FC2ブログ

大室幹雄 『遊蕩都市 ― 中世中国の神話・笑劇・風景』

「美しい、けれども不思議な出来事――。われわれにとって大切なのは語られている事実ではなくて、物語ることによって意味されているものである。物語ることの中から湧き、あるいは溢れ出て世界を涵(ひた)し漾(ただよ)わせるものの総体をその場にあって受けとめることのほかに言説に接する構えはない。」
(大室幹雄 『遊蕩都市』 より)


大室幹雄 
『遊蕩都市
― 中世中国の
神話・笑劇・風景』

歴史の中の都市の肖像Ⅵ

三省堂
1996年12月20日 第1刷発行
8p+681p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価7,000円(本体6,796円)
装幀: 間村俊一



本文中図および図版(モノクロ)61点。
本書はヤフオクで4,000円(送料込)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


大室幹雄 遊蕩都市


帯文:

「新しい唐帝国(タン・エンパイア)像の誕生
8世紀初頭、世界の中心は女帝武則天のバロック都市洛陽から、玄宗と楊貴妃のロココ都市長安へと回帰した。玄宗の興慶宮は、首都長安を黄土色にくすむ陰鬱な檻獄都市から、牡丹色の芳香にむせぶ艶麗優美な遊蕩都市へと華麗に変身させた。温泉完備のホスピス華清宮には、皇帝陛下専属の介護婦(ヘルパー)、楊貴妃の艶姿もあって……。
爛熟の唐帝国、その優雅なる
没落の歳月を鮮烈無類のイメージで描き、
従来の唐帝国像を一新する。」



目次:

序章 武則天バロック残照
第一章 大周女性革命パロディ――青春末期
第二章 帝都長安の園林化――中年時代Ⅰ
第三章 世界の完成と帝国水上博覧会――中年時代Ⅱ
第四章 遊蕩都市の笑劇と祝祭――中年時代Ⅲ
第五章 天宝ロココの内臓的コスモス――中年時代Ⅳ
第六章 象徴の現前と神話の再現――更年期Ⅰ
第七章 工芸品としての帝国――更年期Ⅱ
第八章 牡丹の都の風俗誌――更年期Ⅲ
第九章 廷臣官僚の良い趣味と生の気分――白居易たち
第十章 風景と読書人パーセプションの成立――王維と柳宗元
終章 再び干潟幻想のほうへ――老残期





◆本書より◆


第三章より:

「花蕚相輝楼と四つの屋敷とが構成する、いたって風流な空間を場として玄宗と兄弟たちとはどのような時間を過ごしたか。同じことだが、どんな生活を享受したか。その消息を寧王李憲の伝記は簡潔につぎのように語っている。「玄宗が時に楼に登って、諸王が音楽を愉しんでいる音声が聞えると、みんなを楼上に召して同一の榻(ベンチ)に坐って宴を開いて謔(たわ)むれ、或いはそのまま彼らの第宅へ幸して、金を賜与し帛(きぬじ)を分配して歓賞(よろこび)をさらに深めた。諸王は毎日興慶宮の側門で玄宗に朝見し、帰宅の後は、音楽を奏し気ままに酒を飲み、撃毬を遊び闘雞を楽しみ、或いは近郊に鷹狩りに出かけ、或いは別墅(べっしょ)に勝景を尋ねて、こういう生活が年中つづき、彼らが足を運んで遊ぶ所へは、玄宗が遣わした宦官の使者がひきもきらず連なったのである」――。一言で放蕩が彼らのライフ-スタイル、遊蕩が彼らの生の全体であった。それはたいそう自然なこと、いわば彼らの生の必然だった。遊興以外に彼らの生を満たすべき何があったというのか。
 いちはやく嫡長子の資格による王権継承を放棄した寧王は、それ以後政治への干預を厳に慎み、廷臣や官僚たちとのいっさいの交際を断ったという。ほかの兄弟たちにしても同断、相違はそういう処身を寧王が自ら選んだのに対して、彼らの場合はそのように選択したのかどうか必ずしも明らかでないことである。だが、饗宴だの、奏楽だの、賦詩、撃毬、闘雞、房事、蒲博(すごろく)、狩猟といった贅沢でたあいもない遊興に歳月を過ごしていたのは兄弟全員に共通していて、客観的には、そう生きるよう彼らは強制されていたのだ、むろん皇帝によって。諸王がつねに寄り集まって暮らしているのを見咎めた群臣が、恒例によって皇帝の一族は首都から外へ引き離し、どこぞの州の剌史に任ずるべきだと建議すると、皇帝は彼らを州剌史に任命して一度は赴任させる、が、彼らには大綱を見させるだけで自余の業務はすべて属官たちに管理させるという具合、要するに政務の現場から、むしろ政治そのものから隔離して、おおむねは首都の花蕚相輝楼の西側の蕚の位置に、いわば園芸的なイメージの感覚と手法によって彼らを列植して遊ばせておいたのだった。そのために費用を吝(おし)んでならないのは無論であった。造園や園芸に莫大な出費は不可避なのだ。」
「こういう玄宗の処遇が寧王李憲その他の兄弟たちに感謝すべきものだったか、逆に息苦しい制扼であったか、その精確な事情はまるで判からない。彼らの誰もが自分たち李一族の惨たる過去は知悉していたから、政治などという汚い分野から疎外されて、「富貴」の余滴に潤いながら他愛もない遊興に日々を送っている生活をこのうえもない仕合せとして満足していたのが実態だったかも分からない。」
「だが、彼らの皇帝対諸侯王という君臣の関係、この関係にまつわる彼ら一族の歴史がこういう兄弟同士の交歓にやはり政治的なものの影を射し入れてしまうのだった。」
「現に諸王兄弟たちは、花蕚相輝楼とそれを西方から環状に支え囲む各自の邸宅とが構成する園芸的な居住の、諸記録が筆尖をそろえて「近古の帝王の友愛の道、与(とも)に比べる無し」と称えてやまない、花-蕚-相輝の園芸的ツィクルスにおいて皇帝によって四六時中監視されていたのである。」
「公平に眺めて、天子の兄弟はつねに酔楽を極めてあれ、わが安全のために、という玄宗の期待に応ずるべく諸王たちは十分に努力したといってよかろう。」



第六章より:

「犯罪の影は(中略)謹慎して暮らした皇族たちの身辺にも徘徊していた。たとえば、玄宗の長兄寧王李成器の場合、かつて長安郊外鄠(こ)県の界(はずれ)で狩猟を楽しんでいた折、林の中の草むらで厳重に扃鎖(とざ)された一個の櫃(ひつ)をみつけた。発(ひら)いて視ると、ひとりの少女が現われ、姓は莫氏といって、叔伯(おじ)の「荘居」、荘園づきの屋敷に昨夜「光火賊」が押し入って劫略されてきたのだという。盗賊のうち二人は僧侶であったと語って、少女ははなはだ艶冶であったから、寧王は驚き悦び、自分の後ろに彼女を乗せて帰ったのだが、櫃には生け捕りにした熊を入れてもとどおり固く鎖しておいたのである。三日後、京兆尹から皇帝のもとへ報告があった。鄠県の一食店に二人の僧が訪れ、銭一万で一日一夜店を賃(か)りたが、法事を行なうのだという口上で、ただ櫃をひとつ舁(かつ)ぎ込んだだけ、その夜半、腷膊(どたばた)と声がするから、店戸の主は怪しんで、日が出てからみると、門戸が啓(ひら)かないのだ、で、戸を撒(はず)すと、熊が人を衝いて走り出て、二人の僧はすでに死に、骸骨が悉(ことごと)く露(あら)われていた――。この報告に接して、玄宗は大いに笑った。そうして寧王に書簡を送り、「寧哥大(ねいにいさん)は此の僧どもを能(うま)く処置された」といいやったが、実をいえば、これら不運な盗賊の獲物はすでに玄宗の所有に帰していたのだ。読者ご存知のように、このころ玄宗は使者を各地に飛ばして「極色」を求めていた。それで寧王は林でみつけた少女が「冶態横生する」美女で、「衣冠の子女」だったから、即日彼女を皇帝に献上、彼女を見出した次第も奏上してあったのである。
 何のことはない、これでは皇帝こそ事実上帝国最大の泥棒だったことを明かしているような逸話だけれど、「光火賊」とは首都と洛陽を股にかけて広く各地を荒らしまわった特異な集団であったらしい。劫盜に押し入ると、彼らは必ず人を殺してその肉を食うのだが、そうしないと、夜人家へ入ったとき、昏倒して魘(うな)されて覚めないことがあるからなのであった。」



