鈴木清順 『孤愁』

「前に触れたように、世間は働らくことを建前としている。そして人は時間を労働と賃金に換えて生きている。このような時間の利用法は、孤独、孤愁には駄目である。今迄の時間の実用的概念をすっかり替えて了わぬ限り、孤独や孤愁が時間に対する事は出来ないが、果して無償の時間を新らしく概念化することが可能なのか。可能、不可能は別にして、そこに迫らなければ孤独や孤愁の本質は理解出来ないだろう。」
(鈴木清順 「孤愁」 より)


鈴木清順 
『孤愁』


北冬書房
1980年12月25日 発行
233p 初出一覧1p
21.6×13.6cm 
丸背紙装上製本 貼函
定価2,200円
イラスト: 林静一
デザイン: 伊藤重夫



駿河屋から届いた古本をひととおりよみ終わって再読にとりかかっていたところ、鈴木清順監督追悼の意を込めてヤフオクで落札しておいた本書が届いたので、さっそくよんでみました。


鈴木清順 孤愁 02


鈴木清順 孤愁 01


帯文:

「富士には月見草がよく似合う。芸術には映画がよく似合う。
可憐な似合い方である。月見草はむしり取る事も出来るが、富士をむしり取る事は出来ない。私の映画はすんなり咲いた例がない。何時も踏みしだかれた月見草である。それが富士と似合うとは誰も云わないだろう。何処に咲いても月見草は月見草で糞だめの傍に咲く月見草だってある。(本文より)」



鈴木清順 孤愁 03


目次 (初出):


ごあいさつ (「ツィゴイネルワイゼン・パンフレット」 1980年4月)
桜の樹の下の砂漠 (「日本読書新聞」 1980年5月12日号)
ゆったりした気分 (「YANASE LIFE」 1980年6月号)
失なわれゆく映画づくりの相手たち (「オール生活」 1980年11月号)
銀色のドーム (「調査情報」 1980年10月号)
“何とも”云えぬ――麿赤児断層 (「幽契 NO 5」 1980年7月号)
雑記 または好みじゃない (「映画芸術」 1980年10月号)


「ガルシアの首」随感 (「映画芸術」 1975年4月号)
のり物づくし (「映画芸術」 1976年6月号)
小百合・良子・由美子ともう一人の女優 (「ユリイカ」 1976年6月号)
イタリアの大正生れ (「映画芸術」 1976年10月号)
なまえ (「映画芸術」 1977年2月号)
角力と映画 (「映画芸術」 1977年4月号)
悲愁以後 (「映画芸術」 1977年10月号)
戦争映画と女の顔 (「映画芸術」 1976年2月号)
暗い青春の記念碑 (「世界の名監督 100人」 1977年11月)
孤愁 (「映画芸術」 1978年6月号)
馴れ、ということ (「映画芸術」 1978年10月号)
ベトナム傭兵 (「映画芸術」 1979年4月号)
会話 (「映画芸術」 1979年10月号)
料理 (「映画芸術」 1917年12月号)
日本映画監督協会俳優部 (「小説春秋」 1980年10月号)


大西英一さん (「人物評論」 1973年7・8月号)
人形師・五十住のやっちゃん (「人物評論」 1973年9月号)
勘四郎極道 (「人物評論」 1973年10月号)
石上三登志君 (「人物評論」 1973年11月号)
畏友美術監督・木村威夫さん (「人物評論」 1973年12月号)


ワイセツと映画 (「愛のコリーダ」裁判弁護人陳述 1978年3月6日)
映画と映画監督と大島さん (「愛のコリーダ」裁判弁護人陳述 1979年7月26日)

あとがき
初出掲載誌紙一覧



鈴木清順 孤愁 04



◆本書より◆


「桜の樹の下の砂漠」より:

「桜を最初に使ったのは「野獣の青春」で、これは時期も四月でしたが桜の下で格闘シーンをやったことはあるんですよね。(中略)見ている人が桜にこだわるのは「けんかえれじい」の桜がちらちらっと散ってきたという所だと思うんですけど、結局あくまでも舞台面であって、歌舞伎の「義経千本桜」の最後の台詞は義経の敵(かたき)が次にもう一回会おうという、それは、火花散る桜時、折しも吉野の花櫓、花々しき戦さをしよう、ということでこれも舞台面からくる台詞だし(中略)、桜のイメージはこちら側からすれば戦いの時と場処というのが最初のものだった。
 だからただきれいに咲いている、あるいは散り際はいいというものではなくて、桜の時に火花を散らすというイメージがあったわけですね。(中略)桜に対する最初のイメージは戦争、戦いというものであったけれど、(中略)映画監督だから一つ一つで意味を探るというより非常に感覚的な舞台設定として桜がある訳です。」
「僕の映画で桜が出てくることが当り前のようになっちゃったけれど、桜に思いを寄せるというよりも桜という装置の下で火花を散らす争いをさせたいというのが意図的なものです。」
「秀吉の醍醐の花見は最高ですよね。あれは桜を贅沢に利用した唯一無二の狂風ですね。又その贅沢の裏に「わび」とか「さび」とかが出て日本の文化が確立される訳で、それも秀吉対利休たちの死闘の結果だと思うんですね。現在は文化に対する死闘もないし、果してそういう処では新らしい文化が生れて来るようには思えませんね。
 日本人の美意識はあの醍醐の花見で定着したと僕は思っているわけで、それからあとは延々とそれを受け継いでいるに過ぎなくて、それを破壊したりそれに反逆したりという美意識は今はない。それを伝統という言葉で受け継いでいるのが日本人だと思う。だから時代が大正まできても、そういう美意識がくずれるということはまずなかった。無常・虚無・退廃というか、そういうものが何百年の間日本人の気持ちのなかで繰り返されて、それが明治、大正、昭和と比べた時、大正時代に一番色濃く出ているのではないかと思うんですよね。
 虚無観が一番具体的に出てくるのは『大菩薩峠』ですよね。「歌う者は勝手に歌い、死ぬ者は勝手に死ぬ」、いいですよね。これが確か大正の始めで、さっきの定家の歌も虚無的だったがこれは尚直接的な虚無ですよね。虚無の極限というのは、どういうもんですか、これは分らないですよね。しかし何となく自分の身を滅ぼしちゃってそこに虚無の確証を得たいというのが平安、室町、戦国、織豊とそして大正時代にあったのじゃないかという気がしているんですよね。ニヒルとよく付け合いに出されるのがアナキズムでこれは大正の専売特許のようなものですよね。僕の好きな言葉の一つに大杉栄の、「私は精神が好きだ、而し精神に理論付けをした時にはそれが厭になる」と云う言葉がありますが、言ってみれば精神しかないわけですよね。それを体系化したり理論化したりするとどうしてもまやかしになる。例えばアナキストがテロに走るのもひたすら精神の爆発であって、理論や体系の爆発では決してない、こういう処がこっちの気分に合っているんですかね、成程と思えるわけですね。映画というのはまさしくそうなんで、感情や感覚の爆発であってそれの理論付けは一切必要ない。いわば映画を作る精神があればそれでいい、(中略)僕の映画は説明不足で、親切ではないと思うけど、精神は見ている人に買って貰えると思っているんです。
 ある時期にアナキスト達に興味を持ったのは先刻の大杉栄の言葉とか、まわりに集まった(中略)人達の性格は違うけれど議論は大杉に任せて、俺達は行動だけだという心根。彼らのテロはみんな失敗に終るけれど、切歯つまったなかになにか粋でユーモアでゆったりした行動が好きなんです。」
「実朝という人がいるでしょ。あの人は非常な実務家で、政治的な手腕をもった人だったろうと思うけど、一日の大半は夢うつつに暮らしていたと云い伝えられている。あの混乱期に一人の傑出した政治家でもあるし、歌人でもある人が、時代の風潮であった加持祈祷に身を委せたにしても、夢かうつつか分らない、現実と非現実の境い目に何時もいたと云う事は非常に興味がありますね。鎌倉時代の一人のインテリーの一生が矢張り現代にもあるんじゃないかというのが今度の「ツィゴイネルワイゼン」の興味で、これは理屈のつけようがありません。」



「失なわれゆく映画づくりの相手たち」より:

「さて今度の映画には、芯(しん)になる邸宅二軒とそれをつなぐ道が必要である。鎌倉歩きはこの邸宅探しから始まった。何処へ行ってもトンネルがある。家と家、まちとまちをつなぐのがトンネルだったり、抜けられると思って入ったトンネルの先が家の玄関だったりする。」
「何日も何日も車に乗ったり歩いたり、江の電に乗ったりしてうんざりし、しるこ屋に入ってしるこを喰べていると、ここのおばさんが七里ヶ浜に赤い洋館があるという。
 行って見ると成程の洋館で、有島生馬さんの邸で、海に向って広いサンルームがあり、小間切れのように部屋がいくつもあり、部屋と部屋はドアーつなぎで、離れて一つ画室に使ったのか広い部屋があり、これが全部二階で、階下は玄関わきに書生部屋風なのが一つあるきりで、あとは柱がむき出しの二階を支えているに過ぎない使いようのないつくりでありながら、ドアーが矢鱈(やたら)とある妙ちくりんなのが興味を引いてここを借りたが、あとでこの妙ちくりんはうまく撮りきれなかった。」
「トンネル、切り通し、谷津と鎌倉にはまだ独特の風景がある。それに見合う家も欲しい。これらの風景が映画の重要なパートナーとなる。これなくして映画は出来ないし、これが見つかれば映画はもう八分通り出来たも同じである。」



「“何とも”云えぬ」より:

「今度の映画は全体がくらいなかで、乞食芸人のみが明るい滑稽をふりまくのがねらいで、麿さんの乞食芸人は観客を笑わせた丈でも起用の効果はあり、とり分若い乞食芸人に殴られ笑う、その笑いは“何とも”云えぬ笑いで、麿さんの本質がはっきり出て成功だった。」


「孤愁」より:

「落葉をかき集めて燃やす。家のまわりに桜がないのに、花びらが遠くから飛んで来ている。やわらかい花びらはすぐ火に消えるが、小さな熱気流に乗ってふわっとたき火の外に飛びのくのもある。今日はたき火が燃えつきる迄私はたき火を見つめている心算だ。」
「あちこちの隙間から細い煙が立ち始める。十分もするとあらかたの煙は消えて、一つの隙間からやっとこさの煙が出ている。私は葉っぱの下に棒を突っ込み、葉っぱ全体を持ち上げ風通しをよくしてやる。燃え上るまでやや辛棒を必要とする。それ迄何も考えない。葉っぱが燃えること丈を考えている。やがて桜の花びらがまるまって燃え、ふわっと浮くのもでる。」



鈴木清順 孤愁 05






































































































スポンサーサイト

鈴木清順 『夢と祈祷師』 (新装版)

「私は明治維新が大嫌いだ。明治も嫌いだ。明治、大正、昭和と並べると、大正が一番いい。それは私が生れた時代だからだ。何より天皇が英邁だったからだ。この天皇は権力の座にいながら何もやろうとしなかった。大臣大将が何かやろうと企んでも知らんぷりをして、紙眼鏡から紅灯の巷をのぞく馬鹿げたふりをして、彼らにも何にもやらせなかった。やりもせず、やらせもしない、こいつは偉大なことだ。」
(鈴木清順 「大正エレジー」 より)


鈴木清順 
『夢と祈祷師』 (新装版)


北冬書房 
1991年7月28日発行
205p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,800円
グラフィック: 斎藤種魚



第四エッセイ集。初版刊行は1975年、初版時の装幀は林静一。本書はその新装版です。


鈴木清順 夢と祈祷師 01


帯文:

「ツィゴイネルワイゼン、
陽炎座、
――そして夢二。
鬼才・鈴木清順監督の
生気のエッセイ集!!」



帯背:

「美」


カバー文:

「その時私は人が殺せる、と感じた。花をむしりとるようないぎたなさではなく、
嫋やかに人が殺せる、と思った。父が死んだ時に――」



目次 (本書には初出の記載がありません。★印はちくま文庫版『鈴木清順 エッセイ・コレクション』に収録されています。):


あだ花 ★
たった一人の戦争 ★
流れ者 ★
花を摘むのは女であり虫を殺すのは男である ★
物語・村木源次郎


幼稚な夢のなかから
わがナチ体験 ★
フィルムは滅びてこそ ★
「けんかえれじい」を語る(多摩美術大学・大学祭講演――1974年11月3日)
滅亡的脱コマーシャル論 ★
役者 ★


生れたとしが大震災 ★
大正エレジー ★
三流斎どん山
敗戦の日 ★
九月は革命の月
上高地で拾った男
無用の用

あとがき (1991年6月)



鈴木清順 夢と祈祷師 02



◆本書より◆


「フィルムは滅びてこそ」より:

「フィルムは滅びの美しさや汚らしさがあるからいいと思っている。永久に残るなんて考えないところに映画の良さがある。生産され、上映され、すり切れ、死滅する。それは一人の人間の生きざま、死にざまに似ている。」


「『けんかえれじい』を語る」より:

「あんたちっとも僕の云うことが分っていないなあ。映画の主人公はそんなむずかしい考えを持って動いている訳ではないよ。人間がある事件を契機として変化するというのはよく聞くことだけれども、人間がある時、ある事件を契機として変ったとき、どういう様相になるかと云えば、変りようがないんだね。
 それは日本の小説を読めばわかるけれども、日本の小説では、主人公の設定があって、この人物が事件の間ズーっと生きて、小説が終った時も、同じですよね。まあ、それを変らせようとして苦労している作家もいますよね。例えば石川淳さんとか泉鏡花だとかですね。じゃあその作家たちはどのように変らせているかというと、人間を幽霊にするしかしょうがない。その人間は幽霊になるしか変りようがないということですよね。映画にも、もしそういうことが許されるとすれば、当然吾々も同じ思考をしていくだろうと思う。
一人の人間がある事件、例えば『けんかえれじい』をとれば、キロクがニ・ニ六事件でどういうふうに変ったかといえば、人間的には少しも変らないと思うよ。もし変りうるとすれば幽霊になるほかはない。幽霊になって、次の時代をどうひっくり返すか、立て直すかで、それ以外には考えられないね。それでなければ変ったとはいえないよね。
 人間なんてどんな事件があったって普通の人間は変らないんだよ。それを小説家というのは変らせようとするところに苦労があるんで、苦労の末は、やっぱり幽霊しかない。それ以外の解答は絶無だと思う。」
「実際、キロクというのは変りようがないんだよ。主人公の暴力を見ていて、彼が次に暴力をどういうふうに使っていくかだけれども、本当は主人公が事件によって次の行動を起こせばいいんだろうけど、やっぱり変らないよね。
 ニ・ニ六事件をとってみて、北一輝が若し生きていたら、あるいは村中たち青年将校が生きていたら何をするかといえば、巷間云われている通りちょっと期待はできない。あれはあれで終りだよ。
 一番早い話が、特攻隊というのがありましたよね。ところがね、あれは失敗する人がいくらでもいたわけですよ。飛行機がオンボロだから途中で不地着しちゃう。すると、不地着した人間はもう二度と使えない、お前もう一回行けといっても絶対に使えないんだよね。人間というのは、ある事件、生死をかけた事件があったらもうそれで終りということね。
 繰り返すけれども、もし変り得た人がいたとしたら、その人はきっと幽霊だな。人間がある事件によって立ち直ったり、突破したりして次にどういうことを起すかという可能性なんてまったく信じられない。だからキロクなんてあれでおしまいだよ。あんなのをいいなと思っていたら大間違いで、終り人間だとぼくは思ってる。
 だから、ぼくは映画で人間性を描くなんていうのは馬鹿気たことだと思う。人間なんてもう先が見えているわけですからね。映画の人間なんてただの人物設定だけであってね。映画なんていうのは全体的におもしろければいいという結論ですね。大体、序々に人間をいくら追いつめていったところでタカが知れていますよね。」



