ピエール・シトロン 『バルトーク』 (北沢方邦・八村美世子訳)

「不協和音の帝国、それがわたしの帝国だ」
(バルトーク)


ピエール・シトロン 
『バルトーク』 
北沢方邦・八村美世子 訳

《永遠の音楽家》 8

白水社  
1969年7月10日 印刷
1969年7月21日 発行
262p 
四六判 丸背紙装上製本 
本体ビニールカバー 機械函 
定価950円

Pierre Citron : Bartok, Editions du Seuil, 1963



本書「訳者あとがき」より:

「翻訳は、八村が全体を訳し、北沢がそれに自由に手をいれるという形をとった。」


本文中図版(モノクロ)・譜例多数。


バルトーク 01


白水社新刊ニュース「白水」No. 288 より:

「魅力あるいは正確さにかけて本書に匹敵し得るバルトーク評伝は他に類がない。いまや古典となっているこの天才の諸作品の分析を織り込んで現代の恐怖の世界が課した悲劇的な生涯を描き出していく記述は見事で、全編バルトークへの愛情と理解にあふれている。」


目次:

1 ハンガリーの鋼鉄
2 歌う村人たち
3 青ひげの征服
4 戦争と平和
5 《バルトーク音階》へ向かって
6 栄光と不安
7 亡命の音楽

訳者あとがき (北沢方邦)



バルトーク 02



◆本書より◆


「ベーラは虚弱だった。(中略)他の子供たちと仲間になって遊ぶこともなく、家のなかでひっそりと暮らす。(中略)彼はふつう考えられないほど遅くなってから、やっと歩いたり話したりするようになったのである。(中略)だが音楽の才能はたいへん早くからあらわれる。(中略)彼の音楽的記憶力はおどろくばかりであったという。」

「過敏なまでの非妥協性で、自分の音楽でいかなる妥協もゆるさず、人間関係でも率直さを迎合的にまげることなどありえなかったバルトーク」

「音楽以外に外化することがむずかしく、自己の内奥に、秘密に、他人のまえでの沈黙にまでいたりつく。この点で彼は、またとかく無口で、とくに自分の作品についてそうだったドビュッシーに似ている。(中略)精神的にも道徳的にも彼は鋼鉄のようであった。」

「彼は、目に触れるものすべてに、芸術家的直観だけでなく、学者的厳格さをもって注意を集中する。彼は観察し、分析し、分類する。幼いころの昆虫採集家が、彼のなかに残っていたのである。「感覚的に、おそらく彼は人間よりも物のほうに関心があったのだろう」と、彼の友人ティボール・シェルイはわたしに語っている。(中略)数学が彼を魅惑する。(中略)こと音楽にかんしては、一徹で細心な彼の良心は、なんであれ、事(こと)をすっかり理解し、征服し、自分のものとしてしまわないうちは、打ち切ることを許さない。(中略)はげしい頑固さ、それは彼にだけ豊かなみのりをもたらすが、これには多くの時間が要求される。」

「バルトークの民族主義は、それまでは反オーストリア的であり、音楽ではリスト流の、かなり不純なハンガリー趣味であった。彼は、自己の非妥協性の求める純粋さを、農民の伝統のなかに見いだそうとする。(中略)一九〇三年に、彼は本格的にとはいえないにしても、専門家としていくつかの民謡に関心をもちはじめていた。一九〇四年なると、もっと体系的に採譜をはじめる。しかし、一九〇五年に大きな衝撃が起こる。彼は、数年前から知っている若い音楽家、ゾルタン・コダーイが、すでに類似の調査にとりかかっていることを知ったのである。バルトークよりもずっと科学的教養を身につけたコダーイは、おそらく彼に調査にあたっては、音楽的直観という段階を越えなければならないことと、厳格な方法にもとづいて調査計画を立てなければならないことを感じさせたにちがいない。バルトークにとっては第三の経歴への出発である。つまり彼は、ピアニストであり作曲家であると同時に、音楽民俗誌学者としての経歴をあゆむことになったわけである。」

「彼は自己のもろもろの根源をさがしあて、そこから出発して、自己の中心と自己の深い統一を探りあてようとする。大地に近い農民たちをよぎって、彼は、つねに愛していた自然のすぐそばにいる自己を感じる。控え目、孤独好き、またいささか無骨な陽気さの発作とその生(き)まじめな中断といったバルトークの性格は、都会の社交界では障害となるにしても、まさに田舎の人たちに彼がみいだしたものなのだ。」

