『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』 阿部謹也 訳 (岩波文庫)

「ボーテは民衆の中で育ったが民衆(中略)の傲慢不遜さには耐えきれなかった。彼は民衆を愛したわけではない。彼は「民衆」にいためつけられたのである。」
(阿部謹也 「解説」 より)


『ティル・オイレンシュピーゲルの
愉快ないたずら』 
阿部謹也 訳
 
岩波文庫 赤/32-455-1 

岩波書店 
1990年5月16日 第1刷発行
452p 
文庫判 並装 カバー 
定価670円(本体650円)



Ein Kurtzweilig Lesen von Dil Ulenspiegel
本文中挿絵図版多数。


ティルオイレンシュピーゲル 01


カバー文:

「主人公ティルが放浪者・道化師あるいはもぐりの職人となって教皇・国王から親方達までさまざまな身分の者たちを欺きからかい、その愚かさを暴いて哄笑をまきおこす。500年余も読みつがれてきたこの作品はいまも諷刺の力を失っていない。中世ドイツ語原典の翻訳に気鋭の社会史家ならではの詳注を加えた。図版多数。」


目次:

ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら

訳注
解説
あとがき



ティルオイレンシュピーゲル 02



◆本書より◆


「第54話」より:

「あるときベルリンに一人の毛皮匠がいました。彼はシュヴァーベン人でしたが、大変仕事に巧みでなかなか着想も豊かでした。その上金持ちでよい仕事場ももっていたのです。というのはこの男はこの国の公、騎士や身分の高い人びと、市民の御用を承っていたからです。ところでこの国の公は冬に競技や槍技の会を催そうとして、騎士たちや他の領主たちに招待状を出したことがありました。誰も一番みすぼらしいなりで出席したくなかったので、一度にたくさんの狼の毛皮の注文がくだんの毛皮匠のもとに殺到したのです。オイレンシュピーゲルはそれを聞きこんでその親方を訪れ、仕事を求めました。ちょうど職人を必要としていた親方は喜んで狼(の毛皮)をつくることができるかとたずねました。彼はそれを作る腕前にかけてはザクセンではちょっと知られていると答えたのです。毛皮匠は「お前はちょうどよい時にきた。こっちへおいで。賃金について話し合おう」といったのです。オイレンシュピーゲルは「親方はとても誠実な方とおみうけしやした。まずあっしの仕事をみてから親方が賃金をきめておくんなさい。あっしは他の職人と一緒には仕事をしたくないんで一人で働かせて下さい。あっしは思ったとおり間違いなく仕事をしたいんでさあ」といったのです。
 そこで親方は彼に小部屋をひとつ与え、毛を抜いてなめした狼の毛皮と大小それぞれの毛皮の型を渡しました。そこでオイレンシュピーゲルは狼の毛皮づくりにとりかかりました。皮を切ると狼の形に皮を縫いあげ、なかに乾草をつめて、枝で足をつけ、まるで生きているようにつくりあげたのです。毛皮を全部すっかり切り刻んで狼をつくりあげてから彼は「親方、狼はできましたぜ。他に何かすることがありますかい」とたずねました。すると親方は「ああ、お前、できるだけたくさんそれを縫いあげてくれ」と答えて、仕事部屋に入ってきました。そこには大小の狼がおかれていたのです。親方はそれをみて「これは一体何だ。なにをしやがったんだ。なんてひどい損害をかぶせてくれたんだ」とうめきました。
 オイレンシュピーゲルは「親方、それがあっしへの報酬と感謝の言葉ですかい。あっしはいわれたとおりにしただけですぜ。狼をつくれといったでしょうが。狼の毛皮をつくれといわれたら、そのとおりにしたでしょうがね。それに感謝されないと解っていたら、こんなに骨のおれる仕事はしませんでしたぜ」。こういうとオイレンシュピーゲルはベルリンを去りましたが、どこでもよい評判をのこさず、ベルリンをたってライプツィヒへ向かったのです。」



「解説」(阿部謹也)より:

「ここには社会の狭間(はざま)に生きているが故にあらゆる階層の人々に対して一定の距離をとることができ、それ故に孤独ではあるが生涯をいたずらに徹して生きた一人の人間が描かれている。たとえ五〇〇年近くも前の事ではあっても当時の社会全体を相手にして生涯をいたずらに徹して生きるということは容易なことではない。本書が長い風雪に耐えて今日まで生き残ったのはまさにこのためであろう。」

「民衆本の『オイレンシュピーゲル』が今日にいたるまで世界的名声を保っている大きな理由のひとつに主人公の性格の卓抜さがある。農民の子として生まれながら母親が希望する職人の道に進まず、いわば当時としては社会的上昇の正統なルートからはずれてしまったティルが、当時人々に賤しまれていた大道芸人や奇術師などの放浪者となり、ときに宮廷の道化として諸国の国王にいっぱいくわせたり、司祭や威張りくさった親方、学者、はては教皇までからかいの的とする奔放自在なその活躍は日常の生活にとらわれている者にとっては胸のすくような気晴らしの読み物となった。読者にとってはこのようなものとして受け容れられてきたティルは作者にとってはどのような存在だったのだろうか。ここで私たちはヘルマン・ボーテという人物にもう少し接近してみなければならない。」

「おそらく一四九三年から一五〇三年頃にかけて着手したとみられる『オイレンシュピーゲル』の独自性は主人公の設定の巧みさにある。主人公が放浪者、宮廷道化師、もぐりの職人などに変身しながら様々な身分の者の愚かさを暴いてゆく民衆本の構想は何よりもまずボーテその人の生活のなかから生まれたものである。農民の子として生まれながらも、不運な星のめぐり合せで手工業職人への道を進まず、皆から疎まれる賤民たる奇術師、放浪者になり、空威張りをするお歴々の愚かさをあばいてゆくティル・オイレンシュピーゲルはまさに手工業親方の子として生まれながら賤民たる徴税書記の職につくしかなかったボーテその人の運命でもあった。ボーテも手工業親方たちから嘲笑され、さげすまれながらも、嘲笑し、さげすむ人間の愚かさを賤視の淵のなかで知り、それを箴言を通して表現したのである。ボーテは民衆の中で育ったが民衆、特に手工業の親方の傲慢不遜さには耐えきれなかった。彼は民衆を愛したわけではない。彼は「民衆」にいためつけられたのである。」

