網野善彦 『日本中世の非農民と天皇』

「そして、こうした非難と賤視、さらには禁圧を一方の世界から加えられつつも、賤視によって心を曇らされることなく、非人たちをも含む「職人」たちの世界は、鎌倉・南北朝期、なお広く独自な世界を保持していたのである。とすれば、一方の世界からの観点のみで、この時期の社会の全体像がとらええないことは、もはや自明のことなのではあるまいか。」
(網野善彦 『日本中世の非農民と天皇』 より)


網野善彦 
『日本中世の非農民と天皇』
 

岩波書店 
1984年2月28日 第1刷発行
1989年7月15日 第8刷発行
xiii 591p 索引29p
A5判 丸背バクラム装上製本 機械函
定価6,000円(本体5,825円)



本書「まえがき」より:

「本書は、中世の非農民及び天皇をめぐって、これまで発表してきた論文・研究ノートなどの旧稿の一部を中心として、新たに編成し直したものである。
 旧稿の最も古いものは一九五六年にまで遡り、いずれも思いつくままに、また必要に応じてまとめたものであるため、そのままでは全く形が整わず、その後、多少考えの変った点もあるので、第二部第五章二節の本文を除き、すべてに修正・削除・補足を加えてある。また旧稿に対するさまざまな批判については、関連する箇所の注で言及したほか、付論3を付した。序章Ⅰ・Ⅱ1・2・Ⅲ、付論2、第二部第四章、終章Ⅰ・Ⅱは本書を編するに当って新たに書き加えたものである。
 こうして一応、第一部を非農業民と天皇、第二部・第三部を非農業民の存在形態としてまとめてみたが、寄せ集めの弱点は、やはりおおうべくもない。」



網野善彦 日本中世の非農民と天皇


目次:

まえがき

序章
 Ⅰ 津田左右吉と石母田正
 Ⅱ 戦後の中世天皇制論
 Ⅲ 非農業民について

第一部 非農業民と天皇
 第一章 天皇の支配権と供御人・作手
  序
  一 中村直勝の所説をめぐって
  二 蔵人所発給文書について
  三 各種の供御人・作手について
  四 供御人の特質
  五 天皇支配権と供御人
  結
 第二章 中世文書に現われる「古代」の天皇――供御人関係文書を中心に
  序
  一 南北朝期以前について
  二 天皇の伝説化と文書の偽作
  結
 第三章 中世前期の「散所」と給免田――召次・雑色・駕輿丁を中心に
  序
  一 散所召次について
  二 散所雑色について
  三 駕輿丁について
  四 その他の「散所」について
  五 給免田制について
  結
 付論1 「惣官」について
 付論2 蔵人所斤について
 付論3 脇田晴子の所論について

第二部 海民と鵜飼――非農業民の存在形態(上)
 第一章 海民の諸身分とその様相
  序
  一 中世海民の諸身分について
  二 浪人的海民
  三 職人的海民
  四 下人・所従的海民
  五 平民的海民
  結
 第二章 若狭の海民
  一 「浦」の成立
  二 漁場の成立
 第三章 近江の海民
  序
  一 神社と簗漁業について――『近江国野洲川簗漁業史資料』をめぐって
  二 堅田とその湖上特権について――『江州堅田漁業史料』をめぐって
 第四章 宇治川の網代
  一 古代の網代
  二 真木島村君と供祭人
  三 楽人狛氏と真木島長者
 第五章 常陸・下総の海民
  一 中世の霞ヶ浦・北浦
  二 霞ヶ浦四十八津と「御留川」
 第六章 鵜飼と桂女
  序
  一 諸国の鵜飼とその存在形態
  二 桂御厨と桂供御人
  三 桂女
  結

第三部 鋳物師――非農業民の存在形態(下)
 第一章 中世初期の存在形態
  序
  一 燈炉供御人の成立
  二 東大寺鋳物師の成立
  三 燈炉供御人の実態
  結
 第二章 中世中期の存在形態
  序
  一 惣官中原光氏と左方作手の発展
  二 供御人組織の矛盾とその展開
  三 供御人組織の変質
  結
 第三章 偽文書の成立と効用
  序
  一 職人の偽文書
  二 鋳物師の偽文書と真継久直
  三 偽文書と由緒書
  結
 付論4 豊田武の「鋳物師の有する偽文書について」

終章 
 Ⅰ 「職人」について
 付論5 「外財」について
  序
  一 中世後期以降の「ゲザイ」
  二 中世前期における用例
  三 「外財」の語義
  結
 Ⅱ 「社会構成史的次元」と「民族史的次元」について

あとがき
収録及び関係論文
索引
 事項索引
 地名索引




◆本書より◆


「序章 Ⅲ 非農業民について」より:

「ここで非農業民というのは、農業以外の生業に主として携わり、山野河海、市・津・泊、道などの場を生活の舞台としている人々、海民・山民をはじめ、商工民・芸能民等々をさしている。」

「農業民と非農業民の区別は、ごく自然に考えただけでも明らかといえるが、この両者の差異はより根本的には、山野河海、市・津・泊、道等々の場に対する関わり方の違いに求めるべきである。」

「それはまた「有主」と「無主」の対立の一面ももっていた。文字通り「無主」の山野河海が前近代には、まだまだ広大であったことは認められてよかろう。本来、耕地のひらかれた大地についてもいえることであるが、「山や川はだれのものでもない」という見方は、庶民の中に深く根づいた思想とみなくてはならない。そして市・津・泊や道・辻も、より意識的に「無主」「無縁」と性格づけられた場であった。」

「現在の人類の直面している状況からみて、生産力の発展こそが人類進歩の根本とする見方が、そのままでは通らなくなっていることは、公害あるいは「核」の問題一つをとってみても、もはや明白といってよい。(中略)山野河海はもとより、耕地の広がる大地そのものの汚染と荒廃は、「生産力の発達」とともに、確実に進行しつつあり、それは日本列島に生活する人類――「日本民族」のみならず地球上の人類の生活の根底を脅かしつつあるのである。人類の真の意味での「進歩」、発展とはいかなることなのかが、いまや正面から問われているのであり、人間の叡智のすべてを注ぐことなしに、この危機を突破することはできないであろう。そしてこの課題に応えうる新たな思想は、これまで衰え滅びゆくものとして捨てて顧りみられなかった人々の生活そのものの中に生きる知恵をもくみつくさなくては、創出することはできない、と私は考える。」



「第1部 第1章 天皇の支配権と供御人・作手」より:

「偽文書をそれとして直ちにすて去ることなく、その作為された理由、それがよって立っている根拠にまで遡ってその作成の動機を明らかにしなくてはならぬという、(中略)主張は、全く正当であり、すぐれて学問的な観点ということができる。」


「第1部 第3章 中世前期の「散所」と給免田」より:

「そして、こうした非難と賤視、さらには禁圧を一方の世界から加えられつつも、賤視によって心を曇らされることなく、非人たちをも含む「職人」たちの世界は、鎌倉・南北朝期、なお広く独自な世界を保持していたのである。とすれば、一方の世界からの観点のみで、この時期の社会の全体像がとらええないことは、もはや自明のことなのではあるまいか。」


「第2部 第1章 海民の諸身分とその様相」より:

