矢内原伊作 『ジャコメッティ』

「私は絵画も彫刻も選択しなかった。私は選択されていたのだ。ほかにどうしようもできなかった。人間はそうせざるを得ないものを選択する、だから人間には選択がない」
(ジャコメッティ)


矢内原伊作 
『ジャコメッティ』

宇佐見英治・武田昭彦 編

みすず書房 
1996年4月10日 印刷
1996年4月20日 発行
341p 目次1p 著者・編者略歴1p 
口絵(モノクロ)i 図版(モノクロ)8p
A5判 丸背布装上製本 カバー 
定価4,944円(本体4,800円)



本書「あとがき」より:

「本書は矢内原伊作がジャコメッティについて書いた諸篇のうち、最良のものを選びそれを主に、また(中略)滞仏中書きとめていた未発表の手帖・日記の一部を撰録、武田昭彦と宇佐見英治が、著者生前の意を汲んで編集した書である。(中略)筑摩版の『ジャコメッティとともに』は(中略)第二部十二章以下及び八章のほんの数ページを除き、本書では(中略)同書のほぼ三分の二以上を再録した。」


「ジャコメッティについての日記・手帖」は二段組。
モノクロ図版18点。


矢内原伊作 ジャコメッティ 01


カバー: 「アルベルト・ジャコメッティ(矢内原伊作撮影・一九六〇)」


帯文:

「幻の本『ジャコメッティとともに』に、未発表の日記・手帖・手紙をも撰録。20世紀最高の芸術家の仕事の日夜、脳髄、対話の貴重な記録として、この一書により、ヤナイハラの名は不滅となろう。」


帯背:

「真実の記録」


カバー裏文:

「矢内原伊作は、1956年から1961年にかけて、5度の夏をパリで過ごした。彫刻家・画家、アルベルト・ジャコメッティのモデルをつとめるためである。彼は、ジョンソン博士におけるボズウェル、ゲーテにおけるエッカーマンのように、偉大な芸術家との対話を忠実に記録した。残された手帖の最初の1冊にこう記されている。〈常に携え、一切のものを記録するためなり。外界ではなく内界を、印象ではなく思想を、事象ではなく本質を、見ることが、そのまま生きることであるほどに。〉芸術家は、他の誰よりも矢内原に、制作の過程で、日常の会話で、率直な言葉を吐いているようにみえる。〈もう少しの勇気、50グラムの勇気、あと一滴の勇気さえあれば!〉といった具合に。
 矢内原が生前に、最初の年の経験をもとに、『ジャコメッティとともに』と題し、まとめた単行本もいまや幻の本となっている。それに、60年・61年の日記・手帖より再現された「ジャコメッティ語録」、矢内原あて9通の手紙も、本書には収められている。20世紀を代表する偉大な芸術家の数々の作品にその姿を残す〈ヤナイハラって誰?〉という、世界中の読者の問いに答えるとともに、この一書を通して、ヤナイハラの名は不滅のものとなるであろう。」



矢内原伊作 ジャコメッティ 02


表紙: 「ジャコメッティから矢内原あての手紙(一九五九年一月十二日)」


目次:

I ジャコメッティとともに
II その後のジャコメッティ
III ジャコメッティからの手紙
IV ジャコメッティについての日記・手帖 (一九六〇年八月―九月/一九六一年七月―九月)
V アルベルト・ジャコメッティ略年譜

解題 (武田昭彦)
あとがき (宇佐見英治/武田昭彦)



矢内原伊作 ジャコメッティ 03



◆本書より◆


「ジャコメッティとともに」より:

「ぼくは(中略)ヨーロッパの思想や歴史を理解するうえに各地を旅行することがいかに有益かを力説したが、旅行の嫌いな、というより旅行のことなどを考える余地のないほどいつも仕事に憑かれている彼はあまり賛成しなかった。彼は足を停めて黄ばんだマロニエと灰色の貧しい家がつづいている通りを眺め空を仰いで言う。
 「美しいではないか、これ以上に美しい景色は世界中どこを探してもないだろう、セザンヌでも誰でも偉大な芸術家は旅行をしなかった。」
 「画家にとってはそうです。しかし思想家や文学者にとってはまた別でしょう。たとえばモンテーニュ、ゲーテ、スタンダール。」
 「そうだ、文学者には旅行が役立つ。しかしスタンダールの旅行記が面白いのは、彼が観光者でなく、同時に内面への旅行者だからだ、自己の内部への旅行を伴わない旅行は何にもならない。」」

