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谷川健一 『柳田国男の民俗学』 (岩波新書)

「日本には文字記録にない数多くの欠史がある。それを少しでも明らかにすることが民俗学の使命ではないか。」
(谷川健一 『柳田国男の民俗学』 より)


谷川健一 
『柳田国男の
民俗学』
 
岩波新書(新赤版) 736 


岩波書店 
2001年6月20日 第1刷発行
vi 244p 略年譜・主要著作2p
新書判 並装 カバー
定価740円+税



本書「はじめに」より:

「私の民俗学への関心はもっぱら日本人の神と霊魂の問題にあてられてきた。私の考察の対象は、柳田が『民間伝承論』の中で人は神を懐(おも)い死後を信じ得る動物である、そうしてそれ以外の何物でもない――と言うときの神であり、または人間の他界観である。そこで柳田の厖大な研究の中で、その主題がもっとも純粋な結晶をみせている『海上の道』になるべく添う形で本書をまとめることにした。もとよりそこにいたる曲折にみちた過程についても配慮したつもりである。」


本文中図版(モノクロ)5点、章扉図版(モノクロ)8点。



谷川健一 柳田国男の民俗学 01



カバーそで文:

「『山の人生』に描かれた貧しい山民や漂泊民サンカ。『遠野物語』の伝承や『海南小記』の漂海民たち。『海上の道』に登場する黒潮にのって稲作文化とともに北上した人々。さらに古琉球の民俗、常世の国考…。巨人・柳田の学問を丹念にあとづけながら、著者自らの長年の踏査と論考をまじえ、柳田民俗学の鋭さと広がりを新たな切り口から捉え直す。」


目次:

はじめに

第一章 山の漂泊民
 一 新四郎屋敷
 二 新四郎の告白
 三 『山の人生』と「新四郎さ」
 四 自然児重右衛門
 五 観音笹を追って

第二章 山人論の運命
 一 小さきものの世界
 二 山民から山人へ
 三 山人の五分類
 四 国つ神と蝦夷
 五 南方熊楠との論争
 六 東北地方のアイヌ語地名
 七 山の神の原像
 八 山の神と杓子

第三章 漂海民と孤島苦
 一 家船
 二 糸満漁夫の「旅」
 三 海に背を向ける島民
 四 孤島苦

第四章 『海上の道』考
 一 未来へのはなむけの書
 二 宝貝と椰子の実
 三 稲作北上説
 四 柳田説の再評価
 五 幼時体験と民族体験
 六 「古琉球」以前
 七 東海岸の海上交通

第五章 稲の嬰児
 一 シラとスヂ
 二 南島の初穂儀礼
 三 インドネシアの初穂儀礼
 四 稲実公の任務とは何か
 五 新嘗の夜の忌籠り
 六 民間の新嘗と宮廷の新嘗
 七 冬至は暦法の基点
 八 暦なき時代の一年

第六章 稲作一元論をめぐって
 一 祖霊と稲作
 二 さまざまな食習
 三 粟の信仰儀礼
 四 税としての稲
 五 農民のニヒリズム
 六 オシラサマと養蚕
 七 金属と民俗

第七章 海彼の他界
 一 根の国と黄泉国
 二 みみらくの島
 三 東方海上の浄土
 四 海上浄土の方位
 五 冥界の明るさ

第八章 日本人の学
 一 女性の力
 二 女性と酒
 三 感官の民俗学
 四 スプーンで日本を掘る
 五 日本を知るための物さし
 六 開かれた国学
 七 畏き人

あとがき

柳田国男略年譜・主要著作




谷川健一 柳田国男の民俗学 02



◆本書より◆


「第一章」より:

「今から十数年前の一九八九年の夏、私は奥美濃の友人の案内で、岐阜県郡上(ぐじょう)郡大和(やまと)町の古道(ふるみち)という集落から東北にのびる山道をのぼっていったことがある。(中略)標高九百メートルの高さのカラマツ林の蔭に、大小二つの積石塚があった。(中略)案内者の説明では、ここはかつて「新四郎屋敷」と呼ばれていたという。新四郎は柳田国男が『山の人生』の冒頭「山に埋もれたる人生ある事」で紹介した惨劇の主人公の通称である。新四郎は三年の刑期をつとめて特赦されると、どこにも立寄らず、真直ぐにここにやってきて、二人の子供を埋めてある埋葬地の草の中に伏して、泣けるだけ泣いた、と後年告白している。」
「私が最も関心を抱いたのは、柳田が何故この事件に深い興味を抱いたか、ということであった。(中略)柳田が大正十四年(一九二五)一月、『アサヒグラフ』に掲載した有名な『山の人生』の一文をまず掲げておく。

   今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で殺したことがあった。
   女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あつた。そこへどうした事情であつたか、同じ歳くらゐの小娘を貰つて来て、山の炭焼小屋で一緒に育てゝ居た。其子たちの名前はもう私も忘れてしまつた。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかつた。最後の日に空手で戻つて来て、飢ゑきつて居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すつと小屋の奥へ入つて昼寝をしてしまつた。
   眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂ふ。二人の子供がその日当たりの処にしやがんで、頻りに何かして居るので、傍へ行つて見たら一生懸命に仕事に使ふ大きな斧を磨いて居た。阿爺(おとう)、此でわたしたちを殺して呉れと謂つたさうである。さうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たさうである。それを見るとくら/\として、前後の考えも無く二人の首を打落してしまつた。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕へられて牢に入れられた。
   此親爺がもう六十近くになつてから、特赦を受けて世中へ出て来たのである。そうして其からどうなつたか、すぐに又分らなくなつてしまつた。私は仔細あつて只一度、此一件書類を読んで見たことがあるが、今は既にあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつゝあるであらう。

 柳田国男の晩年の回顧録『故郷七十年』には柳田は明治三十五年(一九〇二)二月から大正三年(一九一四)まで法制局の参事官をしていたときに、予審調書などの関係資料を読んで特赦に関する事務を扱ったことが記されている。その中で、一番印象の深かった刑事事件の一つが『山の人生』に述べられているものであった。殺人の男は自首して出たが、子供は無意志なので、殺人罪が成り立ち、十二年の長い刑に処せられたが、獄中品行が正しく、殊勝で、環境も憐れむべきものであり、再犯のおそれもないというので特赦にしてほしいと、柳田は印を捺して申し出た、と語っている。
 新四郎が三年の短い刑期で特赦に会ったことが、柳田のはからいによるものであったことがこれで判明する。」
「『山の人生』の中の男が「眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂ふ」という箇所からは、小屋の入口に晩秋の夕日がカッと照っている光景がまざまざと浮ぶ。この夕日の描写があればこそ、この光景は生きたものとなる。」
「新四郎は柳田の言のごとく獄中では模範囚であり、出獄したあとは篤信の門徒として善光寺参りを欠かさず、念仏三昧(ざんまい)で八十八年の生涯を終えた。」
「「わがこころのよくてころさぬにはあらず。
 また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」
 「歎異抄」の中のこの言葉は、牢獄の男は私たちみんなだ、と言っている。私たちはただ人を殺す業縁(ごうえん)に出会わなかっただけで、「塀」の外にいる身なのだ。石器時代と寸分ちがわない竪穴の山小屋でかつがつ暮し、いっぺんも人をだましたことのない正直者の新四郎に、事もあろうにわが子を殺すという業縁が降りかかった。(中略)柳田はそれを人間の実存にふかく迫る「偉大なる人間苦」の記録と呼び、同情をよせることを惜しまなかった。」
「柳田は「山に埋もれたる人生ある事」の文章を「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい」という書き出しから始めている。しかし彼の想像に反して柳田がそう記した大正末からはるか後まで、その事件は現地で記憶されていた。それによれば柳田が「西美濃の山の中」としたのは奥美濃のまちがいで、季節も秋の末ではなく、春のはじめのことであった。私はこの事件のてんまつが金子貞二著『奥美濃よもやま話 三』の中に「新四郎さ」と題して二篇収録されている事実を、一九七九年に知らされておどろきを禁じ得なかった。「新四郎さ」の話は、(中略)金子信一氏の話を金子貞二氏が書きとめたものである。特赦にあって出獄した後、新四郎は金子信一氏宅に作男として出入りしていた。金子信一氏は新四郎から身上話を昭和初年に打ち明けられていたが、ながく胸中に秘めていた。それを昭和四十五、六年頃、金子貞二氏が聞いて記録し、『奥美濃よもやま話 三』に収めたのであった。新四郎の事件が起きたのは、明治三十七年(一九〇四)四月五日のことであるから、昭和四十五、六年頃まで七十年近く経っていた。新四郎が金子信一氏に打ち明けたという話は『山の人生』の話と、殺人にいたる動機がちがっている。
 新四郎は二人の子供を抱え、妻に先立たれた。そこで明方村寒水にある柿洞(かきぼら)という屋号の家で十歳になる娘を使ってもらうことにした。(中略)その家には分かりのよい主人夫婦の下に十八歳になる惣領息子と二十四歳になる姉女房がいた。新四郎の娘は奉公先の家族からかわいがられたが、数年経った頃から、急に息子の嫁にきらわれるようになる。
 嫁は新四郎の娘が自分の夫を好きになったのではないかと疑い、邪慳(じゃけん)にあたり散らす。ある日娘は嫁の巾着を盗んだという疑いをかけられた。巾着は娘の荷物から発見された。それは嫁が仕組んだものであったが、娘は柿洞の家にいられなくなり、寒水から峠をこえて、山にいる炭焼の父のところにかえっていき、娘に同情した父と、姉の弟が一緒に死ぬことを決心する。
 新四郎が金子信一氏に打ち明けた一家心中にいたる動機は、娘が奉公先で濡れ衣を着せられて解雇され、父にむかって死にたいと洩らしたからである。」
「「新四郎さ」では新四郎は「警察の調べに、オレは、なんにも言うことはないし、こうじゃろう、と言われや、首を縦に振るだけでの」と金子信一氏に答えている。また金子貞二氏は「新四郎は、取調べに対して、一切弁解せず、真意を述べることをはばかり、係官の言うがままに肯定し、その結果が調書に載ったまま」であった。その調書を柳田は読んだのであったと言っている(『郡上』第九冊「「新四郎さ」後日談」)。」

