シュペルヴィエル  『ひとさらい』 澁澤龍彦 訳 

「「鏡や煖房のある部屋に暮していながら、あの子はやっぱり棄子だったのだ……」」
(シュペルヴィエル 『ひとさらい』 より)


シュペルヴィエル 
『ひとさらい』 
澁澤龍彦 訳
 

薔薇十字社 
1970年10月20日 初版発行
218p 口絵(モノクロ)2p
A5判 角背紙装上製本 貼函
定価1,300円
装釘: 堀内誠一
插画: ハンス・アルプ



本書「あとがき」(澁澤龍彦)より:

「原著は Jules Supervielle : Le Voleur d'enfants. Gallimard, 1926. である。」


函・本体表紙・扉・章扉にハンス・アルプのデッサンが使用されています。


シュペルヴィエル ひとさらい 01


帯文:

「「とうとう四人になったわい!」と鼻の孔のすぐれて目立つ大佐は、こうひとりごちた、「この腕の素肌を眺めるとき(彼は着物を脱いでいるところであった)、わたしはこれがまさしく人さらいの腕であることを認めざるを得ない!」(本文より)
――現代フランスの詩にいちじるしい影響を与えた詩人シュペルヴィエルは一方、その日常生活への思いやり、地上のありとある運命への愛しみ、あるいは生死の間で躊躇しているような優しい魂によって、すぐれた散文家でもあった。……本書は、詩人が三十代に著わしたもっとも美しい小説を、若き日詩人に傾倒したという訳者のロマネスクな訳文で再現した、不毛の現代に贈る愛の名作である。」



シュペルヴィエル ひとさらい 02


帯背:

「珠玉の小説※名訳で再現
本邦初訳」



帯裏:

「「(…)ジュール・シュペルヴィエルは万物の輪廻と転身の詩人、神秘と交霊の詩人である。(…)彼は反ナルシス主義者であって、自我の牢獄を破り、魂の注意深い見張りから逃れることに忙しい、彼は『永久に粗鬆であり』無限に祖鬆であり、自分を動物の中に、水の中に、石の中に、見出すことを好んでする。ともすればこの詩人は南米の大草原(パンパス)の空吹く風の一吹きから、または南大西洋の白い泡沫から星の輝く夜空をのぞみながら生れ出たのかも知れないのである。(……)」
(マルセル・レイモン《シュペルヴィエルに就いて》堀口大學訳より)
…その「無限に昂奮している」宇宙感覚、その魔術使のような奔放なヴィジョンによって常に驚異の詩人であったシュペルヴィエルが、独得の甘美な文体で描きだすファンタスティックな愛のアラベスク… 詩王シュペルヴィエルの珠玉の小説を名訳で贈る。」



シュペルヴィエル ひとさらい 03


目次:

ひとさらい
 第一部
 第二部

あとがき (澁澤龍彦)



シュペルヴィエル ひとさらい 04



◆本書より◆


「第一部」より:

「そのときだ、ふと振り返ってうしろを見ると、背のたかい、いかめしさの中にもどこか優しさのあるひとりの紳士が、殊のほか好意にみちみちた眼ざしで、じっと彼を見ているではないか。アントワアヌはその男を見ても格別おどろきはしなかった。(中略)この見知らぬ男は、いかにも重大だと自ら判断した行為を遂行せんとしている人のように、また、ある隠密な手口によって自分の生命と子供の生命とを一つに結びつけようとでもしているかのように、貪ぼるように、しかしこっそりと、彼を見つめていたのであった。」
「アントワアヌは、ある避けがたく見えた運命の手に否応なく摑まえられて、ぐんぐん牽きつけられて行くのである。」
「この大きな紳士の言葉には、かすかな訛りがあった。
 「わたしの車に乗らないかね?」
 それは立派な箱型自動車(リムウジン)で、シャンゼリゼの商店の陳列窓からいま出て来たかと思われるばかり真新しいやつだった。」
「座席につくとすぐ、アントワアヌの心には思い当るものがあった、それは、この間から定期的に、ある未知の人から自分に送ってもらっていた玩具の贈物のことである。それらは実に贅沢な玩具で、上書には贈主の身元を明かすどんな些細な文字も記されてはいなかった。
 大きな覗き箱のなかに、南アメリカの農場や、野原を散策する牝牛の群が眺められた。それらの箱は、間違ってパリに来てしまったかのように、此処許の空気とはおよそ違った空気を吸い込んでいた。箱のなかのユーカリ樹をもし諸君が敷物の上に並べるならば、たちまち樹々のまわりの距離は拡がった。
 箱のなかの仮想の沙漠には、ガウチョが走りまわり、投繩を投げるのだった。すると、一匹の馬が魔法にかかったように四肢をがんじがらめにされて、どうと倒れる。
 もうひとつの箱のなかには、コーヒーの大農園があった。農夫たちがパイプをくわえて炎天下を歩いているのが覗かれた。農夫たちの眼のなかには処女林が反映している。彼等のある者は、忘れものを思い出すときのように、ふと立ちどまったりする。すると、犬が荷包をくわえて彼等に飛びかかる。
 まあ、コーヒーの林に目を近づけてみよう。それは真直ぐに伸びた、無限にふかい林だ。いったいこの林のなかに這入るにはどうしたらいいのだ? なに、あの農夫たちのようにして見るがよい。」
「これまで女中のつつましい贈物しかもらったことのなかったアントワアヌは、この思いがけないプレゼントの到来に肝をつぶしたものだ。」

