧も祖先伝来の経験の復活にほかならぬ。」」
「これと同様の考えを、夢野久作は、作品『ドグラマグラ』の中で、精神病医の正木敬之に次のようにいわせている。
 「人間の個性とか、特徴とかいうものは、吾輩の実験によると一つ残らず、その人間が先祖代々から遺伝してきた、心理作用の集積にほかならないのだ。」
 柳田国男は民俗学を規定して「文字には録されず、ただ多数人の気持や挙動の中に、しかもほとんど無意識に含まれているもの」の研究とよんでいるが、彼は無意識の伝承をさかのぼって、祖霊という無意識の集合体につきあたった。」
「これまで述べたことは、ユンクのいう集合的無意識と考えて、ほぼさしつかえないものだろう。集合的無意識とは、「何百万年もまえからの祖先の経験の偉大な堆積であり……人間のあらゆる美しく偉大な思考および感情だけでなく、人間に可能であったあらゆる恥と非道の行為も含まれる」のである。」
「これと酷似する思想を『ドグラマグラ』の正木博士は、「胎児の夢」と題する論文のなかで、次のように述べる。
 「胎児の先祖代々にあたる人間たちは、お互い同志の生存競争や、原人以来遺伝してきた残忍卑怯な獣畜心理、そのほかいろいろ勝手な私利私欲をとげたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねてきている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現されてくるのである。」」

「カヤカベ教団につたわる「おてらのはじまり」という口伝は、残虐な美しさにみちみちている。それによると、むかし世の中が乱れに乱れあちこちに死人の山ができた。そのためにまわり十里ふかさ十里の血の池が極楽浄土へゆく道のなかほどにできて、だれもその道をわたれないほどになった。そこですうきょう(引用者注: 「すうきょう」に傍点)という上人が極楽浄土へゆく道があけられるように、この池の血をのみほすために、六日と六夜池の底に沈んだ。やがて呑みほした上人が池から出てきて地上にペッと吐いたのが血バキ(椿)、血ツジ(ツツジ)となった、ということになっていて、カヤカベの信者たちは美しいキリシマツツジをはじめ一切の赤い花を不浄としてきらう。この気高いすうきょう上人もまたその娘たちもさいごにとらえられて仕置きをされる悲惨な最期が待ち受けている。
 宗旨のはじまりを説明するのになぜこのような残酷な内容の物語が必要だったのだろうか。塚崎進氏は、『物語の誕生』の中で、「小栗判官や照手姫」、説経節の「愛護若(あいごのわか)」をとりあげて、そこに見られるひどく陰惨な趣向はこれらの物語が、懺悔告白という宗教的な目的を底に秘めているからである、といっている。氏によれば『古事記』のスサノオの命の物語も例外ではない。私はしかしそれを個人に帰するよりは、幾千年もの昔からの恥と非道の行為の再生――すなわち、自分たちの血の中に流れる先祖の犯した迫害の記憶の確認とみなしたいのである。こうした血の叫びを聞かない者は幸いなるかな。」



「あとがき」より:

「魔とは何であろうか。純粋に精神的なものでなければ、純粋に物質的なものでない。純粋に個人的なものでなければ、純粋に集団的なものでもない。歴史的であるにはあまりにも超歴史的であり、超歴史的であるにはあまりにも歴史的である。むしろこれらを接合させるための支柱として存在し、接合点に、燃えるもの、その炎のゆらめきが魔である。
 通り魔という言葉があるが、魔は形象の中をとおりぬけるものである。そして個人の魔が歴史の魔と合体するとき、それはくりかえし再生する。集団の歴史も個人の歴史も魔を殺すために力をつくしてきたようにみえるが、しかしそれはついに殺しつくせなかったのだ。
 本書はそれを日本人の情念の歴史にしぼって考察した小論である。」
「魔の中に自分があり、自分の中に魔があるという個人的な体験をあじあわなかったものはさいわいなるかな。魔に憑かれている自分を解放したいとおもったり、自分の中にしばられ、とじこめられている魔が、その窮屈な囲(かこ)いをぬけ出したがって、叫び声をあげるのを聞いたことのなかったものは、本書に無縁である。」




















































































谷川健一 『南島文学発生論』

「私は宮古島の友利でおこなわれたンナフカ祭のとき、神女のひとりが突然神がかりする光景を目撃したことがある。林の中で神女たちがまるい輪をつくり、手草をもって歌いながら踊っているうち、その中の一人が小刻みにふるえ出し、他の神女の歌や踊りとテンポが合わなくなった。そして最後には「神は今日どうして自分をこんなに苦しめるのか」と叫んで、涙を流し、地面に倒れ伏してしまった。」
(谷川健一 『南島文学発生論』 より)


谷川健一 
『南島文学発生論』


思潮社 1991年8月1日初版第1刷発行
482p 
A5判 丸背クロス装上製本 カバー 
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 芦澤泰偉
カバー絵: 田中一村
扉・写真: 時詩津男



本書「あとがき」より:

「本書は思潮社の「現代詩手帖」に「南島呪謡論」の題で一九八七年九月号から九〇年七月号まで、三年にわたって連載したものである。私は編集者の誘いに応じて、なんの準備もなく、書きはじめたのであったが、胸中を吐露することとなり、快適に筆を進ませることができた。連載中、病気入院したこともあったが、一度も休載したことはなかった。
 なお「太陽(てだ)が穴」「青の島とあろう島」「鍛冶神の死」の三篇は書き下ろしたものである。」



谷川健一 南島文学発生論1


帯文:

「人間社会のはじまりには、神に憑かれた人がただあっただけだ。
南の島は深い闇に包まれており、「言葉」だけが光りかがやいていた。
精霊とアニミズムの社会が生きていた南島だからこそ、呪謡は活力をもって生きつづいてきたのだ。「南島の深い闇」に対する畏敬から出発した谷川民俗学の達成点を示す畢生の大作。南島古謡群の発掘をとおして、古代歌謡の欠落を埋める。文学的モチーフとクリティックとを渾然一体化とした注目の巨篇。」



帯背:

「谷川
民俗学の
ライフワーク」



目次:



1
「言問ふ」世界
呪言(クチ)の威力
「畏(かし)こきもの」への対応

2
神託の本源
ノロの呪力
現つ神と託女

3
日光感精神話とユタの呪詞
宇宙詩としての呪詞
叙事詩の説話性

4
冥府からの召還
挽歌の定型
挽歌から相聞歌へ

5
村の創世神話
神話と伝説の間
祖神の神謡(ニーリ)
宮古島の「英雄時代」
「まれびと論」の破綻

6
諺の本縁譚
神意をヨム言葉

7
海神祭の由来
太陽(テダ)が穴
青の島とあろう島

8
盞歌(うきうた)と盞結(うきゆい)
アマミキヨの南下
鍛冶神の死

あとがき



谷川健一 南島文学発生論2



◆本書より◆


「序」より:

「鉄器の使用は農業生産の飛躍的な発展を促進する。暦の普及は社会生活を合理的なものにする。仏教の受容は宗教の普遍的価値基準を与える。南島の社会がこれらを著しく遅れて取り入れ、しかもその影響が辺境の島々ほど稀薄であったことは、南島の社会を日本本土と決定的に異なるものとした。鉄器、文字暦、仏教などによって社会を均質化し、きまぐれな自然力を克服し得た本土とちがって、南島ではいつまでも圧倒的な強さで自然力が人間のまえに立ちふさがり、それに拮抗できるのは古来伝えられてきた言葉の呪力だけであった。
 人間を取り巻く自然は活きた力をもち、悪意と善意をあわせ備えていた。この危険で反抗的な存在(モノ)を制圧するために、「言問う」相手を打ち負かす言葉のたたかいが必要であった。」

「本土と琉球弧を同じ時間の尺度で計ることはむずかしく、琉球弧の中でも辺境の離島の時間の尺度は首里にはあてはまらない。琉球弧の島々にはそれぞれ固有の時間が流れており、それを同じ年代で区切って考察するのはあやまりである。」

「いうまでもなく『琉球国由来記』の中のミセセルやオタカベは首里王府と関係の深い呪謡が多く、また同書にはノロの呪詞のみを採録し、ユタの呪詞は採録していない。『おもろさうし』に登場する巫女たちも王府の傘下の高級巫女がほとんどである。『琉球国由来記』や『おもろさうし』にユタの姿は探しても見出すことはできない。この両書にこだわる限り、ユタの呪詞は対象外となる。だがはじめからノロとユタが截然と分かれていたわけではない。王府の任命による巫女組織が村々にまで及んだ結果、ノロとユタの役割が分離したのである。ノロの役割は共同体の生産の豊饒を願い、また王家の安泰を祈願するものとされ、それにひきかえて、ユタは個人の吉凶禍福に関わることをもっぱらにその職業とした。かくしてノロの呪詞に厚く、ユタの呪詞に薄いという現象が外間や小野などの南島古謡研究者に見られる。
 だが南島では古代日本と同様に、現世と他界に二分された世界観を信じて、今日に到っている。他界における個人の魂の救済に関与するユタは、現世における村落共同体の繁榮を神に願うノロに劣らぬ重要さをもちつづけている。ユタの関与するものはもっぱら病と死である。ここに魂の呪詞としてのユタの姿が浮かび上がる。このような人間の生命の根源にかかわる主題をどう解決するかという悩みは、人間の誕生と共に生まれたものである。人間は病と死の克服のために何らかの理由づけを必要とし、それを説明し、解決を与えてくれる人を必要としたのである。人間社会の始まりにはノロとユタの区別はなく、ただ神に憑かれた人があっただけである。南島呪謡の根源に迫るには、ユタとノロの未分化であった時代を想定することから始めねばならぬ。その時代は、鉄器もなく、暦も伝わらず、仏教の影響はどこにもなかった。南の島々は深い闇に包まれており、「言葉」だけが光りかがやいていた。その時代は鉄器や暦の普及と共に終わりを告げたのか。いやそうではない。
 奄美大島では、戦前までは子どもが暗い時分になっても家に帰らず戸外にいると、家の老人たちは「夜がとる」と言って騒いだという。「夜がとる」というのは、夜が取り殺す、夜がさらっていく、という意味である。(中略)ここには、夜が兇暴な力をもつ人格として立ちあらわれている。わずか半世紀前まで、アニミズムの社会が南島に生きていた。それであればこそ、呪謡も活力を失わないでつづいてきたのである。
 本書は「南島の深い闇」に対する畏敬から出発する。」



「「言問ふ」世界」より:

「圧倒的な自然にとりまかれていた時代にあっては、人間は周囲の生物・無生物が自分に対して悪意を抱いているか、それとも善意を抱いているかがつねに気になった。夜には怪しい螢火のようなものが燃えさかり、昼にはウンカのようなものが湧き立ち、川の渕にうずまく水沫(みなわ)さえ物を言っていた。大自然の織りなすざわめきの中にかこまれていた人間にとって、森羅万象は他者を害する力をもつ霊魂(アニマ)であった。(中略)草木石にいたるまでよくおしゃべりをし、そのおしゃべりが相手を侵害する力をもっていた。おしゃべりをもって、こちらに挑みかけ、負けたら、相手の害する力をまともに自分に受け入れねばならない。隙あらばとうかがう相手は、眼に見えるもの、眼に見えないものすべてであった。周囲の「言問ふ」存在に対して気を許すことができない。そこに狩猟時代の生き生きと緊張に満ちた社会があった。」

「日本文化の影響が南島文化に急激な変貌をもたらし、南島古謡も呪歌としての性格を脱皮する契機をもった。だが、琉球王府の編纂にかかわる『おもろさうし』の世界とはちがった呪術の世界が、王府を遠くはなれた宮古、八重山や奄美には息づいていた。」
「そこはまだ呪祷の世界を脱していなかっただけに、呪言は人びとの生活を日常的に支配していた。つまり本土ではいちはやく消滅してしまい、万葉時代にはその原義さえたどりにくくなっていた「言問ふ」世界がまだ健在していた。それを取り上げることによって、南島文学の発生にちがった照明をあてることができないだろうかというのが私の狙いである。そしてそのことは日本の古代文学を考察する上でも重要な役割を果すであろう。」
































































































谷川健一 『白鳥伝説』 全二冊 (集英社文庫)

「この十世紀を超える時間を一つの意識が持続して貫流している。これはおどろくに足りることである。その意識とは何か。それは縄文時代にまでさかのぼり得る蝦夷の誇りの意識である。」
(谷川健一 『白鳥伝説』 より)


