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網野善彦 『職人歌合 古典講読シリーズ』 (岩波セミナーブックス)

「ところが、このような聖なるものとしての神仏や天皇の権威、多少とも原始的で未開な呪術的なものとのかかわりをもった権威(中略)に対する畏怖感が、南北朝の動乱を経過して十四世紀をこえると、急速に低下してきます。(中略)その根底には、これまで人の力を超えた、畏怖すべき世界ととらえられていた神仏等々の聖なるものの威力が、人の力、世俗の地からの進展によって、かなりの程度その威力が失われていく、いわば、文明化の一層の進展という事態があったのではないかと思います。(中略)社会全体が、職能民の活動を、全体として世俗的な視点からとらえるようになってくるので、十五世紀にはそういう動きが顕著になってくると思います。」
「かつて聖なるもの、神仏の権威に依存するところ大であった人びとの一部は、この動きの中で社会から賤視され、卑しめられるようになってきます。神仏の権威に結びついていたが故に、ある種の畏怖感をもって見られていた人びとが、神仏の権威が低下したために、一般平民とちがう、異様な仕事をしているという点から、社会の中で卑しめられる方向で疎外される傾向があらわれてくるのです。」

(網野善彦 『職人歌合』 より)


網野善彦 
『職人歌合 
古典講読シリーズ』
 
岩波セミナーブックス 106


岩波書店
1992年11月5日 第1刷発行
ii 191p
四六判 並装 カバー
定価1,600円(本体1,553円)
装幀: 万膳寛



本書「あとがき」より:

「本書は、一九九〇年三月一日、三月八日、三月十五日の三回、岩波市民セミナーの古典講読シリーズの一環として行なった話に、若干の筆を加えてまとめたものである。」


図40点。章扉図版3点。
本書は もったいない本舗 さんで399円(送料無料)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。
「古典講読シリーズ」の一冊であるにもかかわらず、古典文学作品としての「職人歌合」の内容にはいっさい触れず(歌の引用すらないです)、「職人歌合」を主に図像資料として援用しつつ、「職人」の歴史的意味について論じた本です。
2012年に平凡社ライブラリーの一冊として再刊されています。




網野善彦 職人歌合 01



目次:

第一講
 はじめに
 1 研究の現状
 2 職人歌合とはなにか
 3 日本の職能民の歴史
 4 職人歌合の構造――和歌と図像

第二講
 1 職人歌合の前期・後期
 2 文献に現れる職能民
 3 変貌する職人像――博打・遊女
 4 賤視され始めた職人――非人・河原者

第三講
 1 烏帽子姿――職人の地位の象徴
 2 職能民としての女性――聖なる性
 3 変化する図像――賤視の徴表
 4 近世へ――職人尽絵と洛中洛外図
 5 残された課題
 おわりに

あとがき




◆本書より◆


「第一講 はじめに」より:

「職人、さらに一般的にいって職能民のように、一般の平民とちがって、特異な能力をもち、それを生業にしている人びとに対して、古くからさまざまな立場からの関心がよせられてきたことは、諸民族――人類社会に共通しているといってよかろうと思います。
 たとえば、鍛冶職人に対して、世界の諸民族にはいろいろなかたちの神話や伝説が伝わっています。鍛冶を尊重する社会では、祭司や魔術師と関連させて考えられていたり、あるいは「一つ目の人」という伝説と結びつけられたりしています。これはこういう職能が人の力を超えた世界とつながりをもっていると考えられていたからであろうと思いますが、鍛冶にかぎらず、職能民にかかわる神話、伝説は、諸民族それぞれに、多様なかたちで見ることができます。」
「この問題を考えるうえで、(中略)エルンスト・クリスとオット-・クルツによる『芸術家伝説』(ぺりかん社)はたいへん参考になります。」
「これによってみますと、芸術家の作品の制作にあたって、天使やマリアが関与をしているとか、子どものころから芸術家はふつうの人とちがった独特の能力が具わっていたとか、芸術家が描いた作品それ自体が生きたものとまちがえられる、あるいは実際に生きて動くというような話が広く世界に伝えられていることがわかりますが、日本や中国にも同じパターンの伝説がたくさんあることは御承知の通りです。(中略)これらの伝説を全体として見ますと、これは独特の職能を持つ人々に対する、ある時期までの人類の共通したとらえかたといってもよいように思います。」



「第一講 2 職人歌合とはなにか」より:

「まず職人歌合は歌合という形式になっています。つまり、各種の職人、職能民が左方(ひだりかた)と右方(みぎかた)に分れて番(つが)いをつくり、それぞれが和歌を詠み、どちらが優れているかという勝ち負けの判定をやはり職能民である判者(はんじゃ)が行うという形になっています。」
「和歌を詠んでいるのは職人自身ではありません。貴族や僧侶が、自らを職人に仮託して和歌を詠んでいるのです。多くの歌合は(中略)題に即して、職人の道具や仕事を歌のなかに詠み込み、歌合の形式に仕立てていくのは共通していますが、その和歌をつくった人は貴族なのです。」
「なぜこうした職能民に対する強い関心が、天皇を含む高位の貴族のなかに生まれ、それがなぜ歌合、絵巻物という形式に定着し、多くの作品を生み出していったのか。(中略)これはけっして小さな問題ではないのです。」



「第一講 3 日本の職能民の歴史」より:

「ここで少し立ち入ってみたいのは、『二中歴(にちゅうれき)』という鎌倉時代にできた一種の百科辞書のような書物についてです。この『二中歴』は『掌中歴(しょうちゅうれき)』・『懐中歴(かいちゅうれき)』という平安時代の同性質の書物をまとめたものなので、その記事は、十世紀から十一世紀にかけての事実を示すと考えてよいといわれています。
 そのなかに「一能歴(いちのうれき)」という部分があり、(中略)当時よく知られている優れた芸能をもった人の名前が書きあげられています。」
「その分類項目をまとめてみますと、第一のグループとして、明経道(みょうぎょうどう)、明法道(みょうぼうどう)、算道(さんどう)、陰陽師(おんみょうじ)、医師、宿曜師(すくようし)、禄命師(ろくめいし)、易筮(えきぜい)(筮竹をもった易者)、管絃人(かんげんにん)、近衛舎人(このえとねり)、武者(むしゃ)、楽人(がくにん)、舞人(まいひと)、鷹飼(たかがい)、鞠足(まりあし)をまとめることができます。これは官人的な職能民です。」
「第二のグループとして、絵師(えし)、細工(さいく)、仏師(ぶっし)、木工(こだくみ)のような手工業者、あるいは相撲のような、官司に所属した職能民グループをあげることができます。
 つぎの第三のグループも官司につながるものもありうるかもしれないと思いますが、人相見をする相人(そうにん)、夢解(ゆめとき)――この当時の人にとって夢はたいへん大きな意味をもっていたようですが、それがどういう意味をもつかということを解くのがうまい人――、囲碁・双六(中略)――、それから呪師(じゅし)、散楽、遊女、傀儡子(くぐつ)、巫覡(ふげき)、つまり巫女(みこ)、こういう狭義の芸能民、呪術師を第三のグループとしておきます。
 つぎに第四のグループとして勢力のある人――勢人(せいにん)、徳のある人、富裕な人――徳人(とくにん)、良吏、志癡(しち)――これは私も意味がよくわからないのですが、馬鹿を装うということなのかもしれません――、さらに窃盗、私曲(しきょく)など、常人と異なる状況にあたる人、ふつうの人と異なる行為をする人までが一能としてあげられています。
 この第四のグループのような芸能のとらえ方、つまり盗みを一種の芸能と見たり、賄賂をとって不正をする私曲を芸能と考える、また徳人、勢人のように金持になったり、勢力をもつことも一種の芸能とする見方。これは一見、きわめておかしいと思われますが、意外に日本の社会には深い根をもっているとらえ方のように思われます。(中略)江戸時代、スリもやはり芸能の一つで、(中略)「義賊鼠小僧次郎吉」などがもてはやされるのも、そういう空気が背景にあるからだと思います。」



「第二講 1 職人歌合の前期・後期」より:

「中世前期においては、図像に即しても、詞書についても、職人が賤視されていた、あるいは職人自身が自分たちを賤しいものと考えていたとは考えられません。後世の思いこみをすてて自然に見るかぎり、中世前期の職人歌合にはこうしたことはうかがわれない、少なくとも具体的な証拠をあげることはできないと私は思います。
 ところが中世後期になると、すでに、『三十二番歌合』の序文に、職人みずからの言葉として「賤しき身品」といわせるようになっている。図像にもそれを物語るものが明らかにでてくるので、その点にも、職人のありかたにかなり大きな変化が起こっているのではないかと見ることができると思います。」