「そのような状況の中で、海民に関心を持ちつづけた人も決していなかったわけではないが、その開拓者の一人に、生物・人類・考古等の諸学から経済学にいたる広い視野の下で、漁業史を解明することに一生を捧げ、一九六九年、物故した羽原又吉をまずあげることは、異論の余地ないことであろう。広汎な調査と豊富な文献を基礎に進められた氏の研究は二本の太い柱に支えられていた。その一は、日本の漁業の根底に「海人族」を想定する点、他は、漁民の共同体の占取する漁場を、その「総有」と主張する点である。十冊に及ぶ大著のなかで、羽原はこの二つの主張をたえず強く押し出したのであった。この主張に対しては、すでに種々の批判が加えられている。」
「たしかに羽原の主張を、これらの批判をのりこえてそのままの形で承認することは困難であろう。しかしこの主張が、二つながら、その基底に、農業民のつくりなす世界と異なる海民独自の世界を考え、その生産と生活に則した法則を探究しようとする強烈な意欲をひめていたこと、この観点が日本民族史を明らかにするうえに絶対必要なものであるとする確信にねざすものであったことを思いおこしてみる必要があろう。そしてそれは海民の世界を通して、アイヌ民族、さらに朝鮮・中国から南アジアにまでおよぶ世界を、ひろく視野のうちにいれていたのである。(中略)私はこの観点を、依然として正当な、継承されるべき貴重なものと考える。」

「農民はいつでも村落に子々孫々定住しているもの、ときめこむことは、それ自体支配者の志向に影響された、とくに近世以降の農民のあり方に基づいてつくり出された、観念の産物なのではなかろうか。まして海民にそれをあてはめようとすることは、不自然というほかない。すべてがそうであったというつもりは決してないが、「逃亡」は移動であり、「浮浪」は移動途上の状態を示す、被支配者にとってはあたりまえな日常生活の一齣である場合が、南北朝期以前にはまだひろくありえたのではなかろうか。」



「第2部 第6章 鵜飼と桂女」より:

「しかしこれまでのべてきたように、この桂女の遊行の真の淵源は、室町期をこえてはるかに古く遡りうる。それは鮎鮨を入れた桶を、白布を巻いた頭上にいただいて諸国を経廻した鵜飼の女性――桂供御人、桂贄人のかわりはてた姿だったのである。もとよりこのような室町期以降の桂女の果した役割に、鵜飼そのものにまつわる一種呪術的な性格の残影を見出すことはできよう。権門に寿詞を捧げる桂女に、鮎を神や天皇に贄として捧げた遠古の素朴な彼女たちの姿を読みとることも、また不可能ではない。そして、神功皇后にその起源を求める由緒書の奥底には、かつて天皇に近侍していた時代の鵜飼の記憶がひそんでいるとも考えられよう。
 しかし鎌倉期、悪党と結んで庁下部を追い、ときに院に群参して、摂政の背後から高声で訴訟をした、あのたくましい桂女の姿はもはやここにはない。」

「鵜飼と桂女が大きな変貌をとげた時期――それは南北朝内乱期であった。その変貌の背景に、鵜飼の全分業体系内での位置の低下、それ自体のもつ呪術的意味の稀薄化があったことについては前にのべた。もとよりこれは日本の社会の否応のない発展がもたらした事態であり、近世以降の日本がそこにひらけてくることはいうまでもない。しかしこの発展が、里人に打殺される鵜飼、遊女・女郎として特殊視――賤視される桂女をうみ出し、これらの人々を差別する社会構造を決定的につくりだした一面をもつことも、決して見落すべきではなかろう。
 しかもこの変貌が、鵜飼の贄=供御をうけとっていた天皇、彼等の特権を保証していた天皇の支配権の決定的な弱化と深く関連していることも、間違いない事実であろう。その意味で差別の問題はそのまま天皇制の問題に直結する。室町期以降の鵜飼と桂女の姿の対極には、政治的実権を失った天皇が存在するのである。
 これまで近世の差別・賤視を、直ちに古代にまでひきあげ、すべての山海民・商工民を賤民的な角度から考えようとする見方が、かなり広く行われてきた。しかしそれでは、日本の民族的な構成そのものに大きな歴史的変化があり、それが社会的分業のあり方の転換と結びついている事実を、結局は見落してしまうことになろう。それはある意味では、天皇の存在を日本民族固有のものとする見方と表裏をなすとすらいってよかろう。
 実際、鎌倉期までの鵜飼は決して単純に賤視されてなどいない。その一部は供御人・神人として特権をもっていたのであり、女性もまた、たくましくも堂々と生きているのである。たしかに殺生と結びついたその生業が彼等自身を苦しめ、またそれを生業とせざるをえない彼等に対して、一種の畏怖を覚えた人々があったことは事実であろう。巨視的にみてそれが後年の差別・賤視につながることは考えられるとはいえ、この時期までは差別・賤視の観点ではとらええない問題がたしかに存在しているのである。」



「序章 Ⅱ 戦後の中世天皇論」の「注」より:

「そして、現代にいたるまでの天皇の存続というこの事実を、歯がみをする無念さをもって認めることなしには、「日本民族」といわれてきたわれわれ日本人の集団が、実態はいかに薄っぺらな結びつきしかもってこなかったかを自覚することは不可能であるし、戦死者に対する鎮魂を、いまなお靖国神社に対する「参拝」の形で行事化するような動き、天皇の死を「没」あるいは「なくなる」といわせるような教科書検定の横行を本当の意味で克服することはできないであろう。それとともに、『看聞日記』をそれが歴史的名辞であるとして『看聞御記』(引用者注: 「御」に傍点)としてしまう迂闊さ――あえていえば鈍感さを払拭することもできないと思う。かくいう私自身、佐藤進一の厳しい指摘によってこのことにはじめて思いいたったのであり、『花園天皇日記』を『花園天皇宸記』(引用者注: 「宸」に傍点)と記したことのあるのを、深く恥じている。この鈍感さを持ちつづけるならば、それが歴史的用語であることを理由に、天皇の「没」をさらに「崩御」にかえさせる動きに、真に抵抗することはできないと私は考える。
 もとより、侵略を「進出」にかえさせる検定をともかくも許してしまったことにも、さきの「日本民族」の底の浅さからくる恥知らずな一面が端的に現われているので、もしも、さきの事実の持つ苦渋を本当に呑みこむ決意を固めることがおくれるならば、われわれは何度でも世界の諸民族の人々から「恥知らず」といわれることは疑いない、と私は思う。」

























































































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網野善彦 『増補 無縁・公界・楽』 (平凡社選書)

「原始のかなたから生きつづけてきた、「無縁」の原理、その世界の生命力は、まさしく「雑草」のように強靭であり、また「幼な子の魂」の如く、永遠である。「有主」の激しい大波に洗われ、瀕死の状況にたちいたったと思われても、それはまた青々とした芽ぶきをみせるのである。(中略)「無縁」の思想、「有主」の世界を克服し、吸収しつくしてやまぬ「無所有」の思想は、失うべきものは「有主」の鉄鎖しかもたない、現代の「無縁」の人々によって、そこから必ず創造されるであろう。」
(網野善彦 「人類と「無縁」の原理」 より)


網野善彦 
『増補 無縁・公界・楽
― 日本中世の自由と平和』

平凡社選書 58 

平凡社 
1978年6月21日 初版第1刷発行
1987年5月8日 増補版第1刷発行
1988年8月20日 増補版第3刷発行
376p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,200円



本書「増補に当って」より:

「本書が発刊されてから、早くも九年の年月が経過した。」
「欠陥の多い本書に対して寄せられた批判は多岐にわたり、到底そのすべてにふれることはできないが、補注を付すことによって誤りを正しつつ、できるだけ批判にお答えし、現在の私の考えを補足するとともに、既発表のものの中から本書の主題に関係する若干の文章を補論として加え、あらためて増補版として世に問うこととした。」



網野善彦 無縁 公界 楽


カバー文:

「成立期はもとより、中世全体を通じて、領主の私的な支配の貫徹に抵抗し、その私的な所有下におかれた下人・所従になることを拒否する力が、平民百姓そのものの中に生きつづけていた。私的隷属から、まさしく「無縁」であろうとするこの志向こそ、原始・未開以来の「自由」の流れをくむ人々の否応のない動きであった。」