「「けさがた私はたいせつな発見をした。」せっせと筆を動かしながら彼は言う。「それは鼻の先端から始めなければならないということだ。顔のすべての部分は鼻の先端から始まって背後に向う動きの中にある、鼻は一つのピラミッドだ。上から見たピラミッドを描くことさえできたら、他の部分は自然にできあがるにちがいない。」それからまた、「きみの顔に似なければならない、しかし似なくなることを恐れてはならず、似せようとして描いてはいけないのだ。」また「私は真実のすぐ近くまで来ていることを感じる。こんなに接近したことは三十年来はじめてのことだ、あと一歩というところだ。ああ、この一歩が実現できたらどんなに美しいか、それは恐らくあまりにも美しすぎる。」」

「「戦争で多くの人が死んだ、私の知っている立派な友人もたくさん死んだ、私にとって戦争とはこういう知人の死にほかならない。生きていた人間がいなくなるということ、これはなんとしても納得できないことだ。そのために私は長いあいだ悩んだ。そのあげく私はこういうふうに考えたのだ。私にとっての友人の存在とはその友人についての意識にほかならない、とすれば彼は死んでも私の意識のなかで彼は生き続けている、少なくとも私にとっては彼が生きている場合となんの変りもない、彼は私に向かって微笑したり話しかけたりする、死も何ひとつ変えはしないと。そう考えてやっと私は少し平静になることができたのだった。」」

「「それでは現代の画家あるいは彫刻家の中で、誰の仕事があなたの仕事に比較的近いと思いますか。」「一人もいない」と彼は即座に答えた。「私は不思議でならない。全く同じではないにしても大体同じ方向の仕事をする画家あるいは彫刻家が少しはいてもよさそうなものだが、それが一人としていないのだ、実に奇妙だ。むしろ素直に絵を描きさえすれば誰もが私と同じ仕事をするはずだと思われるのだが。」しばらく考えてから続けて、「画壇のことを少しも知らない日曜画家だけが私の仕事に比較的近い絵を描いているのかもしれない。絵画のことを何一つ知らない田舎の婆さんに絵筆をもたせたら、きっと私と同じように描くだろう。そうだ、田舎の婆さんはきっと私よりもうまく描くにちがいない。」」

