岡谷公二 『島の精神誌』

「島々は、それぞれ独自の風土、言語、風俗、習慣を持つ。はしけを下りて、島の中へ入ってゆくとき、私はいつも、どうしてここは一つの国ではないのか、という思いにとらわれる。」
(岡谷公二 「島断章」 より)


岡谷公二 
『島の精神誌』
 

思索社
昭和56年9月10日 印刷
昭和56年9月25日 発行
249p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,600円



本書は、ゴーギャン、ルーセル、レリスの訳者であり、柳田国男、南島、原始の神社、等についての本の著者である岡谷公二氏の関心の見取図のような本でありまして、「岡谷公二読本」といってもよい内容になっています。

本書所収のレーモン・ルーセル論「死場所としての島」は、のちに加筆修正されて『レーモン・ルーセルの謎』(国書刊行会、1998年)に再録されています。

なお、本書はまるごと『島/南の精神誌』(人文書院、2016年)に再録されています(『島/南の精神誌』は『島の精神誌』『神の森 森の神』『南の精神誌』『南海漂蕩』の既刊単行本四冊と単行本未収録の「引き裂かれた旅人――民族学者アルフレッド・メトローの場合」を収録しています)。


岡谷公二 島の精神誌


帯文:

「島と南と人間の哀しき関係
日本とヨーロッパにとって南の島は何を意味したのだろうか。著者と沖繩の出会い、柳田国男の南への想い、ゴーギャンのタヒチなどを通じて二つの文化の南への志向を検討し日本文化の本質を模索する。」



帯背:

「旅と思索の
デュエット」



目次:

島断章 (書き下し)
沖縄で (書き下し)
『海上の道』論――柳田国男の想像力 (書き下し)
椰子の実とアシカ――柳田国男の伊良湖岬滞在 (「展望」 昭和53年2月号)
治癒の場としての南島――土方久功 中島敦 島尾敏雄 (書き下し)
旅への誘い――ボードレールの南海旅行 (書き下し)
南方のアトリエ――ゴッホとゴーギャン (「飛火」 昭和48年4月)
民族学者にならねばならなかった詩人――ミシェル・レリスの場合 (ミシェル・レリス『日常生活の中の聖なるもの』(思潮社 昭和48年) あとがき)
シュルレアリスムと民族学――ミシェル・レリス『幻のアフリカ』をめぐって (「思潮」第一号 昭和45年6月)
死場所としての島――レーモン・ルーセルとシチリア島 (書き下し)

あとがき




◆本書より◆


「島断章」より:

「私は、島に次第に近づいてゆく瞬間が好きだ。
 たとえば明方、光が生れず、海面がつめたい鈍(にび)色で、波のうねりの腹にまだ闇が漂い残っている時刻、彼方に、水平線とまぎれてしまうような一本の線があらわれる。(中略)しかしやがて、その線は、もはやまぎれようのない、太い、黒々とした輪郭を帯びはじめる。それは、闇が凝ったような団塊となり、高低がはっきりしてきて、しまいには、島のはずれにある、海中の一つ岩の姿までが眼に映るようになる。それでもまだ、木々や、家々や、浜などの区別はつかず、すべては黒一色の中に呑みこまれていて、島全体の輪郭線がたどれるだけだ。
 このような島影の中に、私は島の表情を読む。そこには、海の方へ昂然と顔をあげた誇らしさ、雄々しさ、馴染もうとする視線を拒否するきびしさ、孤立の憂愁、なにかに耐えている異様な静けさがある。」

「「いろんな島のことを考えるときに人が感じるあの息づまるような印象は、一体どこからくるのか? それでいて、島のなかより以上に大洋の空気、あらゆる水平線に自由にひらけた海を、人はどこにもつのか? それ以上にどこで人は肉体の高揚に生きることができるのか? だが、人は島 île のなかで、『孤立 isolé』する(それが島の語源 isola ではないか)。一つの島は、いわばひとりの『孤独の』人間。島々は、いわば『孤独の』人々である」(ロジェ・グルニエ、井上究一郎訳『孤島』)」

「孤立とは、言うまでもなく、隔てられていることである。陸地からの距離に比例して、孤立の思いが深くなる。陸地から、海によって、しかも荒れ狂う海によって、はるか彼方に隔てられている島こそ、真の島である。それゆえ、(中略)陸地とほとんどつながっている島は、島とはいえない。それは、孤立を放棄し、陸地に隷従し、飼い馴らされてしまった偽の島々だ。」

「島々は、それぞれ独自の風土、言語、風俗、習慣を持つ。はしけを下りて、島の中へ入ってゆくとき、私はいつも、どうしてここは一つの国ではないのか、という思いにとらわれる。」

「絶海の島々にはじめて住んだ人たちは、落武者や罪人のような、世をはばかる人々だったにちがいない。(中略)そうした人々にとって、孤立は安全の保証であり、島をかこむ絶壁は、恰好の砦であった。そして孤立を孤立とも思わない、島かぎりの生活が長い間続いたのである。」
「人々は、島が生み出すものだけで甘じ、すべてを自分の手で作った。」
「しかし海運が発達し、どんな不便な島にも、一週間に一度は船便が通うようになり、ラジオ、テレビを通じて情報がすみずみまでゆきわたる時代になって、かえって島の孤立感は深くなった。
 実際、孤立とは、それを意識したときにはじめて孤立となり、災いとなるのだから。」
「私は、島は孤立しているのではなく、孤立させられているのだ、と思わずにはいられなかった。」
「中央を認めた途端、島は末端になる。島はたちまち求心力の中にまきこまれる。こうして過疎がはじまる。」



「沖縄で」より:

「岡本太郎の『忘れられた日本――沖縄文化論――』の中には、本島の中部の村で闘牛を見た際、勝った牛の飼主らしい中年の女性が、嬉しさのあまり観衆の面前で踊り出す場面が出てくる。喜びがそのまま、手足の動きとなり、「アッと思うような見事な踊り」となる。この本の中でもっとも印象的な個所の一つだが、私はそののち、こうした光景を沖縄の到るところで見た。
 「内地の人はすぐ分ります。いきなりぺらぺら喋りはじめますからね」
 このコンパの途中、学生の一人が私に言った。私たちのあいだの、悪質な黴菌めいた、言葉の異常な繁殖は、こうした直截な体の表現を失ってしまった人間の病徴ではないだろうか?」

「私は一度、新しい石垣を積んでいる場面にゆき合わせた。(中略)中年の痩せた石工が、ただ一人だけで積んでいた。彼は、一筆描き加えるごとにキャンバスをためつすがめつする画家のように、石を一つ積んでは、後にさがって効果を調べる。時には、折角積んだ石をおろして、別の石にかえたりする。雨がぱらついてくると、近くの木蔭に入りこみ、しゃがんで煙草を吸いながら、じっと石垣を眺めている。そこには、石垣とのひそかで濃密な対話のようなものが感じられた。」



「『海上の道』論」より:

「それにしても、柳田国男の海と、折口信夫の海とは、なんという相違だろうか。前者の海はどこまでも明るく、美麗な宝貝を豊富に産する干瀬に砕ける白波のきらめきに満ち、たゆたう光の彼方に、常世やニライカナイの幻を髣髴とさせるが、後者の海は、青という色をうばわれ、暗く、さむざむとして、まるで北方の海のようだ。」

「折口の暗さは、古代人の心性と一体化したようなところから生れてきている。それゆえ、その暗さは或る種の現実性がある。ひたすら明るさを求めていた柳田国男にとって、こうした暗さは、気うとい、できれば触れずに済ましたいものだったにちがいない。
 二人の他界観の明暗が、二人の気質、及び人生とのかかわり方から来ていることは明らかである。柳田国男に関していえば、明るさへの志向は、他界観にかぎらず、彼の学問の基調であるとさえ言うことができる。
 一例として、彼の文芸観をあげよう。彼は、文芸というものは、「人を意外の怡楽に誘ひ込むもの」(「不幸なる芸術」)でなければならぬ、「アミュージングなものでなければならぬ」、「かならず終いは幸福におわらなければならぬ」(『柳田国男対談集』)と、機会あるごとに繰り返してきた。このような主張の背後には、「もう芸術の花野より外には楽しみを求めに行く処は誰にも無い」(「病める俳人への手紙」)という認識がある。彼が自然主義文学を嫌う理由の一つは、この点に存する。人生をありのままに描いて、明るくなるはずはないからである。
 言うまでもなく、これは、暗さを避けて通ったのとは違う。『山の人生』の中の、貧苦の余り、わが子の首を鉈で切り落した有名な炭焼きの物語一つとってみても、彼が人生の暗部に通じていたことが分る。あのような話を、あのように、一切の説明を加えず、投げ出すような形で書くとは、生半可な人間認識でできることではない。彼が『故郷七十年』の中で、淡々と、時には得意げに語る生い立ちからも、客観的にみて暗い材料は、いくらでも拾い出すことができる。」
「暗さを捨てて、明るさに即くとは、気質から来る好みが働いているにせよ、一つの選択であり、決断である。柳田国男は、文芸に対して要求したことを、自らの学問においても実践する。
 他界観に話を戻すならば、この現世が暗く、時には悲惨でさえあるのだから、他界は明るくなければならないのである。」

「柳田国男と折口信夫の他界観のどちらが、日本人の祖先の抱いていた他界観に近いのか、私には判断する資格がない。(中略)ただ、柳田国男の他界観は、暗い部分を意識的に切り捨てているところがあり、その点に関しては、私は、折口信夫の他界観の方に現実性を感じる。
 一方、私は、谷川健一氏の次の言葉に心から賛同するものである。

 「私は沖縄になぜ関心をもつのかと問われて返答に窮することが少なくなかったが、今は『明るい冥府がほしいばかりに珊瑚礁(リーフ)の砂に踝を埋めているのだ』と答えることができる。私は死んでなお刑罰を受けねばならぬような他界を信じていない」(「孤島文化論」)」



「死場所としての島」より:

「ルーセルの頑なまでの現実拒否は、立場というよりは、彼の存在そのものであり、生きてゆくための条件と化している。(中略)彼は現実を怖れ、嫌悪し、拒否する。それは、治療の手段をあらかじめ放棄しなければならないたぐいの病なのだ。」




こちらもご参照ください:

ミッシェル・セール 『五感 ― 混合体の哲学』 米山親能 訳 (叢書・ウニベルシタス)



























































































































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岡谷公二 『島 ― 水平線に棲む幻たち』 (日本風景論)

「私は、島の孤立ということを思わずにはいられなかった。なるほど島々は、小さな国々にはちがいない。しかし(中略)、孤立という点では、島々はひとつである。それが島の基本条件であり、宿命であり、不治の病なのだ。それがすべてを支配し、島の生活の一切に濃い影を落としている。
 たえずつきまとう閉鎖感、疎外感、それと裏腹の強い自恃や誇り、外の世界に対する憧憬、過度の敏感さ、過剰な期待、そしてその期待が裏切られたときの失望の深さ……だが島とは、私たち自身のことではないだろうか?」

(岡谷公二 『島』 より)


岡谷公二 
『島
― 水平線に棲む幻たち』
 
日本風景論

白水社
1984年8月10日 印刷
1984年8月23日 発行
184p
19.3×12.3cm 
仮フランス装 貼函
定価1,500円
装幀: 吉岡実



本書「あとがき」より:

「人のあまり行かない、不便な離島をことさらにえらんで、旅をつづけてきた。別に目的があってのことではない。旅に出ようとすると、なぜか行先が島になってしまうのである。
 そのなぜに答えようとしたのが本書だ、と言いたいが、答えになっているかどうかはおぼつかない。
 水平線の彼方にあって、島は私たちを誘ってやまない。しかしその一方で、島は私たちをきびしく拒否する。船から下りて、島の中へ入ってゆくとき、島はたちまち幻と化する。島は、決して真に到達することのできない場所なのである。」
「ともかく私は、自分の旅の軌跡をたどってみた。それゆえ本書は、旅の個人史であり、島をめぐるささやかな自伝である。



本書はまだよんでいなかったので、アマゾンマケプレのもったいない本舗さんで最安値のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


岡谷公二 島 01


帯文:

「火山と魔神のトカラ列島、太古の闇に佇む西表島、明るい陽光の中にまどろむ瀬戸内の島々……。幻想と憧憬に誘われ、水平線の彼方へと、島巡りの旅は続いてゆく。著者三十年にわたる島旅の軌跡!」


目次:

一 小さな国々――新島、式根島、神津島
二 孤立という不治の病い――利島
三 仏桑花と司祭館――石垣島
四 太古の夜――西表島
五 光の中の闇――瀬戸内の島々
六 海の音楽――福江島、小値賀島
七 過疎の中の春――上甑島、下甑島
八 温泉小屋の幻――口永良部島
九 火山と魔神――トカラ列島
十 聖なる森の系譜――種子島

あとがき



岡谷公二 島 03



◆本書より◆


「小さな国々」より:

「はじめて知った島という土地は、私にはなにもかも珍しかった。とくに海の近さが私を驚かせた。ちょっと小高いところに登れば、島のどこからでも海が見えた。波音のきこえない場所はほとんどなかった。(中略)たとえ海が見えず、波音がきこえなくても、風や光の中に、はっきりと海が存在した。海は、密偵のようにあらゆる場所に入りこみ、一切を支配していた。私は、海とこんなにのっぴきならない関係を結んでいる人々を知らなかった。単なる海沿いの部落なら、人は海に背をむけて、どこまでも遠ざかってゆくことができる。しかし島ではそうはゆかない。島では、海から逃れようがない。」

