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セシェ、ベルトゥ 『ボードレールの生涯』 齋藤磯雄 訳 (立風選書)

「彼は自らの中に閉ぢ籠り、諦めきつて、すべてのことに無関心になつた。(中略)――ほどなく彼は寝台から離れることさへ望まなくなつた。彼の母は絶えず彼の枕頭に居残つてゐた。彼は身じろぎもせず、さながらまどろんでゐるかのやうであつた。」
(セシェ、ベルトゥ 『ボードレールの生涯』 より)


セシェ、ベルトゥ 
『ボードレールの生涯』 
齋藤磯雄 訳

立風選書


立風書房 
1972年7月15日 第1刷
283p 口絵(モノクロ)16p
19×12.8cm 
並装(フランス表紙) 函
定価750円
装幀: 杉浦康平+辻修平



本書「後記」より:

「本書は逸話と插絵で綴られたシャルル・ボードレールの生涯である。」
「このセシェ、ベルトゥの原著初版は一九二五年頃であり、その後およそ半世紀の間、詩人の生涯の実証的研究は著しく進み、訂正された個所や、新たに発見された事実は決して少くない。――しかしながら本書の魅力はむしろ、眞偽のほどさだかならぬ逸事挿話訛伝のたぐひをも遠慮なく蒐集し、豊富な素描絵画写真と相俟つて、詩人の生きた世紀の雰囲気を、如実に、生々と伝へる点にある。(中略)――のみならず、「詩歌」のよびさます夢幻的な世界には、実証と歴史のボードレールのほかに、伝説と神話のボードレールもまた、生き永らへるに充分な理由があるのではなからうか。
 拙訳は、初め一九四〇年改造社から刊行され、この時は文庫本であつたため、わづかにクールベ筆の肖像画を巻頭に一葉掲げたのみであつたが、一九五三年三笠書房から単行本として上本された折には、主として原著から移して、図版七葉本文挿絵五十七葉を掲げた。――今また立風書房から復刊されるに際し、原著のみならず、爾来出現したフランスの種々の刊本を渉猟して、新たに図版十六葉本文挿絵七十一葉を厳選した。」


Alphonse Séché
et
Jules Bertaut
La Vie
anecdotique et pittoresque
CHARLES BAUDELAIRE



新字・旧かな。
本書はアマゾンマケプレで351円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



ボードレールの生涯 01



ボードレールの生涯 02



目次:

Ⅰ 少年時代と青年時代
Ⅱ 「ダンディスム」から「ボヘミヤニスム」へ
Ⅲ 文学者
Ⅳ ボードレール、女性、恋愛
Ⅴ ベルギーに於けるボードレール――晩年

後記 (齋藤磯雄)




ボードレールの生涯 03



ボードレールの生涯 04



◆本書より◆


「Ⅰ 少年時代と青年時代」より:

「私の祖先たちは、白痴や偏執狂であり、壮麗な部屋に住んでゐて、悉く恐るべき情熱の犠牲となり果てた。」

「夙(つと)に幼少の頃より、孤独感。家庭にあつても、――特に、朋輩のさなかにあつても、――永遠に孤独なる運命を担つてゐるといふ意識。しかも一方、生活と快楽に対する強烈な嗜欲。」
「極めて幼い頃、私は、生の恐怖と生の恍惚といふ、二つの相反する感情を胸に抱いた。」



「Ⅱ 「ダンディスム」から「ボヘミヤニスム」へ」より:

「とはいへ、これらすべての貧苦、これらすべての悲哀にも拘らず、ボードレールは断じてその諧謔とそのダンディーの物腰を抛棄しなかつた。それは彼にあつては何か必要以上、習慣以上のものであり、精神の傾向、性格の習癖そのものが、彼をしてそのやうに行動せしめるのであつた。」

「彼は、善良で感受性があると信ずる人々には胸襟を開いたが、さうでないと判断した人々には暴虐であつた。彼は軽佻浮薄な人々を避け、相手かまはず交際するといふことを絶対にしなかつた。」
「優雅で、少しく取澄ましてゐて、慎重で、遠慮深く、一致協同といふことにはことさらに反対する彼には、友人(アミ)はゐたが、仲間(カマラード)はゐなかつた。」



「Ⅲ 文学者」より:

「直ちにボードレールは、柔軟婉美な趣をかくも巧みに把握したこの文学者に共感を感じた。この文学者に彼は極めて密接なつながりを発見したのだ。彼は後にテオドル・トレに打明けてゐる。
 《なぜ私がこのやうに根気よくポーを飜訳するかご存じですか。その理由は彼が私に似てゐるからです(引用者注:「その理由は~」以下に傍点)。初めて彼の著書を繙(ひもと)いたとき、私は、かねて私の夢想してゐた主題のみならず、私の考へてゐた文章(引用者注:「文章」に傍点)までが、二十年も前に、彼によつて書かれてゐるのを、驚愕と恍惚を感じながら、見たのでした。」―テオドル・トレ宛、一八六四年―
 その時からエドガー・ポーは到るところに連れ立つて行く《もう一人の彼》であり、その影響は多かれ少かれ彼の全作品に及ぶであらう。彼の人格(ペルソナ)は「黄金蟲」の作者―ポー―の背後に消え去るであらう。彼の想ひは一刻もこの作者から離れないであらう。そして、彼を熱狂させたのはこの文学者の作品ばかりではなく、同時にまたその人物なのだ。彼は自分がこれほど熱狂を感じる一人の人間についてあらゆることを知らうとした。この詩人に対する彼の第一の心づかひ、第一の返礼は、その生涯を書き、その驚嘆すべき短篇小説を飜訳することにあつた。この仕事を原作にふさはしくするためには、彼は何物をもゆるがせにせず、いかなる奔走をも厭はず、堪へ忍び得ぬ努力とてはなかつた。
 或る日のこと、彼はアメリカの文学者が巴里にやつて来たことを知り、直ちにそのホテルに面会に行つた。ボードレールに伴はれて行つたアスリノーは次のやうに語つてゐる。
 《私たちは、ズボン下にシャツといふ恰好をしてゐるその男に会つた。彼はあらゆる種類のおびただしい履物の真中にゐて、靴屋の立会で、あれこれと履いて試してゐるのであつた。だがボードレールは彼を容赦しなかつた。相手は一足の編上靴と一足の舞踏靴との間に、否応なく尋問を受けなければならなかつた。私たちの訪ねた男の意見は「黒猫」の作者に対して好意あるものではなかつた。就中、彼が、ポー氏は奇妙な精神の持主であり、彼の会話はてんで理窟に合はぬものであつたと告げたのを記憶してゐる。階段で、荒々しく帽子をかぶりながらボードレールは言つた、――
 「あん畜生、ただのヤンキーだ!」》(アスリノー『ボードレールの生涯』)
 ヤンキー! どれほどの侮蔑をこめて彼はこの言葉を発音したことであらう。それ故、アメリカ人がこの偉大な人間の真価を認めなかつたこと、彼に地獄の一生を送らせたこと、要するに直接間接に、すべてその物質的困苦、その怖ろしい瀆(けが)された最期の原因であることを赦さなかつたからである。彼は時間(タイム)と金銭(マネー)とが全能の神であるこの国民のことを考へるとき、身うちに湧き上つてくる軽蔑と嫌悪と反感の情を、思ひのままに表現する言葉がないほどであつた。
――彼は書いてゐる、
 《もしも諸君がアメリカ人と語り、談たまたまポー氏のことに及んだら、その男は諸君にポーが天才であることを是認するであらう。悦んで認めるかも知れぬ。恐らく自慢さへしよう。だが結局は御立派な口調で次のやうに言ふであらう。「けど私は、実際的な人間ですな。」次に厭味たつぷりな下劣な態度で、無駄なことに費してしまつた偉大な才能について喋々するであらう。その男は諸君にポー氏のふしだらな生活について、蠟燭の焰から点火しさうなそのアルコール臭い息について、その放浪的習慣について、云々するであらう。或はまた、ポーはニューヨークからフィラデルフィヤへ、ボストンからボルティモアへ、ボルティモアからリッチモンドへと、絶えず転々漂泊してゐる乱脈な人物(引用者注:「乱脈な人物」に傍点)であり、軌道をふみはづした(引用者注:「軌道をふみはづした」に傍点)遊星であつたといふことを語るであらう。そしてもしも、すでにこの痛ましい生存の序曲に心を動かされ、諸君がその男にデモクラシーには非常に多くの不都合があるといふことや、自由といふ優しい仮面にも拘らず、デモクラシーは恐らく常に個性の発揚を許さないといふことや、二三千万の王様(引用者注:「王様」に傍点)のゐる国では物を考へることも書くことも往々にして非常に困難であらうといふことや、その上、噂によれば(引用者注:「噂によれば」に傍点)、合衆国には、君主国の暴君よりも遙かに残忍な遙かに苛酷な暴君がゐるさうだ、つまりそれは世論といふ暴君だ、といふやうなことを注目させでもしようものなら、――その時は、おお! その時こそは、彼の両眼は嚇(かつ)とみひらき爛々と輝き、傷つけられた愛国心の涎(よだれ)が脣頭に溢れて来るのを御覧になるであらう。そして「アメリカ」は、彼の口を藉りて、形而上学に対し、また、その老いたる母、「ヨーロッパ」に対して、数々の罵詈讒謗を投げつけるであらう。「アメリカ人」はその産業力を鼻にかけ、かつ、多少旧大陸を嫉妬してゐる実利主義的国民だ。苦悩と孤独で狂人になりかねない一詩人に対する憐憫の情に至つては、左様なものは持ち合せる暇がないのだ。…》―『エドガー・ポー序文』―描写に飾りはない、がその中には一つならず今日に至るまで正しさを失はないものがある。」



「Ⅴ ベルギーに於けるボードレール―晩年」より:

「次に、突然、彼の敬愛する詩人、ヴィニー、ルコント・ド・リール、バンヴィルを想ひ起してから、ジェラール・ド・ネルヴァルのことを語り始めた。ジェラールの発狂と自殺とは彼の心に執念深くつき纏ってゐたのだ。ボードレールは自分と「シルヴィー」の作者―ネルヴァル―とを対照せざるを得ないのだといふことを、マンデスはおぼろげながら判断した。
 カチュール・マンデスはこの惨澹たる大詩人と共にすごした最後の夜の物語を、胸を抉るやうな感動をこめて書いてゐる。
 《「ジェラール・ド・ネルヴァルとお知合ひですか」――「いいえ」と私は言つた。彼は続けた。
 「彼は気違ひではなかつた。アスリノーに話して見給へ。アスリノーはジェラールが決して気違ひぢやなかつたことをあなたに説明するでせう。それなのに彼は自殺した、しかも首を縊つた! 一体どうして、死ぬことを決心して、あんな場処で、首を襤褸布で縊るやうな死にざまを選んだのだらう。精妙な、心地よい、巧緻な毒薬がたくさんあるのに、それを使へば死が歓びから始まるやうな、少くとも夢から始まるやうな毒薬が、たくさんあるのに、……」
 私は一言も発しなかつた、敢へて私は語らなかつた。
 「いや、違ふ、違ふ」と彼は声を高め、殆ど叫びながら語り続けた、
 「そんなことは嘘だ、彼は自殺なんかしなかつた、自殺なんかしなかつたのだ、みんな間違つてゐる、みんな嘘つきだ! 違ふ、違ふ、彼は気違ひぢやなかつた、彼は病人ぢやなかつた、自殺なんかしなかつたのだ! おお! さうでせう? 言つて下さい、みんなに言つて下さい、彼が気違ひでなかつたことを、――言つてくれることを約束して下さい、彼が自殺しなかつたことを。」》
 明かにこのときボードレールは完全にジェラール・ド・ネルヴァルと同化してゐたのだ。明らかに彼は同じやうに生涯を終ることを考へてゐたのだ、そして狂気は彼の頭蓋の下を眩暈のやうに旋回してゐたのだ。」

