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澤田瑞穂 『芭蕉扇 ― 中国歳時風物記』

「時間を空費することは、われわれが考えるような悪徳ではなく、実はそこに最も充溢した濃厚な自己の時間がある。解放されて充実した自己の時間、それを称して「清閑」というのである。」
(澤田瑞穂 「茶座永日」 より)


澤田瑞穂 
『芭蕉扇
― 中国歳時
風物記』
 


平河出版社 
1984年5月23日 初版発行
4p+377p 
四六判 丸背クロス装上製本 カバー
定価2,300円
装幀: 伊藤政芳/宮内淑子
俳画: 藪本積穂



本書「後記」より:

「四季おりおりの草木虫魚あるいは飲食遊楽に関することなど、すべて中国の歳時節物について記した長短の随筆小品、あわせて七十篇を収めて一書とする。時に事物の考証にわたるものもあるが、大半は往年の北京生活の追想および近年の再訪旅行の見聞より得た札記である。」
「孫行者が揮(ふる)う芭蕉扇ならぬ一柄の破扇、はたしてよく清風を起し得るや否や。所詮はいわゆる敝帚自珍の破れ団扇(うちわ)、あえて世の博雅諸君子の座辺に呈する。」



本文中図版(モノクロ)29点。



沢田瑞穂 芭蕉扇



帯文:

「中国歳時風物記
かつて北京に過ごした著者が、
折りにふれて目にした中国の歳時・風物。
それらを多くの詩文に渉猟博捜し、
風趣のある文をもって考証しつつ眼前に彷彿とさせ、
読む者に一陣の清風を送る。」



目次:

柳絮の章
 什刹海春景
 柳のわかれ
 柳を挿して
 桃苑処女
 碧桃花
 紫荊
 藤架小景
 太平瑞聖花
 菜花詩話
 諸葛菜
 春不老・雪裡紅
 咬春
 蓬餅その他
 菀豆黄
 桜桃異事
蛙鳴の章
 蜂の児
 蝗を食う話
 田雞のこと
 長命鎖
 蒲の葉は青かった
 花えんじゅ
 石榴と金魚
 杏仁豆腐
 芭蕉扇
 白雲観翻経
 茶座永日
 蓮花社後記
 夏の市
 浄業湖畔
 荷葉燈
楓葉の章
 紅姑娘のことなど
 断腸花
 月下の花
 水浮蓮を追って
 哈密瓜
 南瓜餅
 苦瓜は甘い
 棗
 西山の柿
 山裏紅
 長生果とは
 炒栗小記
 菊の羹
 蟹の秋
 楓はカエデとは限らない
 烏臼画趣
 落葉 長安に満つ
 翠微の落葉
 啄木鳥の来る庭
 湖畔の記憶
 景山の松ふぐり
 江南剪影
冬爐の章
 駱駝の瘤
 粟餅
 おこげの話
 雪弥勒
 氷戯史談
 冬すがた
 冬炉
 バカを売ろうよ
 迎春むかし菓子
 年画今昔
 東嶽廟の風ぐるま
 走馬燈の季節
喜鵲の章
 春泥の路
 小巫記
 養魚池異変
 喜鵲の歌――釈迢空在北京
 いつを昔の
 北京往日抄――昭和十七年・晩夏早秋

後記
写真図版の出典及び提供




◆本書より◆


「桃苑処女」より:

   「春の苑(その) くれなゐにほふ桃の花 下照る道に 出で立つ処女(をとめ)

 各句を体言で止めた大伴家持のこの歌、なんとなく「洛陽城頭桃李の花」式の唐詩の措辞に似たところがあって、詠(よ)みぶりは一本調子だが、またそれだけに印象は力づよく鮮明である。」

「この歌から、わたしにも想い出すことがある。
 某年の晩春、留学生の期限がきれて一時帰国する友人の送別を兼ね、その友人と二人で万寿山頤(い)和園に遊んだ。
 山の西麓の水辺にある西太后の石舫のあたり、山頂の仏香閣の方へ登る山の斜面には、幾株もの桃の木が植えられて林をなしており、小径はその満開の花の下を縫うように屈曲して上方へ続いている。桃の木は水辺ちかくにもあって咲き満ちている。
 付近の家屋から、ひとりの娘さんが出てきた。爽やかな紺色の中国服を着た二十歳前後の娘さんで、面長の品(ひん)のよい顔だちは、一見して娘さんというよりも良家の小姐(シャオチェ)とよぶにふさわしい。ハンドバックの類は手にしていなかったから、よそから遊びにきた遊覧客の一人とも思われず、園内のどこかに住むお嬢さんが、春の日永の所在なさに戸外へ出てみたというふうであった。彼女は水の近くに腰を屈めると、石ころを拾って水に投げる。やがて立ち上ると、桃の木のあたりをそぞろ歩きする……。まさしく「人面桃花、相映じて紅なり」であった。
 あっけないが、話はただこれだけである。(中略)しばらく見とれていたものの、やむなく友人のあとを追って山の斜面の小径を登っていった。」
「もし当時の彼女が今も存命であるとすれば、すでに六十年輩の老婦人になっている勘定だが、わたしの脳裏にある小姐は、あの時の姿のままで少しも齢をとらないのだ。」



「桜桃異事」より:

「唐・段成式『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』前集巻八に次のような奇妙な夢の話が記されている。
 段氏の親戚の裴(はい)元裕が語ったところによると、その従兄弟の中の一人が、隣家の娘に想いを寄せるようになった。男は娘から二顆(ふたつぶ)の桜桃を贈られた夢を見た。夢の中でその実を食べた。夢覚めてふと傍を見ると、枕もとに桜桃の核(たね)が落ちていた……。
 これは夢の話である。夢の中だから娘から贈られた桜桃というのも実物ではない。それなのに、覚めて後の枕もとには現に桜桃の核が落ちていたというのだ。夢の話には虚と実との区別がはっきりしないのが普通だが、この話は夢が現実によって証明されるのだから奇妙である。」
「女が意中の男に桃や李(すもも)などの果物を贈るのは、求愛または愛の受諾のしるしで、これは詩経の昔からの風習として知らぬものはない。」

「桜桃に関する奇談、みなこうした優美なものばかりかというと、そうでもなかった。月明りの下に桜桃の樹に登って実を貪り食う妖怪の話もあった。洪邁(こうまい)『夷堅志(いけんし)』支景巻三「永日亭鬼」の話である。
 南宋の乾道二年、呂(りょ)彦章という役人が鎮江府の知府だった当時、親しい李伯魚という人が頼ってきたので、李先生を役所の錦波亭の西の部屋に家庭教師として住まわせていた。陰暦四月の初め、蒸し暑い夜なので、窓をあけ放って涼を納れていた。ふと見ると、屋敷内の永日亭という建物の両側には、おりしも桜桃が熟れて今が盛りである。月明りの中で前方を眺めていると、桜桃を盗み食いするものがある。さては夜の当直の小者たちであろうと思い、叱りつけた。すると二つの白い物が木の梢からおりてきた。それぞれ身のたけは一丈ばかり。てっきり妖怪かと、大声で人々をよぶ。それを追跡すると、西南のかた十余歩ばかりのところで影を没した。この怪異を呂知府に報告すると、知府は法術の道士王洞元というものに命じて鉄の護符を書かせ、これを妖怪の消えた場所に埋めさせたところ、それより怪異は現われなくなったと。」
「ただの妖異鎮圧の話だから何の曲折もない。(中略)それにしても月下の園林で桜桃の樹を攀(よ)じてその実を貪り食う怪物というところが幻想画の趣があっておもしろい。」



「湖畔の記憶」より:

「什刹前海(シイチャチェンハイ)の西岸、水辺に柳の老樹が並ぶあたりは、湖に沿ってちょっとした広場になっていた。この広場に面して、東向きに門を構えた一郭があった。終戦を挟んで前後二年ばかり住んでいた一構えである。
 門前に一人の女が立ち、片手の掌をさし出して何かを乞う様子である。顔色は蒼く、髪も乱れて額に垂れている。門番の老趙(ラオチャオ)が門内からそれに応対して手を振っているのは、その物乞いを断っているのだ。女は去っていった。
 あとで老趙のいうところによると、女は麻薬中毒の患者で、薬を買うために物乞いをして歩いているらしい。そのことは女の蒼い顔いろからして一目で見当がついた。人家の門から門を訪ね歩いて、一日どれほどの銭が得られるか知らないが、たとえ薬を買うだけの額が得られたとしても、それで中毒はさらにひどくなり、心身ともに荒廃してゆくことはわかっているのに、さしあたっての薬断(ぎ)れに迫られ、こうして幽霊女のような姿で物乞いに歩いているのだろう。」

