E・M・シオラン 『時間への失墜』 金井裕 訳 (E・M・シオラン選集 4)

「わたしたちに残されている唯一の手段は、(中略)行為そのものを放棄することであり、非生産性を厳守し、わたしたちのエネルギーと可能性の大部分を利用せぬままにしておくことだ。」
(E・M・シオラン 『時間への失墜』 より)


E・M・シオラン 
『時間への失墜』 
金井裕 訳
 
E・M・シオラン選集 4

国文社
2004年7月1日 改訂版第1刷発行
172p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円+税



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、E. M. Cioran: La chute dans le temps, Éditions Gallimard, 1964. の翻訳である。」


本書「改訂版あとがき」より:

「再版に当り、旧訳の全面的見直しを行った。」


改訂版(初版は1975年刊)。九つの章で構成された長篇エッセイです。
本書は「honto」で注文しておいたのが届いたのでよんでみました。税込2,160円-17ポイントで2,143円でした。


シオラン 時間への失墜


エデンの「永遠」の世界から追放された「人間」(アダム)は、「時間」へと失墜し、「歴史」的存在になって「文明」を築きましたが、シオランによれば「人間」とか人間の「文明」とかいうのはどうしようもなくひどいものなので、人間は前向きに努力すればするほどひどい結果をまねくことになります。人間は「文明」を拒絶し、「植物」のようになることによって、「時間」のうちに安らぐこともできたかもしれないですが、しかしすでに手遅れです。「人間」はやがて「時間」からさえも失墜して、さらにひどいことになってしまうであろう、というのが本書の主旨で、シオラン自身が同胞たちに一歩先んじて陥ったポストモダンな無時間地獄(重篤なうつ状態)からの現場リポートです。本書の冒頭にもあるように、「人間が自分は人間であると何事につけ思い起こすのはよくないことだ。」というわけで、うつ状態がひどいときは自分はのらねこであると思い込むのがよいです。


目次:

生命の樹
文明人の肖像
懐疑論者と蛮族
悪魔は懐疑論者か
名誉欲と名誉嫌い
病気について
最古の恐怖――トルストイについて
知恵の危険
時間から墜ちる……

訳者あとがき
改訂版あとがき




◆本書より◆


「生命の樹」より:

「もし人間が、(中略)どんなにわずかでも永遠への適性をもっていたならば、その親しい交わりのなかで幸運を恵んでくれた神に満足したことであろう。だが人間は神から自分を解き放ち、神から離脱しようと願った。そして予期以上の成功を収めた。楽園の一体性(ユニテ)を破壊し終わると、人間は地上の一体性の破壊にとりかかり、地上の秩序と無名性とを破壊せずにはおかぬ細分化の原理を導入した。」
「人間は日ごとにかつての無垢から少しずつ遠ざかり、絶えず永遠から堕ちつづけている。(中略)そして人間が実際に恐るべき存在になったのは、その退化の能力がとどまるところを知らなかったからである。火打ち石だけで思いとどまり、技術の洗練については手押し車だけにとどまるべきだったのに、人間は悪魔のように巧妙に、さまざまの道具を発明してはそれを操っているが、(中略)こうも巧みに有害ぶりを発揮することになろうとは、だれにも見抜くことはできなかったであろう。被造物の階梯で人間が保持している地位を本来しめるべきだったのは、人間ではなく獅子か虎であった。(中略)人間が何事につけ大言壮語し、誇張が人間において生きてゆく上で不可欠のものであるのは、人間がそもそもの初めから方向を失い、無拘束であって、(中略)現実を認め受け入れるときには必ずそれを変形し、極端なものにせずにはおかぬからである。(中略)人間は、自然全体のなかに、一個の挿話、余談、邪説として、また座興を殺ぐもの、常軌を逸したもの、道を間違えたものとして姿を現す。」
「饒舌で騒々しく、雷のように喧しいこの動物、喧噪(騒音は原罪の直接の結果である)のなかで有頂天になっているこの動物は、言葉を封じられてしかるべきだろう。なぜなら、言葉と協定を結んでいる限り、この動物は生命の未侵犯の源泉に決して近づくことはないからである。」
「明日への盲目的崇拝に生きる者に未来はない。現在からその永遠の次元を剝ぎ取ってしまった以上、彼らに残されているのは、その大いなる拠りどころ、すなわち意志だけであり、そして大拷罰だけである。」



「文明人の肖像」より:

「文明人がいわゆる文明の遅れた諸民族に寄せている関心は、うさんくさい最たるものである。(中略)〈進歩〉しなかったという彼らの幸運をとくと考えてみた結果、文明人は彼らに対して、狼狽し、心おだやかならぬ無鉄砲者の怨恨を抱くのである。何の権利があって彼らは別のところにいるのか。文明人がかくも長いあいだ堪え忍び、しかもうまく逃げおおせることのできなかった堕落の過程の外にとどまっているのか。文明人の成果であり、その狂気である文明は彼には刑罰のように見えるが、彼は自分に科せられたこの刑罰を、今度は、いまのいままでそれを免れていた連中に科してやりたいと思う。「文明の災禍を共有しに来たまえ、わたしの地獄に連帯責任をもちたまえ」、これが彼らに対するその心遣いの意味であり、その厚かましさと熱意の本質である。我が身のさまざまな欠陥に、そしてそれ以上に自分の〈知識〉に疲れきっている文明人は、幸いにもそんなものとは縁のなかった連中にそれらを無理にも押しつけるまでは引き下がらない。」
「前方へのすべての歩み、あらゆる種類の活力には、何か悪魔的なものが含まれている。つまり〈進歩〉とは、「堕罪」の現代的同義語であり、堕地獄の世俗版である。」
「運動とはひとつの邪説であることをわたしたちは知っている。そしてまさにそれゆえに、運動はわたしたちをそそのかし、わたしたちはそこに身を投ずるのであり、取り返しのつかぬほど堕落してしまったわたしたちは、魂の平穏(引用者注: 「魂の平穏」にルビ「キエチュード」)という正統よりも運動を好むのである。わたしたちは植物のように生活し、無活動のなかで花ひらくように生まれついていたのであって、速度のために、そして衛生学のために身を滅ぼすために生まれついていたのではなかった。」
「わたしたちは、わたしたちの麻薬である文明にすっかり中毒しているので、文明へのわたしたちの執着は、習慣の現象に見られるいくつかの特徴、すなわち恍惚と憎悪の混淆を呈している。このようなものとして文明は、必ずやわたしたちに止めをさすだろう。文明を放棄し、文明からわたしたちを解放することについて言えば、それは今日ではかつてないほど不可能である。」
「あらゆる欲求はわたしたちを生の表面に導き、わたしたちに生の深みを覆い隠しながら、価値なきものに、価値をもちえぬものに価値を与える。文明は、そのすべての仕掛けとともに、非現実的なものへ、無益なものへと向かいがちなわたしたちの傾向にその根拠を置いている。もしわたしたちが欲求を減らすことに、必要なものだけで満足することに同意するなら、文明はたちどころに崩壊し去ることだろう。そうであればこそ、文明は持続するために、わたしたちに絶えず新しい欲求を作り出させ、ひっきりなしにそれを増大させようとするのだ。」

「わたしたちに残されている唯一の手段は、行為の成果のみならず、行為そのものを放棄することであり、非生産性を厳守し、わたしたちのエネルギーと可能性の大部分を利用せぬままにしておくことだ。」



「悪魔は懐疑論者か」より:

「ルシフェルの行為は、アダムの行為と同じように――一方は「歴史」に先立ち、他方は「歴史」の端緒となるが――神を孤立させ、神の世界の信用を失墜させるための戦いの、重要な瞬間を象徴している。この世界は、未分割のなかに宿る非反省の至福の世界であった。わたしたちは二元性の重荷を背負うのに耐えられなくなると、いつもきまってこの世界に思いをはせるのである。」


「名誉欲と名誉嫌い」より:

「わたしたちは、自己放棄の意志を英雄的行為にまで押し上げ、ますます世に隠れて生きることに、閲歴のどんなわずかの痕跡、吐息のどんなわずかの思い出をも消し去ることにエネルギーをそそぐ。わたしたちにまつわりつく者、わたしたちを当てにする者、あるいはわたしたちから何かを期待する者、こういう連中をわたしたちは憎む。(中略)いずれにしろ他人は、自我の酷使を避け、意識の入口にとどまり、決してそのなかには入りたくないというわたしたちの欲望を、原初の沈黙の最深部に、不分明な至福のなかにうずくまっていたい、言葉(ヴェルブ)の喧噪の始まる前、万象が横たわっていた甘美な無感覚のなかにうずくまっていたいというわたしたちの欲望を理解することはできないだろう。身を隠し、光のもとを去り、すべてのもののなかで最後の者でありたいというこの欲求、(中略)あの慎ましやかさへの熱狂、未発現のものや無名なものへのあの郷愁、――後方への跳躍によって、生成の震動に先立つ瞬間を再び見いだすために、進歩によって獲得されたものを清算しようとする、こういったさまざまなやり方を理解することはできないだろう。」

「彼は自分の痕跡をすこしも残さぬために、その企てをただひとつの目的に、つまり自分の身元の隠滅に、自己気化に向ける。(中略)もうだれのためにも存在せず、いまだかつて生きたことがなかったかのように生き、事件を追放し、どんな瞬間、どんな場所も利用せず、永遠に屈服しないこと! (中略)自由であるとは、何者でもなくなるように自分を鍛えることである。」

「美点の過剰、すぐれた資質の堆積、こういうもの以上に有害なものがあるだろうか。自分の欠陥をかかえていよう。そして人は、悪癖の過剰によるよりは美徳の過剰によってずっとたやすく滅びることを忘れないようにしよう。」

「楽園とは人間の不在である。このことを自覚すればするほど、アダムの振舞いは、わたしたちにはますます許し難いものになる。動物に囲まれながら、そのうえ何を望みえようか。」
「わたしたちが限りなく深いみずからの孤独と向かい合い、実在はわたしたちの最深部にしか存在せず、その他のものはすべて罠にすぎないということを発見すれば、そのとき、わたしたちは事物に対する展望を変える。この真理を深く理解した者、他人はこういう者に、すでに彼の持たない何を与えることができるだろうか。」



「知恵の危険」より:

「正常で健康であるためには、わたしたちは賢者ではなく子供を範とすべきであり、地面の上を這いまわり、泣きたいときにはいつでも泣かなければならないだろう。泣きたいと思いながら、泣く勇気がないほど嘆かわしいことがあろうか。(中略)確かだと思われるのは、わたしたちを苦しめる宿痾の一部、あの油断のならない、手がかりとてない、拡散した病のすべては、わたしたちは自分の怒りや苦しみを外に表してはならず、自分のもっとも古い本能に身をゆだねてはならないとするわたしたちの義務が原因である、ということである。」


