白川静 『後期万葉論』 (中公文庫 BIBLIO)

「ここにあるものは、単なる抒情ではない。絶望に近い、虚脱の心境であろうと私は思う。頼むものがすべて失われたときの、あの無力感である。」
(白川静 『後期万葉論』 より)


白川静 
『後期万葉論』
 
中公文庫 BIBLIO B 20 3 

中央公論新社
2002年11月15日 初版印刷
2002年11月25日 初版発行
390p
文庫判 並装 カバー
定価1,048円+税
カバーデザイン: EOS Co., Ltd.

「『白川静著作集11 万葉集』平凡社、二〇〇〇年七月刊
(初出は『後期万葉論』中央公論社、一九九五年三月刊)」



本書は出たときに買おうとおもって忘れていたのをおもいだしたのでアマゾンマケプレで最安値(『初期』『後期』二冊セットで1,000円+送料257円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。小口がほどよくヤケていましたが紙質のせいなのでしょうがないです。


白川静 後期万葉論


カバーそで文:

「中国の文学や思想の影響が強まった万葉後期、変容する古代国家が残した歌は、その時代の心のありようを伝える。旅人・憶良・家持の分析を中心に、七夕などこの時期からの風習や言葉についても明らかにする。」


目次:

第一章 分期について
 一 万葉の世紀
 二 四分期説
 三 三分期説
 四 初期と後期
 五 「見ゆ」の推移
第二章 七夕の歌
 一 二つの歌群
 二 七夕歌の背景
 三 「かささぎ」と「ささらえ」
 四 天の川
 五 後期の七夕歌
 六 初期七夕歌
第三章 表記法について
 一 最古の剣銘
 二 古代朝鮮の表記法
 三 国語の表記
 四 歌の表記
 五 人麻呂の表記
 六 旋頭歌の問題
 七 人麻呂の位置
第四章 仮合即離の境涯
 一 山上の歌
 二 憶良渡来人説
 三 愛河の波浪
 四 日本挽歌
 五 嘉摩三篇
 六 憶良における現実
 七 貧窮問答歌
 八 絶筆三篇と臨終歌
第五章 旅人讃酒
 一 一篇の長歌
 二 虚構の文学
 三 梅花の歌と用字法
 四 酒を讃むる歌
 五 帰京
第六章 家持の軌迹
 一 相聞歌巻
 二 政治の場
 三 山柿の門
 四 遊覧の賦
 五 文と武と
 六 春愁三首
第七章 底辺の歌
 一 東歌と防人歌
 二 歌の創成
 三 伝承と表記
 四 人麻呂前後
 五 比較文学の課題
 六 よみ人知らず

あとがき




◆本書より◆


「第一章 分期について」より:

「私はさきに『初期万葉論』をかいて、人麻呂を中心とする万葉様式の成立とその推移を論じたが、この書は『後期万葉論』と題して、旅人・憶良・家持を中心に、その展開の諸相を考えてみたいと思う。」


「第二章 七夕の歌」より:

「「天の川」という名は、七夕説話に関係をもつものが多いのであろうが、中でも枚方の「天の川」は『古今集』『伊勢物語』にもみえ、著名なものである。」
「枚方の一帯は古く百済の渡来人たちが聚落を営んだところで、天野川の流域には百済寺の址、百済王神社があり、神社は百済王敬福(くだらのこきしきょうふく)の館の址であると伝えられている。」
「敬福が賜うた枚方の地は、さきに百済系の船史の祖、王辰爾が賜うた地で、その一帯は古くから百済人が聚居していたところである。服部喜美子氏の『万葉集七夕歌小考』(『万葉集研究』第十集所収)によると、この天野川の流域には、星が丘・星田・星尾やかささぎ橋などの名がみえ、また流域に天の棚橋比売大神を祭る機物神社、星田神社の末社小松神社の御神体とされる織女石、中山観音址の牽牛石など、ゆかりの地名や遺跡が多いという。その起源についてはなお明らかでないとされるが、百済寺の創建の古いことや百済人との関係の深いことから推して、おそらく渡来人たちが古くからここに住み、その旧俗を伝えて、百済寺に近い流れを天野川と名づけ、七夕の故俗をここに移して、祭事を楽しんだのではないかと思う。星が丘からかささぎ橋までは約二キロメートル、その中間の東側に百済寺がある。七夕の夜にかけて、その間に二星にちなんだ飾りやだし物などが作られ、歌や演技の類をも加えて、人びとがさざめきながらそぞろ歩き、二星会合の夜の行事を楽しんだのであろう。そして終点のかささぎ橋のところで、「白玉を五百つ集へ」て飾った織女が姿をあらわし、「足荘厳(あしかざり)」の姿よろしき彦星と、会合を遂げたのであろう。『人麻呂歌集』や作者未詳の七夕歌群が、そのような状況のなかで生まれたとすれば、いかにもふさわしいことのように思われる。」



「第三章 表記法について」より:

「四、五世紀の応神期のころ、西史(かふちのふひと)の王仁(わに)・秦氏の弓月(ゆづき)の君、東漢(やまとのあや)の阿知使主(あちのおみ)などが渡来、五世紀後半には南朝の文化を伝える百済・任那の人びと、また六世紀中葉には高句麗の文化を伝える諸族が来帰、七世紀中ごろ、天智期に百済が滅亡し、このとき数千人の亡命者があった。古い渡来者である漢人と、のちの渡来者である今来の人とによって、わが国に大陸・朝鮮の新しい文化と技術とがもたらされたが、特に集団的な移住者は、その生活態のままで移動してきたので、かれらの旧慣によって聚落を作り、その信仰によって寺を建て、神社を建て、祭事や民俗もすべて旧来のものを守り伝えた。枚方の七夕遺址なども、その故俗によって作られたものであろうと思われる。」

「『人麻呂歌集』歌・作者未詳歌のあの七夕歌の群作は、中国の典籍の中から生まれてきたものではなく、民俗的な大衆の行事の中から、その共有する意識や感情のもとに、生まれてきたものと思う。その民俗を伝え、地域社会の中でそれを演出してみせたのは、渡来者の集団であったとみてよい。中国風の説話の知識で七夕歌が作られるのは憶良・家持に至ってからであるが、それはおおむね宴飲歌であり、独詠歌である。比較文学的立場から、このように半島文化を基盤とする文化活動のなされている時期を、私は『万葉』の初期とし、万葉的なものの成立期・完成期とするのである。そしてその時期を代表するものが、人麻呂であった。」



「第六章 家持の軌迹」より:

「この「山柿」をめぐって、人麻呂、人麻呂と赤人、人麻呂と憶良、人麻呂と憶良と赤人とする説などがあり、今日に至るも結着をみない。」
「思うに、哥の今古ということからいえば、赤人の歌は明らかに人麻呂の自然讃頌より叙景への発展であり、その叙景は、神秘的な自然に対する深い共感を伴うという点において、なお呪的自然観から完全に脱却するものではない。そのような自然感情は、憶良や旅人の歌の世界と、明らかに今古を分つほどの、懸絶した相違を示している。殊に家持においては、自然はむしろ人生的な感慨を託する叙情の世界であった。家持が、あの神秘的な自然感情の世界を、自己と隔絶した世界と感じ、それに憧憬し、それゆえに「未だ山柿の門に逕(いた)らず」というとき、それは憶良の世界でないことは明らかであろう。
 憶良の世界は、人麻呂の世界と並びうるものではない。また人麻呂と異質のものとして、古の世界に並び立つものではない。憶良の人生詩、社会詩への傾斜は、家持がその歌の指標とするものではなかった。家持にとって、「春の野に霞たなびき」(中略)以下のいわゆる三絶の歌は、おそらく赤人的なものを志向した作品なのであろうが、しかしその抒情は、赤人のそれとはすでに遠いものであった。家持にとって、「山柿」はすでに遠い世界、回復すべからざる世界であった。それゆえに「山柿の門に逕らず」とする詠嘆があった。」
「家持の歌の本質からいえば、その歌には、人麻呂の格調よりも、むしろ赤人的抒情が、親縁の関係が深い。憶良との間には、作歌の基礎体験において、通じるところが乏しいように思われる。」

