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岡谷公二 『柳田国男の恋』

「ひきがへるいつ動くかと見入り居れば庭のおもてに小雨降り来ぬ」
(中川恭次郎)


岡谷公二 
『柳田國男の恋』



平凡社 
2012年6月25日 初版第1刷発行
229p 初出1p
四六判 角背紙装上製本 カバー
定価1,800円(税別)



本書「あとがき」より:

「本書は、平成八年、新潮社から出版した『殺された詩人――柳田國男の恋と学問』に、平成十二年、雑誌『こころ』第三号に発表した「中川恭次郎という存在」(原題「柳田國男の恋をめぐって――中川恭次郎という存在」)なる一文を加え、全体に加筆訂正を行い、重複する部分は削って成った本である。」


『殺された詩人』は愛読書ですが、本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで中古のよさそうなのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



岡谷公二 柳田国男の恋



帯文:

「世に知られた恋の詩人は、なぜうたを捨てたのか――。
一国民俗学確立のため、頑なに「私」を否定した柳田國男。
だが、本人の決意とは裏腹に、詩人の感性は
遺著『海上の道』にいたるまで確かに息づいていた。
没後50年、封じられた青年期の恋物語を丹念に辿り直し、
新事実の発見から柳田学の本質に肉迫する。

「我が恋成らずば我死なん」」



帯背:

「民俗学に刻まれた青春」


帯裏:

「國男は、明治三十二年ごろを境にして新体詩を捨て去ったばかりでなく、「空想に耽って、実際を軽く見る」新体詩人のあり方そのものをも否定し、実学である農政学へと大きく方向転換した。(中略)以後國男は、経世済民を念願とし、「学問は世のため、人のためでなければならぬ」と主張し続けるが、このような向日的な現実肯定を、彼の持って生れた素質から出たものと見るむきが多い。いや、それは定説になっている、とさえ言い得る。しかしそれは、彼が「態度を改めた」結果なのであり、彼の決意なのであった。
(本文より)」



目次:

松岡國男の恋
中川恭次郎という存在
殺された詩人
『海上の道』へ

あとがき
参考文献一覧
人名索引




◆本書より◆


「中川恭次郎という存在」より:

「中川恭次郎は、柳田國男(当時は松岡姓)が、明治二十年十二歳の時、次兄井上通泰(みちやす)に連れられて上京し、明治三十七年、結婚し、養子として柳田家に入るまでの間、彼のごく身近にいた存在であり、親戚で、七歳年上ということもあって、とりわけ明治二十九年、國男の父母がたて続けに死去した後は、父親代わりの役さえつとめたと言い得る。」

「柳田國男の話をきくために、そのころ森銑三(せんぞう)さんを、麻布の有栖川公園の中にある中央図書館に訪ねた時のことだった。(中略)森さんは、淡々としたユーモラスな口調で貴重な話を次々として下さった。」
「その折、森さんの口から中川恭次郎の名前が出た。思いがけないことに、森さんはその私淑者の一人だったという。以下は「中川翁」についての森さんの話の要約である。」
「翁は、名利に全く恬淡(てんたん)とした人で、世間の表面に出ることを嫌い、かげで多くの人たちの面倒を見た。」
「理想家肌のところがあり、静岡県の由比の奥に、「新しき村」のさきがけをなすような理想の村を作ろうとして、一家をあげて移住をし、農業をしたこともある。晩年は池上本門寺の境内に微風庵という庵を結び、精神治療法という治療法を編み出して、周囲に信服者を集めた。」
「精神治療というのは、坐禅と医学とを結びつけた独特の治療法で、その集まりは、翁の庵で週に一度、正座と称して線香を焚いて三十分ほど坐禅を組み、そのあと夫人の手料理を食べながら雑談をするだけのことだった。」
「娘の深雪さんは、聾啞学校の先生だった。たまたま日直に当った時、今日はほかにゆくところがあるからお父さん、代りに行ってよ、と頼むと、翁は「ああ、いいよ」と気軽に引き受け、本を持って娘の学校へ出かけてゆき、一日悠然と読書をしながら、娘の代りに日直を勤めて帰ってくるという風だった。
 深雪さんは、父親の看病もあって独身を通した。鍼(はり)をならっておけ、そうすれば自活ができる、という父親のすすめに従って鍼の学校に通い、今は伊豆の奥で鍼やマッサージで生計を立て、知恵遅れの弟さんと暮している。」

「私は深雪さんに手紙を書いた。日帰りで訪ねるつもりだったが、泊りがけで来てくれ、という返事がかえってきた。」
「夜には、由比の山寺に住んで農業をしているというもう一人の弟の敏樹さんもやってきた。」
「私は二時間ばかり、(中略)父君の話をきいた。」
「一度大喀血をして、もう駄目かと思われた時、筆と紙を求めたので持ってゆくと、仰臥したままでしきりに何か書いている。遺書ででもあろうかと皆は静まり返って見守っていたが、あとで読んでみると、なんと猫の特性を三十ばかり並べた一種の猫辞典だったのには皆呆れてしまった。父君は、大の猫好きだったのである。」
「深雪さんが、「よかったら、読んでみて頂戴」と言って、父君の歌集『松花集』と、四、五十枚ほどの、大分変色している原稿用紙の綴りを渡してくれた。」
「「佐渡紀行」と題された深雪さんの原稿の方は、父君と二人で佐渡の僻村の寺に滞在していた時、父君が、医者のいない村の人々の病気を治し、深雪さんが啞の子供に言葉を教えたため、深く感謝されて、お礼のしるしに、一夜村の人々が総出で、寺の本堂で佐渡おけさを踊るという話だった。事実そのままなのであろうが、私の眼にはそれが、この世ならぬ父娘の身に起きたこの世ならぬ幻想物語と映った。」

「私たちは言葉少なに食事をした。夏樹さんは、ほとんど口をきかないが、(中略)深雪さんの言いつけには素直に従って、膳の片付けでも、食器洗いでも何でもした。(中略)夏樹さんを見ていると、知恵遅れとは、世俗の汚れを受けつけない事実の謂(い)いであることが如実に感じられた。いや夏樹さんだけではない。深雪さんだって、敏樹さんだって、浮世の垢が肌に染みない、目に見えぬ保護膜のようなものを、父君から授かっているのだった。」

「それからしばらくして、私は、やはり森さんに紹介されて、中川恭次郎のもう一人の弟子に会いにいった。それは、本門寺の門前の有名な葛餅屋のおかみさんだった。」
「私が伊豆に深雪さん姉弟を訪ねた話をすると、彼女は、夏樹さんは恭次郎の実子なのではなく、さる有名人の隠し子なのだと教えてくれた。それにもかかわらず、恭次郎は実子よりも可愛がって夏樹さんを育てたのだという。」

「その後も私は、中川恭次郎という人物に関心を持ち続けた。(中略)「さる有名人」は、もしかしたら國男かもしれないという思いもあったからである。」

「恭次郎の(中略)歌の対象は、ほとんどが嘱目の自然であり、季節の推移である。人生の所懐といったものは、ごく稀にしか歌われないし、彼の愛する猫に比べると人間は影が薄く、「妻」も「子ら」もほとんど登場しない。歌の若干を抄出しておく。

  ひきがへるいつ動くかと見入り居れば庭のおもてに小雨降り来ぬ
  蜂一つ窓に入り来て家の内をひとめぐりして庭に出で行く
  里川の水をにごして摘み来つる根芹あらへば指のつめたき
  かへり来し猫に目ざめてねやの戸をあくればかをる木犀の花
  月毎に足らぬがちなる世渡りも慣るれば慣れておもしろの世や」

