高橋巌 『シュタイナー哲学入門』 (角川選書)

「ブレンターノという人は、このようにいつも約束しながら、何も書けなかった人なのです。」
(高橋巌 『シュタイナー哲学入門』 より)


高橋巖 
『シュタイナー
哲学入門
― もう一つの
近代思想史』
 
角川選書 213 

角川書店
平成3年5月31日 初版発行
平成4年7月30日 再版発行
228p
四六判 並装 カバー
定価1,100円(本体1,068円)
装幀: 杉浦康平



本書「あとがき」より:

「本書の骨子になる部分は、一九八〇年、新宿の朝日カルチャーセンターでおこなった講義内容を元にしました。」


高橋巌 シュタイナー哲学入門


カバー文:

「近代ドイツは、霊的衝動にもとづくギリシア精神の復興と
近代的合理主義の発展を共に成し遂げた。本書は、この両者を融合させた
シュタイナーの視点からフィヒテ・ヘーゲル・ゲーテらの思想を辿り、
思考の分裂症を生きるすべての現代人に意識の変革を促す。

新たな哲学への旅立ち…………」



カバーそで文:

「本書は、デカルトからシュタイナーにいたる近代思想史の
諸問題を辿るかたちをとっていますが、
そうすることで、シュタイナーの哲学を哲学史のなかに
正しく位置づけようとしたのではありません。
本書の意図したことはそれとはまったく逆で、
シュタイナーの思想を学ぶことによって、近代における
精神のいとなみがどのように見えてくるかを、著者自身の
体験をふまえて、語ろうとしたのです。
――「あとがき」より」



カバー裏文:

「シュタイナ―哲学の具体的な内容は前代未聞の新しさをもっています。たとえば自分と違う霊的存在者と自我との出会い、
意識の進化の過程、生と死、覚醒と睡眠、民族精神と時代精神、悪の両極性とその中央に位置する自我のあり方、
それらの問題がイマギナツィオン、インスピラツィオン、イントゥイツィオンの観点から、
認識の問題として哲学的に、考察されているのです。
――本文「シュタイナーの哲学」より」



目次:

Ⅰ 神秘学と哲学
 神秘学と哲学
 神秘学・哲学の定義
 エクソテリックとエソテリック
 「エレウシス」
 ギリシア精神の再生
 ヘーゲルの呼びかけ
 現実感覚と無限なる世界
 秘儀への参入
 日本の観念論哲学の研究
 近世哲学の転換点
 自己認識と世界認識
 デカルトの『方法叙説』
 近代の認識衝動
 ヘーゲル・シンポジウム
 ラインケの「ドミナンテ」
 フィヒテの『人間の使命』
 デカルトとフィヒテの相違点
 カントの「物自体」

Ⅱ カントとフィヒテ
 目的論と因果論
 判断の四つの枠組み
 フィヒテにとっての理性
 フィヒテとマルクスの弁証法
 フィヒテの知識学
 「はじめに行為ありき」
 「自我は自分自身を定立する」
 「自我」の意味
 大宇宙、存在の根拠
 自我と非我の関係
 意識のヒエラルキア
 インド哲学の影響
 同一哲学の発展

Ⅲ ドイツ・ロマン派
 フィヒテの人間像
 天才肌のシェリング
 シェリングの自然体験
 知的直観あるいは相貌術
 『自然科学の夜の側面』
 非我とはなにか
 感覚のはたす役割
 自然とはなにか
 ドイツ・ロマン派の精神史的意味
 ヴァッケンローダーの芸術論
 象徴について
 象徴文学としての『青い花』
 霊的体験をえる方法
 創造的ファンタジーについて
 知的直観をめぐる芸術運動
 実証主義の時代
 イデーとイロニー
 イロニーとしての芸術
 ゾルガーの『エルヴィン』

Ⅳ ヘーゲルとその学派
 シャーキャムーニの自覚
 渡辺照宏と『精神現象学』
 仏陀の成道
 シュタイナーと渡辺照宏
 仏教における感性的世界
 ヘーゲルに向きあうシュタイナー
 ヘーゲルの超感覚的世界
 ヘーゲルとデカルトの相違
 ヘーゲルの宇宙思考
 「絶対知」とはなにか
 『精神現象学』の結末
 シュタイナーのヘーゲル論
 「存在論的」と「存在的」
 文献学者としてのシュタイナー
 「人智学」について
 トロクスラーの超精神的感覚
 超感性的世界をとらえるには
 「見る行為」と「観る行為」

Ⅴ 思想家ゲーテ
 ゲーテ的態度について
 『ゲーテの世界観』
 ゲーテの色彩研究
 ゲーテの植物研究
 メタモルフォーゼについて
 ヘーゲルのゲーテあて書簡
 現代のゲーテ研究
 ゲーテにとっての象徴
 未知への憧れについて
 ゲーテ文学の特質
 ゲーテからワーグナーへ
 A=Aという命題
 所与と思考の融合
 同一哲学の出発点
 ゲーテの欠点
 愛の理念と自由の理念

Ⅵ ブレンターノとシュタイナー
 ブレンターノの生いたち
 ローマ教皇不可謬説
 ブレンターノの日常生活
 ブレンターノの出発
 シュタイナーのブレンターノ讃美
 ブレンターノ哲学の特質
 ブレンターノの神の存在証明
 関係の問題について
 原初的な三つの志向関係
 「表象」から「判断」へ
 ブレンターノの魂のはたらき
 魂と物質のあいだを揺れ動く意識
 認識の基礎となる十二の感覚
 表象は受動的性格をもつ
 メディテーションについて
 愛憎の相互関係としての魂

Ⅶ シュタイナーの哲学
 「意識変革」の時代
 新たな哲学の樹立
 記憶喪失について
 時間と空間をめぐる問題
 時間と空間を超えて
 受け身の意識習慣を改める
 能動的なイメージの構築
 表象と判断の相違
 判断を可能にする共感覚
 ユングの能動的構想力
 「エーテル体」の体験
 夢とイマギナツィオン
 インスピラツィオンとはなにか
 イントゥイツィオンとはなにか
 シュタイナー哲学の新しさ
 自己体験としてのシュタイナー哲学
 最後に

あとがき




◆本書より◆


「Ⅵ  ブレンターノとシュタイナー」より:

「ウィーンは当時学問的にかなり自由だったところです。その当時のウィーンは、文化の爛熟期(らんじゅくき)を迎えていました。フロイト、ザッヘル・マゾッホ、ブルックナー、フーゴー・ヴォルフがおり、カトリック文化の中心地であると同時に、神智学(しんちがく)の中心地でもありました。
 ブレンターノは、非常にウィーンの生活を愛していたようです。一説によりますと、日常生活の不得意な人物だったそうです。ドイツでは「ツェアシュトロイター・プロフェッサー」(うわの空の教授)という言葉があり、あまりしっかりと大地に足を下ろしていない学者のことをいうのですが、フランツ・ブレンターノは、そのような学者の典型だったらしくて、洋服を着るにも、食事をするにも、見ていられないほど不器用な人物だった、といわれています。
 たとえば、ステーキをナイフで切るのがすごく下手だったり、冬でも夏でも同じ服装をしているので、まわりの人が心配して洋服を着せてやったとか、階段があると、転げ落ちる心配があるので、いつも誰かがそばにいて手を引いてやったとか、そういううわさの絶えない人だったのです。
 ところが、いったん哲学的な思索に没頭すると、類のないくらいの集中力を示します。ウィーンの人はそういう風変りな人物が好きだったのか、彼はみんなからとても愛されたそうです。
 そういうなかで、彼の哲学は同時代の他の哲学とまったく違った性質を示すようになります。」

