大室幹雄 『宮沢賢治「風の又三郎」精読』 (岩波現代文庫)

「宮沢ののらくらものだった生の特異性、同じことだが彼の詩と童話の独自性と卓越性は彼に固有な遊戯性からのみ生れた。」
(大室幹雄 『宮沢賢治「風の又三郎」精読』 より)


大室幹雄 
『宮沢賢治
「風の又三郎」
精読』
 
岩波現代文庫 文芸 99 

岩波書店
2006年1月17日 第1刷発行
iii 302p
文庫判 並装 カバー
定価1,100円+税


「本書は岩波現代文庫のために書き下ろされた。巻末の宮沢賢治「風の又三郎」は、一九四六年に羽田書店より刊行された『宮沢賢治名作選』収録のものを底本とし、『宮沢賢治全集7』(ちくま文庫、一九八五年)にしたがって日付を( )に入れて付した。」



本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値(300円+送料257円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


大室幹雄 風の又三郎精読


カバーそで文:

「分教場に転校してきたちょっと変わった男の子高田三郎をめぐる初秋の東北の物語「風の又三郎」。裕福な家に生まれて法華経に傾倒した宮沢賢治を「のらくらもの」と位置づけ、その仏教的世界観や宮沢父子の葛藤を描き出して賢治童話の代表作を読み解く。勤勉な印象で語られてきた作家像を転換する近代日本の一裏面。書き下ろし。」


目次:

Ⅰ 生活の風景と魂の風景
Ⅱ 遊びをせんとや――のらくらものの社会史
Ⅲ 朝(あした)の紅顔 夕(ゆうべ)の白骨
Ⅳ みんな自分の中の現象
Ⅴ マグノリア こころに刻む峯々に咲く
Ⅵ 日本岩手県イーハトーブの地理学
Ⅶ 子どもたちのテオファニア

参考文献

風の又三郎 (宮沢賢治)




◆本書より◆


「Ⅱ 遊びをせんとや」より:

「さて、一般に、宮沢賢治のような型の大金持の息子はときに遊び人と呼ばれる。辞書『広辞苑』には、「遊び人」の項に①一定の職業を持たずぶらぶらと暮している人、②転じて、ばくち打ち、やくざ、とあって、むろん②の語釈は宮沢には合わないから、それが①に返って、この語は宮沢にふさわないかもわからない。ほかに、のらくらもの、なまけもの、道楽者、やくざもん、といった類語もある。しかしあとの二語には色恋の臭いがからみ、なまけものは物理的または唯物的で、仕事や労働の回避もしくは欠如にかかわるだけで精神的な語感に欠ける。その点、のらくらものは直接的には仕事回避の語感を欠き、性的な臭いもなく、しかも遊びの感覚を写して些少の精神的な香りにも無縁ではない。相対的にこれを可として、宮沢-のらくらものと仮定義しよう。」



◆感想◆


本書は「風の又三郎」精読、とタイトルにあるので、著者が「風の又三郎」原文を逐一辿りつつ精読してくれる本かと思ったものの、じつのところ、本書巻末に全文掲載されている「風の又三郎」原文を読者が各自「精読」するためのバックグラウンドを提供し、読解の方向性を示唆する本なのではなかろうか。「風の又三郎」に直接言及しているのは第六章と第七章だけで、第一章は一種の序文、第三章から第五章までは宮沢賢治と法華経について詳しく論じられていて、これはたいへん参考になりました。第二章で著者は、宮沢賢治は「のらくらもの」である、というテーゼを出していて(「遊び人」=「のらくら息子」=「幼童のままイノセントであること」)、それが、「風の又三郎」は「小さ子」「童子神」「始原児」である、という本書の主張の布石になっています。

しかしながら、「高田三郎」=「風の又三郎」であるという著者の読解を肯うわけにはいかないです。

わたしの「風の又三郎」読解は以下の通りです。
――異質な存在である転校生の高田三郎が、すでにできあがっている「小さな学校」の子どもたちの社会にいかに適応するか、子どもたちの側からいえば、「をかしな」転校生である高田三郎をいかにして自分たちの社会の一員として受け入れるか、その契機となるのが子どもたちの社会に言い伝えられている「風の又三郎」の伝説であって、子どもたちは高田三郎を「風の又三郎」であると仮定して、高田三郎と共にいわば「風の又三郎ごっこ」をすることによって遊びを通して高田三郎を受け入れようとし、高田三郎の方でも「風の又三郎」を演じることによって子どもたちの社会に溶け込もうとする。
ところで、ごっこ遊びとは何なのか、鬼ごっこの鬼となった者は鬼に憑依され、鬼を演じることによって、ほんものの鬼をこの世に呼び出してしまうのではなかろうか。
それはそれとして、高田三郎と子どもたちが「風の又三郎」ごっこを通して仲間になったと思われた瞬間、ほんものの、地霊(自然の精霊)としての「風の又三郎」が現われて、というか風なので姿は見せぬまま、「どつどどどどうど」という自らのテーマ曲を叫んで
顕現することによって、高田三郎=「風の又三郎」という「ごっこ遊び」を崩壊させてしまいます。
その後、高田三郎は「小さな学校」を去ることになり(「風の又三郎」があえて自らの存在を示すに至った理由は、高田三郎の父親が「モリブデンの鉱脈」を掘ること――自然破壊――を阻止するためであったとおもわれます※1)、子どもたちはほんものの「風の又三郎」への恐怖心から(なにしろ「風の又三郎」は「あまいりんご」も「すつぱいりんご」も見境なしに吹きとばしてしまう凶暴でアナーキーな自然力の体現者です)、高田三郎=「風の又三郎」という「ごっこ遊び」に固執しようとする、すなわち、嘉助は自分自身に言い聞かせるように「やつぱりあいづ(高田三郎)は風の又三郎だつたな。」と「高く叫」んではみるものの※2、「相手がほんたうにどう思つてゐるか探るやうに」一郎と「顔を見合せたまま」立ち尽してしまう、というわけです。

※1 風は人間による自然破壊にたいへん敏感でありまして、短篇「サガレンと八月」では「西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風」が、「内地」から標本を集めに来た農林学校の助手に「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」と詰問します。
※2 この場面は、高田三郎が伝説の「風の又三郎」と同化しつつあった時点で、「あいづやつぱり風の神だぞ。」という嘉助の言葉に対して一郎が「そだないよ。」と「高く言」う場面に呼応しています。






































































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大室幹雄 『干潟幻想 ― 中世中国の反園林都市』

「環境との親密な結びつき、つまりトポフィリアを突如遮断された少年の生は破滅へ向かうしかなかったのである。」
(大室幹雄 『干潟幻想』 より)


大室幹雄 
『干潟幻想
― 中世中国の
反園林都市』


三省堂
1992年12月10日 第1刷発行
v 556p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価5,300円(本体5,146円)



本文中図版(モノクロ)64点。
本書はまだよんでいなかったので、アマゾンマケプレで最安値(送料込2,496円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


大室幹雄 干潟幻想


帯文:

「東西五千キロ、南北八千キロに触手を伸ばす
巨大な干潟(ラグーン)としての隋帝国。域内に渦巻く
生の沸騰。コスモス(劇場)による風景(園林)の制圧。
反復・模倣される劇場都市。
北方辺境の遊牧草原文化による江南ロココの
農耕都市文化の征服を通して、
拓跋・北魏王国から中原・隋帝国への華夏中国史の
舞台転換を濃密に描く。鶴首待望のシリーズ第四作。」



帯背:

「歴史の中の都市の肖像Ⅳ」


目次:

第一章 殺された魔法の王子の残影
第二章 憑かれた一革命家の肖像
第三章 反園林都市――倣びの陶酔と江南コンプレックス
第四章 性愛する皇太后の最期
第五章 出来すぎ夫婦と不肖の息子たち
第六章 始原児皇帝の世界遊戯と母胎回帰
第七章 干潟幻想――コスモス再建と解体と修復




◆本書より◆


「第二章 憑かれた一革命家の肖像」より:

「完成したばかりの明堂に宇宙論上の父たる至高の天空神を祀り、霊台に昇って雲気を望み、眼路の遥かかなたの上天に渦まいて還流している宇宙の生命力を全身全霊に浴び、降って青陽の左个に政事を布いた孝文帝は、いまや彼の全存在から世界へ向かって宇宙の生命力が流出していくことに恍惚たる戦慄を感得したに相違ない。表層のところで、彼は恐ろしい太母的な文明太皇太后からの解放と自立に喜びと満足を覚えたであろう。(中略)が、月令的世界観の宇宙論的シンボリズムが彼の深く博い教養に、同じことだが彼の倣(まね)びへの傾向性と資質に隠微な親しい合図を刺戟した。すると、歴史、伝統、文化が奔流のように、受肉した宇宙の生命力を世界に流出し終わって空虚になった彼の意識の中に浸入してきて彼の意識を領絡した。(中略)彼は外来の文化に、華夏中国の文化に憑依(ポゼッション)されたのである。そのさいすでに彼の身体に高い比率をもって流れていた漢-シナ人(ハン・チャイニーズ)の血が有効に作用したのか、それは不明としかいいようがないが、漢-シナ文化の側からすれば、それは外部から訪れていって、この草原文化民族の皇帝を憑依したのだった。」

「月令的世界解釈の教示によれば、彼もとうに知悉しているように、「天に二日無く、土に二王無し」、世界には唯一の王しかあってはならず、しかもその単一の帝王は世界の中心に定位し、そこに彼の帝都を構え、その中心に塊然と独坐していなければならない。彼をとり囲む現実は目にみえてこの宇宙論的な正則に背離している。遥か南方、長江の彼岸とはいえ上古以来天下=世界の一部だった江南には斉王国があり、(中略)遺憾ながら漢-シナ文化の華はこちらよりそちらのほうがより鮮やかに咲き誇ってもいる。そして首都の位置。粗っぽい遊牧原理を駆使した結果とはいえ、平城の都市化はずいぶん整ってきつつあるけれど、それは何人の目にも世界の中心から西方辺陬に偏りすぎている。悠久の伝統が教示する世界と文明の中心、周王朝の聡聖なる王たちが選定し、偉大な後漢帝国が奠都し、弱体な魏と晉の王朝だって首都を置いた洛陽を除いて彼が鎮座するべき場所はない――。」

「孝文帝の遷都の目的は彼自身の自覚において彼の王国の「革変」にあった。具体的には彼の王国の「風俗(ぶんか)を移し易(か)えること」、彼の蒼生の遊牧草原文化を中原の農耕文化に変革すること、一言で彼の社会のシニシゼイションを一気に推進し完了させることにあった。」

「何しろ皇帝は漢-シナ文化の象徴的幻想に憑依された人、そのかぎりで健常からはみ出してしまったいわば半病人だったのだ。しかし彼には卓れた理智と豊な教養があり、何よりも強大な皇帝権力を握っていたから、洛陽の街路で北人の貴婦人が、故土の草原を騎馬で疾駆するモードそのまま、帽子をかぶり襟ぐりのつまった筒袖の上衣をまとって馬車をやっているのを目撃しただけでも、詔令違反であるとして彼女を放任している重臣の責任を咎め立てしたのだった。立場を北人たちの側にもどせば、鮮卑貴婦人の草原風の服装はひょっとすると皇帝の恣意的急進革変にたいする抗議のお洒落な表現だったのかも知れず、彼女たちほど軽快に振舞えない男たちの不満と反意は、いずれ瞥見するように、皇帝の身辺にさえ重苦しく燻ぶっていたのだった。」

「容易に気づかれるように、この父子の劇的な相剋はそのまま農耕都市文明と遊牧草原文化との、文明と野性との対立にほかならなかった。息子の都市脱走の試みが彼の先祖返りした野性の必然だったとすれば、それを抑止し杖打ち毒殺した父の無情は彼の文明化の当為だったといってもよい。」
「皇太子恂を洛陽から平城へ、暑熱の都市文明から爽涼の草原文化へ逃走するよう呼びかけた衝動の疼きを一般化すれば、それはトポフィリアの作用なのだった。つまり少年の身体と心理の微細な襞に接着して、世界に向けられた彼の生の構えの全体に、換言すれば彼が生きてあることの生理的な機序と心理的な機微の全面にわたって、当人でさえもほとんど把えがたい隠微な働きかけをする場所の感覚――われわれの生がわれわれの暮している場所との相互主観的な関係によって、ほぼ第二の生理とでも称すべき微妙な肌理で感受している場所への愛執がそれである。郷愁(homesickness, Heimweh)とは、その極端で誰にも感知しやすい顕在化にほかならないが、草原の野生児、皇太子恂も、スイスの山村デルフリから大都会フランクフルトへ出たアルプスの少女の夢遊病に似た発作に囚われたのに相違ない。(中略)それがこの少年の実存にとっては死に至る病だったことをもうわれわれは知っているけれど、トポフィリアは社会的文化的であり、本質からして共同体的なものである。北方の草原の故土に恋着して、孝文帝の性急な遷都と過激な文明化に鋭く反発したのが彼の愛児だけでなかっただろうことは想像に難くない。」

「くりかえせば、彼にあっても私とは私と環境とにほかならず、環境との親密な結びつき、つまりトポフィリアを突如遮断された少年の生は破滅へ向かうしかなかったのである。」



「第四章 性愛する皇太后の最期」より:

「以前われわれは江南文化の成立と崩壊の過程を叙述したときに、この文化の形成が世界に対する人びとの構えに起きた精神史的な変換の表現にほかならなかったことを指摘して、中国文明の歴史におけるこの世界解釈の変換をコスモスから風景への転換と規定した。天下=世界に単一の絶対的な天子が存在せず、彼がその全存在をあげて体現しているはずのコスモロジカルな意味と稜威を具現している中心の都市が建てられず、宇宙と人間、世界と精神との全体的で整合的な対応と調和が失われた時代に生きて、江南の人びとは世界と人間との混乱と無秩序が露出している生活世界に生起する現象の瞬間ごとの細部に視線を転じ、そこで感受される個別的なものの微細な魅力を審美的に享受することを通じて世界と意識との内密な融合を追求した。別言すれば、瞬間の美のうちに永遠を感受する斬新な精神の構えを創出したのであって、彼らは城壁に包囲されることなく周辺の自然に開放されていた首都から郊外へ脱け出し、さらに田園、原野の風景のうちに生の領域を拡げて、郊居、園田居、精舎(せいしゃ)あるいは山居といった新たな居住の形式を発見して、それぞれの居住において風景の魅惑にとらわれる悦楽を多様な文化のジャンルのうちに表現する新鮮な作風を産出した。むろん人びとは依然として都市に愛着し、文化の全ジャンルがそこへ集中して形成されていたにはちがいないが、ようやく発見された現象の個別的な多様性へ精神を解放することにおいて世界との清新な関係を結びなおしたのである。中国の文明の歴史にあっては極めて異色な、風景に向かって開かれた、この優柔で、なよやかですらあった文化をわれわれは江南ロココと命名したのだった。
 北方の黄河流域では歴史はそれとは完全に対蹠的な差異を示しつつ進行した。
 鮮卑拓跋族を中核とする遊牧民族たちは朔北の草原に水草を追って生きる運動の自由、蒼穹と地平に放たれた視野の無限と開放、文字記録を残さない永遠と淳樸を棄てて、高く厚く堅固な城壁に囲まれて、いつも人工稠密気味の都市の内部に自らを封じ籠めることで彼らの歴史を開始した。道武帝の北魏建国と平城奠都に始まる都市化から、太武帝によるシナ化の推進、孝文帝の洛陽遷都による天下=世界の中心定位と革変による文明化の完遂にいたる一世紀は彼ら草原民族の脱神話化につづく歴史の創造の過程であった。」

「われわれの理解によれば、江南における「桃花緑水之間、秋月春風之下、」のトポスは、世界観的には、都市の城壁を越えて四周の風景へ拡散する志向を、同様に、「平城地寒、六月雨雪、風沙常起、」という中原のトポスは渾沌たる野生の草原を脱出して堅固な城壁に囲まれた都市の内部に収斂してコスモスを実現しようとする志向を表わしていた。」



「第五章 出来すぎ夫婦と不肖の息子たち」より:

「こうして風景のうちに無限に拡散した江南世界の(中略)南国的ロココ文化は、コスモス志向の高邁な使命感に鼓吹された戦略のもとに周到に準備され、厳格整然と組織された北方中原世界の圧倒的に優勢な軍団に征服された。(中略)歴然と歴史は新たな段階に入ったのである。換言すれば、この中華世界でも詩はついに政治の敵ではなかった。とはいえ、詩、同じことだが美が政治もしくは権力に全面的に敗北しっぱなしでなかったことはいいそえるべきであろう。建康が落城すると、陳王国の文書、財宝、文物などを押収するべく長史高熲が晉王楊広に先行して入城した。晉王は書記官として扈従していた高熲の子高徳弘を急行させ、陳後主を腑ぬけにした寵妃張麗華を生かしておくよう指令したのである。だが、高熲は「史」家であった。昔、周が殷の紂王を征伐したとき、周公旦は顔を覆って紂王の虐政の原因をなした暴君鍾愛の妲己(だっき)を斬ったのだと発言、彼は自ら上古の「史」の範型に倣びし、青溪に引き出して張麗華を斬殺させた。高徳弘の復命を聞いて、晉王は顔色を変え、「昔人(せきじん)は徳の報いられざるは無しと云った。我 必ず高公に報いること有るであろう」と怨恨を含んだ。やがて彼は高熲を死に逐いやるだろう。この晉王楊広こそ第二代皇帝、世界を循環する怪異(フレムト)な天子煬帝の前身にほかならず、彼ははやくから江南ロココ文化に心酔する詩人でもあった。歴史はいま絶滅された江南世界が、いずれ瞥見するように、勝者たる中原世界のこの中心の中枢において隠微な報復を遂げたことを語っている。」

「本書の主題は、読者すでにお気づきのように、世界(コスモス)の中心たる帝国あるいは王国の首都の解読と叙述である。われわれが対象に選んだ社会では、当時、人は皇帝、官僚および人民に三大分され、皇帝は世界を支配し、官僚は皇帝に禄仕し、民衆は世界の内部に即自的に生きていた。皇帝と官僚も生きていたが、彼らが原則として都市の内部に居住していたことによって、彼らの生は相対的に強度に制度化されていて対自的であらざるをえず、生自体にたいして意識的であって、絶えず認識を生み出すことによって生以上/以外の何ものかに変成されていた。(中略)皇帝は世界に、とりわけ自然に不断に背馳せざるをえない。彼は世界と人民を支配するものであり、支配とは世界の力を――人をも包摂しつつ人の生命としても現象することのある、この太陽系惑星上の所与の領域の生命力を可能なかぎり占有し、彼の中心へ引き寄せて収斂し、分割して配分しつつ、その最上の部分を独占し消費して蕩尽に果てるところの機能だからである。
 この太陽系惑星に所与の力全体から量るとき、他のとりどりに愛らしい無数の生命体のまえに人はあってはならぬものかも知れないのだが、われわれが対象に選んだ世界史の段階では、人の生のあさましいほどの悲惨と滑稽にもかかわらず、人はそこまで自分を卑下するには及ばなかったであろうし、世界創造の原古の時を知らず、だから終末論的世界解釈に脅やかされることなど絶対になかったこの社会の人びとは現にふてぶてしいまでに、必要とあれば、他人を食って自分は生きつづけるほどに現に生命志向的であった。けれども、人による世界の力の独占と支配と消費と蕩尽がわれわれの世紀の終末ほどに進歩して常態化した時点から顧みると、世界と民衆を支配する皇帝の権力の興起と滅亡として現に生起した歴史(ゲシヒテ)と、それの経過を記述し物語る歴史(ゲシヒテ)とは、どちらも本来は万物の共棲地であるこの惑星にとって、一個の巨大な災厄、すでに悲惨にして滑稽な背後世界なのだという感想を拭い消すのはむずかしい。」



「第六章 始原児皇帝の世界遊戯と母胎回帰」より:

「過度に好色であること、男が過剰に性愛的であることは、煬帝が生きた社会と文化にあっては女にたいする男の侵犯を意味しなかった。逆にそれは男が女の体液にひたりすぎること、女の身体の温もり、湿り、柔らかさのうちへ包み込まれることであり、彼の世界が内臓化されることだった。抱擁と結合によって男の存在原理たる陽気は女の陰気に包摂もしくはそれと混淆して陰陽未分の原初的な渾沌を実現する。(中略)印象的にいうと、わが皇帝は彼の「自由」を最大限に享受することに執心して彼の天下=世界を蕩尽したけれど、その全経過は巨大な幼児の世界遊戯と称するにふさわしい。(中略)その生の原理に作用した衝動は暗い哲学者ヘラクレイトスがいう意味において世界を遊戯する幼児の始原的な魂だった。神話や民話に嬉遊する始原児(ウァキント)との差異は、煬帝が人間の時間の中、同じことだが彼の社会の歴史の真ん中に生きていたということだけである。」


「第七章 干潟幻想――コスモス再建と解体と修復」より:

「広大な中国の亜大陸で、わが煬帝の生と死をめぐって力が干満する。」

「どうやら東西約九・八キロ、南北八キロ余の画然たる長方形の首都長安大興城を初めとする大小数千の都市や町や村邑は浮島の群、耕作地は浅瀬、東西四九〇〇キロ、南北七九〇〇キロほどの帝国の領域はひとつの巨大な干潟(ラグーン)なのである。われわれが選択した歴史的言語的な構えの眺めによるならば、この表現はけっして隠喩の戯れではない。反対に隠喩的にとらえれば、この干潟は閉ざされて自己完結した世界帝国なのだった。」
















































































大室幹雄 『園林都市 ― 中世中国の世界像』

「園芸家というのはしばしば最高に自己中心的なものなのだ、読者もご存知のとおり。」
(大室幹雄 『園林都市』 より)


大室幹雄 
『園林都市
― 中世中国の
世界像』
 

三省堂
1985年8月30日 第1刷発行
iii 791p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価5,800円



本文中図版(モノクロ)79点。
本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値(送料込1,256円)のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。


大室幹雄 園林都市 01


帯文:

「分裂と抗争に明けくれる華夏中国の文明世界。
江南の諸王国に婉然と花開く優閑ロココ文化。
妖しい生の活気で浮かれ華やぐ南方の異形都市・建康。
世界は庭園と化し、自然へ向かって限りなく流出する。
酒と女、詩画と音楽。人生は宴遊会さ。
コスモスから風景へ、劇場都市から園林都市へ。
中華世界の精神史を再構築する雄渾な3部作
とりあえずここに完結。」



目次:

第1章 歴史の不幸について――環境Ⅰ
第2章 天地の自明性について――環境Ⅱ
第3章 自然を愛して開いた都市――敷地
第4章 〈風(かぜ)〉と〈景(ひかり)〉――気分Ⅰ
第5章 トポフィリアの情景――気分Ⅱ
第6章 首都の動揺と愛の定着――設計Ⅰ
第7章 ランドマークの文化と自然――設計Ⅱ
第8章 牛車とおしゃべり文化の残照――宴遊Ⅰ
第9章 烏衣の遊び――園芸的世界――宴遊Ⅱ
第10章 菖蒲と皇帝――ロココの雅び――宴遊Ⅲ
第11章 桃花緑水の間 秋月春風の下――園林的世界像――意想
第12章 郊居 園田居 山居――文化と自然の配景画法(シーノグラフィ)――仕掛Ⅰ
第13章 陶淵明と謝霊運――中景の確立――仕掛Ⅱ
第14章 隠者の山洞――隠逸文化の庭園化――仕掛Ⅲ
第15章 園林王の群――ロココの滑稽と惨酷――荒廃Ⅰ
第16章 自然の都市侵犯――荒廃Ⅱ
終章 精神的地平の拡張と深化――移植



大室幹雄 園林都市 02



◆本書より◆


「第6章 首都の動揺と愛の定着」より:

「すでにわれわれは自然を愛して開いた都市という標題のもとに、宇宙論的な象徴性を欠如し、古典的な王都のプランから逸脱し、城壁によって囲まれることのなかった建康が、四方の郊外、田園、原野へ向かって、即ち文化から自然へ向かって連続している開放的で植物的な都市であったことを語った。」

「十数世紀の歴史を体験して、南京は都市文化と自然の融和としての風流韻事が遥かに爛熟した大都会であった。だがそこには近代特有の歴史的なものの重苦しさ、もうどこから対処しようと解決は絶対に不可能な歴史の諸矛盾の厖大な累積が、諸階層の住民たちの典雅で、猥雑で、にぎにぎしい騒音に満ちた活動を窒息的に圧迫していた。建康もまた矛盾だらけの都市であったこと、これは言うを要しない。しかし初生の江南、ようやくトポフィリアが詩として詠われるにいたった江南の、軽快に明るい風土の絢麗にみあうかたちで建康には優艶にして浮華な気分が瀰漫していた。
 その端的な表出といってよかろうか、軽便に作られ、ついに完成された固定的な形姿をもたなかったこの首都は、その場所を離れて浮き漂い、まるで汀洲にひょいと根を下した白蘋のように、ともすれば他の場所へ流れていこうとする衝動と危機を何度となく体験した。」

「王都に関する古典的なカノンに準拠して整然と計画的に建てられたのではないことを、この都市は最大の特色とした。そのかぎりで中国の長い首都建設の歴史にあって、建康は、南宋の臨安(杭州)とともに、破格な現象だったといっていいが、逆にこのことがこの首都に独自の魅力を付与したことを看過することはできない。」



「第9章 烏衣の遊び――園芸的世界」より:

「園芸家というのはしばしば最高に自己中心的なものなのだ、読者もご存知のとおり。」


「第10章 菖蒲と皇帝――ロココの雅び」より:

「前章で用い譬喩を踏襲するなら、この時期に宮廷はいよいよ園林化した。美しい容姿と洗練された身ごなし、軽妙な座談と該博な知識、文芸の才能と書画の伎倆、囲碁の手だれと雑伎の巧妙などが高く評価されていたのは相変らずであって、それらを総括する「風流」なる貴族主義的概念が市場の雑閙の男色の美学にまで一般化したことはさきに一見した。建康を中心とする江南の都会文化は爛熟に達したのである。」


「第11章 桃花緑水の間 秋月春風の下――園林的世界像」より:

「読者あるいは、建康の世界を解読するにあたって本書があまりに園林のイメージに固執しすぎていると思われるであろうか。
 あの斉の竟陵王蕭子良の西邸に催された文学の士の集いでのことである。賓客のひとりに范雲の従兄范縝(はんしん)がいた。あるとき彼に竟陵王が「君は因果を信じないが、それなら人はどうして富貴であったり貧賤であったりするのか?」と尋ねた。(中略)これに対して、「人の生は」と范縝は答えた、「樹の花が同じく発(ひら)いて、風に随って堕ちるようなもの、自(おのずか)ら簾幌(れんこう)を払って茵席(いんせき)の上に墜ちるのも有り、自ら籬牆(りしょう)に関(ひっか)かって糞溷(ふんこん)の中に落ちるのも有る。茵席に墜ちたものは殿下がそれ、糞溷に落ちたものは下官(わたし)がそれである。貴と賤と確かに途(みち)は殊(こと)なっているが、因果は竟(つい)に何処にもないのである」。」
「人の生を落花に譬えるこの表現は、真面目で偏屈な儒者には不似合いだが、人の世の無常を嗟嘆した教養人にふさわしく非常に艶麗である。言うこころは人びとの富貴と貧賤の区別は運命だというのだが、その運と不運を落花のイメージに仮りて述べるところは、時代の好尚にみごとに適応して華やかに美しく自身の非運を喞(かこ)って少しも淋し気がない。「糞溷」とは人の排泄物と解していいが、そこへ落ちる花英というのが奇妙に絵になっている。少なくとも即物的な汚穢の印象はない。」
「「人生如樹花同発、随風而堕、」が冒頭の原文であるが、読者(ここでは聴者)がこの二句に接して脳裡に浮べるのは桃、杏、梨、そのほかの何であれ、美しい「樹花」が風に誘われて華やかに舞い散る情景である。つづいて「自有払簾幌墜於茵席之上、」が現われると、読者(聴者)は花びらの行くえを追って極めて自然に豪華な饗宴の席に導かれている自分に気づく。さらに「自有関籬牆……」、咲き誇る桃が落英を繽紛と散らしている場が籬牆に囲まれた貴族の庭園にほかならないことが明瞭になる。この鮮麗な映像が読者の心眼にひとつらなりに浮び上ってきているとき、「落於糞溷之中」という落ちは不思議に具象的でない。先行するイメージの強い艶麗に圧し包まれてここでは糞溷でさえもが香わしい。というのがいいすぎなら、審美化され概念化されている。もしかすると因果をめぐる問答を交わしているちょうどそのとき、竟陵王の西邸の中庭に発していた樹花が風に随って堕ちていたのだと想像されなくもなく、人の生の運命のさまざまを語り、直接には自身の運のつたなさをこぼして客の発言は少しも陰鬱ではないのだ。
 このようにことばによって人生を審美化すること、あるいはイメージによる人生の庭園化は、(中略)この時代のエクリチュールの特徴であった。それは世界に対する人間の構えが圧倒的に審美的であったこと、あの「風流」が、(中略)人びとにとり最も魅力的で説得力に富む倫理であったことの端的な現われであった。」