「比較的恵まれた親方の家に生まれ、賤民として位置づけられる徴税書記の地位につく、ということは、どこにもボーテの居場所がないことを意味していた。下層民、賤民はもとよりボーテの仲間ではない。読み書きができるというだけですでに特異なまなざしで眺められたのである。ボーテとしてはただ与えられた仕事を忠実に遂行したにすぎないのだが、それがある人々にとっては憤激の的となり、思いもかけない事態を惹起することになる。このようなボーテの生涯はそのまま基本的にはティル・オイレンシュピーゲルの生涯でもあり、ティルはボーテの夢でもあった。」

「ボーテを苦しめた昼の生活が終り、一人机に向って書物をよむとき、全く自由な夜の世界がはじまるのだが、そのときでさえ、昼の疲労や苦しさの記憶は身体の隅にのこり、ボーテの自由な思考の方向を定めていた。ボーテの夜の思いと読書を支えていたのは昼の生活者としてのボーテだったからである。しかし夜のしじまは昼の苦しさを昇華させ、遠い世界の出来事として位置づけるだけの厚い防壁をボーテのまわりにつくり出した。このような環境のなかで『オイレンシュピーゲル』が書かれたのである。」

「ボーテが知的にすぐれた才能の持主で親方の子であり、しかも賤民としての職業についていたことは、彼の人間を見る目を曇りないものにした。私たちはここに当時の人と人との関係についての得がたい史料を手にすることになる。賤視されている者の目から見ると、ひとつの社会の人的関係はそのなかにあってうまく適応している者の目にはみえない本質においてとらえることができるからである。」





こちらもご参照下さい:

『放浪学生プラッターの手記』 阿部謹也 訳
ラディン/ケレーニイ/ユング 『トリックスター』 皆河宗一 他 訳 (晶文全書)
























































































































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『放浪学生プラッターの手記』 阿部謹也 訳

『放浪学生プラッターの手記
― スイスのルネサンス人』 
阿部謹也 訳


平凡社
1985年7月5日 初版第1刷
224p 口絵(カラー)2p 
目次3p 地図1p
20×15.5cm 
角背紙装上製本 カバー
定価1,800円
装幀: 山本義信


本書「訳者解説」より:

「翻訳にあたってはハルトマンの刊本(Thomas Platter; Lebensbeschreibung. herausgegeben von Alfred Hartmann. Basel 1944. この版には Walter Muschg の序文がついているが、割愛した)を底本にしている。」


本文中図版(モノクロ)16点、地図2点。


放浪学生プラッターの手記 01


目次:

トマス・プラッター肖像及び生家
地図

まえがき

Ⅰ さすらいの日々
 一 悲惨のはじまり
 二 命懸けの山羊番
 三 放浪のひよっ子
 四 勉学の機熟す
Ⅱ 労働しつつ、学びつつ
 五 ツヴィングリ信奉者となる
 六 綱造り職人とヘブライ語
 七 結婚し、故郷で学校を開く
 八 バーゼルで助手となる
 九 医者エピファニウスのもとで
 一〇 カッペル敗戦のあとで

Ⅲ 名声と富
 一一 ペタゴギウムの教授となる
 一二 印刷業者と教授を兼ねる
 一三 城のギムナジウムの校長
 一四 郊外に屋敷を手に入れる
 補

編者解説・注
トマス・プラッターの世界 (訳者解説)
索引



放浪学生プラッターの手記 02



◆本書より◆


阿部謹也「トマス・プラッターの世界(訳者解説)」より:

「トマス・プラッターはルネサンス・宗教改革期のスイスが生んだ特異な人物の一人である。(中略)スイスの険しい山の上の寒村で貧しい農家の子として生まれ、幼くして放浪学生の仲間に加わり、主としてドイツの町や村々を乞食をしたり、盗みをしたりしながら歩いて少年・青年時代を過ごしたトマスの生涯の叙述は、この時代の町や村の人びとの生活や意識をはからずも私たちに伝えてくれる。またツヴィングリを中心とする宗教改革の中心にあって、その経過をつぶさに体験し、叙述している点も注目に値するところである。」
「トマスは幼年時代の苛酷な体験を何のてらいもなく記している。ひもじさのあまり、街頭をうろつく犬と食物を奪いあった悲惨な話も、トマスの筆になると淡々として客観的な装いをもって表されるのである。」
「ではいったい放浪学生とはどのような人たちだったのだろうか。(中略)市民や敬虔な人たちの寄進によって設立されたラテン語学校には寄宿舎もあって、多くの学生を集めていたのである。(中略)ラテン語学校の名声はひとえに高名な教師がいるかどうか、またその町の人びとが学生に寛大で、多くの喜捨を与えてくれるかどうかにかかっていた。高名な教師がいるという噂を聞くと多勢の学生が集まってくるが、ひとつの町で集められる喜捨の全体量には限りがあるから、それらの学生を養えないこともあった。学生たちは放浪中も在学中も原則として聖歌を歌って門付けをしたり、乞食をしたりして暮らしていた。
 一四九〇年頃に放浪の旅に出たヨハンネス・ブッツバッハの例をみよう。フランケンのミトレンブルクの織物職人の息子に生まれたブッツバッハは一二歳のとき学問を学ぶために学校に通った。しかしトマスの場合と同様に学校では笞で打たれたり、柱に縛りつけられたりするだけで、何も教えてもらえなかった。(中略)そのころ一七歳になる隣人の息子が放浪学生として家に戻ってきて、ヨハンネスをひよっ子として連れていきたいと申し出て、外国の学校で学ばせてやると両親に約束したのである。ヨハンネスの両親はその男に金を渡し、ヨハンネスを預けた。ヨハンネスの記録によると町の教会の塔がみえているあいだは兄貴分は親切であったが、町の境界から一歩出たとたんに苛酷な扱いをうけたという。学問を教えるというのは口実にすぎず、自分の食物を集めさせ、身のまわりの世話をさせるために放浪学生は弟分としてひよっ子をつれてあるくのが当時の習慣であった。」
「彼らがひとつところに定住して学問にうちこめなかったのは、教師の側の事情と経済的な事情との二つがあったからであるが、この時代の多くの人びとが旅する人びとであったこととも関連をもっている。(中略)中世の人間は貴族も市民も聖職者も、国王にいたるまで一生を通じて旅をしつづけていたのであった。(中略)トマス・プラッターの前半生はまさにこのような放浪学生の典型として注目をひくものなのである。」

