ジョルジュ・バタイユ 『ドキュマン』 江澤健一郎 訳 (河出文庫)

「彼は、自分がまさに切断したばかりの耳を、善良な社会にもっとも嫌悪を催させる場所に届けさせに行ったのだ。彼がこうして、何事も斟酌しない愛を示すと同時に、(中略)高尚な公認の観念を抱くあらゆる人々の顔に、いわば唾を吐きかけたことは見事である。」
(ジョルジュ・バタイユ 「供犠的身体毀損とフィンセント・ファン・ゴッホの切断された耳」 より)


ジョルジュ・バタイユ 
『ドキュマン』 
江澤健一郎 訳
 
河出文庫 ハ 4-3 

河出書房新社
2014年11月10日 初版印刷
2014年11月20日 初版発行
328p
文庫判 並装 カバー
定価1,200円(税別)
ロゴ・表紙デザイン: 粟津潔
カバーフォーマット: 佐々木暁
カバーデザイン: 戸田ツトム



本書「凡例」より:

「本書は、ジョルジュ・バタイユが雑誌『ドキュマン』(一九二九―一九三一)に発表した文章の翻訳である。バタイユの氏名ならびにイニシャルが記された文章をすべて訳出した。また、雑誌に掲載されなかった未発表の関連原稿を「補遺」に収めた。」


本文中図版(モノクロ)多数。


バタイユ ドキュマン 01


帯文:

「新しいバタイユが
渦巻き炸裂する
初期バタイユが主宰した雑誌『ドキュマン』収録の文章を集成、四十年ぶりの新訳。」



カバー裏文:

「初期バタイユが主宰した横断的雑誌『ドキュマン』。そこに彼が執筆した文章を集成し、四十年ぶりに気鋭が新訳。その後のバタイユの萌芽をしめすとともに、亀裂と不定形の思想家という新たなバタイユ像を開示する。多形な異物が渦巻く溶鉱炉から未生の思想が炸裂し生成する――世紀を超えた名著が復活。」


目次:

『ドキュマン』第一年度(一九二九年度)
 アカデミックな馬
 サン=スヴェールの黙示録
 建築
 花言葉
 唯物論
 人間の形象
 ブラック・バーズ
 眼
 八十日間世界一周
 駱駝
 不幸
 埃
 巡礼地ハリウッド
 足の親指
 屠場
 工場の煙突
 変身
 《陰惨な遊戯》
 不定形の

『ドキュマン』第二年度(一九三〇年度)
 低次唯物論とグノーシス
 空間
 自然の逸脱
 腐った太陽
 ピエ・ニックレ
 審美家
 口
 美術館
 エマニュエル・ベルル 「フロイト的順応主義」
 カーリー
 ルリスタンの発掘品
 パスカル・ピア『アンドレ・マッソン』
 プリミティヴ・アート
 ジョアン・ミロ――最近の絵画
 『Xは現場をしるす』
 供犠的身体毀損とフィンセント・ファン・ゴッホの切断された耳
 現代精神と置換の戯れ

補遺『ドキュマン』未掲載原稿
 サドとともに吠えるダリ
 サル・プレイエルにおけるフロベニウス展覧会
 インドのギリシア風芸術作品
 フォリー=ベルジェールにおける狂気(フォリー)の工場
 中央アジアにおける遊牧民の芸術
 写真家の第二グループ
 オスカー・ココシュカ展

訳者解題――バタイユと『ドキュマン』という多様体
 


バタイユ ドキュマン 04



◆本書より◆


「眼」より:

「さらにそれは、クランポンの眼に似ているのだ。彼は死刑を宣告され、ギロチンの一撃の直前に教戒司祭に懺悔を促された。彼は教戒司祭を追い出したが、自分の眼球を摘出して、そうして引き抜かれた眼を、陽気な贈り物として彼に贈ったのだ。なぜなら、その眼はガラスでできていたからである。」


引用者注: クラムポン(Eugène Crampon)は1892年にパリで殺されたよ。なぜかというと強盗をして人を二人殺したからです。処刑には見物人がたくさん詰め掛けたということです。


「屠場」より:

「屠場は、太古の神殿(中略)が、嘆願と同時に殺戮に使用される二重の用途を備えていたという意味で、宗教に属している。神話的な神秘と、流血の現場に特徴的な悲痛な偉大さの衝撃的な暗合が、間違いなくそこから生じていた。(中略)しかしながら、今日において屠場は呪われていて、(中略)隔離されているのだ。ところがこの呪いの犠牲者は、肉屋や動物ではなく愚直な人々自身であり、(中略)彼らは(中略)できるだけ屠場から遠ざかって細々と暮らし、活気のない世界に矯正されて引きこもることになる。」


「工場の煙突」より:

「大部分の人が、工場の煙突を目にするときに、そこに人類が行う労働の徴をひたすら見出して、癌のようにその人類において密かに展開する悪夢が、そこに惨たらしくも投影されているのを決して見ないことを、もちろん私は知らないわけではない。確かに、自分自身が襲われる暴力的な状況の暴露として現れるものを、原則的にもはや誰も見つめていないことは明らかである。そのような子供じみた野蛮な観点は、学識ある観点に置き換えられ、その観点によって、工場の煙突を「高所で煙を排気する管を形成する石の建築物」、すなわち抽象と見なすことができるのである。さて、ここに掲載された辞書がもてる唯一の意味は、まさにその種の定義の間違いを示すことにあるのだ。」


「変身」より:

「世界にはかくも多くの動物が存在していて、それはわれわれが失ったすべてである。」
「変身への妄執を、次のような激しい欲求として定義できる。この欲求は、ある面ではわれわれの動物的な欲求のそれと混ざり合い、人間を駆り立てて、人間性が要請する身振りと態度を突然に放棄させるのだ。たとえばある男が、アパルトマンで他の人々のただ中で、身を投げて腹這いになり、犬の餌を食べに行くように。そのようにどの人間にも、徒刑囚のように牢獄に閉じ込められた動物が存在していて、ドアが存在している。だからドアが少しでも開けば、出口を見つけた徒刑囚のように動物が外へと飛び出してくるのである。」



「《陰惨な遊戯》」より:

「知性による壮大な構築物とは、結局のところ監獄なのだ。そしてそれ故に、それらの構築物は執拗に転覆されるのである。」


「自然の逸脱」より:

「「天空の窪みのもとで観察できるあらゆるものの中で、怪物、驚異、逆転され毀損され一部を切除された自然の産物をわれわれが見るときの嫌悪感ほど、人間の精神を覚醒させ、これほど感覚を恍惚とさせ、これほど怯えさせ、これほど大きな感嘆や恐怖を被造物に引き起こすものはなにも見られない」。
 ピエール・ボエスチュオのこの文章は、一五六一年、すなわち国が災禍にさいなまれた時期に出版された彼の作品『驚異の物語』の冒頭に記載されている。」



「腐った太陽」より:

「ミトラ教の太陽崇拝は、次のような非常に普及した宗教的実践までも行っていた。木の網代で覆われた一種の穴に人が裸で入り、その上で神官が雄牛の喉を切り裂く。すると、下の人は突然、雄牛がもがく音と鳴き声を聞きながら、生暖かい血の美しいシャワーを浴びるのだ。それは、眼をくらませる太陽の恩恵を、精神的に受け取る簡潔な方法である。」


「カーリー」より:

「カーリーは激しい恐怖、破壊、夜、混沌の女神である。彼女はコレラ、墓地、泥棒、売春婦たちの守護者である。そして人間の生首のネックレスで身を飾る姿で表され、その腰帯は、人間の前腕の房飾りでできている。彼女は夫シバの死体の上で踊り、死せる巨人への不敬行為に慄然としたため、その舌は口からすっかり外に出て、そこからは彼女がさきほど首を切った巨人の血が滴り落ちている。」


「プリミティヴ・アート」より:

「まずは、手元にあるものを変質させることが重要なのだ。幼児期の間は、一枚めの紙がやって来さえすれば、汚らしく塗りたくるものである。」


「供犠的身体毀損とフィンセント・ファン・ゴッホの切断された耳」より:

「「雇い主に誘惑されて妊娠した三四歳の女性が、子供を出産したが、その子は生後数日で死亡してしまった。この不幸な女性は、そのときから宗教的な興奮と幻覚を伴う被害妄想に襲われていた。彼女は精神病院に収容された。ある朝、彼女が右目を抜き取ろうとしているのを、守衛の女性が見つけた。左眼球はすでになくなり、空っぽの眼窩からは結膜と疎性結合組織の切れ端、そして脂肪塊が見えていた。右側には、非常に顕著な眼球突出が生じていた……。」」

「フィンセント・ファン・ゴッホ(中略)は、自分がまさに切断したばかりの耳を、善良な社会にもっとも嫌悪を催させる場所に届けさせに行ったのだ。彼がこうして、何事も斟酌しない愛を示すと同時に、(中略)高尚な公認の観念を抱くあらゆる人々の顔に、いわば唾を吐きかけたことは見事である。おそらく供犠の実践は、地上から消滅してしまう。なぜならそれは、この憎しみや嫌悪の要素を十分に担うことができないからであり、そのような要素なしには、この実践はわれわれの眼に隷属と映るからである。しかし、封入されて送られた化け物じみた耳は、解放の儀式が愚かにも頓挫していた魔法の環から突然飛び出してくるのだ。(中略)その耳は、アブデラのアナクサルコスが歯で噛み切って暴君ニコクレオンの顔に血まみれのまま吐きつけた舌とともに、そしてデミュロスの顔に吐きつけられたエレアのゼノンの舌とともに……そこから飛び出してくるのである。これらの哲学者は二人とも、身の毛もよだつ刑苦を受け、前者にいたっては生きたまま乳鉢ですり潰されたのであった。」



バタイユ ドキュマン 03




「ガリカ」(フランス国立図書館)より
「ドキュマン」復刻版

















































































































スポンサーサイト

ジョルジュ・バタイユ 『文学と悪』 (山本功 訳/筑摩叢書)

「要するに、この作品の主題とは、運命のさだめによって自分の王国から追われながらも、その失われた王国をなんとしてもふたたび見つけ出そうとする焼けつくような欲望にかられるままに、とどまるところをしらなかった呪われた者の反抗である。」
(ジョルジュ・バタイユ 「エミリー・ブロンテ」 より)


ジョルジュ・バタイユ 
『文学と悪』 
山本功 訳

筑摩叢書 364

筑摩書房 1992年6月30日初版第1刷発行
x 281p 
四六判 並装 カバー 
定価2,400円(本体2,330円)
Georges Bataille : La Littérature et le Mal, 1957



「本訳書は、一九五九年五月二十五日に紀伊國屋書店より〈現代文芸評論叢書〉の一冊として刊行された。」


筑摩叢書版には、新たに吉本隆明による「解説」が付されています。


バタイユ 文学と悪


カバー裏文:

「価値の原理は、ただ「できるだけ遠く」へ行くことをのぞむものだが、悪と結びつくとき、それは過剰のかたちをとって瞬間の領域に実現する。文学にとって至高のものとは、このような悪の極限を掘りあてようとすることではないのか……。本書は、エミリ・ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ウィリアム・ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネという八人の作家を論じながら、文学と悪の関係をめぐって、バタイユが自分の根本理念を展開してみせたものである。」


目次:

凡例

まえがき
エミリ・ブロンテ
 エロチスムとは、死を賭するまでの生の讃歌である
 少年時と理性と悪
 エミリ・ブロンテと背反
 文学と自由と神秘的体験
 悪の意味
ボードレール
 人間は、みずから自分を断罪するのでないかぎり、自分を徹底的に愛することはできない
 行動性の散文的な世界と詩の世界
 詩は、ある意味では、つねに詩の反対物である
 ボードレールと不可能の彫像
 『悪の華』の歴史的な意味づけ
ミシュレ
 供犠
 呪術と黒ミサ
 善と悪と「価値」、およびミシュレの生涯
ウィリアム・ブレイク
 ウィリアム・ブレイクの生涯と作品
 詩の至高性
 ユングの精神分析によるブレイクの神話世界の解明
 悪の照明としての『天国と地獄の結婚』
 ブレイクとフランス革命
サド
 サドとバスティーユ占領
 自己破壊の意志
 サドの思想
 サドの狂熱
 狂奔から明晰な意識へ
 サドの宿命の詩
プルースト
 真理と正義とへの愛とマルセル・プルーストの社会主義
 道徳律への背反と結びつく道徳
 罪悪としてのエロチスムに立脚する快楽
 正義と真理と情熱
カフカ
 カフカを焚刑に処すべきか
 カフカと約束の地と革命社会
 カフカの完全な小児性
 子供らしい状況の固持
 フランツ・カフカのたのしげな世界
 少年時の幸福な横溢感は、死という至高の自由の動きのなかで、ふたたび見いだされる
 共産主義者(コミュニスト)たちの非難の正当化
 しかしカフカ自身は協調的である
ジュネ
 ジュネとサルトルのジュネ論
 悪への仮借なき献身
 至高性と悪の聖性
 裏切りと下劣な悪へとむかうずれ行き
 無際限な背反の袋小路
 実現不可能な霊的交通
 ジュネの失敗
 非生産的な消費と封建的な社会
 自由と悪
 真正の霊的交通とすべて「存在するもの」の不可入性と至高性
 裏切られた至高性


解説 (吉本隆明)




◆本書より◆


「凡例」より:

「この作品は、文学と悪との関係を論じながら、バタイユが自分の根本理念を展開してみせたものであり、その意味で、彼自身「まえがき」でことわっているように、「全体を通じてひとつのまとまったもの」として通読されるべきものだが、形式としては作家論集というかたちをとっており、しかもそのそれぞれは、最初、雑誌とくに「クリティク」誌に、一種の書評というかたちで別個に発表されたものである。(中略)一応参考のために、この本の配列順にしたがってそれらの書物の題名を左に列挙しておく。

 エミリ・ブロンテ――Jacques Blondel : Emily Bronte, Expérience spirituelle et création poétique, 1955
 ミシュレ――Jules Michelet : La Sorcière, 1952
 ウィリアム・ブレイク――W.P. Witcutt : Blake, A psychological Study, 1946
 サド――P. Klossowski : Sade, mon prochain, 1947
 プルースト――Marcel Proust : Jean Santeuil, 1952
 カフカ――Michel Carrouges : Franz Kafka, 1949
 ジュネ――J.-P. Sartre : Saint Genet, 1952」



「まえがき」より:

「……わたしの考えでは、文学とは、本質的なものか、そうでなければ、なにものでもないものである。ところで、文学の表現するものとは、まさしく悪――悪の極限の形態――なのだが、その悪こそ、わたしたちにとって至高の価値をもつものだとわたしは考えている。しかしそうだからといって、別に道徳(モラル)の不在を主張しようというのではない。むしろこれは「超道徳(イペルモラル)」を要求するものである。

