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唐十郎 『電気頭』

「「でも、〈電子親友〉になりたいではないですか。ああ、求められれば、電子の中に入ってゆきたい。電子の河を流れたい」」
(唐十郎 『電気頭』 より)


唐十郎 
『電気頭』
 

文藝春秋 
1990年5月15日 第1刷
229p 「掲載誌」1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,300円(本体1,262円)



本書はうっかりしてまだよんでいなかったので「“もったいない”本舗」さんで299円(送料無料)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。ポイントを利用したので実質239円でした。


唐十郎 電気頭 01


帯文:

「失われた〈キャラクター〉を探す
コンピュータ・ソフト作家の孤独な冒険

ついに創りだした究極の〈キャラクター〉電子親友ドロンは何処へ消えた? 新宿歌舞伎町の裏町、海辺の水族館、廃棄された工場と、コンピュータ・ソフト作家田口は、今日もひとり捜索の旅を続ける。」



帯背:

「コンピュータ世界の
内奥へ」



帯裏:

「菅野昭正氏評――
 唐十郎「ヒヤリ・ハット」(文學界)は、現実と幻想のねじくれあった場で成りたつ小説という限りでは、いつも通りであるかもしれないが、作者が独演にふけるような場面が少なく、快適なテンポで運ばれる快作である。ファミコン・ゲームソフトのアイデアを考える人物を主人公にする着想が、ここではよく生かされている。(中略)今日的でなかなか秀逸である。
 が、この小説の中心はゲームを考えるという現実の行為が、そのまますぐ幻想、妄想を育てる行為になってゆくという、そして逆もまた真であるという、その二重の反転の奇妙な感覚に置かれている。また、たとえば車が馬に変貌するシュールレアリスム的な細部が、その感覚を濃密にしていることも付言しておきたい。
(東京新聞「文芸時評」)」



目次 (初出):

第一章 電子親友 (「文學界」 1988年2月号)
第二章 ヒヤリ・ハット (「文學界」 1988年4月号)
第三章 Uを求めて (「文學界」 1988年7月号)
第四章 電子質屋 (「文學界」 1988年11月号)
第五章 遊び人さがし (「文學界」 1989年3月号)
第六章 ゴーゴリの娘 (「文學界」 1990年1月号)



唐十郎 電気頭 02



◆本書より◆


「電子親友」より:

「ディスクの下で発作の引きつけを起こしていた姿が忘れられない。
 どこからか、電気が放電されているもののように、その体を覚えている。
 そのドロッセルマイエルをドロンと呼んだ。
 〈電子親友ドロン〉の着想はそこより始まる。」
「衝撃的な、その場かぎりの迷子と理解して忘れてしまおうと思ったが、(中略)発作を自ら演出しているような男の残像は重い。
 妙な男を読解することもできず、田口は「くるみ割り人形」のドロッセルマイエルを読むことで間を埋めた。
 読みだすと同時に、職業意識も歩きだし、パソコンソフトの一人材としてチェックした。ここで、かねてより気がかりだったものに対する恰好の登場人物が出来上ってくるのだが、気がかりというのは、論理の壁を破るなにかである。
 それに対抗するのに、なぜドロッセルマイエルが似合っているかというと、「くるみ割り人形」に出てくるドロッセルマイエルは、お話と現実を往復することができる人物だからだ。」

「〈電子親友〉をソフトの中で結実できずに、生(ナマ)の人間を身代わりにしていることが残念で仕方がなかった。」



「ヒヤリ・ハット」より:

「ノイズの出所は都市である。
 ダムの底に沈んだ村を訪ねても、ノイズは聞こえない。」

「人間の場合、雑音は内部からもでてくる。雑音の内部と外部にサンドイッチされた薄皮一枚のようなものが人間でしかない。そんな薄皮一枚にとって求めるべき幸福とはなにかと、ふらふら歩くと、身は木っ葉のように軽くなる。」

「このノイズに関しては、単なる机上プランでは片付かない気がする。(中略)〈電子親友〉を呼びだすために、それにSOSを打電したくなるようなノイズの地獄に入りこまなければならないと感じた。
 ここで、原因不明の電磁波と、都市の中にある雑音とを、彼は意図的に混乱させていた。」

「彼はノイズのオアシスに横になる。」

「科学とおとぎ話をないまぜにしたような着想は、秋葉原を出たときにひらめいた。ふと、かぐや姫を思い出したのである。山に入った爺が、かぐや姫をみつけたのは竹株の中である。この人工的な乳呑み児が、なぜ、竹の節の間に守られていたのかという疑問は以前からあり、彼は、これを中世のノイズを拒むためと仮説した。」

「「そこで、ぼくはノイズ殺人ほどのノイズに巻きこまれようと思うのです。そうせねば、ヒヤリ・ハットは出てきません。ですから、或る日、ノイズにやられた男、ユーザーにとっても突然ノイズにやられる男、そういう状態ときっかけをつかもうとしているのです」」

「自閉症的な個の、唯一の友である〈電子親友〉は、ここで、自閉の扉を開けて、何者とも分らないユーザーの指先に預けられた。
 それは、ノイズの共犯者として、ユーザーを仮説した必然でもあった。こんなにも、ユーザーを巻きこんだゲームソフトを作ろうとも思わなかった。お前たちはノイズの共犯者になるかもしれないのだよといった、この設定は、ユーザーたちには押しつけがましいものになるかもしれないが、唾棄されるようなものではないという自信もあった。」