「時間から墜ちる……」より:

「自分が生きていることを知らないすべての生き物、意識をもたないあらゆる種類の生命、こういうものには何かしら聖なるものがある。いまだかつて植物に羨望を感じたことのない者は、人間の悲劇の外を通ったのである。」

「古代人は、わたしたちの運命が星辰のなかに刻み込まれていると信じ、わたしたちの幸福にも不幸にも、即興の、あるいは偶然のどんな痕跡もないと信じていたが、わたしたちはこの古代人をどんなに褒めたたえても足りないだろう。これほど高貴な〈迷信〉に〈遺伝の法則〉しか対置できなかったわたしたちの科学は、このために永久に名誉を失墜したのだ。わたしたちはそれぞれ自分の〈星〉をもっていたが、いまやわたしたちはおぞましい化学の奴隷である。これは運命という観念の究極の堕落である。」

「わたしがあまりに時間を謗(そし)ったために、時間は復讐する。つまり、わたしを物乞いの境遇に落とし、時間を懐かしむように強いる。どうしてわたしは時間を地獄と同じものと見なすことができたのか。地獄とはこの動かぬ現在、単調さのなかのこの緊張、何ものにも、死にさえも通じていない転倒されたこの永遠である。それにひきかえ、流れ、繰り広げられていた時間は、たとえ不吉なものとはいえ、少なくともある種の期待の慰めは提供していた。だがここで、これ以上墜ちるどんな手段も、もうひとつの深淵への希望もない失墜の底の極みで、何を期待しようというのか。」

「人間は真の永遠を台無しにしたあげく時間のなかに墜ちたが、時間のなかで繁栄することはともかく、少なくとも生きることには成功した。確かなのは人間が時間に順応したということだ。この失墜と順応の過程が「歴史」と呼ばれているものだ。
 だが、いまやもうひとつの失墜が人間を脅かしており、この失墜について、人間はいまだにその大きさを測れずにいる。いまや人間にとって問題は永遠からの失墜ではなく、時間からの失墜である。(中略)それが人間の宿命になったとき、人間は歴史的動物ではなくなるだろう。このとき人間は、真の永遠の、自分の最初の幸福の思い出までをも失って、その眼差しを別のところに、時間の世界に、自分が追放されたあの第二の楽園に向けることになるだろう。」





こちらもご参照ください:

Robert Burton 『The Anatomy of Melancholy』 (Everyman's University Library)


















































































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E・M・シオラン 『崩壊概論』 (E・M・シオラン選集 1)

「われわれは何ひとつしないためにこの世にいるのだ。」
(E・M・シオラン 『崩壊概論』 より)


E・M・シオラン 
『崩壊概論』
有田忠郎 訳

E・M・シオラン選集 1

国文社 
1975年11月15日 初版第1刷発行
1984年11月20日 初版第2刷発行
302p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,300円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は E.M. Cioran: Précis de décomposition, Coll. 《Idées》, Gallimard, 1949 の全訳である。」


シオラン 崩壊概論


目次:

日本語版への序 (E・M・シオラン 1974年8月26日)

崩壊概論
 狂信の系譜
 反―予言者
 もろもろの定義の墓場で
 文明と浮薄さ
 神の中に消え入る
 死を主題とする変奏曲
 時間の欄外で
 時間の関節はずれ
 素晴らしき無用性
 堕落の註解
 死への反対同盟
 形容詞の制覇
 安心した悪魔
 円周上の散策
 人生の日曜日
 手をひく
 間接的な動物
 われわれの忍耐の鍵
 解放による消滅
 抽象的な毒
 不幸の意識
 間投詞的思考
 曖昧なものの崇拝
 孤独――心の離反
 黄昏の思想家
 自己破壊の手段
 反動的な天使
 礼節への配慮
 空虚の音階
 ある日の朝に
 忙しい服喪
 諦めへの免疫
 この世の釣合い
 哲学への訣別
 聖者から犬儒派へ
 元素への回帰
 逃げみち
 夜への無抵抗
 時間に背を向けて
 自由の二つの顔
 夢による過労
 裏切者の亀鑑
 地球の屋根裏部屋のひとつで
 漠然たる嫌悪感
 無意識の教義(ドグマ)
 二元性
 背教者
 未来の亡霊
 固定観念から咲き出る花
 《天上界の犬》
 天才の二面性
 不幸の偶像崇拝
 悪魔(デモン)
 《新しい生活》の滑稽さ
 三重の袋小路
 欲望の宇宙創成論
 行為の解釈
 めあてのない生活
 不きげん
 勇気と恐怖の害毒
 覚醒
 憎悪の道すじ
 《救いなき人々》
 歴史と言葉
 哲学と売春
 本質的なものの強迫観念
 亜流(エピゴーネン)の幸福
 極度の大胆さ
 落伍者の肖像
 悲劇の条件
 内在的な嘘
 意識の到来
 祈りの尊大さ
 憂鬱病
 まひるの呪詛
 堕落の擁護
 流行おくれの宇宙
 虫に喰われてぼろぼろになった男
発作的な思想家
 発作的な思想家
 虚弱の利点
 詩人たちの寄生虫
 異邦人の悩み
 征服者の倦怠
 音楽と懐疑論
 自動人形
 憂鬱(メランコリア)について
 優越欲
 貧乏人の位置
頽廃(デカダンス)のさまざまな顔
聖性と「絶対」のしかめ面
 生殖の拒否
 唯美的聖者伝作者
 聖女たちの弟子
 叡智と聖性
 女と「絶対」
 スペイン
 永遠性のヒステリー
 自負心の諸段階
 天国と衛生法
 ある種の孤独について
 動揺
 聖性の脅威
 傾いた十字架
 神学
 形而上的動物
 悲哀の生成
 修道院の中でのおしゃべり
 不服従の練習
知の舞台装置
放棄
 縄
 固定観念の裏面
 墓碑銘
 涙の世俗化
 意志の変動
 善意の理論
 ものの持ち分
 悪徳の驚異
 堕落への誘惑者
 洞窟の建築家
 弛緩症の訓練
 極度の使いべり
 欲望の葬式場にて
 否定できぬ失望
 モラリストの秘密の中で
 修道者の幻想
 狂気に敬意を表して
 わが英雄たち
 頭の単純な人々
 精神の刺戟剤と貧苦
 不眠への祈願
 悪人の横顔(プロフィル)
 寛容の考察
 衣装哲学
 疥癬病みの中で
 思想の請負人について
 気質の真理
 皮を剥がれた男
 自己に逆って
 信仰の復活
 われら穴居人
 挫折の表情
 下=人間の行列
 Quousque eadem? (いつまで同じことを?)

