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エリアーデ 『ホーニヒベルガー博士の秘密』 直野敦・住谷春也 共訳 (福武文庫)

「「それが間違っているのは」と、彼はつづけて言った。「過去のものであれ、現在のものであれ、未来のものであれ、これらの事件に実在性(リアリティ)を認めているからです。しかし、ねえ君、私たちの世界のどんな事件も、実在(リアル)ではないのですよ。この宇宙で生じるいっさいのことは幻影です。(中略)生きた人間と、彼らの影との出会いも、そのすべてが幻影です。そして、ただひとつの物も、ただひとつの事件も実体がなく、その固有の実在性を持たない、仮象の世界においては、だれでもが、あなたがたのいわゆるオカルト的な一種の力を支配し、自分の望み通りにすることが可能です。もちろん、人はなにひとつ実在的(リアル)なものを作り出すのではなく、仮象のたわむれを作り出すだけです」」
(ミルチャ・エリアーデ 「セランポーレの夜」 より)


ミルチャ・エリアーデ 
『ホーニヒベルガー博士の秘密』 
直野敦・住谷春也 共訳

福武文庫 エ 0401

福武書店 
1990年10月9日 第1刷印刷 
1990年10月16日 第1刷発行
193p 
文庫判 並装 カバー 
定価380円(本体369円)
装丁: 菊地信義


「単行本は、エディシオン・アルシーヴより刊行(一九八三)。」



Mircea Eliade: Secretul Doctorului Honigberger, 1940


エリアーデ ホーニヒベルガー博士の秘密


帯文:

「時空間の超越、
ユートピア伝説、
永劫回帰を描く
幻想小説」



カバー裏文:

「東洋文化を研究している〈私〉のもとに、ある日一人の使いがやってくる。ヨーガの秘法に習熟したホーニヒベルガー博士の伝記を執筆中に亡くなった夫の代わりに、その仕事を完成してほしいというゼルレンディ夫人の申し出に興味をもった〈私〉は、遺された日記から驚くべき事実を発見する。「セランポーレの夜」併録。」


目次:

ホーニヒベルガー博士の秘密 (住谷春也 訳)
セランポーレの夜 (直野敦 訳)

解説 (直野敦)




◆本書より◆


「ホーニヒベルガー博士の秘密」より:

「私も富豪や学者の書庫をずいぶん見てきたが、このS通りの家の書庫ほど心を奪われたものはなかった。がっしりした樫板の扉が開いた時、私は敷居の上で凝然と立ちすくんだ……。それは前世紀に建てられた大富豪の館にもめったにないような大きな一室である。広い窓が裏庭に面している。カーテンがわずかに開かれていて、秋の夕暮の澄んだ光がさしこみ、ほとんど書物でうずまった、天井の高いこの広間にいっそう厳粛な趣きを添えている。書庫のかなりの部分は木造の書棚で囲まれていた。ざっと三万冊は越える本の大部分は革で装幀されており、医学・歴史・宗教・旅行・神秘学・インド学など、文化のさまざまな領域にわたっている。(中略)私は、個人の蔵書のなかでこれほど大量な貴重な本を見たことはめったにない。この多数の書棚の前で午後いっぱいを過ごしたのち、ようやく、これがどれほどすばらしい宝庫であるかということが、本当によく判ったのである。マルコ・ポーロとタヴェルニエから、ピエール・ロチとジャコリオに至る数百冊のインド旅行記がある。そう思わなければ、たとえばルイ・ジャコリオのたぐいのいかさま作家の本があることの説明がつかない。それから、『ジュルナル・アジアティック』とロンドンの『王立アジア協会ジャーナル』の全号揃いがある。たくさんの学会の紀要や、インドの言語、文学、宗教に関する数百の学者の記録については、今さら言うまでもない。ペテルスブルグ版の大きな辞書から、カルカッタやベナレスで発行されたサンスクリット語テキストに至るまで、インド学の領域で前世紀に出た重要な出版物のすべて。なかでも私は大量のサンスクリット語テキストに驚嘆した。」
「一見しただけで、ゼルレンディ博士のオカルト文献の収集は、最初から巧みに行なわれたことが判る。例の通俗出版物、特に前世紀末にフランスの出版社が市場に氾濫させたたぐいの本はここには、なかった。大部分凡庸かつ曖昧な神智学の本もほとんどない。その関係ではリードビーターとアニー・ベザントの本が数点と、ブラヴァツキー夫人の全集があったばかりであり、それは、のちに確認したのだが、ゼルレンディ博士が特別入念に読んだものだ。それに引きかえ、ファーブル・ドリヴェとルドルフ・シュタイナーや、スタニスラス・ド・ガイタとハルトマンを初めとして、書庫は、オカルティズムと錬金術と伝統的神智学の古典的著作で充満していた。スウェーデンボルグ、パラケルスス、コルネリウス・アグリッパ、ベーメ、デラ・リヴィエーラ、パーネティらの古い版に並んで、ピタゴラスの著とされている諸作品や、秘教のテキストや、著名な錬金術師の著作が、サルモンとマンジェの昔の版もあれば、ベルトロの新版もある。骨相学や占星術や手相学の忘れられた本も揃っている。
 その後、これらの書棚を心ゆくまで調べた際に、私は飛び切りの稀覯本を発見した。たとえば、アルノー・ド・ヴィルヌーヴの『デ・アクワエ・ヴィタエ・シンプリチ・エト・コンポシト』とか、キリスト教の外典類、一例をあげれば、ストリンドベリが長いあいだ尋ねまわったあの『アダムとイヴ』などである。ゼルレンディ博士は堅固な構想と的確な目標のもとにこの充実したオカルト文献収集を行なったと言えよう。(中略)神秘学の伝統の中に巧みに隠されて保持されてきた真理を博士自身が悟得しようと望んでいたことを、これらの書物が証明しているのである。そうでない限り、アグリッパ・フォン・ネッテスハイムとか『ビブリオテカ・ケミカ・クリオーサ』を読む意味はなかろう。
 そうして正にオカルティズムに対するゼルレンディ博士のこの熾烈な関心、加うるにインド哲学とりわけインドの秘儀学派に対するその情熱こそ、私の好奇心を極度に刺激したのであった。」
「「おそらく、オカルティズムの本を読むだけだったのではありますまい」と私は言った。
 「博士はきっと何か実践を試みたはずです」」

「「父は文字通り消えたというのが本当です。しかも、上着を一着も持たず、帽子もかぶらず、お金は全部机の抽出に置いたまま、消えたのです。なんの書類も持たず、旅券も取らず、母にもお友だちにもなんの書き置きもしていません。事情を知っている者にこの失踪がどんなに不思議に思われたことか、とてもお判りになりますまい。父は何年か前から苦行僧のようなかなり変った生活を送っていました。だれにも会いませんでした。昼も夜もこの書庫か自分の寝室で過ごし、寝室の藁布団も枕もない木のベッドでは二時間休むだけでした。身に着ける物はごく簡素で、白いズボンとサンダルとリネンのシャツ一枚です。これが家にいる時の服装でした。それも夏冬通して。そうして、表へ出られるはずもないこの服装のまま、消えたのです。」」

