荒俣宏+小松和彦 『妖怪草紙』

荒俣宏+小松和彦 
『妖怪草紙 ― あやしきものたちの消息』

Book of Hobgoblins: a breath from the darkside of japanese history

工作舎 1987年11月10日発行
356p 著者紹介1p 
A5判 角背紙装上製本 カバー 定価2,800円
編集: 米沢敬
造本・意匠: 中村友和



荒俣・小松 妖怪対談。


妖怪草紙1


帯文:

「想像力の
モンスター」

「河童、天狗、龍神から
平将門、安倍晴明、
太公望まで、
物怪(もののけ)と怪人のオンパレード。」

「図版約
300点
妖怪インデックス、
妖怪読書案内付」



カバーそで文:

「今は昔、山中に、海中に、あるいは地下に……日本中のそこかしこにあやしきものたちが息づいていた。鬼や龍、河童や天狗と呼ばれていた彼等が、われわれの前から姿を隠してから、それほど長い時が流れたわけではない。日本史と日本人の精神の裏面で跳梁を続けたあやしきものたちは、次の機会を耽耽(たんたん)と狙っているにちがいない。今、荒俣宏、小松和彦両氏によって、現代の都市が忘れかけていた闇の息吹きが甦える!! 古代から近未来まであやしきものたち総出演。」


妖怪草紙3


目次:

序論 安倍晴明伝承を遊覧する (小松和彦)

対談 怪の消息 (荒俣宏+小松和彦)
 第一談 暗闇の章
  鬼のリアリティを見失ってしまった事
  妖怪たちが実在していた事
  闇を忘れさせた日本式照明の事
  ノッペラボウが現代を象徴している事
  誰も解いてくれない「お稲荷さん」の謎の事
  天井裏と子供が入ってはいけない空間の事
  鬼の生活に対するあこがれの事
  妖怪出現の音と怪談芝居の事
 第二談 河童の章
  大工と河童の深い関係の事
  女に弱かった安倍晴明の事
  妖怪を名状する村の故老の事
  中世以前の悪党パワーが失われた事
  サーカスに売られる怖さとフリークスの事
  酒天童子の近代的自我の事
  ディズニーランドと『エイリアン』の事
 第三談 龍宮の章
  近世になって夢が個人化した事
  江戸のアルコール中毒と精神異常の事
  龍神がふつうのおじいさんである事
  龍の目玉をしゃぶって育った子供の事
  異界の内裏には何かが欠けている事
  世界の境界とメディアとしての珠の事
  龍や鬼にシンパシーを感じてしまう事
  明治維新でも水軍が活躍していた事
  京が情報センターの機能を失った事
  残っているからこそ見せない京都の不気味さの事
  安倍晴明がいやな奴だったかもしれない事
 第四談 天狗の章
  吉備真備が中国から「虎の巻」を伝えた事
  天狗が間抜けになってしまった事
  「虎の巻」をめぐる陰のネットワークの事
  天狗が無理矢理に技を教えてくれる事
  鬼と鬼殺しの祖先はいっしょである事
  お雛様が家庭の中の内裏である事
 第五談 釣糸の章
  太公望がただの釣り好きではなかった事
  ウォーター・フロントの恐怖の事
  釣針と剣と龍退治の事
  「星」が反逆のシンボルになった事
  社会が無菌状態になりつつある事
  道を国家に盗まれてしまった事
 第六談 狐狸の章
  得体の知れない荼吉尼天の魔術の事
  龍と狐の役割が交換可能だった事
  犬と狐のイメージが混同された事
  異様なものたちの両義性の事
  メジャーな妖怪になれなかったムササビの事
 第七談 付喪の章
  時代とともに変わった「百鬼夜行」のイメージの事
  「付喪神」がヨーロッパにいない事
  日本建築が魔物の侵入に無頓着だった事
  「祖先の霊」が商売の種になった事
  今も残る「小学校の七不思議」の事
  新しい怖さが生まれつつある事

後論 メトロポールに幽霊が出るまで (荒俣宏)

参考文献
図版・脚注インデックス



妖怪草紙5


本書より:

「荒俣: 人のいないときとところには、代わりに妖怪がいる、というわけですね。一種の棲み分け理論。でもそういう場所があるというのは、子供にとってだいぶちがいますよ。今の子供たちは怖いもの知らずで、不浄な場所も神聖な場所も知らない。怖いといっても交通事故などのように、物理的なものばかりですからね。」
「小松: そこに鬼が出るとか、そんなこと言わなくてもいいんです。空間がちがうことがわかればいい。家のなかでも子供が行ってはいけない空間があることで、想像力を膨らましてくれる。どこも同じように明るいのでは、均質な思考しか生まれない。」

「小松: 河童のイメージの起源はどのあたりにあるのか、だいぶ調べたことがあります。河童の社会史ですね。(中略)いちばん中心にあるのは、土木工事にかかわった人たちや、河原に住んでいる、いわゆる川の民・河原者たちの出自をめぐる伝承だと思われます。」「賤視されたり異人視されたりしていた人々です。河童起源譚を調べてみると、たいていそういう人たちに関係がある。」
「小松: 武田の番匠、飛騨の匠、そして近世では左甚五郎というような人が、あるお寺やお宮を期日内に建ててくれ、と頼まれるんですが、人手が足りなくて、到底期日内では無理。それで呪術を使い、藁やおが屑や草で人形を作る。その人形に命を吹き込み、生身の人間のようにこき使って期日内に建ててしまう。ところが、その後の人形の始末に困っちゃうんですよ。その人形も「これから先、仕事もないのに、俺たちはいったいどうしたらいいのか」と言う。しかたないから、「川にでも住んで、そこに来た人間や牛馬の尻子玉でも抜いて、食べ物にして生活しろ」と見捨ててしまう。その見捨てられた人形たちが、河童になったという。そんな伝説が各地に分布しているんですね。」
「小松: 川の民は、周囲の人から見ると、異類婚で生まれた者たちの子孫で、鬼の末裔で、水に近く、大工の下働きとして使役される人たちなんです。」
「荒俣: 安倍氏も、もともとは水に関係のある一族ですからね。」