「滅亡的コマーシャル論」より:

「文化が消費から生れるとすれば、コマーシャルも文化としての理屈はあるが、金の浪費ばかりで精神の浪費がない。ひらたく言えば、常識がまかり通る文化なのだ。常識をさらに説明すれば、近代資本主義が生きぬくための常識なのだ。ここまでいえばコマーシャルの過不足のない精神の状態が分ろうというもので、コマーシャルはNHKと同じ程度の常識を広く大衆に植えつけているということになる。チンドン屋には頽廃がある。それすらないコマーシャルは、せっかく用のない若者、頽廃に落ち込む可能性を持った若者を集めながら、若者を頽廃から救う常識を与えている。これが文化といえるだろうか。頽廃こそ現在の日本を救う唯一つの精神なのに……。」


「大正エレジー」より:

「私は明治維新が大嫌いだ。明治も嫌いだ。明治、大正、昭和と並べると、大正が一番いい。それは私が生れた時代だからだ。何より天皇が英邁だったからだ。この天皇は権力の座にいながら何もやろうとしなかった。大臣大将が何かやろうと企んでも知らんぷりをして、紙眼鏡から紅灯の巷をのぞく馬鹿げたふりをして、彼らにも何にもやらせなかった。やりもせず、やらせもしない、こいつは偉大なことだ。単に内に対してでなく外に対してもそうだった。この天皇の時代は外国の脅威がなかった。仮令(たとえ)脅威があったとしても、この天皇は知らんぷりをして、紙鉄砲に紙吹雪の弾丸をこめてズドンと一発、適当に敵をあやしてやり過してしまっただろう。この胸のすくような手ぎわと気っぷが理窟なく私どもと相通ずる。京都生れ、京都育ちの親からよくこんな江戸っ子の気質を持った子が生れたものだと感心する。英邁を錯覚した親と、英邁を誤解した子の間にあって、この天皇はありゃ親でもなし、子でもない、と言ったかどうか。類い稀な美貌の笑いを笑っただけだろう。出しゃばらず、かと言ってまるっきり黙っている訳でもない。要所要所はちくりちくり道化た針を刺す。全く皮肉を心得た天皇だ。ここらあたり、京都から傍若無人に江戸にのし上り、江戸を蹂躙し、江戸っ子の顰蹙をかった親の罪ほろぼしの所為か、何もやらなかったのは他所者の分を弁え、仁義を知った所為か。」


「九月は革命の月」より:

「私たちはいろいろの英雄を知っている。英雄はみんな革命家である。権力の野心に燃えた革命家である。野心だけが彼と彼をとりまく者たちによって革命をなし遂げた。而しアナキストたちにはそう云った野心がない。権力への野心が革命の人間的要素とすれば彼らは初めから革命の落第生である。彼らがアナキストからテロリストに走った原因も、彼らが自らを革命の落第生と見做したことによるのかも知れない。自分はもう死んでいる。生きてるとはどうしても思えない。死んだ自分が動いて革命をやろうとしているのだ……高見順のアナキスト小説“いやな感じ”の主人公の気持は、現世への挫折の予感、或いは実感を見事にとらえたアナキストの心情である。日本は明治以来少しも変っていない。変ったのは永代橋で私が子供の頃に見たこと、荷車に太い材木を山と積んだ馬が、煙のような吐息を出しながら橋の勾配を越え切れず横倒れに倒れていたのが、今はトラックが悠々材木を積んで渡り、可哀想な馬は助かったが、人間は未だ助かっちゃいない。(中略)私には人間への心酔しかない。主義への心酔など毛頭ない。ただ大正時代の幾多の革命家たちのうちで只一つ心酔することが出来るのはアナキストの人間群像に外ならない。
 みんなイカス奴らだ。自分より数段強い者、えらい奴を殺す瞬間の陶酔に酔う奴らだ。そして貧しい者、弱い者に滂沱たる涙を流す奴らだ。
 赤色エレジーなんてくそくらえ。来年は黒色(アナキスト)エレジーだ。」


























































鈴木清順 『けんかえれじい』 (新装版)

「だから破壊が一番文明的にも文化的にも力がつよい。だからきらいなのは、『黒部の太陽』とか……建設っていうのはどうもきらいで……ありゃなんだって(笑)。全部の人がね、寝てりゃあいいっていうんですよ。何かやろうとするからね、あの、さいわい日本てのは生きちゃうんですよ、権力も生きるんですよ。われわれが権力に抵抗するのは、赤いカブトや白いカブトをかぶるのじゃなくてね、何もやらなきゃいいっていうのですよね、そうすりゃ、困るのは権力ですよね。」
(鈴木清順 「どうも建設はきらいでね」 より)


