『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅲ 重力と恩寵/救われたヴェネチア』

「荒野のなかを、ぼくは生涯さまよわなければならないのだろうか?
ぼくは夢を見ているのだろうか? とつぜん、人間であることを止めたのだろうか?
これまでもぼくは、現在あるようなぼくであったのかもしれない。」
「人間に逢わずに暮らすには、どこへいけばよいのだろうか?」

(シモーヌ・ヴェーユ 「救われたヴェネチア」 より)


『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅲ 
重力と恩寵/救われたヴェネチア』
編集: 橋本一明・渡辺一民


春秋社 
1968年5月10日 第1刷発行
1987年6月20日 第8刷発行
413p 口絵i 
四六判 丸背クロス装上製本 貼函 
定価2,000円



「編者後記」より:

「この巻に収められている『重力と恩寵』と『救われたヴェネチア』の二篇は、きわめて性格を異にする二つの作品である。前者はヴェーユの死後、彼女の残した膨大な『ノート』をもとにギュスターヴ・ティボンの編んだものであり、後者はヴェーユがその生前完成を希っていた戯曲の未定稿だからである。」


ヴェイユがティボンに託した「ノート」の(ほぼ)全訳は、『カイエ』全四巻のうち第一巻~第三巻としてみすず書房から刊行されています。『カイエ』第四巻に収録された最晩年のノートは、それ以前には『超自然的認識』として刊行されていたものの(ほぼ)完全版ですが、そこには、本書にも収録されている、「救われたヴェネチア」のための覚え書が含まれています。


ヴェーユ著作集


目次:

重力と恩寵 (渡辺義愛 訳)
 序文 (G・ティボン)
 重力と恩寵
 真空と埋め合わせ
 真空を受け容れること
 執着から脱け出すこと
 真空を埋める想像力
 時間を放棄すること
 対象なしに欲求すること
 「私」
 遡創造
 消え去ること
 必然性と従順
 錯覚
 偶像崇拝
 愛
 悪
 不幸
 暴力
 十字架
 秤と梃子
 不可能なこと
 矛盾
 必然的なものと善とのへだたり
 偶然
 愛すべきものは不在である
 浄化作用をもつ無神論
 注意と意志
 訓練
 知性と恩寵
 読み
 ギュゲスの指輪
 宇宙の意味
 仲立ち
 美…
 代数学
 社会の烙印を
 巨獣
 イスラエル
 社会的調和
 労働の神秘

救われたヴェネチア (渡辺一民 訳)
 救われたヴェネチア 三幕の悲劇 (未定稿)
 『救われたヴェネチア』に関するノート

編者後記 (渡辺一民)



重力と恩寵2



◆本書より◆


「重力と恩寵」より:

「恩寵、それは下降の法則である。」

「あまりひどすぎる不幸に陥った人間は憐れんでさえもらえない。いやがられ、嫌われ、さげすまれる。」

「純粋に愛すること。それはへだたりを受け容れることである。自分自身と自分の愛するものとのあいだの距離をこよなく愛することである。」

「精神につきあたるもろもろの矛盾、それらだけが実在性の諸相である。それらは実在的なものを見分ける基準である。想像上のもののなかには矛盾はない。矛盾の有無によって必然性の有無がたしかめられる。」

「ほんとうの善はどんなものでも相矛盾する条件をともなう。だから、その結果、不可能である。注意をこの不可能にほんとうに集中し、そして行動する人は、善を行なうであろう。
 同じように、どんな真理にも矛盾が含まれている。
 矛盾はピラミッドの頂点である。」

「魂のふるまいのなかに相容れないものが同時に存在すること。ちょうど両側に同時に傾いている秤のように。それが聖性であり、小宇宙の実現であり、世界の秩序を模倣することである。」

「悪は善の影である。固体性と厚みをそなえた現実の善はすべて悪を投影する。想像上の善だけは影を投げかけない。
 すべての善はなにがしかの悪と結びついている。そこで、もし人が善をのぞみ、しかもそれにともなう悪を身のまわりに及ぼしたくないと思うならば、その悪を避けることはできないので、どうしてもそれを自分ひとりで背負いこまなければければならなくなる。
 したがって、この上もなく純粋な善を希求する場合は、いちばんひどい悪を背負いこむ覚悟を必要とする。」

「いちばん貴重なものは生存のなかに根をおろしていないことを知ること。このことはすばらしい。なぜ? それは魂を時間の枠のそとに投げ出すからである。」

「新しいことがらを理解するには及ばない。むしろ(中略)全身全霊を傾けて、明白な真理の理解にたどりつくよう心がけなければならない。」



「救われたヴェネチア」より:

「かつて人びとはぼくの言うことろに耳傾けた、話せば答えたものだった。
ぼくの言葉はぼくの意志を人びとのあいだにはこび、
ぼく自身人間だった。だがいまは獣のように
ぼくがこれほど切望しても、ぼくの声は理解されない。
ぼくの魂が哀訴するために、ほとばしり出ようとしてもいまは空しい。
ぼくの苦しみは黙りこくり、ぼくの罪はただうるさがらせるばかりなのだ。
ぼくのまわりのあの固い表情を、おののかせるものはもうなにもない。
そしてぼくの耳にする言葉もまた、ぼくには苦痛をあたえる雑音にすぎぬ。
だれひとり答えてはくれない。どのような運命がぼくのうえにしのびよったのだろう?
荒野のなかを、ぼくは生涯さまよわなければならないのだろうか?
ぼくは夢を見ているのだろうか? とつぜん、人間であることを止めたのだろうか?
これまでもぼくは、現在あるようなぼくであったのかもしれない。」

「もしこのさき生きのびようと望むのなら、ひとことで
日々の糧を拒否しあたえもする人びとを、しばしば
探し歩かねばならないだろう、つねにあらゆる場所で
ぼくの裏切りが知られてはいまいかと怖れながら。
旅をどのようにいそごうとも、噂はそれよりもはやく走り、
いかなる望みをいだこうとも、この地上でぼくは、
そのまえへ出ておののかずにすむ、そのような視線に出逢うことはあるまい。
人間に逢わずに暮らすには、どこへいけばよいのだろうか?
ああ、生きながらえ、しかも太陽を見ないですませることができるならば!
気違いになりそうだ。そんなに見つめられると、
あわれんでいってくれ、気違いにはなりたくないのだから。」

「友もなく名誉も奪われ、追放されてぼくは去る。
ぼくに期待できるものはもうないのだ、なにもかも奪われてしまったから。
どこへいったらいいのだろう? 裏切者をだれが迎えてくれようか、
ぼくの裏切りが救ってやった人びとすら、ぼくを追放するからには?」









































































































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『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅳ 神を待ちのぞむ 他』

「ヨーロッパは霊的に根こぎにされ、われわれの文明のあらゆる要素の源があるあの古代文明から切断されてしまったのです。そして十六世紀以来、ほかの大陸に出かけて行ってそこを根こぎにしてしまったのです。」
(シモーヌ・ヴェーユ 「ある修道者への手紙」 より)


『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅳ 
神を待ちのぞむ 他』
編集: 橋本一明・渡辺一民


春秋社 
1967年11月10日 第1刷発行
1981年7月20日 第7刷発行
291p 口絵i 
四六判 丸背クロス装上製本 貼函 
定価1,500円



ヴェーユの没後に刊行された、「神を待ちのぞむ(Attente de Dieu)」「ある修道者への手紙(Lettre à un Religieux)」の二冊を収録。


ヴェーユ著作集


目次:

神を待ちのぞむ (渡辺秀 訳)
 手紙
  1 洗礼のためらい
  2 洗礼のためらい・追伸
  3 出発の決心
 別れの手紙
  4 霊的自叙伝
  5 知性の使命
  6 最後の思い
 論文
  神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察
  神への愛と不幸
  はっきり意識されない神への愛の諸形態
   隣人愛
   世界の秩序への愛
   宗教的なつとめへの愛
   友情
   はっきり意識されない神への愛とはっきり意識された神への愛
  「主の祈り」について
  ノアの三人の息子と地中海文明史
  序文 (J・M・ペラン)

ある修道者への手紙 (大木健 訳)

シモーヌ・ヴェーユとキリスト教 (大木健)




◆本書より◆


「神を待ちのぞむ」より:

「わたくしをこわがらせるのは、社会的なものとしての教会でございます。教会が汚れに染まっているからということだけではなく、さらに教会の特色の一つが社会的なものであるという事実でございます。わたくしが非常に個人主義的な気質だからではございません。わたくしはその反対の理由でこわいのです。わたくしには、人々に雷同する強い傾向があります。わたくしは生れつきごく影響されやすい、影響されすぎる性質で、とくに集団のことについてそうでございます。もしいまわたくしの前で二十人ほどの若いドイツ人がナチスの歌を合唱しているとしたら、わたくしの魂の一部はたちまちナチスになることを、わたくしは知っております。これはとても大きな弱点でございます。けれどもわたくしはそういう人間でございます。生れつきの弱点と直接にたたかっても、何もならないと思います。」
「わたくしはカトリックの中に存在する教会への愛国心を恐れます。愛国心というのは地上の祖国に対するような感情という意味です。わたくしがそれを恐れるのは、伝染によってそれに染まることを恐れるからです。(中略)わたくしはそういう種類の感情を何も持ちたくないからです。持ちたくないという言葉は適当ではありません。すべてそういう種類の感情は、その対象が何であっても、わたくしにはいまわしいものであることをわたくしは知っております。」