「時をり、彼はすべての記憶を失つた。もう人の見さかひがつかなかつたり、混同したりするくらゐであつた。或る日のことシャルル・アスリノーは一枚の紙に署名させようとした――何かの領収証であらう!――彼は自分の名前を思ひ出すことが出来ないで、ペンを手に持つたままぢつとしてゐた。そこで、彼の著書の一冊の、表紙に印刷された名前を彼に示さなければならなかつた。
 自分の思考と動作を支配する力が殆ど無くなつたので、辻褄の合はない奇行を演じるやうなことが度しげく起つた。彼の意志と行為との間にはもはや何らの調和も何らの一致もなくなつた。彼は考へた、《このランプをひつくり返すことは馬鹿げたことだ、》間もなく彼はランプを手の甲で払ひ落した! 立つてゐようと固く決心しながら、彼は寝ころんだ。晩年の数ヶ月、彼は自分の身だしなみについて、看病人の世話を受けることを拒んだ。健康な時代に彼を識つてゐた女性の幾人かは、彼のかうした状態を厭がらずに、お相手をしたり面倒を見たりしに出かけて行つた。彼女らの一人は、自分のやさしい手で彼の髪を梳ることを承諾させることに成功した。蓬々たる頭髪鬚髯で彼は恐ろしげに見えた。やがて彼は鏡に姿を映したが、自分に見おぼえがなかつた、そして挨拶をした。》(アンジュ・ブニーニュ「ル・ゴーロワ」紙一八八六年九月二十七日)」

「マクシム・デュ・カンが見舞に行つたとき彼は《大きな肱掛椅子に腰をおろしてゐた。その雙の手は白く、顔は痴呆の究極なる、かの土のごとき蒼白色を呈し、瞼はふくらみ、双の眼は物問ひたげに、しかも凝然としてゐた。憔悴枯槁の顔色には何ら感動の痕があらはれなかつた。時をり彼は、言はれたことに答へようとして甚だしい努力を費しながら、立ち上らうとするかに見えた。彼は叫んだ、《Non, non, crénom, non ! (ノン・ノン・クレノン・ノン) これが彼の発音できる唯二つの言葉――唯二つの記号であつた。》(マクシム・デュ・カン『回想』)
 しかしながら非常に忍耐づよく、医者はほかにも幾つかの単語と、それから短い章句さへ彼に発音させることに成功した。甚だ似合はしくも、彼は言つた。
 「ボンジュール・ムシュー(こんにちは)――ボンソワール・ムシュー(こんばんは)」それからまた、「ラ・リュヌ・エ・ベール(月は美しい)」。
 デュヴァル博士の病院の庭には仙人掌(さぼてん)があつた。ボードレールはこの植物の奇妙な葉の切れ目や、実に美しい花をつけたその葉の蛇のやうな紆曲を好んだ。人々は彼の部屋の花瓶をこの植物で飾つた。」

「彼は自らの中に閉ぢ籠り、諦めきつて、すべてのことに無関心になつた。自分の身だしなみに没頭することをやめたのもそのときである――清潔といふことをつねに彼がどんなに高く評価してゐたかは読者諸君のすでに知るところである! ――ほどなく彼は寝台から離れることさへ望まなくなつた。彼の母は絶えず彼の枕頭に居残つてゐた。彼は身じろぎもせず、さながらまどろんでゐるかのやうであつた。何ヶ月も寝てゐたので、彼の全身は床擦れ(とこず)れの傷に蔽はれた。動かさなければならないとき、彼は激しい苦痛の叫びをあげた。
 死に先立つ最後の二日二晩、彼は非常に静かであつた。彼は眼を開いたまま眠つてゐるやうに見えた。
 臨終の苦悶も懊悩もなく、母の腕に抱かれて、彼は一八六七年八月三十一日、朝の十一時ごろに他界した。」




ボードレールの生涯 06


本体折り返し部分にはボードレールの詩(原文と訳)が掲載されています。
左は「立風選書」刊行案内。



ボードレールの生涯 05


奥付に訳者略歴。
左は「立風選書」刊行案内裏の「続刊案内」。







こちらもご参照ください:

阿部良雄 編 『ボードレールの世界』
齋藤磯雄 譯 『ボオドレエル全詩集 惡の華・巴里の憂鬱』



















































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阿部良雄 編 『ボードレールの世界』

「ボードレールには旅の計画さえあれば、旅そのものは必要ではなかった。むしろ旅の計画や旅の夢想こそが、つまりは「旅へのさそい」こそが、彼にとっての旅だったのである。」
(安藤元雄 「旅への「さそい」」 より)


阿部良雄 編 
『ボードレール
の世界』



青土社 
1976年4月10日 印刷
1976年4月25日 発行
397p(うち別丁口絵図版8p) 
菊判 丸背クロス装上製本 機械函 
定価2,400円
装幀: 加納光於



本書「編者あとがき」より:

「人はおそらく、ここに提示されたさまざまなボードレール像の、あまりにも多様であるのみならず、互いに矛盾しあるいは反撥し合うようにさえ見えるのに、驚くかも知れない。反応の多様性は作品のはらむ豊かさの証左であるという現代批評の公理をもち出すまでもなく、「自ら矛盾撞着する権利」を(「この世からおさらばする権利」とともに)人権宣言に加えるべきだと言ったのは、ボードレールその人であった。」
「一九七三年春に「ユリイカ」臨時増刊として刊行されたボードレール特集号の中から、アルベール・ベガンの「ボードレールと夢」(完訳のある『ロマン的魂と夢』の一部)を削って、ヴェルナー・ホフマン、ジョルジュ・ブランの小論文を加え、拙稿書誌の誤りなどを出来る限り正したのが本書である。」
「カットとして用いたカリカチュアとパリ風景は、絵入り娯楽文芸雑誌『パリの悪魔』 La Diable à Paris - Paris et les Parisiens, Paris, Hetzel, 1868 からとったもので、ガヴァルニ、グランヴィル、ペルタル、シャム、クレルジェなどの作である。」



口絵図版(モノクロ)25点、本文中図版(モノクロ)多数。



ボードレールの世界 01


函表: 「ボードレール自画像逆版」



ボードレールの世界 02


函裏: 「ノートルダムから見たパリ」


目次:

ボードレール頌
 ヴェルレーヌ 「ボードレールの独創性」 (佐藤東洋麿 訳)
 ランボオ 「見者ボードレール」 (奥本大三郎 訳)
 マラルメ 「「シャルル・ボードレールの墓」」 (菅野昭正 訳)
 アポリネール 「大革命と近代精神」 (横張誠 訳)
 ティボーデ 「都市の詩人」 (横張誠 訳)
 クローデル 「ボードレールの音楽」 (渡辺守章 訳)
 エリュアール 「ボードレールの闘い」 (横張誠 訳)
 ジューヴ 「「ボードレールという慰め」」 (豊崎光一 訳)
 ポンピドゥー 「ボードレールと神」 (家柳速雄 訳)

辻邦生 「汝が永遠の岸辺」
磯田光一 「わがボードレール」
佐藤朔 「寸感」
村上菊一郎 「パリのボードレール」
饗庭孝男 「受苦の聖性」
ボヌフォア 「悪の華への序文」 (田中淳一 訳)
菅野昭正 「少年老いやすく……」
種村季弘 「覗く人」
粟津則雄 「ボードレールの苦さ」
カイヨワ 「ボードレールの詩の位置」 (佐藤東洋麿 訳)
窪田般彌 「拓次とボードレール」
加藤郁乎 「親愛なる他人」
ベンヤミン 「遊民」 (円子修平 訳)
杉本秀太郎 「「読者に」の位置」
清水徹 「『宝石』私解」
安藤元雄 「旅への「さそい」」
阿部良雄 「おお奴隷なる女神よ……」

出口裕弘/渋沢孝輔/松山俊太郎/阿部良雄 「共同討議 なぜボードレールか」

宮川淳 「ボードレール再読」
興謝野文子 「理性と怪物」
豊崎光一 「もうひとつの海 雙児の海」
ブラン 「変化矛盾頌」 (阿部良雄 訳)
ブラン 「無限を求めて」 (阿部良雄/長谷徳夫 共訳)
出淵博 「ひとつの変奏」
鍵谷幸信 「石だらけの沙漠、砂利いっぱいの屑」
ホフマン 「ボードレールとカリカチュア」 (阿部良雄/杉本紀子 共訳)
及川馥 「ボードレールとヌーヴェル・クリチック」
佐藤東洋麿 「麻薬・無限への眺望」
二宮正之 「荷風の散文とボードレール」
奥本大三郎 「瞳、髪、飲むこと」
横張誠 「「呪われた部分」の選択」
阿部良雄 「ボードレール論の系譜」

批評的書誌 (阿部良雄)
シャルル・ボードレール詳細年譜 (杉本紀子 編)
編者あとがき (阿部良雄)




ボードレールの世界 03


本体表紙(クロス地に紙貼付)。



◆本書より◆


「旅への「さそい」」(安藤元雄)より:

「題名は『旅へのさそい』である。しかし、読んでみればわかるように、それは「旅」というよりも「移住」に近いものである。ボードレール自身、三行目ではっきりと、「行って暮す」という言葉を使っているし、しかも、そこへ行ってしまえばもはや「死ぬ」までそこを離れないのだから。そこ、というのは一種の理想郷であって、つまりは詩人の夢想の中にしかない国なのだが、その夢想のきっかけを提供している現実の国はオランダである、というのが諸家の注釈の定説となっている。たしかに、この定説に異議をさしはさむ理由は何もない。とくに、同じボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中に、これと類似した趣向で書かれたやはり『旅へのさそい』と題する一篇があり、(中略)その中にはもっとはっきりとオランダを指示する言葉がちりばめられているからである。しかし、この韻文の『旅へのさそい』から読み取られる限りでは、どうしてもオランダでなければならぬというほどのものは一つもない。「霧の空」や「運河」や「船」、それに「東方の国のみごとさ」と並べてみても、それだけで舞台をオランダに限定してしまうには材料不足である。
 しかし、十九世紀なかばのフランスの読者にとっては、これだけの材料で、すでに充分にオランダを連想することができたのかも知れない。アントワーヌ・アダンがガルニエ叢書版『悪の華』の注にしるすように、ベルナルダン・ド・サンピエール以来オランダに関する文学上の伝統とでも呼ぶべきものがあったとすれば――そしてこのころでも盛んにオランダ見聞記のたぐいが書かれていて、その筆者の中にはネルヴァルやゴーティエ、シャンフルーリ、ウーセイなど、ボードレールに近かった名前も見出されることを思えば――そう考えるほうが自然だと言えよう。このころのフランスには、たとえばドラクロアの絵などにも見られるように、東方趣味がかなり高まっていて、それは北アフリカ方面へのフランスの経済進出と軌を一にしていたのだが、その趣味の対象が中近東方面にとどまらず、もっと東へ、インドから中国へとひろがるためには、当時の対アジア貿易の先進国であったオランダが絶好の窓口とされたであろうことは、たやすく理解できる。つまりオランダはフランスから見て、ヨーロッパの文化的な枠組みの中でアジアへの異国趣味をも十分に満足させ、しかも相対的に「北方の神秘性」にも欠けていないという、夢の対象となるべき条件を完備した国だったのだ。散文詩『旅へのさそい』の書き出しはこうである。

  すばらしい国があるのだ。悦楽の国とも人の言う、私が昔からの女友達とともに訪れたいと夢みる国である。面白い国で、北方の霧に沈みながら、西洋の中の東洋、ヨーロッパの中のシナとも呼べるほど、……

 ボードレールはこのときまで、オランダを実際に訪問したことはなかった。のちにベルギーに滞在し、オランダまであと一歩のアンヴェルスまで行きながら、ついにオランダには足を踏み入れない。『パリの憂鬱』の注釈者ロベール・コップは、詩人が自己の詩的夢想の破れるのを恐れたためではあるまいかとさえ言っている。だが、それはともかくとして、ここではこの夢想における方位感の奇妙な消滅(引用者注:「方位感の奇妙な消滅」に傍点)を指摘するにとどめよう。晩年のベルギー滞在を別にすれば、ボードレールの生涯における唯一の大旅行と言えば、二十歳のとき、彼の放蕩ぶりを恐れた養父にインド行きをすすめられ、モーリシャス島からレユニオン島まで行って引き返して来た、南方への旅があるだけだ。(中略)そして、散文詩『旅へのさそい』の異文には、ゲーテの名高いミニヨンの歌「君よ知るや南の国……」から発想を借りた跡が歴然と見て取られる。にもかかわらず、南のイタリアへのあこがれを北のオランダへのあこがれに置き換えた(中略)ことが、ボードレールにとって決して不自然でなかったのは、前述のように東洋という軸があったからこそであろう。その結果、韻文の『旅へのさそい』にあらわれるイマージュは、決してフランドルの風物ではなく、かといって明るい南方の風土でもなく、文字通りのユートピア(どこにもない国)になり、そのユートピア性の中に静止する国となったのである。
 そして、それはまた、その国における詩人の理想的な住まい方にとっても好都合だったと言える。そこへ移り住んだ恋人たちは、豪華な室内に閉じこもって、あらゆるものを手に入れながらしかもあらゆるものにわずらわされずに、いわば静止的に、暮すのでなければならなかったから。船は眠っているし、世界もこれから眠りに入ろうとしているのだ。」

