有田忠郎 『異質のもの』

「聖杯探求および円卓騎士団という形で中世に現われたこの神話は、背後に現代の現象の最も典型的な様相の幾つかを対応物として持っており、シュルレアリスムはその一つなのだ――ジュリアン・グラックはそう考える。換言すれば、シュルレアリスム運動を現代における聖杯探求の一形態と見ているのである。」
(有田忠郎 「シュルレアリスム・聖杯探求・錬金術をめぐるノート」 より)


有田忠郎 
『異質のもの
― 感性の接点を求めて』


牧神社 
1975年7月31日第1刷発行
242p 
21×13cm 
並装(フランス表紙) 機械函 
定価1,200円



本書「あとがき」より:

「本書に収めた文章のうち、最も古いものは昭和三十五年、最も新しいものは昭和四十八年に書かれている。十数年にわたって書きついできたものの中から選んで一冊にまとめたわけだが、取捨選択や配列については、もっぱらその年月のあいだ私を導いてきたひとつの関心に沿って行なった。」
「収録した文章を書いている間、しばしば読み返して糧とも杖ともしたのは、深瀬基寛氏の著作と訳業であり、ついで吉田健一氏の文学論(とくにその近代観)であった。」



有田忠郎 異質のもの 01


目次:

ポール・ヴァレリーの文明論をめぐる註釈的考察
 「精神の危機」
 「失われた酒」
 レオナルド・ダ・ヴィンチ
 持続
 分離
 源泉の回想
 近代の系譜
詩の位置
 はじめに
 ヨーロッパ的風土をめぐって
 呪術と神話をめぐって
 詩的神話の回復――詩と宗教をめぐって(1)、(2)
 詩とエロス
 エロスと悪魔
 「なる」ことと「する」こと(1)、(2)
 自然の道と創造の道(1)~(4)
 詩と伝統について(1)、(2)
 おわりに
異質のもの 
 秋の歌
 流謫
 遠い国から
元素と変容――ある詩人誕生説話をめぐって
シュルレアリスム・聖杯探求・錬金術をめぐるノート

参考文献
あとがき



有田忠郎 異質のもの 02



◆本書より◆


「異質のもの」より:

「ヨーロッパ文化の呪縛とは何か。簡単に言えばそれは、原罪の暗い教義によって自然に対するギリシア風の明るい肯定を封じられたこと、また科学によって自然がすべて観察や人工的操作の対象として、無機物化・機械化され、自然自体の生命が圧殺されたことなどが挙げられましょう。精神と自然との間のこの長きにわたる遮断、両者の直接交渉の欠如がランボーに至ってもののみごとにひっくり返されてしまったということ、そこに由来する衝撃的な開放感を想像しないままでランボーの感動を追体験することは、私たちにとって厳密な意味では不可能ではないかと思うのです。ヨーロッパ人の場合、この遮断は日常の経験の中に血肉化され、自然に関する彼らのイメージの性質を決定しているのでしょうが、彼らにとっての日常性を、私たちは知的操作を通して間接的に再構成することによってしか手に入れることができない。私たちの自然体験との間にある距離を埋める必要から、そうした操作が強いられるわけです。回帰する四季の中に生滅するささやかな事象と共に流れ行く生命の無常感に浸されて来た私たちには、精神と自然とのきびしい対決から生まれた西欧文化の秩序の問題が私たち自身のそれとは異質のものとして迫って来るものである以上、それは仕方のないことですし、そうした異質性を手掛りとして西欧的なものの問題点の所在を見ぬくには、かえって私たちの方が有利だとも言えるでしょう。」


「元素と変容」より:

「タリエシンの生誕寓話が、たとえばエジプトのオシリス神話、フェニキアのアドーニス神話、ギリシアのディオニューソス神話などと同じパターンを持つことは、容易に見てとれる。いずれも本質的には植物の精霊であり、大地にひそむ種子であって、慈雨を得て再生し、繁茂し、時がくればまた枯死しなければならない。」
「さて、しかしグウィオン・バハはタリエシンの名を与えられて新たな生命形態を得るに先立って、自然の諸元素(地・水・風・火)の中をくぐりぬけ、死の手に追跡されながらさまよわねばならなかった。すなわち死―復活は、魂と肉体に対して一挙に与えられるものではなく、度重なる転身と世界内部での遍歴という試煉を通じて、その揚句に許されるものであった。これが、植物神話に続く第二のパターンとしての秘儀伝授(イニシアシオン)の形態なのである。秘儀伝授には必ず試煉が伴い、一つの試煉ごとに、魂は古い存在から脱皮して新たな存在の層へと転身して行くのである。」
「グウィオン・バハにとって、地・水・風・火は、自然的宇宙の元素から死―生命の劇が行なわれる舞台に転化した。(中略)しかし各元素の段階が試煉とイニシアシオンの道程であり、イニシアシオンとは鎖された世界・隠された道への導きなのだから、これら元素が構成する宇宙は一つの迷宮以外のものではない。そこにあるのは、もはや枯死と発芽の植物神話ではなく、迷宮内部での流浪――それが暗示する魂の試煉と浄化の劇なのである。
 この迷宮を行く旅の最後の一歩は、タリエシンが皮袋に入れられ海に投じられたという説話であらわされている。この説話は、おそらく古代からあった慣習に対応するものであろう。マリ・デルクールによれば、ある不吉な星のもとに生まれた子を大地に触れさせないのは、古く各地に見られる慣習であったという(バシュラール『水と夢』から)。人々は、彼が大地を汚し、その呪われた運命によって大地の豊饒な生産力を弱めることを恐れたのである(これは倒立した植物神話と見なし得る)。彼は生まれるとすぐ小舟に乗せられ、海または河に流される。水は勢烈しく流れ行き、渦を巻き、やがて小舟もろとも幼児を呑みこんでしまうであろう。
 幼児が小舟に乗せられて冥界(迷宮の奧?)へと流されるところから、この舟は柩と等価値ではないかと考えられる。舟・柩――その材料となるのはむろん木であるが、古代ケルト人の間では、他民族と同様樹木崇拝の風習があった。ドルイド僧は森を寺院とし、宿り木に特殊な信仰を寄せたことが知られている。ところで、この樹木崇拝と死者の魂に関して、サンチーヌはおよそ次のように語っているのである(バシュラール・前掲書から)。
 人間は、生まれた時から植物の精霊と結ばれ、それぞれ固有な守護の樹木を持っていた。彼が死ぬと、その樹木は伐られくりぬかれ、彼はその穴に横たえられる。つまり守護の樹木がそのまま柩となるわけである。柩は火に焼かれ、あるいは地に埋められ、または海や河の水に流される。また柩を作るかわりに、死者を当の樹木の梢で直接風にさらし、鳥に啄ませた地方もある。
 このように、死者は儀式の様態に従って、地・水・火・風という自然の四大元素のいずれかに委ねられた。彼の魂は、かくてどの元素かを経由して自然の中に帰ったのである。だが、死者が横たえられた柩―樹木は、彼が生まれた時から同じ精霊を共有し、いわばもう一つの彼自身ともいうべき存在であった。したがって、死者は柩の中に横たえられることによって精霊の母胎に帰るわけである。さらに、この柩が小舟となって海や河の水に浮かべられる時、守護精霊の力は倍加する。なぜなら、水――この養いの液体は、母なる物質であり、生のシンボルなのだから。こうして死者は樹と水という二重の母なる守護の力を得て、迷宮の暗黒を横切り、おそらくはそこで死から浄化され、再び生の世界にもどってくるのである。」





















































































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有田忠郎 『夢と秘儀』

「以後キリスト教が勢力を得るにしたがって、グノーシス派は歴史の暗黒の中に潜入し、地下的組織つまりは異端的存在と化していく。グノーシス派にとっては、人間の生誕そのものが失敗であり、時間の開始がすなわち悲劇の開始であった。この徹底して反歴史的な教説が歴史からの疎外の道をたどるのは、みずから望んだかのような必然だったのである。」
(有田忠郎 「倒錯の修辞学、修辞学の倒錯」 より)


有田忠郎 
『夢と秘儀』


書肆山田 
1983年6月23日初版第1刷発行
237p 22×13cm 
並装(フランス表紙) カバー 
定価2,800円



本書「あとがき」より:

「興にまかせ、注文に応じて書いてきた文章も、あとから振り返れば意外に一本の筋をたどっているものだ。個人の関心はそれほど多岐にわたることはない、ということかもしれないし、私という人間が結局は同じ夢に偏執的にかかわってきたせいかもしれない。」


有田忠郎 夢と秘儀 01


帯文:

「自らの尾を噛む蛇はその尾の尖端に存在の復活の秘儀を司るべき矛盾と倒錯の思考を擬する。しかし今日、生の営為はさながら失敗した宇宙の失敗した作品としか映らぬかに思える。末来への予示は我々が見喪っている我々自身の尾にあるのかもしれない――時間の底流に喪われたかに見えて喪われてならないものを拾い、敢えて完結されず反復する思索を自らに擬するエセイ」


帯背:

「essai des arts 3」


目次 (初出):

*
テオフラストの偽書 

I
夢の物語、夢の記述――A・モーリーからA・ブルトンへ (「ユリイカ」 第11巻15号、1979年12月)
シュルレアリスムの余白に――ジョー・ブスケをめぐる注釈的考察 (「ユリイカ」 第8巻7号、1976年6月)
余生の幻視 (「思潮」 第2号、1970年9月)
ジョー・ブスケをめぐって (「饗宴」 第8号、1980年12月)
倒錯の修辞学、修辞学の倒錯 (「現代思想」 第8巻10号、1980年7月)
母なるものと子なるもの――精神分析批評と錬金術的象徴解釈をめぐるノート (「西南文学」 第3号、1976年11月)

II
錬金術の思想 (「中央評論」 第149号、1979年10月)
石の生成と変容――「錬金術の石」または「賢者の石」について (「is」 第10巻、1980年9月)
錬金術と宇宙創成論 (白水社 「ヘルメス叢書」 第2巻=「自然哲学再興」「ヘルメス哲学の秘法」 解説、1977年5月)
地母神の群れ (白水社 「ヘルメス叢書」 第3巻=「沈黙の書」「ヘルメス学の勝利」 解説、1977年6月)
鉱物の夢と種子の秘儀 (「ユリイカ」 第6巻9号、1974年7月)
シュルレアリスムと錬金術 (思潮社 「シュルレアリスム読本」 3=「シュルレアリスムの思想」 1981年6月)
黄金流離譚 (「現代思想」 第5巻11号、1977年10月)

*
神の書跡のアルケミア または迷路のプラトニズム (「現代思想」 第7巻4号、1979年1月)



有田忠郎 夢と秘儀 02



◆本書より◆


「シュルレアリスムの余白に――ジョー・ブスケをめぐる注釈的考察」より:
 
「《植物の暗闇の底に投げこまれて、頭のてっぺんから足の爪先まで、私の苦悩の隠れた襞の中まで、私という人間は、二十歳の時一発の弾丸で生命の持続を断ち切られた、あの時のままの人間なのです。この庭園の露と滴る生命のただなかで、深夜、私の生身は最後に完全な肉体を具えていた姿で私を包みこみ、私は、自分がかつて最後に一人の人間であったままの男の背におわれて負傷兵のように運ばれて行きます》――ブスケはブルトンに宛ててそう書き送っている(一九三四年九月)。死神の合財袋から偶然取り落とされたブスケにとって、問題はこの偶然を思想的に必然に変えること、別言すれば自分の傷がある真理顕現のためになくてはならぬ条件だったことを証明することにあった。「黄金の魚」宛の手紙から、さらに一節を引用しよう。《私は人生の中にはおりません。私の運命は、ひとたび私を人生から引き離しました。そのあと、今度は自分の意志で人生から出て行ったのです。それはまるで、私を襲ったあの恐るべき運命の打撃を前にして、自分の活動の中に自分の状態の存在理由を探り求め、私自身の生活をあくまで深く掘りぬいて、その霊的体質にまで至ろうとしたかのようでした。言ってみれば、私にひどい打撃を与えたある神を信じ、私をそんな奇妙な風に扱ったのはもっともだと証明するため、全身全霊で没頭したわけです》」
「ここに心理的倒錯を見るのはたやすいかもしれない。だが深層心理の剔抉と称するものが、実はそれ自身神秘的体験の倒錯した解釈になるケースがあることも、忘れてならぬことであろう。《生命は創造されねばなりません》というブスケの言葉が、彼の苦痛を代償として得られた決意であるにせよ、そこに単なる補償行為しか見なければ、ブスケの姿は裏返されてしまう。負傷つまり己れの存在の欠如態が認識の普遍的条件だという彼の言葉は、そのまま受け取られねばならない。なぜなら《われわれがまったく現実の存在でないということ、もっと正確に言えば、われわれがこうして人間の形をまとっているままでは完全な現実存在ではないこと……実在は、われわれが自身を忘却する時にわれわれのもとを訪れる――音楽のように、詩のように》ことを彼が知ったのは、まさにこの欠如態を通してだったからである。《自分の傷は自分より以前に存在していたもので、私はただそれを肉化したにすぎない》という一見逆説的な言葉は、ブスケの認識が如何に霊的な深さへ達していたかを示すものであろう。それは、たとえば夢を目覚めからの目覚めと呼ぶような、前世の記憶(レミニサンス)に似たプラトニスムの響きさえ帯びている。」