「ゴーゴリの娘」より:

「「その人形の用途を、あなたはそのうち知るでしょう。売れると思って作られたのだから、金をとりに来る者に、それをあなたは聞くこともできる。問題は、その用途を、あなたが了解しないだろうということです。あなたには飲みこめない。人形に向かって、そんな筈ないよねえなどと確めたりもするでしょう。
 あなたはそういう独白者です。また、そういうあなたに可愛がられるだけの資格を、それは持っている」
と人形に近寄り、畳に俯せになっていたそれを仰向けにする。
 「あなたの水中考古学たる観点から、その人形の主旨をのべて下さい」
と田口も人形をはさむようにして座る。
 「私には、これが、産まれなかった娘の形をしているということしか、まだ言えません。」」

「「ゴーゴリに娘はおりません。娘とは、暖炉にくべてしまった彼の作品のことですよ」
 理工学部出身の田口には、初めて聞く談議だ。
 「なぜ、暖炉なんかにくべてしまったんですか」
 「とある僧がおりまして、その僧の悪魔的な戒律に従がったと私はみております。まったく、それによって、ゴーゴリの娘は死んでしまったのですから、もったいない話です。その僧は、あなたの部屋にも現われるかもしれない。
 となれば、共に闘うしかないでしょう」」

「炎が飛んで、桜貝の上に塗ったマニキュアも溶ける。手首にはめたバルサも焦げ、電線をネジに押しつけると、その加熱に金属は撥ね、手首は逃げるように畳を転がる。すると、東雲(しののめ)の団地で、夕陽を浴びて待つ人形の姿が、鮮やかに浮かび、「今、行く」と呟きながら、田口は手首を拾いあげた。」




◆感想◆


人それぞれ読書法はあるかとおもいますが、わたしの読書法は、その本とそのまえに読んでまだ記憶に残っている別の本を関連付けて読む、という方法でありまして、具体的にいうと、本書の「電子質屋」に登場するゲーム少年の発言、「ぼくらは(中略)つまり幻想遠征隊であるわけです。それも遠征しっ放しで、こちらに本当は帰ってきたくないほどの者であります。時折り、帰ってきて、両親とお婆さんを殺してしまった者もありますが、あれは不幸でした。」を読んで、そのまえに読んだ松山巖『世紀末の一年』の、明治二十二年の「新徴兵令」に関する記述、「熊本県鹿本では、夫の召集を聞いて妻は驚きのあまり死亡し、夫はしかたなく残された子ども二人を刺し殺し、入営した事件があった。長野県松本では徴兵をうけた男が、離別した妻に三歳の娘を預かってほしいと頼んだが、断られたために娘を殺し、入営した事件が起きた。」と関連付けずにはいられません。当時の新聞はそれを「美談」として報道したということですが、要するに明治時代の戦争ゲーム脳です。
「現代人は、脳の中に住むという意味で、いわば御伽噺の世界に住んでいると言っていい。かつて脳の中に住むのは夢想家だけだったが、いまではすべての人が夢想家になったのである。」と説く『唯脳論』の著者・養老孟司らしき人物は長編『フランケンシュタインの娘』にも登場しますが、本書の最終話「ゴーゴリの娘」(産まれなかった娘)は「フランケンシュタインの娘」(無脳児)の姉妹篇です。「唯脳論」によると社会は脳の産物であり、「われわれはハード面でもソフト面でも、もはや脳の中にほとんど閉じ込められたと言っていい。」「それをわれわれは進歩と呼んだのである。」ということなので、明治期の「国威発揚・富国強兵」の脳化世界の「美談」に対置されるのは正岡子規のような寝たきりの病人であり「非国民」であり、バブル期の「美談と成長と快感をエキスとする」(本書「ヒヤリ・ハット」より)「ファミコンゲーム」的脳化世界の「進歩」に対置されるのは「産まれなかった」ゆえに「成長」することのない「ゴーゴリの娘」であり「無脳児」です。
『唯脳論』によると、たぶん、「現実と化した脳」からわれわれを解放するものは、ノイズとしての「自然」なのではなかろうか。
そして本書のまえに読んだもう一冊、兵藤裕己『琵琶法師』より――「私たちの内部に直接侵入してくるノイズは、(中略)意識主体としての「私」の輪郭さえあいまいにしかねない。そんな不可視のざわめきのなかへみずからを開放し、共振(シンクロナイズ)させてゆくことが、前近代の社会にあっては、〈異界〉とコンタクトする方法でもあった。」「かれらの職能は、日常の秩序世界と向こう側の混沌(カオス)とのはざまにあって、異界のアナーキーな力と交流することであり、それは聖なる闇のパワーをこの世に媒介することにほかならない。」
唐十郎が泉鏡花とならんで明治以降の日本文学の偉人であるのは、まさにその異界と交流する異人性ゆえであるといってよいです。
そういうわけで、鏡花や唐十郎の作品は全体として評価すべきで、個々の作品を傑作だの駄作だのとランク付けしても意味がないですが、本作はやや失敗作なのではなかろうか。それというのも、著者の手にかかれば現実はやすやすと妄想化されてしまうので、わざわざゲームの世界に入り込むまでもなく、またゲームの世界を日常世界に滲出させるまでもないです。




こちらもご参照ください:

唐十郎 『フランケンシュタインの娘』
E・T・A・ホフマン 『くるみ割り人形とねずみの王様』 種村季弘 訳 (河出文庫)
レーモン・クノー 『イカロスの飛行』 滝田文彦 訳 (ちくま文庫)















































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唐十郎 『水の廊下』 

「そうすると、人が路頭に迷ってる、迷ってるがゆえにまた呼びあってるというね、なんかそういう人恋しさの風をね、なんていうかなあ、おたがいにさぐり合うっていうの、それをひとつの風景として見てしまうことあるんですけど。」
(唐十郎 『水の廊下』 より)


唐十郎 
『水の廊下』
 
聞き手・構成: 高崎佳修

エー・ジー出版 
1995年11月10日 第1刷発行
238p 口絵(カラー)1葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,500円(本体1,456円)
タブロー・写真: 合田佐和子
デザイン: 森崎偏陸



長編インタビューというか、語り下ろし芸談です。本文の下に語注(語注がない場合はカット)が入っています。カラー口絵は合田佐和子作品(表紙中央部分にも使われています)。各章冒頭に「聞き手」の人によると思われる短文と、著者の戯曲からの劇中歌がそれぞれ掲載されています。


唐十郎 水の廊下 01


目次:


水の廊下
菖蒲の歯ざわり
番台の分身
希少価値の人工美人
人恋しさの代理
壁の向こうの人体模型市場

Ⅱ 
街の風景と笛吹き男
脳ミソのなかの妖しい空間
耳許でたなびく妙な温度
人を食ったそそのかし
淀んで止まった水

Ⅲ 
出てこないコメディアン
煎餅の割れる音
蒼ざめるモリエール
醤油の染みの涼しさ
トッポイ影
履かれる女
消えた露路
待機する罪つくり人形
魔物の戯れ


うろたえる財産
飛び込まれるガラス戸
シャシャリ出る謎の役者
ピンクの壁の赤い蚊
脱臼する目線
下界へ抜ける便所窓
タニシの足
エセ都会の人いきれ
逃げるアンズ

あとがき



唐十郎 水の廊下 02


本体表紙。


唐十郎 水の廊下 03



◆本書より◆


「Ⅰ」より:

「僕、中学生になるまでまったく泳げなかったんです。」
「中学に入ると二十五メートルのプールがあったから、そこでなにがなんでも泳げるようになろうと思って、夏休みに独りで特訓しましてね。潜り専門の独自な泳法をあみだした。そしたら休み明けの九月に水泳大会があって、偶然に僕が潜水泳法の種目で選ばれちゃったんです。(中略)もう飛び込んだ瞬間の光景ってのは、いまでも覚えてます。まるで水の廊下だったですね、水中がずうっと。いちばん底に沈んでると、水圧で身体が前へ押し出されるんです。」
「僕の叔父さんはずっと結核のサナトリウムにいた人なんです。毎月病院に払うお金を叔父さんに届けに行くのが、一家のなかで僕の係だったんですよ。行くと、よく来たなっていわれて、でもここはものすごくこわい菌があるから早く帰りなって、釣り竿を買うお金をお駄賃としてくれたことがあるんです。それで買った釣り竿を試してみたくてしようがなくて、餌もついてないその竿を、雨が降ったあと校庭に水たまりができますよね、そこに浮きを浮かべて、じいっと二時間も三時間も見てるんですよ。垂直に立ってる浮きが風ですうっと動くの。それを見てるのが楽しくて。深さ二十センチくらいの水たまりだから下に魚がいるわけないのよ。妄想で一メートルくらいのものが、なんか引っかかったんじゃないかなっていうふうな遊び方をしてるの。それが楽しかったのね。」

「なんていうか、妄想型ですよね、分裂型っていうか。
 だから妄想型ってどういうことかっていうと、たとえば「ジョン・シルバー」って芝居を書いたことがあるんですけど、その芝居のなかで、スティーブンソンの『宝島』っていう児童文学に出てくる海賊ジョン・シルバーが、なぜか浅草の風呂屋の番台に座ってるんです。」
「その理由は、関東大震災のころ、うちのおふくろの実家は浅草で銭湯やってたっていうんだね。その大震災のときに、うちのおふくろが少女時代ですよ、熱湯がドンブラコしてんのがすごくこわくて、あの熱湯をかきまわす足場板を湯舟に渡して、そこを渡ってきたとか、そういう話を聞いてんですよね。そんなエピソードと、震災でものすごい竜巻が吹いて大八車が空を飛んでたとか、そういうのが全部いっしょになってくるでしょ、僕の体験したことのないものが。しかもその銭湯の壁絵には、海が描かれていたっていうんだよ。もう荒海が躍るような、そういう絵があったというんですよ。そうしますと、僕が子供のころ『宝島』って小説読んだときに、いつも「海へ行くぞ」っていってるジョン・シルバーの話が出てくると、風呂屋の絵が海だったってことから、その叫んでるシルバーが番台に座ってるような感じをうけちゃうんだよ。つまり、おふくろの身の上話と、いま読んでいるスティーブンソンの『宝島』がゴチャゴチャになっていっちゃうの。」
「というふうに、ありえないものが強引につながっていっちゃうというふうな脳波っていうのは、DNAがどっかやられてるんじゃないかと思うのよ。それ、妄想でしょうね。その妄想を僕、笑い飛ばさないで、大まじめにずうっとそればっかり考えてるとこ、どっかあるでしょ。ガキのころからあると思うんですよ。うん、ものを書くようになってつながったんだけど。あるとき強引につなげたっていってもいいかな。僕は口の重いガキだったですから、そういうじいっとしてる不気味なガキが、頭んなかで分裂気味に遊ばせたイメージっていうものがあるよね。」
「こないだ、ある精神分析学者と対談したんですよ。ちょうどいい機会だから聞いてみたのね。「僕は分裂気質だとよく人にいわれてんですが、いかがなもんでしょうか。いままで話を聞いてどう思いました、先生」って聞いたらば、「いやあ、あなたは立派な循環気質ですよ」っていわれてホッとしました。つまり、分裂したものも循環してるから、まあいいじゃないかって。(中略)だから、やっぱりもの書いたから、つなげて帳尻合わしてんであって、もの書いてなかったら僕も分裂気質になってた。まず役に立たないでしょうね、社会で。」

