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アンドレ・ブルトン 『魔術的芸術 普及版』 巖谷國士 監修

「「アンチ-リアリティ!」」
「いうまでもなく実証主義とははげしく対立するこの「反-現実」こそ、まさに本物の現実であり、グノーシス派が「光の財宝」のただなかへの跳躍によって到達する現実である。」

(アンドレ・ブルトン 『魔術的芸術』 より)


アンドレ・ブルトン 
『魔術的芸術 
普及版』
 
監修: 巖谷國士
翻訳: 巖谷國士・鈴木雅雄・谷川渥・星埜守之


河出書房新社 
2002年6月20日 初版印刷
2002年6月30日 初版発行
272p 22.2×17.4cm 
角背紙装上製本 カバー 
定価3,800円+税
装幀: 中島かほる



Andre Breton: L'Art magique, 1957/1991

横組。カラー図版161点、モノクロ図版71点、『魔術的芸術』原書(特装版および普及版)書影(モノクロ)5点。
新版『魔術的芸術』(1991年)の邦訳は河出書房新社から1997年に大型本として刊行されました。本書はその縮刷普及版です。大型本の巻末に掲載されていた「アンケート」は本書では割愛されています。



ブルトン 魔術的芸術 01



帯文:

「未知の領域をひらく美術史の革命的転換
シュルレアリスム思想・美学の集大成
20世紀最大の《幻の書物》、待望の普及版」



帯裏:

「刊行にあたって――
『魔術的芸術』はアンドレ・ブルトンの晩年の「大事業」である。古代エジプト絵画からデ・キリコまで、原始諸民族のオブジェからデュシャンまで、ケルトの象徴文様からエルンスト、タンギーまで、古今のあらゆる芸術の領域を踏査し、「魔術的」の一語をもってあらたな視野のもとに置き、さらにシュルレアリスムの理念に照らすことによって、美術史そのものを書きかえようとした壮大な試みである。
巖谷國士」



内容:

原著新版序文
自由な散策 (ジェラール・ルグラン)

魔術的芸術
芸術 魔術の伝達手段
 有史以前の芸術と今日の未開芸術
 古代諸文化の芸術、魔術の弁証法
 遠まわりの魔術、中世
近代 魔術の危機
 伝説的メッセージの継承
 ロマン主義的幻視と内的世界
 「大いなるあやかし」、眼の「錯覚」の不思議とその限界
 混沌(カオス)への誘い、表現主義から表意文字(イデオグラム)へ
 二つの大いなる綜合、ギュスターヴ・モローとポール・ゴーガン
ふたたび見いだされた魔術 シュルレアリスム

解題 (星埜守之)
後記――回想風に (巖谷國士)

図版索引
『魔術的芸術』普及版への注記 (河出書房新社編集部)
監修者・訳者略歴




◆本書より◆


「自由な散策」(ジェラール・ルグラン)より:

「現在の読者が『魔術的芸術』を受けいれるためには、まず視線を適応させることに同意してもらわねばならない。つまりこの書物は、この領域におけるシュルレアリスムの反省の総決算でも、未開民族の芸術のパノラマでも、多かれ少なかれ傍流に属する美的諸実践の概観でもなく、ある偉大な精神の、みずからの慣れ親しんだ世界のなかでの、自由な散策なのである。そう、つねに昂揚にうちふるえ、ときに不安をもたらしさえする、そういった親近性をもって慣れ親んだ世界だ。ところでそこに適応することの難しさの原因はとりわけ、それ以来、知識の普及の巨大な「進歩」がなしとげられてきたことに存する。それを知と呼ぶことにためらいはあるにしてもだ。通俗化の手段の拡大ということなのである。(中略)ボスや、さらにはフュースリの名までもが、いまや広汎な大衆に知られている。観光客が船でセピック川(ニューギニア)をさかのぼって、そこで自分たちの顔に彩色をほどこしてもらっているような時代に、「原始的オブジェ」を前にした「感動」について何を語ったらよいのだろう? だがかつてのあの時代には、人類学博物館の部屋部屋はどこもひとけのないままだった。教養ある人々の思想においてすら、もう標識が立てられていたはずのさまざまな地帯についての基本的な評価の材料が、矛盾にみちたものまでふくめて、欠けていたのである。」
「私が望みたいのは、人々がそこに、ある精神のいくつかの常数を認めることである。ランボーが標榜していた「ひとつの魂のなか、ひとつの肉体のなかの真実」という言葉にたえず依拠し(これをいうのは神秘主義だといって非難する声に対してだ)、「学識」の執念ぶかい職業的番人たちがこの要請の意味を切り刻んでしまうことに反対しつづけた、そんな精神のことである。」



「魔術的芸術」より:

「まず手はじめに、ノヴァーリスのようなきわめて高貴な精神の持ち主がこの問題についていだいていた観点から、しかるべき情報を得ることができるだろう。彼は、みずから促進しようと切望していた芸術の形態を描き示すにあたって、「魔術的芸術」という言葉をえらんだことがあるのだが、(中略)彼のとらえたこの言葉の意味のなかには、ある千年来の経験の産物が明確化されたかたちで見いだされるばかりでなく、精神と心情のもっとも輝かしい光が一個の存在のなかで例外的に結びついていたおかげで、その経験を超えたものさえ見いさだれることが期待できる。」
「ノヴァーリスの思想を通じてとらえることができるのは、この言葉が特殊語彙の域から出て一般的な境界にたどりつき、すこしずつ日常言語のなかへ流れこもうとした瞬間である。」
「ノヴァーリスは事実、パラケルススの「天にあり地にあるもので、人間のなかにも存在しないものはない」という観点と、スウェーデンボリの「あらゆる外観、あらゆる物質の形態は、自然の最奥にひそむ源泉を見透させる仮面、包皮であるにすぎない」という観点とを、等しくわがものにしてしまう。彼のいわゆる「伝統的」思想への忠実ぶりは、端的にこう表明されている。「われわれは宇宙のあらゆる部分とばかりでなく、未来、過去ともつながりをもっている。とくに重要であり有効であると思われるこうした強力な関係を確証できるかどうかは、われわれの注意の方向と持続力しだいである」と。」
「ノヴァーリスの目からすれば、魔術はたとえ儀式用の道具を失ってはいても、私たちの日々の生活のなかで、その効力のすべてを守りつづけているものだろう。」
「残念ながら(中略)ノヴァーリスは魔術的芸術について、覆いをかぶせた言葉で自分の考えを表明している。いわく、「数学は法にしか、つまり法的な自然や法的な芸術にしか関与せず、けっして自然や芸術そのものにはかかわらない。自然や芸術が魔術的なものになるのは、ただ徳化されるかぎりにおいてである。愛こそが魔術を可能にする原理だ。愛こそが魔術的に作用するのだ」と。ここで注意したいのは、「徳化(モラリザシオン)」という言葉にはどんな曖昧さもふくまれないだろう、ということだ。これが「精神化」の意味で用いられていることは異論の余地がないだろう。「徳」、つまり精神的なものに強調が置かれているのは、「フィジック(物質的)なもの」が日ましに重く私たちにのしかからせている担保のつらさをとりのぞこうとするため、またそのうえで、この二つの項の和解を可能にしようとするためにほかならない。同様に「愛」という言葉も、精神化され、純化された欲望という意味でしか理解できない。「愛する心は精神のあらゆる要望を満足させる」。ここで私たちは、じゅうぶんに進化をとげた魔術的概念と出くわすのだ。その概念は神秘主義者たちの要求にこたえることをやめはしなかった。彼らにとっては、魔術は「それ自体としてひとつの意志にほかならず、その意志こそがあらゆる不思議、あらゆる秘密の大奥儀である。それは存在の欲望の求めに応じて作用する」(ヤーコプ・ベーメ)。同時にこの概念は、ひとつの世界のなかに、つまりすべてが共謀して閉ざそうとしてきた私たちの世界のなかに、みずからの出口を(中略)探しもとめるのである。」