谷川健一 
『白鳥伝説 (上)』
 
集英社文庫 た-22-2

集英社 1998年4月25日第1刷
269p 下巻目次2p
文庫判 並装 カバー
定価410円(本体398円)
カバー: 後藤市三



谷川健一 
『白鳥伝説 (下)』

集英社文庫 た-22-3

集英社 1998年4月25日第1刷
347p 索引25p 系譜3p
文庫判 並装 カバー
定価560円(本体544円)
カバー: 後藤市三


「この作品は、一九八二年九月号~一九八五年三月号まで「すばる」に連載され、一九八五年一二月集英社より刊行された。」



本書「終章」より:

「日本の歴史を考古学や民俗学の力を借りて注意ぶかく点検するとき、権力者が抹殺しようとして果せなかったひとつの真実が浮びあがるのを見ることができる。教科書にも日本歴史にも一度も登場しなかった真実がかくされていたことを知る。」
「その真実とは、縄文時代から弥生時代へ、弥生時代から古墳時代へと連綿とたどることのできる歴史であり、天皇家の存在よりも古くから、この島国の中央の部分を支配していた物部氏と蝦夷の歴史である。敗者としての彼らの歴史は抹殺され、ばらばらに解体された。だが、事実の破片を拾い集め、伝承の裏側に流れる意識と照しあわせることで、もとの形に復元することがまったく不可能なわけではない。」



本文中図版(モノクロ)、地図多数。


谷川健一 白鳥伝説1


上巻 カバー裏文:

「古来、日本人の霊魂のかたどりとみなされてきた白鳥。東北地方に数多く存在する白鳥に関する地名の由来は? そして白鳥八郎とは一体誰れか? ヤマト政権成立以前に存在したヒノモトの国とは? 数々の問いをかかえ“白鳥”を求め、日本全国を踏破し59点に及ぶ図版で実証した古代日本の深層。」


下巻 カバー裏文:

「現代にまで受けつがれた白鳥信仰とはいかなるものか? そしてその由来は? 筑紫平野を中心とする一帯にあった邪馬台国は東漸し、ついにヒノモトの国と戦う。詩的精神のひらめきが、精緻な資料とあいまって、古代日本へのロマンに満ちた旅が始まる。59点に及ぶ図版、人名神名索引、寺社名索引、系譜・系図を収録。」


上巻 目次:

序章
 山人研究――柳田国男の初志と転回
 蝦夷の中を吹き抜ける縄文の意識の嵐
 夷狄の末裔を以って任じる秋田氏の矜持
 東北地方にみる白鳥信仰
 移動する「白鳥」に秘められた謎

第一部
 第一章 ひのもと考
  『古事記』序文も不詳とした日下の訓の由来
  万葉歌に示された太陽・草香山・難波の相関
  太陽の昇る難波、その東の日下
  天磐船で空をめぐり地に降ったニギハヤヒ
  ヒノモトノクサカを背景にもつ日本の国号
  中国の史書にみる倭から日本への移行
  ヒノモトはクサカからヤマトへ、そして東北へと移動する
  蝦夷の住む陸奥および常陸の日高見国
  ヤマト政権の東進に絡むヒノモトの変遷
 第二章 物部氏の東遷
  東アジア二―四世紀の動向
  筑紫平野を制する強大な国
  邪馬台国の中心は筑紫三井郡
  邪馬台国の領域と重なる物部氏の勢力範囲
  物部氏東遷をめぐる諸説の検討
  物部=工人の東遷と符合するニギハヤヒの降臨
  天磐船に乗って畿内に来た人々
  同乗者出自地にみる物部氏の東西交通
  ニギハヤヒの系譜
  物部氏の痕跡(一)――遠賀川中流の剣神社
  物部氏の痕跡(二)――六ヶ岳への宗像三女神の降臨
  物部氏の痕跡(三)――人名・地名としてのクラジ
 第三章 邪馬台国の東遷
  二波にわたる筑紫から大和への移動
  倭国内乱に影をおとす魏と呉の緊張
  倭国風俗にみる南中国との交流
  筑紫より日の本へ主力は東遷する
  イリ王朝の大和侵入――二人のハツクニシラススメラミコト
  イクメイリヒコ(垂仁)と関わる伊支馬と生駒
  物部氏を母系とするイリ王朝の創始者たち
  神武東征をはばむ生駒のナガスネヒコ
  南方に迂回し、熊野から吉野へ
  大和宇陀の水銀鉱山を背景に抵抗する一族
  忍坂へ、そして磯城へ
  物部・ナガスネヒコ連合軍の敗北
  久米部とエミシとの戦闘
  エミシの語義をめぐって
  大和の国魂ニギハヤヒを祀る者は誰か
  征服地の国魂を祀る二重の宗教構造
  ニギハヤヒと妻ミカシキヤヒメの廟社
  鍛冶氏族の祀る雷神の系列に連なるニギハヤヒ
  もう一つ、鍛冶氏族には鳥の伝承がまつわる
  鳥取氏の先祖アメノユカワタナの役割
  祖先を白鳥と考える物部氏の意識の流れ
  銅剣の柄頭にあしらわれた白鳥の意匠
  フツ・フルに辿る物部氏=渡来民族としての出自
  ニギハヤヒ=日神を祀る天照御魂神社
  銅鐸・銅鏡の製作と物部氏
  銅鐸の破却は何を意味するのか
  大和における弥生終末期の大変動



下巻 目次:

第二部
 第一章 ヤマト政権の東国進出
  ヤマトタケルの東進を阻む駿河の賊・国造
  駿河の国中・阿倍廬原国に集う蝦夷
  相模から房総、常陸へ
  近江から東海に勢力を張る物部系国造たち
  物部氏はなぜ東方へ向ったのか
  物部・阿倍氏の密接なつながり
  大嘗祭における阿倍氏の服属儀礼
  異族を組み入れる阿倍氏の系脈
  阿倍氏は物部と蝦夷の混血氏族である
  降臨説話をもって常陸に勢威を張る物部氏
  東国進出への二つの道――東山道と東海道
  毛野国における物部氏と蝦夷の痕跡
  会津で出会う一族――蝦夷馴致政策の進展
  丈部の阿倍臣改姓の微妙な心理
  アラエミシとニギエミシ
  蝦夷経営の前線に立つ氏族
 第二章 異族の神・ヤマトの神
  辺境に点在する古四王の神
  越王と古四王との交錯
  弥彦神と古四王神の関連説
  越後・弥彦と秋田・古四王を結ぶ物部氏の足跡
  蝦夷鎮圧と鍛冶集団の奥州進出
  自然神の貌をもつ東北の神々
  鳥海山の大物忌神と月山の月山神
  母屋を追われ庇にとどまる神
  門客人神・アラハバキの性格
  蝦夷をもって蝦夷を制す――荒ぶる神の役割
  武神・鹿島香取両神の陸奥進出
  地名が語る蝦夷と畿内勢力の消長
  物部氏北進の拠点――異族制圧のための神社
  陸奥における物部氏の神
  岩手県唯一の前方後円墳・角塚と止止井神社
 第三章 奥州安倍氏の血脈
   二つの系図が語る奥州安倍氏の歴史的意識
  第一の謎――安日について
   ナガスネヒコの兄安日を始祖として創出した心理
   安日・安倍はアイヌ語のアペ(火)に由来する
   安倍と阿倍を結ぶ物部氏
   柵経営の二重構造
   阿倍比羅夫の北征
   二戸市とその周辺の蝦夷たち
   十世紀後半に安倍氏は奥六郡に勢威を確立する
   奥六郡在地の蝦夷と結ぶ鎮守府将軍の物部・安倍氏
  第二の謎――白鳥八郎について
   前九年の役――安倍氏拠点の崩壊
   白鳥八郎の伝承
   白鳥大明神(刈田嶺神社)を支える白鳥信仰
   刈田嶺神社の神階を特進させた西国の事件
   鷹と白鳥――大高山神社とは何か
  第三の謎――常陸白鳥郷について
   津軽藤崎へと北上する白鳥伝説
   津軽から常陸へ移動する安東氏
   『常陸国風土記』白鳥の里の歌と折口信夫の解釈
   鳥取造アメノユカワタナは金属精錬に関わる
   常陸国白鳥郷にて
   常陸の俘囚、神賤、浪人とは何か
   二つの白鳥郷を結ぶ移住者の意識の連鎖
  第四の謎――日下将軍について
   李朝に使節を遣した「夷千島王」とは何か
   日下将軍・安東尋季は東海の要所津軽十三湊を拠点とする
   奥州=ヒノモト説を支える安東氏の河内胆駒への郷愁
   つぼのいしぶみ――奥州ヒノモトの意識は平安末にさかのぼる
   阿倍臣の北征とオホーツク文化の南下
   擦文文化とエゾ社会の重なり
   奥州・ヒノモトの中心は北上する
 終章
  列島を覆う日本国=物部王国と倭国=邪馬台国の重構造
  秋田家(安東氏)のエゾユミに見る縄文の伝統
  えぞの手振のむかし――理訓許段神社のイナウ
  秀衡寄進の仏像を守る岐阜白鳥町の人びと
  平泉藤原氏の白山信仰の深部にあるもの
  歴史を回帰する意識――聖なる生き物・イルカや白鳥
  物部と蝦夷と共に北進し回帰する白鳥の里
  律令国家の支配意志と蝦夷・隼人の抵抗
  東北地方再編成の施策――城柵と移民
  “東北”に縄文の意識の連鎖を読み直す
  日本歴史の地平の彼方へ

あとがき

略年表
人名・神名索引
寺社名索引
安東・秋田氏系譜/藤崎系図

解説 (荒木博之)



谷川健一 白鳥伝説2



◆本書より◆


「序章」より:

「柳田国男は民俗学の「うひ山ぶみ」を山人研究からはじめている。その最初の著作が明治四十三年に刊行された『遠野物語』である。柳田はその序文の中で、雄叫(おたけ)びを発している。

 国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。

 あたかも金石に彫りつけた文章のように、するどく硬く、烈しいこの一句は、七十年を経た今なお、冷厳な森の思想を象徴するかのように屹立(きつりつ)している。そして柳田の雄叫びが私たちの胸中に谺(こだま)するとき、東北の山野の木の葉はいっせいにざわめき立ち、森の木の葉の一枚一枚が言問(ことと)う世界へと、私たちは誘(いざな)われる思いがする。幾千年もの間、私たちの意識の底に眠りつづけていた狩猟民の感覚や奇怪な異神への信仰が眼をさまし、躍動するのをおぼえて「戦慄」するのだ。」
「山人を先住民の子孫と規定した柳田は、後来の侵入民族の末裔(まつえい)を「平地人」の名で呼んでいる。山人の敵である平地人の自分が、山人のためにいまだ書かれざる歴史を叙する、と言うのが、柳田の基本的態度であった。」
「柳田によれば、山人は平地人から追われて放浪したあげく、一部は平地人と雑婚して土着帰化したが、一部は殺され、また自然にその子孫が絶えてしまった。ただ敗残して山にかくれたわずかな者たちが生き残ることになった。それが山男である。」
「柳田は日本人とは種族がちがい言語も通じない先住民の残存を想定し、それら山人をあたかも禽獣(きんじゅう)のごとく扱ってきた日本人の通念とたたかおうという切実な志を抱いていた。」
「縄文時代の意識が歴史時代にまで伝わっていた、という仮定から、柳田は山人や山男に眼をつけた。だが、柳田の着眼はすぐれていても、それにふさわしい結論をみちびきだすことにはならなかった。」
「その二つ(引用者注: 山人と縄文時代の先住民)をつなぐものとして、歴史的な存在である蝦夷(えみし)を抜きにすることはできない、と私は考える。蝦夷は古く毛人と称されていた。彼らは古代中世において、東北地方で大いに勢威を振(ふる)い、中央政権をしきりになやましたが、度(たび)重なる武力討伐にさらされ、その居住地はせばめられていった。和人の入植によって混血するものもあったが、本来狩猟民であった彼らは、定住して田を耕す習俗になじめなかった。(中略)言語習慣のちがう彼らは、自由に呼吸できる天地を求めて、奥羽山脈や北上山地など、川の上流の山間や沢地に逃亡し生きのびたものがすくなくなかった。山人や山男の伝承はそうした蝦夷の末裔とつながりがあるのではないか、と一応考えてみる必要がある。」
「「縄文の意識の嵐」は歴史的存在である蝦夷の中を吹き抜けているのである。」
「柳田が山人に興味を抱いた時期と相前後して、喜田貞吉(きたさだきち)が歴史家の立場から蝦夷に関心をよせていた。」
「喜田は、奥羽地方において縄文土器を使用していた民族は、歴史時代にこの地方では蝦夷としてあらわれたと推定し、その蝦夷とアイヌとを同一視している。」
「一九七〇年代になって、蝦夷=アイヌ説が再登場する兆候を見せている。」
「最近の地名学や考古学の成果は、縄文以来の伝統をひく文化が北海道と東北に共通して残留していたという説を否定できないものとしつつある。(中略)歴史の表層から姿を消していった敗者のために雪冤(せつえん)をめざす時機はようやく熟したと言うべきである。」
「蝦夷という歴史的存在を通じて先住民の痕跡をさぐる際、正史にとどめられている記録だけでは不充分であることは言うまでもない。そこに描かれた中央貴族の蝦夷像というのは、人面獣心で恩を忘れ復讐(ふくしゅう)心は強く、人倫を知らぬ蝦夷といったたぐいの悪罵(あくば)でぬりたくられ、歪曲(わいきょく)されている。残された記録を裏側から読んでいくにしたところで、中央政府の史料だけでは正確な蝦夷像にたどりつくことはおぼつかない。一方、蝦夷は何等弁明する手段ももたず、沈黙のまま歴史の闇(やみ)に消えていった敗者である。
 だが、その手がかりがまったくないわけではない。それは奥州安倍氏の流れをひくと称する安東氏や秋田氏に伝えられていった系図である。」
「奥州安倍氏の血脈をひくと称する安東氏や秋田氏は、最初には長髄彦の末裔という意識をもっていたにちがいない。長髄彦は伝説中の人物とはいえ、神武の軍に敵対して殺された。その朝敵を先祖と仰いで恥じないというのは、いったいどうしたことだろうか。ややもすれば中央の貴姓に自己の先祖の出自をむすびつけたがる風潮の中で、これは異例に属すると言わねばならない。」
「秋田氏が明治になっても、ナガスネヒコの兄の安日を自家の系図の筆頭に置いてすこしも悪びれなかったということは、おどろくべきことである。夷狄(いてき)の末裔を自認して恥じない秋田氏の矜持(きょうじ)には、かならずや何等かの歴史の真実が蔵(かく)されているとみなければならない、というのが喜田と同様に私の考えでもある。
 異族の末裔たることを誇らしげに公言する秋田氏の胸中には「縄文の意識の嵐」が吹いていたにちがいない、と私は推測する。秋田氏の系図を手蔓(てづる)として、先住民と後来民との間の争闘のドラマが烈しく演じられた時代にまで遡行(そこう)できるのではないか、と私は考える。」