「トマスとほぼ同時代のヘルマン・ボーテは北ドイツのブラウンシュヴァイクの鍛冶屋の親方の子であるが、足が悪かったために当時賤民職であった徴税書記となった。昼のあいだは徴税書記として親方たちからさげすまれ、馬鹿にされながら働いたボーテは、昼の仕事から解放された夜に昼の屈折した思いを読書や執筆ではらしていたのである。そのなかからさまざまな作品が生まれた。もっとも有名なのが『ティル・オイレンシュピーゲル』である。トマスの叙述にはそのような屈折した思いはみられない。ただ貧しい生活が淡々と描かれているにすぎない。トマスはボーテとちがって身体強健であり、神からさえ疎外された賤民ではなく、神の恩寵を確信することができる幸福な男であった。
 トマスがバーゼルで城のギムナジウムの校長になってからも、大学側は何かにつけてトマスの学校経営に干渉した。なかでも大きな圧力となったのは、大学がトマスに修士号をとるよう強要したことであった。トマスは修士の学位をとる必要はないと断固として抵抗し通したのである。(中略)学位をとるとは、いうまでもなく自分の学問を大学の権威によって認めてもらう行為をいう。トマスは自分自身の権威しか認めない男であった。学ぶこと以外に学問を何かに役立てようという関心はなかったのである。(中略)私たちはこのような人間が宗教改革時代に生きていたことを大変心強く思う。トマスがこのような態度を貫き通すことができたのはなぜか。それはトマスが放浪学生として出発したことと無関係ではないであろう。歩きつづける人間には学位は不要なのである。」



「一 悲惨のはじまり」より:

「この伯母といっしょにヴィルディン(グレッヒェンの)にいたとき、一番年長の兄がサヴォイ戦争から帰ってきて、私に木の仔馬をくれた。私はひもで仔馬を結び、戸口の前でひっぱってみた。私はこの仔馬は歩けるのではないかと思っていた。子供がときとして自分がもっている人形が生きていると信じているように、私もそう考えていた。」


「三 放浪のひよっ子」より:

「私たちがグリムセル峠を越えて夕方に宿に着いたとき、私はまだタイルを張った暖炉を見たことがなかったうえに、月の光が暖炉に当たっていたために家のなかに大きな仔牛がいると思った。タイルが二枚光っているのを仔牛の目だと思ったのである。」


「六 綱造り職人とヘブライ語」より:

「私はだんだんとオポリヌス博士や他の人びとと知り合いになった。オポリヌスは私にヘブライ語を教えるように頼むのである。私にはそれだけの力もないし、時間がないといって断ったのだが、彼があまりに長いあいだあきらめなかったので、私は親方に賃金を下げるか、ただにするように頼んだ(中略)。親方は毎日一時間夕方四時から五時まで自由にしてくれた。するとオポリヌスはヘブライ語の初歩を聖レオンハルト教会(オポリヌスはこの教会の学校の校長であった)で、月曜日から四時に教える者があるということを書いて教会の戸に張り出した。私がその時刻に教会に行くときにはオポリヌス一人だろうと思っていたのだが、なんと一八人ものかなり学問のある人びとが集まっていた(私は教会の貼紙を見なかった)。それらの人びとをみて私は逃げ出そうとした。しかしオポリヌス博士がいった。「逃げないでください。みな良い人たちですから」。私は綱造り職人の前垂れをつけていることが恥ずかしかった。」
「この年に一人のフランス人がナヴァラの女王からヘブライ語を学ぶために送られてきて、学校へやってきた。私は粗末な衣服を着て入ってゆき、暖炉のうしろ(これはすばらしい席であった)に腰をおろし、学生たちも机に向かって座った。するとフランス人がいった。Quando venit noster professor ? (私たちの教師はいつくるのですか)と。するとオポリヌスが私を指さした。フランス人は私をみていぶかしげな顔をした。彼は間違いなく教授がこんな粗末な服を着ているはずがないと思ったのである。授業が終わると、彼は私の手をとり、小橋を渡ったところまで連れていって、私がこんな服を着ているのはどうしてなのかとたずねた。そこで私は Mea res ad restim rediit (私には綱(縛り首の)以外には何ものこっていないんですよ)〔編者注: この言葉はエラスムスが(中略)テレンテイゥスから極度の絶望の表現として引用したものである。プラッターはそれを言葉どおりにしかし譬喩的な意味で用いている。〕と答えた。すると彼は私が望むなら私のために女王に手紙を書こうという。そうすれば女王は私をあたかも神のごとくに迎えるであろう、だから彼のいうとおりにした方がいいというのである。しかし私には彼の申し出に従う気はなかった。この男は町を去るまで私の授業を聴講した。彼は高価な服を着て金色の帽子をかぶっていた。雨がふるときの用意かなぜか理由は知らないが、彼のあとからマントと帽子をもっている下僕が従っていた。九年以上たってから彼はふたたびこの国にやってきた。ヴァイトヌスのアウグスチン修道院通りで出会ったとき、O Salve praeceptor Platere (ああ 今日は、プラッター先生)と呼んだ。私がどこから来たのかとたずねると、彼は九年間クレタ島やアジア、アラビアで学識あるユダヤ教のラビについてヘブライ語その他の言葉を学び、今では母国語のように出来るようになったので、友人といっしょに故郷に帰るところだという。相変らず高価な衣服を身につけていた。」





訳者解説中「学位をとるとは、いうまでもなく自分の学問を大学の権威によって認めてもらう行為をいう。トマスは自分自身の権威しか認めない男であった。学ぶこと以外に学問を何かに役立てようという関心はなかったのである。(中略)私たちはこのような人間が宗教改革時代に生きていたことを大変心強く思う。」に関しては、こちらもご参照下さい:

阿部謹也 『「世間」とは何か』 (講談社現代新書)


「漱石は明治四十四年(一九一一)、入院中に文部省から学位授与に付き出頭せよとの文書を受け取り、「小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。したがって私は博士の学位をいただきたくないのであります」と拒否しているのである。」
「博士とは何か。いうまでもなくそれは自分の学問を別のもの、この場合は文部省であるから官の世界によって認めてもらうことを意味する。自己は一人自己によって立つと考えていたと思われる漱石にとっては、自分の学問を官によって認めてもらうことは恥ずかしいことと思われたのであろう。実際東京帝国大学の教授になることをも拒否した漱石である。博士とか教授という肩書は少なくともこの国では世間の中で生きてゆくうえで役に立つ肩書であり、それを拒否したことによって漱石の世間に対する考え方や身の処し方が推測できるのである。」












