「艀から下りて、はじめて村へ入っていった時、家々の風変りな景観と、大気の中に漂う異様な匂いが、まず私の注意をひいた。」
「匂いの方は、あとで、やはりこの島の特産であるくさやを漬けこむための、半ば腐った塩汁の匂いだと教わった。鼻の奥の粘膜にまでからみついてくるその濃密な匂いは、村をおおいつくしていて、どこにいってもついてまわり、あらゆるものに滲みついていた。風がたえず吹き抜ける昼間はさして苦にならないが、夕凪の時刻、匂いは澱んで、時には耐え難い思いをすることもあった。それはまさに、この島の体臭そのものだった。
 ちょっとした空地には、くさやにするための飛魚やむろあじが干しひろげてあり、浜に近い小屋では、女たちが終日、魚をひらく作業をしていた。覗いてみると中は暗く、あたり一面に血が流れ、臓物の生ぐさい匂いが立ちこめ、包丁の刃がかすかに光り、女たちは黙々としていて、秘密の供犠の儀式をとり行なっているように見えた。」

「どの島でも大抵、一人か二人、大都会の生活からはみ出した人たちがやってきて、島民にまじって暮しているものだ。彼らは、新たな落人、自分で自分に刑を下した現代の流人である。」

「医者の来手のない(中略)こんな不便な離島に、自分からすすんでやってきたという一事からして、先生は世間の基準からは外れていた。」
「先生は、診療所の近くに、古い平家建ての家を借りて、一人暮しをしていた。」
「先生は、衣食住には全く関心を持っていないように見えた。」
「先生が嫌いなのは、窮屈なこと、束縛されることで、ネクタイは一切締めず、腕時計さえしていなかった。
 或る日の午後、警視庁の音楽隊が島を慰問しに来るというので、先生は浜まで迎えに出なければならなかった。(中略)看護婦に無理矢理背広を着せかけられ、鏡の前で、馴れない手つきでネクタイを結びながら、先生は、「俺はいやだよ、いやだよ、嫌いなんだよ、こんなのは!」と、捕えられて、無理矢理抑えこまれた獣のような悲鳴をあげたものだ。」

「なるほど本土の町や村にも特色はある。しかし本土では、少なくとも旅行者の眼には、一つの町や村が正確にどこではじまり、どこで終わるのかよく分からない。なんの境界も標識もなしに、二つの町や村が続いてしまっていることもしばしばある。そのため町や村の固有の色彩が、境のところでにじみ合って、全体がぼやけてしまっている。それに反し、島では、陸は海がはじまるところで終わる。この明確さが、島の個性的な顔立ちをきわ立たせる。」



「孤立という不治の病い」より:

「私は、島の孤立ということを思わずにはいられなかった。なるほど島々は、小さな国々にはちがいない。しかし(中略)、孤立という点では、島々はひとつである。それが島の基本条件であり、宿命であり、不治の病なのだ。それがすべてを支配し、島の生活の一切に濃い影を落としている。
 たえずつきまとう閉鎖感、疎外感、それと裏腹の強い自恃や誇り、外の世界に対する憧憬、過度の敏感さ、過剰な期待、そしてその期待が裏切られたときの失望の深さ……だが島とは、私たち自身のことではないだろうか?」



「仏桑花と司祭館」より:

「そうした食事の会話のあいだに、オーバン神父はこうも言った。
 「石垣、ワタシノ故郷デス。New York ニカエリタイト思イマセン。石垣ノ方ガ、ズットスキデス。ワタシ、New York ニイタラ、キット狭イ狭イ人間ニナッタデショウ。井ノ中ノ蛙、大海ヲシラズネ」」



「太古の夜」より:

「一歩表へ出ると、そこには濃く深い闇があった。樹木が左右からおおいかぶさって空を隠し、星明りさえあてにすることができず、懐中電燈がなければ、一歩も前へ足を踏み出せなかった。村の通りを歩いても、ほとんど灯影を見ることができず、ごくたまに、家々をかこむ福木やヤラブの繁みのひまから、ランプの弱々しい光がもれてくるくらいのものだった。無数の気根を垂らしたガジュマルの大木のかげでは、樹木の香気で重くなった闇が淵をなして澱み、そしてそんな闇の奥からは、蛇味線の音が這うようにきこえて来る。
 私は浜に出ると、コンクリートの防潮堤の上にねそべった。私の眼には、空しか映らなかった。空には無数の星が輝いていた。それにしてもなんとみごとな星だろう。この亜熱帯の島では、植物同様、星までが並外れて成熟するらしい。濃密な闇を吸って、星どもはすっかり太っている。」

「私はこの島が気に入っていた。しばらく滞在してみよう、と私は思った。私はここで、なにものにもわずらわされずに、様々なことを考えてみるつもりだった。私は失ったものをとり戻し、忘れたものを思い出さねばならなかった。」

「この島の夜の中には、私が長い間思い出そうとつとめながら思い出すことのできなかったものがあった。それは、夢のようなもの、遙かな幻のようなもの、或る幼年期の記憶のようなものだった。」



「光の中の闇」より:

「或る夜更け、台所へ水を飲みに行った時、私は、電燈のとどかない、流しの横手の壁が、かすかに光っているのに気付いた。(中略)なんとそれは、壁を埋めてじっと動かぬ、なめくじの大群だったのである。私はこれまで、こんなに沢山のなめくじを見たことがなかった。なめくじはぬめぬめとした白い光を放ち、押し合うようにして壁に貼りついているのだった。不思議なことに、朝になると、そのなめくじの大群は、一匹残らずどこかへ姿を消した。そして夜には、また現われた。」

「島めぐりは最初のうちは楽しかったが、私は、次第に落着かない気持に捉われ出した。明るい光の中を歩きまわっていると、自分までが光となって、少しずつ輪郭や実体を失い、体が軽くなってゆくように思われた。
 私は、光の中を漂う二つの眼だった。実際私には、見ることのほかに何もすることがなかった。そして自然ばかりか、人間のなまなましい生活の姿すら、この土地になんの根も利害も持たぬ私にとって、すべてが、とめどもなく明るい光の中で、風景と化してしまうのだった。気がついてみると、私のまわりには風景しかなかった。(中略)風景どもは私を遠巻きにし、冷たい横顔をみせながらも、じっとこちらを覗っているのだった。私が近づこうとすると、風景はその分だけ遠ざかり、私と風景とのあいだの距離は、いつまでも縮まらなかった。私はその距離に段々我慢ができなくなった。
 私は町を歩いていてよく、店のショウウィンドウを石で叩き割ったり、向うから来る見知らぬ男の頬を思い切り撲りつけたい衝動に駆られた。そうすれば、少なくとも私は、当事者になれる、もう見なくても済む、とそんなことを考えたりした。



「海の音楽」より:

「町の前面には、島には珍らしい広大な白砂の浜がひろがっている。この浜には、三年に一度くらいの割りでイルカの大群が押し寄せ、人々に撲殺されて、浜を血で真っ赤に染めるという。」


「火山と魔神」より:

「三時すぎ、晩夏の日がようやく傾いて、庭が影の中に入る頃、駐在さんの叩く早打ちの太鼓を合図に、突然三方からボゼが出現した。ボゼたちは例の面をかぶり、体をビロウの葉でおおい、手足に棕梠の幹の皮を巻きつけ、突端を亀頭にかたどったボゼマラと称する長い杖をつき、異様な雰囲気をまとって庭に入ってきた。(中略)その登場には、他界からの魔神の来訪を一瞬思わせる、なにか劇的なものがあった。」
「十分ほど傍若無人にあばれまわった末、ボゼたちは一斉にひきあげた。そのあとテラへ戻って、仮面や衣裳はぬぎすて、仮面はその日のうちに踏み破ってしまうのである。」

「盆踊りといっても、櫓もなければ、太鼓もない。スピーカーもない。揃いの浴衣の女たちもいなければ、にぎやかな手拍子もない。提灯も、蛍光燈も、裸電球も、いや、篝火一つない。闇の中で、月の光をたよりに、彼らは三の小さな輪にわかれ、鉦を叩き、悠長な節まわしの歌をうたいながら、例の手足をゆっくりとあげる単調な踊りをくりかえしくりかえし、皆いかにも楽しげに心をこめて、いつまでも踊りつづける。波ひとつない、月に照らされた海を背に黒い影絵となってめぐる幻のような踊りの輪――私にとっては忘れがたい盆踊りだった。」



岡谷公二 島 02



















































































岡谷公二 『神社の起源と古代朝鮮』 (平凡社新書)

「森の下草の中を歩きながら、私は、日本の森だけの聖地、若狭のニソの森や対馬の天道山の中にいるような気がした。たしかにこの慶州の森は、神社にも御嶽にも通じているのだった。」
(岡谷公二 『神社の起源と古代朝鮮』 より)


岡谷公二 
『神社の起源と古代朝鮮』
 
平凡社新書 704 

平凡社
2013年11月15日 初版第1刷
2014年2月10日 初版第4刷
245p
新書判 並装 カバー
定価800円(税別)
装幀: 菊地信義



本書「あとがき」より:

「前著『原始の神社をもとめて――日本・琉球・済州島』(平凡社新書、二〇〇九年)を書いたあとも、私は済州島通いを続け、堂(タン)という、沖縄の御嶽(うたき)に似た、社殿のない、森だけの聖地を訪ね歩き、一方で相変わらず、式内社めぐり、嶽めぐりも続けていた。そうした旅の中で、思いはおのずから神社と古代朝鮮の関係へと向かっていった。」
「「神社も神宮も新羅から入ってきたのです」(「神社と神宮をめぐって」)――本文中でも引いた故金達寿氏のこの言葉に対し、神社を日本固有のものと信じている多くの日本人は、驚きや、強い反発、異和感をおぼえるであろう。(中略)しかし私は今、この言葉は多くの真実を含んでいると思っている。神社の成り立ちに、古代朝鮮、とりわけ新羅―伽耶の地域が或る役割を果たしたとだけは断言できる。私たちにとってもっとも身近な神社であるお稲荷さんや八幡様が、最初渡来人の祀った神であったことは、すでに多くの人によって論じられている。このことだけでも、神社と古代朝鮮とが無関係だとは言いえない。
 本書は、金氏の言葉を内側から検証しようとした試みである。」



本文中写真図版(モノクロ)多数。各章扉に地図。


岡谷公二 神社の起源と古代朝鮮


カバーそで文:

「日本固有のものとされてきた神社信仰だが、
その起源においては、新羅・伽耶を出自とする
渡来人の痕跡が拭い難く刻まれている。
好評の前著『原始の神社をもとめて』に続き、
日本海沿岸から韓国の慶州へと至る旅路のなかで、
原始神道における始まりの謎に迫る。

日本と古代朝鮮をつなぐ
信仰の知られざる系譜。」



目次:

第一章 近江への旅
 白鬚神社へ
 豪族三尾氏と継体天皇
 鉄と渡来人
 余呉の羽衣伝説
 新羅の影
 豪族息長氏の地にて
 園城寺と新羅善神堂
 天日槍の痕跡
 神社信仰の成り立ち

第二章 天日槍の問題
 渡来をめぐる問い
 天日槍とは誰か
 神宝から分かること
 熊神籬の意味
 出石神社
 出石と鉄
 韓国神社から気比神社まで

第三章 敦賀という場所
 伊奢沙和気=天日槍説
 常宮神社と産小屋
 白木の村で
 敦賀の重要性
 信露貴彦神社と久豆彌神社
 振媛の出自をめぐって
 大湊神社と豪族三尾氏

第四章 出雲と新羅
 出雲の特殊性
 消された新羅の痕跡
 韓国伊太氐神社の問題
 出雲の深層
 刻まれたルーツ――古墳、出土品、地名
 神社信仰の原点
 巨大神殿建立の謎

第五章 三輪信仰の謎
 祭神の問題
 出雲と大和の関係
 近年の仮説
 なぜ異族の神が祀られたか
 渡来人の足跡
 鉄をもとめて
 出雲人の東漸
 穴師たちの巡行

第六章 新羅から来た神――宇佐八幡をめぐって
 香春再訪
 古宮八幡に導かれて
 宇佐八幡の起源
 辛嶋波豆米の記憶

第七章 慶州の堂
 堂信仰の歴史
 済州島にみる原初の面影
 離島の条件が可能にしたもの
 新羅に眠る神の森
 慶州へ
 堂山木を探して
 古代の聖林
 樹齢千年の欅
 聖なる森の系譜――日本と朝鮮をつなぐもの

あとがき
参考文献




◆本書より◆


「第四章 出雲と新羅」より:

「古代の神社には、社、つまり建物はなく、森、或は巨岩を神の依り代として祀ったことについては多くの証拠がある。人工の建物を神域内に設けることは、神意にそむくことであった。社を建てたために神の怒りにふれたとは、あちこちの式内社について言い伝えられている。」
「社殿を含め、形あるものを嫌うとは、神社信仰の一つの大きな特色である。たとえば神社には、神像というものは存在しない。」
「古来人々は、神は時あって天、或いは海の彼方から来臨するものと信じていたのであり、今でも多くの神社の祭りにあって、神迎え、神送りの行事を行うのは、その端的な証拠である。そうであれば、神の依り代である森の一部を伐って、祭の際に雨露をしのぐための社殿を設けるとは、人間の都合から出たことであり、極端な言い方をすれば、神への冒涜である。
 このような心意は、今なお多くの人々の心の底に、意識されないながらにひそんでいると思われる。社殿のない、森だけの神社、聖地が点々と存在することは、そのあらわれであろう。若狭のニソの杜、近江の野神の杜、蓋井(ふたおい)島(山口県)の森山、対馬の天道山、壱岐のヤボサ、薩摩・大隅のモイドン、種子島のガロー山、奄美の神山、沖縄の御嶽(うたき)……。」

「出雲は、もちろんこのような心意伝承と無縁ではない。むしろこうした神社本来の姿をもっともよくとどめている土地の一つとさえ言うことができる。」



「第五章 三輪信仰の謎」より:

「前章で記したように、出雲には早くから新羅・伽耶の人々が入りこみ、鉄産業、須恵器から医薬に至るまでの、いわば先進文化の一つの根拠地であった。(中略)といって、こうした先進文化は、神々の世界と決して無縁ではなかった。いや、鉄産業にシャーマニズムが伴うように、両者は一体化していたと言っていい。」

「神体山、磐座、森だけの聖地など、神の原始の祀り方が残っているのが、多く新羅=伽耶=出雲とかかわりの深い土地であるのは興味深いことだ。」



























































































岡谷公二 『南海漂泊 ― 土方久功の生涯』

岡谷公二 
『南海漂泊
― 土方久功の生涯』


河出書房新社 
1990年8月20日 初版印刷
1990年8月30日 初版発行
214p 口絵(モノクロ)4p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円(本体1,942円)
装幀: 渋川育由
カバー写真: 吉田則之
カバー裏: 土方久功画「浴」



本書「あとがき」より:

「私は、西欧の中の、南にかかわった人たちの系譜に長い間関心を抱き続けてきた。それは、私自身、体質的に南を好み、沖縄を含め、南へ旅する機会が多かったからであろう。最初はゴーギャンだった。それからランボー、アルトー、レリス……。南の問題とは、文明のありようの問題である。西欧には「腐った理性しかない」というアルトーの呪詛は、今なお生きているということができる。」
「極言すれば、戦前の日本において、真に南の問題を生きたのは、土方久功ただ一人だけだったのである。」
「南洋群島で十四年、ボルネオで一年暮したこの特異な彫刻家・民族誌学者の軌跡は、大正から昭和にかけての日本の社会の鮮やかな陰画、と私の眼には映る。その土方久功が、ごく最近まで無名に近い存在だったことは象徴的だ。」
「このたぐいまれな日本人の存在を、できるだけ多くの方々に知っていただきたい、という念願から、私はこの本を書いた。」



地図1点。


岡谷公二 南海漂泊 01


帯文:

「「私が育った東京よ
お別れの時が来たようだ」
昭和初年、文明の生活に絶望して
ひとり、ミクロネシアの孤島へ旅立って
いった彫刻家土方久功(ひじかたひさかつ)の自由で熱い生涯。」



岡谷公二 南海漂泊 02


目次:

一、パラオへ
二、貴顕の家
三、美校時代
四、築地小劇場
五、「南洋行キ次第」
六、公学校の教え子たち
七、南洋閑日月
八、絶海の孤島サテワヌ
九、「十年振リデ見ル日本ノ火」
十、中島敦とともに
十一、ボルネオへ
十二、静かな晩年

土方久功の著作
あとがき



岡谷公二 南海漂泊 03



◆本書より◆


「二、貴顕の家」より:

「久功(ひさかつ)は、二つ違いの兄と、時折、小石川林町の伯父久元の邸へも遊びに行って、邸内の漾錦(ようきん)池という沼池で釣をした。広い邸内には、年老いた伯父と、その長男の嫁と、直系の孫久敬(与志)がひっそりと暮していた。与志は、久功からすれば従兄の子だが、年齢は上で、兄と同年だった。」

「両親にとって、彼は、ききわけのよい、いい子だった。いや、いい子にさせられたのだ。
  「自分は小さい時から中の子として先づ親に『甘ったれること』を拒まれた。……親は自分をおだて、自分に虚偽と虚栄とを教えることによって、『甘ったれること』を拒んだのであった」
 と、久功(ひさかつ)は二十二歳の時の日記の一節に記している。そして「永くも欺かれて来た過去に虚偽と虚栄とをまざまざと感じる」に至った時、「母に背かねばならなかった」とし、「自分は永い間不自然故に孝行者であった償ひとして、今極めて自然な不孝者となったことを悲しみながら何うすることも出来ない」と付け加えている。」
「その南洋行とは、殺し続けてきた久功の自分の、一生に一度の大きな爆発だった、と言えるかもしれない。」



「三、美校時代」より: 

「たしかに、つきつめて考えれば、彼には、芸術の世界以外に進むべき道は残されていなかった。それは、世間の言うまともな人生に背をむけることによって、真の人生に達しうるかもしれない道であり、世間でのマイナスをプラスに転化できるほとんど唯一の世界だったのだから。」

「すでに大正十一年の日記の中で、久功は、学校での制作のほかに、自分で勝手に小さな作品を作っている時の方が、「より自由な気持で仕事をする」ことができ、「より強い興味に引かれる」としたあとで、次のように記している。
  「自分は学校の仕事の時、如何に知的約束の為に小さな(無意味な――或はより大切なものを殺す様な)凹凸を作り、機械的模写を強いられて居るか。内在する美は作者によって見出され、創造され、表現されるのである。智的神通力によって見る血脈筋肉乃至骨格ではない。この誤謬には、或る客体を通して芸術を生み出す場合に多くの人が不知のうちに陥ってゆく。斯うして芸術が単なる再現に終って行くのである。自分が用ゐる或る客体は、再現される為ではなく、それを透かして主体が生み出される所の手段であり、材料である」
 久功は、学校での教育同様、学生たちの出品が期待されている官展にも、早くから失望していた。」
「彼は勿論、帝展には一度も出品しなかった。また出品したとしても、入選は覚束なかったであろう。写実で叩きあげた審査員の目に、彼の彫刻は素人芸としか見えなかったにちがいないのだから。このように彼は早くから、官展に背を向け、在野の孤独な道をゆくよう運命づけられていたのである。」



「四、築地小劇場」より:

「久功にとっても、築地小劇場は、あきらかに青春の一ページであった。」
「しかし久功は、社会主義思想の勃興とともに次第に左傾化してゆく築地小劇場のありようには不満だった。彼は民衆というものをてんから信用していなかったからである。」

「久功の詩は、その彫刻や絵とそれほど区別すべきものではなかった。彼自身、彫刻が本職で、詩は余技とは考えていなかった。すべてが本職であり、すべてが余技であった。彼はその時その時の切実な表現の欲求に従ったにすぎない。」



「五、「南洋行キ次第」」より:

「一体に久功ほど天候、気候に敏感な人間は珍しい。彼の「私は何よりもひどく天候に左右されるやうです。……私が朝起きて、其日の天候に挨拶するとき、その一瞬に私は天候の指示通りに服従させられて了ふやうです」という言葉は、文字通りに受け取らねばならない。そのことを如実に示すのは、日記の中の驚くほど詳細な天候についての記述である。その上、天候のことしか書かれていない日さえ間々ある。まるで天候が人生のすべてであり、それに何一つ付け加える必要はない、とでもいったようだ。実際、寒く暗い日は、彼自身精神的に死んでしまうのであり、雨は、彼の「心臓を萎へしめる」のであった。」
「南方へ赴いた人たちは、まず生理的に熱帯を求めたのであり、久功もその例外ではない。」