「第二講 2 文献に現れる職能民」より:

「注目すべきことは、十一、十二世紀にかけて、多様な職能民集団のなかの主だった人びとが、供御人(くごにん)・神人(じにん)・寄人(よりうど)という称号を与えらえるようになっていく点です。」
「こういう人びとは、神や仏、それに準ずる天皇などの、いわば人の力を超えた存在の「奴婢」であることによってその権威を身につけた人びとなので、むしろ聖なる方向に区別された人、聖別された人びとですから、一般の平民百姓とは完全に区別されており、特権を保障されていました。」

「前に、職能民伝説が十世紀以降にあらわれてくるといいましたが、一般の人びとにはできない特異な職能を身につけている職能民は、人の力を超えた世界と何らかの結びつきをもっているというとらえかたが、社会に広くあったことを、そこから理解することができると思います。自然の力を「不思議」な方法で開発して、さまざまのものをつくりだす、とくに金属を溶解していろいろなものをつくる職能、あるいはふつうの人の持っていない鋭い感覚を持つ霊能者、神と接触しその意志を伝えることができる陰陽師や夢解、巫女のような人たちの能力、これは一般の人びとの力をこえているわけで、それが神仏の世界と結びついて理解されたということは自然のことだと思います。」
「それだけではなく、この時期の職能民が主に活動している場の問題にも注意すべきです。たとえば、山野河海や道路、市・関所が立てられるような津・泊・渡。こういう 場所は、日常生活と異なる世界と当時は考えられていました。いわば神仏の世界と世俗の世界の境界領域としてとらえられていたと思います。河原などもそうした場だと思いますが、職能民が活動する舞台は、だいたいそういう境界領域だったことになります。(中略)日常世界を超えた山野河海、道路、市、河原などで活動する人びとに対する畏怖の感情が、一般の人びとの中にあったのだと思います。
 さらに当時の職能民は、多くの場合、交易を営んでいます。(中略)こうした交易という行為そのものが、日常の世界とちがった場ではじめて行いえたということもあったと思われます。(中略)たとえば、虹が立ったところに市場を立てるということは、中世まで本当に行われていますが、(中略)市場はそういう日常の世界とは異なる特異な場所ととらえられていました。ですから市場に逃げ込むと、たとえ罪人でも捕えることができなくなるのですが、これらのことは私も別にふれたことがありますので(中略)、ここではくり返しません。」

「ところが、このような聖なるものとしての神仏や天皇の権威、多少とも原始的で未開な呪術的なものとのかかわりをもった権威、あるいは神罰・仏罰に対する畏怖感が、南北朝の動乱を経過して十四世紀をこえると、急速に低下してきます。(中略)その根底には、これまで人の力を超えた、畏怖すべき世界ととらえられていた神仏等々の聖なるものの威力が、人の力、世俗の地からの進展によって、かなりの程度その威力が失われていく、いわば、文明化の一層の進展という事態があったのではないかと思います。(中略)社会全体が、職能民の活動を、全体として世俗的な視点からとらえるようになってくるので、十五世紀にはそういう動きが顕著になってくると思います。」
「商人や手工業者は、(中略)貨幣に象徴される世俗的な意味をもちはじめた富を手にすることによって、社会的な地位をともあれ保つことができたのですが、かつて聖なるもの、神仏の権威に依存するところ大であった人びとの一部は、この動きの中で社会から賤視され、卑しめられるようになってきます。神仏の権威に結びついていたが故に、ある種の畏怖感をもって見られていた人びとが、神仏の権威が低下したために、一般平民とちがう、異様な仕事をしているという点から、社会の中で卑しめられる方向で疎外される傾向があらわれてくるのです。」



「第二講 4 賤視され始めた職人――非人・河原者」より:

「以上のべてきましたように、中世の後期になるといろいろな職人集団に対する賤視が始まるわけですが、その背景には、ほぼ十四世紀を境にして、日本の社会が全体としてかなり大きな変化をした、という事実があるのではないかと私は思っています。とくに、いま述べました非人・河原細工丸・放免などの人びと、あるいは女性の問題にも関連して非常に重要なことは、穢れに対するとらえかたが、ここで大きく変わってきたのではないかという点です。」
「だいたい穢れは、人間の社会と自然との均衡が崩れる事態に関わりがあると考えられています。たとえば、人が新しく生まれる、あるいは人が死ぬ。これはいずれも社会と自然の均衡をくずすので、死の穢れ、産の穢れがおこる。(中略)こうした穢れがおこることは畏怖すべき事態であって、社会と自然の均衡が回復しておちつくまでのしばらくのあいだは、祓い清めを行い、忌み籠もりを続けなければならないと考えられていたと思います。
 ところが、それまで人の力を超えたものと考えらえてきた自然に対して、人間自身の力が強く及ぶようになる。端的にいえば文明化が進むにつれて、ほぼ十四世紀を境に穢れに対する畏怖の感覚が弱くなり、どちらかというと汚穢という感覚がしだいに強くなっていきます。そのことが穢れにかかわりのあるとみられていた職能民の立場を大きく変えることになっていったのではないかと考えてみたいのです。
 非人・河原細工丸・放免についてみると、非人は死の穢れを清める、河原細工丸も牛や馬の穢れを清める、さらに放免は罪の穢れを清める。そういう穢れの清めに携わっていた人たちが、穢れに直接触れるがゆえに穢れの多い存在と考えられるようになり、当時の社会の穢れに対する対応の変化にともなって、これまでの神仏に直属する立場、聖別された立場から、賤視の方向での差別をうけるようになっていったと考えることができると思います。それが、のちの被差別部落に対する差別の発生の背景にあるのではないかと思います。
 遊女の場合も、こうした穢れとの関連で賤しめられていきます。」
「このように賤しめられつつある遊女・非人などの人びとの救済という課題をもってあらわれてきたのが、禅宗、律宗、浄土真宗、法華宗などの鎌倉仏教であったといえます。これらの宗教は、それぞれのやり方はちがっても、いずれも女性と非人の救済をその大きな課題にしています。」

 

「第三講 2 職能民としての女性――聖なる性」より:

「職人歌合にも、女性の職人が何人かあらわれてくるのですが、文献を調べてみても、女性の商工民はかなりたくさん出てきます。(中略)女性がこのように職能民として活動しているのは、むしろ十四世紀以前の段階のほうが多かったのではないかと思います。
 しかも、商人・工人だけではなくて、鎌倉時代、借上(かしあげ)とよばれた高利貸・金融業者のなかに女性が多く見られるのです。」
「これは、古くからのことだったようで、八世紀の状況を伝える『日本霊異記(にほんりょういき)』のなかにも、出挙(すいこ)をして不当な暴利を貪る女性、あるいは仏のものを人に貸して非常に豊かになった女性が出てきます。」
「金融業者に女性がなるのは、日本の社会では古くから、広く見られたことなのです。」

「律令制は、家父長制原理が貫徹した中国大陸の社会で形成された、体系的な法律、制度なのですが、その建前を日本の社会がいちおう受け入れたため、表の政治、公的な世界に関連する官庁の役人は、全部男性で、女性は裏の世界、私的な後宮に属することになります。(中略)しかし実態に即してみると、十三世紀のころまでの社会では、女性の社会的地位がかなり高かったのです。」
「ですから、『日本霊異記』を見ると、すでに八世紀あたりから女性はむしろ公的な世界とは別の舞台、律令制の公的な枠から外れたところで活動しています。」
「また、(中略)十世紀以後、律令制が崩れてからあとの状況を見ますと、女性は男性にくらべて人の力の及ばない世界、神仏の世界との関連がより強いようにみえます。つまり女性は、その性そのものが、人の力を超えた聖なる世界に近いと考えられていたのではないかと読み取れる、いろいろな事象が出てきます。」
「しかし逆に、そうした、女性の「聖なる」世界との結びつきが、十四世紀以後、(中略)逆転して、女性全体の地位を低下させていくことになると思いますが、ともあれ、すでに、十四世紀以前の職人歌合のなかにも、それほど多いわけではありませんが、比率としてはけっして少なくない数の女性の職人があらわれていることは、日本の社会の特質に関連する大事な問題として注意しておく必要があるのではないかと思います。」




網野善彦 職人歌合 02








こちらもご参照ください:

メアリ・ダグラス 『汚穢と禁忌』 塚本利明 訳
宮田登 『ケガレの民俗誌』
井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)




















































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網野善彦 『日本社会の歴史 (下)』 (岩波新書)