「第一部」より:

「ヤマトと言い、ヒノモトと言い、天磐船に乗って天空から地上を見おろしたニギハヤヒが命名したという伝承が共通してあることは、神武帝が九州から日本の中央である河内、大和へ進出する以前に、ニギハヤヒが蟠踞(ばんきょ)していたことを正史が裏書きするものである。命名者というからには、そこの支配者と考えてもよいであろう。」

「河内の草香がかつてはヒノモトと称せられていたこと、そこは日出る処という地理的な位置のためだけではなく、太陽信仰の原点とみなされていたこと、その太陽信仰の対象としては天磐船に乗って生駒山脈の一峰に降下したという伝承をもつニギハヤヒの神があったことをたしかめた。」

「物部氏の東遷の事実は『日本書紀』の神武東征説話の中に反映されている。すなわち神武帝は東征に先立って、ニギハヤヒが天磐船に乗って国の中央に降臨したことをみとめている。このニギハヤヒの東遷は物部氏の東遷という史実を指しているものと私は受け取っている。」
「物部氏は河内へ上陸し、そこから大和へ入り、畿内に大勢力をきずいた。そうして後来の邪馬台国との間に戦闘をまじえた。それが神武東征説話の中核の部分の物語るところである。」

「ハツクニシラスは実際は崇神天皇一人であり、神武紀に崇神天皇の業績が混入している。(中略)私はこの崇神天皇、すなわちミマキイリヒコが四世紀の初頭に筑紫平野の邪馬台国から大和の三輪山のふもとに東遷したと考えている。」

「このようにして、物部氏とナガスネヒコ連合軍は、神武の軍のまえに敗北した。このことは、先住者の物部一族が原住民の首長のナガスネヒコと共に河内、大和に勢力を張っていたところへ、邪馬台国の主体が東遷して、両者の間に戦闘がおこなわれたことを意味するものでなくしてなんであろう。神武紀にはナガスネヒコが二度にわたって、天つ神の子たちがやってきて「わが国」あるいは「人(ひと)の地(くに)」をうばおうとすると怒る箇所があるが、それはたんなる文飾ではあるまい。大和は自分の国だという意識がナガスネヒコにあったことを示しているのである。
 ナガスネヒコが殺されたからと言ってそれで大和盆地での抵抗が終ったわけではなかった。葛城地方の高尾張(たかおわり)という村に土蜘蛛(つちぐも)がいた。(中略)彼らは赤銅(あかがね)の八十梟帥(やそたける)と呼ばれていた。」
「ここにいう赤銅の八十梟帥とは、彼らが鋳銅に関連した工人だったことを暗示する名称である。(中略)おそらく、赤銅の八十梟帥は伊福部氏に属する金属工人であったにちがいない。」
「これまで見てきたことを整理すると、神武東征説話の第一の特徴はことごとく物部氏に関係していることである。第二の特徴は金属の精錬にかかわる記事がすこぶる多いことである。邪馬台国の東遷がおこなわれるまえ、大和盆地とその周辺では鉄や銅や水銀などの原料を採取し、それを鋳造する技術者がかなり住んでおり、それらの金属工人は物部氏の同族または配下として鉱山を採掘し、それをもって金属精錬をおこなっていたと想像される。大和盆地の周辺に進出した邪馬台国の首長は、鉱産地帯をおさえ、金属工人を掌握することによって、大和盆地を支配することが可能となったのである。」

