生野幸吉 『闇の子午線 パウル・ツェラン』 

「ツェランは病気だ。癒(なお)る見込みはない」
(ハイデッガー)


生野幸吉 
『闇の子午線 
パウル・ツェラン』 


岩波書店
1990年12月19日 第1刷発行
vii 318p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,100円(本体3,010円)
Jacket design from "Passage through the Red Sea" by Anselm Kiefer



著者は詩人、ドイツ文学者。1924年生。


生野幸吉 闇の子午線 パウルツェラン


帯文:

「この存在を脱却せず、
いたるところに、
おまえを集め、
立て。

20世紀精神の血と肉で編まれた
言語宇宙を行く解釈の冒険。
このアポカリプスに、あなたは何を
読むだろうか。」



帯背:

「現代の
黙示録を読む」



カバーそで文:

「「アウシュヴィッツの後に、詩を書くことは野蛮だ。」この言葉と、生涯を賭して対話した詩人がいる。
流浪と絶滅収容所と、民族の経験への悼みを潜ったその詩は、人類の未来に向けてたてられた黙示を刻む。限界まで言語を酷使する精密な実験、特異な宇宙感覚に発する形象の連鎖。20世紀精神史のもっとも深く掘られた坑道がここにある。思想の骨髄で編まれた言語宇宙を前にするとき、解読はそれ自体が精神の冒険だ。同時代を生きた詩人が、自らの詩作の命運をかけて対決を試みる。」



目次:



Ⅰ 二人称への声
 1 おまえを集め、立て、いたるところに
   ――ユダヤ系文学――
 2 祈れ、主よ、わたしたちに向かって
    ――闇の格子――
 3 たましいの明るさの花柱
    ――ばらの変容――

Ⅱ 非在のテクストへ
 1 反世界のコスモゴニー
    ――『非在の者のばら』――
 2 人間たちの彼方で
    ――『息の転回』から『糸の太陽たち』へ――
 3 眼の系 脳の系を追って
 4 一つの言葉 一つの闇
    ――『雪の声部』と『光の強迫』――

あとがき
略年譜
引用詩一覧




◆本書より◆


「序」より:

「パウル・ツェランはユダヤ系のルーマニア人である。彼はヨーロッパ辺境の、ことにユダヤ人としては当然の、という以上におどろくべきポリグロットであり、フランス語からヘブライ語におよぶ多くの詩人の作品を訳している。また一九四八年からは定住の地をパリに定め、それは一九七〇年春、セーヌ川に入水するまで続いた。
 ラテン系であるルーマニアの言語環境のなかで、ドイツ語を母語とする家庭に育ったとはいえ、ナチズムによって両親を殺害されたツェランが、終生パリの地にあっていわば敵国語であるドイツ語でのみ詩作をつづけたこと。母の使うドイツ語に魅せられていたというマザー・コンプレックス的な心理分析によってその理由を探っても、納得はゆかない。逆にツェランの詩におけるドイツ語の機能の極端な働きからしか、彼の選択の必然性は理解できないであろう。
 第二次世界大戦時、特にヨーロッパに住むユダヤ系の人々が蒙った惨禍についてはすでに多くの報告がある。ツェランの詩において、民族-母胎の絶滅への悼みは、次第にユダヤ教、ユダヤ神秘主義への傾きを増すが、大量虐殺を前提とせざるを得なかった彼の詩は、「死」というその前提を、汎ヨーロッパ、さらには汎人類的な終末観へと拡げてゆく。そしてそれは詩、特にいわゆる抒情詩の近代の歩みを総体として抱えながら、詩の絶滅への途をゆくことになる。」
「いずれにせよ、極度に精密、複雑な、そして否定性につらぬかれたツェランの詩について、それをただ晦渋な迷路とせずに読者に伝達することが、この書で多少ともできていれば、と私は念じている。」



「Ⅰ 二人称への声」より:

「「神は世界の場であるが、世界は神の場ではない」(中略)とタルムードには言われている。そのように世界そのものでありながら世界を超える超越者の、いわば正統の子としてのイスラエルは当然に孤独である。「イスラエルは世界の場であるが、世界はイスラエルの場ではない」と、地球人が、つまりヨーロッパが、解するとき、イスラエルは地球を超えつつ孤立する。そしてその対立をよそに地球はこの詩集(引用者注: ネリー・ザックス『星の蝕』)の題名が示す通り、蝕に入っている。」