「ところで柳田が花袋の作品の中で最も評価したのは「重右衛門の最後」であった。」
「ところでその作品の筋というのは――
 長野県の上州境にある塩山村の地主の家に生まれた重右衛門は、腸の一部が睾丸に下りている生理的欠陥の持主で、そのために祖父母はふびんに思って寵愛したが、村人からはバカにされた。しかし年頃になって湯田中の遊廓で放蕩の味をおぼえ、一度は嫁を貰ったが、それも束の間、離縁したあとはまた遊興三昧。あげくの果は、抵当にとられた自分の家に火を放(つ)けて投獄され、六年してから出てきたが、賭博でまた一年臭い飯を食うことになった。そのあとは手のつけられない悪行で、村の家ごとにゆすり歩いた。そればかりではない。重右衛門は孤児の娘と同棲していたが、その娘に言いつけて村の家に次から次へと火を放けさせた。思案にあまった村人たちは酒に酔った重右衛門を池に投げこんで溺れ死させてしまう。それが重右衛門という悪漢の最後であった。
 重右衛門の死骸は同棲した娘が背負って引きとっていき、小屋をこわして薪にし、裏山で火葬にした。その翌日、全村をほとんどやきつくした火事が起り、その中に重右衛門と同棲していた娘の焼死体が見つかった。こうして厄介者を始末した村はもとの平穏な生活にかえった。
 という荒筋である。手のつけられない悪漢が放蕩や放火などの果に自滅していく姿を花袋は描いたが、その作品の真意と思われるものを作者の述懐の形で挿入している。
 花袋は重右衛門を自然児として同情をそそいで次のように言う。
 「自然児は到底(たうてい)この濁つた世には容(いれ)られぬのである。生れながらにして自然の形を完全に備へ、自然の心を完全に有せる者は禍なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業(わざ)もなく、徒らに敗績(はいせき)して死んで了(しま)ふのであらうか。」
 「けれど、この自然児! このあはれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要を以て生れ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分との為めに尽して居るのだ! 葬る人も無く、獣のやうに死んで了つても、それでも重右衛門の一生は徒爾(いたづら)ではない!」
 「重右衛門の最期もつまりはこれに帰するのではあるまいか。かれは自分の思ふ儘(まま)、自分の欲する儘、則ち性能の命令通りに一生を渡つて来た。もしかれが、先天的に自我一方の性質を持つて生れて来ず、又先天的にその不具の体格を持つて生れて来なかつたならば、それこそ好く長い間の人生の歴史と習慣とを守り得て、放恣なる自然の発展を人に示さなくつても済むだのであらうが、悲む可(べ)し、かれはこの世に生れながら、この世の歴史習慣と相容(あひい)るる能はざる性格と体とを有(も)つて居た。」
 「重右衛門に対する村人の最後の手段、これとて人間の所謂(いはゆる)不正、不徳、進んでは罪悪と称すべきものの中に加へられぬ心地するは、果して何故だらう。自然……これも村人の心底から露骨にあらはれた自然の発展だからではあるまいか。」」
「花袋は、重右衛門が生理的欠陥のために、自然児としての本能を歪(いび)つな形で暴発せざるを得なくなり、自滅に追い込まれる、という設定をして、逆に人間における自然とは何かという問いを浮彫りにしようとしているが、その狙いは効果をあげている。重右衛門も、その手下の野性的な娘も、また重右衛門の悪行に手こずって、溺死させた村人たちも、大自然からみれば、インノセントな心情の持主であった、と花袋は言いたげである。そう考えると、柳田が「重右衛門の最後」に心を動かされた理由もおのずから理解できる。
 重右衛門は牢獄に二度も入り、出所しても放火してまわるという反社会的な男だから、無罪の――という意味の、インノセントにはまったく当らない。しかし、インノセントのもう一つの意味、無邪気の、天真爛漫の、頑是(がんぜ)ない、お人好しの、という言葉が自然児にあてはまる形容詞とすれば、重右衛門はインノセントである。インノセントであるために、罪を犯すというのは社会生活の上では背反しているが、人間も大自然の一部であるという見方に立てば、矛盾してはいない。そのもっとも適切な例が新四郎一家の悲劇ではなかろうか。彼らは文明社会の手垢のつかないインノセントな人々であった。それだけに文明社会の狡智に太刀打ちする術を知らなかった。重右衛門のように社会に復讐しようとしたところで、自滅の墓穴を掘ることで終った。いずれにしても、文明社会に対する自然児の敗北は必至であった。それは山人や漂泊民の運命にもつながるものである。」

「「大正四年の京都の御大典の時は諸国から出て来た拝観人で、街道も宿屋も一杯になつた。十一月七日の車駕御到着の日などは、雲も無い青空に日がよく照つて、御苑も大通りも旱天から、人を以て埋めてしまつたのに、尚遠く若王子の山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立つて居た。はゝあサンカが話して居るなと思ふやうであつた。勿論彼等はわざとさうするのでは無かつた。」
 これは柳田が大正四年(一九一五)に京都でおこなわれた大嘗祭に奉仕したときの文章である。(中略)彼は宮中のもっとも厳重な儀式に参加しながら、他方ではサンカの煙のあがるのを見落さなかった。(中略)サンカのあげる煙は、一切の意味付けから離れている。もっとも重要な意味をこめた大嘗祭の儀礼からもっとも遠いのがサンカの煙であり、それは無心に秋の青空の中に溶けていく。柳田はさきにあげた文章の末尾に「勿論彼等はわざとするのではなかつた」と記しているが、心にくいこの一行の文章に、いかめしい大嘗祭の意味を無化する存在のあることを仄めかしているのである。」



「第二章」より:

「柳田は『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』と矢継ぎ早やに刊行したが、その三つの書物に共通するものは、それまで他の学問の顧みることのなかった「小さきもの」たちへの共感であった。」
「これらの著作に出てくる山民または山の神や山男・山女の話の背後に、柳田は先住民の子孫としての山人(やまびと)のおぼろげな像をみとめた。そのことは柳田をさらなる主題へと進ませることになった。後来の平地人との角逐にやぶれ、山住みを余儀なくされている残存の山人たちへの共感は、すでに『遠野物語』の序の中にはっきり示されている。柳田は「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と言い放っている。これは自分は断乎として山人に味方するという宣言にほかならなかった。」

「山人への関心は、平地人である日本人とは異質の民族文化への傾斜であり、日本列島の歴史を異質の文化も含めた複合体として把握しようとする視点にほかならなかった。その意図が挫折したあとは山人の対象となるアイヌや蝦夷などの存在も、柳田の目標からはずされ、ふたたび復活することはなかった。」



「第六章」より:

「柳田国男にひきいられる日本民俗学は、稲作慣習の調査には力を尽したが、金属に関わる伝承を研究の対象とするのに熱心ではなかった。したがって、金属伝承の核心を理解することができなかった。稲に魂(アニマ)を見出し、一定の土地に定住し、季節の推移を生活のリズムとしてきた稲作民の対極にあるのが、金属を精錬する人たちであった。金・銀・銅・水銀などの鉱物には、動植物に内在する霊魂(アニマ)を認めることができない。また金属精錬に従事する人たちの生活には、農民、漁民、山民の生活のように、季節をめぐる一定のリズムがない。さらには、彼らは漂泊者の心情を多分にもち、定住性が乏しい、ということなどが考えられる。その数も定住民に比べて遥かに少なく、それゆえに農漁民や山民が大部分を占める社会では例外的な存在と見なされた。こうしたことから彼らは日本民俗学の視野の埒外に置かれてきた。」
「ふりかえってみれば、弥生時代とそれに先行する縄文時代を区分する二つの大きな指標は、稲作の開始と金属器の登場であった。この二つは密接な関係をもっている。鉄製の農具が日本の稲作を飛躍させ、その蓄積のもとに、国家の原始的な萌芽が形成された。(中略)稲作文化と金属器文化は弥生以降の二大支柱として、支配層はいうまでもなく、民間社会の中にも根を下ろしていた。しかし時代を経るにしたがって、日本国家の支配層が稲作に依存する率は絶大となり、金属精錬に従事する人々は、特殊な技術者であるがゆえにかつて神としてあがめられた存在から一転して社会から疎外されて生きることを強いられた。かくて支配階級の作為にとどまらず、日本の常民の意識も徐々に変化し、農民の心情をもって一般の常民の心情とすることが怪しまれもせず通用する時代が訪れた。こうしたことから日本の常民の信仰――それは農民の信仰でもあるが――を信仰一般として取扱ったという点にも問題がある。柳田は祖霊と稲作のむすびつきに固執するあまり、職業が異なるにつれて、それぞれ信奉する神もちがうということを深く配慮することがなく、また金属のもつ呪力にも思いを致すことが足りなかった。かくして柳田の民俗学は稲作文化一元論と言われるような偏向を犯す結果を生んだのである。」