「「ある農夫が」とエリファス・レヴィはいう、「毎朝二時か三時におきて、陽ののぼる前に家からずっと遠いところへ行き、おなじ草を毎日一本ずつ摘むことをしたとすれば、彼はこの草を身につけることによって、数多くの奇蹟をおこなうことが可能だろう。この草は彼の意志のしるしとなり、その意志に応じて、彼がそうなってほしいと欲望のままに命じるすべてのものになりさえするだろう」(『高等魔術の教義と儀礼』)と。どんな本物の詩人、本物の芸術家が、これに異をとなえたりするだろうか? なるほどこれは、公認の教育が気にもとめないような意見である。そういう教育はこの種のヘルメス的隠秘学の伝統にとりこまれがちなあらゆる思想を即座に嘲弄し、なんの手つづきもふまずに排除してしまうからだ。(中略)詩人たちは公認の教育とは反対に、こうした声にはすこぶる注意ぶかく耳を傾ける態度を示す。」
「そういうわけで、科学界では魔術のことを、逸脱した、遠くかけはなれた、低い意識水準にとどまっている民族グループに限られた実践であるとみなし、研究対象としては、人間精神のおぼつかない第一歩を照らしだす興味しかもたずにいるのだが、他方の領域では、根本的に異なる考え方がうかびあがっている。それによれば、現在の意識水準(中略)を超えることの原理一切が、自然の秘密についての学という意味での魔術のなかにあり、それ以外のところにはありえない、ということになる。(中略)「魔術には」とエリファス・レヴィは説明する、「ただひとつの教義しかなく、それはつぎのようなことだ。見えるものは見えないものの顕現である。いいかえれば、感じとられ目に見える事柄のなかには、われわれの感覚にはとらえられず目には見えない事柄と正確に比例するようなかたちで、完全な言葉が存するのである」と。したがってここには、学者たちの視線とはもはやなんの共通点もない視線がある。」
「魔術が前面に押しだす根本原理を、この著者(引用者注:「ルイ・ショショー」)のつぎの言葉ほどうまく説明している例はこれまでになかったのではないか、と思われる。「宇宙はひとつの球体のなかにつつみこまれており、その半径は無限であっても有限であってもいい。ひとつの星を中心とする天体の複合集団が、その球体のなかを、重力、磁力、熱力から想像できるようないくつかの基本的な力によって、めぐりめぐっている。それぞれの衛星、それぞれの惑星の上では、さまざまな存在たちが組織と構造を与えられており、そのさいに作用しているのは、それらの存在たちをのせて運ぶ星に行きわたり、しかも王者である恒星に起源をもつようなダイナミズムである。存在たちはそれぞれの種族の可能性に応じて、だがつねにひとつの感応力にしたがって生きている。主導的な恒星に由来するこの感応力こそ、存在たちを化学的にも生物学的にもこの星と一体化させているものだ。……動物、植物、鉱物といった被造物をたがいに区別している差異がどれほど大きくても、摂理にもとづいた驚くべき調和を具現する一連の関係が、それぞれのあいだにこのうえない連帯を打ちたてている……」。
「魔術の基礎をなす一般的理論には、ある副次的な部門がふくまれている。それは原則としてどんな星の世界にも関係するが、たいていはこの地上界に適用されている部門である。すなわち“万物照応(コレスポンダンス)の理論”がそれだ。宇宙のなかの一切が多くの場合、合理的に説明のつく特定の法則にしたがって構成されており、運動してもいるということから、魔術はこんな結論をみちびきだす。すなわち、地上界ではどんな存在もひとつずつ構造をもっているが、それぞれの構造に特有の性格は、宇宙のエネルギーのさまざまな組みあわせがそれぞれの存在のなかに局在した結果なのだ。たとえば、一片の銅と、一本のクマツヅラの茎と、一羽の鳩とのあいだには、組織上、形態上、密度上、等々の差異がある。とはいえこれらの対象は、外見がいかに異なっていようとも、おなじひとつのダイナミズムの拠点であることには変りがない。このダイナミズムは鉱物の場合には潜在的であり、動物の場合には流動的、活動的、そしてある程度まで知性的ではあるが、どれもおなじ種類のものである。占星術の教えるところでは、この種の存在たちを生じさせている決定因のなかで支配的だった宇宙的感応力は、金星から来ている。したがって、金星に感応されたすべての触知可能な果実のあいだには、ある共感、ある相乗作用が存する。自然三界に例をとれば、銅とカーネリアン石、銀梅花とクマツヅラ、鳩と牡牛がそれにあたる。その結果、実践の面では、金星の感応下にあるひとりの人間存在は、たとえばカーネリアン石と銅とが構成に加わっている“護符”を身につけることによって、自分に特有の潜在能力を増大させることができるわけである」。
 ここにはあのボードレールの、想像力の機能と構造そのものにかんする有名な理論とおなじものが――語彙にいたるまで――認められる。想像力とは、「まさしく無限なるものと類縁をもち」、「世界のはじまりにあたって」アナロジーを、隠喩をつくりだしたものなのだ。」
「魔術師たち、芸術家たち、詩人たちに共通するこの「原初の力」については、万物照応の理論こそが、いわばその戦術的転化として、本当の意味で現実の核心に分けいるために欠かすことのできないものを提供してくれる。そうした現実においては、「ひとつのイメージは寓意でもなく、未知の事柄の象徴でもなく、それ自体の象徴なのである」(ノヴァーリス)。ひとつのイメージは絶対的な独創性をおびながら、無垢のひろがりをもつ共鳴音をあたかも宇宙の他の部分と結びつけるようにして私たちのうちに響かせながら、いわばその誕生の瞬間にこそ見てとれるものである。」