「明治以後、敗戦にいたる過程だけではなく、敗戦後の政治・社会の動向についても、前述した「常識」化した誤った思いこみを捨て、「日本」そのものを歴史的な存在と見る視点に立って、徹底した再検討を行うことが、今後の緊急な課題として浮び上ってくるが、それらの仕事はすでに開始されているといってよかろう。」
(網野善彦 『日本社会の歴史 (下)』 より)


網野善彦 
『日本社会の歴史 
(下)』
 
岩波新書(新赤版) 502 


岩波書店 
1997年12月22日 第1刷発行
2004年3月15日 第15刷発行
iii 181p 
新書判 並装 カバー
定価700円+税



全三冊。
本文中図版(モノクロ)4点、地図1点。章扉図版(モノクロ)4点。



網野善彦 日本社会の歴史 下



カバーそで文:

「社会と「国家」とのせめぎあいの前近代史を、社会の側からとらえなおす通史の完結編。下巻は南北朝の動乱から地域小国家が分立する時代を経て、日本国再統一までを叙述し、近代日本の前提とその問題点を提示。十七世紀前半、武士権力によって確保された平和と安定は列島社会に何をもたらしていくのか?〔全3冊〕」


目次:

第九章 動乱の時代と列島社会の転換
 第一節 天皇による国家統一とその崩壊
 第二節 動乱と四分五裂する王権
 第三節 日本国王室町将軍と地域諸勢力
 第四節 列島社会の文明史的・民族史的転換――十四世紀後半―十五世紀前半の社会

第十章 地域小国家の分立と抗争
 第一節 社会の激動と動乱の全地域への拡大――一揆と応仁の乱
 第二節 分立する地域小国家
 第三節 十六世紀の社会

第十一章 再統一された日本国と琉球王国、アイヌ社会
 第一節 日本国再統一の達成と朝鮮への侵略
 第二節 統一国家の確立
 第三節 十七世紀前半の社会と国家

第十二章 展望――十七世紀後半から現代へ
 第一節 十七世紀後半
 第二節 十八世紀から十九世紀前半
 第三節 十九世紀後半から二十世紀後半

参考・参照文献
むすびにかえて




◆本書より◆


「第九章」より:

「このように、列島社会の文明化はこの時期に急速に進み、それとともに列島の諸地域でもアイヌ、琉球などの「民族」の形成の動きが目立ちはじめ、日本国の四至――支配領域も東は外ヶ浜、あるいは「日本(ひのもと)」、西は鬼界島、あるいは鎮西、南は土佐あるいは熊野、北は佐渡として、はっきりと社会のなかに意識されるようになってきた。まさしく列島社会の文明史的・民族史的転換が進行しているのであるが、文明化の進行、村や町の安定化とともに、日本国の国制下におかれた社会のなかには、さまざまな差別が根を下ろしはじめていた。」
「まず安定した自治組織を確立しはじめた村落や都市は、依然として遍歴・漂泊を続ける自立的な宗教民、芸能民、商工民に対し、警戒心を強め、それが差別の生ずるひとつの理由になっている。たとえば、十五世紀につくられたと推定される『三十二番職人歌合(うたあわせ』と題した職人歌合には、こうした多様な遍歴民が描かれているが、歌合の作者はその遍歴民自身に、みずからを「賤しめられた人びと」と発言されており、そのあたりにも問題の一端があらわれているといえよう。
 また平安期には官司に属し、鎌倉期にも「悪党」「海賊」といわれた山や海の領主のネットワークの下でそれなりの役割を果たしていた博打たちも、職人歌合にあらわれなくなり、社会の陰の存在になりはじめたと見られるが、これも、こうした事情と関連していると思われる。
 さらにこのころの社会の文明化の進展、人間と自然との関係の新たな変化にともない、穢れに対する社会の対処の仕方にも大きな変化がおこってきた。かつて人の力を超えた畏怖すべき事態であった穢れは、この時期になると、むしろ汚穢(おわい)として忌避されるようになってくる。」



「第十二章」より:

「明治以降、憲法制定にいたる過程と、さらにそれ以後の国家的な教育のなかで、この国家の指導層はきわめて偏り、また誤りにみちた「日本国」「日本人」の像を日本人自身の意識のなかに徹底的に刷りこんでいった。
 なにより日本国自体について、神々の創った国土に天から降った神の子孫=天皇の統治する国であるという記紀の神話を「事実」として「国史」の教育を行い、さらに日本人を「万世一系」の天皇の支配下にあって、「血統」の上でも天皇につながる均質ですぐれた「大和(やまと)民族」ととらえる意識を植えつけた。そしてこの見方から、アイヌ、琉球人の「民族的」な個性は無視され、さらに中国大陸・朝鮮半島の人びと――「シナ人」「朝鮮人」に対する軽侮、とくに古代日本国の支配者の新羅「征討」から秀吉の朝鮮侵略にいたる動きを背景にした朝鮮半島の人びとに対する著しい蔑視が、日本人のなかに深く根を張っていくことになったのである。」
「そしてさらに明治以後の国家の指導者たちは、さきの「神話」とも関わりつつ、日本国を稲作を基本とした「瑞穂国(みずほのくに)」ととらえ、この国土の中で農業を発展させることを至上の課題とし、それを基盤として諸産業を発展させ、強力な軍隊をつくり上げる「富国強兵」のために全力をあげた。」
「「大日本帝国」が台湾、南樺太、朝鮮半島を植民地にし、「満州」(中国東北)にまで支配を及ぼしていった動機の一つに、こうした農業、「食糧問題」の「解決」が意識されていたことは明白である。そして日本人は、すでに北海道のアイヌの世界や「ウタキ」を信仰する沖縄に対してもそうしてきたように、水田を開拓するとともに、そこに必ず鳥居を持つ「神社」を建て、その地域の人びとにその信仰を強要したのである。
 これはさきの「大和民族」の優越意識と結びついて、長い歴史と独自な文化をもつアイヌや琉球、さらに植民地とした台湾、南樺太、朝鮮半島等の人びとの固有の言語を否定して日本語の使用を強制し、日本風の姓名を名のらせて戸籍にのせた上で、天皇への忠誠(皇民化)、崇拝を強要して恬然(てんぜん)たる驚くべき無神経な姿勢とまったく共通しており、それが第二次世界大戦―太平洋戦争を通じてはかり知れない苦痛をアジアの多くの人びとに与えた事実を、われわれははっきりと認識しておく必要がある。
 そしてその出発点に、明治以後の政府の指導者たちが、日本人に徹底的に教育を通じて刷りこんだ日本国そのものについての、神話を「事実」とする荒唐無稽ともいうべき認識、さらに日本列島とその社会に対する大きく誤った理解があったとすれば、明治政府の果たした役割については、これまでよりもはるかにきびしいマイナスの評価をしなくてはなるまい。」
「もとより明治以降の社会は、こうした政府の姿勢に対して、多少とも批判的な立場を保ちつつ、欧米の思想、学問、文化を独自に受容し、それなりにすぐれた学芸を生み出した。」
「しかし、こうした思想、学問、文学の新たな動向、それにも結びついた政治・社会運動に対し、政府は一九二五年(大正一四)に治安維持法を制定、さらに一九二八年(昭和三)には、「天皇制」を批判し、「国体」の変更を主張するものに対する最高刑を死刑と定め、きびしい弾圧を行った。
 とくに一九三一年(昭和六)、いわゆる「満州事変」がおこり、軍部の主導のもとに日本が「十五年戦争」に突入すると、こうした弾圧は酷烈をきわめ、逮捕され、残酷な拷問のすえに獄死する人びとが少なからずあり、またそれにたえかねて思想を「変える」ことを誓わされる(「転向」する)人びとも多かったのである。」
「そのころの軍隊は「天皇の軍隊」として「皇軍」とよばれたが、「上官の命令は天皇の命令」として、兵士に対する殴打、足蹴、棍棒による打擲(ちょうちゃく)を日常のこととし、ほとんど「牢獄」のような兵営生活を兵士に強制するような実態を持つようになっていた。それに加えて、前述したとおり「シナ人」「朝鮮人」をはじめとする他民族に対する蔑視を徹底して教育されたこの軍隊―「皇軍」が、それ自体、人を狂気にするとされる戦場において、細菌兵器の研究を行ったいわゆる「七三一部隊」による最近の人体実験をはじめ、「南京大虐殺」に代表されるような非戦闘員をふくむ大量な人びとに対する殺傷など、常軌を逸する殺戮をアジアの各地でくりひろげたこと、また兵士たちの性欲処理の対象とされた「慰安婦」たちに対し、兵士以上の「奴隷的」な状態を強制したことは、疑う余地のない事実といわなくてはなるまい。われわれはこれらの事実を、決して目をそらすことなく見すえておく必要がある。とすると、こうしたアジアに対する侵略の直接の起点となり、このような驚くべき実態をもつ軍隊の形成される出発点をつくった明治政府の指導者たちに対しては、さきにふれた以上にさらにきびしいマイナス評価を与える必要があろう。
 明治以降の政府の選択した道は、(中略)まったく誤った自己認識の上に選択された道であり、政府によって刷りこまれた虚像におどらされた日本人を破滅的な戦争に導き、アジアの人民に多大な犠牲を強いた、最悪に近い道であったと私は考える。」






