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内田隆三 『ミシェル・フーコー』 (講談社現代新書)

「大切なのは、唯一つの差異の体系には決して還元されえない分散、絶対的な座標軸をもたない散乱をくり広げることである。すなわち、いかなる中心にも特権を与えないような脱中心化を行うことである。(『知の考古学』)」
(内田隆三 『ミシェル・フーコー』 より)


内田隆三 
『ミシェル・フーコー
― 主体の系譜学』

講談社現代新書 989 


講談社 
1990年3月20日 第1刷発行
207p 参考文献v 
新書判 並装 カバー
定価550円(本体534円)
装幀: 杉浦康平+谷村彰彦
カバーイラスト: 佐藤貞夫



本文中図版(モノクロ)32点、図表8点。章扉図版(モノクロ)5点。



内田隆三 ミシェル・フーコー 01



カバー文:

「言葉を、狂気を、監獄を語る
遠見の思想家フーコーの視線は
どこに向けられたのか――資料集成(アルシーヴ)の奥、思考不能の空間へ。
多様な言説(ディスクール)の分析を通し、遠望される非在の場。
主体のない饒舌と沈黙が交差する深部をフォーカシング
して見せる「陽気なポジティヴィズム」に迫る。」



カバーそで文:

「エピステーメーの歴史性――フーコーは問う。
たとえば古典主義時代の文法、博物学、富の研究、
あるいは近代の文献学、生物学、経済学において展開される思考や認識は、
一体どのような実定的台座の上で可能となったのか。
そこで知はどのような秩序の空間にしたがって構成されえたのか。
どのような歴史的アプリオリを下地として、どのような実定性の基盤において、
諸観念が現れ、諸科学が構成され、経験が哲学的に反省され、
合理性が形成されることができたのか、と。(中略)
明らかにしなければならないのは、認識がそこに自分の実定性の根を下ろしている場である。」



目次:

序章 知識人の肖像
 生まれて死ぬ
 自己への自由
 もっとも読んだ哲学者
 緑色のルノーに乗って
 ニーチェ
 系譜学
 ツァラトゥストラの課題
 知識人
 主体の問題
 生の様式化
 道先案内

第一章 フーコーの望遠鏡
 序言
 書物の始まり
 中国の百科事典
 困惑
 不思議な隣接
 共通の場(タブロー)
 思考のタブー
 エテロトピア・ユートピア
 失語症者のテーブル
 無言の秩序
 エピステーメーの歴史性
 西欧文化のエピステーメー
 
第二章 変貌するエピステーメー
 序言
  Ⅰ 一六世紀、ルネサンス
 交響する世界
 類似の様式
 言語としての世界
 世界としての言語
 書かれたものの優位
 新しい配置に向かって
 ドン・キホーテの狂気
 最後で、最初
 言語と物の分離
  Ⅱ 侍女たちのいる空間
 王女の運命
 侍女たちの構図
 疑わしい点
 自律する表象の空間
 奇妙な鏡
 閉ざされた表象のシステム
 王の不在
 古典主義時代から近代へ
  Ⅲ 「人間」の登場へ
 古典主義時代の記号
 秩序の分析
 「表」の空間
 博物学の空間
 構造と特徴
 壊された空間
 比較文法
 労働の経済学
 サド侯爵の幻影
 遊蕩者
 欲望の姉妹
 人間の登場
 言語の存在と人間

第三章 外の思考
 序言
  Ⅰ 私は構造主義者ではない
 質問状
 歴史そのものへ
 さまざまな時間性
 歴史と構造分析
 構造主義との差異
 脱中心化
 言語の存在
 理解可能性の転換
 力の関係へ
  Ⅱ 外の思考
 沈黙する狂気
 形式的な困難
 狂気の歴史
 言語の限界
 境界に響く声
 言語の欠乏
 表と裏
 ロマンティックな異生性
  Ⅲ これはパイプではない
 言語のなかの空洞
 ルーセルの手法
 差異と反復
 同一者とその分身
 宙に浮くパイプ
 不思議の由来
 絵画の前提
 隔たり

