丸尾末広 『芋虫』


丸尾末広 『芋虫』
原作: 江戸川乱歩/脚色・作画: 丸尾末広

BEAM COMIX/エンターブレイン 2009年11月6日初版初刷発行
134p(カラー4p) A5判 角背紙装上製本 カバー 定価1,200円+税

「初出: 月刊コミックビーム 2009年6月号~9月号(単行本化に際し、雑誌掲載分に加筆修正)」



丸尾氏の本は集めたが売ってしまいました。が、このまえ久々に『瓶詰の地獄』と『パノラマ島綺譚』を買ってみたところ、やはりすばらしかったので、今回、『芋虫』を買ってみました。ハードカバー豪華版です。


芋虫1


帯文:

「最も危険、最も禁忌。
乱歩×丸尾、最強のコラボレーションは今、さらなる闇の奥底へ。」



帯裏:

「猛毒にして絢爛たる、手塚治虫文化賞受賞後第一作
世界を震撼させた受賞作『パノラマ島綺譚』に続き、
漫画界の魔神・丸尾末広が再び挑むは、
巨星・乱歩の全作品…いや、日本文学史上、最凶の問題作。
妖美極まる驚愕の画力で描く、
比類無き怪奇と戦慄に満ちた、愛欲の地獄。
これは奇跡か、或いは悪夢か。さあ、禁忌の扉を、開け。」



芋虫2


巻頭カラー4p。肋骨を這い回る芋虫はたいへんすばらしいです。

骸骨が踊り怪物が跳躍し動植物が入り乱れる丸尾氏の装飾的世界に、わたしはヨーロッパ中世彩飾写本の世界を連想します。
禁欲ほど奔放にエロティックな幻想を生み出すものはありません。そして丸尾氏の描く線はたいへん禁欲的です。


芋虫3


「得体の知れぬ悪夢にうなされて、
ひどい叫び声を立てたかと思うと、
時子はびっしょり寝汗をかいて
目を覚ました。」


これは乱歩「芋虫」原文からの引用ですが、巻頭にこれを持ってこられると、われわれ読者はどうしたってカフカの「変身」(「ある朝、グレーゴル・ザムザが気がかりな夢から目覚めると、じぶんがベッドのなかで一匹の巨大な毒虫になっているのを見出した」)を連想してします。夫は「芋虫」に変身し、妻は「カマキリ」に変身するのですが(「化人幻戯」参照)、しかしそれについては特に触れたいことはないです。
それとは別に、乱歩「芋虫」とダルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』との類似についても、トランボ(Trumbo)とランポ(Rampo)ってなんとなく似てるよね、ということ以外は、特に触れたいことはありません。

しかしこの衛生博覧会ふう見開き絵はすばらしいです。ドクロの上にいるバタイユ風ルドンの蜘蛛みたいなのがたいへんいかがわしくて秀逸です。


芋虫5


例によって比較対照のために光文社文庫版江戸川乱歩全集を引っ張り出してきました。「芋虫」は第三巻『陰獣』に収録されています。

今回は原作にはない「バナナ」のエピソードがかなり大きくフィーチュアされていますが、妙にリアリズムです。丸尾氏の綺想と画力を以てすれば、「時子」のサディズムをもっと幻想的かつ煌びやかに描き尽すことも可能なはずですが、本作はそういう意味ではややストイックな印象を受けました。そのぶん、時子の悪夢の凄絶なイメージが記憶に残ります。
しかしながら、じつは本書はそれほどグロくはないです。
尿瓶やお漏らしの描写、「勧められて養子をもらったら/スペイン風邪ですぐに死んでしまった」というエピソードも原作にはないようです。

最後、古井戸へ向かうシーンでは、丸尾氏は劇的にアングルを変えて描写していますが(風を白く細い線であらわす技法がすばらしいです)、このあたりは、あえて離人症的に遠くから眺めているような描き方をしてもよかったと思います。


