サミュエル・ベケット 『ジョイス論/プルースト論 ― ベケット 詩・評論集』 高橋康也 他訳

「いったいわたしは何をしよう 昨日と同じ今日と同じことをする
わたしの舷窓(げんそう)から外をのぞき 他にもいないかと捜すのだ
わたしのように彷徨(ほうこう)し すべての生から
遠く離れて ぐるぐるまわっている者はいないかと」

(サミュエル・ベケット 「フランス語詩」 より)


サミュエル・ベケット 
『ジョイス論/プルースト論
― ベケット 詩・評論集』 
高橋康也 他訳


白水社
1996年6月25日 印刷
1996年7月10日 発行
292p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,700円(本体2,621円)


「本書はかつて小社から『詩 評論 小品』として刊行されたものを改題・新装復刊したものである。」



ベケット ジョイス論 プルースト論


目次:

ホロスコープ (高橋康也 訳)
こだまの骨 (高橋康也 訳)
二つの詩 (高橋康也 訳)
フランス語詩 (片山昇 訳)
ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス (川口喬一 訳)
プルースト (楜澤雅子 訳)
ヴァン・ヴェルデ兄弟の絵画――または世界とズボン (岩崎力 訳)
三つの対話――サミュエル・ベケットとジョルジュ・デュテュイ (高橋康也 訳)
『勝負の終わり』についての手紙――サミュエル・ベケットからアラン・シュナイダーへ (安堂信也 訳)
被昇天 (高橋康也 訳)

訳注
解説 (高橋/片山/川口/楜澤/岩崎/安堂)




◆本書より◆


「プルースト」より:

「したがって、プルーストの創造した人物たちは、この支配的な条件と状況、すなわち《時間》の生贄(いけにえ)なのである。(中略)生贄であり、かつ、囚人である。時間と日々から脱出するすべはない。(中略)こうしてわれわれは、いわば、タンタロスの立場にある。違いは、われわれは、タンタロスの責苦を負わされるがままにしておく、という点である。そしておそらく、われわれの幻滅の無窮動(ペルペトゥム・モビレ)は、いっそう多様にならざるをえないだろう。昨日の願望は、昨日の自我には有効であったが、今日の自我には有効ではない。われわれは、みずからすすんで成就と呼ぶところのものがむなしいことを知って、失望するのである。だが、成就とはいったい何か。主体とその欲望の対象との同一化である。主体はその途上で死んだ――しかもおそらくはいくたびも。」

「プルーストによれば、友情とは、あらゆる人間が運命づけられている、あのどうにもならない孤独を否定することである。友情といったとき、そこには、表面の価値をほとんどいたましいほどに受け入れることが、暗黙のうちに含まれている。友情は、室内装飾やごみバケツの分配のごとく、一つの社会的な便法である。それは、なんら精神的な意味をもたない。芸術家にとって、(中略)友情を退けることは、合理的であるばかりでなく、必要なことなのである。なぜなら、唯一の可能な精神的発展は、深さという意味においてなのであるから。芸術の傾向は膨張ではなく、収縮である。そして、芸術は孤独の神格化である。そこには、いかなる伝達も存在しない。伝達の手段が存在しないからである。」
「「人間は」とプルーストは言う。「表面に建て増しのできるような建物ではなく、一本の木であって、その幹や葉は、内部の樹液の表現である。」われわれは孤独だ。われわれは知ることができないし、人から知られることも不可能である。「人間は、自己から出てくることのできない生きものであって、他人を、自己のなかにおいてしか知らない。そして、そうではないと主張すれば、嘘(うそ)をつくことになる。」
 例によって、ここでもまた、プルーストは、あらゆる道徳的配慮にはまったく超然としている。プルースト自身においても、彼の描く世界においても、善悪は存在しない。(中略)悲劇は、人間の正義にかかわるのではない。悲劇は、贖罪(しょくざい)の表明である。ただしそれは、やくざな人間の手で愚民どものために組織された地方的なとりきめを、法的に犯したことに対する、みじめな罪ほろぼしのことではない。悲劇的な人物は、原罪のあがないを表現している。彼とその「悪い仲間たち(ソキ・マロルム)」の、原初からの永劫(えいごう)の罪、生まれてきたことの罪のあがないを。

  なぜなら人間のもっとも大きな罪は
  生まれてきたということなのだ」

「これまで検討してきたかぎりにおいて、プルースト的解決は、《時間》と《死》の否定にある。《時間》の否定あるがゆえに、《死》の否定がある。《死》が死んだのは、《時間》が死んだからである。」