「ある生れつきの傾向、ある気質、ある過去、ある使命などを持っている者にとっては、秘蹟を望んでいて受けられないことが、秘蹟にあずかることよりも純粋な秘蹟との接触になりうるということは、おそらく考えられないことではございません。」

「もしわたくしにはいつかキリストの十字架にあずかるに値するような御恵みがあたえられないのでしたら、少くとも悔い改めた盗賊の十字架にあずかりたいと思います。福音書の中で問題になるキリスト以外のすべての人の中で、わたくしはあの悔い改めた盗賊をだれよりもはるかにうらやましく思います。キリストと並んで同じ状態で十字架につけられていたことは、栄光のキリストの右に坐することよりも、わたくしにははるかにうらやましい特権のように見えます。」

「半分つぶされた虫のように、地面の上をのたうちまわるような打撃をうけた人々には、自分の身に起ったことを表現する言葉がない。彼らが出会う人々は、多くの苦しみをなめていても、本来の意味の不幸に触れたことがなければ、それがどういうものなのか全然わからない。それは(中略)ほかのどんなものにも還元できない独特のものなのだ。そして自分が不幸で傷ついている人たちは、だれにも助けをあたえるような状態ではないし、助けをあたえようと欲することもほとんどできない。だから不幸な人に同情することは不可能なことだ。」
「人間の肉体的な本性は動物と共通のものだ。めんどりたちは傷ついためんどりにとびかかって、つつこうとする。これは重力と同じようにメカニックな現象だ。(中略)すべての人が、ほとんどだれも意識していないけれども、不幸な人を侮蔑している。
 こういうわたくしたちの感受性の法則は、自分に対しても同じようにはたらくものだ。この侮蔑、この嫌悪、この憎悪が、不幸な人にあっては、自分自身に向い、魂の中心にしみこんで、そこから、それらの毒のある色彩で、宇宙全体を彩ることになる。」
「本当の愛にあっては、わたくしたちが神において不幸な人々を愛するのではなく、わたくしたちの中の神が不幸な人々を愛するのだ。」




































































『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅰ 戦争と革命への省察 ― 初期評論集』

「ローマ帝国は、私の考えでは、人類の発展にとって史上に見出だしうるもっとも不吉な現象です。なぜなら、それは、若干の文化を、また古代と呼ばれるものの偉大さを作りなした地中海沿岸におけるさまざまな理念のあの驚くべき交換を、ほとんど跡方もなく殺してしまったのですから。しかしそれはまた、知られるかぎりもっとも広大な現象でもあり、もっとも持続的なものの一つでもあります。」
(シモーヌ・ヴェーユ 「手紙草稿」 より)


『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅰ
戦争と革命への省察
― 初期評論集』
編集: 橋本一明・渡辺一民


春秋社 
1968年4月15日 第1刷発行
1987年6月20日 第8刷発行
518p 口絵i 
四六判 丸背クロス装上製本 貼函 
定価2,500円



「シモーヌ・ヴェーユ著作集の編集について」より:

「ヴェーユの著作は、何よりも経験の記録と言うべきだろう。その意味で、これらの著作は彼女の生の序列にしたがって年代的に編纂されるのが適当だ、と私は考える。本著作集第一巻・第二巻はその方針に基づいて編集されている。」
「第一巻の読者は一九三二年から一九三九年までのほとんど全著作を、第二巻の読者は三九年末から没年に至る間の宗教的論述と大部な著作を除いた主要論文を、年代順に、すなわち彼女の経験の歴史を追うようにして、読みうるはずである。」
「しかし、(中略)第一巻について言えば、そこではヴェーユの政治的・社会的発言が大部分をしめるが、その系列の著作中もっとも重要な論文を含む『抑圧と自由』(中略)を版権の都合上収録することができなかった。やむをえず編者による要約を付してその欠陥を埋めざるをえなかったのは残念である。」



ヴェーユ著作集Ⅰ


目次:

シモーヌ・ヴェーユ著作集の編集について (編者)