「恋愛の話がいちばん悩むんですよ、うん、恋愛失格者だから。あのーなんていうのかな、冒険小説に出てくるひとりの海賊を読みちがえてしまうような頭の持ち主ですから、恋愛するときにおいても女性を読み間違えてしまうのは当り前のことなんでね、これ。ことに、ほら、僕はやっぱり恋を恋するっていうタイプの、憧れの恋愛失格者だからね。」

「三年生になるまで僕はわりと口の重いガキだったんです。おふくろなんかも学校に呼び出されて、ちょっとヘンだから見てくださいっていわれて、廊下の窓越しに僕を見たら、全然黒板のほう見ないで校庭見てボーッとしてる。なんでおまえボーッとしてんだってよくいわれましたけど、僕にとってはただもう、校庭のすべり台のあのローセキを塗ったような石の膚(はだ)が、太陽光線できらきらきらきら照り輝いてるのがあまりにもきれいで、そちらをボーッと見てた、と。一種のフヌケの時間っていうのがあって、ボーッとしてんのがすごく好きだったんで、ただそうしてただけなんだけど。まあそんな状態だから、ちょっと知恵が足んないお子さんかもしれませんよ、なんていわれたんですね。」



「Ⅱ」より:

「まあ、僕自身は不良少年の正反対ですね。魂は不良少年でありたいと思ったけれども、臆病な、なにを考えてんのかわかんない、口の重い表現できないガキで、魚も棲んでいない校庭に釣り糸垂れてじいっとしてたっていうようなね。だから、僕らより上の焼け跡闇市世代ともちがうんです。(中略)あれは少年の眼でも、敗戦のあとの廃墟の広場っていうものを意識した少年でしょ。僕の場合はそのとき五歳ですから。廃墟っていうものが、なんで悲劇なのかよくわかんないでしょ。その、つまり廃墟の原っぱで、いろんな燃え尽きたガラクタをおもちゃにして遊んでいるという世代ですよね。意識んなかではなにが幸か不幸かわかんないわけだけど、そのなかで遊んでんだから、これは夢遊病の季節の世代だと僕はいったことあるんですけど。それがずっと続いてて、いまでもそうですね。」

「で、そのオタク空間の世代と夢遊病の世代は、またちょっとダブるかもしれませんね。」

「でもね、天才っていうのが、ひとりの頭のなかからふつふつと湧き出た豊かなイメージの持ち主っていうんじゃなければ、そういう意味での才能っていうのは、みんなもってるんじゃないかと思うんですよね。つまり天才って、(中略)そいつがふっと社会のなかで浮上した瞬間の位置だね。それはだから、彼がその位置にたどり着いたんじゃなくて、まわりがそれをフワッともち上げたんだって。そういうことってなあい?」

「中也もね、(中略)すごくリリカルな詩人のように思うけど、いろんなエピソード読むと、あれだけ攻撃性のある男っていなかったみたいですね。うん、だから「夜、うつくしい魂は涕(な)いて、――かの女こそ正当(あたりき)なのに――夜、うつくしい魂は涕いて、もう死んだつていいよう……といふのであつた。」なんて、『妹よ』って詩ですよね。僕、大好きなんですけど。こういう詩を書いてても、やさしさを本当にいつもこう腋の下に押さえこんでる、ね、男って感じがするでしょ。」
「いやあ、天才以上の病者だって僕は思うんですよね。(中略)ええ、僕にとっては中也のまえに中也なし、中也のあとにも中也なし。」
「たとえばこうネルの寝巻を着て、モコッと上半身を起こした中也のなんか温度てのが、いつも僕、ワーッと耳許を横切んだよね。あの満月のこと歌った詩があるでしょ。メダルのような月が出ている街角を酔っぱらいが唱いながら横切ってくってやつ。「ただもうラアラア唱ってゆくのだ」ってあるじゃない。あれ、酔っぱらいがなんかダミ声でラアラア、ラアラアっていうそれをさ、ずうっと忘れないで俺たちに聞かしてる中也のなんていうの、息づいてる温度ってたまんなく気がかりですよね。だから賢治のほうが詩人って感じするんだけど、中也のほうはなんかこう、ちょっとアブナイおじさんって感じするんだよなあ。それでいて近しいのよ。うん、困った人ですね、中也なんて。
 これも僕の叔父さんなんですよ。あの結核患者でクリスチャンだった叔父さんがね、大事に『妹よ』っていう詩の切抜きをずうっともってましてね。(中略)それをずっと定期入れに入れてまして、僕にふっと渡してくれた。」