「プルーストのイメージの大半が植物的である、ということは意味深い。彼は、人間に関する事柄を、植物的なものになぞらえる。人間というものを植物相(フローラ)として意識し、けっして動物相(フォーナ)として意識しないのである。(中略)こういう先入主は、当然のことながら、倫理的価値や人間的正義に対する完璧(かんぺき)な無関心を伴う。花や草木は、意識された意志をもたない。それらは、生殖器官をさらけ出したまま、恥じることを知らない。ある意味で、プルーストの描く男女もまた、そうである。(中略)善悪は問題にならない。同性愛は、けっして悪とは呼ばれない。それは、桜草や溝萩(みそはぎ)の受精方法同様、道徳的意味合いを欠いているのだ。そして、植物界の成員のように、彼らもまた、一個の純粋主観を強く要請するように思われる。(中略)プルーストがすなわち、その純粋主観である。彼は、不純な意志をほぼ免れている。彼は意志の欠如を嘆くが、ついに理解する。意志は知性と習慣の僕(しもべ)であって、功利的なものであるから、芸術的経験の条件にはならない、と。主体が意志を免除されるとき、客体は、因果関係(《時間》、《空間》を一つにして考えた)を免除される。そして、人間のこういう植物機能は、《原型(モデル)》、《観念(アイディア)》、《物(シング)》それ自体をとらえることのできる、先験的な統覚作用によって、純化されるのである。
 したがって、(中略)プルーストには、意志の挫折(ざせつ)というものが存在しない。彼はパリで、あかりのそばに一枝の林檎(りんご)の花を置き、白い花冠の白い泡をみつめながら、やがて空がしらみ、花冠が赤く色づいてくるまで、夜じゅう眠らずに起きている。(中略)プルーストの停止状態は観照的であり、純粋に知力の行為であり、無意志であり、「愛すべき狂気(アマビリス・インサニア)」であり、「より愛らしい狂気(ホルター・ヴァーンジン)」なのである。」



「三つの対話」より:

「ヴァン・ヴェルデはこの美学化された自動作用から身を引いた最初の画家であり、(中略)《結びつき》の厳然たる不在に徹底的に身を屈した最初の画家である。芸術家であるとは、他の何人(なんぴと)もあえて失敗しようとはしないようなやりかたで、失敗することにほかならぬということ、失敗こそ芸術家の世界であり、それから尻込みすることは戦列放棄、工芸品作り、マイ・ホーム、生活にほかならぬということを認めた最初の画家である。」





















































































































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サミュエル・ベケット 『ワット』 (高橋康也訳)

「・明らかに柔軟性を欠いた、ある一定の、有用性のない生活上の決まりや儀式的行動への固執。
・いつも決まった形で繰り返される習癖的な身体の動き(例えば、手をパタパタさせたり指をひねる、全身の複雑な動き)。
・ものの一部、またはもの自体に、いつまでも没頭する。」
(「DSM-IVによるアスペルガー障害の診断基準」より)


サミュエル・ベケット 『ワット』
高橋康也 訳


白水社 1971年10月25日印刷/1971年11月5日発行
329p 四六判 丸背紙装上製本 貼函 定価1,200円
Samuel Beckett : Watt



「ワットはこの小さな声をどう理解していいのか、それが冗談を言っているのか、それともまじめなのか、わからなかった。」

本書冒頭近くの「原注」に、「本作品においては、《言う》という動詞のあとに来るよけいな再帰代名詞《自分に》を省くことによって、多くの貴重な紙面を節約した」とあります。この「原注」から分かることは、本書の一見「よけいな」もののようにみえる描写には、貴重な紙面を割くだけの価値があるということ、そして本書の登場人物たちの発言は、たとえそれが会話の形をとっていたとしても、すべて「独り言」である、ということです。

本書に頻出するベケット・ギャグは、「オチ」がないので、わからない人には全くわからないとおもいますが、病人だらけの「リンチ家」の話や、寝ているとき以外はずっと食べ続けているメアリーの話、尿瓶ネタ、順列組合せギャグなど、たいへん興味深いです。ベケットは、冗談が冗談として成立するために不可欠な「切上げ時」を無視して、冗談が冗談でなくなるまで冗談に没頭するのです。というか、それはそもそも冗談ではないのです。


ワット1


ワット2


本書より:

「ワットがたとえば真東へ進むときの歩きかたはこうであった。まず上半身をできるだけ北へ向け、同時に右脚をできるだけ南へほうり出す、つぎに上半身をできるだけ南へ向け、同時に左脚をできるだけ南へほうり出し、つぎにふたたび上半身をできるだけ南に向けて、左脚をできるだけ北にほうりだす、といった調子で、何回も何回も、目ざすところに到着して腰をおろすことができるまで、これを繰り返すのである。」


ワット4


本書より:

「ワットが、だいきらいなものが二つあるとすれば、ひとつは月であり、もうひとつは太陽であった。」

「ワットがだいきらいなものが二つあるとすれば、ひとつは大地であり、もうひとつは空であった。」

「やつは実に正直なんだ、嘘をつくことはできない男だよ。」

「あんなにおとなしくて、あんなに害のない人間はまたとないくらいなんだよ、とニクソン氏は言った。やつなら文字どおりもう一方のほっぺたをさし出しかねない男なんです、ほんとうの話、まあやつにはそうする体力がないだけです。」

「ワットは以前に人びとが微笑を浮かべるのを観察したことがあり、どうやればいいのか自分でもわかっているつもりであった。そして確かに、微笑を浮かべたときのワットの顔は、たとえば嘲笑やあくびよりは、どちらかといえば微笑に似ていた。しかしワットの微笑にはなにかが、なにかちょっとしたものが、欠けていて、初めてそれを見るひとは、そしてたいていのひとは初めてそれを見るのだが、正確に言って本人がどういう表情のつもりなのか、判断に迷うのだった。多くのひとには、単に歯をなめているようにしか見えなかった。」

「目的地に背を向けるというワットの好み」

「ワットが自分を見いだした状況たるや、彼がかつて自分を見いだした状況のどれともちがって、言葉によって定式化されることを拒もうとするものであった。たとえば溲瓶(しびん)ないし鍋ないし壺、まあ溲瓶としておこう、ノット氏の溲瓶を見たとする、またはノット氏の溲瓶のことを思い浮かべるとする、しかしいくらワットが、溲瓶、溲瓶と言ってみてもむだであった。まあ、まったくむだではないにしても、ほとんどむだであった。つまりそれは溲瓶ではないのである、見れば見るほど、考えれば考えるほど、彼には確かな気がした、それはまったく溲瓶ではない、と。それは溲瓶に似ていた、それはほとんど溲瓶であった、しかしそれは、溲瓶、溲瓶、と言って、それで心安らかになれるような溲瓶ではなかった。それが、比類のない適切さをもって、溲瓶のあらゆる目的に答え、そのあらゆる機能を果たしたとしても、むだであった、それは溲瓶ではなかった。そして真の溲瓶の本質からこのように髪の毛一本ほどだけ隔たっているということが、ワットを限りなく苦しめるのであった。というのは、もしこれほどに接近していなければ、ワットはこれほど苦しみはしなかったであろう。というのは、その場合には彼は、これは溲瓶であって溲瓶でない、とは言わなかっただろう、そうだ、その場合は彼は、これはおれが名前を知らないなにものかだ、と言ったであろう。そしてワットは概して自分が名前を知らないものごとを扱うほうが(これとても彼には苦しかったが)、そのものの保証つきの名前を知っているがその名前が彼にとってはもはや名前ではない、といった種類のものごとを扱うよりも好きであった。というのは名前を全然知らなかったものごとについては、いつかその名前を知って、それによって心が静まるだろうという希望をいつも抱くことができた。ところが、真の名前が、突如としてあるいは徐々に、ワットにとって真の名前であることをやめてしまったようなものごとの場合は、そういう期待は不可能であった。というのは、溲瓶は、ワット以外のだれにとっても、溲瓶のままであることを、ワットは痛感していたのである。ワットにとってのみ、それはもはや溲瓶ではなかった。」



ワット3


そういうわけで、高機能自閉症(アスペルガー)文学の第一人者ベケットの最もAS(アスペルガー)色の濃い長篇小説『ワット』をよんでみました。
いまでこそ、カフカやベケットや内田百間や牧野信一が「アスペルガー」文学であることが明白になったので、そういうものとして素直に楽しめる時代になりましたが、かつては不条理文学であるとか、ユーモアであるとか、いろいろな珍解釈がなされた時代もありました。
本書の「補遺」に、「象徴ノ意図サレザルトコロニ象徴ヲ見ルモノニ禍アレ」とありますが(原文は「No symbols where none intended」で、たんなる注意書きであって、呪詛の意味はありません)、われわれAS者は普通にしているつもりなのに「なにを怒っているの?」とか言われて当惑することが多いです。ストッキングの触感が好きで撫でていたら変態扱いされたASの人の体験談もあります。普通の人(NT)の世界では、無表情は不機嫌の象徴であり、ストッキングは女性の象徴なのです。
本来「名づけえぬもの」であったわれわれは、いとも簡単に「アスペルガー」などと名づけられてしまいましたが、そうかといってエデンの園の動物たちのように容易く手なずけられるわけにはいきません。われわれには、精神科医が書いたAS本に洗脳されて、普通の人の「感情を表わす表情」のシンボリズムを習得しなければならない義理などこれっぽっちもないのです。


Monty Python's Ministry of Silly Walks (Full Sketch)




































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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