■解説 1 (一九三一年~三三年七月) (橋本一明)
待機するドイツ (伊藤晃 訳)
ドイツにおける状況 (伊藤晃 訳)
ドイツにおける状況について (伊藤晃 訳)
世界政治におけるソ連の役割 (伊藤晃 訳)
■解説 2 (一九三三年~三四年) (橋本一明)
展望――われわれはプロレタリア革命に向かっているか(要約) (橋本一明)
戦争にかんする考察 (伊藤晃 訳)
革命戦争についての断片 (伊藤晃 訳)
十四世紀フィレンツェにおけるプロレタリアートの蜂起 (伊藤晃 訳)
自由と社会的抑圧の諸原因にかんする考察(要約) (橋本一明)
■解説 3 (一九三四年~三五年) (橋本一明)
アルベルチーヌ・テヴノン夫人宛の手紙(一) (橋本一明 訳)
ある女生徒への手紙 (橋本一明 訳)
ボリス・スヴァリーヌへの手紙 (根本長兵衛 訳)
アルベルチーヌ・テヴノン夫人宛の手紙(二)~(三) (橋本一明 訳)
■解説 4 (一九三五年~三六年七月) (橋本一明)
Rの労働者たちへの呼びかけ (根本長兵衛 訳)
ある技師長への手紙(一)~(五) (根本長兵衛 訳)
アランの問いに答える (伊藤晃 訳)
ある技師長への手紙(六)~(八) (根本長兵衛 訳)
アンティゴネー (橋本一明 訳)
ある技師長への手紙(九)(断片) (根本長兵衛 訳)
エーレクトラー (橋本一明 訳)
ある技師長への手紙(十) (根本長兵衛 訳)
オーギュスト・ドゥトゥーフへの手紙(一) (山本顕一 訳)
女子製錬工の生活とストライキ(職場占拠) (根本長兵衛 訳)
ある技師長への手紙(十一)~(十二) (根本長兵衛 訳)
オーギュスト・ドゥトゥーフへの手紙(二) (山本顕一 訳)
一組合員への公開状 (根本長兵衛 訳)
■解説 5 (一九三六年夏) (橋本一明)
スペイン日記 (橋本一明 訳)
断片 (橋本一明 訳)
中立政策と相互援助 (伊藤晃 訳)
直言 (伊藤晃 訳)
一般化された不干渉政策 (橋本一明 訳)
■解説 6 (一九三七年~三八年) (橋本一明)
産業企業体における新しい内部体制のための計画の諸原則 (山本顕一 訳)
モロッコ――窃盗行為にかかわる時効について (伊藤晃 訳)
合理化 (山本顕一 訳)
トロイア戦争をくり返すまい (松崎芳隆 訳)
ある屍にかんする省察 (橋本一明 訳)
経済にかんする若干の省察 (松崎芳隆 訳)
労働の条件 (山本顕一 訳)
S・ヴェーユとA・ドゥトゥーフの往復書簡 (山本顕一 訳)
「これらひきつる祖国の手足……」 (伊藤晃 訳)
■解説 7 (一九三八年~三九年) (橋本一明)
G・ベルジュリへの手紙 (伊藤晃 訳)
手紙草稿 (橋本一明 訳)
G・ベルナノスへの手紙 (渡辺義愛 訳)
フランス支配圏内における植民地問題の新たな諸与件 (橋本一明 訳)
ある決算のための考察 (花輪莞爾 訳)
『労働の条件』に寄せたテヴノン夫人の序文 (根本長兵衛 訳)




◆本書より◆


「手紙草稿」より:

「とくに次のことは完全に確信しております。つまり、中央集権というものは、ひとたびどこかで確立されるや、あらゆる種類の貴重なものを――次にくる体制が悲惨な無秩序とならず相互に独立したさまざまな環境間の交換となるためには、どうしても保存しなければならないあらゆる種類の貴重なものを――殺してしまわずには(一時的に麻痺させるのではなく、殺してしまうのです)消滅しないものだ、と。野蛮な力は(中略)それらの価値をいともすみやかにいともやすやすと滅ぼしてしまいます。」








































































シモーヌ・ヴェイユ 『ロンドン論集とさいごの手紙』 田辺保・杉山毅 訳

「この世においては、辱しめの最後の段階におちこんだ人々、乞食の境涯よりもはるか以下におちこみ、社会的に重んじられないばかりか、人間の尊厳をなす第一のものである理性を欠いているとすべての人たちから見られている人々、――こういう人々だけが、まさしく、真実を告げることができるのです。ほかの者はみな、うそをついているのです。」
(シモーヌ・ヴェイユ 「父母への手紙」 より)


シモーヌ・ヴェイユ 
『ロンドン論集とさいごの手紙』 
田辺保・杉山毅 訳


勁草書房 
昭和44年11月15日 発行
6p 354p 口絵2p 
四六判 角背布装上製本 機械函 
定価750円



本書「訳者あとがき」より:

「本書の翻訳は、論文の部分を杉山、手紙を田辺が担当し、全体の統一と訳注は田辺が主としてあたっている。」


ヴェイユ ロンドン論集とさいごの手紙 01


帯文:

「尖鋭な視点と問題把握の徹底性において追求されていたS・ヴェイユの思想は、今日驚ろくべき新鮮さで甦えりつつある。まさに彼女こそ時代の根を生き、その故に歴史の先きを歩んだ真の思想の形成者といえるだろう。本書は彼女の全生涯を支配した“愛の狂気”の戦慄的思想を含む重要論考「われわれは正義のためにたたかっているか」をはじめ死の直前まで書かれた十篇の論文と最後の手紙を収録する。」


帯背:

「現代を生きる
先駆的思想」



帯裏:

「「愛の狂気は、神的な狂気と同種のものである。神的な狂気は、人間の自由な同意を必要とする。」」


目次:

刊行者のノート

人格と聖なるもの
われわれは正義のためにたたかっているか
臨時政府の正当性
人間にたいする義務宣言のための試論
新憲法草案に関する考察
新憲法のためのいくつかの重要観念
この戦争は宗教戦争である
反乱についての省察
政党全廃に関する覚え書
断章と覚え書
モーリス・シューマンへの手紙
兄への手紙
父母への手紙

訳注
訳者あとがき (田辺保)



ヴェイユ ロンドン論集とさいごの手紙 02



◆本書より◆


「人格と聖なるもの」より:

「人間だれにでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性(ペルソンヌ・ユメーヌ)でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。
 ここに街を歩いているひとりの通行人がいるとする。その人の腕は長く、眼は青く、心にはわたしの関知しない、しかしおそらく平凡な思考が去来している。
 わたしにとって、聖なるものとは、その人の中にある人格でもなければ、人間的固有性でもない。それは、その人である。まったきその人なのである。腕、眼、思考、すべてである。それらを少しでも傷つければ、限りない良心の痛み(スクリュピュール)に見舞われないではいられないであろう。
 もし、その人の人間的固有性が、わたしにとって聖なるものであるならば、わたしはその人の眼をえぐりとっても平然としていることができるのである。」



「人間にたいする義務宣言のための試論」より:

「この世の外側に、つまり空間と時間の外側に、人間の精神的世界の外側に、人間の諸能力が到達しうるあらゆる領域の外側に、ひとつの実在が存在する。
 この実在にたいして、人間の心の中心につねに位置し、この世のいかなるものも決してその対象となることのない絶対的善を希求するあの要求が応えるのである。
 この世の中のことのみ人間が考えるとき、かならずつきあたる不条理、解決不能の矛盾を通して、その実在はこの世でもはっきりとその姿を見せる。
 この世の現実が事実の唯一の基礎であるのと同じように、そのもうひとつの実在は善の唯一の基礎である。」
「善がその実在から舞いおりてくるための唯一の仲介物となるものは、人間の中でその実在にたいする注意力と愛とをもつ人びとである。」
「心の中にある絶対的善を希求する気持と、潜在的にであれ、この世の外側へ注意力と愛を向け、そこから善を受けとめる力とは、もうひとつのあの実在に例外なくあらゆる人間を結びつける絆である。
 そのもうひとつの実在を認める人ならばだれでも、したがってこの絆の存在をも認める。この絆があるからこそ、例外なくすべての人間を聖なるものとみなし、これに尊敬の念を払わなければならないのだと考えられるのである。
 このこと以外に、あらゆる人間にひとしく尊敬の念を払うべき理由はない。」
「この世の現実は、差別からなり立っている。この世では、等しくないさまざまのものが、さまざまに人間の注意力を呼びさます。周囲の状況のちょっとした偶然の結果として、またはなにかその人に魅力があるということで、ある人びとの人格が、周囲の人びとの注目を浴びることがある。状況が異ったり、魅力がないために、ほかの人びとは無名のままであり続ける。かれらは人びとから注意されない。あるいは、たとえ人びとの注意がかれらに向けられても、その注意は、かれらが集団の中のひとりであることを識別するにすぎないのである。
 注意力が完全にこの世のことにのみ向けられている時、それはこのようなさまざまの不平等の結果に完全に従属するものであり、注意力がそのことを識別しなければしないだけ、これら不平等の結果からのがれにくくなるのである。
 事実上のこのような不平等の中にあって、尊敬の念は、すべての人の中にある同一のものに向けられるのでなければ、万人にたいして平等ではありえない。この世に位置するものに人間を結びつけるすべての関係の中では、いかなる例外もなく、人間はそれぞれ異っている。もうひとつ別のあの実在につながる絆という存在以外には、すべての人びとの中で同一のものはない。
 人間とは、中心に善への希求をもち、その周囲に精神的な素材と肉体的な素材とが配置されているものだ、と考えられうるかぎり、あらゆる人間は絶対的に同一である。
 この世の外側に向けられた注意力のみが、実は、人間性の本質的な構造と真につながりをもつのである。その注意力のみが、いかなる人間いおいてであれ、その人の頭上に光を投げかける不変の能力を所有するのである。」