「ある冬の寒い朝だった。老趙の声に門外に出てみた。まだ朝靄がうっすらと漂っている湖畔の、水に近い柳の巨木の根方に蓆(むしろ)が被せられているのが見える。蓆の下は人間の死体らしく、脚がはみ出している。」
「老趙の話によると、行き斃れの男の死体だという。餓死だか凍死だか死因はわからないが、おそらく昨夜来ここに寝こんだか倒れたかして、夜の寒気のために斃死(へいし)したものと思われる。市内のことだから、ただの空腹のために餓死したものとは考えられない。食にありつく手段はいくらでもあるはずだから。すると、この男もまたいつぞやの蒼い顔の女と同様に麻薬の中毒患者で、衰弱のはて、払暁(ふつぎょう)の気温低下に、そのまま凍死したものと考えてよいようだ。」

「什刹海の風景は、柳絮の飛ぶ晩春の眺めや、池塘に人の群れる夏の市の賑いばかりではない。門前に立つ物乞い女の蒼い顔や、柳の根方に蓆をかけられた男の死体も、また湖畔の冬の記憶のなかにある。」



「春泥の路」より:

「老舎の長篇『駱駝祥子』を初めて読んだのは、もうかなり前のことだ。」
「主人公の祥子(シャンヅ)が「駱駝」というあだなをつけられるまでのこの小説の発端は、それまで作者老舎が世間に売りこんだ幽黙(ユーモア)にも乏しくないが、進むにつれて息苦しいほど深刻な自然主義風の小説になってゆき、ついに祥子が葬式の棺かつぎにまで落ちぶれはて、路上のモクを拾う以外には考える力も生きる力も失いつくすというこの小説の結末――「見栄坊で、強がりで、夢想家で、利己的で、個人主義で、強健で、偉大であった祥子、なんべん他人の葬式についていったことか。いつ、どこで自分自身を埋めることになるかも知れない、この落ちぶれた、身勝手の、不幸な、病める社会の産んだ児、個人主義の末路の亡者を!」の結句を読みおえて、わたしも思わず長い吐息をついた。個人主義の時代は過ぎた。矛盾に満ちた社会全体の根本的改革なくしては、個人本位のいかなる努力もすべて水泡に帰するということを、主人公の祥子はその成功と堕落の生涯をもって示した。」

「少女の名は韓淑芬(ハンシュフェン)。そのころ十二、三歳であった。いつからともなく門内に入りこんで、わたしの書屋の前にも姿を見せるようになった。細おもての、中国人の女に多い眼尻のすこしつりあがった顔だち。年よりもませて、機敏ではあるが、どことなく狡(ずる)そうな、いやしいかげがさしていた。たそがれどき、読書にもあきて、ぼんやりと階前の甃石(しきいし)にちらばった落葉をながめているころ、あるいは所在ない日曜日の朝など、いつの間にか窓の下に寄ってきて、にこにこしながら珍らしそうにわたしの机の方を覗きこんでいることが多かった。
 烟草がきれて街へ買いに出るにも億劫なとき、わたしはよくこの少女に使いを頼むことにした。そうして剰銭(つりせん)のうちいくばくかを駄賃として与えた。それが二度三度と重なるにつれて、少女はこの駄賃を目あてにして、烟草買いのお使いはないかと羞かしげにたづねるようにもなった。」
「そのうちに、わたしはこの少女を部屋掃除や洗濯をする通いの下婢として雇い、月々相応の手当を与えてもよいと考えた。そこで、その気持を述べて同じ一郭に以前から住む知人の一人に相談してみた。けれどもこの知人はあまり賛成できないというような口吻を洩らした。聴いてみると、淑芬は胡同を隔てた路南の雑院児(雑居の長屋)に住む車夫の娘で、早くから母を喪い、車夫の父親と二人ぐらしであるせいか、性質にも何となく狡猾で意地の悪いところも見えるから、それを雇って掃除や洗濯のことを任せるのは少し危険ではあるまいかというのであった。そういわれるとたしかにその危険はある。わたしは自分の観察の足らなかったことを思ってこの計画は棄てることにした。ただ烟草買いのお使いだけはやっぱり便利なので時おり頼むことにしていた。
 彼女の平素の身なりはかなり貧しく見えた。いつも垢じみた青衣を着て、泥のついた布の靴(くつ)をはき、頭は時にはほこりだらけの蓬髪で、顔にお化粧をするなどと思いもよらず、全体として不潔な感じがした。それでも、することだけは姉さんぶって、近隣の子供を相手に遊びながら流行歌を口ずさむ。当時流行の「春季到来柳満窓」の歌を、わたしもこの少女に教えてもらったものだ。
 しばらくの間、彼女の姿をわたしの窓の前に見ない日がつづいた。日頃は門の出入にもよく見かけたのが、ふっつりと消えたように見えなくなった。しかしわたしはさして気にもとめず、そのまま忘れるともなくこの少女のことを忘れていた。
 新しい年があけた。春とはいえ、巷にはなお冬の寒さが残っていて、家々の門扉に貼られた門神画や春聯の紅色がくっきりとして眼にしみるようなある日のこと、わたしは自分の寓居に近い胡同で、ふとこの少女に行き逢った。しかも顔には白粉を塗り、濃い頰紅さえさして、まったくあっと驚くばかりに美しくなっていた。立ち止った彼女は、媚びるような、また照れかくしに似た笑いを浮べてわたしの顔を仰ぎながら「羊尾巴胡同五号(ヤギバホウトンウウハオ)!」とからかうような調子でいった。それはわたしの寓居の地名番地であり、またそれまでもわたしの顔を見たときの挨拶代りに、ほとんど一つおぼえのように口にする言葉であった。わたしは彼女の常とは異なる厚化粧をいぶかしく思いながらも「好看(ハオカン)!」(きれいだね)とほめてやった。
 彼女の姿はそれ以後ふたたび胡同から消えうせていた。少女のゆくえには別段の興味もなかったが、あの貧しい車夫の娘としては度の過ぎるような厚化粧の顔だけは、一つの軽い疑問として、いつまでも印象に残っていた。
 幾月か経った。内城の東南隅に住む友人を訪ねての帰り、夕暮時分に東城の一小巷を通り過ぎた。その小路には古風な看板をさげた肉屋だの、饅頭屋だの、烟草屋だの、野菜屋だのが並び、それにまじって表だけ塗り直した怪しげな日本風の酒場も低い軒を構え、店の内からは雑音の多い卑俗なレコード音楽も聞えていた。狭くて薄暗い春泥の路には、じめじめした脂くさい悪臭が漂っていた。
 急ぎ足にこの小路を通りぬけようとしたわたしの鼻先に、ふと横の酒場から出てきた一少女がびっくりしたように立ち止った。夕闇にくっきりと浮いた白粉の顔、濃い頰紅の色。少女はわたしの顔を見て一瞬狼狽したようであったが、やがて歪んだような、それでいて媚びるような薄笑いを浮べていった――「羊尾巴胡同五号!」
 そうだ、韓淑芬だったのだ。わたしもはっと立ち止った。と同時に、それまでの疑問は彼女の声に弾かれたように一瞬に氷解した。彼女が門前の胡同からも、わたしの窓の前からも姿を消していた理由、かつて今と同じように厚化粧をしていた理由が、すべてこの小巷の怪しげな日本酒場にあったことを。」

「『駱駝祥子』には祥子の馴染で福子(フウヅ)とよぶあわれな一人の私娼が出てくる。そして淪落と絶望のはてに自殺によって自らを消してしまう。わたしは小説の福子に少女韓淑芬の運命を見ようとしたのではなかったか。異邦人の小説めいた想像と感傷とが、日本人経営の酒場に勤める一中国少女の厚化粧に、すぐ淪落を読み取ったのではなかったか。この小説の読後、中国庶民の生活が、小説ふうにすべて暗淡たるものとしてわたしの眼に映っていたことは事実である。だが淪落とは一体何だろう。それは生活の外形にあるものなのか、それとも内省の意識の上にあるものなのか。彼女自身がもしその化粧のできる新しい生活をたのしいものと考え、一つの出世と考えていたとすれば、これはまた福子の淪落とは別の道を通っているものだ。それならば、むしろ彼女の「出世」を祝福しなければならなかったはずである。わたしはそのとき彼女の勤める酒場に入って、彼女の心境を聴かなかったことを、今でもすこし残念に思っている。」
「ただわたしにとって、彼女はいつまでも十二、三歳の少女韓淑芬であり、北京におけるわが「忘れ得ぬ人々」の中の一人である。」




沢田瑞穂 芭蕉扇 02






こちらもご参照ください:

孟元老 『東京夢華録 ― 宋代の都市と生活』 入矢義高・梅原郁 訳注
巖谷國士 『アジアの不思議な町』
島尾伸三 『中国茶読本』 (コロナ・ブックス)
島尾敏雄 『夢のかげを求めて 東欧紀行』


































