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堀切直人 『浅草 江戸明治篇』

「明治末年といえば、浅草公園の六区周辺では、活動写真の大流行など、モダニズムの最尖端を見ることができた。にもかかわらず、浅草は東京のなかで最後まで江戸文化が頑固に残っていた地域でもあった。六区のモダニズムにしても、それは江戸の見世物文化の伝統に組みこまれて享受されていたのである。」
(堀切直人 『浅草 江戸明治篇』 より)


堀切直人 
『浅草 
江戸明治篇』



右文書院 
2005年3月15日 印刷
2005年3月25日 発行
443p 
四六判 並装 カバー 
定価2,200円+税
装幀: 嶌田昭成
カバー絵: 谷中安規画『王様の背中』表紙見返し



堀切氏の浅草四部作は、対象となった時代順でいうと、本書、『浅草 大正篇』、栞文庫(栞文庫は出版社名です)から出た『浅草』(戦前・戦中)、そして『浅草 戦後篇』という順番になります。



堀切直人 浅草 江戸明治篇



帯文:

「前作『浅草』(栞文庫)に続く「浅草四部作」の第二弾。「浅草寺縁起」に始まり、緑雨、一葉、荷風に至る、古代・江戸・明治の浅草界隈を描く歴史パノラマ、風俗絵巻の書。」


帯裏:

「〔登場する主な人物〕
鳥居龍蔵
幡随院長兵衛
花川戸助六
河竹黙阿弥
新門辰五郎
成島柳北
内田魯庵
淡島椿岳・寒月
森鴎外
斎藤緑雨
樋口一葉
長谷川如是閑
永井荷風
ほか」



目次:

「浅草寺縁起」をめぐって
江戸時代の浅草
 江戸時代以前の浅草
 徳川幕府は浅草の前史の抹殺を図った
 江戸初期の浅草寺
 日本橋・京橋VS.浅草・下谷
 町奴と旗本奴
 市川団十郎と「助六」劇
 吉原と柳橋・山谷堀
 奥山の見世物
 文化文政の浅草と「東海道四谷怪談」
 「天保の改革」と猿若町
 「浅草の作者」河竹黙阿弥
 敗け組のヒーロー・新門辰五郎
向島・今戸・柳橋
浅草公園の誕生
新富座VS.宮戸座
寄席・私立小学校・市区改正
奥山界隈の奇人団
 内田魯庵
 淡島椿岳
 淡島寒月
 高浜虚子の「杏の落ちる音」
明治下町文学小史
 明治前半期の東京文壇
 斎藤緑雨の「江戸敗北」
 樋口一葉の「たけくらべ」
 長谷川如是閑の職人文化論
 永井荷風の下町徘徊

あとがき




◆本書より◆


「「浅草寺縁起」をめぐって」より:

「浅草は江戸に、その一部として属するのではない。浅草と江戸とは、互いにまったく別箇の町として形成され、発展してきた。」
「少なくとも徳川時代以前には、浅草と江戸とは、両方の住民の間で別々の町として認識されていた。鎌倉時代から安土桃山時代までは、周知のように、武家が天下を取り、天下を治めた時代である。だが、その武家時代にあっても浅草寺の境内は、侍が馬を乗り入れるのを厳しく禁じ、武家権力の介入を拒否する、治外法権の場でありつづけることができた。そして、徳川家康が江戸を治めるようになってからも、しばらくこのアジール(避難所)的性格は守られていたのである。」

「加門七海は(中略)大胆な仮説を呈示する。全国を行脚する熊野修験者は、推古天皇時代に始まる七世紀に武蔵の水辺の地・浅草へと至り、この地を第二の熊野と定めた。彼らは浅草を故郷である熊野のミニチュア版に見立てて、隅田川沿いに和歌浦周辺のいくつかの地名を移植し、そしてその河口地域に、熊野から運んできた補陀落浄土の幻像を投影した。」
「ここで、加藤秀俊が『見世物からテレビへ』で指摘している熊野信仰の大衆性ということにちょっと光をあててみたい。同書で加藤氏は、熊野信仰が「徹底的な神仏混合」と「効験の列挙」によって多くの信者を獲得していったことを述べ、そして、こう言っている。「とにかく、男でも女でも、どんな宗派の人間でも、そして何を祈願する人でも、熊野は大歓迎なのである。つまり、宗派的にならないのである。来て下さればそれで結構なのである。(中略)」。熊野信仰のこうした大衆性は、浅草寺の観音信仰の大衆性と通い合うところがあるのではないか。」



「江戸時代の浅草」より:

「幕府の屋台骨が折れかけていた幕末における浅草のヒーロー、新門辰五郎は、敗け組の佐幕派に左袒して大きな働きをした。お上嫌いの浅草人は幕末維新期には、新来のお上である薩長人を毛嫌いし、かつての仇敵であり、今は滅亡に瀕した徳川幕府の肩をもったと思われるのである。」


「浅草公園の誕生」より:

「明治初年の奥山では、おおらかな大道芸のほかに、目を覆わしむるような、幕末の頽廃的で残酷な見世物も引き続き開陳されていた。」
「幕末から明治初期に向島に住んでいた漢学者の依田学海(よだがっかい)は「学海日録」という日記の明治三年四月三日の項で、この奥山の酸鼻な見世物の印象を、そっけないほど即物的な筆致で、こう記している。
 「母を奉じて浅草に詣ず。観音開扉なりという。観物多き中に、木偶の戦死せしを作りたるものあり、創(きず)をおうもの二人、首をきられたるもの一人、婦人の自殺せしもの一人、首を竹を貫きたるもの、婦人を縛して木枝に倒(さかさ)に吊せしもの一人、情死のもの二人あり。又、獅子を籠してみするものあり」」

「明治初年の奥山の見世物には、以上のような残酷な見世物のほかにも、さまざまな種類のものがあった。本田青花(石角春之助)は「浅草奥山時代の見世物」(昭和十年)で、そういう雑多な見世物へ探りを入れている。」
「当時の奥山で最も有名な大道芸人は、駒形堂の近くにある化粧品屋「紅勘(べにかん)」の息子で、若い時分の放蕩三昧で脳梅毒を患って精神に異常をきたした男である。この男が「三味線と太鼓と、金網とを一時に弾き、打ち、鳴らしたもの」などは、「今日の舞台芸術家達が逆立ちしても彼の真似事も出来ない」というほどの至芸であったという。」
「先ほど引用した森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』の奥山見物のくだりに、「五色の沙で書画をかいて見せる男」がちらりと出てきたのを覚えておられるだろうか。明治初期の奥山には、「五色の沙で書画をかいて見せる」大道芸人は男女二人いて、鷗外少年が見たのは男性のほうだが、隠れもない名人、大道芸術家として回想されることが多いのは「砂文字のお作さん」と呼ばれた女性のほうである。(中略)まず初めに落語家の林家正蔵の回想文を取り上げる。」
「「地面にゴザを敷いて行儀よく坐って、人が集ってくると砂をにぎって絵を画く、松林だの雪を頂いた山だのには、すこし彩色を画き終ると、ていねいに一礼する。昔の人は心得たもので、(中略)この砂絵のおばさんのおじぎをするのを見るとすぐとお金を投げてあげるという、その間(ま)のよさには、いつも見ていて子供心に感心したもんだ。人が散ってしまうと、おばさんは投げ銭をあつめて砂をきれいに、はき寄せて、元の地面にしてから、さて一服と休んで、又、人の寄ってくるのを待つことになるのだが、小がらな体つきで、その頃も六十近い年齢であったろう。顔の色は大道芸だから日に焼けていた」
 次に引くのは、田中野狐禅の「『砂がき』の追憶」の一部である。
 「一枚の薄べりの中央座蒲団へ座を占めた芸術家は左右に六つ七つの彩砂を用意した布の袋を控え襖をかけて拍子木を叩き開店を報らせる。茣蓙の前面約二坪程を白砂で四角に画し鼠砂を篩(ふるい)で一面に敷きその上へ絵とか文字とかを描いて行く、一と切(しき)り毎に二ゴ箒で消して土を均らすのだ、砂は握った手の小指の下部から細くも太くも自由に出す、南無妙法蓮華経の六字を左右横書き逆さ題目と云った工合である。絵も自由自在に書き分ける」。「赤と青の砂を両掌へ握り之を一つに交ぜて波又は線など描くのに色を分けて出すから鮮やかなものだ」。
 吉田武三は「東京の版画」という短文で、お作さんの砂絵なり砂文字なりが完成したあとの所作に注目して、こう述べている。「描き上げて、人々に感心されて、投銭がすむと手ばやく小箒でサラサラと、砂をはき寄せて、又、もとの地面の画布になる」。大道芸術家はお抱え絵師とは違って、自分の作品をあとに残さない。そのいさぎよさ、はかなさこそが大道芸の眼目なのである。」



「寄席・私立小学校・市区改正」より:

「明治末年といえば、浅草公園の六区周辺では、活動写真の大流行など、モダニズムの最尖端を見ることができた。にもかかわらず、浅草は東京のなかで最後まで江戸文化が頑固に残っていた地域でもあった。六区のモダニズムにしても、それは江戸の見世物文化の伝統に組みこまれて享受されていたのである。」


「奥山界隈の奇人団」より:

「彼(引用者注:内田魯庵)は「文明国には必ず智識ある高等遊民あり」と言って、薩長政府下の立身出世型の社会からはみ出し、その社会が唾棄して顧みない江戸伝来の民間の知を掘り出し、蒐集し、記録する者として、「高等遊民」の存在を擁護し、その活動を報告した。また、「学問の創見は往々研究を目的とするものよりは趣味を生命とする側の不思意の好奇的探尋に生ずる場合がある」と言って、遊びのセンスを伴う、アマチュアの学問のスタイルを称揚した。」












































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堀切直人 『浅草』

「浅草は遊芸人や乞食が軽蔑の的とされることなく羽根を伸ばして生きることのできる別天地である。」
(堀切直人 『浅草』 より)
「世の中がぶっ壊れたら、もう一度あんなに生き生きするかしら」
(川端康成 『浅草紅団』 より)