   「二十三日、興に依りて作る歌、二首
  春(はる)の野(の)に霞(かすみ)たなびきうら悲(がな)しこの夕影(ゆふかげ)に鶯(うぐひす)鳴くも 十九・四二九〇
  我(わ)がやどのいささ群竹(むらたけ)吹(ふ)く風の音(おと)のかそけきこの夕(ゆふべ)かも 十九・四二九一
   二十五日に作る歌、一首
  うらうらに照(て)れる春日(はるひ)にひばりあがり情(こころ)悲(かな)しも独(ひと)りし思(おも)へば 十九・四二九二
の歌がある。「春愁三首」として喧伝されるもので、家持が歌人として評価を受けたのは、主としてこの三首によるといってよい。」
「ここにあるものは、単なる抒情ではない。絶望に近い、虚脱の心境であろうと私は思う。頼むものがすべて失われたときの、あの無力感である。「春の野に」について、茂吉の『秀歌』下に、「この悲哀の情を抒(の)べたのは既に、人麿以前の作歌には無かつたもので、この深く沁(し)む、細みのある歌調は家持あたりが開拓したもの」と指摘し、「わが宿の」については「竹の葉ずれの幽かな寂しいものとして観入したのは、やはりこの作者独特のもの」という。
「「うらうらに」について、『秀歌』下に、「独居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、仏教的静観の趣でもある」とあるが、雲の中に姿を没して、身を顫(ふる)わせて啼くものは、彼自身の姿ではないか。それは狂おしいほどの、自己投棄の歌ではないか。これほど没入的に、自己表象をなしとげた歌は、中国にも容易に見当らないように思う。」



「あとがき」より:

「初期と後期という分期のしかたは、一般に行なわれている四期の分期と異なり、かつ初期を第一期にあてる一般の用法とも異なるが、それは『万葉』の編纂者が意識したであろう「古と今」という分期の観念を、尊重したのである。」
「第一章「分期について」は、その問題を論じた。」
「第二章「七夕の歌」は、七夕の俗が百済人などによってもたらされ、その俗によって七夕歌が作られているので、研究者は多く中国の七夕説話との相違を不審とするが、七夕歌と中国の詩文とは直接の関係がないことを述べた。」
「総じて初期万葉の歌について、中国の典籍からの出典を求めるのは、かならずしも重要なことではない。」
「第三章「表記法について」、稲岡耕二氏の『万葉表記論』によって提示された問題は、万葉学に新しい領域をひらくほどの重要性をもつもので、私としてもそれを理解するための対応の方法を考えてきたが、結局、古代朝鮮の文献が、漢語を並べてそれを吏読訓みするように、わが国では訓読字を並べて、形式語など補足部分を添えよみする方法がとられ、それがいわゆる略体表記であろうと考えるようになった。その原型に近いものが、『顕宗前紀』の「室寿きの詞」や「名告り」にみえ、その表記法はいわゆる「旧辞」の名残りであろうかと思われる。ともかく表記するということが、徒誦による短歌の内的韻律を自覚させ、その定型を成立させることに寄与したと思われる。
 第四章「仮合即離の境涯」は、憶良を主題とする。
 憶良の文学については、その背後にある仏教・儒教の性格から考えても、百済的な教養とみるべきところがあり、憶良渡来人説は、首肯すべきものであろうと考える。その表現の異質性ということも、そのことと関係があろう。
 第五章「旅人讃酒」、旅人はほとんど長歌を作ることがなかったが、そこにも一つの文学的態度があるのであろう。もし憶良との間に、いわゆる文学論的関係があるとすれば、旅人の短歌に対する憶良の長歌という問題があると思う。」
「第六章「家持の軌迹」、家持の歌には巧拙の差がはげしく、それはおそらく彼が、その感性のままに歌いあげたものが多いからであろう。(中略)感性は時に「春愁三首」のような傑作を生むが、その前に、春の歌の一連のような模索の苦吟をつづける時期があった。万葉様式の枯渇を思わせる作家である。
 第七章「底辺の歌」、『万葉』の歌は古い遊部・楽家的な伝統をもつ下層の集団から生まれた。『人麻呂歌集』歌・『古歌集』・作者未詳歌などがそれで、古い東歌もその類に入る。口承的なものから表記へ移ることによって、様式的な完成がもたらされる。その様式の完成者は人麻呂、それを儀礼的なものから、心理的な内省を含めて展開したものに、黒人・赤人がある。創作詩の成立は、文学史的には大きな事実で、中国における五言詩の成立と併せて、比較文学的な課題をもつ。ただ中国では、その文学の担持者として士人階級が存在したが、わが国ではそのような社会階級的な知識層は形成されず、歌は「よみ人知らず」という形で、底辺の流れをなした。『古今』の「よみ人知らず」のなかに、『万葉』の古層に属する初期の歌が多くとられているのは、そのような底辺の歌の存在を証明する。
 文学は、そのような底辺に発して、やがて上層の貴族社会・知識社会で完成され、その生命を枯渇して滅びる。『万葉』もまたそのような文学のありかたのパターンを示す一の類型として、とらえることができる。」








































































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白川静 『初期万葉論』 (中公文庫 BIBLIO)

「古代的なことだまの文学は、律令体制のなかではもはや展開の道をえないのみでなく、文学としての生命を持続することも困難であった。」
(白川静 『初期万葉論』 より)


白川静 
『初期万葉論』
 
中公文庫 BIBLIO B 20 2 

中央公論新社
2002年9月15日 初版印刷
2002年9月25日 初版発行
292p
文庫判 並装 カバー
定価857円+税
カバーデザイン: EOS Co., Ltd.

「『白川静著作集11 万葉集』平凡社、二〇〇〇年七月刊
(初出は『初期万葉論』中央公論社、一九七九年四月刊)」



本書は出たときに買おうとおもって忘れていたのをおもいだしたのでアマゾンマケプレで最安値(『初期』『後期』二冊セットで1,000円+送料257円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。小口がほどよくヤケていましたが紙質のせいなのでしょうがないです。


白川静 初期万葉論


カバーそで文:

「万葉集の「見る」という語は、自然に対して交渉し、霊的な機能を呼び起こす話であった。人麻呂の解析を中心に、呪歌としての万葉歌、秘儀の方法としての歌の位置づけを明らかにする。」


目次:

第一章 比較文学の方法
 一 古代歌謡の時代
 二 発想と表現
 三 人麻呂の位置
第二章 巻頭の歌
 一 巻頭歌の問題
 二 草摘み歌の展開
 三 巻頭歌の条件
第三章 呪歌の伝統
 一 安騎野の冬猟
 二 遊猟と招魂
 三 天皇霊の継承
 四 安騎野冬猟歌の解釈
第四章 叙景歌の成立
 一 吉野讃歌
 二 山川の祭祀
 三 見れど飽かぬ
 四 人麻呂と赤人
 五 叙景歌の成立
第五章 挽歌の系譜
 一 最初の作歌者
 二 天智挽歌
 三 挽歌と相聞
 四 短歌の展開
第六章 万葉の軌跡
 一 白鳳と天平の間
 二 『人麻呂歌集』について
 三 依羅と丹比
 四 万葉歌の展開