「石の生成と変容――「錬金術の石」または「賢者の石」について」より:

「古代文明の神話において、天地創成の初めに存在した原一者は、おおむね死んでばらばらに分解し、その屍から世界の各部分が造られたことになっている。たとえばバビロニア神話で、主神ティアマットに打ち倒されるマルドゥクがそれである。賢者の石がこのような原一者に相当することは、石の遍在性と同時に、もう一つの重要事を教えてくれる。それは「石」の名で示されるこの神秘な物質が創造の運動の中に入るためには、一旦死んで分解され、しかる後に蘇るという、死=復活のプロセスをくぐりぬけなければならぬということである。原初存在が八つ裂きにされて、その屍から無数の存在が生まれたように、石もまた死の関門を通ることを要求されているのである。
 これは、錬金のための「大いなる作業」に付された哲学的な意味にも厳密に対応する考え方であった。なぜなら、錬金作業において、卑金属は火の洗礼を受けて容器の中で死に、解体し、腐敗し、みずからが出てきた母胎である暗黒の渾沌界に送り返されてはじめて、光り輝く黄金となって蘇るからである。病に罹り老化した物質の蘇生には、「黒の過程」と呼ばれるこの秘儀的試練が不可欠であった。錬金術師とは、この秘儀の祭司にほかならない。賢者の石を探求する彼らの実験室(ラボラトワール)が何よりもまず祈祷室(オラトワール)であったと言われるのは、そのせいである。」
「神の受難のイニシエーション的機能が物質に投射されるからには、物質とは、それ自体であると同時にそれ以上のもの、すなわち聖性の顕現する場でもある。物質を八つ裂きにする錬金作業の頂点で、火の試練の中から生まれる幼児としての賢者の石、この高貴にして霊妙な物質が、他面では「地上の物質中で最も陋劣にして下賎なもの」とみなされた秘密は、おそらくそこにある。なぜならエリアーデが言うように、「聖性顕現(ハイエロファニー)は聖なるものを発現させるという事実そのものによって事物の存在論敵秩序を変化させる」からである。「すなわち、陋劣なもの、取るに足らぬもの、石、樹木、小川は聖なるものの要素と合体する瞬間、この宗教的体験に加わる人々によって尊ばれることになるのだ。(中略)聖性発言の逆説は、聖なるものを発現して超越的なるものを《陋劣な事物》のうちに化肉させる事実に存する。(中略)同様の逆説は賢者の石にもあきらかだ。それは未参入者の理解力を越えている、子供たちはそれで遊戯することができるし、奴婢たちはそれを街路に擲(な)げ棄てるのだが。それは随所に在るけれども、事実のうちでもっとも把握しがたいものでもある。」
 ありふれたもの、卑賤なものが聖性の徴となり容器となるという、この密儀的な考えから、パンと葡萄酒がキリストの肉と血に化するあの聖体の秘蹟を連想するのは、容易であろう。さらには、神が人となって卑賤なひとびとの間を流浪し、ついには盗賊と並んで十字架にかけられたあと、三日にして蘇ったイエスの受難と復活の物語を思い起こしてもよい。事実、賢者の石は、生まれたばかりの幼児として図像化される一方、蘇るキリストの姿で描かれることもあったのである。
 賢者の石は、物質の暗闇の中に捉われて深く眠っている神性であり、世界の魂(アニマ・ムンディ)である。火の洗礼を中心とする錬金術という密儀の行為は、物質を犠牲の祭壇に供することによってこの神性を救済する。そして密儀の祭司をつとめる錬金術師は、この救済行為のもつ治癒力によって彼自身が救われるのである。賢者の石を探求する錬金術師の根本動機は、富への欲望ではなく、救済への渇望だったのである。」




◆訃報:有田忠郎さん83歳=詩人、西南学院大名誉教授◆

有田忠郎さん83歳(ありた・ただお=詩人、西南学院大名誉教授、フランス近・現代詩専攻)11日、肺炎のため死去。葬儀は親族のみで行われる。自宅は川崎市麻生区千代ケ丘3の17の55。喪主は長男一穂(かずほ)さん。