「久功を南洋の夢へと最初に誘いこんだのは、ゴーギャンのタヒチ紀行『ノア・ノア』である。」
「久功が最初に読んだ『ノア・ノア』の訳書は、大正二年に『白樺』同人の小泉鉄が、「白樺叢書」の一冊として、洛陽堂から出版したものだった。」
「彼の「素人主義」や専門家嫌い、自己に対する忠実さの中には、あきらかに『白樺』が影を落している。」
「尤も彼は『白樺』に手放しで傾倒していたわけではなかった。」
「彼は実篤に代表されるような、性善説にもとづく楽観的な人間観にはついてゆくことができなかった。また「人間と他の生物を等価値に置いて」(谷川健一)、人間の自我にどこかで多寡をくくっているような眼、十四年の南洋生活で研ぎ澄まされることになる眼を、すでにこの頃から養い育ててもいたのである。」

「彼を突き動かしたのは、(中略)発つ前に書いた長詩「青い海に浮ぶ」の中で歌われているような、熱帯の太陽の下で「今まで身に積もった着物を一枚ぬぎ、そして又一枚ぬぎすてること」への願望であり、原始の光と風の中に自分をさらしたいという欲求であったろう。」



「十、中島敦とともに」より:

「昭和十六年二月一日から、久功は、三ヶ月余にわたる長期出張の旅に出た。」
「中島敦が、それまで勤めていた横浜高等女学校をやめ、南洋庁地方課に所属する国語編修書記として、コロールに赴任してきたのは、久功が長旅から戻って間もない七月六日のことだった。」
「敦は、赴任早々、大腸カタルや、デング熱を患って散々だった上、役人生活になじむことができず、役所の中で孤立していた。」
「たぶん久功は、敦よりももっと役人に不向きな人間であったろう。(中略)彼にとって、役人の世界は、不可解なことばかりであった。
  「私ハ若イ人タチガ商業組合ダ信用組合ダ無尽ダ利廻リダ…… ナンダカダト云フノヲ聞イテ居ルト、マルデ自分ニハ解ラナイ『大人』ノ世界ガアッテ、遠クノ方カラ、其ノ世界ヲノゾキ見シタ様ナ、快不快ヲ越エタ、ロマンチックナ感覚ヲ覚エルノガ常デアル」(「日記」)
 久功はこんな風に言う。余りに大きな相違が、嫌悪よりも驚きを呼びさます様が髣髴としていて、興味深い。二人に共通する、このような周囲との違和が、久功と敦を結びつけたのである。」



「十一、ボルネオへ」より:

「軍人の世界は、役人の世界以上に、彼の肌には合わなかった。この世界の基本である階級制度が信じられず、命令することも、命令されることも大嫌いだったからである。」


「十二、静かな晩年」より:

「久功の彫刻にかこまれていると、あたりの空気が澄んで、明るく、椰子の乾いた葉風が吹き通ってゆくようだ。そこには気負いや衒い、虚勢や嫌味、自己を偽ったそらぞらしさ、陰湿さやとげとげしさといったものは微塵もない。彼は、自分の愛するものだけを、己の心に忠実に従って表現した。これは、いわばすべての芸術の初心である。しかし画壇、彫刻壇という世界は、往々にしてこうした初心をかき乱し、枯渇させてしまう。彼は、そのような世界に背を向けたことで、この単純さと透明さと明るさを手に入れた。」
「代表作の一つである「間の抜けた闘争」をはじめ、彼の作品にはユーモラスなものが多い。(中略)ユーモアは彼の彫刻の大きな特色である。日本の彫刻には、ユーモアという面がきわめて乏しく、その点でも久功の存在はユニークである。そのユーモアは、この世界に対する彼の距離と、醒めた眼から生れてくるらしい。」

「久功は、頑ななまでに南洋だけを主題とした。(中略)彼は、出発点からそうだったように、また、変わらぬ芸術観だったように、単に内心の欲求に従ったにすぎない。それは、別の言い方をすれば、南洋生活が彼にとって唯一の真の現実だった、ということである。この、彼の心の中の現実は、地中深く埋もれた或る種の鉱物のように、時間の層におおわれてゆけばゆくほど、密度と輝きを加えていった。彼の作品が回顧の甘い毒に冒されることなく、いつまでもみずみずしさを失わなかったのはそのためであろう。」

「鳥が塒に帰るように、彼の思いは、いつでもそこへ帰っていった。彼は、木犀の甘い匂いを嗅いだだけで、南洋のさまざまな果実の思い出が、溢れるようにして迫ってくる、という風だった。それは、記憶というには余りにも生々しく、その一方、周囲の世界、高度成長期にむかって真一文字につき進んでゆく日本の現実とは、なんのかかわりもなかった。それは、夢であるがゆえに、そしてその分だけ、彼にとってかけがえのない現実となったのである。実際、彼には動く必要などどこにもなかったのだ。いや、むしろ動いてはならなかった。彼はじっと静かにして、この記憶を孵化させさえすればよかったのだから……。」






























































































岡谷公二 『アンリ・ルソー 楽園の謎』 (中公文庫)

「つまり、すべては、ヤドヴィガの夢の中の風景なのである。そして夢みるヤドヴィガを、今度はルソーが夢みる。夢は二重なのだ。それは、二重鍵のように、この風景を現実からへだてる。いや、夢の二重鍵によって、この風景は、誰も乱すことのできない、彼一人の現実、日常の現実より一層真の現実となる。」
(岡谷公二 『アンリ・ルソー 楽園の謎』 より)


岡谷公二 
『アンリ・ルソー 楽園の謎』

中公文庫 お-50-1

中央公論社 
1993年7月25日 印刷
1993年8月10日 発行
312p 口絵(カラー)8p 
文庫判 並装 カバー 
定価680円(本体660円)
カバー画: ルソー「夢」



「文庫版あとがき」より:

「初版からすでに十年の月日が経っており、国外、国内において、ルソーをめぐる情況にいくつか大きな変化が生れているが、本書の所論に訂正を迫るていのものではなかったので、若干の辞句のほかは、本分には手を加えなかった。」


アンリ・ルソー評伝。初版は1983年2月、新潮社より「新潮選書」の一冊として刊行。本書はその文庫版。
本文中図版(モノクロ)多数。


岡谷公二 アンリルソー楽園の謎 01


カバー裏文:

「「飢えたライオン」から「夢」に至る“異国風景”と呼ばれた大作群は「現代絵画の大きな収穫であり、同時に問題を投げかける重要な作品である」。素朴画家に位置づけられながら、素朴派をこえる色彩豊かで不思議な画風と、画壇とは無縁な場所に生きたルソーの謎めいた足跡を辿り、不遇だったこの天才の実像を描き切った本格細緻な評伝。」


目次:

口絵 
 「風景の中の自画像」
 「ジャガーに襲われた黒人」
 「ジュニエ爺さんの馬車」
 「カーニバルの晩」
 「戦争」
 「眠れるジプシー女」
 「蛇使い」
 「詩人に霊感を授けるミューズ(カーネーション)」