「小松: 女性が奇形の子供を産むと、それは河童の子だと言われる。河童自体は姿をあらわさないんだけれど、女が寝ているあいだに交わってできた異類の子というわけです。姿形が不思議だから、河童の子や鬼の子ということにして、捨てたんですよ。柳田国男の『遠野物語』にもその話がでてきます。フリークスをいちどは河童の子として捨てるんだけど、(中略)見世物小屋に売ったほうがいい、と考えなおす。そこには貨幣経済というか資本主義的な発想がありますが、とにかく捨てた場所に引き返してみたら、子供はもういなかった。それで「ああ、また河童がもっていったな」と思う。そういう話です。」
「荒俣: 福子(ふくご)伝承を思いだしますね。心身障害の子が生まれると、これは家に福をもたらすといって大事にする。福助もそうですし、「座敷わらし」も、座敷牢に入れられてる福子だっていう考え方ありますよね。(中略)大黒や恵比須のような福神も奇形ですから、経済とのかかわりがおもしろい。」

「小松: 酒天童子にもフリークス的なところがありますね。彼は異類婚の結果、人間の世界に生まれてきた鬼なんです。彼らが近くにいると社会の秩序を破壊されるから、それは人間じゃないんだと、決めつける。まちがって人間のところにきちゃった鬼として追い出す。寺にあずける。つまり他界としての寺に隔離してしまう。
荒俣: かわいそうな話なんですよ。ええ。
小松: 弁慶にも、そういう面がある。
荒俣: 弁慶や酒天童子は、近代的な自我をもっていた人たちだったとも言えますね。ほとんどの人は社会に対して「まあ、しょうがない」という感じだったんだけれど、弁慶たちはまさに自我の人で、「どうして俺はこういう実存の世界へ入ってしまったのか」と近代的に考える。(中略)だから弁慶や酒天童子たちは暴れまくるわけでしょう。弘法大師から何から、みんなやっつけようとする。
小松: 生まれてきたのがまちがっていた、という感覚ですね。そういう点では中世の被差別民なども、もっとも人間というものについて考えた人たちだったんじゃないでしょうかね。」
「小松: 「世の中は、どうして俺を受け入れてくれないんだろうか」って頭にくる。どこへいってもだめなんだから、淋しく哀しいですよ。」
「荒俣: 酒天童子は平安から室町ぐらいまでは恐ろしい存在だったのでしょうが、ヨーロッパのサタンが、ミルトンによってひじょうに人間的なものに作りかえられたように、室町の終わりころから、ヒーロー的な存在になってゆく。おそらく乱世が続いて秩序が失われ、大衆が自分自身を問いはじめることによって、鬼たちの物語に対して感情移入をはじめる。それで、前世譚などをエネルギッシュに探しだしたり作りだしたのでしょう。」

「小松: たしかに鬼の立場から見ると、頼光なんて大悪人でしょうね。」
「荒俣: そういう発想というのは、現実に対抗世界では充分にありえたわけです。たんなる善悪の色分けではない。おそらく大江山の物語がおもしろいのは、そこだと思います。向こうから見ればわれわれこそ悪人であるという、相対的な価値観がおもしろいのです。」
「荒俣: 一方で桃太郎伝説が成立するけれど、あれとは基本的に構造がちがう。『桃太郎』ではこっちの世界からの視点しかない。酒天童子はわれわれも子供のころに、よく寝物語に聞かされましたが、鬼に対してもある程度感情移入ができた。『桃太郎』というのは、絶対に鬼に感情移入ができないんです。
小松: 『桃太郎』では、鬼は完全に悪者ですからね。
荒俣: でも、よく考えるとひどい話ですよ。なんにもしてないのに、一方的に攻め込まれて、あれよあれよという間に財宝をごっそり持っていかれる。
小松: 唐突に鬼退治に出かけますね。
荒俣: 大きくなったら、いきなり「お父さん、私は鬼が島へ行って宝物を分捕ってきます」という話。あれはいったい何だったんだろう。
小松: 軍国主義に利用されるのがわかるね。酒天童子は京の姫をさらったっていうけど、『物くさ太郎』のように、姫を感激させて、合意のもとで大江山に連れて行ったのが本当かもしれないですよね。とにかく大江山の鬼が城は姫を魅了するに充分な世界だったと言えませんか。
荒俣: 言えますとも、小松さん!」

「荒俣: 少なくとも中世までの日本人の異界観は、ほんとうにリアルなものだった。自分は今はこの世界に属しているけれど、明日はちがう世界に生きることになるかもしれない、という意識があった。」

「小松: 江戸の幽霊は、政争の敗者たちの怨霊である御霊とはちがう。(中略)幽霊は個人を狙うでしょ。自分に対してひどいことをした人間をとり殺そうとしますが、周囲の無関係な人間には無害なんです。ところが御霊は、国家を狙う。
荒俣: 建物や土地ごと吹き飛ばす。
小松: 御霊には、関係ないものまで巻き込んでやっつけるという強さがある。」

「荒俣: 情報というのは、真実ばかりで成立しているわけじゃない。正しい情報と誤情報、そして故意に作った誤情報、つまり嘘情報の三つは、かならずセットである。セットになってはじめて、その人物についての情報が網羅されたことになります。」

