唐十郎 『少女と右翼』

「「ねえ、あたしたちは鬼ね。村の人から見たらこりゃ鬼よ。明日の朝には叩き殺されかねないから」
「夜が明けるまえにここを出よう」
「鬼が逃げるのよ」
「あゝ」
「でも、あたしたち、こんなことをしていると、いつか本当に鬼になるかしら」
「あゝ」
「この国ではこんな伝えがあるのよ。幽鬼を追いかけるといつか本当に幽鬼になるって」
「なってもいい」
「なろうね」
「あゝ」」

(唐十郎 『少女と右翼』 より)


唐十郎 『少女と右翼 〈満州浪人伝〉』

徳間書店 昭和47年5月15日初刷
254p 四六判 角背紙装上製本 カバー 定価690円
装幀: 和田豊
絵: 高畠華宵 (高畠華晃氏提供)



唐十郎の長篇歴史冒険純愛小説。


少女と右翼1


目次:

少女と右翼 〈満州浪人伝〉
 右翼の伝説
 白髪海峡を越えて
 カラスの夜化粧
 黒龍江の少女
 カンナの花咲く村
 呪いの饅頭
 女の髪に火がついた
 死臭の紅塔
 満州の百円横丁
 暗闇の芝居
 黒髪すだれ



少女と右翼3


本書エピグラフ:

「これは歴史を偽造するものである
つまり見てきたような嘘だから
だから歴史的時間のお手玉だ」



本書より:

「内田良平、別名内田硬石(こうせき)は、黙ってシラミを机の上に置く。懐手で人を斬る頭山満(とうやまみつる)と並んで、大陸雄飛の大立者であったが、なぜか孫文等、中国革命党員が述べる革命援助者の日本人リストからは外されている。
この黒龍会の大うわばみは、建設中のシベリヤ鉄道を、単身、ウラジオからペトログラードまで徒歩で往復し、何物かにとりつかれた。赤い鬼火の燃える満蒙の処女地を横切りながら、満州おろしの中で何物かと固い契りを交したものの、そして、それが黒龍会の秘めたる謎であったにも拘らず、内田硬石はそれ以来、裏切りの激流にのまれるのだ。
陸軍の明石参謀と同じ筑前の人でありながら、大東亜の夢破れた焼跡の地を、二つの国の何処にも死場所を見つけられなかったこの男が、この男の無数の影が、鉄条網や焼けたレンガの焼跡を、未だに徒歩で往来した満州と思い込み、彷徨(さまよ)っているのを、上野の山からカモを見つけて降りてきた不良少年たちは目撃しなかったであろうか。
路地のあちらこちらにうずくまっている爆弾あられ屋であったり、四角い水色のキャンデー屋であったり、あるいは海水パンツを持たずに、フンドシ一丁で隅田プールに通う無口な男であったり、炎天下の中をふらつきながら、もう目も頭もバカになっているのに、今でも、死場所のありかを想起しようとするようなエチュードばかりをくりかえしている。」

「その頃、我が父、内田硬石は、オカマ長屋の物干し台で、クレゾールづけした飯盒の米粒をピンセットで、一つまみ、一つまみ、口に放り込んでいたのである。
あらゆる歴史の夢が、あらゆる正義の息づかいが、彼には不潔に思えていた。長屋のオカマや女衒(ぜげん)からさえも、気違い扱いにされながら、独り、くずれかかった物干し台の上にその居を定め、たかが五十年の人生に、寒空の何万光年とも云うべき星座を比し、潔めんとした。だが、星座よりも肉体はもっと重い。その肉体自身が既に腐りかけている。死場所では、肉体が風化するのに、ここでは悪い夢ばかりを刻む。少女ならば、悪い夢のテクニックとそのぶんなげ方を十二歳でおぼえてしまうのに、彼は今初めてその攪乱にかかった。数学者ルイス・キャロルが、少女の十二枚の写真をあつめて、それをこよなく愛好し、そしてアリスが立ち向うトランプの赤の女王に、ここでは、同じところに居られるためには、普通の二倍の速度で走っていなければいけないのよと云わせた、あの攪乱の力学に耐える術は、黒龍会の規約にはなかったのである。」