 ところで、文学とは霊的交通 communication である。霊的交通は、誠実さを要求する。したがって、この峻厳な道徳(モラル)は、悪の認識による共犯関係から出発してあたえられるものであり、またこの共犯関係こそ、強烈な霊的交通を基礎づけるものなのである。 
 文学とは、無垢のものではなく、もともと罪深いもので、ついには自分の正体を暴露せざるをえないものである。現実の世界では、行動ばかりが権利をもっている。わたしはこの本のなかでゆっくりと暇をかけて説明したいと思うのだが、文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか。」



「エミリ・ブロンテ」より:

「ところで、この野性的な(社会の外にある)生の諸条件とは、ごく基本的なものだ。(中略)それは詩の、しかも反省の手が加えられる以前の詩の、諸条件にほかならない。このふたりの子供は、いずれも、この詩に対して心をとざすまいとしたのである。しかし、この素朴の自由なたわむれに対しては、社会は利害の計算にもとづく理性を対立させる。つまり社会は、自分の持続を可能なものにしようと按配するのだ。それというのも、子供たちを共犯の気持で結びつける少年時の衝動的な動きの至高性が、この世で支配的なものになるようなことにでもなれば、社会はとても生きながらえることはできないからである。社会的な束縛は、野性的な若者たちにその素朴な至高性をすて、おとなたちの理性的な因襲にしたがうように要求する。この場合、理性的とは、集団の利益が確保されるように計算された、という意味である。」

「要するに、この作品の主題とは、運命のさだめによって自分の王国から追われながらも、その失われた王国をなんとしてもふたたび見つけ出そうとする焼けつくような欲望にかられるままに、とどまるところをしらなかった呪われた者の反抗である。」

「こう考えてみると、真正な意味での悪とは、単に悪人のいだく夢ではなく、ある意味では、善が心に思い描く夢だということにもなる。この気ちがいじみた夢に対して求刑され受理される刑罰とは、ほかならぬ死なのだが、それでもやはり、この夢を夢みることをさまたげるものはなにもない。」

「『嵐が丘』には、ギリシア悲劇の動きにも比すべきひとつの動きがある。それというのも、この小説の主題が、掟への悲劇的な背反ということにあるからである。」

「禁制は、近づいてはならないものを崇高化する。それに近づく時には、贖罪を――死を――覚悟しなければならない。それでいながら禁制とは、障壁であると同時に誘いでもある。『嵐が丘』の教訓、ギリシア悲劇の教訓――ひいては、あらゆる宗教の教訓――とは、計算ばかりの理性的な世界にはとても許すことのできない、崇高な陶酔の動きがあるということである。この動きはまさしく善とは正反対のものだ。つまり、善とは、共通の利害への関心に根ざして、本質的に未来への配慮を前提としている。それに反して、崇高な陶酔とは、(中略)まったく現在のなかにある。したがって、子供の教育の際には、現在の瞬間への偏愛は悪の一般的な定義とされ、おとなたちは、「成熟し」なければならないものたちに、少年時の崇高な王国を禁止することになるのだ。」

「この一時的な背反も、禁制が犯すべからざるものと考えられている場合には、それだけに自由な行為となる。その意味で、エミリ・ブロンテ――とキャサリン・アーンショーと――は、いずれも背反――と贖罪と――の世界に生きているのだが、道徳よりもむしろ超道徳(イペルモラル)の立場に立っているということができるだろう。つまり、『嵐が丘』のまず第一の意味である道徳への挑戦とは、ひとつの超道徳から派生してきたものにほかならないのである。」

「「いやしい」犯罪は、「情熱的な」犯罪と対立する。世の掟はそのいずれをもしめ出そうとするが、しかし、この上もなく人間的な文学こそ、情熱の丘なのである。それだからといって、情熱は呪いをまぬがれるということはない。ただ、この「呪われた部分」こそ、人間の生のなかで、この上もなく豊饒な意味をもつものにあてられた唯一のものなのである。したがって、呪いとは、もっとも確実な祝福への道だと言うこともできるだろう。
 誇り高い存在は、自分の犯した挑戦の最悪の諸結果をも、誠実に自分の身にひきうけようとする。いやむしろ、それに敢然とたちむかってゆかずにはいられないのだ。それというのも、「呪われた部分」とは、賭の、僥倖の、危険の部分であり、さらに志向性の部分でもあり、しかも至高性とは、自分の罪をつぐなうものだからである。」



「ボードレール」より:

「わたしの考えでは、人間とは、必然的に自分自身と対立するものであり、自分を肯定することのできないものであり、したがって、みずから自分を断罪の対象としないかぎりは、自分を徹底的に愛することはできないものなのである。」


「ミシュレ」より:

「いずれにせよ、ここで彼のたどった道は(中略)、やはりわたしたちの真理の方へと、わたしたちをみちびいて行ってくれる。この道は、たしかに悪へと通ずる道だ。もちろん、暴力をふるって弱い者いじめをするといった悪ではない。それとは反対に、自由への狂おしい欲望にかられるまま、自分の利害に反してまで、はたされる例の悪である。」

「しかし妖術の祭礼が、虐げられたひとたちの祭礼であったことは事実である。征服された民族の宗教は、往々にして、征服の結果うまれた社会のなかで魔術というかたちをとる。中世の夜々をかざる祭礼も、ある意味では、たしかに古代民族の宗教的祭礼の延長である(たしかに、いかがわしい面も保存しながら。つまり、ここでいう悪魔(サタン)とは、ある意味では、たえずよみがえるディオニュソスではないだろうか)。すなわち、それは、支配的な世俗の秩序と支配的な宗教的権威との犠牲者である異教徒たち、農民たち、奴隷たちの祭礼なのだ。この卑賤の世界のことは、なにひとつ明瞭にされていないが、しかしミシュレが、この世界のことを、まるでそれがわたしたちの世界――わたしたちの胸の鼓動に生気づけられている世界――であるかのように、わたしたちの宿命でもあり、またわたしたちが自分を認めるよすがともなる希望と欲望とを、そこにこめて語ったということは、充分に賞讃されるに値いすることだろう。」
「ミシュレが、きわめて人間的な意味に富むこの世界を、汚辱のなかから拾い上げたということは賞讃に値いする。(中略)それにしても、ミシュレの弱さ――とはいうものの、これは、一般的な人間知性の弱さではなかろうか――とは、魔女を汚辱のなかから拾い上げておきながら、これを善の下婢(はしため)にでっち上げてしまったことである。すなわち彼は、魔女を、彼女がもっていたかもしれない有用性の名において合法化しようとしたのだが、実は、魔女の諸行事の真正の意味とは、むしろ彼女をこの世の外に位置づけるものなのではなかろうか。」



「ウィリアム・ブレイク」より:

「それにしても、詩人が、全般的に見て理性と合致した生を送る場合には、彼は詩の真正さに逆らうことになるだろう。すくなくとも、そのような生は、詩の十全性を保持するために不可欠な非還元性と至高の暴力とを、作品から排除してしまうことになるだろう。真正の詩人とは、この世ではまるで子供のようなものだ。彼は、ブレイクのように、もしくはまるで子供のように、なんとしても良識(ボンサンス)としかいえないものをもってはいるが、事業の管理などはとてもまかせることのできない人間なのである。詩人とは、この世では、永遠にひとり立ちできない(mineur)ものなのだろう。」