「ロンドンの動物園をさまよった、とある過ぎ去った一日を、大佐は回想しているのだった。牢固たる皮を着た巨大な子供ともいうべき象や野獣のたぐいを、彼は愛していた。」
「不意に、霧のなかから貧しげな夫婦者があらわれて、ベンチの方へやって来るのが彼の目にとまった。彼等は四方に気を配っていた。男と女はそれぞれ手に子供を抱いていた。四歳くらいの双生児(ふたご)と見えた。両親が穴だらけのぼろ服を着ているらしいのに、子供は精いっぱい贅をつくした、それだけに却って哀れふかい装いをしていた。
 夫婦者はベンチに坐った。母親が、代赭いろのスカアトの、下の方についているらしい一種のポケットから、銀紙にくるまれた小さなチョコレエトをふたつ取り出した。そして、彼女はそれをひとつずつ子供にやるのだったが、その仕草のいかにも荘重で、いかにも思い入れたっぷりなところを見ると、ともするとこの二きれが子供の全生命の糧(やしない)であるかと思われた。
 「さ、これを食べて、おとなしくおし」
 両親は霧のなかを素速い足どりで逃げて行った。
 ビガ大佐は永いことベンチのまわりをさまよっていた。どうやら自分にこの子供たちが委ねられたかのような気がするのだった。とにかく、あの貧しげな夫婦者がベンチに子供を棄てたのを見たのは、このわたしだけなのだ。しかし、彼等はほんとうに棄てる気だったのだろうか?」
「ビガはベンチのまわりをまだうろついていた。霧はいよいよ深くなった。子供のひとりは寝込んでしまった。大佐はもう躊躇しなかった。時計台を左手に見て通り過ぎ、そのまま出口まで子供を連れて来てしまった。長い将校マントと堂々たるその風采が、霧を左右にかるく掻き分けた。ホテルに着くと、子供のポケットに、次のように書かれた紙片が発見された、
 ――御親切な方へ。僕たちはスタッフォードシャー生まれ、当年四歳、双生児(ふたご)の孤児です。
 僕の名前はフレッドです、と一枚の紙にあった。
 僕の名前はジャックです、ともう一枚の紙にあった。
 その日の晩に、ビガは妻と双生児を連れて、パリに帰った。」

「ある日、アントワアヌはテーブルの上にのっている何かの書類の見出しを、拾い読みしてみた。《逆境にある子供たち、不幸な子供たち》と書いてあった。テーブルの上にはそのほか、社会学の研究書とか、医学や戦争の本などがあった。
 ところで、ビガが絶えて笑ったことがないのは、これはまたどういうわけなのか? 子供たちに笑い顔を要求された時ですら、彼の努力はせいぜい絶望的なしかめ面か、いとも悲しげな息ぎれの音によってしか表現されなかった。微笑すら浮かべることができないのか? ともあれ、彼の唇には、相手の視線をあやしむていの、あるおだやかな優しい表情が浮かぶ以外には、およそどのような光明も、わずかな弱々しい仄めきすらも、いっかな浮かぶことがなかったものである。
 ビガは煙草をふかしたり、マテ茶を飲んだり、銀の茎笛をくわえたりしながら、ただの一度もうしろを振り返ることなく、何時間でもじっとしていられた。いつも記憶の底に整理しなければならない問題が山積みしているので、彼はほとんど本を読んでも頭にはいらないのだった。この男、かつては実行家であった彼も、いまでは一種夢想の機械ともいうべき大へんな人物になってしまっていた。海や草原(パンパス)に長いこと暮らした人は、えてそういうものである。地平線にしろ、部屋の壁にしろ、いつも何かとりとめないニュースを知らせたげな貌をしていることに変りはないのだから。ある雨降りの日、サン・ジュアン大統領が自分を裏切るに至った理由をあれこれと考えていると、大佐の不満はいつ止むとも見えぬ雨とひとつのものになってしまうのだった、つまり、彼の思い出がすべて雨のようになって、彼のまわりに流れはじめるというわけである。自分の現在を、まわりの雰囲気つまり空の色や、街の騒音や、家のなかの物音などと混同させてしまうことに、彼ほど妙を得ているものはいなかった。」



「第二部」より:

「もはや彼を入水の誘惑から遮げるものは何ひとつとしてなかった、鉄の柵も、生きながらえんとする望みも、いまは空しかった。」

「いま、彼は何と遠く、何とはるかに取り残されてしまったことか!」



「あとがき」(澁澤龍彦)より:

「もうずっと以前、私はシュペルヴィエルに熱中していたことがあった。あの目くるめく宇宙的感覚ともいうべきものが、たまらない魅力だったのだ。今までどこにも書いたことはないが、じつはシュペルヴィエルは、私がコクトオの次に熱中した詩人であった。
 この翻訳は、おそらく、昭和三十年頃に仕上げたものと思われる。去年、同じく薔薇十字社からコクトオの『ポトマック』を出したが、この『ひとさらい』は、『ポトマック』の次に私の手がけた若書(わかがき)ということになる。」
「年甲斐もなく少女に恋着し、少女の相手の男の子に嫉妬し、ついに絶望して、南米へ行く汽船の甲板から、大西洋に身を躍らせる退役大佐フィレモン・ビガは、つねに微笑をふくんだ作者によって冷たく突っ放されているので、喜劇的と言ってよいのか、悲劇的と言ってよいのか、どうもよく分らないところがある。そこが面白い。」



