E・M・シオラン 『崩壊概論』 (E・M・シオラン選集 1)

「われわれは何ひとつしないためにこの世にいるのだ。」
(E・M・シオラン 『崩壊概論』 より)


E・M・シオラン 
『崩壊概論』
有田忠郎 訳

E・M・シオラン選集 1

国文社 
1975年11月15日 初版第1刷発行
1984年11月20日 初版第2刷発行
302p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,300円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は E.M. Cioran: Précis de décomposition, Coll. 《Idées》, Gallimard, 1949 の全訳である。」


シオラン 崩壊概論


目次:

日本語版への序 (E・M・シオラン 1974年8月26日)

崩壊概論
 狂信の系譜
 反―予言者
 もろもろの定義の墓場で
 文明と浮薄さ
 神の中に消え入る
 死を主題とする変奏曲
 時間の欄外で
 時間の関節はずれ
 素晴らしき無用性
 堕落の註解
 死への反対同盟
 形容詞の制覇
 安心した悪魔
 円周上の散策
 人生の日曜日
 手をひく
 間接的な動物
 われわれの忍耐の鍵
 解放による消滅
 抽象的な毒
 不幸の意識
 間投詞的思考
 曖昧なものの崇拝
 孤独――心の離反
 黄昏の思想家
 自己破壊の手段
 反動的な天使
 礼節への配慮
 空虚の音階
 ある日の朝に
 忙しい服喪
 諦めへの免疫
 この世の釣合い
 哲学への訣別
 聖者から犬儒派へ
 元素への回帰
 逃げみち
 夜への無抵抗
 時間に背を向けて
 自由の二つの顔
 夢による過労
 裏切者の亀鑑
 地球の屋根裏部屋のひとつで
 漠然たる嫌悪感
 無意識の教義(ドグマ)
 二元性
 背教者
 未来の亡霊
 固定観念から咲き出る花
 《天上界の犬》
 天才の二面性
 不幸の偶像崇拝
 悪魔(デモン)
 《新しい生活》の滑稽さ
 三重の袋小路
 欲望の宇宙創成論
 行為の解釈
 めあてのない生活
 不きげん
 勇気と恐怖の害毒
 覚醒
 憎悪の道すじ
 《救いなき人々》
 歴史と言葉
 哲学と売春
 本質的なものの強迫観念
 亜流(エピゴーネン)の幸福
 極度の大胆さ
 落伍者の肖像
 悲劇の条件
 内在的な嘘
 意識の到来
 祈りの尊大さ
 憂鬱病
 まひるの呪詛
 堕落の擁護
 流行おくれの宇宙
 虫に喰われてぼろぼろになった男
発作的な思想家
 発作的な思想家
 虚弱の利点
 詩人たちの寄生虫
 異邦人の悩み
 征服者の倦怠
 音楽と懐疑論
 自動人形
 憂鬱(メランコリア)について
 優越欲
 貧乏人の位置
頽廃(デカダンス)のさまざまな顔
聖性と「絶対」のしかめ面
 生殖の拒否
 唯美的聖者伝作者
 聖女たちの弟子
 叡智と聖性
 女と「絶対」
 スペイン
 永遠性のヒステリー
 自負心の諸段階
 天国と衛生法
 ある種の孤独について
 動揺
 聖性の脅威
 傾いた十字架
 神学
 形而上的動物
 悲哀の生成
 修道院の中でのおしゃべり
 不服従の練習
知の舞台装置
放棄
 縄
 固定観念の裏面
 墓碑銘
 涙の世俗化
 意志の変動
 善意の理論
 ものの持ち分
 悪徳の驚異
 堕落への誘惑者
 洞窟の建築家
 弛緩症の訓練
 極度の使いべり
 欲望の葬式場にて
 否定できぬ失望
 モラリストの秘密の中で
 修道者の幻想
 狂気に敬意を表して
 わが英雄たち
 頭の単純な人々
 精神の刺戟剤と貧苦
 不眠への祈願
 悪人の横顔(プロフィル)
 寛容の考察
 衣装哲学
 疥癬病みの中で
 思想の請負人について
 気質の真理
 皮を剥がれた男
 自己に逆って
 信仰の復活
 われら穴居人
 挫折の表情
 下=人間の行列
 Quousque eadem? (いつまで同じことを?)