「ジャコメッティのほうから言い出して、仕事にかかる前「半時間だけ」展覧会を見に行こうということになったのである。(中略)「こう一杯並べられていては何が何だかわからない。」そう呟きながらもジャコメッティは一つ一つの絵を見てまわった。が、彼を満足させるようなものは一つとしてなかった。彼が感心したものといえば、女の顔を描いたルオーの小品くらいのものである。そのルオーの作品の前で彼は言う。「この絵の傍らでは他のすべての作品が力のない薄手なものに見える。(中略)現実のものの迫力に幾らかでも近いのは、このルオーの絵だけだ。しかしルオーは間違っている。なぜなら、絵具を厚く盛りあげることによって、画面を浮彫りにしているからだ。これは詐術だ。絵画はあくまでも平面によって奥行を実現しなければならないのに。」部屋の中の裸婦を灰一色で描いたビュッフェの大きな絵については、「悪くない、ルオーを除く他のどの絵よりもいい。(中略)もっぱら線だけで描くところや灰色だけで描くところなどは、私のやり方に似ている。しかし彼はまさに始めるべきところでやめているのだ。そして現実を描くかわりに現実を図式化してしまっている。女の裸体は決してこんなものではない。セザンヌの裸婦のほうが遥かに本当だ、見給え。」そう言ってジャコメッティは、ぼくを反対側の壁際に引っぱって行き、「ビュッフェの絵は近くで見ると比較的いいが、遠くから見ると全く力を失ってしまう。あの裸婦は女にも何にも似ていない。絵の中には何もない。」(中略)出口に向って歩きながらジャコメッティは、ピカソの絵の前で呟いた。「これはポスターだ、ポスターとしてはよく出来ている。」」
「「他人の絵を見ても無益だ、時間を損した。この車はなぜもっと速く走らないのか」と彼は一人で憤慨している。「展覧会を見ようと言い出したのも、このタクシーをつかまえたのもあなたではありませんか」とアネットがたしなめる。それには答えないで彼は自分自身の考えに没頭し、指で空中に何かをしきりに描きながら、時おり嘆息とも叫びともつかぬ呻きを発した。アネットが「何を考えているの」ときくと、「ヤナイハラの鼻のことだけを考えている。今日こそ何とかしなければ、糞!」と彼は答えた。」
「「ルオーのように絵具を盛りあげてはいけない。マチエールの厚みに頼ることは深さを歪めることになる。空間の正しい深さは薄く塗ることによってのみ達せられるのだ。これは矛盾だ、しかし矛盾だからこそ試みる価値がある。」
 「矛盾した二つの事柄を同時にしなければならない。それが描くということだ。例えば私にはきみの顔がきわめて単純に見え、同時にきわめて複雑に見える。非常に繊細にも見え、同時に怖ろしいほど巨大にも見える。この両方を同時に描かなければならない。これは不可能と思われるほど困難だ。」
 「空間は無限にひろがっていると同時に、どんなに小さくして行っても終りに達することはない。それは小さいほうにおいても無限だ。」
 「今日の他の画家たちがどういうつもりで、そしてどういうふうにして仕事をしているのか、私には全然わからない。彼らはタブローを作るために描いている、つまりタブローをオブジェとして作っているのだ。オブジェは限られ閉ざされたものだから彼らはすぐ行きづまる。一つの仕事をどこまでも続けて行くことができない。しかし絵画にせよ、彫刻にせよ、本当の芸術はどこまででも続けて行くことのできるものなのだ。」」
「「きみの顔が私にはよく見えているのに、それを描くことは実に困難だ。ほとんど不可能だと思われる。他の画家はこれをどういうふうに描くか、私はそれを知りたい。(中略)誰もが、見えるとおりに描くことはやさしい、だから試みる必要もないと思っている。実際はこれほど困難なことはないのに。」
 「今日のほとんどすべての画家は、主観をすてて自然を忠実に模写するかわりに、ひたすら主観を表現しようとする。絶えずこれまでになかった新しいものを求め、他人に似ることを恐れて個性的であろうとする。結果はどうか。今日の展覧会で見たように、現代の画家は千差万別のようでいて不思議にどれもこれも同じように見える。個性的であろうとしてかえって非個性的になっている。新しいものを求めながら古いものを繰り返している。(中略)アブストレの若い画家たちの多くは自然を模写すれば通俗的になると思い、通俗的になるまいとして主観的個性的な絵を描こうとする。ところが実は、それによってかえって通俗的になっているのだ。事情は全く逆だ。セザンヌは個性的であろうなどとは少しもしなかった。彼は主観を捨てて自然を忠実に模写しようとしたのだ。しかも結果においてセザンヌの絵ほど個性的なものはほかにない。」
 ぼくを見つめて休みなく筆を動かしながらジャコメッティは以上のようなことを語ったが、(中略)こういった言葉の間には全精力を仕事に集中する沈黙の時間があり、仕事の困難に対する嘆きや焦燥や絶望があり、また自らを激しく叱咤する何十遍もの「糞(メールド)!」があった。」
「真暗になってやっと筆をおき、例によって電燈の光で今日の仕事を仔細に眺める。昨日よりも一層消されているが、顔のヴォリュームは遥かによく出ている。「今日のところは眼に見えないが私は非常に進歩した。明日は十倍もよくなるだろう。ただ絵具の堆積ができて画面が浮彫りになってしまった。これは仕事の継続の大きな妨げになる。どうしたものか。」そう言って彼はしばらく、絵を見つめていたが、食事用のナイフをもってきたかと思うと、何も言わずに絵具の盛りあがった部分を削り取ってしまった。(中略)二週間苦心に苦心を重ねて描かれたぼくの顔は忽ち消し去られ、絵は見るかげもないあわれなものになってしまった。(中略)が、ジャコメッティは平気だ。(中略)「これでよくなった」と彼は言う。「心配しなくてもいい、きみの顔は明日までに、画布の上に立ち戻ってくるだろう、今までよりも遥かに見事なものとして。それに、これまでに描いたところに捉われず自由に再び始めるためにも、こうして削り取ることはいいことなのだ。(中略)明日こそ私は、きみの顔を完全に描くことができるだろう。」」



矢内原伊作 ジャコメッティ 04


ジャコメッティのアトリエ、矢内原伊作撮影。


矢内原伊作 ジャコメッティ 05


ジャン・ジュネとジャコメッティ。


























































































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『ジャコメッティ エクリ』 (矢内原・宇佐見・吉田 共訳)