「ツェランの詩はたえず「きみ」への問いかけであり、愛語であり、迫りであり、呪詛であり、「きみ」は「私」と関数的に対応しながら、愛人となり、犠牲者となり、神となり、主となりイエスとなり、イスラエルとなる。しかも、たえずそのすべてを含む。そして、眼にみえずに、というのは、現に生起しまた生起しつつある災厄のすべてをさらに嚥みこむように遍満する大洪水(ジントフルート)のさなかに、投ぜられるこれらの「通信壜」は、難破した者が同じく難破したであろう未知の相手に向けて、伝達の期待を託する、封ぜられたモノローグのようでいながら、その壜の一つ一つに大きな対話の飽いてをとりこめている。ツェランが講演『メリディアン』で用いた通信壜の比喩は、もとマンデリシュタムの詩論「対話者について」から、そのまま取られている。」

「ツェランは、(中略)たぐい稀に多国語的であり、いわば超ドイツ語的である。」
「ルーマニア生まれの、(中略)しかもユダヤ出自の人として当然な、という以上に極度のポリグロットであったツェラン、古語、稀語、術語を駆使し、いたるところにアナグラムや言葉遊びの穽をしつらえ――それはしばしば詩解釈にとって決定的な因子をふくむ――、しかもそれらが、多義的なままに精密きわまる構造をもっているツェランその人の詩を何とかして日本語で論じなければならないのだ。
 遺伝子情報の集りのような、集積回路のような(中略)ツェランの詩は、多義的な単語の意味層のどれを取るかで様相を変える。句読点一つが、リズムに対してという以上に意味上の、慎重な読みを要求し、詩の構造がときとして、そこに現に置かれているコンマの消去を求める場合すらある。しかも詩と詩、詩集と詩集相互のあいだの網構造は、そのどの詩を取っても連鎖反応をよびおこさずにはいない。そしてそれらの技法は、詩を、つまりは言語を存立させる最後の拠りどころとしてある。」



「Ⅱ 非在のテクストへ」より:

「「ただ、ときおり、逆立ちして歩けないのが彼には不快だった。」この、ビュヒナー作中のレンツの想いをツェランは「逆立ちして歩く者は、空を奈落として足もとに持つ」とパラフレーズしている。
 蒼穹への墜落・投身の幻覚、欲望、恐怖は、たとえれば梶井基次郎の「蒼穹」を挙げるまでもなく、ある程度普遍的な心理だ。私も四十代のはじめ、空に落ちるのが怖くて、ベッドの脚にしがみついたり、砂浜にせめて首までからだを埋めて擬似無重力状態のパニックから逃れようとした記憶がある。一、二年のあいだそういう症候が間歇的におこった。
 レンツ→ビュヒナーを経てのツェランの倒立願望は、『息の転回』からのちも、たとえばマストを地上に向けて空をゆく逆さ船などの表象となってつづいている。そしてビュヒナーの「レンツ」への感動を、私は今思いおこしている。ここにはくわしく書けないが、あの透明な世界のなかのさまざまな凶気を。一つだけ書いておく。「レンツ」の終行近く、「こうして彼は生きていった」と、ツェランの「わたしは泳ぐ、わたしは泳ぐ」(『糸の太陽たち』V・6)との、私のなかでの共鳴を。」

「この(引用者注: 『息の転回』の)第Ⅰ部は次のようにはじまる。ここでも終行は Blatt (葉)一語による名詞止めである。

   かまわずに、わたしを
   雪でもてなしてください、――
   肩と肩をふれあわせ、ぼくが
   桑の木といっしょに夏を通って歩く、
   そのたびに桑のいちばん新しい葉が
   さけんだ。