第七章より:

「穆宗朝の出来事だという。
 禁中の殿前に植わっている牡丹が花を開いた。一朶千葉(いちだせんよう)というから、すばらしく美事な株立ちで、紅い大輪の花花は香気人を襲ったのである。人間(ひとのよ)に未(いま)だ有らずと天子も感歎していると、爾来夜毎に黄白の蛺蝶(あげはちょう)が花間に万数も飛び集まって、光輝は照り耀やき、暁方(あけがた)に去っていく。宮嬪たちが競って羅(うすぎぬ)の巾(キャップ)で撲(う)つのだが、誰も獲(とら)えられない。天子が空中に網を張らせて、やっと数百匹を殿内にいれ、嬪御たちに気ままに追い捉えさせて娯楽にしたところ、遅明(よあけ)に視れば皆な金玉なのであった。その細工は比類なく精妙だったから、宮女らは争ってその脚に絳(あか)い縷(いと)を絆(つな)いで首飾りにした。夜になると粧奩(けしょうばこ)の中で光が起きるのである。そののち宝廚(たからびつ)を開くと、金銀やら玉屑の内にちょうど蝶に変化しつつあるものが覩(み)られた。」
「美しい、けれども不思議な出来事――。われわれにとって大切なのは語られている事実ではなくて、物語ることによって意味されているものである。物語ることの中から湧き、あるいは溢れ出て世界を涵(ひた)し漾(ただよ)わせるものの総体をその場にあって受けとめることのほかに言説に接する構えはない。」

「本章の冒頭に読んだ穆宗の禁中、いいかえれば天下=世界の中心に出現した宝玉のメタモルフォーゼの綺譚を顧みよう。あの無意味なほどに奇異に明るい椿事の豪奢な華やぎは、彼の帝国が一個の工芸品にほかならなかったことを象徴的にか症候的にか読者に語りかけているであろう。」



「注」より:

「読書人パーセプションとは、都市とその文明から外部へ逃亡するための生と文化の作法、趣味と気分の形式なのであるが、この概念は本書につづく連作の諸篇において、主要なモチーフのひとつとして改めて展開されるであろう。」




こちらもご参照ください:

大室幹雄 『劇場都市 ― 古代中国の世界像』
大室幹雄 『パノラマの帝国』




















































































スポンサーサイト



大室幹雄 『檻獄都市 ― 中世中国の世界芝居と革命』

「人のこころは暗黒の奈落だからである。」
(大室幹雄 『檻獄都市』 より)


大室幹雄 
『檻獄都市 
― 中世中国の
世界芝居と革命』
 
歴史の中の都市の肖像Ⅴ

三省堂
1994年7月10日 第1刷発行
6p+684p
A5判 丸背紙装上製本 カバ-
定価6,900円(本体6,699円)



本書の主人公は前半が太宗/長安、後半が武則天/洛陽です。
本文中図および図版(モノクロ)68点。
ヤフオクで4,000円(送料込)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。


大室幹雄 檻獄都市


帯文:

「唐帝国の首都長安の、生と死と再生の物語。
7世紀、隋末唐初の中国世界。大らかな明るさの底に伏流する粗暴なる闇の力。中心を失った首都に響きわたる革命の胎動。高祖李淵の騎馬時代からバロック的女帝武則天の 祝祭時代(カーニヴァル)へ。死人の都(ネクロポリス)長安から牡丹の花咲き乱れる 詩人の都(ロココ)長安へ。
移りゆく唐代の社会と文化を、
新しい光のもとに照らしだす歴史解釈の極北。」



目次:

第一章 青春と老年――コスモス崩壊の修復をめぐって
第二章 騎馬の青春と歴史参加――鷹の時代
第三章 尓虞我詐(ニイユウウォツァ)/你死我活(ニイスウウォフォ)顚末記――杜鵑(ほととぎす)の時代
第四章 貞観年間世界劇場――鸚鵡(おうむ)の時代
第五章 歴史の影と神話の創作――阿呆鳥の時代
第六章 天可汗の檻獄都市/ネクロポリス複合――幼女時代
第七章 首都の中心紛失と革命の胎動――少女時代
第八章 大周革命遠望――テロル都市洛陽
第九章 弥勒下生のバロック・ユートピア――象徴の森の都





◆本書より◆


第四章より:

「かくて太宗および彼の社会の人びとにとってカニバリズム現象は一個の文化的な制度――なるほど暖衣飽食が多少とも実現された泰平の世に大量に顕在することはないにしても、しかし孝子による親への薬餌に人肉が供せられるなどの民俗として日常生活の細部に組み込まれていたことからも分かるように、社会の組織の中にさまざまに現われつつ、総体として絶対的に否定されることなく、むしろ容認され肯定され、ときには称揚されることさえあった生の制度化された様態であった。すなわち食人現象は彼らの生を形づくる環境の中に編み込まれて、環境の変動につれて隠顕する現実の一部あるいは一位相にほかならなかった。」

「権力は事実において例外なしに腐敗する。盛者必衰のことわりとともに、世界史はこのことだけは精確に現前させてきた/いる/いくであろう。人は権力を志向するとき、すでに腐敗の病源菌を宿している、むしろ腐敗の病巣に食いつかれている人だけが権力を狙う。ただしその病巣の発症のしかたは社会と文化ごとにさまざま、それにまた発症した疾病の認知も彼の属する社会の文化に依拠している。」

「斉の後主とは、北中国の短命な王国北斉(五五〇―七七)の事実上は最後の青年皇帝高緯(五六五―七七在位)、周天元とは同じく短命な北周王国(五五六―八一)末期の皇帝宣帝宇文贇(いん)(五七八―九在位)のこと。後主高緯は素晴しい美少年だったけれど、生来の臆病から人の顔が仰視できず、言語能力にも障害があった。幼少のころから文芸と音楽を愛し、自ら琵琶を弾奏するのを喜び、「無愁の曲」を作曲するほどの快楽主義者に成長すると、壮麗を極めた宮殿や苑囿を造営し、貧児村を拵えて乞食に扮して遊び呆けて「無愁天子」と愛称された。当然ながら政事にはまるで興味がなくて酒色に荒淫し、帝位を幼いわが子に譲って退隠すると間もなく、北周に俘虜となり杜稷を失なって殺された。そのとき高緯は二十六歳だったという。北周の宣帝宇文贇はサディスト、臣下の諫言には耳を藉さず、やたらと苛虐な処罰を行なって新制度を発布し、遊宴に沈湎して宮殿造営に耽り、幼い息子に帝位を譲っていっそうの自由を享楽しようとしたところで、二十二歳で死んだ。隨の高祖楊堅はこの幼い皇帝静帝宇文闡に仕えて王権を簒奪、皇帝を初め宇文氏一族を全滅して彼の権力を固めたのだった。」
「さて、太宗の月旦と質問を受けて、「斉の後主は懦弱、政は多門に出ず、周の天元は驕暴、威福は己(おのれ)に在り。同じく亡国為(た)りと雖(いえ)ども、斉主は尤(もっと)も劣る!」と魏徴は断定した。趣意は同じく亡国の君主であっても、権力を有力な臣下に分断されてしまった斉の後主よりも、臣下に対する生殺与奪の権を最後まで確保していた周の宣帝のほうがまだましだというのであって、秀麗な風姿で自作の「無愁の曲」を琵琶に奏でつつ池塘を徜徉するロココ調の無愁天子を鍾愛するわれわれの好みからは背馳しているが、それが単一至尊の皇帝によるデスポティズムのみを唯一の理想的政体と考える儒教司祭の本音ではあった。」



第五章より:

「一般に政治的言語は憑き物と同じで、憑きが落ちてしまえば興味索然とするばかり、同様に政治的神話もそれの濛気の圏外に生きるものにはあざといばかりに阿呆らしいだけ。神話に固有の詩想(ポエジイ)、言語の本質をなす真実の美がどちらにも決定的に欠けているからである。」

「もともと歴史はあとぢえによる解釈の累積以上ではないのだし、そのあとぢえも解釈も政治的言語でしかありえない。歴史は勝者の特権の所産であるからである。」



第六章より:

「もうひとつ、景観の印象の表現を。こちらは、高宗の代に完成された大明宮の前殿、龍首原頭の高みに建てられて大明宮の「外朝」だった含元殿からの眺望である。「天晴れ日朗(て)る毎(ごと)に、終南山を南望すれば掌(て)を指(ゆび)さす如く、京城の坊・市・街陌(がいはく)は、俯視すれば檻(おり)の内に在る如し。蓋(けだ)し其(そ)〔含元殿〕の高爽なればなり」――何か補足を加える必要があるだろうか。
 相対的に天に近い含元殿の高所に立って、げに昊天上帝のご機嫌もうるわしい青天白日のもと、脚下に拡張する京城を俯観すれば、縄直の街路を挟んで、高く厚い黄土の直立する堆積に囲まれて碁盤目状にびっしりと詰まっている街区と市場の集合は一個一個が巨大な「檻」の群だというのである。」
「試みに明徳門に佇んで眺望しよう。いまのところこの都市に人は不在である。朱雀大街の広さ長さを想い出そう。これは壮大なユートピア、同じことだがディストピアの廃墟ではあるまいか? 幾何学的な秩序と安定、何なら一種の調和も見られなくはないといってもよかろう。端的に、長安の大興城は皇帝の世界支配の協力と巨大を衒示することを企図して構築され、それにふさわしい異様な偉観を表現することに成功した。機能性が追求されたのは無論だが、それが住民を直接に強力に拘束して支配するための工夫であって、人ひとりひとりの住むことへの配慮を絶対的に無視していたのは坊里制の現実だけからでも明白だった。それは牧羊、牧畜、同じことだが牧民(引用者注: 「牧民」に傍点)のために設計された壮大な装置、「檻」の群の集積にほかならず、古典的でカノニカルな象徴性の追求はほとんどないに等しかった。」



第七章より:

「注」より:

「念のためいえば、武則天が二人の敵対者に与えた特異な身体損傷は彼女の創造ではなかった。(中略)この「人彘(ひとぶた)」の語は、前漢帝国の創設者高祖劉邦の糟糠の妻呂(りょ)后が夫の死後、生前の夫が寵愛した宮人戚(せき)夫人に対する怨毒を晴らすために、「戚夫人の手足を断ち、眼を抉(えぐ)り去り、耳を煇(や)きつぶし、薬を飲ませて瘖(おし)にし、〔天井の低い〕小部屋に置いて、人彘(ひとぶた)と命名した」出来事から、厳密には出来事の記録たる「史」(『史記』および『漢書』の呂后本紀)から採られている(中略)。「経史」について教養のあった武則天が同性の先人のこの逸事を知らなかったはずはなく、呂后と同じく天子のハーレムにおける女の戦いの場に身を置いて、彼女は「史」の歴史に倣びしたのである。――そうして彼女の社会では新しいことはめったに起こらないから、武則天が敵対する淑女二人を酒甕に封じて酩酊させた新工夫は、十二世紀後の清帝国末期に西太后慈禧によって「史」的な範型として再演された。」


第九章より:

「武曌の革命都市神都洛陽とそこに建設された天枢・天堂・明堂・九州鼎を眺望するとき、このコスモポリスに住み、訪れる万人の視線に、その眺めは魅力的なランドマークを提供したに相違ない、メガロマニィ的に雄大な象徴的建築物たちは全体として一個のコンプレックスを形成して、その総体的な物量と壮麗と偉容は、慈氏越古金輪聖神皇帝の鎮座する神都こそ現に普遍的な仏教帝国の中心であり、この中心から八方に広がって彼女に統治されている閻浮提世界は弥勒仏の楽土の地上における実現にほかならなかった。歴史的にそれは武照という一人の女の美しい身体に罩められていた、このうえなく旺盛な生の活力によって実現された。逆に現象的にいうなら、敢然と権謀と殺人を断行するふてぶてしいまでに逞しい権力への意志、熱心で聡明な華厳仏教の信徒としての楽土建設への願望、昇天への志向に支えられた世界観の壮大と転換、統治者としての度量の広さと能力の優秀、愛児殺しも辞さないヴァギナ・デンタタ的な生命力の深さと暗さ、男女の性の差異を世界観的に逆転せしめた性愛の強靭、豪奢壮麗な構築物に表現されたメガロマニィ、それにまた美文愛好と牡丹改良に認められる華麗なものへの心情の傾き――これらはそのうちのどれひとつを採っても、そのひとつだけで一人の人間が負うには恐ろしいほどの努力の集中を必要とするけれども、彼女の生の力の強盛はこれらすべての因素によって彼女の生を構成した。しかも彼女の特異で卓抜な生の力はこの複雑な構成を言辞tうの歴史的世界にそのまま現前せしめたのだった。その歴史的な現前の場こそ彼女の大周帝国、実質的にはその神都洛陽であったのであるから、(中略)われわれは躊躇することなくこの巨大な女人の首都を弥勒下生のバロック・ユートピアだったと結論しよう。
 としてもユートピアが本質的に虚構であり、仮虚(けこ)でもあることはいうまでもない。歴史的な都市がそれにいささかなりと近接できたにしても、いずれはそのユートピア性自体において都市は風化し頽落する。」





こちらもご参照ください:

大室幹雄 『遊蕩都市 ― 中世中国の神話・笑劇・風景』


























































































大室幹雄 『宮沢賢治「風の又三郎」精読』 (岩波現代文庫)

「宮沢ののらくらものだった生の特異性、同じことだが彼の詩と童話の独自性と卓越性は彼に固有な遊戯性からのみ生れた。」
(大室幹雄 『宮沢賢治「風の又三郎」精読』 より)


大室幹雄 
『宮沢賢治
「風の又三郎」
精読』
 
岩波現代文庫 文芸 99 

岩波書店
2006年1月17日 第1刷発行
iii 302p
文庫判 並装 カバー
定価1,100円+税


「本書は岩波現代文庫のために書き下ろされた。巻末の宮沢賢治「風の又三郎」は、一九四六年に羽田書店より刊行された『宮沢賢治名作選』収録のものを底本とし、『宮沢賢治全集7』(ちくま文庫、一九八五年)にしたがって日付を( )に入れて付した。」



大室幹雄 風の又三郎精読


カバーそで文:

「分教場に転校してきたちょっと変わった男の子高田三郎をめぐる初秋の東北の物語「風の又三郎」。裕福な家に生まれて法華経に傾倒した宮沢賢治を「のらくらもの」と位置づけ、その仏教的世界観や宮沢父子の葛藤を描き出して賢治童話の代表作を読み解く。勤勉な印象で語られてきた作家像を転換する近代日本の一裏面。書き下ろし。」


目次:

Ⅰ 生活の風景と魂の風景
Ⅱ 遊びをせんとや――のらくらものの社会史
Ⅲ 朝(あした)の紅顔 夕(ゆうべ)の白骨
Ⅳ みんな自分の中の現象
Ⅴ マグノリア こころに刻む峯々に咲く
Ⅵ 日本岩手県イーハトーブの地理学
Ⅶ 子どもたちのテオファニア

参考文献

風の又三郎 (宮沢賢治)




◆本書より◆


「Ⅱ 遊びをせんとや」より:

「さて、一般に、宮沢賢治のような型の大金持の息子はときに遊び人と呼ばれる。辞書『広辞苑』には、「遊び人」の項に①一定の職業を持たずぶらぶらと暮している人、②転じて、ばくち打ち、やくざ、とあって、むろん②の語釈は宮沢には合わないから、それが①に返って、この語は宮沢にふさわないかもわからない。ほかに、のらくらもの、なまけもの、道楽者、やくざもん、といった類語もある。しかしあとの二語には色恋の臭いがからみ、なまけものは物理的または唯物的で、仕事や労働の回避もしくは欠如にかかわるだけで精神的な語感に欠ける。その点、のらくらものは直接的には仕事回避の語感を欠き、性的な臭いもなく、しかも遊びの感覚を写して些少の精神的な香りにも無縁ではない。相対的にこれを可として、宮沢-のらくらものと仮定義しよう。」



◆感想◆


本書は「風の又三郎」精読、とタイトルにあるので、著者が「風の又三郎」原文を逐一辿りつつ精読してくれる本かと思ったものの、じつのところ、本書巻末に全文掲載されている「風の又三郎」原文を読者が各自「精読」するためのバックグラウンドを提供し、読解の方向性を示唆する本なのではなかろうか。「風の又三郎」に直接言及しているのは第六章と第七章だけで、第一章は一種の序文、第三章から第五章までは宮沢賢治と法華経について詳しく論じられていて、これはたいへん参考になりました。第二章で著者は、宮沢賢治は「のらくらもの」である、というテーゼを出していて(「遊び人」=「のらくら息子」=「幼童のままイノセントであること」)、それが、「風の又三郎」は「小さ子」「童子神」「始原児」である、という本書の主張の布石になっています。