「詩は、どうあがいても、建設的なものではありえない。詩は破壊する。詩は反抗することによってはじめて真実なものとなる。罪と呪いとはミルトンに霊感をあたえたが、天国は、彼からその詩的躍動を奪い去ってしまった。」



「カフカ」より:

「カフカは、彼の全作品に「父親の圏外への逃避の試み」という題をつけたいと思っていた。しかし、(中略)カフカは決して本当に逃避したいと思っていたのではないのである。彼ののぞんでいたこととは、圏内で――排除された者として――生きることだった。もちろん彼は、心の底では、自分は追放されてしまっているということを充分に承知していた。(中略)ただ彼は、単純に、工業化され商業化されて、もっぱら利害に明け暮れている行動性の世界のなかで、鼻もちのならない人間となるようにと心がけたのである。つまり、彼は、夢想という小児性のなかにとどまることを欲したのだ。」


































































































ジョルジュ・バタイユ 『呪われた部分』 (生田耕作 訳/ジョルジュ・バタイユ著作集)

「現代では本物の奢侈と深遠なポトラッチはかえって貧者の手に、すなわち地面を寝ぐらにして何物にも目をくれぬ人間の手に帰している。本物の奢侈は富への完全な侮蔑を要求する。労働を拒絶する人間、すなわち己れの生をば、一方では際限なく破産する華々しさに、いま一方では富裕者たちの汗水たらした虚偽にたいする無言の侮蔑に仕立て上げる、そのような型の人間の憂鬱な無関心が必要である。」
(ジョルジュ・バタイユ 『呪われた部分』 より)


ジョルジュ・バタイユ 
『呪われた部分』 
生田耕作 訳

ジョルジュ・バタイユ著作集

二見書房 1973年12月10日初版発行/1991年5月31日15版発行
298p
四六判 丸背クロス装上製本 
本体ビニールカバー 貼函
定価2,500円(本体2,427円)
装幀: 村上芳正
Georges Bataille : La part maudite



本書「訳者あとがき」より:

「『呪われた部分』は、一九四九年に、深夜書房(エディシヨン・ド・ミニュイ)から、著者自身が監修する双書〈富の使用 L'Usage des Richesses〉のなかの一篇として刊行された。初版本の裏表紙には、(中略)監修者バタイユの手になると思える、同双書の趣意を明らかにした次のような言葉が掲げられている。
 〈今日の人間の前には問題が突きつけられている。すなわち彼が創りあげた富をどうするか? 無限に、戦争を繰り返すか? 富の、また全般に使用可能エネルギーの氾濫が、かくまで深刻に世界を脅かしたためしはいまだ嘗てない。
 本双書に収めた一見まちまちな諸論考は、あらゆる観点から――宗教的、芸術的、経済的――或いは、広く、理論的観点から、人間が己れのエネルギーと富にたいして施しうる使用法を考察するものである。〉」



バタイユ 呪われた部分


帯文:

「《エロティシズム》と双壁をなす代表作
《呪われた部分》とは戦争や生殖や奢侈に使用されるべく運命づけられた過剰エネルギーであり、本書はこうした非生産的消費を通して人間の内奥を探る!」



目次:

緒言

第一部 基礎理論
 〔一〕 普遍経済の意味
  一 地球上のエネルギー流動にたいする経済の依存性
  二 組織の成長に役立たぬ剰余エネルギーを利得なしに損耗する必要性
  三 機構すなわち有限的全体の貧困と生命界の資産過剰
  四 過剰エネルギーの破局的消費として見た戦争
 〔二〕 普遍経済の諸法則
  一 生化学エネルギーの過多と、成長
  二 成長の限界
  三 圧力
  四 圧力の第一効果。拡張
  五 圧力の第二効果。浪費あるいは奢侈
  六 自然の三つの奢侈。食、死、および有性生殖
  七 労働と技術による拡張、および人間の奢侈
  八 呪われた部分
  九 「個的」観点にたいする「普遍的」観点の対立
  十 普遍経済の解決法と「自意識」
第二部 歴史的資料(一) 消費社会
 〔一〕 アステカ族の供犠と戦争
  一 消費社会と企業社会
  二 アステカ族の世界観における蕩尽
  三 メキシコの人身御供
  四 死刑執行人と生贄との親密関係
  五 戦争の宗教性
  六 宗教の優位から軍事効果の優位へ
  七 供犠あるいは蕩尽
  八 神聖にして呪われたる生贄
 〔二〕 対抗的贈与(「ポトラッチ」)
  一 メキシコ社会における誇示的贈与の普遍的重要性
  二 富裕者と祭式用浪費
  三 北西部アメリカ・インディアンの「ポトラッチ」
  四 「ポトラッチ」の理論(1) 権力「獲得」に帰着する「贈与」の逆理
  五 「ポトラッチ」の理論(2) 贈与の見かけ上の無意味性
  六 「ポトラッチ」の理論(3) 「身分」の獲得
  七 「ポトラッチ」の理論(4) 基本法則
  八 「ポトラッチ」の理論(5) 多義性と矛盾
  九 「ポトラッチ」の理論(6) 奢侈と貧困
第三部 歴史的資料(二) 軍事企業社会と宗教企業社会
 〔一〕 征服社会――イスラム教
  一 マホメット教にたいする意味付けのむずかしさ
  二 聖遷(ヘジラ)以前のアラブ族の蕩尽的社会
  三 草創期のイスラム社会、あるいは軍事企業に帰着した社会
  四 後世のイスラム教、あるいは安定への復帰
 〔二〕 非武装社会――ラマ教
  一 平和な社会
  二 近代チベットと、そのイギリス人編年史家
  三 ダライ・ラマの純宗教的権力
  四 第十三世ダライ・ラマの無力と反逆
  五 軍事編制画策にたいする僧侶の反逆
  六 超過量全体のラマ僧による蕩尽
  七 ラマ僧の経済的解明
第四部 歴史的資料(三) 産業社会
 〔一〕 資本主義の起源と宗教改革
  一 プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
  二 中世の教義と慣行における経済
  三 ルターの倫理的立場
  四 カルヴァン主義
  五 宗教改革が後世に及ぼした影響。生産界の自律性
 〔二〕 ブルジョアの世界
  一 営みによる内奥性追求の根本的矛盾
  二 宗教改革とマルクス主義の類似
  三 近代産業世界、或いはブルジョアの世界
  四 物質的障害の解消とマルクスの急進主義
  五 封建制度と宗教の遺物
  六 共産主義、ならびに事物(もの)の有用性と人間との等値性
第五部 現代の資料
 〔一〕 ソヴィエトの産業化
  一 非共産主義社会の窮境
  二 共産主義にたいする知的姿勢
  三 蓄積と相反する労働運動
  四 蓄積にたいするロシア皇帝(ツアーリ)たちの無能力と共産主義の蓄積
  五 土地の「共有化」
  六 産業化の苛酷性にたいする諸批判の欠陥
  七 ロシア的問題と世界的問題の対立
 〔二〕 マーシャル計画
  一 戦争の脅威
  二 生産手段のあいだで行なわれる非軍事的競争の可能性
  三 マーシャル計画
  四 「普遍的」取引と「古典派」経済学の対立
  五 「普遍経済」の観点から見た、フランソワ・ペルーによる「普遍的」利益について
  六 ソヴィエトの圧力とマーシャル計画
  七 或いは「世界を変革」しうるものは戦争の脅威しかない
  八 「力学的平和」 
  九 アメリカ経済の完遂と結びついた人類の完遂
  十 富の最終目的の知覚と「自覚」