第四章 権力と主体の問題
 序言
  Ⅰ 言説の分析
 言説とは何か
 言表の相関項
 危険な言説
 稀少化のシステム
 二重の分析
 非言説的な実践
 監獄の失敗
 自己準拠的な装置
 権力装置
  Ⅱ 主体化の装置
 二つの装置
 パノプティコン
 機械仕掛け
 牧人=司祭制
 性の告白
 性の観念
 産出的な権力
 セクシュアリテ
  Ⅲ 主体の問題
 主体の系譜学
 第三の問題系
 『性の歴史』
 新しいプログラム
 倫理的な問題構成
 四つの主題をめぐって
 道徳の領域
 自己の技法
 自己への配慮

参考文献




◆本書より◆


「序章 知識人の肖像」より:

「ミシェル・フーコーは一九二六年、ポワチェに住むカトリック・ブルジョワの家に生まれた。」
「少年の頃から、彼は周囲に対して皮肉で辛辣とも取れるような態度を見せていた。宗教的規律の厳しいポワチェのコレージュに転校させられるが、そこでも教義や教育について懐疑的な意見を述べたという。彼はいつも何か居心地の悪さを感じているようにみえた。一九四五年、彼はエコール・ノルマル(高等師範学校)の試験を受けたが、失敗する。そして二度目の受験準備のためパリに行き、リセ・アンリ四世の準備級に入る。彼は控え目な生徒に見えたが、相当な勉強家として知られていた。
 一九四六年に彼はエコール・ノルマルに合格する。一時期共産党に入って、幹部の覆面作家になったりしたようだが、長続きはしなかった。彼は心理学に関心をもち、サンタンヌの心理学研究所などで学んだ。精神病理学を専攻するが、彼自身が不安な精神状態に陥り、またその同性愛のために、いつも過敏な緊張と孤独を強いられたようである。一九五〇年に哲学のアグレガシオン(教授資格試験)の口述試験の準備をしていたとき、「復習助手」として学生を鍛えていたルイ・アルチュセールと知り合い、生活上でも影響を受けることになる。
 この口述試験には落ちたが、発奮して再び試験の準備に入る。周囲との関係はあまりよくなかったが、精力的に勉強し、一九五一年、彼はアグレガシオンに優秀な成績で合格した。」

「だが、こうした個人的な事情をいくら並べてみても、彼の「顔」はぼやけたままであろう。フーコーは確かこう述べていたはずだ。「私は私のことを何も知らない。同じように私は私の死の日付けもまた知りはしない」と。また、書くという行為において「私が何者であるかを尋ねてはいけない」とも述べていた。彼の信条ともいうべきものは、常に自分自身から自由になること、自己からの離脱であったのだ。それは自分のいかなる同一性(identité)にも拘束されず、いうならば「自己への自由」を確保することであったように思われる。
 彼は『知の考古学』に正しくこう書いている。

 一人ならずの者が、おそらく私と同じように、顔をもたないために書いているはずです。私が誰であるのか尋ねないでください。私にいつも同じ状態でいろと言わないでください。そのように尋ねたり、言ったりするのは戸籍の道徳であり、それがわれわれの身分証明書を支配しています。書くことが問題であるとき、われわれはこの道徳から自由になるべきでしょう。(『知の考古学』)

 彼が終始一貫して拒否したのは、どんなものにせよ、自己の同一性(identité)という幻想である。同一性というのは慣習や、法や、制度や、規則が要求するものである。それは最小限度にして、また人の本質的な生存の様式をしばるものであってはならない。」

「彼は同一性の代わりに複数を選び、多数多様性によって答えるのである。」

「ハイデッガーとニーチェはともに、若いフーコーにとって大きな「哲学的衝撃」であったことはまちがいない。とはいえ、彼はハイデッガーだけを主題に書いたことはなく、ニーチェについても本格的には一篇の論文を書いたのみである。
 彼は構造主義者と呼ばれることを嫌った。だが、自らを「ただのニーチェ主義者」であると言ってはばからなかった。彼は自分がニーチェのテクストによっていくつかの分野で何ができるかを試しているだけだとも述べている。」