鈴木清順 
『けんかえれじい』 (新装版)

Sanichi Revival Series

三一書房
1970年9月30日 第1版第1刷発行
1991年12月15日 新装第1版第1刷発行
390p 口絵viii 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,800円
装幀: 及部克人



1970年に刊行された鈴木清順第一評論集の新装版です。
本文の半分以上を映画の原案・脚本(シナリオ)が占めて、残りの半分のさらに半分が対談で、評論・エッセイは冒頭86頁分だけです。そして最初の三編は戯文というか自動記述ふうの詩のような文章です。


鈴木清順 けんかえれじい 01


帯文:

「桜吹雪の
光と闇に咲く
清順えれじい

戦後映画の定型化された
様式を破壊し、強烈な色彩と
大胆な構図でくりひろげる
清順映画の
真髄示す
処女評論集

三一書房の
リバイバル
シリーズ」



帯裏:

「だからヒワイな言葉なら、
前戯でさあね。
あれはエロ映画に入ると
思いますけど、エロ映画で、
やってるところは
誰でも撮るわけですよ、
ところが前と後っていうのは
なかなかやらない。
実際あれでもね、やった後のね、
いわゆるサクラ紙とか、
そういうのを
うつしたかったんですよ、実際は。
(本書「どうも建設はきらいでね」より)」



ちなみに「三一書房 リバイバル シリーズ」の内容は:

叛逆のバリケード 日大闘争の記録 日大文闘委書記局編
果てしなき進撃 東大全学共闘会議編
遊撃とその誇り 寺山修司
デザインの発見 粟津潔
ゲリラ戦争 ゲバラ
怪物のユートピア 種村季弘
けんかえれじい 鈴木清順
戯歌番外地 野次馬旅団編
ジャズより他に神はなし 平岡正明
スペインの戦場 ボルケナウ

です。


目次 (初出) 
★印はちくま文庫版『鈴木清順 エッセイ・コレクション』に収録されています:

Ⅰ あほだら万華鏡
 清順あほだら経 (「映画芸術」 1968年3月)
 南無阿弥陀仏―愛― (「映画芸術」 1967年6月)
 よのなかいろいろあらあね―愛― (「シナリオ」 1967年4月)
 洋パンと『野良犬』と自動小銃 (「映画芸術」 1965年8月)★
 赤い焔と赤い糸 (「オール読物」 1968年10月)
 秘色 (「現代詩手帖」 1969年8月)★
 人生の無駄 (「随筆サンケイ」 1968年8月)
 ゆき あめ かぜ (「シネマ '69」 1969年2月)★
 雪の中の地団駄と死後世界 (「映画芸術」 1969年5月)
 私が批評家を評するときは? (「映画芸術」 1965年4月)
 雷同者 (「映画芸術」 1964年8月)
 見てある記 喰べてある記 (「アサヒ芸能」 1970年3月)
 ある旅人の試行錯誤 (「FILM」 1968年10月)★
 めっかちのいっき (「現代の眼」 1969年1月)
Ⅱ 清順は語る (座談会+インタビュー)
 呪文に魅入られて (鈴木清順・木村威夫・石上三登志・佐藤重臣) (「映画評論」 1966年11月)
 どうも建設はきらいでね (インタビュアー=蓮実重彦・上野昂志・「シネマ69」編集部) (「シネマ '69」 1969年2月)
Ⅲ 人斬り数え唄 (原案) (未発表)
Ⅳ 鋳剣 (脚本)(原作・魯迅) (「映画芸術」 1970年7月)
Ⅴ けんかえれじい (脚本+コンテ)

初稿掲載誌覚え書
あとがき (1970年8月)
鈴木清順・映画年譜



鈴木清順 けんかえれじい 02



◆本書より◆


「呪文に魅入られて」より:

木村 鈴木さんのところへ持ってこられる数多くのシナリオのうち、鈴木さんが選ぶものは僕らにとって、実に特異なものばかりなんです。たとえば有名な作家の評判の高い作品、他の人なら文芸映画になるというんで飛びつく作品なんかが持ってこられても、それを“いやだ!”といって断ってしまう。それでその次に穴埋めのようなひどいシナリオが持ってこられると、鈴木さんは“これ、やろう”という。僕ははじめ、びっくりしてしまって、この人おかしいんじゃないかと思ったくらいですよ。普通の感覚とは違うんですよ。」

鈴木 どうして赤い色を使ったかという質問に対しては、たとえば思想の側から赤い色を使う人がいるとすると、その人は大変そのことを説明しやすいと思う。思想を話せばいいわけだから。僕なんかの場合、やむにやまれず赤を使った、というより他にいいようがない。それが一番適当だからということですね。感覚的に使うわけですから。」