「ボードレールには旅の計画さえあれば、旅そのものは必要ではなかった。むしろ旅の計画や旅の夢想こそが、つまりは「旅へのさそい」こそが、彼にとっての旅だったのである。」




ボードレールの世界 05



「共同討議 なぜボードレールか」より:

松山 なぜボードレールか、という問題は、自分にとっての問題でもまずあるけれど、他人にとってなぜボードレールかという問題も、いつでもそれと並行してあるわけです。(中略)ところが、ボードレールの場合は、自分にとって大変好きな作家であるということが、他人が好きだというボードレールとは必ずしも重ならないんじゃないか。ボードレールは非常に複雑な作家だから、一人一人が違う形でボードレールを好きになってもいいんじゃないか、ということですね。(中略)ぼくの場合は、ポーが好きだったから、ポーの単なる翻訳者としてだけではなく、ポーの先へとボードレールが延びてきているということがあって、それでまず好きになったわけです。(中略)もともとこっちは一冊の詩集のなかに十か十五好きなものがあればすぐれた詩集に違いないと決める。あとの『パリの憂鬱』とか『赤裸の心』はもうボードレールが好きになっているから良く読めるわけで、批判的に読んでいるわけじゃない。(中略) L'Invitation au Voyage にしても、それから髪の詩篇にしても、人間が人間としてある限り、非常に古い頃から持っているテーマで、そういうテーマを扱っているから好きですね。いつでもそこへ戻っていけば、そういうものに触れられるという安心感がひとつあるわけです。そういう意味での古さに惹かれますね。(中略)ボードレールは戻ってみたときに揺るがない感じがある。こっちの退嬰的な心と対応するものとしてのボードレールが、非常に懐しいし安心できる。ある意味で、ボードレールは西洋の詩の古さを代表した、なんというか、フランス文学じゃなくて、むしろラテン文学といいたいような系譜の、いっとう終りの頽廃する寸前の一番輝かしくて、同時にいっとう最後だから、ぼくらにも身近な詩人なんじゃないか、と思う。」

阿部 ぼくはあまり文学青年的な人間ではなくて、それこそフランス文学に対して非常にミーハー的な入り方をしていますから、ランボーにかぶれた時期というのも全然なかったし、ボードレールのどういうものが好きだったかというと、たとえば「港」なんていう散文詩ありますね。(中略)港へ行ってマストとか船とか、揺れているのを見ている、まだ出発するだけの意欲を持っている人を羨みながら、もう自分はそんな気持もなくて、ぽかんと波止場で見ているという、そういうものとか、あるいは散文詩のなかの「異人さん」というようなもの、あるいは「スープと雲」ですか、馬鹿な女房だかなんだか、「スープができたのに、早く食べなさい、雲屋のおバカさん」というと、食わないでポカンと雲を見てるとか、そういうところに、青空みたいなものが見えてたわけですね。不思議と言えば不思議な話なんですけども、ボードレールを読んで、そこに青空を感じるというのは、ちょうどその頃、印象派の絵なんかが好きになって、非常に青空があるという感じです。(中略)そういうボードレールが初めにあって、だからボードレールの精神的弁証法というか、キリスト教には全く関心がなかったし、ボードレールの持っている苛烈な面とか、そういうのは後からわかったことです。(中略)「憂鬱と理想」といいますか、青い空の彼方に何か求めているような、そういうボードレール像が最初にできた。(中略)それこそ勉強しているうちに、もっとたくさんいろんな面があるということがわかってきたわけですけれど、やはり最初に持ったそういうイメージはいつまでも残っていて、たとえばいま「旅へのいざない」を読むと、若い頃に得たボードレールのそういう印象が、いつまでも持続しているわけですね。それがひとつの古いものであって、そこへ安心して帰っていけるというわけですが、それがなんだかぼくには古いという感じが全然しなくて、(中略)そういう部分は古くも新しくもないボードレールという感じがするわけです。……逆に古いけれども魅力を感じる部分がありまして、たとえば『悪の華』の最初に出ている「読者に」ですね。あれなんか読むと、古色蒼然という感じがして、(中略)最後の「アンニュイ」なんてのは、まさにアレゴリーです。ことさらに擬古的なレトリックを使って、ことさらに古臭く書いている、そういうものが、読めば読むほど魅力が出てくるというのは、一体どういうことなんだろうかと、それがまあ一番わからない点であるわけです。」

松山 大詩人は、必ず原型(アルキティープ)を提出すると思うわけですよ。原型というのは、さっきも古さについて言ったけれど、大昔からあり得べきものなんだけれど、たとえばボードレールによって初めて提出された原型があるでしょう。それが本当の原型であれば、読む人全部にとっても原型だから、自分の代わりにボードレールが言ってくれたというように、それを通じて作者と読者が融合せざるを得ない。そういう原型を、数は多くないにせよ、掻撫での詩人を五、六人合わせたくらいは一人で提出してくれていると思う。日本では萩原朔太郎が原型を非常に提出しているんじゃないか。批評性とか精神の峻厳さとかで朔太郎はボードレールと比肩はできないけれども、原型の提出者としてみると、やはりボードレールよりも朔太郎の方が詩人的じゃないかとも思うんですけどね。日本では、朔太郎はとにかくずば抜けているし、西洋では、ボードレールはそういう点で卓越しているんじゃないか。」




ボードレールの世界 04



ボードレールの世界 06



ボードレールの世界 07






こちらもご参照ください:

『ボードレール 『悪の花』 註釈』 多田道太郎 編 (全二冊)
出口裕弘 『帝政パリと詩人たち』
阿部良雄 『ひとでなしの詩学』



































『ボードレール全集 Ⅰ』 福永武彦 編集

「彼は風とたわむれる、流れる雲と語り合う、
十字架に通じる道を、恍惚と歌い行く。」

(ボードレール 「祝福」 より)


『ボードレール
全集 Ⅰ』
 
福永武彦 編集
訳者代表: 福永武彦


人文書院 
1963年5月15日 初版印刷
1963年5月25日 初版発行
97p+426p xviii
口絵(モノクロ)8p 
四六判 丸背布装上製本 機械函
定価750円
装釘: 中井貞次

月報 1 (8p):
小詩人(中村光夫)/ゲオルゲ訳『悪の華』(大山定一)/オンフルール詩篇(井上究一郎)/ボードレール・逸話と伝説(阿部良雄)/図版(モノクロ)3点



全四冊。
本文二段組。本文中図版40点。



ボードレール全集Ⅰ 01



目次:

緒言 (福永武彦)
詩人としてのボードレール (福永武彦)
ボードレール年譜 (福永武彦)

悪の華(初版) (福永武彦 訳)
悪の華(再版) (福永武彦 訳)
新・悪の華 (福永武彦 訳)
『悪の華』付録
 初期詩篇 (阿部良雄 訳) 
 拾遺詩篇 (阿部良雄 訳)
 詩草稿(断片) (福永武彦 訳)
 エピローグ草稿(断片) (福永武彦 訳)
 『悪の華』序文草稿 (高畠正明 訳)
 弁護士のためのノートと資料 (高畠正明 訳)
パリの憂愁(小散文詩) (福永武彦 訳)
散文詩草案 (阿部良雄 訳)

解題と注
 悪の華(初版)
 悪の華(再版)
 新・悪の華
 『悪の華』付録
 パリの憂愁

巻末付録
 題名総目次
 図版目次
 詩題名索引




ボードレール全集Ⅰ 03



◆本書より◆


「悪の華(初版)」「祝福」より:

「至上の力持つ神の命令に従って、「詩人」が
退屈きわまりないこの地上に現れる時、
恐怖に襲われた母親は、瀆神の思いに胸ふたぎ、
神に拳を振り上げる、憐れみの眼で見守る神に。」

「彼は風とたわむれる、流れる雲と語り合う、
十字架に通じる道を、恍惚と歌い行く。
そして彼の遍歴のあとにつき従う「聖霊」は、
森の小鳥のように快活な、彼の姿に涙ぐむ。」



「悪の華(初版)」「太陽」より:

「僕は行く、ひとり、風変りな武者修業に、
街の隅々に偶然の生み出した韻律を嗅ぎまわり、
鋪石(しきいし)につまずくように言葉の上に足を取られ、
時にはばったり、長いこと夢みていた詩句を見出し。」



「悪の華(初版)」「旅への誘い」:

   「愛する妹よ、
   いとしい子よ、
行こう、二人して暮すために!
   ――のどかな愛と、
   愛と死と、
お前によく似た遠い国に!
   霧の空には、
   濡れた陽は
お前の涙のかげにかがやく
   移り気な眼の
   不可思議の
魅力のように、わたくしを焼く。

そこにすべては整いと美と
栄華と悦楽と静けさと。

   年月を越え
   色は冴え、
家具は二人の小部屋を飾り、
   稀な花々
   香(こう)の幽かな
匂にまじりその香はくゆり、
   鏡は深く
   窓は高く、
東洋の遠い豪奢を凝(こ)らす
   すべてのもの、
   その生の
やさしい秘密の言葉を洩らす。

そこにすべては整いと美と
栄華と悦楽と静けさと。

   運河のほとり
   船は眠り、
さすらいの旅の想いをのせながら、
   お前の望みに
   つくすために
船は来る、遠くこの世の極みから。
   ――沈む陽のもと、
   野と運河と、
すべての街はあかねの色に、
   こがねに燃える。
   ――世界は眠る、
このあつい光のただ中に。

そこにすべては整いと美と
栄華と悦楽と静けさと。」



「悪の華(再版)」「パリの夢」:

「Ⅰ

生ある者が見たこともない
この恐るべき風景の
おぼろげに遠い幻は、
今朝も僕を魅してやまぬ。

眠りは奇蹟に充ちている!
奇妙な気紛れにそそられて、
僕はこれらの景色から
不揃いな植物の類を取り除き、

己(おの)が天才を誇る画家のように、
僕の絵の中に味わっていた、
金属、大理石、水のつくりあげた
うっとりするような単調さを。

階段、拱廊(きょうろう)に富むバベルの塔、
涯(はて)も知らない宮殿だった、
滝や泉水は流れ落ちた、
いぶし金(きん)、輝く金(きん)の水盤に。

水嵩(みずかさ)あふれる大瀑布は
水晶の幕かと疑われ、
金属製の壁また壁に
きらめきながら懸っていた。

まどろむ池水はめぐらした、
樹ではなくて群れ立つ柱を、
そこに住む人より大きな水の精たち、
女らしく水の鏡に化粧した。

水は青い帯をなして、
薔薇色(ばら)と緑色(みどり)の河岸(かし)の間を、
幾千万里の距離にわたって
この世の涯(はて)へと流れて行った。

岸は見たこともない宝石づくりで、
水は魔法のように光っていた、
そこに映し取るすべてのもので
まぶしく輝く無数の鏡だった!

空に映ったガンジス河、
悩みもなければ音もなく、
甕(かめ)にみたした宝石を
ダイヤモンドの淵に注ぎ流した。

この桃源境の建築師、
思いのままに振舞う僕は、
宝石づくりのトンネルの下、
手なずけた大海(おおうみ)をくぐらせもした。

こうしてすべては、墨色(すみいろ)までも
明るく磨かれ、紅と輝き、
結晶化した光線の中に、
液体はその栄光を鏤(ちりば)めた。

空の隅々を見渡しても、
この奇蹟の眺めを照らし出す
星もなければ陽(ひ)もなかった、
何と自らの火に燃えていた!