あとがき




◆本書より◆


「第一章 比較文学の方法」より:

「『万葉』を前期と後期とにわけて考えることは、『万葉』の全体的な理解の上に必要なことであろうと思う。そこにはいわば連続と非連続ともいうべきものがあり、両者は万葉様式の展開のうちに、それぞれ文学として異質なものを発展させ、完成させている。比較文学的な立場からその特質というべきものを規定すると、前期は巫祝的呪誦の文学をその本質としており、高貴のそれは士丈夫の詠懐的文学であるということができよう。前期の作者として確かなものとしてはまず人麻呂をあげるべきであろうが、人麻呂は古歌謡の伝統に立って、その呪的儀礼歌を宮廷文学として完成させた人であり、またその文学は、その死とともに終っている。人麻呂はその様式の完成者であり、また同時に最後の歌人であった。その文学が、旅人、憶良、家持らの後期の文学と甚だしく異質なものであることはいうまでもないが、それはそのような文学を生んだ文学的基盤、また生活者としての時代意識の相違が、すでに異質なものであったことを示している。人麻呂的古代は、人麻呂の死とともにすでに滅んだのである。後期の文学は、前期の文学の自然な推移展開によるものではなく、そこには明らかに変革がある。急激な律令的体制への移行の結果として、いまいうところの周辺革命的な激動が、このときその文学の上にも突出し表面化したのであった。
 人麻呂の位置を、もし比較文学的に中国の古代文学の展開のうちに求めるとすれば、そこにはやはり巫祝文学的な伝統が考えられてくる。すなわち『楚辞』の文学が、性質的にはかなり近いものといえよう。」



「第四章 叙景歌の成立」より:

「古代においては、「見る」という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである。国しぬびや魂振りには、ただ「見る」「見ゆ」というのみで、その呪的な意味を示すことができた。」


「第五章 挽歌の系譜」より:

「『万葉』の最も充実した作品がみられる時期は、人麻呂を中心とする持統期であり、またその時期には多くのすぐれた挽歌が作られており、挽歌の時代ともよびうる時期でもあった。挽歌は呪歌の伝統の上に立つもので、祝頌や予祝など古代呪歌のいわば結束をなすものともいいうる。しかし挽歌は天智挽歌、つづいて人麻呂の作歌ののちには、また間もなくその伝統が絶える。(中略)やがて火葬の施行とともに挽歌も衰落し果てるが、それは古代的なことだま文学の終焉を意味する。古代的なものが滅び、律令的国家の体制が急速に進行しつつあることを示す事実でもあった。
 古代的なことだまの文学は、律令体制のなかではもはや展開の道をえないのみでなく、文学としての生命を持続することも困難であった。」



「第六章 万葉の軌跡」より:

「『万葉』の歌をその成立基盤の上から区分すると、持統期の人麻呂を頂点とする古代的な呪歌の伝統のきわめて濃密な時期と、聖武以後、旅人、憶良や家持などの生活体験を直接に歌う生活的な歌の時期とに、大きく分つことができよう。いわば白鳳と天平である。」
「白鳳の文学と天平の文学とは、いわばハレの文学とケの文学という関係として規定することもできよう。前者においては、古代氏族的な原則の強い遺存が認められ、哥はその共同体的な場において成立した。しかし後者においては、個我の内面にあるものが、その文学の内容をなしている。文学におけるこのような場の転換の基盤には、古代的なものの崩壊と滅失とが、前提となる。すなわち氏族制を基盤とする古い秩序に代って、律令的官人制というべきものが、その政治秩序の基本となるのでなければならない。」
「人麻呂から旅人、憶良の時期までの二十数年間を特に問題とするのは、この間に歌の位相が一変するとともに、歌の流れが古代的な呪歌的なものから、相聞的な抒情性にはげしく傾斜してゆくこと、またその文学革命ともいうべき急激な変貌が、どのような条件のなかで進行していったかという問題を考えようとするためである。」

「白鳳の文学に対して、旅人・憶良の文学がきわめて異質なものであることは、その歌材や表現の様式の上からも著しいものがある。その文学には儀礼歌がほとんどなく、また相聞の歌がない。思想的な立場や社会的姿勢を歌うものが多く、白鳳の文学が呪歌的伝統のなかにあるのに対して、理性的・現実的でありながら、また同時に虚構の風雅に遊ぶ精神に富んでいる。」
「きびしい官人制的な秩序のなかにありながら、しかもなお個我の自由があるというのが、士人の意識であった。それが共同体のなかに自己を埋没させる古代的な集団の意識と、本質的に異なるところである。」
「古代氏族的な共同体的なものと、律令官人制的な個我の意識とは、はげしく矛盾し対立するところの古と今との世界である。しかしわが国における律令的なものは、官制的にはいちおうその方向をたどったとしても、藤原氏の専権後の律令制は、有名無実というにひとしいものであった。壬申の乱に大功のあった雄族大伴氏も、律令官人制のもとでは、その体制に順応しかねて蹉跌をくりかえし、次第に衰落する。そのような衰落感は、天平の華麗な時代の風潮のなかに、激情的な多くの相聞歌を生んだ。その相聞歌の母胎は、『人麻呂歌集』などの古歌集であり、それらの歌を伝承する地下的な集団である。その底流は家持らの後にも国風暗黒の時代を生き抜いて、やがて六歌仙につづく国風の復興を迎える。人麻呂が歌聖とされるのは、『万葉』における人麻呂作歌によるものではない。むしろ『人麻呂歌集』における、地下人たちの伝承歌の系譜によるのである。
 『万葉集』における歌のこのような展開を、その文学史的展開の相において中国の古代文学と比較するとき、人麻呂とその伝承歌の占める位置は、中国における巫祝文学の最もかがやかしい担持者とされる屈原と、『楚辞』の作品にあたるものとすることができよう。楚の巫祝集団は、巫風のさかんなこの国の古代的な祭式儀礼のすべてを掌握しており、その統領には王族のものがあてられていた。それが屈原の名において伝えられている人物であろう。この巫祝者の集団は、王権が神権的な性格を保有していた時期には、政治に対しても絶大な影響力を行使することができた。しかし楚が列国と対峙し競合するために、古い氏族制的な形態から法家的な専制王政を志向したとき、この古代的集団は都を追われ、諸処の聖地を彷徨しながらついに崩壊する。屈原の作品と伝えられている辞賦の文学は、その集団の衰落崩壊の過程において成立するのである。
 人麻呂刑死説は、おそらく人麻呂の属したであろう遊部的な集団と、その周辺にある依羅・住吉などの古代的な語部や信仰集団の性格と、急激に律令国家を志向する当時の権力集中のしかたを考えるとき、そこにある必然性というべきものを認めることができよう。」
「ともかくその死はその集団の人びとに深い哀惜悲傷の感をもって迎えられ、その死後には複数の『人麻呂歌集』などの古歌集が生まれた。その歌集にはその集団の関係の歌が多く集録されており、そのような歌の成立の背後に、やはり大きな組織の力がはたらいていたことを思わせる。『楚辞』の作品が屈原の名において結集されているのと同じ事情があったのであろう。『楚辞』の作品も、特定の巡遊的な伝承者によって、楚言をもって諷誦されていたものである。」



「あとがき」より:

「戦後の万葉学は、近年に至って未曾有の盛況を示している。しかし比較文学的な方法には特にみるべきものがなく、中国文学との関係においても、ただ作品や修辞の上での影響関係だけが問題とされているようである。第一章でふれたように、比較文学の方法は、その文学史的展開において対応する全体のなかで位置づけられた関係が、比較の対象となる。その意味でここでは、人麻呂の位置を問うことを試みた。それはまた『万葉』全体の理解にもかかわる問題を含むからである。
 第二章には巻頭の歌を問題とした。このような古代詩歌集の巻頭歌には、規範的な意味が与えられることが多く、そのため詞章の改編が行なわれることもある。(中略)雄略歌にもそのような伝承中の改変のあとがあり、伝承者の介在が考えられる。
 第三章には万葉前期の歌の本質がなお呪歌的なものであることを、人麻呂の安騎野冬猟歌によって実証することを試みた。安騎野冬猟歌の歌うところは、継体受霊の秘儀的実修とみるべきものであり、その歌もまたその儀礼実修の方法である。(中略)安騎野への山尋ね、そこでの旅宿り、そして冬至払暁の受霊の儀式は、大嘗会即位儀礼の実修形式に外ならない。「東の野に炎(かぎろひ)の」一連の歌は、天皇霊の現前とその受霊という、荘厳にして絶対的な祭式的時間を歌うもので、叙景ではない。
 第四章には叙景歌の成立を論じた。叙景の名歌とされるものには、人麻呂や赤人など前期に属するものが多いが、その吉野歌などはいずれも呪歌的儀礼的なものであって、自然詠ではない。これを自然の生命的実相にせまる叙景歌として鑑賞するのは、近代人の自然観を古代の文学に投影させた錯覚にすぎない。
 万葉後期の歌の呪歌性は、挽歌においても著しい。第五章には挽歌の成立とその系譜とを考えた。挽歌は特定の人の死に対するものであり、そこに人格感情の結晶される契機をもつ。すなわち創作歌成立の契機を含むものであり、まず短歌の律調がそこに成立する。(中略)その様式的完成者は人麻呂である。その伝承様式の完成は神権的大王の時代と時期をひとしうしているが、人麻呂の死とともにその時代も終る。
 第六章には人麻呂以後の『万葉』の軌跡を考えようとした。人麻呂の死後にもなお伝承歌の時代はつづく。伝承者は人麻呂の属した柿本氏人のほか、その妻依羅の出自である依羅神の氏人たち、また依羅神の本宗である丹比の氏人たちであった。みな巡遊者としての集団性をもち、そのような集団が前期万葉歌の淵叢をなしている。略体・非略体といわれる簡略表記は、そのような特定集団の内部で行なわれ、『人麻呂歌集』などもその集団のなかで生まれた。やがて士人社会に言志的文学が生まれるが、それは伝承歌の世界と全く異なるもので、ここにはじめて創作歌の時代を迎える。」



































































































白川静 『詩経 ― 中国の古代歌謡』 (中公新書)

「ただかれらの抵抗は、(中略)逃亡がその手段であった。」
「しかしその地を去って、果たしてかれらは楽土をえたであろうか。地上のどこにそのような楽園があろう。」
「この鬱々として解きがたい憂愁は、住むべき地を失った漂泊者のものでなければならぬ。(中略)すでに故郷の地を去って、かれらはどこに安住の地を求めようとするのであろう。わが真情を知らぬ人は、何を求めてさまようぞという。ただ少数の人びとが、漂泊の旅をつづけるわが心の憂いを知るのみである。」

(白川静 『詩経』 より)


白川静 
『詩経
― 中国の古代歌謡』

中公新書 220

中央公論社
1970年6月25日 初版
1994年6月30日 12版
ii 266p 
新書判 並装 カバー
定価740円(本体718円)



白川静 詩経


カバーそで文:

「『詩経』は溌剌たる古代人の精神と豊かな生命の胎動を伝える中国最古の詩歌集である。にもかかわらず、儒教の聖典の一つとして特殊な解釈の上に早くから古典化し、詩歌本来の姿が見失われて久しい。この古代歌謡の世界を回復するため、その発想基盤の類似性をわが『万葉集』に求め、比較民俗学的な立場から古代人の風俗と生活感情に即しつつ、哀歓をこめて歌い上げられた民謡や貴族社会の詩のうちにある生命と感動を蘇らせる。」


目次:

序章

第一章 古代歌謡の世界
 古代歌謡の時代
 歌謡の起源
 発想の様式
 揚之水三篇
 草摘みの唄
 登高飲酒
 表現の問題

第二章 山川の歌謡
 南について
 遊女の追跡
 白駒の客
 鷺羽の舞
 歌垣のうた
 季女の歎き

第三章 詩篇の展開と恋愛詩
 宗廟のまつり
 君子讃頌
 恋愛詩の成立
 愛情の表現
 誘引と戯弄

第四章 社会と生活
 結婚のうた
 棄婦の歎き
 貧窮問答
 曠野の漂泊
 流離の詩
 蜉蝣の羽

第五章 貴族社会の繁栄と衰落
 詩篇の時代
 貴族社会の繁栄
 十月之交
 喪乱の詩
 危機意識と詩篇
 宮廷詩人尹吉甫
 西周の挽歌

第六章 詩篇の伝承と詩経学
 入楽の詩
 楽師伝承の時代
 賦詩断章
 詩篇と説話
 詩経学の展開
 詩篇の特質

あとがき・参考書
周王朝系譜
地図
春秋期略年表
詩篇索引




◆本書より◆


「第一章 古代歌謡の世界」より:

「ことばの呪能を託された歌は、すでに動かしがたい存在の意味を荷(にな)うものとして、客体化された。ことばは歌として形成されたとき、すでに呪能をもってみずから活動する存在となる。(中略)原始の歌謡は、本来呪歌であった。」

