FC2ブログ

『G・K・チェスタトン著作集 1 正統とは何か』 安西徹雄 訳

「狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」
(G・K・チェスタトン 『正統とは何か』 より)


『G・K・チェスタトン
著作集 1 
正統とは何か』 
安西徹雄 訳


春秋社
昭和48年5月30日 初版第1刷発行
平成2年5月25日 第7刷発行
330p 目次3p 口絵(モノクロ)1葉
四六判 並装(フランス表紙) 貼函
定価1,900円(本体1,845円)



Gilbert Keith Chesterton: Orthodoxy, 1908


チェスタトン 正統とは何か


目次:

一 本書以外のあらゆる物のための弁明
二 気ちがい病院からの出発
三 思想の自殺
四 おとぎの国の倫理学
五 世界の旗
六 キリスト教の逆説
七 永遠の革命
八 正統のロマンス
九 権威と冒険

解題 (ピーター・ミルワード)
訳者あとがき
付・年譜 (中野記偉 編)
本邦主要翻訳・論文一覧




◆本書より◆


「一 本書以外のあらゆる物のための弁明」より:

「巨象のごとく無器用に、初めから自明の結論を今さらのそのそ探し回る一部始終が本書の物語にほかならぬ。私の経験の馬鹿馬鹿しさを、私自身ほどよく知っている人はほかにありえない。どんな読者も、私が読者を馬鹿にしていると文句をつけることはよもやできまい。私こそこの物語の馬鹿なのだ。私こそ馬鹿の王様なのだから、どんな馬鹿がやって来たところでこの馬鹿の王座をゆずり渡す気は毛頭ない。つつみ隠さず白状するが、私は十九世紀末葉の馬鹿げた野心のことごとくを抱いていた。当時の真面目くさった青二才どもの例に洩れず、時代を一歩先んずることに無上の情熱を傾けていた。真理の十分か十五分ばかり先を進むことに汲々としていたのである。何のことはない。気がついてみれば、私は千八百年も遅れを取っていたのだった。私は声をふりしぼり、痛ましくも青くさい興奮に肩を怒らせ、私一人の真理を発見したと叫んでいたものだ。私はもののみごとに罰をくった。滑稽きわまる罰であった。(中略)私は唯一人、予言者のごとく立っていると思いこんでいた。あにはからんや、まこと赤面の到り、実は私の背後には、全キリスト教徒が私を見守って立っていてくれたのである。私はおそらく独創的であろうと懸命になっていたのであろう。だが私が成功したことは何であったか。現に精妙な宗教の伝統が存在していることに気がつかず、気がついた時には、独力で苦心惨憺作り上げた物たるや、その宗教の貧弱きわまるコピーにしかすぎぬことを発見したのである。(中略)私は自己一流の異端を建立しようと努めていたのだが、仕上げの一筆をおいた時、何とこれが、まさに正統にほかならぬことに気がついたというわけである。」


「二 気ちがい病院からの出発」より:

「想像は狂気を生みはしない。狂気を生むのは実は理性なのである。詩人は気ちがいになりはしない。気ちがいになるのはチェスの名人だ。」
「詩が正気であるのは、無限の海原に悠然として漂っているからである。ところが理性は、この無限の海の向こう岸まで渡ろうとする。そのことによって無限を有限に変えようとする。その結果は精神がまいってしまうほかはない。(中略)詩人の望みはただ高揚と拡大である。世界の中にのびのびと身を伸ばすことだけだ。詩人はただ天空の中に頭を入れようとする。ところが論理家は自分の頭の中に天空を入れようとする。張り裂けるのが頭のほうであることは言うまでもない。」
「狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」

「現実の人間の歴史を通じて、人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を破壊する時、すなわち狂気が創られる。平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである。薄明の存在の余地を認めたからである。一方の足を大地に置き、一方の足をおとぎの国に置いてきたからである。平常平凡な人間は、いつでも神々を疑う自由を残してきた。しかし、(中略)同時に神々を信ずる自由も残してきた。大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように見えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。(中略)こうして彼は、運命というものがあると信じながら、同時に自由意思というものもあることを信じてきたのである。(中略)このように、一見矛盾するものを互いに釣り合わしてきたからこそ、健康な人間は晴れ晴れと世を送ることができたのである。神秘主義の偉力の秘密は結局こういうことである。つまり、人間は、理解しえないものの力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができるのだ。」



「四 おとぎの国の倫理学」より:

「私の最初にして最後の哲学、私が一点の曇りもなく信じて疑わぬ哲学――私はそれを子供部屋で学んだ。(中略)当時最も深く信じたもの、そして今も私が最も深く信じているものはおとぎ話なのだ。おとぎ話は、私には完全無欠に理屈にあったものに思われる。おとぎ話は空想ではない。おとぎ話に比べれば、ほかの一切のもののほうこそ空想的である。(中略)おとぎの国とは、陽光に輝く常識の国にほかならない。(中略)妖精の国を裁くのは地上の国ではなく、むしろ地上の国を裁くのが妖精の国であったのだ。(中略)現代の二流詩人は好んで自然を描き、森や小川を好んで語る。しかし、いにしえの叙事詩人や物語詩人たちは、好んで超自然を描き、小川や林の神々(引用者注: 「神々」に傍点)のことを好んで語った。(中略)いにしえの子守たちは、草のことを子供に話したりはしなかった。草に踊る妖精のことを話して聞かせたものである。木を見て森を見ずということがあるが、古代のギリシア人たちは、森の妖精を見て森を見なかったのである。
 だが、今の問題は、おとぎ話に育まれることから、どんな倫理と哲学が出てくるかということだ。(中略)たとえば、「ジャックと豆の木」の勇壮な教訓がある。巨人は巨大であるがゆえに倒さねばならぬという教訓だ。(中略)というのも、反逆者はあらゆる王国よりも古い歴史を持ち、王朝にたいする反逆者は、あらゆる王朝の支持者よりも長い伝統を持つのである。それから「シンデレラ」の教訓がある。(中略)「賤しき者は高められた」のである。それから「美女と野獣」の教訓もある。真の愛とは、相手が愛すべきものとなるより前(引用者注: 「前」に傍点)に愛することだという教訓である。しかし(中略)私が今問題にするのは、一つの人生の見方なのである。」
「その人生観とはいかなるものか。ある種の事件のつながりとか展開とか――つまり、一つのことが起こり、それにつづいて次のことが起こる、その関係には、言葉の本当の意味での合理性があり、言葉の本当の意味で必然的な展開というものがある。たとえば数学的な、あるいは純粋の論理のつながりがそれである。われわれおとぎの国の住人は、あらゆる人間のうちもっとも合理的な人種である以上、そういう合理性、そういう必然性の存在を全面的に承認する。一例をあげれば、もし醜い姉たちがシンデレラよりも年上であるならば、シンデレラが醜い姉たちよりも若いということは、鋼鉄のごとく厳然たる意味において「必然的」である。この必然性を脱れる術(すべ)はない。(中略)もしジャックが粉屋の息子であるならば、粉屋はジャックの父親である。宿命の女神は玉座の上から冷然とこれを宣言する。そしてわれわれおとぎの国の住人は諾々としてこの宣言に畏れ従う。もし三人の兄弟が三人とも馬に乗っているとするならば、三人と三頭で動物の数は六、脚の数は全部で十八本になる。これはまことの合理主義というものであり、そしておとぎの国はかかる合理主義に満ちている。」

「われわれおとぎの国の住人は、いつまでもこの二つの間にはっきり区別をつけてきた。一つは精神的な関係の論理であって、これには本当の意味での法則がある。もう一つは物理的な事実の論理であって、ここには法則はぜんぜんなく、ただ気味の悪い繰り返しがあるにすぎない。肉体的な奇蹟は起こりうるが、精神においては不可能事はやはり不可能事だとわれわれは考える。」

「ある種の変身というものが現に起こることは認めるとして、大事なことは、おとぎの国の哲学的方法によってこの変身を見ることである。科学といわゆる自然法則の、まことに非哲学的方法によって見ることは断じて許されない。では、なぜ卵は鳥になり果実は秋に落ちるのか。その答は、なぜシンデレラの鼠が馬になり、彼女のきらびやかな衣裳が十二時に落ちるのか、その答えとまったく同じである。魔法だからである。「法則」ではない。われわれにはその普遍的なきまりなど理解できないからである。必然ではない。(中略)われわれはそれを当然のこととして当てにすることはできない。われわれはそれに賭けているのである。おやつに食べるパンケーキには、いつ毒が入っていないともかぎらない。巨大な彗星がやって来て、いつ地球を粉々にしないともかぎらない。たとえその確率がどれほど小さくても、ともかくわれわれはいつでもその危険を冒して生きているのだ。(中略)科学で使う用語はみな「法則」にしろ「必然」にしろ、「順序」にしろ「傾向」にしろ、すべて本当は意味をなさぬ。(中略)自然を説明する言葉として、私が納得できた言葉はたった一つしかない。(中略)つまり「魔法」という言葉だけである。事実というものが実はいかに気まぐれで、どれほど神秘に満ちたものか、その秘密をつぶさに語ってくれる言葉はこれ以外には一つもない。木に実がなるのはそれが魔法の木であるからだ。水が低きに流れるのはそれが魔法の水だからである。太陽があんなにきらきら光っているのも、実は魔法の力にほかならぬのだ。」

























































































G・K・チェスタトン 『新ナポレオン奇譚』 高橋康也・成田久美子 訳 (ちくま文庫)

「「いい人だねえ」と彼は言った。「変りもんだが、ああいう人にかぎっていい人なんだ。まともな連中よりずっといい人なんだ」」
(G・K・チェスタトン 『新ナポレオン奇譚』 より)


G・K・チェスタトン 
『新ナポレオン奇譚』 
高橋康也・成田久美子 訳
 
ちくま文庫 ち-12-1 

筑摩書房
2010年7月10日 第1刷発行
327p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価800円+税
装丁・装画: 北見隆


「この作品は一九七八年十一月、春秋社より刊行された「G・K・チェスタトン著作集 10 新ナポレオン奇譚」を改題したものです。」



地図(「ノッティング・ヒル周辺図」)1葉。


チェスタトン 新ナポレオン奇譚


カバー裏文:

「1904年に発表されたチェスタトンのデビュー長編小説、初の文庫化。1984年、ロンドン。人々は民主主義を捨て、籤引きで専制君主を選ぶようになっていた――選ばれた国王は「古き中世都市の誇りを復活」させるべく、市ごとに城壁を築き、衛兵を配備。国王の思いつきに人々は嫌々ながら従う。だが、誇りを胸に故郷の土地買収に武力で抵抗する男が現れ、ロンドンは戦場と化す……幻想的なユーモアの中に人間の本質をえぐり出す傑作。」


目次:

ヒレア・ベロックに

第一の書
 一、予言術に関する序言
 二、緑色の服の男
 三、ユーモアの丘
第二の書
 一、自由市憲章
 二、市長会議
 三、狂人登場
第三の書
 一、アダム・ウェインの精神状態
 二、類いまれなるターンブル氏
 三、バック氏の実験
第四の書
 一、灯火の戦い
 二、コート・ジャーナル紙特派員
 三、強大なるサウス・ケンジントン軍
第五の書
 一、ノッティング・ヒル帝国
 二、最後の戦い
 三、ふたつの声

解題 (ピーター・ミルワード/『G・K・チェスタトン著作集 10』春秋社、1978年より再録)

訳者あとがき (成田久美子)
解説 ロンドン内戦 (佐藤亜紀)




◆本書より◆


「第一の書」より:

「この本の読者の大半が属している人類という種族は、そもそもの始まりから、子供っぽい遊戯に耽ってきたものである。なかにごく少数、子供っぽさを卒業するものがいて、その連中に言わせれば、はなはだ慨歎すべきことであるが、おそらく人類は世の終りまでそういう遊びに耽りつづけていくことであろう。」

「「僕にわかるようなやつではない」とパーカーは答えた。「しかし、あえて言うなら、色好みならぬノンセンス好みとでもいうか、つまり芸術的な冗談とか道化ぶりとかに目がない男なんだ。そのノンセンスぶりが昂じて、とうとう自分自身、頭が少々おかしくなり、正気と狂気の区別がわからなくなっちまった、というところじゃないか。いや、これはまじめな話だ。いわば彼は精神界をひと廻りして、東と西がひとつになり、痴愚の極致が分別とひとつになる地点を見つけたのさ。しかし、僕にはやつが何のためにそんなノンセンス・ゲームをやるのか、その心理の説明はできない」」

「名をオーベロン・クウィンというこの小男は、赤ん坊と梟(ふくろう)を合わせたような外見をしていた。丸い頭と丸い目は、自然がいたずら半分にコンパスで描いてみせたといったふうだった。(中略)見知らぬ人ばかりいる部屋に彼がはいって行くと、人びとは彼を子供と間違えて膝の上に抱き上げようとする。だが、彼が口を開くと、人びとは子供ならもう少し頭がいいだろうと思い直す。」

「「お話の途中ですが、セニョール」と大統領は口をはさんだ。「セニョールにお尋ねしたいことがあります。セニョールは、ごくふつうの状況のもとで、どんなふうに荒馬を捕まえられますかな?」
 「私は荒馬を捕まえたりなんかしません」とパーカーは威厳をもって答えた。
 「まさにそうでしょうな」と相手は言った。「(中略)あなたのおっしゃる国際主義とやらに対する不満もそこにあります。すべての国の国民が連帯するとおっしゃるとき、実は、その意味するところは、すべての国民が連帯して、あなたの国の国民のやり方を真似るべきだということなのです。もし、遊牧のベドウィン人(びと)が読み書きを知らなければ、イギリスの宣教師なり教師なりが読み書きを教えるために派遣されるにちがいありません。しかし誰もこうは言わないでしょう。「この教師は駱駝の乗り方を知らないから、ベドウィン人(びと)に金を払って教えてもらうべきだ」(中略)さきほど挙げた例にもう一度返りますが、ニカラグアには、野生の馬を生け捕りにするひとつの方法がありました。馬の前足を投げ縄で捕まえるのです。南アメリカひろしといえども、これにまさる方法はあるまいといわれているやり方です。もし、すべての才能を含み込むつもりでいらっしゃるなら、ひとつやってみてください。もしそうでないなら私の持論をここで申しあげることをお許しくださるでしょうか。ニカラグアが文明化されたとき、世界から何かが失われたのだと」
 「そりゃあ、何かはね」とパーカーは答えた。「しかしその何かとは、単なる未開人の器用さにすぎないでしょう。私が原始人と同じくらいうまく石を削ることができるかどうかわかりません。しかし、わかっていることは、文明はもっと便利な道具をつくり出すことができるということです。ですから私は文明を信じます」
 「あなたがそうおっしゃるのはもっともです」とニカラグア人は答えた。「あなたのように聡明なかたがたがこれまでたくさん文明を信じてきましたからね。多くのバビロニアの賢者が、多くのエジプトの賢者が、そしてローマ末期の多くの賢者が文明を信じてきました。文明の滅亡の前例をいくつも持つこの世界で、あなたの文明だけには何か特別不滅のものでもあるとおっしゃるのですか?」」
「「あなたのお国のまことに結構な行政制度について、具体的に反対するつもりはありません。私はただ、個人的には賛成しかねるというだけです。つまり私としては、あなたがたの制度に参加するつもりがあるかどうか尋ねられましたなら、お返事する前に、その代りにどぶの中のひきがえるになることを選ぶ権利があるのかどうか、お教え願いたい。まあ、そういうことです。個人の魂が何を選ぶか、こればかりは議論してもはじまりますまい」」




























































































『G・K・チェスタトン著作集 3 自叙伝』 吉田健一 訳

「この自分をある場所の中に閉じ込めるという遊びは人生における秘密の楽しみの一つである。」
(G・K・チェスタトン 『自叙伝』 より)


『G・K・チェスタトン
著作集 3 
自叙伝』 
吉田健一 訳


春秋社
昭和48年6月25日 初版第1刷発行
昭和63年5月25日 第4刷発行
439p 目次3p
口絵(モノクロ)1葉
四六判 並装(フランス表紙) 貼函
定価2,500円