「第12章 郊居 園田居 山居――文化と自然の配景画法」より:

「姉妹篇『桃源の夢想』の中で、われわれは都市を中心としてひろがる社会的また心理―精神的なトポグラフィを平地と山地に二分し、これら二つの対抗的な生活空間の相互関係の力動を反都市の理念と情念と行動に即して、具体的には、隠者の山林逃匿および難民化した都市住民や農民の山地逃亡の現象について解読した。この単純な二分法は江南都市文化の新しい傾向、山水愛好の風尚のうちにも基本的には生きて作用している。しかし山水趣味実現の多様性、都市内部における園林造成、都市近郊や農村あるいは山地における別墅の建設、田園詩と山水詩と山水游記および山水画の成立、さらに隠者のライフ-スタイルの芸術化といった一連の現象に着目するとき、この二分法より多少細かなトポグラフィの分節化が要求されるであろう。
 炯眼の読者ならお気づきであろうが、それはすでに以前の諸章で提起されてあった。都市(シティ)を中心に郊外(サバーブス)、田園(カントリーサイド)、原野(ウィルダニス)へとひろがる同心的な社会的かつ文化的な分節化がそれである。」



「第14章 隠者の山洞――隠逸文化の庭園化」より:

「隠逸は哲学でも宗教でもなく、はなはだ演劇的な抑揚に富んだ身体と心情の表現、生のひとつの具体的な様式である。隠者陶淵明の生涯もその例外ではなかった。いまその生活様式の属性を摘記すれば、都市を離脱して田園に暮し、官職を放棄して布衣で終ったこと、読書を好んで詩文を書き、酒を愛して琴(絃が張ってなかったけれど)を弾じたこと、妻子があり家屋敷と土地を持ち、少数ながら交友にも欠けていなかったことがあげられる。そして彼の大伯父陶淡は家は千金を累(かさ)ね、僮客も百人は下らない鉅富を継承しながら禄仕せず、神仙術と易筮に凝って結婚をせず、都市を嫌って長沙の臨湘の山中に盧を結んで白い鹿を妻に見立てて人交わりを絶ち、官から誘いがかかるとさらに山深く遁匿して行くえ知れずになったという。」
「孫登は汲郡の人、家族はなく郡の北の山中に籠もって「土窟」を作って住み、夏は草を編んで衣服にし冬は髪を長く乱して防寒にあて、『易』を愛読して一絃の琴を楽しんだ。人びとに人気があり、怒ったことがないので、或る人が水中に投げ込んで怒るのを期待したけれど、大いに笑うばかり。また立ち寄った家で衣食を与えられると辞退せずに受け取ったが、そこを離れてしまえばみんな捨ててしまった。魏の名士阮籍が訪ねて問答をしかけてもとりあわなかった隠者で、「竟(つい)に終る所を知らず」。
 董京(とうけい)は西晉の首都洛陽の隠者、市中の土地神白社の祠に寝起きし、髪を乱しぼろをまとい、歌をうたってうろつきまわり、人に侮辱されて怒ったことなく、山水を愛好し隠逸志向の孫楚に老荘風の人生観を披瀝したこともあったが、後にどこかへ逃げ去り、白社の祠には「逝(ゆ)かん! まさに此の至虚を去って、我が自然の室に帰らんとす」という句を含む詩二篇が残されていた。
 朱沖、学問を好んだが貧しいので農業で生活した。或るとき、隣人が仔牛を失ない、彼の仔牛を自分のだと認めて連れ帰ったが、あとで自分のを見つけて返しにきても受け取らず、また他人の牛が彼の作物を食い荒すと飼葉をつけて返してやった。西晉の咸寧四年(二七八)、武帝に招かれたけれど病気を理由に就かず、その後も招聘されるごとに深山に逃げ込んだ。彼の住む南安郡にはチベット系の羌族が雑居していたが彼を主君のように尊敬し、邑里も彼に感化されて犯罪は起きず毒虫や猛獣も害をなさなかった。」
「孟陋(もうろう)、武昌の人、若いときから粗衣をまとい菜食し、読書して楽しんで世事を語らず、ときに一人で狩りや釣りに出かけると家人もどこまでいったやら知らず、簡文帝と桓温に招聘されたが病気を理由に仕えなかった。」