「大和の国の支配者はもとナガスネヒコであった。これは『日本書紀』もみとめている。ナガスネヒコを大和の国の真の支配者たらしめたものは、ニギハヤヒであり、ニギハヤヒを奉斎する物部氏の力であった。物部氏は、二世紀の後半、金属工人とともに九州の筑紫平野から摂津・河内・和泉・大和へ移動した。」
「畿内に移住した物部氏は大和に勢威を張っていたナガスネヒコと姻戚関係をむすび、みずからの奉斎するニギハヤヒの魂をナガスネヒコに付着させた。そこでナガスネヒコは大和の国魂を身につけることになり、強大な威霊の助力によって、神武の軍をなやました。
 物部氏も邪馬台国も出身地はおなじ筑紫平野であり、物部氏の東遷は、邪馬台国の東遷に先立って、その一部が先発したというにほかならなかった。(中略)神武もニギハヤヒもおなじく天つ神の子としての表徴を所有していた。(中略)天羽羽矢と歩靫は同族のしるしに外ならなかった。」

「さきに三輪山の神の大物主は土着の神であって大国主神とは別神であると述べた。」
「大物主神という神名のモノは荒ぶる魂であり、また、たたり神であることを示す語である。そのモノを鎮めるのがモノノベであったと考えられるのである。」

「ここにおいて、饒速日命(にぎはやひのみこと)の性格も明確になる。それは銅剣や銅鉾など金属の利器を製造する工人集団が信奉する雷神にほかならなかったのだ。」

「弥生時代の終末期に、大和地方には大きな変動が起った。それは九州島にあった邪馬台国が東遷して、それまで大和地方を支配していた物部氏と蝦夷との連合政権を侵害しはじめたからである。物部氏はそれまでに河内の日下(くさか)から発して大和を掌握していた。(中略)邪馬台国の軍隊は大和国中の後背地から侵入し、物部と蝦夷の連合軍との間に激闘がくりかえされた。大和平野の大半の村々はほろんだ。
 蝦夷の兵士は勇敢で敵を散々なやましたが、物部氏の主力は邪馬台国に屈服した。それは物部氏の支配していたヒノモト王国の終焉を意味するものであった。」
「邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地をもつ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。また両者はもともと九州の筑紫平野を本貫とするという同根の親しみがあったからである。それに引き換えて、蝦夷は異族であった。その首長は憎悪をこめて殺された。かつては河内、大和に進出していた蝦夷の勢力は東国への後退を余儀なくされた。
 一方、物部氏の傍流もまたヤマト政権の中核に参加することなく蝦夷と行動を共にした。」
「四世紀の初頭、河内、大和地方を彩った惨劇ののちも、蝦夷と外物部はかつて中洲に覇を唱えていた頃の栄光を忘れることはできなかった。彼らはヒノモトもしくは日高見(ひたかみ)の呼称をも、東へともちはこんでいった。これらの呼称はいったんは常陸に滞留したが、やがてはヤマト政権の軍事力の埒(らち)外にある陸奥国の北上川の流域に定着をみたのである。」



「第二部」より:

「これまで見たように、ヤマト政権の基礎が固まり、その勢力が遠くに及ぶにつれて、蝦夷は東へ東へと後退した。しかしヤマト朝廷の東進を阻む勢力を各地に残していた。そのもっとも有力な抵抗線の一つが駿河であった。ヤマトタケルが焼津で危難にあったということは、駿河の蝦夷の実力のあなどりがたさを示す挿話である。」

「阿倍氏が蝦夷と物部氏に代表される倭種との混血氏族であるとすれば、両者の間に並々ならぬ関係がつづいたとするのは無理からぬ想定である。事実、物部氏の分布するところには重なりあうように阿倍(安倍)氏の勢力がみられる。ヤマト朝廷の側に立ち、しかも蝦夷の血をまじえた阿倍(安倍)氏の存在は、蝦夷の蟠踞(ばんきょ)する東日本を計略するのにもっともふさわしいものであった。蝦夷たちはその血の親しさから阿倍氏の配下となったものがすくなくなかったと考えられる。彼らのある者は阿倍(安倍)氏の姓を名乗り、また他の者は姓はちがっても同族として関係づけられた。こうして夷を以て夷を制するというヤマト政権の狙いは効果をあげた。征夷の尖兵としての阿倍(安倍)氏の役割は充分に果たされたのである。
 しかし蝦夷のなかには、ヤマト政権に服従しなかったものたちがあった。彼らはヤマト政権が東国に進出するのを阻みながら、後退していった。」
「大倭(おおやまと)と併称されていた日高見国(ひたかみのくに)の呼称もとおく大和をはなれて、常陸へ移された。」

「このように常陸国は物部氏と蝦夷の勢力が強大をほこる地方であり、両者の二重統治のおもむきすらある。
 常陸は西の方から後退していった蝦夷の勢力がゆきついた東の果の国である。それと同時に東北地方で勢力を振っていた蝦夷の出発点とも見なすべき国である。
 そこでは東海地方を自分の回廊のようにして東へ勢力をのばしていった物部氏の一応の終着点でもあり、それと共に物部氏が東北地方に力をのばす拠点であった。そこには華夷同居の形が見られる。そうした点できわめて重視されるべき地域である。」

「陸奥出羽の古代史は在地勢力である蝦夷に対するヤマト政権の侵略の歴史である。これを在地神と外来神のあらそいの歴史として捉(とら)えることができる。たとえば『日本書紀』にはヤマトタケルが海路から蝦夷の支配する地域に入ったとき、蝦夷の首長である島つ神、国つ神などが竹水門にあつまって、拒(ふせ)ごうとした、とある。この記事で特に注目されるのは、土地の首長を島つ神、国つ神という言い方で表現していることである。これによって、その土地の豪族を制圧することはその豪族の奉斎する神を征服することにほかならぬ時代のあったことが分かる。」

「柳田国男は折口信夫との対談「日本人の神と霊魂の観念そのほか」の中で、次のような発言をしている。
 「京都あたりの諸大社の末社には、かなり大きな、時としては本社よりももっと有力な神社の神たちを、わずか一尺二尺の小さな祠に、末社として排列していることがある。何か複雑した中古以来の変化があると思うが今でもまだよくわからない」
 こう前置きして柳田は末社を三つに分類している。一つには主神の眷属(けんぞく)を祀るもの、二つには神社がそこに建つ以前からその土地を支配していた神または霊に、優位を与えてなお将来の援護を求めるもの、第三には世の中に禍をする神を主神に制御してもらうために側近に祀っておくもの。
 この柳田説の二つめにあたることを折口信夫も述べている。
 「地主神みたいな、神社以前の土着神――おそらく土地の精霊――を、かえって客神として取り扱う。だからあべこべに、ほんとうの後来神または、時あって来る神を客神、客人権現などいう名で示していないのだと思います。」
 この両者の発言は重要である。客人神(まろうどがみ)というのは後来の神ではなくて、神社の建つまえの地主神もしくは土着神だというのである。」