訳者あとがき




◆本書より◆


「日本語版への序」より:

「一九四七年に書かれ、一九四九年に出版されたこの『崩壊概論』は、フランス語による私の最初の書物である。この本を書きはじめた時、私は前もって正確なプランを持っていたかどうか。年月を経た今となっては、答えるのが難しい。はっきり覚えているのは、当時私が一切の信念、一切の「理想」、すなわち人間が何百年もの間その犠牲となってきた幻影に対して、緊急に宣戦布告する必要を感じていた、ということだ。私は、懐疑思想以外、何ものにも信を置いていなかった。これこそは当時の私の宗教だったし……今でもそうである。(中略)この『崩壊概論』は、私の他の本にもまして、一切のものに対する烈しい憤り、現在と過去、のみならず未来に対する憤怒の果実なのである。私は思い出す、この本を書き進むにつれて、これが私には「存在」に仕掛けられる正面攻撃であり、「存在」に対する一種の釈明要求、あるいは最終試合とみえたことを。憤激と錯乱のただなかで、私は自分が「存在」に勝ち、「存在」を打ちひしぎ、征服するのだと想像した。この戦いはいつか終りを告げ、そして……勝つのは私の方だと考えていた。私が「存在」に浴びせかける議論と怨嗟と侮蔑の打撃から、「存在」は立ち直れないだろうと思っていた。この書物はいわゆる著作ではなく、一種の喧嘩沙汰だったのである。
 はっきり言って、私は負けたのだろうか? 一番いいのは、この問いを答えのないままに放っておくことだ。なぜなら、形而上学的な戦いには、結局のところ勝ちも負けもなく、ただ「解き難いもの」の謎めいた魅惑あるのみだからである。」



「狂信の系譜」より:

「はちきれんばかりの理想を抱き、確信に満ち溢れ、懐疑と怠惰――彼らのあらゆる美徳より高貴なこの悪徳――を鞭打つのを好んで、滅びの道に、歴史の中に、つまりは平俗と黙示との不純な混合物に足を踏み入れた連中の、プロメテウス的な誇大妄想のうちにこそ、悪の根源があるのである。……そこにはびこる確信というやつ、そいつを打ちたおせ。とりわけ確信が生みだすさまざまの影響を拭い去るがいい。そうすればこの世に楽園がもどってくるだろう。「楽園喪失」とは、ひとつの真理を追求してそれを見出したという信念、ある教義に熱中してその中にたてこもること以外の何であろうか。そこから狂信が由来する。――これは人間に効率万能観、予言趣味、恐怖政治の快楽を吹きこむ元凶であり――他人の魂に己れの病いをうつし、征服し、粉砕し、または熱狂させる抒情的癩病(レプラ)である。……その害毒を免れ得るのは、ただ懐疑派(あるいは怠け者と耽美派)のみ。というのも、彼らは何ごとをも他人に押しつけず、人類の偏見を打破しその錯乱を分析するからである。彼らこそ人類に真の恩恵をもたらす者である。」


「人生の日曜日」より:

「もし安息日の午後が何ヶ月にもわたる長さになったとしたら、労働の汗から解放され、原罪による呪いの重荷から自由になった人類は、いったいどうなるであろうか。これは一度経験してみる値打がある。犯罪が唯一の気晴しとなり、放蕩が無邪気に見え、わめき声が妙なるメロディに、冷笑が優しさに見えるであろうことは、まず間違いない。時間の広大さという感覚が、一瞬一瞬を耐え難い刑罰と化し、死刑執行場にするだろう。詩情の浸みこんだ人々の心に、すさんだ人肉嗜食(カニバリスム)とハイエナの悲哀が根を張るだろう。肉屋と死刑執行人は退屈のあまり死ぬだろう。教会と淫売宿は溜息ではちきれるだろう。日曜日の午後に変った世界……これが倦怠の定義であり――また世界の終末である。……「歴史」の上に懸っているあの呪い(訳注: アダムとイヴの楽園追放と、日々の労働の賦課を指す。)を拭い去ってみたまえ。「歴史」も人生も直ちに消滅し、絶対的な空無(ヴァカンス)の中でその虚構をくりひろげてみせてくれるだろう。無の中に築かれた労働が神話をでっち上げ、固める。なくてならぬ陶酔である労働は、《現実》への信仰をかきたて、維持する。だが、身振りやものに依存することなく、裸の存在を凝視するならば、眼に入ってくるのは現にないものばかりなのである……。
 無為に過す人々は、忙しく立ち働く人々よりも多くのことを掴み、より深い精神を持っている。いかなる労役も彼らの視野を遮らないからである。永遠の日曜日に生まれた彼らは、ひたすら凝視し――凝視する自分を凝視する。怠惰とは生理学的な懐疑であり、肉体の抱く疑いである。(中略)しかし、彼らはこの人類には属していない。額に汗して生きるのは彼らの得意とするところではないので、彼らは「生命」の結果も「罪」の結果も蒙ることなく生きる。善も悪も仕出かさないので、彼らは――人類の癲癇病みに高見の見物をきめこみながら――週日を、つまり人間精神を窒息させる労働を、軽蔑する。たまたま日曜の午後が無限に延長されたところで、彼らは、馬鹿馬鹿しいほどきまりきった明白な事実を主張したという後悔以外、何を恐れることがあろうか。そこで彼らは、ほんとうすぎることが実現したのに苛立って、他人のまねをし、仕事をしようという卑しむべき誘いに乗ることもあり得る。これが怠惰 ――すなわち楽園の奇蹟的な痕跡――を脅かす危険なのである。」



「忙しい服喪」より:

「忙しさに息せききった文明は、永遠の中でのんびり過す文明よりも早死にする。中国は、己れの老境の開花を数千年にわたって楽しんできたが、これこそ見ならうべきただひとつの手本である。中国文明だけが、ずっと前から、哲学以上の洗練された叡知に到達した。老荘道家の思想は、解脱の道にかけては前人未踏の域に達している。――ところが、われわれの方は世代単位で数える。急速な歩調で歩いたために超時間的な精神を失ってしまうのは、僅か数百年そこそこしかたっていない文明の不幸な呪いなのである。
 どう見ても、われわれは何ひとつしないためにこの世にいるのだ。」
「人類が行動のむなしさから解放されようとしても、もう遅い。まして、無為の聖性に到達するには、もう遅すぎるのである。」



「固定観念の裏面」より:

「虚無の観念は、勤勉な人々には具わっていない。忙しく働く人間は、己が死後に返るべき塵の重さを計る暇もなければ、その気持もないのだ。彼らは運命の苛酷さというか、その馬鹿馬鹿しさを甘受する。そして希望を持つ。つまり、希望とは奴隷の美徳なのである。」


「わが英雄たち」より:

「当時、私は、人間が恥じることなしに果し得る唯一の行為は自殺することで、日々の連なりとだらけた不幸の中で自分を矮小化する権利は人間にはないのだ、と考えていた。自殺する人々以外に選ばれたる人はない、と、私はいつも心に呟いていた。今でも私は、生きている詩人よりも首をくくる門番の方を尊敬する。人間とは自殺猶予者だ――これこそ、人間の唯一の栄光、唯一の言いわけである。だが、彼はそのことを悟らず、死によって己れ自身を越えようとした人々の勇気を、かえって卑怯だとして非難する。われわれは、最後の息を吐くまで生きつづけるという暗黙の約束によって、互いに結ばれている。われわれ相互の連帯を固めるこの約束は、しかしやはりわれわれの一大汚点なのである。人類はすべて、その汚辱にまみれている。自殺以外に救いはないのだ。(中略)かくてわれわれは、生きている限り、死におくれた者なのである……。」



「精神の刺戟剤としての貧苦」より:

「――われわれの屈従は、すべて、餓え死にするだけの決心ができないことから由来する。この怯懦は、われわれには高いものについている。もともと乞食になる適性がなく、他人様の意のままに生きるとは! 着物をきた、運のいい、うぬぼれきったこの絹毛猿どもの前で腰を低くし、軽蔑する値打ちさえないポンチ絵のような連中の言いなりになるとは! 何かを乞いもとめねば生きて行けぬという屈辱感を思えば、いっそこの地球という惑星を絶滅させ、そこにはびこる階級組織やさまざまの堕落もろとも爆破してやりたくなる。社会とは悪ではなく、災厄である。社会の中で生きて行けるとは、また何という愚かな奇蹟であろうか。怒りと無関心の間に揺られながら社会なるものを眺めていると、誰もその組織を突き崩すことができなかったということ、また今まで、絶望した慎ましいすぐれた精神の持主で、社会を徹底的に破壊しその痕跡まで払拭しようとした者がいなかったことが、何とも不可解に思えてくる。」



















































































E・M・シオラン 『深淵の鍵』 (E・M・シオラン選集 5)

「新しき天も新しき地もなく、〈底知れぬ淵の穴〉を開く天使もいない。だが、考えてみれば私たち自身が、その深淵を開くべき鍵を持っているのではなかったか? 底知れぬ淵は私たちの内部にあり、また外部にもある。それは昨日の予感、今日の質疑、明日の確信だ。」
(E・M・シオラン 「深淵の鍵」 より)


E・M・シオラン 
『深淵の鍵』

出口裕弘・及川馥・原ひろし 訳
E・M・シオラン選集 5

国文社 
1977年8月20日 初版第1刷発行
177p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,300円