「ブレンターノという人は、このようにいつも約束しながら、何も書けなかった人なのです。」

「「彼(ブレンターノ)がもっとも心にかけており、生涯を費して完成させようとした作品は、ついに未発表のままに終ってしまった。しかしブレンターノは、心理学を通して神の存在証明にまで至ろうとしていたのだ。」」
「シュタイナーは、このような追悼文を読んで、あらためてブレンターノへの自分の追悼文を書く気になったのですが、ブレンターノのことをあらためて考えてみると、彼は若くしてカトリックの司祭となり、そこから出発して、心ならずも学者としての良心から、聖職者であることをあきらめ、そして自然科学的認識批判に忠実な学者として生きていく過程で、最後にたどりついたのが、出発点の神の存在証明を自分の立場からなんとかやろうとしたことだった。なんと大きな回り道をしながら、彼は一生かけて、自分の使命に忠実であろうとしたことか。そう思って、シュタイナーは魂の奥底から震撼させられ、自分の立場からそういうブレンターノの本当の姿を、どうしても評価しておきたい、と思ったのです。」



「Ⅶ シュタイナーの哲学」より:

「シュタイナーは、人間の意識は進化すればするほど、みずからに対して否定的にならざるをえない、という時代状況を徹底的に体験した人でした。唯物論、ニヒリズム、終末思想、ダダイズム、権力への意志と西洋の没落、そういう人間の魂を否定するような時代思潮のなかで、彼は近代哲学のさまざまな方向は、すべて一つのことを指さしている、と感じました。それは「意識の変革」ということです。人間の意識そのものを根底から変革しうる思想が現れるのでなければ、ドイツ観念論もゲーテもブレンターノも、空虚なイデオロギーでしかありえないであろうし、逆にもし新しい意識が生み出されたならば、そのときはじめてそれらの思想の営為は、近代意識のための最上の思想的拠点となってくれる、と信じました。」
「ルドルフ・シュタイナーはその際、基本的に三つの分野での感性の変革を目ざすのです。つまり霊視(イマギナツィオン)、霊聴(インスピラツィオン)、霊的合一(イントゥイツィオン)の三分野です。
 霊視、霊聴、霊的合一という、彼が「より高次の知覚活動」と呼んだ三つの分野で、新しい認識の地平を開拓しようとするのです。」
「そこではじめに、いったい、イマギナツィオン、インスピラツィオン、イントゥイツィオンとはなにかを理解しておかなければなりません。このことを空間と時間との関連で考えてみたらどうかと思います。」
「シュタイナーによれば、私たちが霊視(イマギナツィオン)を獲得することができれば、意識を目覚めさせつつ、しかも新しい時間的・空間的体験をもつことができるのです。」
「通常の時間と空間のなかで生きるかぎり、私たちの表象活動は、いつも受け身です。私たちは受け身でしか生きることができないのです。」
「そういう時間的、空間的世界のなかから自分を超越させるためには、まず受け身の状態を打破できなければなりません。
 そこで、まず人為的に、今まで何十年間か受け身で生活してきた意識習慣を改めて、自分自身の内部から、まったく能動的なしかたで、イメージの世界を構築してみるという、一つの思考実験をやるのです。(中略)それができなければ、どんなに知性を鋭くはたらかせても、依然として日常的な感性と理性のなかに閉されています。
 現代の科学は、どんなに高度な発展をとげたとしても、今いいました意味では、まったく受け身なのです。そして受け身であることに忠実な態度をとればとるほど、学者としてはすぐれた成果をあげることができます。ところがこの思考実験においては、科学的な態度をとらず、つまり外なる物質的現実に適合しているかどうかをいっさい考えずに、まったく能動的に、ということは外なる物質的現実から自由な態度で、自由なイメージを自分のなかに作り出すのです。」
「それを毎日、短時間でも集中して体験しますと、日が経(た)つにつれて、それは自分の空間体験、時間体験を非日常的なものに変える作用をするようになるのです。
 そして、イメージはひとつの未知の現実に変るのです。」
「そういう表象もしくは象徴が出てきたとき、シュタイナーはそれを「エーテル体」の体験である、というのです。」
「エーテル体による表象体験と肉体による表象体験とはまったく違うのです。夢の体験もエーテル体的な体験に属します。
 ここで夢についても簡単に触れておきますと、シュタイナーにかぎらず、一般にオカルティズムにとって、夢は、あらゆる日常体験のなかでもっとも興味ある体験であるといえます。
 夢に対して意識的であろうとすることは、すでにオカルト的な生活に入ることなのです。」
「それが人生全体のパノラマである場合もあるし、大切な人生の一コマである場合もありますが、イマギナツィオンによって体験されるものは、時間の空間化、自分の内なる世界の象徴化なのです。」
「イマギナツィオンの体験内容は、その体験者にとって、つねに、非常な愛着を感じさせます。それはつねに大きな体験であり、喜びであり、苦しみでもあります。それはなにか自分の運命との深い結びつきを感じさせ、そこに生きることは、第二の現実を生きることのように思えます。ちょうどつらい環境の人が、超現実的なまでに美しい夢を見るように、または、いやな社会環境のなかにいても、自分の部屋に戻ってくれば、そこで好きな絵を描き、好きな詩を作り、自由に日記を書くことができるように、自分にイマギナツィオンの世界があれば、それを第二の、より美しい現実として生きることができるのです。しかしインスピラツィオンを可能にするためには、イマギナツィオンの世界を自分ですべて消し去らなければなりません。
 魂のなかの生きいきとした内部空間を、完全に無の状態にするのです。まったくの無でありながら、しかも非常に目覚めて、しかも生きいきと感じられる意識空間を自分の内部に作るのです。その困難な内的作業の果てに、その無の状態のなかに霊的な客観世界からの啓示が与えられるのです。それをシュタイナーはインスピラツィオンと名づけました。」
「イマギナツィオンは、自分自身についての内的な体験だったのですが、インスピラツィオンは、客観的な、霊的世界の内容を示しているのです。」
「昔からそれを体験させるのに、秘儀という伝統がありました。冒頭に紹介した、ヘーゲルの詩「エレウシス」はそれを讃美(さんび)しているのです。」
「シュタイナーは古代から、その方法は主として、恐怖の体験とドラッグ体験を基本にしている、と考えています。
 日本の代表的な秘儀の伝統をもつ修験道(しゅげんどう)でも、深い山のなかで、生と死の境に立つような体験をさせて、エーテル体を肉体から分離させ、脱魂状態をよび起させます。そしていわば、分離したエーテル体を鏡にして、そこに宇宙の霊的ないとなみを反映させるのです。
 シュタイナーはそれを能動的なしかたで体験しようとしました。」
「最後にイントゥイツィオンについてなのですが、シュタイナーは、イントゥイツィオンとは真の自我を体験することだ、と語っています。」
「超感覚的な知覚と表象を通して、個的自我と宇宙自我との同一性を体験するとき、それをイントゥイツィオンとシュタイナーはよんだのです。」
「イントゥイツィオンというのは、(中略)自我が自分のなかだけでなく、外なる宇宙にもあるということの体験なのです。
 いいかえると、自分よりももっとはるかに高次の存在が宇宙の主体としてはたらいているが、そういう高次の存在のなかにも、自分と同じ自我がある。そしてその自我を実感できるときにはじめて、宇宙の意味と目的が痛切に体験できる。そのような宇宙的な自我との出会いをイントゥイツィオンというのです。」













































