そしてこの躍動する驚異の上に
(その恐るべき新しさ! 眼を愉(たの)しませる
ものばかりで、耳にためには何もなかった!)
永遠の沈黙が天翔(あまがけ)った。



燃えさかるこの眼を遂に開いた時、
僕は見た、惨(みじ)めな僕の仕事部屋を、
呪(のろ)わしい悩みごとの切先(きっさき)が
胸えぐるのを僕は感じた。

不吉な響きの振子時計は
荒びた声で正午を打った、
空は暗い曇(くもり)を降りそそいだ、
悲しい無感覚な世界の上に。」



「パリの憂愁」「異邦人」:

「――君は一体誰が一番好きなんだ、え、謎のような男よ? 父親か、母親か、妹か、それとも弟か?
 ――僕には父も、母も、妹も、弟もない。
 ――友達か?
 ――君は今日の日まで、僕がその意味さえ知らない言葉を使った。
 ――祖国か?
 ――それが如何なる緯度の下に在るのかさえ、僕には明かでない。
 ――美人はどうだ?
 ――そう、もし不死の女神ででもあることなら、悦んで好きになりもしようが。
 ――金(かね)は?
 ――君が神を嫌うように、僕はそいつが大嫌いだ。
 ――ええ! 一体それじゃ何が好きなんだ、不思議な異邦人よ?
 ――僕の好きなのは雲さ……。流れて行く雲……あそこを……あそこを……あの、類(たぐい)稀な雲なのさ!」







こちらもご参照ください:

『ボードレール全集 Ⅱ』 福永武彦 編集
『ポオ全集 第三巻』 (全三巻)



























































『ボードレール全集 Ⅱ』 福永武彦 編集

「有用な人間であるということは、私にはいつも、なにかひどく醜悪なものに思われた。」
(ボードレール 「赤裸の心」 より)


『ボードレール
全集 Ⅱ』
 
福永武彦 編集
訳者代表: 矢内原伊作


人文書院 
1963年7月20日 初版印刷
1963年7月30日 初版発行
20p+494p iii 口絵(モノクロ)2p 
四六判 丸背布装上製本 機械函
定価750円
装釘: 中井貞次

月報 2 (6p):
ボードレールの近代性(佐藤朔)/万物照応の世界(野間宏)/詩人と狂気(入沢康夫)/ボードレール・逸話と伝説2(阿部良雄)/図版(モノクロ)1点



全四冊。
本文二段組。本文中図版1点。



ボードレール全集



目次:

モラリストとしてのボードレール (矢内原伊作)

小説
 ラ・ファンファルロ (中村真一郎・小佐井伸二 訳)
 小説草案 (小佐井伸二 訳)


 イデオリュス (阿部良雄 訳)
 ドン・ジュアンの最期 (粟津則雄 訳)
 酔いどれ (粟津則雄 訳)
 第一軽騎兵隊の侯爵 (粟津則雄 訳)
 劇草案 (粟津則雄 訳)
 フィリベール・ルーヴィエール (高畠正明 訳)
 俳優ルーヴィエール (高畠正明 訳)

人工の天国 (安東次男 訳)
 人口の天国――阿片とアシーシュ
 個性増加の手段として、葡萄酒とアシーシュの比較
 前置き、および覚え書

日記 (矢内原伊作 訳)
 火箭
 赤裸の心
 カルネ(抄)
 憂鬱家の手紙
 履歴ノート

書簡(抄) (阿部良雄・豊崎光一 訳)

解題と注
 小説
 劇
 人工の天国
 日記
 書簡

巻末付録(書簡目次)




◆本書より◆


「ラ・ファンファルロ」より:

「サミュエル・クラメールは、かつてマヌエラ・デ・モンテヴェルデなる名前で、ロマン主義かぶれの途轍もない代物をいくつか書いた男だが――ロマン主義華かなりし頃のことだ――実は蒼白いドイツ人と栗色の髪のチリー女との矛盾の産物である。」

「彼は偉大な怠け者であると同時に陰鬱な野心家でかつ有名な落伍者でもあった。というのは、生涯彼はいかなる思想もその半分をしかもったことがないからである。怠惰の太陽が彼のうちに絶えず照って、天から授かった才能のその半分を蒸発させ、干乾しにしたのだ。私がパリのあの恐るべき生活の中で知ったこういう半偉人たちすべてのうちで、サミュエルは、他の誰にもまして、出来損いの傑作といった男だった。――詩の心がその作品の中によりはその人柄のうちに光っている、病的で空想的な人間。朝の一時頃に、石炭のまばゆい焰と柱時計の時を刻む音との間にあって、彼は常に私の眼に不能の神――現代の男女両性神――のように映ったが、しかもその不能たるや、叙事詩的であるまでに巨大かつ壮大だった!
 この強烈な閂光を散りばめた闇のごとき性質、怠惰にして同時に大胆であり、困難な抱負と笑止な流産とにおいて多産であるこの性質に、どうしたらくまなく通じていただけるだろう?――この精神にあっては、逆説がしばしば率直と均衡を保ち、想像力が徹底的な孤独や怠惰と同じように広大無辺だったのである。」
「とはいえ、彼が真情を解し得ず、情熱は彼の表皮をかすめるにすぎなかったなぞとは、考えないでいただきたい。彼は、昨日はじめて顔を合わせ、手を握り、親しくなったばかりの、まるで知らない友人のために、喜んで自分のシャツまで売るような男だったのである。精神や魂のことどもにはゲルマン的性質からくる無為の瞑想にふけり、情熱のことどもには母親ゆずりのすばやく移り気な激情を示し、かつ実生活においてはフランス的な虚栄心からくるあらゆる奇癖の持主だった。彼は二世紀前に死んだ作家あるいは画家のために必要とあらば決闘も辞さなかったであろう。かつて熱狂的な信心家であったごとく、今は情熱的な無神論者であった。同時に、自分が研究しているあらゆる芸術家になり、自分が読んだあらゆる本になったが、かかる役者的才能にもかかわらず、心底において彼は常に独創的な人間だった。常に変らず、温和で、空想家で、怠け者で、やんちゃで、博学で、無学で、だらしがなくて、お洒落のサミュエル・クラメールで、ロマン主義かぶれのマヌエラ・デ・モンテヴェルデだった。彼は女に夢中になるように友達に夢中になり、仲間を愛するように女を愛した。あらゆる人情の機微に通じ、あらゆる手練手管を心得ていながら、それにもかかわらず、彼は何ごとにあれ成功した例がなかった。それというのも、この男は不可能なことをあまりにも信じすぎていたからである。」
「サミュエルは、ある夕べ、外出することを思い立った。時まさに美しく匂やかな頃であった。――持前の極端に対する嗜好から、彼は引き籠るにしろ、出歩くにしろ、ともにひどくかつ長くなる癖があって、もう久しく家に閉じ籠っていたのである。」

「サミュエルは頽廃的な空想の持主であったけれども、いやおそらくそのことのために、恋愛は彼にあって、感覚の問題であるよりはむしろ理性のそれであった。就中それは美しいものを讃美することであり渇望することであった。彼は生殖を恋愛の悪習と考え、妊娠を蜘蛛の病いとみなしていた。彼はどこかに書いている――天使は男女両性であって不妊である、と。――彼は人体を、物質的調和として、運動の加わった美しい建築として、愛していた。しかも、かかる徹底的な物質主義はもっとも純粋な理想主義と紙一重だったのだ。」
「しかも、並外れた人間によくあることだが、彼は己れの楽園にあってしばしば孤独だった。誰一人として彼と一緒にそこに住むことは出来なかったからである。(中略)彼の愛は、孤独な王者のように、蒼穹の憂鬱に心ふたぎ病みはじめるのであった。」



「人工の天国」より:

「良識の告げるところによりますと、この地上のもろもろの事物は、きわめて影の薄い存在であって、真の現実はただ夢の中にのみあるようです。自然の幸福を消化するためにも、人工の幸福のばあいと同じく、何はさて措きそれを呑みこむ勇気が必要です。そして、たぶん、この世の人間たちが考えているような申し分ない幸福に対しては、嘔吐剤に対する反応をしか示さなかった人こそ、まさに幸福を享けるに価いする人々でしょう。」
「私についていえば、生きている世界にはほとんど興味がありません、で、(中略)私もまた好んで死者たちにだけ宛てて書こうと思います。」

「私のいわゆる人工の理想(引用者注:「人工の理想」に傍点)を作りだす最適の薬物の中で、人をたちどころに肉体的狂暴にかり立て精神の力を弱めてしまう酒類や、極端な用い方をすれば、人間の想像力をたいへん鋭くはしてくれるが、その反面肉体の力を徐々に消耗させてしまう香料を別にすれば、いちばん簡易に使用できる最も手近なもので、効力の最もつよい物質は、アシーシュと阿片の二つである。これらの薬物が生む不思議な効果、病的な快楽、さらにこれらを連続して使用したばあいに起こる免れがたい刑罰、最後に、偽った理想をこうして追求することの中に含まれる非道徳性そのものの、分析がこの研究の主題なのである。」

「人間の夢には二つの種類がある。一つは、日常生活とか、常時考えていることとか、欲望とか、悪習とかでつまっており、昼間かいま見たものが大きな記憶のカンヴァスに無遠慮に貼りついてしまったものと、多かれ少かれ奇妙に結びついている夢である。これはごく自然な夢で、夢を見る人そのものだといえる。ところが、ここに、それとは別の夢もある! 荒唐無稽で、眠っている人の性格や生活や情念とは何の関係もつながりもない夢である。この種のものを私は象形文字的な夢と呼びたいが、もちろんこれは生命の超自然的な面を示すもので、それが荒唐無稽であるからこそ、古代人はこれを神聖視したのである。自然な原因をいろいろ当てはめてみても解釈がつかないところから、かれらはこの種の夢には人間の外部に何らかの原因があると考えたのだ。」

「諸君は、おのれの人格を、風のまにまに四方八方へばらまいてしまった、だから今、再び人格の統一と集中を回復するのに、ひどい苦しみを味わわねばならないのだ。」

「夢想する能力は、神聖かつ神秘な能力である。けだし、夢想によって人間は、自らをとり巻く闇黒の世界と通信できるからである。しかしこの能力は、自由に発展するためには、孤独を必要とする。己れに閉じこもるほど、それだけ人間はいっそう豊かに、深く夢想することができる。ところで、このように阿片が作り出す孤独よりも、更に大きく更に静まり、地上の利害から引き離された孤独というものが、いったいあるだろうか?」

「すべての伝記作者は、十分にか否かの相違はあっても、作家や芸術家の幼年時代に関する挿話の重要性を理解しているものである。しかしこの重要性は、かつて十分に確認されたことがなかったように私には思われる。(中略)少年時代のほんの些細な悲しみや喜びが、微妙な感受性により途方もなく拡大され、後の成人した人物の芸術作品の根元となっており、しかも本人はこれに気づかないでいる、ということさえある。つまり、より簡明にいえば、成熟した一人の芸術家の作品と、かれが子供だった頃の魂の状態との間に、哲学的な対比を試みるとき、天才とは、少年時代がいまや自己表現のための男らしい力強い器官を授けられ、明確な形として表わされたものにほかならない、ということを容易に証明できるのではあるまいか?」