「「わたしたちは《生命》にたいする大きな欲望と、実存する宇宙にたいする大きな関心をいだくべきなのです」。この唯物論は行動や外的世界への愛着に通ずる。人間への信頼だろうか? たしかにすべての人間についてではない。バルトークは彼が知っている狭い社会をきらい、そのような社会の価値をほとんど認めず、信用しない。彼はそのような社会にたいして危機感を抱きつづけ、完全に逃げだすにいたる。だれであろうと会うのを拒み、たとえ自作が演奏される音楽会であっても出席しない。しかし、宇宙と調和した農民の人間性は、ある種の学者的懐疑論などまったくないこの人間主義に、栄養物と保証をあたえてくれる。」

「ドビュッシーは不協和音を協和させようとする。バルトークは不協和音を容赦なく、攻撃的にあつかい、不協和にひびかせようとしている。彼はそのころ挑戦的な口調で語っている。「不協和音の帝国、それがわたしの帝国だ」」

「バルトークは、二〇歳から二五歳のあいだに、一、二回した以外には、けっして作曲の授業をしようとはしなかった。ドビュッシーもやはり「音楽とは習うものではない」と考えていた。しかし、ピアノに関しては、バルトークはすぐれた教師である。(中略)しかし、そのとき、技術の細部は、あまり問題にすることはなかった。というのは、そのようなことは、演奏者ひとりひとりの自由に任されるべきことだからである。彼の演奏技術はきわめて個性的であったから、技術についてとやかくいう資格などないと思ったのであろう。」
「音楽院でのバルトークのレッスンは、かなり水準が高かった。しかし、生徒たちにすでに根づいてしまっている欠陥を嘆いたり、また、彼らがよりよく訓練されてくることを願うわけでもないとは、なんという先生だろう? 矯正するよりも、処女地へ導くほうがたやすいことである。そこから(中略)バルトークの教育的作品があらわれる。それらの存在理由は、技術の年期奉公のごときものではない。むしろ、(中略)耳をあらゆる可能性にめざめさせ、また初心者たちが、(中略)束縛から解放され、要するに、常套句から脱出することにあった。バルトークには、自分が、そうしたことのために、低迷の数年を過ごし、さらに、そこから解放されるのに、時間をむだにしたという意識があった。」

「フランシス・プーランクは、サティとオーリックとともに彼を昼食に招待するが、そのときの様子をこう書いている。「おなじ歌をうたわない二羽の鳥のように、バルトークとサティは、互いにうかがいあい、警戒しあい、重苦しい沈黙を守っていました。オーリックはなんとかこの沈黙を破ろうとしたのですが、むだでした」。」

「『カンタータ・プロファーナ』(中略)バルトークはこの作品のなかに彼のもっとも個人的な信仰告白を見たのだろう。(中略)バルトークは(中略)一九一四年の春に採集した、トランシルヴァニアのあるバラードにもとづいて、自分自身で台本をかき下ろす。」「父親は、彼の九人の息子たちに、(中略)ひたすら山々の狩を教えた。(中略)ある日、ふしぎな鹿の群れを追っていくうち、息子たちは道に迷い、鹿の姿に変えられてしまう。老人は弓を手にして彼らをさがしにでかける。ある泉のほとりで、九頭の鹿をみつけ、弓をひこうとするが、そのうちいちばん大きな鹿が叫ぶ。「弓をひかないでください、父上。でないとわたしたちは角(つの)を立てて父上に立ち向かい、崖から崖へ、森から森へと追いかけていくでしょう。父上はきっと鋭い岩の上で押しつぶされ八つ裂きにされるでしょう」。(中略)「息子たちよ、わたしといっしょに苦悩にやつれておまえたちを待っている母のところへ帰ろう(中略)」。だが息子は、孤独な父親を家へと送り返す。「われらの角(つの)は戸口はくぐらず、しげみの中をくぐるのです。われらの肉体はなにものもまとわず、木々の葉のみをまとっているのです。われわれの蹄は床はふまず、草原の草のみふむのです。われらはもはや水差しやコップでは飲まず、より透明な泉のほかにはなにも飲まないのです」」

「母の死によってザーネンから呼びもどされる――彼が世界でもっとも深く愛していた人だと、彼を知る人びとのだれもが言っている。打撃は恐るべきものであった。バルトークは、単に、彼を養い、育てあげただけではなく、音楽を教え、彼の戦いを支持して励まし、彼の感情生活の困難な時期に、精神的にも物質的にも援助してくれたこの母によって、変わることなく支持されていたのだ。彼女は、息子の挫折にも勝利にも、彼の全生涯にわたってかたわらにいたのである。バルトークはハンガリーへもどる。しかし、母の墓へはけっしていかないだろう、死一般への恐怖ではなく、この死を拒否するために。ティボール・シェルイがわたしに確言したところによれば、だれかが、彼の母についても、またその人の母親の死について語ることさえも、彼には耐えられなかった。彼が読み、賛嘆していたプルーストのそれにも似た感受性である。」