しかしながら、「高田三郎」=「風の又三郎」であるという著者の読解を肯うわけにはいかないです。

わたしの「風の又三郎」読解は以下の通りです。
――異質な存在である転校生の高田三郎が、すでにできあがっている「小さな学校」の子どもたちの社会にいかに適応するか、子どもたちの側からいえば、「をかしな」転校生である高田三郎をいかにして自分たちの社会の一員として受け入れるか、その契機となるのが子どもたちの社会に言い伝えられている「風の又三郎」の伝説であって、子どもたちは高田三郎を「風の又三郎」であると仮定して、高田三郎と共にいわば「風の又三郎ごっこ」をすることによって遊びを通して高田三郎を受け入れようとし、高田三郎の方でも「風の又三郎」を演じることによって子どもたちの社会に溶け込もうとする。
ところで、ごっこ遊びとは何なのか、鬼ごっこの鬼となった者は鬼に憑依され、鬼を演じることによって、ほんものの鬼をこの世に呼び出してしまうのではなかろうか。
それはそれとして、高田三郎と子どもたちが「風の又三郎」ごっこを通して仲間になったと思われた瞬間、ほんものの、地霊(自然の精霊)としての「風の又三郎」が現われて、というか風なので姿は見せぬまま、「どつどどどどうど」という自らのテーマ曲を叫んで
顕現することによって、高田三郎=「風の又三郎」という「ごっこ遊び」を崩壊させてしまいます。
その後、高田三郎は「小さな学校」を去ることになり(「風の又三郎」があえて自らの存在を示すに至った理由は、高田三郎の父親が「モリブデンの鉱脈」を掘ること――自然破壊――を阻止するためであったとおもわれます※1)、子どもたちはほんものの「風の又三郎」への恐怖心から(なにしろ「風の又三郎」は「あまいりんご」も「すつぱいりんご」も見境なしに吹きとばしてしまう凶暴でアナーキーな自然力の体現者です)、高田三郎=「風の又三郎」という「ごっこ遊び」に固執しようとする、すなわち、嘉助は自分自身に言い聞かせるように「やつぱりあいづ(高田三郎)は風の又三郎だつたな。」と「高く叫」んではみるものの※2、「相手がほんたうにどう思つてゐるか探るやうに」一郎と「顔を見合せたまま」立ち尽してしまう、というわけです。

※1 風は人間による自然破壊に敏感で、短篇「サガレンと八月」では「西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風」が、「内地」から標本を集めに来た農林学校の助手に「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」と詰問します。
※2 この場面は、高田三郎が伝説の「風の又三郎」と同化しつつあった時点で、「あいづやつぱり風の神だぞ。」という嘉助の言葉に対して一郎が「そだないよ。」と「高く言」う場面に呼応しています。






































































大室幹雄 『干潟幻想 ― 中世中国の反園林都市』

「環境との親密な結びつき、つまりトポフィリアを突如遮断された少年の生は破滅へ向かうしかなかったのである。」
(大室幹雄 『干潟幻想』 より)


大室幹雄 
『干潟幻想
― 中世中国の
反園林都市』

歴史の中の都市の肖像Ⅳ

三省堂
1992年12月10日 第1刷発行
v 556p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価5,300円(本体5,146円)



本文中図および図版(モノクロ)64点。
本書はまだよんでいなかったので、アマゾンマケプレで最安値(送料込2,496円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


大室幹雄 干潟幻想


帯文:

「東西五千キロ、南北八千キロに触手を伸ばす
巨大な干潟(ラグーン)としての隋帝国。域内に渦巻く
生の沸騰。コスモス(劇場)による風景(園林)の制圧。
反復・模倣される劇場都市。
北方辺境の遊牧草原文化による江南ロココの
農耕都市文化の征服を通して、
拓跋・北魏王国から中原・隋帝国への華夏中国史の
舞台転換を濃密に描く。鶴首待望のシリーズ第四作。」



帯背:

「歴史の中の都市の肖像Ⅳ」


目次:

第一章 殺された魔法の王子の残影
第二章 憑かれた一革命家の肖像
第三章 反園林都市――倣びの陶酔と江南コンプレックス
第四章 性愛する皇太后の最期
第五章 出来すぎ夫婦と不肖の息子たち
第六章 始原児皇帝の世界遊戯と母胎回帰
第七章 干潟幻想――コスモス再建と解体と修復





◆本書より◆


「第二章 憑かれた一革命家の肖像」より:

「完成したばかりの明堂に宇宙論上の父たる至高の天空神を祀り、霊台に昇って雲気を望み、眼路の遥かかなたの上天に渦まいて還流している宇宙の生命力を全身全霊に浴び、降って青陽の左个に政事を布いた孝文帝は、いまや彼の全存在から世界へ向かって宇宙の生命力が流出していくことに恍惚たる戦慄を感得したに相違ない。表層のところで、彼は恐ろしい太母的な文明太皇太后からの解放と自立に喜びと満足を覚えたであろう。(中略)が、月令的世界観の宇宙論的シンボリズムが彼の深く博い教養に、同じことだが彼の倣(まね)びへの傾向性と資質に隠微な親しい合図を刺戟した。すると、歴史、伝統、文化が奔流のように、受肉した宇宙の生命力を世界に流出し終わって空虚になった彼の意識の中に浸入してきて彼の意識を領絡した。(中略)彼は外来の文化に、華夏中国の文化に憑依(ポゼッション)されたのである。そのさいすでに彼の身体に高い比率をもって流れていた漢-シナ人(ハン・チャイニーズ)の血が有効に作用したのか、それは不明としかいいようがないが、漢-シナ文化の側からすれば、それは外部から訪れていって、この草原文化民族の皇帝を憑依したのだった。」

「月令的世界解釈の教示によれば、彼もとうに知悉しているように、「天に二日無く、土に二王無し」、世界には唯一の王しかあってはならず、しかもその単一の帝王は世界の中心に定位し、そこに彼の帝都を構え、その中心に塊然と独坐していなければならない。彼をとり囲む現実は目にみえてこの宇宙論的な正則に背離している。遥か南方、長江の彼岸とはいえ上古以来天下=世界の一部だった江南には斉王国があり、(中略)遺憾ながら漢-シナ文化の華はこちらよりそちらのほうがより鮮やかに咲き誇ってもいる。そして首都の位置。粗っぽい遊牧原理を駆使した結果とはいえ、平城の都市化はずいぶん整ってきつつあるけれど、それは何人の目にも世界の中心から西方辺陬に偏りすぎている。悠久の伝統が教示する世界と文明の中心、周王朝の聡聖なる王たちが選定し、偉大な後漢帝国が奠都し、弱体な魏と晉の王朝だって首都を置いた洛陽を除いて彼が鎮座するべき場所はない――。」

「孝文帝の遷都の目的は彼自身の自覚において彼の王国の「革変」にあった。具体的には彼の王国の「風俗(ぶんか)を移し易(か)えること」、彼の蒼生の遊牧草原文化を中原の農耕文化に変革すること、一言で彼の社会のシニシゼイションを一気に推進し完了させることにあった。」

「何しろ皇帝は漢-シナ文化の象徴的幻想に憑依された人、そのかぎりで健常からはみ出してしまったいわば半病人だったのだ。しかし彼には卓れた理智と豊な教養があり、何よりも強大な皇帝権力を握っていたから、洛陽の街路で北人の貴婦人が、故土の草原を騎馬で疾駆するモードそのまま、帽子をかぶり襟ぐりのつまった筒袖の上衣をまとって馬車をやっているのを目撃しただけでも、詔令違反であるとして彼女を放任している重臣の責任を咎め立てしたのだった。立場を北人たちの側にもどせば、鮮卑貴婦人の草原風の服装はひょっとすると皇帝の恣意的急進革変にたいする抗議のお洒落な表現だったのかも知れず、彼女たちほど軽快に振舞えない男たちの不満と反意は、いずれ瞥見するように、皇帝の身辺にさえ重苦しく燻ぶっていたのだった。」