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高橋巌+荒俣宏 『神秘学オデッセイ』 (新装版)

「ルドルフ・シュタイナーは人智学を認識の山の中腹にたとえたことがある。その山の裾野には人類学の分野が拡がり、その山頂には神智学の叡智が輝いている。人智学はその麓(ふもと)から頂上までの間に道をつける仕事を受けもっている、というのである。実際、「道をつける」という言葉は人智学の本質をいちばん適確にいいあわらしているように思われる。その本質はいわば認識における菩薩行とでもいうべき態度であって、別の世界観、人生観もしくは価値観を批判して、自分の立場を主張しようとすることに、人智学は関心をもたない。(中略)『自由の哲学』の根本思想に従って語れば、問題なのは、全く自由な態度で道のない地点に立つことなのである。そして人智学の本質はひとえにこのことの意味を明らかにしようとすることの中にある。なぜならそのような地点に立つときにのみ各人の内にひそむ「直観」の能力が目覚めてくるからである。そして「直観」による創造的な行為、いわば人生における美的芸術的な行為だけが、たとえ個々の場合にそれがまちがった方向に行ったとしても、個人の尊厳を保証してくれるのである。」
(高橋巌)


高橋巌+荒俣宏 
『神秘学オデッセイ ― 精神史の解読』 (新装版)

Odyssey through Occult Philosophy | Deciphering the Spiritual History of Man

平河出版社 1982年12月10日第1刷発行/1988年10月20日新装版第1刷発行
240p 目次2p 図版(カラー)2p 折込1葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー 定価1,500円
装丁: 中垣信夫+早瀬芳文



神秘学対談。


神秘学オデッセイ1


帯文:

「人類の隠された
もう一つの歴史をたずねて、
われわれは、今、大いなる航海に出る。
好奇心を道連れに!」



カバーそでには高橋・荒俣両氏紹介文。


神秘学オデッセイ2


目次:

第一章 総合の学
 幻想文学からヨーロッパ精神へ
 神秘学への架け橋
 月光派志願
 コンピューター世界に調和美を見る
 脱パートタイマー神秘主義者
 人間を読む読書法
 かけがえのない人生
 部分の学から総合の学へ
 「目醒め」と「ボケ」の二方向性
 菜食主義者の意外な側面
 十九世紀オカルトシーン
 東と西の循環潮流
 「魂」の新局面
 シュタイナーの「人智学」
 人類文化のルーツ探し
 革命思想の輸出入
 日常の中で「普遍」と出会う

コラム
 菜食主義+動物保護+反生体実験運動史[西洋]
 実現されなかったユートピア
 十七+十八+十九世紀の時代精神比較表[神秘学関係]

第二章 精神史の解読
 シュタイナーの原点とは
 神話復興運動と十九世紀精神
 シュタイナーの歴史観・七つの文化期
 一般と個別の対応式
 フランス精神対ドイツ精神
 生まれながらのロマン派・シュタイナー
 徹底した勉学と多彩な交遊
 オカルティストとしての出発
 自大を見つめつづけた壮絶な人生
 シュタイナーの日本への影響
 民族と地霊
 近代精神の原風景
 ユニバーサリズムと薔薇十字
 フリーメーソン・真理の伝承者
 ロマン主義・根源への回帰
 博物図鑑から時代精神を読む
 近代における集団の論理
 未来に向かうスクールの精神

コラム
 神秘的生物分類法[二例]
 人智学 (高橋巌)
 神智学協会史 (高橋巌)
 哲学的言語・人工言語創造史
 ロマン派図版集
 博物学図版集
 近代ユートピア建設・思想年表

折込
 世界の革命運動史と秘密結社関連表

第三章 神秘学待夢(タイム)
 隠れた賢者
 ファンレター少年の軌跡
 時代で変わる本の運命
 戦争を超える道
 オカルティストの人脈図
 埋もれた名著

日本最近十年間 神秘学関連年表

参考文献
引典一覧
脚注索引



神秘学オデッセイ4

折込。


◆本書より◆

「高橋: 『神智学』のひとつの大事な問題点は人間関係、つまり相手の運命と自分の運命との結びつきを、どう発展させていくかという点にあると思います。しかしこの問題は決して容易なことでは解決できません。(中略)おそらく私たちは皆、この問題をかかえたまま何度も何度も輪廻転生を繰り返すことになるのでしょう。けれども輪廻転生という点から見ますと、仮りに今の私にとって、二十世紀に生れあわせたこの人生は一回限りであって、今度生まれたときの私はどこに行ってしまっているのかわかりません。何百年先か何千年先かも、そのときに男になっているか女になっているかもわからないのです。
そうすると、仮りに輪廻転生をどれほど繰り返すことになるとしても、今の人生はかけがえのないものであり、一度失われた状況を再び取り返すことはできないのだと思わざるをえません。そこでかけがえのない人生を精一杯生きようとして、自分にできるありとあらゆることをやってみるとしても、ゲーテが『ファウスト』の中で書いているように、「人間は努力する限りは迷う」存在ですから、ますます自分をも他人をも傷つけてしまう結果になりかねません。この点は一見どんなに派手な生き方をしても、どんなに地味な生き方をしても、たいした違いはないわけです。たとえばひとりの人を愛しても、百人の人を愛してもたいした違いはなく、ひとつの仕事に就いた場合にも、百の仕事に就いた場合にも同じことがいえるわけです。ある場合にはずっと山にこもったほうが豊かな人生で、いろんな人とつき合っていろんな境遇を経たほうが貧しいということもあるかもしれないのです。そこで考えられるもうひとつの問題は、どんな豊かな人生を送ったかではなく、「迷い」そのものにどこまで神秘学からの「意味づけ」を与えることができるかということなんです。」