「このページを読みながら、私の胸はどれほど痛んだことか。夜半、シャンバラとアガルタという二つの名を目にして、どれほどの思いがこみあげたことか。私もまた、かつて、不退転の決意を秘めてその見えない地の探索に向かったのであった。(中略)隠者に会っては、シャンバラの話を聞いたことはないか、その秘密に通じた人を知らないかと尋ねてまわった。(中略)――ことによれば、私のもとにもそこから啓示が届いたかもしれなかったのだ。そうして多年の試練と訓練の果てに、見えざる地への道を見出すに至ったかもしれなかったのだ。しかし、結局は到達できぬままに、生涯憂愁のうちに思い続けるのが私の運命であった……。
 途中から引き返した者が、あとでその道でよかったのだと他人に知らされたときの後悔はいっそうはなはだしい。ゼルレンディ博士の証言は私の推測をいよいよ強く裏づける。というのは、その後の経過は、ひたすらシャンバラを探究すればそうなるにちがいないと私が想像していたとおりになっていったのである。《私はホーニヒベルガーが分け入った見えざる地のイメージをいつも生き生きと頭に浮かべていた。事実私はその地が俗人の眼に見えないだけだということを知っていた。はっきり言えばそれは地理的には近づけない国であり、あらかじめ苛酷な精神的訓練を経なければ知ることはできないのである。シャンバラがほかの人びとの目に見えないのは、高山とか深淵とかの自然の要害にさえぎられているからではなく、世俗的な空間とは質的に異なる空間に属することによると私は想像していた。初めのころのヨーガ実践でこの考えは証明された。俗人の体験する空間と、それとは別の人間的認識の空間とがどれほど異なるかを私は知ったのである。こうした経験のかずかずをこのノートに詳しく書き始めたのだが、まもなく、それは記述し難いものであることに気がついた。同じ体験を持つ人には判るだろう。それにもかかわらずこのメモを続けるのは、今日では信じる者とてない太古の真理を時どきは立証しておく必要があるからだ。(中略)》」
「《一番難しいこと、さらに言えば今日西洋では得られないもの、それは非人格的意識である。最近の数世紀に至ってなおこのような意識を実現できたのは数人の神秘家だけであった。(中略)》」
「《今私はシャンバラへの道を知っている。どうすれば行き着けるか判っている。もう少し言えば、ごく最近わが大陸から三人の人間がそこへ到達した。それぞれはひとりで出発し、そうしてそれぞれ独自の手段でシャンバラへ達した。(中略)こうしたことを私はかずかずの長いトランス状態のなかで知った。そのなかで私は壮麗をきわめるシャンバラを見る。雪を載く山々のあいだの緑の仙境を、異形の家々を、ほとんど言葉を交わさずによく理解し合っている不老の人びとを見る。ほかのすべての人のために祈り考えているこの人びとがもし存在しなかったら、ルネサンスこのかた近代世界が解き放った悪魔的諸力のために全大陸は崩壊しただろう。(中略)》」

「私はこういう異様な出来事について聞いたことがある。オカルト的な諸力を支配しようと努める者が、ある時点で正気と十全な意志を保持しきれなくなったとき、自己の瞑想そのものによって解き放たれた魔力の犠牲となるという。ハルドワルで聞いたのだが、ヨーガ行者にとって、最大の困難が待ちかまえているのは、修行の初期ではなく、破壊的な力の統御に達する最終の仕上げ段階だということだった。そもそもさまざまな神話を見ると、もっとも低い深みへ〈転落〉した者は、まさに神の域にもっとも近く迫っていた者なのである。悪魔ルシファーの高慢もまた、みずからの修練の完成によって解放した暗い諸力の一形式であり、その力がやがて破滅をもたらすのである。」







































Mircea Eliade 『Occultism, Witchcraft, and Cultural Fashions』

「During their initiation, novices are considered dead and behave like ghosts.」
(Mircea Eliade)


Mircea Eliade
『Occultism, Witchcraft, and Cultural Fashions
Essays in Comparative Religions』


The University of Chicago Press, 1976, 6th printing 1982
x, 148pp, 20.3x13.3cm, paperback



ミルチャ・エリアーデの講演五篇と論文一篇を収録。エリアーデの英文はたいへんよみやすいです。邦訳は未来社から刊行されていますが(ミルチャ・エリアーデ 『オカルティズム・魔術・文化流行』 楠・池上 訳)、未見です。


eliade - occultism, withcraft, and cultural fashions


Contents:

Preface

1. Cultural Fashions and History of Religions
- The Artist's Unsuspected Mythologies
- "Totemic Banquets" and Fabulous Camels
- A Magazine Called Planète
- The Cultural Significance of Teilhard's Popularity
- The Vogue of Structuralism
A public lecture given at the University of Chicago in October 1965 and published in The History of Religions: Essays on the Problem of Understanding, edited by Joseph M. Kitagawa, University of Chicago Press, 1967, pp. 20-38

2. The World, the City, the House
- Living in One's Own World
- The Cosmogonic Model of City-Building
- The House at the Center of the World
- Israel, the Sacred Land
- Cosmic Religions and Biblical Faiths
A public Lecture given at Loyola University, Chicago in February 1970

3. Mythologies of Death: An Introduction
- Myth on the Origin of Death
- Cosmological Symbolism of Funerary Rites
- A Ritual and Ecstatic Anticipation of Death
- The Paradoxical Multilocation of the Departed Soul
- Mythic Funerary Geographies
- Death as Coincidentia Oppositorum
A publuc lecture given at the annual Congress of the American Academy of Religion, Chicago, November 1973

4. The Occult and the Modern World
- Nineteenth-Century French Writers and Their Interest in the Occult
- Esoteric Doctrines and Contemporary Scholarship
- The Most Recent "Occult Explosion"
- The Hope for Renovatio
- Another Look at Esotericism: René Guénon
A paper delivered at the twenty-first annual Freud Memorial Lecture, held in Philadelphia on 24 May 1974 and published in the Journal of the Philadelphia Association for Psychoanalysis 1, no. 3 (September 1974): 195-213

5. Some Observations on European Witchcraft
- The Historiography of Witchcraft and History of Religions
- The Case of the Benandanti
- Romanian Prallels: The Strigoi and the "Troop of Diana"
- The Calusari - Cathartic Dancers
- The Merging of the Opposites: Santoaderi and Zine
- Lucerna Extincta
- Ritual Orgies and the Nostalgia for the "Beginnings"
This paper was first presented as the John Nuveen Lecture, given in May 1974 at the University of Chicago. A revised and expanded version was published in History of Religions 14 (1975): 149-72

6. Spirit, Light, and Seed
- Antarjyotih and the Solar Seed
- Light and Semen in Tantrism
- "Kundagolaka": The Play and the Fool
- The Joyful Paradox
- Xvarenah and the Seminal Fluid
- Manichaeism: The Imprisoned Light
- The Phibionites: Sanctification through Semen
- A Morphology of Photisms
- A South American Example: "Sun-Father," Photic-Sexual Symbolism, and Hallucinatory Visions
This paper was first published in History of Religions 11, no. 1 (August 1971): 1-30