こちらもご参照ください:

網野善彦 『日本社会の歴史 (上)』 (岩波新書)










































































網野善彦 『日本社会の歴史 (中)』 (岩波新書)

「新たな文化を創り出したアイヌは、土器を用いず、農耕も行わず、狩猟、とくに漁撈・採集を営みつつ南北に活発な交易を行い、日常用具・食料を入手し、十三世紀後半までにはサハリンに入り、さらに北東アジアのアムール川流域で交易を展開するようになっていたのである。」
(網野善彦 『日本社会の歴史 (中)』 より)


網野善彦 
『日本社会の歴史 
(中)』
 
岩波新書(新赤版) 501 


岩波書店 
1997年7月22日 第1刷発行
1998年3月6日 第6刷発行
iii 202p 
新書判 並装 カバー
定価640円+税



全三冊。
図版(モノクロ)3点(章扉)。



網野善彦 日本社会の歴史 中



カバーそで文:

「自律的に進展する社会と「国家」とのせめぎあいの前近代史を、社会の側からとらえなおす通史の続編。近畿を中心とした貴族政権日本国――朝廷と、武人勢力によって樹立された東国王権。この二つの王権の併存と葛藤のなかで展開する活力あふれる列島社会の姿を描く。中巻は十~十四世紀前半、摂関政治から鎌倉幕府の崩壊まで。〔全3冊〕」


目次:

第六章 古代日本国の変質と地域勢力の胎動
 第一節 寛平・延喜の国制改革
 第二節 東国国家の樹立と「海賊」の瀬戸内海支配――天慶の乱
 第三節 十世紀の社会と政治
 第四節 地域社会の活発化と十一世紀中葉の国制改革
 第五節 十一世紀後半―十二世紀前半の社会と政治

第七章 東国王権の出現と王朝文化の変貌
 第一節 十二世紀後半の社会と政治
 第二節 東国の王権―鎌倉幕府の樹立
 第三節 東国・西国戦争――東国王権の確立
 第四節 十三世紀の社会と文化

第八章 東西の王権の併存と葛藤
 第一節 協調する東西の王権
 第二節 モンゴル襲来と十三世紀後半の社会
 第三節 十三世紀後半―十四世紀前半の社会
 第四節 東国「国家」の崩壊




◆本書より◆


「第六章」より:

「もともと醍醐天皇の死の原因になった清涼殿の落雷は菅原道真の怨霊の祟りとする風聞が広く世にひろがっていたが、そのうえ醍醐に続いて、翌九三一年(承平元)、宇多上皇もまた死去し、疫病の流行、京都における群盗の横行など不穏な事態がおこってきた。
 さらに、九三二年(承平二)以降、瀬戸内海では海賊の活動が再び活発化し、やがて伊予国日振島(ひぶりじま)を本拠に、千余隻にも及ぶ大集団になった。政府は、新羅の海賊に対処したときと同様に、水軍をふくむ国衙の軍勢に対する軍事指揮権をもつ警固使を設置し、追捕使を派遣して鎮圧にあたらせ、この面でも軍制改革を推進しつつ、海賊に対処しようとしている。のちに反乱をおこす伊予掾(いよのじょう)藤原純友(すみとも)もこの時の警固使であり、追捕使の伊予守紀淑人(よしと)とともに海賊の鎮圧、懐柔にあたっていたのである。」
「一方、東国では延喜年間を通じて、駿河、飛彈、下総、上野、下野、武蔵など、いたるところで官舎が焼かれ、国府が襲われて国司が殺害される「凶党」の蜂起が絶えまなくおこっていたが、九三五年(承平五)以降、東国の有力な武将平将門(たいらのまさかど)と常陸大掾(ひたちのだいじょう)平国香(くにか)とのあいだではげしい私闘がくり返されるようになった。」
「これらの豪族たちは、古代以来の首長の流れをくむ郡司たちにかわって「君(きみ)」「大君(おおきみ)」とよばれ、武勇によって新たに地域の首長の立場に立ち、はげしい戦いを通じて豪族の中の豪族、「君」の中の「君」の地位を争っていたのである。
 そのなかにあって平将門は、一族すべてを敵に回しながら、たび重なる戦闘の勝利を通じてさらに勢威を振るい、九三九年(天慶二)、国司に圧迫された郡司、国司に反抗する富豪たちを庇護する立場に立ち、常陸の国衙の軍勢と戦ってこれを撃破、その勢いをかって国府を焼いて、国司を捕虜にし、ついに王朝国家と正面から対立するにいたった。
 こうして常陸を支配下においた将門は、さらに下野、上野の国府を襲撃、国司を京都に追い返し、関東をほぼ制圧したが、このとき巫女が神がかりし、八幡神が菅原道真を通じて将門を「新皇」とする、という託宣を下した。将門は従者たちの歓呼のなかで新皇に即位し、下総に王城をおいて伊豆をふくむ坂東諸国に国司を任命、ここに、激動のなかから新たな国家が東国に誕生した。
 将門は王朝の反逆者とされた菅原道真によって正当化された新皇という地位に立ったのであり、西日本と異なる体質の風土と社会をもつ東日本のうち、関東と伊豆は、京都の「本天皇」を戴く王朝国家の支配を脱し、新皇将門の下に東国国家の支配下に入ることになった。」
「一方、同じ年、あたかも将門に呼応するように、伊予国に土着していた藤原純友は、その動きに敵対した備前と播磨の国司を捕虜にし、さらに九四〇年(天慶三)、讃岐、阿波の国衙の軍勢と戦い国府を襲撃、瀬戸内海は事実上純友の率いる「海賊」の支配下に入ることとなった。」
「列島の東西におこったこの反乱のなかで、短期間ではあれ、京都の天皇による日本国に対する支配が分断され麻痺し、とくに東国に独自な国家がごく短期間ではあれ誕生した意義はきわめて大きかった。新皇将門、白馬に乗る英雄将門の記憶は長く東国人のなかに生き続け、東国が自立に向かって歩もうとするときにこの記憶は甦り、それを支える役割を果たすことになったのである。」

「このころの都では、すでに独自の職能集団として車借(しゃしゃく)を兼ねていた牛飼童(うしかいわらわ)、芸能民集団としての博打、さらには祇園社の犬神人(いぬじにん)などとなった非人等々の「京童(きょうわらわ)」といわれた人びとをはじめ、商人・工人などの職能民集団がしばしば乱闘をおこしていた。祇園会、賀茂祭などのさい、これらの人びとの闘諍(とうじょう)が発生しているが、こうした人びとをふくめ貴族たちまでを大きく巻き込んだ田楽(でんがく)が、一〇九六年(永長元)をはじめ(永長の大田楽)、しばしば大流行している。」



「第七章」より:

「このように、この時期の文化・思想の動きは、宮廷を中心とする動きだけではなく、「京童(きょうわらわ)」ともいわれた人びとをふくむ多様な都市民、傀儡・遊女から博打にいたる京・畿内周辺の職能民などの活発な動きを背景にしており、各地域にも、東北の平泉、安芸の厳島、北九州の博多、国東(くにさき)半島の六郷満山(ろくごうまんざん)のように、独自な政治・経済・文化の中心が生まれ、それぞれに多様な文化的所産を生み出しつつあった。それはもはや、それまでの王朝国家の枠をはるかにこえるものになろうとしていた。」