阿部謹也 『中世賤民の宇宙 ― ヨーロッパ原点への旅』

「ですから賤視ということはどういう事なのか、差別とはどういうことなのかに関心を持つとすれば、それはやはり自分の中に差別する心と言いますか、差別する意識とかそういうものを発見するという作業が同時に必要であって、そういう問題だと思うんです。」
(阿部謹也 「中世ヨーロッパにおける怪異なるもの」 より)


阿部謹也 
『中世賤民の宇宙
― ヨーロッパ原点への旅』


筑摩書房 
1987年10月30日 第1刷発行
318p 目次1p 口絵(カラー)1葉
20.8×15.4cm 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,200円



本書「あとがき」より:

「社会史研究を志してから(中略)この二十余年の間に個別研究はいろいろ行なってきたが、わが国における社会史研究の位置について、あるいはヨーロッパ史研究の意味について省察を加えながら、正面から自分の問題としての社会史研究について考察した論文はそう多くはない。本書におさめた三論文がその主なものである。ヨーロッパをわれわれに直接かかわる面と、ヨーロッパ固有の面との両面からとらえてみようとする意図をもって書かれたものである。第一論文は『社会史研究』創刊号に書かれたもので、私はこの論文をもって社会史研究の新たな一歩を踏み出したと考えている。第二論文はその延長線上にあるものだが、第一論文がわれわれにとってヨーロッパとは何かという問題から出発しながら、ヨーロッパと日本に共通の地盤にまで到達し、そこからヨーロッパに固有なものがどのような形で生まれてくるかを論じたのに対し、第二論文はヨーロッパに固有な公的社会のあり方が生まれてくる最も深いところに探りをいれた論文である。
 第三論文は第一、第二論文をふまえて、ヨーロッパ内部における影の部分に注目し、ヨーロッパ中世の人々の心的構造の核にあるものに接近しようと試みたものである。この問題はわが国の被差別部落の成立史とも深い関連をもっていると考えている。
 第四、五の文章は講演やエッセイであるが、いずれも第三論文の延長線上で中世における怪異なるものと近代オーケストラ成立の歴史的前提について考察したものである。いずれも試論の域を出ないが、第三論文の二つの宇宙とその一元化という主題がヨーロッパ史においてはどのような分野についても極めて重要な構想となりうることを示すために補論として収めたものである。」



本文中図版(モノクロ)51点。


阿部謹也 中世賎民の宇宙 01


帯文:

「ヨーロッパ中世の人びとの
心的構造の核にあるものは何か
大宇宙と小宇宙という二つの宇宙のなかで生きていた中世人が、キリスト教の浸透による時空観念の一元化、死生観の転換によって、畏怖の対象であった職業を賤視の対象としてみるようになってゆく過程を考察。」



阿部謹也 中世賎民の宇宙 02


目次 (初出):

私たちにとってヨーロッパ中世とは何か (「國文學」 1987年6月/原題「いま歴史学から〈中世〉を見る」に加筆)

ヨーロッパ・原点への旅――時間・空間・モノ (「社会史研究」1 1982年10月)
 一 中世社会史研究の方法によせて――出発点としての自己省察
  「生を捉ふるに学問の……」
  近代の物理的時間意識
  空間観念の構造
  モノをめぐる人間と人間の関係
 二 原点としての中世後期(十一―十五世紀)ヨーロッパの意味
  十二世紀革新論
  歯車時計出現の意味
  「抽象的時間」を示す
  空間観念の革命
  モノをめぐる関係の変化
  売買の関係へ
 三 過ぎゆかぬものを見る目――二人の歴史家
  「われわれの現在」――H・ハインペル
  「さまざまな現代の存在」――上原専禄
 四 初期中世ヨーロッパにおける時間意識
  現代人は急ぐ人
  具体的・人間的な時間意識
  経験のなかにあるもの
  キリスト教的時間意識の形成
  時間意識をめぐる相克
 五 初期中世ヨーロッパにおける贈与慣行
  心性の底を流れる潮流
  贈与・互酬の慣行
  宴会と贈物の役割
 六 ヨーロッパにおける「公的」なるものの成立――贈与から売買へ
  人間と人間の関係の絆としての富
  神への贈与
  「公」的なるものの成立
   1 プレカリア
   2 罰則 Poenformel について

死者の社会史――中世ヨーロッパにおける死生観の転換 (「社会史研究」4 1984年4月)
 一 死生観の変化
 二 初期中世における死者と生者
  「生ける死体」の観念
  死者の持分
  記憶のイメージ
  生きつづける死者
 三 キリスト教の浸透と死者
  肉体と霊の分離
  神への贈与
 四 遺言書の成立
  キリスト教と個人財産の形成
  遺言書の研究
  宗教的な文言
  寄進と霊の救済
  救済のための寄進の合理化
  自由分の成立と起源
  一方的な相続行為
 五 現世観の変化

ヨーロッパ中世賤民成立論 (「中世史講座」7 1985年)
 一 賤民研究の問題点
 二 人間狼について
 三 二つの宇宙
 四 小宇宙としての共同体
 五 賤民の成立と解体

中世ヨーロッパにおける怪異なるもの (「千葉史学」 1986年12月)
 賤視の根底にあるもの
 中世の人々の怖れ
 怪異なるもののさまざまな形
 宇宙観の違い
 時間の可逆性
 二つの宇宙
 大宇宙との交流
 畏怖の対象
 被差別民の位置
 メルヘンの誕生
 歴史研究とは

ヨーロッパの音と日本の音 (「is」35号 1987年3月)
 騒音に対する感性
 目に見えない絆としての音
 二つの「宇宙」の音
 モノフォニーとポリフォニー


あとがき



阿部謹也 中世賎民の宇宙 03



◆本書より◆


「ヨーロッパ・原点への旅」より:

「水時計、砂時計、日時計などと違って歯車時計においては均一な、周期的な運動が組みこまれ、自然の知らない新たな拍子が創り出されている。ここで「この別の時間とともに私たちの意味での近代がはじまる」とユンガーがいうとき、彼は近代文明の核心をついているのである。何故なら十四世紀半ばには一時間を六十分、一分を六十秒に分割することが通例となってゆくが、このように抽象的な時間の分割が人間の行動と思考の枠を規定してゆくようになるのが近代社会の特徴だからである。(中略)それ以前の世界においてはあとで詳しくみるように時間とは人間存在の外を流れる抽象的なものではなく、あくまでも人間的事象であり、人間の行動が時を定めたのであって時が人間の行動を規定していたのではなかった。昼の時間も夜の時間も一日毎にずれていったし、脈拍や呼吸数が気分や行動によって変化するように、時間の方が人間の行動に合せて変化していたのである。狩の獲物がつかまえられた時が狩の終りの時となり、農民にとっては日の沈むときが仕事の終りでもあった。かつて修道士は詩篇を何回読んだかによって時の経過を計っていたし、ライン河の船曳きも、作業場の職人も歌を唱って仕事のリズムをとっていた。しかるに機械時計は仕事の内容とは関係のない抽象的時間によって仕事を測る装置として以後今日にいたるまで全人類の間に絶大な重要性をもつ座標軸となったのである。」

「かつて空間は均質的なものではなかった。聖なる空間があってそれは聖所、森、墓地などに示されており、一種の不可侵の空間のアジールをなしていた。しかし、すでに十三世紀頃から都市内部では家のアジールは公権力によって認められなくなってゆく。アジールの消滅ほど空間感覚の変化を如実に示している現象はないだろう。」



「ヨーロッパ中世賤民成立論」より:

「ところで中世における賤視のあり方をみてゆくとき、私たちはそれがはじめは畏怖の感情から生じていることを見過すわけにはいかない。現在の私たちにとって賤業とみなされがちな塵芥処理や道路清掃すら、ただきたないという理由だけで賤視されたのではない。私たちはゴミをきたないものと感じ、その感じの底にあるものに目を向けようとはしていない。私たち人間が自らの肉体を通して生み出したものがゴミなのである。糞尿がきたないという感覚すら新しいものであって、古代・中世の人びとは糞尿をただきたないものとみたのではなく、怖れの念をもってみてもいた。だからときに聖者の尿は薬として用いられもしたのである。森羅万象に対する感覚が中世人のばあい現代人とはかなり異なっており、その違いを認識することが中世における賤視の原因を探るうえで、まず第一に行なわねばならないことなのである。ということは、私たちが現代の人間としてもっている基本的な世界像をいったん捨て去ることを意味している。ではその捨て去るべき世界像とは何か。それは近代科学によって構築されてきた均質的な時間、空間観念によって貫かれている世界像である。中世の人間は現在の私たちと同じ目で森羅万象を、世界を見ていたのではなかったのである。賤視とはまず第一に人やモノを見るときの視線の行方であり、その結果生ずる心の動きであり、そこから生ずる行動である。それを規定しているのが人間の世界像であることはいうまでもない。
 中世の人間は均質的な時空観念のなかで生きていたわけではなかった。彼らは二つの宇宙のなかで生きていたのである。わかり易くいってしまえば、自然界の諸力を人間が辛うじて制御しうると考えられていた範囲内が小宇宙 Mikrokosmos であり、その外側に人間にはとうてい制御しえない諸霊や巨人、小人、死などの支配する大宇宙 Makrokosmos が広がっていた。この両宇宙は排他的なものではなく、同じ要素からなりたっており、ひとつの宇宙をなしてもいた。」

「汚物や糞尿が生命の源泉であるという考え方は、近世にいたるまで一般的にみられたものであって、魔女や呪術師が治療にこれらのモノを用いたことはよく知られている。汚物や糞尿は人間が辛うじて掌握している人体や共同体から外部へ排泄されたモノであり、排泄された瞬間にそれらの汚物は小宇宙としての人体や共同体の外に出てゆき、大宇宙の要素となるのである。それ故に汚物を処理し、扱う道路清掃人などは大宇宙を相手に仕事をする人間として特別な能力を備えた者とみなされ、畏怖のまなざしでみられたのである。」

「大宇宙と小宇宙という分け方は普遍的なものであり、どこの民族にも程度の違いこそあれみられるものである。賤民は本来どこにおいても、この二つの宇宙の狭間に成立するのではないかと思う。ただし二つの宇宙の狭間に生きる人びとが賤視されるようになるのは、感覚の次元で二つの宇宙の存在が前提とされているにも拘らず、観念の次元で(あるいは教義のうえで)二つの宇宙の枠がとり払われ、一元化されてゆくときではないかと思う。国王や司祭は同じ立場にありながら、一元的に世界を解釈してゆく側に立ったために賤視を免れたのである。」



「中世ヨーロッパにおける怪異なるもの」より:

「われわれが賤視の根源を明らかにしたいということはどういうことかと言いますと、その賤視と同じものを自分の中に発見するという作業だと思うんです。だからヨーロッパ社会を理解するということはヨーロッパ社会の中にあるメンタルな構造というものと対応するものを自分の中に発見する作業だと思うんですね。(中略)ですから賤視ということはどういう事なのか、差別とはどういうことなのかに関心を持つとすれば、それはやはり自分の中に差別する心と言いますか、差別する意識とかそういうものを発見するという作業が同時に必要であって、そういう問題だと思うんです。」





















































阿部謹也 『ハーメルンの笛吹き男 ― 伝説とその世界』

「中世都市には「社会復帰(リハビリテーション)」という概念はなかった。貧民、癩者、乞食、盲人、淫売婦なども含めた多様な人間存在がおりなす生活空間が社会そのものなのであった。」
(阿部謹也 『ハーメルンの笛吹き男』 より)


阿部謹也 
『ハーメルンの笛吹き男
― 伝説とその世界』


平凡社 
1974年10月28日 初版第1刷
1982年10月15日 初版第14刷
223p あとがき2p 参考文献4p 
口絵10p
20×15.5cm 角背紙装上製本 
カバー ビニールカバー 
定価1,800円



本書「あとがき」より:

「民衆史を中心にした社会史はどうしたら可能なのか。これが本書が私に課した大きな課題である。この課題は何よりもまず、これまでの歴史研究、即ち生活現実を理知的に解明せんとして、長い間知識人が行なってきた知的営為そのものに対する批判的反省として、出発しなければならないだろう。」


カラー口絵2点、モノクロ口絵15点。


阿部謹也 ハーメルンの笛吹き男 01


帯文:

「それは童話の世界の出来事ではなかったのか?
グリムの童話を通じて広く世界に知られている伝説はどうして生まれたのか――笛吹き男はなぜ鼠捕り男なのか――失踪した子供たちはどこへ行ったのか……悲哀の影を宿す伝説の謎を手懸りに、その背後に展がる中世庶民の生の在り方をたずねた書下ろし歴史エッセイ。」



帯裏:

「書名の伝説はグリムやブラウニングを通じて、広く日本にも知られているが、それらの素材となった原伝説は様々な歴史的経緯に彩られている。本書は歴史学の立場から、植民者をめぐる伝説成立の要因を辿るとともに、中世庶民生活の種々相に分け入ってゆく。……生活の苦しさや祭の興奮、子供や寡婦、ユダヤ人や放浪芸人……。さらに伝説の変貌過程で、笛吹き男の登場した理由、政治的宣伝に利用された事情や研究史にまつわるエピソードなどを交えて、伝説を支えてきた世界を明らかにしようとした意欲的な書下ろしエッセイである。
本文中挿図47点・別刷10頁(うち原色版2頁)収載」



目次:

第一部 笛吹き男伝説の成立
 はじめに
 第一章 笛吹き男伝説の原型
  グリムのドイツ伝説集
  鼠捕り男のモティーフの出現
  最古の史料を求めて
  失踪した日・人数・場所の確認
 第二章 一二八四年六月二六日の出来事
  さまざまな解釈をこえて
  『チューネブルク手書本』の信憑性
  ハーメルン市の成立事情
  ハーメルン市の散策
  ゼデミューンデの戦とある解釈
  「都市の空気は自由にする」か
  ハーメルンの住民たち
 第三章 植民者の希望と現実
  東ドイツ植民者の心情
  失踪を目撃したリューデ氏の母
  植民請負人と集団結婚の背景
  子供たちは何処へ行ったのか
  ヴァン理論の欠陥と魅力
  ドバーティンの植民遭難説
 第四章 経済繁栄の蔭で
  中世都市の下層民
  賤民=名誉をもたない者たち
  寡婦と子供の受難
  子供の十字軍・舞踏行進・練り歩き(プロセッション)
  四旬節とヨハネ祭
  ヴォエラー説にみる笛吹き男
 第五章 遍歴芸人たちの社会的地位
  放浪者の中の遍歴楽師
  差別する側の怯え
  「名誉を回復した」楽師たち
  漂泊の楽師たち

第二部 笛吹き男伝説の変貌
 第一章 笛吹き男伝説から鼠捕り男伝説へ
  飢饉と疫病=不幸な記憶
  『ツァイトロースの日記』
  権威づけられる伝説
  笛吹き男から鼠捕り男へ
  類似した鼠捕り男伝説
  鼠虫害駆除対策
  両伝説結合の条件と背景
  伝説に振廻されたハーメルン市
 第二章 近代的伝説研究の序章
  伝説の普及と「研究」
  ライプニッツと啓蒙思潮
  ローマン主義の解釈とその功罪
 第三章 現代に生きる伝説の貌
  シンボルとしての笛吹き男
  伝説の中を生きる老学者
  シュパヌートとヴァンの出会い

あとがき
参考文献



阿部謹也 ハーメルンの笛吹き男 02



◆本書より◆


「どんな人間でも乞食になったり、盲目、跛になったりする可能性はある。だから中世都市の住民は現代のようにこれらの悲惨な運命をになった人々をまったくの他者として隔離したりせず、自分たちの目にふれるところで見守っていたのである。中世都市には「社会復帰(リハビリテーション)」という概念はなかった。貧民、癩者、乞食、盲人、淫売婦なども含めた多様な人間存在がおりなす生活空間が社会そのものなのであった。」

「これまで述べてきた庶民の祭のあり方をみれば、子供の十字軍やエルフルトの子供たちの舞踏行進が、庶民の鬱屈した日常生活からの瞬時の解放としての祭の延長線上にあったことが容易に推察出来るだろう。日頃の苦しみが深いだけに、大人は祭の興奮のなかにわれを忘れてのめりこんでゆき、子供のことなどは忘れてしまう。子供も祭の喧噪のなかで大人以上の興奮につき動かされ、とどめる者がないまま危険な行動に駆りたてられてゆく。」

「世俗の支配・共同体秩序からも、教会の懐からも閉め出されてしまった人々がどんな悲惨な生涯を送らなければならなかったか、わが国の村八分の例をみるまでもなく、容易に想像しうるところである。」
「当時の放浪者のなかには、(中略)詐欺師的な者も多く、(中略)人文主義者の側から当時の社会の腐敗のあらわれとして痛烈に非難されている。しかしすでにみたところからも容易に推測しうるように、これらの下層民の詐欺行為などは、むしろ差別の結果なのであって原因ではない。こうした放浪者の中に各地を遍歴する楽師の姿もあった。
 中世の都市や農村の祭の時に、どこからともなく現われては人々とともに唱い、ひとときの慰めを与えては、どこへともなく去っていった遍歴楽師。彼らは一体どのような存在なのか。この問に一義的に答えることは難しい。彼らはひとつのまとまった身分を形成してはいなかった。王侯の前で演奏していた者があるかと思えば、村々の農民の祭にささやかな演奏で人々を楽しませてもいた。(中略)そもそも彼らの音楽はほとんどみな即興曲であり、(中略)常に聴衆のなかで、聴衆との直接的な触れ合いのなかで彼らの音楽が生み出されていたのである。」

「日々の生活の苦労から瞬時の解放を求める祭の興奮のなかでは、遍歴楽師の身分の低さは問題にもならなかっただろう。むしろ祭の進行や興奮に大きな役割を果す存在として、人々の、とりわけ子供たちの注目を集めさえしただろう。〈一三〇人の子供たちの失踪〉という歴史的事件そのものには、遍歴楽師はほとんどかかわりをもたなかった、と私には思える。彼らが関係していたとすれば祭のなかにおいてであり、それは事件の直接的原因ではなかった。だから中世史料においては歴史的な存在としての〈笛吹き男〉はほとんどその具体的な姿をみせていないのである。それにもかかわらずこの事件がのちに〈ハーメルンの笛吹き男〉の伝説として知られるにいたったのは、遍歴楽師の社会的地位が近代にいたるまで疎外されたものであったという事実と、彼らを差別の目で眺め、悪行の象徴とみたてた人々や「学者」たちがいたからなのである。」