 摘まれても摘まれても生じてくる(中略)桑の葉は、もうかまわずに(平然、泰然という意の getrost は、 Trost (なぐさめ)から来ている)、雪でわたしを殺してくれとたのむ。
 ルカ17章6では、イエスが「もし、からしの種ひとつぶほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植(う)われ』と言っても、その言葉どおりになるだろう」と使徒たちに言う。これは神としもべの絶対の随順関係だが、ツェランの晩夏の桑は、早く、早く、雪=死に会わせよ、とさけびをくりかえすのだ。
 ここに「イエス」は介在せず、むしろツェランの植物相(フロラ)への同化か、その上での共死へのねがいがある。そして「雪」は、この詩にいたるまでの雪、氷の系を、あらためてはじめ、それはこの第Ⅰ部の終りの「ほとばしるあなたの光の風に焼灼され」へと弧をかけわたしていて、大きく見れば遺稿詩集『雪の声部』(一九七一)へつづいている。」

「「わたし」はゴーレムを創るラビ・レーヴのように塔にこもる。いや、アダム、あるいはゴーレムを創るべき泥をみずから嚥む。もはや遺灰を嚥むのではない。ツェランが試みてきた再生は、奇怪な原素材との、闇冥との、合一の行為となって、あえて言えば原人アダム・カドモンとして終るようである。」


















































































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飯吉光夫 編・訳 『パウル・ツェラン詩文集』

「芸術を拡大する?
いや、そうではありません。そうではなくて、芸術とともにひたすらおまえ自身に固有のせまさのなかへ入れ、そしてきみ自身を解放せよ、です。」

(パウル・ツェラン)


飯吉光夫 編・訳 
『パウル・ツェラン詩文集』


白水社 
2012年2月1日印刷
2012年2月20日発行
202p 
四六判 丸背紙装幀上製本 カバー 
定価2,400円+税
装幀: 奥定泰之



本書「解説」より:

「本書はパウル・ツェランの代表的な詩、そしてほとんどすべての詩論(講演と散文)を納めたものである。」

「ツェランの人怖じする性癖はことのほか強かったといわれる。むこうから人ごみがこちらへ向かってきただけでも逃げだしたといわれる。ひとことで迫害妄想といわれるもので、同様の運命の持ち主ネリー・ザックスも同種の病いに終生悩まされた。ツェランは彼女を病院に見舞ったことがあるが、彼自身、治癒不能の病人だった。」



本文中モノクロ図版3点(ジゼル・ツェラン=レストランジュ1点、エドガー・ジュネ2点)。


ツェラン 詩文集 01


帯文:

「未曾有の破壊と
喪失の時代を生き抜き、
言葉だけを信じ続けた
20世紀ドイツ最高の詩人の
代表詩篇と全詩論。改訳決定版!」



帯裏:

「もろもろの喪失のなかで、
ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、
失われていないものとして残りました。(本文より)
パウル・ツェラン」



目次:

I 詩
罌粟(けし)と記憶
 死のフーガ
 光冠(コロナ)
 数えろ、アーモンドの実を
敷居から敷居へ
 入れ替わる鍵で
 夜ごとゆがむ
 沈黙からの証(あか)しだて
ことばの格子
 声たち
 白く軽やかに
 ことばの格子
 引き潮
 迫奏(ストレッタ)
誰でもないものの薔薇
 ぼくらにさしだされた
 頌歌
 あかるい石たち
息のめぐらし
 わたしをどうぞ
 立っていること
 糸の太陽たち
 灼きはらわれた
 ひとつのどよめき
糸の太陽たち
 刻々
 咬傷
 そのさなかへ
 おまえは
 アイルランド風に
 時がきた
 力、暴力
迫る光
 かつて
 ブランクーシ宅に、ふたりで
 さえぎられて
 あなたが
 祈りの手を断ちきれ
 狂気への道をたどる者の眼
 あらかじめはたらきかけることをやめよ
雪の区域(パート)
 落石

II 詩論
講演
 ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶
 子午線
 ヘブライ文芸家協会での挨拶
散文
 エドガー・ジュネと夢のまた夢
 逆光
 パリのフリンカー書店主のアンケートへの回答
 山中の対話
 ハンス・ベンダーへの手紙
 フリンカー書店主のアンケートへの回答
 真実、雨蛙、作家、赤ん坊を運んでくる鸛(こうのとり)
 シュピーゲル誌のアンケートへの回答
 詩(ポエジー)は……

解説 (飯吉光夫)
パウル・ツェラン年譜



ツェラン 詩文集 02



◆本書より◆


本書収録詩より:


「夜ごとゆがむ」より:

「かれらは世界にはなればなれに立っている、
それぞれがそれぞれの夜のもとに、
それぞれがそれぞれの死のもとに、」



「声たち」より:

「傷口は
塞がろうとしない。」



「迫奏(ストレツタ)」より:

「この夜に
星はいらない、どこにも
お前を尋ねる声はない。」



「立っていること」より:

「だれのためでもなく――なにのためでもなく――立っていること。
だれにも気づかれず、
ただ
おまえひとりだけのために。」



本書収録散文より:


「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」より:

「詩は言葉の一形態であり、その本質上対話的なものである以上、いつの日にかはどこかの岸辺に――おそらくは心の岸辺に――流れつくという(かならずしもいつも期待にみちてはいない)信念の下に投げこまれる投壜通信のようなものかもしれません。詩は、このような意味でも、途上にあるものです――何かをめざすものです。」


「子午線」より:

「これは人間的なものからの踏みだし、人間的なものに対峙している無気味な領域への(中略)踏みだしです。」

「ゲオルク・ビューヒナーには――わたしはいまこう問いかけざるをえません――「みじめな生き物」の詩人であるゲオルク・ビューヒナーには、芸術に対するごく低声な、もしかするとごく無意識な、しかしだからといって決して不徹底ではない、いやむしろそれゆえにこそ最も本来的な意味で徹底的(ラディカル)な芸術に対する問いかけが、(中略)存在するのではないでしょうか。つまり今日すべての詩がなお問いかけようとするならば、必ずそこへ立ちもどって行かなければならない問いかけが? 別のいくらか飛躍的な言葉でいうなら――わたしたちは、今日多くの場所で行なわれているように、芸術に対して、それがあたかもあらかじめ与えられたもの、無条件に前提されたものとして、取りかかっていいものでしょうか。わたしたちは、はっきりと具体的に言うならば、とりわけマラルメを――と申しましょう――最後まで徹底的に考えなくてもよいものでしょうか。」

「ことによると――わたしはただ問いかけます――ことによると詩もまた芸術同様、われを忘れた「わたし」とともに、この気味の悪いもの、この疎ましいもののもとまで行ってそこで自身を――と言ってもそこはどこなのでしょう? そこはどんな場所なのでしょう? 誰とともにというのでしょう? 何になりかわってというのでしょう?――そこで自身をふたたび解放するのではないでしょうか?」

「わたしたちは今もしかして、あの疎ましいものの住んでいた場所、ひとりの人物がみずからを一つの――疎ましいものとされる――「わたし」へ解放することのできた場所を見出すのではないでしょうか? そのような場所、足を一歩踏みだすそのような行為を、わたしたちはいま見出すのではないでしょうか?
 「逆立ちして歩けないことだけが、彼にはときおり不快だった」〔『レンツ』参照〕――これこそがまさしく彼、レンツです。」
「逆立ちして歩くものは、足下に空を深淵として持ちます。」

「詩――それは息のめぐらしを意味するものであるかもしれません。詩はもしかするとその道のりを(中略)このような息のめぐらしのために進むのではないでしょうか? もしかすると詩は、疎ましいもの、つまり奈落ならびに(引用者注: 「ならびに」に傍点、以下同)メドゥーサの首、深淵ならびに自動機械が、まったく同じ方向に並ぶように思われるところ――まさしくそこで、疎ましいものから疎ましいものを区別することに成功するのではないでしょうか。もしかするとまさしくそこで、メドゥーサの首はたじろぎすくみ、自動機械は停止してしまうのではないでしょうか――一度しかないこの短い瞬間に? もしかするとそこで、一つの「わたし」とともに――そこでそのようにして(引用者注: 「そこでそのようにして」に傍点)解き放たれ疎ましいものとなった「わたし」とともに―ーもう一つの「別のもの」が、自由の身の上となるのではないでしょうか?」

「詩は、まぎれようもなく、沈黙へのつよい傾斜をしめしています。」
「詩は、おのれみずからのぎりぎりの限界において自己主張するものです、――それは、みずからの「もはやない」からみずからの「まだある」の中になおも存続しうるために、みずからを呼びもどし連れもどすものです。」
「詩は(中略)ひとりびとりの人間の、姿をとった言葉であり、――そのひたすらに内面的な本質からいって、現在であり現前であるのです。
 詩はひとりぼっちなものです。詩はひとりぼっちなものであり、道の途上にあります。詩を書くものは詩につきそって行きます。
 しかし詩はまさしくそれゆえに、つまりこの点においてすでに、出会いの中に置かれているのではないでしょうか?――出会いの神秘のうちに。」