「容易に気づかれるように、この父子の劇的な相剋はそのまま農耕都市文明と遊牧草原文化との、文明と野性との対立にほかならなかった。息子の都市脱走の試みが彼の先祖返りした野性の必然だったとすれば、それを抑止し杖打ち毒殺した父の無情は彼の文明化の当為だったといってもよい。」
「皇太子恂を洛陽から平城へ、暑熱の都市文明から爽涼の草原文化へ逃走するよう呼びかけた衝動の疼きを一般化すれば、それはトポフィリアの作用なのだった。つまり少年の身体と心理の微細な襞に接着して、世界に向けられた彼の生の構えの全体に、換言すれば彼が生きてあることの生理的な機序と心理的な機微の全面にわたって、当人でさえもほとんど把えがたい隠微な働きかけをする場所の感覚――われわれの生がわれわれの暮している場所との相互主観的な関係によって、ほぼ第二の生理とでも称すべき微妙な肌理で感受している場所への愛執がそれである。郷愁(homesickness, Heimweh)とは、その極端で誰にも感知しやすい顕在化にほかならないが、草原の野生児、皇太子恂も、スイスの山村デルフリから大都会フランクフルトへ出たアルプスの少女の夢遊病に似た発作に囚われたのに相違ない。(中略)それがこの少年の実存にとっては死に至る病だったことをもうわれわれは知っているけれど、トポフィリアは社会的文化的であり、本質からして共同体的なものである。北方の草原の故土に恋着して、孝文帝の性急な遷都と過激な文明化に鋭く反発したのが彼の愛児だけでなかっただろうことは想像に難くない。」

「くりかえせば、彼にあっても私とは私と環境とにほかならず、環境との親密な結びつき、つまりトポフィリアを突如遮断された少年の生は破滅へ向かうしかなかったのである。」



「第四章 性愛する皇太后の最期」より:

「以前われわれは江南文化の成立と崩壊の過程を叙述したときに、この文化の形成が世界に対する人びとの構えに起きた精神史的な変換の表現にほかならなかったことを指摘して、中国文明の歴史におけるこの世界解釈の変換をコスモスから風景への転換と規定した。天下=世界に単一の絶対的な天子が存在せず、彼がその全存在をあげて体現しているはずのコスモロジカルな意味と稜威を具現している中心の都市が建てられず、宇宙と人間、世界と精神との全体的で整合的な対応と調和が失われた時代に生きて、江南の人びとは世界と人間との混乱と無秩序が露出している生活世界に生起する現象の瞬間ごとの細部に視線を転じ、そこで感受される個別的なものの微細な魅力を審美的に享受することを通じて世界と意識との内密な融合を追求した。別言すれば、瞬間の美のうちに永遠を感受する斬新な精神の構えを創出したのであって、彼らは城壁に包囲されることなく周辺の自然に開放されていた首都から郊外へ脱け出し、さらに田園、原野の風景のうちに生の領域を拡げて、郊居、園田居、精舎(せいしゃ)あるいは山居といった新たな居住の形式を発見して、それぞれの居住において風景の魅惑にとらわれる悦楽を多様な文化のジャンルのうちに表現する新鮮な作風を産出した。むろん人びとは依然として都市に愛着し、文化の全ジャンルがそこへ集中して形成されていたにはちがいないが、ようやく発見された現象の個別的な多様性へ精神を解放することにおいて世界との清新な関係を結びなおしたのである。中国の文明の歴史にあっては極めて異色な、風景に向かって開かれた、この優柔で、なよやかですらあった文化をわれわれは江南ロココと命名したのだった。
 北方の黄河流域では歴史はそれとは完全に対蹠的な差異を示しつつ進行した。
 鮮卑拓跋族を中核とする遊牧民族たちは朔北の草原に水草を追って生きる運動の自由、蒼穹と地平に放たれた視野の無限と開放、文字記録を残さない永遠と淳樸を棄てて、高く厚く堅固な城壁に囲まれて、いつも人工稠密気味の都市の内部に自らを封じ籠めることで彼らの歴史を開始した。道武帝の北魏建国と平城奠都に始まる都市化から、太武帝によるシナ化の推進、孝文帝の洛陽遷都による天下=世界の中心定位と革変による文明化の完遂にいたる一世紀は彼ら草原民族の脱神話化につづく歴史の創造の過程であった。」

「われわれの理解によれば、江南における「桃花緑水之間、秋月春風之下、」のトポスは、世界観的には、都市の城壁を越えて四周の風景へ拡散する志向を、同様に、「平城地寒、六月雨雪、風沙常起、」という中原のトポスは渾沌たる野生の草原を脱出して堅固な城壁に囲まれた都市の内部に収斂してコスモスを実現しようとする志向を表わしていた。」



「第五章 出来すぎ夫婦と不肖の息子たち」より:

「こうして風景のうちに無限に拡散した江南世界の(中略)南国的ロココ文化は、コスモス志向の高邁な使命感に鼓吹された戦略のもとに周到に準備され、厳格整然と組織された北方中原世界の圧倒的に優勢な軍団に征服された。(中略)歴然と歴史は新たな段階に入ったのである。換言すれば、この中華世界でも詩はついに政治の敵ではなかった。とはいえ、詩、同じことだが美が政治もしくは権力に全面的に敗北しっぱなしでなかったことはいいそえるべきであろう。建康が落城すると、陳王国の文書、財宝、文物などを押収するべく長史高熲が晉王楊広に先行して入城した。晉王は書記官として扈従していた高熲の子高徳弘を急行させ、陳後主を腑ぬけにした寵妃張麗華を生かしておくよう指令したのである。だが、高熲は「史」家であった。昔、周が殷の紂王を征伐したとき、周公旦は顔を覆って紂王の虐政の原因をなした暴君鍾愛の妲己(だっき)を斬ったのだと発言、彼は自ら上古の「史」の範型に倣びし、青溪に引き出して張麗華を斬殺させた。高徳弘の復命を聞いて、晉王は顔色を変え、「昔人(せきじん)は徳の報いられざるは無しと云った。我 必ず高公に報いること有るであろう」と怨恨を含んだ。やがて彼は高熲を死に逐いやるだろう。この晉王楊広こそ第二代皇帝、世界を循環する怪異(フレムト)な天子煬帝の前身にほかならず、彼ははやくから江南ロココ文化に心酔する詩人でもあった。歴史はいま絶滅された江南世界が、いずれ瞥見するように、勝者たる中原世界のこの中心の中枢において隠微な報復を遂げたことを語っている。」

「本書の主題は、読者すでにお気づきのように、世界(コスモス)の中心たる帝国あるいは王国の首都の解読と叙述である。われわれが対象に選んだ社会では、当時、人は皇帝、官僚および人民に三大分され、皇帝は世界を支配し、官僚は皇帝に禄仕し、民衆は世界の内部に即自的に生きていた。皇帝と官僚も生きていたが、彼らが原則として都市の内部に居住していたことによって、彼らの生は相対的に強度に制度化されていて対自的であらざるをえず、生自体にたいして意識的であって、絶えず認識を生み出すことによって生以上/以外の何ものかに変成されていた。(中略)皇帝は世界に、とりわけ自然に不断に背馳せざるをえない。彼は世界と人民を支配するものであり、支配とは世界の力を――人をも包摂しつつ人の生命としても現象することのある、この太陽系惑星上の所与の領域の生命力を可能なかぎり占有し、彼の中心へ引き寄せて収斂し、分割して配分しつつ、その最上の部分を独占し消費して蕩尽に果てるところの機能だからである。
 この太陽系惑星に所与の力全体から量るとき、他のとりどりに愛らしい無数の生命体のまえに人はあってはならぬものかも知れないのだが、われわれが対象に選んだ世界史の段階では、人の生のあさましいほどの悲惨と滑稽にもかかわらず、人はそこまで自分を卑下するには及ばなかったであろうし、世界創造の原古の時を知らず、だから終末論的世界解釈に脅やかされることなど絶対になかったこの社会の人びとは現にふてぶてしいまでに、必要とあれば、他人を食って自分は生きつづけるほどに現に生命志向的であった。けれども、人による世界の力の独占と支配と消費と蕩尽がわれわれの世紀の終末ほどに進歩して常態化した時点から顧みると、世界と民衆を支配する皇帝の権力の興起と滅亡として現に生起した歴史(ゲシヒテ)と、それの経過を記述し物語る歴史(ゲシヒテ)とは、どちらも本来は万物の共棲地であるこの惑星にとって、一個の巨大な災厄、すでに悲惨にして滑稽な背後世界なのだという感想を拭い消すのはむずかしい。」