「心理学や精神病理学への接近は、若いフーコーの精神的な苦闘と関係していたのであろう。だが、この頃もっと深い部分で、フーコーの思想的な課題が形成されていたのである。それはおそらくニーチェの呼びかけに応えたものであり、歴史と真理への新しい眼差しが彼の思考の地平を大きく転回させたのである。かつて自殺を考えたといわれ、精神病院への入院も試みようとしたフーコー像を下敷きにして見ると、イタリア海岸への休暇の日々、地中海の明るい陽射しのなかでニーチェを読むフーコーの姿はとても印象的である。
 おそらくツァラトゥストラの笑いが、はじめてフーコーの情熱的な思考と辛辣な倫理観に見合うような知の水準を啓示したのであろう。」

「彼の仕事は、人びとにとって自明で、公理のように思われている、さまざまな慣習や規則、思考や行動の様式をもう一度問い直すこと、この「再―問題化」の作業である。
 フーコーの「知識人」としての主要な政治活動をたどってみると、一九七一年の「監獄に関する情報グループ」(GIP)の設立、運営をはじめ、国内外の囚人、移民労働者、ソビエトの反体制知識人、ポーランドの自主管理労組「連帯」、アジアの難民など、権力によって追い詰められた人びとを一貫して支援している。これらの人びとは、権力が要求する「人間」の規格(ノルム)から逸脱した人びとであり、(中略)彼らの身を賭した逸脱と抵抗において、権力に服従する「人間」とその同一性がどういうものなのかを逆に照明する人びとでもある。
 フーコーの知識人としての活動は、(中略)権力のシステムそのものを標的にしている。決して悲惨な人びとを「人間化」することが彼の真の目的ではないのだ。そうした人間化は権力のお恵みであり、同時に別の犠牲者を生み出すであろう。問題は、人間の規格(ノルム)とその逸脱をともに配置する権力のシステムそのものを明らかにし、人びとがその発言や行動において自分自身の在り方を自ら選択する自由を確保することである。」

「晩年になって、フーコーは、これまで自分が「主体」(subject)の問題を、しかも三重の仕方で取りあつかってきたのだと述べている。それは人が「主体」になる三つのプロセスに対応している。一つは、医学や人文諸科学のなかで行われた人間の主体化、つまり「真理との関係」のおける主体化である。二つは、狂気、病、犯罪などを分割し、排除する実践のなかで行われた人間の主体化、つまり「権力との関係」における主体化であり、三つは、性的な欲望を通して行われた人間の主体化、つまり「道徳との関係」における主体化である。」
「これらの研究では、「主体」とは誰にでも普遍的に求められる生存の形式を意味していた。(中略)それはごく一部の人のために考えられた生存の様式ではなく、近代的で民主的な社会性を構成するために、すべての人がそれに従うことを要求される生存の形式であった。
 この意味での主体――「subject」には服従、隷属、あるいは臣民という意味がある。「subject」とは服従の主体である。フランス語の「主体化」(assujettissement)には「従属化」という意味がある。「主体化」とは、人間がある一定の関係に、つまり真理との関係、権力との関係に従属する様式であり、この従属を通じて自己を与えられ、自己を確認し、自己(の同一性)の意識を得ることである。主体とは一個の自己になることだが、正確には、知と権力がある一定の戦略によって内側から誘導し、要求してくる「自己」の規格(ノルム:norme)に従属することなのである。」
「フーコーはほとんどその生涯をかけて、このような「主体」の自己同一性を系譜学的に解体したといえよう。だがそれでは、われわれは自己との道徳的な関係、つまり自己の実践とその倫理的な可能性をどのように考えていけばよいのか。この問題を考えるために出てくるのが、『性の歴史』の二、三巻、つまり『快楽の用法』『自己への配慮』における分析視点の移動である。
 そこで、フーコーは「主体」の問題を、普遍的な規範の形式としてではなく、能力ある人びとが自己を鍛え、ある高さを求めて行う「生の様式」として考察する。古代ギリシアやローマにおいて、ある種の「自由人」が理想とした生の様式には、明らかに近代の主体とは異なる自己との関係があった。古代道徳に見られる、その「生の様式」は自己の厳しい統御にもとづく自己の錬成であり、美学的=倫理的な主体化の様式であった。
 とはいえ、フーコーは古代ギリシアやローマの時代に見られる「生の様式」を素晴らしいとか、模範にしようとか思っているのではない。彼が注意しているのは、この「生の様式」がごく少数の人間を対象としていたことである。それは近代的な意味での道徳というよりも、むしろ生のスタイルや美学に近いものであった。それはすべての人に実現できるわけではないし、またすべての人に求められるものでもなかった。」
「それは決して万人の義務とは考えられず、基本的に個人の選択の問題だったのである。ここで重要なのは、諸個人にとっての「生の様式」の多様な可能性である。近代的な主体の規格をはるかに超えて、自分の生のいかなる様式化、そしてどのようなその多様化が可能であるのか。フーコーがわれわれに「現在の問題」として考えるべく、提示するのはまさにこの問題であったといえよう。」























