「国つ神が天つ神にその座をうばわれたという証跡を具体的に指摘することはかんたんでない。しかし先住民族と後来の民族の交替がおこなわれたという考えに立ってみれば、母屋にいた神が追い出されて自分の家の庇(ひさし)を借りるような形で生きながらえている神の姿をたしかめることができよう。その一つが私のこれから問題にしようとしているアラハバキ神である。」
「アラハバキの神とは何か。
 一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人神扱いを受けたものである。
 二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
 三、客人神としての性格と門神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。」
「アラハバキの名称は荒脛巾に由来するが、その神の実体は蝦夷の神であった。蝦夷の神をもって外敵である蝦夷を撃退させようとした。それは異族である隼人に宮門を守らせ、犬吠えをさせるのとおなじ心理であった。また、道ゆく人を殺すサエの神とも似通っていた。(中略)しかし、アラハバキはたんなる境の神ではない。それは先住民族の面影をやどす異族の神である。まえに私は東北地方の式内社の中にも蝦夷の信奉する神をまつる神社のあることを指摘した。アラハバキももともと名前をもたない蝦夷の神であったのが、やがて門客人神として体裁をととのえられ、大和朝廷の神社の中に摂社または末社として組み入れられていったのである。」

「「倭国」の中心であった邪馬台国は、「日本国」を支配する物部氏を打倒し、その国号をうばった。こうして物部氏の称するヒノモト、またヒノモトとおなじ意味をもつ日高見国(ひたかみのくに)、そして物部氏の信奉する白鳥伝説の流竄(るざん)がはじまった。それらは畿内から東国へ移され、さいごは陸奥国へと移動した。蝦夷の住む地域を日高見国と称し、蝦夷の一類をヒノモトと呼び、蝦夷の首長の安倍氏に白鳥伝説がまといつけられた。もともと物部氏と畿内の蝦夷は形影あいともなうごとき存在であったが、このとき物部氏の影は背後に退いている。しかし奥州の安倍氏が蝦夷の出自であることを自覚しつつ、その遠祖をナガスネヒコの兄の安日(あび)と称する架空の人物に求めているのは、三世紀から四世紀前半にかけての畿内における蝦夷の栄光の歴史を抜きにしては考えられない。そこにはヤマト政権につながる邪馬台国の東遷よりもはやく、中洲(うちつくに)の主人公であったという自負がほの見えている。」

「白鳥信仰は物部氏によって常陸へもたらされたが、蝦夷にとっても先史時代からなじみ深いものであり、年々飛来する白鳥の群を神とあがめていた。」
「秋の彼岸すぎになると東北の湖沼や川のほとりを一面に埋めつくした白鳥の群。その白鳥を自己の祖先の顕現とみなして、熱狂的な信仰をささげたわが縄文人。その信仰は後代蝦夷に伝えられ、東北に進出してきた物部氏の白鳥信仰と習合し、強化された。」

「古代東北の蝦夷を想定するときは、近世の北海道のアイヌを考えるのが手がかりになる。もちろん蝦夷はアテルイの頃から政治権力をもった社会をいとなみ、その地位は近世の北海道のアイヌの比ではなかった。しかしアテルイが相手方の誠意を信じて投降したように、その心情の純朴と率直さはアイヌと通底するところがある。これを一口に言って「優しさ」と呼ぶこともできよう。」
「原住民が、純朴率直であることをよいことにして悪辣無道の限りをつくした和人(シャモ)に対する切っぱつまった回答が、蝦夷の叛乱であり、またアイヌの抵抗であった。このようにみるとき、『日本書紀』以来の正史にあらわれた蝦夷観がいかに謬見(びゅうけん)と錯誤にみちたものであったかが推測できる。私たちは今、東北の歴史の読み直しをつよく迫られている。」









































































































谷川健一 『常世論』 (平凡社選書)

「常世べにかよふと見しは立花(たちばな)のかをる枕の夢にぞ有(あり)ける 林櫻園」


谷川健一 
『常世論
― 日本人の魂のゆくえ』

平凡社選書 81 

平凡社 1983年5月20日初版第1刷発行/1985年6月1日初版第2刷発行
277p 口絵(モノクロ)4p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,700円



本書「あとがき」より:

「日本民俗学の二巨人、柳田国男と折口信夫が生涯をついやして追求したのは、日本人の信仰である。なかでも、その原点としての「常世」であった。(中略)私はもとより浅学菲才であるが、常世の課題は日本人の信仰を明らかにするために最も重要であるという、柳田と折口とおなじ認識の上に立って、ここ十数年全国各地をあるき、自分なりに手さぐりをつづけてきた。本書はそのささやかな報告書である。」


谷川健一 常世論1


カバー文:

「常世は水平線の彼方にたいする憧憬と死とがまじりあったものである。そこは眼路の果の潮けむりのような妣の国のイメージがはるかに立ちのぼっているところである。
常世をたずね求めることは、日本民族渡来の海の道を南へたどり直し、民族の始源の記憶に立ち会おうとする衝動につながっていく。」



カバー裏文:

「トキジクノカグノコノミのなる常世は、すでに『古事記』編纂の時代、不老不死の理想郷と観じられていた。
しかし、この常世は、祖霊の在す幽界や黄泉の国、さらに根ノ国、妣の国や沖縄のニライカナイともつながっている。
著者は、そうした世界が観念化される以前の原風景を求めて、古典を読み直し、民俗を訪ねる。補陀落渡海や浦島伝説はもちろん、死の影ただよう「青の島」、渚に建てられた産小屋やタブの木の問題など、発見の感動に支えられた大胆な直感と連想を交えて、柳田・折口両先学による日本人の原郷意識へのアプローチを一歩進めようと試みる。」



カバーそで文:

「日本人は死後の魂の住む場所を閉されたものとは考えなかった。そこは明暗をわかちがたい薄明の世界であり、死は再生を約束するものと考えられていた。とはいえ常世は、そこに住む祖霊が子孫であるこの世の人びとをいつくしみにみちた目で見守っている場所であるという考えが最初からあったとは思われない。はじめは荒々しい力をもった死後の霊魂が住んでいると想定され、善きものも悪しきものも常世からくると信じられていた。
したがって常世をひかりまばゆい楽土とみなし、常世に住むものは慈愛にみちた祖霊という風に考えを限定することはできない。それは後代になって純化され、浄化された考えである。私が折口の「暗い冥府」に反対しながら、手放しの明るい常世に同調できないのはそのためである。こうしたことから仲松弥秀が『神の村』の中で描いてみせた「青の世界」に共感をおぼえるのである。」



目次:

序章

I
海彼の原郷――補陀落渡海
常世――日本人の認識の祖型

II
若狭の産屋
南(ばい)の島(すま)
ニライカナイと青(おう)の島

III
越の海
志摩の記
淡路の海人族
常陸――東方の聖地
丹後の浦島伝説
美濃の青墓

終章

あとがき



谷川健一 常世論2



◆本書より◆


「序章」より:

「日本人の意識の根元に横たわるものをつきつめていったとき「常世」と呼ばれる未知の領域があらわれる。それは死者の国であると同時に、また日本人の深層意識の原点である。いやそればかりではない。日本人がこの列島に黒潮に乗ってやってきたときの記憶の航跡をさえ意味している。仏教やキリスト教の影響による世界観や死生観が支配する以前の日本人の考え方を「常世」の思想はもっとも純粋かつ鋭敏にあらわしていると私には思われる。」
「沖縄の島々はその周囲を珊瑚礁(コーラル・リーフ)にかこまれている。珊瑚礁の内側はイノーと呼ばれて、潮が引くと干瀬があらわれる浅い海であり、島びとがイザリ漁をする日常空間であるが、珊瑚礁のむこうはどす黒い波のうねる外洋である。そこは島びとがめったにいくことのない非日常的空間である。
 沖縄の海を眺めるときの感動は、日常的な空間と非日常的な空間、現世と他界とが一望に見渡せるときのそれである。それを一語で表現するとなれば「かなし」という語がもっともふさわしい。沖縄では「かなし」という語は愛着と悲哀の入り混った語として、今日でも使用されている。現世への愛着と他界への悲哀だけでなく、現世の悲しみと祖霊の在ます他界への思慕もこの言葉にはこめられている。」
「沖縄の古い墓は海岸の洞窟を利用した風葬墓である。洞窟の入口は完全にふさがれてはいない。うすぼんやりとした黄色い外光が洞窟の内部に差しこみ、死者のまぶたをやさしくこすり、死者をまどろみにみちびく。死者たちは黄昏に似たおだやかな薄明のなかで、ひとときの休息をたのしんでいる。」

「この世になぎさがあるのと同様に、あの世にもなぎさがある。海神の娘の豊玉姫は自分の産んだヒコナギサ・ウガヤフキアエズを、なぎさに置き去りにして海神宮に逃げかえったが、「海(わた)の底におのずからに可怜小汀(うましおばま)あり」と『日本書紀』はその消息をつたえている。つまり海神宮のある他界にもきよらかな波打際の平地があるというのである。」

「沖縄では青は死、白は生を象徴する。人は死んだら青の島にいく。そうして生まれかえる。それがシラである。刈りとった稲を穂のまま積んでおくのがシラであり、産室のいろりに燃える火がシラビである。青から白へ、白から青へ、人間のたましいは循環をくりかえす。それは蝶の変態と何ら異なるところはない。
 常世は水平線の彼方にたいする憧憬と死とがまじりあったものである。そこは眼路の果の潮けむりのような妣(はは)の国のイメージがはるかに立ちのぼっているところである。出雲の粟島からスクナヒコナの神が粟茎(あわがら)に弾(はじ)かれて常世の国にいったと『古事記』にあるように、古代日本では、死は回帰として水平線にかかる抛物線の虹のように描かれている。常世をたずね求めることは、日本民族渡来の海の道を南へたどり直し、民族の始源の記憶に立ち会おうとする衝動につながっていく。」



「海彼の原郷――補陀落渡海」より:

「補陀落寺の千手堂には補陀落渡海のために屋形船を作ったときの、その屋形の板が本堂の壁板として使用されている。白と緑と紅を用いて蓮の花もようが大ぶりに描かれている。」
「有名な『熊野那智曼荼羅』を見ると、補陀落渡海の船が一の鳥居の下部に描かれている。船は帆をかけた屋形船で、まわりに四つの鳥居をめぐらしている。これについて五来重は「日本の葬制の常識でいえば、四方四基の鳥居は殯(もがり)の四門というもので、(中略)これはうたがいもなく墓の構造をしめしており、(中略)この絵画資料はどうかんがえても補陀落渡海が水葬であることをものがたるのである」と述べている。」

「だが、補陀落渡海という名の入水自殺から水葬が生まれたかというと、そうではなく、むしろ、古代の水葬が常世の国の幻影を海彼に描き出し、それが補陀落渡海につながったとみる方が正しいであろう。」



「常世――日本人の認識の祖型」より:

「常世を存立させるものは、日本人の中につたわるこのような「待つ」感情にほかならなかった。日本の海村を訪れた旅びとは地元の老人などがつねに海のなぎさに関心を払っているのに気がつくにちがいない。とくに嵐のすぎ去ったあくる朝などは、大ぜいの人びとが海岸に出ている。それは海からの贈物である魚介類や流木や海藻などが打ち揚げられていないかを見まわる姿である。こうしたものは、(中略)すべて常世から送り届けられたものと思われた。日本の常民は、それらを待ち受けるという感情の中に身をひたしてすごしてきたといえる。」


「ニライカナイと青の島」より:

「「常世」の観念には、現世から他界をのぞみ、その分裂をいたましく思い、それだけその合一への係恋(あこがれ)に身をまかせる感情がこめられている。だがしかし「ニライカナイ」には現世と他界との分裂や対立は見られず、相互の信頼のきずなは失われてはいない。そこはむしろ祖霊神の住む島から現世をながめる視座が含められている。」
「「常世」が現世から他界へのまなざしであるとすれば、「ニライカナイ」は他界から現世へのまなざしである。」
「「失われた楽園」へのなげきが日本神話の神代の巻をつらぬくライトモチーフである。この点では「創世記」に似ているが、ヘブライ神話が父なる神を求めているのに対して、「妣の国」への身をこがす思慕が記紀をつらぬいているところに特色がある。」






























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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