「第六章 始原児皇帝の世界遊戯と母胎回帰」より:

「過度に好色であること、男が過剰に性愛的であることは、煬帝が生きた社会と文化にあっては女にたいする男の侵犯を意味しなかった。逆にそれは男が女の体液にひたりすぎること、女の身体の温もり、湿り、柔らかさのうちへ包み込まれることであり、彼の世界が内臓化されることだった。抱擁と結合によって男の存在原理たる陽気は女の陰気に包摂もしくはそれと混淆して陰陽未分の原初的な渾沌を実現する。(中略)印象的にいうと、わが皇帝は彼の「自由」を最大限に享受することに執心して彼の天下=世界を蕩尽したけれど、その全経過は巨大な幼児の世界遊戯と称するにふさわしい。(中略)その生の原理に作用した衝動は暗い哲学者ヘラクレイトスがいう意味において世界を遊戯する幼児の始原的な魂だった。神話や民話に嬉遊する始原児(ウァキント)との差異は、煬帝が人間の時間の中、同じことだが彼の社会の歴史の真ん中に生きていたということだけである。」


「第七章 干潟幻想――コスモス再建と解体と修復」より:

「広大な中国の亜大陸で、わが煬帝の生と死をめぐって力が干満する。」

「どうやら東西約九・八キロ、南北八キロ余の画然たる長方形の首都長安大興城を初めとする大小数千の都市や町や村邑は浮島の群、耕作地は浅瀬、東西四九〇〇キロ、南北七九〇〇キロほどの帝国の領域はひとつの巨大な干潟(ラグーン)なのである。われわれが選択した歴史的言語的な構えの眺めによるならば、この表現はけっして隠喩の戯れではない。反対に隠喩的にとらえれば、この干潟は閉ざされて自己完結した世界帝国なのだった。」





こちらもご参照ください:

大室幹雄 『檻獄都市 ― 中世中国の世界芝居と革命』










































































大室幹雄 『園林都市 ― 中世中国の世界像』

「園芸家というのはしばしば最高に自己中心的なものなのだ、読者もご存知のとおり。」
(大室幹雄 『園林都市』 より)


大室幹雄 
『園林都市
― 中世中国の
世界像』
 

三省堂
1985年8月30日 第1刷発行
iii 791p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価5,800円



本文中図および図版(モノクロ)79点。
本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値(送料込1,256円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


大室幹雄 園林都市 01


帯文:

「分裂と抗争に明けくれる華夏中国の文明世界。
江南の諸王国に婉然と花開く優閑ロココ文化。
妖しい生の活気で浮かれ華やぐ南方の異形都市・建康。
世界は庭園と化し、自然へ向かって限りなく流出する。
酒と女、詩画と音楽。人生は宴遊会さ。
コスモスから風景へ、劇場都市から園林都市へ。
中華世界の精神史を再構築する雄渾な3部作
とりあえずここに完結。」



目次:

第1章 歴史の不幸について――環境Ⅰ
第2章 天地の自明性について――環境Ⅱ
第3章 自然を愛して開いた都市――敷地
第4章 〈風(かぜ)〉と〈景(ひかり)〉――気分Ⅰ
第5章 トポフィリアの情景――気分Ⅱ
第6章 首都の動揺と愛の定着――設計Ⅰ
第7章 ランドマークの文化と自然――設計Ⅱ
第8章 牛車とおしゃべり文化の残照――宴遊Ⅰ
第9章 烏衣の遊び――園芸的世界――宴遊Ⅱ
第10章 菖蒲と皇帝――ロココの雅び――宴遊Ⅲ
第11章 桃花緑水の間 秋月春風の下――園林的世界像――意想
第12章 郊居 園田居 山居――文化と自然の配景画法(シーノグラフィ)――仕掛Ⅰ
第13章 陶淵明と謝霊運――中景の確立――仕掛Ⅱ
第14章 隠者の山洞――隠逸文化の庭園化――仕掛Ⅲ
第15章 園林王の群――ロココの滑稽と惨酷――荒廃Ⅰ
第16章 自然の都市侵犯――荒廃Ⅱ
終章 精神的地平の拡張と深化――移植



大室幹雄 園林都市 02



◆本書より◆


「第6章 首都の動揺と愛の定着」より:

「すでにわれわれは自然を愛して開いた都市という標題のもとに、宇宙論的な象徴性を欠如し、古典的な王都のプランから逸脱し、城壁によって囲まれることのなかった建康が、四方の郊外、田園、原野へ向かって、即ち文化から自然へ向かって連続している開放的で植物的な都市であったことを語った。」

「十数世紀の歴史を体験して、南京は都市文化と自然の融和としての風流韻事が遥かに爛熟した大都会であった。だがそこには近代特有の歴史的なものの重苦しさ、もうどこから対処しようと解決は絶対に不可能な歴史の諸矛盾の厖大な累積が、諸階層の住民たちの典雅で、猥雑で、にぎにぎしい騒音に満ちた活動を窒息的に圧迫していた。建康もまた矛盾だらけの都市であったこと、これは言うを要しない。しかし初生の江南、ようやくトポフィリアが詩として詠われるにいたった江南の、軽快に明るい風土の絢麗にみあうかたちで建康には優艶にして浮華な気分が瀰漫していた。
 その端的な表出といってよかろうか、軽便に作られ、ついに完成された固定的な形姿をもたなかったこの首都は、その場所を離れて浮き漂い、まるで汀洲にひょいと根を下した白蘋のように、ともすれば他の場所へ流れていこうとする衝動と危機を何度となく体験した。」

「王都に関する古典的なカノンに準拠して整然と計画的に建てられたのではないことを、この都市は最大の特色とした。そのかぎりで中国の長い首都建設の歴史にあって、建康は、南宋の臨安(杭州)とともに、破格な現象だったといっていいが、逆にこのことがこの首都に独自の魅力を付与したことを看過することはできない。」



「第9章 烏衣の遊び――園芸的世界」より:

「園芸家というのはしばしば最高に自己中心的なものなのだ、読者もご存知のとおり。」


「第10章 菖蒲と皇帝――ロココの雅び」より:

「前章で用いた譬喩を踏襲するなら、この時期に宮廷はいよいよ園林化した。美しい容姿と洗練された身ごなし、軽妙な座談と該博な知識、文芸の才能と書画の伎倆、囲碁の手だれと雑伎の巧妙などが高く評価されていたのは相変らずであって、それらを総括する「風流」なる貴族主義的概念が市場の雑閙の男色の美学にまで一般化したことはさきに一見した。建康を中心とする江南の都会文化は爛熟に達したのである。」


「第11章 桃花緑水の間 秋月春風の下――園林的世界像」より:

「読者あるいは、建康の世界を解読するにあたって本書があまりに園林のイメージに固執しすぎていると思われるであろうか。
 あの斉の竟陵王蕭子良の西邸に催された文学の士の集いでのことである。賓客のひとりに范雲の従兄范縝(はんしん)がいた。あるとき彼に竟陵王が「君は因果を信じないが、それなら人はどうして富貴であったり貧賤であったりするのか?」と尋ねた。(中略)これに対して、「人の生は」と范縝は答えた、「樹の花が同じく発(ひら)いて、風に随って堕ちるようなもの、自(おのずか)ら簾幌(れんこう)を払って茵席(いんせき)の上に墜ちるのも有り、自ら籬牆(りしょう)に関(ひっか)かって糞溷(ふんこん)の中に落ちるのも有る。茵席に墜ちたものは殿下がそれ、糞溷に落ちたものは下官(わたし)がそれである。貴と賤と確かに途(みち)は殊(こと)なっているが、因果は竟(つい)に何処にもないのである」。」
「人の生を落花に譬えるこの表現は、真面目で偏屈な儒者には不似合いだが、人の世の無常を嗟嘆した教養人にふさわしく非常に艶麗である。言うこころは人びとの富貴と貧賤の区別は運命だというのだが、その運と不運を落花のイメージに仮りて述べるところは、時代の好尚にみごとに適応して華やかに美しく自身の非運を喞(かこ)って少しも淋し気がない。「糞溷」とは人の排泄物と解していいが、そこへ落ちる花英というのが奇妙に絵になっている。少なくとも即物的な汚穢の印象はない。」
「「人生如樹花同発、随風而堕、」が冒頭の原文であるが、読者(ここでは聴者)がこの二句に接して脳裡に浮べるのは桃、杏、梨、そのほかの何であれ、美しい「樹花」が風に誘われて華やかに舞い散る情景である。つづいて「自有払簾幌墜於茵席之上、」が現われると、読者(聴者)は花びらの行くえを追って極めて自然に豪華な饗宴の席に導かれている自分に気づく。さらに「自有関籬牆……」、咲き誇る桃が落英を繽紛と散らしている場が籬牆に囲まれた貴族の庭園にほかならないことが明瞭になる。この鮮麗な映像が読者の心眼にひとつらなりに浮び上ってきているとき、「落於糞溷之中」という落ちは不思議に具象的でない。先行するイメージの強い艶麗に圧し包まれてここでは糞溷でさえもが香わしい。というのがいいすぎなら、審美化され概念化されている。もしかすると因果をめぐる問答を交わしているちょうどそのとき、竟陵王の西邸の中庭に発していた樹花が風に随って堕ちていたのだと想像されなくもなく、人の生の運命のさまざまを語り、直接には自身の運のつたなさをこぼして客の発言は少しも陰鬱ではないのだ。
 このようにことばによって人生を審美化すること、あるいはイメージによる人生の庭園化は、(中略)この時代のエクリチュールの特徴であった。それは世界に対する人間の構えが圧倒的に審美的であったこと、あの「風流」が、(中略)人びとにとり最も魅力的で説得力に富む倫理であったことの端的な現われであった。」