「ここでは魔術の歩みが宗教の歩みに先だつものだったのか、それともその逆なのかを決定することは控えよう。(中略)以下の事実を思いおこせば足りるだろう。すなわち、ある人々にとっては、魔術はもっとも直接的なアニミズムにもとづいており、宗教ほど入念な仕上げを前提としていない以上、宗教に先行するものでしかありえなかった、ということになる。(中略)フランソワ・レグサ(『古代エジプトにおける魔術』)が指摘しているように、「あらゆる時代、あらゆる場所で魔術はおこなわれてきたし、こんにちなお、われわれのあいだでもそれにふける者がいる。ひとりの学生が寝る前に教科書を枕の下にしのばせるとき、彼はいくばくかの魔力に頼っている。(中略)」。」

「すでに述べたように、この著者(引用者注:「ルイ・ショショー」)は「白魔術」と「黒魔術」とのあいだに設けられている区別に異をとなえながらも(「本来、ひとつの物理学、ひとつの化学、等々しか存在しないのと同様に、ひとつの魔術しか存在しない」)、この区別は唯一無二の魔術をあやつる称賛すべき動機、あるいは非難すべき動機を説明する場合には適当なものであると、まったく正当に評価している。頂上にまでいたる道は、これ以上ないほど狭い絶壁にそってつづく。結局のところ、そこに向って出発するさいのただひとつの保証は、心の純粋さ以外ではありえないだろう。」

「魔術の目的に適合しようと決めていようがいまいが、芸術作品は魔術そのものを起源としている(引用者注:「芸術作品は~」以下に傍点)、ということを忘れてはなるまい。たとえ純粋に「写実的」であろうと望んだとしても、芸術作品がその資源の重要部分を魔術に負うているという事実は動かしがたい。こうした意味で、あらゆる芸術は少なくともその発生において魔術的であろう。」

「多少なりとも構成原理に立ちもどってみれば、どんな芸術も魔術と密接な関係を保っていることがよくわかる。それにしても、このように魔術に依存しているという感覚が、長いこと思考を服従させてきた合理主義の潮流のおかげで、数世紀にわたって抑圧されてきたこともまた事実である。学校での型にはまった教え方も、ある種の技術的手段が必要(中略)だという考えを押しつけることで、芸術を、こうした芸術自身への反省からそらしてしまうことに役だってきた。こんにちでは、そのせいで芸術も豊かさを失ってきたことが一般に認められる。(中略)アカデミズムがもうそれ以上に被害をひろげないようにするためには、詩人たちからの抗議が必要だった。」

「明らかにもうひとつの行き方は、芸術の枠を超えたひろがりのなかで、もはや美ではない魔術的なものをこそ熱望し、美に対する魔術的なものの優位性をきっぱり認めてしまうことだ。必然的にその行き方は人類のアニミズム段階における歩みを再現することになるだろう。つまり「地上から天空にいたるまで、もろもろの存在を統合し、配列し、活性化させている神秘的な力」(ルイ・ショショー)を人間に従属させられるような実践の総体を信じるところから出発し、原始的な「アナロジー」がもはや初歩的ではない観測を生みだしたその瞬間から、象徴思考(引用者注:「象徴思考」に傍点)に達してゆくような歩みをである。」

「存在の裏づけとなる魔術的荷重(引用者注:「荷重」に傍点)をはるかにすこししか失っていないものは、各地にちらばって生きのびている民族集団の活動の所産であるように見える。彼らは「原始民族」というおよそ不適切な名前で一括指示されているが、いまもなお、貶下(へんげ)的な意味をふくませるのでないかぎり「野生人」という用語のほうがふさわしいほどだろう。すなわち、(中略)あるものは諸大陸のさいはてに追いやられ、あるものは地上でもっとも不毛な界域に閉じこめられてしまっている老いた諸民族のことだ。(中略)魔術的トーテミズムにささげられた三冊の美しい書物(中略)の著者ロテュス・ド・パイニは、(中略)魔術というただひとつのもの(引用者注:「ただひとつのもの」に傍点)だけが、被造物人間に〈感受すること〉、〈思考すること〉、〈意志すること〉という三能力をあいついで授けてくれるのだといって感謝している。「こんにち」と彼女はいう、「人間の大きな種族のそれぞれは、深いところである精神的な糸につながれている。それは御伽噺(おとぎばなし)さながらの糸であり、動物的感受と、神秘な植物と、硬い石とから(引用者注:「動物的感受と~」以下に傍点)できている。……あまりにも非難されてばかりいた古い概念を、歴史の枠のなかに据えなおすべき時である。……大いなるトーテム(引用者注:「トーテム」に傍点)が古い歴史のすべてを支配していることを知らなければならない」と。こんにちまで生き生きとしたトーテムの精神を維持している芸術(とくにオーストラリアのアボリジニや、ニューギニア人や、アメリカ北東岸のインディアンの芸術)は、本書のような著述のなかでは特別の位置を求めている。」

「私たちは、魔術の秘儀を伝えると称する霊鍵や呪法書の図版から出発して、占星術、カバラ、タロットをはじめとする卜占術、護符づくりのような加護祈禱、さらにいくらか留保つきながら、魅惑的な絵画をもっとも豊富に提供してくれる錬金術を通り、図像学的探索をつづけてゆくことができるはずだ。美という角度から見れば、もちろん、こうした作品の呈する価値はじつに多様である。(中略)この点からは、行商文学を通じてひろまることのできた木版挿絵と、たとえばデューラーの版画作品とのあいだに、尺度の違いなどなにもない。両者が私たちにおよぼす魅力は、明らかに、発揮されている力量とはほとんど関係がない。魅力は基本的にはそれぞれの突飛な性格に存しており、私たちを面くらわせる力の大小に応じている。」

「どんな時代もみずからのためにいくつかの源泉をさかのぼり、そこから典拠を汲まなければならないものである以上、私たちの時代、ことさらに波瀾の多いこの時代が、遠くまで研究の手をのばさなければならないのは必然であった。」



「芸術 魔術の伝達手段」より:

「人間の祖先がゴリラであれ(東アフリカ)、オオハシであれ(ニューギニア)、死体であれ(ニューギニア)、あるいはまた豚であれ(ニューヘブリデス)、これらの祖先がとっている胎児のような姿勢や、小人のような立居ふるまいをすることからして、未開人たちが、われわれにはそれを考えだすのに数世紀が必要だった系統発生学のフロイト的法則を「感じとって」いると考えることが許される。ある遠い南海の島では、トーテムの精霊は化物のような老人の頭部をもちながら、しかし純然たる胎児の姿をしており、それはまるで、サンスクリット語のテクストやヘーラクレイトスの、はるかに洗練された思弁にあらわれる永遠の子ども(引用者注「永遠の子ども」に傍点)のようである。(中略)このような、いままさに消えさろうとしている「知」の虜(とりこ)になった民族には、西洋美学のもろもろの合理的カテゴリーなど必要のないものだ。しかもそれにもかかわらず、彼らがわれわれにもたらすのは、十全な(引用者注:「十全な」に傍点)、したがって概念的なメッセージである。「白人」の侵入の前に姿を消すことを選択した、「火の土地(ティエラ・デル・フエゴ)」のアラカルフ族の哀れな財宝は、どこか博物館のガラスのなかで、われわれの文明をいつまでも排斥しつづけることであろう。」

「ヒエロニムス・ボスは、完璧な幻視者である。彼の作品が忘却の淵からうかびあがって半世紀もたっていないが、すでにそれは絵画芸術の基盤そのものを再検討に付している。」
「17世紀には修道士ホセ・デ・シグエンサが、ボスのうちにきわめて正統カトリック的な救済の道を人々に教えようと腐心する熱心なキリスト教徒を見てとるだろう。だが、彼はまた意味深長なつぎのような言葉を書きもするだろう。「私の見るところでは、この人の絵画と他の人々の絵画とのあいだにある違いは、他の人々が、たいていの場合、人間を外側から見えるがままに描こうとするのに対し、この人だけは大胆にも人間を内側からあるがままに描くところにある」。」



「近代 魔術の危機」より:

「コージモ(引用者注:「ピエロ・ディ・コージモ」)に話をもどすなら、その本質的な関心は、古代の自然主義を、それも多神教などはうわべにすぎないような自然主義を創造しなおすことである。また彼はプラトン的な主知主義も知らないわけではない。この点についてジョルジュ・ピュデルコ氏は、のちのカルダーノのような汎心論(引用者注:「汎心論」に傍点)(この考え方では、石は地に植えられた植物(引用者注:「地に植えられた植物」に傍点)となる)や、魔術を普遍的共感と考えるピーコ・デッラ・ミランドラのような人物の発言を考慮に入れている。「枝と木を結婚させるように葡萄の木の枝をニレの木に接木する農民とおなじく、魔術師は、空と大地を結びつけ、下位の領域を上位の世界の諸力と密接な関係に置くのである」。
 神聖な閃光が森へと(すなわち物質へと)ふりそそぎ、森を燃えあがらせているが、そこに住む生物たちは、さしてそれを気にとめているようでもない。大火事にもほとんど動揺しないこの動物たちは、姿を変えた「精霊」なのではなかろうか。「人間よりは獣に近い」暮らしをしていたというコージモは、嵐をおそれてはいたが、植物に活力を与える雨が降るのを見ることには喜びも感じていた。死の観念によって恐怖と霊感にとらわれ、奇抜な自然現象を目にすれば、人間がそれを台なしにしてしまうことを想像するだけで何度でも怒りに襲われた。だから絵の題材に、動物性が「人間的なもの」を凌駕するギリシアの奇抜な寓話を選んだのである。彼の絵画は、黄金時代に属する発見、たとえば葡萄酒より古い蜜の発見を扱っている。この異教的性格は、(中略)風景の細部にまで浸透しており、それだけでなく、ある不思議な官能性、一種の太古的な汎性欲論を身にまとっている。そこでは半人半獣の生き物たちが、「理性」によって廃棄されてしまった世界の、もっとも忠実な証人となっている。」

「ゴーガンのたえざる「漂泊」のうちに、単なる異国の冒険への誘いを読みとるのはまちがいだろう。彼がポリネシアに出発したのは、彼のなかにポリネシアがあったからだ。」

「われわれはこの文明が今後どんなに手ごわい社会的問題に直面してゆかねばならないかを知っているが、この文明の性質についてはつぎのことしかいうことができない、すなわち、この文明のなかで生きていくためには、退化した一種の古典主義の最後の化身である科学的実証主義を、必要最小限のところまで切りつめねばならないこと、革命的なものもふくめて、経済上の進歩についての幻想を捨てねばならないこと、そして、それらすべてに先だって、「野生の」文化の遺産の上に詐術と死の影を重くのしかからせつづけているキリスト教のシステムを清算せねばならないこと。そう、もっとも「良心的な」社会学者・人類学者たちにはお気の毒だが、この「野生の」という言葉をこそいますぐに復権させるべきだろう。」



「ふたたび見いだされた魔術 シュルレアリスム」より:

「アンチ-リアリティ(引用者注:「アンチ-リアリティ」に傍点)! デュシャンがあるニューヨークの雑誌に送っていたこの魔術についての定義は、カンディンスキーにも、「具象派」デ・キリコにもひとしく通用する。いうまでもなく実証主義とははげしく対立するこの「反-現実」こそ、まさに本物の現実であり、グノーシス派が「光の財宝」のただなかへの跳躍(引用者注:「跳躍」に傍点)によって到達する現実である。」

「問題は未知のもの、はかりしれないもの(引用者注:「はかりしれないもの」に傍点)と真の協定を結ぶことである。その協定の条項は精神それぞれに応じて種々さまざまだろうが、それにしてもこれはサモトラーケー島の奥儀体得者たちにとっての、カベイロイの秘密をけっしてあかさないという誓約とほぼ比較できるものである。いやそれ以上に、中世の妖術師たちの名高い「悪魔との誓約」と比較したほうがよいかもしれない――ただしその場合には、神にも人間にも断じて「魂を売って」はならないという話になるわけだが。」




ブルトン 魔術的芸術 02



ブルトン 魔術的芸術 03



ブルトン 魔術的芸術 04



ブルトン 魔術的芸術 05





こちらもご参照ください:

ミッシェル・レーリス/ジャックリーヌ・ドランジュ 『黒人アフリカの美術』 岡谷公二 訳 (人類の美術)
ハンス・プリンツホルン 『精神病者はなにを創造したのか ― アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの原点』 林晶/ティル・ファンゴア 訳
ロジェ・カイヨワ 『幻想のさなかに ― 幻想絵画試論』 三好郁朗 訳
マルセル・ブリヨン 『幻想芸術』 坂崎乙郎 訳
グスタフ・ルネ・ホッケ 『新装版 迷宮としての世界』 種村季弘+矢川澄子 訳
C. Whistler and D. Bomford 『The Forest Fire by Piero di Cosimo』















