堀切直人 
『浅草』



栞文庫 
2004年7月20日 第1刷発行
318p 
四六判 並装 カバー 
定価1,425円+税
装丁: 嶌田昭成
カバー絵: 谷中安規 画 「少年画集2 桜」



本書「あとがき」より:

「本書が「引用の織物」といった性格をそなえていることは一目瞭然であろう。(中略)人目に触れにくい、埋もれた資料をできるだけ紹介したいという気持ちのほうが強かったのである。浅草コレクション、あるいは浅草という町についての評伝とでもいうべきものをつくりたいという考えもあって、このようなコラージュ形式でまとめることになった。
 本書は関東大震災の記述で始まり、東京大空襲前後の記述で終わっている。この二つの災害の間の二十数年間に時期を限って一本にしたのは、この時期が浅草の黄金時代であり、文学作品を含めて風俗資料が大量に残されているからである。」




堀切直人 浅草



帯文:

「人々が紡ぎだす
土地が描きだす
時代が映しだす」



帯裏:

「関東大震災から東京大空襲までの伝説的な賑わいの浅草を舞台に、永井荷風や久保田万太郎、川端康成や高見順、武田麟太郎や色川武大、長谷川利行や宇野信夫などが、エノケン、ターキー、レビューの踊り子たちと束の間、輪舞を踊っては別れていく、キッチュな街の評伝・第一弾。」


目次:

十二階崩壊
吉原・観音堂・向島
銀座VS.浅草
新しい浅草・古い浅草――久保田万太郎
橋場の風変わりな書生――宇野信夫
カジノ・フォーリー繁昌記
孤児たちの流れ寄る巷――川端康成
貧民街の「マイナ・メッチェン」――武田麟太郎
下町場末放浪記――長谷川利行
喜劇の黄金時代――榎本健一
五一郎アパートの住人――高見順
オペラ館嬉遊曲――永井荷風
六区芸人銘々伝――色川武大
東京大空襲前後

あとがき




◆本書より◆


「橋場の風変わりな書生」より:

「正岡容は「宇野信夫・高篤三と新浅草」という短文で、「はかなくかなしくやるせなくが久保田(引用者注:久保田万太郎)文学で、暗くしがなく情なくが宇野信夫文学でありましょう」と述べたあと、二人がともに悲しみの作家であったのは、おそらく彼らに「父祖の財」の蓄えがあったからだろうと言っている。たしかに資産家の子弟は、好んで没落や落魄の悲しみに沈湎するようなところがある。パセイスト(過去追慕家)は「父祖の財」にすがりつきつつ、陶然として嘆き節を口ずさむ。逆に、「父祖の財」などと縁のない無産者の表現は、橋場の宇野邸の訪問者の一人であった古今亭志ん生の落語のように、からっと明るい。」


「孤児たちの流れ寄る巷」より:

「震災直後、川端康成は身の危険も顧みず、本郷駒込千駄木町の下宿から、石浜金作と連れだって家事見物に出かけている。この震災直後の浅草行きについては、『浅草紅団』に次のような記述が見られる。(中略)「私たちはいかにものんきとんぼらしく、瓢箪池の石に腰をかけ、足の先をちゃぶちゃぶ水につけて、ビスケットをかじりながら五六時間近くの大火を眺めていたものだ」。「文学的自叙伝」にも次のような一節がある。「東京へ出はじめ、私は火事見物がとても好きであった。震災の後は一週間も半月も毎日水とビスケットを携帯で、焼跡を見歩き、顔が日焼けした」。
 何かピクニック気分の漂う叙述だが、川端康成は実際はそうのんきな気分でばかりいたわけではあるまい。彼は浅草の死体収容所や吉原の廓内で、そして本所の被服廠跡や隅田川畔で、「幾百幾千或は幾万の死体」(「火事見物」)を眺めた。「九月一日の当日から毎日市内をほつき歩いて、私程地震の後を見て回った者は少ないだろう」(「芥川龍之介と吉原」)。震災直後の彼の異様に精力的な行動には、なにやら憑かれたようなところがある。「私は多分に亡国の民である。震災の時の亡命行じみた罹災者の果てしない行列ほど、私の心をそそった人間の姿はない」(「文学的自叙伝」)。」
「物心ついてから天涯の孤児という自意識にずっと苦しめられてきた者にとって、関東大震災は一般人とは逆に、ある意味で天恵であった。「大正の大地震の後の数日間ほど、生き生きしい思いで暮したことはない。おそらく一生に二度とあるまい」(「文科生の頃」)。震災によって東京の住民は誰しもが多かれ少なかれ家なき子、みなし子の寄るべなさを経験した。震災前の川端康成は、肉親や家との結びつきの強い人たちに取り巻かれて、孤立感に悩まされつつ生きてきた。ところが、震災は彼らのうちなる肉親や家との紐帯を一時的にせよ断ち切った。彼はまわりの人たちが突然、自分と同じ境遇におちいったのに接して、長年の孤立感を拭い去られ、外界との親和感を生まれて初めて味わった。」
「震災後、多くの東京人が野宿したり、避難場所でざこ寝したりして、家なき子の不安と身軽さとをこもごも味わった。しかし、やがて復興の気運が生じると、誰もがバラック小屋なりに一軒の家を作って、その内部にふたたび閉じこもってしまう。あとには、もともと家のなかった者のみが原っぱや路上に取り残される。」