「國男と恭次郎を結んでいたひそかな絆、その具体的な証拠は、國オトコが生涯にわたって恭次郎に送金を続けていた事実である。」

「最後に松岡磐木さんの言葉を引用する。これは、「松岡國男の恋」の掲載誌をお送りした際、下さった手紙の中の一節である。
 「(中略)……中川のおじさんは(中略)、君は口がかたいからと、それまで父や母から断片的には聞いていた『國男の恋』の経緯をすべて話して下さり、『これをたれかに言っておかないと死ぬに死ねない』とハラハラ落涙されました」
 さらに磐木さんは、このことは「縁につながる私の口からは絶対に漏らすことはできない」ゆえ、「私があの世に持って行くほかはありません」と書いている。」
「恭次郎が磐木さんに打ち明けた秘密をここでこれ以上穿鑿(せんさく)することはしない。或る時期、國男の身に深刻な事態が生じたこと、それに恭次郎が深くかかわったことだけは確かである。」
「國男は、明治三十二年ごろを境にして新体詩を捨て去ったばかりでなく、「空想に耽って、実際を軽く見る」新体詩人のあり方そのものをも否定し、実学である農政学へと大きく方向転換した。」
「以後國男は、経世済民を念願とし、「学問は世のため、人のためでなければならぬ」と主張し続けるが、このような彼の向日的な現実肯定を、彼の持って生れた素質から出たものと見るむきが多い。(中略)しかしそれは、彼が「態度を改めた」結果なのであり、彼の決意なのであった。
 國男の新体詩や初期の詩的散文を読むと、彼が、この世がこの世で終らぬことを信じる神秘家的な素質の持主であり、強い他界願望を抱き、不可視なものに惹かれ、厭世感を日常の感情として生きていた青年だったことが分る。」
「このような転換をなしとげるには、よほど強力な契機がなければならず、(中略)この深刻な経験こそ、この転換の契機だったと私は考える。」
「あくまでも「公」を優先させる彼の志向の根に、私は、彼の若き日の(中略)経験が植えつけた罪責感がある、と思うのである。」



「殺された詩人」より:

「要するに私の言いたいことは、昭和初期の彼の精神の不調は、少くとも単なる過労や、家庭内の心労からだけきているのではない、ということだ。」
「「私」から「公」へ、それは実に大きな心の転換であった。」
「彼の若き日の女性関係とそこから生れた深刻な事態の実相は今なお半ば闇に包まれており、今後それが白日の下にさらされることはまずないであろうが、この大きな転換がその辺を契機としていることだけは確かだ。そして強い罪責感がこの転換を促したこともまちがいないだろう。この罪責感を少しでも消すために、彼は「私」を捨てて、「公」へと向ったのだ。」
「彼は、欧米滞在中につぶさに見聞した実証主義の風潮をそのまま受け入れ、民俗学確立のために、それまでもっとも関心を抱いていたテーマすら切り捨て、自分の欲求を抑え、或いはそれに逆らって働いた。だから彼の神経衰弱とは、あまりにも「公」に執しすぎた彼の、忘れられた「私」によるしっぺ返しであり、科学をめざす民俗学者柳田國男によって殺された詩人松岡國男の復讐だったとも言えるのである。」




◆感想◆


エリアーデによれば、現実世界がマーヤー(幻)であると認識した者には二つの対処法があって、ひとつは現実から身を離して隠遁すること(エリアーデの友人シオランの生き方がこれに当たります)、もうひとつは現実が幻であると認識した上で、現実世界における自分の任務を果たす生き方(エリアーデはこっちです)を選ぶことです。
グノーシス主義的なアンチ・リアリティの厭世詩人であった柳田国男が「経世済民」を選んだのもそうで、そうしなければ恒常的な発狂と自殺の脅威にさらされつつ生きることになって、それはたいへんハードです(しかしグノーシス主義者がこの世の現実に過剰に適応してしまうと、今度はなつかしい「光の国」へ帰るべき自己からの疎外 alienation に陥ってしまいます)。岡谷氏の著書『柳田国男の青春』『貴族院書記官長 柳田国男』の中心テーゼもだいたいそういうことだったとおもいます。
ところが、『殺された詩人』で柳田国男の「恋」を真正面から取り上げてしまったために、隠されていたなまなましい現実が自己主張し出して、そのへんの後始末もかねて刊行されたのが本書である、ということになるのではあるまいか。
本書「あとがき」には、『殺された詩人』では「差しさわりもあって、暗示的にしか書けなかった」が、「その後」「確信を得」「かなり踏み込んだ形でその辺の事実を書くことができた」ゆえに「全体の主張が以前より鮮明になったような気がする」とありますが、一読者であるわたしの感想としては、以前の明解な主張(柳田国男は狂気あるいは自殺を回避するために詩を捨てて実学を取った)が、「恋」ゆえにかえって晦まされ、明快さを欠いてしまっているようにおもわれます。確かなことは知りえない「事実」に真正面から関わりあおうとするとそういう状況にならざるをえないので、そのへんのことは、「神社」シリーズについてもいえるのではなかろうか。
具体的にいうと、本書「中川恭次郎という存在」をうっかりよむと、中川恭次郎の子息である「夏樹さん」が、「いね子」(明治33年逝去)との間にできた柳田国男の隠し子であり、そのことへの罪悪感が柳田国男をして「経世済民」へ向かわせた、というふうに取れるのですが、『殺された詩人』(1996年)の「あとがき」(「中川恭次郎という存在」はこの「あとがき」の内容を増補したものです)によると、著者が「深雪さん」姉弟を訪ねたのが「もう二十年近く前」とあるので、多く見積もって1976年、その時点で「夏樹さんは(中略)もう七十近いはずなのに」とあるので、「夏樹さん」が生まれたのは多く見積もっても1906(明治39)年。柳田が「態度を改め」て「経世済民」を志したという明治32年頃よりも後、しかも結婚後です(※)。「ちっとも態度なんか改めていないじゃないか」と言わざるを得ません。

※柳田国男が南方熊楠と絶交した理由を、南方が「女中」として紹介した女の人(「きし」)に柳田が手をつけたからだ、とする説がありますが、それは大正3(1914)年のことなので、「夏樹さん」が「きし」との間にできた隠し子だとすると、今度は少なく見積もっても年代があわないです。



こちらもご参照ください:

岡谷公二 『殺された詩人 ― 柳田国男の恋と学問』

































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岡谷公二 『貴族院書記官長 柳田国男』

「国男がその青年期のはじめに当って、「此世」を「をくらき」ものと見たという事実は、無視することができない。これは、たとえ気分の上のことではあっても、総体としての「此世」の否認であり、そこには政治の入りこむ余地はない。この社会をいかように改革してみたところで、「此世」はどこまでいっても「此世」なのだから。政治は、「此世」にしか属さず、「ゆめの世」には力を及ぼしえない。」
(岡谷公二 『遺族院書記官長 柳田国男』 より)


岡谷公二 
『貴族院書記官長 
柳田国男』



筑摩書房 
1985年7月10日 初版第1刷発行
3p+216p 索引vi
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,800円



本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



岡谷公二 貴族院書記官長 柳田国男



帯文:

「大正三年から同八年まで、貴族院書記官長の任にあって、生涯のうちもっとも現実の政治と深くかかわり、柳田学の転回点ともなった六年間の足跡を丹念に掘り起こし、柳田研究の空白部分を埋める意欲作。」


帯背:

「柳田国男
   と政治」



帯裏:

「本書を書き終えて思うのは、昭和期の柳田国男が、民俗学の確立のため、自分のなかにあった多くの可能性を切り捨てていることである。……柳田学の真の理解のためには、顕在の部分だけでなく、このような潜在の部分も考慮に入れなければならない。その点で、大正期は柳田国男研究において、きわめて重要な時期だと私考する。固定化、常識化しつつあるかに思われる現今の柳田像とは、いくらかでも違った柳田像を提出できたとすれば、著者としては本懐である。
(あとがきより)」



目次:

一 就任
二 最初の同志たち
三 「巫女考」と「毛坊主考」
四 台湾総督府とのかかわり
五 御大礼
六 物知り翰長
七 台湾・中国旅行
八 松岡静雄と日蘭通交調査会
九 日華クラブ
十 確執から辞任へ
柳田国男と政治――むすびにかえて

あとがき
人名索引




◆本書より◆


「三」より:

「初期の柳田国男の、漂泊民に対するこのように強い関心は、どこから来ているのだろうか。
 漂泊民の研究のもとになった彼の山人への関心は、「幽冥談」や「天狗の話」が示しているように、天狗や神隠しへの関心を出発点にしていた。」
「彼は、『故郷七十年』の中で、「七つ八つから十歳になるころまで、私は何度となく神隠しの話を耳にした」と述べ、同書や『山の人生』の中で、神隠しにあいかかった体験をいくつも語っている。」
「彼は『山の人生』の中で、「神に隠されるやうな子供には、何か其前から他の児童と、稍〃ちがつた気質が有るか否か。是が将来の興味ある問題であるが、私は有ると思つて居る。さうして私自身なども、隠され易い方の子供であつたかと考える」と書いているが、神隠しにあいやすい、とはどういうことか。
 それは怜悧で、感受性が強くて、因童(よりわらわ)になりうるような神秘家の素質をそなえている、ということであろう。また、村境から外の世界にたえず心をはせていて、外からの呼び声に敏感で誘われやすい、ということでもあろうし、この世ならぬもの、とは言えないにしても、今、目の前にあるものを越えた、遥かな何ものかに対する予感と憧憬をかくし持っていることでもあろう。国男はたしかにこのような少年だった。」
「神に隠されやすい子供の素質の中には、あきらかに漂泊の因子がある。それは、定住者の日常生活の中から、容易にさまよい出てしまう、ということである。」
「布川にいた頃、彼は、隣家の庭の小さな石の祠をあけて、その中にはめこまれた「じつに綺麗な蠟石の珠」を見たとたん、興奮して「何ともいへない妙な気持」になり、しゃがんだまま見上げた青空に、何十という昼の星を見る、という神秘的な体験をしている(『故郷七十年』)。学校にゆかず、遊び友だちもなく、利根川畔の暗示に富む自然の中で一人で暮していたこの頃、彼は同様の体験をほかにもしているが、この種の体験は、繰り返されるとき、堅固な日常生活をも空無化しかねない。彼は、外界に対してむきだしであり、その呼び声に対して無防備であった。この時期、なんらかの強力な条件が加わっていたならば、彼は、定住の枠から離れ去っていたかもしれない。
 父母の相つぐ死は、彼の存在を一層不安定にした。

  かのたそがれの国にこそ
  こひしき皆はいますなれ
  うしとこの世を見るならば
  われをいざなへゆふづゝ (「夕づゝ」)

と新体詩人松岡国男が歌う時、私たちはそこに、この世ならぬものの声に誘われるのを心待ちにさえしている彼の姿を見ることができる。
 しかし後半生の彼は、親友の花袋や独歩の冷やかな眼を振り切って柳田家に養子に入り、官吏というもっとも堅実な職業について、漂泊とは反対の道を歩んだ。しかしこの事実そのものが、漂泊との彼の親近を証拠立てている。彼にこのような道を選ばせたものが、家や家庭という定住の枠を持たぬ人間の心もとなさ、さびしさ、不安、恐怖であったことは明らかだからである。比喩的に言えば、柳田家や官吏という職業は、神隠しにあわないための逃げ場所だったのだ。」



「八」より:

「柳田国男が、大正七年五月、浜松で行なった「机上南洋談」と題する講演の草稿をよむと、すでにこの頃、彼が、マレー半島から蘭領インドにかけての地理や歴史を正確に把握していたのがわかる。その中でとくに興味を引くのは、彼が、「バジョウ」とよばれる海上漂泊民に注目していることである。バジョウは、「漁獲を以て生を営み陸に上る事至つて稀」で、「ボルネオ、スマトラ、及び〔マレー〕半島の海岸に多く住し……婦女労働して水に潜り、生海鼠、玳瑁(たいまい)などをとる」。そして彼は、その生活形態が、中国の蛋民や、日本の家船の人々と酷似していることを指摘している。」
「すでに述べたように、国男は、これまで漂泊民に強い関心と共感を抱いてきた。明治から大正初めにかけての彼の民俗学上の仕事は、クグツ、サンカ、歩き巫女、比丘尼、聖、唱門師、鉦打ち、鉢叩き、舞々、木地師といった漂泊民、とくに山中の漂泊民をもっぱら対象としてきたと言っても過言ではない。そしてこの時期に至って、彼の眼は、海の漂泊民に注がれた。彼の南洋研究をつき動かしていたものの奥には、シージプシーに対するこのような関心がひそんでいたのである。
 そして彼が、「海が通路なることは昔も今に同じ。砂漠や山岳の如き交通の障害物とはいふべからず」「南シナすなはち嶺南二省、アンナン、コーチ、カンボジャ、シャム、インド、ビルマ、マレー半島、マレー群島、フィリッピン、台湾の海陸は一団の世界なり。……昔から行きたい所に行つて都合次第に縁組もし土着もしてゐるシナ人その他の土人等が眼中には国境などはないのである」(「卓上南洋談」)と書くとき、そこには「海上の道」の仮説へとつながってゆくものがはっきり感じられる。」



「柳田国男と政治」より:

「柳田国男は、生涯、左右、中道を問わず、いかなる政党にも属さず、政党にかかわりを持つことも、親炙することもしなかった。研究ひとすじの学者ならいざしらず、官界・政界に二十年近く身を置き、自分を「失敗した政治家」とみなしたことさえある彼の場合、これは、やはり一考に価する事実である。
 彼は、政党だけでなく、官界・政界の大きな人脈に加わることもしなかった。(中略)貴族院書記官長の地位にあった六年間、多くの人々と往来しつつも、彼は政治的には孤立した存在だったように見える。
 政治が権力を以てはじまるとするなら、政党乃至派閥への加入は、権力に近づく第一の捷径であろう。それをあえてしなかったのは、柳田国男が非政治的人間であったことのなによりの証拠である。
 彼は晩年、役人時代を回顧して、「官界に勢力争いが激しく、人が栄達を計るのに汲々としているのが嫌やで仕方がなかった」(「村の信仰」)と述懐しているけれど、政界にあっては、そうした思いはいっそう深かったであろう。私は第六章で、いくつかのゴシップを通じて、生ぐさい政界の動きに超然とした彼の姿をスケッチしてみた。これらのゴシップは、それぞれ別の時に、別の記者によって、偶然書きとめられたものだけに、政治を語る場所で金魚の佃煮について語り、官舎の上を通る時鳥(ほととぎす)の声に耳を澄まし、書記官長席で公然と大あくびをする国男の姿勢には、予想以上の一貫性があるように思われる。このような姿勢を彼にとらせたもの、それは彼の性格や素質だけでなく、多分意志でもあったのだ。
 柳田国男は、政党にかぎらず、一般に党派そのものになじまなかった人間だった。」

「彼はこのように、周囲の人々と党派的な結びつきを持つことを極度に避けた。彼はいつも公を貫き、事が私にわたることを嫌ったのである。
 彼が身内意識を持たなかったことも、別の面から彼の非党派性を証拠だてている。」
「党派に身内意識はつきものである。党派とは、政党の場合ですら、私的な利益のために結びつきあっている集団であり、そのような利益を擁護するためのものなのだから、いきおい外部に対して攻撃的、防衛的で、内部には宥和的に働く。平たく言えば、外にきびしく、内に甘い。外圧が強ければ強いほど、そのような力学に支配される。どのような党派も、多かれ少かれ、このような構造と力学をそなえている。公の透明な視線は、このような場では危険である。それは、党派を解体させかねない。柳田国男のように公に執しつづける人間は、党派には属しえず、党派からも歓迎されない。」

「政治家の素質というものが存在するかどうか、存在するとして、それがどのようなものなのかは一概には言えないにしても、南方熊楠や折口信夫と比較する時、柳田国男が政治家に対する適応性をそなえていたことは明らかである。オルガナイザーとしての才能ひとつをとってみても、そう言うことができる。
 だから彼の非政治性とは、素質とは別のところにあった。それは、政治と権力のリアリティを心底からは信じていなかった点にある。」
「そのような不信は、彼の経験と観察の結果ではなく、あきらかに、それに先立つもっと根深いものであった。経験と観察は、不信の度を深めただけだったのである。

  うたて此世は をくらきに
  何しにわれは さめつらむ
  いざ今いちど かへらばや
  美しかりし ゆめの世に (「夕ぐれに眼のさめたるとき」)