カバー裏文:

「遍歴漂泊する職人・芸能民・勧進聖など、中世に生きた「遊手浮食の輩」と呼ばれる人々に注目し、歴史の表舞台に登場しないこの無名の人々のとり結ぶ、世俗の人間関係とは「無縁」な関係を追究する。一方で古代社会のアジールまでさかのぼり、他方では現代のなにげない子供の遊びにも影を落す、この「無縁」の原理は、中世の一揆・惣・自治都市の規約のうちに、その自覚的な表現を見ることができる。
「無主」「無縁」の原理を担った人々の力こそ、真に歴史を動かしてきた弱者の力であるという著者の主張は、従来の日本史像の一面性を拒否するとともに、人類共同体のあり方について、すぐれて普遍的な問題を提起する。
発売以来9年、大反響をよび、中世史ブームを巻きおこした問題作に補注・補論を加え、増補決定版とする。」



カバーそで文:

「歴史における「公」は、決してすべてが事実として「幻想」であり、「欺瞞」であるとはいえない。たとえそれが支配者の狡知によって、自らをしばる軛になったとしても、支配者をして否応なしに「公」の形をとらざるをえなくさせた力は、やはり、社会の深部、人民生活そのものの中に生き、そこからわきでてきた力といわなくてはならない。そしてそれは、原始・太古の人民の本源的な「自由」に深い根をもっている。
それだけではない。同じ「公」でも、「公界」が決して「公権力」にならなかったことを考えてみなくてはならない。「無縁(むえん)」「公界(くがい)」「楽(らく)」が、この「自由」の、人民による自覚的・意識的表現であるというのは、その意味からで、そこには、天皇の影もないのである。」



目次:

まえがき
一 「エンガチョ」
二 江戸時代の縁切寺
三 若狭の駈込寺――万徳寺の寺法
四 周防の「無縁所」
五 京の「無縁所」
六 無縁所と氏寺
七 公界所と公界者
八 自治都市
九 一揆と惣
一〇 十楽の津と楽市楽座
一一 無縁・公界・楽
一二 山林
一三 市と宿
一四 墓所と禅律僧・時衆
一五 関渡津泊、橋と勧進上人
一六 倉庫、金融と聖
一七 遍歴する「職人」
一八 女性の無縁性
一九 寺社と「不入」
二〇 「アジール」としての家
二一 「自由」な平民
二二 未開社会のアジール
二三 人類と「無縁」の原理
あとがき

補注
補論
 都市のできる場――中洲・河原・浜
 市の立つ場――平和と自治
 初穂・出挙・関料
 植田信廣氏の「中世前期の「無縁」について」をめぐって
増補に当って
補論初出一覧




◆本書より◆


「無縁・公界・楽」より:

「以上、無縁・公界・楽の場、及び人の特徴をまとめてみたが、このすべての点がそのままに実現されたとすれば、これは驚くべき理想的な世界といわなくてはならない。俗権力も介入できず、諸役は免許、自由な通行が保証され、私的隷属や貸借関係から自由、世俗の争い・戦争に関わりなく平和で、相互に平等な場、あるいは集団。まさしくこれは「理想郷」であり、中国風にいえば「桃源郷」に当る世界とすらいうことができよう。
 もとより、戦国、織豊期の現実はきびしく、このような理想郷がそのまま存在したわけではない。しばしばふれてきたように、俗権力は無縁・公界・楽の場や集団を、極力狭く限定し、枠をはめ、包みこもうとしており、その圧力は、深刻な内部の矛盾をよびおこしていた。それだけではない、こうした世界の一部は体制から排除され、差別の中に閉じこめられようとしていたのである。餓死・野たれ死と、自由な境涯とは、背中合せの現実であった。
 とはいえ、宣教師が堺の町の自由と平和に、驚歎の眼をみはったのも、また厳然たる事実である。さきの諸特徴を現実化し、理想郷をつくり出そうとする強靭な志向は、「有主」の原理の否応のない浸透と、そこに基礎をおく強大な権力の圧力にも屈することなく、自らを必死で貫徹しようとしていた。それは、こうした場を、当時の人々が、「楽」「公界」と名付けたという事実そのものに、端的に現われている。
 「楽」が「十楽」を意味していたことは、前述した通りであるが、「十楽」はもともと仏典の言葉であった。(中略)「十楽」とは、まさしく極楽そのものであり、理想の世界の「楽」であった。」
「「公界」も「十楽」と同じく仏教用語であるが、これはもともと中国の禅院で使われた言葉に源をもっていたのではないかと推測され、(中略)俗界の縁をたち切って修行を行なう場をさしていたように思われる。」
「いかにも、自力の宗教禅宗からでた言葉らしく、「公界」は「楽」に比べて、自立的なきびしさをもった言葉であり、私的な縁の一切を断ち切る強い意志を秘めている。「理想郷」をめざす志向に抑圧を加えようとする力に対し、これを断乎拒否する姿勢を示す表現として「公界」は最も適当だったといえよう。
 とはいえ、「公界往来人」という言葉の示しているように、「公界」には、ある孤独な暗さがつきまとっている。(中略)「無縁」の場合は、「公界」以上に、孤独な印象を与える言葉といえよう。
 もとよりこれも仏教用語であり、「原因、条件、対象のないこと」を意味し、「無縁の慈」といえば、「相手のいかんを問わず、一切平等に救う慈悲心」の意であった。その意味で、これもまた、一つの理想の境地をそこに託した言葉といわなくてはならない。それ故、「楽」「公界」とともに、この語はさきのような場や人のあり方を表現する言葉になりえたのであるが、しかし「公界」「楽」よりもはるかに以前から広く使われたこの言葉は、「縁」という語の多義性に応じて、さまざまな意味をもつようおになり、「貧道無縁」「無縁非人」などの用法にみられる如く、中世前期から、多少とも、貧・飢・賤と結びついた暗いイメージを伴っていた。」
「しかし、これらの仏教語が、日本の民衆生活そのものの底からわきおこってくる、自由・平和・平等の理想への本源的な希求を表現する言葉となりえた、という事実を通じて、われわれは真の意味での仏教の大衆化、日本化の一端を知ることができる。(中略)これこそが日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を、精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。
 こうした積極性は、織豊期から江戸期に入るとともに、これらの言葉自体から急速に失われていく。「楽」は信長、秀吉によって牙を抜かれてとりこまれ、生命力を大規模に浪費させられて、消え去り、「公界」は「苦界」に転化し、「無縁」は「無縁仏」のように淋しく暗い世界にふさわしい言葉になっていく。」



「山林」より:

「私は、中世前期には、山林そのものが――もとよりそのすべてというわけではないが――アジールであり、寺院が駈込寺としての機能をもっているのも、もともとの根源は、山林のアジール性、聖地性に求められる、と考える。」


「市と宿」より:

「実際、信濃の諏訪社の祭礼に、南北朝期、「道々の輩」をはじめ、「白拍子、御子、田楽、呪師、猿楽、乞食、非人、盲聾病痾の類ひ」が「稲麻竹葦」の如く集ったといわれ、鎌倉末期、播磨国蓑寺は、「九品念仏、管弦連歌、田楽、猿楽、呪師、クセ舞ヒ、乞食、非人」が近隣諸国から集り、たちまち大寺が建立された、と伝えられているのである。
 寺社の門前の特質は、このようなところに、鮮やかに現われている。それはやはり、(中略)神仏の支配する「無主」の場であり、「無縁」の原理を潜在させた空間であった。それ故、ここには市が立ち、諸国を往反・遍歴する「無縁」の輩が集ったのである。」



「墓所と禅律僧・時衆」より:

「このように「無縁」であるが故に、禅律僧は宮廷や幕府の奥深くに出入りし、政治に口入することができたのであるが、それだけではない。一四世紀初頭、論敵から「乞食非人」「道路乞者」「放埓」などの激しい非難を浴びながら、山伏厳増は東寺執行の地位に度々補任され、「仏法の怨敵」「邪見放逸不当の法師」と罵倒されつつ、禅僧恵観は伊勢の光明寺を中心に、大きな勢力をもつにいたっている。鎌倉末~南北朝期、禅律僧・時衆など、「無縁」の上人・聖たちの社会的活動は、(中略)きわめて広範かつ活発だった。
 「乞食非人」をも含むこうした世界は、次第にその一部は権力の網の目に組織されつつあったとはいえ、全体としては、なお野性にみちた強力な生命力を、社会のいたるところで発揮し、それを「差別」の中に封じこめようとする動きに、決して圧倒されてはいない。われわれはこのこともあわせて、確認しておかなくてはならない。」



「補注」より:

「自然を人間と対立するものと見て、それを「所有」し、支配・管理することのみに人間の本質を見出し、人間が自然の一部であることを見失ったときに、人間は破滅の道に進まざるをえない、と私は考える。」
「人間がその長い歴史の中で、自然を自らと対立するものとだけ見てきたわけでは決してないことは、さきにものべたように、人間による家、土地の所有が、まずそこを「無所有」とすることによって、はじめてその実現の端緒をとらええた、という事実だけをとってみても、明らかといってよかろう。そのような自然に対する人間の畏敬をこめた謙虚、敬虔な姿勢、自らがその一部であることを否応なしに知らされている時期の人間のあり方が、土地の共有をふくむ共同体的な所有、共同体的な社会関係の根底にあり、「原始の自由」もまた、まさしくそれによって支えられてきた、と私は考える。」
「恐らく哲学の根本に関わるこのような問題について、これはまことに幼稚な議論といわれるであろうが、自らの内なる自然をふくめて、自然を支配しつくそうとする現代における自然科学の異常なまでの発展、それによって人間が自らを滅ぼしうる力を確実に自らの手中にした現在の事態を前にしたとき、われわれは人間の本質について、ただそれが「所有する動物」であるというだけにとどまってはならないことは明らかなのではあるまいか。そしてそうした認識の上に立って、自然と人間との関わり方を人間社会の歴史の中で明らかにしていくことは、われわれにとっての緊急な課題と私は考えている。
 さきに家、土地に対する「所有」のあり方についてふれたが、そこでものべたように、山本幸司氏の表現をかりれば、これは「限定された空間」であり、「開放された空間」―山野河海、道、河原等に対する人間の関わり方は、これとは異質なものがあると考えなくてはならない。(中略)中沢新一氏は、後者を「計量化不能な「なめらかな空間」」として、前者の「仕切られた空間」と区別し、それぞれの「空間」に住み、活動する人間の異質さ、「空間」自体の特質について言及している。
 こうした「開放された」「なめらかな」空間は、実態としても「無所有」であるか、あるいは「限定され」「仕切られた」空間の「所有」と鋭く対立する特質を持つ。そして人間は、山野河海、河原、道などで狩猟・漁撈・採集などを行い、交通、交易等の活動を営むだけでなく、「無所有」の自然―太陽や月、山や海等に即しても、そこに神を見出して、宗教的な関係を相互にとり結んできたのである。
 国家の成立とともに、支配者はさまざまな呪術的、宗教的な手段をも用いつつ、この「空間」をも自らの支配権の下に置き、「領有」しようと試みるが、「無所有」の実態はたえずこれに反逆し、その「空間」は支配者にとって、つねにきわめて危険な「空間」とならざるをえないのである。」



















































































































網野善彦 『異形の王権』 (イメージ・リーディング叢書)

「このように、鎌倉末・南北朝期には、悪党・悪僧的、非人的な武力として、飛礫はサイ棒・走木などとともに歴史の本舞台で縦横に飛んでいたのである。それは(中略)一揆・打ちこわしの飛礫につながるゲリラ的な武器であった。そして、近世の百姓たちが非人の衣裳を身につけ、非人的な武器である飛礫をもって一揆したことに、われわれは注目しておかなくてはならない。被抑圧身分である非人の姿をし、礫をその手に握ったとき、彼等は人の意志をこえた力を自らのうちに感じとり、それを抑圧者に向って打ったのではなかろうか。」
(網野善彦 「中世の飛礫について」 より)


網野善彦 
『異形の王権』
 
イメージ・リーディング叢書

平凡社 
1986年8月18日 初版第1刷
1992年11月25日 初版第12刷
217p 口絵(カラー)4p
A5判 並装 カバー
定価2,100円(本体2,039円)
装幀: 菊地信義



本書「あとがき」より:

「本書は、南北朝の動乱を境としておこった、日本列島の社会の大きな転換の諸相をめぐって、すでに発表したいくつかの小論に修正、補足を加え、一編の新稿を付してまとめたものである。」


二段組。本文中図版(モノクロ)多数。


網野善彦 異形の王権 01


目次 (初出):

第一部 異形の風景
 摺衣と婆娑羅――『標注 洛中洛外屏風 上杉本』によせて (「文学」第52巻3号 1984年3月)
 童形・鹿杖・門前――再刊『絵引』によせて (『新版絵巻物による日本常民生活絵引』解説 1984年8月)
 扇の骨の間から見る (「民具マンスリー」第17巻3号 1984年6月)

第二部 異形の力
 蓑笠と柿帷――一揆の衣裳 (「is」特別号「色」 1982年6月)
 飛礫覚書 (『日本思想体系』第21巻「中世政治社会思想」上 月報 1972年12月)
 中世の飛礫について (「民衆史研究」第23号 1982年11月)

第三部 異形の王権――後醍醐・文観・兼光 (新稿)

あとがき

所蔵一覧
初出一覧



網野善彦 異形の王権 03



◆本書より◆


「蓑笠と柿帷」より:

「元文四年(一七三九)、美作国勝北郡で「非人騒動」といわれた百姓一揆がおこっている。困窮した百姓たちが大挙して富家を襲い、飯米を要求したのであるが、そのさい二、三百人に及ぶ百姓たちは、みな、「古笠、古みのを着し、荷俵をせなにおひ、俵の内に牛のつな一筋づゝ」を入れていた。この服装は「非人拵」――非人の姿だったのであり、百姓たちは自ら「我らは当日の凌もならざる非人どもにて候」と名のり、一人につき一斗の米の貸与を求めている。この百姓たちが「天狗状」といわれる廻文によっておのずと集まり、取鎮めようとした庄屋たちに「石礫」を打って悪口し、追い払ったことも興味深いが、なにより、一揆した百姓たちが蓑・笠をつけ、俵を背負い、非人の姿をして行動をおこした事実に、ここでは注目しなくてはならない。」

「「無縁」の人々の衣裳、しかもすでに抑圧され、差別される人々の服装を自ら意識して、一斉に身につけることによって、百姓や馬借はその行動の「自由」と、抑圧者と闘う不退の決意を自覚的に表明したのではあるまいか。それが江戸時代を通じて、まさしく「一揆の衣裳」として普遍化していくところに、私は近代社会の地底に脈々として進行する「無縁」の思想の自覚化の過程を見出すことができると思うのである。」

「かつて日本の社会をゆるがした自由民権運動(中略)は、まさしく「蓑笠を楯に……莚旗を立て……」というスローガンの下に、全国に燎原の火のごとくひろがっていった。」
「恐らくは、象徴的な意味において、失うものはなに一つ持たぬ抑圧された非人・乞食の衣裳を自ら身につけることによって、不退転の決意をもって権力と立向うことを、このスローガンを通じて、民権家たちは人々にひろくよびかけたのであろう。もしも民権家がそこまで意識していなかったとしても、このスローガン自体が、民衆にそうした心をよびさますものをもっていたのではなかろうか。
 日本の社会と民俗の中から生れた、自覚的な「無縁」の思想の萌芽を、私はそこにはっきりと見ることができると思う。民権運動からわれわれのうけつぐべき最も大切なものの一つが、そこに姿をみせているのではなかろうか。」