「飢えはいつの時代にも人間をギリギリの状況にまで追い込んでしまう。一三世紀を通じて中部ヨーロッパで人肉食が行なわれたことは確かである。」
「こうして飢えた人々は常に食物を求めて移動する。農民ですら家と耕地を捨てて、あてのない放浪の旅に出る。飢饉の時にはこうして極めて多数の貧民が、全ヨーロッパを食物を求めてうろつきまわっていたのである。われわれは中世政治史や文化史のロマネスクやゴシックの建築に象徴される華麗な叙述の背後に、痩せさらばえ、虚ろな顔をして死にかけた乳児を抱いて、足をひきずるように歩いていた無言の群衆を常にみすえていなければならないのである。」
「飢饉、不作、疫病による人口の絶対的減少だけでなく、このような難民の流浪によっても一定地域の人口は急速に減少した。中世においてはこうした事態はすでにみたように繰り返し生じていたから、ハーメルンにおいても人々が同様な事態に遭遇し、(中略)人口の減少を経験するたびに、彼らのこうした体験の原点ともいうべき一二八四年の〈一三〇人の子供の失踪〉があらためて回想され、語りつがれていったと考えられる。」

「〈鼠捕り男伝説〉に共通していることは、鼠その他の害虫の被害に対して一般の人々は何のなすすべもなく、ただ被害を一方的に受けるばかりであったことと、鼠などを退治し、一般の人々を救ったのは、例外なく見知らぬ男、あるいは都市や農村の共同体内には住まない、非日常的な生活を営む人間であったことである。」
「多くの伝説に共通している〈鼠捕り男〉への報酬の不払い、忘恩というモチーフは〈鼠捕り男〉が前に述べた遍歴楽師と同様に土地に定住しえず、遍歴して歩いていたために共同体的秩序からはみ出した被差別民であったことと、彼らに対する一般の人々の日常の態度・処遇が対等な権利を有する者に対するそれではなかったことを示している。」

「〈笛吹き男と一三〇人の子供の失踪〉の伝説はハーメルンという一都市の伝説でしかなかったが、市参事会の裏切りに対する鼠捕り男の復讐というモチーフが加わったことによって、この伝説は普遍的な意味をもつことになった。
 どのような土地にも、自然的・人為的災害が絶えることはなく、どこにおいても庶民の苦しみに対して当局は無為無策であり、無名の英雄によって庶民の苦しみの根源が除去されても、当局はそのような英雄を正しく処遇せず、往々にしてむしろ断罪し、その結果生ずる災難もすべて結局は庶民が担わねばならない。しかも大人の世界で営まれるこうした醜悪な所業の責任をとらされるのは、しばしばいとけない子供たちである。このような「現実」を人々が日々味わわされている限り、この伝説は全世界の人々に訴えかけてゆく力をもっていた。」

「たしかに〈鼠捕り男伝説〉と結合した、〈ハーメルンの一三〇人の子供の失踪伝説〉は歴史的真実の核はもっていても虚像であった。しかしその虚像を史実でないとして否定した啓蒙思想家の多くは、民衆にとって長い年月の辛苦のなかから滴りおちるようにして生み出されて来た虚像の方が、無味乾燥な「史実」よりも重い意味をもっているということを理解しえなかったのである。」

「人間が他の人間を差別の目でみることをやめない限り、〈笛吹き男〉はいつの世にも登場するだろう。」



阿部謹也 ハーメルンの笛吹き男 03

























































阿部謹也 『中世の窓から』

「かつて次のようにいった人がいます。「人間は自分がそのなかに住んでいる現実の状況を、自分がそれにうまく適応している限り、理論的に把握しえない。そのような存在条件のもとでは、人間は自分の環境を、いかなる問題をも提起しない自明の世界秩序の一部とみなしがちである。」この言葉は学問をする者だけでなく、すべての人びとにとって物事をみるときの重要な視点を教えてくれます。
 中世社会をみようとするときも、この社会のなかでうまく適応出来る人びとだけをみていたのでは、この社会の本質をとらえることはできないでしょう。」

(阿部謹也 『中世の窓から』 より)


阿部謹也 
『中世の窓から』


朝日新聞社 
昭和56年3月30日 第1刷発行
昭和57年12月20日 第12刷発行
307p 目次3p あとがき2p 参考文献v 
口絵(カラー)2p 図版(モノクロ)2p
20×15.3cm 角背紙装上製本 カバー 
定価1,600円
装幀・扉挿絵: 安野光雅



本書「あとがき」より:

「一九八〇年二月から七月にかけて朝日新聞夕刊に連載した「中世の窓から」(百回)に加筆訂正をし、さらに第四章第二・三節を新たに書き加えて一書としました。」


本文中図版(モノクロ)多数。
本書は1993年に朝日選書470として再刊されています。


阿部謹也 中世の窓から 01


帯文:

「大佛次郎賞受賞
現代におけるヨーロッパの、人と人との関係の根源を、中世社会にさかのぼってとらえる。」



阿部謹也 中世の窓から 03


目次:

はじめに

Ⅰ 聖と俗の間――中世都市
 1 市民の暮らし
  中世都市ニュルンベルク
  オイレンシュピーゲルのいたずら話から
  聖者伝説と富の蓄積と
  ニュルンベルク、町の生活
  アジールとしての家、都市
 2 貨幣の役割
  かつて貨幣は主たる交換の手段ではなかった
  税金と人口構成
  貨幣の世界、人間の世界
 3 つきあいの形
  兄弟団を軸として
  つきあいは集団を単位としていた
  兄弟団の序列、ひとはなぜ兄弟団に入ったのか

Ⅱ 職人絵の世界
 1 一二人兄弟の館
  「一二人兄弟の館」創立
  メンデル家の人びと
  「館の書」・職人絵をとおして
 2 靴職人の世界
  仕事場のなかの職人たち
  靴をめぐる呪術的伝承
  古靴修理職人
  靴屋の仕事場
 3 衣服のタブー
  二枚の肖像画
  衣服規制の変遷
  なぜ中世において衣服規制令が現れたか
  仕立屋の仕事――親方と徒弟と
 4 石と鉄――呪術的世界
  遍歴して歩く石工と都市の石工と
  大聖堂ができあがるまで
  贖宥と聖遺物
  石工の伝統
  ロレンツ教会
  鉄の文様――多彩な中世の鍛冶職人たち
  剣と刀鍛冶の歴史