シュペルヴィエル ひとさらい 05



◆感想◆


本書はざっくりいうと幼児誘拐犯の話です。地上に居場所のない主人公が同じように地上に居場所のない子どもたちをさらってきて擬似家族を作り、南米に移住しようとします。

ところで、シュペルヴィエルとロートレアモンは、ともにウルグアイのモンテビデオ生まれですが、ロートレアモンの主人公マルドロールが海へ飛び込んで鱶と愛を交わしながらも、結局は人間社会に戻ってひとごろしになってしまうのは、マルドロールがあまりにも人間的であったがゆえであり、シュペルヴィエルの主人公ビガが人間社会でひとさらいになって子どもたちに愛を与えようと試みながらも、結局は海へ飛び込んで人知れず死んでゆくのは、ひとえにビガが生まれつきのひとでなしであったがゆえである、ということなのかもしれないです。








































































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シュペルヴィエル 『火山を運ぶ男』 (嶋岡晨 訳/妖精文庫)

「彼は自分の内に聞いた、何千羽という鳥たちの野生の叫び声を。未知なるものたちが彼の体のなかを飛びめぐっていて、彼はいわば、それらのものを閉じこめた燃える大きな鳥籠であった。不意に、チョッキのなかから、白黒まだらのテルテロ鳥が、焦げくさい匂いをのこして飛び立ってゆき、シャンゼリゼの通りのプラタナスの木にとまった。ほかの鳥たちも、燃えながらわっと飛び立った。」
(シュペルヴィエル 『火山を運ぶ男』 より)


シュペルヴィエル 
『火山を運ぶ男』 
嶋岡晨 訳

妖精文庫 24

月刊ペン社
昭和55年11月15日初版発行
188p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,300円
表紙絵・装丁: 奥村靱正

新・妖精画廊 1 (4p):
V・F・ステレット (荒俣宏)/カラー図版3点



本書「解説」より:

「月刊ペン社の〈妖精文庫〉の一冊として今ここに訳したのは、L'Homme de la Pampa ――(原題を直訳すれば『大草原(パンパ)の男』すなわち、(中略)シュペルヴィエルが、最初に試みた長篇小説である。内容から、また主題をふまえて、訳者は題名を『火山を運ぶ男』とした。南米の大草原(パンパ)をわがものとしている五十男、大地主(エスタンシエロ)のグアイナミルは、人生への倦怠をまぎらわせるため、人工的に火山を構築するが、新聞でたたかれる。生まれた国への愛想づかし。グアナミルは、火山を解体し、パリに運ぶことを思いつく。「未来」と名付けられていた火山は、気をきかして、みずから小さな雛形(ひながた)になり、グアナミルの旅行鞄にもぐりこむ。そうして、かれらはついにパリに着き、いよいよ大事業にとりかかろうとするのだが……」


「解説」中にモノクロ図版2点(「ウルグァイの大農場にて」「子供たちとシュペルヴィエル夫妻」)。


シュペルヴィエル 火山を運ぶ男


帯文:

「旅行鞄に火山を詰めて
華の都に、さあ、旅立とう!
広大な宇宙的空間感覚の詩人、シュペルヴィエルの書いた〈大人のためのオトギバナシ〉」



帯裏:

「南米の大草原をわがものとしている五十男、大地主のグアナミルは、人生への倦怠をまぎらわせるために、人工的に火山を構築するが、新聞でたたかれる。自国に愛想づかしをした彼は、パリに旅立つが、彼の旅行鞄には、小さくなった火山がしのび込んでいた……」


目次:

I 角(つの)のはえた曠野(こうや)
II 燃える山
III 辞書
IV 海のさくらんぼ
V パリの地図
VI 血族の事件あるいは影の裏返し
VII 自由
VIII 自己拡大そして新たな自己拡大

解説 (訳者)




◆本書より◆


「燃える山」より:

「ある日、図書館で本をあさっているうち、彼の手は未知のちからに引きよせられ、フックス著『火山』をとった。
 「山地のやわらかい岩をつきぬけて、自由な道をきりひらくには、ガスと水蒸気の圧力だけでいつも充分だとはいえない」と、十四ページに書いてあった。
 この文章を読み、グアナミルは長いこと空想にふけった。つぎに、目にとまった文章は、こうだ。「泉といってもとかく涸(か)れがちな島、パンテラリア島の羊飼いたちは、火山の噴気孔のまえに薪(たきぎ)のたばを積みあげるならわしである。水蒸気がゆっくり薪のなかをくぐりぬけるうち、冷却され水になってしたたるからである。羊の群れに飲ませる水を、かれらはそうやって手に入れる」
 翌々日、頭のなかで考えていることの、目に見えるけれどもはかない延長のような、髪の毛を、グアナミルはしげしげと見ながら、彼の頭を刈っている床屋に向かって(少なくとも今の場合、頭に浮かんだことを床屋にかくしてみても、はじまらないと思ったらしく)こういった。「わしは、火山をひとつ、つくろうと思っとるんだ。この地方の名誉となるような火山をね」
 この計画は、前の晩、窓から侵入してきたものだった。何か重大なことが起きそうな気がして、ぬかりなく彼はいっぱいに窓を開けておいた。そのアイデアは、うなりながら何回か彼の頭のまわりを旋回し、とつぜん頭蓋のなかに侵入すると、ここちよくその場に住みついた。」