「高橋: 戦前に岩波の哲学講座で本多謙三という人が「有機的自然観」というたいへん優れた論文を出していました。そこでは、ヘルダーとゲーテとシェリングとを取りあげていまして、ドイツにおける有機体思想の展開を整理したものなんです。そういう人たちの中に明らかにあらわれているのは、宇宙もしくは大自然をどこまで生命体として考察できるか、もしくは大宇宙と小宇宙との照応関係をどう論理化するかという点をめぐっての強い問題意識です。その際、生命を対象とするうえで、最小の単位となりうるものは分子や原子や素粒子ではなく、それ自身のうちに一般を内包する個体なんです。ですから、ライプニッツやジョルダーノ・ブルーノのモナドにはるかに近いわけです。モナド理論はさかのぼればエピクロスからアリストテレスまでいくんですが、モナドとはアリストテレス以来、「一般」と「個別」とをともに生かしながら、その時々の時点でその都度かけがえのない独自な存在方式を生みだしていく内的固有性――つまりシュタイナーのいう「魂」にほかなりません。これが有機的世界における最も基本的な構成要素となっています。」

「高橋: 右翼思想とシュタイナーの関係でひとことだけつけ加えますが、シュタイナーは「民族」というものをたいへん重要視していて、オカルティズムの究極の目標は個人が民族に還ることだとさえいっているんです。(中略)しかし、シュタイナーのいう民族に還るということは、仮りに過去に栄光を背負ったある民族が今は衰退していても、霊性を発達させた人がその民族の中に己れを同化させることによって、その民族が新たな生命を得て甦り、再び新しい文化を生みだす能力を獲得するようになるその過程の問題なのです。ですから保守主義的態度をとるわけではありません。人類の未来のために、ある民族の創造性をいかにして甦らせるか、ということなのです。」
「荒俣: 民族という概念は、最初はやっぱり土地から出てきますね。(中略)ところが人間の生活様式は「土着」を必要条件としなくなって以来、科学や技術も、民族概念すらも変化しました。占星術が忘れられ、血統などという生物的な縁起が重視されるようになるのは、そのせいでしょう。たしかに占星術は「全体」を研究するシステムではありますが、同時に自分がそのなかでどこにいるかということをつねにアイデンティファイしなくてはいけないわけです。ある一定の土地で行なわれている神聖な儀式に参加すれば、それで民族の成員となる資格を得るわけですね。(中略)自分が地球のどこにおさまるべきかという居場所(アドレス)の問題、さらにいえば民族の所在は、本来そういうものだったはずです。(中略)生物学的な血統のつながりは、むしろ仮りのものにすぎません。そういう点では民族主義がユニバーサリズムと対立すべきいわれはないともいえるのです。(中略)では儀式にはどういう意味があるのかと考えますと、それはやはり、自分たちを創造した根源的な存在との交通だと思うんです。意識とか自我とか地位とかは、われわれがこの存在から仮りに借り受けるだけのことです。」
「高橋: 私たちが特定の土地の人種や文化に深く関わりをもつとき、それが人間のどの部分で関わるのか――肉体の次元なのか、エーテル体の次元なのか、アストラル体の次元なのか、または自我の次元なのか――ということを考える必要があります。肉体の次元では私たちは特定の民族の一成員ということになると思いますが、エーテル体の次元あたりからだんだん漠然としてきて、区別が不明確になっていきます。そしてアストラル体の感情のはたらきになると、民族間の区別はあまり決定的ではなくなってきます。そして自我は全く個人の問題としてしか捉えることはできません。ですから人間の意識が進化するにしたがって、血統よりは霊統による区分の方がこれからは重要になってくると思います。日本人の中のこの人(またはグループ)とアメリカ人の中のこの人(またはグループ)との関係のほうが、日本人の中のこの人やこのグループと別の人や別のグループとの関係よりももっと親しくなりうるということです。ではそこで最後に残る最大の障害は何かというと言語ですから、その問題をどう考えるかが今後の課題となってくるわけです。」

「荒俣: 余談なんですが、私はロマン主義時代のヨーロッパ各国の博物図鑑に興味があって収集に精を出しているのですが、じつはこれを見ると、国別の表現の特徴がかなり正確につかまえられるんです。たとえばフランスの博物図鑑の場合、たいへん正確で色もはっきりしていて美しいものが多いのですが、ひとくちにいえば剥製の描写なんですね。生きていないといいますか。(中略)一方、イギリスの場合は非常に不思議な図鑑をつくっていて、十八世紀の終わりから十九世紀の初め頃にかけて、とくに面白いのが出ています。イギリスの図鑑はひとことでいえば、完全なロマンチック絵画なんです。有名なものに、(中略)『花神の殿堂』という花の図鑑があるのですが、植物図というよりそれぞれが一幅の絵画になっています。その背景がまた非常に不思議で、たとえば夜に咲く月下美人の類の花ですと、画面のまん中に咲く花の絵が大きく描かれていて、その背後は、うらぶれたイギリスの片田舎の真夜中の時計台の風景なんです。月が耿々と照っていて、時計は真夜中を指しているんです。(中略)もっと凄いのはドラゴン・アルムという植物の図でしてね。これは当時、毒があるとされていた花なんですが、これが荒びた山の中に咲いているんです。ところがこの山には雷が落ちているんです。ちゃんとそう描いてあるんですね。ピクチュアレスクからゴシックへの気分の転移が、ここにみごとに表現されています。(中略)図鑑の製作者によれば、われわれはこの植物図鑑をつくるにあたり、植物がどのような状況の下にあるのかを重視した。植物は単なる景物ではなく、周囲に雰囲気を醸しだす「影響力ある存在」だ、そこでそれぞれに非常に相応しい背景を選びとった、と記してあります。
この本だけでなく、当時のイギリスの植物図鑑の決定的な特徴は、対象が生きているという点です。(中略)こうした生物に対するロマンチックな捉え方が絵画となって図鑑にあらわれてくる――これはたいへん面白いことだと思うんです。」

「荒俣: 十九世紀の天才数学者でガロアという人がいましたね。彼は二十歳そこそこで決闘で死ぬわけですが、決闘に際してはもうはじめから死ぬ覚悟でいたらしいです。ですから彼にとって問題だったのは、自分の「群論」、あるいは革命理論をいかにして後世に伝えるかということだったんです。そこで彼は三つの方法を考えるんです。ひとつは、その時代の権力者が強権的に自分の理論を呈示する方法で、たとえばナポレオンのように王権を手にして自分の思想を民衆に展開する方法です。二つ目は全人格的な堅固な組織をつくって、教祖と弟子という関係を結び、ひそかに理論を伝播させていく方法です。弟子をもっていますから、教祖としての予言は長く受け継がれるわけですね。範囲は狭いが確実です。三つ目は時代に流され、なおかつ力がないにもかかわらず、時代の中でつねにその思想を叫び実践していく方法です。もちろん弟子なんか取りません。一般の人に呼びかけつづけるのです。おそらくこの第三の生きかたというのは、思想などを世に広めようとするうえでもっとも効率の悪い方法であり、最も馬鹿げた方法である、と彼はいっています。しかし、ガロアはそれをやるしかない、なぜなら権力はないし、かといって宗団の教祖となるほどエソテリックな才能ももってはいない。したがって自分は時代の中で叫びながら、その流れに消されてしまう人間にちがいない。しかしそれしか道がない――こうガロアがいっているのを読んで、たいへん感動したんです。
高橋: 私もその第三の道がいいと思います(笑)。
荒俣: 私もこの第三の道を選びたいと思ってるんです。
全くガロアの手記には泣かされました。友だちに宛てた最後の手紙に、どうか私を忘れないでくれ。なぜなら私は権力者でもないし教祖でもないから、死んでしまえば誰も私のことを覚えていてくれないだろう。私の数学論も誰も覚えていないだろう。だから、せめてあなただけは死ぬまで私の名を覚えていてくれ。これだけが私の遺言である――と友人に宛てて書いているんです。」