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アンドレ・ブルトン 『シュルレアリスムと絵画』 瀧口修造・巖谷國士 監修

「眼は野生の状態で存在する。」
L'œil existe à l'état sauvage

(アンドレ・ブルトン)


アンドレ・ブルトン 
『シュルレアリスムと絵画』 
瀧口修造・巖谷國士 監修

粟津則雄・巖谷國士・大岡信・松浦寿輝・宮川淳 訳

人文書院 
1997年5月25日初版 第1刷印刷
1997年5月30日初版 第1刷発行
584p 
A5判 丸背布装上製本 カバー 
定価9,500円+税
装幀: 中島かほる



本書「解題」より:

「本訳書の底本は計三百四十六点の図版(うち色刷のもの三十六点)をふくむ高価な大型豪華本だが、定価を低く設定したいという人文書院編集部の意向により、今回はモノクロ図版で二百六点のみを本文共刷にし、判型もA5判サイズに縮小してある。」


アンドレ・ブルトン『シュルレアリスムと絵画――増補改訂新版、一九二八―一九六五』。
André Breton: Le Surréalisme et la peinture, nouvelle édition revue et corrigée première parution en 1928, Edition Gallimard, 1965


ブルトン シュルレアリスムと絵画 01


帯文:

「今世紀最高の「美」と「生」の書
眼は野生の状態で存在する
綿密な解題、訳注、人名解説を付す
30年におよぶ訳業、ついに完成!」



帯背:

「歴史的名著
待望の完訳」



帯裏:

「この大著は、今世紀にあらわれたもっとも重要な美術書のひとつである。それはシュルレアリスムという大規模な運動に加わった多くの芸術家たちや、その前後あるいは周辺にあった多くの芸術家たちの作品を、当の運動の指揮者・体現者として愛しつつ語り、鮮烈な言葉でたたえつつ位置づけているからだけではない。現実社会とのかかわりにおいて画家の生きかたを探りながら、またときには新しい「眼」で歴史を読みかえながら、二十世紀芸術そのものの方向を鮮明に示している書物だからでもある。
――巖谷國士「解題」」



目次:

刊行者のノート

Ⅰ シュルレアリスムと絵画 (一九二八)

Ⅱ シュルレアリスム芸術の発生と展望 (一九四一)

Ⅲ 断章 (一九三三―一九六一)
 マルセル・デュシャン
  「花嫁」の灯台 (一九三四)
 パブロ・ピカソ
  ピカソ――その生の棲み処 (一九三三)
  アンケート回答 (一九五五)
  80カラットの……だが瑕が (一九六一)
 ヴィクトル・ブローネル
  束、白い薔薇 (一九三四)
  犬と狼のあいだに…… (一九四六・七・一四)
 オスカル・ドミンゲス
  あらかじめ対象を想定しないデカルコマニーについて (一九三六)
 サルバドール・ダリ
  ダリの「症例」 (一九三六)
 ヴォルフガング・パーレン
  帽子についたダイヤモンドではもはやなく…… (一九三八)
  大道の交叉点にいる男 (一九五〇)
 フリーダ・カーロ・デ・リベラ (一九三八)
 シュルレアリスム絵画の最近の諸傾向 (一九三九)
 アンドレ・マッソン
  アンドレ・マッソンの幻惑 (一九三九)
 マックス・エルンスト
  マックス・エルンストの伝説的生涯 (一九四二)
  グラフィック作品 (一九五〇)
 ヴィフレド・ラム
  詩人たちの久しい郷愁と…… (一九四一)
  ハイチの夜…… (一九四六)
 イヴ・タンギー
  プロローグ (一九三八)
  タンギーの隠すもの、顕わすもの (一九四二)
 マッタ
  真珠は私の見るところ、そこなわれて…… (一九四四)
  三年前のこと…… (一九四七)
 エンリコ・ドナーティ (一九四四)
 アーシル・ゴーキー (一九四五)
 ジャック・エロルド (一九四七)
 トワイヤン
  トワイヤンの作品への序 (一九五三)
  「夢遊病の女」 (一九五八)
 エドガー・イェネ (一九四八)
 リオペル
  ひそひそ話 (一九四九)
 フランシス・ピカビア
  目隠しをした目のためのオペラグラス (一九五〇)
  手紙 (一九五二)
 ジェローム・カムロウスキ (一九五〇)
 ルフィノ・タマヨ (一九五〇)
 わが友セーグル (一九五一)
 シモン・ハンタイ (一九五三)
 ユディト・レーグル (一九五四)
 マックス・ワルター・スワーンベリ
  ヴァイキングの女 (一九五五)
  私は大きな出会いのひとつに数え…… (一九六一)
 ピエール・モリニエ (一九五六)
 エンドレ・ロジュダ (一九五七)
 ヤーヌ・ル・トゥームラン (一九五七)
 イヴ・ラロワ (一九五八)
 ジョアン・ミロ
  「星座」 (一九五八)
 ル・マレシャル (一九六〇)
 ルネ・マグリット (一九六一)

Ⅳ 周辺
 オブジェの危機 (一九三六)
 シュルレアリスムのオブジェ展 (一九三六)
 ポエム - オブジェについて (一九四二)
 カンディンスキー (一九三八)
 甘美な死骸、その顕揚 (一九四八)
 「素朴派」と呼ばれる独学者たち (一九四二)
 デモンシー (一九四九)
 ミゲル・G・ビバンコス (一九五〇)
 ジョゼフ・クレパン (一九五四)
 エクトール・イポリット (一九四七)
 狂人の芸術、野をひらく鍵 (一九四八)
 マリア (一九四七)
 アグスティン・カルデナス (一九五九)
 ガリア芸術の勝利 (一九五四)
 ガリアからの贈り物 (一九五五)
 十月の教え (一九五四)
 引き綱をかけるデュヴィリエ (一九五五)
 雲のなかの剣、ドゴテクス (一九五五)
 マルセル・ルブシャンスキー (一九五六)
 打倒、悲惨主義! (一九五六)
 近代美術館における百二十五点の傑作 (一九五二)
 アロイス・ツェートル (一九五六)
 象徴主義について (一九五八)
 ギュスターヴ・モロー (一九六一)
 彫刻家アンリ・ルソー? (一九六一)
 シュルレアリスム国際展への序文 (一九五九)
 ジャン・ブノワ、ついに大いなる儀式をはたす (一九六二)
 ミミ・パラン (一九六〇)