「歌謡は神にはたらきかけ、神に祈ることばに起源している。そのころ、人びとはなお自由に神と交通することができた。そして神との間を媒介するものとして、ことばのもつ呪能が信じられていたのである。ことだまの信仰はそういう時代に生まれた。
 神々との交渉は、神が人とともにある時代にあっては、ことば以外にもその行為のすべてを通じて行なうことができた。たとえば、神がその願いをかなえてくれるかどうかを、無意的な人のことばによって占(うらな)うこともあった。門(かど)べに立って、ゆきずりの人のことばをそのまま神託とみなす夕占(ゆうけ)や、一定の距離を歩いてその歩数で卜(うらな)う足占(あうら)などは、日常のことであった。神にそなえた初柴(はつしば)の一枝を水に流して、そのいざようさまで卜(ぼく)する水占(みなうら)は柴刈りの行事と関連して行なわれた。旅の無事を祈って、野草を摘み、草を結ぶなどの行為が、そのまま予祝の意味をもつとされた。」
「神霊はあらゆるところに遍在しており、その姿もさまざまであった。「草木すら言問(ことと)ふ」というとき、草木にもまた神が宿ると信じられていたのである。大きな樹は特に神聖であった。鉾杉(ほこすぎ)や蔦(つた)かずら・寄生木(やどりぎ)のある大木には、必ず神が住むとされた。青山のたたずまい、たぎつ川瀬も、みな霊的なもののあらわれである。その姿をながめているだけでも、そこにある霊的な力、自然のもつ神秘な力が人の魂をゆるがし、生命力をゆたかにした。ましてや、樹(こ)の間にたちさわぐ鳥の声、季節的にわたりくる鳥のふしぎな生態は、人びとに霊の実在を信じさせた。鳥形霊の観念は、わが国の古代のみならず、ひろく行なわれていた古代的信仰であった。
 『万葉集』にみえるこのような汎神論的な世界観とそれに基づく種々の呪的意味をもつ民俗が、それらの歌の発想の基盤をなしていることは、多くの研究者によってすでに指摘されていることであり、古代歌謡の解釈にこのような事実を無視しえないkとおは、いまでは常識といってよい。『万葉集』におけるあのつつましいまでの自然へのおそれと没入とは、近代短歌の立場から試みられた『万葉』の再解釈と実は無縁のものであった。古代歌謡のこのような古代的な性格を無視して、その文学を正しく位置づけることは不可能である。
 『詩経』の詩篇が、『万葉』とその絶対年代ははるかに異なるとしても、同じような歴史的条件の時期に成立したものであることは、さきに述べたとおりである。したがって詩篇の発想にもまた、『万葉』のような発想と同様の基盤に立つものがあると考えてよい。詩篇には、自然の景象や草摘み、采薪などの行為が多く歌われている。それらはおそらく『万葉』と同じように、呪歌的発想をもつものであろう。
 詩の興(きょう)とよばれる発想法は、その主題とのかかわり合いが明らかにされないために、詩の理解を困難にし、歪めていることが多い。従来の詩篇解釈に多くみられる説話的な附会は、そのために生まれた。後にくわしく述べるように、結婚の祝頌に、どうして束薪や魚などが歌われているのか。祭祀や征旅の詩に、どうして鳥や獣の生態がしばしばあらわれているのか。誘引の詩に果物を投げる行為が歌われ、哀傷の詩に衣裳のことがみえるのはなぜか。すべてこれらのことは、単なる比喩ではなく、それを歌うことに深い意味のあることが、十分に知られていなかったのである。
 詩篇のそのような興的発想は、わが国の序詞や枕詞のような定着のしかたを示さなかったけれども、本質的にはそれと同様に、神霊との交渉をもつための発想であり、表現であった。暗示的な発想といわれる「興」の本質は、歌謡が古く呪歌として機能していたころのなごりをとどめているものなのである。そしてそれは、当時の民衆の生活と直接に連なるものであった。人びとが、かれらを神々に強く隷属させていたその古代的な氏族制のきずなから解放されて、自由にその感情を表現しうる時代が訪れたのちにも、その呪縛は古代歌謡の発想法のうちに、その思惟の様式を規定する古代的な観念として、なお濃厚に遺存した。このことを把握するのでなくては、詩篇をその当時のあり方において理解することは困難である。『万葉』の研究が、従来の注釈学的、あるいは印象批評的な解釈から脱して、その発想の場を古代人の生活と心意のうちに追求し、その表現を一つの時代的様式としてとらえようとする民俗学的な方法の導入によって、急速な展開をみせたように、詩篇の研究にもその方法の適用はきわめて有効であろう。私はこの書の中で、詩篇をそのような立場から新しく見直してみたいと思うのである。」

























































































白川静 『孔子伝』 (中公文庫)

「儒家に対するきびしい批判者とされる荘子は、その精神的系譜からいえば、むしろ孔子晩年の思想の直系者であり、孟子は正統外の人である。」
(白川静 『孔子伝』 より)


白川静 
『孔子伝』 

中公文庫 し-20-9

中央公論新社 
1991年2月10日 初版発行
2003年1月25日 改版発行
2010年4月5日 改版9刷発行
317p 
文庫判 並装 カバー 
定価895円+税
カバーデザイン: 山影麻奈


「『孔子伝』 一九七二年一一月 中央公論社刊」



本書「文庫版あとがき」より:

「内外すべて、ノモス的な幻影が世をおおうている。多分孔子も、このような時代に生きたのであろう。哲人孔子は、どのようにしてその社会に生きたのか。孔子はその力とどのように戦ったのか。そして現実に敗れながら、どうして百世の師となることができたのであろうか。私はそのような孔子を、かきたいと思った。」
「孔子は最も狂者を愛した人である。「狂者は進みて取る」ものであり、「直なる者」である。邪悪なるものと闘うためには、一種の異常さを必要とするので、狂気こそが変革の原動力でありうる。そしてそれは、精神史的にもたしかに実証しうることである。(中略)あらゆる分野で、ノモス的なものに対抗しうるものは、この「狂」のほかにはないように思う。」



それではその「邪悪なるもの」である「ノモス」とは何かというと、

「具体的には道徳や法律がそれである。(中略)ノモスは個人に対して先在するもの、個人を包む歴史的社会的一般者である。それは集団そのもののもつ権威の上に成り立つものであるから、個人的契機を含みがたい」
(本書より)

そういうわけで、本書は反体制の人としての孔子伝なのでたいへん興味深いです。本文中図版(モノクロ)多数。


白川静 孔子伝


カバー裏文:

「理想を追って、挫折と漂泊のうちに生きた孔子。中国の偉大な哲人の残した言行は、『論語』として現在も全世界に生き続ける。史実と後世の恣意的粉飾を峻別し、その思想に肉薄する、画期的孔子伝。」


目次:

第一章 東西南北の人
 伝記について
 聖人ののち
 陽虎の叛
 出国記
 亡命記
 夢と影と

第二章 儒の源流
 伝統について
 大儒と小儒
 巫史の学
 天の理想
 古典について
 儒教の成立

第三章 孔子の立場
 体制について
 群不逞の徒
 奴隷制説
 孔子教団
 巻懐の人

第四章 儒教の批判者
 批判について
 ギルド的集団
 儒墨の弁
 盗跖の論理
 孔子問礼
 稷下の学

第五章 『論語』について
 文体論
 儒家八流
 弟子群像
 『論語』の成立
 大なるかな孔子

文庫版あとがき
解説 (加地伸行)




◆本書より◆


「東西南北の人」より:

「孔子はとくに卑賤の出身であった。父のことも明らかでなく、私は巫児の庶生子ではないかと思う。晩年にはさすがに一代の師表として、尊敬を受けたであろうが、亡命中のある時期には、「夫子を殺すもの罪なく、夫子を藉(しの)ぐもの禁なし」〔荘子・譲王篇〕という、引き受け人のない亡命者、いわゆる外盗の扱いであった。」

「体制の理論とされる儒教も、その出発点においては、やはり反体制の理論であった。そのことは、孔子の行動がよく示しているところである。しかし反体制の理論は、その目的とする社会が実現したとき、ただちに体制の理論に転化する。それが弁証法的運動というものであろう。儒教的な思惟になお生命があるとすれば、それはまたやがて、新しい反体制の理論を生み出してくるかも知れない。」

「孔子の世系についての『史記』などにしるす物語は、すべて虚構である。孔子はおそらく、名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そしてそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したのであろう。思想は富貴の身分から生まれるものではない。」

「孔子が、一躍にして世人の注目をあびるようになるのは、魯に内乱的な状態が突発したときである。(中略)陽虎は孔子を招聘することに熱心であったし、公山弗擾も、いよいよクーデターを実行するとき、孔子を招いた。孔子のもつ影響力は、おそらく巫祝社会を中心として、祭司者の知識社会全体に及んでいたであろう。孔子も行動を起そうとする。しかしそれはたちまち挫折するのである。しかしその挫折は孔子を救ったと私は考える。政治的な成功は、一般に堕落をもたらす以外の何ものでもない。」

「従うものは、子路以下、顔淵など少数の主だった弟子たちであった。こうして十四年にわたる亡命生活がはじまる。(中略)この亡命生活は、かれらの間に強い運命共同体的な意識をうえつけ、(中略)思索を深める機会をも与えたであろう。それは使徒たちを伴って彷徨をつづけるナザレびとの姿に似ている。」

「しかし事実は必ずしも真実ではない。事実の意味するところのものが真実なのである。孔子を大聖として書くことは、むしろやさしい。(中略)しかし事実の意味を解くことは、実は容易ではない。意識の底によどむあるものにも、照明を当てなければならぬからである。ソクラテスがダイモンのささやきを語るとき、それは何を意味するのか。(中略)聖者といわれる人には、そういう不可解な面があるものなのだ。(中略)孔子の言動には、人が夢みるときのような、何か美しいものを感じさせるときがある。あるいはまた、何かの幻影に怖れおののくような姿がある。」