「澁澤さんがね、僕の書いた詩ですごく好きなのがあってね、いつも歌ってくれたんですよ。それ、「アリババの唄」っていうんですけど。「朝は海のなか、昼は丘、夜は川のなか、それはだあれ?」って。(中略)これを「チムチムチェリー」って曲がありまして、その曲に合わせて歌うことができんですよね。で、(中略)これはあのギリシャ悲劇に出てくるオイディプス王の話ってのがあるんですけど、そのなかで諸国を遍歴する王子をつかまえてスフィンクスが問答ふっかけんですよ。(中略)「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足、それはなあに」と。」
「それをだから、えー僕なりにアダプテーションしたんですけど。朝は海のなかっていうのは、お母さんの羊水のなかっていうことです。昼は丘っていうのは、お母さんのおなかから生まれかけた状態。(中略)で、夜は川のなかってのは、捨てられちゃった、川に流されて殺されちゃった、生まれなかった子供っていう、こわいアダプテーション。そんな詩を書いてそういう芝居をやったのね。」
「それを澁澤さんは奥さんといっしょに見にきましてね。で、いつも酔っぱらうと澁澤さんが、歌えーって。僕なんか自分で書いといて二番は忘れちゃったんですけど、澁澤さんはずっと覚えてて、いつも歌ってました。」

「泉鏡花なんて作家は逗子(ずし)に住んでいたことがあったらしくて、はしけに乗ると干潮と満潮で水が上がったり下がったりするでしょ。あれをすごく恐れてたっていいますよね。海の波の変化をすごくこわがってたみたい。僕なんかは、あの男の心をつかむようにせり上がってきたり引いたりするって水、こわいけど、いつまでもこわがってらんねえやって飛びこんじゃうとこがあんだね。飛びこんじゃって、石かかえて、海の底に潜って、そこからふくれ上がったり沈んだりする、その相手の水面の変化見たいって気持ちになっちゃうね。底から見たいのよ、うん。
 海の家でね、半月ばかりアルバイトしたことあるんですよ、大学卒業してからですけど、湘南の茅ヶ崎で。」
「で、朝になると地曳網引くの手伝ったりして。すると、なかに水死人がひとり入っててね。一週間海の底に沈んでた学生でしたけど、腐乱はしてなかった。皮膚の色が白っぽく変わっちゃっててね。すぐ板に乗せて警察に運びましたけど。そうするとまた中原中也の詩を思い出しちゃったりするんだよね。「海にゐるのは、あれは人魚ではないのです。海にゐるのは、あれは、浪ばかり。」って。だからあれも、そういう意味ではこわい詩ですね。」



「Ⅲ」より:

「僕、ねぷたっていうの最初わかんなかったんですけど、眠るなっていう意味の語源から始まったお祭りらしいですね。(中略)で、田植えの時期なんかで忙しいときは、みんな一生懸命働かなきゃいけない。ところが災害が押し寄せるかもしれない。つまり、そういう生産の魔物を押し退けろと。眠るな、眠ってるヒマがないぞと。魔物にも連れていかれんなっていうふうな、そういう要素があってね。(中略)でも僕はその話聞きながら、ただ田植えだ田植えだ、眠るな眠るなだけじゃ、ねぷたのとらえ方としてつまらないじゃないかと。そこで眠っちまってもいいよっていう、つまり魔物といっしょにこう抱っこしあって眠っちゃうということで、魔物と遊んじゃうようなところもお祭りにはあんじゃないかなあ、ということ話したんですけどね。ただ生産のためだけに従属してるようなお祭りなんて、つまらないよね。
 ま、そんなんでね、僕の好きな中世の絵草子で長谷雄(はせお)草子っていうのあんですけど、それを持っていってね、ちょっと話したんです。中世に長谷雄というひとりの男がいて、京都の朱雀大路の端にある朱雀門、そこに鬼がいるんですね。で、(中略)その鬼と勝負して、双六に勝ったらなにをもらうかっていうときに、長谷雄は鬼がつくった人工美人をくれっていっちゃうんです。その朱雀門の周辺にはいろんな死体が累々としてて、死体のいいところばっかりを集めてつくりあげた人工美人がいるんだね。長谷雄は鬼に勝って、これを鬼からもらっちゃうんですよ。で、その人工美人を自分の家に連れてくるときに、鬼にこういわれるんですね。その人形と百日は寝るなって。寝たらば、人形はそれでもって、いなくなるって。そして屋敷に連れてきて人工美人といっしょに暮らすんだけど、やっぱり約束した日が守れなくなって、その人形を抱いちゃうんですよね。とたんにそれが破れて水になって、廊下から垂れて、庭のほうまで流れてくるっていう、すごく面白い絵が載ってんですよ。その絵、素敵ですよお。
 で、ねぷた祭りの人たちにその絵を見せましてね、人間はこうやって鬼とも遊ぶんだって話をしちゃったんですよ。魔物とかなんかを排除したいっていうふうな衝動で、ねぷた祭りができたっていうけど、つまり生産をこわしにかかる魔物とも寝ちゃうっていうか、なんていうの、いっしょに愉しく睦みあうっていうか、戯れるっていうふうな時空間もお祭りにはあるんじゃないかっていうことをね。」
「その忘れがたい長谷雄草子の絵巻のなかにも、不思議な水が出てくんですよね。それはただの物理としての水じゃなくてね、なんか粘液のようにも見えますよね、その水の絵が。ほんで、そのお屋敷の縁側がまたなかなか面白い構造で描かれてて、その奥の畳の上にいる長谷雄の格好と、それから抱かれかかって崩れちゃった女のその衣裳がね、源氏物語の絵巻に出てくるような、ああいう感じの十二単みたいな着物。それがぐずぐずと崩れかかった姿。そんで首がちょっと見えないんだな。で、もう首から下は水になっててね。この縁側の板の上をすーっと水がすべって、植え込みにある庭のほうに垂れていくってのがね、なんていうのか、羊水のようにも見えるしね、それからケガしたときに血が出たあとの、ほらリンパ液のようにも見えるし。こわいですよお、水っていうのは。でもさ、考えようによっては、これもやっぱり笑っちゃうような話だよね。」