「あるスペイン人のギター弾きが、長い間パガニーニといっしょに旅行したことがあった。パガニーニが、誰知らぬ者のない名声を得た時期以前のことだった。
 かれらは二人して、ボヘミヤンや旅廻りの楽師や、家族も祖国もない人たちのような、徹底した放浪生活を送っていた。一人はヴァイオリン弾きいま一人はギター弾きのこの二人は、行く先々いたるところで演奏会を開いた。こうしてかれらはかなり長い間いろんな国々を放浪したが、わがスペイン人の技倆は、オルフェウスのように「私は自然の師匠」といい得るほどの上手だった。
 どこへ行っても、絃を奏でその親指の下で妙なる調子を弾ませれば、皆かれの後から随いてくる、という自信がかれにはあった。こういう秘術を心得ていれば、餓え死になどけっしてしない。(中略)諸君の魂にその最高に神秘的で思いがけない、最高に美しくひそかな節を歌わせてくれた人に、つまりこの天才にして魔法使いに、晩餐や歓待を拒むことがどうしてできよう! 人が私に確言したところによると、この男は、切れ切れの音しか出せない楽器から、容易に連続音を出したという。パガニーニが財布を握って共有財産の管理に当ったが、これは別段誰も驚くにはあたるまい。」
「大酒飲みだったギター弾きが経理状態を尋ねると、パガニーニが答える、すっかりなくなった、あるにしてもまあほとんどないのとおなじだ。」
「それから、何か収入にありつけそうな所へ来ると、二人のうちどちらかが、自作の曲を一つ演奏し、一人は側に控えてそのヴァリエーションや伴奏や低音部を、即興でつけたものだ。こうした吟遊詩人まがいの生活に、どんなに楽しさや詩情があったか、誰にもわかるまい。何故か知らないが、その二人が袂を分った。スペイン人は一人で旅をした。ある晩、かれはジュラ地方の小さな町へ着く。かれは貼り紙をさせて、町役場の広間で演奏会を開くと予告する。音楽会といってもかれ一人、ギター以外には何もない。しかし、(中略)けっきょくは、大入満員だった。
 ところが、わがスペイン人は、その町の片隅の墓地の傍で、もう一人スペイン人つまり同郷(引用者注:「同郷」に傍点)の男を、掘り出していた。その男は、埋葬の請負みたいなことをやっていて、墓石の石工だった。葬式に縁のある職業をもつ人間の例に洩れず、この男も大酒飲みだった。というわけで、酒の瓶と同郷がとりもって、この二人の仲は深みにはまった。音楽家は石工の傍からもう離れなくなった。さて音楽会の当日、時間になっても、二人はまだいっしょにいたわけだが、いったいどこで? それがわからない。町の飲屋という飲屋、カフエというカフエを、一つのこらず探してまわった。あげくのはてに、話にも何にもならない穢い家にいるのをみつけ出しはしたが、二人はすっかり酔っぱらい、(中略)結局、演奏しにゆくことは承知するが、とつぜん、思いつきで友だちにいう、「おまえもいっしょに演奏しろ」。相手は断わる。ヴァイオリンを持ってはいるが、技倆ときたら、村祭りのヴァイオリン弾きの最もぞっとするようなやつだった。「演奏しろよ、でなけりゃ、ぼくは弾かない」
 説教しようが道理を並べようが、一向に効き目がない。(中略)いよいよかれらは、土地の上品なブルジョアたちを前にして、壇に上ったが、スペイン人はさっそく「葡萄酒を持って来てくれ」と言った。(中略)いよいよ葡萄酒がきたが、この卑しい悪童どもは栓を抜くのももどかしく、育ちのよくない手合いがするように、瓶の口を包丁でちょんぎった。着飾った田舎の紳士淑女たちに、これがどういうすばらしい効果を与えたか、想像していただきたい! 貴婦人方は退場するし、この半気違いのような二人の酔漢を見て、多くの人たちは眉をひそめて逃げ出した。
 しかし、羞恥心に劣らぬ好奇心で居残る勇気を持ち合わせた連中は、幸いだった。ギター弾きは、石工に、「始めろ」と言った。酔っぱらったヴァイオリンからどんな音が出たか、とうてい言い現わすことはできない。(中略)何を演奏した? 何の演奏をするつもりだった? どうでもよい、ともかくも最初の節は出て来た。と、突然、力強く甘美で、気まぐれだが統一のあるメロディーが、そのけたたましい騒音を、包み、圧し殺し、隠してしまった。ギターがひときわ高く鳴りわたったので、ヴァイオリンは聞えなくなった。しかしその節は、まさしく石工が弾き始めた、あの酔っぱらいの節だった。
 ギターは並外れて響きのよい音を立てて、想いを語った。喋り、歌い、おそろしいような激しさと、かつて聞いたこともないほど確かで純粋な言い廻しで朗誦した。めくらめっぽうなヴァイオリンのテーマにもとづいて、即興のヴァリエーションを奏でていた。(中略)聴衆はしまいには、彼よりも酔ってしまった。そしてスペイン人は、すばらしい熱狂で迎えられ、讃えられ、敬意を表された。しかしどうやら、土地の人たちの性格が、かれの気に入らなかったらしい。かれは、この一回だけで、あとは演奏を承知しなかった。
 この男は、いまどこにいるだろう? いかなる太陽が、その最後の夢を眺めただろうか? 世界を股にかけたその体は、何処の土に迎えられたろう? (中略)消え去った花の陶然とした香気は、どこへ行ったのか? そして、遠い日々の、あのお伽話のような落日の色彩は、いまいずこにあるのであろうか?」

「この論文を終るに当って、私は、いくつかの美しい言葉を書きしるしておく。私の言葉ではない、あまり人に知られてはいないが卓越した哲学者、音楽理論家であり、コンセルヴァトワール教授でもあるバルブローの言葉である。私はそのとき、何人かこの幸福の毒薬を服んだ人の混ったある集りで、かれの傍にいた。かれはいうにいわれぬ軽蔑の調子で、私にこういったものである。「理性的で精神的な人間が、詩的な至福の状態に達するために人工的な手段を用いる理由が、私にはわからない。熱意と意志さえあれば、そういう人間が超自然の存在にまで高まるには十分なはずだが。大詩人、哲学者、予言者とは、意志の純粋で自由な訓練によって、自分が同時に原因と結果、主体と客体、催眠者と被催眠者であるような状態に、到達した人のことだ」
 私もまったくかれと同意見である。」



「火箭」より:

「神は、君臨するのに、存在する必要さえもない唯一の存在である。」

「精神によって創られたものは物質よりももっと生きた生命をもっている。」

「群衆の中にいる時の快感は、数の増加を楽しむ気持の不思議なあらわれだ。」

「すべて(引用者注:「すべて」に傍点)は数である。数はすべて(引用者注:「すべて」に傍点)の中にある。数は個の中にある。陶酔は一つの数である。」

「美しい季節のしっとりとした夕暮の緑の闇。」

「大都会のもつ宗教的陶酔。――万有神教。我はすべての人、すべての人は我。
 渦巻。」

「――独創性の手段としての、徹底的率直さ。」

「アラビア模様は最も精神的な模様である。」

「アラビア模様はあらゆる模様の中で最も観念的なものである。」

「抽象以外のものに向けられる熱中は弱さと病気の徴候である。」

「私を愛してくれた人々は、世間から軽蔑されていた人たちだった。いや更に、世間のまともな人々の気に入るように言うなら、軽蔑すべき人たちだった。」

「静かな水の上でかすかに(左右に)揺れているあの美しい大きな船、のんびりとしたノスタルジックな様子のあれらの巨船は、声にならない言葉でわれわれに告げていはしないか、いつわれわれは幸福に向かって船出するのか、と。」

「演劇の中の素晴らしい側面、魔法とロマネスクなものを忘れないこと。」

「文学の根本的な二つの特質――超自然主義とイロニー。」

「霊を呼び降す魔法、魔術、としての言葉ならびに文字について。」

「《自己浄化と反人間性。》」
「注 原文は英語。Self-purification and anti-humanity.」

「誰の感受性をも軽蔑してはならない。各人の感受性はその人の天分である。」

「月並なものを創造すること、これが天才だ。」

「世界は終りに近づいている。世界が存続しうる唯一の理由は、世界が現に存在しているということだけだ。この理由は、その反対を示すあらゆる理由に較べて、なんと薄弱なことか。とくに世界は今後、なにかなすべきことがあるのか、という理由に較べて。」

「私の祖先は白痴か狂人で、立派なアパルトマンに住みながら、皆、怖ろしい熱情の犠牲者だった。」

「肉体の上でも精神の上でも、私にはつねに深淵の感覚があった。たんに睡眠の深淵のみでなく、行為の、夢想の、思い出の、欲望の、哀惜の、悔恨の、美の、数の、等々の深淵の感覚が。
 私は、悦びと恐怖の感情をもって、自分のヒステリーを育ててきた。今では私にはつねに眩暈がある。そして今日、一八六二年一月二十三日、私はある不思議な予告を受けた。痴呆の翼の風(引用者注:「痴呆の翼の風」に傍点)が私の上を吹きすぎるのを感じた。」

「オンフルールへ行くこと! できるだけ速く、これ以上に倒れてしまわないうちに。」



「赤裸の心」より:

「有用な人間であるということは、私にはいつも、なにかひどく醜悪なものに思われた。」

「今世紀の人々の解する意味での信念というものを私は持たない。なぜなら私は野心を持っていないのだから。」
「どうして私が成功しえようか、試みてみる気持すらないのだから。」
「しかしながら、私には、(中略)現代の人々によっては理解されえない意味での、いくつかの信念がある。」

「幼時からすでに私の中にあった孤独(引用者注:「孤独」に傍点)の感情。家庭のうちにあっても――とりわけ、友人のなかにいるとき――永久に孤独な運命の感情。」

「どんな人間にも、どんな時にも、二つの祈願が同時にあって、一つは神に向かい、一つはサタンに向かう。神への祈願、あるいは精神性は、向上への希求である。サタンへの祈願、あるいは動物性は、下降の悦びである。」

「海の眺めは、なぜかくも無限に、かくも永遠に、心地よいのか。
 なぜなら、海は広大さの観念と運動の観念を同時に与えるからである。」

「地上で興味あるものは宗教しかない。」

「極く幼い頃から、私は心のうちに相反する二つの感情を抱いていた、生の恐怖と生の恍惚と。」

「人非人(パリア)の真の偉大さについて。」



「書簡 14 母へ 一八四七年十二月四日土曜日」より:

「私はたいへん疲れています。頭の中に車輪のようなものが感じられます。」


「書簡 15 母へ 一八四七年十二月十六日」より:

「僕にとって手紙一通書くことは本一冊書くことより骨が折れます。」


「書簡 16 マリー・ドーブランヘ 〔日付なし〕」より:

「人は殆んどいつも書いたことを後悔するものです。」


「書簡 32 シャルル・アスリノーへ 一八五六年三月十三日木曜日」より:

「夢というものが君を興じさせるので、ここに一つお目にかけるが、(中略)いま朝の五時、だからこの夢は出来たてのほやほやというわけだ。これは僕がいつも悩まされる千もの夢の標本のうちの一つにすぎないということを注意してくれ給え、(中略)それらの完璧な奇抜さ、僕の諸関心事や色ごとなどに全く無縁であるというそれらの一般的性格は、僕をしてつねに、それらは象形文字の言語であって、僕がそれを解く鍵を持ち合せないだけだと、信ずるようしむけるのだ。
 それは(僕の夢の中では)、朝の二時か三時頃で、僕は一人で街の中を散歩していた。僕はカスティーユに会い、彼にはたしかそれから行くところがいくつかあったのだと思うが、僕は彼と一緒に行きたい、僕の個人的な用足しをするために彼と車に同乗したいのだと言った。そこで我々は一台の車に乗った。僕は大きな売春宿の女主人に、出たばかりの僕の本を贈呈するのを、一つの義務(引用者注:「義務」に傍点)と見なしていた。自分の手に持っていたその本を眺めているうち、それが猥褻な本だということが自ずとわかった(引用者注:「自ずとわかった」に傍点)、そのことは僕にその作品をその女に贈ることの必要(引用者注:「必要」に傍点)を説明した。その上、僕の内心では、この必要はその根底では、通りすがりに、その家の娼婦たちの一人と寝る一つの口実、一つの機会にすぎないのだった。そのことは、本を贈呈する必要なしには、そのような家に僕が行くことを敢えてしなかっただろうということを意味している。
 こういったことすべてをカスティーユには何も言わず、僕は車をその家の門に停めさせる、そして、長くは待たせないと約束してカスティーユを車中に残す。
 ベルを鳴らし中へ入るが早いか、僕は僕のペ××が、ボタンの外れたズボンの隙間から垂れているのに気付き、場所柄とはいえ、こんな恰好で人前に出るのはみっともないと判断する。その上、両足がひどく濡れているのを感じて、僕は自分が裸足である(引用者注:「裸足である」に傍点)こと、また足を、階段の下にある湿った沼の中に踏み込んだことに気付く。いやこれは、と僕は独語する、やる前に、またこの家から出る前に洗うとしよう。僕は登って行く。――この瞬間から、本のことはもう問題でなくなる。
 僕は互いに通じ合っている広大な通廊、――照明の暗い、――物悲しく色褪せた感じのする通廊、――の中に自分を見出す――古いカフェか昔の読書室、あるいは殺風景な賭博場みたいな所だ。娼婦たちはこの広大な通廊のそこここに散らばって男たちと話をしている。男たちの中には中学生たちの姿が見える。――僕は実に悲しく実に気おくれするのを感ずる。人が僕の足を見やしないかと心配する。僕は足を眺める、一方の足が靴を履いているのに気付く。――しばらく後で、僕は両足とも靴を履いているのに気付く。――僕をびっくりさせるのは、これら広大な通廊の壁が、額縁に入ったあらゆる種類のデッサンで飾られていることだ。みんな猥褻なものではない。建築物のデッサンやエジプト風の像さえもある。僕はだんだん強く気おくれがするのを感じ、誰かひとりの娼婦に近づく勇気が出ないので、すべてのデッサンを仔細に検討することに興ずる。
 これら通廊の一つの奥まった所に、僕は大変奇抜な一群を見つける。――無数の小さな額縁の中に、デッサンや、細密画(ミニアチュール)や、写真が見られる。それは羽毛のとても輝いている、彩色された鳥禽を表わしており、それらの鳥の眼は生きている(引用者注:「生きている」に傍点)。鳥の半分の部分しかないのもある。――あるものは奇妙な、怪物じみた、例えば隕石のように無定形な動物のすがたを表わしている。――それぞれのデッサンの一隅にはこういう注が付いている「娼婦某々、□□□歳、某々年この胎児を出生せしむ」。またそういうたぐいの違った注だ。
 こういうたぐいのデッサンは色事の考えを起させるには殆んどそぐわないものである、との観察が僕の頭に浮ぶ。それからもう一つ、こういう別の観察――売春宿を開業して、同時にこんな医学博物館まがいのものをそこに設置することを考えつく程愚劣な新聞は、全くの話この世に一つだけ、つまり「世紀」しかない。――実際、と僕は突然独語する、この淫売屋商売に元手を出したのは「世紀」であり、医学博物館も、この新聞の進歩、科学、啓蒙(引用者注:「進歩」「科学」「啓蒙」に傍点)などへの狂的嗜好によって説明されるわけだ。――そこで僕は、近代の愚劣愚行はそれ相応の神秘な有益さを持っており、しばしば、悪のために作られたものは、ある精神的からくりによって、善に転化する、ということに考え及ぶ。
 僕はひそかにわれとわが哲学的精神の正鵠さに舌を巻く。だがこれらすべての怪物の中に、一つだけ生きのびたものがいる。それはこの家の中で生れ、永遠に台石の上に身を保っている怪物だ。だから、生きながらにして、彼は博物館の一部をなしているわけだ。彼は醜くない。彼の顔はきれいでさえあり、東洋的な色合にひどく日灼けしている。彼のうちには多くのバラ色と緑色がある。しゃがんだ姿勢なのだが、奇妙な身をよじった恰好をしている。その上一匹の太い蛇のように、彼の身体と四肢のまわりを何度か巻いている何か黒っぽいものがある。僕は彼にそれが何なのかたずねる。すると彼は僕に、それは彼の頭から出ている途轍もない付属体で、何かしらゴムのような弾性のあるものであり、その長いこと長いこと、もしそれを頭の上に弁髪のように巻いたりしようものならとても重すぎて絶対に支えることなど出来ないほどだ、と言う。――そこで、彼はそれを四肢のまわりに巻きつけることを余儀なくされていると言うのだが、このことは他方、よりみごとな効果を生んでいる。僕は長く怪物とおしゃべりする。彼は僕に彼の悲しいことや辛いことを打明ける。もう数年来、大衆の好奇心のおかげで、彼はこの部屋、この台石の上に、身を保つことを余儀なくされている。だが彼のいちばん辛いのは食事の時間だ。生きものであってみれば、彼は宿の娼婦たちと一緒に食事することを、ゴムの付属体をくっつけて、よろよろしながら食堂まで歩くことを――余儀なくされており、食堂では、そいつを身体に巻きつけたままにしておくか、一巻きの綱のように椅子の上にのせねばならない、と言うのは、もしそいつを地面にひきずりっ放しにしようものなら、そいつは彼の頭をうしろに引っくりかえしてしまうだろうからだ。その上、彼は、小柄な小じんまりした彼は、大柄で容姿のよい娼婦の傍らで食べることを余儀なくされているのだ。――ところで彼はこういった説明すべてを、恨みがましい顔一つせず僕にしてくれる。――僕は敢えて彼に触ったりはしないが、彼に興味を持つ。
 その時(これはもう夢の中の話ではない)、妻が部屋の中で何か家具にぶつかって音を立て、それが僕の目を覚す。僕は疲労し、くたくたになり、背中や両脚や腰がずきずき痛んで目を覚ます。――僕は例の怪物の身をよじった恰好で眠っていたのだろうと思う。」