国文社から刊行された全五巻のシオラン選集(『崩壊概論』『苦渋の三段論法』『実存の誘惑』『時間への失墜』『深淵の鍵』)の最終巻である本書は、本書刊行時単行本未収録であった三篇のエッセイを一冊にまとめ、巻末に出口裕弘の二篇のシオラン論(『行為と夢』所収)を収録した日本独自編集本です。


「深淵の鍵」訳者付記(出口裕弘)より:

「「深淵の鍵」は、もともと、美術関係の豪華本の出版で名のあるジョゼフ・フォレが、一九六一年に制作した『アポカリプス』と題する大作に収録されたものである。羊皮紙を用いた一冊かぎりの本で、表紙はブロンズ、そこに宝石がちりばめてあろうという凝りようであった。(中略)シオランは、この一冊しか存在しない本のために、ここに訳出した文章をつづり、肉筆で羊皮紙に刻んだのである。」


「ジョゼフ・ド・メーストル論」(1957年)は、シオランが編集したジョゼフ・ド・メーストル選集の序文。「ヴァレリーとその偶像たち」(1970年)は、「もともと、レオナルド、ポー、マラルメに関するヴァレリーの文章の米語版序文として構想されたものだったが、結局英国では、ただ雑誌に掲載されたにとどまった。」(原註)。これら二篇は、単行本『オマージュの試み』(1986年)に収録されましたが、同書の日本語版では、本書の存在を理由に収録を見合わせられています。
なお、単行本『四つ裂きの刑』(1979年)所収「最悪事の緊急性」は、「深淵の鍵」を三分の二ほどに凝縮したものです。


シオラン 深淵の鍵


目次:

深淵の鍵 (出口裕弘・訳)
ジョゼフ・ド・メーストル論 (及川馥・訳)
ヴァレリーとその偶像たち (原ひろし・訳)

E・M・シオラン論 (出口裕弘)
 E・M・シオラン断章Ⅰ (「都市」1号 1969年12月、のち『行為と夢』に収録)
 E・M・シオラン断章Ⅱ (『歴史とユートピア』 1967年5月発表、のち『行為と夢』に収録)




◆本書より◆


「深淵の鍵」より:

「人間は自然を愚弄し、その理法を徹底的に掻き乱し、悪夢にも似た無秩序をそこに現出させた。自然にしてみれば、人間がくりひろげる光景には、何かしら苛立たしい、苦痛に充ちたものがある。さっさと消えてなくなれ、というのが自然の抱く希いであり、人間としてもその気にさえなれば、すぐにでもこの希いを満たしてやれるはずだ。そうなれば、微笑までが秩序を攪乱しがちなこの謀叛の徒を、仕方なしに庇護してやっているこの反生物を、自然から秘密を盗み取った上で自然を奴隷化し、侮辱しているこの簒奪者を、自然はきれいに厄介払いできるわけである。人間のほうでも、知と力との過剰のせいで、そのかずかずの大罪のせいで、奴隷状態に落ち、屈辱の淵に嵌りこまねばならなかった。知識においても行為においても、被造物に宛てられた限界を踏み越えてしまい、自分の存在の源泉そのもの、みずからの本源をなす基底部そのものを侵害してしまった。人間の征服行為は、生命に対する、人間自身に対する裏切者のしわざである。」
「人間は幸福を探し求めたし、いまなお求めつづけている。ただし、まさしく人間を幸福から遠ざけるもののなかに、知識と力との連合のなかに探しているのである。この二つの項目が、一体となるほど接近しあうにつれて、人間が保持してきた原初の、本源の無垢の痕跡は、それだけ消え去ってゆく。かつての住みかだった永遠から、ゆたtりと寛(くつろ)ぐことのできたあの永遠から失墜するや否や、いやむしろこの永遠を人間が裏切るや否や、人間は時間のほうへ突進し、時間のなかへと呑みこまれた。以来、時間から剥離することは望むべくもなく、かつての真の祖国を取り戻すすべもまったくない。時間はたしかに人間を腐敗させたが、人間のほうでも時間を腐敗させた。この相互の毀損行為から、歴史という永遠への挑戦が生じたのは理の当然である。これは何十世紀にもわたる挑戦であり、諸世紀とひとしくこの挑戦自体が磨耗してしまった。かつてパトモス島で脳裡にのみ描かれたものを、私たちはいつの日か事実としてこの眼で見るであろう。〈毛織の粗布(あらぬの)のように黒い〉太陽を、血の色をした月を、いちじくのように墜ちる星々を、〈巻物が巻かれるように〉消えてゆく天を、まざまざと見るに至るであろう。私たちの不安は、予言者ヨハネの不安と響き交している。」
「初期の哲学は、生成が何を成就し、どのような結末へと人を導くか、そのことについて予感以上のものを、正確な直観を持っていた。私たちの観念の同時代者ヘラクレイトスは、早くも、火が一切を〈裁く〉だろうことを知っていた。彼はさらに数歩を進めて、一つの宇宙周期が終末を迎えるたびに、宇宙を蔽う大火災があるはずだと考えている。これは反復される黙示録とでもいうべく、時間をめぐる循環的構想の必至の帰結であった。私たちはヘラクレイトスほど豪放ではないし、世界に対して求めるところも少ないから、ただ一度の終末だけでたくさんである。」




















































































E・M・シオラン 『悪しき造物主』 (叢書ウニベルシタス)

「請け合ってもいい、私たちの世紀よりもはるかに進歩した二十一世紀になれば、ヒトラーとスターリンは聖歌隊の子供なみに扱われるだろう。」
(E・M・シオラン 「扼殺された思念」 より)