訳者あとがき




◆本書より◆


「日本語版への序」より:

「一九四七年に書かれ、一九四九年に出版されたこの『崩壊概論』は、フランス語による私の最初の書物である。この本を書きはじめた時、私は前もって正確なプランを持っていたかどうか。年月を経た今となっては、答えるのが難しい。はっきり覚えているのは、当時私が一切の信念、一切の「理想」、すなわち人間が何百年もの間その犠牲となってきた幻影に対して、緊急に宣戦布告する必要を感じていた、ということだ。私は、懐疑思想以外、何ものにも信を置いていなかった。これこそは当時の私の宗教だったし……今でもそうである。(中略)この『崩壊概論』は、私の他の本にもまして、一切のものに対する烈しい憤り、現在と過去、のみならず未来に対する憤怒の果実なのである。私は思い出す、この本を書き進むにつれて、これが私には「存在」に仕掛けられる正面攻撃であり、「存在」に対する一種の釈明要求、あるいは最終試合とみえたことを。憤激と錯乱のただなかで、私は自分が「存在」に勝ち、「存在」を打ちひしぎ、征服するのだと想像した。この戦いはいつか終りを告げ、そして……勝つのは私の方だと考えていた。私が「存在」に浴びせかける議論と怨嗟と侮蔑の打撃から、「存在」は立ち直れないだろうと思っていた。この書物はいわゆる著作ではなく、一種の喧嘩沙汰だったのである。
 はっきり言って、私は負けたのだろうか? 一番いいのは、この問いを答えのないままに放っておくことだ。なぜなら、形而上学的な戦いには、結局のところ勝ちも負けもなく、ただ「解き難いもの」の謎めいた魅惑あるのみだからである。」



「狂信の系譜」より:

「はちきれんばかりの理想を抱き、確信に満ち溢れ、懐疑と怠惰――彼らのあらゆる美徳より高貴なこの悪徳――を鞭打つのを好んで、滅びの道に、歴史の中に、つまりは平俗と黙示との不純な混合物に足を踏み入れた連中の、プロメテウス的な誇大妄想のうちにこそ、悪の根源があるのである。……そこにはびこる確信というやつ、そいつを打ちたおせ。とりわけ確信が生みだすさまざまの影響を拭い去るがいい。そうすればこの世に楽園がもどってくるだろう。「楽園喪失」とは、ひとつの真理を追求してそれを見出したという信念、ある教義に熱中してその中にたてこもること以外の何であろうか。そこから狂信が由来する。――これは人間に効率万能観、予言趣味、恐怖政治の快楽を吹きこむ元凶であり――他人の魂に己れの病いをうつし、征服し、粉砕し、または熱狂させる抒情的癩病(レプラ)である。……その害毒を免れ得るのは、ただ懐疑派(あるいは怠け者と耽美派)のみ。というのも、彼らは何ごとをも他人に押しつけず、人類の偏見を打破しその錯乱を分析するからである。彼らこそ人類に真の恩恵をもたらす者である。」


「人生の日曜日」より:

「もし安息日の午後が何ヶ月にもわたる長さになったとしたら、労働の汗から解放され、原罪による呪いの重荷から自由になった人類は、いったいどうなるであろうか。これは一度経験してみる値打がある。犯罪が唯一の気晴しとなり、放蕩が無邪気に見え、わめき声が妙なるメロディに、冷笑が優しさに見えるであろうことは、まず間違いない。時間の広大さという感覚が、一瞬一瞬を耐え難い刑罰と化し、死刑執行場にするだろう。詩情の浸みこんだ人々の心に、すさんだ人肉嗜食(カニバリスム)とハイエナの悲哀が根を張るだろう。肉屋と死刑執行人は退屈のあまり死ぬだろう。教会と淫売宿は溜息ではちきれるだろう。日曜日の午後に変った世界……これが倦怠の定義であり――また世界の終末である。……「歴史」の上に懸っているあの呪い(訳注: アダムとイヴの楽園追放と、日々の労働の賦課を指す。)を拭い去ってみたまえ。「歴史」も人生も直ちに消滅し、絶対的な空無(ヴァカンス)の中でその虚構をくりひろげてみせてくれるだろう。無の中に築かれた労働が神話をでっち上げ、固める。なくてならぬ陶酔である労働は、《現実》への信仰をかきたて、維持する。だが、身振りやものに依存することなく、裸の存在を凝視するならば、眼に入ってくるのは現にないものばかりなのである……。
 無為に過す人々は、忙しく立ち働く人々よりも多くのことを掴み、より深い精神を持っている。いかなる労役も彼らの視野を遮らないからである。永遠の日曜日に生まれた彼らは、ひたすら凝視し――凝視する自分を凝視する。怠惰とは生理学的な懐疑であり、肉体の抱く疑いである。(中略)しかし、彼らはこの人類には属していない。額に汗して生きるのは彼らの得意とするところではないので、彼らは「生命」の結果も「罪」の結果も蒙ることなく生きる。善も悪も仕出かさないので、彼らは――人類の癲癇病みに高見の見物をきめこみながら――週日を、つまり人間精神を窒息させる労働を、軽蔑する。たまたま日曜の午後が無限に延長されたところで、彼らは、馬鹿馬鹿しいほどきまりきった明白な事実を主張したという後悔以外、何を恐れることがあろうか。そこで彼らは、ほんとうすぎることが実現したのに苛立って、他人のまねをし、仕事をしようという卑しむべき誘いに乗ることもあり得る。これが怠惰 ――すなわち楽園の奇蹟的な痕跡――を脅かす危険なのである。」