「第八章」より:

「「涕泣史談」では、現代は人間の泣くことが少なくなった時代である。しかし以前はそうではなかった。しかも泣くことはけっして悪徳であるときめつけられなかった、と柳田は言う。」
「『食物と心臓』から一つの例をあげてみると、瞼に生じる腫物をどうしてモノモライと呼ぶか。柳田はあれこれと各地の方言を穿鑿して、モノモライという名前の起りは、この疾病を治す手段として、人の家の物を貰って食べる習慣があったためである、と推断している。つまり、平生食物を共にしない人々と、一緒に何かを食うという行為には、それを通して大きな力を借りるという意味がこめられてあった、と考えるのである。」
「声を出して泣くことも、また他人から食物を貰うことも、すべて他人との交流の手段であって、そうした共同生活を前提として成り立っている社会が昔は存在していた、という事実は、現代の孤立した個人の集合にすぎぬ社会の袋小路を脱出するのに、なにがしかの手がかりを与えるのではなかろうか。」






こちらもご参照ください:

岡谷公二 『柳田国男の青春』
中沢新一 『古代から来た未来人 折口信夫』 (ちくまプリマー新書)
















































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谷川健一 『賎民の異神と芸能』

「これら異端の永久歩行者は、世の落伍者とさげすまれ、賤民とあざけられながら、自らの生涯を通して、庶民信仰や民間芸能を開花させ、保持し、後世に伝えた。その一端は本書においても感得できるものと信じる。」
(谷川健一 『賤民の異神と芸能』 より)



谷川健一 
『賤民の異神と芸能
― 山人(やまびと)・
浮浪人(うかれびと)・
非人』



河出書房新社 
2009年6月20日 初版印刷
2009年6月30日 初版発行
436p 付記1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円(税別)
装幀: 毛利一枝
カバー画: 「山神絵詞」より


「本書は『季刊東北学』第四号(’05・8)~第十七号、及び十九号(’09・5)連載の「民間信仰史研究序説」、『東北学』第十号(’04・4)の「山の神の原像」に大幅加筆したものです。」



図版(モノクロ)75点。
写真図版は小さすぎてよくわからないです。


谷川健一 賤民の異神と芸能 01



帯文:

「谷川民俗学の
到達点

海の民、山の民。国家から
こぼれ落ちた放浪者が
カミと出会い、芸能を生んだ。
信仰と芸能の
起源と展開を追う、
『季刊東北学』好評連載
「民間信仰史研究序説」
ここに完結。」



目次:

序章 永久歩行者

第Ⅰ章 山の原始
 御窟(みむろ)考 三輪山と天皇霊
 山部と二王子逃亡の物語
 役の優婆塞
 山の神の原像

第Ⅱ章 山からの贈り物
 山人(やまびと)と寄生木(やどりぎ)
 海彼の巫医
 山の民と川の民 ワタリ・タイシ・井上鋭夫批判

第Ⅲ章 終りなき漂泊
 山聖と市聖
 白の放浪者 白比丘尼・大白神・白大夫
 巫女と巫娼

第Ⅳ章 四宮(しく)河原の非人と芸能
 海の翁から山の翁へ
 宿と宿神
 摩多羅神 障礙と祝福の地主(じぬし)神
 地神盲僧と平曲琵琶
 逆髪考 地獄の女王

終章 ケガレとキヨメ




谷川健一 賤民の異神と芸能 02



◆本書より◆


「序章」より:

「折口信夫の『日本芸能史ノート』は次の言葉から始まっている。

  日本の国家組織に先立つて芸能者には団体があつた。その歴史をしらべると、日本の奴隷階級の起源・変化・固定のさまがよく訣る。日本には良民と浮浪民とがある。そのうかれ人(引用者注:「うかれ人」に傍点)が芸人なのである。

 これは驚くべき発言である。日本の国家組織がまだ充分に整わない以前に、芸能者の団体がすでにあり、彼らは良民と異なる浮浪人(うかれびと)であった、と折口は云うのである。(中略)良民と賤民とに腑分けされる以前の日本列島社会で、はやくも定住者と漂泊者の二つの異質の流れが存在したことを折口は認めているのである。」
「折口は、歌舞を職業とする「遊行女婦」(うかれ女)や、偶人劇を演じながら漂泊するクグツのほかに「ほかひ人(びと)」(乞食者)を念頭に置いている。彼らが、先住民の落ちこぼれで、生活の基調を異神の信仰に置いたアウトローの団体であることを強調しているのである。」

「終りなき旅の漂泊者たちは、人間を駆り立てるもっとも深い欲望に促され、旅に生き、旅に死んだのではなかったか。」
「彼らは、土地や主従関係に縛りつけられた定住者の小さな安定よりも、襲いかかる寒さと飢え、盗賊と野獣の危険に満ちた旅の苦難のほうを選んだ。流動こそ生であり、停滞こそ死であるという確信を捨てず、昨日も今日も歩きつづける一所不在の漂泊者を、私は畏敬をこめて永久歩行者と呼ぶ。」
「これら異端の永久歩行者は、世の落伍者とさげすまれ、賤民とあざけられながら、自らの生涯を通して、庶民信仰や民間芸能を開花させ、保持し、後世に伝えた。その一端は本書においても感得できるものと信じる。」



「御窟(みむろ)考」より:

「人間と洞窟とのかかわりは、先史時代までさかのぼる。おそいかかる外敵や野獣、耐えがたい寒気から身を守るためには、洞窟を住居とすることがもっとも安全であった。」
「次に洞窟は埋葬の場所でもあった。(中略)出雲の猪目洞窟からは十数体の埋葬人骨が発見されている。猪目洞窟が黄泉の穴と称されたように、洞窟は他界への通路と見なされた。また洞窟をくぐり抜けることで、他界から帰還した魂が再生するという考えが生まれた。出雲の加賀(かか)の潜戸(くけど)は佐太の大神が誕生したという伝承をもつ岩屋であるが、その潜戸の入口に賽(さい)の河原が置かれていて、そこが死から生へのドラマが展開する舞台であることがはっきりする。賽の河原の賽は遮るという意味でヨモツヒラサカに当たる。
 洞窟は葬地であることから一転して信仰の場となる。」
「洞窟は修行僧にも大いに利用された。室戸岬の洞窟が空海修行の場であったことはあまりに有名である。江戸時代に円空が大峰山系の大普賢岳の中腹にある洞窟「笙(しょう)の窟」で冬籠りしたのはたしかであり、円空は「窟聖(いわやひじり)」と呼ばれたほど、各地の洞窟にこもって修行した。それは洞窟が彼を呼びよせたと考えるほかない。」



「役の優婆塞」より:

「『日本書紀』によると、雄略天皇は四年、五年と二度にわたって葛城山に狩猟に出かけている。五年の春二月の狩猟のときは、怒り狂った猪におそわれている。四年の春二月の狩猟のときには、天皇に面貌容儀のよく似た丈の高い人に出会っている。天皇はこの人は神であるとは知っていたが、あえて誰であるかと問うと、丈の高い人は、自分は現人之神(あらひとがみ)である、と答え、また一事(言)主神であると告げた。天皇と一言主神は一緒に狩猟を楽しんだ。さいごに一言主神は来目水(くめかわ)(高取川)まで天皇を見送ったとある。
 『古事記』にも同様の記事が載っているが、内容はやや異っている。雄略帝は葛城山でふしぎな人と出会った。向い側の山をのぼる人がいたが、その人の行列は天皇の行列と全く同じ格好であった。天皇が誰かと問うと、天皇の問いと同じ答えが返ってきた。天皇が怒って矢をつがえると、「自分は悪事(まがごと)も一言(ひとこと)、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神。葛城の一言主の大神ぞ」と言った。天皇は「わが大神が現世に姿を現わされた現人神であるのは恐れ多いことだ」と恐縮し、太刀と弓矢を捨て、百官の人たちの衣服を脱がせて礼拝し献じた。一言主大神はよろこんで贈り物を受けた。天皇が帰るとき、大神は山の稜線をわたって、長谷の山頂から朝倉宮に近いところまで降って天皇を送った、という話である。」
「歴史家はこの説話を政治的に解釈する。すなわち大王家と葛城氏との政治勢力が大和盆地の東西で拮抗していた時代の話とする説がある。それに対して、雄略の頃はすでに関東から九州まで大王の支配下にあったのだからそのような説は成り立たないとする反論がある。つまり一言主神を葛城氏という政治勢力のシンボルと捉えているのである。
 しかし私は全く違う見方をしている。一言主神は、雄略帝にかぎって姿を現わした現人神であったのだから、ふだんは姿を見ることはできず、託宣(声)だけを聞くことのできる幽界の神であった。古代人にとって現世と他界は合せ鏡に映すごとく全く相似の世界であった。一言主神が雄略帝に見せたものは、大王の行列や面貌容儀と寸分も違わない他界の光景であった。そこで現世の大王も常世の神には着物を脱ぎ、畏敬の念をもって礼拝し献るほか術はなかった。このことは何を意味するか。他界(常世)と現世とは相似形であるがゆえに、等価であった。現人神である常世の神は、現世の帝王と同等もしくは優位に立ち、すくなくとも劣った存在ではない。そのことを雄略帝はとっさに理解したと思われる。」



「山の神の原像」より:

「蝮や狼は人間に畏怖を与える「可畏きもの」であった。」
「日本列島に水田耕作が開始され、それが主要な農作となっていく過程で、人間の力が自然力に卓越していく様子が、『常陸国風土記』の行方(なめかた)郡の条にうかがわれる。
 芦原を開拓し、水田を新しくきずいた麻多智(またち)の計画を、夜刀(やつ)(谷)の神の蛇が妨害した。麻多智は怒って、山の入口のところに境界の印の杖を立て、これから上の山の部分は蛇神にまかせるが、その下は人が田を作る土地とすると宣言し、それを恨んで祟ることがないようにと念を押した、という話が載っている。
 住み分けを強制された蛇に、かつての「可畏きもの」としての面影はない。やがて蛇や狼や猪は「山の神」の眷属または配下の地位に甘んずることを余儀なくされる。
 しかし私共はこれらの動物を、海の生物との関係を通すことで、もう一度見直し、原初の姿にかえさねばならない。」
「南方熊楠(みなかたくまぐす)によると、紀州の山奥では狼を忌詞(いみことば)で山の神と呼んだ。平凡社版『南方熊楠全集(第二巻)』の口絵に「山神(やまのかみ)絵詞」が掲げられている。この絵を見ると、狼の姿をした山の神が、鹿や猪や兎などの動物をしたがえて上座に坐っており、狼のとなりにオコゼが十二単衣の宮女のような格好で坐っている。」
「千葉徳爾は山の神がオコゼを好むのは(中略)、オコゼを仲立ちに山の神と海の女神が婚姻したことをあらわしたものだとする(『続狩猟伝承』)。」
「大林太良は『太平記』(巻第三十九)に「我滄海(そうかい)の鱗(うろくづ)に交(まじ)りて、是を利せん為に、久しく海底に住み侍(はべ)りぬる間、此貌(このかたち)に成(な)りて候也」とあるところから海底から現れ出た磯良(いそら)の奇怪な姿は、魚類の主の姿だったのである、といっている(『東と西 海と山』)。
 折口信夫は「此(これ)は人ではなく、海の中に住む神―精霊―であった」(『上世日本の文学』)と述べている。
 「磯良」は古代海人族の阿曇氏の先祖と称せられているもので、『八幡愚童訓』には、ながく海中に住んでいたので、磯良の顔に牡蠣やヒシ、藻が取り付いて見苦しい姿であった、とある。
 僧袋中(たいちゅう)の『琉球神道記』には、鹿島(かしま)明神はもと武甕槌(たけみかつち)命であるが、人面蛇身であり、海底にいて一睡十日という具合だったので、顔に牡蠣が付着していたとされ、磯にいたので磯良という、とある。武甕槌命の槌はツツ(ツチ)で、蛇をあらわしている。
 藪田嘉一郎は磯良は「鮫人(こうじん)の姿を、文字通り竜蛇か鰐(わに)か鮫(さめ)に似たものと解して空想したのではなかろうか」と言っている。とすれば、海蛇がもっともふさわしいが、磯良の醜い顔つきから自然に連想されるのはオコゼであろう。このオコゼを阿曇磯良(あずみいそら)のイメージの原形であると考えると、オコゼは魚の主もしくは海の神そのものである。つまり山の神とオコゼの関係は山の神と海の神の婚姻をあらわすが、千葉がいうようにオコゼは仲立ちの役ではなく、むしろ当事者の海の神ということになる。」
「『日本書紀』の「欽明天皇即位前紀」には、秦大津父(はたのおおつち)が狼を「汝(いまし)は是貴(かしこ)き神にして、麁(あら)き行(わざ)を楽(この)む」といった話が記されている。かしこき神とは邪悪と怜悧さを兼ね備えており、そのために人間から畏怖される神という意である。『日本書紀』でかしこき神と呼ばれた動物は、狼のほかには蛇と虎しかいない。とくに狼の怜悧さはきわ立っていた。そこで狼は山の神としてあがめられる一方、「大口(おおくち)の真神(まかみ)」と畏怖された。」
「私は一九五〇年代の半ば、はじめて遠野を訪ねたとき、土地の古老から「昔は、狼がこわいから、夕方になると早く雨戸を閉めたものだ」という話を聞いたことがある。その時、私の眼には夕暮の迫る静まりかえった遠野の風景が浮びあがった。」
「私はこの小論で「山の神」の古形をもっとも単純で原初的なかたちに還元してみた。」



「山聖と市聖」より:

「平安京の風葬地としては北の蓮台野、東の鳥辺野と共に、西の化野(あだしの)が有名であった。アダシノのアダには「別の」「異なる」「他の」という意味がある。これにしたがえば、アダシノは他界、異界ということになる。また徒花(あだばな)というように「はかない」「むなしい」という意味をもっていて、死者の世界にふさわしい。化野の北西にそびえる愛宕(あたご)山も、もと風葬地であったことは『宇治拾遺物語』に、あるヒジリが愛宕の山で、大石を四隅に置き、その上に亡母の柩(ひつぎ)を置いて、三年間、陀羅尼を誦(じゅ)したという話が載っているのでも分かる。」


「白の放浪者」より:

「伝説的無限放浪者としてまず第一に挙げられるのは、若狭の八百比丘尼である。八百比丘尼は白比丘尼とも呼ばれているが、これにまつわる伝説として、木崎正敏の『拾椎(しゅうすい)雑話』(宝暦七年)は次のような奇怪な話を載せている。「昔、勢(せい)村(現小浜市)に高橋長者という富豪がいた。時々、小浜(おばま)の金持連中と一緒に集まることがあったが、その中に海辺の者が一人まじっていた。この海辺の者は、皆を招待したいと申し出、約束の日に迎えの舟を出してくれた。皆がその舟に乗ると、舟は水の中を潜(くぐ)りながら進んでほどなく目的地に着いた。招かれた客たちが主人に案内されたのは、すばらしい家であった。しかし、客人たちが、家の台所をそっとのぞいてみると、おどろいたことに『小女』をまないたにのせて料理をしていた。その様子を怪しんでいると、主人は炙物(あぶりもの)を出した。招待客は誰も炙物に箸をつけなかった。別れ際に主人が云うには、今日の一番の御馳走をどなたも食べていただけなくて残念です、と土産に炙物をもたせた。さて皆がまた舟に乗ると、水中を潜って、もと来た場所に着いた。高橋長者の家では、帰りがけに土産に貰った炙物を、長者の娘がこっそり食べてしまった。そのお蔭で、娘は数百年たっても一向に年を取ることがなかった。八百比丘尼というのは、その娘のことである。さきに海辺の者といったのは、実は竜宮の人で、炙物は人魚であった」とあり、この話は、勢村(せいむら)の古老たちが世々申し伝えてきたものであると述べている。
 この話の中の「小女」というのは、人魚が小女に見えたのである。人魚はジュゴンのことで、若狭には江戸時代に大飯(おおい郡の音海(おとみ)の海岸に、人面魚体の怪物が漂着したという記録があることから、南海産のジュゴンが黒潮に乗って、まぎれこんで流れ着いたことがあったのはたしかである。」

「八百比丘尼がいつ迄も年を取らない若々しさを誇示するのを考えると、白には若返りとか、不老長寿の意味がふくまれていると思われる。奥三河の花祭では、白山(しらやま)という仮小屋をこしらえて、死装束した人びとが籠る。夜明けに鬼が白山を壊すと、中の人びとが飛出す。これがウマレキヨマルですなわち擬死再生の儀礼である。それを白山の「白」があらわしているのである。
 沖縄ではシラは産とか誕生を意味する語である。産室をシラヤー、産婦をシラビトと云う。奄美でおこなわれる成巫式は、新しく巫女になる女性が、泉の水を浴びる儀礼であるが、これをシロミズアミ(白水浴)と呼んでいる。」



「宿と宿神」より:

「シュクの神が単なる邑落の境の神ではなく、被差別部落の人々に祀られた神であることは明白である。」
「明治四年十二月の、被差別部落の祭神に関する高知県から神祇省への伺書によると、穢多村には必ず「シュクジノ神」の祠があるとのことである。土佐国だけでなく、伊予の宇和郡でも多くの被差別部落でシュク神が祀られている。」
「乞食、癩者、非人、屠者などの集まる被差別部落に宿神が祀られるのは、西日本に多く見られるが、その理由は柳田のシュク=地境説だけでは解決がつかないことは明らかである。これら宿神は、神社明細帳にも記載されていない小祠であり、個々のシュク部落独特の祭神である。」
「蟬丸が琵琶を弾いた四宮(しく)河原(山科郷四宮河原)は、ほかならぬ浮浪人などの寄り集まる場所であった。蟬丸が延喜帝の第四の宮であったから、この逢阪の関のあたりを四宮河原と云うと『源平盛衰記』にあるが、それはもとより付会の説であり、四宮はシュクに由来するというのが本筋である。京都の糺(ただす)河原や四条河原がそうであるように、河原は勧進田楽や猿楽などの芸能興行のおこなわれる場所でもあった。」
「伊勢には諸国を巡ってあるく太神楽(だいかぐら)なるものがあった。彼らは村々に入るとまず楽を奏し、家々に札を配り、また獅子の面をかぶって、刀剣をひらめかせ、お祓いをおこなう。その後で町や村の広場で余興を演ずるが、それには猿楽を演じたり、剣を呑むとか、球を投げるとか、獅子舞をしたりする。これらは剣手神妙と褒められた呪師の技を伝えたものであり、祓除(ふつじょ)をおこなうのは、呪師の本領であった。」