「小松: もともと珠は、そういう異界のものが持っていた。そして、それを所有することによって、現世の権力を籠絡することもできる。」

「荒俣: 普通の町を有機的に機能させようとするなら、福の神などを勧進することも大切だけど、同時に鬼がいることが不可欠です。その雑居性が、健康を保つための大きなポイントだと思いますね。
小松: あんまり清浄すぎては、たまりませんよ。どうも日本人は、清浄に保つ感覚を発達させすぎたような気がする。
荒俣: それは大問題です。近世になって百鬼夜行があらわれなくなったこととも、深く関係している。宗教も自らを清浄なものとして、アピールしすぎてきた。
小松: 宗教なんて、本来はもっと汚いものなんだよね。穢れを吸収してくれる所なんだから。怨霊が渦巻いていたり、穢れが集まっていたりする場所です。
荒俣: 現状に照らし合わせてみると、清浄にしすぎたことによって、われわれの世界の弱さが露呈している。
小松: 急激にだめになってしまいましたね。」
「荒俣: ほんとに異界の闇が押し寄せてきたら、もうわれわれは対応しようがないんじゃないかな。もはやだれも魔術が使えないから。」

「荒俣: 乞食も成立しにくくなっている。これは文化の変容であり、しかも悪い方向への変容だと思います。ヨーロッパなどでは、まだ路上パフォーマンスがあって、大道芸人たちは暮らしていけるような状況がある。日本にはなくなっちゃいましたね。ちょっと何かやっていると、警官が飛んでくる。あれはひどい。路上なんて、もともとは所有権もなにもない。
小松: 道は国家に盗まれてしまった。いまでは駅周辺に自転車もとめられない。
荒俣: 路上は本来、聖や非人が遊行をしてゆく場所です。出雲の阿国にしても、路上を移動して河原などでパフォーマンスやってた。それを取り上げるということは、援助や福祉以前の問題です。かつての差別よりも、もっと惨いことをやっているんですよ。存在そのものの場を与えないことですから。」
「荒俣: 新宿や上野でゴロゴロしている人も、そろそろ危ない。
小松: 乞食や浮浪者が、ああいう場所にいるということは、ある意味で文化が健康なんです。
荒俣: 行商や露店などの問題にも、かかわってくるテーマですね。彼らの生活圏が、どんどん狭められている。オリンピックやサミットなど、ことあるごとに追い込まれています。明治になってからスタートした政策ですね。囲い込みの連続で、自由に出入りできる場所がどんどんなくなっている。最終的にはアイデンティティの保証がないかぎり、どこにも入れなくなる。」
「小松: もうひとつ問題なのは、寺が外部性を排除してますね。
荒俣: もともと駆け込み寺なんていうものもあったぐらいですから。寺院は、病人の収容所としての機能をもっていた。らい病患者がお寺に住みついて、それをお坊さんが湯に入れたり、背中を流したりしてあげた。そういう空間だからこそ、寺社の特別優遇措置などもあったわけですからね。
小松: いつの間にか、優遇措置の恩恵ばかりもらい、金儲けして誰も助けないようなところになってしまった。
荒俣: 源平の合戦の最中でも、負けた人間が寺に駆け込めば、もう手を出さないというのがあったのに、今はまるでそういうことがなくなった。入っていくと拝観料を取られる。とんでもない話です。
小松: だから、こういう世の中で捨てられると、たまりませんよ。
荒俣: 惨いことになる。悲しいですね。」
「荒俣: 捨てられた患者は、たまりませんから、グループを組んで、闇の内裏を作りはじめるかもしれない。」
「荒俣: これまででは暴走族の連中が、そんな芽をもっていたわけでしょう。夜になるとあらわれて、朝にはどこにもいなくなる。百鬼夜行的な可能性をもっていました。バリバリとすごい音をたてて鳴り物入りで出てきたし。社会が闇的なものを排除しようとしても、どこかで逆襲があったような気がします。」

「荒俣: 稲荷というのは凄い。どこにいってもあんなに繁盛しているのは、稲荷だけですよ。
小松: しかも、水商売の人たちの信仰を集めています。とにかく一気に儲けたいということで、お参りする。
荒俣: なにせ、狐がお宝をもってきてくれる。
小松: 狐がくわえて、盗んでくるんだよね。
荒俣: それだけ即効性もある。ほかには、なかなかありませんよ。その代わり終わった後も、ちゃんとお供えものをしないと祟られる。
小松: 稲荷信仰は、関東の方が強いんじゃないの。
荒俣: 「江戸に多いもの、伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と言われたほどですから。
小松: 関西は、恵比須なんですが、両方とも異様な感じがします。
荒俣: 恵比須はもともと、「蛭子」で、奇形神ですからね。
小松: そういう異様なものが福神になるところが、逆にいいわけなんです。それが救いになる。
荒俣: 「福助」もそうですからね。そういう取り込み方には、われわれが言う「闇の息吹」を認めている要素がある。それがないと二者択一的に、善意で隔離するか、悪意で排除するかだけの話になってしまう。」
「荒俣: 一方で神様になって、一方では非人になる。この両義性が大きなポイントです。」



妖怪草紙4


妖怪草紙8


妖怪草紙6


妖怪草紙2
















































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荒俣宏 『目玉と脳の大冒険 ― 博物学者たちの時代』 (ちくま文庫)

荒俣宏 
『目玉と脳の大冒険 ― 博物学者たちの時代』

ちくま文庫 あ-11-4

筑摩書房 1992年12月3日第1刷発行
372p 口絵(カラー)16p 
文庫判 並装 カバー 定価800円(本体777円)
装幀: 安野光雅
カバー装画: George Barbier

「この作品は一九八七年四月二五日、筑摩書房より刊行された。」



アラマタ博物学入門。本文中図版(モノクロ)多数。


目玉と脳の大冒険1


帯文:

「好奇心に魅せられた人々
夢で見たようにほんの一瞬かいまみえた博物学の世界像。それゆえに最もファンタスティックなパノラマだった。」



カバー裏文:

「博物学黎明期、それは怪物や神々が跳梁跋扈する時代でもあった。ナチュラリストたちの使命は、単に地球の財産調べを行うために世界を歩き廻るだけではなく、人間の詩的想像力の源泉をさぐる旅でもあった。人びとは失明するまで目玉を酷使し、頭脳を絞り尽して、あらゆる謎に挑戦していった。本書は博物学の成立に与(あずか)った偉大な想像力の持ち主たちのその壮大な偉業と愚行の物語である。」


目玉と脳の大冒険3


目次:

序 五歳の好奇心

I コレクターの冒険、コレクションの運命
 ビン詰め地獄
 博物学――事物の闇に投じた光
 水族館の視線

II 博物誌の正しい作り方
 発想をめぐって――〈類推の魔〉
 発想をめぐって(続)――セビリャの司教の書いた百科
 発想をめぐって(続々)――道徳動物学
 文体をめぐって――植物の閨房哲学
 文体をめぐって(続)――植物歪像学
 図像をめぐって――寓意扉絵の秘密
 分類をめぐって――数と愛

III ナチュラリストの業績と意見
 シャルル・ボネ――見えない博物学者
 博物学をきずいた人々
 博物学の熱中時代

IV ヤマト舶来本草博物
 植物図鑑が育てた洋画
 植民地の恍惚――早すぎた渡来科学
 日本の大博物学時代

終 生命とは何ぞや?―― Power と Force

あとがき――晩年
文庫版のためのあとがき

解説 メタ博物学という博物学 (養老孟司)




◆本書より◆


「序 五歳の好奇心」より:

「博物学は、単に地球の財産しらべを行なう学問ではなかった。自然と生物に親しく接し、政治とか宗教とかの色めがねを外した純粋に物質的な自然を記述することと、その自然が私たちの心に送りこんだイメージ――あるいは人間の詩的想像力の源を解明することが、いわゆるナチュラリストたちにまかせられた役割だったのだ。
そういう壮大な学問が、かつて成立し、しかもそれに取り組んだ偉大な想像力の持ち主たちが数多く活躍していた。
このささやかな書物は、いわば目玉と知能とを支えにして地上を歩きまわった人々の生きざまと意見とをまとめたものである。」



「シャルル・ボネ」より:

「スイスの博物学者コンラート・ゲスナーにはじまる近代ナチュラリストの系譜にあって、その一生がそのまま博物学の唯物的世界観に関する誇りと危うさとを代弁する具体例(ケーススタディ)となり得る人物を、ただ一人挙げるとすれば、やはりシャルル・ボネ(一七二〇―九三)であろう。
まずボネの生いたちである。彼は根っからの古代ぎらいであった。しかもその理由が、幼年学校で強制的に叩き込まれた古典語学習への反発だったというから、身につまされる。彼は当時の教育法を呪った。ついでに、その元凶である古代ギリシアとローマの権威をも呪った。
まだ十代になるやならずの少年は、古代権威を否定するために、「眼」を選びとった。視ること――真理を知るのに、ギリシア・ローマの古典と相談するのでなく、直接自然現象をみつめること。彼における「視ること」への信仰は、こうして、「古い権威」を否定するための方法論として機能しはじめた。
もっとも、視ることを正しく「思索」にまで高めるには、それなりの手つづきが必要だった。ボネは学校生活の中で唯一、幾何学のすがすがしい思索性に心を奪われた。そこでの権威は「証明」という理性であって、幸いなことにその「証明」は視ることができたからである。この幾何学精神をさらに揺るぎないものにしてくれたのが、恩師でバルヌーリの数表を編纂したガブリエル・クラマーだった。クラマーは彼に「ポール・ロワイヤル論理学」を伝授した。
ポール・ロワイヤル論理学が教えるのは、言葉を「数字」のように使用せよ、ということだった。」
「彼はポール・ロワイヤルの教えを「視ること」の方法論として応用した。」
「彼の名を高めた最初の発見は、アブラムシ(アリマキ)類の単性生殖だった。単に単性生殖の事実を発見しただけでなく、これが数世代継続されることもボネは確認した。つまりアブラムシの世界では、聖母マリアの処女懐胎が何世代にもわたって実行されているのである。彼は神の奇跡が実際に自然界で実現されていることを知って、宗教よりも博物学にいよいよ期待をふくらませた。
次は、ポリプつまりヒドラのような生きものが実は動物であることの発見。この問題では、いとこであった顕微鏡学者アブラム・トランブリーが彼の刺激源となった。トランブリーはポリプを分断すると、その断片からまた新しい個体が再生する現象を発見した。つまりポリプは増殖するのである。増殖するものは生物であって、トランブリーはこれを動物と位置づけた。
ボネにはこれがショックであった。その生体を切り刻んでも再生するというのであれば、動物はふたたび神の奇跡を平然と実行していることになる。彼はこれらの発見から、生物学全体に作用する二つの大原理を構想するに至った。第一に、「存在の大いなる連鎖」体系、そして第二に「先行胚種説」を。」
「「――こうして昆虫は、知らぬうちに、それまで全く毛嫌いしていた“形而上学”へと私をみちびき、やがて私を歓喜させることになった」」
「ボネによれば、生命は神が創造したものであった。いや、単に最初の生物――現生生物すべての祖先となった創造の日の生きものだけではない。いま現に生きるわれわれ自身もが、遠い昔の天地創造時点ですでに創られていた!
この時期、ウィリアム・ハーヴィー等による鶏卵の発生実験がよく証明したように、生物は両親の交合によって後天的に生まれでるという発想――つまり、ニワトリが最初にいて卵を産むという発生の順序を信仰する声が高かった。これを後成説という。
しかし一方、いや、卵が先にあって、すべてのニワトリはこの卵から順に孵化したものだ、とする立場も根強かった。これを前成説という。キリスト教ではこれを天地創造神話とセットにして、創造の日には未来に生まれてくる生物までもが立派に創造されていた、と信じた。その「原生命」はふだん宙にただよい、母胎に宿ったときから“成長”を開始する。つまり出産は、畑に蒔かれた種が育つのと同じ、動物の「発芽」現象にほかならなかった。」
「ポリプの再生現象を確認した瞬間から、彼の生物観は一変した。なにしろ、三年間というもの、ポリプのごとき水生小動物の体を切り刻む実験ばかりに没頭したというのだから、衝撃の巨大さも想像がつく。分断されたポリプからでさえ再生が起こるという事実は、「生命原素」がすべての生体内に均等に分布していることの動かぬ証拠であった。言いかえれば、生物という存在は体のどの部分もが成長してゆく有機物なのである。そして生殖とは、そうした成長の「ある特殊な場合」、個体数が増すという現象を指す概念にほかならなかった。ボネはそう確信し、一七六二年には『有機物生体考』を公刊、はなばなしく前成説の復活をぶちあげた。生物の体には、未来に成長してくる「子孫」の原基までが均等に分布しているのだ、と。」
「しかし、ボネは「視覚の人」として人生を全うすることができなかった。それは彼の哀しみであったが、一面から見ると博物学の真正な変換過程を先触れする運命でもあったと思う。長年「眼」のハードワークをつづけた彼は、肝心かなめの目を病(や)み、ついに失明状態におちいったのである!」