「芸術を拡大する?
 いや、そうではありません。そうではなくて、芸術とともにひたすらおまえ自身に固有のせまさのなかへ入れ、そしてきみ自身を解放せよ、です。」

「わたしは……わたし自身に出会いました。」

「わたしは見つけます、わたしがみなさまの面前でこのありえない道を、このありえないものの道を進んできたことへのいささかの慰めともなりうる何ものかを。
 わたしは見つけます、むすびつけるもの、詩のように出会いへとみちびくものを。
 わたしは見つけます、なにか――言葉のように――非物質的に、しかも地上的なもの、現実的なもの、円環をなすもの、両極をこえておのれ自身に立ちもどるもの、しかも――愉快なことに――熱帯地方をもよぎっているものを。わたしは見つけます……子午線(引用者注: 「子午線」に傍点)を。」



「エドガー・ジュネと夢のまた夢」より:

「ところで、ぼくは簡潔な言葉を好む人間である。もちろんぼくは、今回の旅行に出かけるまえ、自分が背後にする世界ではひどいこと、間違ったことが行なわれていることを知っていた。しかもぼくは、もし自分がそれらの事柄を名指しにするなら、それらを根底からゆさぶることができると信じていた。そのような振舞いに出るためには、絶対的な無垢に戻ることが前提となることを、ぼくは知っていた。この無垢をぼくは、過去何世紀にもわたるこの世界の嘘の滓(かす)を洗い落とした末の初源的な光景と見なしていた。」
「人間が外的生活の鎖にしばられて呻吟しているばかりでなく、さるぐつわをかまされて話もできない状態になっていることは、ぼくには明らかだった(中略)なにしろ人間の言語(身振り、動作)は、千年にもわたる捩(ね)じまげられた偽の誠実さの重荷に喘いでいるのだから。」



「詩(ポエジー)は……」:

「詩(ポエジー)はもはやみずからを押しつけようとするものではなく、みずからを曝(さら)そうとするものである。」

























































































パウル・ツェラン/ネリー・ザックス 『往復書簡』 (飯吉光夫 訳)

「この暗黒の日々の中でまだ答えられていない問い。この妖鬼じみた、沈黙したままの「まだ……ない」、そしてこの一層妖鬼じみた、一層沈黙したままの「もはや……ない」、さらには「はやくも……また」。そしてその間に、明日中にも、今日中にも、起こり得る、しかも予測しかねるもの。」
(ツェランからザックスへ)


パウル・ツェラン
ネリー・ザックス 
『往復書簡』 
飯吉光夫 訳


青磁ビブロス 
1996年11月11日初版発行
225p 訳者略歴1p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,000円(本体1,942円)
装幀: 伊勢功治
カバー、表紙写真: パウル・ツェラン(1958年、ジゼル・ツェラン=レストランジュ撮影)/ネリー・ザックス(1960年、アンナ・リウキン撮影)
Paul Celan/Nelly Sachs : Briefwechsel



編纂者による解説より:

「ネリー・ザックスとパウル・ツェランは約十六年間にわたって――一九五四年から一九六九年暮れまで――手紙のやりとりをした。両者がこの文通をどれほど大切にしていたかは、この文通が注目すべき完全さで保存されていたことからも明らかである。」


本書「訳者あとがき」より:

「本書(中略)は、一九九三年にズールカンプ出版社から出版された。パウル・ツェランもネリー・ザックスもともにユダヤ=ドイツ系の作家で、前者は一九二〇年生まれ、後者は一八九一年生まれである。ネリー・ザックスは一九六六年にノーベル文学賞を受賞している。」
「両者の手紙は、何よりも二人の精神を病んだ人間の心の交流の観を呈している。その根を掘り下げると、そこには第二次大戦下のナチスによるユダヤ人迫害という問題が浮かび上がる。
 しかし、この『往復書簡』は戦後の産物である。ナチスによるユダヤ人迫害による両者の精神異常の徴候は戦後の出来事に触発されて発現している。
 ツェランの精神不調の原因は、(中略)一九五九年の批評家G・ブレッカーによる新聞紙上でのツェラン批判、一九六〇年物故詩人ゴルの妻クレールによる、自分の夫の作品をツェランが剽窃したという弾劾、一九六〇年以前の作家アンデルシュとの不和などである。
 これに対して、ネリー・ザックスの不調の原因は、一九六〇年に彼女の居住地ストックホルムで反ユダヤ主義の怪文書が出回ったという事実、これとの関連で、ザックスが無線による監視をネオ・ナチから受けているという妄想や、神経ガスで殺されそうになっているという妄想にとらわれたという事実、などである。」
「最晩年のザックスは癌による苦痛の中で死んだ。ツェランは妻子との別居(中略)まで招いたほど精神障害に苦しんでいた。ツェランがパリのミラボー橋(といわれる)から投身自殺したのは一九七〇年四月末か五月初めであるが、その後一箇月と置かず、五月十二日にザックスはこの世を去った。」



本文中モノクロ図版7点(ツェランおよびザックスの筆跡5点、ジゼル・ツェラン=レストランジュによる銅版画2点)。


ツェラン ザックス 往復書簡 01


帯文:

「20世紀を代表する
ふたりのユダヤ=ドイツ語詩人
ネリー・ザックス(ノーベル文学賞受賞)
とパウル・ツェランの交感する
傷ましくも美しいことばたちに
みたされた書簡集。」



目次:

編纂者バルバラ・ヴィーデマンによる解説

『往復書簡』

ザックス/ツェラン対照年譜
人名注釈

訳者あとがき



ツェラン ザックス 往復書簡 02

本体表紙。パウル・ツェラン。


ツェラン ザックス 往復書簡 03

本体裏表紙。ネリー・ザックス。



◆本書より◆


「ザックスからツェランへ 一九五八年一月九日」より:

「わたしの胸のうちには、わたしたちが携わっている仕事は、犠牲者たちの灰の苦しみを身に徹して知り、その灰を霊化することだという信仰が、昔も今も、一呼吸ごとにうずいています。わたしは、この暗い営為を刻むことができる目に見えぬ宇宙があることを信じます。わたしは苦しみの石を音楽に変えて昇天させることのできる光のエネルギーを身に感じます。わたしはわたしたちの胸を誕生のときから死のときまで刺しつらぬいている憧れの矢先を、たしかな場所を探しもとめたいという憧れの矢先を、耐えています。自分自身の民族のものとしてのハシディズムの神秘主義がわたしを助けます。この神秘主義は他のあらゆる神秘主義と関連を持ちつつ、あらゆるドグマや制度から遠いおのれの住む場所を、たえず新たなる産みの苦しみの中に創造しています。」


「ツェランからザックスへ 一九五八年五月三十日」より:

「この暗黒の日々の中でまだ答えられていない問い。この妖鬼じみた、沈黙したままの「まだ……ない」、そしてこの一層妖鬼じみた、一層沈黙したままの「もはや……ない」、さらには「はやくも……また」。そしてその間に、明日中にも、今日中にも、起こり得る、しかも予測しかねるもの。」


「ザックスからツェランへ 一九六〇年七月二十五日」より:

「ナチの心霊術者たちの協会が無線電信を使って恐ろしいほど巧妙にわたしを追いつめています。わたしがどこに赴くかを、すべて知っています。旅に出たときは、神経ガスを用いようとしました。もう何年も前からひそかにこの家に入って、マイクで壁ごしに聞いています。」


「ザックスからツェランへ 一九六〇年八月八日」より:

「そして黒い網がわたしのまわりに張りめぐらされています。」


「ザックスからツェランへ 一九六〇年八月十六日」より:

「わたしをとりまく不安と恐怖の闇は、まだ除かれていません。(中略)わたしは今わたしの愛する死者たちに憧れています。」


「ツェランからザックスへ 一九六〇年八月十九日」より:

「親愛なるネリー! 網はまだ張りめぐらされているのですね、そうおいそれとは除去できないのですね……でもあなたはそれを除去しなければなりません、除去できるし、何としても除去する必要があります――あなたの身近かにいるものたちをおもって、あなたの身近かにいるまだ生きているものたちをおもって、です! あなたにはあなた自身のための手があります、詩を書く手があります、(中略)それに加えてどうか、わたしたちの手も取ってください! まだ手であろうとするもの、助けようとするものを取ってください。あなたのために、あなたの御無事のために、あなたのそばであなたとともに自由の天地にいられることのために、あなたを助ける手であろうとするものを取って下さい。どうか、今日でも明日でも、今後いついかなる時でも、わたしがあなたのおそばへ行けることをおもって下さい、わたしにあなたを助けさせて下さい!
 わたしはたえずあなたのことをおもっています。わたしたちは、いつも、あなた、ならびにあなたによって生かされている人びとのことをおもっています! まだおぼえておられますか、あなたとわたしたちが二度目に神について話したとき、このわたしの家の、あなたのものであり、あなたを待っているものであるこのわたしの家の壁に、金色の光が映えていたのを? あなたを通して、あなたがそばにおられることを通して、それが眼に見えるようになったのです。そうなるにはあなたが必要だったのです。そうなるには、自分のすぐそばにいるとあなたが信じられる神のおぼしめしによるのかもしれませんが、いずれにしろあなたがおられることが、わたしたちとともにおられることが必要だったのです。そうなるには、今後も、まだまだあなたが必要です。あなたの眼差しがどうしても必要です――どうかこの眼差しをふたたびみんなのいる場所に送って下さい。その眼差しにあなたの真の、あなたの解き放つ言葉を添えて下さい。あなた自身をその眼差しに委ねて下さい。わたしたちを、あなたの同時代人たちや、あなたとともに住む者たちを、この眼差しに委ねて下さい。すでに自由であるわたしたちをさらにその上自由である者にして下さい。あなたとともに光の中に立つ者にして下さい!」











































































猫と訳すパウル・ツェラン 「STEINSCHLAG (落石)」

◆猫と訳すパウル・ツェラン◆その1◆
(猫と訳すので猫の主観が入り込みますが、その点はご了承下さい)


STEINSCHLAG hinter den Käfern.
Da sah ich einen, der log nicht,
heimstehn in seine Verzweiflung.

Wie deinem Einsamkeitsstrum
glückt ihm die weit
ausschreitende Stille.

(Schneepart)


[ねこ訳]

甲虫たちの背後で落石。
そこにわたしは見た、偽ることをしない一匹が、
みずからの絶望のなかに引きこもり立てこもるのを。

汝の荒れ狂う孤独にみあう
沈黙のうちの広範な歩測を
その甲虫は成就する。

(詩集「雪のパート」より)


[ねこ釈]

神からみれば人間は地上を這い回るオサムシのようなものだ。
神は孤独だ。人間たちに殺され、見放され、忘れられて。
荒れた心で、神は人間たちに「天災」を与える。
人間たちは逃げ惑い、慌てふためく。
そして、神を忘れた人間たちは、科学的に、勤勉に、「災害」に対処しようとする。
しかし人間たちのなかには、災が神の仕業であることを認識し、それゆえ絶望し、
一切の行動をやめて立ち尽し、引きこもるものもいる。
だが、そのような人間だけが、ことあげすることなく、お喋りすることもなく、
無言のうちに、内部の広大な荒野を這い回り、なにごとかを知るのだ。


[ごたく]

甲虫は、シンボル事典とかをみると、死、そして再生や復活のシンボルだと書いてあります。復活のシンボルは古代エジプトのスカラベ、死の方は英語だと「deathwatch beetle」、ドイツ語だと「Totenuhr」、日本語だとシバンムシ(死番虫)だとおもいます。












































































































































Paul Celan "Die Gedichte" (Suhrkamp Taschenbuch)

Paul Celan : Die Gedichte
Kommentierte Gesamtausgabe
in einem Band
Herausgegeben und kommentiert
von Barbara Wiedemann

Suhrkamp Taschenbuch 3665
Suhrkamp, 4. Auflage 2012 (Erste Auflage 2005)
1000pp, 18.8x11.8x5.2cm