「彼の念頭には、煙を出すもののことしかなかった。町で火事でもあればすぐ、とんで行って、いろんな燃えやすい素材のみごとな燃えっぷりを確かめた。あるときなど、はばかりなく乱暴なことばで火事を讃美し、ホースの先からほとばしる水を悪しざまにののしっているところを、消防夫たちに見つかった。
 「すばらしい火だ、すごいぞ(ブラヴォー・フエゴ・ヴラヴォー)」と叫び、嬉しさのあまり、ステッキと帽子を炎のなかに投げこんだだけでなく、ハバナ葉巻まで投げこもうとして、その腕を、消防団長の星の徽章(きしょう)のついた腕に強くおさえられた。半分燃えたステッキを炎のなかから引っぱり出すとともに挑発的言辞をもただちに取り消さなかったら、そのすじに訴えるぞ、と彼はおどかされた。
 「わしは芸術家だぞ」とグアナミルはどなった。「この気持ちがおまえらにわかってたまるもんか」」



「海のさくらんぼ」より:

「手すりから身をのり出したグアナミルは、あるものに気づいた――夜とおなじまっ黒なかたまりに見えたが、そのものは、舳先(へさき)の稜材(りょうざい)にしがみつき、腰をのたうたせ、その超自然の力でもって商船の向きを変えようとしていたのだ――そのへんの海域で、船乗りならだれでも知っている、三二七Kの暗礁に、船を坐礁させるため。
 もはや疑う余地はなかった。それは、今も赤道近くのアフリカ沿岸で見かけられるような、黒い人魚(セイレン)だった。
 すでに船長は、船首に探照燈のひかりをあびせていた。人魚(セイレン)は、黒いというより夜的存在であることが、わかった。」
「メガホンを口にあて、グアナミルはすでに三回もどなっていた。
 「危険はきりぬけた。ごらんの女性は人魚(セイレン)ですぞ」息をついで、金属の管をとおして彼は叫んだ。「とにかくこいつは神話的事件ですぞ」興奮して、ことばはとぎれとぎれになった。いっぽう人魚は部屋着(ガウン)を要求していた。
 事務長と客室係長が、毛ぶかいシーツのなかに、まだ濡れて光っている人魚の体をアルジェリア歩兵みたいにくるみこむ役目をひきうけた。」
「グアナミルは、訊問にたちあうことを許された。
 「まだいるんですかね、人魚たちが」おどろきをふくらませながら、火山の男はきいた。船長は、海水から出れば二時間しか生きられない海の女性が、何時(なんじ)ごろ死ぬかをさぐる目で、柱時計をじっと見ていた。
 「あらゆる海域は、申し分なく人魚に荒らされています」と、船長は慇懃(いんぎん)な口調でいった。
 「ご存知なかったのですか。初めての船旅だからですな。船乗りたちはだれでも人魚に出会ってるんですよ。ですが、迷信をおそれて、いっさい口外しませんし、また、人魚たちはそれぞれ別の呼び名で呼ばれていますからね。たとえば、戦時中のことですが、彼女たちは、こう呼ばれていました――海底敷設機雷(ふせつきらい)、魚雷、兇暴なやつ、自然発生的爆燃(ばくねん)、とね。あのマリノ・マリーヌはどうなりましたかなァ、一九一四年から一八年にかけてさんざんわたしどもを悩ませてくれた人魚は」
 「元気でやってると思いますわ」と大洋の若い娘は、いった。「もうずいぶん会ってませんけど」
 人魚の肌は、夜のいろから、青みをおびたいろに、変わっていた。船長もグアナミルも、それに気づかぬふりをしていたが、興奮しいささか体をこわばらせた。
 「ご存じですか」と、完全な平静さをよそおって、船長はグアナミルにいった。「あの人魚に、どうしてそんな呼び名がつけられたか。それについて、マドモワゼルにひとつうかがってみたいですな、わたしの解釈がまちがってないかどうか確かめるために」
 「その呼び名は、マリノ・マリーヌが沈めた何隻かの船の頭文字でできてるんですわ。もともと名前は、わたしたちの情報局で識別記憶の便宜(べんぎ)のために付けられていたものですけれど、だんだん今のやりかたが正規のものになったのです。何人かの人魚たちは、とても美しい名前を獲得することに成功しました。たとえば、淡青(アジュリーヌ)、大佐(コロネル)、年ごろの娘(ギャルス)、オペラ座広場(プラース・ドペラ)……。でもだれでもが、そんなぐあいにうまくいくとはかぎりません。ある人魚は、新しい(ヌーヴェル)ジュリーと呼ばれたがってましたが、新しい(ヌーヴェル)ジュリップという名前になってしまいました。情報のまちがいから、鷲(イーグル)という名のイギリスの石炭船を慎重にえらんだつもりが、祖国(パトリス)というギリシアの貨物船を最後に沈没させてしまったからです」
 「そのとおりですよ」と船長は、いった。「ところで、あなたのお名前は?」
 「g分団の八二五号ですわ」
 「それはどうも、しかし、あなたほどの方(かた)なら、お名前が……」
 「まだ一隻も船を沈めてないんですもの」
 「まさか……」
 「ほんとうですよ」
 そして人魚は、青みをおびた黒いいろから、サフラン色に変わった。
 「船長。しつれいながら――」とグアナミルは、いった。「ちょっと、興味ぶかく思われることについて、愚考を述べさせていただきたい。人魚のからだの下の方は、生きた魚のしっぽでできていると、こう以前、教わったものですがね。このマドモアゼルの場合、そうではないようですな」
 「ええ、そういわれてますわ」と、人魚が口をはさんだ。 
 「でも、今どき、どうして鱗(うろこ)のはえたしっぽなど、付けてるひつようがあります? そんなもの付けてるのは、もう、遠いいなかの海奥(うみおく)の、としよりだけですわ」」