「このとき終わろうとしていたのは作曲家としての経歴ではなく、演奏家としてのそれであったのだ。(中略)『二台のピアノと管弦楽の協奏曲』は、一九四三年一月に演奏される。その作曲者が舞台に立つことができた最後の演奏会であった。またこの演奏会では、すでに戦争の直前、ロンドンでも二回ほど発生した奇妙なできごとが起こっている。すなわち、自分のパートを演奏する代わりにバルトークは、共演者ディッタや、指揮をするライナー、それに全管弦楽団の大きな当惑をよそに、作品の途中で即興演奏をはじめたのである。結局は彼は総譜にもどり、自らを抑制する。そのあとで、彼は、打楽器奏者がティンパニの音をまちがえ、すべてをひっくりかえしそうにしたので、最後まで自分で不可抗力的に試みなければならないという想念に駆られたのだと言いわけしている。だが、この説明で十分だろうか? ロンドンでは、ともに演奏していたディッタにまかせ、自分は即興的な和音でソロを抑揚づけていたが、突然彼は切迫した混沌(カオス)の深い感情にとらえられ、その瞬間、世界をよびもどす唯一の手段として即興演奏をする必然性を感じたのだ。悩みにとぎすまされた感受性なのであり、それが彼を、ときどき精神錯乱の縁にみちびくのだ。」

「シゲティやライナーのような友人たちは、彼のために拠金するが、彼の自尊心はたとえ名目をとりつくろったものであろうとも、いかなる施しも受けようとはしない。友人たちは、著作権料という体裁で、彼にその金を受け取らせようとこころみる。「どこの演奏会の?」とバルトークは尋ねる。みなは遠い町の名を告げる。彼は手紙を書いて調べ、そのような演奏会が架空のものであることを知ると、困窮しているにもかかわらず金を送り返す。バルトークを殺したのは、あるいは餓死するがままにしたのはアメリカであるとよく非難されてきた。貧困、栄養失調、苦悩が病いを悪化させ、その結果を早めたのはたしかであろう。はじめにあっては、それはアメリカの指揮者たち、批評家たち、および聴衆の全体的な責任である。しかし、のちにはアメリカの音楽家たちは、バルトークのために彼らにできるあらゆることをしたのであるし、そして、もしバルトークがそうすることを彼らに禁じなかったとしたら、いっそう多くのことをなしとげたにちがいない。」

「自分の芸術的展開は、螺旋のようなものだ。同じ中心的問題をつねにより高められた水準で、つねにより完全に解決すること」
「その傑作によって驚嘆すべき芸術家、あらゆる妥協の否認と絶対的なものへの活力ある要求によって賞賛すべき性格、それらのものが彼を、近寄りがたく、寡黙で、きびしい存在、また同様に彼に接近した人びとが語ったように《苦行者》、《正義の人》、あるいは《聖者》となしたのであるし、また、ほとんどつねに苦悩し、悲惨と異郷のなかで終わった彼の実存の悲劇性によって、彼はわれわれを揺り動かすのである。他の音楽家たちも悲壮な生涯を送ったにはちがいない。しかし、若くして死んだモーツァルト、シューベルト、ショパンは、どちらかといえば偶発的な病いに屈服した。ベートーヴェンの難聴は、その性格や天才に由来するものではない。反対に、バルトークにあっては、彼の不幸を大部分決定したのは、より深いものなのであり、その曲線(カーブ)は、彼の非妥協性や魂の厳格さに直接に結びつけられるものである。」



バルトーク 05

「ベーラとエルジャ」


バルトーク 06

「バルトーク(45歳)」


バルトーク 04

「バルトークの収集した押し葉」



白水社版「《永遠の音楽家》」シリーズ:

1 オカール/高橋英郎 訳 モーツァルト
2 ブークレシュリエフ/西本晃二 訳 ベートーヴェン
3 マルセル/角倉一朗 訳 バッハ
4 ブールニケル/荒木昭太郎 訳 ショパン
5 シヨアン/遠山一行 訳 ストラヴィンスキー
6 シュネデール/海老沢敏・笹淵恭子 訳 ワーグナー
7 バラケ/平島正郎 訳 ドビュッシー
8 シトロン/北沢方邦・八村美世子 訳 バルトーク
■各四六判 本文9ポ一段組 上製箱入 写真・図版多数挿入 (版権取得)




その他の記事:

『没後二十年 西脇順三郎展』 (2002年)










































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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