「高橋: 私の考えでは伝授は必ず一対一でなされるということ、そしてあるグループが存在するなら、そのグループにはいることがはいる以前よりも自分をより自由に感じさせてくれること。そしてグループの存在理由は外にある何かのためであるというよりも、それぞれのメンバーの自己実現のためであるという三点なんです。
荒俣: それは非常に重要な点ですね。一般的な組織ではそうはいきませんね。むしろ全部逆ではないでしょうか。
高橋: もしも、そのスクールがエソテリックなものでありながら、しかも逆になってしまうなら、グループ活動などやらずに一匹狼の方がいいと、私は考えています。」



神秘学オデッセイ5

フリードリヒ「月を眺める二人」(1819年、部分)。


神秘学オデッセイ3



こちらもご参照下さい:
間章 『時代の未明から来たるべきものへ』
荒俣宏 『アラマタ図像館4 「庭園」』



















































高橋巖 『千年紀末の神秘学』

高橋巖 『千年紀末の神秘学』

角川書店 平成6年10月15日初版発行
196p 四六判 丸背紙装上製本 カバー 定価1,400円
装丁: 鈴木一誌



このまえの千年紀末(1994年)に出た本。

「本書は(中略)一九八三年から、毎年十二月に京都で行なってきた「千年紀末講演会」の第一回から第九回までの内容を、大幅に手を加えてまとめたものである。」
(本書「あとがき」より)


千年紀末の神秘学1


帯文:

「この日常生活からもう一度目覚めることが、新しい共同体の出発点になる。シュタイナーの思想はこの第二の目覚めをうながし、霊的体験の共有をめざす。人と人との結びつきを願い、現在のあり方を示す。」


帯背:

「霊学から見た現在」


帯裏:

「人智学という現代の思想が今私たちに何を求めているかを考えた結果、それはヨーロッパのキリスト教と東洋のシャマニズムとの出会いなのではないか、と思うようになりました。シャマニズムは新しいエコロジー運動と結び付いて重要視されるようになったりしています。………………本文より」


カバーそで文:

「シュタイナーの神秘学は、基本的な時代認識の方法であり、
人間の知恵を生かそうとする態度そのものである。
本書は、いまわれわれが感じている世紀末、千年紀末の
切実感、不安感に対する「神秘学」からの提案であり、
この百年間で形成された時代状況の本質を見きわめようと意図している。
この日常生活からもう一度目覚めることが、新しい共同体の出発点になる。
シュタイナーの思想はそのような第二の目覚めをうながし、
霊的体験の共有をめざす。
人との結びつきを大切に願い、現在のあり方を示す案内の書である。」



千年紀末の神秘学2


目次:

序 千年紀末の現在
一 シュタイナーの提言
二 悪の働き
三 民族の課題
四 歴史意識
五 シャマニズム
六 キリスト衝動
七 日本人の民族魂

あとがき



本書「あとがき」より:

「神秘学は、ブラヴァツキー夫人の『ヴェールをぬいだイシス』以来、進化、発展という概念を人間にも宇宙そのものにも適用して、一切の存在の根底に働く「生命力」の諸相や、背後にあってその働きをうながしている「霊的存在たち」の在り方を論じている。この神秘額的な「有機体思想」からすれば、存在するすべては、それぞれ七つの段階をたどって進む外展(evolution)と内展(involution)の繰り返しの中で、より物質的な方向に濃縮化していったり、より霊的な方向に精妙化していったりする。ところがその進化の過程から疎外されて、いわば袋小路の中で堂々巡りをしている状態が例外的に現われたとき、神秘学ではそれを「第八界」と呼ぶ。進化そのものを「神の摂理」と言うなら、第八領界は「呪われた状態」であり、「悪魔の誘惑」に陥った状況の下にある。
植民地主義にはじまり、第一次、第二次世界大戦、環境破壊、ジェノサイド、核開発、HIVの出現と続くこの百年間を、未来の輝かしい人類社会への必然的な道程である、と見る人もいるかも知れないが、本書の立場は、この百年間を、人類がますます自分ではコントロールできない方向に向かっていく、まぎれもない人類社会の第八領界である、と考えている。(中略)近代の巨大な物質文明社会も、このまま続けば遅かれ早かれ、途中で先へ進めなくなり、方向転換をよぎなくされるであろう。」



本書より:

「どうすれば第八領界に入ってしまうかはさまざまです。たとえばこの世に生まれ、ふさわしい環境の中で、サラリーマンとして、医者として、商人として、農民として、職人として、あるいは仕事をしないで暮している限りは、どんな人も正常な外展と内展のプロセスをたどっています。
ところが、(中略)自分の運命にそむき、場違いな生活をするようになりますと、その人の努力のすべては、出発点がずれているので、努力すればするほど、狂いが大きくなり、ますます自分の本来の生活から離れてしまうのです。
この問題は、いろいろな場合について考えられます。納得のいかない出発点から人生を歩み始めた人が努力すればするほど、その努力の結果をみのらせることができなくなります。早くそこから離れて、新しい出発をすることができればいいのですが、それまでの努力によって得た経験内容は、その人にとっては捨てることのできない、かけがえのないものになっていますから、ますますそれにこだわり続けます。そしてこだわればこだわるほど、実体のない影みたいなものと自分との関係が、その人にとってリアルなものに思えて、知らず知らずのうちに、第八領界に陥るのです。」

「今の時代の人びとの中で、自分は良心的な市民であり、物だけで生活しているのではなく、文化も教養も大事だ、と考えている人は、心の奥底では権力主義者なのです。そして権力主義者であれば、必ず同時に唯物主義者なのです。(中略)そういう唯物主義者は必ず、社会の中には立派なヒエラルキアがあって、その中に組みこまれれば自分の身は安全だと思い、そのヒエラルキアに組みこまれたいと思っています。」