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ミシェル・フーコー 『これはパイプではない』 豊崎光一+清水正 訳

「クレーは新たな一空間を織り上げ、そこに彼なりの造形的記号を配置しようとした。マグリットは古い表象空間が君臨するにまかせるが、それも表面だけのこと、というのもこの空間はもはや図像と言葉がついた滑らかな石にすぎず、その下には何もありはしないのだから。」
(ミシェル・フーコー 「これはパイプではない」 より)


ミシェル・フーコー 
『これはパイプではない』 
豊崎光一+清水正 訳



哲学書房
1986年4月25日 発行
135p 訳者紹介1p
19.4×12.4cm 
角背紙装上製本 カバー
定価1,400円



Michel Foucault: Ceci n'est pas une pipe, Editions Fata Morgana, 1973
本文中図版8点。



フーコー これはパイプではない 01



目次:

Ⅰ ここに二つのパイプがある
Ⅱ こわされたカリグラム
Ⅲ クレー、カンディンスキー、マグリット
Ⅳ 言葉の陰にこもった働き
Ⅴ 肯定=断言の七つの封印
Ⅵ 描くことは肯定=断言することではない
ルネ・マグリットの二通の手紙
著者による註

校異
訳註
『これはパイプではない』について (豊崎光一)
本書の翻訳についての覚え書き (豊崎光一)




◆本書より◆


「Ⅱ こわされたカリグラム」より:

「マグリットはカリグラムが自らの語るものの上に閉した罠を再び開いた。だが、まさにそのせいで物そのものは飛び去ってしまった。図解入りの本のページの上で、言葉の上方、画の下方を走っているあのささやかな白い空間に注意を払う慣わしが人にはないが、その空間は両者のあいだを絶えず行き来するための共通の境界線として役立っているものである。というのも、そこ、幅数ミリのこの空白、ページの静かな砂の上にこそ、言葉と形態とのあいだで指示、命名、記述、分類といったあらゆる関係が結ばれるのだから。カリグラムはこの間隙を同化吸収したわけだが、しかし再び開かれたときにも、それを元通りに返してくれはしない。罠はこじ開けられたが、中は空(から)だった。画像と文とはそれらに固有の重力にしたがってそれぞれの側に落ちるのだ。それらはもはや共通の空間、双方が干渉できるような場、言葉が図像を受け取ることができ、そして画像が語彙の領野に入り込むことができるような場というものを持たない。マグリットの画において文と図像を分け隔てているか細く、無色で、中立的な、ささやかな帯、そこに見てとるべきは一個の凹み、今やその画像の空高く浮遊するパイプと、継起する線の上を行進する語たちの側の地上の歩みとを隔てている不確かでとりとめのない地帯なのである。もっとも、そこに空虚ないし欠落があると言うのは言いすぎであるが。それはむしろ空間の不在、書字という記号と画像を象る線とのあいだの「共通の場」の消滅なのだ。それを名づける言表とそれを象るべき画とのあいだで共有されていた「パイプ」、形態の線と言葉の繊維とを交叉させていたあの影のパイプは、決定的に逃れ去ってしまった。この失踪を、この深からざる小川(【訳註3】)の向う側で、文は面白そうに確認する――これはパイプではない、と。今や孤独に取り残されたパイプの画が、通常パイプ(引用者注: 「パイプ」に傍点)という言葉が指示するあの形態にあらんかぎり自分を似せてみたところで空しく、文が画の下方で、学術書の中の説明文の念入りな忠実さをもって拡がってみせたところで空しい。それらのあいだを通り得るものといっては、もはや離反の表明のみ、画の名と文の指示対象とに同時に疑議を表明する言表のみなのである。