Ⅴ 他の流入、接近 (一九六三―一九六五)
 エンリコ・バイ (一九六三)
 ルネ・マグリットの全幅 (一九六四)
 熱帯林に立ちむかうカマチョ (一九六四)
 シルベルマン、「この代価を払えばこそ」 (一九六四)
 ウーゴ・ステルピーニとファビオ・デ・サンクティス (一九六四)
 コンラート・クラフェック (一九六五)

訳注 (巖谷國士)
解題 (巖谷國士)
図版目録 (巖谷國士)
人名解説 - 索引 (巖谷國士)

監修者・訳者略歴



ブルトン シュルレアリスムと絵画 02



◆本書より◆


「シュルレアリスムと絵画」より:

「眼は野生の状態で存在する。地上三十メートルの高さの〈不思議〉も、海中三十メートルの深さの〈不思議〉も、すべてを色彩として虹と関係づけてしまうこの猛々しい眼のほかには、ほとんど目撃者をもっていない。それは精神の航海に欠かせぬものらしい信号の慣習的な交換を司っている。だが、だれが見ることの階梯を立てるのだろうか? 私がすでにいくども見たもの、他の人々もまた見ると私にいったものがあり、気にかけるにせよかけないにせよ、私が見わけられると思っているもの、たとえばパリのオペラ座の正面とか、あるいは一頭の馬とか、あるいは地平線とかいうようなものがある。私がごく稀にしか見たことのないもの、いつも忘れるようにきめていたわけではないもの、また場合によっては、忘れないようにきめていたわけではないものがある。私がいくら目をむけても、あえて見ることはけっしてできないもの、私の愛するすべてのもの(その前では、私は他のものもまた見ない)がある。他の人々が見たもの、見たというもの、他の人々が私に暗示して見せることに成功するもの、成功しないものがある。さらに、私が他のどんな人々ともちがったふうに見るもの、それどころか、私が見はじめる目に見えないものまである。以上がすべてではない。」


「ヴィクトル・ブローネル」より:

「犬と狼のあいだに(夕暮れどきに)という表現は、これ以上ないかたちで、私たちが幼年期にはじめてそれを耳にしたときとかわらぬ恐怖感をおいたまま、戦争の直前にヴィクトル・ブローネルの達成した作品に、感情の境界をあたえていたものだ。」

「そうした関心はドイツ・ロマン派において頂点に達しており(たとえばモーリッツが確言するように、「それを見ることによってわれわれの生活全体の、否おそらくわれわれの人生全体の漠とした展望を得られるような、ある種の物質的な対象が存在する」)、その発展の過程を説明できるわけではないにしても、少なくとも古代以来、原始人以来、こんにちまでつづいていることを確証できるものである。こうした関心、この懸念、この心配は、魔法道士たち、異端者たち、すべての教団の「秘儀体得者」たち、偉大な反抗者たち、偉大な恋人たちだけでなく、その名にふさわしい者にかぎられた詩人たち、芸術家たちをへてきている。人がいわゆる普遍的同意に抗して、あらゆる領域にひろまっている批判にまず専心することを望まず、この世界をおおむね考えうる、住みうる、あるいは安直に改良しうるものとして理解しているかぎり、つくられたものにもつくるべきものにもならないこの世界に叛逆するようなすべての者たちに、こうした関心の刻印がのこされているわけだ。ためらわずいうが、この点で、私の考えはいつも、シャルル・フーリエのそれに支えられている。彼は一八〇八年にはじめて、絶対的懐疑(幾世紀ものあいだ人間が獲得したつもりでいる適合性に対しての)と、絶対的隔離(彼以前に教えこまれてきたすべてのものからの)とを、自分の法則として宣言したのである。」






















































アンドレ・ブルトン 『狂気の愛』 笹本孝 訳 (新装版)

「La beauté convulsive sera érotique-voilée, explosante-fixe, magique-circonstancielle ou ne sera pas.」
(André Breton)


アンドレ・ブルトン 
『狂気の愛』 
笹本孝 訳

シュルレアリスム文庫

思潮社 
1994年7月1日 新装版第1刷発行
177p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
装幀: 芦澤泰偉



André Breton : L'amour fou, 1938
図版(モノクロ)8点。


ブルトン 狂気の愛 01


目次:

Ⅰ 華麗なレヴューに列をなして登場する男性のダンサー達は
Ⅱ あなたの人生で、もっとも主要な出逅いは何であったか?
Ⅲ 航海者たちが初めて新大陸を望見した瞬間から、新大陸の岸辺に
Ⅳ 包み隠さず言えば、わたしはこの種の飛躍にはためらいを覚える
Ⅴ カナリア諸島最大の島テネリフの高峯テエードの山頂は
Ⅵ 寓話は、美の女神ヴィーナスが、三美神の織りなす衣服をまとっていても
Ⅶ 一九五二年の春、おまえはやっと十六歳になったばかりだろうが

あとがき (笹本孝)



ブルトン 狂気の愛 02



◆本書より◆


「美だけが、世界を押し広げ、世界を部分的にせよ薄暗い森の上に回帰させ、世界のなかに、精神の無限の要求に応じたさまざまの異例な隠れた能力をわれわれに知らしめる。(中略)わたしは内心、舞台の袖で囁かれる会話のように、きわめて無意識裡に感受される知覚こそが、象徴的なものであろうとなかろうと、人間が自分自身に抱えこんでいる何らかの困難を解決するものと確信している。要は迷路のなかを突き進む術を心得ること、それしか解決の糸口はないのだ。妄想的なものの見方がはじまるのは、無用心にも森に迷いこんだ人間が、そうした標識の森のなかでふいに恐怖に襲われるときをおいてない。だが、わたしは、ひとりの人間にとって、彼の欲望が表面的なものに留まっていることに一時的にせよ安住していることよりも、最大限の集中力で手錠をはずしてしまうような生き方に感動するのだ。」

「痙攣的な美は、エロティックであると同時にヴェールに被われ、爆発的であると同時に静止の状態をつづけ、魔術的であると同時に状況的なものであろう。さもなくば、存在しないであろう。」

「今日でもなお、わたしは自分を待命の状態におくこと以外に、期待をよせるものは何ひとつない。またあらゆるものとの出逅いを求めてさまよう渇きの状態以外から期待すべきものなどない。わたしは確信するが、こうした出逅いの状態こそが、わたしに、やはり待命の状態にある他者との神秘的なコミュニケーションを保たせ、あたかも突然の結びつきででもあるかのように、たがいに呼応しあう事態が生じるのだ。わたしの人生は、そのような出逅いを経験したら、待伏人の鼻歌、期待を裏切るための歌のような呟きしか、あとに残さないようにしたい。それは何が起ころうと起こるまいと無関係に、待つことだけが最高に素晴らしいものだからだ。」