第一章 故郷ラヴァル
第二章 メキシコの夢
第三章 パリ市入市税関
第四章 アンデパンダン展
第五章 アルフレッド・ジャリ
第六章 再婚
第七章 「蛇使い」まで
第八章 銀行詐欺事件
第九章 「詩人に霊感を授けるミューズ」
第十章 ピカソのアトリエで
第十一章 熱帯の楽園
第十二章 最後の恋

文庫版あとがき

アンリ・ルソー年譜
図版目録
参考文献



岡谷公二 アンリルソー楽園の謎 02



◆本書より◆


「文庫版あとがき」より:

「広く名を知られながら、ルソーほどその生涯も作品も謎にみちている画家は珍しい。ルソーの存在そのものが謎と言ってもいい。(中略)知れば知るほど、ルソーはこちらの手をすり抜けて、遠のいていくような気がする。(中略)ただ一つ、私にとって明らかになったのは、ルソーを素朴派に分類したのは、美術史の大きな誤りだったということである。(中略)彼は、ピカソ、ブラック、マチスらと並ぶ二十世紀前半の大画家なのである。」
「彼は、印象派からキュビスムに至る同時代のさまざまな流派とは無縁な場所に生きていた。それゆえそれらの流派のどこにも彼の席はない。
 ルソーは、ラスコーやアルタミラの洞窟の岩壁に動物画を描いた原始人のものに近い、呪術的ともいうべき絵画観の持主だった。その点で彼は、近代美術史の中でまったく孤立した異色の存在である。しかし美術史という枠をはずし、セザンヌの静物画を、町の教会堂の奉納画や、店の看板や、ポスターや、ちらし――ルソーは、そうしたものをどれほど愛したことか――と同じ視点で眺める立場に身を置くならば、ルソーは正統性を帯びて立ちあらわれる。彼は、中世以来培われてきた民衆の感性と想像力を受けつぎ、そうしたものの中に深く根を下ろしているからである。近代芸術は、このような土壌から乖離したところで生れた。
 どの流派にも分類できないルソーは、こうして近代芸術そのものに対する鋭い問いとなる。私が本書でなし得たのは、この問いにできるだけ明確な形を与えることだけであった。」



「第三章 パリ市入市税関」より:

「ルソーは、一八九三年に退職するまで二十二年間、入市税関に勤めた。しかし軍隊で万年二等兵だったように、パリ市入市税関でも、彼は一向に昇進せず、やっと最後に一等級あがっただけだった。ウーデは、ルソーの晩年、そのアトリエで知り合った、入市税関でのかつての彼の同僚の口から、ルソーの勤務振りについて話をきいたことがある。この同僚は、自分も退職したあと、時々ルソーの家に遊びにきていたらしい。(中略)「ルソーと彼は、グルネル橋で一緒に見張りの仕事をしたとのことだった。この老人は、座に居合わせた連中よりも、ルソーの能力についてよく知っていた。ルソーについての彼の評価は、あまり高いとはいえなかった。ルソーは、むずかしい仕事は一切出来なかった。で、河岸を走り回る仕事をさせられた。(中略)一体お化けを信じる人間が利口と言えるだろうか? 或る夜、彼等は、葡萄酒倉庫の樽のあいだに骸骨をたてかけておき、糸でそれを動かした。彼等は、ルソーが骸骨にていねいな口をきき、のどが渇いていないかと訪ねるのを見て、大いに笑ったものだ。多分彼は今でも、あの骸骨が生きていたと信じているにちがいない。それにルソーはあまり自分を外に出さず、自分に関心のあることしか話さず、同僚とは冗談口もきかなかった。彼はどこかにたった一人で坐って、デッサンしたり描いたりしていた。城壁でも、ムードン門でも、ゆく先々で彼はいつもこんな風に振舞っていたらしい」(ウーデ『アンリ・ルソー』)」

「絵から離れると、社会の中で、ルソーは無に等しい存在になる。しかしこの無こそ、彼の絵の空間を深くし、色彩を豊かにし、画面に輝きを添える発条であったとも言い得る。まるで彼は、絵にすべてを集中させるため、あらかじめ余計な才覚は与えられなかったかのようだ。」

「ルソーが、終生これらのアカデミズムの大家たちに敬意を抱きつづけたことは間違いない。
 ルソーが画家を志した頃は、印象派が、ブグローやジェロームの頑強な反対を押し切って、画壇に漸く地歩を占めはじめた時期であった。しかしルソーは、この革命的な絵画運動に毛ほどの関心も示してはいない。(中略)それは、無視というよりももっと徹底した、関心のないものは目に入らない幼児のような態度である。つまり、彼にとって、印象派は存在しなかったのである。」
「二十世紀に入って、ピカソ、ブラック、ドラン、ドローネなどキューヴ、フォーヴの画家たちの強い支持を受け、親しい交際をむすびながらも、ルソーが彼等の絵画に理解を示した形跡は見当らない。ルソーは、最後まで、ピカソより、ブグローやジェロームの方を評価していたように見える。」

「ルソーは、このような近代絵画の流れとは、全く無縁の場所にいる。絵とは彼にとって、構図とか、ヴァルールとか、マティエールである以前に、彼がその中で生きることのできる、或いは所有しうるひとつの世界でなければならなかった。彼の絵の、二十世紀には類を見ないその完結性の強さと、細部への異常な執着と、制作の入念さは、そこから来る。」

「ルソーは、近代において人の信じ得ないものを信じた。彼に素朴さがあるとすれば、人柄や技術よりも、このようなことを生涯信じつづけた点にある。」



「第四章 アンデパンダン展」より:

「一世紀近くにわたって、画壇の実権を握り、名声をほしいままにしたこれらアカデミズムの画家たちの名は、今日では全く忘れ去られている。(中略)多額の費用を使って国家が買上げた彼等の絵の多くは、美術館の倉庫の奥深くに積み重ねられたままになっているからである。
 一九七九年にパリのグラン・パレで催された「第二帝政下のフランス美術展」で、私は、ブグロー、ジェローム、ボナのような画家たちの絵を、はじめてまとめて見る機会を得た。そしてそれらの、アカデミックな意味での技術の水準の高さ、一見堂々たる画面構成とは裏腹の、発想の陳腐さ、俗悪さ加減には驚かされた。
 独創性の全くない、技術だけが達者なこれらの二流画家が、天才たちの上にあって、これほど長いあいだ権威を揮い得たとは、私たちの眼には、きわめて奇異に映る。
 それは、サロンがこの時代、今日よりもはるかに大きな社会現象であり、社会の体制そのものの体現だったからである。サロンの組織を支えたのは、当時のフランスのブルジョワ社会の驚くべき保守性と趣味の低俗さだった。印象派の、すべてが光の靄と化したかのような、輪郭線の全くない、色鮮やかな作品は、堅固な社会秩序に対する挑戦、とブルジョワたちには見えた。印象派の画家たちは、絵画の革新者というより、社会の安寧をおびやかす危険分子だったのであり、実際そのような扱いを受けた。彼等の重視した色彩の明るさとは、まさにアナーキーの表現そのものにほかならなかった。「色彩は、芸術のもっとも動物的な部分だ」と、新古典主義の総帥アングルは言い放ったものだ。」