「シュタイナーの親友でローザ・マイレーダーというウィーンの女性がおりました。(中略)そのローザ・マイレーダーがたまたま第一次大戦中新聞に書いたある記事をシュタイナーが読んで、すごく同感して語ったことばが、シュタイナーの講義録の中に出てきます。
その記事の中でローザ・マイレーダーは、現代の社会は基本的に権力の社会だ、と書いていました。そして、もしわれわれが戦争に反対するのだったら、戦争に反対する前に権力に対する自分の態度と決着をつけておかない限り、その反対は無意味になるというのです。権力をどう捉えるかは、唯物主義をどう捉えるかということでもあるので、唯物主義と真正面から闘うのはほんとうに至難の業なのです。数々の社会改革運動を展開してきたヨーロッパのキリスト教でさえも、すでに紀元四世紀のころには、権力の機構に組み込まれてしまいました。コンスタンティヌス大帝以来、ローマ帝国の国教になり、その後は皇帝の庇護のもとに発展しましたから、そのキリスト教では植民地政策に反対できるはずがありません。実際に、インドでもフィリピンでも、まずキリスト教を布教することで植民地運動を展開していくわけです。ブラヴァツキーの神智学もシュタイナーの人智学も、本来はこの権力の問題と真正面から対決する姿勢をとっていました。
ですから本来の人智学運動とは、いい換えると、「無縁社会」を再構築する運動であるといえます。無縁社会は(中略)もともとは国家権力に属さない世界という意味です。人智学徒であると名乗ることはすでに第八領界化した今日の権力社会の良き市民から、内的に差別されるということです。人智学は、この権力機構から無縁の小さな世界を、なんとか創ろうとしている運動です。」

































































































高橋巖 『神秘学入門』 (ちくまプリマーブックス)

高橋巖 『神秘学入門』

ちくまプリマーブックス 135
筑摩書房 2000年1月20日第1刷発行
206p 四六判 並装 カバー 定価1,200円+税



少年少女向け神秘学入門。本文中図版(モノクロ)9点。


神秘学入門1


カバー裏文:

「神秘学は、哲学、芸術はもとより、政治、科学をもふくむ人類文化全般に影響を及ぼしてきた。本書は神秘学の基本的な考え方とその影響の流れを、ギリシア哲学まで遡って、平易に説きおこす。今という現実を、よりよく生きるために!」


カバーそで文:

「カバー装画 [ルンゲの色彩球]
フィリップ・オットー・ルンゲ(1777-1810)は、北ドイツのウォルガストに生まれ、コペンハーゲンのアカデミーに学んだ後、ドレスデン、ハンブルクに暮らし数多くのロマン主義文学者、思想家と交際し、ベーメの神秘思想にも影響を受ける。それまで好んで描いてきた歴史画が、公募展で落選したのを機に、自然と人間との生命的交感の様を幾何学的、装飾的構図と個人的象徴体系を用い、マンダラ的に形象した。その油彩化にあたり色彩の重要性を認識し、観察と象徴的意味づけの双方から色彩論に取り組んだ。「ルンゲの色彩球」は、2頂点に白と黒を置き、その両者を極とした赤道上に赤、青、黄の三色を配し、中心に灰色を置いた。これは、反ニュートン的立場に基づいて、光のみならず闇をも、いかに色彩体験として把握するかを目指していた。ルンゲの絵画は、ある意味で神秘主義美術の限界とも言われるが、反面、19世紀絵画における、表現価値としての色彩から固有の価値、象徴価値としての色彩把握への移行を暗示していたとも考えられよう。このルンゲの色彩論は、同じ反ニュートン的立場に立つゲーテの色彩論にとっても大きな支えとなっていた。」



神秘学入門2


もくじ:

I 神秘学とは
 1 神秘学の原風景
 2 古代の秘儀参入
 3 古代東方
 4 魂の遍歴者たち
 5 アカシャ
 6 一元論
 7 後天開闢(こうてんかいびゃく)
 8 ガイア
II 美学としての神秘学
 9 美学者シュタイナー
 10 真・善・美
 11 アストラル・ヴィジョン
 12 フォルク
 13 恨(ハン)の美
 14 南溟(なんめい)の果て

あとがき



本書より:

「古代ギリシアの壮大な思考の試みは、(中略)何か私たちの心を惹(ひ)きつけてやまないすごさを持っていましたが、その遺産を継承した、その後のさまざまな哲学の営為は、人間性の尊厳のために、その思考の輝きを増していったとは思えません。ヌースはいつのまにか、知性、理性に置き換えられてしまいました。その結果、理性万能の学問体系が作り上げられ、能動的ヌースは、世俗的な意味でのエリート主義の理論的な根拠になり下がってしまいました。一九世紀、二〇世紀と、時代が現代に近づくについれて、思考の営為のすべてが、プラトン的な感性の持ち主にとって、むなしいものに思われてきました。(中略)これまでに述べてきた神秘学の伝統でさえも、歴史の表面を見ている限り、人類の未来を輝かしい方向に導くことができず、ヨーロッパ精神、キリスト教精神の名の下に、世界中を植民地化し、そうすることで、世界史を悪の方向に、差別と軽蔑と憎しみと戦争とに、さらにはホロコーストに駆り立てて来たように思えるからです。
現在の時代状況の中では、人間の魂とは何なのか、どこに魂の尊厳があるのか、非常に分かりにくくなってしまいました。私たちの魂が、身体とは異なる、独自の存在として、物質的な利害関係を超越している、と納得できる体験の機会はめったにありません。知性のレベルで、能動ヌースが受動ヌースより優れており、不滅であり、自由である、と納得できたところで、その能動ヌースそのものが、この二〇〇〇年間、人類を差別と抑圧に追い込んだのだったとしたら、そのような能動ヌースを愛せるはずがありません。(中略)
そもそも、今ある私の魂そのものが、私にとって好ましいものではなく、むしろ不快なものになってしまっています。夜、眠れずに悶々としている私たち、夜中に、ふと目が覚めたときの私たちは、どんな自分の魂に向き合っているのでしょうか。しあわせな自分に向き合っているときよりも、不安やつらい思いにさいなまれているときの方が多いのではないでしょうか。(中略)
一九六〇年代の終りから七〇年代の初めにかけて、世界の各地で大学闘争が烈しくくりひろげられたとき、日本でも学生たちは『エロス的文明』から重要な視点を学びました。著者のヘルベルト・マルクーゼによれば、現代は理性より感性の文化を打ち立てるべき時代なのです。理性というのは、アリストテレスの「能動ヌース」のことで、感性というのは、(中略)あらゆるものになりうる、消耗し、消滅する「受動ヌース」のことです。理性は、人と人との優劣を明らかにしようとします。そしてみずからを主人として、自分以外のすべての対象を支配しようとします。人に会えば、自分と相手と、どちらが偉いかをそんたくします。家の近くに空地があれば、そのままにしておくのはもったいない、何に利用しようか、地価はひと坪いくらぐらいか、などと考えてしまいます。隣の国が弱くて統一した権力がどこにもない、と思うと、侵略して植民地にします。それに反して、感性は、空地があったら、そこで草花を眺め、空気を感じ、大地に立って、今自分がここに生かされる喜びを感じます。」
「一九六五年以後のビートルズの音楽に代表されるような感性の文化は、一時は、大変な精神的エネルギーと結びついていました。人びとは、新しい時代の到来が遠くない、と思い始めました。けれどもこの思いは、六〇年代に始まったものではなく、一九〇〇年に始まる二〇世紀全体の一大運動につながる思いだったと考えることもできます。」