「孔子は巫女の子であった。父の名も知られぬ庶生子であった。尼山に祈って生まれたというのも、世の常のことではなさそうである。あのナザレびとのように、神は好んでそういう子をえらぶ。孔子はえらばれた人であった。それゆえに世にあらわれるまでは、誰もその前半生を知らないのが当然である。神はみずからを託したものに、深い苦しみと悩みを与えて、それを自覚させようとする。それを自覚しえたものが、聖者となるのである。
 孔子は、一生夢をみつづけた。夢に出てくるのはいつも周公であった。」
「孔子には、もう一つ幻影があった。それはダイモンのように識られざる神の声ではなく、現実の人物として行動する。しかし孔子は、おそらくその人物のうちに、ダイモンのようなふしぎな何ものかの影を感じ、これを怖れ、ときには反撥し、ときには憎悪を抱いていた。少なくとも私には、そのように、思われる。それは陽虎という男であった。」



「儒の源流」より:

「焚かれたのは巫祝であった。祝は巫に対して男巫をいい、髪を断つことをもいう語である。焚巫に用いるものは、大てい巫祝の中の異常者であった。わが国の一つ目や一本足の妖怪が、そういう古代の人身御供(ひとみごくう)から生まれた語であるように、中国では侏儒などがそれに使われたのである。儒はおそらく、もと雨請いに犠牲とされる巫祝をいう語であったと思われる。その語がのちには一般化されて、巫祝中の特定者を儒とよんだのであろう。それはもと、巫祝のうちでも下層者であったはずである。かれらはおそらく、儒家の成立する以前から儒とよばれ、儒家が成立してからもなお儒とよばれていたのであろう。」

「巫とともに、神事に従うものに史があった。巫史・祝史のようによばれていることが多い。巫史の起源は、遠い原始の時代に発している。それは人類が、何らかの意味で霊的なものの存在を意識し、それとの交渉を試みようとしたとき、すなわち人々が原始的な宗教感情をいだきはじめたときから起っている。霊的なものには、霊的な方法で対処しなければならない。そういう呪的な行為をするものが、巫史であった。」

「儒教は、中国における古代的な意識形態のすべてを含んで、その上に成立した。伝統は過去のすべてを包み、しかも新しい歴史の可能性を生み出す場であるから、それはいわば多の統一の上になり立つ。儒の源流として考えられる古代的な伝承は、まことに雑多である。その精神的な系譜は、おそらくこの民族の、過去の体験のすべてに通じていよう。孔子は、このような諸伝承のもつ意味を、その極限にまで追求しようとした。詩において、楽において、また礼において、その追求が試みられたことは、すでにみてきた通りである。そしてその統一の場として、仁を見出したのである。過去のあらゆる精神的な遺産は、ここにおいて規範的なものにまで高められる。しかも孔子は、そのすべてを伝統の創始者としての周公に帰した。そして孔子自身は、みずからを「述べて作らざる」ものと規定する。孔子は、そのような伝統の価値体系である「文」の、祖述者たることに甘んじようとする。しかし実は、このように無主体的な主体の自覚のうちにこそ、創造の秘密があったのである。伝統は運動をもつものでなければならない。運動は、原点への回帰を通じて、その歴史的可能性を確かめる。その回帰と創造の限りない運動の上に、伝統は生きてゆくのである。儒教はそののち二千数百年にわたって、この国の伝統を形成した。そしていくたびか新しい自己運動を展開したが、そのような運動の方式は、すでに孔子において設定されていたものであった。孔子が不朽であるのは、このような伝統の樹立者としてである。」



「孔子の立場」より:

「人はみな、所与の世界に生きる。何びとも、その与えられた条件を超えることはできない。その与えられた条件を、もし体制とよぶとすれば、人はその体制の中に生きるのである。体制に随順して生きることによって、充足がえられるならば、人は幸福であるかも知れない。しかし体制が、人間の可能性を抑圧する力としてはたらくとき、人はその体制を超えようとする。そこに変革を求める。思想は、何らかの意味で変革を意図するところに生まれるものであるから、変革者は必ず思想家でなくてはならない。またその行為者でなければならない。しかしそのような思想や行動が、体制の中にある人に、受け容れられるはずはない。それで思想家は、しばしば反体制者となる。少なくとも、反体制者として扱われる。孔子は、そのような意味で反体制者であった。孔子が、その生涯の最も重要な時期を、亡命と漂泊のうちに過ごしたのは、そのためである。孔子はその意味では、圏外の人であった。」

「人は所与の世界に生きるものであるが、所与はその圏外に去ることによって変りうるものである。また同時に、主体としての所与への関与のしかたによっても、変りうる。むしろ厳密にいえば、所与を規定するものは、主体そのものに外ならないともいえよう。殊に亡命生活のような、体制の圏外にある場合に、主体はむしろその自由を回復する。体制の中では反体制としてのみ措定される可能性が、ここでは自由である。可能性は限りなく高められ、純粋化される。(中略)所与の限界性を破りうるものは、天であった。孔子が天命を自覚したというのも、おそらくそのときであろう。」

「思えば、この亡命ということも、また天命であったのかも知れない。孔子は、この亡命によって、人間としての可能性を窮める機会をえたのである。(中略)もっとも孔子は、この亡命中を、「夢と影」の中でくらした。理想と現実との相克の中に身をおいたが、しかしすべてのものは、そのようなきびしい矛盾の克服を通じてのみ、成就しうるのである。」

「孔門には狂簡の徒が多かった。(中略)狂簡の士とは、「進みて取り」、「爲さざるところある」〔子路〕ものとされた。孔子はそのゆえに、深く狂簡の徒を愛した。
 孔子は最も「固を疾(にく)」〔憲問〕み、教条主義者を度しがたいものとした。次に郷原(きょうげん)を悪んだ。(中略)郷原とは、見せかけだけの形式主義者である。この種の人間よりは、狂簡の徒の方がはるかに上等である。しかし狂にも古今の別があって、「古の狂や肆(し)、今の狂や蕩」〔陽貨〕という。肆とは自由にして闊達の意であるが、蕩とは自己抑制のないことをいう。」



「儒教の批判者」より:

「批判は異質の世界に起るものではない。共通する連帯の中にありながら、その立場を異にし、目的を異にするところに、その自己諒解の独自性の主張として生まれるのである。」

「孔子のいう仁は、もとより「人を愛す」〔顔淵〕という一面もあるが、仁は孔子においては「一日己れに克ち禮に復らば、天下仁に歸す」〔同〕という、人間存在の根拠に関する絶対の自覚をいう語であった。」

「孔子の時代には、この民族のもつゆたかな伝統がなお生きつづけていた。神のことばを伝える聖人たちの教えがあった。そのことばの意味を明らかにすることが、孔子の使命であった。そして孔子はそれを、仁においてみごとに結晶させた。それは心のうちに深く求められたロゴスの世界であった。」

「ノモスは、分配を語源とするものといわれている。それは公共性の原理であった。具体的には道徳や法律がそれである。(中略)ノモスは個人に対して先在するもの、個人を包む歴史的社会的一般者である。それは集団そのもののもつ権威の上に成り立つものであるから、個人的契機を含みがたい。」

