ミシェル・フーコー 『わたしは花火師です』 (ちくま学芸文庫)

2013年12月15日。


ミシェル・フーコー 
『わたしは花火師です フーコーは語る』
中山元 訳
 
ちくま学芸文庫 フ-12-9

筑摩書房 2008年9月10日第1刷発行
222p 文庫判 並装 カバー 定価1,000円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 神田昇和

「本書は「ちくま学芸文庫」のためにあらたに編集・訳出された。」



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、四冊組みのガリマール版著作集(Michel Foucault, Dits et Ecrits, Gallimard, 邦訳は『ミシェル・フーコー思考集成』、筑摩書房、全一〇巻)に収録されていない文章を中心に、一九七四年から一九七八年までの中期のフーコーの姿をありありと描く対話と講演を集めたものである。」

本書「わたしは花火師です――方法について」の「訳注」より:

「ここで花火師と訳したアルティフィシエという語は、あるいは軍隊の「爆破技師」と訳すべきかもしれない。」


わたしは花火師です


カバー裏文:

「『狂気の歴史』から『知の考古学』『監獄の誕生』と中期の作品を書き継いで脂ののりきったフーコーの初訳対話・講演集。自らの軌跡についてはあまり語らなかったフーコーが、学生時代、若手教授時代の雰囲気などにもふれ、率直にその仕事を語る2編の対話、カントの「啓蒙」と「批判」というテーマを正面から展開し、18世紀における知と権力の関係の画期的な転回を明らかにする白熱の講演、中世以来の施療院的医療体制が17-19世紀初頭にかけて近代的な病院=医学的知の体制に転換する過程をていねいに解明する講義2編を収める。70年代後半のフーコー自身による、格好の著作案内である。」


内容:

わたしは花火師です――方法について 
(1975年6月、ロジェ=ポール・ドロワとの対話)
哲学を厄介払いする――文学について、これまでの軌跡について 
(1975年6月、ロジェ=ポール・ドロワとの対話)
批判とは何か――批判と啓蒙 
(1978年5月27日、フランス哲学協会での発表)
医療化の歴史 
(1974年10月、ブラジルのリオデジャネイロ国立大学の社会医学コースで発表された二回目の講演)
近代技術への病院の統合 
(1974年10月、ブラジルのリオデジャネイロ国立大学の社会医学コースで発表された三回目の講演)

訳者あとがき



本書より:

「この医学的な知の研究から、十八世紀末に起きた〔知の枠組みにおける〕急激な変動に注目するようになりました。この変動が起きなければ、精神医学と精神病理学は誕生しえなかったのですし、生物学と人間科学も誕生しえなかったのです。ある種の経験的な知から、別の種類の経験的な知への移行が起きたのです。(中略)わたしが、十八世紀末に一つの断絶があったことを指摘したときに、わたしのことを頭がおかしくなったのではないかと言う人もいたのですが、そんなことを言う人は、文法についてでも、医学についてでも、経済学についてでも、この種の本をほとんど読んだことがなかったに違いありません。(中略)わたしがこの断絶にこれほどにこだわるのは、それは物事を解決する方法などではなく、この上なく解きがたい難問だからなのです。」
「このような変動が可能となった土台を考察するには、十七世紀から現在にいたるまでの権力の技術とその変遷を調べる必要があったのです。『言葉と物』はこの断絶を確認し、それがどうして生まれたかを説明する必要があることを確認するにとどまっていました。『監獄の誕生』はいわば系譜学的な研究であり、この断絶が可能となる歴史的な条件を分析したものなのです。
わたしは、理性と非理性についてのある種の人類学にもとづいて、狂者という人格だけでなく、正常な人間という人格がどのように構築されていったのかを理解し始めました。こうした調査によって、人間がすべての中心であるという考え方は、十九世紀の自然科学のディスクール、人間科学のディスクール、哲学のディスクールに固有なもの、いわばこのディスクールの〈顔〉なのだと考えるようになりました。これらのすべては、人間に固有のこの〈顔〉を中心としているのです。これは古代に遡る哲学のディスクールから直接に生まれたものではなく、近代の大きな屈曲によって生まれたものなのです。この屈曲の起源は完璧にたどることができますし、この〈顔〉がおそらく十九世紀末以来、どのように消滅しようとしているかも明らかにすることができるのです。」
「西洋で機能している種類のディスクールは、もう何世紀も前から、真理のディスクールであり、それがいまでは世界的な次元にまで到達しています。この種のディスクールは、すべての種類の権力の現象に、権力関係の現象に結びついているのです。真理には権力が伴うのです。権力を行使する真理は、実践的な効果と政治的な効果を伴います。たとえば狂者が排除されたのは、合理性にもとづくディスクールがもつ無数の権力の効果の一つです。この権力の効果はどのように機能するのか、それはどのようにして可能になったのか。わたしはこの問いに答えようとしているのです。」
「権力は非常に遠いところまで及ぶものであり、きわめて深い場所にまではいりこむものです。権力は毛細管のようなごく細い管で構成されたきわめて密なネットワークで運ばれるものなので、権力のない場所などあるだろうかと問いたくなるものです。(中略)わたしたちは誰もが、権力のターゲットであるだけではなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです。」

「わたしは歴史をあくまで道具として利用します。わたしにとって歴史の可能性が現れるのは、現実の世界でわたしが直面する精密な問いからです。ところが大学では歴史を基本的に保守的な形で使っています。あるものの過去を再発見するのは、基本的にそのものが存続できるようにするためです。たとえば精神病院の歴史が研究されることがありますね。(中略)それは精神病院がどのような意味で必然的なものか、歴史的に運命づけられたものであるかを示すために行われるのです。
わたしがやろうとしているのは、まさにその反対のことです。あるものの不可能性を明らかにすること、たとえば精神病院の機能は、恐るべき不可能性にもとづいたものであることを示すことなのです。わたしのやろうとする歴史研究は、説明を目的とするものではありませんし、あるものの必然性を証明するものでもありません。むしろ、ある連鎖的な出来事が発生し、それがいかにして不可能性を作りだしたか、そして現在にいたるまで、いかにしてみずからのスキャンダルを、みずからの逆説を作り直してきたかを示すものなのです。歴史のプロセスにおいてわたしが大きな関心を抱くのは、その不規則的な要素、偶然的な要素、予測不可能な要素なのです。
――普通ですと歴史家は、例外的なものは避けるものですが……。
それは、事物を保存する機能をはたす歴史家の任務は、こうした異例なものや偶然的なもの、鋸の歯のようにギザギザな出来事を均(なら)して、見えないようにすることだからです。こうしたものを均して見えなくしてしまえば、必然性という見掛けが保てます。(中略)ところがわたしの任務といえば、複数性、遭遇、不可能なもの、予測できないものに、最大限のチャンスを与えることにあるのです……。」

「わたしの敵は人ではなく、むしろディスクールにおいて、できればわたしのディスクールにおいて跡づけることのできるある種の〈線〉のようなものです。わたしはその〈線〉から離れたい、その〈線〉を厄介払いしたいと願っているのです。いずれにしてもこれは戦争なのです。そして戦争では軍隊が道具であるように、わたしのディスクールは一つの道具のようなもの、むしろ一つの武器のようなものなのです。あるいは火薬の詰まった袋のようなもの、火炎瓶のようなものなのです。最初の譬えに戻るならば、これはある花火師(アルティフィシエ)の物語なのですから……。」


































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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