「下町場末放浪記」より:

「浅草の瘋癲画家・長谷川利行は日本の風狂の伝統を昭和期に受け継いだ者とみることもできよう。(中略)井上長三郎は長谷川利行の絵について、こう喝破している。「イビツな家並、犇めく群集、ゴタゴタした駅の構内、裏町の酒場、ヒン曲った電柱」などが、彼の絵には登場するが、「こんな醜い街を、こんなに美しく捉えた画家はあるまい」。」
「長谷川利行は失語症的に寡黙で、韜晦癖があり、京都時代の自分の過去を誰にもいっさい明かさなかった。」



「喜劇の黄金時代」より:

「「街の故郷」(引用者注:森茉莉のエッセイ)によれば、「浅草人は働くのは必要でやっているので、堅気な事や『勤労』を、誇っていない。遊びに行くのが楽しみで、遊ぶ金のある人は豪勢だと言う訳で、尊敬する」。おしなべて、「芸事を愛する心持、『腰も身軽な町住居(ずまい)』と言ったような気風」とともに、「のらくらしている書生でも、芸術を勉強している人間は育ててやろうといったような気風、一種教養のある巴里の町の雰囲気がその儘あるのは、不思議な事である」。」

「では、エノケンの素顔につきまとう寂しげな孤独の翳はいったい何に由来するのか。按ずるに、それは彼の孤児の魂が不断に分泌していたものなのではないか。」
「「幼年時代の僕は、大変気難しい、いったんぐずりだすと、どんな御機嫌をとられてもちょっとやそっとで直らず、自分がくたびれ果てるまでいつまでも泣きわめく、といった子供だった」(『喜劇こそわが命』)。
エノケンはやがて新しい母を迎えるが、この継母とはまったくソリが合わず、二人のあいだの激しい不和は彼の死にいたるまで続いた。六つのとき、継母が昼ご飯の準備で七輪上の金網に魚をのせて焼いている様子を見たエノケンは、日ごろ父親が大事にしていた自慢の金魚を金魚鉢から手づかみで取り出して、今まで継母が魚を焼いていた金網の上にのせ、真っ黒になるまでじっくり焼いて父親の前に差しだした。」
「『喜劇』には、次のような逸話が記されている。十代に芝の叔父の肉屋に預けられていたときのこと、エノケンの留守中に、自分が宝物のように大事にしてかわいがっていた山雀を、叔父が餌をやろうとして鳥籠から逃がしてしまった。帰ってきた彼が叔父の不注意をなじると、叔母が「たかが小鳥位でそんなに文句いうことないでしょう」と逆に彼を叱ったので、彼は前後の見境もなくなって叔父の胸倉をつかみ、止めに入った人に投げ飛ばされた。「ますます腹の立った僕は、店先にあった肉切用の包丁を七、八丁タバにして持ち出し座敷に投げ出したら、皆青くなって遠くに逃げだしてしまった」。」



「オペラ館嬉遊曲」より:

「戦時下の銀座でみかける者は、永井荷風の眼には、男も女も何か肝心なものを失って、空虚な心を抱いているように見えた。『日乗』の昭和十九年七月二日の項で、彼はこう極言する。「銀座丸ノ内辺にて盲動する男女を見ても彼等には人格は愚か性格すら具え居るもの一人として見えざるは世界いかなる国民にも到底見ること能わざる奇異なる現象なるべし」。
 銀座の人々が人格や性格を欠いているということは、彼らが文化的伝統や倫理的骨格を欠いているということにひとしいだろう。(中略)そこへいくと、浅草は陋巷とはいえ、(中略)ここで生活している者には町っ子としてのセンスや見識があるから、マスコミや尖端風俗にはふり回されない。銀座人種は戦争の熱狂に巻きこまれ好戦的態度をとるようになったが、浅草人種は戦争にはほとんど影響されず年中行事を楽しむなど、旧来の生活文化を変わらず保持している。荷風にはそのように感じられた。」
「戦時下の当局は国民すべてに「有用」を強制し、「無用」の存在を圧迫することに熱心であった。青春期に、国家枢要の地位にある父に反逆して、「無用の人」を志願した荷風は、こうした戦時下の状況に、自らの生存そのものを危うくされるような不安を感じた。そういう不安のもとで、彼は玉の井を、そしてついで浅草を、オペラ館を発見した。浅草は、六十代に入って「晩年」を意識しはじめた荷風にとって、かけがえのない「別天地」であり、「隠れ里」であったのである。」



「六区芸人銘々伝」より:

「色川武大は生まれるとき、難産だったため、医者は鉗子を使って彼の頭を引っぱりだした。そのせいで、彼の頭は生まれつき形がいびつであった。物心つくや、彼はこのいびつな頭部を気にして、自らを奇形と思いなすようになった。(中略)「私は幼時を奇形の心境でとおした。すがすがしいもの、祝福されたものから遠いところに自分が居る」、そのようにつねに感じていた。「私はいつも自分の穴の中におり、表情を失っていた。私がやったことは、まず孤立し、そこで居眠りすることだった」。こうした孤立癖の強い子供にとっては、孤立を許さない幼稚園や小学校は地獄にひとしい場所であった。」
「このように学校嫌い、集団嫌いで、早くも世捨て人の心境にあった色川少年に、ほっと楽に息ができるように感じられたのは、「しかつめらしいもの」を笑いとばし、奇形にありのままの生存を許す遊芸の世界であった。」


























堀切直人 『浅草 大正篇』

「穴のあいた靴下をはく浅草の踊り子たち」
「秘密の抜け道を教える娼妓」
「遊園地に集う悩める男たち」

(堀切直人 『浅草 大正篇』 より)


堀切直人 
『浅草 
大正篇』



右文書院 
2005年7月11日 印刷
2005年7月20日 発行
341p 
四六判 並装 カバー 
定価2,000円+税
装幀: 古舘明廣
カバー絵: 「東京風景 十二階」織田一磨画



本書「あとがき」より:

「本書は、十二階と十二階下(引用者注: 「私娼窟」)とがワンセットで意識され、活動写真館、浅草オペラなどが新しい大衆娯楽として人気を集めていた、明治四十年代から大正十二年までの浅草公園を主要な舞台に据えている。この時期の浅草公園に足しげく通って、その繁昌の様子を記録したジャーナリストや文学者の文章を能う限り、探し出し、掘り起こして、その断片をずらずらと配列してみた。とくに、浅草を描いた文学者は九人を選んで、一人ずつ一章を割いた。」



堀切直人 浅草 大正篇



「「BOOK」データベース」より:

『浅草』(栞文庫)、『浅草江戸明治篇』に次ぐ、「浅草四部作」の第三弾。活動写真街、十二階、十二階下の魔窟、浅草オペラなどで賑わった、大正期の浅草を彷徨する文士たちの群像劇。」


目次:

六区の活動写真街を行く
十二階と十二階下
「塔下苑」に通う石川啄木
室生犀星の公園彷徨
浅草オペラ盛衰記
谷崎潤一郎、「チャプリン・バア」に現わる
宇野浩二の市井転々
辻潤ふらぐまんたる
正岡容の「花川戸の家」
江戸川乱歩は浅草のロビンソンだった
向島の流され王子・堀辰雄
遊蕩児・金子光晴、ルンペンへ転落

あとがき




◆本書より◆


「塔下苑」に通う石川啄木」より:

「「ローマ字日記」には、こういう文句が見られる。「予は今、底にいる――底! ここで死ぬか、ここから上がっていくか。二つに一つだ」。啄木は死に至るまで、この「底」から上がっていかず、そこにとどまりつづけた。「日記」の死の九ヵ月前の六月五日の項には、こうある。「予は予の生活のとって来たプロセスを考えて、深い穴に一足一足落ちてゆくように感じた。しかしそれはもう不安ではなかった。必致である。必然である」。この「深い穴に一足一足落ちてゆく」過程で、東京で半独身者の生活を送っていた時代の啄木は、自殺念慮に悩まされながら、「日記」や短歌のなかで、言葉が高みにのぼるのを拒みつつ、浅草の十二階や十二階下での体験を克明に記録しつづけたのである。」


「谷崎潤一郎、「チャプリン・バア」に現わる」より:

「こうした不断の流動は、浅草の興行物とともに見物人の間にも見られる。「彼等の間には趣味の高下もなく階級の差別もない」。公園外では、彼らは職人、熊公八公、ハイカラ、学生、子守娘、良家の子女として、それぞれ趣味を異にする。ところが、彼らの趣味は、「公園へ足を踏み入れるや否や出鱈目になりとんちんかんになる」。すなわち、「職人がカフェに這入ったり、ハイカラが縄暖簾をくぐったり、娘が鮨の立ち食いをしたりする」。彼らの頭の中もまた、すこぶる流動的であり、公園帰りの人々に、一体、何が面白く、何がうまかったかを尋ねても、誰も即座に返答できず、何かしら面白く、何かしらうまかったとしか答えられない。」