本書「訳者あとがき」より:

「この訳に用いた原書は、G.K. Chesterton: Autobiography, London, Burns Oates & Washbourne, 1936. である。」
「ここに、或る特異な時代を生き抜いた一箇の特異な人間がいる。後はその人間自身の言葉に耳を傾け、或いは反撥し、或いは随喜するばかりである。」



チェスタトン 自叙伝


目次:

第一章 風聞
第二章 黄金の鍵を持った男
第三章 如何にして落第生になるか
第四章 如何にして気ちがいになるか
第五章 国家主義とノッティング・ヒル
第六章 幻想的な郊外
第七章 正統である罪
第八章 フリート街の人びと
第九章 腐敗に対する抗告
第十章 友情と愚行
第十一章 剣の影
第十二章 政界の名士
第十三章 文学界の名士
第十四章 ある友人の肖像
第十五章 未完の旅行者
第十六章 黄金の鍵を持った神

解題 (ピーター・ミルワード)
訳者あとがき




◆本書より◆


第二章より:

「父方の血統、チェスタトン家の人びとについて一般的なことを指摘するとすれば(中略)、それは(中略)総じて彼らが極めて英国的な人びとだったということである。彼らにはっきり見て取れる大きな特色はお人好しで適度に夢も持った常識家であることで、また個人的な付き合いにおいてはある静かな誠実さが認められる。(中略)私はこの種の眠たげな正気を非常に英国的なものと考える。」

「私が書くはずでまだ書いていない本のたいへんな目録(中略)の第九九九号は自分の生活に何か暗い秘密を持っているらしい大実業家の話である。そして最後に探偵たちはその男が今でも人形とか錫の兵隊とか、何か威厳を損なう子供じみたことをして遊んでいるということを発見するのである。私は極めて控え目な気持でその実業家の確固たる名声と輝かしい実績を除いたあらゆる点で私がその男なのだと言うことができる。(中略)私自身遊ぶことを止めたことは一度もないし、遊ぶ時間がもっとあったらといつも思っている。たとえば講演とか文学とかいうような下らないことのためにボール紙を切り抜いて色紙を貼るというような真面目で確実で建設的な仕事にあてるべき時間を無駄にしないですめばどんなにいいだろうと思うのだ。」



第五章より:

「私は(中略)自由を内部に向かって行くものと考えている。」
「子供は明らかに限界というものに魅せられている。子供はその想像力で想像上の限界を作り出すのである。その乳母や家庭教師は歩道の敷石を一つ置きに踏んで行くのが道徳的な義務であるなどと言いはしない。しかし子供は自分自身に挑戦する楽しみから、わざと敷石の半分をないものと考えるのである。私は家中の敷物や床板や絨毯を使って自分を相手にこの種の遊びをしたもので、今でも巡査に摑まる危険を冒してそうした遊びに耽ることがよくあることを白状する。その意味で私は常に自分が使える空間を狭くし、私が自由に駈け廻ることができる家の中を幾つもの楽しい牢獄に区切るように努力してきた。(中略)たとえばロビンソン・クルーソーの話の魅力はどこか遠くの島まで行けたということでなくてそこを離れる道がまったくなかったことにあり、それが彼がその島で持っていたもの、斧や鸚鵡や鉄砲やそれから少しばかりの穀類に何とも言えない興味と興奮を付与している。(中略)また、ノアの箱舟がそういう玩具になっている場合の尽きない面白さは、そこに中身の充実と外部からの孤立ということがはっきりと示されていて、滑稽なほど互いにかけ離れた空想的な動物が皆一緒に一つの箱に詰め込まれていることにあり、(中略)長椅子に積みたいだけのものを積み上げて廻りの絨毯を海に見たてて海の只中にいるつもりになって遊んでいた私と少しも変わることはない。
 この自分をある場所の中に閉じ込めるという遊びは人生における秘密の楽しみの一つである。」

「ウィンストン・チャーチル氏は彼が面白いと思うのは日本が美しくて礼儀正しい国だった時は人びとが日本を野蛮国として扱い、醜い低俗な国になってしまった今は日本が尊敬されていることだとか、何かそういう意味のことを言った。」



第十章より:

「誰かが何もしないと言って文句を言う人が時折りいるが、もっと不思議でびっくりさせられるのは何もすることがないといって文句を言う人である。するべきことのない何時間、あるいは何日かという素晴しい贈物をされでもしたら、彼らはきっとその何もするべきことがないということに不平を言うのだろう。孤独、つまり自由を与えられたら彼らはそれを捨ててしまうのだろう。(中略)私の一人っきりになりたいという願いには特に人間嫌い風なところは何もないのは言うまでもなく、(中略)前に言ったように病気がちだった少年時代には非常にいやな意味で私は時々多勢の中にいながら一人ぼっちだった。しかし成人してからは一人きりでいる時ほど多勢のものと一緒にいる感じがすることはない。」


第十六章より:

「私は初めは悲観論者の言うところの楽観論者だった。そして最後には楽観論者が悲観論者と呼ぶに違いないものになったのである。しかし実際のところ私は決してそのどちらにもなったことはなくて、初めから少しも変わってはいないのだ。(中略)実際のところこの一つの真理の両面が同時に述べてあるのを見つけたのは偶〃一ペニーの公教要理を開いてみた時が初めてで、そこには「希望に対する二つの罪は傲慢と絶望である」と書いてあったのである。」
「私の最初に読んだ子供のための詩集から適当なものを引いてみると、一本のたんぽぽを見ることができるという褒美をもらうために自分はどんな化身を、あるいは生前の煉獄をくぐってこなければならなかったのかという問いがある。(中略)以前には信じていたとしても今は私は肉体の甦りということを信じていない。またその後、私は庭を持つ身になったので(中略)、私は雑草とは困ったものなのだということを前よりもよく理解している。しかし私がたんぽぽについて言ったことは、私がひまわりや、太陽や、(中略)太陽よりも明るい栄光について言うであろうことと本質的にはまったく同じなのである。一本の雑草から喜びを得る唯一の方法は自分がその雑草にさえ相応しくないと思うことである。さて雑草や花に不平を言うのには二種類あって、一つは私の青年時代に流行したもので、もう一つは晩年に流行したものである。(中略)私の少年時代の悲観論者はたんぽぽを見ればスウィンバーンに倣ってこう言うのだった。
  私は飽き飽きした。
  日々にも時間にも、
  役にも立たない花の蕾が開くのにも、
  望みにも夢にも権力にも
  あらゆるものに倦み疲れ、眠りだけが私の願いである。
こういう調子を私は憎み、それに反抗してこれを蹴飛ばし、人前で醜く振舞い、獅子の歯の騎士になってたんぽぽの花を私の紋章にした。しかしたんぽぽを軽蔑するやり方には、悲観論者のそれとは違う楽観論者のやり方があって、これはいっそう不愉快なけしからぬものだった。それにはいろいろなやり方があるのだが、「セルフリッジの店ではもっとずっといいたんぽぽが買えるよ」とか「ウールワースの店ならもっとずっと安いたんぽぽがあるよ」と言うのが一つである。もう一つは、「もちろんたんぽぽが本当にわかるのはウィーンのガンボーリだけさ」とさり気なく気取った様子で意見を述べたり、フランクフルトの椰子の公園で超特大のたんぽぽが栽培されたから旧式のたんぽぽではもう誰も気に入らないだろうと言ったり、そうでなければ一流の家では客に蘭の花を洩れなくくれて、ついでに珍奇な香水をお土産に持って行かせるのにたんぽぽをくれるなどということをする吝臭さを嘲笑したりするのである。こういうのは皆他のものと比較することによってあるものを見下げるやり口である。軽蔑が生まれるのはそのものに馴れ親しむからではなくてそれを他のものと比べるからなのである。そしてこのように比較してはあら探しばかりする態度の根底にあるものは人間はたんぽぽを持つ権利があるという驚くべき異端の説であって、どういう訳でかわれわれは天国に咲くたんぽぽの中の一番よいものを要求する権利があって、そのことに少しも感謝の念を持つことはないし、たんぽぽに感嘆する必要もなくて、何れにせよ、われわれがたんぽぽをもらう値打があると考えられていることに少しも驚く必要はないという考え方である。(中略)これらの態度を取っていれば一切れの肉とか一杯のたんぽぽの煎じ汁とかに対して興味を失ってしまうことになると思う。それがつまり傲慢というもので絶望はその双子の兄弟なのだ。」

「自分の好きなものを引き続き好きでいられる能力の維持、哲学者が解決しなければならないのはこの実際的な問題なのである。」

「ある非常に優秀なヒンズー教徒の科学者が私に言ったことがある。「統一と普遍性のみが存在するんです。個々の事物における相異はどうでもいいのです。大切なのはそれらが一致することです。」そこで私は答えた。「われわれに本当に必要なのは一致と不一致の一致です。つまりすべての事物が究極的には一体であるにしても、現実に個々の相異というものが存在するという意味です。」それからずっと後に私は自分が言おうとしたことが一人のカトリック作家、コヴェントリー・パットモアによって遙かによく述べられているのを見出した。「神は無限ではない。神は無限と有限との綜合である。」」


































































































































G・K・チェスタトン 『木曜の男』 吉田健一 訳 (創元推理文庫)

「もしサイムが自分自身を見たならば、サイムも初めて他のだれでもない彼自身になっていることに気づいたはずだった。」
(G・K・チェスタトン 『木曜の男』 より)


G・K・チェスタトン 
『木曜の男』 
吉田健一 訳

創元推理文庫 110-6 

東京創元社
1960年1月8日 初版
1989年11月10日 20版
239p
文庫判 並装 カバー
定価360円(本体350円)
カバー: 金子三蔵



Gilbert Keith Chesterton: The Man Who Was Thursday, 1908


チェスタトン 木曜の男


扉文:

「ブラウン神父でおなじみのチェスタトンが、奇想天外な着想でもって一世を驚倒させた唯一の長編推理小説! 無政府主義者の秘密結社を支配する委員長「日曜日」の無気味な影。その委員会に単身のりこむ主人公の前に、つぎつぎと暴露される委員たちの意外な正体。前半の神秘と後半のスピードが巧みにマッチして、謎はさらに奥深い謎へと導いていく。悪夢のような、白昼夢のような雰囲気の中で読者もまた息苦しいほどの奇怪な体験を強いられる強烈な迫力は無類である。」


目次:

1 サフロン・パークのふたりの詩人
2 ガブリエル・サイムの秘密
3 木曜だった男
4 ある刑事の話
5 恐怖の饗宴
6 暴露
7 ウォルムス教授の不可解な行動
8 教授が説明する
9 眼鏡をかけた男
10 決闘
11 警察のものが悪ものに追われる
12 地球が無政府状態になる
13 議長の跡を追う
14 六人の哲学者
15 告発者