目玉と脳の大冒険2


口絵: 「エドワード・リア 『ノンセンスの本』 1875より。」

「本書の標題『目玉と脳の大冒険』を正確に寓意化した図である。(中略)リアは、実は十代から鳥を中心とする博物画の絵師として名を挙げた。しかしあまりに細密な図を描きすぎたため目を痛め、博物学の唯一の手法である〈観察〉が不可能となって文学者に転じた。19世紀までの博物学者は思索や哲学という空虚な学風を一切排除し、ひたすら目玉だけを信頼する客観的世界観の樹立に邁進した。が、その結果、リアと同じように多くの学者が肝心の眼を損い、結果的に思索や哲学に戻るという皮肉な運命を辿った。そして博物学の歴史はまさしくその〈目玉と脳〉との奇怪な対立抗争を通じて形成された。
リアが描いた、人と鳥とが目玉を介して向き合うこの戯画こそは、だから博物学史の究極的象徴なのである。」
















































荒俣宏 『怪物の友 ― モンスター博物館』 (集英社文庫)

「自然の秩序をやぶるものとして想定できる現象は、この世にたったふたつしかない。ひとつは異常すなわち怪物の誕生であり、もうひとつは新しいもの、すなわち人工物の創出である。怪物と機械は、その意味で、まったく立場を同じくする〈反自然〉の同志だった。換言すれば、怪物にはなかまと呼べる存在が血のかよわぬ機械しかいない、ということである。」
(荒俣宏 「怪物誌の復活」 より)


荒俣宏 『怪物の友 ― モンスター博物館』 
集英社文庫 あ-14-3

集英社 1994年4月25日第1刷
337p 初出一覧1p 
文庫判 並装 カバー 定価600円(本体583円)
カバー: 宇治晶



文庫オリジナル。本文中図版(モノクロ)多数。


怪物の友1


帯文:

「荒俣宏が、心をこめて描き出す
古今東西、いとしの怪物たちの
大饗宴。」



カバー裏文:

「伝説の麒麟と実在のキリン、鳳凰とフェニックス、龍とドラゴンは、どこが同じでどこが違うのか。また、古今東西の怪物と呼ばれる想像上、伝説上の、実在を証明できない遊想動物たち。こうした「怪物」たちをこよなく愛する筆者が、その博物学的知識のすべてを傾注して書き表したおもしろくて解りやすい怪物学のオリジナル決定版。」


目次(初出):

第1部 怪物づくし
 真夏の怪物博物誌 (「読売新聞」 87年8月14日~21日号)
  海女が死をかけて守った竜の玉
  いまは大アクビの「かまいたち」
  人魚を食って長生き八百歳
  大森貝塚で出土? 狒狒の骨
  狐より上手 ウサギの毛皮サギ
  地中に沈む縊死者の魂魄
  慢心の天狗、じつは謙虚だった
  人と入り混じり、姿新たに
 怪物百科
  遊想動物へのラブレター (「BA・SA・RA」 90年創刊準備号)
  鬼/怪物人種/野人/雪男/猩猩/魍魎/狒狒/猫又/ケルベロス/狛犬
  マンティコラ/スフィンクス/雷獣/天狗/火鼠/スウ/ベヘモト/ミノタウロス
  ペガソス/麒麟/白澤/ユニコーン/イエール/ケンタウロス/河童/鼻行類
  ロック/ガルーダ/グリフォン/サンダーバード/鳳凰/フェニックス/ヌエ
  カラドリウス/サラマンダー/バシリスク/ナーガ/ユルングル/ケツァルコアトル
  ウロボロス/大蛇/シーサーペント/アンフィスバエナ/ドラゴン/ピュトン
  ヒュドラ/キマイラ/ヒュドロス/龍/蜃気楼/レヴィアタン/人魚/摩竭魚
  鯱/鯤/クラーケン/アントライオン/お菊虫/常世虫 
  (平凡社 『世界大博物図鑑』 87年8月~93年5月/「人魚」: 創元社 『人魚伝説』 93年11月)