フランスの詩人ビクトル・セガレンなどの翻訳で知られる。

毎日新聞 2012年3月16日 20時39分
http://mainichi.jp/select/person/news/20120317k0000m060073000c.html





























































『日本現代詩文庫 52 有田忠郎詩集』

『日本現代詩文庫 52 
有田忠郎詩集』


土曜美術社 1992年1月10日発行
158p 四六判 並装 ビニールカバー 
定価1,300円(1,262円+税38円)
装幀: 蔦本咲子



既刊詩集三冊を全篇収録(ただし「あとがき」は省かれている)、ほかに未刊詩篇九篇(そのうち八篇は後に第四詩集『一顆明珠』に再録)およびエッセイ五篇と、崎村久邦(「ALMÉE」同人)による解説、自筆年譜。

本文用紙は変色(日焼け)しやすい紙が使用されています。


有田忠郎詩集1


内容:

詩集 『蝉』 全篇
 I
 蝉
 静物
 雪
 光
 水
 音楽
 使信
 谷より
 時間
 声
 II
 島について

詩集 『セヴラックの夏』 全篇
 I
 一九八〇年・夏の記憶
 八月の歩行者
 標的
 弓と舟
 夏の柩
 風景
 銀杏(いちょう)・銀杏(ぎんなん)
 夏のなかの二つの帰還
 エンペドクレースの手帖
 II
 ある少女に
 ダルな夏にはダリを
 巻貝と丘
 ある朝パリで
 セヴラックの夏
 ブラームスの秋

詩集 『髪と舟』 全篇
 I Homo viator
 聖餐
 海と風のロンド
 真夏の塔
 書物の夏
 ある語学
 マジョルカの舟歌
 旅のなかの旅
 カズヌーヴ館
 II 銀河と舞踏
 そのひと
 そのひと
 そのひと
 舞う
 木の葉が死ぬとき
 失われた村
 III 狙撃者の冬
 雪の二十行
 火の十五行
 塩の歌
 静かないっぽんの直線を
 丘の上で
 五月の歌
 冬の王
 IV 頌の試み
 エリザベス・シッダルの墓
 黄金の階段
 サロメ
 雨季と炎
 虹と墓
 V 分身と音楽
 エル・スール
 塩
 転生論
 クルイロフという名前
 髪と舟
 ピレネーの向こうで聴いたモーツアルト

未刊詩篇より
 単語
 一顆明珠
 ゴーギャンの音楽
 墓碑銘
 砂漠の小舟
 脚韻と靴型
 ナントの砦
 ニューヨークの詩人
 一輪車

エッセイ
 山中智恵子の歌私註 (1979. 1. 28)
 変化の感覚について――フォランとボンヌフォワ (1966. 2. 10)
 「渇き」の時代に――E・M・シオランをめぐって (1978. 2. 2)
 思い出のトゥールーズ (1982. 2. 11)
 ダリと書物の不思議な関係 (1987. 11. 19)

解説
 有田忠郎さん (崎村久邦)

有田忠郎年譜



有田忠郎詩集3



◆本書より◆


「ほそい雨には
草のにおいと
小鳥の声がにじんでいる
午前の静物をとりかこむ
このもろい明るさは
皿のように砕けるだろうか
幅ひろい
あるいはせまい
オクターヴに揺られつつ
樹も影も
時の岸辺に漂流し
永遠へ向けてのように
かたむいてゆく」

(「静物」)


「迎え火をたく私のなかには
ついに生きることをしなかった誰かがいる
生きるまえに埋葬された死者
私のなかのもうひとりの私

そいつは暗い門柱に寄りかかり
死者のためにもえる焔を
さびしく見つめて首をふる
ほそくにがい痕跡のような
記憶の束をにぎりしめて……」

(「夏のなかの二つの帰還」より)


「やがて鐘が鳴るだろう
あなたの塩からい喉もとで
終末ではない出発の鐘だ
あなたはふいに立ちあがり
海を渡るよりもすばやく
もうひとつの遊星へ渡って行くだろう」

「太古 肉体は海から這いあがり
魂はもっと遠い場所からやってきたのだ
火よりも氷よりも直截な痛みが
いまはなぜ蔑まれるのか
言ってくれ あなたの
ほんとうの支配者は誰なのか」