「真の実在とはカオスであり、実在の亀裂を示すものであり、渾沌(こんとん)たるものである。渾沌には目鼻があってはならない。北海の帝である忽と、南海の帝である儵(しゅく)とが、中央の帝である渾沌のところで世話になった。お礼のしるしとして、目鼻のない渾沌に、人並みの目鼻をつけてあげようということになった。七日がかりで七つの竅(あな)をうがち終ったとき、渾沌は死んだ。(中略)儵・忽とは時間的限定をいう。実在は時間や運動のように、分割することを許さないものである。分割は死を意味する。人はなぜ存在を存在として、道を道として、そのままに把握しようとしないのか。矛盾にみちたこの現実を、どうすることができるというのか。あるものはただ、己れだけではないか。存在とともにあるところの、己れだけではないか。そこに自己の存在根拠としての、荘子の本体論が生まれ、認識論が展開される。」

「儒家に対するきびしい批判者とされる荘子は、その精神的系譜からいえば、むしろ孔子晩年の思想の直系者であり、孟子は正統外の人である。」

「坐忘とは、知覚的なもの、理性的なものの放棄をいう。いわば直観である。それはノモス的な原理としての仁儀礼楽を棄てたところに生まれる。孔子において明らかにされたイデア的な世界は、やがて儒墨の徒によって、ノモス的な社会的一般者に転化された。それは集団のもつ規範性に、すべての人が服従しなければならぬ世界である。(中略)しかしそのような一般者は、その集団の超越性のゆえに、主体的な生の自由に息づくことを許さない。生の衝迫は極度に抑圧される。従ってノモス的な世界の否定は、個の主体性の回復の主張となり、より根源的な生の解放の主張となる。生の哲学、実存の哲学とよばれるものが生まれるのは、おおむねそのような思想的要求からである。荘周の思想が、しばしば生の哲学、実存の哲学とされるのもまた、その意味においてである。」

「老荘の思想を郭氏は封建的地主階級のイデオロギーであり、二千年来の土豪劣紳の哲学であるというが、それにしては、その思想は高尚にすぎるようである。先秦の文献においても、『荘子』ほどみごとな思想的文章はない。そしてまた、これほど高踏的で、政治への無関心を示したものはない。占卜の神亀として、死して廟堂の上におかれるよりも、生きて尾を泥中に曳くことを理想とする〔荘子・秋水〕。徹底的な反社会的な態度であり、生の主張である。このような独善主義、個人主義が、支配者や封建的勢力の思想、ノモス的世界のイデオロギーであるはずはない。それは脱ノモスの思想である。敗北者の思想であり、基本的には敗北の哲学である。そしてその敗北主義は、『老子』に至ってはなはだ明確な形をとる。」

「老荘の思想というが、『老子』の書は『荘子』より後に成立したものと考えられる。(中略)荘子は蒙の人であるという。その地は当時、宋に属していたらしい。」
「おそらくかれらは、亡殷の後である宋の人であろう。宋は時勢おくれの国であった。古い伝統を、愚直なほど守りつづけようとした地である。宋人といえば、切り株で兎が首を折るのを待って耕すのをやめる「待ちぼうけ」の話や、苗の生長を早めたいと思って引き抜いてしまう「助長」の話のように、間の抜けたことばかりする男である。それは、その国の国王からしてそうであった。「宋襄の仁」ということばがあるように、襄公は仁義の軍を行なうと称して奇襲策をしりぞけ、そのため大敗を喫して、ようやく成就しようとした覇業を失ったりする。また饑饉のときに、景公は、その遠祖の湯王が行なったように、積薪の上に坐して、自らを焚いて雨を祈ろうとした。(中略)宋襄の仁」は後までも世の笑い草となったが、『史記』「宋世家」の論賛には、礼譲ある行為として、君子の賞賛をえたとしるしている。この君子とは、おそらく宋の古い氏族や郷党の長老たちのことであろう。かれらは「我は愚人の心なるかな」「我獨り頑(かたく)なにして鄙(いや)しきに似たり」〔老子、二十章〕とし、しかもそれを真の生きかたであるとして肯定し、主張してやまないのである。
 宋はそういう国がらであるから、当時のノモス的世界からとり残された、特殊な地域であった。おそらく古い制度や習慣が、その氏族的なもののうちに多く保たれていたのであろうと思われる。」
「おそらく列国期の宋人も、他からは違和的な人びととみられていたのであろう。「國の垢(はぢ)を受くる、これを社稷(国)の主といふ。國の不祥を受くる、これを天下の王と爲す」〔老子、七十八章〕というような敗北の倫理は、そこから生まれる。そのような思想を生み出したものは、亡殷の余裔として長い屈辱に堪え、ノモスの世界からもはみ出している、この地の特殊な歴史地理的風土を考えなければならぬであろう。かれらは斉物棄知説や全性説を受け容れるのに、最も適した条件をもっていたのである。」
「思想は本来、敗北から生まれてくるもののようである。」



「『論語』について」より:

「『荘子』の文は、思想的文章としてはほとんど空前にして絶後である。その文は、稷下諸学士の精緻な理論を駆使し、奔放にして博大を極めた修辞を以て、超越者の自在な精神的世界を表現した。この超人は、孔子ののちに失われたロゴスを、またよびかえした。ことばはその自在な活力を回復する。」

「荘子のこのような神秘主義的な思想については、おそらく宋・楚の地をはじめとして各地に残された古い氏族や郷党の伝統を重んずる長老や祭式の関係者たちが、深い共感を寄せ、あるいはその思想の宣布に努めるものもあったであろう。かれらもまた当時のノモス的な社会のなかで、その生きかたを問われている人びとである。長老たちは同時に司祭者でもあった。その伝統をどのようにして保ちつづけるか。巨大化していよいよ暴威をほしいままにするノモス的世界から、その生活を守らなければならない。(中略)古くは「戸を出でずして天下を知る」〔老子、四十七章〕という、無事の時代であった。(中略)淳朴の時代であった。その淳朴の世に帰らなければならない。」
「それはなお、文字のない時代である。約束ごとは、縄を結んでしるしとした。それで違約のおそれはなかった。土俗の生活が疑うこともなく伝承される。そのような社会にこそ、人の真実の生活がある。しかし社会の巨大化が、すべての真実を奪うのである。長老たちは、かつての氏族社会、郷党の生活を、ノモス的社会の反極にある理想的なものとし、ユートピアとして追想する。」

「儒教のノモス化は、孟子によって促進され、荀子によって成就された。それはもはや儒家ではない。少なくとも孔子の精神を伝えるものではないと思う。儒教の精神は、孔子の死によってすでに終っている。そして顔回の死によって、その後継を絶たれている。イデアは伝えられるものではない。残された弟子たちは、ノモス化してゆく社会のなかに、むなしく浮沈したにすぎない。」

「孔子の時代は、中国の文化の伝統が、なお深く息づいていたときである。孔子はそれを象徴的に、周公の姿として夢にみることができた。孔子は「己れに克ち、禮に復る」〔顔淵〕こと、すなわち主観を捨ててその伝統の意味に参入することによって、イデアがその体認において実現される場所としての、仁を見出した。」
「ただそれは、孔子においては、具体的な形象において、実現されることはなかった。現実の上では、孔子はつねに敗北者であった。しかし現実の敗北者となることによって、孔子はそのイデアに近づくことができたのではないかと思う。社会的な成功は、一般にその可能性を限定し、ときには拒否するものである。思想が本来、敗北者のものであるというのは、その意味である。
 孔子は、ノモス化しようとする社会のなかで、仁を説いた。しかしもはやイデアへの福音が受け容れられる時代ではなかった。(中略)孔子は、ノモスの外に立とうとした。」