「Ⅳ」より:

「それから匂いガラスなんていうの、小学校のころダチ公がみんな持っててね。匂いガラスってのは、あれはね、B29の風防ガラスの破片だともいわれてるんですけど。いわゆる、そういう合成樹脂のガラス体というものは日本でもつくってたと。たとえばゼロ戦の風防ガラスもそういう樹脂であったと。だからフィリピンなんかで墜落した日本のゼロ戦、隼とかあの手の飛行機の風防ガラスは、ジャングルに飛び散ってる破片、それさえもつかんで擦ると甘酸っぱいリンゴの匂いがするって話を、どっかで聞いたことありましたけどね。
 で、僕の場合は焼野原にそういう破片がころがっててね、(中略)その破片持って机に擦りつけて、ふっと鼻を押しつけるとリンゴの匂いがくすぶるんですね。これが宝物でね。(中略)あれはいまでも僕、探したいですよ。だから新宿とか大久保あたりの、ちょっと密航してきたフィリピンの女の子なんかがこっそり持ってたらいいんじゃないかなって。」



唐十郎 水の廊下 04


唐十郎 水の廊下 05




こちらもご参照ください:

澁澤龍子 『澁澤龍彦との日々』 (白水uブックス)
岩本素白 『素白随筆集 ― 山居俗情・素白集』 (平凡社ライブラリー)
兵藤裕己 『琵琶法師 ― 〈異界〉を語る人びと』 (岩波新書)





















































唐十郎 『戯曲 吸血姫 他一篇』 (角川文庫)

さと子 どんな人が住んでるの?
肥後 まともに働いている人だよ。
さと子 ろくでもない奴が住んでいるのね。」

(唐十郎 「吸血姫」 より)


唐十郎 
『戯曲 吸血姫 
他一篇』
 
角川文庫 3440/緑 352-4

角川書店
昭和50年7月30日 初版発行
230p
文庫判 並装 カバー
定価260円
カバー: 合田佐和子



本書は真っ赤な装幀の函入り単行本も持っていたのですがどこかへいってしまいました。角川文庫版の背表紙が紫色の唐十郎作品もぜんぶそろっていたのですが本書を残してどこかへ行ってしまいました。ちなみにいうと角川文庫版「少女仮面」の背表紙は最初白でしたが後で紫になりました。両方とももっていたのですがどこかへ行ってしまいました。そういうものなのでしょう。


唐十郎 吸血姫 01


カバーそで文:

「白衣の天使隊に囲まれた悲恋の歌姫高石かつえのデビューから、幕が開く。ヒロインかつえは、謎の引越し看護婦海之ほおずきに、またあるときは少女歌手古賀さと子に、と変身する。
 無限に増殖するイメージ、意表をつく展開、千変万化、万華鏡の如き絢爛さと衝撃。〈状況劇場〉の鬼才が、懐しのメロドラマを素材にえがいた表題作戯曲“唐版・愛染かつら”。
 他に、戯曲「愛の乞食」を併録。」



目次:

吸血姫 (三幕)
 一幕 お世話の都
 二幕 夕方色の肉
 幕間 海底病院
 三幕 死の森

愛の乞食 (三幕)
 一幕 キャバレー豆満江(ズマンコー)
 二幕
  一場 豆満江の赤いリラ
  二場 愛の満州おろし
 三幕 花の幽霊船

解説 (種村季弘)



唐十郎 吸血姫 02



◆本書より◆


「愛の乞食」より:

 でも義務教育が――。
ミドリ そんなもの、やめちまえ、バカヤロー。
 でも、世間はそんなこと――。
ミドリ 認めないと言うのかい? そんな世間、お前が認めなきゃいいじゃねえか。」

尼蔵 シルバーなんていたのかい?
馬田 え?
尼蔵 俺たちの手にかかったら、誰でもシルバーと言えるだろうよ。登場の仕方によっちゃ、誰でもシルバーになれるのよ。(中略)お前にしたって――。
馬田 (大谷に)お前にしたって――。
大谷 (尼蔵に)お前もな。
尼蔵 世間の、いや、俺たちのはみ出し野郎はいつだってシルバーよ。」

馬田 お前には、この世間の顔が見えなくなってるんだな、尼蔵。満州なんかありゃしねえ、船なんか来やしねえよ。
尼蔵 どうやら、今度はこの俺がお前ら世間のはみ出し野郎になりそうだな。だが、馬田、これだけは言っとこう。登場の仕方によっちゃ、誰でもシルバーになれるように、退場の仕方によってもシルバーになれるんだ。船はきっと来る。
馬田 お前の船出は死の船出よ。もうろくしやがって、目がかすんでやがるんだ。
尼蔵 俺にはよく見えるよ、あの北海が――。
馬田 北海なんかありゃしねえ。満州なんかありゃしねえよ。満州の水先も忘れちまったくせに。
尼蔵 まもなく、あの娘が目を覚ます。水先案内人は、あの万寿シャゲよ。
馬田 時間の迷い子か。どこへでも行きやがれ。」