「第12章 郊居 園田居 山居――文化と自然の配景画法」より:

「姉妹篇『桃源の夢想』の中で、われわれは都市を中心としてひろがる社会的また心理―精神的なトポグラフィを平地と山地に二分し、これら二つの対抗的な生活空間の相互関係の力動を反都市の理念と情念と行動に即して、具体的には、隠者の山林逃匿および難民化した都市住民や農民の山地逃亡の現象について解読した。この単純な二分法は江南都市文化の新しい傾向、山水愛好の風尚のうちにも基本的には生きて作用している。しかし山水趣味実現の多様性、都市内部における園林造成、都市近郊や農村あるいは山地における別墅の建設、田園詩と山水詩と山水游記および山水画の成立、さらに隠者のライフ-スタイルの芸術化といった一連の現象に着目するとき、この二分法より多少細かなトポグラフィの分節化が要求されるであろう。
 炯眼の読者ならお気づきであろうが、それはすでに以前の諸章で提起されてあった。都市(シティ)を中心に郊外(サバーブス)、田園(カントリーサイド)、原野(ウィルダニス)へとひろがる同心的な社会的かつ文化的な分節化がそれである。」



「第14章 隠者の山洞――隠逸文化の庭園化」より:

「隠逸は哲学でも宗教でもなく、はなはだ演劇的な抑揚に富んだ身体と心情の表現、生のひとつの具体的な様式である。隠者陶淵明の生涯もその例外ではなかった。いまその生活様式の属性を摘記すれば、都市を離脱して田園に暮し、官職を放棄して布衣で終ったこと、読書を好んで詩文を書き、酒を愛して琴(絃が張ってなかったけれど)を弾じたこと、妻子があり家屋敷と土地を持ち、少数ながら交友にも欠けていなかったことがあげられる。そして彼の大伯父陶淡は家は千金を累(かさ)ね、僮客も百人は下らない鉅富を継承しながら禄仕せず、神仙術と易筮に凝って結婚をせず、都市を嫌って長沙の臨湘の山中に盧を結んで白い鹿を妻に見立てて人交わりを絶ち、官から誘いがかかるとさらに山深く遁匿して行くえ知れずになったという。」
「孫登は汲郡の人、家族はなく郡の北の山中に籠もって「土窟」を作って住み、夏は草を編んで衣服にし冬は髪を長く乱して防寒にあて、『易』を愛読して一絃の琴を楽しんだ。人びとに人気があり、怒ったことがないので、或る人が水中に投げ込んで怒るのを期待したけれど、大いに笑うばかり。また立ち寄った家で衣食を与えられると辞退せずに受け取ったが、そこを離れてしまえばみんな捨ててしまった。魏の名士阮籍が訪ねて問答をしかけてもとりあわなかった隠者で、「竟(つい)に終る所を知らず」。
 董京(とうけい)は西晉の首都洛陽の隠者、市中の土地神白社の祠に寝起きし、髪を乱しぼろをまとい、歌をうたってうろつきまわり、人に侮辱されて怒ったことなく、山水を愛好し隠逸志向の孫楚に老荘風の人生観を披瀝したこともあったが、後にどこかへ逃げ去り、白社の祠には「逝(ゆ)かん! まさに此の至虚を去って、我が自然の室に帰らんとす」という句を含む詩二篇が残されていた。
 朱沖、学問を好んだが貧しいので農業で生活した。或るとき、隣人が仔牛を失ない、彼の仔牛を自分のだと認めて連れ帰ったが、あとで自分のを見つけて返しにきても受け取らず、また他人の牛が彼の作物を食い荒すと飼葉をつけて返してやった。西晉の咸寧四年(二七八)、武帝に招かれたけれど病気を理由に就かず、その後も招聘されるごとに深山に逃げ込んだ。彼の住む南安郡にはチベット系の羌族が雑居していたが彼を主君のように尊敬し、邑里も彼に感化されて犯罪は起きず毒虫や猛獣も害をなさなかった。」
「孟陋(もうろう)、武昌の人、若いときから粗衣をまとい菜食し、読書して楽しんで世事を語らず、ときに一人で狩りや釣りに出かけると家人もどこまでいったやら知らず、簡文帝と桓温に招聘されたが病気を理由に仕えなかった。」

「本書でわれわれが設定している都市を同心とするトポグラフィに従えば、都市を脱出した彼らの居住する場所は原理的には田園と原野にあった。このことは右にみた隠者たちの生態に徴して明白であるが、歴史的にみれば、これら田園と原野のうちでも後者、山地、山林、深山こそが彼らに本来的な居住の場であった。」
「とはいえ、一口に山林といってもその領域はそれ自体で変化に満ちて広大であり、それだけでは軟弱な身体を有する人間がそこに住み着くには何らかの住居の設備がなければならない。そしてその住居の形式はつぎの三つにかぎられるであろう。ひとつは謝霊運の山居のように広大な山荘を築き、第二は陶淡、郭文のばあいのように精舎や盧や菴を構え、第三は孫登、張忠、(中略)についてみたとおり土窟・窟居・石窟・石室といった穴居を、自然の洞窟を利用するか、掘鑿するかして栖とすることであった。これらのうち謝霊運風の山荘が本来の隠者に不似合いであったのはいうまでもなく、陶淡の精舎、郭文のさしかけ小屋と孫登たちの穴居とについてみれば、後者のほうが隠者の塒(ねぐら)としてはよりふさわしかったといっていい。というのも両者の先史学的な起源の先後はどのようにあれ、隠者の生の本質が、世界へ、人びとへ、四方に向かって開けている都市から脱出して、視野のきかない、全体が閉ざされた秩序である山林に逃げ匿れることにある以上、匿れるという行為の深層に潜む心理からして大地母の子宮にほかならない大地の穴、山林の洞窟こそ隠者の本来的な栖でなければならないから。そして現に、われわれが対象とする時代より遥か以前からこうした心理学的な理由と先史の悠遠な記憶も手伝い、しかし何よりも隠者が一般に山中の洞窟に棲んだという事実もしくは通念によって、山林の士という呼称とともに、隠者は「巖穴の士」と呼び慣らわされてもいて、「巖穴の隠者」という用例もあり、さらに巖穴だけで隠者もしくはそれに準ずる民間の卓れた処士を意味することも頻繁であって、類縁の用語に「巖居」「巖居穴処」「巖居水飲」あるいは「巖居川観」などといった表現があり、いずれも隠逸の山林幽棲を意味したのだった。
 壮麗な宮殿群が林立し、豪華な貴族の第宅が並列し、雑多な庶民の住宅が櫛比する首都を中心にして展望すれば、原野の深山に位置する隠者の洞窟は文化の最末端、広大な自然のうちに気紛れに配置された微細な点にすぎない。けれども洞窟を拠点にしてそのまえに立って観望すると、世界はまったく別様に眺められたはずである。その精神的心理的な風光を語ることはわれわれには不可能であるが、論理的にいえば洞窟の対極としての都市はいまや完全な無意味、非存在であるだろう。巖穴、巖居、石室、石窟、窟居、あるいは山洞と呼ばれて、それがどれほど原始的な印象を与えようとも、隠者の洞窟は明確に人の住む場所、彼にとっては彼が世界の内部に存在するための住居であり、それはそれで優にひとつの文化なのであって、都市、郊外、田園に作られた住居に比較して原始的であるその分だけ、住居、同じことだが文化の或る根源性がそこに表現されてある。山洞から都市へ向かって都市を畏怖すべき無意味と非存在とみなすことを仮に山洞の文化の水平的な志向とみなすなら、同一の地点から垂直方向へ上昇かつ下降する志向性も当然働いているはずであり、それによって山洞の住居が有する文化の始源性が露呈されているであろう。換言すれば、窟居は文化の最末端として都市に鋭く対立してあるばかりでなく、通時的にみれば、それこそ文化の、少なくとも住居の原初形態であり、人間の生の根源へ降り立った上古の単独者たちの栖でもあり、同時に文化が最もあらわなかたちで自然の渾沌に親しく入り込み囲まれている地点なのである。それは都市の住居、神殿や宮殿、貴族の屋敷や庶民の家屋以上に複合的で象徴的な意味を内包している。」