「『風姿花伝』も『明宿集』も秦河勝の霊が近隣の諸人に憑いて祟り荒れたので大荒神と称せられたと述べている。これは河勝が不遇の晩年を送り、失意のまま世を去ったため、その死後世人に禍をもたらしたことを意味するのではないかと私は考えている。「化人跡を留めぬ」とか「世ヲ背キ」という言葉には、世間から容れられずに隠遁したことが背景として存在する。」
「秦河勝を祀るといわれている大酒(大避)神社は広隆寺の守護神の役割をもっており、実は地主神にほかならなかった。地主神は敬意を払われないときは障礙神(しょうがいしん)として妨碍(ぼうがい)するおそろしい神であった。この場合秦河勝は宿神であり、大避神社の地主神としての摩多羅神と一体化した「大荒神」であったと考えることができる。シュク神は在来の土地の神として荒神の側面を備えている。荒神は外来の悪霊の侵入を防ぐと共に、自分の占める土地を主張し、自分を恭敬しないものに対しては敵対者、すなわち障礙神としてふるまう。摩多羅神は芸能神としての宿神であり、また荒神としての宿神であったと思われるのである。
 柳田は『石神問答』の中で、「社寺の境内に荒神を祀るは地主神の思想に基くものなること疑なしと存じ候。(中略)荒神の字義は単に荒野の神と云ふことかとも存じ候へども、やはり『荒ぶる神』と云ふ古称に基くものと再考致し候、(中略)思ふに此島先住民の頭目にして帰順和熟する者は即ち国つ神(地祇)と称せられ、新住民に抵抗する者は即ち之を荒神と云ひしなるべく、之に向つて地を乞ふ者は常に地主を恭敬せざる能はざりし次第と存じ候」と荒神の本質を衝く発言をしている。
 播磨の坂越にある大避神社は太秦の大酒神社を勧請したもので、その祭日は、広隆寺の牛祭の日と合致していることから推して、この日が秦氏の祖神としての摩多羅神の祭日であったと思われる、と服部幸雄は述べている(「宿神論」)。
 そうだとすれば、『風姿花伝』や『明宿集』に、播磨で不遇の死をとげた秦河勝の霊が見境なく人に取り憑いて大いに荒れたとあるのも、障礙神としての摩多羅神の仕業かも知れない。」



「摩多羅神」より:

「摩多羅神の正体は明らかではない。本田安次は『神楽』の中で出雲の鰐淵寺(がくえんじ)について「天台の寺であるだけに、常行堂に摩多羅神をまつっているが、その信仰は今も固く、常行堂は常の日も、調査団から希望が出ても、扉を開けることもしない。摩多羅神の名を口にのぼすことさえも恐れられていたようである」と云っている。このように摩多羅神が恐れられるのは、それが障礙神の一面をもつからである。障礙というのは、人に幸福を与えるのではなく、障りや災いをもたらす神ということである。」
「東寺講堂の裏に今も残る夜叉堂も摩多羅神が祀(まつ)られていたとされる。この神が一面において忿怒(ふんぬ)神、夜叉神、行疫神として怖れられる存在であったということは、強力な霊の発現を生じるからである。
 毛越寺(もうつうじ)の摩多羅神祭(常行三昧御本地供)では、神前に進んで摩多羅神に祝詞(のりと)を奏上したあと、極秘の足踏みがおこなわれる。これは反閇(へんばい)で、摩多羅神の顕現を仰ぎ、神威の発動をうながし、魔縁の邪鬼悪鬼を踏みつけるためにおこなう。
 菅江真澄は天明八年(一七八八)正月二十日、(中略)毛越寺の常行堂で摩多羅神の祭を見にいっている。摩多羅神の御堂には、阿弥陀如来のうしろにそっとこの神を祀っていた、と述べているが、魔多羅神を実際に見たかどうかは分からない。常行三昧をおこなった後、そのあと、田楽など舞があった。また「黒き仮面かけて、うら若き衆徒が出て、あらぬふりして、うち戯れ」たが、そのさまは猿楽の狂言のようであったとも述べている。
 常行堂の扉の開閉は「神秘あり」とされて、最長老の僧以外はこれをつとめることができないことになっていた。摩多羅神の神像については、昔から秘して拝見をゆるさず、三十三年目ごとの御開帳のときすら、身代りを出して、その姿は秘されていた、とされていた(服部幸雄「宿神論」)。」
「文保年間(一三一七~一九)に比叡山の口伝や記録を蒐集した『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』には「常行堂摩多羅神の事」という一項がある。それには次のことが記載されている。
 唐で引声念仏を学んだ慈覚大師(円仁)が船で帰朝するとき、船中において虚空に声があり、自分の名は摩多羅神で、障礙神である。私を崇敬しない者は、往生したいという日頃の志を遂げることはできない、と云われたという。
 摩多羅神とは摩訶迦羅天(大黒天)のことである。また吒枳尼(だきに)天でもある。この神は人が臨終のとき、その肝臓を食うのである。そうすると人は臨終に正念を得て往生を遂げるが、もし吒枳尼天あるいは摩訶迦羅天が人の肝臓を食わないと、人は正念を得ず往生を遂げることができないとされている。
 比叡山の摩多羅神と同類とされる大黒天も吒枳尼天も人の精気を奪って死にいたらしめる「奪精鬼(だっしょうき)」とされている。とはいえ、これらの神は障礙神としての否定的な機能を発揮することがあっても、その神通力のゆえに、転じて福神に変わるという道筋をたどる。この不思議な逆転の役まわりを演ずるのは、魔多羅神も同様である。障礙神のもつ負のエネルギーを利用して、修行を妨げる天魔や天狗などを除去する立場に転換する。つまり、魔多羅神は、自分に不敬があれば人間の往生を障礙する神であるが、一方では往生を引導するという両面をもつ神である。それでは摩多羅神の障礙神から福神への変貌はどのような契機でおこなわれるかを見ることにする。」
「この摩多羅神は天台寺(慈覚寺)の寺院の常行堂の後戸に、仏法の守護神として祀られた。摩多羅神を祭るのは修正会の行事の中でおこなわれた。毛越寺(もうつうじ)は正月二十日、多武峰では正月五日、伊豆山権現でも同じく正月五日ときまっていた。日光山輪王寺では正月一日から七日間であった。輪王寺では三日目と五日目の初夜を「顕夜(けんや)」と呼び、摩多羅神を迎え、狂宴がくりひろげられた。中世の猿楽芸能民に関係のふかい摩多羅神であり、宿神でもあった。その宿神は翁となって示現した。」
「これをみれば、酒をくらい、意味不明の猥褻(わいせつ)な言葉を吐き散らし、後戸で跳ね踊って乱舞し、見境もない狂態を演じ、あたかも天狗が憑(つ)いたかのような格好をすることの狙いが明らかになる。そうすることで日頃は幽暗な秘処に祀られている摩多羅神の目をさまさせ、引き摺り出し、悪霊=天狗を怖(おど)す(=慴伏(しょうふく)させる)ことを狙ったものなのである。摩多羅神自身が障礙神であり、荒神であるのだから、摩多羅神は大天狗にほかならぬ。」
「つまり、夷を以って夷を制することで、障礙神の摩多羅神を福神へと転ずる契機をつかんだのである。」

「しかし摩多羅神は「荒神」と云って済ますには芸能の世界に深く入りこんでいることに特徴がある。そのとき、摩多羅神が手にもって打つ「あやかしの鼓」はどのような音色を発するのだろうか。それを知る術(すべ)はもはやない。」







こちらもご参照ください:

川村湊 『闇の摩多羅神 ― 変幻する異神の謎を追う』
山本ひろ子 『異神 ― 中世日本の秘教的世界』
中沢新一 『精霊の王』
兵藤裕己 『琵琶法師 ― 〈異界〉を語る人びと』 (岩波新書)
守屋毅 『中世芸能の幻像』
早川孝太郎 『花祭』 (講談社学術文庫)

















































谷川健一 『出雲の神々』 (カラー新書 セレクション)

「出雲の神々は征服者や加害者ではない。覇者の面影をもたない。出雲の風土としっくり合った魂が、そのまま人格神となったと考えられる。しかも出雲の神々の住居は、ひとつひとつがきわ立った個性をそなえている。」
(谷川健一 『出雲の神々』 より)


谷川健一
『出雲の神々』
写真: 石元泰博

カラー新書 セレクション


平凡社 
1978年3月8日 初版第1刷発行
1997年11月20日 新装版第1刷発行
144p(うちカラー64p)
新書判 並装 カバー
定価940円(税別)
カバー表紙デザイン: 上田敬



平凡社カラー新書の旧版は文字ページに変色しやすい用紙を使っていたので今では茶色っぽくなっていますが、新装(セレクション)版はコート紙なので今でも白っぽくてよみやすいです。



谷川健一 出雲の神々 01



カバー文:

「●古代の旅
縁結びの神として有名な出雲大社を中心に、出雲地方に今も残る神社。美保神社、佐太神社、熊野大社など。そしてそれらの神社には青柴垣神事、諸手船神事など、独特の神事が伝わっている。オオクニヌシ・スサノオが活躍した“記紀の世界”への旅。」



目次:

八雲立つ出雲 八十氏神のふるさと
 風土と神
  国引きの構図
青柴垣に隠れた神 事代主神
 美保神社の神事
  青柴垣神事
 美保神社の祭祀組織
  諸手船神事
光り輝く神 佐太大神
 佐太神社の神在祭
  佐太大神の誕生
 島根半島の浦々
  一畑寺と松尾神社
天の下造らしし神 大国主神
 出雲大社の雄姿
  杵築平野と意宇平野
 熊野大社の鑚火祭
  出雲国造神賀詞
 神魂神社と八重垣神社
  神社と祭神
荒らぶる神 須佐之男命
 スサノオと砂鉄
  目一つの鬼
 神々のやさしさ