第2部 怪物学の楽しみ
 怪物とはなにか (平凡社 『世界大百科事典』)
 妖怪とはなにか (同上)
 要説・怪物とのおつきあい (平凡社 東洋文庫ふしぎの国 『妖怪・怪物』 89年7月)
 『秘密の動物誌』の歴史 (筑摩書房 『秘密の動物誌』 日本語版 91年12月)
 澁澤龍彦の怪物趣味 (平凡社 「太陽」 91年4月)
 怪物誌の復活 (リブロポート 『怪物誌』 91年4月)
 東の龍・西のドラゴン (フジアート出版 『装飾の博物誌』 91年7月)
 人魚伝説 (栗田工業㈱PR誌 「AQUALOG」 47号)
 宗教の博物学 (新人物往来社 「歴史読本特別増刊」 93年10月号)

第3部 怪物・妖怪放談
 〔座談会〕 妖怪の饗宴 (水木しげる・別役実・荒俣宏) (岩波書店 「図書」 89年8月号)
 〔対談〕 黄昏時の異人たち (谷川健一・荒俣宏) (新人物往来社 「歴史読本臨時増刊」 89年12月号)




◆本書より◆


「地中に沈む縊死者の魂魄」より:

「縊死(いし)者の場合、首が綱に締められているため魂も天へ帰れず、魄といっしょに地中へ沈む。享保十七年ごろ、駿河台にあった松平伊賀守の屋敷前の土手で、首縊(くびくく)りがあった。すぐさま下を掘ってみると、三尺ばかりのところから茶碗(ちゃわん)ほどの丸いものが出てきた。色は赤かったという。本草家として知られた丹羽正伯(にわしょうはく)老に鑑定してもらうと、まさしく人魄とのお墨つきをもらった。」


「怪物百科――ドラゴン」より:

「イングランドの著述家ベーダ(六三五ころ―七三五)は〈ドラコントピデス dracontopides〉という巨大で悪辣(あくらつ)なドラゴンの存在を信じた。これは乙女の顔をもったドラゴンで、ベーダによれば、パラダイスにいたエヴァを誘惑したのもこのドラコントピデスだという。エヴァは自分と似た顔を持つドラゴンを見て、つい気を許してしまったのである。ただし、彼以後のキリスト教徒でこの説を支持したものはいない。」



「怪物とはなにか」より:

「怪物 monster
正体不明生物や物体、とりわけ醜悪・不快・恐怖などの念を抱かせる存在の総称に用いられることばである。また西欧においては、古来より畸型の意味にも用いられたという歴史的経緯もあったが、もともとは異形の生物と怪物の区別はされていなかった。異形の生物はすべて、怪物だったともいえるだろう。ただ、異形の発生は古代にあって凶兆とされ、モンスターという英語もラテン語の monstrum (兆候、警告の意)に由来している。一般に怪物と呼ばれるものは想像の産物が多く、いくばくかの事実や伝承を核に、人間の持つさまざまな不安や畏怖が投影されて成立した一種のシンボルともいえる。分類すれば、①ドラゴンやバジリスクなど、何種類かの生物の形態を混合したもの、②巨大ないし矮小なもの、③常態の同種と形態を異にするもの、に大別できる。」



「妖怪とはなにか」より:

「妖怪という概念は、伝統的にその実在が信じられ、また実際に存在した怪物にプラスして、幽霊や精霊のような霊界の存在とを含めるとともに、目に見えぬ自然力や霊力の視覚化という異議をもつ。英語ではファンタム phantom、スペクター specter などがこれに相当する言葉といえよう。この意味ではギリシア神話のニンフ、西ヨーロッパの妖精 fairy なども妖怪に含まれるが、一般には人々に恐怖感をひき起こさせる危険で不気味な魔物という狭義の意味に限定される。」


「要説・怪物とのおつきあい」より:

「そもそも怪物なる概念は、自分らこそスタンダード、正常、普通一般、まとも、正統、万物の基準……etc、と勝手に信じこんだ人間が、かれらの規範を大きく外れる「埒外のもの」という意味をになって成立したものといえる。」

「おもしろいのは、聖人や賢帝と呼ばれる人々がその外見的なサインとして、さまざまな「異形」を備えている点だ。中国の聖人賢帝などは「人間の姿をしていなくて大聖の徳があった」といわれ、名王の堯(ぎょう)は眉が八つあり、舜は両方の目に瞳が二つずつあり、傳説(ふえつ)は身体に鰭(ひれ)があった。
また古い時代の天皇および皇族の例では、仁徳天皇が身長九尺、日本武尊は一丈あったといい、またそれら異形の天皇が征服した地方の怪物にすさまじいものが多い。(中略)恐るべき力と異形とを備えた天皇が、これまた恐るべき怪物を退治する。この構造のうちにはどうやら途方もない怪物創造史の謎が隠しこまれているようだ。」



「怪物誌の復活」より:

「第一に、怪物は〈異常〉あるいは〈例外〉の別称にほかならない。斉一性と秩序とを本質とする自然界にあって、怪物はあきらかにそのふたつの要件をやぶる存在であった。
自然の秩序をやぶるものとして想定できる現象は、この世にたったふたつしかない。ひとつは異常すなわち怪物の誕生であり、もうひとつは新しいもの、すなわち人工物の創出である。怪物と機械は、その意味で、まったく立場を同じくする〈反自然〉の同志だった。換言すれば、怪物にはなかまと呼べる存在が血のかよわぬ機械しかいない、ということである。」

「怪物とは、その時代にみとめられた〈例外的な存在〉のカタログである。たぶん、この例外的な存在の勢いが激しければ激しいほど、時代の垂直的混乱とエネルギーは強大なものであったにちがいない。」



本書「『秘密の博物誌』の歴史」より:

「あえて秘密の動物誌研究へ踏みこむには、もうひとつ別のインパクトを体験しなければならない。それはなにかといえば、かつて非在の怪物たちを研究し著書を公けにした先達たちの情熱に触れることである。いいかえれば、〈非在物愛ウィルス〉とも呼ぶべき狂熱の種(たね)を、先達から植えつけられることである。」