「父母への手紙」より:

「お母さん、わたしが何か人に与えるほどのものを持っていると思っていらっしゃるのですね。そんなふうな言いかたは余り適当ではありません。でも、わたし自身、心の中で何かしらこんな確信がいよいよ増し加わって行くのを感じるのです。自分の中には、人に伝えて行かなければならない純金の預かり物がかくされているのだと。ただ、経験からも、今の時代の人々を見ていても、この預かり物を受けとってくれる人はだれもいないのだという思いがだんだんつよくなって行くばかりです。
 このかたまりは、大きいのです。そこに何かがつけ加えられると、それはまた残りの部分とともにかたまりをつくってしまいます。このかたまりは大きくなればなるほど、いよいよ中味のつまったものになってくるのです。わたしは、それをこまかい小片に分けて他人にくばることはできないのです。
 これを受けとってもらうには、努力が必要でしょう。そして、努力というのは、じつにまあ、しんどいことなのです。」

「この世においては、辱しめの最後の段階におちこんだ人々、乞食の境涯よりもはるか以下におちこみ、社会的に重んじられないばかりか、人間の尊厳をなす第一のものである理性を欠いているとすべての人たちから見られている人々、――こういう人々だけが、まさしく、真実を告げることができるのです。ほかの者はみな、うそをついているのです。」
「悲劇の最たることは、阿呆たちが大学教授の肩書ももたず、司教の僧帽もかぶっていず、また、かれらのしゃべっている言葉の意味にいくらかでも注意を向けねばならないと予め知らされている人はだれもいず、――それどころか、かれらは阿呆であるがゆえに、だれもみな、はじめから以上のようなこととは反対のことだけを確信しているので――かれらが真実を言いあらわしても、聞いてさえもらえないということです。(中略)それは、諷刺としての真実、また、ユーモアとしての真実ではなく、端的に真実そのものなのです。純粋な、まぜもののない、光りにみちた、深い、本質的な真実なのです。
 ベラスケスの阿呆の秘密もまた、そこにあるのではないでしょうか。かれらの目に見られる悲しみは、真実を所有しているゆえの苦悩、なんとも名づけようのない境遇に身をおとすことを代償として、真実を言うことができるようにされたという苦悩、(中略)だれひとりとして耳をかたむけてくれる人がいないという苦悩ではないでしょうか。このような問題をいだいて、もう一度、この阿呆たちを見てみるねうちがあると思います。
 お母さん、この阿呆たちとわたしとのあいだには、つながりが、本質的な似寄りがあるとお感じになりませんか、――高等師範学校を出て、教授資格をもち、自分の「知性」を人からほめてもらってはいるのですが。
 このことはまた、「わたしの与えなければならないもの」についての答えにもなることでしょう。
 学校とかなんとかは、わたしの場合には、皮肉(イロニイ)というより以上のものです。
 すぐれた知性というものは、往々一ぷうかわったところがあり、どうかするととっぴな行動に走りがちだということは、よく知られていることですし……
 わたしの知性をほめ上げたりするのは、「彼女は真実を語っているのか、そうでないのか」という問いをさけて通ろうというねらいがあるのです。わたしの知性が評判になったりするのは、この阿呆たちに「阿呆」というレッテルがはりつけられているのと実際上は同じことです。ああ、このわたしも「阿呆」というレッテルをはりつけてもらう方がどんなにいいでしょうか。」
































































シモーヌ・ウェーユ 『抑圧と自由』 石川湧 訳 (現代社会科学叢書)

「社会的物質は、虚偽と誤謬とにとって申し分のない培養と増殖との環境である。」
(シモーヌ・ウェーユ 「マルクス主義学説は存在するか?」 より)


シモーヌ・ウェーユ 
『抑圧と自由』 
石川湧 訳

現代社会科学叢書

東京創元社 
昭和40年11月1日 初版
昭和54年12月15日 17版
256p 
四六判 並装 カバー 
定価980円



本書「訳者後記」より:

「この本は Simone Weil: Oppression et Liberté, Gallimard, 1955 の第十二版を翻訳したものである。ただし、原書の「付録」だけは省いた。」
「原著者名の表記について、一言しておきたい。ヴェイユという呼びかたが、かなり多く使われているらしいが、わたしがフランスの知識人数名から聞いたかぎりでは、ウェーユと思われるので、根拠のある反証がないかぎり、この表記を用いるわけである。」



本書は1958年にシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ、あるいはウェーユ)の最初の邦訳単行本として出版されたものの新装版です。


ヴェーユ 抑圧と自由


目次:

展望 われわれはプロレタリア革命にむかって行くのか?
テクノクラシー、ナチ主義、ソ連、その他についての考察
レーニンの著者「唯物論と経験批判論」について
自由と社会的抑圧との原因についての考察
 マルクス主義の批判
 抑圧の分析
 自由な社会の理論的概観
 現代社会生活の素描
 結論
断片 一九三三-一九三八
 Ⅰ 学説の欠如
 Ⅱ 搾取と階級
 Ⅲ 階級闘争
 Ⅳ あたらしい神
革命と進歩との観念の批判的検討
服従と自由とについての考察
マルクス主義の矛盾について
断片 ロンドン、一九四三年
マルクス主義学説は存在するか?

訳者後記




◆本書より◆


「自由と社会的抑圧との原因についての考察」より:

「こうして、人間は進歩にもかかわらず、宇宙を構成するすべての盲目的な力に無力で素手のまま委ねられていたときにあった隷属的状態から脱却していない。単に、人間を抑えつけていた勢力が、惰性的な物質から、人間自身が同類と共に形成している社会に移されたようなものである。だから、宗教的感情が次々に採るところのあらゆる形態を通じて、人間が崇拝すべく強制されているのは、この社会なのである。」

「さらに他の隷従の因子が存在している。それは、各人にとって他人が存在することである。それどころか、よく考察するならば、これこそ本質的に言って隷従の唯一の因子なのである。人間のみが人間を隷従させ得るのだ。」
「しかし、他人ではあっても、少くとも現実の人であり、理解することはできなくとも、少くともおのれ自身との類比によって、見・聞き・判ずることのできる存在に依存するというのは、まだ大したことはない。実際には、あらゆる抑圧的社会において、いかなる人間も、どんな地位にあろうとも、単にかれの上や下に位する人々に依存するだけでなく、却って何よりもまず、集団生活の作用そのものに依存するのである。それは、それだけで社会的階級を規定するところの、盲目的作用である。」
「ところで、もしも世界に、絶対に抽象的な、絶対に神秘的な、感覚と思惟との近づき得ない何物かが存在するとすれば、それは集団である。」
「人間は、盲目的な自然の玩弄物たるべく作られたのでないと同様に、かれが同類とともに形成している盲目的な集団の玩弄物たるべく作られたのでもない。けれども、水滴の海におけると同様に受動的に社会に委ねられていることをやめるためには、人間は社会を認識し、社会に対して働きかけることができなければなるまい。なるほど、あらゆる領域において、集団の力は個人の力を限りなく凌駕している。それで、一個人が集団生活の一部分をでも左右すると考えることは、線が点を附加することで長くなると考えるのと同様に、容易なことではない。少くとも、外見はそうである。しかし、実際には、例外が、しかもただ一つだけである。すなわち、思惟の領域である。思惟に関しては、関係は逆転する。ここにおいては、個人は比類なく集団を凌駕する。なぜかと言うに、思惟は、おのれ自身とのみ対面するところの精神のなかでしか形成されないからである。集団は少しも思惟しない。」



「マルクス主義学説は存在するか?」より:

「精神的現象は肉体的必然性にしたがうのではないが、必然性にはしたがうものである。それは肉体的現象の影響を受けるが、その影響は、それが従うところの必然性の法則に適合した、特殊な影響である。すべて現実的なものは必然性にしたがう。想像力以上に現実的なものはない。想像されたものが現実的なのではないが、想像力が置かれている状態は事実なのである。想像力のある状態が与えられるや、それは、これこれの効果を生みだす可能性のある原因が作用しないかぎりは、変更され得ない。その原因は、想像された事物とは、なんら直接の関係を有しない。しかし、他面において、その原因は何でもかまわないというのではない。因果関係は、この領域において、重力の領域においてと同じく厳格に規定されている。ただ、その関係は、もっと認識し難いのである。
 この点についての誤謬は無数にあり、日常生活において無数の悩みの種となっている。たとえば、もしも子供が、病気だと称して学校に行かないでいるのに、突然小さい仲間といっしょに遊ぶ元気を発揮すると、家族はその子が嘘を言ったのだと考える。人はその子に言う――《お前は遊ぶ元気があったんだから、勉強する元気だってあったはずだ。》ところで、その子供はほんとうにまじめであったのかも知れぬ。かれは、実際にぐったりしていたのだが、小さい仲間を見、遊びの魅力にひかれて、その憔悴感が消えてしまったのだ。それに反して、勉強のほうは、そういう効果を生むに充分な刺戟物を含んでいなかったのである。同様に、われわれが確固として決心しながら、その決心を守らないとき、おどろくのは、われわれが素朴だからである。何物かがわれわれを刺戟して決心させた。しかし、この何物かは、われわれを実行に押しやるほど充分には強くなかったのである。それどころか、決心するという行為そのものが、刺戟を弱め、こうして実行の開始を妨げることさえあり得た。これは極端に困難な行動が問題であるときに、しばしばおこることである。聖ペテロの有名なケースは、疑いもなくそれの一例である。」