 どこにも、パイプはありはしないのだ。

 そこからして、マグリットが提示した「これはパイプではない」のシリーズ最後の作品が理解される。パイプの画とその説明文の役をつとめる言表とを絵=黒板(引用者注: 「絵=黒板」にルビ「タブロー」)の明確に枠を定められた表面に据え(それが絵であるかぎりにおいて文字は文字の画像であり、黒板であるかぎりにおいて図像は言説の教育的延長にすぎない)、その絵=黒板を太くて頑丈な三脚の上に据えることによって、マグリットは画像と言語とに共通の場を再構成する(藝術作品の永続性を通じてであれ、物の名を教える授業の真実性を通じてであれ)のに必要なことすべてをしているのである。

 すべては学校的な空間の内部にしっかりと繋ぎとめられている。黒板(タブロー)がパイプの形を「示す」画を「示す」。そして熱心な小学校教師の書いた文は、それがパイプであることを「示す」。先生の人さし指は見えはしないけれども、いたるところに君臨しており、「これはパイプではない」と明瞭に発音するその声も同様である。黒板から画像へ、画像から文へ、文から声へと、全般的な人さし指(インデックス)のようなものが指し、示し、定め、標定し、移送の一システムを課しており、唯一無二の空間を安定させようと努めているのだ。だが私はなぜまた先生の声を持ち出したりしたのだろう、というのも、その声は「これはパイプです」と言うが早いか、たちまちしどろもどろになってこんな風に言い直さねばならなくなるからだ、「これはパイプではなく、パイプの画です」、「これはパイプではなく、それはパイプではないと述べる文です」。「《これはパイプではない》という文はパイプではない」、「《これはパイプではない》という文の中のこれ(引用者注: 「これ」に傍点)というのはパイプではない、この黒板、この書かれた文、このパイプの画、こうしたものはみなパイプではないのです」。

 否定はますます増えてゆき、声はもつれ、つまる。混乱した先生はのばした人さし指を下ろして黒板から向き直り、身をよじって笑い転げる生徒たちを眺めやるのだが、生徒たちがこんなにも大笑いしているのは、黒板の上、ぶつぶつと打ち消しの言葉を呟く先生の頭上に、湯気が立ち昇って徐々に形をなし、今や何ら疑問の余地のないほど実に正確に一つのパイプを描き出しているからだということに気づいていない。「それはパイプです、それはパイプです」、生徒たちは足を踏み鳴らしながら喚きたて、一方先生の方はますます小声になりながらも、やはり相変らず頑として「それでもこれはパイプではない」と呟くが、もう誰も耳を藉す者はいない。彼は間違ってはいない。というのも、この情景の上方にあんなにもはっきり目に見える形で浮遊しているパイプ、黒板のデッサンがそれに照合され、その名においてこそ文が正当な資格で、画は本当にはパイプではないと言い得る、そんな物としてのパイプ、このパイプとても所詮は画にすぎず、パイプでは毛頭ないのだから。黒板の上であれその上方であれ、パイプの画とパイプを名ざすべき文とは、カリグラムを作った人が不遜にもそうすることを試みたように、たがいに相会して、ピンで止めたようにくっつきあう場所を見出しはしないのである。

 してみれば、足が斜めに切られていて見るからに不安定な画架は、もはや平衡を失って倒れるほかはなく、額縁はばらばらになり、タブローは床に転がり、文字は散り散りになるほかないのだし、「パイプ」も「こわれる」(【訳註4】)かもしれない。共通の場(リュー・コマン)〔紋切り型〕というもの――陳腐な作品ないし毎日の変りばえのしない授業――は消滅したのだ。」