「彼らには、親分、子分のしきたりなく、常に盟友として、各々、各地にとぶかと思うと、とんでもない獲物を片手に、はせ集まる。社と云っても、使うものとその部下があるわけでなく、右翼と云っても右翼的なテーゼがあるわけでない。無節操で、無定見で、左翼の巨人と会った翌日には政界の凄い黒幕と会っていたりする。それが、予めお膳立てしたマキャベリズムと云うのでは決してなく、音も匂いもなくこの地上から抹殺された筑前の宿怨が、反骨とそして、万葉、古事記の孕んでいる共棲の美学を媒介に、福岡の地に忽然として花開いたのだ。
彼らの原像は、遡って、須佐之男命までゆく。浪人というものの、系譜を辿ると、根源は須佐之男命にゆくらしい。フロイト流に云うならば、この母なし子のイドの源は、大過去の、何千年という時と、今は見えない地の涯てをおぼろに辿り、海を越えた彼方、黄泉国(よみのくに)とか、朝鮮に向い、そこをさえ突き抜けて未だ見ぬ国、紅いの約束の地、つまり、西洋からも清国からも見離されている満蒙の地に往きつく。本能的な共棲志向と大陸への思慕にからまれて。
これが玄洋社の右翼浪人の魂である。それが、明治のナショナリズムの勃興期に、炭鉱夫や、風喰らい芸人などと共に生き、再び、土着的な方向に動いてゆく。」

「内田良平は時間の罠にはまってもがく。こうして彼は、早く夢を見過ぎてしまう病いにかかる。そして夢の通り以上に現実は一つも意外であったことはないように。黒髪が瞬く間に白髪になってしまうのを目撃した男にもう驚かすものは何もない。木の芽を見ると枯木が見える。少女を見ると、老婆が見える。風に吹かれてもそこに悪意を感じる。こうして一夜のうちに黒髪も少女将軍もその一家も去った。駈けてゆく黒髪の向こうに、燃える大きな塔。誰もまだ行ったこともない北の、また北の果てにあるオテナの塔。決して白髪になることのない黒髪の少女が、駈けてゆくその不死の国こそ、彼がいくつ夢を見てもたどりつけない秘境であった。」

「「どうだね、内田。この女をいつ俺に返してくれる」
「この泥をかい」
「泥がどうしたと?」
「カンナの村で鮒を喰ってから、この女の素姓は泥に見えるのさ」」

「「おまえを誰が売ると云った」
「だって泥のようにこねくりまわしてもいいってあの男に云ったじゃないの」
「あの銀次におまえの鱗がはがせたらの話だ」」



少女と右翼2


カバーを外してみた。










































































































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唐十郎 『安寿子の靴』

「自分は子供の時から、暗がりに座ると落ちつくところがあり、押し入れの中とか、外で遊べば、大きな木の洞(ほら)はないものかと思ったもんだから。」
(唐十郎 「伸子の帰る家」 より)


唐十郎 『安寿子の靴』

文藝春秋 昭和59年10月15日第1刷
259p 初出一覧1p 四六判 丸背紙装上製本 カバー 定価1,200円
装画: 合田佐和子



唐十郎創作短篇集『安寿子(やすこ)の靴』。本書収録作のうち、「感傷鬼」の埋めた少年時代の日記を取り戻しにいくテーマと、「安寿子の靴」の押入れのなかにある死んだ女の人が残した紅い靴のモチーフは、ほぼ同時期に書かれた長篇小説『マウント・サタン』に取り入れられています。


安寿子の靴1


帯文:

「生きるために別れた二人…
名も名乗らぬ少女と十五歳の少年。片方だけの赤い靴をめぐり京都をさまよう二人に昔話を重ねた現代の「安寿と厨子王」ほか秀作七篇を収録」



安寿子の靴2


目次(および初出):

伸子の帰る家 (「文学界」 昭和58年3月号)
愛咬 (「小説宝石」 昭和58年10月号)
スッポンポン (「小説現代」 昭和58年6月号)
感傷鬼 (「文学界」 昭和58年12月号)
水陸両用の女 (「オール読物」 昭和59年8月号)
片腕 (「文学界」 昭和58年6月号)
便利屋 (「小説現代」 昭和59年9月号)
安寿子の靴 (「小説現代」 昭和59年4月号)



「安寿子の靴」より:

「名も言わないこの九歳の少女に会ったのは昨日のことだった。
川面の光りも、急に春めいた京都鴨川を、ズボンの裾をはしょって渡って来た時、対岸の出町柳(でまちやなぎ)三角州(さんかくす)から、からかうような鏡の反射が、十子雄の顔に照りつけられた。いつもは橋を渡るのだが、急ぎで対岸に向かう時は、そうして膝頭までしかない水の流れを横切ってゆく十子雄であった。鏡の反射で目くらましになった時は、丁度、川の中程で、しつっこい照り返しに手をかざした時、苔石に足が滑った。水に腰まで浸(つか)って、三角州を見上げると、芝生を這って逃げる小さな女の後ろ姿が見えたが、ずぶ濡れで岸にたどり着くと、鏡を隠した者は、まだいたいけな少女で、別に咎める気もしなかった。
この少女と再会したのは、それから一時間後のゲームセンターの中だった。百円硬貨を何枚か入れてコインを出す変換機に、十子雄が針金の細工を凝らしていた時、硝子窓を通して、いかさまを覗く少女と目が合った。偶然としか思わなかったが、只で出したコインでゲームに打ち興じている時、十子雄の真似をして、マッチ棒でコインを出そうとしている少女が、係員に捕まった。「こんなこと、誰から教わった」と衿首引っ捕まえられた少女は、すかさず十子雄を指さし、「助けて、お兄ちゃん」と喚いた。」
























































唐十郎 『フランケンシュタインの娘』

「「すると、この箱の中には体温のない子が入っているわけ?」
「今は体温はないけれど、いつか蘇生するフランケンシュタインの娘です」
「分らないわ。あたし、この人の言ってること、よく分らないわ!」」

(唐十郎 『フランケンシュタインの娘』 より)


唐十郎 『フランケンシュタインの娘』

福武書店 1987年8月10日第1刷印刷/同15日発行
229p 定価1,300円
装丁: 菊地信義
装画: 古内ヨシ

「この作品は「海燕」一九八六年七月号から八七年七月号まで隔月連載された。」



唐十郎のシュルレアリスティク純愛SF長篇。唯脳社会の毒牙から、けなげな無脳の「お嬢さん」を守るため、勝ち目の無い孤立無援のたたかいに身を挺する男は、ヒーローと呼ばれてしかるべきではないだろうか。


フランケンシュタインの娘1


帯文:

「解剖学教室から盗み出された無脳児の標本は美少女として甦えるのだろうか。
様々な現代科学の意匠を通し、愛と秘密の哲学が縦横無尽に展開する長篇小説」



帯背:

「最新
長篇
小説!」



帯裏:

「川村二郎氏評
(「海燕」 9月号)
無脳児の蘇生、内と外とを分つ境界の撤廃、そうした発想に、いかほど人を愕かすだけをもくろむ鬼の面のような胡乱さがつきまとっていようと、面の裏には何もないとは到底考えられないのである。キメラのモチーフは、物語の最後に到って、男と「お嬢さん」とを「接木」するというイメージにおいて頂点に達する。塩が両者を結びつける物質となる。男は塩をまぶした裸の背中に、お嬢さんをおんぶして立ちつくす樹木となる。男の狂気が完成したといってしまえばそれまでである。しかしそこで語られている塩の寓話、じりじりと焼けつく道で塩の袋を背負ったまま仆れ、やがて塩は地に吸われて消え、自分は骸骨となる驢馬の話は、何を意味するとも判然とせぬまま、ある痛切な生のイロニーを具象化している。」



フランケンシュタインの娘2


本書より:

「研究室に通された時、先生は僕に、これが無脳児の女の子だよと、白い缶の蓋を開けて見せました。生後一週間のその子は、全裸で白い缶の底に仰向けになっていましたが、肌はビロオドのようにつややかで、静かな呼吸とともに瞼を薄く開け、先生の白衣を見詰めていました。
「この子は半分死んで半分生きているんだよ」
と先生は言われました。何が死んで何が生きているのかという問いに、それは植物中枢が生きていれば半分は生命体といえるからだと言ったきり、死んでいる後の半分についてはなにも語られませんでした。」

「先生、人々は植物のように生きています。」
「空気と水になじめないお嬢さんは、その植物のなかで、もっともかわいくない例外でしょうが、雷鳴の光りの中で、いつかその正体を見せてくれるようでもあるのです。」

「「おぼえとけ、このおののきを! 早産したきみたちが、僕の背に手をかけることはできないんだ。なぜなら、僕のおぶってるのは只の赤ん坊じゃない。理念よりも早く生まれ、幻像よりもすばしこいお嬢さんなんだ。ここに早産の源がある! その源に、偽れる早産の輩が、なにができんだ!!」
それは怒りすぎだったでしょうか。」