「今では、旅行をするとかしないとか、そんなことは全くどうでもいい! ものを見たいという好奇心は前よりも狭く限られるようになった。なぜならテーブルの上の一つのコップが前よりもずっと大きく私を驚かすからだ。」
(アルベルト・ジャコメッティ)


アルベルト・ジャコメッティ
『ジャコメッティ|エクリ』
 
矢内原伊作・宇佐見英治・吉田加南子 共訳

みすず書房 
1994年7月7日 第1刷発行
1999年4月15日 第2刷発行
455p 目次v 著者・訳者略歴1p 
A5判 丸背布装上製本 カバー 
定価6,400円+税

Alberto Giacometti : Ecrits, présentés par Michel Leiris et Jacques Dupin, 1990



本書「読者に」より:

「本書はアルベルト・ジャコメッティの存命中に発表された文章はすべて収録され、死後発表された三篇がそれに加えられている。(中略)未刊の文章の大部分は、アルベルト・ジャコメッティ自身は失くしたと思っていた手帖やノートから採られた。(中略)対話については、(中略)すべてを収録するのは不可能なため、残念ながら取捨選択(中略)せざるをえなかった。」


本文中図版(モノクロ)多数。


ジャコメッティ エクリ 01


カバー: 「アトリエのジャコメッティ(ロベール・ドアノー撮影、一九五七)」


カバー裏文:

「形をなしている文章においても、走り書きのメモにおいても、アルベルト・ジャコメッティは、その造型作品において様式を目ざしたりしてはいないのと同様に、文体というものを目ざしたりしてはいない。彼がしようとしているのはただ、何かをとらえること、言うべきことをつかむことだけだ。今、死の暗いサロンの高い暖炉の上に身を置いて、頭も体もないジャコメッティは、ここに集められた文章と対話を通して語っている。渦をまいて燃える火であることをやめない彼の言葉を。
――ミシェル・レリス
この本を開いて現れる頁のどの片隅においても、アルベルト・ジャコメッティの作品と生をつかさどっていった三つの主な欲動の競合と連動とが疑う余地なく見えてくる。この彫刻家のエネルギーと輝きが、それらの欲動を突き動かし、引っぱり、方向を与え、明確な形を与える。三つの、そのひとつひとつが全きものである源、幼年期、女性、そして死。決してひとつに結ばれたことはなく、決して本当にはばらばらにほどかれたこともない……。書かれた文の一つ一つに、空虚の存在が緊張を、息を、絶えず疑いを忘れぬ力を、そして無限に開かれてゆくその動きを与えている。
――ジャック・デュパン」



ジャコメッティ エクリ 02


本体表紙: 「「そんなものはみな大したことでない」原稿」


目次:

読者に (k)
語るジャコメッティ、書くジャコメッティ (ミシェル・レリス)
終わりなきエクリチュール (ジャック・デュパン)
ジャコメッティ年譜

既刊の文章
 物いわぬ動くオブジェ
 七つの空間の詩
 褐色のカーテン
 灰となった草
 昨日、動く砂は
 実験的研究
 アンケートへの回答
 一九三四年の対話
 私は私の彫刻については間接にしか語れない
 アンリ・ローランス
 ジャック・カロについて
 夢・スフィンクス楼・Tの死
 ピエール・マティスへの手紙(一)
 作品の補足リスト
 ピエール・マティスへの手紙(二)
 盲人が夜の中に手をさしのべる……
 物いわぬ動くオブジェ(新版)
 灰色、褐色、黒……
 一九二〇年五月
 ドラン
 私の現実
 自転車と彫刻
 ディドロとファルコネは考えが同じだった
 私の芸術の意図
 『脚』について
 今日絵についてどのように語ればよいのか?
 ジョルジュ・ブラック
 終わりなきパリ
 模写についてのノート
 イエドリカ教授の訃に接し
 そんなものはみな大したことでない