少女 (中略)あたし、あの人と船に乗らなくちゃ。
 あんたの首を絞めた男とかい?
少女 本気じゃないの、あの人。きっと何かを思い出しているのね。(立ちあがり)さようなら、保険屋さん、あたし、あの人の杖になって、あの人の知らない海を案内してあげなくてはならないの。あたし、あの人をあなたの国から奪ってゆくのよ。」

「海賊の行進、花道をよぎる。
海のざわめきで、もう、世界はひとたまりもない。」














































































































唐十郎 『少女と右翼』

「「ねえ、あたしたちは鬼ね。村の人から見たらこりゃ鬼よ。明日の朝には叩き殺されかねないから」
「夜が明けるまえにここを出よう」
「鬼が逃げるのよ」
「あゝ」
「でも、あたしたち、こんなことをしていると、いつか本当に鬼になるかしら」
「あゝ」
「この国ではこんな伝えがあるのよ。幽鬼を追いかけるといつか本当に幽鬼になるって」
「なってもいい」
「なろうね」
「あゝ」」

(唐十郎 『少女と右翼』 より)


唐十郎 『少女と右翼 〈満州浪人伝〉』

徳間書店 昭和47年5月15日初刷
254p 四六判 角背紙装上製本 カバー 定価690円
装幀: 和田豊
絵: 高畠華宵 (高畠華晃氏提供)



唐十郎の長篇歴史冒険純愛小説。


少女と右翼1


目次:

少女と右翼 〈満州浪人伝〉
 右翼の伝説
 白髪海峡を越えて
 カラスの夜化粧
 黒龍江の少女
 カンナの花咲く村
 呪いの饅頭
 女の髪に火がついた
 死臭の紅塔
 満州の百円横丁
 暗闇の芝居
 黒髪すだれ



少女と右翼3


本書エピグラフ:

「これは歴史を偽造するものである
つまり見てきたような嘘だから
だから歴史的時間のお手玉だ」



本書より:

「内田良平、別名内田硬石(こうせき)は、黙ってシラミを机の上に置く。懐手で人を斬る頭山満(とうやまみつる)と並んで、大陸雄飛の大立者であったが、なぜか孫文等、中国革命党員が述べる革命援助者の日本人リストからは外されている。
この黒龍会の大うわばみは、建設中のシベリヤ鉄道を、単身、ウラジオからペトログラードまで徒歩で往復し、何物かにとりつかれた。赤い鬼火の燃える満蒙の処女地を横切りながら、満州おろしの中で何物かと固い契りを交したものの、そして、それが黒龍会の秘めたる謎であったにも拘らず、内田硬石はそれ以来、裏切りの激流にのまれるのだ。
陸軍の明石参謀と同じ筑前の人でありながら、大東亜の夢破れた焼跡の地を、二つの国の何処にも死場所を見つけられなかったこの男が、この男の無数の影が、鉄条網や焼けたレンガの焼跡を、未だに徒歩で往来した満州と思い込み、彷徨(さまよ)っているのを、上野の山からカモを見つけて降りてきた不良少年たちは目撃しなかったであろうか。
路地のあちらこちらにうずくまっている爆弾あられ屋であったり、四角い水色のキャンデー屋であったり、あるいは海水パンツを持たずに、フンドシ一丁で隅田プールに通う無口な男であったり、炎天下の中をふらつきながら、もう目も頭もバカになっているのに、今でも、死場所のありかを想起しようとするようなエチュードばかりをくりかえしている。」

「その頃、我が父、内田硬石は、オカマ長屋の物干し台で、クレゾールづけした飯盒の米粒をピンセットで、一つまみ、一つまみ、口に放り込んでいたのである。
あらゆる歴史の夢が、あらゆる正義の息づかいが、彼には不潔に思えていた。長屋のオカマや女衒(ぜげん)からさえも、気違い扱いにされながら、独り、くずれかかった物干し台の上にその居を定め、たかが五十年の人生に、寒空の何万光年とも云うべき星座を比し、潔めんとした。だが、星座よりも肉体はもっと重い。その肉体自身が既に腐りかけている。死場所では、肉体が風化するのに、ここでは悪い夢ばかりを刻む。少女ならば、悪い夢のテクニックとそのぶんなげ方を十二歳でおぼえてしまうのに、彼は今初めてその攪乱にかかった。数学者ルイス・キャロルが、少女の十二枚の写真をあつめて、それをこよなく愛好し、そしてアリスが立ち向うトランプの赤の女王に、ここでは、同じところに居られるためには、普通の二倍の速度で走っていなければいけないのよと云わせた、あの攪乱の力学に耐える術は、黒龍会の規約にはなかったのである。」