光文社文庫版『江戸川乱歩全集』第三巻「自作解説」より:

「前に、「私は他力本願で、自作には全く自信がなく、人がほめれば、いいのかなあと思い、くさせば尤もだと思うたちだ」と書いたが、これは単なる弱気や劣等感ばかりではない。そのことを少し説明しておきたいのである。
私は子供のころから、私は私なりの意味で、「異邦人」だと思っていた。周囲の子供たちと、物の考え方も好き嫌いも、まるで違っているので、いつもハチブにされているような気がしていた。これは大人になっても同じことで、社会と交わって行くためには、私は本当の自分を隠して、仮面をかぶって暮らすほかなかった。来年六十歳の今では、仮面が板についてしまって、本当の自分の顔を忘れていることが多いが、仮面はやはり仮面である。
だから、そんな「異邦人」の書く物が、世間にもてはやされる筈がないという、先入観が先ずあるので、世間相手の小説には自信が持てない。自分と世間とは物の考え方が違うのだから、世人に読んでもらう小説のよしあしなど、自分でわかろうはずがない。本当の自分はいいと思っても、それは駄目なので、仮面の方で判断しなければならない。ところが仮面はもともと附け焼刃だから、仮面としての判断力など持たないのである。そこで自作のよしあしについては、全く他人まかせということになる。
いつも対世間的な仕事に於て、自説を固執出来ないのは、こういう次第なのである。(中略)但し、純粋の理論はこの限りでない。理論は万人共通の法則に従ってやれるのだから、これは、異邦人でも、世間の理論方式さえマスターしておれば出来る。だから、私は理論は好きなのである。世渡りの要領や喧嘩のかけひき、芸術の鑑賞など、理論で行かないものについて異邦人なのである。
しかし、またこうもいえる。異邦人なるが故に小説でも書くより手はなかったのだと。小説なればこそ、異邦人が却って歓迎せられたので、そうでなければ、のたれ死にしていたところかも知れないと。ところが、その小説に於ても、私は、どうも一般と気が合わない。ここでもまた異邦人なのである。
(中略)
私はあの小説を左翼イデオロギーで書いたわけではない。私はむろん戦争は嫌いだが、そんなことよりも、もっと強いレジスタンスが私の心中にはウヨウヨしている。例えば「なぜ神は人間を作ったか」というレジスタンスの方が、戦争や平和や左翼よりも、百倍も根本的で、百倍も強烈だ。それは抛っておいて、政治が人間最大の問題であるかの如く動いている文学者の気が知れない。文学はそれよりもっと深いところにこそ領分があったのではないか。
(中略)
「芋虫」は探偵小説ではない。極端な苦痛と快楽と惨劇とを描こうとした小説で、それだけのものである。強いていえば、あれには「物のあわれ」というようなものも含まれていた。反戦よりはその方がむしろ意識的であった。反戦的なものを取入れたのは、偶然、それが最もこの悲惨に好都合な材料だったからにすぎない。」
(『探偵小説四十年』より)



芋虫4

「幽霊の継子いじめ」。覗きからくりです。この場面も原作にはありませんが、たいへん効果的です。時子が自分の行為を客観視する契機になっているからです。主観と客観のあいだを揺れ動きつつ、時子は悲劇へと導かれていきます。
すべての悲劇はみずからを客観視することから起るといってもよいです。


江戸川乱歩「芋虫」より:

「時子のふさいだまぶたの中には、それらの三年間の出来事が、その劇場的な場面丈けが、切れ切れに、次から次と、二重にも三重にもなって、現われては消えて行くのだった。この切れ切れの記憶が、非常な鮮かさで、まぶたの内側に活動写真の様に現われたり消えたりするのは、彼女の身体に異状がある毎(ごと)に、必ず起る所の現象であった。そして、この現象が起る時には、きっと、彼女の野性が一層あらあらしくなり、気の毒な不具者を責めさいなむことが一層烈しくなるのを常とした。彼女自身それを意識さえしているのだけれど、身内に湧上る兇暴な力は、彼女の意志を以てしては、どうすることも出来ないのである。
ふと気がつくと、部屋の中が、丁度彼女の幻と同じに、もやに包まれた様に暗くなって行く感じがした。幻の外にもう一重(ひとえ)幻があって、その外の方の幻が今消えていこうとしている様な気持であった。」