「書簡 54 プーレ=マラシへ 一八六〇年一月八日日曜日 夕刻」より:

「メリヨン氏が名刺を送ってよこし、氏と私は会って話をしました。」
「自作の大きな版画のある一枚の中で、彼は、小さな気球に代えて、猛禽の雲なす一群を置いた、それで私が、パリの空にこんなにたくさんの鷲を描くのは本当らしく見えないと注意したところ、彼が答えて言うには、これは根拠なしにやったことではない、なぜならあの人々(引用者注:「あの人々」に傍点)(皇帝の政府)は、典礼に従って前兆を調べるために何度も鷲を放った、――このことは新聞に、「報知」にさえ載ったと、こうなのです。
 彼はあらゆる迷信に対する敬意をすこしも包みかくさないと、言っておかなければなりませんが、彼は迷信を説明することが下手だし、いたるところに陰謀をかぎつける。」
「彼は、エドガー・ポオなる男の小説を読んだことがあるかと、私にたずねました。私は、ポオの小説なら誰よりもよく知っている、それはゆえあってのことだ、と答えました。すると彼は、たいそう強い調子で、このエドガー・ポオの実在を信ずるかどうかときくのです。私は、当然のことながら、それではポオの小説は誰の作と思っているのかと聞き返した。彼はこう答えました――たいそう器用で、たいそう力があって、万事に通じている文学者たちの、団体の作だ(引用者注:「たいそう器用で~」以下に傍点)。そして、彼がそう言う理由のひとつはこうです――「モルグ街(引用者注:「モルグ街」に傍点)。私は屍体公示所(モルグ)のデッサンを描いたことがある。それからオラン・ウータン(引用者注:「オラン・ウータン」に傍点)。私はよく猿に似ていると言われた。小説中の猿は、二人の女、母と娘を(引用者注:「二人の女、母と娘を」に傍点)殺害する。ところで私も、二人の女、母と娘を(引用者注:「二人の女、母と娘を」に傍点)精神的に殺害したことがある。私はいつも、この小説を、私の災厄を暗(あん)に扱ったものと取ってきました。エドガー・ポオが(誰にも助力を受けなかったものとして)この短篇を書いた日付をつきとめて、その日付が私の人生の出来事と符合するかどうか分るようにして下さるなら、たいそうありがたく思うことでしょう。」
 彼は、ジャンヌ・ダルクに関するミシュレの著書について、嘆賞の念をこめて語りました。ところが彼は、この本はミシュレの作でないと信じ込んでいるのです。
 彼の最大の関心事の一つは、カバラ学です。ところが彼は、カバラの専門家には笑止千万と思われるような、奇抜な仕方で解釈するのです。
 意地の悪い奴らといっしょになって、こうしたことどもを笑ったりしないで下さい。どんなことがあろうと、才能ある人間に害だけはしたくないと思っている私なのですから……
 彼が去った後で、ぼくは自問したのです――いつだって、精神にも神経にも、発狂するに必要なだけのものはそなえていた私が、発狂しなかったのは、いったいどうした具合なのか。真剣な話、天に向かってパリサイ人の祈りをささげずにはいられませんでした。」



「書簡 64 母へ 一八六一年五月六日」より:

「自殺に話をもどすなら、これは固定観念ではなくて、周期的にもどってくる観念ですが、お母さんを安心させるに違いないことがひとつあります。自分の仕事を整理してからでなければ死ねないということです。(中略)なにゆえ自殺か。借金が原因か。それはそうだが、借金はなんとかすることのできるものです。わけてもそれは、長く続きすぎた(引用者注:「長く続きすぎた」に傍点)どうにも耐えがたい状況の結果である、ひどい疲労が原因なのです。一刻一刻が、僕はもう人生になんの興味を感じていないことを証明してくれます。(中略)僕の文学上の地位は、良いという以上です。やりたいことができます。何を書いても印刷されるでしょう。僕は一種俗受けのしない精神をもっているから、金はあまりもうからないでしょうが、大きな名声をのこすであろうことは、自分で知っている――生きる勇気さえもてばの話ですが。だが、僕の精神的健康は、どうにもひどいものです――もう駄目かも知れない。」


「書簡 74 母へ 一八六二年八月十一日」より:

「僕の人生ぐらいだらしなく浪費された人生は他にあるまいと思っています。本当に妙なのは、僕がそこになんら快楽を味わっているわけではない、ということです。
 僕自身の僕自身に対する異常な闘いや、絶望や、夢想などを、お話したくはありません(またそのひまもないことだし)。――また、お母さんは僕の関心をもつただ一人の生きた人間ですと、百度目の断言をくり返そうとも思いません。僕がそう申し上げた以上、信じていて下さるはずだと、僕には思われます。今や僕はひとつの危機、大決断を下すべき時期にさしかかっているのを、僕は感ずる――すなわち、今までやってきたことすべての正反対をなすべき時、栄光のみを愛し、報酬の期待がなくとも(引用者注:「報酬の期待がなくとも」に傍点)かまわず、休みなしに仕事をし、あらゆる快楽を断(た)って、いわゆる偉大な人物となるべき決意をすべき時が、来ているのです。それから最後に、ちょっとした(引用者注:「ちょっとした」に傍点)財産を作るようにも心がけなければならない。僕は金銭を愛する人々を軽蔑します。しかし僕は、他人への屈従と貧窮のうちに老年をむかえることが、ぞっとするほどこわいのです。」

「ドールヴィリ、フローベール、サント=ブーヴを除いては、誰とも話が通じません。テオフィル・ゴーチエだけが、僕が絵画の話をする時、理解してくれる。僕は生活を嫌悪しています(引用者注:「僕は生活を嫌悪しています」に傍点)。くり返して言いましょう――僕は人間の顔から逃げ出そうとしているのです、それも特にフランス人の顔から。」/span>


「書簡 79 アンセルへ 一八六四年十月十三日木曜日」より:

「私は末長くいくらかの才能をもって悪を描くことを敢えてした罰を、受けなければならないでしょう。」

「そうです、私はオンフルールへ帰ることを必要としています。私は母を必要とし、私の部屋を、私の蒐集物(コレクション)を必要としています。(中略)――私はオンフルールで、山ほどある未完成の事ども――『パリの憂愁』(なにしろ久しく中断している)、『哀れなベルギイ!』と『わが同時代人たち』を仕上げるでしょう。」



「書簡 84 母へ 一八六六年三月五日月曜日」より:

「オンフルールに身をおちつけることは、僕にとっていつも、最も大切な夢でした。」







こちらもご参照ください:

『ボードレール全集 Ⅲ』 福永武彦 編集
『トマス・ド・クインシー著作集 Ⅰ』 
豊崎光一 『ファミリー・ロマンス』



























































『ボードレール全集 Ⅲ』 福永武彦 編集

「彼はいわばどぶのなかで死んだのだ。(中略)まったく公平であるためには、彼の悪徳の一部、とりわけその泥酔癖の責任を、神の摂理によって彼がとじこめられていたきびしい社会のせいにするべきであろう。」
(ボードレール 「ポオについての雑稿」 より)


『ボードレール
全集 Ⅲ』
 
福永武彦 編集
訳者代表: 平井啓之


人文書院 
1963年10月20日 初版印刷
1963年10月30日 初版発行
24p+573p 口絵(モノクロ)2p 
四六判 丸背布装上製本 機械函
定価850円
装釘: 中井貞次

月報 3 (6p):
ボードレールの批評作品(佐藤正彰)/ボードレールの詩(吉田健一)/ボードレールの和らぎ(篠田一士)/ボードレール・逸話と伝説3(阿部良雄)



全四冊。
本文二段組。本文中図版1点。



ボードレール全集



目次:

文学批評家としてのボードレール (中村真一郎)

文学批評 1
 エドガー・ポオ、その生涯と作品 (平井啓之 訳)
 エドガー・ポオについての新しい覚え書 (平井啓之 訳)
 ヴィクトル・ユゴー (辻昶 訳)
 マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール (高畠正明 訳)
 オーギュスト・バルビエ (高畠正明 訳)
 ペトリュス・ボレル (高畠正明 訳)
 エジェジップ・モロー (高畠正明 訳)
 ギュスターヴ・ル・ヴァヴァスール (高畠正明 訳)
 テオドール・ド・バンヴィル (高畠正明 訳)
 ピエル・デュポン(一八五一) (橋本一明 訳)
 ピエル・デュポン(一八六一) (橋本一明 訳)
 テオフィル・ゴーチエ(一八五九) (渡辺明正 訳)
 テオフィル・ゴーチエ(一八六一) (渡辺明正 訳)
 ルコント・ド・リール (高畠正明 訳)

音楽批評
 リヒアルト・ワグナーと『タンホイザー』のパリ公演 (白井健三郎 訳)

文学批評 2
 ジャン・ド・ファレーズ著『ノルマンディー短篇集』と『むだばなし』 (清水徹 訳)
 ルイ・ド・セヌヴィル著『解放されたプロメテウス』 (清水徹 訳)
 シャンフルーリの『短篇小説集』 (清水徹 訳)
 ジュール・ジャナンと『公現祭のお菓子』 (清水徹 訳)
 ギュスターヴ・フローベール著『ボヴァリー夫人』 (山田𣝣 訳)
 シャルル・アスリノー著『二重生活』 (粟津則雄 訳)
 レオン・クラデル著『こっけいな殉教者たち』 (粟津則雄 訳)
 ヴィクトル・ユゴー著『レ・ミゼラブル』 (辻昶 訳)