Notes
Index




◆本書について◆


「Cultural Fashions and History of Religions」では、同時代の文化的流行(cultural fashions)の理解に宗教史学者(historian of religions)がどのように貢献できるかを具体的に論じています。「たとえば、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』とオーストリアのトーテム英雄型神話の間の驚くべき構造的類似に気づくのはおそらく宗教史学者だけであろう」。エリアーデは、当時のパリにおける楽天的オカルティズム、ティヤール・ド・シャルダンの科学=宗教的著作、レヴィ=ストロースの構造主義、などの流行の根底には「実存主義に対する強い反発(drastic reaction against existentialism)、歴史への無関心(indifference to history)、身体性の称揚(exaltation of physical nature)」があるとし、そうした反歴史主義(antihistoricism)は「歴史そのものの廃棄というよりは、近年の歴史主義者のうちにみられるペシミズムやニヒリズムに対するプロテスト」であり、エリアーデはそこに「大歴史(macrohistory)」(宇宙的歴史)への郷愁(ノスタルジア)を見て取っています。

「The World, the City, the House」は、「聖と俗」「中心のシンボリズム」についての講演ですが、冒頭に歴史家 Theodore Mommsen 教授の興味深い逸話が紹介されています。ソクラテスの時代のアテネの地理を詳細に説明することができた Mommsen 教授は、自らの住居があるベルリンでは道に迷ってしまうので、付き添い人がいなければ家に帰ることすらできなかった、というものです。教授にとっての「リアルな」世界、彼にとって意義ある唯一の世界は古代ギリシア・ローマ世界だったので、そこでこそ彼は生きて動き回り、創造的になることができました。というわけで、教授は二つの世界に住んでいたといえます。すなわち、秩序ある「聖なる」(sacred)世界――彼はそれを理解するのに生涯を捧げた――と、日常的な「俗なる」(profane)世界――ハイデッガーふうにいえば彼がそこに「投げ出されてある」(thrown)ところの〈現代〉のベルリンであり、彼にとっては非本質的な、無意味で混沌とした(chaotic)世界――です。「人は“カオス(混沌)”に生きることはできない」(one cannot live in a "chaos.")。そして「家」は「聖なる空間」であり、「世界の中心」です。

「Mythologies of Death: An Introduction」では、死の起源の説明神話が考察されています。原初的社会(archaic society)では「死」は「第二の生誕」(a second birth)と見なされており、それは新しい「生」のあり方(a new mode of being)へのイニシエーションであるという、「死」の創造的(creative)な理解がなされていました。すなわち、「相反するものの一致」(coincidentia oppositorum)としての「死」です。

「The Occult and the Modern World」では、現代の文学、学問、ポップ・カルチャーにおけるオカルティズム(魔術、ヘルメス学)の興隆に、「世界の刷新」(renovatio)への希求を見出しています。

「Some Observations on European Witchcraft」――19世紀の合理主義的リベラリズムは、「魔術」は異端審問がでっちあげたものであって、「魔女」など存在しなかったのだと考えましたが、マーガレット・マレー(Margaret Murray)はベストセラーとなった『The Witch-Cult in Western Europe』(1921年)で、異端審問官によって悪魔礼拝(adoration of Satan)とみなされたキリスト教以前の豊饒儀礼(archaic fertility cult)の存在を主張しました。エリアーデはそのような古い豊饒儀礼が審問の過程でどのように悪魔礼拝と同一化されていったのかを、カルロ・ギンズブルクの『ベナンダンティ』に依拠しつつ辿っています。
「重要なのは、それがたとえ想像上のものであったとしても、魔女の宴(the witches' orgies)は、社会的/神学的な制度を危機に陥らせ得るということだ。(中略)典型的なキリスト教徒とは違った存在の仕方へのノスタルジア/希求が、魔女の宴によって解放されたのである。人々を魔女になるべく駆り立てたものは、たんなる性的欲望などではない。それは性的禁忌を破って「悪魔的な(demonic)」宴(orgies)に参加することによって、自らの現状を変えることができるかもしれないという、漠然とした希望であった。」

そして最後の論文「Spirit, Light and Seed」では、宇宙の創造的な力としての霊、光、種子(精液)について論じています。






























『エリアーデ著作集 第三巻 聖なる空間と時間 ― 宗教学概論 3』 久米博 訳

「近代人にとって、真に「歴史的」とみえるもの、すなわち、唯一独自で不可逆的なものはすべて、未開人からみると、神話=歴史的前例をもたないゆえに、重要ならざるものとされるのである。」
(ミルチャ・エリアーデ 『宗教学概論』 より)


ミルチャ・エリアーデ
『エリアーデ著作集 
第三巻 
聖なる空間と時間
― 宗教学概論 3』 
久米博 訳


せりか書房 
1985年5月10日 第3刷発行
228p 索引xv 
四六判 丸背紙装上製本 
本体ビニールカバー 函 
定価2,500円
装幀: 山崎晨
監修: 堀一郎



Mircea Eliade : Traité d'Histoire des Religions, 1949/1964
本書には初版刊行年月日の記載がありません(「訳者あとがき」執筆の日付は「一九七四年九月」)。


エリアーデ 聖なる空間と時間 01


目次:

第九章 農耕と豊饒の儀礼
 125 農耕儀礼
 126 女性、性、農耕
 127 農耕の供物
 128 収穫の「力」
 129 神話的擬人化
 130 人身供犠
 131 アズテック人とコンド族における人身供犠
 132 供犠と再生
 133 収穫終了儀礼
 134 死者と種子
 135 農耕と葬礼の神々
 136 性と農耕的豊饒
 137 オルギーの儀礼的機能
 138 オルギーと再合一
 139 農耕神秘学と救済論

第十章 聖なる空間――寺院、宮殿 「世界の中心」
 140 ヒエロファニーとくりかえし
 141 空間の聖別
 142 聖なる空間の「建造」
 143 「世界の中心」
 144 宇宙的範型と建造儀礼
 145 「中心」のシンボリズム
 146 「楽園へのノスタルジー」

第十一章 聖なる時間と永遠再始の神話
 147 時間の不均質性
 148 ヒエロファニー的時間の連繋と連続
 149 周期性――永遠の現在
 150 神話的時間の回復
 151 周期的でないくりかえし
 152 時間の再生
 153 宇宙創成の年ごとのくりかえし
 154 宇宙創成の偶然的くりかえし
 155 全面的再生

第十二章 神話の形態と機能
 156 宇宙創成神話――範型神話
 157 宇宙創成の卵
 158 神話が啓示するもの
 159 「反対の一致」――神話的範型
 160 両性具有神の神話
 161 両性具有人間の神話
 162 更新、建造、加入儀礼などの神話
 163 神話の構造――ヴァルナとヴリトラ
 164 神話――「模範的歴史」
 165 神話の堕落

第十三章 象徴の構造
 166 象徴としての石
 167 象徴の堕落
 168 幼稚化
 169 象徴とヒエロファニー
 170 象徴の首尾一貫性
 171 象徴の機能
 172 象徴の論理

結論

参考文献
訳者あとがき
索引



エリアーデ 聖なる空間と時間 02



◆本書より◆


「農耕と豊饒の儀礼」より:

「しかし農耕に関する人身供犠のもっとも有名な例は、ベンガル州のドラヴィダ種族の一つ、コンド族が十九世紀の半ばまでおこなっていたものである。犠牲は大地の女神タリ・ペンヌ Tari Pennu またはベラ・ペンヌ Bera Pennu にささげられ、メリアー Meriah と呼ばれるその犠牲者は、親から買いとられるか、かれら自身がかつて犠牲者となったことのある良心から生れたか、のいずれかであった。供犠は定期的な祭の際か、異常なる事態の際におこなわれたが、犠牲者は常に志願者であった。しかもメリアーたちは、聖別された人とみなされて、長い年月を幸福に暮す。かれらは他の「犠牲者」と結婚し、持参金として、いくらかの土地を貰うのであった。供犠の十日か十二日前に、犠牲者の髪の毛を切る。供犠の儀式には多くの人びとが参加する。なぜなら、コンド族の信仰においては、犠牲は人類同胞のためにささげられるのであるから。次に、表現を絶したオルギーがはじまる――これこそ、次にみるように、農耕や大自然の豊饒と関連した多くの祭礼にみられる特徴なのである。それから行列をつくって、メリアーを村から供犠の場所までつれていく。その場所は、ふつう、千古斧を入れたことのない森である。そこでメリアーは聖別され、溶かしたバターときょうおうを塗られ、花を飾られ、神と同じさまになる。そのため群衆はこのメリアーのまわりにひしめきあい、かれに触ろうとし、人びとがかれにささげる尊敬は、崇拝というにひとしい。群衆は音楽にあわせて、犠牲者のまわりで踊り、地面にむかって、次のように叫ぶ。「ああ神よ、われらはこの犠牲をささげまつる。なにとぞわれらに、よき収穫、よき天候、よき健康を与えたまえ!」。それから犠牲者にむかってこういう。「われらはあなたを購いとったので、むりやりさらってきたのではない。習わしに従い、われらはあなたを犠牲にささげる。どうかわれらには何の罪もふりかからないように!」。オルギーはその夜は中止され、翌朝再開されると、正午まで続き、正午になると、全員がメリアーのまわりに再び集って、供犠に列する。犠牲者を殺す仕方はいくつかある。犠牲者は阿片を飲まされてから縛られ、骨を砕かれるか、首を絞められるか、ばらばらに切断されるか、大火鉢の上でじわじわと火に焙って殺されるか、などした。重要なことは、参加者全員が、また代表者をこの祭礼に送ったすべての村々が、犠牲の屍体の肉片を受けとったことである。祭司は慎重に肉片を分配し、それは村々に急いで送られて、儀式とともに畑に埋葬される。残りの屍体、特に頭や骨は火葬に付され、その灰は、やはり豊作を願って、土の上にまかれる。イギリス当局が人身供犠を禁止したとき、コンド族はメリアーを、動物(牡山羊や水牛)にかえたのであった。」


「聖なる時間と永遠再始の神話」より:

「未開人の心性からすると、古い時間は俗的時間から成り、その俗的時間において、重要でない出来事が、つまり祖型的な範例をもたない出来事が継起している。「歴史」とはこのような出来事の記憶であり、結局は、無価値なもの、あるいは「罪」とさえ呼ばねばならないもの(それらの出来事が祖型的な規範から外れる限りにおいて)の記憶である。逆に、未開人にとって真の歴史とは、すでにみたように、神話=歴史であり、歴史とは神話時代に、かのはじめの時に、神々、祖先、文化英雄などによって啓示された祖型的な行為のくりかえしだけを記録したものである。未開人の考えからすると、祖型のくりかえしはすべて、俗的時間の外で生起する。その結果、一方では、この種の行動は「罪」とはなり得ず、つまり、規範から外れることはあり得ず、他方では、この行動は周期的に廃棄される時間、つまり「古い時間」とは何の関係もない。魔神や精霊の駆除、罪の告白、浄罪、とりわけ原初のカオスへの象徴的回帰、といったすべては、俗的時間の廃棄を意味する。すなわち、そこにおいて一方では意味をもたない出来事が生起し、他方では規範からのずれが実現する古い時間の廃棄である。
 そこで年に一度は、古い時間、過去、範型をもたぬ出来事の記憶(要するに語の現代的な意味での「歴史」)は廃棄されるのである。古い世界の象徴的廃止に続く、宇宙創成の象徴的なくりかえしは、時間を全体的に再生させる。なぜなら、聖なる時間「永遠的瞬間」を俗的時間に挿入するための祭だけが問題ではないからである。その上にめざしているものは、すでに述べられたように、閉じたサイクルの枠内で流れる俗的時間全体を廃してしまうことである。新しい創造の中で新しい生を再開したいという渇望――歳末と新年の儀礼にはすべて、はっきりと表明されている渇望――の中に、無歴史的な生をはじめたい、つまり聖なる時間の中にのみ生きたい、という逆説的な願望もまた入りこんでいる。これは結局、時間全体の再生を、時間を「永遠」に変えることを、企てることにほかならない。」



「神話の形態と機能」より:

「ソシエテ群島の宇宙創成神話によると、「すべての神々の祖先」にして宇宙の創造者であるタアロア Ta'aroa は、「永遠の昔から真暗闇の中で、殻にとじこもっていた。その殻は果しない空間をころがっている卵のようであった」。宇宙創成の卵というモチーフが共通にみられるのは、古代インド、インドネシア、イラン、ギリシァ、フェニキア、ラトヴィア、エストニア、フィンランド、西アフリカのパングウェ族、中央アメリカ、それに南アメリカの西海岸などである。この神話が伝播していく起点は、おそらくインドかインドネシアに求むべきだろう。とりわけわれわれにとって重要なのは、宇宙創成の卵の神話的、または儀礼的な類似物である。たとえばオセアニアでは、人間は卵から生れたと信じられている。換言すると、そこでは宇宙創成が、人間発生の範型となっているのであり、人間の創造は、宇宙の創造を模倣し、くりかえすのである。」

「ボイオティアの墓で発見されたディオニュソス像は、いずれも、手に卵をもっているが、この卵は生への回帰のしるしである。これによってオルフェウス派が卵を食べるのを禁止するわけが説明される。オルフェウス派の神秘主義は何よりもまず、無限に続く再受肉の循環回路から脱け出すこと、換言すれば、周期的な生への回帰を廃絶することを求めたのであった。」





こちらもご参照下さい:

『エリアーデ著作集 第一巻 太陽と天空神 ― 宗教学概論 1』 久米博 訳
『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生 ― 宗教学概論2』 久米博 訳












































『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生 ― 宗教学概論2』 久米博 訳

「「捨て子」は、水、風、大地といった宇宙の基本要素の自由意志に委ねられており、それは常に運命にむかってなされた挑戦のようなものである。大地や水に委託された子どもは、以後、孤児としての社会的身分を負い、死の惧れもあるが、同時に、人間の条件以外の条件を獲得する機会をもつ。」
「捨て子のドラマは、他方、「孤児」、原初の子の、宇宙における絶対的で不死身の孤独と、単独性という神話的な偉大さによって償われている。(中略)地母に委ねられ、地母に救われ、育てられた子どもは、もはやふつうの人間と運命を同じくすることはできない。なぜならその子は、事物のはじまりという宇宙論的瞬間をくりかえすからであり、またかれは家族の中でなく、自然の基本要素の中で生い育つからである。それだからこそ、英雄や聖者は捨て子の中から出てくる。それは地母(または母水)が捨て子を守り、死から防いで、凡人の及びもつかない壮大な運命に捧げたから、という単純な事による。」