谷川健一 出雲の神々 02



◆本書より◆


「青柴垣に隠れた神 事代主神」より:

「古事記によると、次の話が伝わっている。アマテラスとタカギの命令を受けて、タケミカヅチが国ゆずりの交渉に出雲にやってきた。それに対してオオクニヌシは即答を避け、自分の子のコトシロヌシに判断を一任した。コトシロヌシはちょうど美保(古事記では御大(みお))の崎にいっており、そこで鳥を狩ったり、魚を取ったりしている最中であったが、出雲の国をアマテラスの子孫に差出す決心をした。そして「天(あま)の逆手(さかて)」をもって、自分の乗っている船を青柴垣に変貌させ、その中に姿をかくしてしまった、とある。
 ここにいう「天の逆手」とは何か。本居宣長は『古事記伝』の中で、左右の手のひらを外側にむけ、また逆さまに打ちあわせる呪術であって、その呪術の力で船を青柴垣に変えたと説明している。そしてこのことは、コトシロヌシが海の底に入ってながく隠れたことを意味するとも述べている。というのは要するにコトシロヌシが水死したということである。では青柴垣は何の比喩であろうか。沖縄ではむかし人が死ぬと、青木の枝葉を折りとってその死体の上にかぶせたという。つまりそれは日本の古代でいう殯(もがり)に相当するものだった。こうしてみると、青柴垣の神事は、コトシロヌシの入水の故事を後代に儀礼化し、模倣したことになる。
 このことはたんなる伝承と受けとるべきであろうか。それとも古代には水のほとりの葬礼のあったことを物語るものであろうか。それをつきとめる術はもはやない。だが、江戸時代に書かれた『懐橘談(かいきつだん)』という書物に、大昔、出雲国造が死ぬと、現在の出雲市の東南にある菱根(ひしね)の池に、国造の死体を赤い牛にむすびつけて、沈めたと記されている。」
「表向きはともかく、地元の古老の間では青柴垣の神事は、船中において殯(もがり)を象徴しておこなわれるものと、信じられ伝承されてきている。とすれば、コトシロヌシの水葬儀礼を年ごとに模倣するこの神事は、ふしぎな祭のひとつにかぞえてよいであろう。神の死が人間の祝祭になるためには、海坂(うなさか)すなわち、水平線の彼方にたいするあこがれが前提とならずには叶うまい。今は美保神社の祭神は、土地の漁師や船乗りには、豊漁をもたらすえびす神として信奉されている。えびす神をまつる漁村は多いが、漁師にとっては、水死人もまたえびす神でめでたいものとされる。
 オオクニヌシの国土経営の協力者であるスクナヒコナは、オオクニヌシが美保の岬にいたとき、波の穂に乗って海の彼方から寄りくる神であった。そうして国造りが終ると、また常世(とこよ)国にかえってしまった、と古事記は伝える。コトシロヌシの死には常世神であるスクナヒコナに見るように、古代人の常世への憧憬が影を落としている。」



「光り輝く神 佐太大神」より:

「加賀の潜戸を西へたどる。目指す猪目(いのめ)洞穴への道は、島根半島のなかでもとりわけ人気(ひとけ)ない海ぞいの断崖をとおっていく。」
「出雲国風土記に「磯(いそ)の西のほうに岩穴がある。この洞窟のなかには人の出入りはできない。どの位の深さがあるかも知られていない。この磯の岩穴のあたりにいった、と夢に見るとその人はかならず死ぬ。それで世人は昔からここを黄泉(よみ)の坂といい、また岩穴を黄泉の穴と名付けている」とある。(中略)風土記はこのあたりは、脳磯(なづきのいそ)と呼ぶと記しているが、脳髄がむき出しになったように、でこぼこした海岸の風景だから、そういうのであろうという説がある。たしかなことはもとより、分からないが、脳磯という言葉はどこかぶきみだ。それはさきほどの夢の話があるからだろうか。
 洞穴は高さ十二メートル、幅三十六メートルの右を斜辺とした直角三角形で、奥へしだいに小さくなって三十七メートルにもおよぶ。(中略)一九四八年にこの奥から、縄文、弥生、古墳期の遺物と共に、人骨十数体が出土し、黄泉の穴がたんなる伝承の場所ではなかったことが判明した。母の胎から出たものは母の胎にかえるということから、沖縄では、墓は女陰をかたどったものとされている。」
「この黄泉への通い路はどこにつづくのだろうか。古代人が信じたように、私たちもまた信ずるとすれば、それは海の彼方の国につうじるのである。古代人は太陽は海ぎわの東の洞穴から出て、やはり海ぎわにある西の洞穴に沈むと考えていた。沖縄本島の斎場御嶽(さいばうたき)は太陽の生まれる洞穴とされているが、やはり母の胎に似て直角三角形だ。太陽神の子である佐太大神も海岸の洞穴で誕生した。そしてコトシロヌシが青柴垣の船にのって海のむこうへ身をかくしたように、この黄泉の穴も水平線の彼方の常世にたいする出雲びとの関心を物語っている。」

「いずれにしても出雲の国には、黄泉の坂、黄泉の穴、夜見島、闇見の国、伊賦夜神社という風に死者の国を思わせる場所が多い。これは他国の風土記に見られない特色だ。そこで大和から見ると、出雲は暗い、影の国と見なされた。(中略)出雲が根の国とみなされたのは、西北の方角は死者の魂があつまるところという古代人の考えによって、いっそう拍車をかけられたにちがいない。」



「神魂神社と八重垣神社」より:

「このように神話にからむ地名や神社名や伝承で、出雲と紀伊とは奇妙な一致を見せている。これは偶然ともおもわれないから、この事実が何を物語るかについて、さまざまな憶測がなされてきた。出雲の勢力が南下して紀伊に到ったとか、あるいはまたその逆だとか。しかし、決め手は見つからない。いずれにしても、出雲と紀伊が常世にもっとも近い国あと思われていたことはたしかだ。だからこそ、イザナミの黄泉国、スサノオの根の国の話が、出雲と紀伊を舞台にえらんで展開した、と見るのがもっとも妥当である。」


「荒らぶる神 須佐之男命」より:

「スサノオは高天原を追放され、出雲国の肥の河上の鳥髪(とりがみ)という地に降ったと古事記は伝える。日本書紀の一書は、スサノオは長雨の降るなかをミノカサ姿でさまよいあるいたが、どこの家でも泊めてくれるところはなかったと、その辛苦難渋のさまをややくわしく描いている。」
「スサノオという名前については古来幾多の解釈がなされている。(中略)スサノオのスサは荒れすさぶ男という意味をこめていると解する宣長などの説がある。これに対して水野祐氏はスサは朝鮮語で巫、つまりシャーマンをあらわすススングに由来するという説を立てている。(中略)つまり、スサノオは朝鮮半島方面から渡来した新羅系の外来神であり、飯石郡須佐がその神の出雲における本貫地であった。そこを中心にして、この神を祖神とする集団のいきおいが大原郡や神門郡に及び、一部は意宇郡や島根郡にも及んだというのである。(中略)もし砂鉄を原料にたたら炉で製鉄をおこなう技術者がきたとすればそれは朝鮮半島からにきまっている。朝鮮から出雲へは海流を利用すればたやすく航海ができる。したがってスサノオのヤマタノオロチ退治の物語は、朝鮮渡来の技術者が砂鉄にめぐまれた鳥上山のふもとで鉄穴流しの方法で砂鉄をとり、それをもって鉄をきたえた説と考えるのがもっともつじつまがあう。」
「鍛冶屋が呪力をもつとして恐れられた例証は日本の各地に見出される。スサノオの名がススング(巫)に由来するならば、偉大な破壊力と建設力を同時にそなえた神の一面を示すことになるだろう。スサノオが木の葉を頭に刺しておどったという出雲国風土記のエピソードもそのようにして理解されるだろう。
 しかしまえにもことわったようにスサノオの性格はふくざつで、一筋縄ではいかない。スサノオの犯した罪は古代法の主題をふくむ。それに霖雨のときに忌みごもる農民のタブーや、罪人としての追放刑に処せられたものが他所で救い主として迎えられるという伝承のパターンもみられる。災いとなるものを根の国に追いはらうというのは今日でも南島民の習俗にのこっている。スサノオの人格は朝鮮渡来の鉄の神と規定するだけでは不充分な複合体を形成している。」






こちらもご参照ください:

谷川健一 著/渡辺良正 写真 『民俗の神』 (淡交選書)
松前健 『出雲神話』 (講談社現代新書)
岡谷公二 『伊勢と出雲』 (平凡社新書)
























谷川健一 『渚の思想』

「いつしか私の心のうちに、どこか先島の離島の人気のない渚で、生き倒れのような格好で死にたいという願望がひそかに芽生えてくるのを感じるようになった。」
(谷川健一 『渚の思想』 「あとがき」 より)


谷川健一 
『渚の思想』


晶文社
2004年12月5日 初版
227p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,100円+税
ブックデザイン: 三村淳
カバー写真: 新城(アラグスク)
撮影: 戸澤裕司



本文中図版(モノクロ)33点。
本書はもっていなかったので日本の古本屋サイトで1,000円で売られていたのを注文しておいたのが届いたので(4,000円以上購入で送料無料)よんでみました。が、たいへんデジャヴ感があったのでよくみると、既刊単行本から「渚」にまつわる文章を選んで加筆・修正し(タイトルも変更されています)、若干の書き下ろしや単行本未収録エッセイ、自作短歌を挿入しつつ再構成した本でした。
しかしそれはそれでよいです。カバーの渚写真がよいです。