文学批評補遺
 エドガー・ポオ、その生涯と作品(初稿) (平井啓之 訳)
 ポオについての雑稿 (平井啓之 訳)
 レアリスムあるが故に (菅野昭正 訳)
 『危険な関係』についてのノート (菅野昭正 訳)
 ポール・ド・モレーヌ (菅野昭正 訳)
 ヴィルマン氏の精神と文体(抄) (清水徹 訳)
 ジュール・ジャナンへの手紙(草稿) (篠田浩一郎 訳)

エッセイ
 愛に関する心慰める箴言抄 (橋本一明 訳)
 若き文学者への忠言 (橋本一明 訳)
 玩具のモラル (福永武彦 訳)
 付録 (人が生の道を進むにつれ、……)他三篇 (阿部良雄 訳)

ジャーナリズム
 ポンサール(『パリ劇壇つや話』より) (篠田浩一郎 訳)
 天才はどのようにして借金を払うか (篠田浩一郎 訳)
 道義的な演劇と小説 (鈴木道彦 訳)
 異教派 (鈴木道彦 訳)
 新聞「哲学者ふくろう」の編集と構成のためのノート (篠田浩一郎 訳)
 「ル・フィガロ」編集長への手紙 (阿部良雄 訳)
 アカデミーの改革 (篠田浩一郎 訳)
 シェークスピア生誕記念祭 (篠田浩一郎 訳)
 付録 (篠田浩一郎 訳)
  新聞「侃々諤々」の「雑談」
  新聞「公共福祉」
  新聞「国民論壇」
  新聞「アンドル県の代表者」

文明批評
 哀れなベルギイ (阿部良雄 訳)
 付録 べるぎいノ魅惑 (阿部良雄 訳)

解題と注
 文学批評 1
 音楽批評
 文学批評 2
 文学批評補遺
 エッセイ
 ジャーナリズム
 文明批評




◆本書より◆


「エドガー・ポオ、その生涯と作品」より:

「先頃ひとりの不幸な男が法廷に引きだされたが、その額はめずらしく風変りな入墨でかざられていた、つきなし(引用者注:「つきなし」に傍点。原文は「Pas de chance!」)と。彼はこうしてまるで書物の表題のように、じぶんの人生のレッテルを眼のうえにもちはこんでいたのであり、訊問によって、この奇妙なレッテルが残酷なまでに真実であったことが証したてられたのである。文学史のなかには、これに似た運命の人々、真の呪いを受けた人々がおり、――その額のまがりくねったひだのなかにふしぎな字体で書かれた悪運(引用者注:「悪運」に傍点。原文は「*guignon*」)の字をもちはこんでいる連中がいる。盲目の贖罪の天使は彼らを引っとらえて、他人のみせしめにと力のかぎり鞭うつ。その生涯が才能や美徳や優雅さを示しても無駄である。社会は彼らにとってはいわば特別の呪詛であり、彼らのうちにみずからの迫害があたえた数々の弱味を責めたてる。――運命をやわらげるためにホフマンが何をやらなかったろうか、また宿命を祓いのけるためにバルザックがくわだてなかったことがあろうか。――それではすでに揺籃期から不幸をととのえるいわば悪魔の「摂理」が存在し、――円形劇場に殉教者を投ずるように、敵意にみちた環境のなかに精神的で天使のようなうまれつきの人々を予謀(引用者注:「予謀」に傍点)をもって投入するのであろうか。それでは、祭壇にささげられ、われとわが身の廃墟を通って死と栄光へと歩みゆくべく運命づけられた、聖なる(引用者注:「聖なる」に傍点)たましいたちが存在するのであろうか。「闇黒界(引用者注:「闇黒界」に傍点)」の夢魔が永劫にこれらのえらばれたたましいたちを取りかこむのだろうか。」

「エドガー・ポオの生涯はなんといたましい悲劇であることか! 陳腐さのためにそのおそろしさが一そう高められるおそるべき終焉であった彼の死よ!――私が読みえたすべての文献から、私には、合衆国が畢竟大きな牢屋にすぎなかったのであり、彼はそれを、もっと香ぐわしい世界に生きるようつくられた生き物の熱にうかされたような焦燥をもって、はせめぐったのである、という確信が生まれた。それはガス灯に照らされた宏大な蛮境にすぎず、――そして、彼の詩人としての、或いは酔漢としてさえの内面生活、精神生活は、この嫌悪にみちた雰囲気の影響をのがれるための不断の努力に他ならなかったのだ。民主的社会の世論の独裁権とはなんと情容赦もないことか。」



「E・ポオについての新しい覚え書」より:

「詩とは、人がたといほんのわずかでもじぶんの内部にくだりゆき、みずからのたましいに問いかけ、その熱情の思い出をよびおこそうとするならば、詩自体以外の他の目的をもたない。それは他の目的をもつことはできず、したがっていかなる詩も、詩を書くたのしみのためにだけ書かれた詩ほど、偉大で、高貴で、真に詩の名にふさわしいものはありえない。」


「ペトリュス・ボレル」より:

「諺となり形容詞となる人の名があるものだ。一八五九年に、ある一小新聞が、陰欝で極端な性格をもった詩あるいは小説から受ける不快感や軽蔑を表明しようとするとき、ペトリュス・ボレル! といった言葉を投げつける。それで、万事はいいつくされる。判決は下され、作者は雷にうたれるというわけだ。
 ペトリュス・ボレルあるいは狼狂者(リカントロープ)シャンパヴェール。かれは『狂詩曲』 Rhapsodies や『背徳短篇集』 Contes immoraux、『ピュティファル夫人』 Madame Putiphar などの著者であり、ロマン派の暗い夜空に輝くいくつかの星のひとつであった。それはいまでは忘れられ消え失せた星であり、今日いったいだれがそれを憶えてい、まただれが決然とそのことを語る権利を主張するほどにその星のことをよく識っていようか?」
「狼狂とはよくも名づけたものだ! この人間狼、あるいは狼人間。いったいいかなる仙女か悪魔がかれを憂欝の陰惨な森に投じたのであろう? また、いかなる悪霊がかれの揺籃に身をかがめ、お前は人に好かれてはいけない(引用者注:「お前は~」に傍点)といったのであろうか? 魂の世界には「不運(引用者注:「不運」に傍点。原文は「le *Guignon*」)」といわれるなにか不可思議なものがあり、われわれのだれ一人として「宿命」に異議を説える権利はないのだ。」



「エジェジップ・モロー」より:

「ジェラール・ド・ネルヴァルは、あれほど長いあいだかれの大いなる喜びであった放浪から憂欝をひきだし、その結果そこに、その可能なる唯一の終局、唯一の治癒として自殺という事態が到来する。偉大なる天才エドガー・ポオは、泥酔のはてに小川に身を横たえる。長い吠え声、執念深い呪詛が、この二人の死者たちにつきまとうだろう。人びとはみな憐れみをかけまいとし、利己主義の早急な判断を下すだろう。苦しむのが当然な人たちのことで、どうして嘆いたりできるだろうか? と。それに当節は不幸な人間は不埒なのだと故意に考えようとする。そして、もしこの不幸な男が才智と悲惨を兼ねそなえているなら、またもしかれがジェラールのように、素晴らしい、活潑な、輝かしい、すぐにもものごとを知る知性に恵まれているなら、あるいはもしかれがポオのように、広大で空や地獄のように深い天才の所有者であるなら、なんとそのときこそその不幸な男の不埒さはまったく許しがたいものとなるのだ。それこそ天才は大衆にたいする非難であり、侮辱なのだといわんばかりだ!」
「ポオもジェラールも、二人ともその背徳的な行為にもかかわらず、要するにその言葉のもっとも広い、もっとも微妙な意味での文学者であった。彼らは不可避的な法則の下で慎ましやかに身を屈し、多かれ少かれ神秘的な方法に従い、彼らなりの流儀ではあるが、活潑に、勤勉に、事実彼らの時間を仕事に費し、夢想や瞑想を生かしたのである。つまりひとことでいえば、喜んで彼らの職務を実行したのだ。」



「リヒアルト・ワグナー」より:

「芸術家、この偉大なる名に真にふさわしい人間は、本質的に特有な(引用者注:「特有な」に傍点) sui generis 何ものかを所有しているはずである。その何物かのゆえにこそ、彼は彼(引用者注:「彼」に傍点)であって、他の者ではないのだ。」


「『二重生活』」より:

「私はもはやその内容を正確に覚えてはいないのだが、ビュフォンに「二重人(ホモ・デュプレックス)」(homo duplex)と題された一章があって、この神秘的でさまざまな思念に満ちた短かな題名は、常に私を、夢想のうちに投げこんだ。(中略)われわれのうちの誰が、二重人(引用者注:「二重人」に傍点)でないであろうか? 私は、その精神が、幼い頃から沈思に触れられ(引用者注:「沈思に触れられ」に傍点) touched with pensiveness ている人々、行為と意志、夢想と現実というように常に二重であり、常にその一方が他方を損ない、他方の取分を横領している人々のことを言いたいのである。彼らのうちの或る者は、炉辺の心地よさを顧みず、炉辺にありながら遙かなる旅を重ね、他の或る者は、摂理によって与えられた数々の冒険を有難いとも思わず、数メートル四方の空間に閉じこめられた引籠った生活の夢を愛撫している。路上に置き捨てた意図、とある旅籠屋に忘れて来た夢想、障害に阻まれた計画、肥沃だが捨てて顧みられぬ土地から有毒な植物が生い出るように、成功から湧き出る不幸や病弱、皮肉と混りあった悔恨、束の間思いに沈む放浪者のまなざしのような、背後に投げかけたまなざし、理想の生活の布地を刻々にいためつけ引き裂く、地上の生活の断え間ないからくり、これらが、この精妙な書物を形作る主なる要素である。」


「『レ・ミゼラブル』」より:

「この作家のうちには、最初から、その輝かしい文学生活の初めから、弱い者や社会ののけ者や呪われた者に対する思いやりが見られると申しあげておこう。彼の作品には、早くから、正義感が名誉回復への趣味となって現われているのである。」

「この痛ましい苦悩と葛藤の画廊には、胸の悪くなるような恐ろしい一人物の姿がある。それこそ、あの警視、監視者、厳格で冷酷な司直、物の道理をわきまえない正義、解釈ぬきの法律、情状酌量ということが全然わからない野蛮な知性(これを知性と呼べようか?)、ひとことで申せば「精神の欠けた法文」、それこそ、あの憎むべきジャヴェールなのである。(中略)筆者としては、世の人々から罪人視される危険を覚悟して(中略)ありていに申しあげると、ジャヴェールは、血のしたたる肉に飢えた猛獣のように正義に飢えた度しがたい怪物、一口で言うならば、つまり私の不倶戴天の「敵」のように思われるのである。」

「このようなわけで、『レ・ミゼラブル』は隣人愛の書である。(中略)「悲惨な人々(レ・ミゼラブル)」(悲惨な生活に苦しめられ(引用者注:「苦しめられ」に傍点)、悲惨な生活から辱かしめを受けている(引用者注:「辱かしめを受けている」に傍点)人々)のために、現代の最も雄弁な作家の口から発せられた弁護演説である。」
「ときには詩人や哲学者が、利己主義的な「幸福」の髪の毛をちょっとばかりひっつかみ、その鼻づらを血と汚物の中につっこんでゆすぶりながら、つぎのように言ってやることも有益なのではなかろうか? 「おまえの仕業を見てみろ、おまえの仕業を飲んでみろ」と。」



「E・ポオ、その生涯と作品(初稿)」より:

「私はといえば、この学校の描写から不吉な香気がたちのぼるのを感ずる。そこには幽閉のくらい歳月の戦慄がながれているのを感ずる。牢屋の時間、ぱっとしない見すてられた幼年期の不安、われわれの敵である教師への恐怖、専横な友人への憎悪、心の孤独さ、(中略)かくも多くの愁いの種も彼を圧倒しなかった。若くして彼は孤独を愛する。或いはむしろ、彼は自分を孤独とは感じない。彼は自分の数々の情熱を愛しているから。(中略)意志の鍛錬と孤独な自負とが彼の生涯に大きな役割を果たすであろうことがすでにみてとれる。(中略)あわれな小児は父も母ももたぬが、しかも彼はしあわせである。」