「もしも、解剖学教室から出て、お嬢さんを連れ歩く僕に会いに来るならば、先生は手首を切る必要がない。自分を傷つけてみるというその習いは、解剖学教室と人熅(いき)れのざわめきの間に立って、バランスをとるセレモニーであった筈だ。そのバランスを狂わし、どこまでが解剖学教室で、どこの領域が生きている人々の証しか渾然とさせてしまうために、僕は、「お嬢さん」を連れだしたのだ。「お嬢さん」がいるこのシャバも、お嬢さんと連れ添っているこの時間も、拡大された解剖学教室の一瞬ではないかと伝えるために……。この狂わした設定に、先生が少しでも気付いてくれれば、もう、自らを傷つけることはない。ここは広い解剖学教室で、バランスをとるために手首を見詰める廊下という出口も必要ないのだ。こうした強引な思い込みの中にどんな欠陥があったのか。」

「彼女は、塩袋を一頭の驢馬に積み、塩田を旅立った男の話をはじめる。行商の地は六日歩いた峠のふもとであるが、三日歩いた峠の道で、人の骨は見当らず、駄馬や驢馬の骸骨ばかりが散乱した光景につき当たる。地層のひだの稜線の、頂きから頂きに向かって累々と連なるその骸骨の背骨には、みな縄で縛った袋がくくりつけられている。袋に手をかけると、開けられた証しもないそれは腐食してホロホロと破けるが、中には何も入っていない。
人骨もないところを見ると、じりじりと焼けつく陽光の下で、狂った人間が家畜を叩き殺したとは思えない。凶々しい予感で、足の遅い驢馬を振り返ると、若者には、その驢馬の目が、ここでは嫌なことが起こると訴えているようにも見える。もう、二、三百米も行った所で、ここであった事と同じようなことが起こる。転がる骨たちが証明するように、馬たちに付き添ってきた人間たちはみな逃げたのだろうから、あなたもその時は逃げるだろうと責めるような目の光りも若者は読んでしまった。
その驢馬と暗黙の会話をするように、若者は、転がる骸骨の背にくくりつけられていた袋の中身が分るまで、お前を捨てはしないと肚に決める。からっぽの荷を背負ったまま、これらの隊商が旅をするわけがない。もしも、そんなことがあるならば、お前の背にのせた荷も空っぽになってしまうことになる。そんな不思議なことを放置するわけにはゆかないというのが若者の気持であった。
こうして一頭の驢馬と人間は突き進むが、谷を上ったところで、空気を切る風の音が、妙にざわざわとしているのに気付く。
それは隊商の驢馬を襲ったものの正体だった。トリパノソーマを宿すツェツェ蠅の群れだった。のろまで背丈の低い獣を殺すことを覚えてしまったツェツェ蠅は、一気に驢馬に襲いかかると、上着を振り回す若者の体にも飛びかかってくる。
その背に絨毯のように蠅をまといつかせながら、驢馬は、人間が自分を見捨てて逃げるのを見ようとするが、若者にしてみれば誓った以上に、その驢馬の目がある限り逃げられない。そこで人間以上に人間らしい驢馬は、蠅をまといつかせたまま、腹の下に隠すかのように、若者の体にのしかかった。荷物と驢馬の体重を支えきれず、若者は倒れた拍子に岩にぶつかる。
気が付くと、峠は夜になっている。腹の下から這い出そうとすると、まだ微かに息のある驢馬は、もう少しで軽くなる、どうかそれまでいてくれと言ってるような気がする。
しばらくすると雨が降り出す。
そして、驢馬の背負った袋の塩をすべて溶かしてしまった。
地に吸われた塩のため、軽くなった腹の下から這い出し、若者は驢馬を揺するが、それはもう動かない。
驢馬を死なして彼が知ったことは、空っぽになった袋の中身が塩だということだった。塩の重さのために身動きできず、ツェツェ蠅に襲われて死んだ生き物は、みな、塩の如きものを空っぽにするために生きてきたようなものにも思えた。
晴れた或る日、若者は骨になりかかった驢馬の死骸の前にやってきた。塩を吸った大地の上は、乾いた後もじりじりと、彼の皮膚を焙るような気がした。そして何日も通ったがそこに草木は育たなかった。ただ死んだ驢馬の骨と記憶だけが鮮明によみがえってきた。
そして〈塩〉という不毛のキメラが、この異様な光景を、若者の頭の中で、いつも永遠であるものに見せた。」