「現代的思考の最大のもろさは、わたしには、この先知るべく残されているものに比して、既知のものに対する異常なまでの過大評価にあるように思える。この点で、現代の思考に努力というものに対して徹底した嫌悪を抱く姿勢に従う以外何の方策もないことを納得させるには、何よりもヘーゲルの次の言葉をその証人として呼びよせる以外に有益なものはないだろう。ヘーゲルは言う。《精神は、今なお白日のもとにさらけだされない神秘的なものがオブジェのなかに残されていればいるほど、わずかにオブジェに相対したときに、精神が大きく飛躍したいという生き生きとした欲望にかられ、つねに眼ざめ、状態が保たれるのだ》と。この言葉から、次のように演繹することは可能だろう。すなわち、全的な異様性というものは、明白な確認事項から発せられるかぎり、いかなる口実をもってしても、告発されえぬものである、ということを。」

「《狂気の愛》、この言葉は、おまえの出生の神秘をおまえに解き明かすことのためだけに生まれた。そのためあるいはおまえの期待にそぐわないことがままあるかもしれない。わたしは長い間、子供を作ることを最悪の狂気と考えていたのだ。ともかく、わたしに生命というものを与えた人たちをうらみつづけていた。おまえも、ある時期には、わたしをうらむようになるかも知れないね。」
「わたしの小さな娘、まだわずか八ヶ月で、いつもにこにこ笑い、サンゴと真珠が合わさったように生れついた娘、つまりおまえは、十六歳になったとき、おまえの生誕にはいっさいの偶然がとりのけられていたこと、おまえの生誕は早すぎも遅すぎもせず、まさに産み出さるべきときに産み出されたこと、そうして、おまえの柳のゆりかごの上にはいかなる影も待ちうけていなかったことを、知るようになるだろう。」












































アンドレ・ブルトン 『秘法十七』 入沢康夫 訳

「子供のころ、墓地へ連れて行かれるようになってまだはじめのある時――数多い、気も滅入るような、あるいはばかばかしい、墓碑のあいだに――「神なく主人なく」という傲然たる銘が赤い大文字で刻んであるだけの一枚の簡素な花崗岩の碑板を発見したことによって私にひきおこされた、心の安らぎや高揚や誇りを、私は決して忘れないだろう。」
「反抗なのだ、反抗だけなのだ、光を創り出すものは。」

(アンドレ・ブルトン 『秘法十七』 より)


アンドレ・ブルトン 
『秘法十七』 
入沢康夫 訳


人文書院 
1993年8月25日 初版第1刷印刷
1993年8月30日 初版第1刷発行
217p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,472円(本体2,400円)



本書「訳者覚え書」より:

「アンドレ・ブルトンの『秘法十七』 Arcane 17 の本邦における初訳は、故宮川淳氏の手になるもので、一九六七年の秋に、『秘法十七番』の題名で晶文社から刊行されている。
 いっぽう、ここに収めた拙訳は、宮川氏の訳書刊行の数年後、「アンドレ・ブルトン集成」収録のために二年がかりでなされたものだが、(中略)収録予定の巻の刊行を見ないうちに同全集の刊行が中断され、(中略)訳稿は約二十年間にわたって、版元のロッカーで冬眠状態になっていた。それが今度、完結しなかった全集の枠をはなれ、同じ社から単行本として上梓されることになった次第である。
 上記宮川淳氏の訳本は一九四四年刊の初版本にもとづいているが、拙訳は、一九四七年にフランスで出た、巻末に「透し彫り」 Ajours と題された三章からなる文章が追補された増補改訂版(中略)を底本としている。」



André Breton: Arcane 17
本文中図版1点(キルヒャー『エジプトのオイディプス』より「女神イシス」)。


ブルトン 秘法十七 01


帯文:

「いまシュルレアリスムに注がれる
熱いまなざし!
詩と自由と愛への限りない欲望。」



内容:

秘法十七 付: 透し彫り

訳者覚え書



ブルトン 秘法十七 02



◆本書より◆


「あの愛、私がその愛のうちに真の万能薬を、どんなにそれが宗教的その他の目的ゆえに、うちまかされ、声価を傷つけられ、嘲けられていようとも、見ようと固執するのを、何物も妨げるわけにはいかないだろう。贖罪という欺瞞的でがまんのならないいっさいの観念を別にすれば、実存と本質との最高度の融合が実現されるのは、まさしく愛によって、ただただ愛によってのみなのであり、愛なくしてはつねに不安で対立的でありつづけるこれら二つの概念を、ただただ愛だけが、苦もなく、完全な調和において、曖昧さなしに、和解させることに成功するのである。当然のことながら、私が言っているのは、全権能をほしいままにする愛、生の全持続に合致する愛、その対象をもちろん唯一人の存在のなかにのみ認めることしか肯(がえ)んじない愛のことだ。」

「ここでは、(中略)人間よりもずっとずっと遠くから来て、そしてまたずっとずっと遠くまで行く何物かがあるのだ。」
「そもそもの最初からあって、いまもわれわれにとってなによりも有害でありつづけている誤りの筆頭にあげられるのは、宇宙のもつ意味はただ人間だけが感知できるのであって、そのとき、たとえば動物たちには意味を欠いている、という考えである。人間は、万物創造における大いなるエリートであると慢心している。」
「人間の思想とは、一つの総和である。そうだ、厳密性を欠いたさまざまの仮定の総和であって、それらはいずれも、かならずしもそれでなくてもよいようなものであり、その大部分は決定的に無効が宣告されているというのにそれでもどこ吹く風とみずからの結論をまくし立てている。こうした思想の運命は、何が起こっても、おのれの辿ってきたそれまでの道筋を引返すことができないということであるようだ。」

「いかなるものであれ通念となっているものが、あらゆる先入見からまぬがれた定義によって検討され、すみからすみまで検査されることを条件としてでなければ、もはや受けいれられない。そういったまったく新しい実験室ができるのは、一体いつのことか?」

「何よりもまず良いことは、もろもろの概説書が喧伝しているような、人間の文化というものは秩序整然たる必然的な活動の所産であるなどという考えから、手を切ることだろう。」

「芸術が、いわゆる女性の《非合理性》に、決然として優先権を認めんことを。うぬぼれて自分を確実なもの強固なものと思っているが、実は男性の非妥協性の刻印を受けているものすべてを、芸術が遠慮会釈なく敵とみなさんことを。(中略)今はもはや、はっきり言うが、(中略)芸術においては男性に反対し女性の味方をすると何のあいまいさも止めずに宣言すべきときであり、男性がこれまで存分に悪用して来たことが明白になった権力を、男性から取り上げて女性の手に返すべきときであり、女性がこの権力のうち自分の公正な持ち分をとりもどすまで、それももはや芸術のなかでなく生のなかでとりもどすまでは、男性のあらゆる要求をはねつけるべきときなのだ。」