「シュタイナーという人はおもしろい人で、ひとつのことを論じると、他のことが見えなくなるくらいそのことに集中します。思考を論じるときには、あたかも感情など大したことはないように書いてしまい、感情を論じるときには、思考などはどうでもよいように論じるのです。ドイツ民族を論じるときは、ドイツ民族こそ世界に冠たる民族だと書くのです。ゲーテを論じるときには、カントやヘーゲル、シェリングなどは思想家として大したことはなくて、ゲーテこそ本当の思想家だと思わせるくらいに書くのです。だからそのつど誤解を招いてしまいます。そのために、あとになって、よく註をつけたり、加筆したりします。ひとつのことに集中すると、別のことに気を配る余裕がないくらいそのことの中に深く入っていきます。そして別のことに没頭するときは、かつて高く評価したものをあたかも否定するように語りかねないのです。」



ところで、著者は、元々は神秘学をインターナショナルなものとして捉えていたが、1970年代以降、たとえばエスニック音楽が注目されるようになったりして、「民族」というものが重要な意味を持つようになった、と言っています。本書でも「民族(フォルク)」の問題が強調されています。「民族」とはなにかというと、

 市民 ― 法人 ― 国家 ― (国連など)
 個人 ― 家族 ― 民族 ― 地球

この、下のほうが「民族」の系列で、上は「国家」の系列であり、

「法によってその存在を保障しようとする系列における国家は、法的には憲法によってその存在が明確に規定されていますが、だからこそ私たちが日本なら日本を考えるとき、国家としてしか日本がイメージできないのです。つまり「日本」は、民族や民衆を統合する名称ではなく、国家の名称だけになっています。ですから私たちが自分のことを日本人だというときは、日本民族の一員であるというよりは、日本国の市民である、ということになっています。この第一の系列が私たちの生活を決定的に規定しているのです」
(本書より)

そして民族(フォルク)とは、共通の欠乏感(窮乏、困窮)をもつ魂の共同体だ、とあります。

わたしは「国家」とか「民族」とかはだいきらいですが、たとえばわたしなら、わたしはまちがって人間に生まれてしまったノラネコであり、ほんとうの家族はノラネコなので、わたしにとっての「同じ欠乏感を共有する」ものたちの共同体は公園に集うノラネコたちであり、かつてのそしてこれからのすべてのノラネコたちであり、わたしはノラネコとしてノラネコの共同体の一員としての自分を認識することにより、「生産的な原点」を得ることができ、よりよく生きることができるようになる、ということであれば、著者がいっていることはたいへんよくわかります(「ノラネコ」は「自閉症」と置き換えてもよいです)。






































































高橋巌 『神秘学序説』

高橋巌 
『神秘学序説』


イザラ書房 
1975年11月30日 第1版発行
1989年3月20日 第5版発行
221p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,987円(本体2,900円)
装幀: 横尾忠則



本書「あとがき」より:

「本書は一九七四年二月号から一九七五年三月号まで、雑誌「現代思想」(青土社)に連載された「神秘学ノート」第一部を大幅に加筆補足したものに、新たに書き下した「シュタイナーにおける認識の行法」を加え、更に以前同じ問題意識をもって書かれた「神秘学序説」(雑誌「伝統と現代」一九七二年一二月号)と「愛のラディカリストたち」(雑誌「ユリイカ」一九七二年一二月号)を、これらも補筆して加えたものである。」


高橋巖 神秘学序説 01


高橋巖 神秘学序説 02


目次:

神秘学序説
 一 神秘学と近代的思惟
 二 神秘主義(ミスティシズム)と神秘学(オカルト・サイエンス)
 三 神秘学の源流
 四 現代の神秘学
愛のラディカリストたち

認識の光
ヨアキム主義の系譜 1・2
バガヴァッド・ギーターと現代神秘学 1・2
フロイトの夢判断 1・2・3
ユングの個体主義 1・2・3

シュタイナーにおける認識の行法

あとがき



高橋巖 神秘学序説 03



◆本書より◆


「オカルトの立場は、人間が自己の中に睡んでいる霊的力を通して、新しい種類の知覚器官を開発するところにはじまる。この出発点はどんな場合にも共通であるが、そのあと、この開発された知覚器官を行使する「超能力」は絶えず世俗的な権力とかかわり合う機会、もしくは危険に遭遇する。古代の神秘学上最高の聖典『バガヴァッド・ギーター』の冒頭は極めて示唆的にこの問題を扱っている。肉親同士が相戦わねばならぬ情況を前にして、無益な血を流すことに絶望するアルジュナに向ってクリシュナが説く最初の教えは、一切の社会的な利害打算を離れた行為だけが高い霊的意味をもちうるということだった。それが一見どんなに盲目的反社会的に見えようとも、善悪の判断さえ含め、そのような社会的判断から隔絶したところにのみ霊的行為が存在しうるというラディカルな立場を神人クリシュナは強調する。もし「超能力」が個人もしくは集団の社会的利害関係と結びつくなら、ただちに権力とのかかわりが生じ、それはひとつの社会的権威となり、この権威を是認する無数の論拠が案出される。「神によらない権威はなく、およそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものである」(ローマ人への手紙、第一三章の一)というパウロの言葉が権力の観点から一方的に主張される。パウロの時代のみならず、すでに古代エジプト時代に、明かに司祭階級の体制化が現れ、特定の身分が個々の秘儀参入者にとって代り、秘儀を社会化し、権力に奉仕させている。血族結婚によって保持された「ファラオ制」を中心とする国家宗教を特定の身分が支配し、自分の作り出したドグマを完全に受容れることを人々に要求し、かくして個人の精神活動の自由を否定する。ヘレニズムの時代以後も、特に四世紀から六世紀にいたる、キリスト教会がローマの国家権力と手を結んだ時期には、コンスタンティヌスからユスティニアヌスにいたる歴代の皇帝の下で、古代の神秘学的文献や施設が組織的徹底的に破壊され、その代りに秘儀を求める帰依者たちの精神を混乱させる手のこんだ神学が次々に作られていった。
 ギリシア正教の実存哲学者ベルジャーエフと神秘学との関係については述べるべきことが多くあるが、彼は『わが生涯』の中で、実に端的に以上の点に触れている。 ― 「神はいかなる力ももたぬ。神は一警官よりも権力がない。権力や威力のカテゴリーは社会的である。それはただ社会現象としての宗教にのみ関係し、社会的暗示の産物である。神は、権力のごとき低次の原理を神に適用することはまったく不可能であるゆえに、支配力を決してもたない。およそ国家とはこの現実世界のまことに低級な一現象であって、国家を想起せしめる一切のものは、神と人間と世界とのあいだの関係に転用されえない。……純粋な一神教は是認し難い。それは偶像崇拝の最後の形式である。シュライエルマッヘルやその他の多くの人々とは異なって、宗教は人間の依存感情ではなく、人間の独立感情である、と私は信じる。もし神が実存しないなら、人間は自然や社会、この世界や国家に全的に従属せる存在である。しかし神は実存するから、人間は精神(霊)的に独立せる存在なのである」(志波一富、重原淳郎訳)。」