消費の概念
  一 伝統的有用性原則の欠陥
  二 損失の原理
  三 生産、交換、および非生産的消費
  四 富裕階級の消費的機能
  五 階級闘争
  六 キリスト教と革命
  七 物的事象の非従属性

訳者あとがき



バタイユ 呪われた部分2



◆本書より◆


「緒言」より:

「なんぴとも予想せぬ、いかなる課題にも答えぬ書物、かりに著者が教えられたことをそのまま鵜呑みにしていたならけっして書く気にならなかったであろう書物、要するにそのような奇態なしろものを、今日わたしは読者に提供しようというわけだ。」
「この書物を読みとおす忍耐を、勇気を持つ人は、ゆるがぬ理性の法則に則(のっと)って行なわれた諸考察を(中略)そこに見出すとともに、また次のような主張にも出くわすだろう。時間の中での性行為の在り方は、空間の中での虎の在り方に等しい(引用者注: 「時間の~」に傍点)。この対比は詩的幻想を容れる余地のないエネルギーの経済学的考察から発している、しかしそのためには普通の計算とは相反する、われわれを支配する諸法則に基づく力作用の水準(レベル)に置かれた思考が必要である。結局、こうした真理が姿を現わす視野の中においてこそ、より普遍的な次のような命題が意味を帯びるのだ。すなわち生物や人間に根本的問題を突きつけるものは、必要性ではなく、その反対物、「奢侈」である(「生物や~」に傍点)。」



「第一部 基礎理論」より:

「植物は使用可能空間を急速に占拠する。動物はそこを殺戮の場と化し、そうすることによってその空間の可能性を拡大する。つまりそれ自体はもっと緩慢に発展する。この点では猛獣がその最たるものであり、掠奪者としての絶えざる蹂躙はエネルギーの莫大な浪費を表わしている。ウイリアム・ブレイクは次のごとく虎に問いかけている。「いかなる深淵(ふち)、いかなる大空の彼方に、汝が双眸(そうぼう)の炎は燃え立ちしや?」彼をこのように感動せしめたものは、可能の極にある残忍な圧力、生命の強烈な消費力であった。生命の遍(あまね)き沸騰の中で、虎こそは至高の白熱点である。そしてこの白熱は、まさしく、天空の遙かな深みにおいて、太陽の消尽のうちに燃え立ったのだ。」


「第二部 歴史的資料(一) 消費社会」より:

「アステカ族は、精神的にわれわれと対極に位置している。」
「彼らの世界観はわれわれの活動目標の面でわれわれのうちに働くそれと完璧に且つ異様なふうに対立している。彼らの思考の中では蕩尽がわれわれの思考における生産に劣らぬ位置を占めていた。われわれが労働する(引用者注: 「労働する」に傍点)ことを心掛けるのと同様に彼らは犠牲にする(「犠牲にする」に傍点)ことを心掛けたのである。」

「メキシコの人身御供についてはさらに古い時代のものよりも完全な生々しいかたちで知られているが、それは一連の残酷な宗教的儀式の中で恐らく恐怖の一高峰を打ち建てるものだ。
 神官たちはピラミッドの頂で生贄を殺害するのだった。生贄を石の祭壇の上に横たえ、黒耀石の短刀でその胸を突き刺した。まだ脈打っている心臓を抜き取り、そんなふうにしてそれを太陽に向かって差しのべるのだった。生贄はほとんど戦争の捕虜であり、そうすることによって戦争が太陽の生命にとって必要であるという考え方を正当化するのだった。すなわち戦争は征服ではなく、蕩尽の意味を持っており、そしてメキシコ人はもし戦争がとだえれば、太陽は輝くのをやめるだろうと考えていた。」

「世界に労働(引用者注: 「労働」に傍点)を持ち込んだ瞬間を境に、欲望の切実性と、その自由な解放の代りに、目下の真実がもはや問題にならず、ひたすら諸作業(「諸作業」に傍点)の後々の結果が重要になるような合理的拘束が幅をきかせるに至ったのだ。最初の労働がもの(「もの」に傍点)の世界の礎をすえたのであり、その動きは古代人の世俗的生活とほぼ重なると見てよいだろう。事物の世界が確立して以来、人間は少なくとも働いている時間には、自らその世界の事物の一つと化してしまったのだ。かかる堕落から逃れんものと、あらゆる時代の人間は努力してきた。その異様な神話の中で、その残虐な祭儀の中で、当初から人間は失われし内奥性を求めているのである(「失われし~」に傍点)。」
「内奥の(引用者注: 「内奥の」に傍点)世界は現実の(「現実の」に傍点)世界と、ちょうど過度と節度、狂気と分別、陶酔と覚醒のように対立する。客体に関してしか節度は存在せず、客体と自己の一致の中にしか分別は存在せず、客体の明確な認識の中にしか覚醒は存在しない。主体の世界とは夜である。理性の眠りの中でかずかずの妖怪を生み出す(「かずかずの~」に傍点)、あの無限にいかがわしい、落着かぬ夜。「現実的」次元にいささかも従属せず、「今」にしか心奪われない、自由な「主体」の原理を示せば、狂気という言葉すら甘すぎると言えるだろう(「「現実的」次元~」に傍点)。将来を案じ出すや否や、主体(「主体」に傍点)はそれ自身の領域を捨て、現実的(引用者注: 「現実的」に傍点)次元の客体(「客体」に傍点)に従属する。つまり主体(「主体」に傍点)は労働を推しつけられない範囲内で燃焼するのだ。もしわたしがもはや「今後のこと」を気づかわず「いまあること」だけを問題にするならば、何かを保存して置くいかなる理由があるだろう? さっそく、手当りしだい、自分の自由になる財産の全てを刹那的蕩尽に使ってよいわけだ。明日の不安が取り除かれるや否や、この無益な蕩尽は、わたしにとって好ましいもの(「わたしにとって~」に傍点)となる。それにもしもこのようなかたちで無節度に蕩尽すれば、わたしは自分が内奥において(「内奥において」に傍点)そうであるすがたを同胞に呈示することになる。すなわち蕩尽こそは隔離された(「隔離された」に傍点)諸存在が通じ合う道である。激しく蕩尽する者たちのあいだでは、全てが見通しであり、全てが開かれており、全てが無限である。だがそうなれば何ものも重要ではなくなり、暴力は解き放たれ、熱が高まる限り、際限なく荒れ狂うことになる。」
「供犠は熱狂であり、共通労働組織を構成する個々人の内奥性がその中で取り戻される。暴力がその原理である、だが時空の面で労働がそれ(暴力)を制限する。」

「古典経済学は初期の交換を物々交換のかたちで想定した。もとをただせば、交換に類する獲得形態が獲得の欲求に応えるものではなく、逆に損失もしくは浪費の欲求に添うものであったなどとは、予想だにできなかったにちがいない。」
「贈与がポトラッチの唯一の形式ではない。富の荘厳な破壊でもって競争相手に挑戦することもある。破壊は、建て前として、受贈者の神話的祖先に献げられる。それは供犠とほとんど異ならない。十九世紀においてもなお、トリンギト族の一首長が競争相手のところに出頭し、その面前で幾人もの奴隷の喉をえぐって見せたことがある。定められた期限に、その損害はより多数の奴隷の殺戮でもって報いられた。シベリア北東部のチュクナ族もこれに近い制度を持っている。彼らはたいそう高価な橇犬を何頭も屠(ほふ)ってみせる。敵対集団を畏怖せしめ、圧倒する必要があるのだ。北西部沿岸のインディアンは村落を焼きはらったり、何隻ものカヌーを粉砕したりした。」











































