「本書でわれわれが設定している都市を同心とするトポグラフィに従えば、都市を脱出した彼らの居住する場所は原理的には田園と原野にあった。このことは右にみた隠者たちの生態に徴して明白であるが、歴史的にみれば、これら田園と原野のうちでも後者、山地、山林、深山こそが彼らに本来的な居住の場であった。」
「とはいえ、一口に山林といってもその領域はそれ自体で変化に満ちて広大であり、それだけでは軟弱な身体を有する人間がそこに住み着くには何らかの住居の設備がなければならない。そしてその住居の形式はつぎの三つにかぎられるであろう。ひとつは謝霊運の山居のように広大な山荘を築き、第二は陶淡、郭文のばあいのように精舎や盧や菴を構え、第三は孫登、張忠、(中略)についてみたとおり土窟・窟居・石窟・石室といった穴居を、自然の洞窟を利用するか、掘鑿するかして栖とすることであった。これらのうち謝霊運風の山荘が本来の隠者に不似合いであったのはいうまでもなく、陶淡の精舎、郭文のさしかけ小屋と孫登たちの穴居とについてみれば、後者のほうが隠者の塒(ねぐら)としてはよりふさわしかったといっていい。というのも両者の先史学的な起源の先後はどのようにあれ、隠者の生の本質が、世界へ、人びとへ、四方に向かって開けている都市から脱出して、視野のきかない、全体が閉ざされた秩序である山林に逃げ匿れることにある以上、匿れるという行為の深層に潜む心理からして大地母の子宮にほかならない大地の穴、山林の洞窟こそ隠者の本来的な栖でなければならないから。そして現に、われわれが対象とする時代より遥か以前からこうした心理学的な理由と先史の悠遠な記憶も手伝い、しかし何よりも隠者が一般に山中の洞窟に棲んだという事実もしくは通念によって、山林の士という呼称とともに、隠者は「巖穴の士」と呼び慣らわされてもいて、「巖穴の隠者」という用例もあり、さらに巖穴だけで隠者もしくはそれに準ずる民間の卓れた処士を意味することも頻繁であって、類縁の用語に「巖居」「巖居穴処」「巖居水飲」あるいは「巖居川観」などといった表現があり、いずれも隠逸の山林幽棲を意味したのだった。
 壮麗な宮殿群が林立し、豪華な貴族の第宅が並列し、雑多な庶民の住宅が櫛比する首都を中心にして展望すれば、原野の深山に位置する隠者の洞窟は文化の最末端、広大な自然のうちに気紛れに配置された微細な点にすぎない。けれども洞窟を拠点にしてそのまえに立って観望すると、世界はまったく別様に眺められたはずである。その精神的心理的な風光を語ることはわれわれには不可能であるが、論理的にいえば洞窟の対極としての都市はいまや完全な無意味、非存在であるだろう。巖穴、巖居、石室、石窟、窟居、あるいは山洞と呼ばれて、それがどれほど原始的な印象を与えようとも、隠者の洞窟は明確に人の住む場所、彼にとっては彼が世界の内部に存在するための住居であり、それはそれで優にひとつの文化なのであって、都市、郊外、田園に作られた住居に比較して原始的であるその分だけ、住居、同じことだが文化の或る根源性がそこに表現されてある。山洞から都市へ向かって都市を畏怖すべき無意味と非存在とみなすことを仮に山洞の文化の水平的な志向とみなすなら、同一の地点から垂直方向へ上昇かつ下降する志向性も当然働いているはずであり、それによって山洞の住居が有する文化の始源性が露呈されているであろう。換言すれば、窟居は文化の最末端として都市に鋭く対立してあるばかりでなく、通時的にみれば、それこそ文化の、少なくとも住居の原初形態であり、人間の生の根源へ降り立った上古の単独者たちの栖でもあり、同時に文化が最もあらわなかたちで自然の渾沌に親しく入り込み囲まれている地点なのである。それは都市の住居、神殿や宮殿、貴族の屋敷や庶民の家屋以上に複合的で象徴的な意味を内包している。」

「こういう神話学的な位相に親近なところで、この社会の民話の世界もまた洞窟が時間と空間とを遮断するトポスのひとつであることを語っている。陶淵明の物語「桃花源記」で、渓流の水源に辿りついた漁師が桃の林の奥に発見した洞窟は、彼の属する社会と洞窟の向こうの隠里、此岸と彼岸、有限と無限、時間と永遠とを分割する魔法の境界なのだった。」
「洞窟に神話学的、民話学的な意味と表象を付与することを愛する人たちの民俗がさまざまな洞窟のイメージをもたないはずは無論なく、われわれの印象に頼ってよければ、昔も今も彼らは無類の山洞(シャントン)愛好者だといって不可はない。」
「そうして洞窟に向けられたこういう民俗学的な関心の底に、現象的には非常に男権的と認められるこの社会において、人びとがどれほど強く母性的なものに魅せられていたかを看取するのは困難ではない。というのも、(中略)中国の大地はそれ自体で巨大な母であり、その内部に縦横に貫通する洞穴は彼女の神秘で多産な母胎にほかならないと表象されていたことが容易に了解されるからである。」

「この社会における隠逸の歴史は長大である。諸国遍歴の途上で孔子の一行が出会ったという楚の狂接輿(きょうせつよ)、長沮(ちょうそ)、桀溺(けつでき)、荷蓧丈人(かじょうじょうじん)から周初の伯夷と叔斉を経て、唐虞堯舜の許由、巣父の伝承にまで遡れば、それは中国の歴史の長大と重なり合うといってよい。われわれの理解によれば、隠逸の現象は、農民の叛乱や匪賊の発生などとともに、この社会における反都市的な傾向の現われであり、その最も理念的な表現であった。その道徳が(中略)主として老荘の哲学に依拠し、その山林遁匿がその実践であったことがそれを告げている。老子や荘子の思想の本質は、この文明が急激に都市化を推し進めつつあった古代に、いちはやく全世界にたいする都市の権力的支配と都市自体における精神の衰弱と退廃を批判し、脱都市、脱社会、脱文化を唱える根底的な反都市の理念だったからである。別言すれば、隠逸の発生はこの社会における都市化の出現とほとんど同時だったのであり、だから以後もこの文明の近代に至るまで連綿と存続してきた。その経過でその道徳に多少の新しい要素、仏教の移植と道教の発展による新しい側面が加わりはしたけれど、隠逸の生とそれの周囲に形成された文化とは道徳的芸術的でありつづけた。そして古代以来の道徳性に芸術的なもの、審美的なもの、趣味的でさえあるものが付加されたのがこの時代であったというのがわれわれの解釈である。
 もっとも隠逸の本質が反都市性にあったにしても、個々の隠者が都市に背いて造反に蜂起して都市を攻撃し破壊したことは全くなかった。それを敢行したのは農民や流民や匪賊であって、隠者は、伯夷・叔斉の兄弟のように、薇(わらび)を摘んで深山に餓死することも辞さない自己完結的で自閉的、悪くいえば偏屈なエートスに閉じ籠もって、もっぱら精神と心理の次元で都市に遠くから対抗していたにすぎない。だが、道徳あるいは倫理も極まれば審美的な領域へ昇華する。首陽山に餓えて死んだ伯夷兄弟の偏屈がこの社会の人たちに歴史を通じて愬えかけてきたのも、ふたりの過激な行為に何ほどか詩的なものが含まれていたからだ。現に、少年時代から山水を愛して山遊びすれば家に還るのを忘れた郭文の峻烈な隠棲は、終生妻を娶らず、木に倚ってさしかけた小屋に住み、麦と菽(まめ)を作り、竹の葉や木の実を採集して塩に換えるといった計算され尽した無駄のない生活ぶりにおいて、彼の鋭い反都市の倫理を表わすとともに、その生活の簡素によって清冽な美を形づくっていたと見られなくはない。(中略)「山草の人 安(いずくん)ぞ能(よ)く世を佐(たす)けんや」という(中略)彼の自己規定のうちには、彼の反都市的なアパシィの主張とともに、彼の峻烈な生の様式がその反都市性においてひとつの美の表現にまで高まっていたことを証示する。さらにいうなら、「山草の人」という端的に植物を隠喩的に組み込んだ自己規定がすでに審美的であり、この表現の中には、少年時代にはやくも薫染した彼の山水愛好趣味という個人的な条件のみならず、城壁を所有せず、周囲の自然に向かって開いた建康の植物的な気分、やがて園芸的な生活の様式をへて園林的世界観へ結晶する、この江南の首都の優しく明るい気分がすでに秘かに共鳴していたのだと解釈される。」

「けれども、隠逸に本来的な遊戯性と次第に増進していく芸術化とは、当然ながらその道徳的原動力の低減を惹き起こさないではいなかった。(中略)端的にいって、隠逸は自然に向かって開いた都市の文化の中に絡み込まれ、風流文化の一変数と化して園林的世界の外郭を装飾し、都会に飽きつつ自然を愛する都市上流人士を喜ばせる仕掛けのひとつに堕したのである。隠逸文化の庭園化――。」