E・M・シオラン 
『悪しき造物主』
金井裕 訳

叢書・ウニベルシタス 139

法政大学出版局 
1984年5月1日 初版第1刷発行
1990年10月25日 第1刷発行
214p 目次1p
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,266円(本体2,200円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は E.M. Cioran : Le mauvais Démiurge, Coll. 《Idées》, Gallimard, 1969. の全訳である。」


シオラン 悪しき造物主


目次:

悪しき造物主
新しき神々
古生物学
自殺との遭遇
救われざる者
扼殺された思念

訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「悪しき造物主」より:

「常軌を逸したわずかな場合を除けば、人間は善をなそうなどとは思わぬものである。いったいどんな神が、人間にそんなことを唆すことができようか。人間は自分に打ち克ち、自分の気持を抑えつけなければ、悪に汚染されていないどんな些細な行為すら成し遂げることはできない。もしこれを首尾よく成し遂げることができたとすれば、その都度、人間はおのが創造者に挑戦しては、彼を辱しめているのである。そして、人間がもはや努力や打算によらず生まれながらにして善良であるなどということがあれば、それは天上の過失のしからしめることなのだ。つまり、人間は普遍的秩序の埒外に存在しており、神のどんな計画のなかにも入ってはいなかったのである。さまざまの存在のなかで人間がどんな位置を占めているのか、いやそもそも人間が存在なのかどうかさえ、ほとんど分ったものではない。人間はひとつの幻影ではないのか。」


「古生物学」より:

「秋のとある日、はからずも驟雨に遭い、やむなくしばしの雨宿りにと国立博物館へ入った。ところが、しばしの雨宿りはやがて一時間になり、二時間になり、いやひょっとすると三時間に及んだに違いない。偶然のきっかけで、こうして博物館を訪れたのはもう何か月も前のことだが、目よりも執拗に私たちを見つめているあれらの眼窩を、頭蓋骨のあの市(いち)を、動物学のあらゆる水準に及ぶあの自動的な冷笑を、私はまず忘れることはあるまい。」

「隠者たちが魔に憑かれた人間とも、気のふれた人間とも思われずに、おのが深淵を探ることのできた時代は幸であった。彼らの精神の異常は、私たちの場合とは異なり、不定的要因をもつものではなかった。彼らはひとつの予感、絶対に対するひらめきのために、十年を、二十年を、いや生涯を犠牲に捧げた。〈深さ〉という言葉は、修道僧というものが最も高貴な人間の典型とみなされていた時代に適用されてはじめて意味をもつ。」



「自殺との遭遇」より:

「いまだかつて一度たりとも自殺を考えたことのない者は、絶えず自殺を念頭に置いている者よりもずっと素早く自殺を決意するだろう。決定的行為というものは例外なく反省によるよりは無分別によって、はるかに容易に達成されるものであるから、自殺に無垢な精神は、ひとたび自殺しようという気になると、この唐突な衝動を抑えようがないのだ。そして、かつては考えてもみなかった決定的な解決策の啓示に目は眩み、動転するのである。 ――これにひきかえ、もうひとつの精神は、無限に反芻を繰り返し、底の底まで知りぬいている行為を、相も変らず先に延ばすことができよう。そして、いつか覚悟が決まれば、冷静に自殺を遂行することになるだろう。」


「扼殺された思念」より:

「ある種の問いは、際限もなくこれを反芻していると、鈍痛と同じように、ついには私たちの土台を掘り崩してしまう。」

「愛することをではなく憎むことを止めたとき、私たちは生きながらの死者であって、もう終りだ。憎しみは長もちする。だから生の〈奥義〉は、憎しみのなかに、憎しみの化学のなかにこそ宿っているのだ。今もって憎しみは、かつて人間の見つけえた最良の強精剤であるばかりか、どんな虚弱な有機体にも等しく黙認されているものだが、これは理由のないことではないのである。」

「稔り豊かな精神の特性は愚行にたじろがぬことである。気難しい連中はこれに怖気づく。彼らが不毛なるゆえんである。」

「人間と呼吸を合わせ、かつその調子を捉えること、これ以上に困難なことはない。」

「動物が姿を消しつつあるのは、前代未聞の由々しき事態である。動物の死刑執行人が風景をひとりじめにし、彼のための場所しかもう残されていない。かつては一頭の馬が眺められたその場所で、人間の姿を認めたときのなんたるおぞましさ!」

「グノーシス派のバシレイデスは、紀元初頭において次のように考えることのできた稀にみる精神のひとりであった。すなわち彼によれば、人間はみずからを救済したいと思うなら、魂の救済の紛れもない徴(しるし)ともいうべき無知への回帰を果たすことによって、生まれついてのおのが限界のなかに戻らなければならないというのだが、今にしてみれば、別にどうということもないありふれた考えである。
 急いで付け加えておくことにするが、このありふれた考えはいまだに公の承認を受けていない。そっと小声で囁やかれてはいるが、この考えを公然と掲げることには誰もが二の足を踏んでいる有様である。もしこれがスローガンにでもなれば、長足の進歩がなされることになるのだが。」





























































































シオラン 『告白と呪詛』

「人間はいまや絶滅しようとしている。これが、こんにちまで私の抱いてきた確信だ。ちかごろになって、私は考えを変えた。人間は絶滅すべきである。」
(シオラン 『告白と呪詛』 より)


シオラン 
『告白と呪詛』
出口裕弘 訳


紀伊国屋書店 
1994年12月24日 第1刷発行
252p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,200円(本体2,136円)
装画: 柄澤齊