 柳田国男と政治との関係を論じるこの一文に、彼の二十歳の時の新体詩を引用するのは、恣意のそしりをまぬかれないかもしれない。しかし私は、新体詩にあらわれている彼の資質と感受性が、後年の仕事とどこかで結びつき、それを規定していると考えるので、この場合も、そこまで遡らずにはいられない。
 新体詩人松岡国男が「をくらき」ものと観じた「此世」とは、言うまでもなく、彼が当時生活していた東京の片隅だけをさしているのではない。それは、過去・現在・未来にわたってのこの世界全体である。どこへ逃れようと、どれほど時を経ようと、「此世」が「をくらき」ことに変わりはなく、「此世」が明るくなることなどありえない。そして「此世」と対立して、美しいのは「ゆめの世」である。
 このような現実嫌悪と他界願望とは、松岡国男のほとんどすべての新体詩に見ることができ、その基調をなしている。それを、彼の素質に根ざすものと見るか、青年期特有の感傷や文学趣味にすぎないとするかは、意見のわかれるところである。そしてそれによって、後年の彼の仕事に対する見方に大きな偏差が生じてくる。
 私は、前著『柳田国男の青春』の中で、彼の新体詩の重要性と、それが後年の彼の仕事とどのようにかかわっているかを明らかにした。たとえば私は、彼が歌道の師松浦辰男の影響によって、平田篤胤らの幽冥観に関心を持ち、天狗、神隠し、山人などの事象に近づき、それらの研究から民俗学へ入っていった道すじも、その自然主義批判も、泉鏡花愛好も、常民の生活意識や信仰といった、目に見えぬものの重視も、それと表裏をなす、目に見える、有形のものに対する、自身すら明確に自覚していない冷淡さも、最晩年の『海上の道』にみられる日本人の他界観の追究も、新体詩にあらわれているこのような基調と、ひそかに通底している、と考えるのである。
 この観点に立つならば、国男がその青年期のはじめに当って、「此世」を「をくらき」ものと見たという事実は、無視することができない。これは、たとえ気分の上のことではあっても、総体としての「此世」の否認であり、そこには政治の入りこむ余地はない。この社会をいかように改革してみたところで、「此世」はどこまでいっても「此世」なのだから。政治は、「此世」にしか属さず、「ゆめの世」には力を及ぼしえない。」

「柳田国男は、少くともある一時期以後は、(中略)すすんで現実と相渉ろうとし、「世の中が住みよくなる」(「青年と学問」)ことだけを念願として仕事をしてきた。彼はたえず日本の現実を憂えていたが、楽観を忘れず、つねに未来に希望を託していた。退嬰や自棄に陥った彼の姿を見た者はいない。実際彼は、敗戦のような大きな破局に出会っても少しも挫けず、「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」と日記に書き記すような人間であった。その長い一生にあって、どこにも暗さなく、ペシミズムの影など少しも差していないかに見える。
 今日定着しつつある、明るい、ひたすら現実を志向する、前向きの柳田像は果して実像なのだろうか。私には疑わしい。なにも彼をニヒリストに仕立てあげる必要はないけれども、少くとも彼は、もう少し複雑な心の襞を持った人間だったはずである。この種の柳田像の多くは、刻みが浅く、単調で、退屈だ。
 たとえば私は、『故郷七十年』の中で、布川にいた少年時代のある日、隣の家の石の祠の扉をあけて、そこに美しい蠟石の珠を見出したとき、興奮して、見上げた青空に無数の昼の星を見た、という経験を語ったあとで、彼がなにげなく付け加えている「あんな風でながくゐてはいけなかつたかもしれない。幸ひにして私はその後実際生活の苦労をしたので救はれた」という言葉に注目しないわけにはゆかない。
 彼の現実志向の背後に、このような神秘的体験を置いて見ることは、絶対に必要である。そのとき彼のそのような志向は、もっと別のニュアンスを帯びて私たちの眼に映るであろう。それは、大袈裟な言い方をするならば、狂気にさえ通じる世界から身をもぎはなすための彼の選択という面さえ現わしてくるだろう。
 彼は、この世界が可視の現実だけでは終わっていない、という意識をたえず抱いていた。彼は、師の松浦辰男のようにかくり世を信じたわけではないが、目に見えぬものに惹かれる心の習性だけは、終生変わらなかった。そのことは、現実の事象に対する余計なこだわりや執着から彼を解放し、その思考を自由にしている。
 彼の思考は、つねに現実に即しながら、現実に密着することも、その中に埋没してしまうこともない。彼は正確なパースペクティヴを持ちつづける。彼が現実との間にとる距離は、現実の中の一切を相対化しかねない。繰り返すけれども、彼が世の保守主義者と異るのは、このような視線のためである。」

「国男の学問の中には、天皇制を相対化する契機がいくつもあった。彼が御大礼に奉仕していた一日、「若王子の山の中腹」から「白い煙」を細々とあげていたサンカなどはその一つである(『山の人生』)。谷川健一は、サンカが、いかに天皇制に無縁な、「天皇制を相対化する」存在であったかを、「山人と平地人」の中で説いている。国男が、明治の末から大正のはじめにかけて、大きな関心と共感を抱きつづけた、天孫族の「不倶戴天の敵」である山人、山男にしてもそうだ。
 山人、山男、サンカは、もちろん国男がその実在を信じた人々であった。しかし彼等への関心が、幽冥道と天狗への関心から生れていることからも分る通り、また『遠野物語』や『山の人生』が示すように、彼等には他界的なものがつきまとっており、幽冥界の消息をもたらす天狗と同一視されているところがある。

  かのたそがれの国にこそ
  こひしき皆はいますなれ
  うしと此世を見るならば
  我をいざなへゆふづゝ (「夕づゝ」)

と歌う新体詩人松岡国男の他界願望が、民俗学者柳田国男の他界研究に影を落としていると私は書いたが、そのことを、ここでもう一度繰り返したい。あえて言うならば、このような他界願望が、彼に山人や山男の世界を発見させたのであり、そしてこの願望こそが、天皇制を相対化しているのである。
 柳田国男は、このような契機を、昭和に入ると表面に出さなくなるけれども、戦前の、次第に色濃くなってゆくナショナリズムの風潮の中で、ついに彼が天皇と天皇制を絶対化することがなかったのは、おそらくはそれがあるためであった。」






こちらもご参照ください:

ハンス・ヨナス 『グノーシスの宗教』 秋山さと子/入江良平 訳







































岡谷公二 『沖縄の聖地 御嶽』 (平凡社新書)

「堂のこのような変化のなさを、私は少しも単調とは思わない。人工のさかしらによって神の領域を損うまいという意志をそこに感じるからであり、その静寂の中に立っていると、榎の下葉のかすかな葉ずれの音にも神意を感じてしまうからである。」
(岡谷公二 『沖縄の聖地 御嶽』 より)


岡谷公二 
『沖縄の聖地 御嶽
― 神社の起源を問う』
 
平凡社新書 905 

平凡社
2019年2月15日 初版第1刷
206p
新書判 並装 カバー
定価800円+税
装幀: 菊地信義



本書「あとがき」より:

「森を神の来遊する場所として崇め、社殿その他人工の営みを忌み排する御嶽という沖縄の信仰と聖地に長い間関心を抱いてきた。しかしいまだに分からぬことが多い。とりわけその成り立ちは謎に包まれていると言っていい。この信仰は沖縄独自のものなのか? 外部からの影響を受けているのか? 受けているとしてその外部はどこなのか? いつごろ、どのようにして入ってきたのか? これらの問題を、さまざまな観点から考え、諸家の意見は尊重しつつも無批判には従わず、なんとか納得ゆく答えを出そうとつとめてきた。結果として、御嶽の信仰が古神道の面影を残しているという柳田・折口以来の定説に反することとなった。独断のそしりはまぬかれないとしても、早急の判断ではなく、長い時間をかけての答えだったことだけは認めていただきたい。」


神社シリーズ四冊目。モノクロ図版38点、地図4点。

社殿のある神社が父権制でありツリーでありアカデミズムでありコスモスであるとすると、何もない御嶽は母権制でありリゾームでありアウトサイダーアートでありカオス(アンチコスモス)であります。


岡谷公二 沖縄の聖地 御嶽 01


帯文:

「神の森の
系譜を
たずねて

原始の神社をもとめ、
約60年にも及ぶ長い旅路を経て
最後に行き着いたのは、
沖縄の御嶽だった。
聖なる森の分布に重なる
「貝の道」から見えてきた歴史とは。」



カバーそで文:

「古神道のありようを伝えるといわれる御嶽。
森そのものを神とする
信仰の背景には何があるのか。
長年、御嶽に取り憑かれた著者が、
秘された森の木々をかき分けて
たどり着いた先に見えたものを伝える。

社も鳥居もない、
聖性としての「何もなさ」への旅。」



目次:

第一章 御嶽とは
 御嶽のありよう
 土地との結びつき
 聖性としての「何もなさ」
 成立過程
第二章 御嶽遍歴
 1 波照間島の御嶽
 2 西表島の三離嶽(みちゃりおん)
 3 宮古の神々
 4 狩俣村
 5 赤崎御嶽から砂川(うるか)御嶽へ
 6 斎場(せーふぁー)御嶽
 7 死んだ御嶽、生きている御嶽
 8 国頭(くにがみ)で
 9 阿嘉島・座間味島
第三章 御嶽と神社
 御嶽の起源をめぐる定説
 柳田・折口説の矛盾
 社殿の謎
第四章 貝の道
 貝の道とは
 貝でつながれた文化圏
 神の森と御嶽の関係
 ヤボサと藪薩
 倭寇と琉球
第五章 済州島
 聖なる森の系譜
 済州島の堂をたずねて
 済州島・琉球・倭寇
 新礼里の堂
 堂の盛衰と変わらぬ魅力
 多島海の堂
 森だけの堂
第六章 新羅の森
 慶州の聖林を歩く
 寺院の陰に埋もれた聖林
 新羅と日本
 都祁に見られる新羅の痕跡
 遍在する新羅系神社
 慶州再訪
 神の木に導かれて

あとがき
参考文献



岡谷公二 沖縄の聖地 御嶽 02



◆本書より◆


「第一章 御嶽とは」より:

「私がはじめて沖縄へ旅したのは、沖縄がまだアメリカの軍政下にあった昭和三十六年(一九六一年)の夏である。そしてその時見た波照間島などの御嶽の魅力のとりことなり、以来毎年のように沖縄へ渡り、ひたすら御嶽だけを訪ねて歩いた。だから私は、性懲りもなく半世紀余にわたって御嶽めぐりをしてきたことになる。(中略)あまり人のゆかない小さな島々にも渡ってみた。どこにも御嶽はあり、そして驚いたことに、どこへいってもそのありように変わりはなかった。深く密生して茂る森、その中の社殿のない空間、自然石を二つ三つ積んであるだけの、或いはシャコ貝の大きな貝殻を置いてあるだけの祭壇……。」

「御嶽の森には神が訪れるものだという信仰は、多分沖縄のほとんどすべての人々の共有するものであったと思われる。それ故御嶽の木を伐ることにはきびしいタブーがあったのであり、ましてやその森を伐りひらいて社殿を設けるなどは、神意に反する、許し難い行為であったであろう。

 このような沖縄の人々の信仰上の意志の根強さは、明治以降、日本政府が御嶽を神社に改編しようとした圧力に遂に屈しなかったことにもよくあらわれている。」



「第三章 御嶽と神社」より:

「このように、国が神社に対し、社殿を設けさせようとした理由はなんだったのであろうか? いずれの詔にも理由が明記されていないため、推測するよりほかはないが、律令体制の完成をめざしていた時代であってみれば、全国の神社の管理を強化しようとする面が大きかったのはたしかである。」

「女性たちが神社から次第に遠ざけられたのも、この管理体制のためであった。「〔……〕巫女は、豊かなシャーマン性のために、体制から排除されるようになる。時には自然界の魔術性を体現するシャーマンは、秩序体制にとって負(マイナス)に作用しかねなかったからである」と倉塚曄子は言う(『古代の女』)。そしてこのような女性排除の動きは、古代国家成立にむけての大転換期であった七世紀中葉(皇極期)にはじまる、と付け加える。柳田国男が「巫女考」で説くような多数の歩き巫女がこうして発生する。」

「すでに述べたように、十二世紀以降、本土から入ってきた人々が、神道の信仰を沖縄に持ち込んだとするなら、それは古神道とは異なり、社殿のあるのを当然とする、今日の神社神道に近いものだったはずである。それが御嶽信仰のもととなったのであれば、なぜ今日に至るまで御嶽に社殿がないのであろうか?
 沖縄には、御嶽とは別に、(中略)多くの神社がある。これらは、いずれも近年の勧請で、鳥居、拝殿、本殿を持ち、本土の神社と少しも変わらない。
 私たちは、御嶽と神社の関係をもう一度考え直す時期に来ているのではあるまいか?
 私は、御嶽が神社と関係があるとしても、もう一つ、別に根があるのではないかという思いを捨て切れない。」



「第五章 済州島」より:

「なお天から神が下りてくる韓半島とは違って、済州島では、神は地中から現われる。島の創世神話がそうだ。『高麗史』には次のように記されている。漢拏山の麓の地から良乙那、高乙那、夫乙那という三神が湧出した。彼らは山野で鳥獣を追い、毛皮を着て暮らしていた。或る日東海(トンヘ)の浜に石の箱が流れ着き、中から青い服を着た三人の処女と仔馬、仔牛、五穀の種などが現われた。付き添っていた使者は、この三人の処女は日本国の王女であり、この島の三神が配偶者がなくて建国できない由を日本国王が知り、その命によって連れてきたと言うや、雲に乗って立ち去った。
 三神はこの三人の処女と結婚し、島を三つに分け、日本国王から与えられた五穀の種を蒔き、馬と牛を飼い、建国を果した。
 この三神が湧出したと伝える三つの穴が、三姓穴(サムソンピョル)と称して済州市の中心部にあり、観光名所になっていて、年に一度、三神の子孫が集まって祭をするという。この神話は、済州島と日本との関係を示していて、興味深い。」
「なお地中から湧出する神の神話は、沖縄にも見られる。」
「地中から神が湧出するという神話は、あきらかに南方系だ。ここでもまた済州島と沖縄は結びつく。」

「私は堂めぐりをはじめてからしばらくの間、堂が神社と御嶽に比べて掃除がゆき届かず、不潔だと感じ、それを信仰心の無さのせいだと思っていたが、一概にそうは言えないことが分かってきた。祭の日以外に、たとえ掃除のためであろうと堂に立ち入ってはならない、というタブー――これは御嶽も同様だ――があることを知ったからである。このタブーはとりわけ男性に対してきびしく、兎山里の蛇神を祀る堂のように、男性が中に入るだけでなく、見ることすら許されない堂もあるのだ。」
「また、供物に関して言えば、一旦神に捧げたものはみだりに持ち帰らないというタブーもあるらしかった。」

「堂は、数は多いけれども、そのありようはあまり変化はない。榎を中心とした小さな森、祭壇、或いは祭壇代わりの岩、石垣、ただそれだけでほかには何もない。なお祭壇には、祀られている神の数によって、穴があけられている。それは、地中の神に供物をとどけるためのものだ。」
「堂のこのような変化のなさを、私は少しも単調とは思わない。人工のさかしらによって神の領域を損うまいという意志をそこに感じるからであり、その静寂の中に立っていると、榎の下葉のかすかな葉ずれの音にも神意を感じてしまうからである。」



「第六章 新羅の森」より:

「私はここで、新羅と日本の関係について一言しておきたい。
 地図を見れば分かるように、新羅とやがて新羅に併合される伽耶の国々は、朝鮮半島の南東部を占め、地理的には日本に最も近い。そして百済や高句麗と比べ、きわめて古くから日本と交渉を持っている。(中略)史書から見る限り、百済と倭の関係は、新羅と倭の関係より五百年近くおくれているのである。」

「大和盆地から穴師川を溯って都祁に入る際に出会う穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社は、新羅の王子天日槍の末裔が祀った神社とされ、最初の村白木は言うまでもなく新羅であり、ここには天日槍の裔白木武蔵が天日槍の築いたシラキ城に拠ったという伝承がある。」
「香春山は有名な銅山であり、新羅の人々はこの銅をめあてに渡来してきたと考えられている。
 敦賀周辺にもあきらかに小新羅王国があった。
 その中心気比神宮の祭神は天日槍だとする説もある伊奢沙別(いささわけ)命で、周辺には新羅にかかわる神社や村が多い。」