丸尾氏は『夢のQ-SAKU』(1982)所収の短篇「腐ッタ夜 エディプスの黒い鳥」でも、乱歩の「芋虫」を自由にアレンジしていて、そこには本書で展開される要素のいくつかが既に出ており、本書の原型といってよいと思いますが、設定を父と娘に置きかえ、肥満して満月のように膨れ上がっていく肉塊になった父親を介護する、1920年代の「モガ」の(そして同時に、心をもたないレプリカントになりたがっていた1980年代の無表情な「新人類」少女の)、純粋でアモラルでアパシーな自閉的狂気を、心理描写抜きに描くことに終始した短篇作品は、本書の呆れるばかりの技術的完成度に比べると、作画にやや稚拙なところがみられるものの、ひとでなしのわたしとしては、むしろそっちのほうに強い愛着を感じてしまうのです。


夢のQ-SAKU

「腐ッタ夜 エディプスの黒い鳥」より。


この記事をよんだ人や芋虫は、こんな記事もよんでいます:
松山巖 『乱歩と東京』
江戸川乱歩 著/棟方志功 版画 『犯罪幻想』 復刻版




































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丸尾末広 『パノラマ島綺譚』

原作: 江戸川乱歩 
脚色・作画: 丸尾末広  
『パノラマ島綺譚』

BEAM COMIX

エンターブレイン 
2008年3月7日 初版初刷発行
272p(うちカラー4p) 
A5判 並装 カバー 
定価980円+税


初出: 月刊コミックビーム 2007年7月号~2008年1月号掲載分に加筆修正



丸尾氏の本は以前集めたのですが売ってしまいました。が、このまえ久々に『瓶詰の地獄』を買ったので、『パノラマ島綺譚』も買ってみました。


丸尾末広 パノラマ02


「脚色」具合をチェックするために文庫版乱歩全集を引っ張り出してきました。
・原作では主人公が船から海に飛び込んで自殺したように見せかけますが、丸尾版ではそのへんは簡略化されています(船に乗る設定にするとそれだけでかなりページをとってしまうからでしょう)。これは便宜的な変更です。
・死体から指輪を抜き取る場面では丸尾テイストが加味されています。これは原作を丸尾ワールド化するための変更です。
・最後に登場する探偵が、原作では「北見小五郎」ですが、丸尾版では「明智小五郎」になっています。これは読者サービスのための変更でしょう。


丸尾末広 パノラマ03


乱歩の原作は、ポオの「アルンハイムの地所」や谷崎潤一郎の「金色の死」に想を得ているようですが、丸尾版を読んで思ったのは、「パノラマ島」が、むしろレーモン・ルーセルの「ロクス・ソルス」に近いのではないか、ということです。
というのも、いつものように、本書にはたくさんのヴィジュアル的「引用」がなされておりますが、主人公の顔はルーセルそっくりに描かれています。


丸尾末広 パノラマ01


右が本書の主人公。左が19歳のレーモン・ルーセル(カラデック『レーモン・ルーセルの生涯』より)。


----------以下、「ネタバレ」しますのでご注意下さい。----------


ところで、乱歩『パノラマ島綺譚』の掉尾は、

「か様にして、人見廣介の五体は、花火と共に、粉微塵にくだけ、彼の創造したパノラマ国の、各々の景色の隅々までも、血液と肉塊の雨となって、降りそそいだのでありました。」