詳注版パウル・ツェラン全詩集(全一巻)、バーバラ・ヴィーデマン編。

中村朝子訳『パウル・ツェラン全詩集』の改訂新版が去年出ていたのを最近知ったのでネットで古本を探して買いました。定価より5,000円ほど安く買えたので、差額でツェラン本人による朗読CDと、本書を買いました。
ツェラン詩鑑賞三点セットが揃いました。あとは読むだけです。


celan 1


ペーパーバックですが3,100円もします。1,000ページもあるのでかなり厚いです。1ページ3円ちょっとなので日本の文庫本と同じくらいです。そう考えると安いような気もします。


celan 2


前半550ページくらいが詩の原文で、後半430ページくらいが注解です。


celan 3


ツェランの詩は短いものが多いです。本書では画像のようにだいぶ詰めて印刷してあるので、550ページくらいで全部収まるのです。

字はかなり小さめです。


celan 5


ちなみに画像右側に写っているのはビブリオテーク・ズーアカンプ版ツェラン詩集(二冊本のうち第二巻、ハードカバー)です。


celan 6


ビブリオテーク版(画像右側。既刊の詩集を集成したもの。注はついていません)は一ページにつき詩一篇なので余白が多いです。ビブリオテーク版には入っていない詩も本書には多数収録されています。

詩は『息の転換』(Atemwende)より、「あなたはわたしを/雪でもてなしてくださってかまいません」(Du Darfst mich getrost / mit Schnee bewirten:)。


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画像は注解ページです。ユダヤ教やユダヤ文化などの、われわれにはわかりにくい点についてもコメントされているようです。


Inhaltsuebersicht:

I Von Paul Celan zu Lebzeiten publizierte Gedichte . . . . . . . 9
II Aus dem Nachlass publizierte Gedichte . . . . . . . . . . . . 307

Kommentar . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 559
Verzeichnis der Gedichte . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 987
Inhaltsverzeichnis . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 999



(目次:

1 パウル・ツェランの生前に刊行された詩
2 没後刊行詩より

注解
収録詩索引
詳細目次)


詳細目次:

I Der Sand aus den Urnen
Mohn und Gedaechtnis
Verstreute Publikationen aus dem Zeitraum >>Der Sand aus den Urnen<< und >>Mohn und Gedaechtnis<<
Von Schwelle zu Schwelle
Sprachgitter
Verstreute Publikation aus dem Zeitraum >>Sprachgitter<<
Die Niemandsrose
Verstreute Publikation aus dem Zeitraum >>Die Niemandsrose<<
Atemwende
Verstreute Publikation aus dem Zeitraum >>Atemwende<<
Fadensonnen
Zyklus >>Eingedunkelt<<
Verstreute Publikationen aus dem Zeitraum >>Fadensonnen<<
Lichtzwang

II
Verstreute Publikation
Schneepart
Zeitgehoeft. Spaete Gedichte aus dem Nachlass
Das Fruehwerk (Edition von 1989)
Die Gedichte aus dem Nachlass (Edition von 1997)
Zeitraum >>Mohn und Gedichtnis<<
Nicht aufgenommene Gedichte
Verstreute Gedichte
Zeitraum >>Von Schwelle zu Schwelle<<
Verstreute Gedichte
Zeitraum >>Sprachgitte<<
Verstreute Gedichte
Zeitraum >>Die Niemandsrose<<
Nicht aufgenommene Gedichte
Zeitraum >>Atemwende<<
Nicht aufgenommene Gedichte
Verstreute Gedichte
Zeitraum >>Fadensonnen<<
Nicht aufgenommenes Gedicht
Gedichte aus dem Umkreis des Zyklus >>Eingedunkelt<<
Verstreute Gedichte
Zeitraum >>Lichtzwang<<
Nicht aufgenommene Gedichte
Einzelnes verstreutes Gedicht
Zeitraum >> Schneepart<<
Nicht aufgenommene Gedichte
Verstreute Gedichte
Spaete Gedichtsammlung
Spaete verstreute Gedichte
Schwer zu datierende Gedichte
Paul Celan - Kurt Leonhard

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Zu dieser Ausgabe
Abkuerzungen, Siglen und Kurztitel
Bibliographie
Einzelkommentar
Verzeichnis der Gedichte



※ めんどくさかったので、「ü」「ö」等ウムラウトの表記は「ue」「oe」等で、エスツェット(「ß」)は「ss」で表記しました。

































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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