(「塩」より)


「私はこれらの歌にしばしば登場する「水」と「火」のテーマに強く惹かれる。異質なこの両元素は、あたかも自然と人とを同時に貫く魄と魄ででもあるかのように遍在しつつ、読む者をある時は遥かなまどろみに誘い、ある時はひたぶるに駆りたててやまないのである。」

(「山中智恵子の歌私註」より)



有田忠郎詩集2


本書収録詩には石原吉郎の影響が見受けられるような気がします。

「静かないっぽんの直線を
さらに静かな男があるいてくるとき
かれの中には まだ
硝煙がくすぶって
いるかもしれぬ
あるいは発火寸前の撃鉄が
ひそんでいる
というようなことがあるかもしれぬ」


(「静かないっぽんの直線を」より)











































有田忠郎 『一顆明珠』

「声のなかに剃刀をもつ男
かれは夜明けの石段をのぼり
名辞が生まれる直前の世界へ入ろうとしていた」

(有田忠郎 「一顆明珠」 より)


有田忠郎 
『一顆明珠』
 

書肆山田 
1994年2月15日初版第1刷
79p 同じ著者によって1p 
21.6×13.6cm 
丸背紙装上製本 函 
定価2,472円(本体2,400円)
装幀: 亜令



本書「あとがき」より:

「『日本現代詩文庫52』(土曜美術社)に「未刊詩篇より」として入れた九つの詩のうち、一篇を削り、雑誌発表の二篇と散文二つを加えて、このささやかな詩集を編んだ。タイトルの読みとしては「いっか・みょうじゅ」をとりたい。」


有田忠郎(ありた・ただお)第四詩集。削られたのは散文詩「ナントの砦」。加えられた二篇は、「小川国夫の小説中の人物」に捧げられた詩「ユニアに」と、澁澤龍彦追悼詩「うつろ舟」。シャンソン歌手ジャック・ブレルを主題にした「墓碑銘」と、ボルヘスを主題にした「脚韻と靴型」に、それぞれ解説的短文「不幸の構図」「砂の本」が付されている。


有田忠郎 一顆明珠 01


目次:

単語
砂漠の小舟
ゴーギャンの音楽
墓碑銘
不幸の構図
ニューヨークの詩人
ユニアに
うつろ舟
脚韻と靴型
砂の本
一輪車
一顆明珠

あとがき




◆本書より◆


「単語」より:

「まちがってはいけない
わたしは物語をつくる男ではない
まして辞書を編む男でもない
わたしは詩と単語を直結する者だ」



「砂漠の小舟」より:

「かれの小舟はいちはやく座礁した
そのかけらを見つめている
かれの初めての死
たった一度の死」



「ゴーギャンの音楽」より:

「波打ち際はきらめく音符のフーガだった
闇をはこぶ小舟のように
ゴーギャンは問いを満載したまま
熱い海に漂っていた」



「墓碑銘」より:

「ある日 小さな舟に
きみは自分の全部をぶちこんで
大洋を越えた」



「不幸の構図」より:

「私はブレルにもシャンソンにも格別の関心はない。ただ、ブレルがありあまる才能をもちながら、若くして歌をやめ、やがて病に倒れたことは聞き知っていた。かれはマルケサスまで「死ににきた」のだろうか。ここにも、不幸の才能を引き受けざるを得ない特別の男がいたと私は感じた。」


「ユニアに」より:

「夕べと朝のあいだに
ユニアは広大なものを得 そして失った
目覚めのつぎに来たものは何であったか?」



「うつろ舟」より:

「その男は声を失って
何をかわりに得たか」

「喉に剃刀をあてられた男はなおも
凛然として
シーツにも薬品にも漂白されぬ文字を書いた
うつろは天地に隈なく接している
小舟も世界中の水を変形できる」

「ランプが暗い階段のなかを導き
うつろにかえった男を舟に乗せただろう
そのとき彼は
わたしのささやきも乗せて行って
くれただろうか
わたしは弔辞のようなカナ文字を
風に託して男に送った
さようなら」



「脚韻と靴型」より:

「あなたは耳の舟を漕ぎ
欠けたひとつの脚韻から
はるかな一行を遡って
最初の単語にたどりついた」



「砂の本」より:

「「極端に言えば書物には二種類しかない。通読可能な本と不可能な本だ」と、老人は言った。いたずらっぽい眼が笑っていた。
 「分からないかね。物語と辞書さ。これが人生という大きな海を囲んでいる。」」