「孔子は晩年、巻懐の人であった。そしてそのような巻懐者としての孔子に近づこうとしたのが、「微子篇」の伝承者たちであった。かれらはおそらく南方の儒であり、荘周の学派とも交渉をもつものであろう。かれらは完全に政治を否定する。ノモス的な社会を否定するのである。そしてその立場から、孔子の政治的彷徨を批判するが、それは孔子のそのような生きかたを否定するというよりも、むしろその彷徨の果てに、巻懐者となっていった孔子に対する、共感を伴うものであった。そのゆえにそれは、『論語』の一篇として録されているのである。
 しかし孔子のこの政治的彷徨は、孔子の精神を樹立させるために、絶対に必要であった。はじめからの巻懐者というものは、ありえないからである。その極限的な状況のなかで積み重ねられてゆく内面の葛藤を通じて、人は成長する。偉大ともなるのである。(中略)孔門の晩年の高弟たちが、孔子の高い精神に容易に近づきえなかったのは、かれらが亡命の漂泊の苦しみを知らず、はじめから順調に仕官して、社会的にも尊敬される地位にあったからであろう。高い教養をもつかれらは、ノモス的な社会の指導者となった。」

「ノモス的社会といえば、今日ほど巨大な社会、物量化された社会は、かつてなかった。そして今日ほど、ノモスが社会的超越者として、おそるべき支配力と破壊力を示している時代はない。数千万の、ときには数億の民衆が、ただ一つの規範に服している。人は完全にノモスの支配下にある。しかもノモスは、いよいよみずからを巨大にするために、巨大都市を作り、巨大国家を作る。人は巨大都市が文化の破滅につらなることをおそれるが、巨大国家が人間の生きかたと、どのように関与するかを問わない。「子、九夷に居らんと欲す」〔子罕〕と孔子が脱出を望んだ圏外の世界は、次第に失われつつある。空間的な世界のことだけではない。精神の世界において、それはいっそう深刻である。」







































































白川静 『中国の神話』 (中公文庫)

「中国の濶大な天地には、かつて多くの種族がそれぞれの神話をもち、その守護神を擁して相争った。東夷、南蛮、北狄、西戎といわれる諸種族が中原をめぐって角逐し、(中略)その闘争の過程は、神話的表象として展開した。敗れた神々は悪神として辺裔に放竄せられ、勝者の神々はまたその序列を争った。」
(白川静 『中国の神話』 より)


白川静 
『中国の神話』
 
中公文庫 し-20-1

中央公論新社 
1980年2月10日 初版
2001年1月25日 7版
310p 
文庫判 並装 カバー 
定価686円+税



初版単行本は昭和50年、中央公論社より刊行。本書はその文庫化。
本文中図版(モノクロ)多数。


白川静 中国の神話


カバー裏文:

「神話なき国とされ、従来、ほとんど知られることのなかった中国の神話・伝説を底知れぬ学識と豊富な資料で発掘し、その成立=消失過程を体系的に論ずる。日本神話理解のためにも必読の書。」


目次:

第一章 中国神話学の方法
 一 第三の神話
 二 『楚辞』「天問篇」
 三 文化領域
 四 古代の王朝
 五 隠された神話

第二章 創世の神話
 一 文化の黎明
 二 夷夏東西説
 三 洪水神の葛藤
 四 伏羲と女媧

第三章 南人の異郷
 一 南方の楽
 二 銅鼓文化圏
 三 饕餮の国
 四 石寨山の文化

第四章 西方の人
 一 岳神の裔
 二 牧羊人の行方
 三 伯夷降典
 四 皐陶の謨
 五 秦の祖神

第五章 殷王朝の神話
 一 夷羿の説話
 二 河伯の祭祀
 三 玄鳥説話
 四 舜の説話
 五 太陽神とその御者
 六 光明と暗黒
 七 自然神の系譜
 八 神話の構成

第六章 ペーガニズムの流れ
 一 漢の游女
 二 江南の賦
 三 崑崙と西王母
 四 西方のパラダイス

第七章 古帝王の系譜
 一 歳星と分野説
 二 黄帝と五行説
 三 列国の説話と姓組織
 四 華夏について

第八章 神話と伝統
 一 神話と祭儀
 二 顧命と大嘗会
 三 神話と伝統

参考文献
図版解説
あとがき




◆本書より◆


「古代王朝としての殷は、その古代的な文化の様相からも知られるように、多くの神話をもっていたはずである。しかし殷の神話は、殷周の革命による殷の滅亡のために、挫折する。西北系の周は、すでに農耕的段階に達するものであったが、本来は牧畜族であった。滅び去った殷の子孫である宋の国は、周的な天下の中では異質のものとして、つねに軽侮の対象となった。戦国期の文献に「宋の人」といえば、たとえば切り株に兎がふれて死ぬのを待つ待ちぼうけの話のように、間の抜けたものばかりである。かれらの神話は、継承されなかった。大体神話は、継承される性質のものではない。国が滅びると、神話は滅びるのである。神話を失った宋の地では、のち荘子の哲学が起った。神話的な思惟の方法は、その寓話のなかに生かされる。神話は思想のなかに隠されるのである。」

「中国の濶大な天地には、かつて多くの種族がそれぞれの神話をもち、その守護神を擁して相争った。東夷、南蛮、北狄、西戎といわれる諸種族が中原をめぐって角逐し、それぞれの適地を求めて漁労、遊牧、牧畜、農耕の生活をつづけたが、そのような自然条件と生活のなかから、それぞれ異質の神話が生まれ、その闘争の過程は、神話的表象として展開した。敗れた神々は悪神として辺裔に放竄せられ、勝者の神々はまたその序列を争った。そして西方の影響を受けながら五行思想が成立するころ、戦国期の列国対峙の関係の上に、天下的世界観が形成され、神話もまた天下的世界観に対応するものとして組織される。五行の配当において中央を占める黄帝が、その組織の中心にすえられた。しかしそのときすでに、神話構成の主体となるべき王朝はなかった。五帝のような古帝王の系譜が、空間的にも、また時間的にも、この天下的世界を整序する組織の原理とされた。そこには国家神話の成立する機縁はなかった。国家神話の形成は、殷王朝の発展のなかで進められつつあったが、その古代王朝の崩壊とともに伝承を失った。そして祖祭の体系として伝えられた王統譜のみが残り、神話的系譜は、おそらく戦国期の五行的思考の上に再組織されたものが、「殷本紀」に加えられた。卜辞にみえる河・岳のような自然神の祭祀は、その高祖化の定着しないうちに滅びるのである。そしてこれに代った制服王朝である周は、ほとんど何らの神話体系をもたなかった。(中略)このもと西方牧畜的な種族は、このときすでに完全な農耕民族であったが、現実的な征服国家にとって、被征服者の古い神話はもはや摂受しがたいものであり、また不必要でもあった。そのため天の思想が、その国家理念として成立するのである。殷の人格神的な上帝に代って、人格神的形象をもたない天が一般者とされた。それがいわば、かれらの国家神話であった。それで周王朝の衰退した東周期には、列国間の秩序はすなわち天下の秩序に外ならぬという政治的関係となる。神話はそのような天下的な世界の観念的な整合と統一を志向する。黄帝を中心とする古帝王の系譜は、秦、楚のような独自の伝承をもつ異質な国家をも、その体系のうちに包摂する。それは道徳的原理として道統説となり、五行の運旋の理法を示すものとして五帝徳説となり、さらには革命の理論とさえなる。それはもはや神話ではなく、政治的主題をもつ思想であり、神話としては観念の虚構にすぎない。それが中国を神話なき国と規定させた最も大きな理由であった。(中略)神話が、本来はその神意の実現を永遠にわたって求めつづけるものであるとすれば、革命の理論に転化されるような神話の体系は、神話としての自己否定であるともいえよう。」



白川静 中国の神話 02













































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

※心の傷、胸焼け、劣等感等ある場合が御座いますが概ね良好な状態になります。

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