「忙しい服喪」より:

「忙しさに息せききった文明は、永遠の中でのんびり過す文明よりも早死にする。中国は、己れの老境の開花を数千年にわたって楽しんできたが、これこそ見ならうべきただひとつの手本である。中国文明だけが、ずっと前から、哲学以上の洗練された叡知に到達した。老荘道家の思想は、解脱の道にかけては前人未踏の域に達している。――ところが、われわれの方は世代単位で数える。急速な歩調で歩いたために超時間的な精神を失ってしまうのは、僅か数百年そこそこしかたっていない文明の不幸な呪いなのである。
 どう見ても、われわれは何ひとつしないためにこの世にいるのだ。」
「人類が行動のむなしさから解放されようとしても、もう遅い。まして、無為の聖性に到達するには、もう遅すぎるのである。」



「固定観念の裏面」より:

「虚無の観念は、勤勉な人々には具わっていない。忙しく働く人間は、己が死後に返るべき塵の重さを計る暇もなければ、その気持もないのだ。彼らは運命の苛酷さというか、その馬鹿馬鹿しさを甘受する。そして希望を持つ。つまり、希望とは奴隷の美徳なのである。」


「わが英雄たち」より:

「当時、私は、人間が恥じることなしに果し得る唯一の行為は自殺することで、日々の連なりとだらけた不幸の中で自分を矮小化する権利は人間にはないのだ、と考えていた。自殺する人々以外に選ばれたる人はない、と、私はいつも心に呟いていた。今でも私は、生きている詩人よりも首をくくる門番の方を尊敬する。人間とは自殺猶予者だ――これこそ、人間の唯一の栄光、唯一の言いわけである。だが、彼はそのことを悟らず、死によって己れ自身を越えようとした人々の勇気を、かえって卑怯だとして非難する。われわれは、最後の息を吐くまで生きつづけるという暗黙の約束によって、互いに結ばれている。われわれ相互の連帯を固めるこの約束は、しかしやはりわれわれの一大汚点なのである。人類はすべて、その汚辱にまみれている。自殺以外に救いはないのだ。(中略)かくてわれわれは、生きている限り、死におくれた者なのである……。」



「精神の刺戟剤としての貧苦」より:

「――われわれの屈従は、すべて、餓え死にするだけの決心ができないことから由来する。この怯懦は、われわれには高いものについている。もともと乞食になる適性がなく、他人様の意のままに生きるとは! 着物をきた、運のいい、うぬぼれきったこの絹毛猿どもの前で腰を低くし、軽蔑する値打ちさえないポンチ絵のような連中の言いなりになるとは! 何かを乞いもとめねば生きて行けぬという屈辱感を思えば、いっそこの地球という惑星を絶滅させ、そこにはびこる階級組織やさまざまの堕落もろとも爆破してやりたくなる。社会とは悪ではなく、災厄である。社会の中で生きて行けるとは、また何という愚かな奇蹟であろうか。怒りと無関心の間に揺られながら社会なるものを眺めていると、誰もその組織を突き崩すことができなかったということ、また今まで、絶望した慎ましいすぐれた精神の持主で、社会を徹底的に破壊しその痕跡まで払拭しようとした者がいなかったことが、何とも不可解に思えてくる。」



















































































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E・M・シオラン 『深淵の鍵』 (E・M・シオラン選集 5)

「新しき天も新しき地もなく、〈底知れぬ淵の穴〉を開く天使もいない。だが、考えてみれば私たち自身が、その深淵を開くべき鍵を持っているのではなかったか? 底知れぬ淵は私たちの内部にあり、また外部にもある。それは昨日の予感、今日の質疑、明日の確信だ。」
(E・M・シオラン 「深淵の鍵」 より)


E・M・シオラン 
『深淵の鍵』

出口裕弘・及川馥・原ひろし 訳
E・M・シオラン選集 5

国文社 
1977年8月20日 初版第1刷発行
177p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,300円