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澤田瑞穂 『金牛の鎖 ― 中国財宝譚』 (平凡社選書)

澤田瑞穗 
『金牛の鎖
― 中国財宝譚』
 
平凡社選書 83 

平凡社 
1983年10月7日 初版第1刷発行
264p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,500円



本書「あとがき」より:

「ここに収めた長短十篇の論考は、主として財宝を主題とする中国の異聞伝説を彙集し、あるいはこれに若干の考察を加えたものである。
 「洞穴の神と財宝」から「宝精篇」に至る前半の六篇は、既発表の文章に多少の増補を施したものである。」
「見られるとおり随筆雑録を前後に排列しただけで、第一章第一節式のしかつめらしい体裁は取っていない。そこで、せめて本書の要旨くらいは示す序説のようなものが欲しいとの編集部の希望により、今回あらたに「財宝談義」を書き加えて、これを巻首に配した。」



本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値(394円+送料257円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


沢田瑞穂 金牛の鎖


カバー文:

「道家で、各地の名山にあるという洞天福地の説と、民間伝承の洞中秘宝の説とが交錯するうちに、洞奥におかれた櫃中の銀一塊を入手する話や、洞穴の神に禱って食器その他の調度品を借用する話、さらには神に商売の資本を借用する「借元宝」の民俗風習ともなる。洞穴こそは、俗界と神霊界とを隔て、両世界を接ぐ門戸だった。」


カバー裏文:

「中国は説話、民間伝承の宝庫である。
洞穴の奥に神人所管の財宝器具が蔵せ
られている仙洞宝蔵譚;
霊芝や西瓜を鍵として宝の山の洞門を
開き、山岳の神霊、深淵の霊物である
金牛を狙う金牛致富の説話;
人間
運不運と幸不幸の不可思議を説
く致富発跡と没落の物語;
金銀そのものが世に現われんと欲して、
精怪となってその存在を人に告げる宝
精譚; 等々、
汗牛充棟ただならぬ文献世界を渉猟博
捜し、中国の伝承説話の世界を我々の
眼前に彷彿させる。さらには我国の民
間伝承とも慎重な比較検討を加え、人
人の生活の奥で通底する意識のありよ
うを提示し〈心意伝承の探究〉という民
俗学の本領を示す。」



カバーそで文:

「財宝譚の有力な一類に胡人採宝譚とよばれるものがある。西域から中国にきた商人が、某地に稀世の珍宝が伏蔵することを看破し、巨額の代価をもってその秘宝を購うという説話で、後世では胡人でなく南蛮人となり、南蛮子盜宝などとよばれる昔話である。この説話群になんと江西省出身の風水先生も登場するのだ。風水先生また山中の財宝を看破するだけの眼力を具えていると見られたのだ。………山師と風水師とは、胡人・南蛮子の財宝発見譚を通して隠微な一線に連なっているのではないだろうか。さらに推測すれば、『山海経』に玉石金銀銅鉄の所在を書き遺した特殊な古代旅行家の系譜にも溯ることができそうである。聴く者をして愉快ならしめる財宝発見譚というもの、その裏には説話醞醸のかなりに長い歴史があるらしい。地下鉄工事での小判発見といったニュース種程度の底の浅い話ではなかったのである。」


目次:

財宝談義――序にかえて

洞穴の神と財宝
神に借金する話
出米石の伝説
金牛の鎖
異人買宝譚私鈔
宝精篇
 宝精出現の事
 金銀変幻の事
 天財地財の事
 飛銭雨銭の事
宝精零篇
 銭が怖い
 枕の中に金銀
 船山の宝蔵
 銅馬異聞
 亀を踏んで金持ちになる話
 兄弟が宝物を争う話
 金銀の炎と焼酎火
 金箔を撒く話
 銀の筍
 元宝湧出して圧死する話
 銀杏の樹神と水銀
 銀の種をまいて銀の実を得る話
 秦始皇帝の埋蔵金
 初めて金塊を見た女房の話
 蟻の会話を聴いて銀を獲た話
 豚が金銀の所在を教える話
竜のよだれ
避債洞夜話
棺の中の銀

あとがき




◆本書より◆


「神に借金する話」より:

「海眼とは井戸または底知れぬ地穴のことで、それが地道を経て遠く湖海に通ずる入口であり、地下泉脈の末端であると信ぜられたところから海の眼と称せられたものである。」


「出米石の伝説」より:

「福建光沢県の東に聳える窖山(こうざん)にも宝の窟(いわや)の伝説がある。この山は仙人が宝をかくしているところで、金銀財宝から薪(たきぎ)・米・油・塩と、なんでもあると伝えられる。そこの仏仙岩のあたりには、米と油と塩の三つの宝窟があり、樵夫や猟師が山にゆくと、米や油や塩が流れ出して、人数の多寡にかかわらず、ちょうど一人一食分のまにあったが、それ以上は持ち帰るほどの余分は出ない。ところが、ある慾の深い和尚と地主とが共謀して、ひそかにこの宝窟を掘り拡げ、大量の米や油の類を手に入れようとしたため、宝窟は霊験を失って、ついに風・雨・旱の三つの魔の井戸に変じ、時には暴風や暴雨や大旱をおこすようになった。」


「金牛の鎖」より:

「広東増城県の東北二十里に金牛潭という底なしの淵がある。北岸に周囲三丈ばかりの石があり、金牛が水から出て、この石の上に盤踞するのを漁夫が見かけた。晋の義煕年間、県人の常安(一に張安)というもの、この淵に釣にきて金の鎖を得た。太さは指頭大、これを手繰りよせるうち、にわかに何物かが水中から引く、握っておれなくなり、刀で断って数尺を残した。これより富を致し、長寿を得た。その後、義興の周霊甫というもの、この牛が石上に臥するのを発見した。牛の傍には鋼のような金の鎖がある。周霊甫が勇敢にもこれを捉えようとすると、牛は鎖を断って逃げ、二丈(一説には二尺)ばかりを得た。霊甫はついに富豪となり、南江都尉になった。」


「異人買宝譚私鈔」より:

「広東に草履を編んで売る老人があった。その座右に一個の大きな石がある。ある日、一人の宝探しの人(原文「一収宝者」)がこれを見て、高値で買いたいという。老人は理由がわからないので、どうしても売らない。それより石を大切に蔵(しま)いこんだが、やがて後悔するうち、数月すると宝探しがまた訪れた。そこで石を出して見せると、その人はしきりに「惜しいことをした」と残念がる。わけを問うと、「この中には不思議な馬がいて、無価の宝物であったのだ。あんたが毎日これと向かいあって草履をつくり、草で飼っていたから活きておられた。今ではその中で餓死している」と。老人これを信ぜず、石を割ってみると、はたして馬が中で死んでいた。」

「安宜県(江蘇宝応県)の湖辺の水郷に浦(ほ)姓の兄弟が茅屋を構えて住んでいた。夏の宵、隣村の人が草を焚いて蚊や蚋をいぶし、肌脱ぎになって涼んでいた。夜が更けて林中に蛇行する一物を見た。その物は頭に一燈を戴き、その光は塀を照らす。尾の方も同様である。胴体部には小さな燈が数珠繋ぎになっている。村人が驚いて叫ぶと、その物はふと浦氏の屋に入って光は没した。のち毎年その地に迅雷が襲い、家畜が多く驚死するのは、かの物のせいではないかと疑われていたが、いかなる妖物であるかは判らなかった。ある冬の日に浦氏の家を二人の客が訪れた。嶺南の石姓の兄弟で、舟を城南に停め、ここまで散歩に来たのだと称して浦氏兄弟と語り、日が暮れる頃に立ち去った。翌日また訪れて屋根や梁などを見廻し、何事かを番語で喋るが意味不明。三日めの早暁また訪れ、浦氏兄弟に、「この建物を譲ってくれませんか。われらここに暫時僑居して海客(海外からの貿易商人)を待ちたいのですが」と切り出した。浦兄弟は豪語して、「わが郷は地一寸金一寸。家は貧しくとも家屋を売るまで落ちぶれてはおりませんよ」。すると石兄弟は笑って、「土地が欲しいのではありません。ただ風雨をしのぐ家屋だけが欲しいので、売って下さるなら金は幾らでも出します」と。浦氏の弟が兄に耳打ちする、「遠方の広東の人だから騙して五百金を要求してみたら」と。兄も喜んで承知する。石兄弟、「千金でもよろしいが、ただ取引は後で悶着が起らないようにしていただきたい」と。浦兄弟は人に頼んで契約書を作成し、「家屋は毀しても土地は元の主人に返す」と約束した。千金を受け取ると浦兄弟は隣村に移り、石兄弟が住みついた。隣村の物好きが、何か変った事が起らぬかと、ひそかに様子を窺っていたが、炊事をするくらいで別に変ったこともなかった。十日あまりして石兄弟は町に出かけ、炭を貯える空籠十余個を買い、鍛冶屋で長さ一尺ちかい大釘二本を打たせ、また桃の木の柄をつけた斧二丁および神に捧げる供物の類をも買って担ぎ帰った。それから近所から屋根に登る梯子二本を借りてきた。何に使うのか、さっぱり判らない。ある日の早暁、兄弟は沐浴して起き出すと、門内に供物を並べ、梵語の咒文を唱えて敬虔に祈る。やがて二本の梯子を屋根に架け、兄弟が左右から一斉に登ると、斧を揮って戛々然(かつかつぜん)として梁に釘を打ちこむ。終ると兄弟は跳んで降り、躍りあがってシメタと叫ぶ。それから人を雇って茅屋根を剝がせる。茅が尽きると、梁の上には巨大な蜈蚣が頭と尾に釘を打ちこまれており、黒い皮は鏡面のごとく、百足は鋭い鉤(かぎ)のごとし。兄弟は屋根を曳き倒させると、剣をもって蜈蚣を数十段に切断し、それぞれの炭籠に入れ、手をあげて隣人に謝し、用意した舟に獲物を運ぶ。浦氏兄弟も舟まで見送り、その眼力について質問すると、石兄弟は答えた、「城南から眺めると宝光が湖辺に見えたので、物色してここに来たのです」と。そこで浦氏は往年に隣村で見かけた燈光の不思議を語って、さてはこの物だったかといった。大蜈蚣の頭尾には二個の明珠があり、胴体にも多くの小珠がある。この物は雷火は畏れないが、雷鳴を聞くたびに病んで珠を生ずる。われらはこれを祭り、咒をもって禁じたから釘が打てたので、さもなければ屋根を抜け出して逃げ去るところであったと。珠の価を問うと、「蘇州に着いたら判ることで、われらには予想もつきません」と笑って答えた。浦兄弟は呆然となった。」