「中世の飛礫について」より:

「このように、鎌倉末・南北朝期には、悪党・悪僧的、非人的な武力として、飛礫はサイ棒・走木などとともに歴史の本舞台で縦横に飛んでいたのである。それは後年、戦国大名に組織され、その武力として駆使された飛礫よりも、むしろ一揆・打ちこわしの飛礫につながるゲリラ的な武器であった。そして、近世の百姓たちが非人の衣裳を身につけ、非人的な武器である飛礫をもって一揆したことに、われわれは注目しておかなくてはならない。被抑圧身分である非人の姿をし、礫をその手に握ったとき、彼等は人の意志をこえた力を自らのうちに感じとり、それを抑圧者に向って打ったのではなかろうか。」


「異形の王権」より:

「極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然―セックスそのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではなかろうか。たしかに後醍醐は「異類異形」の人々の中心たるにふさわしい天皇であったといえよう。
 しかし非人の軍事力としての動員とこうした祈祷、「異類」の僧正への傾倒と「異形の輩」の内裏への出入。このような「異形」の王権はなぜここに現出したのか。この時期、非人はなお差別の枠に押しこめられ、「周縁」に追いやられ切ってはいない、と私は考えるが、その方向に向う力は強く働いていた。「性」についても、(中略)われわれはそれを暗闇に押しこめようとする動きが著しくなっていたことを知ることができるが、反面、そうした動向に対する野性的な反発も、またきわめて強力であった。後醍醐はそうした反発力を王権の強化のために最大限に利用し、社会と人間の奥底にひそむ力を表にひき出すことによってその立場を保とうとしたのである。」

「古代以来、少くとも鎌倉期までの天皇に多少ともうかがわれた「聖なる存在」としての実質は南北朝動乱を通じてほとんど失われ、大きく変質したといってよかろう。そして後醍醐によって実現された「異形の王権」の倒壊がその決定的な契機であったことは間違いない。」
「こうした「聖なるもの」―天皇・神仏の権威の低落は、それに結びつき、その「奴婢」となることを通して、自ら平民と区別された「聖」なる集団としての特権を保持していた供御人、神人、寄人などの立場に、甚大な影響を与えたことはいうまでもない。」
「それ故、多くの商工民、芸能民はそれぞれに世俗的な権力――将軍、守護大名、戦国大名などにそれまでの特権の保証を求める一方、(中略)分化してきた職能を通して実利を追求し、富の力によって「有徳」になる道をひらいていった。自治的な都市はこうした人々によって形成されていく。
 しかしその職能の性質から、天皇・神仏の「聖性」に依存するところより大きく、このような実利の道に進みえなかった一部の芸能民、海民、さらには非人、河原者などの場合、職能自体の「穢」との関わりなども加わって、ここに決定的な社会的賤視の下に置かれることとなった。「聖なる異人」としての平民との区別は、差別に転化し、「異類異形」は差別語として定着する。まさしくこれは、聖から賤への転換にほかならない。遊女についても同様なことがいいうる。鎌倉期までは「公庭」に所属するものとして、また神仏に仕える女性として、天皇家・貴族との婚姻も普通のことであった遊女は、南北朝期以降、社会的な賤視の下にさらされはじめる。(中略)遊女もまた、ここに聖から賤に転落したのである。
 やがて江戸時代にかけて、こうした賤視、差別は体制化・固定化され、被差別部落。遊郭として場所的にも固定されていくことになるが、さほど遠からぬ過去において、実際に天皇・神仏に直属していた事実の記憶は、これらの被差別民や遊女をはじめ、鋳物師、木地屋、薬売などの商工民、当道等々の芸能民の心中に強く刻印されており、伝説化した天皇や神仏と、その職能、出自との関わりを物語る、説教節などの芸能の作品をはじめ、さまざまな由緒書、縁起、偽文書として、こうした人々の世界に生きつづけ、社会に無視し難い影響を与えていった。後醍醐の執念をうけつぎ、「聖地」吉野に細々とその命脈を保った南朝の天皇が、伝説の世界にしばしば登場するのも、この動きと無関係ではあるまい。」



網野義彦 異形の王権 02

































































網野善彦 『続・日本の歴史をよみなおす』 (ちくまプリマーブックス)

「日本列島は、三千七百以上の島々から成り立っていますが、これらの島々はそれぞれ海によって結びついており、東西南北の海を通じてアジア大陸、東南アジアの島々、さらに南の島々とも、非常に早くから人や物の交流があったことがわかっています。」
(網野善彦 『続・日本の歴史をよみなおす』 より)


網野善彦 
『続・日本の歴史をよみなおす』
 
ちくまプリマーブックス 96

筑摩書房 
1996年1月20日 第1刷発行
1996年2月10日 第2刷発行
204p 目次3p
B6判 並装 カバー
定価1,100円(本体1,068円)
装幀: 南伸坊



本書と、『日本の歴史をよみなおす』(1991年1月刊)は、のちに合冊されて、ちくま学芸文庫『日本の歴史をよみなおす(全)』(2005年7月刊)として再刊されています。

本文中図版(モノクロ)多数。


網野善彦 続日本の歴史をよみなおす



カバー裏文:

「日本はほんとうに農業社会だったのか。
日本の社会はこれまで考えられていたより、
はるかに早くから都市的・商業的性格が強く、
貨幣経済が非常に発達していた。
海と非農業民を切り捨ててきた歴史をふり返り、
日本社会のイメージを根底から問いなおす。」



目次:

はじめに

第一章 日本の社会は農業社会か
 百姓は農民か
 奥能登の時国家
 廻船を営む百姓と頭振(水呑)
 村とされた都市
 水田に賦課された租税
 襖下張り文書の世界

第二章 海からみた日本列島
 日本は孤立した島国か
 縄文文化
 弥生文化
 西と東の文化の差
 古墳時代
 周囲の地域との交流関係
 「日本国」の誕生
 「日本国」の範囲
 海の交通と租税の請負
 金融業者のネットワーク
 諸地域での都市の成立

第三章 荘園・公領の世界
 荘園公領制
 塩の荘園、弓削島荘
 鉄・紙・漆の荘園、新見荘
 銭の流入
 請負代官の業務
 山臥の代官
 
第四章 悪党・海賊と商人・金融業者
 悪党と海賊
 「悪」とは何か
 一遍の教え――都市的な宗教
 貿易商人、事業家としての勧進上人
 村と町の形成
 海の慣習法

第五章 日本の社会を考えなおす
 「農人」という語
 「重商主義」と「農本主義」の対決
 新しい歴史像
 飢饉はなぜおきたのか
 封建社会とはなにか
 西園寺家の所領
 海上交通への領主の関心
 「重商主義」の潮流

あとがき




◆本書より◆


「日本の社会は農業社会か」より:

「これまでの歴史研究者は百姓(ひゃくしょう)を農民と思いこんで史料を読んでいましたので、歴史家が世の中に提供していた歴史像が、非常にゆがんだものになってしまっていたことは、疑いありません。これは江戸時代だけでなく中世でも同じですし、古代にさかのぼってもまったく同様です。百姓は決して農民と同じ意味ではなく、農業以外の生業を主として営む人々――非農業民を非常に多くふくんでいることを、われわれはまず確認した上で、日本の社会をもう一度考えなおさなくてはならないと思います。」


「海からみた日本列島」より:

「従来の見方では、(中略)稲作(いなさく)が日本列島にわたってきてからの列島社会は、基本的に農業、稲作を中心とするようになり、海によって周囲から隔(へだ)てられた島々の中で、自給自足の生活を営む孤立した社会であった、と考えられてきたと思います。しかしこの常識的な見方はじつはまったく偏(かたよ)っており、こうした日本列島の社会像は
誤った虚像(きょぞう)であるといわなくてはなりません。
 まず、海によって周囲から隔てられた島々というのは、ことの一面のみをとらえた見方です。たしかに海が(中略)障壁(しょうへき)の役割をすることのあるのは、もとより事実ですが、しかし、それは海の一面で、海は逆に(中略)柔軟(じゅうなん)な交通路として、きわめて重要な役割を果たしていたことも間違(まちが)いありません。
 日本列島は、三千七百以上の島々から成り立っていますが、これらの島々はそれぞれ海によって結びついており、東西南北の海を通じてアジア大陸、東南アジアの島々、さらに南の島々とも、非常に早くから人や物の交流があったことがわかっています。」

「弥生(やよい)文化は紀元前一世紀ぐらいから、列島東部にも面として入りはじめ、東北南部まで稲作が広がっていきます。ただこの場合も注意する必要があるのは、稲作が広がっていくことが社会の進歩であるというとらえ方はあくまでも西側のとらえ方で、それでは東の文化を正確にとらえることはできないと思います。
 列島東部の文化は、稲作を受け入れつつ、独自な文化を明らかに発展させており、西が先進で東が後進などとは簡単にはいえません。東に先進的な要素もおおいにあるので、それが国家の成立以後の歴史にもはっきり反映していきます。」

「さて、七世紀後半から八世紀初頭にかけて、ヤマトといわれたのちの畿内(きない)を中心として、東北と、南九州をのぞいた本州、四国、九州を支配下に入れた本格的な国家が、初めて列島に成立することになります。この国家が「倭(わ)」にかえてはじめて「日本」という国号を定め、王の称号(しょうごう)も天皇としたので、それ以前に「日本」、あるいは「天皇」の語を使うのは事実にそくしてみれば、完全な誤りといわなくてはなりません。
 たとえば、「旧石器時代の日本」「弥生(やよい)時代の日本人」という表現は明らかな誤りですし、『日本の歴史をよみなおす』でもいったように、「聖徳太子(しょうとくたいし)は倭人(わじん)であっても日本人ではない」ということを、これからも強調しておかなければならないと思っています。」

「しかし、東北のほぼ全域、さらに新潟(にいがた)―「越(こし)」の北部は、この国家の支配層の立場に立つと「蝦夷(えみし)」という異種族の住んでいるところで、国家の外にある地域なのです。北海道はもちろんのことですが、南九州も、「隼人(はやと)」といわれる異種族の住む地域と考えられていました。ここも「日本国」の外部だったわけで、この国家は成立後、ほぼ百年をかけて東北と南九州を侵略(しんりゃく)し、征服してこれを領土としたわけです。「日本」の侵略はなにも、秀吉(ひでよし)や近代以後の朝鮮(ちょうせん)半島や中国大陸にたいしてだけ行われたわけではありません。古代の「日本国」は、東北人、南九州人を侵略(しんりゃく)によって征服(せいふく)しているのです。
 ここに、この国家の古代帝国的(ていこくてき)な意識がよく現われています。日本国は自らの勢威(せいい)を広げるために、これらの地域を侵略して、自分の支配下に入れようとしたのですが、東北人はきわめて頑強(がんきょう)にこれに抵抗(ていこう)したため、ついにその最北部は最後までこの国家の支配下に入りませんでした。」

「十世紀後半に、ごく短時間で滅(ほろ)びてしまうとはいえ、関東八カ国と伊豆(いず)を基盤(きばん)に、太平洋の海の交通を前提にした平将門(たいらのまさかど)の王国、東国国家が誕生します。また西国の瀬戸内海(せとないかい)を中心とする「海賊(かいぞく)」といわれた海の領主たちの活発な活動の中で、藤原純友(ふじわらのすみとも)がやはり王朝から自立した動きを展開します。
 このころ新羅(しらぎ)でも海賊が動いていますが、純友の勢力は、これと連動していると推測してよいと思います。つまり、瀬戸内海から北九州、さらに朝鮮(ちょうせん)半島との間の緊密(きんみつ)な海上交通を基盤とした、大きな政治的な反逆がおこったわけです。
 前にものべましたように、太平洋の海上交通は早くから安定して活発だったので、将門と純友の間に情報の交流のあったことは十分に考えられますが、西国の藤原純友の勢力は淀川(よどがわ)をさかのぼって、都にも姿をみせており、将門は東北までおさえようとしていました。朝廷(ちょうてい)は未曾有(みぞう)の危機におちいっていたので、もしも将門が軽率(けいそつ)な戦争の仕方をして早死しなかったら、京都の王朝はふっ飛んでいたかもしれません。」



「悪党・海賊と商人・金融業者」より:

「十三世紀の末に描(えが)かれた『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』は、これまでは田畠(でんぱく)の耕作の場面がほとんど描かれず、やや変わった絵巻だと思われていたのですが、この絵巻は当時の都市、都市的な場そのものを描いているわけで、むしろこの時代の社会の潮流のひとつをよく表現していると思います。一遍の教えはまさしく都市的な宗教なのです。商人や金融(きんゆう)業者、それと結びついている女性、さらに「非人」といわれた人びと、一方の見方からは「悪」といわれ、穢(けが)れているとされつつある人びとのなかに、一遍の教えは広がっていったのだと思うのです。
 しかし逆に、こういう動きを我慢(がまん)ならないと考えている勢力も当然あったのです。大寺社の僧侶(そうりょ)や貴族、武家、とくに「農本主義」的な路線に立つ人びとは、一遍の布教や教団のあり方を天狗(てんぐ)の所業だとして真っ向から非難を加えます。この見方は『天狗草紙』という絵巻や『野守鏡(のもりのかがみ)』という歌論書によってはっきりわかりますが、穢(けが)れた女性たちを加えて集団をなして遊行(ゆぎょう)をし、「非人」を従えていることをきびしく批判しています。
 そこでは一遍(いっぺん)の教えは、「悪党」に支持されており、穢(けが)れた人びとを教団のなかに迎(むか)え入れ、女性と旅をともにするみだらな宗教で、天狗(てんぐ)にあやつられているのだというきびしい批判が展開されているわけです。これが「農本主義的」な政治と結びついていることはいうまでもありません。」































































































網野善彦 『日本の歴史をよみなおす』 (ちくまプリマーブックス)

「その『天狗草紙』の詞書に「穢多童(えたわらわ)」という差別的な言葉がはじめて飛び出してくる。これはまことに象徴的(しょうちょうてき)な事実といわなくてはなりません。乞食・非人も悪党もすくわれるとし、そうした人びとに支えられた一遍の姿を描いた『一遍聖絵』に対し、こうした人びとを「穢多」とののしり、その動きを天狗のしわざとした『天狗草紙』。ここに十三世紀末の「穢(けが)れ」「悪」をめぐる、きびしく鋭(するど)い思想的な対立と葛藤(かっとう)がはっきりと姿を現しているといってよいと私は思います。」
(網野善彦 『日本の歴史をよみなおす』 より)


網野善彦 
『日本の歴史をよみなおす』
 
ちくまプリマーブックス 50

筑摩書房 
1991年1月30日 第1刷発行
2004年9月30日 第31刷発行
237p 目次3p
B6判 並装 カバー
定価1,200円+税
装幀: 南伸坊



本書『日本の歴史をよみなおす』と、『続・日本の歴史をよみなおす』(1996年1月刊)は、のちに合冊されて、ちくま学芸文庫『日本の歴史をよみなおす(全)』(2005年7月刊)として再刊されています。

本文中図版(モノクロ)多数。


網野善彦 日本の歴史をよみなおす


カバー裏文:

「後醍醐天皇の出現が、
日本の歴史全体を変えた驚くべき事実。
「一遍聖絵」から読み解く差別の発生。
ひらがな文字や銭の普及の背景とその意味。
今日の私たちを束縛し、重大な影響を与えた
十四世紀の出来事から、
新しい日本史像にいどむ刺激的な試み。」



目次:

はじめに

第一章 文字について
 村・町の成立
 日本人の識字率
 片仮名の世界
 女性と平仮名
 文字の普及と国家

第二章 貨幣と商業・金融
 宋からの銭の流入
 富の象徴
 どうしてモノが商品となるか
 どうやって利息をとったか
 神仏、天皇の直属民
 聖なるものから世俗のものへ
 鎌倉新仏教の役割

第三章 畏怖と賤視
 古代の差別
 悲田院の人びと
 ケガレの問題
 「非人」の出現とその仕事
 特異な力への畏れ
 神仏に直属する「非人」
 河原者
 放免
 童名(わらわな)を名乗る人たち
 聖別から卑賤視へ
 『一遍聖絵』のテーマ
 絵巻をさかのぼる
 差別の進行
 東日本と西日本の相違

第四章 女性をめぐって
 ルイス・フロイスの書物から
 男女の性のあり方
 太良荘(たらのしょう)の女性たち
 女性の社会的活動
 女性職能集団の出現
 公的世界からの女性排除
 穢れと女性
 女性の地位の低下

第五章 天皇と「日本」の国号
 天皇という称号
 「日本」という国号の歴史
 天皇の二つの顔
 租税の制度
 「職(しき)の体系」、神人(じにん)・供御人(くごにん)制と天皇
 仏教と天皇
 日本列島には複数の国家があった
 天皇家の危機
 権威と権力
 大転換期

あとがき




◆本書より◆


「文字について」より:

「つまり日本の社会の場合、文字社会、文書の世界は非常に均質度が高い。これにたいして、無文字の社会、口頭の世界は、われわれが考えているよりもはるかに多様だということなのです。ですから均質な文字社会の表皮をはがしてしまうと、じつはきわめて多様な民俗社会が姿を現すということになる。日本の社会はいまも決して均質ではないのです。」

「平仮名は、まず女性の世界に用いられはじめます。」
「女性が早くから独自の文字を用いていたということは、日本文化の問題を考える場合、非常に重要な点でして、女流の文学が『枕草子(まくらのそうし)』『源氏物語』以来、十三世紀後半の『とはずがたり』、十四世紀の『竹向(たけむき)が記』まで、連綿と書かれているのは、もちろんそのことが前提になっています。しかし、前近代に女性がこのようなすぐれた文学を多く生み出した民族が、はたして世界にあるのかどうか。私はおそらくほかにはないと思いますが、なぜ女性がこのような役割をはたしえたのか、その意味はまだ深く考えられていないと思います。
 そして(中略)こうした女流の文学が生まれたのは十四世紀までなのです。室町(むろまち)時代以降、女性の日記はありますが、江戸(えど)時代までふくめて女性の文学といえるものは、おそらくないのではないかと思います。これが最初にお話しした、十四世紀を境とした社会の転換(てんかん)と深いかかわりがあることは確実です。」



「貨幣と商業・金融」より:

「日本の社会では、河原、川の中洲(なかす)、あるいは海と陸との境である浜(はま)、山と平地の境目である坂などに市が立つのが普通(ふつう)です。このように市の立つ場は独特な意味をもった場なのですが、そうして開かれた市場は、日常の世界とはちがい、聖なる世界、神の世界につながる場であると考えられていました。
 そこにはいると、モノも人も世俗の縁(えん)から切れてしまう。つまり「無縁」の状態になるのではないかと思うので、そうなった時にはじめて、モノとモノとを、まさにモノそのものとして交換(こうかん)することが、可能になるわけです。」



「畏怖と賤視」より:

「こうした非人の集団の中にはさまざまな人びとがいたのですが、基本的にはなんらかの理由で平民の共同体の中に住めなくなった人たちです。前にもお話ししたように、まったく身寄りのない人、捨子や身体障害者で通常の生活ができなくなった人、さらに癩の病(やまい)に罹(かか)った人がいたことがわかっています。」
「なぜこのような非人が神人・寄人になったのかについては、さきほどいいましたように、ケガレがこの時代の社会ではまだ、畏怖感(いふかん)をもってとらえられていたこと、非人たちはそれをキヨメることのできる特異な力を持っていたとみられていたことと、深い関係があると思います。」
「ですからケガレに対して人びとは、たんにそれを忌避(きひ)し嫌悪(けんお)するだけではなくて、畏怖の感覚をもっていたのです。ケガレを清める力をもち、それを職能にしている非人に対するとらえ方にも、やはりそれに通ずるものがあったと見られるので、そのように特異な、一般(いっぱん)の人間にはできない職能をもっているがゆえに、非人は神人(じにん)・寄人(よりうど)、神仏の直属民という社会的な位置づけをあたえられたのだと思います。
 実際、乞食(こつじき)をしている人も、この時代は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身(けしん)、仏の化身であるという仏教上の考え方があり、乞食に邪(じゃ)けんなあつかいをすると仏罰(ぶつばつ)が下るとされていました。これは仏教者の教えをひろめるための話ですが、しかしこのように乞食もケガレを清める特異な能力をもっていたとされており、しかもそれが畏(おそ)れと結びついていたということは重要なことだと思うのです。」

「十四世紀までの非人を、江戸(えど)時代の被差別(ひさべつ)部落と同じようにとらえてしまうことは、かなりの誤(あやま)りを生むのではないかと私は思っています。非人は神人・寄人(よりうど)と同じように、一般(いっぱん)の平民百姓(ひゃくしょう)とははっきり区別されており、不自由民である下人、つまり世俗の奴婢(ぬひ)ともまったくちがう存在で、神仏の「奴婢」として聖別された、つまり聖なる方向に区別された存在であり、ときに畏怖(いふ)、畏敬される一面ももった人びとであったといわなくてはなりません。」