(ミルチャ・エリアーデ 『宗教学概論』 より)


ミルチャ・エリアーデ
『エリアーデ著作集 第二巻 
豊饒と再生 ― 宗教学概論2』 
久米博 訳


せりか書房 1985年10月31日発行
306p 四六判 丸背紙装上製本 
本体ビニールカバー 函 定価2,800円
監修: 堀一郎
装幀: 山崎晨
Mircea Eliade : Traité d'Histoire des Religions, 1949/1964



エリアーデの主著『宗教学概論』邦訳第二巻。
奥付に記されている発行年月日は増刷のものです。初版刊行年月日の記載はありません。「訳者あとがき」執筆の日付は「一九七四年六月」になっています。


豊饒と再生


目次:

第四章 月と月の神秘学
 47 月と時間
 48 月における神の顕現の連繋
 49 月と水
 50 月と植物
 51 月と豊饒
 52 月、女性、蛇
 53 月のシンボリズム
 54 月と死
 55 月と加入儀礼
 56 月の「生成」のシンボリズム
 57 宇宙生物学と神秘的生理学
 58 月と運命
 59 月の形而上学

第五章 水と水のシンボリズム
 60 水と芽生え
 61 水による宇宙創成
 62 物質発生説
 63 「生命の水」
 64 浸水のシンボリズム
 65 洗礼
 66 死者の渇き
 67 奇蹟と神託の泉
 68 水における神の顕現と水神
 69 ニンフ
 70 ポセイドン、エーギル、その他
 71 水の動物と水の標章
 72 洪水のシンボリズム
 73 まとめ

第六章 聖なる石――エピファニー、しるし、形態
 74 石の力の顕現
 75 葬礼の巨石
 76 豊饒石
 77 「滑り」
 78 孔あき石、「雷石」
 79 隕石とベテル
 80 石における神の顕現とシンボリズム
 81 聖石、オンファロス、世界の中心
 82 しるしと形態

第七章 大地、女性、豊饒
 83 地母
 84 原初の配偶神、天と地
 85 大地のヒエロファニーの構造
 86 地下の母性
 87 大地の子孫
 88 再生
 89 人間=土壌
 90 宇宙生物学的連帯性
 91 土と女性
 92 女性と豊饒
 93 女性と畠の畝
 94 まとめ

第八章 植物――再生の象徴と儀礼
 95 分類の試み
 96 聖木
 97 小宇宙としての木
 98 神の住いとしての木
 99 宇宙木
 100 「逆立ちした」木
 101 イグドラシル
 102 植物における神の顕現
 103 大女神と植物
 104 図像的シンボリズム
 105 大女神――生命の木
 106 知恵の木
 107 生命の木の番人
 108 怪物とグリッフィン
 109 木と十字架
 110 若返りと不死
 111 薬草の祖型
 112 世界軸としての木
 113 植物種からの人間発生の神話
 114 植物への変形
 115 人間と植物の関係
 116 再生させる木
 117 木の結婚
 118 「五月の木」
 119 「王」と「王妃」
 120 性と植物
 121 植物の代理人
 122 儀礼的闘技
 123 宇宙的シンボリズム
 124 まとめ

参考文献
訳者あとがき




◆本書より◆


「月と月の神秘学」より:

「太陽は常に同じで、それ自体不変であり、およそ「生成」というものを知らない。それに反し、月は満ちたり、欠けたり、見えなくなったりする天体で、この天体の「生」は、生成、誕生、死の普遍的な法則に従っている。人間とまったく同様に、月は悲劇的な「歴史」をもつ。というのは、月は凋落して、人間の場合と同様、ついに死をもって終るからである。三晩の間、星空には月が出ない。だが、この「死」のあとに、再生が来る。つまり「新月」である。月が闇の中に、「死」の中に姿を消すのは、けっして決定的にではない。シン Sin 神にささげられるバビロニアの讃歌によれば、月は「それ自体からなりでる果実」である。月はみずからの運命により、それ自身の本体から再生するのである。
このようなはじめの形への永遠回帰、このはてしない周期性により、月はすぐれて生のリズムをもった天体となる。その意味から、水、雨、植物、豊饒といった、循環的生成の法則に支配されている宇宙のあらゆる面を、月が規制しているというのも、あながち意外ではない。」
「もし月のヒエロファニーの多様性を、一言で要約しようとするなら、月のヒエロファニーは循環的にくりかえされる生を啓示する、ということができよう。月の宇宙論的、呪術的、宗教的な価値の一切は、その存在様態によって説明がつく。つまり、月は「生きて」おり、それ自身、はたえしなく再生し続けてやまないんどえある。古代人の意識において、月の宇宙的運命を直観することは、人間学の基礎を据えることにひとしかった。つまり、人間は月の「生」の中に自分自身を再認したのである。その理由は、すべて生物の生命がそうであるように、人生にも終りがあるから、というだけではない。何よりも「新月」という現象によって、月は人間の再生への渇望、「新生」の希望を価値あらしめてくれるからである。」



「水と水のシンボリズム」より:

「簡略に定式化すれば、水は潜在的形質の全体を象徴している、ということができよう。水は源泉にして起源(フォンス・エト・オリゴ)であり、あらゆる存在の可能性の母胎である。」

「水にはあらゆるものが「溶け」、どんな「形」も水にくずれてしまい、どんな「歴史」も存在しなくなってしまう。以前に存在していたものも、水に浸してからは存在しなくなる。それのどんな輪廓、どんな「しるし」、どんな「出来事」さえも残らない。水に浸すことは、人間的次元では、死に相当し、宇宙的次元では、大災害(洪水)に相当する。その洪水は世界を周期的に原初の大洋に溶かしてしまうのである。水は一切の形をくずし、一切の歴史を廃棄して、浄化し、再び発生させ、あるいは再び誕生させる力をもっている。というのは、水に浸されたものは「死に」、それから水から再び起きあがり、子どものように罪も「歴史」もなくなり、新しい啓示を受け入れ、新しく「本来の」生をはじめることができるようになる。」
「水が浄化し、再生させるのは、水が「歴史」を無に帰して、たとえほんのいっときでも、原初の完全なすがたを回復させてくれるからである。」

「ニンフ(またはニュムペー)は、およそあらゆる流水、泉、水源の神であった。ギリシァ人の想像力がニンフを産みだしたのではなかった。ニンフは世のはじめから、水辺にいたのであり、ギリシァ人はただそれに人間の姿や名を与えただけであろう。ニンフは水の生き生きとした流れによって、水の呪術によって、水から発する力によって、水のささやきによって創造されたのである。ギリシァ人はせいぜいのところ、それまでニンフが一体となっていて区別されなかった自然の要素から、ニンフを分離しただけである。ニンフはそれからひとたび離脱し、擬人化され、あらゆる水の威光を具備するようになるや、伝説を獲得し、叙事詩の中に登場し、魔法によって呼び出されるようになる。ニンフは通常、地方的英雄の母である。ある地域の群小神として、ニンフは人々からよく知られ、礼拝の対象となり、供犠も受けている。」