ジョルジュ・バタイユ 『純然たる幸福』 (酒井健 訳)

「存在するということは、ほかでもない荒れ狂うということなのだ。」
(ジョルジュ・バタイユ 「人間と動物の友愛」 より)


ジョルジュ・バタイユ 
『純然たる幸福』 
酒井健 訳


人文書院 1994年7月20日初版第1刷印刷/同25日発行
386p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,987円(本体2,900円)
装画: 大森翠



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユ(一八九七―一九六二)が第二次世界大戦後に発表した論考及び対談の選集である。」
「本書は、後期バタイユの(中略)厖大な論考のなかから重要でかつ未邦訳のテクストを訳者が選んで一つの論集にまとめたものである(ただし「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と「エロチシズムの逆説」に限っては既訳があるが、しかしすでに二〇年以上も前の訳業であり、ここに新訳で再紹介することにした)。」



バタイユ 純然たる幸福


帯文:

「待望のヘーゲル論ほか
『無神学大全』第IV巻『純然たる幸福』関係論文など、戦後バタイユの未邦訳重要論考17編、デュラスとの対話も収録。」



帯背:

「特異の思想家の
未邦訳論考」



目次:

I 文化・芸術論
スペインの文化
文化の曖昧さ
人間と動物の友愛
芸術、残虐の実践としての
作家の二律背反について――ルネ・シャールへの手紙
レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四九二―一五一九)
人の住みえぬ地球に?

II エロチシズム論
エロチシズムの逆説
エロチシズム、道徳の支え
エロチシズムあるいは存在を問いに付すること

III ヘーゲル論
ヘーゲル、死と供犠
ヘーゲル、人間と歴史

IV 思想論
第一の前提
非(ノン)-知(サヴォワール)
真面目さの彼方
飽和状態の惑星
純然たる幸福

補遺
デュラスとの対話

原注・訳注
訳者あとがき




◆本書より◆


「人間と動物の友愛」より:

「レールの敷かれた石畳の道を一頭の逆上した馬が、口から白いよだれを垂らしながら、嵐のような速度で暴走してゆくのを見てあっけにとられてしまった子供は、このとき、その馬に嘲(あざけ)りを含んだ叫びを送る母親たちを尻目に、存在たちの荒れ狂う可能性について言葉では言い表わせないイメージを受け取ったのである。もちろんこのイメージはほとんど意味を持たない。その子供は、このイメージを、有効性と秩序立った行動とからなる世界のなかに組み入れることはできない。やがて人々はこの子供に有効性と行動の世界を課すことになるのだが、そうなってもこの世界の舞台裏からはあのときの馬の蹄(ひづめ)のけたたましい音が絶えずしてきて、彼を震わせ、その震えのなかに無意味さの不吉な可能性を告げ知らせるのである。この無意味さの可能性、すなわち動物の可能性は、けっして好意的に解釈されることはないだろう。さりとて危険として非難されることもないだろう。なぜならば、荒れ狂った動物の衝撃的な姿は、人間の限界の彼方に位置しているからである。いやむしろ、動物の荒れ狂い、このエネルギーの無制限の噴出は、空想の領域に属していると言った方がよいかもしれない。この噴出は神の(引用者注: 「神の」に傍点)可能性を明示している。キリスト教よりももっと昔の時代においては神は、動物の神秘を人間の限度、節度に対置させていたのではなかったか。神の本質は、聖なるもの(引用者注: 「聖なるもの」に傍点)であること、つまり恐ろしく、捉えがたいということにある。人を死へと挑発し導いてゆく、そしてこの死の消失をものともせずさらに消費しようとする悲劇的な浪費性。これが神の本質なのである。この神の力、すなわち光と輝きの極限へ、そして限度を超えた消費の極限へ行くことのできる神の力を有しているのは、ただ嵐の荘厳さと馬の圧倒的な狂熱だけなのである。」


「芸術、残虐の実践としての」より:

「われわれのなかのごく少数の者たちだけが、この社会の巨大な機構のなかで、自分たちの本当に子供じみた反応にこだわっていて、この地球上で自分たちが何をしているのか、どのようないたずらが自分たちに仕掛けられているのかと依然素朴に自問している。この人たちは、空(そら)や絵画の謎を解くために、星空の奥や画布の背後に回ってみたいと思っているのである。あるいは、ちょうど板塀(いたべい)の隙間を見つけて中を覗き込もうとしている子供たちのように、この世界の裂け目からその中を覗いてみようとしているのである。そのような世界の裂け目の一つが供犠という残酷な習慣なのだ。」


「人の住みえぬ地球に?」より:

「原初の人間は、今日のいくつかの未開民族もそうなのだが、動物になることを考えていた。というのも彼らの判断では、動物は最も神聖な存在であり、人間が失ってしまった聖なる特質を持っていたからである。同様に、われわれのなかのきわめて素朴な人間も、動物たちこそが神々であり、人間たちはそうではないと考えるのである。動物だけが、人間の失ってしまった不可思議な特質を保持していると考えるのである……。」


「エロチシズムあるいは存在を問いに付すること」より:

「私の前では思考は一個の砂漠にすぎなかった。私はこの砂漠をきわめる必要があったのだ。私は、最終的に無(リアン)を――省察なき生であるところの恍惚と恐怖のいりまじった感情が導いてゆく無を――透明に見せる空虚へこの砂漠の内実を変える必要があったのだ。私は、体験に一つの意味を付与しようとする混濁した諸信仰のすべてを体験からそぎおとさねばならなかった。私は、何にも覆われていない裸の感性をもう一度見出さねばならなかったのだ。この裸の感性に対し、思考は、最終的に、「どの思考も無意味である」という確信しか付け加えることができない。しかし思考の付け加えるこの確信は、ささやかなものであるが、実は重要なものなのだ。というのも、この確信は、愚行の助言者である恐怖の意のままに生きないということでもあるからである。さらに言えば、この確信は、救いもなく希望(引用者注: 「希望」に傍点)もなしに存在しようとする勇気、つまり宙づりの〔=何にも従属していない〕大胆さ以外何もの(引用者注: 「何もの」に傍点)も当てにしない(引用者注: 「ない」に傍点)人間の幸福な運動のなかに存在してみようとする勇気、この勇気への勧誘でもあるからだ。極限の省察は、欺くものが何一つなかった原初の状況へわれわれを連れ戻す。」


「非(ノン)-知(サヴォワール)」より:

「死ねるようになるために生きる。喜びを味わうことで苦しむ。苦しむことで喜びを味わう。もう何も語らなくなるようにするために語る。非(ノン)-知(サヴォワール)の“非(ノン)”というのは知る(サヴォワール)まいとする情念を目標にしてめざしている認識――あるいはこれを認識の目標にするのを否定している認識――の媒介項である。」

「思考の領域はどうかといえば、この領域は恐しい。そうなのだ、恐怖そのものなのだ。
 考えるということは、常軌逸脱した錯乱によって、抑止しがたい欲望そのものであるこの錯乱によって、死にゆく瞬間に導かれることなのである。それは、防護柵のない屋根の斜面を夜のなかへ滑ってゆくことなのだ。何ものによっても静められない風のなかへ滑ってゆくことなのだ。思考が厳密になればなるほど、脅威も増してくるのである。」