Ⅲ 人と人を結ぶもの
 1 仮面の祭り
  シェンバルト祭
  仮面と祭り――シェンバルト廃止の意味するもの
 2 飛脚
  人と人を結ぶ手紙
  飛脚の登場
 3 子供の遊び
  春の遊び
  「鬼ごっこ」他――社会の中の子供、子供の中の社会
  駆けっこ、格闘技、石投げ他……
  ネーデルランドの子供の遊び
  犬と猫へのまなざし

Ⅳ 原点への旅
 1 一一世紀の大転換
  「ヨーロッパ」の成立
  巡礼――聖地への旅立ち
  三圃農法の導入と人口増加
  都市へ――千年王国の夢
  一一世紀以前のヨーロッパの状況
 2 贈物で結ばれた世界
  かつて交換や契約は進物のかたちでなされた
  古ゲルマンの世界では――贈与行為の有償性
  贈与をめぐる社会慣行の変容
  市場の形成
  キリスト教と贈与慣行
 3 女性と異端
  貨幣は人間の絆を生まない
  娼婦も市民権をもっていた
  婦人はほとんどの職種から排除されていなかった
  修道院や「神の家」ベギン会での生活
  聖なる絆をもとめて
  異端とされた人びと
 4 時代のはざまで――ユダヤ人
  ユダヤ人の中世と近世
  なぜユダヤ人を?
  ニュルンベルクのユダヤ人
  「自由な人びと」ユダヤ人

Ⅴ ふたたび町へ
 1 聖性の喪失
  賭博の流行と禁制
  宗教改革、ローマ法の採用と市参事会
 2 音で結ばれた世界
  中世都市は豊かな音の交錯する世界だった
  職人の歌、学生の歌、マイスタージンガーの登場
  どの町にも固有な音の世界があった
  人びとの生活は鐘の音にあわせて営まれた
  共同体のシンボルとしての鐘

あとがき
参考文献



阿部謹也 中世の窓から 04



◆本書より◆


「市民の暮らし」より:

「たしかに現在でも、ヨーロッパの多くの町に中世のあとを留めている建物や彫刻は、私たちをも魅了するほどですが、これらの文化はフロワサールがいうように、都市の商業活動によって支えられていたのです。中世都市の文化の根底に商業に基づく富の蓄積があったことは明らかなのですが、その富がそのままで文化を生んだわけではなく、富の蓄積に対する反発、あるいは富を否定しようとする根強い意志が他方で強い流れとして存在していたために、傑出したさまざまな作品が生まれたとすら考えられるのです。貨幣経済の展開によって、経済とは全く関係のない学者や文人、芸術家などの活動がはじめて可能となる半面で、これらの人びとの活動が貨幣経済の進展とは異なった方向に文化を導いてゆくことになります。」


「貨幣の役割」より:

「貨幣をめぐる民間伝承は大変古く、すでに紀元前のケルトの金貨について、雷雨のあと、虹の一方の端が地上におりているところに、天からおちてきたものだといわれていました。その貨幣に彫られた像も神を示しているものだといわれていたのです。」
「ここでみておかなければならないのは、貨幣が護符、お守りとして用いられていたことです。」
「紙幣と違って、金属貨幣には金属のもつ呪術的な力が宿っているとみられていたのです。」

「日常生活のなかでの人と人との関係において、貨幣が大きな意味をもちはじめると、ときには奇妙な事態も生じてきます。一六九〇年のことですが、ある小都市の教会の祭壇画が傷んでしまい、実直な画家の親方が修復をしたことがありました。この親方は修復が終わると、教区教会に次のような計算書をつけて代金の請求をしたのです。
 計算書明細
 一、十戒に手を加え、第六戒にニスをぬる……二クローネ
 一、ピラトの前と後ろにラッカーを塗る……三クローネ
 一、大天使ガブリエルに新しい翼をつける……二クローネ
 一、天を広げ、新しい星を描く……二クローネ
 一、全くはげてしまった聖マグダレナを新しくする……三クローネ
 一、賢き乙女を調べ少し筆を入れる……一クローネ
 一、紅海についた蠅のしみをきれいにする……三クローネ
 一、世界の終末を少しのばす、短かすぎるから……四クローネ
 一、地獄の火を大きくし、悪魔の顔をゆがめる……五クローネ」



「子供の遊び」より:

「春になると子供たちの遊びは数えきれないほどありました。子供たちが葦笛を吹きならしていたことを、すでにヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは伝えています。(中略)子供たちは花輪をつくり、わらしべをぬいては占いをしました。ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデも、わらしべの長さを測り、恋人が思いを聞き入れてくれるかどうか、「聞いてくれる、くれない、くれる、くれない」と占った歌をのこしています。わらしべは、中世の社会においては所有権の移転の際に象徴として用いられ、法慣習のなかで重要な役割を果たしていました。一五〇二年の文書でも、所領を兄弟に譲ろうとした男が裁判所において裁判官からわらしべを与えられ、それを兄弟に手渡すよう命ぜられています。」


「女性と異端」より:

「かつて次のようにいった人がいます。「人間は自分がそのなかに住んでいる現実の状況を、自分がそれにうまく適応している限り、理論的に把握しえない。そのような存在条件のもとでは、人間は自分の環境を、いかなる問題をも提起しない自明の世界秩序の一部とみなしがちである。」この言葉は学問をする者だけでなく、すべての人びとにとって物事をみるときの重要な視点を教えてくれます。
 中世社会をみようとするときも、この社会のなかでうまく適応出来る人びとだけをみていたのでは、この社会の本質をとらえることはできないでしょう。」



「音で結ばれた世界」より:

「ヨーロッパの人びとは、中世においてなお、おそろしい未知の世界にとりかこまれていると感じていました。中世の森はオオカミや野生の人が棲む未知のおそろしい世界でしたし、夜になると森の世界は家の戸口までおしよせてくるのです。夜は森の世界でした。オオカミも森とともに戸口の近くまでやってきます。
 朝になって陽が昇ると森は再び昼間の境界線まで後退してゆくのです。夜になって森が戸口までおしよせてきたとき、オオカミや野獣の叫び声や梢を渡る風の音は、おそろしい未知の悪霊の世界からの叫び声と考えられていました。」



阿部謹也 中世の窓から 02























































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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