「一顆明珠」より:

「夜明けの石段をのぼるひとは
ゆうぐれの衣をまとっていた
生まれることも死ぬことも
雷鳴のように噛み砕いてきたので
かれは何ひとつ知らぬ男にみえた
防禦はかれにもっとも遠い姿勢であった」

「声のなかに剃刀をもつ男
かれは夜明けの石段をのぼり
名辞が生まれる直前の世界へ入ろうとしていた」




◆感想◆


著者の最後の詩集『光は灰のように』の中心には多田智満子という死者の存在があり、そして本書の中心には澁澤龍彦とボルヘスという死者の存在があります。三人に共通するのは華厳経的オブジェ/観念としての「珠」への偏愛です。


バルトルシャイティス著作集第三巻『イシス探求』(有田忠郎訳)「解説」より:

「私がこの翻訳を担当するに至ったのは、故澁澤龍彦氏の推輓によると聞く。前二著の訳者に倣って、私もこの書物を、生前ついにお会いする機会のなかった澁澤氏の霊前に捧げたい。」


高山宏氏によるバルトルシャイティス著作集第二巻『アナモルフォーズ』(高山宏訳)「解説」より:

「翻訳の経緯にまつわる私事をはじめに少し。澁澤氏周辺が某書肆にもちこんだバルトルシャイティス作品集の話がうまくいかなかったらしいという噂を聞いて、ではというので国書刊行会の宮崎慶雄氏に話をし、雨の北鎌倉に乗りこんだのはぼくが二十代終りのことであった。あとにも先にも澁澤氏その人とお会いしたのはその一夜だけである。(中略)あっという間に話は決った。種村・巖谷両先生の人選は動かないということで、さらに有田忠郎氏の名を出してこられた。『イシス探求』はこの人しかいない、と。」


















































有田忠郎 『子午線の火』

「ひとときを、大きな魚のように眠れ」
(有田忠郎 「北へ」 より)


有田忠郎 
『子午線の火』
 

書肆山田 
1999年11月15日限定300部発行
59p 同じ著者によって2p 
19×12.3cm 仮フランス装 函 
定価3,000円+税
装幀: 亜令



有田忠郎(ありた・ただお)第五詩集。


有田忠郎 子午線の火 01


帯文:

「虚空に南から北へとさしわたされたひとすじの道。彼は歩む、太陽を肩に。なけなしの勇気を眼の高さに保ち、風とパンと今日を運ぶ。」


目次:

I
シチリアの塩
シチリアのレモン
夏の雷雨に
夏の食卓

II
夏を送る挽歌
水無の谷
驟雨、ゆうだち
北へ
 1 夜明け  2 まひる  3 よる



有田忠郎 子午線の火 02



◆本書より◆


「夏を送る挽歌」より:

「もうすぐ火を落とします、水もそろそろおしまいです
欲しいものがあれば、いま言ってください
静かな声で、そんなに歯を剥かないで
あの樹に小鳥たちが、眠りに帰ってくるのです」



「驟雨、ゆうだち」より:

「時がたち、男は死者のあいだへ入って行った、風の凪ぐ
日の暮れ方に。」

「彼は
驟雨の世界に背を向けて、見えない手に運ばれる
しずかな舟に乗ったのだった。」



「北へ 1 夜明け」より:

「空には青黒い大魚が浮かんでいる」


「北へ 2 まひる」より:

「窒息した川をさかのぼり
敵意はただ一点に絞り上げて
とびちるものは飛び散らせよ
この世でいちばん深い叫びに触れること
消えた蟹や小魚に聴耳をたてること」



「北へ 3 よる」より:

「ひとときを、大きな魚のように眠れ」



◆感想◆


「火」「水」「風」、「夏」「冬」、「光」「灰」「塩」そして「死者」と「舟」。有田忠郎が愛用する詩語をこうして並べてみれば、四大元素、大宇宙と小宇宙の照応、錬金術、イニシエーションとしての死といったヘルメス的な世界観がみえてきますが、そこで重要なのは自然現象と自然物(物質)に対して開かれた五感(感覚)です。