国文社から刊行された全五巻のシオラン選集(『崩壊概論』『苦渋の三段論法』『実存の誘惑』『時間への失墜』『深淵の鍵』)の最終巻である本書は、本書刊行時単行本未収録であった三篇のエッセイを一冊にまとめ、巻末に出口裕弘の二篇のシオラン論(『行為と夢』所収)を収録した日本独自編集本です。


「深淵の鍵」訳者付記(出口裕弘)より:

「「深淵の鍵」は、もともと、美術関係の豪華本の出版で名のあるジョゼフ・フォレが、一九六一年に制作した『アポカリプス』と題する大作に収録されたものである。羊皮紙を用いた一冊かぎりの本で、表紙はブロンズ、そこに宝石がちりばめてあろうという凝りようであった。(中略)シオランは、この一冊しか存在しない本のために、ここに訳出した文章をつづり、肉筆で羊皮紙に刻んだのである。」


「ジョゼフ・ド・メーストル論」(1957年)は、シオランが編集したジョゼフ・ド・メーストル選集の序文。「ヴァレリーとその偶像たち」(1970年)は、「もともと、レオナルド、ポー、マラルメに関するヴァレリーの文章の米語版序文として構想されたものだったが、結局英国では、ただ雑誌に掲載されたにとどまった。」(原註)。これら二篇は、単行本『オマージュの試み』(1986年)に収録されましたが、同書の日本語版では、本書の存在を理由に収録を見合わせられています。
なお、単行本『四つ裂きの刑』(1979年)所収「最悪事の緊急性」は、「深淵の鍵」を三分の二ほどに凝縮したものです。


シオラン 深淵の鍵


目次:

深淵の鍵 (出口裕弘・訳)
ジョゼフ・ド・メーストル論 (及川馥・訳)
ヴァレリーとその偶像たち (原ひろし・訳)

E・M・シオラン論 (出口裕弘)
 E・M・シオラン断章Ⅰ (「都市」1号 1969年12月、のち『行為と夢』に収録)
 E・M・シオラン断章Ⅱ (『歴史とユートピア』 1967年5月発表、のち『行為と夢』に収録)




◆本書より◆


「深淵の鍵」より:

「人間は自然を愚弄し、その理法を徹底的に掻き乱し、悪夢にも似た無秩序をそこに現出させた。自然にしてみれば、人間がくりひろげる光景には、何かしら苛立たしい、苦痛に充ちたものがある。さっさと消えてなくなれ、というのが自然の抱く希いであり、人間としてもその気にさえなれば、すぐにでもこの希いを満たしてやれるはずだ。そうなれば、微笑までが秩序を攪乱しがちなこの謀叛の徒を、仕方なしに庇護してやっているこの反生物を、自然から秘密を盗み取った上で自然を奴隷化し、侮辱しているこの簒奪者を、自然はきれいに厄介払いできるわけである。人間のほうでも、知と力との過剰のせいで、そのかずかずの大罪のせいで、奴隷状態に落ち、屈辱の淵に嵌りこまねばならなかった。知識においても行為においても、被造物に宛てられた限界を踏み越えてしまい、自分の存在の源泉そのもの、みずからの本源をなす基底部そのものを侵害してしまった。人間の征服行為は、生命に対する、人間自身に対する裏切者のしわざである。」
「人間は幸福を探し求めたし、いまなお求めつづけている。ただし、まさしく人間を幸福から遠ざけるもののなかに、知識と力との連合のなかに探しているのである。この二つの項目が、一体となるほど接近しあうにつれて、人間が保持してきた原初の、本源の無垢の痕跡は、それだけ消え去ってゆく。かつての住みかだった永遠から、ゆたtりと寛(くつろ)ぐことのできたあの永遠から失墜するや否や、いやむしろこの永遠を人間が裏切るや否や、人間は時間のほうへ突進し、時間のなかへと呑みこまれた。以来、時間から剥離することは望むべくもなく、かつての真の祖国を取り戻すすべもまったくない。時間はたしかに人間を腐敗させたが、人間のほうでも時間を腐敗させた。この相互の毀損行為から、歴史という永遠への挑戦が生じたのは理の当然である。これは何十世紀にもわたる挑戦であり、諸世紀とひとしくこの挑戦自体が磨耗してしまった。かつてパトモス島で脳裡にのみ描かれたものを、私たちはいつの日か事実としてこの眼で見るであろう。〈毛織の粗布(あらぬの)のように黒い〉太陽を、血の色をした月を、いちじくのように墜ちる星々を、〈巻物が巻かれるように〉消えてゆく天を、まざまざと見るに至るであろう。私たちの不安は、予言者ヨハネの不安と響き交している。」
「初期の哲学は、生成が何を成就し、どのような結末へと人を導くか、そのことについて予感以上のものを、正確な直観を持っていた。私たちの観念の同時代者ヘラクレイトスは、早くも、火が一切を〈裁く〉だろうことを知っていた。彼はさらに数歩を進めて、一つの宇宙周期が終末を迎えるたびに、宇宙を蔽う大火災があるはずだと考えている。これは反復される黙示録とでもいうべく、時間をめぐる循環的構想の必至の帰結であった。私たちはヘラクレイトスほど豪放ではないし、世界に対して求めるところも少ないから、ただ一度の終末だけでたくさんである。」




















































