「プラトンは特に、社会的物質が、魂と善とのあいだにある本来の肉よりも、はるかにいっそう越えるに困難な障碍であることを、きわめて烈しく感じていた。それはまたキリスト教の思惟でもあった。聖パウロは、肉に対してではなく悪魔に対してたたかうべきである、と言った。そして悪魔は、社会的物質のなかに巣くっている。悪魔はキリストにこの世の王国を示しながら、こう言ったのである――《この力と、それに結びついた栄華とを、汝にあたえよう。それらは、われわれに任されたものだから。》だから悪魔は、この世の王と名づけられている。それは虚偽の父だから、社会的物質は、虚偽と誤謬とにとって申し分のない培養と増殖との環境である。こういうのが、まさにプラトンの思想である。かれは社会をば、人間がそれに奉仕することを余儀なくされ、人間が善悪に関する確信を引きだすために、それの反射を研究するところの、巨大な動物になぞらえた。キリスト教はその形象を保存した。ヨハネ黙示録の獣(けもの)は、プラトンの動物の兄弟である。
 プラトンの中心的・本質的な思想――これもキリスト教の思想である―ーは、超自然的な恩寵が神のほうへ引いて行く予定された魂たちを除いては、すべての人間は、善と悪とに関して、その動物の反射によって命ぜられた以外の意見を持つことが、絶対に不可能である、というにある。
 かれはこの思惟を大して敷衍しなかった。しかし、それは彼の書いたすべてのものの背後に存在している。かれはおそらく、その動物が邪悪で復讐することを知っていたのだ。これはほとんど探求されたことのない省察のテーマである。それは明白な真理ではないどころか、きわめて深く隠された真理である。特に意見の対立によって隠されている。もしも二人の人間が、善悪に関して烈しく対立するとすれば、二人とも周囲の社会の意見に盲目的に服従しているのだとは、人は信じ難いのである。」
「実際には、特定の時代において、特定の社会的総体のなかで、意見の相異というものは、外見上よりはるかに小さいものなのである。相違よりは対立が多いのだ。最も激烈な闘争が、正確に、もしくはほとんど正確に同一のことを考えている人々を、対立させることがしばしばある。現代には、この種のパラドックスがきわめて豊富である。特定の時代におけるさまざまな意見の流れに共通な根底は、その時代における巨大な動物の意見なのである。たとえば、十年このかた、最もちっぽけな団体をも含めて、あらゆる政治的傾向が、例外なく他のすべての傾向をファシズムだと非難し、そして自分も同じ非難を受けて来た。(中略)この形容は、おそらく部分的には常に正しかった。第二十世紀のヨーロッパの巨大な動物は、ファシズムに対するいちじるしい趣味を持っている。もう一つの面白い実例は、有色人種の問題である。どの国でも、他国に従属した人種の不幸については、きわめてセンティメンタルであるが、自国に従属する人種が完全な幸福を享受していることを疑う者があると、憤慨するのである。これに類似のケースはたくさんある。この場合、外見上の態度の相異は、実は同一性なのである。」

「弱さとしての弱さが、弱いものとしてとどまりながら、強さ〔力〕を構成することができるという観念は、あたらしい観念ではない。それはキリスト教的観念そのものであり、十字架はそれの例証である。しかしそれは、強者によって操られる強さとは全く別の種類の強さのことである。それはこの世のものではなく、超自然的な力である。その力は超自然的な仕方で、決定的に、しかし密かに、静かに、無限小の外観のもとに作用する。そして、輝きによって大衆に浸透するとしても、大衆のなかには住まず、ある種の魂たちのなかに住むのである。マルクスは強い弱さというこの矛盾を認めはしたが、これを正当な矛盾たらしめる唯一のものたる超自然を認めなかったのである。」






















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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