「怪物が、じつは未来の動物の姿だって!? そのとおり、秘密の動物誌は単に人騒がせな冗談ではなく、人間の想像力の限界を明示すること――おそらくは未来に出現するであろう地球生物の総畸型化を暗示する前兆の体系ともなりうるのである。」



座談会「妖怪の饗宴」より:

「別役: 近代に入ってあらゆる自然を分類して、名前をつけて、位置づけをして、体系化していった。でもつねに「その他大勢」というのがある。分類する場合のこつは、ひとまずすべてのものを「その他」の中に入れて、その中から比較的わかりやすいものだけを一つ一つとり出して、これは人間である、これはヘビである、というふうに名前をつける。だから、つねに自然の母体は「その他」である。ところが現代は「その他」をないがしろにして、わかりやすく分類できるものだけでわかりやすいひとつの世界をつくってしまったという感じがする。」


怪物の友2


「怪物百科――クラーケン」より:

「正体不明の海の怪物。北欧地域で古くからこの怪物が目撃されてきた。いちばん信頼のおける資料は、北欧の博物誌を書いたポントピダン司教の『ノルウェー博物誌』(一七五二)で、一見すると海草にとりかこまれた巨大な浮島にみえるという。」
「船乗りのあいだでは、このおそろしいクラーケンが船を襲い海に引きずりこむという話が広がっていた。クラーケンの姿は十八世紀以来、深海に住む大ダコとして描かれる。」



怪物の友3

「ムンク《叫ぶ人》タイプの人魚。一名フィジー人魚といい、1820年代にヨーロッパでセンセーションをひきおこした。」


本書「『秘密の博物誌』の歴史」より:

「シーボルトが入手したこのような怪物標本――とりわけ人魚は、中国南部の港町で専門につくりだされ、その精巧な技術が日本の九州に伝えられたのだろう、江戸末期には日本が人魚標本の一大輸出国で、ヨーロッパの主要博物館に保存される人魚標本のほぼすべては、日本産なのだそうだ。
ところで日本産の人魚標本には、かなりおもしろい特徴のあることがわかった。ひとつは、継ぎめがまったくわからない細工のすばらしさで、十九世紀の博物学者たちは一様におどろきをあらわし、本物と断言した人もいた。しかし第二の特色のほうが、人魚の品定めをする際のポイントになる。それは、顔がすさまじく醜悪だということだ。」




Curious Creatures in Zoology, by John Ashton
The Project Gutenberg EBook




こちらもご参照下さい:
Richard Barber - Bestiary (MS Bodley 764)
R・A・ラファティ 『昔には帰れない』 (伊藤典夫・浅倉久志 訳/ハヤカワ文庫)






















































荒俣宏 『増補版 図鑑の博物誌』 (集英社文庫)

荒俣宏 
『増補版 図鑑の博物誌』 

集英社文庫 あ-14-6

集英社 1994年6月25日第1刷
375p(うちカラー104p) 
文庫判 並装 カバー 定価800円(本体777円)
カバー: 宇治晶



初版は1984年3月、リブロポート刊。本書はその増補文庫版。本文中図版(カラー/モノクロ)多数。


図鑑の博物誌1


帯文:

「あなたを夢の世界へみちびく
不思議な図像の数々。
荒俣ワールドの白眉、
カラー版!!」



帯背:

「森羅万象の別世界
に誘うカラー版」



カバー裏文:

「子供心をワクワクするような別世界へいざなってくれたさまざまな図鑑。子供の好奇心を持ち続け、今や博物学の第一人者となった著者がこよなく愛し、そして蒐集した古今東西あまたの図鑑。それらを駆使して、ここに図鑑の博物学、荒俣ワールドが出現。単行本には未収録だったジャンルや日本論を大幅増補してカラー図版満載で贈る文庫版!」


目次:

口絵 〔博物画の栄光と歴史〕

まえがき (筒井康隆)

第1部 博物図鑑の歴史と背景
 プロローグ 図鑑芸術論のために
  ドリームタイム――見知らぬ世界へ
  目のよろこび、心のもてなし――図鑑史を眺める
  西洋博物図譜の名品たち――動物学を中心にして
  花神は図鑑に宿る――植物図鑑の名品たち
  花の美しさに生涯をささげて――バラの図譜
  存在感と重力をもつ果物画
  筆者はいかにして図鑑にであったか
  博物学書はどのように制作されたか
  あるエロティシズム
  博物学ファッション
  つくった本は売らねばならない
  博物学図版とリアリズム
  コピー文化としての図鑑
  「露置く葉」を名のった一派
  止まり木進化論?
  イギリスの鳥たちは森のなか
  大自然のまっただなか――アメリカ博物図鑑のイコン
  銃の目、双眼鏡の目、そして肉眼
  魚はかつて陸にいた
  『海底二万マイル』と見知らぬ魚
  博物図鑑から動物園へ
  だれのための前衛?
  東京都市計画の陰に……

第2部 秘録博物画伝
  極微の世界の驚異
  盗まれた博物誌
  脚のある〈無脚鳥(アポーダ)〉を見た人
  復元しすぎた自然?
  雄鶏のように生きた絵師
  苦心の貝殻うらおもて
  “悪魔の顔”の動物たち
  君に見せたい極美の虫たち
  うそばっかり! フェイク大図鑑
  花譜(かふ)は世につれ
  アマチュアよ、永遠に
  ポピュラーな図鑑作者のポピュラーでない理論
  剥製師の選んだ道
  大物博物絵師の総出演
  わが絵はめんこい八色鳥
  バラバンと悪夢の猿
  恐竜レストラン
  海中の風景画――ゴッスの博物図譜
  水族館のたそがれ
  ヘビ絵の誕生
  キリンの首の物語
  「海の植物」を描いた花の絵師
  花をみつめる人
  『フローラの神殿』と最美の図鑑
  押し花でできた本
  絵師という名の妻たち
  このすばらしき女流博物学者たち