「僧形(そうぎょう)の「非人」――狭義(きょうぎ)の非人の場合は別として、河原者の場合、河原細工丸といわれているように俗体なのですが、個人の名前がわからないとはいえ、「丸」といわれています。また、放免(ほうめん)の名前をわかるかぎりで追いかけてみますと、(中略)すべて「丸」という名前でよばれているのです。
 これはかなり重要な問題で、つまりこの名前は童名(わらわな)ということができます。幼名に「丸」を付けることはよく知られていますが、放免の場合、実名と童名とを重ね合わせたような形で、もちろん成年にたっしたおとなでありながら、「丸」を名乗っている。」
「こうした人たちはたんに名前だけでなく、髪形(かみがた)などの姿形も童姿(わらわすがた)をしていたと見られるのです。」
「つまり当時は髻(もとどり)(本鳥)を結んで折烏帽子(おりえぼし)をかぶるのが、平民の成年男子の髪型で、髻(もとどり)を切られてざんばら髪(がみ)、蓬髪(ほうはつ)にされることは、平民の成人としての資格を剥奪(はくだつ)されるほどの重要な意味をもっており、「本鳥切り」は処罰(しょばつ)の形でもありましたし、人の本鳥を切るのは相手に大きな侮辱(ぶじょく)をあたえることでもあったのです。」
「さて、また「童名(わらわな)」の問題にもどりますが、「丸」をつけた名前は、いろいろなものに付けられています。鷹(たか)や犬のような動物にも「丸」が付けられているし、鎧(よろい)や兜(かぶと)、武器にも、(中略)よく「丸」をつけた名前が見られます。また笛(ふえ)、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)のような楽器も、何々丸という名前を持っているし、船にも「丸」が付けられています。」
「「丸」をつけるものは、みないわば聖俗の境界にあるものであることに注意する必要がある。鷹(たか)や犬などはまさしくそういってよい動物だと思いますし、楽器も同様です。当時の音の世界は、神仏との関係でとらえられており、神仏を呼び出し、また神仏を喜ばせるために用いられているわけで、楽器はまさしく神仏の世界と俗界を媒介(ばいかい)するものだと思います。」
「こうしたものになぜ童名がつけられたのかということは、童――子どもそのものに対するこの時期の社会の見方と深いかかわりがあり、童自身が、聖俗の境界にある特異な存在と考えられていたのです。(中略)子どものいうことは神の意思を体現していると考えられていた時期があったのではないかと思います。
 聖俗の境界的な人や物、動物に童名(わらわな)を付けるという習慣は、このことにつながると私は考えております。ですから、童名をつけている人についても、中世の前期までは、聖別された一面があったといってよいと思うのです。
 ところが、「穢多(えた)」ということばが十三世紀の後半の『天狗草紙(てんぐそうし)』にはじめて登場します。その「穢多」は「童」といわれており、絵巻には蓬髪(ほうはつ)で描(えが)かれています。この絵では「穢多童」が河原で鳥を殺しています。この鳥は鳶(とび)の姿をした天狗(てんぐ)なのですが、動物の肉を餌(えさ)にしてこれを捕まえて殺そうとしているのです。
 この絵巻の詞書(ことばがき)には、天狗にとっての「おそろしきもの」として、尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)などの密教の呪文(じゅもん)などとならべて、「穢多のきもきり」をあげています。(中略)このように河原者――「穢多」は天狗を調伏(ちょうぶく)する力を持っていたのです。
 これは「非人」の持つ力としてきわめて注目すべきなのですが、しかしそれを「穢多童」という、差別的なことばと文字でこの絵巻は表現しており、これが「穢多(えた)」の語の文献(ぶんけん)上の初見です。この草紙の成立は永仁(えいにん)ころ、十三世紀のごく末ですが、はじめて、非人・河原者に対し、「穢(けが)れ多し」という明らかな差別語を用いる動きが現れてきたことになります。
 『塵袋(ちりぶくろ)』という鎌倉(かまくら)後期の古辞書のなかに、「キヨメヲエタト云フ」のはなぜかという問に対して、「エタ」は「餌取(エトリ)」のなまったものだとのべていますが、その最後に、「イキ物ヲ殺テウルエタ躰ノ悪人也(なり)」と書かれています。非人や河原者を「穢れ多い」悪人であるとする差別意識、これを卑賤視(ひせんし)する方向での差別が、このころから社会の中に現れてきたことを、これはよく物語っています。
 どうしてこのような意識がでてきたかについてはいろいろな議論がありますが、私はこのころケガレに対する観念が変化してきたことに理由があると考えています。それ以前のようにケガレを恐(おそ)れる、畏怖(いふ)する意識がしだいに消えて、これを忌避(きひ)する、汚穢(おわい)として嫌悪(けんお)するような意識が、しだいに強くなってきたことによるのだと思います。」
「この時期、十三世紀後半ごろを頂点とするその前後の時期は、日本の社会において「悪」とは何か、あるいは非人、女性の賤視の問題にもかかわるケガレを、いかに考えるべきかについて、かなりきびしい思想的な緊張(きんちょう)のあった時期だったように思うのです。
 「穢(けが)れ多き」人びとを賤(いや)しめ、賤視し、「悪人」として排除(はいじょ)しようとする動向が、一方から強烈(きょうれつ)に主張されるのに対し、むしろ、「ケガレ」にたずさわる人びとも、仏の力によって救われる、非人も女性も救済(きゅうさい)される、という主張、さらには親鸞(しんらん)のように、善人すら往生できるのだから、いわんや悪人が往生できないはずはないという「悪人正機(しょうき)」の主張、いわば「悪人」といわれる人びと、あるいはケガレにたずさわる人びとのなかにこそ人間らしい魂(たましい)があるということを主張する動きが他方にはっきり出てきます。
 そして、その両者の間のきびしい緊張(きんちょう)関係と対立が、十三世紀後半を中心としてその前後に展開したと思われます。それをよく示しているのが、鎌倉(かまくら)時代の後期のほぼ同じころに描かれた、『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』とさきほどの差別的な『天狗草紙(てんぐのそうし)』との関係であります。」

「『一遍聖絵』はよく知られているように、他の絵巻物と比べて、特異といってもよいほどたくさんの非人や乞食(こつじき)を登場させ、描いています。」
「これまでは『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』にえがかれた乞食(こつじき)・非人と、一遍・時衆(じしゅ)たちとは関係がないとして、(中略)別々に研究されていたのですが、両者は無関係どころか、非常に深く結ばれていたことになります。とくに童姿の人びとを媒介(ばいかい)として、非人たちは一遍と強く結びついており、絵巻はこの施行(せぎょう)の場面を通じて、童姿の人びとや非人たちが、しだいに一遍に帰依(きえ)していく経緯(けいい)を語り描(えが)いていると考えたほうが、理解しやすいと思います。」
「一遍の布教はまさしく、悪党・童姿(わらわすがた)の人びとや非人に支えられながらおこなわれていったことを、この絵は全体として描いているといってよいと思います。」

「十四世紀以前の「穢れ」は、前にもふれてきましたが、ある種の畏怖(いふ)、畏(おそ)れをともなっていたと思いますが、十四世紀のころ、人間と自然とのかかわり方に大きな変化があり、社会がいわばより「文明化」してくる、それとともに「穢れ」に対する畏怖感はうしろに退いて、むしろ「汚穢(おえ)」、きたなく、よごれたもの、忌避(きひ)すべきものとする、現在の常識的な穢れにちかい感覚に変わってくると思います。
 動物に対しても同様で、人の力でたやすく統御(とうぎょ)できない力をもった生き物という感覚がうすれて、「畜生(ちくしょう)」「四つ足」といういい方すら、江戸(えど)時代には定着してくるようになります。そのことがさきほどふれたような生業にたずさわる人びとに対する賤視(せんし)を社会的にも定着させ、それを背景に、江戸幕府による賤民身分の固定化という事態がつくられていったのではないかと私は考えております。」



「天皇と「日本」の国号」より:

「また、ここであらためて注意しておく必要のあることは、さきほどもふれたように、北海道と沖縄(おきなわ)はもちろん、東日本についても、果しておよんでいたかどうか疑問といえる、畿内(きない)を中心とする日本を国号とする国家の権威(けんい)が、九世紀ごろから一層あやしくなってきたことです。
 そして十世紀になると、東日本――東国は天皇の統治権からしだいに離(はな)れていく傾向(けいこう)をはっきりと持ちはじめています。それがはっきりしたのが、十世紀の初頭におこった天慶(てんぎょう)の乱です。
 いわゆる平将門(たいらのまさかど)、藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱で、純友は新羅(しらぎ)の海賊(かいぞく)とつながりを持っていたと思いますが、独自な国家まではつくりませんでした。しかし将門の場合は、三ヵ月たらずではあれ、王朝の任命した国司を追いはらって新しい国家をつくり、将門自身は新しい天皇、「新皇」という称号を、八幡(はちまん)の神、菅原道真(すがわらのみちざね)からあたえられるのです。そして、下総(しもうさ)に都を置き、のこりの関東の七ヵ国に伊豆(いず)を加えた八ヵ国に、国司を任命して、東国国家を樹立します。
 東国はここで、京都の王朝の統治権からごく短期間であれ、完全に離脱(りだつ)したわけです。日本列島には決してひとつの国家だけがあったのではなく、複数の国家があったことを、この事実がよく示しているといえましょう。」












































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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分野: パタフィジック

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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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