「洪水伝説のほとんどすべては、人類が水に再び吸収されてしまうという観念、そして新しい人類とともに新しい時代が開始されるということに結びついている。これは宇宙と歴史とが循環するという考え方をあらわしている。すなわち、一つの時代は大異変によって終結し、それから「新しい人」に支配される新しい時代が始まるのである。」

「水のレベルで「見た」場合、人生というものはひどく脆弱にみえ、定期的にそれを再吸収する必要ありと考えられる。およそ形あるものの運命は、いったん解消して、再び現われることにあるからである。もし「形」が周期的に水に吸収されることによって再生しなければ、形は崩壊して、その創造的可能性を消尽し、ついにはその可能性は消滅してしまうだろう。「邪心」「罪」は最後には、人間性を歪めてしまうだろう。生命の萌芽や創造的な力が欠如すれば、人類は老衰し、生殖力を失い、衰退してしまうだろう。こうして少しずつ人間以下の形態に退化していくより、洪水は一瞬にして水に再吸収させ、それによって「罪」は浄化され、そこから、新しい人間が生れ出るようにするのである。」

「水がどのような宗教的枠組に入っていても、水の機能は常に同一である。すなわち、水は形を解体し、廃棄し、「罪を洗い清める」――清めると同時に再生させる。水の使命は「創造」に先行して「創造」を再吸収することであるが、水はけっしてそれ自身のあり方を超越することはできない。つまり、形をとってあらわれることはできない。水は潜在性、萌芽、潜勢力、という条件を克服することはできない。およそ形あるものは、水を超越し、水から離脱して、自己を表わす。そのかわり、形がいったん水から離れて、潜在的ではなくなるや、どんな形といえども、時間と生命の法則に服することになる。そこでもしも形が、周期的に水に浸ることによって再生しなかったとしたら、もしも「洪水」をくりかえして、その後に「宇宙創成」がなされなかったとしたら、形は有限となり、歴史を知り、万物の生成に関与し、腐敗し、ついにはその実質を喪失してしまうだろう。水による清め式や洗浄式は、創造がなされた「かのはじめの時」、太初の時を、一瞬のうちに現実化するのを目的とする。この儀式は、世界、または「新しい人」の誕生の、象徴的くりかえしである。宗教的意図をもって、水との接触がなされるとき、それはすべて、水への還帰、そして創造という、宇宙のリズムの基本的な二つの契機をそこに要約しているのである。」



「大地、女性、豊饒」より:

「大地のヒエロファニーの宇宙的構造が、本来の大地的構造(これは農耕の出現によってはじめて決定的に顕著になる)に先行していたことは、子どもの起源についての信仰の歴史によって証明される。受胎の生理学的な原因が知られるようになるまでは、人びとは、子どもが女性の胎内に直接挿入される結果、母となると考えていた。ところで、女性の胎内に入りこむものが何であったか、すでにして胎児であったか(それまでは洞穴、割れめ、井戸、木などの中に、誕生前の生を送っていた胎児)、それとも単なる種子であったか、「先祖の魂」であったか、の問題は、この章の関心事ではない。この章で何よりも重要なのは、子どもは父親によって受胎させられるのではなく、子どもが一定の発達段階に達したとき、女性が周囲の自然的環境の物体か動物と接触する結果、子どもが母の胎内に位置するようになる、という観念である。」
「男は創造に介入しない。父が子どもたちの父であるのは、法律的な意味においてであって、語の生物学的意味においてではない。人びとは相互に母親によって結びついているのであり、しかもこの絆は一時的なものである。しかしかれらと周囲の自然的環境との結びつきは、現代の俗的な精神によって理解し得るよりも、はるかに密接であった。かれらは語の比喩的な意味においてではなく、具体的な意味において「土地の人」であった。かれらは水棲動物(魚、蛙、鰐、白鳥など)によって運ばれて、母の胎内に呪的接触によって入れられるまえは、岩、深淵、洞穴の中で、成長したのである。かれらは誕生前の生を、水、水晶、石、木などの中ではじめ、「子どもの祖先」の「魂」として、人間以前のおぼろげな形をとって、いちばん近い宇宙圏の中で生きていた、というのである。」
「ペルー人は、自分たちは山や石の子孫だと信じている。子どもの発生する地点を、洞穴、割れめ、泉などに定めている民族もいる。ヨーロッパには現代もなお、子どもは沼沢や、泉、川、木などから「やってくる」という俗信が残っている。この俗信において意味深いことは、大地の宇宙的な構造である。つまり、大地は、本来の土地の領域だけでなく、その周囲の全環境、小宇宙(ミクロコスモス)と同一視されている。「大地」とはここでは、人間をとりまくすべて、山、水、植物などを含んだ「場所」の全体を意味する。
人間の父親はこのようにしてできた子どもを、養子縁組のあらゆる性格をそなえた儀礼によって、嫡出子として認めているにすぎない。子どもたちは、何よりもまず「場所」に、つまり周囲の「小宇宙」に属している。母親はそこから子どもたちを受けとるだけであった。母親は子どもを「ひきとり」、せいぜいのところ、子どもを完全に人間の形に仕上げてやるだけであった。とすれば、精神発達のこのような段階にある人間、もっと正確には、人間の生命をこのように考えている人間にとって、周囲の小宇宙や「土地」との連帯感というのは、支配的な感情であったことが容易に理解できる。ある意味においては、人間はまだ生れてなかった、人間は人類という生物学的種に全面的に所属している、という意識がまだなかった、といえよう。(中略)つまり人間は依然として、自分自身以外の生に、「宇宙母性的」生に、直接参与し続けているのである。このような人間は、いうならば、ぼんやりと、断片的に、存在の「系統発生」を感じていた。つまりかれは同時に二つか三つの「子宮」から生れでたように感じていたのである。」

「大地が地母神、豊饒神とみなされるようになる以前は、大地は直接に「母」として、「母なる大地(テルス・マテル)」として現前していた。後に農耕礼拝が発達していって、植物と収穫の大女神という神像がますます明確になるにつれて、「地=母」の痕跡はついに消滅するにいたる。(中略)とはいえ、ひじょうに古い「地母」信仰の名残りは、古代の民族誌的文献にみえる。インディアンのウマティラ部族の予言者スモハラ Smohalla は、弟子たちが土地を鋤くのを禁じた。なぜなら、かれの言によると、「われらの共通の母なる大地を畑仕事によって、傷つけ、切り、引裂き、ひっかく、といったことをするのは罪」だからである。そしてかれはその反農耕的態度を次のように理由づける。「あなたは私に大地を耕してくれというのか? いったいこの私が小刀をとって、母の胸を傷つけるというのか? そんなことをすれば、私が死んだとき、母はその胸に私を抱いて、憩わせてはくれないだろう。あなたは私に石を掘りだせというのか? どうして私が骨に達するまで、母の皮膚の下を掘れようか? そうしたら、私が死んでから、母の体内に入って再び生れかわることができないではないか? あなたは私に、草を刈って、乾草をつくり、それを売って白人のように金持になれというのか! だがどうして私が母の髪の毛を切れようか?」