「これは逃れようのない或る話なのである。ツェツェ蠅から塩袋の重さから、鈍足から、人間と驢馬の差から、雨と塩の均衡から、知識から、知らないことが特権の人間の身上から、逃れられるべくもない。
「逃げないよ、捨てないよ」と言った男の声は、その逃れられない何かに向かっても響いている。」


























































唐十郎 『マウント・サタン』

「でも、裏に回ると、あんなにもせいせいと楽できるなんてのは、驚きもんだったの」
(唐十郎 『マウント・サタン』 より)


唐十郎 『マウント・サタン』

河出書房新社 昭和59年8月25日初版印刷/同30日発行
224p 初出1p 四六判 丸背紙装上製本 カバー 定価1,200円

「初出 「文藝」 一九八四年一月号―五月号」



唐十郎の純文学ふう長篇人情小説。団地の空き部屋に勝手に入り込んでモールス信号で会話する引きこもりの女の人(おそらく高機能自閉症)が出てきます。
本書は、ひとことでいえば、少年時代の日記を探しに、かつて住んでいた町へ戻った主人公が、日記の登場人物たちの現在に出会い、日記の中にしか存在しないはずの失われた少年時代を、いま・ここで取り戻す話です。
短篇集『安寿子の靴』(文芸春秋、昭和59年10月刊)収録「感傷鬼」(初出は「文学界」昭和58年12月号)のテーマを発展させたものといってよいとおもいます。


マウントサタン1


帯文:

「小説の現在へ踏みこむ
唐十郎の巨きな一歩!!
高島平の高層団地に、失われた町と〈少年〉の証しを求めてくりひろげられる、奇妙にも胸苦しい生と死の冒険。」



帯背:

「芥川賞以降の思念を
絞りこむ力作長篇!」



帯裏:

「川村二郎氏評
唐十郎の『マウント・サタン』も、一種の失われた時を索めての物語である。もっともそういえばこの作者の物語のモチーフは全部それだが、ここでは、少年期の記憶がこびりついている下谷万年町と、その町でかつて親しくしていた女たちが現在住んでいる板橋高島平の高層団地とが、それぞれに過去と現在の標識となっている。「マウント・サタン」――つまり「悪魔の山」とは、主人公が少年時に愛した「少年王者」の類の絵巻に多分出てくる、善を脅かす悪の根城なのだろうが、ここで高層団地がその山に譬えられている。
「文藝」」



マウントサタン3


マウントサタン2


本書より:

「捨て猫の泣く雑木林の横を抜けると、離れて暮らす親の匂いがする。
(中略)
彼が親と共に暮らした上野の下町をひとり去ったのは十年も前のことだが、それから二年後、土地もそのあばら家の根っこ同然に思っていた親は、地主に家を壊され追い出し喰らい、摺り寄るように追って来た。
だが、ゴミ捨て場にもなっている雑木林の奥を覗き込むと、追って来たのは親のみならず、去った町の気配でもあるような気がする。
(中略)
彼が、その下谷万年町に舞い戻ったのは、昔の家の縁の下に埋めた日記を掘り出しに出掛けたわけだが、それは駐車場になったコンクリートで固まって、爪を掛けることさえ出来なかった。」

「「本当のことを言うと、あたし勘当されて新居の門前払い喰ってると言ったけど、実はあの新しい家には近づきたくなかったの」
「どうしてですか」
「万年町のジャングルから見れば、高い恐い山だもの」
「そこはどこ?」
「高島平の団地です」
「マウント・サタンのような……」
と彼は身を乗り出した。」

「それはベランダから飛び下りた女のものかも知れない。彼は、顔に押し当てた靴の奥に向かってなにか雄叫びをあげたが、それはマウント・サタンに来た者の声とならないで、部屋のどこかにいる巨人の手で、靴を顔に押し当てられた小人の呻きにしか聞こえなかった。
息を切らして床にへたばると、押し入れの奥に残った片方の靴が、憎々しい赤のてかり様で、「去れ」と言っているように見えた。
握ったままの靴を、その靴の横に置き、手なずけられない主を見下ろすと、揃った靴は、もう一度、「去れ。なぜならば、お前はもう少年ではない」と言い含めるようなのだ。」

「そう思えば、彼の関わった人物は皆、成年になれない未成年の病気のようでもある。(中略)すると、このマウント・サタンが未成年の巣にも見える。」



マウント・サタンの団地の手すりには、「忘れられない」と「忘れられる」の、二つの文字が書かれている。「忘れられない」から「忘れられる」に向かって、手すりの上を歩いて、落ちて死んだ女がいたのだ。もし、マウント・サタンの試練を乗り越えて、「忘れられる」に辿り着ければ、成年になることなどど忘れしたような、すがすがしい永遠の未成年に生まれかわれることだろう。
そしてこの小説の主人公である「彼」も、よそよそしい「彼」であることをやめて、「僕」に戻ることができるだろう。