となっていますが、まるで、「めでたしめでたし。」と付け加えたくなるような書きぶりではありませんか。そしてわたしは子どもの頃にこれを読んで、こわいとか、きもちわるいとかよりもまず、「達成」とか「至福」の感じを嗅ぎ取ったのでした。
探偵小説家とは、犯人の言行を記録し後世に伝える福音書家であり、犯人とは、「普通」に生きるのとは別の生き方の可能性を押し開いた人間のことだといえるかもしれません。乱歩は、「隅々までも、血液と肉塊の雨となって、降りそそいだのでありました」と書いていますが、これはもう、「聖体の秘蹟」というべきでしょう。人見廣介は、みずからの血と肉によって、パノラマ島を不滅のものにしたのです。


それにしても、かつての丸尾氏の本は、家に置いておくだけでも後ろめたいような背徳オーラが出まくっていたのに、本書はエログロっぽい描写は一部あるものの、すっかり洗練されてしまいました。

それはそれで見事なのですが、私としてはむしろ「地獄風景」の血まみれ運動会を劇画化してほしかったです。
あるいはむしろ、合作探偵小説「江川蘭子」の乱歩担当分(「発端」)を自由に展開させて、劇画シリーズ化してくれたらいいのになーとおもいました。







































丸尾末広 『瓶詰の地獄』

丸尾末広 『瓶詰の地獄』

エンターブレイン/BEAM COMIX 2012年7月6日初版初刷発行
194p A5判 並装 カバー 定価900円+税



丸尾末広氏の本は集めたけれど売ってしまった。しかしまた買ってみた。


丸尾末広 瓶詰の地獄01


丸尾末広 瓶詰の地獄02


目次:

瓶詰の地獄(原作: 夢野久作)
 前篇 (月刊コミックビーム 2012年3月号)
 後篇 (月刊コミックビーム 2012年6月号)

聖アントワーヌの誘惑  (月刊コミックビーム 2010年8月号)
 
黄金餅
 前篇 (月刊コミックビーム 2010年12月号)
 後篇 (月刊コミックビーム 2011年1月号)

かわいそうな姉
 前篇 (月刊コミックビーム 2011年9月号)
 後篇 (月刊コミックビーム 2011年10月号)



「瓶詰の地獄」は、夢野久作の同名の短篇小説の忠実な劇画化。地上の楽園に地獄をもたらすのは、本来は救いとなるべき「聖書」である。マックスフィールド・パリッシュのような装飾性にダリ風のダブル・イメージの風景が重ね合わされ、外界の楽園と内面の地獄が巧みにイメージ化されている。ただ、最後のページは蛇足であろう。

「かわいそうな姉」は、断り書きはないが、渡辺温「可哀相な姉」から着想されたとみてよいだろう。「原作」に忠実だった「瓶詰の地獄」とはうってかわって、こちらは「原作」からの自由な脚色だが、むしろ渡辺温の「原作」の方が、アモラルな(道徳意識がない)主人公の造型に丸尾末広の世界を感じさせるのは面白い。

両者ともに直接的な描写はないが、前者では兄と妹の、後者では姉と弟の近親相姦が示唆されている。前者ではそれは「地獄」だが、後者ではそれは「楽園」の象徴である。

「瓶詰の地獄」
・楽園(自然)の中の地獄(モラル) 原罪

「かわいそうな姉」
・地獄(都会)の中の楽園(アモラル) 無垢

地獄を生み出すものはモラルであり、楽園を生み出すものはアモラルである。

この二篇に挟まって、「聖アントワーヌの誘惑」は神の凋落、「黄金餅」は貨幣の神化(原作は古典落語だが、ストーリーは大幅に変更されている。按摩が飲み込むのは原作と違って紙幣になっているが、それにより崇拝の対象がさらに無意味化されるだろう)をテーマにしているようにも思える。

最後になにかうまいことを言おうと思ったのだが忘れた。

次はぜひ泉鏡花の「沼夫人」を劇画化して欲しいものだ。





















































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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