第3部 日本の博物図鑑
  江戸期の博物学
  江戸の博物趣味
  法眼(ドクトル)マンボウ博物記?
  高木春山 『本草図説』
  奇っ怪さかな紳士録
  大野麦風の場合

エピローグ 筒井康隆のお父さん

付録 博物図鑑をとりあつかう店



図鑑の博物誌2


本書より:

「美術評論がいったい何百年前に成立したものか定かではないが、どういうわけかその長い歴史を見わたしても、美術評論家にはほとんど取りあげられたことのない美術というものがある。そのひとつが、動植物図鑑である。歴史的にはすくなくとも二百五十年、その間(かん)に多くの専門画家を輩出し、なかにはけっして無名に終わらなかった例も数え得るというのに、博物学用の図版に美術的観点からの照明が当てられたためしは、かつてまったくなかったといってもいい。これはいったいどうしたことなのか。」

「本書に紹介される博物画は、おもに、十七世紀から十九世紀におよぶ博物学の全盛期に制作されたものである。おそらく、ご覧になるみなさんは、美しさへの感動と、リアリズムへの関心のほかに、作品全体を通して伝わってくる人為的な形態表現術の異様なゆがみを体験され、新鮮な奇異の念をも抱かれることだろう。たとえば、ある植物図では、一本の枝に、つぼみ、花、実がいっぺんについているものがある。つまり、本来なら一年かかるプロセスを無差別に同時表現していることになる。その絵はいうまでもなく、ただの写生画ではない。ここに一堂に会したこれら絵画は、むしろ〈図像〉と呼ぶべき、ある意図に裏打ちされたビジュアル言語と考えたほうがよい。」



図鑑の博物誌6

「《大日本魚類画集》 大野麦風」


図鑑の博物誌7

「《貝千種》 平瀬興一郎」



こちらもご参照下さい:
Pierre-Joseph Redoute - The Roses : The Complete Plates













































荒俣宏 『アラマタ図像館 4 「庭園」』

荒俣宏 
『アラマタ図像館 4 
「庭園」』

小学館文庫 

1999年10月1日初版第1刷発行
252p 文庫判 並装 カバー 定価733円+税
デザイン: 奥村靫正
カバー・口絵・目次デザイン: 春井裕
本文デザイン: 姥谷英子


「本書は、1985年4月に株式会社リブロポートから刊行された『フローラの神殿』をもとに、大幅に図像を差し替え、新たに「イメージ解読のための図像学入門」を書き下して構成したものです。」



アラマタ図像館 庭園1


カバー裏文:

「植物の分類法に画期的なシステムを導入したのは、スウェーデンの博物学者リンネであった。
植物の生殖器官―花に着目し、その形態を基準に、雄しべと雌しべの形と数で分類してゆくその方法は「セクシャル・システム」と呼ばれ、十八世紀の後半にはヨーロッパ中に広く知れわたった。
イギリスでその思想に共鳴したソーントンは、リンネ分類学を図解した大著の出版を計画し、そこで生まれたのが史上最美といわれる植物図鑑『フローラの神殿』である。
初版と第二版に異同のあることで有名なこの図鑑を、初めて完全収録して公開する。」



目次:

口絵
イメージ読解のための図像学入門 第四講 絵はすべてルールである その三
ソーントン『フローラの神殿』
ショームトン他編『薬用植物事典』
総解説
 第一部 リンネ分類学と植物の愛
 第二部 ロバート・ソーントン伝
 第三部 『フローラの神殿』の成立
口絵図版解題
本文図版解題



アラマタ図像館 庭園2

『フローラの神殿』より「ドラゴンアルム」。右ページに「初版」、左ページに「第二版」の図版が掲載されています。背景に火山が見えます。画面が小さいので、原画の迫力は想像するしかありませんが、初版と第二版の全図版が掲載されていて、このように比較できるので便利です。詳細な図版解説もあります。


本書のタイトルに「庭園」とあるのはいささか誤解を招くかもしれません。本書で扱われているのは「庭園」図像ではなくて植物図像だからです。巻頭には、リブロポートから1990年代初めに刊行された「ファンタスティック12(ダズン)」シリーズのために書かれた緒言がそのまま転用されています。
口絵には様々な植物図像の見本が、余白にコメント入りで掲載されています。
本文で紹介されているのは、リンネの「セクシュアル・システム」による植物の分類学を図解する目的で十九世紀初頭に出版された二冊の本、『フローラの神殿(The Temple of Flora)』と『薬用植物事典(Flore Medicale)』で、前者は初版と第二版に収録された全図版が掲載され、後者からは13枚が抄出されています。
『フローラの神殿』の特徴は、著者によれば「ピクチュアレスク」であるということになりますが、ピクチュアレスクとはなにかというと、「人間の感情と自然のたたずまいの同調」によって風景を「美化」することで、植物図譜であるにもかかわらず「湖のほとりに美しい家が立つというロマンティックな情景から、火山の不気味な活動が見えるグロテスクでゴシックな怪奇美まで」が背景として描かれています。
一方、『薬用植物事典』は、背景も演出も一切ない白無地の紙の上に植物標本が並べられた、いかにも図鑑的な表現になっていて、対照的で面白いです。
メインはもちろん、『フローラの神殿』で、制作者のソーントンは、複数の植物絵師に原画を描かせ、それをそれぞれの花に最もふさわしい銅版技法(スティップル、アクアチント、メゾチント)でそれぞれの技法の名人に彫らせ、それぞれの花に最もふさわしい情景をみずから「演出」しました。






















プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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