「こういう神話学的な位相に親近なところで、この社会の民話の世界もまた洞窟が時間と空間とを遮断するトポスのひとつであることを語っている。陶淵明の物語「桃花源記」で、渓流の水源に辿りついた漁師が桃の林の奥に発見した洞窟は、彼の属する社会と洞窟の向こうの隠里、此岸と彼岸、有限と無限、時間と永遠とを分割する魔法の境界なのだった。」
「洞窟に神話学的、民話学的な意味と表象を付与することを愛する人たちの民俗がさまざまな洞窟のイメージをもたないはずは無論なく、われわれの印象に頼ってよければ、昔も今も彼らは無類の山洞(シャントン)愛好者だといって不可はない。」
「そうして洞窟に向けられたこういう民俗学的な関心の底に、現象的には非常に男権的と認められるこの社会において、人びとがどれほど強く母性的なものに魅せられていたかを看取するのは困難ではない。というのも、(中略)中国の大地はそれ自体で巨大な母であり、その内部に縦横に貫通する洞穴は彼女の神秘で多産な母胎にほかならないと表象されていたことが容易に了解されるからである。」

「この社会における隠逸の歴史は長大である。諸国遍歴の途上で孔子の一行が出会ったという楚の狂接輿(きょうせつよ)、長沮(ちょうそ)、桀溺(けつでき)、荷蓧丈人(かじょうじょうじん)から周初の伯夷と叔斉を経て、唐虞堯舜の許由、巣父の伝承にまで遡れば、それは中国の歴史の長大と重なり合うといってよい。われわれの理解によれば、隠逸の現象は、農民の叛乱や匪賊の発生などとともに、この社会における反都市的な傾向の現われであり、その最も理念的な表現であった。その道徳が(中略)主として老荘の哲学に依拠し、その山林遁匿がその実践であったことがそれを告げている。老子や荘子の思想の本質は、この文明が急激に都市化を推し進めつつあった古代に、いちはやく全世界にたいする都市の権力的支配と都市自体における精神の衰弱と退廃を批判し、脱都市、脱社会、脱文化を唱える根底的な反都市の理念だったからである。別言すれば、隠逸の発生はこの社会における都市化の出現とほとんど同時だったのであり、だから以後もこの文明の近代に至るまで連綿と存続してきた。その経過でその道徳に多少の新しい要素、仏教の移植と道教の発展による新しい側面が加わりはしたけれど、隠逸の生とそれの周囲に形成された文化とは道徳的芸術的でありつづけた。そして古代以来の道徳性に芸術的なもの、審美的なもの、趣味的でさえあるものが付加されたのがこの時代であったというのがわれわれの解釈である。
 もっとも隠逸の本質が反都市性にあったにしても、個々の隠者が都市に背いて造反に蜂起して都市を攻撃し破壊したことは全くなかった。それを敢行したのは農民や流民や匪賊であって、隠者は、伯夷・叔斉の兄弟のように、薇(わらび)を摘んで深山に餓死することも辞さない自己完結的で自閉的、悪くいえば偏屈なエートスに閉じ籠もって、もっぱら精神と心理の次元で都市に遠くから対抗していたにすぎない。だが、道徳あるいは倫理も極まれば審美的な領域へ昇華する。首陽山に餓えて死んだ伯夷兄弟の偏屈がこの社会の人たちに歴史を通じて愬えかけてきたのも、ふたりの過激な行為に何ほどか詩的なものが含まれていたからだ。現に、少年時代から山水を愛して山遊びすれば家に還るのを忘れた郭文の峻烈な隠棲は、終生妻を娶らず、木に倚ってさしかけた小屋に住み、麦と菽(まめ)を作り、竹の葉や木の実を採集して塩に換えるといった計算され尽した無駄のない生活ぶりにおいて、彼の鋭い反都市の倫理を表わすとともに、その生活の簡素によって清冽な美を形づくっていたと見られなくはない。(中略)「山草の人 安(いずくん)ぞ能(よ)く世を佐(たす)けんや」という(中略)彼の自己規定のうちには、彼の反都市的なアパシィの主張とともに、彼の峻烈な生の様式がその反都市性においてひとつの美の表現にまで高まっていたことを証示する。さらにいうなら、「山草の人」という端的に植物を隠喩的に組み込んだ自己規定がすでに審美的であり、この表現の中には、少年時代にはやくも薫染した彼の山水愛好趣味という個人的な条件のみならず、城壁を所有せず、周囲の自然に向かって開いた建康の植物的な気分、やがて園芸的な生活の様式をへて園林的世界観へ結晶する、この江南の首都の優しく明るい気分がすでに秘かに共鳴していたのだと解釈される。」

「けれども、隠逸に本来的な遊戯性と次第に増進していく芸術化とは、当然ながらその道徳的原動力の低減を惹き起こさないではいなかった。(中略)端的にいって、隠逸は自然に向かって開いた都市の文化の中に絡み込まれ、風流文化の一変数と化して園林的世界の外郭を装飾し、都会に飽きつつ自然を愛する都市上流人士を喜ばせる仕掛けのひとつに堕したのである。隠逸文化の庭園化――。」



「終章 精神的地平の拡張と深化」より:

「中華世界の唯一絶対的な中心である宇宙論的な古典的都市が消滅し、世界解釈と価値判断の公準たる巨大イデオロギーの権威と機能が衰微した江南世界の数世紀間に、人びとの世界にたいする構えは全体的で統合的なものから離れて多彩で微少な細部へ向かった。普遍的なものから個別的なものへの関心の移行――古代の巨大イデオロギーの繋縛を脱して、人びとは各自の内面にゆらぐ心情のあやに忠実に、世界の細部の瞬間ごとの多彩な変化に見入り、それにつれてとりとめもなく転変する情緒の消息に聴き入ることを開始した。外部世界と内面との接触が喚び起こす消えやすい感傷のひと吹き、五音節の詩句によるのであれ、墨線と色彩、石と土と木と水の構築によるのであろうと、それを確かな形式と表現のうちに永遠化すること、別言すれば、普遍に頼ってではなく、世界と意識の双方の個別を通して世界を解釈すること、これがこの諸世紀の優閑風流人の生の姿勢であった。(中略)世界のほんとうの姿は全体にではなく個々の細部に現われる。巨大で粗笨な論理の抽象が看過する細部に、優美に繊弱な感傷は存在の本来的な場を、少なくとも世界の無関心な優しさくらいは見出すことができる。抒情詩の生命が音節ごとに流動していくリズムとイメージの細部に生きているように、園林の開き示すものも全体にではなくて、歩行と佇立の瞬間ごとに、風と光、水と土、岩と樹、花と魚と鳥が織りなす微妙な変化の印象に宿っている。人の世のありさまを、「桃花緑水の間、春風秋月の下」と耽美的に、ほとんど痴呆的なまでに艶麗に表現することが可能であった時代は、それが幸福であったか不幸であったかを度外視すれば、同一の強靭な抒情の精神に貫かれていたのであって、われわれが江南文化の数世紀を園林的世界と呼ぶのもこのためにほかならない。普遍的全体的な世界解釈の繋縛を脱して、個別的なものの細部にとらわれた精神によって世界が園林化したのだと言い換えてもよい。」







































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本