「新羅神社の祭神は、素戔嗚尊とその子五十猛(いそたける)であることが多い。それは『日本書紀』に「〔……〕素戔嗚尊の所行無状(あづきな)し。故、諸の神、科するに千座置戸を以てし、遂に逐(やら)ふ。是の時に、素戔嗚尊、其の子五十猛を師(ひき)ゐて、新羅国に降到(あまくだ)りまして、曽尸茂梨(そしもり)の処に居(ま)します」と書かれているためである。ここでは、素戔嗚尊と五十猛神は、神々によって追放されたことになっているが、この二柱の神は、新羅の神と考えられたのである。なお曽尸茂梨は王都、即ち慶州をさす。
 素戔嗚尊を祭神とする神社をすべて新羅系とするわけにはゆかないけれども、その数は多い。新羅とかかわりの深い宇佐八幡、新羅=伽耶系渡来人と考えられる秦氏が創祀にかかわっている伏見稲荷――このように見てくると、新羅ゆかりの神社は実に多い。私は神社の成り立ちそのものに新羅が或る役割を果していると考える者である。
 以上のように、百済、高句麗よりはるかに昔から日本と接触し、その文化に深層に至るまでの影響を受けているにもかかわらず、新羅は、日本人にとって、百済に比べ、なじみの薄い、どこかよそよそしい国と受けとられている傾きがある。
 その理由の大方は、正史とされる『日本書紀』に現われた「新羅蕃国視」(大和岩雄)のためであったと思われる。」
「『日本書紀』は、朝廷の編纂した正史であり、しかも古代に関しては、『古事記』のほかは他に拠るべき資料がなく、日本人の史観に影響を与えてきた。しかしこの本が、新羅の部分だけでなく、多くの偏りのある本であることが分かってきた。私たちは日本と新羅の関係を、神社の問題を含め、もう一度考え直すべき時が来ていると思われる。」





こちらもご参照ください:

岡谷公二 『原始の神社をもとめて』 (平凡社新書)
井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)
倉塚曄子 『古代の女』 (平凡社選書)






















































































岡谷公二 『柳田国男の青春』 

「夢よりもはかなきものは目の前にそゝろうつろふうつゝなりけり」
(柳田国男)


岡谷公二 
『柳田国男の青春』


筑摩書房 
1977年2月25日 第1刷発行
274p 目次2p 索引vii
四六判 丸背紙装上製本 
カバー ビニールカバー
定価1,300円



本書は筑摩叢書版もでていますが、ヤフオクで旧版が124円(+送料126円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


岡谷公二 柳田国男の青春


帯文:

「抒情詩から民俗学への道筋を探る
幼少年期を過した故郷での諸体験、森鷗外との出会いによる文学的目ざめ、抒情詩の発表、そして農政学を経て民俗学の草創まで、柳田国男の青春の軌跡を、広く原資料にあたって検討しなおし、柳田研究に新たな視点を提示する。」



帯裏:

「柳田国男の新体詩をはじめて読んだ時の驚きは忘れがたい。それは実に新鮮なものに思われた。同時に、いくつかの詩に結晶している彼の感受性は、後年の著作の底流をなし、『海上の道』に至って再び露頭している、と感じた。本書は、このときの驚きから生れたといっていい。
(あとがきより)」



目次:

第一章 二つの故郷――辻川と布川
第二章 父母
第三章 鷗外
第四章 松浦辰男と紅葉会
第五章 『文学界』の人たち
第六章 『抒情詩』
第七章 農政学者
第八章 竜土会
第九章 イプセン会
第十章 民俗学へ
第十一章 南方熊楠と新渡戸稲造

あとがき
年譜
人名索引




◆本書より◆


第一章より:

「彼の少年期の記憶の中では、色と光と匂いとがせめぎ合っている。彼は頭だけでなく、全身で物事をおぼえている。おそらくそこに彼の抜群の記憶力の秘密があるのだろう。よく指摘されることだが、とくに匂いの記憶についてこれほど鋭敏な人も珍しい。彼は、母親が毎朝かまどを焚きつけるのに使ったくろもじの木の匂い、有井堂の床の下にもぐりこんだとき嗅いだ匂い(『孤猿随筆』)、亥(い)の子の日に隣近所からもらう餅の重箱の蓋をあけたとき鼻を撲ったそえものの菊の花の薫り(『年中行事覚書』)、かやつり草を折った時の匂い(『野草雑記』)、夏祭の夜の煮詰ってゆくおでんの匂いや、踏み潰された瓜の匂い(『秋風帖』)を決して忘れることがない。彼は、子供のころに読んだ、「西南戦争の前後に出来た本」の持つ「一種特別の臭ひ」(『老読書歴』)を晩年に至るまではっきりとおぼえている。」

「布川での二年間は、国男の一生にあって、きわめて特異な時期である。彼は父母の膝下を離れただけでなく、学校へもゆかず、兄達から特別な監督も受けず、すべての拘束から離れて思うままに暮した。」
「辻川ではぐくまれた彼の自然児的性格が、ここでいっそう助長されることになる。」
「国男のように人並はずれて感受性の鋭い少年の場合、これは一面で、きわめて不安定な、危険に晒された生活だった。生活に現実感を与える学校や職場といった枠組や、世間の束縛や、他人が存在しないため、自他や生死のけじめを失い、生活そのものが幻想と化してしまうおそれがあるからである。しかも彼は、大河や、池や、沼や、古城址や、古い社などに至るところで出会う、暗示に富んだ自然にかこまれていた。この時期に彼がいくつかの神秘的な体験をしているのは、その環境を考えるならば、当然かもしれない。
 たとえば彼は、ある春の日、隣家の庭にある、その家の祖母を屋敷神として祀った小さな石の祠の扉をあけて、その中にはめこまれた「じつに綺麗な蠟石の珠」を見たとたん、興奮して、「何ともいへない妙な気持」になり、しゃがんだまま見上げた青空に、何十という昼の星を見ている(前掲書)。またある日、家の裏手の崖の上の台畑に坐ってこちらを見下していた二匹の狐に見すくめられて体が動かなくなり、しかも翌日、隣家の主人が突然発狂して妻女を斬り殺すという事件がおき、狐とこの事件とは彼のなかで一つにむすびついてしまう(前掲書)。」
「『故郷七十年』の中で語られているこの種の体験は、人称をかえて『遠野物語』や『山の人生』の中に挿入されても、少しも不自然ではあるまい。彼は後年神かくしという現象に異常な関心を抱いたが、彼自身が「隠され易い方の子供であつた」(『山の人生』)し、布川での二年間はもっともかくされやすい時期だった。」



第二章より:

「国男の父操は天保三年生れ、雪香、晩年は約斎と号した。」
「国男自身は父のことを、「単純なる幼年型の伝承者であった」(「柳田国男自伝」)と記している。世事に疎い、神経の細い、内攻的な、子供のような人であったらしい。明治維新の際には、社会の激動についてゆくことができず、ひどい神経衰弱にかかり、一時は座敷牢に入れられていた。たまたま夏のある夜、座敷牢から出して蚊帳の中に休ませておいたところ、不意に姿が見えなくなって大さわぎとなり、八方手をつくして探しまわったら、有井堂の近くの空井戸にひそんでいた、ということもあった(『故郷七十年』)。
 また鳥取の赤碕の漢学塾の先生となって単身赴任したときにも、ホームシックの末、神経衰弱となり、一年余りで帰ってきてしまった。その折、金を持たせると危いというので、知り合いの医者が、あとから操の所持金をとどけてよこした、という(前掲書)。
 中年以後はとくに世間を厭い、つき合いの場所には決して出ようとせず、息子たちが母から口上を教えられて、代理として出るのが常だった(「国語史論」)。晩年はますます子供のようになり、たとえば、これは布川に移ってからの話だが、上野図書館へ本を読みにゆく時には、妻から十銭だけ貰って出かけてゆくという風だった(『故郷七十年』)。
 しかし操は、学者としてはすぐれた天分を持っていた。」
「だが操自身は、その学問を大成させえなかった。(中略)操は、その学問を結実させるに必要な、強い執着心というものを欠いていたように見受けられる。」
「国男はすでに三つ四つのころから父と一緒に寝、「添乳の代りに」話をして貰った。(中略)後年国男はその著作のあちこちに、子供のころ父からきいたこれらの話を書きとめている。」
「操にあっては、学問も、絵も、歌もすべてが真に生活になりきっていた。彼は、稀な、すぐれた教養人だった。国男も含め彼の息子たちの仕事のすべては、彼の中に萌芽としてあったものの発展だったとさえ言い得る。国男に関して言えば、日本古来の信仰、昔話や伝説、古い習俗、妖怪、滑稽談、詩歌、こうしたものに対する関心は、すべて操にもあったものである。だが操が残した最も大きな教訓は、受けつぐということの真の意味を教えたことであろう。それは近代の日本が切り捨て、忘れ去ったものだった。近代日本に対するアンチテーゼとして人々の注目を集めているのは、彼が継承という行為を重視し、それをその思想の根本に据えたからである。操はそれを生活そのものによって、国男に教えたのであった。」



第四章より:

「鷗外とともに、国男の精神形成に大きな影響を与えた人物に、もう一人歌人松浦辰男がいる。」
「辰男の影響は、その人柄を反映して地味で目立たないが、彼の持っていた見えざるものに対する畏れともいうべきものは、国男の思想にあきらかに濃い影を落としている。」
「松浦辰男は、この世の中には現世と幽冥、つまりうつし世とかくり世とがあると信じ、自分のすること、言うことは、つねにある眼に見えない存在に見られ、きかれているとして、深くおのれを慎んで生きた人間である。このような人生観は国男に強い印象を与えたとみえて、彼は幽冥について語るときには決って松浦辰男の名前をあげ、その言葉を引き合いに出している(『先祖の話』他)。
 国男も早くから幽冥に対して関心を抱いてきた。いや、幽冥に対する関心と言うより、うつし世がうつし世だけでは終っていないという漠然たる意識を抱いてきた、と言ったほうが正確かもしれない。彼はすでに辻川時代にいくつかの不思議に遭っているが、布川にいた時の、隣の家の石の祠の扉をあけて蠟石の珠を見たとたんに興奮して、昼の空に何十という星を見たという前述の体験は、たしかにひとつの「神秘な暗示」であった(『故郷七十年』)。しかしこの種の体験は、普通周囲の人々によって理解されず、共有されることもない。」
「そして自分の体験が承認も、共有もされないという事実は、往々その人間に、大きな、存在の根をおびやかすような不安を与え、彼を世界から疎隔させ、孤立させ、狂気へ追いやることさえある。この場合、彼の体験が病的な幻視、幻覚、幻聴ではないという保証はどこにもない。国男はもちろんそこまで追いつめられることはなかったが、不安は尾をひいて、彼のなかに長く残っていたと思われる。このような、自己の存在に対する不安と、現実嫌悪と、うつし世ならぬものに対する憧憬は、国男の新体詩の基調のひとつをなしている。

  うたて此世は をくらきに
  何しにわれは さめつらむ
  いざ今いちど かへらばや
  美くしかりし ゆめの世に (夕ぐれに眠のさめたるとき)

  かのたそがれの国にこそ
  こひしき皆はいますなれ
  うしと此世を見るならば
  我をいざなへゆふづゝ (夕づゝ)

 ところで松浦辰男は、この種の体験の意味を国男に教えた最初の人間だった。国男は辰男において、彼の見た昼の星を嘲笑しない大人にはじめて出会ったのである。国男がその存在を漠然と予感し、憧憬を抱いていたうつし世ならぬものに対し、辰男は幽冥という名を与え、その明確な内容を示した。そればかりか辰男は、長いあいだ受けつがれてきた日本人の世界観の中に、それを位置づけてみせたのである。」



第八章より:

「国男の自我について考えるうえで、彼の幼時のいくつかの神秘的な経験は、大きな意味を持つ。人間は、自我をこえた何ものかによってたえず支配され、動かされている、という事実を、それらの経験は彼に教えた。異常なまでに鋭い感受性を与えられた彼は、自我を、自立すべき個としてより、見えざる世界をも含むひとつの世界を感受する場として意識することが多かったようだ。彼が、自と他、自我と社会、あるいは両者の葛藤という形で自我を意識することが少なかったのは、おそらくそのためである。」
「彼が鏡花を好むのは、鏡花には、「あのと指して型に採つた、時代と云ふもの」がなく、「時代を超絶して居たが故に老いもせず、且つ其夢は自在に美しかつた」(「這箇鏡花観」)からである。つまり近代に生まれ合わせながら、あたうるかぎり時代の束縛から逃れ、自我意識の苦しみに背をむけた、「遠い古代の物思ひが、折々は来り通うて居る」場所に、その世界をきずいたからである。」














































































































岡谷公二 『南海漂蕩 ― ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』

「「ばかめ、人間か鳥か猿かわかるようなもんは本当の彫刻じゃねえ」」
(岡谷公二 『南海漂蕩』 より)


岡谷公二 
『南海漂蕩
― ミクロネシアに魅せられた
土方久功・杉浦佐助・中島敦』


冨山房インターナショナル 
2007年11月29日 第1刷発行
205p 初出一覧1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円(税別)
装幀: 毛利一枝



本文中図版(モノクロ)16点。
土方久功伝『南海漂泊』の姉妹編です。本書では土方に弟子入りして南洋で行を共にした杉浦佐助についてやや詳しく書かれています。
本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで748円(+送料257円)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


岡谷公二 南海漂蕩 01


帯文:

「南の島へ――
自由の旅人たちの
若き魂の
遍歴

“日本のゴーギャン”土方久功、
幻の彫刻家・杉浦佐助、
文学の鬼才・中島敦。
いま甦るその豊穣なる生と死。」



目次 (初出):

南方行の系譜 (書き下ろし)
 南の思想に生きたゴーギャン
 西欧の画家・文人たちの南への系譜
 南洋に渡った日本人画家たち
 『ノア・ノア』に魅せられて
 日本人の原郷としての南方

南海漂蕩――杉浦佐助の生と死 (「新潮」 平成9年6月号)
 三河の宮大工杉浦佐助
 南洋へ飛び出す
 土方久功の南洋行
 押しかけ弟子
 ふたりのパラオ遍歴
 絶海の孤島サテワヌでの生活
 新しい表現へ
 美術界への衝撃
 作品の行方を求めて
 テニアンの佐助
 大作「やまたのおろち像」秘話
 その死

パラオ好日――土方久功と中島敦 (「新潮」 平成14年5月号)
 中島敦、パラオへ
 土方久功との交流
 ガルミズ行
 なぜ南洋に――南方行の系譜と中島敦
 敦の群島めぐり
 パラオ好日
 帰国まっで

パラオ諸島地図
あとがき
初出一覧



岡谷公二 南海漂蕩 02



◆本書より◆


「南海漂蕩」より:

「当時、中国大陸と南洋諸島は、内地で鬱屈していた青年たちにとって、自分を試すべき新天地であった。大陸へ渡った人々は、みなどこか国士といった肌合いを帯び、政治や策謀にかかわろうとする生ぐささを持っていたのに対し、南へ行った人たちには、そういうところがまるでない。南とはまず海であり、光と色彩であり、繁茂であり、国家や社会から遠く離れた、アナーキーな夢想の場所でもあって、楽園の面影を宿す一方、それは世外であり、他界に近い土地、人が自らに課す流謫(るたく)、いや、流刑の地でもある。佐助は、自分の素質の中に、そうした風土とひびき合うものを感じたからこそ、南へ赴いたのであろう。」

「サテワヌ(中略)は、パラオ諸島の北東に位置するヤップ島のそのまた離島である。コロールからだと十八日の船旅を要し、航路の終着点に当る。周囲僅か八キロメートル、珊瑚礁にかこまれ、標高はほとんどなく、島の大半はココ椰子やパンの木におおわれている。当時の人口は約二百八十人、日本人は一人もおらず、したがって役場も学校も警察もなく、定期船が年に四度やってくるだけの、文字通り絶海の孤島だった。」
「島の一年は、星にちなんで名付けられた十二の月からなり、前半年がラック、後半年はエッファンと呼ばれる。ラックは概して東風の吹くおだやかな季節で、天気のいい日が多く、海も静かで、航海や漁に適し、礁湖も干上って、女子供たちまでが存分に貝や雲丹(うに)をとることができる。パンの実も豊かにみのり、食糧が豊富なので、生活は明るい。それに引きかえ、エッファンになると西風が吹きはじめ、天候が不順で、海が荒れて漁に出られなくなる。食糧も欠乏し、芋田の芋や貯蔵しておいたパンの実に頼ることが多くなる。
 島民の日常生活についていうならば、昼間、男たちは漁に出たり、船造りとか椰子林の手入れといった共同作業に加わることもあるが、多くの場合ぶらぶらしていて、夜になると舟庫に集まり、椰子の花苞を焚いて、決って踊り出す。もっぱら男が踊り、女は見物して囃し立てるだけだけれども、時には男女の競舞もあり、男女二つの組にわかれ、歌う歌がなくなり、息が尽き、声が嗄(か)れるまで互いに歌い踊り、競い合って夜をふかす。女たちは、共同で食事を作るための厨屋(くりや)に朝から晩まで集まって、冗談を言い言い、遊び半分の御馳走作りで一日を潰してしまう。
 典型的な母系社会で、結婚すると、男は女の家に入り、女の家のために働く。離婚した場合、男は子供を残して家を出てゆく。子供はあくまで母親のものであり、夫婦の結合の所産とは考えられていない。だから女は平気で父無し子を生む。」
「久功は、サテワヌ島滞在から二十年近く経ったあと、「孤島」という詩でこの島のことをうたっていて、その中に「彼らは恋をし 踊り狂い そして充分に生を享受する それにもかかわらず私に飛びかかる考え「彼らは蟻だ」何千何万年来 生きて死んで来た虫けらの大ものだ」という文句があるが、実際、人間はここでは「虫けらの大もの」であり、虫けらのように生まれ、そして死んでゆく。すべては無窮の循環であり、地に落葉が積み重なるように、昨日に今日が重なる。二人の在島八年の間、とり立てて何事もおこらず、事件といえば、定期船長明丸の年に四度の寄航か、台風の襲来くらいのもので、まことに静穏な日々だった。」