「一般にユングは人間の個人的側面よりも、集合的側面を重視した心理学者と考えられている。というのは彼がフロイトに対して先ず自分の立場を主張したとき、(中略)フロイトの十九世紀的個人主義に対して、無意識の中に客観的霊的に存在する「集合的無意識」や「原型」を強調せざるをえなかったからである。(中略)けれども「構成的方法」をその帰結まで一貫して辿ってみれば彼がひとつの新しい個体主義を打ち立てるために、その必要な前提として、集合的存在としての人間を問題にしたのだということはまったく明かである。
 われわれの「集合的意識」、つまり社会的理想や社会的使命が、これらに反抗しようとするわれわれの単なる利己的欲望より優位を占めることはあらためていうまでもないように、間違った社会適応によって歪んだ意識的態度を代償しようとするわれわれの個人的無意識よりも、その背後に深い層を形成している「集合的無意識」の方がより重要である。しかし集合的意識でも集合的無意識でもなく、これら二つの客観の間にあって、これらがわれわれの人生にとって何のために存在するのかを明かにしようとするわれわれの主体、つまり自我の働きにこそ、人間存在の根拠を明かにする唯一の現実性があるとユングは考えるのである。
  「個体こそ唯一の現実性である」
と最晩年、死の床につく数日前に書き上げたという『無意識の接近』(『人間と象徴』河合隼雄監訳冒頭の論文)の中で、彼は書いている。個体を実現するプロセス、つまり個体化の行為こそ、「人生をいかに生きるべきか」に対する唯一の解答となるものだ、というのである。
 個体化を達成する主体は常に自我(私)である。人生を生きる過程で、私は集合的存在となることによって、一時自己疎外と自己外化の状態にあった。その場合私は社会とか信念とかいう、なんらかの外的なものに自己を捧げればよかった。しかし自己外化からふたたび自己を取り戻す行為においては、頼りになるのは唯自分だけである。大切なことは、集合的無意識がではなく、この主体としての私が霊的存在である、と自覚することである。なぜなら真理の霊たるパラクレートはこの「私」にのみ宿ることができるからである。過去にではなく、その都度現在働いている「私」に対するこの態度において、ユングもまたヨアキム主義の系譜の中に立っている。だから今述べたユングの命題をヨアキム主義の意味において次のように書き変えることができるであろう。
  「私こそ唯一の霊的現実性である。」
 私によってのみ、可能態として存在している諸々の霊が、より高い次元での現実性の中に取り入れられる。」



「シュタイナーにおける認識の行法」より:

「もしわれわれが霊的体験を目指す際に、外的なものから眼をそむけ、自己の内面に関心を集中させるとすれば、全然神的でないところの低次の自我をもって、自分が神的存在だとか、神の御使いだとか錯覚することになる。行者や教祖によく見かけるこのような錯覚は、ユングのいう自我の、つまり低次の自我のインフレーション以外の何ものでもない。われわれが本当に自分の中に神性を見出そうとするなら、自分の自己同一性を否定しなければならない。「汝自身を知れ」は同時に「汝自身を克服せよ」である。

 自分がどんなに不完全な、克服されるべき存在であるかを知るために、シュタイナーは(中略)、近代人のための「六つの基本行」について、様々の機会に語った。これは六ヶ月間をひとつのサークルとして修行するように考えられている。
 一、思惟の修行
 これは一ヶ月間毎日少くとも五分間だけ、日常周辺にあるものを思惟の対象にえらんで、集中的にこれについて思惟する訓練である。その対象は単純なものであればあるほどよい。たとえば鉛筆や釘などをとりあげ、この五分間はすべての思考力をこれに集中し、鉛筆についてなら、それがどんな材料でできているか、どんな製造過程が考えられるか、いつどこでそれが発明されたのか等々を思惟する。その際自分の欲しないどんな観念もその思考過程に入って来ないように、思考内容と思考過程とを完全に自分でコントロールできるように努める。
 二、意志の修行
 われわれの日常生活においては、行為の原因のほとんどすべては、家族関係、教育、仕事等々の義務的なものであり、まったく自分自身のイニシアティヴに発するものは非常に少ない。そこで次の一ヶ月間は、実生活にほとんど意味をもたぬような単純な仕事、たとえば植木鉢に水をやるとか、机の上の置き物のほこりをぬぐうとかいう行為を、毎日特定の時間、たとえば午前九時半とか午後一〇時一五分とかに行う。
 三、感情の修行
 第三ヶ月目は快と不快、喜びと苦しみの体験に際して、それを平静に受けとめ、態度にあらわさぬ訓練である。平静とは喜怒哀楽を押し殺すことではなく、最大限の喜びや悲しみからも自己を自由に保つことを意味するから、これによって社交上の率直さや美的感性が失われるということはない。それどころか逆に、微妙な事柄のニュアンスを一層鋭敏に感じとることができるようになる。
 四、思惟と感情とを結合する修行
 すべての事柄の中に優れた点を見出す訓練である。したがって「積極性」の行ともいうことができる。この行の本質を語るもっとも適切な例は、ゲーテの『西東詩集』に附けられた「覚え書」の中の、中世ペルシアの逸話である。キリストが或る時、路上に犬の死体を見た。彼は立ちどまり、これを見ていたが、周囲の者は腐臭をはなつその醜悪な姿に嘔吐を感じて眼をそむけた。するとキリストは、見たまえ、何という美しい歯だろう、といったというのである。われわれは自分をとりまく環境のいたるところで、この逸話の意味での真、善、美を見出すことができる。第四ヶ月目は世界に対してこのような態度をとることの訓練である。単なる無批判的態度をとることではなく、悪しきもの、偽りのもの、醜いものに十分意識的でありながら、このことで優れた点への眼を曇らせぬように努めることがここでは問題なのである。
 五、思惟と意志とを結合する修行
 過去の経験から事柄を判断せず、新しい体験に対してとらわれぬ態度でのぞむ訓練である。日常のあらゆる機会に、たとえば雨の音や戸の閉まる音の中にも、新しい何かを経験しようとする努力がここでは問題になる。だから「そんな話は聞いたことがない。とても信じられない」、というのではなく、たとえ誰かが来て、「大変だ、教会の塔が斜めに傾いた」、といったとしても、そんな馬鹿なことが、とはいわず、窓をあけて確かめて見る態度が必要なのである。世の中に起るすべての事柄に心を開いておくことは、神秘学にとって必要な、或る開かれた気分を養うのに必要なことだが、第五ヶ月目はこの気分を強めるために、毎日特定の時間を、子供の叫び声や吹いてくる風、日をうけて輝く木の葉などに注意を集中するのである。
 六、内的均衡の確立
 最後の一ヶ月間は、それまでの五ヶ月に意識できるようになった自分の一面的傾向を調和的にするために、特に困難だった部分や不十分にしかできなかった部分を並行して同時に修行する期間である。」















































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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