「だが死が呼びかけてくるとはいっても、その呼びかけは一種の深い沈黙なのだ。呼びかけの騒がしさが夜を満たしはするのだが、死の呼びかけとは深い沈黙なのである。そして死の呼びかけに対する応答の方も、ありうべきいかなる意味も欠いた沈黙なのである。いらいらさせるのは、心が耐えうるなかで一番大きな悦楽、物悲しくて、ずっしり重くのしかかってくる悦楽、際限のない重力だ。」

「もしも私が、夜のなかで、即座に、こうした実感を書きとめておかなかったのならば、私はもうすでにこうした実感を忘れてしまっていただろう。このような状態は、世界の現実が消え失せることを前提にしている。眠りに襲われるなかで私は、自分がやがて寝床での無活動に戻ってしまうだろうことをはっきり知っていたのだが、しかし結局私は眠りから脱け出したのだった。そして私は、何ものをも侵すことのない、また逆に何ものによっても侵されることのない漂流する生になったのだった。このような瞬間は、完全に世界の外にあるのであって、その限り、われわれから看過される。このような瞬間の、何にも関(かか)わらないありよう、孤独、沈黙は、われわれの注意を引きつけない。このような瞬間は、まるで存在しないかのように存在し続ける(中略)。それだからわれわれはこうした瞬間を無意味なものだとみなす。しかし昼間の意味だけが、つまり服を着るとか、外出するとか、物を整理するとかいった意味だけが消滅したのだ。そのため昼間の意味は無意味になってしまったのだ。他方、夢の意味もまた存在しなくなっている。しかし夢の意味とはいってもこの意味は、不条理になった昼間の意味のことなのである。それだから夢の意味の不条理さは注意を引きつけ裸のもの(引用者注: 「裸のもの」に傍点、以下同)を知覚するのを妨げる。裸のものとは、すなわち、自らを隠し、自らを拒否し、しかも自らを隠しながら、自分以外のものが嘘をついていたことを露に見せるあの沈黙せる無辺際の対象のことなのだが。

 この数ページは熱に浮かされたような観を呈しているが、しかしはたして私の精神以上に確固としていて冷静な精神が存在するだろうか。」

「私は、世界を、そして自分自身のありようを、不可避の限度として、掟として、みなすことを拒否しているのだが、それだからといってどうして意気阻喪したりしようか。私は何ごとにも同意しないし、何ごとにも満足していない。私は認識不可能の未来へと進んでゆく。」



「純然たる幸福」より:

「純然たる幸福は瞬間のなかに存在する。しかし苦痛が私をこの瞬間から追い出してしまった。私は、苦痛が静まるはずの未来時の瞬間を期待してしまったのだ。もしも苦痛が私を現在時の瞬間から引き離すということがなかったのならば、《純然たる幸福》は私のなかにあるはずだろう。しかし今、私は語っている。私において言語の活動は、苦痛が引き起こすものなのである。」

「純然たる幸福は苦痛の否定である。どんな苦痛をも、苦痛への直観的把握であっても、否定するのだ。純然たる幸福は言語の否定である。」

「言語は、事物だけしか指し示さない。言語の否定だけが、人を、限界などない存在する(引用者注: 「存在する」に傍点)ものへ、何もの(引用者注: 「何もの」に傍点)でもないものへ、直面させる。」



「デュラスとの対話」より:

「私の考えでは至高性は、特権に、ではなくむしろ窮乏に、到達するのです。」

「結局、狂人こそが至高者の完全なイメージであると言えるのかもしれません。」

「人間は、たとえ狂者として振舞うべきでないとしても、狂気の権利は認めてやらなければなりません。」

「私は希望のなかに生きている人間ではありません。私には、どうして人が希望を失ったことで自殺できるのか全然分かりませんでした。人は、絶望しなおかつ一瞬たりとも自殺することは考えないということができるのです。人は、希望でだけ満足しているわけではないのです。」

「私は一度として政治的生活に身を投じたことはありません。私にとっていつも重要だったことは、理解することだったのです。私はいかなる個人的欲求も持ったことはありませんでした。たしかに私は、この世界を、反抗に打ってでねばならないような許しがたい世界だとは思っておりました。しかし一度としてこの許しがたい世界に解決を見出そうとしたことはなかったのです。」

「御理解頂きたいのですが、私には、世界に対して責任を感じている人々が持つ使命感が欠如しているのです。政治の方面では私は、ある点まで、狂人たちの無責任さを自分の権利として要求します……。私はさほど気が狂っているわけではありませんが、しかしいかなる意味においても世界に対して責任をとったりはしません。」

「けれども繰り返し申し上げますが、私は共産主義者ですらないのです。」
「私はこの世界にいかなる希望も持っていないのですから、そしてまた私は現在時のなかで生きているのですから、今よりあとに始まることにはとても心が配れないのです。」
「もう一度申し上げますと、私は自分のうちに使命を感じていないのです。」



























































































































ジョルジュ・バタイユ 『ラスコーの壁画』 (出口裕弘 訳/ジョルジュ・バタイユ著作集)

「労働する者、労働しつつ自分の形而下的行為の有効性を計算する者としての人間を、否定することこそがつねに問題だった。推論せず労働しない動物という存在に結びついた、神的な、非人称的な要素のために、人間を否定することこそが問題だった。人間は、労働という合理的行為を導入したせいで、自然の秩序を破壊したという意識を持ったのにちがいない。」
(ジョルジュ・バタイユ 『ラスコーの壁画』 より)


ジョルジュ・バタイユ 
『ラスコーの壁画』 
出口裕弘 訳

ジョルジュ・バタイユ著作集

二見書房 1975年2月12日初版発行/1979年10月5日3版発行
247p 図版64p(うちカラー32p)
四六判 丸背クロス装上製本 
本体ビニールカバー 貼函
定価2,500円
装幀: 村上芳正
Georges Bataille : La peinture préhistorique Lascaux ou la naissance de l'art, 1955



別丁図版68点(うちカラー34点)。本文中図版(モノクロ)9点。


本書「訳者あとがき」より:

「邦訳の題名は簡明を心がけて『ラスコーの壁画』としたが、原著のタイトルは『先史時代絵画、ラスコーあるいは芸術の生誕』である。スイスのスキラ書店が出した「絵画の大世紀」というシリーズの第一巻に当り、一九五五年の春刊行された。」


バタイユ ラスコーの壁画1


帯文:

「神秘的な洞窟の中で原始に回帰し、先史時代絵画の驚嘆すべき美に酔いながら、芸術の生誕と人間の本質に関する問題とを熱烈に語る、作者晩年の名著!」



目次:

序言
ラスコーの奇蹟
 芸術の生誕
 ラスコーと芸術作品の意味
 ギリシアの奇蹟とラスコーの奇蹟
ラスコー人
 ネアンデルタール人からラスコー人へ
 ラスコー人の豊饒さ
 天才の役割
 遊びの誕生
 死の認識と死をめぐる禁止
 各種の禁止の、固く連結しあった全体
 禁止の超克――遊び、芸術、宗教
 禁止と違反
洞窟の全容
 この、私たちの生誕の場で……
 牡牛の主洞
 奥洞
 解読不可能な徴(しるし)
 通路、身廊、および猫の部屋
 後陣と「井」
 ねじれた画法と、画像の制作年代
人物の表現
 獣の幻惑的魅力で身を飾った人間
 「井」の人間
 オーリニャック期の人間の画像
 マドレーヌ期の画像
 女性の像
ラスコーの動物芸術
 動物たちと、その人間たち
 狩猟、労働、超自然的世界の生誕
 芸術の歴史におけるラスコーの位置
補遺
 洞窟の発見
 洞窟絵画の真贋
 先史絵画の技法
 「井」の情景の解釈