「これらの職能民の主だった人たちは、前述したように、西国においては天皇、神仏など、人の力を超えた聖なる存在の直属民として、供御人、神人、寄人などの称号をもっていた。鋳物師が天皇家に直属し、蔵人所灯炉供御人といわれたことは前にのべたが、魚貝売のなかに、やはり天皇家直属の粟津橋本供御人、祇園社にも属する今宮神人などが見え、油売の多くは石清水八幡宮山崎神人となっており、石清水八幡宮淀綱引(よどつなひき)神人という称号をもつ塩売などもいたのである。こうした神人、供御人、寄人たちは、市、渡、津、泊で津料・関料などの交通税免除の特権を保証され、聖なるものの分身として広域的に遍歴しながら交易に従事していた。」
「また神人・寄人のなかには、日吉神人などのように「借上」といわれ、金融に携わる人もあって、山僧といわれる延暦寺の下級の僧侶や、熊野三山僧といわれた山臥(やまぶし)にも、借上に従事する人が多かった。そしてこのころになれば、米だけでなく銭貨を資本として貸し付けることも行われているが、やはり日吉上分銭、熊野初穂物のように、神仏への初穂・上分とされた銭がはじめて資本となりえたのであり、利息は、神仏への御礼として支払われたのである。こうした借上のなかにも商人の場合と同様に、少なからず女性の姿が見られるが、こうした商業や金融への女性の広範な関わりの一つの背景として、女性による養蚕や絹・布などの衣料生産があったと考えられる。
 そして、廻船人や魚貝商人など遍歴する商工民の根拠地、浦、浜、渡、津、泊、あるいは宿には、寺院や神社が建てられることが多く、またしばしば関所が設定された。そこに入港し通過する船は、神仏への初穂・上分を関料として支払うことを義務づけられており、これを怠る船などに対しては、こうした港や交通路を警固するために、岬や丘陵上などに設けられた城を根拠として、海の領主や山の領主、あるいは職能民自身が武力を行使してその納入を強制した。こうした行動に出たとき、これらの人たちは「海賊」「山賊」「悪党」などとよばれたのである。」



「第八章」より:

「かつては畏怖すべき事態ととらえられていた「穢(けが)れ」に対する社会の対処が、文明化の進展とともに大きく変わりつつあり、「穢れ」を汚穢として忌避する空気がしだいに強くなってきた。葬送や、刑吏として住宅破却に携わった非人や犬神人、囚守の役職にあり刑吏として斬首を行った放免、斃牛馬(へいぎゅうば)の皮を扱う河原細工丸などの人びとは、なお神人、寄人の呼称をもち、天皇、神仏に結びついてキヨメに携わる職能民として畏れられる存在であったが、十三世紀末になると、一遍などの新しい宗教をはげしく罵倒した『天狗草紙(てんぐそうし)』に、はじめて河原細工丸を「穢多」という字で表現した事例があらわれる。このように穢れのキヨメに関わる職能民それ自体を賤視する空気が、貴族、寺社の一部にしだいに強くあらわれるようになってきた。それはやがて牛馬を扱う馬借・車借や、遍歴する芸能民・宗教民にまで及んでくるが、これは神人・供御人制の及んだ西日本で顕著になってきた現象であり、戦士、武人たちの政権の樹立された東日本では殺生・穢れに対する感覚は異なっていたと思われ、非人、河原細工丸に対する賤視の動きは、鎌倉を例外として、いまのところ明確には確認されていない。
 しかし、全体として神仏に対する畏敬、呪術的な力に対するおそれが薄れてきつつあったのは確実であり、それにともない、これまで神仏への畏怖によって規制されていた富への欲望が否応なしに表にあらわれ、過度な利潤をむさぼり、高率の利息を取り、博打や酒、遊女におぼれて殺傷に走るなどの動きが目立ってくる。そしてこうした人の制御できない得体の知れない力を、穢れをもふくめて「悪」「悪人」として排除、抑圧しようとする動きが、前述したように、とくに「徳政」を強調する農本主義的な政治路線の側から顕著になってきた。
 これに対して、悪人こそ救われると説いた親鸞の真宗、善人も悪人も、浄も不浄も、男も女も、阿弥陀の誓願を信じ、一遍の賦(くば)る札をうけとればみな救われると説く一遍の時宗、自らを旃陀羅(せんだら)(賤民)の子といって「悪党」のなかにその身を置くことを辞さなかった日蓮の法華宗は、みな「悪」に正面から立ち向かい、悪人を救済しようとした宗教であった。」






こちらもご参照ください:

網野善彦 『日本社会の歴史 (下)』 (岩波新書)























































網野善彦 『日本社会の歴史 (上)』 (岩波新書)

「とくに戸籍に姓名を記されること自体に対するマジカルな反発が当時の社会にあったと見られるので、造籍は不徹底に終わらざるをえなかった。」
(網野善彦 『日本社会の歴史 (上)』 より)


網野善彦 
『日本社会の歴史 
(上)』
 
岩波新書(新赤版) 500 


岩波書店 
1997年4月21日 第1刷発行
1997年9月1日 第4刷発行
iii 210p 
新書判 並装 カバー
定価630円+税



全三冊。
本文中図版(モノクロ)4点、地図1点。章扉図版(モノクロ)5点。



網野善彦 日本社会の歴史 上



カバーそで文:

「現代の日本人・日本国は、いかなる経緯をへて形成されたのか――。周辺諸地域との海を通じた切り離しがたい関係のなかで、列島に展開した地域性豊かな社会と「国家」とのせめぎあいの歴史を、社会の側からとらえなおす。十数年にわたる学問的営為の結実した本格的通史。上巻は列島の形成から九世紀(平安時代初期)まで。〔全3冊〕」


目次:

はじめに

第一章 原始の列島と人類社会
 第一節 日本列島の形成と人類の登場
 第二節 漁撈の開始と狩猟・採集生活の発展
 第三節 縄文時代の終末と農耕の開始

第二章 首長たちの時代
 第一節 弥生文化の形成と首長たちの登場
 第二節 首長制の展開と古墳の発生
 第三節 統合に向かう近畿と九州
 第四節 近畿の巨大古墳と各地域の首長制の発展

第三章 国家形成への道
 第一節 近畿の大王と首長間の抗争
 第二節 部民制と国造制
 第三節 古墳の変質と六世紀の社会
 第四節 東アジアの激動とヤマト政権の動向

第四章 「日本国」の成立と列島社会
 第一節 大化のクーデターから壬申の乱へ
 第二節 日本国の出現――藤原京と大宝律令
 第三節 列島社会と律令制度

第五章 古代小帝国日本国の矛盾と発展
 第一節 古代日本国の矛盾と八世紀の政治
 第二節 八世紀の列島社会
 第三節 新王朝の創始と平安京
 第四節 都市貴族の世界――弘仁・貞観期の政治と文化
 第五節 九世紀の列島社会とアジア




◆本書より◆


「第二章 首長たちの時代」より:

「北九州に根をおろした弥生文化は、数十年といわれるぐらいの非常に速いスピードで、列島西部に拡大し、おそくとも紀元前二世紀のうちには、南は薩南諸島の一部、東は伊勢海沿岸と丹後半島を結ぶ線にまでひろがった。」
「しかし果実の採集や狩猟・漁撈による生活を高度に発展させた列島東部の社会は、全体として弥生文化を受け入れることに強い抵抗をみせた。それゆえ、約二〇〇年間ほどの弥生前期は、おおまかにみると列島西部の弥生文化に対して、列島東部では依然として縄文文化がつづくことになったのであり、こうしたきわめて異質な生活形態をもつ社会が東西にあらわれたことによって、旧石器時代から見られた列島の東と西の違いはさらに明確になってきた。しかし、縄文時代には生活の豊かさと人口の多さにおいて、列島西部をはるかに凌駕していた列島東部の社会は、この時期に入って、穀物生産では列島西部の社会に立ち遅れたのに対し、列島西部では、朝鮮半島などからの流入を含めて、人口が急速に増加しはじめた。
 一方、南九州・薩南諸島にはいちおう弥生土器が及んでいるが、その文化の波及度はきわめて弱く、稲作はあまり定着しなかったと考えられ、沖縄諸島にも弥生土器は見られるが、稲作は行われていない。とくに沖縄では採集を基盤として、石器を主な道具にするとともに、漁撈に大きな比重をおく文化がこの時期もつづいており、これを貝塚時代と呼んでいる。このような沖縄諸島の社会は、九州や中国大陸などと交流しながら、この後もかなり長くつづき、九州以北と異なる固有の文化、いわゆる「南島文化」の基盤がここに育まれていくことになった。」
「紀元前一世紀から紀元後一世紀に及ぶ弥生時代中期になると、稲作は関東から東北南部にいたる列島東部にまで面としてひろがってくる。しかしこの列島東部の弥生文化は、土器に縄文がほどこされ、稲作のあり方も列島西部とはかなり違っており、縄文文化の伝統は根強く残ったと考えられる。そして東北北部と北海道には稲作は定着せず、採集・狩猟・漁撈に依存する続縄文文化が、この地域ではつづいていくことになった。」

「このような通交と戦闘のなかで、朝鮮半島からはさまざまな職能民集団をふくむきわめて多くの人びとが海を渡って列島に移住し、半島社会と列島社会の交流はいっそう活発になった。」