谷川健一 渚の思想


帯文:

「日本列島から
渚が失われようとしている。
人の魂も危機をむかえる。
現世と他界をつなぐ接点、渚。
海をめぐる民俗学の深みから、
人間の自然を取り戻す力を求めて。」



帯裏:

「どこか
ひとけのない渚で
行き倒れのように
死にたいと、
ひそかに
願うようになった。
谷川健一」




カバーそで文:

「海岸はコンクリートでふさがれ、いまや渚が失われようとしている。もう一度、渚の風景を思い出して、海が育んできた人々のたましいの行く末に思いを馳せる時がきている。
          *
人は渚に立つと、自分のなかの自然を感じる。犬は走り、子は笑い、恋人は腕を組み、老人は来し方をふりかえる。海の呼ぶ声が聞こえ、思わず歩き出してしまう。そんな感覚をたどり、日本人の意識の根元にある「常世(とこよ)」を考える。
常世は死者の国であると同時に、日本列島に黒潮に乗ってやってきた祖先たちの記憶である。渚は常世と現世の接点にある。
海をめぐる独自の民俗学を積み上げてきた著者の、原点にして到達点を伝える。」



目次:

序 民俗学から見た人と渚とのかかわり
第一章 渚の思想
 海の呼ぶ声 (『海の夫人』)
 この世の渚 常世の渚 (『常世論』)
 タマスという言葉 (『海神の贈物』)
 青の島とシラサの浜 (『青と白の幻想』)
 クス (『常世論』)
 タチバナ (『常世論』)
第二章 渚に寄りくるもの
 黒潮と風のローマンス (『黒潮の民俗学』)
 椰子の実 (『黒潮の民俗学』)
 ハリセンボン (『黒潮の民俗学』)
 セグロウミヘビ (『黒潮の民俗学』)
 スクの来る日 (『海と列島文化 6 琉球弧の世界』)
 イルカ狩 (『海と列島文化 6 琉球弧の世界』)
 津波を呼ぶ海霊ジュゴン (『神・人間・動物』)
 沖魂石に依りくる神 (『海と列島文化 別巻 漂流と漂着』
第三章 渚の風景
 ヨリアゲの浜 (『海と列島文化 6 琉球弧の世界』)
 魚垣 (『海と列島文化 6 琉球弧の世界』)
 干瀬とイノーの間 (『海と列島文化 6 琉球弧の世界』)
 南島の自然暦 (『海と列島文化 6 琉球弧の世界』)
 サシバの渡り
 孤島苦――水納島
 島ちやび――与那国島 (『沖縄・辺境の時間と空間』)
 八重干瀬にて (『黒潮の民俗学』)
 大神島の老女 (『女の風土記』)
 渚の産小屋 (『青と白の幻想』)
 三井楽とみみらくの島 (『黒潮の民俗学』)
 枚聞の杜 (『海の夫人』)
 海荒れ
 月夜の幸福
第四章 水の女にちなんで
 阿波・淡路の水の信仰――「水の女」にふれて (「民俗文化」第五号 1993年 近畿大学民俗学研究所)

あとがき
初出一覧




◆本書より◆


「民俗学から見た人と渚とのかかわり」より:

「神と人間と自然という場合の人間とはいったい何か。人間は他の動物とほとんど共通した性格をもっていますが、ただ一点違うのは、人間は他界=死後の世界を考える動物である。民俗学的に人間をそう定義することができると思います。古代の日本人は、海の向こうに死者の行く島があると考えました。これは現実の島ではなく海上他界といって共同幻想の島で、それを「常世(とこよ)」と呼びます。(中略)海の向こうに死者の魂の行く世界があるとなると、渚はいったいどういう意味をもつか。それは、現世と他界との中心線なのです。
 漁村ではほとんど海岸に墓地が設けられています。それは海の向こうに死者の魂が行く場所であるからです。」



「沖魂石(おきたまいし)に依(よ)りくる神」より:

「私は宮古島のある漁師の家の床の間に丸い海石が飾ってあるのを見たことがある。その石は海に浮かんでいて、猟師の網にかかったのだという。彼はこの奇瑞(きずい)をあらわした石が竜宮から運ばれてきた霊石であると信じていた。」


「海荒れ」より:

「沖縄では、海岸近くの海底に生えたアマモと呼ばれる海藻を食べにザン(ジュゴン)が寄ってくることもあった。ザンは海霊でシケを起こす能力があると信じられた。そこで漁師たちはザンを捕らえると浜で料理して食べた。家にもちかえって食べたら、その家の主婦が死ぬか、家族の者がシケの海で不慮の災難に遇うとみなされた。人びとは海荒れのなかに海霊の怒りをみたのである。」
「海荒れを海の彼方から到来するものの予兆と受けとる慣習は本土にもあった。毎年陰暦十月になると、出雲の明るい海は急に暗くなる。そしてアナジと呼ぶ北西の風が烈しく吹きつのり、海面は荒れて泡立つ。このような天候の急変を、出雲の人たちは「お忌み荒れ」といいならわしてきた。出雲大社や佐太神社の神在祭(かみありまつり)は「お忌み祭」ともよばれているが、そのわけは祭りの忌みの期間と符合するように、海がシケるからである。
 「お忌み荒れでございますね。竜蛇(りゅうじゃ)さんがあがりましたか」
といった会話が挨拶がわりに取り交わされるのもその頃のことである。出雲大社では南方産のセグロウミヘビが北西の季節風によって稲佐(いなさ)浜にうちあげられるのを捕らえて、それを三方(さんぽう)に載せ、神殿に供えてはじめて神在祭がおこなわれる。セグロウミヘビは海の彼方から到来する竜蛇神であり、冬のしるしを告げる出雲地方の海荒れは、竜蛇神の出現にむしろふさわしい雰囲気をもっていた。
 秋田の男鹿(おが)半島付近では、晩秋、みぞれが降りはじめ、雷鳴をともなって海が荒れる頃、ハタハタ漁をおこなう。雷をハタハタというが、雷が鳴ると、とれはじめる魚だから、ハタハタと呼ぶといわれている。(中略)雷が鳴るシケの海にハタハタの大漁を求めて、漁師たちは出漁する。このように、海荒れは人びとの心に畏敬と期待の感情の波を起こさせてきた。
 ここで思い出すのは、『日本書紀』に、豊玉(とよたま)姫が自分の身ごもっていることを彦火火出見(ひこほほでみ)尊に告げ、間もなく子どもが生まれそうだから、自分のために渚に産屋を造って待っていてほしい、「妾、かならず風濤(かざなみ)急峻(はや)からむ日を以て、海辺に出で到らむ」と言う。この風波の烈しい海荒れの日にかならずやってくるという言葉に、私は心の波立ちをおぼえずにはすまない。」



「月夜の幸福」より:

「奄美大島では戦前までは、子どもが夜おそくなっても帰らないとき、家の年寄りたちは「夜がとる」といってひどく心配し、騒いだという。夜がとるというのは、夜がさらっていく、また夜がとり殺してしまう、という意味である。夜を凶暴な怪物としておそれるこのような表現は、南島の夜が真っ暗であったことを背景にしている。そうしてみれば、「月夜」は人びとにとって「幸福」の代名詞である時代が長くつづいたとみるべきである。だが今は「月夜の幸福」は遠く忘れられてしまった。」


「あとがき」より:

「渚は陸とも海とも見分けのつかない不思議な境界である。それゆえに、かつては現世と他界とをつなぐ接点とみられ、そこに墓地も産屋も設けられた。
 海からの来訪神や死者の魂を送り迎える儀礼の場所が渚であった。海の彼方から寄りくるものへの切実な期待と畏怖の情は、日本人の心理の底深く宿っている。
 渚は大自然の博動を体得するのにもっともふさわしい場所である。大自然のリズムを身につけるかどうか、それが人間の心身を健全なものにするかどうかの分かれ道である。だが、自然海岸の大量の破壊は、日本人が日常的に海にふれあう機会を極度に少なくした。それは、砂浜で孵化した海亀の子が、生まれてすぐに波打ち際にむかって這っていく、そのまちがいのない正確な本能を私たちに閉ざすことにもなったのである。
 渚に立ってまなざしを海の彼方にそそぐときの解放感は何ものにも替えがたい。
 私は幾十年も前から沖縄の旅をくりかえすなかで年老いて今日にいたっているが、いつしか私の心のうちに、どこか先島の離島の人気のない渚で、生き倒れのような格好で死にたいという願望がひそかに芽生えてくるのを感じるようになった。(中略)渚に死にたいという他相ない幻夢を道連れとして、私は今日も海の微風をまともに受け、潮騒を聞きながら、渚を歩くのである。

  わが瞳にサフラン色の蝶一羽溺れてゐたり渚ながき日

  肉は悲し書は読み終へぬみんなみの離(ぱな)りの島の渚に死なむ」





こちらもご参照ください:

谷川健一 『海の夫人』
谷川健一 『常世論』 (平凡社選書)
アナトール・ル=ブラース 『ブルターニュ 死の伝承』 後平澪子 訳









































































































谷川健一 『孤島文化論』

「所与の意味をまず拒否することから始めるべきである。その果てに、自分だけの意味が生まれるにちがいない。」
(谷川健一 「私の地方文化論」 より)


谷川健一 
『孤島文化論』


潮出版社
昭和47年11月10日 印刷
昭和47年11月25日 発行
246p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 角背紙装上製本 
本体カバー 機械函
定価850円
装幀: 菊池薫