佐藤 東洋哲学的にいうと、人間の生は結局、なんなんですか? 人間の生き方はどこに帰着するのかな?
鈴木 無です。おもしろいですね。人間は死ねば灰になってしまう、だから、なんにもなくなってしまうという考え方と、魂だけは口からポンと出て生まれたての赤ん坊の口へすっぽり入る、それで新しい生を再び授かるという考え方とがある。
あとの考え方でいう魂っていうのは、五段階あって、一番上が銀色、一番下が赤で、銀色の魂というのは前世に善良であったから何もしなくてよい。赤いのは魂になってから後も、なお働かなきゃならない(笑)。この二つの考え方のうち、どちらが日本人にはあっているんですかね。(中略)わからないですよね。それで赤い色を多く使う人間は苦労する人間だということになる。僕がもう少しそれを調べてたら、銀色を使いますね。きっと。
木村 鈴木さんと話しているといつもこういう話になってしまうんだ。四次元の世界を嬉々として話す(笑)。」



「どうも建設はきらいでね……」より:

 鈴木さんの場合は殺しが重要なポイントになるようですけど。
鈴木 殺しっていうより破壊ですよね、いわゆる人間のね。イメージというか記憶に残るのは建設じゃなくて破壊っていうことじゃないか、作るっていうことはね。なんてことないですよ。ぶっこわす力の方が、例えば、平泉に百堂伽藍がたっているときには旅人は通りすぎちゃう。破壊されたときにはじめてここに百堂伽藍があったということに気がつくんじゃないか。現在たっているということは、あるんじゃない、目にうつるものですよ。それが破壊されたときはじめてあったという意識が生まれる。だから破壊が一番文明的にも文化的にも力がつよい。だからきらいなのは、『黒部の太陽』とか……建設っていうのはどうもきらいで……ありゃなんだって(笑)。全部の人がね、寝てりゃあいいっていうんですよ。何かやろうとするからね、あの、さいわい日本てのは生きちゃうんですよ、権力も生きるんですよ。われわれが権力に抵抗するのは、赤いカブトや白いカブトをかぶるのじゃなくてね、何もやらなきゃいいっていうのですよね、そうすりゃ、困るのは権力ですよね。
 破壊っておっしゃったけれど、それはいわゆるゲバルトでこわすっていうより、何となくみんなが眠って虚無の状態に近づくような、そういうのを考えられるんですか。
鈴木 実際はやっていた方がいいと思うんですよ、破壊そのものを。ところが、状況はそうではないですね。それをやったところで目的を達するというわけじゃない、それじゃいっちょ戦術的に展開してみたらどうかっていうね。」

 鈴木さんの映画の殺しの場面は、なにかコミカルに見えるんですが。
鈴木 いわば映画ですから。戦争に行ってもそんな感じを受けたんですがね。滑稽なんですよ。いや実に申しわけないんですけどね、たとえば海でやられましてね、海軍の船に救けられるんですね。それが海軍が縄を放ってくれるわけですよ。それを自分の身体にゆわえつけて引きあげるんですけどね。やり方はとにかく、引きあげるわけですよ。それは、黙ってたらエライことなんです。こういうしゃくれた船ですからね。頭があっちにブツかり、こっちにブツかり。縄はゆれてるわけでしょ。あがってきたヤツはみんなコブだらけなんですよ(笑)。みちゃいられないわけですよ、お互いの顔が。そうすると今度は、救けられたうちで死んじゃう奴がいるわけですよ。そのときも十人ぐらい死にましてね。海軍さんが来まして、将校以上は集ってくれというんですよ、甲板に。甲板に行くと、ラッパ手がいましてね、ひとり。それに海軍の将校がひとりいて、あと救けられた陸軍の将校が何人か並ぶわけですよ。下に屍体が置いてあるんですよ。すると水兵がふたりきまして、頭と足を持つわけです。そしたらラッパがタータターと鳴るんです。タータター、どぶん、タータター、どぶん(笑)。本当に人間は死んでいるんですよ。ところがね、タータターと投げてどぶんという音が、いかにもあわないんだね(笑)。
 鈴木さんなんか並んでみていたわけですか。
鈴木 送るわけですよ、水葬の礼だから。そのころは毛布もありませんしね、もうじかのままなんです。タータター、どぶん、タータター、どぶん。何とも言いようがないんですね、それが。そういう戦争のね、そりゃ戦争は非常に悲惨には違いないんだけども、そういうことだとか、あるいは船の中にいて、空襲になると、暑いからだいたい褌一丁でいるわけですよ。そうするとスワッと逃げるとき、何を持ってくかというと、みんな弁当箱持って逃げてるわけですよ。ほかに何も持たないんでね(笑)。飯盒だけブラ下げて逃げるわけですよ。そしてこういうふうに船の中に隠れてみてるでしょ。そうすると、どういうわけかな、タマのくる方に逃げる奴がいるんだ、飯盒もって褌一丁で。お前行くなと言っても、いくんですよ。逃げる奴の方へ、こんなでっかい機関砲がパカパカといくわけですよ。……それがひとりだけならね、あれだけれども、まず十人ぐらいいますね。隠れてろ、というのに飛び出す奴が。(中略)非常にこわいんだけども、やってることは滑稽極まりないんですよ。
 それは全部が全部そうではなくて、鈴木さんの場合、そういうときに、おかしいと見る眼があったんじゃないか。
鈴木 だから、ぼくに戦争映画をつくらせれば、まったく頭からケツまで笑ってるんじゃないかという気がしちゃってね。それじゃ、何だか申しわけないしね。」