本書「訳者後記」より:

「原題の Aveux et Anathèmes はなんとも訳しづらい言葉である。Aveux の古義は、封建時代、「君主がある者を臣下として認めた証文」であったし、その逆、つまり、臣下のほうが、ある者を、おのが君主として認めた証文でもあった。そこから転じて、同意、承認、認可を意味する語となり、さらに、自白、自供、白状にまで転じた。告白と訳したが、その点、自発的に行う Confession とは違う行為だ。シオランの場合、いっそのこと「自供」とでもしたほうがよかったかもしれない。Anathèmes も厄介な語である。もともと、カトリック教会が行う「破門」の意味で、「異端排斥」から単なる「排斥」へ、そして「激しい非難」へ、ついには「呪い」「呪詛」へと転じてきた。(中略)あれこれ考えつめたすえ、『告白と呪詛』に落ち着いた。」


シオラン 告白と呪詛 01


カバーそで文:

「人間という人間に、うんざりしている。それでも、私は笑うのが好きだ。そして、私は、ひとりでは笑うことができない。
生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる。
――本文より――」



目次:

存在の縁辺(ふちべ)で
切断
幻滅の魔
瞬間と向きあう
激情
忌わしき明察

訳注
訳者後記



シオラン 告白と呪詛 02



◆本書より◆


「存在の縁辺で」より:

「独りでいることが、こよなく楽しいので、ちょっとした会合の約束も、私には磔刑にひとしい。」

「誰であれ、原罪なんぞに用はない、と言いたげな人間を、本気で相手にするつもりはない。そこで私だが、いかなる事態に遭遇しようとも、私は原罪に助力を仰がずにはいないし、原罪なしでは、たえまない悲嘆、虚脱を、どうすれば避けられるのか、見当もつかない。」

「古代人たちは、成功というものに不信を抱いていた。それも単に、神々の嫉妬を怖れたというだけのことではない。どんな類のものにせよ、成功は、かならず内的な均衡喪失をともなうと考え、その危険をこそ怖れたのである。成功の脅威を知っていたとは、現代人にくらべて、なんという優越ぶりであろうか。」

「最善の策は、おそらく、同じことの繰り返しにあるのだろう……あの、バッハのような。」

「人間は、自分が呪われた存在だということをたやすく忘れてしまう。世の始まりからして、呪われているせいである。」

「批評は不条理だ。本を読むのは、他者を理解するためではなく、自分自身を理解するためなのだから。」

「人間であること以外、もはや、人間たちと、どんな共通点もなくなってしまった!」

「どんな欲望も、私の中に反=欲望を生じさせる。したがって、私が何をしても、重要なのは、私がしなかったことだけである。」

「健常者は、実在性が薄い。彼らは、すべてを所有しているようで、実は存在を持っていない。存在を授けてくれるのは、ただ、揺らぎがちな健康だけである。」

「戸外へ足を踏み出すやいなや、私は叫んだ。「この世は地獄の模造品だそうだが、まったくよくできてる!」

「サン・セブラン寺院で、パイプ・オルガンの奏する「フーガの技法」を聴きながら、私は何度もこんなことを呟いた。「なるほど、これが、わたしのありとあらゆる呪詛への弁駁なんだろうな」」



「切断」より:

「自分がしたことを誇るのもよかろう。だが、それよりも私たちは、自分がしなかったことを、大いに誇るべきではなかろうか。その種の誇りを、ぜひとも創り出すべきだ。」

「いつも傍観者として振舞い、行動に加わらず、新奇なものを嫌うといって、Xは私を非難する。「でも、君、僕はね、この世の何かを変えようなんて、これっぽっちも考えていないんだぜ」――私はそう答えた。どうやら彼は私の返事の意味を掴みそこねたらしい。なんと私を、謙虚な人間だと思ったのだ。」

「自己放棄は行為にはちがいないが、唯一、私たちの品性を卑しくしない行為である。」



「激情」より:

「怪物と心を通わせあうほうが、怪物とはまったく無縁な人間と理解しあうのより、まだしも容易である。」

「一九三七年の春、トランシルヴァニアのシビウで、精神病院の中庭をぶらついていたら、「在院者」のひとりが声をかけてきた。しばらく言葉をかわしたあと、私はいった。「いいところですね、ここ」――「わたしもそう思うよ。気狂いになるって、なかなかいいものなんだ」
 「でも、ここって、一種の監獄でしょう」――「そりゃまあ、そうさ。だけど、ここじゃ、心配ごとなんて、これっぱかりもないんだよ。おまけに、もうすぐ戦争だろう。あんただってようく御存知のはずだ。ここは、安心さ。わたしら、動員される気づかいはないし、気狂い病院を爆撃するやつもいないだろうからね。わたしがあんたなら、すぐにでもここへ収容してもらうな」
 当惑もし、感嘆もしつつ、私はこの人物と別れた。そして彼のことを少し詳しく調べてみた。本当に狂人だった。だが、狂人、常人を問わず、かつてこの男ほど、筋の通った助言を与えてくれた者はいない。」

「仕事の最中よりも、倦怠のときのほうが、比較を絶してたくさんのことを私たちは学び取るものである。努力こそ、瞑想の最大の敵なのだから。」

「人間はいまや絶滅しようとしている。これが、こんにちまで私の抱いてきた確信だ。ちかごろになって、私は考えを変えた。人間は絶滅すべきである。」



































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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