「しかし、『鮫人』の中絶以後、谷崎潤一郎の心は浅草から急速に離れていったようだ。彼はもはやエッセイなどで「浅草党の一人」であることを語らなくなり、小説で浅草を舞台に取り上げることもなくなる。(中略)エッセイにちらっと浅草の名が出てくることもあるが、それは例えばこんなふうにだ。
 「東京の下町には、所謂『敗残の江戸っ児』と云う型に当てはまる老人がしばしばある。私の父親なぞもその典型的な一人であったが、正直そうで、潔癖で、億劫(おっくう)がり屋で、名利に淡く、人みしりが強く、お世辞を云うことが大嫌いで世渡りが拙く、だから商売などをしても、他国者の押しの強いのとはとても太刀打ちすることが出来ない。そんな工合で親譲りの財産も擦ってしまい、老境に及んでは孫子(まごこ)や親類の厄介になるより外はないが、当人はそれを少しも苦にしない。無一文の境涯になったのを結句サッパリしたくらいに思って、至って呑気に余生を楽しんでいる。そう云う老人は大概痩せていて、脚が強く、日に一里二里の道を歩くことを苦にせず、五十銭か一円も小遣いをやればそれを持って浅草あたりへテクって行って、活動を見るとか、鮨の立ち食いをするとかして、半日を愉快に過す」(「私の見た大阪及び大阪人」昭和七年)
 ここでは浅草は、「敗残の江戸っ児」の格好の遊び場として最後のほうにちらっと出てくる。これはこれで浅草の一面の窺われる面白い指摘だが、一体、あの浅草の流動のうちに「新しい文明」、「新しい時代」、「新しい美」を求めていた『鮫人』の作者は一体どこへ行ったのかと、首をかしげざるをえない。」



「宇野浩二の市井転々」より:

「宇野浩二は上京してからのち、浅草という町に特別に入れこんだわけでも、谷崎潤一郎や江戸川乱歩のように「浅草党」を名乗っているわけでもない。それでも、彼の作品を読むと、けっこう浅草がくり返し現われる。(中略)大阪の宗右衛門町の「十軒路地」で十代を過ごし、そこに住む芸人、芸妓、娼妓などの人いきれに馴染んだ宇野浩二は、同種の人いきれの充満する浅草を舞台に、秘密の抜け道を教える娼妓、遊園地に集う悩める男たち、落ち目のオペラ歌手、無類の好人物の商人、「器用(ぎっちょ)貧乏」の夫婦などを登場させる「人間喜劇」を書き継いでいったのである。」


「辻潤ふらぐまんたる」より:

「「そんなことはどッちでもいい、出来るだけ混乱してしまえばいいのだ、どうせ生活が破壊されてしまっているのだから。つまり、我々プロレタリヤには生活というものがないのだ。そうして、僕はなにより統一がきらいになってしまった。御上品なことは一切虫が好かなくなっているのだ」(「わりあちおん」)」


「江戸川乱歩は浅草のロビンソンだった」より:

「十二階の屋上から下界を眺めおろしていた青年が、たまたま目にした女の絵姿に、それを実在の女と錯覚して惚れこむ。もっとも、こういう「絵姿女房」の浅草十二階版は、乱歩の独創では必ずしもない。例えば岡本かの子の小説『やがて五月に』(昭和十三年)のなかの、次のような一節を見られよ。
 「『泉君もっとこっちへお出(い)でよ。面白い話があるのだ。明石と一度あすこへ――十二階へ昇ったことがあるのだ。確かに七階目だったと思う。そこの窓から上野側の下を見下ろしたのだ。するとある二階家の部屋で両手を内懐に入れて、壁に靠(もた)れて屈托しているように見える娘があるのだ。上と下とかなり距離があるのだから、眼鼻立ちもよく判らないのを、明石の奴はすっかり惚れ込んでしまった。僕も本気になって小田原町辺をうろついて、やっとそれと覚しき家を尋ね当てると、人形師の家で、その娘というのは生(いき)人形だったのさ。馬鹿らしい話さ。当人がっかりしたが、そのうち忘れてしまった」
 『やがて五月に』は「押絵と旅する男」より数年後の作だが、岡本かの子が右のくだりを書くにあたって「押絵と旅する男」を参照したとは考えにくい。おそらく十二階が健在だった震災前に、夫の岡本一平と浅草を訪れた際、小耳にはさんだ話をもとにしているのであろう。もっとも、ここでは明石青年は惚れこんだ娘がじつは生人形だと分かると落胆し、諦め、やがて忘れてしまう。ところが、「押絵と旅する男」では、落胆も諦めもせず、自分の恋を押絵の世界で成就するのである。この違いは決定的だ。」