E・M・シオラン 『悪しき造物主』 (叢書ウニベルシタス)

「請け合ってもいい、私たちの世紀よりもはるかに進歩した二十一世紀になれば、ヒトラーとスターリンは聖歌隊の子供なみに扱われるだろう。」
(E・M・シオラン 「扼殺された思念」 より)


E・M・シオラン 
『悪しき造物主』
金井裕 訳

叢書・ウニベルシタス 139

法政大学出版局 
1984年5月1日 初版第1刷発行
1990年10月25日 第1刷発行
214p 目次1p
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,266円(本体2,200円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は E.M. Cioran : Le mauvais Démiurge, Coll. 《Idées》, Gallimard, 1969. の全訳である。」


シオラン 悪しき造物主


目次:

悪しき造物主
新しき神々
古生物学
自殺との遭遇
救われざる者
扼殺された思念

訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「悪しき造物主」より:

「常軌を逸したわずかな場合を除けば、人間は善をなそうなどとは思わぬものである。いったいどんな神が、人間にそんなことを唆すことができようか。人間は自分に打ち克ち、自分の気持を抑えつけなければ、悪に汚染されていないどんな些細な行為すら成し遂げることはできない。もしこれを首尾よく成し遂げることができたとすれば、その都度、人間はおのが創造者に挑戦しては、彼を辱しめているのである。そして、人間がもはや努力や打算によらず生まれながらにして善良であるなどということがあれば、それは天上の過失のしからしめることなのだ。つまり、人間は普遍的秩序の埒外に存在しており、神のどんな計画のなかにも入ってはいなかったのである。さまざまの存在のなかで人間がどんな位置を占めているのか、いやそもそも人間が存在なのかどうかさえ、ほとんど分ったものではない。人間はひとつの幻影ではないのか。」


「古生物学」より:

「秋のとある日、はからずも驟雨に遭い、やむなくしばしの雨宿りにと国立博物館へ入った。ところが、しばしの雨宿りはやがて一時間になり、二時間になり、いやひょっとすると三時間に及んだに違いない。偶然のきっかけで、こうして博物館を訪れたのはもう何か月も前のことだが、目よりも執拗に私たちを見つめているあれらの眼窩を、頭蓋骨のあの市(いち)を、動物学のあらゆる水準に及ぶあの自動的な冷笑を、私はまず忘れることはあるまい。」

「隠者たちが魔に憑かれた人間とも、気のふれた人間とも思われずに、おのが深淵を探ることのできた時代は幸であった。彼らの精神の異常は、私たちの場合とは異なり、不定的要因をもつものではなかった。彼らはひとつの予感、絶対に対するひらめきのために、十年を、二十年を、いや生涯を犠牲に捧げた。〈深さ〉という言葉は、修道僧というものが最も高貴な人間の典型とみなされていた時代に適用されてはじめて意味をもつ。」



「自殺との遭遇」より:

「いまだかつて一度たりとも自殺を考えたことのない者は、絶えず自殺を念頭に置いている者よりもずっと素早く自殺を決意するだろう。決定的行為というものは例外なく反省によるよりは無分別によって、はるかに容易に達成されるものであるから、自殺に無垢な精神は、ひとたび自殺しようという気になると、この唐突な衝動を抑えようがないのだ。そして、かつては考えてもみなかった決定的な解決策の啓示に目は眩み、動転するのである。 ――これにひきかえ、もうひとつの精神は、無限に反芻を繰り返し、底の底まで知りぬいている行為を、相も変らず先に延ばすことができよう。そして、いつか覚悟が決まれば、冷静に自殺を遂行することになるだろう。」


「扼殺された思念」より:

「ある種の問いは、際限もなくこれを反芻していると、鈍痛と同じように、ついには私たちの土台を掘り崩してしまう。」

「愛することをではなく憎むことを止めたとき、私たちは生きながらの死者であって、もう終りだ。憎しみは長もちする。だから生の〈奥義〉は、憎しみのなかに、憎しみの化学のなかにこそ宿っているのだ。今もって憎しみは、かつて人間の見つけえた最良の強精剤であるばかりか、どんな虚弱な有機体にも等しく黙認されているものだが、これは理由のないことではないのである。」

「稔り豊かな精神の特性は愚行にたじろがぬことである。気難しい連中はこれに怖気づく。彼らが不毛なるゆえんである。」

「人間と呼吸を合わせ、かつその調子を捉えること、これ以上に困難なことはない。」

「動物が姿を消しつつあるのは、前代未聞の由々しき事態である。動物の死刑執行人が風景をひとりじめにし、彼のための場所しかもう残されていない。かつては一頭の馬が眺められたその場所で、人間の姿を認めたときのなんたるおぞましさ!」

「グノーシス派のバシレイデスは、紀元初頭において次のように考えることのできた稀にみる精神のひとりであった。すなわち彼によれば、人間はみずからを救済したいと思うなら、魂の救済の紛れもない徴(しるし)ともいうべき無知への回帰を果たすことによって、生まれついてのおのが限界のなかに戻らなければならないというのだが、今にしてみれば、別にどうということもないありふれた考えである。
 急いで付け加えておくことにするが、このありふれた考えはいまだに公の承認を受けていない。そっと小声で囁やかれてはいるが、この考えを公然と掲げることには誰もが二の足を踏んでいる有様である。もしこれがスローガンにでもなれば、長足の進歩がなされることになるのだが。」





























































































シオラン 『告白と呪詛』

「人間はいまや絶滅しようとしている。これが、こんにちまで私の抱いてきた確信だ。ちかごろになって、私は考えを変えた。人間は絶滅すべきである。」
(シオラン 『告白と呪詛』 より)


シオラン 
『告白と呪詛』
出口裕弘 訳


紀伊国屋書店 
1994年12月24日 第1刷発行
252p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,200円(本体2,136円)
装画: 柄澤齊



本書「訳者後記」より:

「原題の Aveux et Anathèmes はなんとも訳しづらい言葉である。Aveux の古義は、封建時代、「君主がある者を臣下として認めた証文」であったし、その逆、つまり、臣下のほうが、ある者を、おのが君主として認めた証文でもあった。そこから転じて、同意、承認、認可を意味する語となり、さらに、自白、自供、白状にまで転じた。告白と訳したが、その点、自発的に行う Confession とは違う行為だ。シオランの場合、いっそのこと「自供」とでもしたほうがよかったかもしれない。Anathèmes も厄介な語である。もともと、カトリック教会が行う「破門」の意味で、「異端排斥」から単なる「排斥」へ、そして「激しい非難」へ、ついには「呪い」「呪詛」へと転じてきた。(中略)あれこれ考えつめたすえ、『告白と呪詛』に落ち着いた。」


シオラン 告白と呪詛 01


カバーそで文:

「人間という人間に、うんざりしている。それでも、私は笑うのが好きだ。そして、私は、ひとりでは笑うことができない。
生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる。
――本文より――」



目次:

存在の縁辺(ふちべ)で
切断
幻滅の魔
瞬間と向きあう
激情
忌わしき明察

訳注
訳者後記



シオラン 告白と呪詛 02



◆本書より◆


「存在の縁辺で」より:

「独りでいることが、こよなく楽しいので、ちょっとした会合の約束も、私には磔刑にひとしい。」

「誰であれ、原罪なんぞに用はない、と言いたげな人間を、本気で相手にするつもりはない。そこで私だが、いかなる事態に遭遇しようとも、私は原罪に助力を仰がずにはいないし、原罪なしでは、たえまない悲嘆、虚脱を、どうすれば避けられるのか、見当もつかない。」

「古代人たちは、成功というものに不信を抱いていた。それも単に、神々の嫉妬を怖れたというだけのことではない。どんな類のものにせよ、成功は、かならず内的な均衡喪失をともなうと考え、その危険をこそ怖れたのである。成功の脅威を知っていたとは、現代人にくらべて、なんという優越ぶりであろうか。」