「すると、人魚の肌のいろは、サフランいろから、ヴァレンシア産オレンジのいろに、「緑岬(カップ・ヴェール)」のエメラルドいろに、純粋なオパールのいろに、と変わった。」

「とつぜん、彼女は、(中略)よろめき、息をつまらせ、床に倒れた――死の恐怖を顔にあらわすことなく。倒れるひょうしに、ガウンの前がはだけられたので、グアナミルと船長は、ていねいになおしてやった。
 「ああ、死んでしまった!」もはや蜜蜂が見すてて飛び去った一輪の薔薇の花にすぎない娘の胸に、耳をあてて、船長はいった。
 「死んだら悪いとでもいうのかね」泣きじゃくりながらグアナミルは叫んだ、自分が何をいっているのか、わからなくなりながら。
 「このすばらしい肉体も、もうここに置いておくことはできないのですよ、航海法規で禁じられてましてね。海に投げこまねばなりませんな」
 「さっさとやりましょう」やけっぱちな気分で、グアナミルは、いった。」
「五十男のぶこつな慎重さを総動員して、舷側から(きよらかな思いで)かれらは彼女を投げた。船長は無帽のまま、型にはまった海の静けさを眺めていた。グアナミルは跪き、二十五歳のときから口にしてない祈りのことば、「天にましますわれらの父よ(パードレ・ヌエストロス・ケ・エスタス・エン・ロス・シエロス)」をつぶやいていた。
 波間に身をゆだねるやいなや、海の愛撫をうけて、人魚は生きかえり、普通よりやや長めの幻想的な真珠いろの片手を高くあげて、別れのあいさつをした。底の方から明るんだ波のおもてに、夜光虫がえがいた「ありがとう(メルシ)」の文字を、船長とグアナミルは読みとった。
 「生きている、生きているぞ!」とグアナミルは叫んだ。」




◆感想◆


「火山」とは何なのかというと、たぶん「無意識」です。魅力的な人魚もどうやら鞄の中の火山が生み出したアニマだったようです。火山とともにパリに着いたグアナミルは自我のインフレーションを起こしてしまったのでしょう、グアナミルの体も自己拡大してどんどん大きくなり、巨人になってしまいます。













































































堀口大學 訳 『シュペルヴィエル抄』

「ところが海は、相変らず空っぽで、流星以外、彼女をたずねる者は何もなかった。」
(シュペルヴィエル 「沖の小娘」 より)


堀口大學 訳 
『シュペルヴィエル抄』


小沢書店 
平成4年3月20日 初版発行
285p 目次vi 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,090円(本体3,000円)
装幀: 望月玲



本書「解説」(安藤元雄)より:

「この本は、(中略)堀口大學によるシュペルヴィエル作品の翻訳のすべてを集め、整理して、初めて一冊にまとめたものである。詩はそのほとんどを『堀口大學全集』第三巻の「シュペルヴィエル詩集」に依拠して、新字新仮名遣による訳者生前の最新のテクストを採用しているが、『世界の寓話』の部はここに初めて「詩集」の本文に繰り込まれるもので、『全集』では正字旧仮名遣のままだったテクストを新字新仮名遣に改めてある。散文作品は訳者生前の刊本である青銅社版の二冊の短篇集『沖の小娘』と『ノアの方舟』に加えて、彌生書房版『シュペルヴィエル詩集』から『善意爆弾』以下の諸篇を採り、さらに雑誌発表のままだった「オロ―プレト紀行」を新字新仮名遣に改めて収録した。」


二段組。


シュペルヴィエル抄 01


帯文:

「ジュール・シュペルヴィエル(1884~1960)――ファンタジックなイメージと奔放な想像力によって、日本の現代文学にも多大な影響をあたえつづけた南米ウルグアイのモンテヴィデオ生まれのフランス詩人。わが国への紹介者、また最適の訳者として詩人堀口大學が遺した、愛誦すべき佳什七十七篇ほか短篇(コント)集「沖の小娘」「ノアの方舟」などシュペルヴィエル作品をめぐる全訳業新訳版。」


帯背:

「南米生まれのフランス
詩人シュペルヴィエル。
堀口大學新訳版による
詩とコント、作品集成。」



目次:

詩集
 荷揚場 (1922年)
  死を待ちながら
  林
  あのどんよりした雲のうしろ
  ブラジルの寄港地
  闘牛
  戦友
  乗込み
  椰子の木影で
  逃走
 引力 (1925年)
  肖像
  生存者
  炎の尖端
  ロートレアモンに
  海へ投身した男
  生きる
  一つの声が
  死美人
  昨日と今日
  動作
  沖合
  出帆
  上甲板
  沖の下
  交換
  巡回の道
 無実の囚人 (1930年)
  囚人
  心臓
  捉える
   捉える……
   煙と叫喚の……
   この顔の……
   平野の女よ……
   あらゆるものが……
   或る顔が……
  しばらくひとりで……
  分散
  おきき……
  ドアよ、ドアよ……
  僕は一本のポプラを……
  オロロン―サント―マリー
  Whisper in agony
  請願書
  無神
  カルナヴァレ博物館
  天の火
  ねざめ
   光りが……
   夜の斜面に……
   自分さえない……
   モンテヴィデオの……
  それ
   それは……
   今日の一日が……
  この沈黙のうしろ
   夕ぐれ……
   明るい鐘の音を……
   厳めしい肩つきの……
  君の心臓……
  天空
  仔鹿
  灰色の支那の牛が……
  太陽が……
  森の奥
  眠る湖
 未知の友ら (1934年)
  時間の馬たち
  顔
  呼びかけ
  魂
  舟あと
  この手……
  恋愛
  或る詩人
  すると物体が……
  ドア
  犬
  追従者
  魚
  羚羊
  漂泊びと
  彼ひとり
  第二の自我
  難破
  他界の忍者
  川と一緒に歌うには……
  席を讓る
 世界の寓話 (1938年)
  神さまが仰しゃる
  未知なる神への祈り
  闇が渇きを
  僕は一人海上に
  知られぬ海
 その他の詩篇
  古参の地平線
  この孤独の……