「大正時代に覗きからくりを覗いた子供の一人であった日影丈吉は「まぼろしの乱歩像」(昭和五十四年)というエッセイで、乱歩作品に影響を与えた覗きからくりについて、こう書いている。「『押絵と旅する男』『パノラマ島奇談』などは、乱歩さんの覗きからくり趣味を存分に発揮した作品である。覗きからくりというものは私の幼年期には、神社の縁日などで、まだ見られた。あの妙に物々しい屋台、その上に乗って鞭で板を叩く老婆、拡大鏡を通して覗きこむ箱の中の、けばけばしい、ぞっとするような極彩色の強烈な印象が、きのう見たようにはっきり残っている」。「覗きからくりの恐ろしいような魅力も、婆さんの鞭の音につれて、はたりはたり絵が変るところにある。そして乱歩さんは、このショッキングな方法を慣用しているといっていい」。「だが、覗きからくりや幻燈のうつし絵や、その他、乱歩さんが抜きがたい影響を受けたはずの前世紀の幼稚な器械文化は、ほとんど大正時代を最後に消え失せてしまった。いまの人は乱歩さんの小説を、白布の上に明滅する幻影のように見るだろうが、それがどんな器械から投影されているのかを知ることは、もうむずかしい」。
 「押絵と旅する男」発表の五年後の作である『人間豹』(昭和九年)では、浅草公園は、作中に登場する、「人間豹」と呼ばれる犯罪者の恰好の隠れ場所として描かれている。」
「浅草は法の光の及ばない暗黒の領域なのだ。」
「乱歩の浅草離れは、すでに『猟奇の果』(昭和六年)で始まっている。この長篇には、主人公の青木愛之助が抱く浅草公園への不満の気持ちを吐露した、次のようなくだりがある。
 「愛之助は、十二階を失い、江川娘玉乗りを失い、いやにだだっ広くなった浅草には、さして興味を持たなかった。しいていうならば、廃頽安来節と、木馬館と、木馬館及び水族館の二階の両イカモノと、公園の浮浪者群と、そしてこのストリート・ボーイたちとが、わずかに浅草の奇怪なる魅力の名ごりをとどめているのだ。そういうもののかもし出す空気が、やっと二た月に一度ぐらいの程度で、彼の足を浅草へ向けさせた」」
「『魔術師』では、犯人の魔術師が小屋掛けしている場所は大森である。
 「その日も、二郎はなんのあてもなく、大森の町を歩き回ったのだが、ふと気がつくと、今まで一ども通ったことのない、まるで異国のような感じの町筋に出ていた。すぐ眼の前に、鄙びた、古めかしい一軒の小劇場が建っている。ハタハタと冬空にはためく幟(のぼり)。それには、一度も聞いたことのない奇術師の名前が染め出してある。
 『あ、手品だな。
 うつろな頭で、劇場の軒に並んだ絵看板を眺めると、さまざまな魔奇術師の場面が、毒々しい油絵で、さも奇怪に、物すごく描いてある。古風な骸骨踊り、水中美人、人間の胴中へ棒を通して担いでいる絵、テーブルの上で笑っている生首、どれもこれも、一世紀前の、手品全盛時代の物懐かしい場面ばかりだ」
 乱歩は『魔術師』で、このように大森の見世物小屋の絵看板に浅草的な光景を描きこんでいる。」
「昭和初年代の乱歩は、浅草公園の飛び地を、震災後に新たにつくられた京浜工業地帯のみならず、自分の生地の三重県あたりにまで出張させている。昭和六、七年連載の『地獄風景』では、M県(三重県)のY市という、東京から遠く離れた地方都市に、明治大正期の浅草公園をほうふつさせる「実に途方もない遊園地」を造営している。この遊園地は「大博覧会の余興場をもっと大掛りにし」たようなもので、「空中を回る大車輪のような観覧車/縄梯子でいつでも昇れる大軽気球/なき浅草の十二階を、ここに移した摩天閣/明治時代懐かしきパノラマ館/大鯨の胎内巡り/からくり人形の地獄極楽、地底の水族館/ジンタジンタの楽の音に、楽しく回るメリー・ゴー・ラウンド、など、など、など」を一堂にそろえている。まさに六区式の見世物、演芸のオンパレードではないか。」












こちらもご参照ください:

谷崎潤一郎 『人魚の嘆き・魔術師』
細馬宏通 『浅草十二階』






























堀切直人 『迷子論』

「生産社会の人間関係の網の目からのがれ、非社会的な孤独に閉じこもるひとは、自然との孤独の対話において自然と堅く結ばれることによって、もはや孤独ではない。」
(堀切直人 「洞窟から迷宮へ」 より)


堀切直人 
『迷子論』



村松書館 
1981年12月5日 初版発行
227p 
四六判 丸背布装上製本 貼函 
定価2,300円
装幀: 片山健



本書「あとがき」より:

「本書は『日本夢文学志』(冥草舎・昭和五十四年度 刊行)に次ぐ、私の二冊目の単行本である。とはいっても、ここに収めたエッセイの数々はいずれも、『日本夢文学志』の原稿執筆に着手する以前の作であり、具体的に言えば、昭和四十六年から四十九年にかけて、『映画評論』『伝統と現代』『牧神』『芸術生活』『芸術倶楽部』『カレイドスコープ』などの雑誌に発表した文章である。」
「昭和四十六年から四十九年までというと、筆者の年齢では二十三歳から二十六歳にかけての時期に相当する。」




堀切直人 迷子論 01



帯文:

「新聞を読まず、世相の移り変りも眼中になく、川崎のアパートをタコツボと称し、そこにチクワをかじって、一年こもって、千枚の『日本夢文学志』を著するかと思うと、片手に神出鬼没、あらゆる芸術畑の根をひっくり返し、芸術百姓に追われながら、東亜のワルプルギスの夜よ、さらに悖りのルツボへと願う徒、それが若冠29歳の彼だ!―唐十郎氏推薦文」



堀切直人 迷子論 03



帯背:

「夢魔の森影」



堀切直人 迷子論 02



帯裏:

「「迷子」とは子供の日の、不安とあこがれとに満ちた秘かな体験の謂である。「未生以前」の記憶を甦えらせるような出合いの文学作品たちを通して、新鮮な地平を拓く、特異な魅力を持つ評論集。片山健装幀。」


目次:

神隠しについて(柳田国男・小川未明・泉鏡花)
見世物小屋の方へ(萩原朔太郎・江戸川乱歩・泉鏡花)
幻想市街圖(萩原朔太郎と佐藤春夫)
幻の家(佐藤春夫・稲垣足穂・坂口安吾)
時間のなかのエキゾチシズム(小泉八雲)
オフィーリアの幻影(ラファエル前派と大岡昇平)
廃園と聖杯(メーテルリンクと大正文学)
聖杯伝説の森(唐十郎)
洞窟から迷宮へ(つげ義春)
あとがき




◆本書より◆


「神隠しについて」より:

「異界は、異界と対立するこちら側の世界がなにものかの抑圧と排斥の上に立脚し、不自然に、そして偏頗に自己完結的であればそれだけ、おのれの厳然たる実在を強く主張することになる。というのも、現実世界が自分の永続をはかるために抑圧し排斥した、此岸にひそんでいる、人間に深く関わっているけれども此岸にとって危険な要素こそが異界の成立の要因であり、それを構成する原材であるからで、したがって、こちら側の共同体が異質とされる要素をおのれのうちに欠かすことのできぬものとして受け容れるほどに寛容で闊達で開放的であるならば、異界は禁忌の壁の彼方に隔離された絶縁体であることをやめ、此岸の現実世界と互いに浸透しあい、ついには一元的な豊かさを身に帯びた現実世界のなかに跡形もなく解消されることになるであろう。それゆえ、異界が際立って輪郭鮮明に像を結ぶ世界は、異質な人間的要素を異様なまでに潔癖に拒みつづける封鎖的で保守的で求心的な共同体にほかならない。」
「こうした安穏で単調な日常生活に至上の価値を置く常民は、永続的と思われる村落共同体のつつがない存続を脅かすもの、村落の固定した人間関係の網の目を引き裂き、倫理的な秩序を疑問視し、共同体が定めた掟に違背する存在の横行を黙認することはできず、そうしたものを見つけ次第、おのれの生活圏の外に追いやろうとしいた。(中略)安定した日常生活を支障なく営み維持するためには、それを揺すぶり動かしかねぬ、異郷人をはじめとするさまざまの異分子を、村落の周囲にひろがっている空間へと吐き出さねばならなかったのである。」
「異界と村落との境目あたりをつねに彷徨している子供は、しばしば、彼処の誘惑に負け、「もの」に手引きされつつ、大人が張りめぐらした禁忌の壁を乗り越え、異界に足を踏みいれる。外部の者はもとより自分でさえもあとから考えてもいっかな定かにならぬ衝動に駆られ、子供は突如として家をとび出し、村の境を越え、山奥にまぎれこみ消息を絶つ。」
「思うに、子供の出奔の動機の少なくともひとつは、没落し見失われた母親の庇護の下(もと)なる世界へ還っていこうとする自己同一性への志向である。」



「洞窟から迷宮へ」より:

「つげ作品の登場人物たちは、一切を「遊戯の相の下」にとらえ、労働に関与しないで日々生活を送っているいわば無用者、つまり子供や老人や精神病者や動物などであり、たとえ労働生活の圏内にあっても、勤労の意欲をいっこうにもたずにその日暮ししている一種の階級脱落者、非労働者である。「記憶を絶する太古の幸福をちゃんと記憶にとどめている人間だけが、私たちの苦情の種たるこの[仕事にたいする]拒否を行なうことができる。そういう人間は、同類たちのまんなかにありながら異郷に投げ出され、同類たちと同じ人間なのに彼らと心を通じあうことができない。」(E・M・シオラン『歴史とユートピア』)」
「最低生活のなかにあって、何の欠如感も欲求も積極的な動きもなく、自己充足した、いわゆる「東洋的」な不感無覚(アパティア)の生活を送っている李さん一家のひとびとは、「記憶を絶する太古の幸福をちゃんと記憶にとどめている人間」であり、わたしたちの存在の最深部を知覚することのできる器官をそなえもった、永遠の現在に生きうる人間であろう。人間の諸々の外的な属性を切り捨てていったあとに残るのは、無時間的で無意味な世界にさらされている自分の肉体ひとつであり、貧しさは人間の外側をおおっている非本質的な夾雑物を取り払って、人間を自然状態へと近づけるのだ。同様にして、財物を捨ててゆけばゆくほど、隠者の小屋はわたしたちが絶対的な隠れ家にもぐりこむのを可能にする。生産社会の人間関係の網の目からのがれ、非社会的な孤独に閉じこもるひとは、自然との孤独の対話において自然と堅く結ばれることによって、もはや孤独ではない。李さんが「世にも稀な鳥語を話せる人間」となったのも、そうした聖フランチェスコ風の自然との交感の当然の帰結であるだろう。」




堀切直人 迷子論 04

































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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