「最善の策は、おそらく、同じことの繰り返しにあるのだろう……あの、バッハのような。」

「人間は、自分が呪われた存在だということをたやすく忘れてしまう。世の始まりからして、呪われているせいである。」

「批評は不条理だ。本を読むのは、他者を理解するためではなく、自分自身を理解するためなのだから。」

「人間であること以外、もはや、人間たちと、どんな共通点もなくなってしまった!」

「どんな欲望も、私の中に反=欲望を生じさせる。したがって、私が何をしても、重要なのは、私がしなかったことだけである。」

「健常者は、実在性が薄い。彼らは、すべてを所有しているようで、実は存在を持っていない。存在を授けてくれるのは、ただ、揺らぎがちな健康だけである。」

「戸外へ足を踏み出すやいなや、私は叫んだ。「この世は地獄の模造品だそうだが、まったくよくできてる!」

「サン・セブラン寺院で、パイプ・オルガンの奏する「フーガの技法」を聴きながら、私は何度もこんなことを呟いた。「なるほど、これが、わたしのありとあらゆる呪詛への弁駁なんだろうな」」



「切断」より:

「自分がしたことを誇るのもよかろう。だが、それよりも私たちは、自分がしなかったことを、大いに誇るべきではなかろうか。その種の誇りを、ぜひとも創り出すべきだ。」

「いつも傍観者として振舞い、行動に加わらず、新奇なものを嫌うといって、Xは私を非難する。「でも、君、僕はね、この世の何かを変えようなんて、これっぽっちも考えていないんだぜ」――私はそう答えた。どうやら彼は私の返事の意味を掴みそこねたらしい。なんと私を、謙虚な人間だと思ったのだ。」

「自己放棄は行為にはちがいないが、唯一、私たちの品性を卑しくしない行為である。」



「激情」より:

「怪物と心を通わせあうほうが、怪物とはまったく無縁な人間と理解しあうのより、まだしも容易である。」

「一九三七年の春、トランシルヴァニアのシビウで、精神病院の中庭をぶらついていたら、「在院者」のひとりが声をかけてきた。しばらく言葉をかわしたあと、私はいった。「いいところですね、ここ」――「わたしもそう思うよ。気狂いになるって、なかなかいいものなんだ」
 「でも、ここって、一種の監獄でしょう」――「そりゃまあ、そうさ。だけど、ここじゃ、心配ごとなんて、これっぱかりもないんだよ。おまけに、もうすぐ戦争だろう。あんただってようく御存知のはずだ。ここは、安心さ。わたしら、動員される気づかいはないし、気狂い病院を爆撃するやつもいないだろうからね。わたしがあんたなら、すぐにでもここへ収容してもらうな」
 当惑もし、感嘆もしつつ、私はこの人物と別れた。そして彼のことを少し詳しく調べてみた。本当に狂人だった。だが、狂人、常人を問わず、かつてこの男ほど、筋の通った助言を与えてくれた者はいない。」

「仕事の最中よりも、倦怠のときのほうが、比較を絶してたくさんのことを私たちは学び取るものである。努力こそ、瞑想の最大の敵なのだから。」

「人間はいまや絶滅しようとしている。これが、こんにちまで私の抱いてきた確信だ。ちかごろになって、私は考えを変えた。人間は絶滅すべきである。」



































































































E・M・シオラン 『四つ裂きの刑』 (叢書ウニベルシタス)

「怠惰は冗漫さから私たちを救い、したがってまた、生産につきものの恥知らずの行為からも私たちを救ってくれる。」
(E・M・シオラン 「眩暈素描」 より)


E・M・シオラン 
『四つ裂きの刑』
金井裕 訳

叢書・ウニベルシタス 184

法政大学出版局 
1986年4月1日 初版第1刷発行
230p 「訳者への手紙」1p 目次1p
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価2,400円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、E.M. Cioran : Ecartelement, Coll. 《Les Essais》, Gallimard, 1979. の全訳である。」
「「訳者への手紙」は序文がわりにとシオランから訳者宛に送られてきたものである。」



シオラン 四つ裂きの刑


目次:

訳者への手紙

二つの真理
回想録の愛好者
歴史以後
最悪事の緊急性

眩暈素描

訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「訳者への手紙」より:

「別のところですでに述べたことですが、重ねていっておきたいことがあります。それは青年期以来、幸福のときも不幸のときも、私が「自殺」は唯一の解決策であり、私の一切の問いに対する完璧な答えであると思わずに、一日たりと過したことはなかったということです。この観念、というよりむしろこの妄執が私の生きるよすがであったことを、私は一瞬たりと疑ったことはありません。望みのときに死ぬことができるという確信、ここにはなにかしら私たちの気持を奮い立たせ、くすぐるものがあり、そしてそれが耐えがたきものを耐えうるものに変え、無意味なものに意味を与えるのです。幸か不幸かは知りませんが、生存を正当化しうる客観的理由など見出すべくもないのです。」