「佐助の彫刻の実相を知るよすがとしては、現存の十点足らずの作品のほかには、雑誌『美之國』や個展の目録にのっている、写りの悪い数点の写真しかない。それらから判断するに、写実的な作風のものは「トカイ像」一点だけで、あとはみな「怪物」である。それは、あぐらを組む蛙(かえる)の化物であり、布袋(ほてい)のような腹をした鳥であり、蛇かとかげの頭を持つ、頰杖をつく人体であり、謎の行にはげむ、痩(や)せて肋骨(ろっこつ)をむき出しにした裸の行者であり、昆虫めく鋭い眼でこちらをうかがう未知の国の神像だ。並行線や群点が、まるで傷痕のように、あるいは彼らの神秘の出自を示すしるしででもあるかのように、顔や体に深く刻まれている。しかしこれらの怪物は、この世の空間から逸脱しようとはせず、その中で不思議に安定した位置を占め、ゆるぎない実体感さえそなえている。
 この幻想は、西欧の、とりわけ近代の美術にみられる幻想とは、まったく趣きを異にする。大体、佐助の発想の中には西欧的なものはなにもない。彼が汲んでいる泉は、彼自身が書いているように、仏像や伎楽面、舞楽面などの日本の伝統であり、もう一つはおそらく、パラオの昔の島民が残した作物である。(中略)パラオの島々には、いつの時代のものとも知れない、人面の鰐(わに)などを刻んだ石の神像があちこちにある。久功は佐助を連れ、遠路やジャングルをものともせず、そうした神像を見て歩いて詳細な報告(中略)を残しているが、その中で久功が写しとっているこれらの神像の奇怪さには、佐助の彫刻の奇怪さに通うものがある。
 佐助の彫刻はたしかに奇怪だが、そこには、近代人の病んだ意識が生み出す、底知れない暗い淵を覗きこむような不気味さはない。その奇怪さは、もっと根太く、土くさく、ときにはとぼけていて、ユーモラスで、一抹の明るささえ漂う。それが、彼の持味なのであろう。ともかく彼がサテワヌ島において、余人の企て得ない、彼一人だけの世界を作り出したことだけは確かである。」

「佐助は、料理も上手で、豚を殺したからとか、鮫(さめ)をさばいたからといっては、たえず久功たちを呼びに来た。鮫のことは、「大工サンハ鮫ノ料理デ一日カカッテシマッタ」と久功の日記にも出てくる。この日記によると、佐助は、「貰ったから食べましょうよ」と言って、犬の頭を丸ごと皿にのせて持ってきて、久功を啞然とさせてもいる。」

「八年振りに戻ってきたコロールの変貌は、久功と佐助を驚かせた。」
「実際、久功と佐助がサテワヌで楽園の夢をむさぼっていた間に、昭和十二年には日中戦争がはじまり、翌十三年には国家総動員法が公布されて、日本全土が戦時体制下に入り、南洋群島の状況は激変していた。とりわけその西端に位置するパラオ諸島の軍事上の重要性が高まっていて、コロールには軍人がたくさん入りこみはじめており、久功らがサテワヌに渡った昭和六年には二千人に足りなかったこの町の邦人の人口は、昭和十四年には一万三千に達していたのである。」

「佐助は、横浜までは知っているが、これまで東京に来たことがなかった。そして彼が留守にした二十年という時間が、故国を別の国に変えていた。彼は、生まれてはじめて乗った地下鉄や自動車に啞然とし、銀座のネオンに瞠目し、溢れる人波に恐怖さえ覚えた。彼にとって東京は、パラオやサテワヌより異郷だった。」
「佐助は、展覧会が終わるや、七月一日にまた蒲郡へ戻った。その折、売れ残った彫刻を石炭箱一杯持ち帰ってきて、親戚知人の誰かれにくれようとしたが、誰も気味悪がって貰わなかった、という話が、蒲郡の人々の間に伝えられている。佐助の旧知だったという例の左官の老人の話によると、このとき、彫刻を見せられ「こんな、人間でもねえ、鳥でもねえ、蛙でもねえようなものが彫刻なんかであるものか」と言うと、佐助は、「ばかめ、人間か鳥か猿かわかるようなもんは本当の彫刻じゃねえ」と答えた由である。
 かつて私は敬子夫人から、久功の親戚の家で、比較的近年、やはり気味悪がって佐助の彫刻を大ごみに出してしまった、という話をきいたことがある。私は、ゴーギャンが残した絵や彫刻を、魔物扱いして海に沈めたタヒチの人々のことを思わずにはいられない。こうして佐助の彫刻の大方が失われたのである。」

「佐助は、久功のように、住み慣れたパラオへ戻って行ったわけではない。既に記したように最初にヤップ、次いでその北のロタ島、そして昭和十七年にはそのまた北のテニアンへ移って、昭和十九年にそこで死を迎えるのであり、ついにパラオへは二度と足を踏み入れなかった。」

「七月七日、サイパン玉砕のあと二十三日に、ついに米軍はテニアンへ上陸してきた。(中略)七月三十一日、大家大佐の率いる海軍警備隊の、続いて緒方大佐麾下(きか)の陸軍の残存兵の、八月一日から三日にかけては海軍航空艦隊司令長官角田中将らの敵戦車への突撃をもって、日本軍は消滅した。そしてカロリナス高地のジャングルや洞窟に、指揮官を失った四千人の兵士と、一万を超える民間人とが取り残された。
 生存者が記録にとどめた、以後数ヵ月に及ぶ人々の逃亡生活は、サイパンや沖縄の場合にまさるとも劣らぬ悲惨なものである。ジャングルの中の累々(るいるい)たる死体、そばを通る人に手を合わせて水を求める瀕死の重傷者、片手をもがれたまま彷徨する兵士、食料を分けることをことわった民間人をピストルで射殺する将校、家族のこもる洞窟の中に外から手榴弾(しゅりゅうだん)を投げこみ、そのあと一人で敵中に飛びこむ父親、月夜の海岸で君が代を歌い、ダイナマイトで集団自決する人々や、カロリナス岬の断崖から海中へ身を躍らせる人々――佐助は、このような生き地獄をどのようにくぐり抜けたのだろうか?」

「ともかくこうして、テニアンの攻防戦とそのあとの敗走生活をせっかく生き抜いたのに、佐助は無惨にも、同胞に撃たれて不慮の死をとげるのである。」



「パラオ好日」より:

「そして彼(引用者注: 中島敦)の「狼疾」は? 彼は、それが南洋では、いや、どこへ行っても治り得ないことを、それが不治の病であることを、この南洋行によって痛いほど知らされた。「銀杏の葉の散る神宮外苑をうそ寒く歩いてゐた」彼と、「島民共と石焼のパンの実にむしやぶりついてゐる」彼との間には、なんの違いもなかった。「私が考えていたような旅は、結局のところ、場所を変えることによって今ある自分とは別のものになるための方法であるどころか、相変わらず自分自身と同一な人物の単なる移動にすぎない」――このミシェル・レリスの言葉に、敦は、満腔から同意したにちがいない。」



◆感想◆


ミルトンの『失楽園』に登場するサタンは、「どこへ逃げようが、そこに地獄がある!/いや、わたし自身が地獄だ!」と言いました。

それはそれとして、「虫けらの大もの」であるサテワヌ島の人々の静穏な日々の生活と、米国と大日本帝国の文明人たちの狂気そのものの殺し合い。なにをかいわんやです。文明人が赴くいたるところに地獄が生じてしまうのは、文明自体が地獄だからです。




こちらもご参照ください:

岡谷公二 『南海漂泊 ― 土方久功伝』








































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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