「第四章 「日本国」の成立と列島社会」より:

「しかし六八九年、大后鸕野讃良は完成した最初の本格的な令である浄御原令を施行した。この令に「倭」にかわる国号「日本」、大王にかわる王の称号「天皇」、そして「皇后」さらに「皇太子」がはじめて制度的に定められ、日本国はここにはじめて列島に姿をあらわし、天皇の称号もはじめて正式のものとなったのである。*」
「* 「日本」は部族名でも地名でもなく、日の出るところ、つまり東の方向を意味し、太陽信仰を背景にしつつ、中国大陸を強く意識した国号であった。また「天皇」も中国大陸の君主号「天王」と結びつける見解があるが、いずれも大陸の大帝国を意識しながら自らも小帝国の道を進もうとしてきた、この国家の支配者たちの立場を端的に示している。」

「この年(引用者注:七〇一年)、大宝律令(りつりょう)は完成し、ただちに施行された。「文物の儀、ここに備われり」と宣言されたように、まさしくこれは、本格的な国家としての日本国の確立を記念する律令であった。そしてこの年、久々に発遣された遣唐使は、女帝則天武后(そくてんぶこう)に対し、それまでの「倭国」をあらため、はじめて「日本国」の使いと名のったのである。種々の質問ののち武后はこれを認め、「日本国」は東アジアに、はじめて公式にその姿をあらわした。以後、この国号は主として対外的に用いられることになっていく。
 東北北部および南九州をのぞく本州、四国、九州の島々に支配を及ぼしたこの畿内中心の国家「日本国」は、例えば殯に見られるような、未開で呪術的な要素を社会に広く残しているとはいえ、首長たちを中心に、中国大陸の高度に文明的な制度――律令――を受容した国家であり、この国家の出現は、これ以後の日本列島の社会にきわめて重大な意味をもつことになっていったのである。」

「このように、「日本国」の律令制は基本的に田地を基礎とした土地制度・租税制度であった点に大きな特徴があった。当時の列島社会の水田は、後述するように、この制度が実現しうるほどには決して開発されていなかったと見られるが、この国家の支配層は本気で「農は天下の本」という儒教の農本主義の立場に立って、この制度を貫徹しようとしたのであり、これはその後の列島社会に強い影響を及ぼすことになったのである。」



「第五章 古代小帝国日本国の矛盾と発展」より:

「実際、この世紀の大規模な造都や造寺の事業は、こうした有力者の力に依存してはじめて可能であったが、こうした事業が進められたことは、一般平民に対しても、さらに重い負担を負わせる結果になった。造都が行われたときに、しばしば山火事が発生し、また各地で倉庫が焼け、それを「神火」とする声があがり、さらにどこからともなく「童謡(わざうた)」といわれる政治批判の意をこめた歌謡が歌われ、広まっていったが、こうした火事や歌には、平民たちの深い憤懣がこめられていたのである。そしてそのなかで、人形(ひとがた)による呪詛(じゅそ)が行われ、政治の暗闘のなかで非業の死を遂げた人びとの怨霊にかかわる風説が、いつとはなしに世の中に広く伝わっていった。民間を遊行する私度僧や呪術者もそうした風説の伝播に何らかの役割を果たしたと思われるが、それは権力者の心をたえず脅かし、苦しめてやまなかったのである。」

「こうした日本国の動揺は、東北人にも敏感に反映し、この国家自体のなかでその地位を得ようとする首長が現われてきた反面、政府が服属した「蝦夷」―東北人を「俘囚(ふしゅう)」として九州をはじめ各地域に移住させて、平民と差別したことに強く反発し、七七四年(宝亀五)、東北人は陸奥の桃生城に攻撃を加えた。これが、八一一年までつづく、東北人と日本国とのいわゆる「三十八年戦争」のはじまりであった。
 さらに七八〇年(宝亀一一)、陸奥国の伊治(これはり)郡の郡司となっていた東北人の首長伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が反乱をおこし、胆沢(いさわ)の地に築城を急いでいた按察使(あぜち)を殺害、陸奥の国府多賀城を焼き、城内の倉庫の物資を略奪した。光仁はただちに征討軍を派遣したが、翌七八一年(天応元)、皇太子山部親王に位を譲って、まもなく世を去り、光仁の朝廷の課題は、すべてすべて四五歳の壮年天皇桓武に継承されることになった。
 しかし桓武の母親は、前述したように朝鮮半島からの移住民の流れをくむ、畿内の貴族から見て出自の低い女性であり、当初は桓武に対する貴族の反発が強かったが、七八二年(延暦元)、桓武は天武の孫塩焼王の子氷上川継(ひかみのかわつぐ)の謀叛の罪を問い、これを捕らえて、その母で聖武の娘不破内親王とともに流罪に処し、天武系の血をひく皇統はこれで完全に断絶することになった。」

「七八八年(延暦七)、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍とし、東海・東山両道、あるいいは坂東諸国から五万余の軍勢を動員し、東北との本格的な戦争が開始されるが、これを迎え討った東北人は、翌年、首長阿弖流為(あてるい)の巧妙な戦術によって、北上川で日本国の軍勢を包囲、大打撃を与えて撃退した。
 しかし度重なる敗戦にもかかわらず、桓武は東北の「征討」をあきらめなかった。」
「七九七年(延暦一六)、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、八〇一年(延暦二〇)には田村麻呂が再び四万の軍を率いて東北北部に攻め込み、翌年、胆沢城を築くと、さきの北上川の戦いの勝者阿弖流為(あてるい)は兵を率いて投降した。田村麻呂はこれを京都に連行して助命を主張したが、結局、阿弖流為は斬られ、東北人の中に日本国に対する深いうらみをのこすことになった。」

「安殿親王が即位して平城(へいぜい)天皇となり、元号も大同に変わる。平城は桓武の後継者であることを強く意識しつつも、その政治の一面には反発していた。」
「桓武との対立の結果が端的にあらわれたのは、八〇七年(大同二)、平城が、晩年の桓武が寵愛した異母弟伊予親王とその母藤原吉子(よしこ)に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込んだ事件(伊予親王の変)で、この結果、吉子の出身であった南家の貴族たちは失脚し、その力は決定的に弱まった。これに代って平城が深く信頼したのは暗殺された式家の藤原種継の子仲成(なかなり)と薬子(くすこ)の兄妹であった。
 薬子は、娘が皇太子当時の平城の後宮に入っていた関係で、東宮(とうぐう)(皇太子の居所)における上級の女官となり、即位後の平城の傍に常に侍ってその言葉を取り次ぐ内侍司(ないしし)の典侍(てんじ)、尚侍(しょうじ)として、後宮の頂点に立っていた。またその兄仲成は、地方行政にも経験をもち、武官を歴任した人物で、この兄妹が平城の厚い信任を得たのである。
 ところが、平城天皇は精神不安定で、伊予親王と吉子の親子を悲惨な死に追い込んだ自責に悩まされつづけ、ついに病気を理由に、即位してからわずか三年の八〇九年(大同四)、弟の神野(かみの)親王に天皇位を譲った。これが嵯峨(さが)天皇であるが、譲位後、太上(だいじょう)天皇となった平城は、仲成・薬子とともに旧都平城京の土地に移り住み、健康が回復すると、自ら政令を発して嵯峨の政治に介入し、ときの人が「二所(にしょ)の朝廷」と言ったように、王権が分裂する状況があらわれてきた。日本の律令が、太上天皇に天皇と同じ権限を与えたことが、こうした事態の背景にあったのである。
 内侍司―後宮を薬子におさえられた嵯峨は、新たに令外官(りょうげのかん)として蔵人頭(くろうどのとう)をおき、北家(ほっけ)の藤原冬嗣(ふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)をこれに任命し、内侍司に代わって天皇と太政官との間を取り次ぐ伝宣、請奏(しょうそう)を行わせ、機密が平城側にもれるのを防いだ。そして平城上皇が平城京への再遷都を命ずるにいたって、嵯峨もまた強硬手段をとり、表面は平城の命に従う姿勢を見せつつ、坂上田村麻呂に命じて仲成を捕らえ、薬子の官位を剝奪した。激怒した平城上皇は兵を率いて薬子とともに東国に入って、嵯峨の朝廷に対抗しようとしたが、嵯峨側の軍勢に阻止され、仲成は射殺され、薬子も毒を仰いで死に、平城上皇は剃髪し、嵯峨の即位とともに皇太子となった平城の子高岳(たかおか)親王も廃されて出家した(薬子の変)。」






こちらもご参照ください:

網野善彦 『日本社会の歴史 (中)』 (岩波新書)












