冒頭の二篇「シチリアの塩」「シチリアのレモン」は自然物(物質)讃歌。「シチリアの/海も山も太陽もまるごと溶けこんだシチリアの塩」「ほそい頸の少女の顔が右向きに/現れて口を寄せるシチリアのレモン」などといわれると、CMめいたきれいごとの感じがしないでもないですが、「シチリアのレモン」では、「混沌(カオス)」――地名としての「カオス村」(『カオス・シチリア物語』という映画がありました)への言及があります。最終行「シチリアのレモンは永遠に動かない」は、アリストテレスのいう「永遠にして不動なるもの」への言及でしょう。
「夏の雷雨」「夏の食卓」そして「夏を送る挽歌」は、夏のさなかに不意に訪れる「死」を象徴寓意画風に描き出し(「食卓に/死んだ魚を配る黒い上着の男たち」「草を刈る大鎌の影」)、つづく三篇では、「夏」のむこう側(死)へと歩み入る決意(志)を歌っています。


有田忠郎「シュルレアリスムの余白に――ジョー・ブスケをめぐる注釈的考察」(『夢と秘儀』所収)より:

「ブスケはネリ(ルネ・ネリ)に対して次のように書き送っている(日付不明)。《考えてもみて下さい、プラトンやアリストテレス、聖アウグスティヌス、エラスムスにとって、物質とは何だったかを。それは己れの限界を認識に委ねないもの、だったのです。カオスではなく、カオスの娘だったのです。平らな板に似た世界とは、ただ精神だけが自分を規定し、己れを樹立することができる世界だったのです》。
 カオスではなくカオスの娘という言い方には、グノーシス派の言うソフィア神話の反響を聞き取ることができるのではあるまいか。原カオスの水の中から神のまなざしによって女神バルベロが生まれ、バルベロから生まれた息子サバオトが母バルベロと神とに反抗して被造世界の支配権を掌握せんとした、とバルベロ・グノーシス派は教えている。人間とはこの偽りの造物主、叛逆天使の手になる失敗した被造物なのである。精神とは、充溢した光(プレーローマ)である神が己れを砕いて分け与え人間の肉体に封じ込めた火花にほかならない。この火花が、いわばミクロコスモスとして、マクロコスモスたる真の存在――世界の無限性に対応するであろう。《物質との対立の深い意味》がそこから由来する。
 ブスケにとっても、この両者の対立は《人間(ペルソンヌ)以外の別の場所にその似姿を持って》いた。彼は言う、《人間というものが堕落したと考えるには、人間が物質であることを思うだけで十分でした》と。失墜して肉体の中に幽閉された精神。しかし、肉体=物質の価値下落を招いたのは、物質の無限性――その神的起源を忘れ去った近代思想の躓きであろう。《ガリレオ以後、物理学が形而上学に取って代わる運命にありました。……何よりも三位一体の精神的解釈に、あの科学的断言を以て代えねばならなかったのです。物質は、形はあるけれども、上も下もなくなりました! 人間の定義は、人間に住居を提供する惑星の観念を包含しています。惑星(地球)の軸がその子午線を形成しないような人間意識は、存在しません》。
 上も下もなくなったとは、グノーシス風に言えば生成と創造の神話を忘れ、至高の第八天圏に住む女性的原理バルベロの姿が見えなくなったということであろう。そこから、形はあるけれどもカオスでもなくカオスの娘でもない物質の孤立、ひいてはそこに住居を得る人間の孤立が生じる。ブスケの言葉をさらに引こう、《ルネサンス(何たるルネサンスでしょう!)以降、何もかも嘘っぱちになってしまったのです。それというのも、人々が、プラトンやアリストテレスにとって物質とは無限なるものであり、外部からのみその一体性を得るものであることを見抜けなかったせいです。物質の一体性の発見は、神の前で人間と世界を一体化するはずだったのです》。
 外部からとは、超越的な神の手によってという意味であったろうか? ブスケは神の前でと言ってはいる。だがこの「神なき神秘家」は、人間にとっての「他者」を呼ぶもっと適切な名前を探していた。ネリの手紙を結ぶ次の一節は、ブスケがこの探求の途上で出会った一つの呼び名だったように思われる。《こうして自我と非=自我は、天秤の同じ皿に乗り、異るのはただ外見のみ。そしてこの二重性の姿のもとに、その両極で、ただ一つの可見なものを形成し、他者をば別の場所に見出すべくさせていたのでした。つまり不適当にも死と呼ばれるものの中に》。
 この時、ネリに向かって書くブスケは、彼自身エロスと死の神秘主義にいちじるしく近づいていたと考えられるのである。」



































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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