「波斯人が福建にきて、古い墓に宝の気があると見てとり、墓の隣に住む人に銭数万で墓を買いたいといった。承知しないでいると、「この墓はもう五百年も持主がないはず」と波斯人がいうので、ついに承知して銭を受け取った。波斯人が墓を発く。棺の中の屍体は骨肉ともに壊れていたが、心臓だけが石のように堅かった。鋸で切ってあけてみると、みごとな山水があり、青碧は画くがごとし。傍に化粧をした一女がいて、じっとこれを見つめている。けだしこの女には山水を好む癖があって、朝夕ながめているうちに、その清気を呑吐した結果、それが融結して成ったものであろうと。」
「〇石のように堅くなった心臓に、山水と美女の像があったのだろう。」

「明の隆慶年間、杭州の婦人柳凝翠というもの、西湖見物が大好きで、ついにその景勝を窮めるまでになった。帰ってから懐妊し、のち一個の毬を産んだ。堅くて割れない。家人がこれを軒端に懸けておいたところ、たまたま安南国(引用者注: 「安南国」に傍点)の人が通りかかって見つけ、高価で買った。鋸で切って数片としたところ、見ると悉く西湖の風景であった。」



「宝精篇」より:

「財宝譚の中には、異物が化して金銀になり、金銀が化して異物になったという類の話を多く見かける。」
「ところで金銀がどんな変幻を示すかというに、たとえば銀が鉛になり、紙でつくられた銀錠が本物の銀に化するなどは、もともと類縁のものだから、さほど意表外ともいえないが、水が銀になり、銀が水になるばかりか、さらには蛇・蟇(がま)・蜈蚣(むかで)・蛍・蝴蝶から、はては糞虫(くそむし)にまで変るというに至っては、その虚実まことに端倪すべからざるものがある。」



「宝精零篇」より:

「山東萊郡掖(えき)県の富人張某の先祖は貧乏で、百姓をしていたが、たまたま路上で革の袋を拾った。あけてみると悉く金塊である。誰かの落したものと思い、その場に腰をおろして待っていると、間もなく大声で呼びながらやってくるものがある。訊いてみるとはたして落し主だったので、袋を返してやった。その人は大いに感謝し、礼をしようとするが、百姓はどうしても受け取らない。そこへその百姓の女房が弁当を運んできてその事を知り、「話には聞いていたが、どんな物なのか見せてほしい」というので、落し主が袋をあけて見せると、女房は笑って、「これが金(きん)というものかね」といった。さて落し主が去ったあとで夫にいうには、「以前に野外で茶摘みをしていたとき、土の穴にゴロゴロしているのを見つけたけれど、みなあの袋の中の物とおなじだった」という。そこへいってみると、たしかに女房のいったとおり無数の金塊。それを担ぎ帰って長者になったと。
 これは清・王凝斎『秋燈叢話』巻三「還金得金」の条に見える金塊発見致富譚。ところが清・師範『滇繋』巻一二、雑載に見える雲南の古伝は、主人公が百姓の女房ではなくて王様の婿殿である。
 唐代のチベット系民族が建てた南詔国の神武王が、その王女のために婿を選ぼうとした。王女が父王に申し出て、「わたくしは牛の背に後向きに乗り、牛のゆくところに任せ、貧富貴賤を問わず、牛が入った家に嫁ぎたい」という。王その請いを許す。牛はある狭い横丁に至り、狭いので左右の角を側(そば)めて入った。その家の老婆が走り避けようとするのを強いて呼び戻して、この家に息子さんはないかと問うと、倅は山へ薪を伐りにいっていますと答える。王女はすぐ老婆を拝して姑とする。やがて息子が薪を負うて戻り、横丁にお伴の家来たちがいるのを見て逃げようとすると、王女は招き入れて、これこそわが婿なりとて父王に報告させた。王は怒って王女を絶縁する。ある日、婿が王女の髪飾りを見て、それは何かと問う。金だと答えると、婿がいうには、おらが薪を伐る山には、そんな物はいっぱいあるとて、翌日担いで帰ったのはみな金の磚(かわら)であった。やがて王の怒りも解けた。王女が父王を宴に招きたいと請うと、王は難題を出して、「そなたに金の橋と銀の道路が造れるなら行ってもよい」という。そのとおり金橋銀路を造って王を招待した。王は嘆じて、「まことに天婚なり」といった。」
「日本の昔話で有名なのは加賀の山芋掘りの藤五郎。長者の娘と結婚したが、砂金というものの価値を知らず、これを投げつけて雁を追う。あとで女房に問われて、「あんな物なら山にいくらでもある」と答えて、山芋を掘った土を洗うと悉く砂金だったという無心なる自然児の致富譚。長者の娘と山芋掘り、王女と樵夫、その釣り合わぬ組合せもそっくりである。」



「竜のよだれ」より:

「名香といえば麝香(じゃこう)か竜涎香(りゅうぜんこう)かといわれるほどに知られているが、その竜涎香とは、専門家によると抹香鯨の分泌物で、アムバーグリス(ambergris)というものだそうである。これがアラビア商人によって東方にも伝来し、中国では唐宋時代から竜涎香の名で珍重された歴史については、山田憲太郎氏の『東西香薬史』に詳説されている。」
「一般には竜が海上で吐いた涎沫――一説では精液――が浮游凝固したのを採集して乾燥させた香料だといわれてきた。宋・趙汝适のように南海諸国の事情に詳しい学者でも、「竜涎は大食(アラビア)の西海に竜多く、石を枕にして一睡すれば、涎沫が水に浮び、積りて能く固まる、鮫人これを採りてもって至宝となす」(『諸蕃志』巻下「竜涎」)などと記しており、竜が岩を枕にして昼寝をし、人間のように口をあけて涎を垂らす、それを鮫人(潜水夫)が採集すると考えていたらしいから、(中略)何とも愉快である。」

「王という姓の老人、別の村に住む友人を訪ねての帰るさ、黄昏ちかい山路をたどる。手には長い煙管を提げて歩く。前方に直径一尺もある大木が横たわって路を遮っている。誰が伐り倒したのか、通行の邪魔になるわいと思いながらも、すこし歩き疲れたので一服しようと、この大木に腰を下し、煙管に残っていた灰を幹に叩いて落し、新しい煙草をつめて火打石で火を点ける。ふと物音がする。気がつくと、驚いた、その幹はずるずると動きだしたではないか。はじめはゆっくりと、後には速度を増して、たちまち見えなくなってしまった。この伐り倒された大木と思ったのは、実は巨大な錦蛇だったのだ。老人は息せききって家に逃げ走り、今しがた見たことを告げる。人々は嘘だろうと思って争って現場にいってみると、地上にはその大きな痕跡が遺されていたという。」



「あとがき」より:

「口碑伝説や昔話など、総じていえば民間伝承を研究する場合、その資料を採集する方法としては、現地に永く居住して観察記録するに越したことはない。これに次ぐものとしては長期の採訪旅行、いわゆるフィールド・ワークであろう。それも日本国内ならば、さしたる支障もないのだが、目的地が海外異邦となると、事はさほど簡単ではない。」
「わたしも青年期には前後数年間を北京の地に住んだ体験をもつが、民間伝承の現地採訪という点では、期待したほどの収穫をあげることはできなかった。その代りの已(や)むを得ない方法として採用したのは、民俗学専門書・専門誌の蒐集のほか、いわゆる筆記・随筆・雑著・地誌の類を渉猟して、古今の零細雑多な異聞類を拾い集めるという、一見して迂遠で雑学的で労多い方法であった。」
「そんなわけで、古本屋を廻れば堂々たる経史子集の大著よりも先に、片々たる某々堂随筆や何々庵筆記の類に心が惹かれた。」
「世の大家先生ならば潔しとしないような、こんな愚直迂遠の読書を事とし、四庫全書にも収められない雑書群の密林を彷徨し、心に留まった異聞奇事を書き抜き書き写し、幾十百冊かの資料綴込帳を作り並べつつ、いつしかに方丈の書斎裡に年老いてしまった。この読書方法は、やがて筆者の日常習慣となり、それがまた執筆の際の記述の流儀ともなっている。」





こちらもご参照ください:

石田幹之助 『増訂 長安の春』 (東洋文庫)








































































澤田瑞穂 『中国の民間信仰』

「一塊の石にも神霊が宿ると、水には沈むはずの石が、常識を超えて水に浮き漂うことがあると信ぜられていた。
 むかし陽羨県(江蘇宜興県)の小吏 呉龕(ごがん)というもの、ある日のこと舟に乗って水上をゆく。五色の石が浮いてきた。これを取り帰って牀頭に置いたところ、夜になって一女子に化し、自ら河伯の女であるといった。夜が明けてみると依然として石であった。後またこれを谷川に投じた(『幽明録』および『述異記』)。河伯とは黄河の水神である。」

(澤田瑞穂 「漂着神考」 より)


澤田瑞穂 
『中国の民間信仰』


工作舎 
1982年7月5日 第1刷 
1991年10月10日 第3刷発行
579p 口絵(カラー)4p 折込(カラー)1葉
A5判 丸背布装上製本 貼函 
定価8,500円
エディトリアル・ディレクション: 松岡正剛
エディトリアル・デザイン: 木村久美子



「中国妖異考の四部作」その三。
本文中図版(モノクロ)多数。折込カラー図版は「天地三界十八仏諸神」。


沢田瑞穂 中国の民間信仰 01


帯文:

「中国研究に必読の好著
早稲田大学名誉教授/日本道教学会名誉会長 福井康順
 怪力乱神を語らず、とは孔子のこと。本書は逆にそれに立ち入っての研究で、中国人の信奉する孫悟空神・龍の母などの鬼神怪異の実態が学的に解明されている。
 著者は斯界の権威で『地獄変』『鬼趣談義』など名著が多く、本書巻頭の「民間信仰と道教」にもその学識の高さが示されている。
 本書はひろく文献を捜訪、しかも徴証に溺れず伝承に迷わず、現状をも観察した稀れな労作である。中国の宗教を検討する時、必読すべき好著。」



沢田瑞穂 中国の民間信仰 02


帯背:

「失なわれた
神々の発掘
秘蔵文献・図像多数収録」



目次 (初出):

序にかえて 民間信仰と道教 (昭和五十二年十一月二十六日、第一回道教談話会口述/「東方宗教」第五十二号「道教の基礎的問題」 昭和五十三年十月)

第一章 生きる神々
 中国民間の太陽信仰とその経典 (「天理大学学報」第五十九輯 昭和四十三年十一月)
 蟠桃宮の神々 (「東方宗教」第二十六号 昭和四十年十月)
 二つの二郎廟――信仰と環境 (北京・東方民俗研究会「東俗叢」第二号 昭和十九年十二月)
 土地神賭妻 (未刊稿)
 焼頭香の話 (未刊稿)

第二章 異神の源流
 孫悟空神 (「中国文学研究」第五期 昭和五十四年十二月)
 黒神源流 (未刊稿)
 駆蝗神 (「東方宗教」第五十一号 昭和五十三年六月)
 草鞋大王のこと (「二松学舎大学人文論叢」第十七輯 昭和五十五年三月)
 漂着神考 (国学院大学「漢文学会々報」第二十六輯(創立五十周年記念号) 昭和五十五年十一月)

第三章 龍母伝説
 龍の母 (「早稲田大学大学院文学研究科紀要」第二十三輯 昭和五十三年三月)
 龍木篇 (「天理大学学報」第六十五輯 昭和四十五年三月)
 龍宮伝書――水神に手紙を届ける話 (未刊稿)

第四章 神子誕生
 神婚伝説 (「中国文学研究」第一期 昭和五十年十二月)
 神女送子のこと (「中文研究」第十三号 昭和四十七年十二月)
 霊山の性禁忌 (未刊稿)
 泰山香税考 (「福井博士頌寿記念東洋文化論集」 昭和四十四年十二月)
 借寿考 (未刊稿)

第五章 殺人祭鬼
 殺人祭鬼 (「天理大学学報」第四十三輯 昭和三十九年三月)
 殺人祭鬼・証補 (「中文研究」第五号 昭和四十年一月)
 殺人祭鬼・再補 (未刊稿)
 メタモルフォーシスと変鬼譚 (「昔話―研究と資料」第二号 昭和四十八年六月)

第六章 魂帰る
 魂帰る (「道教研究」第二冊 昭和四十二年三月刊)
 魂帰る・再補 (未刊稿)

第七章 神との遭遇
 口碑と風水信仰 (未刊稿)
 神との遭遇 (未刊稿)
 庚申史料雑鈔 (原題「庚申補録」 庚申懇話会「庚申」第三十三号原載 昭和三十八年八月/昭和五十三年十二月、同朋舎刊「庚申」では編者により「中国の雑書にみる庚申信仰」と題して収録)

第八章 虫獣・情魂の神
 虫獣神威を顕わす (未刊稿)
 異形の神 (未刊稿)
 情魂神に祀られる (未刊稿)
 賊徒また神を祀る (未刊稿)
 花神二題 (未刊稿)
 廃物に神宿る (未刊稿)

第九章 清末の祀典問題
 清末の祀典問題 (「東方宗教」第二十三号 昭和三十九年三月)

あとがき

事項索引
書名索引
地図
初出誌一覧
著者紹介



沢田瑞穂 中国の民間信仰 03



◆本書より◆


「龍宮伝書」より:

「ある魚売りの男が鮮魚を積んだ手車を推して山麓を通る。天気も暑かったので、車を停めて路傍の樹下に休息していると、ふと一道士が竹林から出てきた。見たこともない道士だが、懐中から一通の手紙を取出して、「ご苦労だが、これを……」といって渡す。封書には一字も書いてなく、どこへ届けてよいやらわからぬままに受取る。「そなたは帰りに南丈崖を通るであろう。そこまでいったら、崖を叩いて、南丈崖、労山捎得書子来(南丈崖よ、労山から手紙を送ってきたよ)といえば、誰かが出て受取るはず。気をつけてな。わしはちと急用があるで……」といって道士は山に去った。魚売りは大切に手紙を懐に納めた。郭村までいって高原にある一軒の飯屋の亭主に車を預け、自分は近くの南丈崖まで出かけた。高い絶壁で人家もなく洞穴もない。彼は崖を叩いて例の労山捎得書子来の文句を唱えると、顔前に門が開いて一老人が現われた。奥の客室に案内されてゆくと、そこには年若い先生がいて、棋を囲んでまだ一局が終らない様子。老人は魚売りに一杯の茶をついでやると、またもやその先生と棋を続ける。彼はそれを無心に見ていた。ふと窓外に目をやると、中庭の黄楊樹の葉が黄ばんで落ち、ついで青くなり黄ばみ落葉し……と瞬くうちに変化する。老人と先生とは男のことは忘れたように囲棋に耽っている。彼は腹もへったので、地上に落ちていた棗(なつめ)の核(たね)を拾って口に入れ、また吐き出したが、異常に甘い。やがて棋が終ったのを機に彼は別れを告げる。老人は引留めもせず、軽く礼をいっただけで送り出した。門を出たかと思うと、そこは依然として絶壁であった。彼が郭村に帰ってみると、そこには城壁も人家もなく、ただ一面の水。水辺の高処に幾十軒かの人家があり、建物は見覚えがあるような気もするが、みなふるびて破れている。人家のあるところへいって郭村への路を尋ねても誰も知らない。最後に日向ぼっこの白髪の老婆に問うと、「あの村は、とっくの昔に洪水で沈んでしもうた。洪水の前には、わしの実家もあの村にあったのじゃが」という。それでは何というところかと問うと、「漿魚店というてな、三百余年も前にはここには人家がなく、宿屋が一軒あっただけじゃが、ある日、一人の魚売りが魚を積んだ車を推してその宿屋に預け、南丈崖に潜りこんでしまったのを見かけた人があったげな。いくら待っても戻って来ない。到頭、魚は腐って水になったのに、まだ戻らん。この噂を聞いた人がみな宿屋まで見にいったそうな。大水が過ぎてから、近所の人がここにきて住みつき、村の名を漿魚店とよぶことにしたのじゃよ。」魚売りは聞いて夢から醒めたように、あの黄楊の葉が芽を吹き落葉したのは、それが一年だったことを悟ったという(林蘭『瓜王』所収「漿魚店」)。
 この昔話には文使いと仙郷淹留譚と洪水説話との三要素が連続して語られている。発端の文使いに対して、老人が囲棋に熱中していたとは例の爛柯山の故事の借用。また老人はお茶一杯しか出さなかったが、無心に拾って嘗めた棗の核が神仙の長命果であり、かつ洪水に遭って覆没することを防いでくれたので、これは仙人の大なる報謝であった。」