解説 (中島河太郎)




◆本書より◆


「あらたに現われた詩人はガブリエル・サイムという名で、薄い黄色の髪に黄色い尖(とが)ったひげをはやした、おとなしそうな人間だった。(中略)彼は現われたとたんに、そこでの先輩であるグレゴリーに対して、詩というものの本質について全然グレゴリーとは違った意見を表明した。彼は自分が法律と秩序に味方する詩人、それどころではなくて、世間体を尊重する詩人であるとさえいった。それでサフロン・パークの住民は、彼がその晩の信じがたい色に夕焼けした空から落ちてきたのも同様の驚きでもって彼を見た。
 無政府主義を唱える詩人ルシアン・グレゴリー氏は、現にこの二つのできごとを結びつけた。
 「こんなひどい色をした雲が空に広がっている晩には、世間体を尊重する詩人というような恐ろしい前兆が地上に現われても、不思議ではないかもしれない」と彼はいつもの激しやすい口調でいった。「君は法律の味方をする詩人であることを自称しているが、僕はそんな言葉は矛盾だと思う。君がこの庭に現われた晩に彗星(すいせい)が見えたり、地震が起こったりしなかったのがむしろ不思議なくらいだ」」
「「芸術家は無政府主義者と同じものなのだ」と彼はいった。「この二つは、いつだって入れ替えられるもので、無政府主義者は芸術家なのだ。(中略)そして芸術家はすべての政府を無視して、いっさいの因襲を破棄する。詩人は秩序をきらって、もしそうでなければ、世の中でいちばん、詩的なものは地下鉄だっていうことになる」
 「だって、そのとおりじゃないか」とサイム氏がいった。
 「そんなことがあるもんか」とグレゴリーは答えた。自分以外のものが逆説を唱えると、グレゴリーはいつもきわめて合理的になるのだった。「地下鉄に乗っている会社員や労働者がなぜあんなに疲れて悲しそうな顔をしているか、君は知っているだろうか。あれは皆、自分たちが行くべき方向にちゃんと行っていて、切符に書いてある行先に必ず着くことを知っているからなのだ。スローン・スクエア駅を過ぎたら、次はヴィクトリアで、ヴィクトリア以外の駅ではないことを知っているからなのだ。もし次の駅がどういうわけかベーカー・ストリートだったりしたら、あの連中も目は星のように輝いて、魂がもう一度エデンの楽園に帰った気分に浸(ひた)ることができる」
 「詩的じゃないのは君自身なんだ」と詩人のサイムは答えた。「もし君が地下鉄の会社員についていっていることがほんとうならば、その会社員たちは君の詩と同じくらい、散文的だということになる。的(まと)に当たるということがたいへんなことなので、はずれるのは、だれでもがやることなのだ。ひとりの男が矢で遠くの鳥を落とせば、われわれは、たいしたことだと思う。そしてそれが乗物に乗って遠くの駅に着くことでも、やはり、たいしたことなのじゃないだろうか。無秩序というのは退屈なもので、それは無秩序ならばベーカー・ストリートかバグダッドか、どこに行くかわからないからだ。しかし人間は魔法を使って、ヴィクトリアというと、そのとおりにヴィクトリアに着く。詩だの、散文だのの本なんていうのは、つまらないものなので、それよりも僕は時間表を読んでいるとうれし泣きに泣きたくなる。」」
「「僕は汽車が駅にはいってくるたびに、それが何か敵の包囲軍を突破してきて、人間が無秩序に対してまたしても勝利を博したような気がしてならないんだ」とサイムは熱をおびた声で話を続けた。「君はスローン・スクエアの次はどうしてもヴィクトリアだというけれど、僕は反対に、その次にはどんなことが起こるかわからなくて、ほんとうにヴィクトリア駅に着いたときは九死に一生を得たという感じがする。だから車掌が、ヴィクトリア、と叫ぶのは無意味なことではないので、それは僕にとっては勝どきなんだ。」」

「彼の順応主義は自発的に決定されたものであって、それは反逆だった。彼の家の人たちは変人ばかりで、年取っているものほど、新しい考えを持っていた。叔父のひとりはいつも帽子なしで出歩いて、もうひとりの叔父は、帽子のほかは何も着けずに出歩こうとした人間だった。彼の父親は芸術と自己表現に専念し、母親は素朴と衛生に凝(こ)っていた。それで、彼が子供のころは、アブサントとココアのほかは何も飲まされず、その両方とも大きらいだったことは、彼が正常な趣味の持ち主であることを示していた。彼の母親が清教徒はだしの禁欲主義を説けば説くほど、彼の父親はますます極端に異教的な快楽主義をかかげて、母親が菜食主義を採用するにいたったころは、父親はほとんど食人主義まで容認する点に達していた。
 そのように、ありとあらゆる種類の革新、あるいは反逆に囲まれて育ったサイムは、自分も何かで反逆しなくてはいられなくなって、まだ残っていた唯一のもの、というのは正常であることで反逆した。しかしそれでもまだ彼には狂信者の血筋を引いているだけのことがあって、常識を尊重する彼の態度は、やはりどこか常識をはずれたものを感じさせた。」