鈴木 ぼくは自己主張っていうのはね、あんまり、ぴんとこないんでね。本を見て、最初ここをやろうと思うのが自己主張といえば自己主張でしょうけど。それほど自分をあからさまにだすとか、そんなことは考えたことはないし、自分の流儀ですよね、主張というより。流儀でこうなるっていうんで、主張なんかじゃないですよね。」



































四方田犬彦 編 『鈴木清順 エッセイ・コレクション』 (ちくま文庫)

「頽廃と滅亡が私の精神」 
(鈴木清順)


『鈴木清順 
エッセイ・コレクション』 
四方田犬彦 編
 
ちくま文庫 す 20-1

筑摩書房 
2010年8月10日 第1刷発行
487p 出典2p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,500円+税
カバーデザイン: 東京図鑑
カバー写真: 荒木経惟


「本書は、ちくま文庫のためのオリジナル編集です。」



ふと気がついたらブックオフにいたので、本書を買って帰りました。わたしは子どものころテレビで鈴木清順をみて「なんだこのじじいかっこいいなー」と思ったのでした。


鈴木清順 エッセイコレクション


カバー裏文:

「耽美的な映像を追求した映画監督鈴木清順は、達観したエッセイの名手でもあった。大正時代の空気を吸い込み、戦時下の暴力によって鋳造されたその洞察は、生きることの悦びも哀しみも透徹した。桜の無常に感嘆し、理論には舌うちをする虚無的な精神が、虚と実のあわいを絶妙にすくいとっていく。ノスタルジアと諦念と意地が結合し、粋を体現した随筆の精髄。」


目次:

ゆき あめ かぜ

  Ⅰ
日記から
縄張り
犬の顔をした水鬼

  Ⅱ
路地は相変わらず静かだった……
生れたとしが大震災
東京語と地方語

あだ花
洋パンと『野良犬』と自動小銃

  Ⅲ
たった一人の戦争
廃墟
敗戦の日
わがナチ体験――ベルリンの英雄
『悲愁』以後
戦争映画と女の顔

  Ⅳ
アナキストは誰だ!
夏と暴力

流れ者
ある旅人の試行錯誤――思想と感覚
暴力探しにまちへ出る
  Ⅴ
わたしと就職
桜の樹の下の沙漠
暗い青春の記念碑
フィルムは滅びてこそ
わが落した魂よ!
大映・日活映画の黄昏
料理
滅亡的コマーシャル論

  Ⅵ
ゆったりした気分
小百合・良子・由美子ともう一人の女優
『陽炎座』の頃
教祖さまは出べそでなければならない
畏友美術監督――木村威夫さん
交攻の五人
  Ⅶ

花を摘むのは女であり虫を殺すのは男である
萩は恋を失ったまち
小袖
恋愛
役者
温泉芸者恋慕の記

  Ⅷ
大正エレジー
のり物づくし
騒氏断片、或いは林静一への片想い
竜宮で貰った「聴く耳」
本はみるものである
秘色――色と恐怖

略年譜
解題 (四方田犬彦)
出典




◆本書より◆


「犬の顔をした水鬼」より:

「私たちは自分の一生を私たちの意志によって生きてゆくのではなく、ある者に長い一生をかけていびり殺されてゆくという事を知るべきで、その為の小さな救いとして私は霊を信ずるのである。」


「洋パンと『野良犬』と自動小銃」より:

「彼はシベリアにいた。抑留所から長い道を作業場のある山に向って歩いていた。途中彼らはドイツの捕虜と一緒になる。ドイツ人も同じ山に向って歩く。しかし彼らは一歩歩いては立ち止まり、三歩歩いては大地に腰をおろして休む。その横を日本の捕虜は正確な歩調で追い抜く。日本人は確実にノルマを仕上げ、大抵がノルマ以上の仕事をした。食事はノルマによって支給される。ノルマを上げれば食事の量はそれに相当して僅かに上る。ドイツ人は働きものの日本人にいう。捕虜は規定で生命は保障されているから、ノルマを仕上げないからといって一定の食事を支給しないわけにはゆかぬ。なぜ日本人は敵のためにそんなに働くのだ。大和魂は僅かなパンのためにあるのか。戦時中ドイツは日本と同盟したことに誇りをもっていたが、今日本人の汲々如たる姿を見ると、それがいつわりの誇りであったことを知る。(中略)それにノルマを上げればノルマの規準が上り、今まで五のノルマで増食したものが六のノルマでなければ増食しない。つぎは七のノルマを仕上げなければ敵は増食を認めるはずはない、と軽蔑して言う。
 日本人はそういうドイツ人を笑った。が、果してノルマはドイツ人の言うように次々に上った。日本人がソ連に抗議すると、君たちはそれだけの能力があると一蹴され、あまつさえドイツ人と同じノルマでは逆に減食させられた。日本人は自分で自分を食ったのだ。翌年日独の捕虜は炭坑にまわされた。ドイツ人は相変らずサボを続けた。ソ連責任者は自己のノルマが達成しないのを知ると、ドイツ人の一人をつかまえてその男の腕を砕炭機の中に突っ込んだ。ドイツ人は絶叫し気絶し、その腕は無惨に砕かれた。しかしドイツの捕虜たちはその男が犠牲になったのを悲しみながらも頑としてサボを続けた。犠牲者が三人、五人と増え、その分でゆくと全部のドイツ人捕虜の腕がもぎとられるのではないかと思われた。しかもなお彼らは頑強に抵抗した。彼らは彼らの誇り高い自信に支えられて……それは彼らの肉体はドイツの再建のためにあるので、敵の生産に寄与するためのものではないという自負に支えられて……。」