「ルソーの肖像画の多くには、風景が描かれている。(中略)しかしそこでは、風景は、単なる枠組でも、背景でもない。それは、描かれた人物と緊密に結びつき、一体化しており、時には人物に対して、象徴的、寓喩的な役割を果している。たとえば、「ばら色の服の少女」で、少女が切石の山の上に立っているのは、少女が石屋の娘だからである。アポリネールとローランサンをモデルとする「詩人に霊感を授けるミューズ」(一九〇九年)で、前景にカーネーションを描いたのは、それが「詩人の花」だからであった。」
「ピエール・デカルグが指摘するように、これは、教会の奉納画にあって、聖アントワヌのそばに豚を、聖ロックのそばに犬を、聖ヒエロニムスのそばに獅子を置くのと全く同じ方法である(『税関吏ルソー』)。ルソーは、近代では全く忘れられてしまった、このような中世絵画の伝統をあきらかに受けついでいる。「風景の中の自画像」についても同様である。」
「ルソーと、河岸に立つ人々との、巨人と小人のようなコントラストは、遠近法によっては得ることのできない独自な空間をみちびき入れている。これは、造形上のたくらみというよりは、彼の心理上の現実をあらわしているのである。いや、重要なものが大きく見えるとは、常に変らぬ人間心理の現実であり、彼はこの現実に即したにすぎない。この現実を忘れたのは、視覚に盲従した近代絵画の欠陥である。」



「第六章 再婚」より:

「ルソーの風景画のほとんどすべては、パリ近郊の風景である。森の木々が緑の影を落すゆるやかな流れに釣糸を垂れている男、牧場で草をはむ牛たち、木立にかこまれた小さな工場、小山の中腹の城館、散歩者が靜かに杖を曳いている村はずれの小道、ものさびしい草原の中の石切場――これらのなにげない風景は、そのなにげなさのためにかえって私たちの心を捉える。樹木や、釣人や、散歩者は一見稚拙で、不器用に見える。しかし見ているうちに、それらがのっぴきならぬ形体を持ち、動かしがたい現実性をそなえているのに気づく。もはやこれ以外の樹木や、釣人や、散歩者は考えられなくなる。そして私たちは、長いあいだ、このような風景を心の奥底で求めつづけていたことを不意にさとる。その時、私たちはあらためてルソーの風景と出会う。パリ郊外の風景が、そのままひとつの神話となる。そこにひろがる透明で、静かな青空は、額縁によって断ち切られることなく、どこまでもひろがっているように思われる。それは、失われた楽園の空を私たちにかい間見させる。」


「第十一章 熱帯の楽園」より:

「ルソー晩年の一連の密林風景は、ルソーの心の奥深くにかくされていた、生に対する欲求の具象化である。これらの風景は、彼が所有し、その中で生きたいと心から願っていた世界であり、それゆえこれは、失われた楽園を取り戻そうとする試みなのである。」
「ラスコーやアルタミラの洞窟の岩壁にみごとな牛や鹿や猪を描いた人々は、絵が単なる外観ではなく、真の実在である、とおそらくは信じていた。(中略)呪術とかかわるこのような絵画観は、今日でも、未開とよばれている人々のあいだに見出される。それは、絵画が芸術となる時代まで、人々の心を支配してきた。(中略)ルソーは、この種の絵画観のもっとも近くにいた人である。」
「絵を、人を死に至らしめる力さえ持つ現実と見なすには、この世の因果律を否定し、科学的合理主義に背をむけた、超自然なものに対する信仰が要る。ルソーは、あきらかにこのような神秘家の一人であった。」
「ルソーが降霊術を信じていたことについては、いくつも証言がある。」
「ヴォラールの『画商の想い出』によると、ルソーは或る日お化けの話をしたあと、「あなたは信じないんですか、お化けを、ヴォラールさん?」と訊ね、ヴォラールが信じないと答えると、「私は信じますよ」と言ったとのことである。」

「ルソーにとって絵を描くとは、とくに晩年の密林風景を描くとは、彼が生き、呼吸しているこの現実と同じ密度、秩序、構造を持つ世界の創造をめざすことだった。彼の細部への執着はそこからくる。この現実では、細部はすべて明確であり、なにひとつなおざりにされていないからである。彼が樹木の葉一枚一枚を丹念に描くのは、実際の樹木にあって、一枚の葉とてかりそめにはついていないからである。これは、一般に言うリアリズムとは違う。
 私は、岩手県の寺々で、本堂の欄間に、遺族たちが死者のために奉納した絵が沢山かかっているのをかつて見たことがある。そこには、死者たちがあの世で何不自由なく暮せるようにと、快い住居や、美しい調度や、死者の好物や愛用品が、綿密に、微細に描かれていた。勿論絵師に描かせたものであろうが、画面には異常な現実感があった。一切が絵空事であってはならない、この世にあるがままでなくてはならない、要するに絵が現実と等価物になっていなくてはならない、そうでなくては死者はあの世で不自由を耐えしのばなければならない――絵師も共有していた、遺族たちのこうした痛切な願いが、このような現実感を生んだにちがいない。
 ルソーの密林風景の持つ現実感には、どこかこれに近いところがある。彼が深く希求している世界の実現には、なに一つ欠けるところがあってはならないのだ。もし欠ければ、それだけ彼はその世界で生きにくくなるだろうから。」
「ルソーは、絵を生きたひとつの現実とした。彼は、ひとつの秩序、ひとつの宇宙を創造した。私は比喩的な意味で言っているのではない。」
「マルグリット・ユルスナルの『東方綺譚』の中に、「老絵師の行方」という短篇がある。自分の描いた海景の中を、小舟に乗って弟子とともに遠ざかり、ついに画中に姿を消した中国の絵師の話である。この絵師と同じように、多分ルソーも、自分の描いた熱帯の原始林の中に歩み入ることができる、と信じていたのだ。」



「第十二章 最後の恋」より:

「この絵(引用者注: 「夢」)で人目をひくのは、赤いソファの上に横たわる裸婦である。彼女は何者なのか、なんのためにここにいるのか? この絵に付したルソーの詩が、すべてを説明する。

  心地よく眠りこんだヤドヴィガは
  美しい夢の中で
  考え深げな蛇使いの吹く
  笛の音をきいた
  月が花々や緑の木々を
  照らすあいだ
  鹿子色の蛇たちも
  その陽気な音色に耳を傾ける

 つまり、すべては、ヤドヴィガの夢の中の風景なのである。そして夢みるヤドヴィガを、今度はルソーが夢みる。夢は二重なのだ。それは、二重鍵のように、この風景を現実からへだてる。いや、夢の二重鍵によって、この風景は、誰も乱すことのできない、彼一人の現実、日常の現実より一層真の現実となる。」



岡谷公二 アンリルソー楽園の謎 03



























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー

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