「訳註」より:

「3 「深からざる小川」 peu profond ruisseau というのは、マラルメのソネ、(ヴェルレーヌの)『墓』の最終行の一部分である。そしてマラルメにおいて、この「深からざる小川」は「死」の同格であり敷衍(ペリフラーズ)である。

4 「パイプ」が「こわれる」 se casser という表現は、casser la pipe (パイプをこわす=死ぬ)という成句を下敷きにしている。」




フーコー これはパイプではない 02






























ミシェル・フーコー 『わたしは花火師です』 (ちくま学芸文庫)

ミシェル・フーコー 
『わたしは花火師です 
フーコーは語る』
中山元 訳

ちくま学芸文庫 フ-12-9

筑摩書房 
2008年9月10日 第1刷発行
222p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,000円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 神田昇和


「本書は「ちくま学芸文庫」のためにあらたに編集・訳出された。」



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、四冊組みのガリマール版著作集(Michel Foucault, Dits et Ecrits, Gallimard, 邦訳は『ミシェル・フーコー思考集成』、筑摩書房、全一〇巻)に収録されていない文章を中心に、一九七四年から一九七八年までの中期のフーコーの姿をありありと描く対話と講演を集めたものである。」


本書「わたしは花火師です――方法について」の「訳注」より:

「ここで花火師と訳したアルティフィシエという語は、あるいは軍隊の「爆破技師」と訳すべきかもしれない。」


フーコー わたしは花火師です


カバー裏文:

「『狂気の歴史』から『知の考古学』『監獄の誕生』と中期の作品を書き継いで脂ののりきったフーコーの初訳対話・講演集。自らの軌跡についてはあまり語らなかったフーコーが、学生時代、若手教授時代の雰囲気などにもふれ、率直にその仕事を語る2編の対話、カントの「啓蒙」と「批判」というテーマを正面から展開し、18世紀における知と権力の関係の画期的な転回を明らかにする白熱の講演、中世以来の施療院的医療体制が17-19世紀初頭にかけて近代的な病院=医学的知の体制に転換する過程をていねいに解明する講義2編を収める。70年代後半のフーコー自身による、格好の著作案内である。」


内容:

わたしは花火師です――方法について 
(1975年6月、ロジェ=ポール・ドロワとの対話)
哲学を厄介払いする――文学について、これまでの軌跡について 
(1975年6月、ロジェ=ポール・ドロワとの対話)
批判とは何か――批判と啓蒙 
(1978年5月27日、フランス哲学協会での発表)
医療化の歴史 
(1974年10月、ブラジルのリオデジャネイロ国立大学の社会医学コースで発表された二回目の講演)
近代技術への病院の統合 
(1974年10月、ブラジルのリオデジャネイロ国立大学の社会医学コースで発表された三回目の講演)