「殺人祭鬼」より:

「宋の時代に、湖北・湖南などの一部僻遠の地方には、人を殺して鬼神を祭ることを秘義とする殺人教ともいうべき外道(げどう)の邪法が伝習されていた。」

「殺人供犠の功徳によって己も神になり、極楽浄土に転生できるという信仰も、さほど奇異なものでなく、古代人や未開人にもこの例は少くない。もしそれが教義的に組織されると、兇暴無惨な殺人教と化するのである。」



「殺人祭鬼・証補」より:

「湖南沅州の役人李侁の子息、十歳。郡の士人覃先生の私塾に通学する。自宅との距離は一里、朝がた家を出て、毎日の弁当は下男の蔡宣が運ぶ。ところが、この下男が大の博奕(ばくち)ずきで、いつも市中の汪二という男に代りを頼んで運ばせていた。やがて汪は覃先生とも顔見知りになり、少年が帰宅するときには汪二に伴をさせるようになった。ある日、伴をして途中まで帰ると、一人の男が現われて、蔡の旦那は忙しいので、代りに坊っちゃんをお連れしに参りましたという。汪二は信用して、その男の名もきかずに少年をわたした。その晩、李氏の奥さんは息子の帰宅を待ちわびて下男の蔡宣に訊く。下男は覃先生の塾に飛んでゆく。とっくに汪二が伴をして帰ったとの先生の返事に下男は蒼くなり、城内を一晩さがし廻った。夜明けを待って城外に出て捜索する。五里離れた僻処の森に、鴉や鳶が群れさわいでいる。念のための小径をたどってゆくと、少年の屍体が横っていた。すでに腹部は剖かれて内臓がなくなっており、代りに米餌(米または米飯か)が詰めてある。けだし悪徒が殺して鬼を祭ったのである。飛んで帰って奥さんに告げ、検分してもらうと坊っちゃんに相違ない。州の役所に訴え出る。長官は覃先生・蔡宣・汪二の三名を拘引し、懸賞つきで犯人を探索したが、結局は迷宮入りになった。汪二は獄中で死亡。時に淳熙七年(一一八〇)の春であった……。」


「メタモルフォーシスと変鬼譚」より:

「唐の汴(べん)州の西の板橋店。店とは旅人を泊める旅籠屋(はたごや)のことで、そこの女主人の三娘子、来歴不明の寡婦で年齢三十あまり。子も身寄りもない一人暮しだが、姐御肌(あねごはだ)で、評判も悪くない。内証も裕福とみえて、多くの家畜を有している。
 唐の元和年中、河南許州の趙季和というもの、洛陽に赴く途中でここに宿る。先客が六七人。深夜に酒食が出されて諸客は酔い潰れたが、季和だけは酒は嗜まなかった。二更に至って女主人の三娘子も自室に帰る。壁を隔ててゴソゴソと物音がし、また動物の声らしいものも聞える。隙間から覗くと、女主人は燭をつけ、箱の中から鋤と、それぞれ六七寸ばかりの一木牛・一木偶人を取出して竈の前におき、水を口に含んで噴きかけると、二物ともに動き始めた。小人は牛を牽き鋤をつけて牀前の地を耕す。女はまた蕎麦の種子一握りを取出して小人に与えて蒔かせる。やがて芽をふき花ひらき蕎麦が熟すると、小人にこれを刈らせて七八升を穫た。また小さな磨子(うす)を置いて粉に碾かせ、木人を箱に納める。それから粉で焼餅(シャオピン)数個をつくる。雞が鳴いて客が出発しようとするころ、女は先に起きて灯を点じ、焼餅を卓にならべて客に供する。趙季和が戸外で窺っていると、諸客は焼餅を食い終らぬうちに地に倒れて驢馬になった。女はこれらを内に追い入れ、客の荷物は悉く奪い取った……。」














































































































































































澤田瑞穂 『鬼趣談義』 (中公文庫)

「ある日、その女の霊魂が若者の耳の中に潜りこみ、癢(かゆ)くて物音が聞えない。これより毎夜のように耳中の女の霊と語り合う。三年余を経て女の霊は若者に結婚をすすめる。それは山陽の某紳士の家の一女十七歳で、昨夜急死したが、それを活(い)き返らせるから、女の口と鼻の間に耳を附けなさい、そうすればわたしは借軀復生してあなたと永く添い遂げましょうという。若者はそのとおりにして妻を得、耳の病もまた癒(い)えたと。」
(澤田瑞穂 『鬼趣談義』 より)


澤田瑞穂 
『鬼趣談義
― 中国幽鬼
の世界』

中公文庫 さ-42-1

中央公論社 
1998年8月3日 印刷
1998年8月18日 発行
494p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,143円+税
カバー: 南伸坊



「中国妖異考の四部作」その二。
初版は1976年9月、国書刊行会刊。修訂版は1990年9月、平河出版社刊。本書はその文庫版です。


沢田瑞穂 鬼趣談義


帯文:

「中国の幽鬼・妖怪の世界を説き明かす博引旁証の大著」


カバー裏文:

「筆記・随筆・地誌類など汗牛充棟の文献世界を渉猟し、中国の幽鬼妖怪の種々相を暢達な筆致で説き明かす。“怪力乱神”を語り、中国古来の霊魂観、幽鬼妖怪観を探究する、碩学による博引旁証の大著。巻末に事項・書名索引を付す。」


目次:

鬼趣談義
墓中育児譚
亡霊嫉妬の事
髪梳き幽霊
鬼卜――亡霊の助言によって吉凶を占う事
再説・借屍還魂
鬼求代
鬼索債
泡と蝦蟇
関羽に扮して亡霊の訴えを聞く話
柩の宿
鬼買棺異聞
産婆・狐・幽霊
墓畔の楽人
鬼市考
偽幽霊出現
僵屍変
棺蓋鬼話
旱魃とミイラ
野ざらし物語
石の妖怪
土偶妖異記
芭蕉の葉と美女

あとがき
修訂版後語

解説 (稲畑耕一郎)

書名索引
事項索引




◆本書より◆


「髪梳き幽霊」より:

「北京阜城門内の某胡同に幽霊屋敷があった。護軍の永某という胆力自慢の男が友人と賭(か)けをして単身その屋敷に泊る。眠りかけると足音がする。ひそかに戸の隙間から窺うと、燈下に一無頭の婦人が坐しており、片手に頭を膝の上におき、片手に櫛を持ってその髪を梳く。両眼は炯々(けいけい)として戸の隙間の方を睨(にら)む。彼は驚いて身動きもできない。やがて女は髪を梳き終ると、両手で耳をつかんで上に載せ、すっと立ち上ると、戸をあけて外へ出ようとする。彼は一散に逃げ出した。」


「再説・借屍還魂」より:

「乾隆元年か二年のころ、戸部員外郎の長泰に下僕あり、その女房が二十余歳で急死した。翌日納棺しようとすると、手足が動いて屈伸しはじめ、俄かに起き上ってここはどこだと問う。譫言(うわごと)かと思っていると、やがて室内を見廻し、ハッと思い当ったように嘆息すること再三、黙々として語なし。これより病は癒(い)えたものの、その語音歩行を察するにみな男子のようで、それに化粧のこともできない。夫を見ても見識らぬ様子。どうも変だと思って問いつめると、やはり男で、数日前に死んで魂が冥府に赴(おもむ)いたところ、寿命がまだ残っているが、女身に謫せられるというので、この女房の屍を借りての再生を命ぜられ、夢から醒めたかと思えば、己は寝台に横たわっていたと。姓名本籍を問うても言いたがらない。事ここに至っては、いまさら前世の辱(はじ)をさらすまでもないと答えるだけ。ついに深くは追及しないことにした。はじめは夫とは同寝しようとしなかったが、後には断りようもなくて、渋々ながら従った。しかし交わるたびに夜明けまで忍び泣きするのであった。」