網野善彦 『日本の歴史 第00巻 「日本」とは何か』

「「異類異形にして世の常の人に非ず」といわれた人々の力が、中世の世の中には満ちあふれていた。」
(『日本の歴史 第00巻 「日本」とは何か』 口絵説明文より)


網野善彦 
『日本の歴史 
第00巻 
「日本」とは何か』



講談社 
2000年10月24日 第1刷発行
370p 口絵(カラー)8p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,200円(税別)/刊行記念特別定価1,500円(税別)
装訂: 間村俊一
装訂写真: 豊高隆三

月報 (8p):
特別対談 「日本」から世界に光をあてる (網野善彦・樺山紘一)/第一回同時配本案内/図版(モノクロ)3点



本文中図版(モノクロ)・地図多数。
本書は2008年に講談社学術文庫として再刊されていますが、アマゾンマケプレでハードカバー版が356円(送料込)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



網野善彦 日本とは何か 01



目次:

第一章 「日本論」の現在
 1 人類社会の壮年時代
 2 日本人の自己認識――その現状
第二章 アジア大陸東辺の懸け橋――日本列島の実像
 1 アジア東辺の内海
 2 列島と西方地域の交流
 3 列島の北方・南方との交流
 4 東方の太平洋へ
 5 列島社会の地域的差異
第三章 列島社会と「日本国」
 1 「倭国」から「日本国」へ
 2 「日本国」とその国制
 3 「日本国」と列島の諸地域
 4 列島諸地域の差異
 5 「日本・日本人意識」の形成
第四章 「瑞穂国日本」の虚像
 1 「日本は農業社会」という常識
 2 「百姓=農民」という思いこみ
 3 山野と樹木の文化
第五章 「日本論」の展望
 1 「進歩史観」の克服
 2 時代区分をめぐって

参考文献
索引




網野善彦 日本とは何か 02



◆本書より◆


「第一章 「日本論」の現在」より:

「それは、一九四五年八月六日、日本列島の広島に始まった。この日アメリカ空軍のB29が広島に落とした一個の原子爆弾によって、一挙に、二十万人近い人間が殺傷され、その放射能の影響は五十年以上の年月を経たいまも被爆者に及びつづけている。さらに八月九日、この爆弾は長崎にも投下され、「この世の地獄」といわれるほどの凄惨(せいさん)な状況の中で、やはり十万に及ぶ膨大(ぶだい)な人命が失われたのである。
 このアメリカによる原爆投下は、ごく短期的には「大日本帝国」の降伏、その敗戦をもたらす決定的な契機となったが、人類が自らを滅しうるだけの巨大な力を、自然の中から開発したという疑う余地のない厳粛な事実を、多大な犠牲を払って結果的に明確にしたという点で、人類の歴史に決定的な時期を画することになった。
 実際、これ以後の大国の間での核兵器開発をめぐる激しい競合の中で、人類は一歩、その歩みを間違えれば、頓死、死滅する危険にさらされるにいたったのであり、いまなおその危険がなくなったわけでは決してない。
 人類がたとえ多少の犠牲を払っても、豊かさを求めてひたすら自然の開発を推し進め、前進することになんの疑いも持たなかった「青年時代」は、もはや完全に過去のものになった。」
「人類の直面する死滅にいたる危険はこのような兵器だけではない。近年、高度成長期を中心に日本列島において、あとさきを顧みず、猛烈な勢いで進められた開発、生産の増大がひきおこした自然の破壊、それに伴う公害の人体に及ぼす深刻な影響に典型的に見られる事態は、地球全体にわたって広く進行しており、地球温暖化やダイオキシンなどの有害な物質の蔓延等、これまたことと次第によっては、人間の生存自体を脅(おびや)かす危険のあることがあきらかになってきた。
 たとえば日本の社会に即してみると、色川大吉編『水俣の啓示』(筑摩書房、一九九五年)がさまざまな角度から追及しているように、不知火(しらぬい)海によって育(はぐ)くまれた豊かな海の世界、芦北(あしきた)と水俣(みなまた)は、“チッソ”(日本窒素肥料)による有機水銀のたれ流しによって、無残な死の海と化し、恐るべき水俣病を発生させ、多くの患者を痛苦に陥(おとしい)れた。この世界最大の公害問題といわれた水俣病は、富国強兵をめざし、敗戦後も高度成長を追求してきた、日本の近代の持つ根本的な矛盾と歪(ゆが)みを明確に表面化させただけでなく、自然と人間の関わり方について、これまでのあり方を根底から考え直さなくてはならないことを、多くの人々に痛感させることになった。」
「河口堰(かこうぜき)の設けられた長良(ながら)川、その建設が問題となっている吉野川も、同様の危険に直面しており、川や湖をこのような形で人間の管理下に置き、開発に役立てようとする発想は、依然として根強いものがある。海辺の浜や潟(かた)、干潟(ひがた)を埋め立てて、農地や工業用地にしようとするのも、まったく同じ姿勢に基づいているが、農地のこのような大規模な開発は、江戸時代後期までは確実に遡(さかのぼ)り、こうした姿勢の根はけっして浅いものではない。
 しかし最近、諫早(いさはや)の干潟の干拓に当って、いわゆる“ギロチン”の堰によるしめ切りが大きな問題となったように、また吉野川の可動堰設置が住民投票によって阻止されようとしているように、自然を人間の支配、管理の下に置こうとするこれまでの対処の仕方に対して、きびしい批判、反省の気運も否応なしに高まってきた。そして、がむしゃらな開発による自然環境の破壊が、人類自身の生存を脅かすことになりかねないという自覚もしだいに深化しつつある。“壮年時代”らしい。思慮深く知恵のある生き方が、ここでも否応なしに、人類に求められており、それは歴史に対する従来の見方自体を大きく変えることになったのである。」
「現実のこのような展開の中で、近代以後の歴史学の根底を支えていた、人間は自らの努力で“進歩”していくという確信が、否応なしに揺(ゆら)いできた。人間による自然の法則の理解に基づくその開発、そこから得られた生産力の発展こそ、社会の“進歩”の原動力であり、それに伴っておこる矛盾をこうした生産力の担(にな)い手が克服し、“進歩”を実現していく過程に、人類の歴史の基本的な筋道を見出そうとする見方は、もはやそのままでは通り得なくなった。そうした自然の開発が、自然を破壊して人類社会の存立を危うくし、そこで得られた巨大な力、あるいは極微の世界が人類を死滅させる危険を持つにいたったのである。こにょうな事態そのものが、さきのような“進歩”史観の持つ根本的な問題を表面化させており、それを徹底的に再検討し、人類社会の歴史をあらためて見直し、“進歩”の名の下に切り捨てられてきたものに目を向けつつ、歴史を再構成することが、必須の課題になってきたといわなくてはならない。」
「これまでの歴史学は“進歩”の原動力としての農業・工業の発展にもっぱら目を注ぎ、他をほとんど顧みようとしなかった。(中略)こうした見方の偏りは、いまや現実の進展そのものによってあきらかにされたのであり、“進歩史観”によって無視され、切り落されてきた世界にまで広く目を配り、人類社会の歴史像の歪(ゆが)みを、その「壮年時代」にふさわしく正さなくてはなるまい。」
「日本列島の社会において山野河海の世界、そこで主として生きる人々を、本気で調査・研究しようともせず、一言の下で「少数派」「基本的な生産に関わりない」として切って捨てたうえで構成された社会のとらえ方が、まったく事実に基づいたものにならないことだけは、強調しておきたい。」

「長崎に原爆が投下された日から五十四年の年月を経た一九九九年八月九日、日本国の国会は、日の丸を国旗、君が代を国歌とする、政府の提出した国旗・国歌法案を、自民党・自由党・公明党と民主党の一部の賛成によって、圧倒的多数で可決、成立させた。
 この法案の提案者、賛成者にとって、これは一九四五年八月十五日の敗戦以後の、長年の「懸案」の解決であり、「国」を愛する心を日本人が持つことに寄与したいという意図で、法案成立が強行されたのであろう。
 私自身は、戦争中、友人を殴打(おうだ)、足蹴(あしげ)にしてはばからぬ軍人や軍国主義的教官の横暴を体験しており、その背後にたえず存在した日の丸・君が代を国旗・国歌として認めることは断じてできない。
 それは個人の感情といわれるかもしれないが、この法律は、二月十一日という戦前の紀元節、神武天皇の即位の日というまったく架空の日を「建国記念の日」と定める国家の、国旗・国歌を法制化したのであり、いかに解釈を変えようと、これが戦前の日の丸・君が代と基本的に異なるものでないことは明白な事実である。このように虚偽に立脚した国家を象徴し、讃えることを法の名の下で定めたのが、この国旗・国歌法であり、虚構の国を「愛する」ことなど私には不可能である。それゆえ、私はこの法に従うことを固く拒否する。」
「事実を見つめようとせず、虚構をそのまま押し通した政府・与党の責任はきわめて重大であり、いつか事実が白日(はくじつ)の下(もと)にさらされたとき、きびしい歴史の審判が彼等に下ることは間違いない。その日が一日も早く来るように、われわれはこれまでの「盲点」を埋めることに全力をあげ、正確な自己認識をわがものとするために、従来の思いこみを捨て、「『日本』とは何か」を徹底的に問い直さなくてはならない。」