訳者あとがき




◆本書より◆


「この医学的な知の研究から、十八世紀末に起きた〔知の枠組みにおける〕急激な変動に注目するようになりました。この変動が起きなければ、精神医学と精神病理学は誕生しえなかったのですし、生物学と人間科学も誕生しえなかったのです。ある種の経験的な知から、別の種類の経験的な知への移行が起きたのです。(中略)わたしが、十八世紀末に一つの断絶があったことを指摘したときに、わたしのことを頭がおかしくなったのではないかと言う人もいたのですが、そんなことを言う人は、文法についてでも、医学についてでも、経済学についてでも、この種の本をほとんど読んだことがなかったに違いありません。(中略)わたしがこの断絶にこれほどにこだわるのは、それは物事を解決する方法などではなく、この上なく解きがたい難問だからなのです。」
「このような変動が可能となった土台を考察するには、十七世紀から現在にいたるまでの権力の技術とその変遷を調べる必要があったのです。『言葉と物』はこの断絶を確認し、それがどうして生まれたかを説明する必要があることを確認するにとどまっていました。『監獄の誕生』はいわば系譜学的な研究であり、この断絶が可能となる歴史的な条件を分析したものなのです。
わたしは、理性と非理性についてのある種の人類学にもとづいて、狂者という人格だけでなく、正常な人間という人格がどのように構築されていったのかを理解し始めました。こうした調査によって、人間がすべての中心であるという考え方は、十九世紀の自然科学のディスクール、人間科学のディスクール、哲学のディスクールに固有なもの、いわばこのディスクールの〈顔〉なのだと考えるようになりました。これらのすべては、人間に固有のこの〈顔〉を中心としているのです。これは古代に遡る哲学のディスクールから直接に生まれたものではなく、近代の大きな屈曲によって生まれたものなのです。この屈曲の起源は完璧にたどることができますし、この〈顔〉がおそらく十九世紀末以来、どのように消滅しようとしているかも明らかにすることができるのです。」
「西洋で機能している種類のディスクールは、もう何世紀も前から、真理のディスクールであり、それがいまでは世界的な次元にまで到達しています。この種のディスクールは、すべての種類の権力の現象に、権力関係の現象に結びついているのです。真理には権力が伴うのです。権力を行使する真理は、実践的な効果と政治的な効果を伴います。たとえば狂者が排除されたのは、合理性にもとづくディスクールがもつ無数の権力の効果の一つです。この権力の効果はどのように機能するのか、それはどのようにして可能になったのか。わたしはこの問いに答えようとしているのです。」
「権力は非常に遠いところまで及ぶものであり、きわめて深い場所にまではいりこむものです。権力は毛細管のようなごく細い管で構成されたきわめて密なネットワークで運ばれるものなので、権力のない場所などあるだろうかと問いたくなるものです。(中略)わたしたちは誰もが、権力のターゲットであるだけではなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです。」

「わたしは歴史をあくまで道具として利用します。わたしにとって歴史の可能性が現れるのは、現実の世界でわたしが直面する精密な問いからです。ところが大学では歴史を基本的に保守的な形で使っています。あるものの過去を再発見するのは、基本的にそのものが存続できるようにするためです。たとえば精神病院の歴史が研究されることがありますね。(中略)それは精神病院がどのような意味で必然的なものか、歴史的に運命づけられたものであるかを示すために行われるのです。
わたしがやろうとしているのは、まさにその反対のことです。あるものの不可能性を明らかにすること、たとえば精神病院の機能は、恐るべき不可能性にもとづいたものであることを示すことなのです。わたしのやろうとする歴史研究は、説明を目的とするものではありませんし、あるものの必然性を証明するものでもありません。むしろ、ある連鎖的な出来事が発生し、それがいかにして不可能性を作りだしたか、そして現在にいたるまで、いかにしてみずからのスキャンダルを、みずからの逆説を作り直してきたかを示すものなのです。歴史のプロセスにおいてわたしが大きな関心を抱くのは、その不規則的な要素、偶然的な要素、予測不可能な要素なのです。
――普通ですと歴史家は、例外的なものは避けるものですが……。
それは、事物を保存する機能をはたす歴史家の任務は、こうした異例なものや偶然的なもの、鋸の歯のようにギザギザな出来事を均(なら)して、見えないようにすることだからです。こうしたものを均して見えなくしてしまえば、必然性という見掛けが保てます。(中略)ところがわたしの任務といえば、複数性、遭遇、不可能なもの、予測できないものに、最大限のチャンスを与えることにあるのです……。」

「わたしの敵は人ではなく、むしろディスクールにおいて、できればわたしのディスクールにおいて跡づけることのできるある種の〈線〉のようなものです。わたしはその〈線〉から離れたい、その〈線〉を厄介払いしたいと願っているのです。いずれにしてもこれは戦争なのです。そして戦争では軍隊が道具であるように、わたしのディスクールは一つの道具のようなもの、むしろ一つの武器のようなものなのです。あるいは火薬の詰まった袋のようなもの、火炎瓶のようなものなのです。最初の譬えに戻るならば、これはある花火師(アルティフィシエ)の物語なのですから……。」


































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

すきなことば: 「だれもいない」「ギブアウェイ」「ウポポイ」「隠密」
きらいなことば: 「人と人とのつながり」「キャリアアップ」「ほぼほぼ」「三密」

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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