「浙江平湖の董(とう)という二十余歳の若者、路上で一美女に遇い、跡をつけて城外の小屋でその女と交歓した。一人の野菜売りが通りかかる。見ると若者が棺に抱きついて交媾の状をなしている。幽霊に憑(つ)かれたものとみて助けてつれ帰る。ある日、その女の霊魂が若者の耳の中に潜りこみ、癢(かゆ)くて物音が聞えない。これより毎夜のように耳中の女の霊と語り合う。三年余を経て女の霊は若者に結婚をすすめる。それは山陽の某紳士の家の一女十七歳で、昨夜急死したが、それを活(い)き返らせるから、女の口と鼻の間に耳を附けなさい、そうすればわたしは借軀復生してあなたと永く添い遂げましょうという。若者はそのとおりにして妻を得、耳の病もまた癒(い)えたと。」

「風化店の張家の娘、十五歳。流行病で数日臥(ふ)したまま起きられない。咽喉が乾いたが、たまたま室内には人がいなかったので、無理して寝台から下り、水を取りにゆく。しかし病体で思うに任せず、ついに昏倒した。家人が見つけて驚き、寝台に抱き上げると、やがて気がつき、目をあけて見る。自分を取りまいて様子を窺っている人々はみな識らない人ばかりなので、不思議そうに、「あたしはどうしてここに来たのかしら」という。家人は病中の譫言(うわごと)だろうと思っていると、娘は起きて外へ出ようとする。家人が引き留めると、「あたしは家に帰るんです。どうして留めるんですか」という。「ここがお前の家なんだよ。ほかにどこへ帰るというの」と家人がいえば、「あたしは劉家のものです」と娘がいうので、衆みな不思議がる。そのとき劉家にも娘がいたが、病死したばかり。その父母がこのことを聞いて駈けつける。娘は見るなり「お父さんお母さんだ」といった。」



「鬼求代」より:

「幽霊人口ということばがある。仮空の住民登録をして、実数はそれ以下という場合に用いる。これは現実の人間界での話である。ところが、冥途には冥籍(めいせき)という戸籍簿があって、これに登録せられた亡者は幽鬼とよばれ、所定の人口いや鬼口を保つことになっているらしいから、これこそ、ことばの真の意味での幽霊人口である。
 地球上の人類は刻々に増加してゆく。将来は土地も食糧も不足するであろうことは国際連合か何かでも問題になっているとおりである。しかし従来この人口増加を抑制してきたのは、産児制限や嬰児殺しのほか、人間の病死・老衰死・自殺および天災や人災による事故死あるいは戦争による大量の戦死で、つまり人間には死というものがあって新陳代謝するから、ある程度は増加の速度が抑えられているのである。
 ところが冥籍に入った亡者(もうじゃ)には、もはや人間のような死亡というものはないはずである。すると、幾千万年来の人類史から考えると、冥界の幽霊人口は莫大なものになっているわけで、宇宙に遍満しているに違いないと思われる。だが実際はそうではないらしい。亡者には死がないかわりに、受生(じゅしょう)とか転生とか託生とかよばれる第二、第三の新生の途があって、冥府の審判の結果、その亡者は再び人間なり畜生なりに投胎して生まれ代る。いわゆる六道(ろくどう)輪廻の循環理論である。だから冥界の幽霊人口は我々が想像するほど密度が高いものではなく、転生による人口減で、一定の額を保っている。こちら人間界に新しく嬰児が出生したといっても、それは実は再生品なので、幽顕両世界の相互流通からいうと、絶対的人口増ではないのである。」



「鬼市考」より:

「翰林官の裴択之(はいたくし)という人、河南陽武県の人であるが、六、七歳のころ、父に抱かれて馬で東北の村に出かけた。城外の濠(ほり)のところまでゆくと、城門の南北に市が立っているのを見た。人物はみな二尺ばかりで、男女老幼・吏卒僧道みな往来し、商人の売買取り引きから、荷物をかつぐもの、驢馬に背負わせたもの、車に積んだもの、なんでもある。そのことを父に告げると、父はそんなバカなことといって信用しなかった。しかし三度四度もそこへいったが、いつもそれが見られたという。」

「唐・鄭熊『番禺雑記』に、「海辺には時に鬼市あり、半夜に集まり、鶏が鳴いて散る。人これに従って多く異物を得る」とあって、鬼市の称はすでに唐代からおこなわれたことはわかるが、ただその鬼市の実態が、伝説上の幽鬼の市なのか、それとも人間による夜陰の交易であったのか判然しない。「人多く異物を得る」とは、あるいは「夷人蕃民」との交易を暗示するとも解せられる。」
「清代の記録であるが、異民族の居住する雲南剣川県にも夜市のあったこと、清・張泓(ちょうおう)の『滇南(てんなん)新語』に記載されている。剣川は雲南でも西北の地で、チベットに入る門戸となっており、土着民はすべて異民族。漢人といえば客籍・軍籍のものだけであった。日が暮れると、河原などに市が立ち、百貨が集まる。村民は手に炬火(たいまつ)を持ち、高低遠近より蛍のごとく燐のごとくやってきて売買をする。また地面に蓆を敷いて群飲し、和歌跳舞しあるいは泥酔して喧嘩を始めるものもある。二更になると、酔ったやつを扶(たす)けて次第に散ってゆく。筆者の張氏はこの地に長官として赴任してから、夜市を弊風陋習の甚だしいものとして厳禁したところ、翌月には夜市はなくなり、みな日中に市が立つようになった、と誇らしげに記している。つまり、夜市は日用品交易のためばかりでなく、また一種娯楽交歓の場でもあった。それを、「風化」を重んずる漢人出身長官のために、一方の娯楽は弊風陋習として一片の禁令により奪われてしまったわけである。」



「芭蕉の葉と美女」より:

「蘇州(中略)に一書生が住んでいた。庭前には植木が多い。夏の夕方、入浴後に書斎で涼を納れていると、緑色の上着に翠色の裳という服装の女が窓際に佇(たたず)む。声をかけると女は挨拶して、わたしは焦(しょう)氏と申しますといって、室内に入ってきた。ほっそりした美人である。立ち上って捉えようとすると、女はあわてて衣服の一端を書生の手に遺したまま逃げた。それは裾の一角であった。翌朝みると芭蕉の葉である。書生は以前に隣りの寺で勉強をしたことがあって、その芭蕉の一株を乞うて庭に移植したのである。葉の裂けたところと、手に遺ったのとを較べてみると、ぴたりと一致した。」




















































澤田瑞穂 『修訂 中国の呪法』

「天津西関内の民家に時おり怪異を見かけた。ある月明の夜に、中庭でゴロゴロと音がする。見ると、大きな甕(かめ)の中に人が逆立ちして両足を上にし、転がりつづけている。犬が吠えながら追う。これを見かけた者は、その住居に住むのを苦にして幾人も住人が替る。夏某という者、この家に住み、部屋を改造するとき、大門の梁のあいだで一個の木箱を見つけた。中には数寸ばかりの小さな泥塑(でいそ)の壺が収められてあり、その中では一個の小さな泥人形が逆立ちしており、以前に見たのとそっくりである。」
(澤田瑞穂 『修訂 中国の呪法』 より)


澤田瑞穂 
『修訂 
中国の呪法』
 

平河出版社 
1984年12月20日 初刷発行 
1995年6月30日 7刷修訂版3刷
536p 目次iv 索引24p 口絵(カラー)2p
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価3,000円(本体2,913円)
装丁: [中垣デザイン事務所] 奥りゑ



本書「あとがき」より:

「扱った題材が超能力の類であるため、どうしても「怪・力・乱・神」に渉らざるを得なくなる。また伝承のすべてが実事であったという保証も立てられない。むしろ誕妄の虚説が多きを占めるといってもよいだろう。ありていにいえば、筆者自身も、実はそっちの怪を語る方に興味がある。その意味では、前著『鬼趣談義』や『中国の民間信仰』と出入する部分も多く、中国怪異の技術編というところ。前二書と併せて、どうやら中国妖異考の三部作になった。これに、早いころ出した『地獄変』を加えると妖異四部作ということにもなろうか。」


「修訂版追記」より:

「今回、ルビを多くしたほか、あらたに事項および引用書名の索引を附した。」


本文中図版(モノクロ)。


沢田瑞穂 中国の呪法 01


帯文: 

「修験道・民間呪術の源流!
運命の予知・病気治し・富貴になる法から
はては黒巫術・紅巫術まで、
呪術の中に込められた人間の悲喜こもごもとした諸相を、
文献資料をもって広く紹介する。
新たに事項・書名索引を付す。」