沖の小娘 (1930年)
 沖の小娘
 秣槽の牡牛と驢馬
 セーヌ川の名無し女
 天空の跛行者たち
 ラーニ
 ヴィオロン声の少女
 或る競馬のつづき
 犯跡と沼

ノアの方舟 (1938年)
 ノアの方舟
 エジプトへの逃亡
 沙漠のアントワーヌ
 少女
 牛乳の椀
 蝋人形
 また見る妻

その他の作品
 善意爆弾 (1949年)
  善意爆弾
  ありがたち
  幼女ひとり
  牝牛
  巨人たち
 宇宙の発足 (1950年)
  イオ
  羊三頭つれた後家さん
    *
 泉に飲む (1933年)
  オロ―プレト紀行

解説 (安藤元雄)
年譜 (田口啓子 編)



シュペルヴィエル抄 02



◆本書より◆


「海へ投身した男」より:

「航海中の汽船から
僕は身を投げた
さて早速船のまわりを駈けめぐる。
幸い誰にも見られなかったが、
見たら人は自分の理性を疑う筈。

光線同様の気易さで僕は海面に立って
波と自分の靴底の奇蹟的間隔を考える。
泳ぎと来たら浮身さえ知らぬ僕だが、仰向けに寝ころんでみる
そのくせやはり濡れもしない。
水の松葉杖をついて掌(て)をあげて
人たちが近づいて来る、
来ても彼らは死んでしまう、大きな口から泡を吐いて。」



「動作」:

「ひょいと後(うしろ)を向いたあの馬は
かつてまだ誰も見た事のないものを見た
次いで彼はユーカリプスの木蔭で
また牧草(くさ)を食い続けた。

馬がその時見たものは
人間でも樹木でもなかった
それはまた牝馬(ひんば)でもなかった、
といってまた、木の葉を動かしていた
風の形見でもなかった。

それは彼より二万世紀も以前
丁度この時刻に、他の或る馬が
急に後(うしろ)を向いた時
見たそのものだった。

それは、地球が、腕もとれ、脚もとれ、首もとれてしまった
彫像の遺骸となり果てる時まで経っても
人間も、馬も、魚も、鳥も、虫も、誰も、
二度とふたたび見ることの出来ないものだった。」



「灰色の支那の牛が……」:

「灰色の支那の牛が
家畜小屋に寝ころんで
背のびをする
するとこの同じ瞬間に
ウルグヮイの牛が
誰か動いたかと思って
ふりかえって後(うしろ)を見る。
この双方の牛の上を
昼となく夜となく
翔(と)びつづけ
音も立てずに
地球のまわりを廻り
しかもいつになっても
とどまりもしなければ
とまりもしない鳥が飛ぶ。」



「知られぬ海」:

「誰も見ていない時
海はもう海でなく
誰も見ていない時の
僕らと同じものになる。
別な魚が住み
別な波が立つ。
それは海のための海、
今僕がしているように
夢みる人の海になる。」



「沖の小娘」より:

「この小さな村にたった一筋しかない往来を歩きながら、小娘はときどき、右を見たり左を見たりするのであった、どうやら彼女に向って軽く手を上げて挨拶をしたり、頭を動かして友情を示したりする者でもあるらしく。しかしこれは自分でも知らずに、彼女が与える印象にしかすぎないのであった、なぜかというに、絶えず今にも消え失せようとしているこのさびしい村に、何事の起るはずもなく、また誰あって来るはずもないのだから。
 何を食べて彼女は生きているのだろうか? 魚をとってかしら? ところが、どうやらそうではないらしかった。というのが、彼女は、台所の戸棚と蠅帳の中に、食物を見出すのであった。二、三日目には牛肉までが、ちゃんと入っていた。その他、彼女のために、馬鈴薯や、ほかの野菜類や、ときどきは鶏卵まであった。
 それらの食料品は、たちどころに戸棚の中に現われるのであった。そして小娘が壺の中からジャムをとり出しても、それは依然として少しも減らなかった、あたかも、一度あっただけのものは、何時までもそのままあるべしと定められてでもいるかのように。」