「「あなたがおっしゃる無政府主義というのはいったい何なのです」
 「それを、ロシアからアイルランドにかけて至るところでときどき起こる、ダイナマイト爆発事件と混同してはならないんです」と巡査は答えた。「あれは迫害された人たちが、考え方はまちがっていても、どうにもならない気持で、ほんとうに起こした事件なんです。しかし私がいっているのは一つの大きな哲学的な運動なので、これは内部と外部の二つからできています。(中略)私はむしろ外部を罪がないもの、内部をこの上もなく有罪のものと区別したいのです。外部というのは、これがこの運動を支持する人たちの大部分なのですが、これはただの無政府主義者なので、規則や教義が人間の幸福を破壊したと信じているんです。彼らは、犯罪によって生じる悪い結果は、そういう行為を犯罪と呼んだ組織から生じたものだと思っています。罪が罰を作ったのではなくて、罰が罪を造った、という見方をしているわけです。(中略)これを私は罪がないと呼んでいるんです」
 「そうですか」とサイムはいった。
 「だからもちろん、そういう人たちは、やがてくる幸福な時代、だとか、未来の天国、だとか、罪悪からも、美徳からも解放された人類、だとかいうことをいいます。そしてこの運動の内部に属しているもの(中略)も同じことをいいます。彼らも、喝采(かっさい)する群衆に向かって未来の幸福とか、ついに解放された人類とかいう話をするのですが」とここで巡査は声を落とした。「彼らのことばには恐ろしい意味がふくまれているのです。彼らはそんなことを信じてはいなくて、人間が原罪と、原罪との格闘から完全に解放される時がくるなどと考えるには、彼らは知的でありすぎるのです。彼らのことばは死を意味しているのです。彼らが人類がついに解放されるという時、それは人類が自滅するということなのです。彼らがいう善悪の観念を越えた天国というのは、墓穴のことなのです。彼らには二つの目的しかなくて、それはまず人類をほろぼし、次は彼ら自身を滅することなのです。」」

「彼は、そのひとりひとりが思想を極端な形で追いつめた果てに立っていることを知っていた。そして彼は、昔の話にでてくるように、もしひとりの男が西のほうに、世界の果てまでいけば、そこにたとえば一本の木で、また一本の木ではない、ある精霊が住んでいる木を発見し、東のほうにいけば、やはり、あるそれだけではないもの、たとえば一つの塔で、その形そのものが悪を意味しているのを発見する、というふうに想像した。つまり、(中略)それは理性のかなたから現われた幻影なのだった。世界の果てが近寄ってきて、サイムを取り囲んでいるのだった。」




◆参考◆


チェスタトン『自叙伝』(吉田健一訳)より:

「私はまだ精神と物質の否定という形而上学的な悪夢や悪の病的な影像や私自身の魂と肉体の神秘的な重荷に悩まされていた。しかし私はすでにそういうものに反抗していて宇宙での生命について健全の方に偏ることになってももっと健全な見方をしようとしていた。私は悲観主義者であるのに恐しいくらい近かったので楽天主義者と自称さえした。(中略)こういう次第のすべてが後に『木曜の男』という題の架空の物語というまったく形をなさない形を与えられることになった。(中略)しかし私が面白く思うのはこの題を見たもののうちでほとんど誰も副題を見たものがないらしいことで、それは「一つの悪夢」というのでこの本についての多くの疑問に答えることができるものである。」
「『木曜の男』に出て来る子供芝居の鬼擬いの日曜日という名の人物が何を意味するのかよく人に聞かれることがあって、それが造物主の冒涜的な別名なのではないかと言ったものもあり、これはある意味では必ずしも間違ってはいない。しかし肝心なことはこの物語全体がありのままの世界ではなくて、一八九〇年代の若い準悲観主義者が見た世界の悪夢だということなのである。そして粗暴に見えながら秘かに情深いところもある鬼は宗教的、あるいは非宗教的な意味での神であるよりも汎神論者の眼に映った自然、悲観主義から抜け出そうとしている汎神論にとっての自然であるとするほうが当たっている。この物語に何か意味があるとすれば、それは物語の初めでは世界が最悪の姿で描かれていてそれが話が進むにつれて実はそれほど暗黒のものではないという方向を取ることにある。」
「私は(中略)私の青年時代のこの不運な物語を理解した数少ない一人が、私に呈してくれた讃辞について話したい。この男は非常に近代的で科学的なすぐれた精神分析学者だった。(中略)彼は(中略)私のたいへん幼稚な物語が自分の患者の中でも病的なものたちの治療の役に立ったと言って私を唖然とさせた。(中略)「ほとんど気ちがいになりかけていた人が幾人もいたんです」と彼は厳粛な調子で言った。「それが『木曜の男』を読んで本当に理解したおかげで助かったんですよ。」これは行き過ぎたお世辞だったに違いない。また彼自身気ちがいだったということももちろん考えられるが、その点では私自身がそうだった。しかし実を言うと私は気ちがいだった時期の私が、彼が言うように他の気ちがいのために少しでも役に立ったと思うと嬉しい気がするのである。」

































































































































G・K・チェスタトン 『ポンド氏の逆説』 中村保男 訳 (創元推理文庫)

「「ははあ」タルノウスキーはゆるやかに喉の奥から声を出した――「いわゆるパラドックスというやつですね」
 「や、それは言わんでください」ポンド氏はうなった。「英国ではみんなにそう言われていますがね。しかし正直のところ、パラドックスとは何なのかわたしにはわからないのです」」

(G・K・チェスタトン 『ポンド氏の逆説』 より)


G・K・チェスタトン 
『ポンド氏の逆説』 
中村保男 訳
 
創元推理文庫 110-9 

東京創元社
1977年9月22日 初版
1989年1月6日 7版
234p
文庫判 並装 カバー
定価360円(本体350円)
カバー: 日下弘・荘司訓由



G.K. Chesterton: The Paradoxes of Mr. Pond, 1936


チェスタトン ポンド氏の逆説


扉文:

「温厚で控え目な小柄な紳士ポンド氏には穏当な筋の通った談話の最中に奇妙な発言をまじえる癖があった。死刑執行停止令を携えた伝令が途中で死んだために囚人が釈放された。完全に意見が一致したために二人の男の一人が相手を殺した。影法師を一番見誤りやすいのはそれが寸分の狂いもなく実物の姿をしている時だ。背が高すぎるために目だたない……等々。耳を疑いたくなるポンド氏の話も実はつじつまがあっているのだ。読者はどう推理されるだろうか。巨匠チェスタトン自らが逆説集と銘うった珠玉の短編集!」


目次:

三人の騎士
ガーガン大尉の犯罪
博士の意見が一致すると……
道化師ポンド
名ざせない名前
愛の指輪
恐るべきロメオ
目だたないのっぽ

形而上的推理と幻想と逆説 (中村保男)




◆本書より◆


「三人の騎士」より:

「ポンド氏は人なみに礼儀正しく、身ごしらえもこざっぱりしている。それなのにわたしはこの人物には妙に心を動かされるし、時には不気味なものを感じることさえある。わたしの幼い頃の想い出や、氏の名前からくるおぼろな連想が手伝っているのだろう。子供心の気まぐれから、父の旧友であり官吏であった氏の《ポンド》という名を、うちの庭の《泉水(ポンド)》とごっちゃにしてしまったらしいのである。そう言えば、この人物は庭の泉水に不思議に似たところがある。ごく静かで姿もよく整い、いわば天と地と日々の陽光を平凡に映して、はなはだ明るいのがこの泉水氏の常態なのだが、しかしわたしはうちの泉水には何かしら奇妙なところがあるのを知っている。百ぺんも見るうちには一ぺんくらい、一年のうち一日か二日は、模様がへんに違っているのである。そういうときの泉水には、単調な静寂(しじま)の中に舞うものの影がうごいたり、閃くものが走ったりする。そして魚だとか蛙だとか、さてはもっと奇怪な生きものまでが、姿を天にさらけ出してみせるのである。それと同じに、ポンド氏の中にも怪物がいるのをわたしは知っていた。その怪物は彼の胸底から浮かび上がって一瞬間だけ姿を現わし、また沈み去ってしまう。この怪物の出現は、穏当で筋の通った談話の最中にポンド氏みずからが放つ奇怪な発言という形をとった。そこで、正常このうえない話の途中で突然に氏の気が触れたと思いこむ人もあった。しかし、そういう人にしても、氏があっというまにまた正気に返っているのを認めないわけにはいかなかった。
 ポンド氏自身がずいぶんと魚に似て見えることもあったので、ああいうばかばかしい空想が子供のわたしにとりついたのは、あるいはそっちのせいであったのかもしれない。」



「愛の指輪」より:

「「さきほど申しましたように」ポンド氏は例によって明解ながら少々長たらしい物語の終わりにさしかかったところだった――「このガーガン君ははなはだ誠実な人物で、埒もない不必要な嘘をよくつきます。しかし彼の誠実さというものは――」」
「「今、なんとおっしゃったんです?」ウォットンの口調には皮肉がなくもなかった。
 「もちろん、わかりきったことです」ポンド氏は口をとがらした。「ほんものの嘘つきは埒もない不必要な嘘などつくものじゃありません。いつだったかガーガン君は海蛇を見た、それも一匹や二匹じゃなく六匹の海蛇を見た、最初のやつより次のやつ、次のやつよりもその次のやつ、と順ぐりに大きい六匹だったと述べましたが、こういうことをいわざるをえない必要など彼にはなかったのです。ましてや一匹めが二匹めに、それが三匹めに、と次々に呑まれていったと報告に及ぶにおいてをやです。最後に残った一番大きいのが口をかっと開いたので船を呑むかと思ったそうですが、実はお腹がくちくなってあくびが出ただけで、じきに昼寝を始めたそうですよ。その大海蛇の腹中では次に大きいのがあくびをして昼寝につき、そのまた腹中では、というふうに順ぐりに進むさまには整然たる数学的秩序があったのですが、これはくどくど申しあげるまでもありますまい。ただ、最後の小さいやつは食事がまだだったので、何かないかと外出して行ったそうです。徹頭徹尾、不必要な言明ですよ、こんなのは。それに、聡明な発言だったともとうていいえませんね。この談話のためにガーガン君の社会的地位が高まるとか、科学的研究の報いとして賞金や勲章が授かるなどということもありそうにない。なぜだかわたしは存じませんが、たとえ一匹に限定しようと海蛇の話と聞いただけで顔をしかめるほどの偏見が学界にはありますし、ましてこういう形式の談話に学者たちが耳を傾けようとも思えませんからね。」」
「「ガーガン君が六匹の海蛇を見たと称しても、そのことだけならわたしは信じることだってできます。しかし、一匹目から二匹目と順々に大きいやつが出現したというのは信じ難いことです。最初のは大きく、次のは小さく、その次のは大きかったというふうにもちかけられたら、あるいはわたしどもも一杯喰ったかもしれません。」」



「恐るべきロメオ」より:

「ポンド氏は淡々と述べた――
 「生まれてこのかた、わたしはパラドックスなど喋ったことはありませんよ。自明の理を語っているだけなのです」」



































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本