本書はもっていなかったので、アマゾンマケプレで最安値(69円+送料)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。

本書所収論考中、「シャコ貝幻想」は『古代史ノオト』(大和書房、1975年)に、「海神の使者」「わだつみのいろこの宮――青木繁の神話世界」は『海の夫人』(河出書房新社、1989年)にそれぞれ再録されています。


谷川健一 孤島文化論 01


帯文:

「日本文化にとって孤島とは何か!
南方の島々に生活する人びとをささえる
豊かな精神世界を「島」と「ヤポネシア」の
視座からとらえた出色の日本文化論!」



帯裏文:

「日本語の「かなし」には悲哀と愛着の両方の意味がこめられている。これは日本の昔にさかんに使われた言葉であり、現に南島では日常の上で両方の意味に使っている。
 「悲(かな)しい」というのは島の風土から、「愛(かな)しい」というのはヤポネシアの風土から生まれた語であろう。孤島の悲哀と、島国ののびやかな日常にたいする愛着とは不可分に一体をなす感情なのであった。それを切りはなすことのできないところに、日本という風土がある、と私は考えるのである。
〈「あとがき」より〉」



谷川健一 孤島文化論 02


目次 (初出):

口絵
 狩俣部落より大神島をのぞむ (撮影: 渡辺良正)


孤島文化論 (読売新聞 1972. 1. 22, 23, 25, 26, 27
遠い他者と欠けた自己――差別への一視点 (潮 1972. 2)
土着観念の再生を (共同通信 1972. 6. 1)
事大主義と事小主義 (朝日新聞 1972. 1. 17)
私の地方文化論 (新潟日報 1972. 7. 20)


沖縄先島の世界 (沖縄先島の世界(渡辺良正写真集)・解説)
太陽と月 (出版ダイジェスト 1971. 7. 21)
黄泉の国への通路 (グラフィケーション 1972. 5)
ユタと沖縄の人びと (新聞研究 1972. 7)
火にかけた鍋 (情況 1969. 5)
奄美の新節をたずねて (毎日新聞 1972. 10. 16)
わが沖縄 (叢書わが沖縄 3, 4, 5 巻解説)


海神の使者 (国文学 1972. 9)
シャコ貝幻想 (歴史と文学 2号)
わだつみのいろこの宮――青木繁の神話世界 (芸術生活 1972. 3)


成熟へのひとしずく――柳田国男との出合い (春秋 1972. 2, 3 合併号)
近代主義への一矢――宮本常一のこと (春秋 1972. 4)
常世の思想――折口信夫 (春秋 1972. 5)
喜舎場永珣をいたんで (読売新聞 1972. 4. 15)
『蠹魚庵漫章』について (読売新聞 1971. 11. 22)

あとがき
発表紙・誌一覧



谷川健一 孤島文化論 03



◆本書より◆


「孤島文化論」より:

「中央と地方という固定観念、あるいは国境という人為的な画定線を取り払ってみれば、地方とか辺境とかの概念はすこぶるあやしくなるのである。少なくとも地図の上の辺境は、かつて文化の取り入れ口であったばあいが多い。それが政治的な理由で辺境化させられただけの話である。かつて古琉球は南洋と貿易をおこない、那覇には十ヵ国の人たちが住んでいたという。沖縄は日本の辺境あつかいにされているが、日本列島のなかでもっとも先進的な地域であった時代が、今をさかのぼる五世紀なかば前までの琉球王国にはあった。」

「時間の尺度をどうとるか、視点をどこにさだめるかによって、それぞれの地方は中央ともなり辺境ともなる。そしてかつて中央であり、今辺境と化した地方は、その古い文化をたやすく捨てないのがふつうである。」
「中央にたいする辺境、頂点にたいする底辺は、収奪され、疎外される存在というほかに、中央もしくは頂点の対極概念としての不可視の文化の中心という意味をもっている。」
「島は小さいが海は広大である。その海の果てにたましいのゆくべき島があり、祖霊もまたそこから島にかえってくることを信ずるとき、眼にみえない、ゆうゆうたる無意識の時間は老人をとおして子孫に伝わってゆくのである。そこで南島の人たちの現実の空間は極小であるが、信仰上の空間意識はきわめて大きいということが可能である。」



「遠い他者と欠けた自己」より:

「かつて日本で村内婚が常態とされていた時代、他村との通婚にたいしては、きびしい規制がもうけられていた。つまり、村の娘で他村の若者と通じたばあい、この一対の男女は密通者として、村内の若者によって烈しいリンチを受けた。
 その一方では、遠来の客人を歓待する風習も長くつづいていた。この遠来の客人を「まれびと」と呼び、それが「まろうど」になったことはよく知られているが、まれに訪れてくる人が賓客となるのは、珍しいものが高貴なものであるとする日本人の認識をよく伝えている。
 ここでみられる現象は、遠来の客人には自分の娘を提供してもかまわぬほどのもてなしぶりをみせながら、その反対に隣村の若者にたいしては、容赦しないという狭量な態度である。遠い他者には寛大で、近い他者にはきびしい、という心理構造は日本人社会の特徴として成立する。つまり日本人は自分自身との差意識が大きい他者であるほど、寛大にあつかう。それはそうした他者が、ある種の威力をもつと信じられているからである。」



「沖縄先島の世界」より:

「このように木の葉や草の葉で身をよそおうというのは、日本における神出現のもっとも原始的なすがたにほかならなかった。」

「大神島の人たちは、この島が「神高い島」であると自負している。」
「だが大神島が孤島であることはいうまでもない。(中略)一周するのに半日はかからないこの島に埋もれた人生がある。そして夕方になると風は島をゆるがすように吹き、海は白波が立ち、暗い海の果てに壮大な虹がかかるのだった。
 私はあるとき、小学校の便所を借りた。そこには生徒の書き古しの帳面がおいてあった。中学生のものらしく、英語の単語とその訳語がきれいな字で書き並べてあった。
  prince   call    alone     sad     end
  王子    呼ぶ    ただひとり   悲しい   終わり
 私はこれらの文字をみているうちに、大神島という孤島を端的に表現する単語と思えてきたのである。」

「たこを五斤おさめるだけで、人頭税さえ免除になったというこのまずしい島は、みずから孤絶した姿勢をくずそうとしないのだった。」

「教員室に坐っていると、ひとりの女の子がふらりとやってきて、出された菓子をねだった。ひとつ渡してやると、ていねいにお辞儀をしたが、たべ終わると、またねだった。先生方に聞くと精薄の女児で、ふつうならば小学校五年だが知能のほうは三歳位だという。(中略)この女の子は早朝、子どもたちが校庭にあつまっておこなうラジオ体操のときも、かならずやってくる。そして、うしろむきのかっこうで海をみながら、ひとり手をあげている。授業中にもたえず教室に出入りして、授業を妨げる。しかし、みんなはこの女の子をけっして叱らず、迷惑を受けても自分たちの仲間に入れてやるのだった。(中略)あとでその理由が私なりに分かった。この女の子を疎外したら、この孤島では女の子は死なねばならぬ。子どもたちはそのことを孤島に住む人間の本能的な知恵で知っていたのだ。」



「黄泉の国への通路」より:

「沖縄では太陽は島の東のはしの洞窟からのぼり、中天高くかがやき、そして島の西のはしの洞窟に沈むと信じられている。沈んだ太陽は足元の大地の底、あるいは海の底をくぐって、また東の空にのぼる。そこに死と再生があり、それが人間の誕生と死の観念を生み出したのである。」


「成熟へのひとしずく」より:

「私はといえば、「善悪のまだ分かれないもっとも暗黒な意識の部分」を漠然と神と考える習慣がついている。」

「ナショナルなものの追求は意外にその底にインターナショナルな課題と通じていることを知った。特殊から普遍への道こそ真の普遍性を獲得する方法であることを私はまなんだ。」



「近代主義への一矢」より:

「『日本残酷物語』の主題は、つつましい欲求の持主である「小さき者たち」がいかに苦悩しなければならぬのか、という矛盾命題である。私のなかにはいつもイエスにしたがってあるく浮浪人や漁夫や娼婦のイメージが去来していた。私はカトリシズムには希望を失ってしまったが、そうした「小さき者」への執着は依然として残りつづけていた。こうした小さき者たちをつまずかせるくらいならば、海の底に沈められたほうがまだましである、というイエスのことばは私の耳に鳴りつづけていた。(中略)私は小さき者たちが好きなのである。(中略)私は小さき者たちとつき合っているだけで充分にたのしい人間なのだ。」


「常世の思想」より:

「常世ということばに、私の血はあやしくさわぐ。私は沖縄になぜ関心をもつかと問われて、返答に窮することが少なくなかったが、今は「明るい冥府がほしいばかりに珊瑚礁(リーフ)の砂に踝(くるぶし)を埋めているのだ」と答えることができる。私は死んでなお刑罰を受けねばならぬような他界を信じていない。」

「出雲の美保の岬に、波の穂にのってやってくる常世の神スクナヒコナは、「手の俣から漏(く)きた子」であるといわれたと『古事記』にあるが、沖縄では大正の頃までは、非常に腕白ですばしこく、もてあました子供を「手の俣からふきゆるわらび」と呼んでいたという。わらびは童である。この一語をもってしても、出雲と南方との密接な関係がおしはかられよう。」





こちらもご参照下さい:

島尾敏雄 『新編・琉球弧の視点から』 (朝日文庫)
岡谷公二 『島の精神誌』
川崎寿彦 『楽園のイングランド』
小野二郎 『紅茶を受皿で ― イギリス民衆芸術覚書』



































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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