「地面での分娩(humi positio)というのは、多くの民族によくある風習である。」
「世界中に広まっているこの儀礼の最初の意味は、たしかに、大地の母性ということであったろう。すでにみてきたように、じつに多くの土地で、子どもは井戸、水、岩、木などからもたらされた、と信じられていた。ある地方では、子どもは「大地から来た」とみなされていたことはいうまでもない。私生児は「大地の子」 terrae filius と呼ばれた。」
「「捨て子」は、水、風、大地といった宇宙の基本要素の自由意志に委ねられており、それは常に運命にむかってなされた挑戦のようなものである。大地や水に委託された子どもは、以後、孤児としての社会的身分を負い、死の惧れもあるが、同時に、人間の条件以外の条件を獲得する機会をもつ。宇宙の基本要素に守られた捨て子は、ほとんどの場合、英雄、王、聖者となる。」
「捨て子のドラマは、他方、「孤児」、原初の子の、宇宙における絶対的で不死身の孤独と、単独性という神話的な偉大さによって償われている。このような「子ども」の出現は、はじめの時に一致する。すなわち、宇宙創造、新世界の創造、歴史の新時代、現実のあらゆる面での「新しき生」、などに一致するのである。地母に委ねられ、地母に救われ、育てられた子どもは、もはやふつうの人間と運命を同じくすることはできない。なぜならその子は、事物のはじまりという宇宙論的瞬間をくりかえすからであり、またかれは家族の中でなく、自然の基本要素の中で生い育つからである。それだからこそ、英雄や聖者は捨て子の中から出てくる。それは地母(または母水)が捨て子を守り、死から防いで、凡人の及びもつかない壮大な運命に捧げたから、という単純な事による。」

「われわれが生と死と呼ぶものは、「地(テール)=母(メール)」のたどる全運命の二つの異なる契機であるにすぎない。つまり、生とは大地の母胎からの分離にほかならず、死とは「わが家」への還帰、ということになる。」



「植物――再生の象徴と儀礼」より:

「しかしこの章で、われわれにとって何よりも興味があるのは、植物のレベルと人間のレベルという二つのレベルの間を循環することである。ある人種が植物種の子孫である、ということは、生命の源泉がその植物に凝集していることを前提とする。したがって、植物における人間の様態は、胚種や種子という形で、潜在的状態にあるわけである。オーストラリア北部のワルラムンガ族は、「子どもの精霊」は砂粒のように小さくて、ある種の木の内部にひそんでいて、時々、そこから出ては、母の胎内に臍を通って入りこむ、と信じている。この場合、ここに表われているのは、木から人種が発生した、という原始的な受胎観念が合理化していく過程である。木から生まれるのは、単に神話的な祖先だけではなく、新生児はすべて、その木の実質から直接的、具体的に発生するのである。樹木と同一視されている、実在と生命の根源は、神話的祖先を生むために、たった一度だけ、その創造力を発出したのではない。それは個々の人間をたえず創造し続けているのである。これこそ、人類が植物種に現われている固有の生命の根源から発生した、という神話の具体的で、合理主義的解釈である。」
「緊密な信仰群の中にも、こうした合理主義的説話の変型はみいだされる。それによると、祖先の霊魂はある種の木に宿っており、霊魂はその木から出ては、女性の胎内に胎児の形をとって入りこむ、というのである。中国では、一人の女性は一本の樹木に対応しており、その木が花をつけるだけ、その女性は子を生む、と信じられている。不妊の女性は、子どもを養子にして、対応する樹木を挑発してそれに花をつけさせようとする。するとその樹木は、今度は逆にその女性を多産にするだろう、というのである。この風習で重要なことは、植物のレベルと人間のレベルとの間にある連続的循環、という考え方である。人間は、同じ植物の子宮からのエネルギーが単に放射されただけのものにすぎず、人間とは、植物のレベルでの過剰がたえずその出現を促している、かりそめの形態なのである。「実在」と「力」の基盤も源泉も人間にはなく、植物にこそ存するのである。人間は、植物の新たな存在様態の束の間のあらわれほかならない。人間は死ぬときに、換言すれば、人間の条件を放棄するときに「種子」または「精霊」の状態で、樹木にかえる。事実、これらの具体的な表現形態は、レベルの変換のみを表わしているのである。人間は宇宙の母胎に還帰し、再び種子の状態を獲得し、再び胚種となる。死とは、普遍的生命の源泉と再び接触することである。」




こちらもご参照下さい:
『エリアーデ著作集 第一巻 太陽と天空神 ― 宗教学概論 1』 (久米博 訳)
『エリアーデ著作集 第三巻 聖なる空間と時間 ― 宗教学概論 3』 (久米博 訳)















































『エリアーデ著作集 第一巻 太陽と天空神 ― 宗教学概論 1』 久米博 訳

「約言するなら、「歴史」は、天空的構造の神の「形態」(至高の存在者の場合)を舞台の後方におしやり、あるいは格下げすることに成功したといえようが、この「歴史」、換言すれば、人間による聖の常に新たな実験と解釈は、しかしながら、天空的聖の直接的、永続的啓示を廃棄することには成功しなかったのである。その啓示は、非人格的、非時間的、無歴史的構造をもっているからである。天空のシンボリズムは、まさにその存在様態が非時間的であるゆえに、首尾よく持続できたのである。」
(エリアーデ 『宗教学概論』 より)


ミルチャ・エリアーデ
『エリアーデ著作集 
第一巻 
太陽と天空神
― 宗教学概論 1』 
久米博 訳


せりか書房 
1986年10月9日 発行
286p 
四六判 丸背紙装上製本 
本体ビニールカバー 函 
定価2,800円
装幀: 山崎晨
監修: 堀一郎



本書「訳者あとがき」より:

「本書はミルチャ・エリアーデの Traité d'Histoire des Religions (Paris, Payot, 1968) の全訳三巻のうちの第一巻である。原著は一九四九年にパリで初版が刊行され、その後全面的に改訂増補された版が六四年に出た。本書はその六八年版によって訳出した。」
「訳書三巻は、一種の見出しとして、『太陽と天空神』『豊饒と再生』『聖なる空間と時間』をそれぞれの副題とした。」
「周知のように、原著の英語版からの部分訳は、堀一郎氏の訳業により、『大地・農耕・女性』と題して、未来社から刊行されており訳出にあたって、それを参照させていただいた。」



本書には初版刊行年月日の記載がありません(奥付に記されている発行年月日は増刷のものです。「訳者あとがき」執筆の日付は「一九七四年四月」)。


エリアーデ 太陽と天空神 01


目次:

ジョルジュ・デュメジルの序文
序文

第一章 概説――聖の構造と形態
 1 「聖」と「俗」
 2 方法論的難点
 3 ヒエロファニーの種類
 4 ヒエロファニーの多様性
 5 ヒエロファニーの弁証法
 6 タブーと聖のアンビヴァレンス
 7 マナ
 8 ヒエロファニーの構造
 9 ヒエロファニーの再評価
 10 「原始的」宗教現象の複雑さ