「彼らには、親分、子分のしきたりなく、常に盟友として、各々、各地にとぶかと思うと、とんでもない獲物を片手に、はせ集まる。社と云っても、使うものとその部下があるわけでなく、右翼と云っても右翼的なテーゼがあるわけでない。無節操で、無定見で、左翼の巨人と会った翌日には政界の凄い黒幕と会っていたりする。それが、予めお膳立てしたマキャベリズムと云うのでは決してなく、音も匂いもなくこの地上から抹殺された筑前の宿怨が、反骨とそして、万葉、古事記の孕んでいる共棲の美学を媒介に、福岡の地に忽然として花開いたのだ。
彼らの原像は、遡って、須佐之男命までゆく。浪人というものの、系譜を辿ると、根源は須佐之男命にゆくらしい。フロイト流に云うならば、この母なし子のイドの源は、大過去の、何千年という時と、今は見えない地の涯てをおぼろに辿り、海を越えた彼方、黄泉国(よみのくに)とか、朝鮮に向い、そこをさえ突き抜けて未だ見ぬ国、紅いの約束の地、つまり、西洋からも清国からも見離されている満蒙の地に往きつく。本能的な共棲志向と大陸への思慕にからまれて。
これが玄洋社の右翼浪人の魂である。それが、明治のナショナリズムの勃興期に、炭鉱夫や、風喰らい芸人などと共に生き、再び、土着的な方向に動いてゆく。」

「内田良平は時間の罠にはまってもがく。こうして彼は、早く夢を見過ぎてしまう病いにかかる。そして夢の通り以上に現実は一つも意外であったことはないように。黒髪が瞬く間に白髪になってしまうのを目撃した男にもう驚かすものは何もない。木の芽を見ると枯木が見える。少女を見ると、老婆が見える。風に吹かれてもそこに悪意を感じる。こうして一夜のうちに黒髪も少女将軍もその一家も去った。駈けてゆく黒髪の向こうに、燃える大きな塔。誰もまだ行ったこともない北の、また北の果てにあるオテナの塔。決して白髪になることのない黒髪の少女が、駈けてゆくその不死の国こそ、彼がいくつ夢を見てもたどりつけない秘境であった。」

「「どうだね、内田。この女をいつ俺に返してくれる」
「この泥をかい」
「泥がどうしたと?」
「カンナの村で鮒を喰ってから、この女の素姓は泥に見えるのさ」」

「「おまえを誰が売ると云った」
「だって泥のようにこねくりまわしてもいいってあの男に云ったじゃないの」
「あの銀次におまえの鱗がはがせたらの話だ」」



少女と右翼2


カバーを外してみた。










































































































唐十郎 『安寿子の靴』

「自分は子供の時から、暗がりに座ると落ちつくところがあり、押し入れの中とか、外で遊べば、大きな木の洞(ほら)はないものかと思ったもんだから。」
(唐十郎 「伸子の帰る家」 より)


唐十郎 『安寿子の靴』

文藝春秋 昭和59年10月15日第1刷
259p 初出一覧1p 四六判 丸背紙装上製本 カバー 定価1,200円
装画: 合田佐和子



唐十郎創作短篇集『安寿子(やすこ)の靴』。本書収録作のうち、「感傷鬼」の埋めた少年時代の日記を取り戻しにいくテーマと、「安寿子の靴」の押入れのなかにある死んだ女の人が残した紅い靴のモチーフは、ほぼ同時期に書かれた長篇小説『マウント・サタン』に取り入れられています。


安寿子の靴1


帯文:

「生きるために別れた二人…
名も名乗らぬ少女と十五歳の少年。片方だけの赤い靴をめぐり京都をさまよう二人に昔話を重ねた現代の「安寿と厨子王」ほか秀作七篇を収録」



安寿子の靴2


目次(および初出):

伸子の帰る家 (「文学界」 昭和58年3月号)
愛咬 (「小説宝石」 昭和58年10月号)
スッポンポン (「小説現代」 昭和58年6月号)
感傷鬼 (「文学界」 昭和58年12月号)
水陸両用の女 (「オール読物」 昭和59年8月号)
片腕 (「文学界」 昭和58年6月号)
便利屋 (「小説現代」 昭和59年9月号)
安寿子の靴 (「小説現代」 昭和59年4月号)



「安寿子の靴」より:

「名も言わないこの九歳の少女に会ったのは昨日のことだった。
川面の光りも、急に春めいた京都鴨川を、ズボンの裾をはしょって渡って来た時、対岸の出町柳(でまちやなぎ)三角州(さんかくす)から、からかうような鏡の反射が、十子雄の顔に照りつけられた。いつもは橋を渡るのだが、急ぎで対岸に向かう時は、そうして膝頭までしかない水の流れを横切ってゆく十子雄であった。鏡の反射で目くらましになった時は、丁度、川の中程で、しつっこい照り返しに手をかざした時、苔石に足が滑った。水に腰まで浸(つか)って、三角州を見上げると、芝生を這って逃げる小さな女の後ろ姿が見えたが、ずぶ濡れで岸にたどり着くと、鏡を隠した者は、まだいたいけな少女で、別に咎める気もしなかった。
この少女と再会したのは、それから一時間後のゲームセンターの中だった。百円硬貨を何枚か入れてコインを出す変換機に、十子雄が針金の細工を凝らしていた時、硝子窓を通して、いかさまを覗く少女と目が合った。偶然としか思わなかったが、只で出したコインでゲームに打ち興じている時、十子雄の真似をして、マッチ棒でコインを出そうとしている少女が、係員に捕まった。「こんなこと、誰から教わった」と衿首引っ捕まえられた少女は、すかさず十子雄を指さし、「助けて、お兄ちゃん」と喚いた。」
























































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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