「ですから、これより、九階の手摺を、ハイヒール踏みしめて渡ってゆくと、丁度、手摺は東に延びてますから、その古い町に向かってくように思えてならないんです」
「万年町の方にね」
「それで、もし『忘れられない』ラインから『忘れられる』ラインにたどりついたら、一瞬にして、この団地がかき消え、低い棲息地のジャングルとおぼしき万年町になっていればいいなあと僕は思います」
「なぜ?」
「僕は日記を掘り出したいんです」」

「そうすると、マウント・サタンは恐ろしくもなんともなく、未成年ばかりを収容する巨大な巣となって建っていた。
それは子供の城でもあった。
その巣に合わせた暮らし振りが、人の息を未成なものに形作り、それでバランスを保っているのだ。
そこに向かう自殺者は、死にに行くのではなく、稚ない遊戯の洗礼を受けるのだ。」

























































































































唐十郎 『紅疾風』

「芸人なんておしろい塗りたくって、畑の畔道で野垂れ死ぬのが相場だよ、芸はかくあればよいのかもしれないね。つまり、ぼくは芸の自立なんて認めないんだ。芸は溶解(とろけ)てしまえば良いと思うの。」
(唐十郎 『紅疾風』 より)


唐十郎 『紅疾風』

學藝書林 1974年10月30日第1刷発行
242p あとがき2p 口絵i
四六判 並装(フランス表紙) 筒函 定価850円
画: 篠原勝之
幀: 田辺輝男

付録(刊行案内): 「風の軍隊」 No. 1 (8p)
「唐十郎『紅疾風』外伝」
「パレスチナ巡演日誌」 (状況劇場)
新刊書評抄・近刊ニュース・ピックアップ ほか



「乞食の群れ」を自称する劇団に入った元腹話術師のアラビア巡演冒険譚『紅疾風(べにはやて)』。篠原勝之氏による挿画入り長篇小説。


紅疾風1

右が本体、左が筒函。


筒函背裏文(本書第六章より):

「ガザの彼方から紅疾風がかけてくる。ダビデ王の昔から、富める王家を荒らし、ひっかついだ美女に金銀財宝を、無人の砂漠に叩きこんだあの伝説の魔王が見えてくる。魔王は一体何にとりつかれていたのか……すべては砂丘に眠る少女伝説に紅化粧をほどこすためだ。ふりかざし、びゅんと振る半月刀から、銀のシャレコウベを染める紅がほとばしる。どこまでも連なるシャレコウベを染めるためには、時間はジャハンナムの回廊の数ほどあるのだろう。それにしても、魔王は何故朽ちたそれらの顔に紅化粧をほどこさなければならないのか」


紅疾風2


目次:

第一章 駿馬
第二章 凝血
第三章 引っこ抜く者
第四章 遁走
第五章 妖霊の村
第六章 紅疾風

あとがき



紅疾風3

口絵。


紅疾風5


本書「あとがき」より:

「この「紅疾風」の前半は、一座が七月七日に羽田を出発して、八月三日に帰ってくるまでの約一ヶ月間、パレスチナで書きしたためたものであります。旅の大半はレバノン・シリア・ヨルダン国境沿いの礫漠で過したために、ローソク一本の土間で走り書きしたり、朝のバスに乗り込むちょいとした間に、木陰で書かねばならなかった。礫漠は砂漠とちがって、かぜで吹きよせられるほこりのつぶが岩をくだいた細かいものです。それがペンの間にはさまってペン先が二つによじれてしまいました。それでも書き急ぐと文字が鳥の足のようにはねて、しばらく見つめていると、口からコンドルの鳴き声がとびだした。」


紅疾風4


本書より:

「「芸人なんておしろい塗りたくって、畑の畔道で野垂れ死ぬのが相場だよ、芸はかくあればよいのかもしれないね。つまり、ぼくは芸の自立なんて認めないんだ。芸は溶解(とろけ)てしまえば良いと思うの。顔に塗りたくったおしろいが、もう善男善女を誘惑することもなく、鉛毒となってその面を死に誘うように、あざとい方向にとろけてしまえばいいのさ」」


紅疾風6



























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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