「これほど社会の約束事から解脱してしまった人もなく、通行者を気にとめなかった人もなく、また、なぜ或る日には下等なカフェでは受け入れられ、上流人士たちが(引用者注:「上流人士たちが」に傍点)飲む場所には入場をこばまれたか、ということに無頓着であった人はいない。」
「ポオはほとんどいつもひとりぼっちであった。そのうえ、彼の頭脳のおそるべき緊張と労作のつらさは、酒やリキュールのなかに忘却のよろこびを見出させることともなった。彼は他人にとって疲労の種となるようなことからなぐさめを見出していた。結局、文学上のうらみ、無限への眩暈、家庭生活のくるしみ、貧窮の屈辱、こういったすべてのものを、ポオは墓窟のやみにのがれるように泥酔のやみのなかにまぎらそうとしたのである。」

「「メールシュトレーム」。引力の法則をあたらしいやり方で究めることによって、いまだその底を見きわめられたことのない深淵のなかに降りゆけぬものであろうか。」
「「催眠術下の啓示」。作者の出発点はあきらかに次のようなものであった。すなわち、磁気流体とよばれる未知の力のたすけをかりて、死後の世界を支配する法則を発見できぬものであろうか、というものである。」
「別の作品だが、消滅した或る惑星上に生きていた魂の物語がある。出発点は以下のごとくである。すなわち、殺人力をもった彗星がちかづいてきた場合、その世界の住民たちの肉体的精神的現象はどんなものとなるだろうか。」
「「群集の人」はたえず群集のさなかにわけ入ってゆく。彼は人間の海を無上のよろこびをもっておよいでゆく。ゆらめく影と光とにみちたたそがれ時がせまりくると、彼はしずかな街々をのがれでて、人間物質がいきいきとうごめいている街々を熱心にたずねもとめる。光明と生活の圏がせまくなりゆくにつれて、彼はその中心を不安気にもとめる。洪水にあった人々のように、彼は大衆の動揺の最後の絶頂に絶望的にしがみつく。そしてこれですべてである。」

「ふかい愛憐の気持から発しているものであるゆえに、私ははばからずに語るのであるが、よっぱらいであり、まずしく、迫害され、のけものであったエドガー・ポオの方が、ゲーテとかスコットとかのような温和で有徳の人たちよりも私の気に入るのである。私は彼について、また特別な一クラスをなす人々について、教理問答がわが神について語っている次の言葉をすすんで語ろう、――「彼はわれわれのために大いにくるしんだ」と。」



「ポオについての雑稿」より:

「彼はいわばどぶのなかで死んだのだ。ある朝、警官が彼をひろいあげてバルチモアの病院にはこんだ。彼はホフマンやバルザックやその他の多くのひとびととおなじく、そのおそるべき運命に打ちかちはじめたまさにそのときに、世を去ったのである。まったく公平であるためには、彼の悪徳の一部、とりわけその泥酔癖の責任を、神の摂理によって彼がとじこめられていたきびしい社会のせいにするべきであろう。
 しあわせであったか、あるいはほぼ平穏無事であったときはいつも、ポオ氏は誰よりも愛想よく、ひと好きのする人間であった。この変りものの激しやすい作家は、妻の母親、クレム夫人の天使のような献身のほかには、その生涯においてほんとうのなぐさめとなるものは見いださなかった。夫人に対してはあらゆる孤独な心の持主が当然の敬意を表するだろう。」

「しかし永遠に彼への讃辞となるであろう点は、彼が真に重要で、それだけが精神的な(引用者注:「それだけが精神的な」に傍点)人間の注意にふさわしいようなすべての主題に没頭したことである。すなわち、確率、精神的疾患、推測術、死後の生についての希望と計算、この浮世のすね者や賤民の分析、まさに象徴的な道化調、などである。」



「ジュール・ジャナンへの手紙」より:

「だからいったいどうしてこういつも陽気さばかりもとめるのでしょうか? たぶんあなたの気晴しのためでしょう。しかしどうして悲しみにもその固有の美のないことがありましょう? さらに恐怖にも? すべてのものに? 何によらずいずれのものに?」

「何ゆえに詩人がお菓子作りの職人であると同様に毒薬製造人であり、人びとを驚愕させる見世物に使う蛇の飼育掛りであり、しかも自分の育てた爬虫類に恋こがれて、目前の群衆の味わう恐怖と、蛇たちのとぐろの冷たい愛撫とを楽んでいる蛇使いであってならない理由があろうか?」

「詩人というものは、老いてもいず、若くもないのだ。詩人は自分の欲する者になれる。童貞のままで、彼は放蕩を歌い、酒を飲んだことがなくても、酩酊にすいて歌うことができる。」



「玩具のモラル」より:

「ごく昔のことである。――どのくらい昔かと訊かれても僕にもよく分らない。ごくまだ幼い時分、いわば靄でもかかっているような幼年時代に遡っての話だが、――僕は母親に連れられて、パンクーク夫人とやらいう人の家を訪問したことがある。(中略)ポワトヴァン街の、ひっそり静まりかえった通りにある、中庭の四隅が草で覆われているようなお屋敷、そういうお屋敷の一つである。この家は、大層な客好きとして知られていて、そういう日には、明々(あかあか)と電灯が点いて賑わっていたものだ。」
「このパンクーク夫人が、天鵞絨(びろうど)と毛皮とでその身を装(よそお)っていたことを、僕ははっきりと覚えている。暫く経ってから、彼女は言った。「この可愛い坊やに何かあげましょう、わたしのことを忘れないでいてくれるためにね。」彼女は僕の手を取って、幾つかの部屋を通りすぎた。それから一つの部屋のドアを開いたが、そこにはまったく妖精の国へでも紛れ込んだような、驚くべき光景が展開していた。四方の壁が眼に見えないほど、玩具という玩具で覆われていた。天井は花が咲いたような玩具の群で掻き消され、それらはまるで見事な鍾乳石のように垂れ下っていた。床には、やっと歩けるだけの狭い道が残っていた。そこは、むやみと高価なものからごく安値(やすね)のものまで、またごく簡単なものからすこぶる複雑なものまで、ありとあらゆる種類に充ちた玩具の国だった。
 「此所は子供たちの宝物(たからもの)のお倉なんですよ、」と彼女は言った。「わたしは子供たちの分として、ちょっとした予算を取っておいて、可愛い坊やがわたしに会いに来て下さった時には、此所にお連れして、記念に一品(ひとしな)差しあげることにしているのですよ。さあお好きなのをお選びなさいな。」
 子供にあっては、欲望と熟考と行動とが、いわば唯一の才能をなしているので(そこが、かの堕落した大人どもと明かに違う点である。大人どもは、反対に、熟考のあまり時間の無駄損(むだぞん)をするのが落ちである)、そうした子供らしい驚くべき明敏な猪突猛進で、――僕はたちまち、最も美しい、最も高価な、最も見映えのする、最も新しい、最も奇妙きてれつな玩具を、ひっつかんだ。母親は僕の遠慮知らずに金切声を立て、僕がそれを貰って行くことに絶対に反対した。母親は僕がごく月並(つきなみ)な代物(しろもの)で満足するようにと説得した。しかし僕がどうしても承知しなかったので、あげくのはてに折れ合って、僕は中くらいのところ(引用者注:「中くらいのところ」に傍点)で我慢することにした。」
「この小事件の結果として、僕は玩具屋の前で足を止めて、奇抜な形、あざとい色彩に充ちた、ごたごたした玩具の大群を見まわす度ごとに、僕にとってまるで玩具の「精(せい)」のように見えた、かの天鵞絨(びろうど)と毛皮とに身を装った夫人を、思い出さないということはないのである。」
「子供は誰でも、自分たちの玩具に向ってお喋りをする。玩具は、彼等の小っぽけな頭脳の暗室の中に縮小された、人生の一大ドラマに登場する俳優たちとなる。子供はその遊びによって、彼等の偉大な抽象力と、彼等の高度の想像力とを立証する。子供は玩具なしでも遊ぶ。僕は何も、奥さまごっこをして、お客さまになり合ったり、想像上の赤んぼを見せ合ったり、自分たちのお化粧の話をし合ったりしている女の子たちのことを言いたいのではない。可哀想にこの子たちは母親の真似をしているのである。未来における女性永遠の子供っぽさを、早くも演じているわけである。そしてこの女の子たちのうちの一人として、僕のお嫁さんになる者がないことは確実である。――ところで僕の言いたいのは、馬車ごっこ、椅子を使ってやる例のいつに変らぬ馬車ごっこのことである。馬車も椅子、馬も椅子、旅客も椅子、生き身なのは御者だけである! つながれた馬の方はびくとも動かない、にも拘らず、馬は架空の空間を矢のように速く疾駆する。何と簡単な演出だろう!」
「それに戦争ごっこ! チュイルリイ宮殿の中で、本物の鉄砲と本物のサーベルとで演じられるようなのではなく、僕の言うのは一人きりで敵味方を戦わせ、それを指揮している孤独な子供の戦争ごっこである。兵隊は、壜の栓とか、ドミノとか、将棋の歩(ふ)とか、お手玉(てだま)とか、何でも結構。要塞は、板でもよければ本でもよいし、弾丸は、ビイ玉でも何でも自由に使う。戦死者あり、平和条約あり、人質あり、捕虜あり、軍事税もある。」
「こういうふうに易々と自分の想像力を満足させられるということは、幼年時代がその芸術的な概念作用において、精神性(スピリチュアリテ)を持つことの証拠である。玩具は、子供にとって芸術への最初の入門であり、更に言えば、寧ろ芸術の最初の実現でもある。」
「こういう玩具は、それを作った者にとって、なるべく簡単な、なるべく安価な材料を使って、出来る限りその実物に似せた代物(しろもの)を作り出すことが問題だった。――つまり五文とか、二文とか、一文とかの安い玩具なのだ。」
「――世間には決して玩具を与えようとしない両親がいるものである。これは人間の本性というものを研究したことがなく、一般的にまわりにいるすべての人を不幸にしてしまうような、生真面目(きまじめ)な、あまりにも生真面目(きまじめ)な連中である。なぜだか知らないが、こういった人たちは新教(プロテスタンチスム)のの厭な臭いを発散しているように僕は思う。彼等は、暇を潰すための詩的な方法というものを、知りもしなければ認めようともしない。これはパンにくらいつくという条件のもとでなら、悦んで貧乏人に一フランをくれてやりもしようが、居酒屋で咽喉をうるおすためと聞けば、二文銭といえどもきっと拒絶するような連中である。こうした物凄く理性的な、かつ詩的なものに真向から反対するような階級の人たちには、僕も随分と苦しめられて来たものだが、連中のことを考えると、僕はいつも憎悪の念が僕の神経をつねって、これでもかこれでもかと揺すぶるような気がする。」



「哀れなベルギイ」より:

「フランスはたしかに野蛮国だ。ベルギイも同様。
 「文明」は、どこかの、まだ発見されていない小種族のところに逃げこんでしまったのかも知れない。

 パリっ子特有の、ものを一般化して考える危険な能力を警戒しよう。」

「世界はぼくにとって住むことのできないものになった、と書こうか。」

「聖ルー(引用者注:「聖ルー」に傍点、以下同)。不気味で粋(いき)な、驚歎すべき建築。聖ルーは、今までぼくの見たどのイエズス会作品とも違っている。黒(引用者注:「黒」に傍点)い糸、バラ色(引用者注:「バラ色」に傍点)の糸、銀(引用者注:「銀」に傍点)の糸で刺繡された、霊柩龕(がん)の内面。ことごとく、変化に富み・繊細で・精巧で・奇怪(バロック)な様式をそなえた、懺悔聴問房――新たなる古代美術(引用者注:「新たなる古代美術」に傍点)。(中略)聖ルーは、恐ろしくて甘美な霊柩龕だ。」

「ほとんど完全に保存された、都市の亡霊、都市のミイラ。死、中世、黒く装ったヴェネツィア、家常茶飯の幽霊、および墓の匂いがする。大きなペギーヌ会修道院。諧律奏鐘(カリヨン)。いくつかの歴史的建築物(モニュメント)。ミケランジェロ作とされている彫刻。しかしながら、ブリュージュもまた、消えてゆく者である。」








こちらもご参照ください:

『ボードレール全集 Ⅳ』 福永武彦 編集
ラフカデイオ・ヘルン 『東西文学評論』 十一谷義三郎・三宅幾三郎 訳 (岩波文庫)
阿部保 訳 『ポー詩集』 (新潮文庫)
ペトリュス・ボレル 『ボレル小説全集 シャンパヴェール ― 悖徳物語』 金子博 訳
ジョルジュ・ロデンバック 『死都ブリュージュ/霧の紡車』 田辺保・倉智恒夫 訳 (フランス世紀末文学叢書)

































































































 


































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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