「眩暈素描」より:

「書物は古い傷口を開き、さらには新しい傷をさえもたらすものでなければならない。書物とは一篇の危険であるべきだ。」

「「キリスト磔刑のことを思うと、きまって私は妬みの罪を犯す。」
 シモーヌ・ヴェーユをかくまで私が愛するのは、並ぶものなき聖者たちと高慢のほどをきそってもおさおさひけをとるまいと思われる、こういう言葉があるからである。」

「仕事ができないから退屈している、といったその友人に私は答えたものだ。退屈とは一種至高の状態であり、それを労働の観念に結びつけるのは退屈を貶めることにほかならないと。」

「天啓あるいは熱狂、これはともに自分がだれであるか分からぬ状態であるが、他人に伝染し、有効なのは、この状態から生れた言葉だけである。」

「動物園で。 ――ここにいる動物たちは、猿を除けば例外なく上品だ。思うに、人間は猿と大差のないものだ。」

「街に出て人間どもを目にすると、まっさきに思いつくのは皆殺しという言葉だ。」

「私は世界に対して戦っているのではない。世界よりはもっと大きな力、つまり世界に対する私自身の疲労と戦っているのだ。」

「ある画家がやって来て、こんな経験談を披露する。南フランスへ行っていたとき、ある夜、彼はひとりの盲人を訪ねたが、真暗闇のなかでたったひとりきりでいる盲人を見てつい気の毒に思い、明りがなくとも生活には差し障りがないかどうか尋ねた。すると盲人は答えた、「あなたは御自分の失ったものがなにか御存知ないのです」。」

「こうして通りすぎてゆく人間どもを眺めていると、どいつもこいつも人間の真似をするのにいいかげんあきあきした、疲労困憊のゴリラのように見えてくる。」

「健康であるというのは非感覚の状態、あえていえば非実在の状態だ。苦しむことをやめれば、私たちはたちどころに存在しなくなる。」

「私は書物を通して自殺を奨励し、言葉によって自殺回避を奨励することに時間を費している。第一の場合は哲学上の解決策にかかわっているからであり、第二の場合は、ひとりの人間に、ひとつの声に、ひとつの嘆きにかかわっているからである。」

「長く持病を患っている者、こういう人間を意志薄弱者とみなすことはできまい。ある観点からすれば、彼は自分の理想を達成しているのだ。あらゆる病気は例外なくひとつの肩書である。」

「わずかとはいえ死を思わせるところのないものは、なんdねあれ例外なく俗悪である。」

「怠惰は冗漫さから私たちを救い、したがってまた、生産につきものの恥知らずの行為からも私たちを救ってくれる。」

「あの世などというものはない。いやこの世そのものさえ存在しない。それならいったい何が存在するのか。両者の明白な不在が私たちの内部に誘いだす内面の微笑、これだけである。」

「植物園で私は一匹のアメリカ鰐の目を、太古以来のその目差しをじっとみつめていた。爬虫類が私を惹きつけるのは、石にもみまがう彼らの鈍麻ぶりである。いわば彼らは生命以前にやって来たかのようであり、それと予告することなく生命に先行し、生命を回避してさえいたかのようである……」

「だれであれひとりの人間が死ねば、その人間とともに世界は消えうせる。すなわち、その死と同時に、一切が抹殺されるのだ、一切が。これこそ死を正当化し、その名誉を回復させる至上の裁きである。だからいさぎよく旅立とうではないか。なぜなら、私たちの意識だけが唯一かけがえのない実在であり、私たちの後に生き残るものはなにもないのだから。意識が消滅すれば、一切は消滅する。よしんばこれが客観的な真実ではないことが分かっているにしても、そして事実、私たちに続いて死ぬことを諾うものも、私たちとともに消えうせてくれるものもなにひとつないことが分かっているにしても、意識が消滅すれば、一切が消滅するのである。」

「「自分の進むべき道を探すかわりに、自分の好みに従うこと。」
 タレーランのこの言葉が私にとりついて離れない。」
「私たちは、自分のありとあらゆる欠点を糾合し、さまざまの弱点と一体となり、自分の〈好み〉に従ってはじめて自分なのだ。自分の進むべき〈道〉を探しはじめ、なんらかの高貴なモデルを自分に課するや、私たちはみずからを台無しにし、道を踏みはずすのである。」

「私たちはあれこれの決断をなしえなかった不甲斐なさを悔むが、しかし、どんなものであれひとつの決断をなしたときの悔みはもっと激しい。行為によってもたらされるさまざまの結果を見れば、むしろ非行為こそ願わしい!」












































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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