「ときどき小娘は、或る種類の句が書いてみたくってたまらなくなった。そんな時、彼女は熱心に書くのであった。
 たくさんの中から抜いて、次にその四つ五つをお目にかける。
 ――これを二人で分けましょうね?
 ――よく私の言うことをお聞きなさい。どうぞお席に腰かけて、動かずにおいで下さい!
 ――わたしにもし、高山の雪があったら、一日はもっと早く過ぎるでしょうに。
 ――泡よ、わたしのまわりの泡よ、何時になったら、おまえは固いものになるのか?
 ――輪踊(ロンド)を踊るには、少なくも三人いなければ駄目。
 ――頭のない二つの影が、埃の多い道を歩いて行った。
 ――夜、昼、昼、夜、雲と飛魚と。
 ――わたしは、物音が聞えたように思った、ところがそれは海の音でしかなかった。
 彼女はまた、手紙に、自分の小さな村と、自分自身のニュースを書くのであった。
 (中略)
 手紙を書き上げると、彼女はそれを海へ投げた――捨てるつもりではないのだけれど、必ずそうするものだと彼女は思っているのである――、またもしかするとこれは、難破した航海者が、彼らの最後の便りを、絶望の空壜につめて、波に任すと同じ気持なのかも知れない。
 水に浮んだこの村では、時は経たなかった。小娘は幾年たっても十二歳だった。」



「セーヌ川の名無し女」より:

「「あたし、川の底に沈んでしまうものとばっかり思っていたのに、どうやら浮ぶらしいわ」。浮いたり沈んだりして流れながら、この溺死した十九歳の娘はぼんやり考えた。
 アレキサンドル橋を過ぎて間もないあたりで、水上警察のうるさい人たちが各自(てんで)に竿をふりまわして、彼女の着物にひっ掛けようと肩を打ったり突いたりしたあの時は、どうなることかと怖ろしかった。
 幸い、折から日が暮れた。それで彼らはそれ以上追いかけては来なかった。
 (中略)
 どうやら彼女は、今ではパリを過ぎていた。そして樹木と牧場の美しい左右の岸の間を流れていた、昼の間はなるべく人目につかない川の隠れ場所にもぐり込んで、月と星だけが魚たちの鱗を撫でに来る夜だけしか旅はしないようにして。
 「今ではどんな大きな波でもあたしにはもうこわくないのだから、海へ出られたらよいのになあ」
 彼女は自分の顔に、明るい生き生きした微笑が浮んでいるとは知らずに流れていた。それは、あらゆるものに絶えず影響されて、じきに消えてしまわなければならないような生きた女たちの微笑よりは、かえって永続きのする微笑であった。
 海へ出る、今ではこの言葉が、川の中での彼女の道づれになっていた。」

「あたしの可哀そうな頭の中には、今ではもう海草や貝殻などが住んでいるだけだ。どういうものかあたしには、寂しくてならないと言いたくってならないのだが、そのくせあたしは実は、この言葉がどんな意味かさえ知らないのだ」



「少女」より:

「二人の姉妹のうち、姉の方は、多少ぞんざいではあるが実質的な料理を作った。妹の方は、先頃から実に奇想天外なご馳走を作るので、食べる方の人たちは、果して自分が食べているのか、それとも自分の口が夢を見ているのか、けじめがつかなくなるほどだった。」




こちらもご参照ください:

吉田健一 譯 『ラフォルグ抄』
































































ジュール・シュペルヴィエル 『日曜日の青年』 嶋岡晨 訳

「抹殺された、いわば無効の、神。(中略)いつもいくらか迷い、それでも道に迷う自分を認めて、努力する神。おそらく、発育不全の神。――おのぞみなら、『小人の神』と言ってもいいが――そんな神を、ぼくは信じているんですよ」
(ジュール・シュペルヴィエル 『日曜日の青年』 より)


ジュール・シュペルヴィエル 
『日曜日の青年』 
嶋岡晨 訳

Serie 《Fantastique》

思潮社 
1980年10月1日 新装改訂版
192p
19×12.6cm 並装 カバー
定価1,200円
装画: 村上芳正



Jules Supervielle: Le Jeune homme du Dimanche


シュペルヴィエル 日曜日の青年


帯文:

「出口なき愛への懲罰
彷徨う詩人の魂
変身能力をもつ若い詩人は、蠅や猫に変身しながら、日曜ごとに食事に招いてくれる美しい人妻の肉体に住みつく。だが…」



帯背:

「詩と幻想の物語」


カバー裏文:

「詩人の魂は愛する女の肉体にもぐりこむ。〈この甘美な肉の初物を味わうことなくそれに飽きあきする〉という悲しい事態を想像したまえ。詩人の魂はそこに止っていたか。幸いにして、否だ。ほどなく優秀な頭脳をもつ小人の博士の肉体に住みつく。やがて美しい人妻の肉体に再会…。この最初にして最後の〈居住地〉のおかげで、すばらしく魅惑的な未亡人と結婚することになる。
この幻想的な物語のなかには、さりげない外見の下に、非常に深い形而上学との結びつきがみられる。おそらくシュペルヴィエルの最高の作品のひとつと言えよう。

シュペルヴィエル Jules Supervielle フランスの詩人〈1884~1960〉
南米ウルグァイの首府モンテヴィデオに生まれる。両親はフランス人。生後すぐ両親と死別、フランスで祖父母の手で育てられ、パリで教育を受け、ソルボンヌ大学を卒業、ラフォルグの影響を受けて詩を書きはじめる。シュルレアリスムの影響を受けながらも、常に運動の外にあって独自な〈宇宙的〉〈神話的〉な世界に生きる。戦中は故郷ウルグァイに戻り戦後にいたっても創作力の衰えをみせなかった。彼がいなかったら、フランス詩壇にどれだけのものが欠けたか量り知れないとレイモンは言う。」



目次:

日曜日の青年
後日の青年
最後の変身

解説




◆本書より◆


「最後の変身」より:

「若いきれいな女たちとの交渉で、博士はやすらぎを得た。彼は、自分の体のひどい脆弱さを忘れていた。そして、危険な脳貧血をおこす時期をはやめた。
 ついに「終油の秘蹟」のため、司祭をよぶ はめ になった。ほんとうは、神とどの辺まで交渉がすすんでいるのか、彼自身には解(わか)らなかったが。僧侶は、聖歌隊の少年を一人したがえて部屋に入ってきた。やむを得ず、博士はベッドに起きなおって、言った。
 「ぼくは頭のはたらきの鈍(にぶ)い男です。ですが、真実を申し上げねばなりません。ぼくは、なによりもまず、科学者です」
 「それは、ちっともさしつかえありません」と、司祭はひどく愛想よく言った。「ルイ・パスツール、あの偉大なパスツールの例がありましょう」
 「パスツールに比べれば、ぼくなどは、実験室の二十鼠、それもめくらの二十鼠みたいなものです」と、小人はちょっといらいらして言った。
 「ですが、二十日鼠だろうとそうでなかろうと、とにかく、どう考えてみても、『最後の秘蹟』の儀式をお願いしたくないんです」
 「まあ、わたしの言うようにしてみて下さいよ、モン・フィス(わが子よ)」
 「ぼくはあなたのフィス(息子)なんかじゃない。もちろん、あなたは偉い神学者だ。しかし、ぼくがストレートに接している、神学そのものであるところの『神』よりも、あなたの方が縁遠い人間に感じられますよ。そうなんです。あなたの前ですが、あえて言わせてもらいますよ。ぼくの枕もとで神の話をして下さるとしても、神の仲介者よりもはるかにぼくは神を信じています。心臓の打つところ、まなざしの輝くところならどこでも、それが人間であれ犬であれ小鳥であれ、差別なく、神があり希望がある。ぼくには、完璧(かんぺき)なただひとりの神など信じられない。――抹殺された、いわば無効の、神。みずからに改心の跡をとどめ、心のひずみを修正した無数のさまざまの神。いつもいくらか迷い、それでも道に迷う自分を認めて、努力する神。おそらく、発育不全の神。――おのぞみなら、『小人の神』と言ってもいいが――そんな神を、ぼくは信じているんですよ」

 

「解説」より:

「一九五五年ガリマール版テキスト裏表紙の紹介文。
 『変身可能の能力とは、出口のない愛への懲罰であろうか。あるいは、それを輪廻説の神秘的な影響のせいだとすれば、もっとなっとくしやすくなるだろうか。とにかくそれが、若い詩人、フィリップ・シャルル・アペステーグに賦(ふ)与された不幸な能力であることは、たしかだ。詩人は、夫を熱愛している若い人妻で、日曜日ごとに食事にまねいてくれる美しいオブリガチオンに恋慕している。
 アペステーグの魂は、一匹の蠅やのら猫のからだの中へ、つぎつぎにまぎれこんだあと、愛する女の肉体のなかにもぐりこんでしまう。
 (中略)
 詩人の魂はそこにじっととどまっていたか。さいわいにして、否(ノン)だ。ほどなく、きわめて優秀な頭脳をもつ小人(こびと)、ギュチエレッツ博士の肉体に住みつく。――ながい月日をへて、彼自身のすみか、最も住みごこちのいい、フィリップ・シャルル・アペステーグの肉体に再会し、それをとりかえすときまで。この(最初にして)最後の「居住地」のおかげで、すばらしく魅惑(みわく)的な未亡人、オブリガチオンと、彼は結婚することになる。
 この幻想的な物語のなかには、さりげない外見の下に、ひじょうに深い詩と形而上学のむすびつきがみられる。おそらく、ジュール・シュペルヴィエルの最高の作品の一つと言えよう。これは、まさしく驚くべき事件とユーモアと真実で、たくみに構成された、ラテン系のホフマンである。』
 一九六〇年、(中略)ガリマールの『空想図書館』シリーズは、エチアンブルの編集で、「シュペルヴィエル」を世に送った。その中の紹介は、さすがにもうすこし詳しい。それを参考にして以下に記すと、『日曜日の青年』の同題第一部は、一九五二年に書かれた。代議士フィルマンと結婚したオブリガチオン、その妹で神秘学に関心をもつドロレス、そして詩人アペステーグという人物配置。詩人は、蠅、つづいて猫に変身、そして知人の金に手をつけたフィルマンの自殺後は、オブリガチオンの肉体に住みつく。第二部、「後日の青年」では、小人が重要な役割を演ずる。詩人は小人の肉体にうつり住むことによって、肉体と精神の対立的な苦悩をえがき、美と醜の問題、さらには存在論にいたる、人間の矛盾の扉をつぎつぎにひらく。最後に病みほうけたもとの自分の肉体にめぐりあうという設定のこの部分は、一九五四年に書かれた。その翌年、第三部「最後の変身」が完成する。ここでは、一時は、自殺未遂によって発狂した小人が、盲目になることによって、精神の自由を獲得し、病いからもたちなおり、アペステーグとオブリガチオンを結婚させる。だがやがて小人は死に、アペステーグは家庭から脱出し、旅に出る。そして、ある淫蕩な女詩人と出会うことによって〈最後の変身〉「詩そのもの」への変身を実現するのである。」


















































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。


うまれたときからひとでなし、
なぜならわたしはねこだから。

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