本書に引用されたラスコー以外の先史時代画像
訳註
年代試表・地図・洞窟見取図

訳者あとがき



バタイユ ラスコーの壁画2



◆本書より◆


「ラスコーで経験する驚きのことをここで力説しておこう。この途方もない洞窟は、見る者を驚倒させずにはおかない。芸術においても恋愛においても、もっとも深い生命の息吹きであるはずのあの奇蹟への期待に、この洞窟はたえず応えてくれるのである。しばしば私たちは、驚かされたいという欲求を子供っぽいものと判断しがちだが、私は主張を繰返さざるをえない。私たちから見て愛されるに値すると映るものは、つねに私たちを驚倒させるものなのだ。期待を越えるもの、期待すべくもないものなのである。逆説的に響くだろうが、まるで私たちの本質は、到達不可能とされるものに到達したいという熱望そのものにあるかのようだ。」

「いずれにしても人類学者たちのいうホモ・ファーベル(労働の人間)は、遊びが誘(いざな)っていったかもしれぬ道の方には踏みこまなかった。あとから来たホモ・サピエンス(知識の人間)だけがその道に踏みこんだ。その踏みこみかたは断乎としており、手練に輝き天分に充ちた一個の芸術が、おそらく最初の粗描からしてただちに生れ出たのである。こうした形でホモ・ファーベルの狭苦しい世界を開放した者に、私たちはホモ・サピエンスの名を与える。だがこの名称はあまり的を射たものとはいえない。(中略)馴鹿時代の人間を、特にラスコー人を問題とするのならば、私たちは知識ではなく、本質的に遊びの一形態たる美的活動を力説した方が、先行する時代の人間から彼らをより正確に分つことになるのではなかろうか。ホイジンガのホモ・ルーデンス(遊ぶ人間、特に、驚異に充ちた芸術の遊びを遊ぶ人間)という美しい表現の方が、ラスコー人にはふさわしいし、唯一の適切な表現でさえあるだろう。この表現だけが、ネアンデルタール人というホモ・ファーベルに対応する像を、この上なく正確に刻むことができる。ホモ・ファーベルは発育不良症であった。(中略)鈍重さという点で彼は類人猿の仲間だったのだ。よく笑う、誘惑好きな遊び=の=人の、出来のいい様子(中略)、決然とした至高者的な物腰は、人類学がついに適切な命名を見出せぬまま、ようやくホイジンガに至って満足すべき名を与えられた、ホモ・ルーデンスに始まるのである。(中略)従属的活動性を示すファーベルと対立するもの、自己目的にしか意味の拠りどころを持たぬもの、つまり「遊び」を指示するための、これは唯一の名称ではないであろうか。(中略)もちろん遊びは進化の原因とはならない。しかし、鈍重なネアンデルタール人が労働と一致し、繊細な人間が芸術の開花と一致することは疑いを容れないのだ。」

「私はさきに禁止と労働との関係をめぐって言葉を尽した。禁止は――できるだけ、力の及ぶかぎり――労働によって組織された世界を、死と性活動がたえず持ちこむ混乱から庇護しようとする。私たちを生み出した泥土のようなものである生と自然とが、私たちのなかにたえず持ち込む持続する動物性から、と言いかえてもいい。旧石器時代後期、馴鹿時代において、芸術活動という形態のもとに労働が遊びによって超克されたとき、芸術活動はまず第一に労働であった。ただ、この労働は労働を超克するという形で遊びの意味を帯びたのだ。この解氷期にあっては、労働の生み出した禁止それ自体が打撃を受けた。禁止というこの精神の障害物、この停止と鈍磨の時間は、簡単に存在をやめることはできない。障害も鈍磨も力を失うわけではなく、ただ遊びが労働を超克するのと同じ形で、生がそれらを超えたのである。」
「不安の欠如のせいで、あるいは感受性が不充分なせいで行なわれた運動ではなく、逆に、不安の体験があるにもかかわらず行なわれた運動にこそ、違反の名を与えるべきだと私は考えている。真正な違反においては不安は激甚なものであるはずだ。ただ、祝祭の時には興奮が不安を超克し、除去してしまう。私の指摘する違反は宗教的違反であって、恍惚の源泉をなし宗教の基盤をなす忘我的感性に結ばれている。それはまた、供犠をもって絶頂の瞬間とする、あの祝祭に結ばれている。古代人は供犠行為に、参列者たちの不安に充ちた沈黙のなかで犠牲者を死に至らしめる、供犠執行者の犯罪(引用者注: 「犯罪」に傍点)を見ていた。執行者が、事情を熟知した上で、自分もまた不安に駆られつつ殺人の禁止を犯す、そういう犯罪をといってもいい。さしあたって重要なのは、芸術がその本質においても、またその実行段階においても、この宗教的違反の瞬間を表現しているのだということ、芸術だけが不可欠の重厚さをもってその瞬間を表現しており、芸術とはその瞬間の唯一の帰結点なのだということである。それは欲望を支配する違反の状態であり、より深く、より豊かで、驚異に充ちた世界への強烈な要求であり、つづめていえば一つの聖なる世界への要求である。違反はいつも驚異に充ちた形式を身にまといつつ姿を現してきた。詩、音楽、舞踏、悲劇、あるいは絵画というような諸形式である。芸術の形式はあらゆる時代の祝祭にしか起源を持っていないし、祝祭はもともと宗教的性格を持つものだが、芸術のあらゆる方策の全面的展開に結ばれている。私たちは祝祭を生み出す運動と縁のないような芸術を思い描くことができない。遊びはある点では労働の掟の違反である。芸術、遊び、違反は、労働の正規性を司る諸原理の否定という単一の運動のなかに、固く結合しあった形でしか互いに出会うことがない。労働と遊びとを、禁止と違反とを、俗の時間と祝祭の激昂とを、反対物がたえず合成しあい、遊びそれ自身が労働の外見を取り、違反が禁止の確立に貢献するような、ある種の軽やかな均衡状態において一致させようとするのは、おそらく原初期の人びとの――いまなお古代風社会でそうであるように――主要な関心事であった。私は一種の確信をもって、次のように主張したい。すなわち、厳密な意味で、違反は芸術そのものが明白に姿を現す瞬間以後、はじめて存在するのだし、馴鹿時代には芸術の生誕はほぼ祝祭や遊びの喧騒と一致したということである。ラスコーの画像が洞窟の奥でそのことを告げている。つねに自己を超え、死と生誕との戯れのなかで、はじめて完全なものとなる「生」を、一面に溢れきらめかせているあのラスコーの画像がである。」

「労働する者、労働しつつ自分の形而下的行為の有効性を計算する者としての人間を、否定することこそがつねに問題だった。推論せず労働しない動物という存在に結びついた、神的な、非人称的な要素のために、人間を否定することこそが問題だった。人間は、労働という合理的行為を導入したせいで、自然の秩序を破壊したという意識を持ったのにちがいない。」

「ラスコーの動物たちは、神々、あるいは王たちの水準にあるように思われる。歴史時代に入っても、太古には至高性(自分だけで、一つの目的として完結しているような者の属性)は王のものであり、王と神は混同され、神は獣と弁別できなかったという事実を、ここに指摘しておくべきであろう。ラスコー洞窟に入れば、初期人類のこの原初的真理を決して見失うことはありえない。」



バタイユ ラスコーの壁画3

































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本