「「第五章 「日本論」の展望」より:

「最近、たまたま「国賊作家」を自称する「国際的博奕打」、森巣博氏の『無境界家族』(集英社、二〇〇〇年)を一気に読み、そこできわめて明快に主張されている同氏の「日本人論」批判に、同感するところ多大であった。
 森巣氏は「日本国籍所有者という意味以外では、日本人なんてものは、ない」と主張する(中略)。前にものべた通り、私もまったくその通りだと思う。」
「「そしてもし、日本国籍所有者が日本人であるとするなら『日本人論』『日本文化論』『日本文明論』は成立し得ない」と、つづけて森巣氏は断ずる。ここで同氏のいう「日本人論」は、別の箇所で森巣氏がきびしい批判を加えた「日本人としての真性の自己同一性」を模索した江藤淳氏の「日本人論」(中略)をはじめ、「日本人のアイデンティティー」を求めてやまない「日本文化論」をさしているが、そうした論者に対し、森巣氏は烈しく詰問する。あなたの議論の対象としている「日本人」の中に、「アイヌやウイルタやニブヒ」などの「少数民(族)」が含まれているか。「沖縄や小笠原の人々を包摂して」いるのか。さらに「『元在日』であった二十万人を超す『帰化人』たる『元』朝鮮・韓国人たちはどうなるのだ」(中略)。この森巣氏の糺弾(きゅうだん)に、私は心からの拍手をおくる。」
「本書でもくわしくのべた通り、アジア大陸の北と南を結ぶ懸け橋であるこの列島で営まれた人類社会の深く長い歴史を背景に、日本列島にはたやすく同一視することのできない個性的な社会集団、地域社会が形成されてきた。それを頭から追究可能なアイデンティティーを持つ「日本人」としてとらえ、その文化、歴史を追究し、その特質を論じようとする試みは、「日本国」――国家に引きずられた架空の議論であり、本質的に成り立ちえない。実際、こうした「日本人論」「日本文化論」は否応なしに、多様な社会集団や地域社会を無視し、その多くを切り落した歪(ゆが)んだものになるか、前にくわしくのべたように、「孤立した島国」「瑞穂国」「単一民族」などの根拠のない「虚像」をつくり出すか、あるいはついに事実を追究することを放棄し「神話」「物語」によってアイデンティティーを捏造(ねつぞう)するか、いずれにせよ事実に即した「日本論」としては成り立たない議論とならざるをえないのである。
 またこれも前にしばしば強調した通り、「日本」がヤマトを中心に成立した国家の国号、「天皇」を王の称号と定めた王朝名であり、七世紀末にはじめて日本列島に姿を現わした存在である以上、「日本人」「日本文化」を論ずることは、どうしてもヤマトに収斂(しゅうれん)し、ヤマトを文化・歴史の最先進地域とする見方に導かれていくことになる。
 さらに「日本」が国名であることを意識せず、頭から地名として扱い、弥生人、縄文人はもとより旧石器時代人にまで「日本」を遡らせて「日本人」「日本文化」を論ずることも、ふつうに行われているが、これは「日本」が始めもあれば終りもあり、またその範囲も固定していない歴史的存在であることを意識の外に置くことによって、現代日本人の自己認識を著しくゆがめ、曖昧模糊(あいまいもこ)たるものにしているといわなくてはならない。」
「そして、近代歴史学の「鬼子」ともいうべき平泉澄氏の「皇国史観」に対する根底的な批判をめざして敗戦後に出発した「戦後歴史学」は、西尾幹二氏の『国民の歴史』(扶桑社、一九九九年)という新たな「鬼子」の出現を許した自らの根源的な自己批判に、いまようやく立ち向いつつある。」
「こうした「日本」に対する曖昧模糊たる認識は、「天皇」そのものについての認識を否応なしに不徹底なものにすることになっていった。その結果、「建国記念の日」、「元号法案」そして「国旗・国歌法制化」などが、「敗戦」を認めず、「国体」の「護持された」「終戦」としか言おうとしない人々によって、つぎつぎに実現され、ついに「日本は天皇を中心とする神の国」と公言する首相までが出現することになったのである。さきにものべたようにこうした事態の生れる余地をなお広く残した点について、もとより私自身もその中にいた「戦後歴史学」の責任は、きわめて重大といわざるをえない。」
「近年ようやく、「一国史観」を克服しようとする動きも本格的になってきた。
 本書でも多少ふれたように、日本列島の社会をアジア大陸をはじめとする世界の諸地域との関わりの中で考えようとする研究動向は、すでに完全に軌道にのったといってよいが、そうした列島外の諸地域との交流の中で、たやすく同一視し難い、深く長い歴史を持った個性的な地域が列島自体の中に形成されてきたことも明確に意識され、その学問的追究も開始されつつある。近年、各地で活発に推進されている地域史研究は、かつてのように「中央先進地域」の動向を「地方後進地域」に即してなぞるのではなく、それぞれの地域のかけがえのない個性をあきらかにすることを目ざしており、(中略)これまでの「一国史観」、「均質な日本」を頭から前提とした「日本人論」「日本文化論」を根底から覆(くつがえ)す試みが、着々と進められつつあるが、それはまた、川北氏(引用者注:川北稔)が「戦後歴史学」の特徴・欠陥の一つとしてあげた「進歩史観(発展段階論)」をも、根本から掘り崩すことになっていったのである。」
「「歴史は人間の努力によって進歩する」、あるいは「生産力の発展こそ社会の進歩の原動力」とする見方は、川北氏の指摘する「ヨーロッパ中心史観・生産重視・農村主義」と不可分の関わりを持ちつつ(中略)「戦後歴史学」の最も重要な支柱であったことは間違いない。それがいま、まさしく音を立てて崩れつつあるのである。」




◆感想◆


「第00巻」というのは、タロットでいえば「0」すなわち「愚者」でありましょう。「愚者」のカードの意味するところは「常識の否定」であり「意識の変革」であり「無縁・公界・楽」であります。
それはそれとして、本書に書かれていることのほとんどは同感するところ多大でありますが、ただひとつ、「人間はその初発から社会を意識して生活する動物だったと、私は考える。」(本書 p. 340)とあるのは、生まれつき社会性がないタイプであるわたしのような者からすれば、とんでもない偏見であり、自閉症者に対する差別的発言であり、たいへん遺憾です。百姓イコール農民ではないように、人間イコール社会的動物ではないです。これすなわち、「差別」意識がいかに本人も気づかないほど無自覚的で根深く根絶しがたいものであるかの例証でありまして(※)、「人間は社会的動物である」などというような体制(多数派)が作り出した「神話」は一日も早く崩壊するとよいです。というか、「ヒト」を指す「人間」というコトバが同時に「世の中」を指すコトバであるという点に偏見の根があるので、「人間」という呼称も「日本国」という国号同様、根本的に見直されてしかるべきなのではなかろうか。

※著者は歴史学者であり、歴史学は人間社会の歴史を対象とするものなので、いきおい人間社会的・人間中心主義的にならざるを得ないです。それ故、歴史学は人間でないもの――自然とか、カミとか――に従属する者たちを排除してきたわけで、そこにこそ人間社会における差別のあり方の反映をみるべきではなかろうか。つまり人間社会よりも動物やカミの世界に深くかかわろうとする者たちを人間社会は差別してきたわけで、今でもノラネコにえさをやれば村八分にされるし、宗教団体に入ると白い目でみられるのもそこに淵源があるのではなかろうか。ところでそういう部分を学問の対象としてとりあげたのが民俗学であって、民俗学の創始者たち――柳田国男・折口信夫・南方熊楠――がそろいもそろって自閉症的(AS的)傾向がみられる人々であったことは示唆的です。そして厭世的な新体詩人として出発し、初期には山人や妖怪を研究対象としていた柳田国男が、義務感ゆえに人間社会に過剰適応した結果が一国民俗学であり稲作中心民俗学であったのはそれこそ歴史の皮肉というべきでありましょう。

































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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