「廃墟」より:

「廃兵とは悲しい言葉である。子供の頃、廃兵院という文字を何かの本でみつけた時吃驚した。その文字の恐ろしさが、その実体を掴み兼ねた故に一層の恐怖が、暗闇の、真っ暗闇の、もっともっと暗い底知れぬ闇のようにぐいぐい迫り、危うく声を立てそうになったのを覚えている。廃兵は廃人とも異なる。廃人にはロマンチックな匂いがするが、廃兵は現実的で埃だらけ糞だらけの臭いがする。殊に敗戦国から押しつけられた烙印は、前科の色濃く骨身にこたえ、まともに他人を見る眼を失わせる。健康人も戦争の残骸のような人間をまともに見ない。まともに彼と対座した健康人はいない。彼が何時其処から消え、或いは消されたか知らないが、彼が坐っていた場所には、今彼の念仏も紙魚も残っていないが、かつては国家から廃兵の処分宣告を受けた彼が確実に其処に坐っていたのだ。私は戦争の悲惨や残虐さを云うつもりはない。それは戦争につきものなのだから……しかしその籤を引きあてた人間、私自身がその場処に坐っても決しておかしくはないのだ。私自身が人間の廃墟となっても決して不思議ではないのだ。」


「ある旅人の試行錯誤」より:

「旅は非生産的で破壊的でさえあるのが真髄である。言えば痩我慢もかなぐり棄てた武士の高楊子式の堕落、これだ。何もしないこと、これだ。」


「暴力探しにまちへ出る」より:

「暴力は間が抜けていなければいけないよ。恐怖を与えると同時に何とも云えぬおかしみが欲しいね。おかしさや滑稽なとこで、暴力は人間とつながっているんだよ。破壊と殺戮の最大の暴力は何だい、原爆や弾道ミサイルだろ。しかしそいつらには暴力の精神って奴がない。つまり滑稽さや間抜けさが欠けているんだ。完璧すぎて暴力を通り越したただの道具になっている。刀やピストルも人間の智恵が生み出した道具に違いないが、少くとも暴力者が自分の手でそれを使う。暴力者が死ぬまでその道具には人間のあったか味が残っている筈だ。」
「先刻話に出たテロリストたちね、彼等は爆弾作りやピストルの入手に生命がけで走りまわるのだが、肝心のときまるで初歩的なことで失敗している。福田大将狙撃の第一弾が空砲だなど笑うに笑えない話で、間抜けが鼻の先にぶらさがり、尻の穴がむづがゆいが、緊張のあとにぽっかり開いた穴とでも云うか、暴力が青空みたいにすかっとして見える。(中略)成功していたらああもからっとはゆかなかっただろう。暴力があかんべえをしている。くるっと尻をまくって見せた暴力に暴力の本質である風、雨、血、火、破壊、殺戮の予感が荒寥とみなぎる。悲しいじゃないか、あわれじゃないか、むなしいじゃないか。だから成功した革命に暴力を感じない。(中略)負けた側の暴力が鮮烈に残るのは、勝った側の暴力がたちどころに一皮ひんめくって正義面、平和面をするからだろうか、徹頭徹尾暴力面をしないのは面白くない。手に汗する面白さが欠けては暴力は影をひそめるより外あるまい。こうして成功した暴力は遂に俺たちから忘れられ、始めから暴力なんかなかったような錯覚を与える。これも成功者の用意周到な計画か……陰険だなあ、からっと抜き出た青空のような暴力がみたいなあ……」



「フィルムは滅びてこそ」より:

「フィルムは滅びの美しさや汚らしさがあるからいいと思っている。永久に残るなんて考えないところに映画の良さがある。生産され、上映され、すり切れ、死滅する。それは一人の人間の生きざま、死にざまに似ている。」


「滅亡的コマーシャル論」より:

「文化が消費から生れるとすれば、コマーシャルも文化としての理屈はあるが、金の浪費ばかりで精神の浪費がない。ひらたく言えば、常識がまかり通る文化なのだ。常識をさらに説明すれば、近代資本主義が生きぬくための常識なのだ。ここまでいえばコマーシャルの過不足のない精神の状態が分ろうというもので、コマーシャルはNHKと同じ程度の常識を広く大衆に植えつけているということになる。チンドン屋には頽廃がある。それすらないコマーシャルは、せっかく用のない若者、頽廃に落ち込む可能性を持った若者を集めながら、若者を頽廃から救う常識を与えている。これが文化といえるだろうか。頽廃こそ現在の日本を救う唯一つの精神なのに……。」


「竜宮で貰った「聴く耳」」より:

「嘘の美学が成立するかしないか私は知らない。しかし美というものは多かれ少なかれ反逆的なものであるから、人間集団の掟としての道徳の反措定としての嘘は、当然真実よりも一層の美を含んでいるとみなければならないだろう。」



































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本