「子供であり女であるもの。芸術が組織的に用意せねばならぬのは、感性が支配する国全体への、彼女の到来である。」

「自由はあらゆる形式の隷属や強制に対する反対ということで非常によく定義づけられる。この定義のただ一つの弱身は、自由を一般に一つの状態として、つまり不動性において、表わしていることで、ところが、その不動性がたちまち自由の破産をひきおこすことは人間の経験があげて立証しているところなのである。人間の自由へのあこがれは、絶え間なく自らを再創造する力として維持されなければならない。だからこそ、自由は、状態としてではなく、絶えざる前進をひきおこす生きた力として、想いえがかれねばならないのである。その上、これは、やはり絶え間なく、この上なくたくみなやり方で自らを再創造する強制や隷属に対して、反対しつづけることのできる唯一のやり方なのである。」
「自由の観念は、(中略)自分で自分を完全に統御している観念であって、人間の特性をなすものについての無条件な見通しを反映しており、これだけが人間の生成に、尊重に価いする一つの意義を賦与するのである。自由は、解放とはちがって、病気に対する闘いではない。それは健康である。」

「ふたたび、ここで見出されたその星は、大いなる明けの明星、窓で他の諸天体を蝕せんばかりの勢いだったあの星だ。」
「反抗なのだ、反抗だけなのだ、光を創り出すものは。そして、この光は自分にただ三つの道しか認めることができないが、その三つの道、詩と自由と愛とは、いずれも同一の熱狂を鼓吹して、人間の心のもっとも秘められた、もっとも光を吸収しやすい地点へと、それを永遠の若さの杯(さかずき)そのものに作り成すまでに、集中されなければならないのである。」



本書「透し彫り」より:

「ある若く美しい婦人で、私がしたしんでいる予言風な夢想の一つに打ち込んでいる人が、いつか私に言ったものである。「ねえ、差当っては、固いことは何一つ言ってはいけないのですわ。固いの反対は何でしょう? (中略)今日は雲の子供たちを作らなくては。よくって、雲のような子供たちではなく、体の部分部分が雲の子供たち、そう、雲の子供たちですの。」

「くる日もくる日も、あらゆる点で、敵の行なったのと同様の一連の行為を、必要にひきずられ、不承不承、果たしていかねばならないわれわれは、敵とともに、一つの共通の限界を持つに至るのを、どうやって避けられるだろう? その点に用心しよう。敵が用いた手段を採用せざるをえないという、まさにその事実のゆえに、われわれは、われわれが勝利をおさめたと思っている当のものによって汚染されるという危険を、おかしているのである。」




こちらもご参照下さい:

アンドレ・ブルトン 『秘法十七番』 宮川淳 訳 (晶文選書)























































アンドレ・ブルトン 『秘法十七番』 宮川淳 訳 (晶文選書)

「わたしは決して忘れることはないだろう、こどものころ墓地につれてゆかれてまだごくはじめのあるとき――たくさんの気分を滅入らされるか、さもなければ愚劣な墓碑にまじって――「神も主人ももたず」という尊大な格言が赤い大文字で刻まれただけの簡素な一枚の花崗岩の板を見出したことがわたしにひき起したほっとした思い、高揚感、そして誇らしさを。」
(アンドレ・ブルトン 『秘法十七番』 より)


アンドレ・ブルトン 
『秘法十七番』 
宮川淳 訳

晶文選書 2

晶文社 
1967年10月30日 初版
1971年1月20日 3刷
125p 
四六判 角背紙装上製本 カバー 
定価480円
ブックデザイン: 平野甲賀



本書「訳者による後註」より:

「神話といい、エゾテリスムといい、それは想像力を発条としての反世界への、自由への欲望なのであって、重要なことはそのような人間精神の根源的な力学としての神話の認識こそであろう。そしてこの認識は必然的に新しい神話への志向と表裏したものでしかありえないが、それが『秘法十七番』の(そして本書以後のブルトンの)主題であり、同時にテクスチャーをなしている。」


André Breton: Arcane 17


ブルトン 秘法十七番 01


帯文:

「シュルレアリスムの頂点をなす ブルトンの後期を飾る代表作 詩と自由と愛をめぐる真の幻想的エッセー」


目次:

秘法十七番

訳者による後註



ブルトン 秘法十七番 02



◆本書より◆


「この愛、わたしがそこに真の万能薬を、いかにそれが宗教的その他の目的のために打ちまかされ、けなされ、嘲笑されようとも、どうしても見ようとするのをなにものも妨げることはないだろう。贖罪という偽りで、耐えがたい一切の観念を別として、実存と本質との融合がもっとも高度に実現されるのは愛によって、そして愛によってのみであり、愛のみが、その外ではつねに不安な、敵対的なものでありつづけるこの二つの概念を、一挙に、充全な調和のうちに、なんの曖昧さもなく和解させることに成功するのだ。わたしが語っているのはもちろん、全権限を掌握した愛、生命の持続するかぎり与えられる愛、その対象をいうまでもなくただひとりの存在の中にしか認めようとしない愛である。」

「自由はあらゆる形態の隷属や束縛に対する反対によってきわめてよく定義される。この定義の唯一の弱点は一般的に自由をひとつの状態として、いいかえれば不動性においてあらわすことであって、ところがこの不動性がそのまたたくまの廃墟をひきずっていることはおよそ人間の体験が立証しているところなのだ。自由への人間の渇望はたえず創り直されうるように保たれていなければならない、自由が状態としてではなく、持続的な前進を伴う生き生きとした力として理解されなければならないのはこのためである。それに、これは自由が、たえず、この上なく巧妙に創り直される束縛や隷属に反対しつづけてゆくことができる唯一のやり方なのだ。」
「自由の観念は自分自身を充全に支配する観念であり、人間を特質づけるものの無条件な展望を反映し、これのみが人間の生成に感知しうる意味を与える。自由は、解放のように病いに対するたたかいではない、それは健康だ。」

「ここでまた見出された星は、明けの明星、窓の他の星たちをかげらせていたあの星だ。」
「光を創り出す者はほかならぬ反抗であり、反抗だけなのだ。そしてこの光はただ三つの道しか自分に認めない、同じ熱中を吹き込み、この熱中を永遠の若さの輪郭そのものとすべく、人間の心の明かされることの少なく、もっとも照らされうる地点に集中しなければならない詩、自由、そして愛。」




こちらもご参照下さい:

アンドレ・ブルトン 『秘法十七』 入沢康夫 訳































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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