手帖と紙葉
 子供時代の思い出
 「芸術」のための…
 魂と肉体は…
 ぼくは今カフェに…
 ぼくは同じ道を…
 全身像と二つの…
 彫像の作り方
 彫刻
 「すべての事物の…
 純粋芸術
 明日 一九二五年…
 ぼくは散歩して…
 「いかなる統御も…
 光の中の金の…
 水がきしる
 帰ってきたら…
 ぼくには哲学は…
 あらゆるものの…
 ぼくは、オブジェ…
 問題
 女が息子を…
 決してフォルムの…
 男と女
 私達は、裸
 生まれたのだ
 オブジェか
 批評、否
 おれはすべての
 リュリュ、リュリュ!
 まだ九時だ
 アルゴ船の乗組員
 ぼくはもうこわく…
 やさしい
 すべてが夢の…
 鐘が鳴る
 批評、否
 おぞましい
 曖昧さが…
 髪、剃った
 三次元にわたる…
 ブルトンは詩に
 またAEARについて
 無理だ、できない
 もっと先まで…
 ふう、ふう
 いささかも調整…
 女に対しての…
 ウ、ア
 フォルムの精神
 ぼくは自分の…
 すべてを歪曲する…
 過去に作られた…
 書くべきことは…
 外の世界と…
 あ、いたた!
 実物を写して…
 だが終わりという…
 書く、何頁も…
 ここで括弧に…
 一覧表。何の…
 奇妙な生
 ぼくは絵や…
 骨と化して…
 空間を現実に…
 ぼく、君
 風景! 風景
 ユーラシア
 [G] 多面体の…
 テリアードのための…
 ひと月のうちに…
 これらのちょっと…
 瞬間
 ローマに旅行…
 ぼくにはもう…
 言う? 何を?
 この部屋で…
 まったく常軌を…
 来週の初めに…
 ディエゴがそのうち…
 起きたら…
 もし仕事をしたいなら…
 ぼくは自分が…
 このコワールの…
 明日の朝は…
 ぼくの手は…
 そのことが起きて…
 ぼくは状況を…
 ぼくは今晩チューリヒを…
 A. I. OU

対話
 ジョルジュ・シャルボニエとの対話
 ゴットハルト・イエドリカ博士との対話
 矢内原伊作との対話
 ピエール・シュネーデルとの対話
 アンドレ・パリノとの対話
 ピエール・デュマイエとの対話
 ダヴィッド・シルヴェステルとの対話

原題・初出一覧
あとがき



ジャコメッティ エクリ 04



◆本書より◆


「子供の頃(四歳から七歳までの間)、私が外界のうちに見ていたものといえば、私の悦びに役立つようなものだけだった。とりわけそれは石と樹であり、また、同時に二つ以上のものであることは稀だった。私は想い出すが、少くとも二夏の間、私は私の周囲のものの中で、私の村から八〇〇メートルばかりのところにある一つの大きな石、この石とこれに直接関係のあるものしか見ていなかった。」

「同じ時期の終り頃、私は雪を待ち焦れた。(中略)雪の牧場に出かけて行って私は、ちょうど身体がはいるだけの大きさの穴を掘ろうと試みるのだった。表面からは丸い穴が見えるだけにすぎず、その穴はできるだけ小さくて、ぽっかり開いているだけである。(中略)そして一度そこにはいってしまえば、その場所は非常に暖かくて暗いだろうと私は想像した。私は大きな喜びを味わうに違いない……その日が来る前から私はしばしばこの悦びの幻覚を経験した。私はこの構築のすべての技術を考えてみることで時を過ごした。頭の中で私はこの仕事全体を、その隅々にいたるまで完成した。一つ一つの動作を私はあらかじめ知りつくしていた。すべてが崩壊するのを避けるにはどういう時に用心しなければならないかを私は考えた。完全に整備された私の穴を見、そこに入って行くことを思うと私は歓喜で満たされた。私はただ一人そこに閉じこめられて冬中を過ごしたかったのだ。そして食べたり寝たりするために家に帰らなければならないと考えるのは残念でならなかった。あらゆる私の努力にもかかわらず、またおそらくは外部の事情が悪かったために、私の願望はついに実現されなかったことを私は打ち明けなければならない。」



「手帖と紙葉」より:

「我々はあるものに興味を抱き、他のものより特にあるものに興味を抱いたりするが、それは我々の成り立ちが我々にそうさせるからなのだ。別の考え方や行動をすることは我々にはおそらく不可能であるからだ。自分の脚の長さや病気を選ぶことができないように、我々は自分の考え方や表現の方法を選ぶことができない。そして我々がどうしても表現したいと思って夢中になるこの熱中は、朝消えているランプの球のまわりを回っている蠅の動きと同じ種類のこと、まったく同じ種類のことなのだ。」

「水がきしる

石は柔かだ

ぼくの足はからまって動けない

くずおれる脚の中で

そして腕は落ちてゆく

傍らの空虚の中に」

「ぼくは自分が曖昧で少しぼやけていて、まちがった場所に置かれている人間だという気がしている。
考えてみること。」



「ダヴィッド・シルヴェステルとの対話」より:

「戦争になるまで、デッサンするとき私は、自分が見ていると思っているものよりもいつも一層小さくデッサンしていた。つまり、デッサンするとき私は、それがそんなに小さくなることに驚いたのだが、デッサンしないときは、私は人々の頭を実際の大きさで見ているような印象をもっていたのだ。それから、少しづつ次第に、特に戦後、私は仕事をするときにもつヴィジョンを、仕事をしていないときにも持つようになった。それほどそれは私の本性となり、それほど深くなったのだ。人物像を実物大にすることはもはや決して出来ない。私がカフェにいるとき、目の前の歩道を往き来する人々が私には見える。その人々は私には非常に小さく見え、それは非常に小さな人物像のようで、私はそれをすばらしいものと思う。しかしその人物たちを実物大に想像することは私には不可能だ。(中略)同じその人物が近づいてくると、それは別のものになる。しかしそれが近づきすぎると、例えば二メートルまで近づくと、本当のところ私にはもはやその人物が見えない。そこでは、それはもはや実物大ではない。それは視界全体を掩ってしまう。そしてそれはぼんやりとしか見えない。そしてそれ以上にもう少しでも近づくと、ヴィジョンは完全に消えてしまう。(中略)私は何かを見るたびごとに見えるもののすばらしさに驚嘆する。なぜなら私はもはや現実――どういえばいいのか――物質的、絶対的な現実を信じることができないからだ。すべては外見にすぎない。そうではないか。人物が近づいてくる場合、私がその人物を眺めるのをやめれば、その人物もまた存在するのをやめる!」

「われわれは、ごく小さな領域に自分を限定するのでなければ、何かをつくることはできない。」

「しかしともかく、テーブルと椅子とのあいだの五〇センチメートルほどの距離に対して前よりもずっと敏感になって以来、どの部屋であっても、一つの部屋は前よりも限りなく大きくなった。それは或る意味では世界ほどに広大になった。だから私はここで十分生きられる。だからそれは出歩くことを次第に不必要にする。私がもう散歩をしないのはこのためだ。私がする散歩は、カフェに行くのに必要な歩行をすることくらいだ。(中略)だがこれはもはや散歩をする楽しみのためではない。森のなかを散歩する楽しみは、私にとっては全く消滅してしまった。なぜなら、パリの歩道で最初に見る樹、それだけでもうたくさんだからだ。樹としては、私には、それだけでもう十分だ。樹を二本見るのはもう私には怖ろしい。昔はいろいろと旅行をしてみたいとも思ったが、今では、旅行をするとかしないとか、そんなことは全くどうでもいい! ものを見たいという好奇心は前よりも狭く限られるようになった。なぜならテーブルの上の一つのコップが前よりもずっと大きく私を驚かすからだ。
 私の前にある一つのコップが、私が絵のなかで見たすべてのコップ以上に私を驚かすとすれば、またもしも私が、建築における最高にすばらしいものもこのコップ以上に強い印象を与えることはないだろうと思うならば、しかじかの神殿を見るためにインドまで行く必要は全くないわけだ、それ以上にすばらしいものが目の前にあるのだからね。さらにまた、このコップが最高にすばらしいものとなれば、地上のすべてのコップもまた最高にすばらしいものになる。とすれば、他のすべての物もまた最高にすばらしいものになる。だから、ただ一つのコップだけを描こうとすることによって、きみは、すべてを描こうとする場合よりも、他のすべての物についてのいっそう大きな理解を得ることができるのだ。何かを半センチメートル把握すれば、きみは、空全体を描こうとする場合よりも、或る宇宙的な感情をもついっそう大きなチャンスをもつことになる。これとは反対に、一つのコップを見える通りにデッサンしようとだけ試みること、これはきわめてつつましい企てのように見える。しかし、ほんとうはこれはほとんど不可能な企てなのだから、これはつつましさなのか傲慢なのか、もはやわからない。」

「一つの彫刻作品が成功しているか失敗しているか、それは私にとっては全くどうでもいいことだ。一枚の絵が成功か失敗か、それは私にとっては全くどうでもいいことだ。絵が成功しているとか失敗だとか、デッサンが成功したとか失敗したとか、そんなことは全く意味がない。失敗したものには、成功したものに対してと全く同じように関心をもつ。」



ジャコメッティ エクリ 05






























































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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