第二章 天空――天空神、天空の儀礼と象徴
 11 天空的聖
 12 オーストラリアの天空神
 13 アンダマン島人、アフリカ人などにおける天空神
 14 「有閑神」
 15 天空神にとってかわる、新しい神「形態」
 16 融合と交代
 17 天空の至上神の古さ
 18 北極や中央アジア住民における天空神
 19 メソポタミア
 20 ディアウス、ヴァルナ
 21 ヴァルナと至上権
 22 イランの天空神
 23 ウラノス
 24 ゼウス
 25 ジュピター、オーディン、タラニス、その他
 26 暴風神
 27 繁殖神
 28 大母性神の配偶者
 29 ヤハウェ
 30 天空神にとってかわる繁殖神
 31 天空のシンボリズム
 32 昇天神話
 33 昇天儀礼
 34 昇天のシンボリズム
 35 結論

第三章 太陽と太陽崇拝
 36 太陽のヒエロファニーと合理主義
 37 至高存在者の太陽化
 38 アフリカ、インドネシア
 39 ムンダ族における太陽化
 40 太陽崇拝
 41 太陽の子孫
 42 秘儀祭司および霊魂導師としての太陽
 43 エジプトの太陽崇拝
 44 古典時代のオリエントと地中海沿岸における太陽崇拝
 45 インド――太陽の両面価値
 46 太陽英雄、死者、選ばれた者

参考文献
訳者あとがき



エリアーデ 太陽と天空神 02



◆本書より◆


「序文」より:

「本書が扱うのは、次の二重の問題である。
 (1) 宗教とは何か。
 (2) どこまで宗教史について語りえるか。
 われわれは、あらかじめ宗教現象を定義してかかることの効用には懐疑的なので、もろもろのヒエロファニー hierophanie (ギリシァ語の hieros =聖と phainein =顕わす、の合成語)を、「聖を顕わすもの」という、語のもっとも広い意味にとって論じるだけにしよう。したがって、われわれが宗教形態の歴史の問題を提起できるのは、まず相当数の宗教形態そのものを検討してから後にである。「単純なものから複合したものへ」という順序で宗教現象を説明すること、などというのは、かりそめにもこの研究において定めた目的を考えるならば、われわれにはどこからも指示されないと考えられる。単純から複合へとは、まずもっとも基本的なヒエロファニー(マナ、異常なもの、等)からはじめて、次に、トーテミズム、フェティシズム、自然崇拝、精霊崇拝、次いで神々や魔神に移行し、最後に一神教の神観念に到達する、という叙述の仕方のことである。こうした叙述は恣意的といえよう。なぜならそれは、立証できない仮設にすぎない、「単純から複合へ」という宗教現象の進化を含意しているからである。基本的なヒエロファニーからのみ成る単純な宗教など、どこにいっても出会えるものではない。他方、そうした叙述の仕方は、宗教的事象のありのままを、それが顕示するものを指し示そうという、われわれの掲げた目的そのものにも反することになるだろう。」



「概説――聖の構造と形態」より:

「たとえば、いわゆる「石の崇拝」があるというところでも、すべての石が聖なるものとみなされているのではない。常にある種の石がその形、その大きさのゆえに、あるいはその石が祭儀的意味を含むゆえに崇拝されている例に出会うのである。しかも、問題は石の崇拝ということでなく、その聖なる石は、それがもはや単なる石でなくなり、ヒエロファニーとなる、つまり「物体」としての正常な状態以外のものとなる限りにおいてのみ崇拝されるということがわかってくるのである。(中略)ある物体が聖なるものとなるのは、それがそれ自身より「ほかのもの」を具現する(つまり啓示する)限りにおいてである。」


「天空――天空神、天空の儀礼と象徴」より:

「天空的構造をもった神々の像を検討する前に、天空そのものの宗教的な意味の理解に努めよう。(中略)天空はあるがままのものを啓示する。すなわち、無限、超越である。空はおよそ人が表象するものや、人の生活空間とは、すぐれて「まったく別のもの」である。空の超越性のシンボリズムは、ただその無限の高さを認識するだけから発生してくる、とさえいえよう。「いと高きもの」は当然、神の属性となる。人が近づきがたい上層、星座圏は、超越、絶対的実在、永続といった神々しい威光を獲得する。このような領域は神々のすまいである。昇天儀礼によって、ある特権を得た者が到達するのは、そこなのであり、ある種の宗教の教義によれば、死者の魂が昇っていくのもそこなのである。「高み」はふつうの人間にとっては近づきがたい次元なのである。それは当然、力や超人的存在に属している。祭壇の階段や天に通じる儀式の梯子を恭々しく昇る者は、その時、人間ではなくなる。特別な物故者の魂は、天上へ昇るときに、すでに人間の条件を放棄したのである。」

「われわれがいたるところで見ることができたのは、天空神は、それよりもっと動的、具体的、親しみやすい神々が出現するや、隠れ退いてしまう、という同一の現象であった。しかしながら、天空のヒエロファニーというものを、それが生ぜしめた神の像、または半神的な像にのみ限定してしまうとしたら、それは誤りであろう。(中略)たとえ天空神が舞台の奥にひっこんでしまったときでさえも、天空の聖は、「高さ」「昇天」「中心」などのシンボリズムによる宗教経験の中に、依然として活溌に作用している。こういうシンボリズムにおいても、時として、豊饒神が天空神にとってかわるのがみかけられはするが、その場合でも、このシンボリズムの天空的構造は依然として存続しているのである。」

「多くの場合、天空神にとってかわるのは太陽神である。地上に豊饒を分配し、生命の保護者となるのは「太陽」である。」
「しかし、たとえ宗教生活はもはや天空神によって支配されることはなくなったときでも、星座圏、天空のシンボリズム、昇天の神話と儀礼などは、聖の機構の中で、依然として優越的な地位を保っている。「高み」にあるもの、「高められたもの」は、どんな宗教類型においても、超越性を啓示し続けている。たとえ神の「形態」は変り、またその形態が形態として人間の意識に啓示されたから、という単純な事実から、その形体が「歴史」をもち、その「運命」の筋道に従うとしても、天空的聖はいたるところで、どんな情況下でも、その「現実性」を保持しているのである。「天空」は礼拝から遠ざかり、神話において別のものに代られても、象徴体系の中では、持続している。一方、この天空のシンボリズムは、多くの儀礼や多くの神話や、多くの伝説を根拠づけ、それに生気を注入している。あらゆる歴史的な大宗教において重要な役割を果している「中心」のシンボリズムは、多かれ少なかれ天空的要素から構成されていることは明白である。」
「約言するなら、「歴史」は、天空的構造の神の「形態」(至高の存在者の場合)を舞台の後方におしやり、あるいは格下げすることに成功したといえようが、この「歴史」、換言すれば、人間による聖の常に新たな実験と解釈は、しかしながら、天空的聖の直接的、永続的啓示を廃棄することには成功しなかったのである。その啓示は、非人格的、非時間的、無歴史的構造をもっているからである。天空のシンボリズムは、まさにその存在様態が非時間的であるゆえに、首尾よく持続できたのである。」



エリアーデ著作集




こちらもご参照下さい:

『エリアーデ著作集 第二巻 豊饒と再生 ― 宗教学概論2』 久米博 訳
『エリアーデ著作集 第三巻 聖なる空間と時間 ― 宗教学概論 3』 久米博 訳
















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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