帯背:

「呪術の百科」


目次:

口絵
 羅両峯「鬼趣図」

第一輯 見鬼
 見鬼考
 劾鬼考
 禁術考
 避瘧考
 隠淪考

第二輯 呪詛
 嘯の源流
 返魂・摂魂
 呪詛史
 工匠魘魅旧聞抄
 替身と替僧

第三輯 蠱毒
 妖異金蚕記
 蜈蚣蠱
 挑生術小考
 猫鬼神のこと
 夷堅妖巫志
 南法異聞
 摩臍考
 登刀梯
 呉巫雑記

第四輯 雑卜
 響卜考
 雑占小記
 火の呪法
 種まきの呪法
 紅い呪術
 祈子呪法類考
 悪夢追放
 風邪を売る

第五輯 厭勝
 掃晴娘のことなど
 家宅厭勝のいろいろ
 宋代の神呪信仰――『夷堅志』の説話を中心として
 道家青精飯考

あとがき
修訂版追記

書名索引
事項索引



沢田瑞穂 中国の呪法 02



◆本書より◆


「見鬼考」より:

「葛洪いう、「見鬼者は、男にありては覡(げき)となし、女にありては巫(ふ)となす。まさにおのづから然るべきものにして、学びて得べきものにあらず」(『抱朴子』論仙篇)。またいう、「術士あるひは偶々体を受くることおのづから然りて、鬼神を見る」(同書、袪惑篇)。」
「たしかに視鬼・見鬼は、ともに禁邪の方術というよりも、むしろその前段階として、ある人のもつ異常な霊視の力をいうものであったが、転じてはその超能力を具えた巫覡(ふげき)・術士等の人にも用いられ、これを視鬼者とか見鬼人とか見鬼師とか称した。またその人の通称のようにも用いて、たとえば李姓の人ならば李見鬼などとよんだ。
 近世また浄眼の称があった。見鬼の能力をもつ人は、俗に眼の眸子(ひとみ)が青いという。」

「青陽庵の僧の語ったところによれば、同庵の僧某、まだ出家しなかったころ、こんなことを聞いた――新死人の頭辺飯(まくらめし)を盗み、左手を返して少量を取り、人には見られないようにして食する。これを七回すれば、日中にも鬼を視ることができるようになると。某これを信じて実行したところ、はたして毎日家にいても市に出ても無数の幽鬼を見るようになり、闇夜でも同様であった。鬼と人とは相半ばして雑(まじ)わり、形状一ならず、はなはだ畏るべし。およそ生人が路をゆくに、鬼これを見て側に避けるようなれば、その人は無事。もし避けないようなれば、その人は多病。もし鬼がすぐ背後につき、かつ戯弄(ぎろう)するようなれば、その人はきっと死亡する。某は次第に厭気がさし、かつ怖くなって狂人のようになった。人に勧められて張真人府(ちょうしんじんふ)(道教天師道の本山)にゆき、符水を求めて治療したところ、目は幽鬼が見えなくなったものの、精神はすでに痴呆になっていた。ついに剃髪して僧になったと(清・東軒主人『述異記』巻中「視鬼」)。
 呉小南家の下僕陸祥(りくしょう)の子で阿昭という少年、十余歳になるのが、目中に双眸子(二重ひとみ)あり、よく鬼を見る。小児が病気になると、阿昭に外から小児の魂をつれ帰らせると病が癒る。あるとき呉小南の長子が病気になったので、魂を尋ねさせると、坊ちゃんはベッドにいて、自分の腹の上に坐しているという。一日おいて枕のところにいるという。また一日おいてベッドの辺にいる、窓のところにいるという。最後に、坊ちゃんは外へ出ていって、引張っても帰ろうとしないと急報した。室に入ってみると、すでに息は絶えていた。(中略)(清・諸聯『明斎小識』巻五「双眸子」)。
 清の王端履氏の族人樸存(ぼくそん)という人は、眼よく鬼を見ることができ、闇夜の往来にも燈火を必要としなかった。道光二十一年(一八四一)三月、蕭山県の東部の村々に瘟疫(おんえき)が流行した。樸存氏によれば、すべて鬼はみな牆壁(しょうへき)に附いて進み、何もないところをゆくことはできない。疫鬼も同様である。牆壁(しょうへき)に遇えば蚯蚓(みみず)のようにあとずさりして進み、壁に入りこむ。通常の鬼は一団の黒気のごとく、顔かたちを識別できない。顔かたちがあって何もないところでも進めるのは厲鬼(れいき)であるから、急ぎ避けなければならない。疫病の家に見舞にゆくときには牆壁にはもたれず、立ったままでいなければならない。決してそこの湯茶を飲んではならない。毒はみな水に仕込んであるからだと。(中略)(王端履『重論文斎筆録』巻二)。」
「袁枚いう、羅両峯はみずからもよく鬼を見るという。日が暮れると満路みな鬼となり、富貴の家に旁行斜立(ぼうこうしゃりつ)し、呢々として絮語(じょご)する。気暖く人の旺(さかん)なるところを好み、集まって居ること水草を逐うもののごとし。また鬼は牆壁(しょうへき)窓板(そうばん)に遇えば、みな直穿(ちょくせん)して過ぎ、障礙(しょうがい)はないらしい。人とは無関係で、なんら妨げるところはない。面目のわかるのは冤(えん)を報じ祟をなさんとする鬼である。貧苦の家には鬼の往来するものが少ないのは、その気衰え地も寒いからで、鬼もまたその冷淡に耐えられないからであろうと。両峯またいう、鬼が人を避けること、人が煙を避けるがごとし。それが人であることを知って避けるわけではなく、その気を厭って避けるのである。しかし往々にして急ぎ足の人に突きあてられると、散じて数団となり、もとの一鬼に復するまでには、かなりの時間を要すると。
 銭泳いう、羅両峯はみずから浄眼と称し、よく鬼物を見た。そのいうところによると、夜間ばかりでなく、毎日の午(うま)の刻を除く他の時刻にはみな鬼がある。あるいは街市中に隠躍(いんやく)し、あるいは衆人の内に雑処し、千態万状、枚挙に耐えないと。」



「嘯の源流」より:

「各種の事例を並べてみると、周漢時代の古い嘯は、単なる音声の技芸だったのではなく、元来は巫祝または術士が、霊魂・役鬼・精霊・鳥獣・風雲・雷雨などの異類異物を召集する呪法の一種だったと考えられる。嘯の声気は合図のためというよりも、むしろその音波曲線に乗せて異類を招き寄せるものだったようである。」


「呪詛史」より:

「木を刻して人形とすることは古代からあったが、後には藁でつくったワラ人形の草人や、竹の骨に紙を貼った張子人形または厚紙を剪ってつくった紙人形も用いられた。人形のほかに狐・犬・猫・虎などの畜類に見せかけて、これを妖術で操って使役することもあった。
 木人は主として特定の個人を呪うために用いられたこと、文献資料からみても疑いがないが、草人・紙人の類になると、特定の個人を標的としたものではなく、むしろ不特定多数の世人を騒がす動機不明の邪法のように考えられた。しかし実態不詳のままに歴代これが通り魔のように市井に出現し、流言(デマ)となって一時的にせよ地方民にパニックを起させた例も少なくない。」
「明・周元暐(しゅうげんい)『涇林続記(けいりんぞくき)』によれば、蘇州地方にはもと狐はいなかったのであるが、明の嘉靖三十六年(一五五七)、民間では狐の祟りという訛伝(デマ)がおこなわれた。日暮れになると出現し、これに出遇う者があると夢にうなされたように、胸または咽喉を押さえられて声も出せない。ひどいのになると、顔面を噛まれたり皮膚を爪で引き掻かれたりする。ただし生命には別条はない。」
「一説では、この術を使う者は江西人で、(中略)隣人が塀の隙間から覗くと、その人は風呂敷包から紙を取り出して無数の鳥獣の形に剪(き)り、それを二階の床板に並べる。髪を被(かぶ)り刀を持ち、禹歩(うほ)して呪を誦し終ると、水を噴きかける。すると諸物が動きだして悉く二階の窓から飛んでいった。まもなく、近隣の騒ぐ声が聞えた。その人は正坐して待ち、五更になると、またもや禹歩(うほ)して呪を誦するに、諸物は元のごとく飛び返って下に落ち、もとの紙に復する。それを風呂敷に包んで寝た。これを覗いた隣人は驚いて、狐の怪はこれに違いないと、夜明けに亭主に告げ、かつ警察に届け出ようとしたが、亭主は巻添えになることを恐れて、ほんの少しばかり洩らしたため、その人は逃亡し、怪もまたやんだという。」



沢田瑞穂 中国の呪法 03









































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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