「終章 精神的地平の拡張と深化」より:

「中華世界の唯一絶対的な中心である宇宙論的な古典的都市が消滅し、世界解釈と価値判断の公準たる巨大イデオロギーの権威と機能が衰微した江南世界の数世紀間に、人びとの世界にたいする構えは全体的で統合的なものから離れて多彩で微少な細部へ向かった。普遍的なものから個別的なものへの関心の移行――古代の巨大イデオロギーの繋縛を脱して、人びとは各自の内面にゆらぐ心情のあやに忠実に、世界の細部の瞬間ごとの多彩な変化に見入り、それにつれてとりとめもなく転変する情緒の消息に聴き入ることを開始した。外部世界と内面との接触が喚び起こす消えやすい感傷のひと吹き、五音節の詩句によるのであれ、墨線と色彩、石と土と木と水の構築によるのであろうと、それを確かな形式と表現のうちに永遠化すること、別言すれば、普遍に頼ってではなく、世界と意識の双方の個別を通して世界を解釈すること、これがこの諸世紀の優閑風流人の生の姿勢であった。(中略)世界のほんとうの姿は全体にではなく個々の細部に現われる。巨大で粗笨な論理の抽象が看過する細部に、優美に繊弱な感傷は存在の本来的な場を、少なくとも世界の無関心な優しさくらいは見出すことができる。抒情詩の生命が音節ごとに流動していくリズムとイメージの細部に生きているように、園林の開き示すものも全体にではなくて、歩行と佇立の瞬間ごとに、風と光、水と土、岩と樹、花と魚と鳥が織りなす微妙な変化の印象に宿っている。人の世のありさまを、「桃花緑水の間、春風秋月の下」と耽美的に、ほとんど痴呆的なまでに艶麗に表現することが可能であった時代は、それが幸福であったか不幸であったかを度外視すれば、同一の強靭な抒情の精神に貫かれていたのであって、われわれが江南文化の数世紀を園林的世界と呼ぶのもこのためにほかならない。普遍的全体的な世界解釈の繋縛を脱して、個別的なものの細部にとらわれた精神によって世界が園林化したのだと言い換えてもよい。」







































































大室幹雄 『桃源の夢想 ― 古代中国の反劇場都市』

「カニバリズム以上に残酷な、とはいえ、人間的な、あまりにも人間的な所行を現在ではあまりにも多くわれわれは知り過ぎてしまっている。いかなる社会と文化に所属していようと、人間が人間でしかない以上、彼は自惚れているわけにはいかないのである。」
(大室幹雄 『桃源の夢想』 より)


大室幹雄 
『桃源の夢想
― 古代中国の
反劇場都市』


三省堂 
1984年3月15日 第1刷発行
1988年10月10日 第4刷発行
461p 目次4p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,200円



本文中図版(モノクロ)多数。


大室幹雄 桃源の夢想 01


帯文:

「都市の余白(マージン)としての桃源。
鳴雞吠狗、煙火万里の和楽の記憶。
都市の陰画(ネガティヴ)としての桃源。
沸々とわきおこる反都市の情念。
山川草木と禽獣幽鬼の境位から
人肉嗜食(カニバリズム)と奢侈遊戯(ポトラッチ)の「劇場なき都市」を射て
古代中国文明の虚栄と光耀を鮮烈に描ききる。
歴史を読む眼差しに転換をもたらした『劇場都市』
を承前して、次巻『園林都市』に中継する待望の第二作。」



帯背:

「歴史の中の都市の肖像Ⅱ」


目次:

第一章 都市(コスモス)の解体学
 暴君暗殺と遺骸の凌辱
 野人の生い立ち
 首都洛陽
 張衡「東京賦」
 世界の中心と皇帝の儀礼
 皇帝の生命衰弱
 皇帝の私人化
 世界の混乱
 生命と権力の輪舞
 ことば人間たち
 ポトラッチ演技
 人物テキストの評論
 大評論家郭林宗
 ことば遊び
 聖童偏重

第二章 野人の行動学
 粛清合戦
 学生運動
 闘争組織
 ナンバリングと政治言語
 武力行使
 首都への呪詛
 匪賊と妖賊
 赤眉の叛乱
 黄巾の叛乱
 世界救済の理念
 裏の帝国
 野人の登場
 皇帝のあきない
 首都の無法
 長安遷都と強制移住
 野性の首都侵入
 都市再生の人身供犠
 世界の崩壊

第三章 反都市の倫理学
 賢者は村に住む
 鳴雞吠狗・煙火万里の和楽
 小国寡民
 窮乏農民
 農村の政治工学
 漢代の地図
 郷里の生活
 反都市理念の中間性
 豪族と農夫の家計
 さまざまな力
 旱魃・洪水・蝗害・飢饉・餓死
 カニバリズム
 噉人賊
 人間狩りの仁義
 トポスの群と世界の構成

第四章 流民と匪賊の生態学
 中心の喪失
 政治経験の単一性
 天に二日無く、土に二王無し
 歴史意識の過剰
 複数の中心
 乱世の自由感覚
 城郭を去る
 群盗山に満つ
 生活空間の構造
 長老と塁
 弾圧と説得
 妖賊と女賊
 平地と山地の連続性

第五章 塢堡と桃源の地勢学
 流民劉備
 豪族の自衛と流亡
 乱に習う
 僻地と中央名士
 行主
 塢主
 山地の共同体
 塢主の平地帰還
 庾袞の個人的民主性
 塢の形態と機能
 塢の独立と抗争
 景観の記憶
 トポフィリア
 歴史愛
 下魚城の伝説
 桃花源記
 アルカディア複合
 井崗山の塢主毛沢東

第六章 隠者の社会学
 山地への逃匿
 山地のアンビヴァランス
 万歳塢の幼児性
 易京の退行願望
 囲い込みの狂気
 山荘の逸楽
 深林に投ず
 隠者の道化ぶり
 変装による匿名化
 洞窟と蝸牛廬
 草茅の人は狐兎と群を同じくす
 精舎の教師
 史のコード
 処士と隠士
 招聘拒絶ゲーム
 文化的強迫観念
 謎なぞ遊び
 山草の人

第七章 囲い込みの心理学
 生き残るための山地逃亡
 山林回帰の再生
 大同コンプレックスの普遍性
 単独者
 囲い込みさまざま
 母性への回帰
 腑ぬけの皇帝
 皇帝のクーデター
 暗愚皇帝
 美少年と醜女皇后
 つかのまの世界統一
 世界の崩壊

第八章 権力の経済学
 世界の中心の田舎芝居
 無学の王たち
 権力争奪のポトラッチ
 政治の消滅
 通貨としての権力
 蛮族登場
 江統「徙戎論」
 蛮族のシニシゼイション
 生成へのパトス
 「中国」に丈夫なし
 皇天の意志
 金墉城
 機智合戦と奢侈合戦
 吝嗇の美学
 銭の神の世界支配
 虱と銭の孔
 中心の無化と明け渡し




大室幹雄 桃源の夢想 02



◆本書より◆


「第六章 隠者の社会学」より:

「囲い込むこと、一見それは外部の世界に背を向けて自身を孤立させ閉塞させるようでありながら、その孤立において逆にこころが周囲にひろがり、山地の多様な事物と親しみ融合する、そういう微妙な消息をそれは秘め、また表現している。別言すれば、個人による囲い込みには何かしら幼児めいた、母胎回帰の願望の所在を暗示するような秘めやかな、悦楽に満ちた期待がみてとれるのである。」

「桓帝の延熹年間(一五八―六六)の終りころ、党錮の粛清が起ころうとするのを予測した袁閎は世間と交わりを絶って深林に逃げ匿しようと欲した。しかし老母があるので遠く遁げるわけにいかず、彼は庭の四周をぐるりと囲い込む土室を築いて自身をその中に封じ籠めたのである。土室には出入口を設けず、たったひとつの窓から飲食物をさしいれさせた。その生活ぶりは、朝に室中で東に向かって母に拝をし、心配した母がときどきやってくると窓を開いて面会し、彼女がたち去ればすぐに窓を自分で掩(おお)い閉じてしまい、兄弟と妻子も彼を見ることはできないという具合、母が死んだときにも外へ出ず、正規の喪に服することもなく、人びとの評価は下落し、彼を「狂生」だとみなす人もいた。こうして「身を潜めること十八年、黄巾の賊が蜂起して郡県を襲撃し陥落させると、民衆は驚き逃散したが、袁閎は儒教の経典を誦して動こうとしなかった。賊が彼の閭(りょ)に入らないことを約束しあったから、郷里の人びとは彼のちかくに避難し、みんな被害を免れることができたのだった」。こうして袁閎は土室に自身を完全に密封したまま、その中で生涯を終えた。ときに年五十七であったという。
 時人のうちに彼を狂人とみなすものがあったように、この囲い込みが狂気めいた印象を与えるのは否定しがたい。しかしそれと同時にここには一種の稚気、滑稽と形容するにふさわしい極後の偏執が認められるであろう。とはいえ、彼はけっして狂人ではなかったのであって、それは彼が閉じ籠もった土室の一種合理的ともいうべき設計を考慮すれば明白である。」
「考えようによっては、これはなかなか快適な住宅だったといってさしつかえないだろう。(中略)人間に飲食物を摂取する入口と排泄する下半身のふたつの出口とがあるように、この土室にも外部から飲食物などをさしいれる窓と排泄物を外部へ送りだす穴とが具わっていた。だから風変わりな土室は主人袁閎の身体の親密な延長だったのに相違なく、この内臓に直結するような親密性にこの住宅の居心地よさの秘密が潜んでいたであろう。」
「そして彼の伝記は、こういうとっぴょうしもない自己閉鎖に到達する心理的な傾向がすでに若年のころから彼の言行にあったかに述べているのだが、それを検討することは省略しよう。」

「しかし全体的にはやはり隠逸の原理と気分とは老荘の哲学に属した。というのも儒教同様に爛熟した古代都市文明の所産でありながら、儒教とは対照的に、老子や荘子の思想は複雑に発達した都市文明にたいする批判と嘲笑から出発し、その論理と感情のくまぐまにわたって反都市、反社会、反文明のイメージを展開して、究極的には単独者の心術において都市と社会から離脱して無歴史的な永遠のここのいまを創り出そうと企図しているからである。」

「洞穴より快適かどうかはべつにして、それよりは文化の範疇にちかづいた居住に蝸牛廬(かぎゅうろ)というのがあった。蝸牛とはでんでん虫のこと、それが背負い歩いている殻に形が似ていることにちなむ命名である。
 前漢最末期、建安の末年のころ、大陽(山西省平陸県付近)の長朱南(しゅなん)は衣服も履物も身につけず河辺を放浪している男を望見、亡命者と思い船をやって逮捕しようとした。と、彼を識るものあり、「これ狂痴の人のみ!」という。そこで戸籍に編入して、日ごとに五升の食糧を与えて保護した。のち疫病が発生、多勢の死者が出たので、県庁ではその男に埋葬させ、子どもたちはみんな彼をばかにした。ところが彼は耕地を行くときは近道をしないで必ず畔道を歩き、落穂拾いにも大きな穂は拾わず、草を編んで衣服にし、無帽ではだし、婦人をみかけると身を隠してやりすごすのだった。「自分でひとつの蝸牛廬を作り、その中を掃き浄め、木を組んで臥牀(ねどこ)を作り草をそのうえに敷き、寒い季節になると火を燃やしてあたり、独りでぶつぶつつぶやいてる」。飢えれば出かけていって日傭い仕事をやり、腹がいっぱいになればやめて、賃金を受け取らない。道で人に出会うと、道を下りて匿れてしまう。たれかが理由を問うと、「草茅の人 狐兎と群を同じくす」――わたしは狐や兎の仲間だから、というだけ、平生からめったなことでは口をきかなかったのである。」
「あるとき、杖をついて浅い川を渡ろうとして、まだ渡れないとひとりごとをつぶやいた。それで人びとは「其(そ)の狂ならざるを頗(すこぶ)る疑がった」というが、おそらく彼は狂人ではなかったのである。彼には悲痛な経験があったのだ。
 男の姓名は焦先(しょうせん)、字は孝然、河東郡の人であった。中平年間(一八四―八)、彼の郷里を白波の匪賊が荒しまわった。二十歳を出たばかりの焦先は乱を避け、東方の揚州に逃れ、そこで妻をめとり、建安の初めに郷里ちかくへ帰ってきた。しかし建安十六年(二一一)、戦乱が起こり、彼は家族を失ない、「独り河渚の間に竄(に)げ、草を食い水を飲み、衣履無し」、すっ裸で河原を放浪し、草で露命を繋ぐという生活を始めた。大陽の長が彼を発見したのはこのときであるが、明らかに彼の内部で生きることの関節がはずれてしまっていたのである。けれども、公平にみて、焦先の悲惨な経験が彼ひとりのものでなかったことはいうまでもない。戦乱、殺人、掠奪、飢餓、疫病、食人、流民化、匪賊化が彼の時代の社会を蔽っていたのをわれわれは知悉している。彼の流亡も、家族喪失も、この全体のささやかな部分にすぎなかった。それでも生き残った人びとは、彼らも親兄弟や妻子を失ない、そのうちのだれかれは他人を食ったことがあるかも知れないのに、いっときの平安が恢復するともとの通常の生活にもどった。が、焦先のばあい、正常な状態に回帰する機能が狂ってしまった。その消息はわれわれには不明である。分かることは彼はもう通常の平穏安楽な生活に帰らず、他人から「狂痴の人」とみなされる逸脱を開始した一事にすぎない。
 焦先は山林に遯入しなかった。蝸牛廬をどこへ立てたか分からないけれど、町か村に居住して彼は「客作」、臨時雇いの労働にたよって生活を保った。だが、人と交わることを避け、婦人から逃げ、何よりも他人とことばをかわすことを嫌うことによってやはり彼は自身を封じ籠めた。ある意味では梁鴻や台佟らの山林隠棲による自己囲い込みよりも、彼の蝸牛廬の籠居のほうが反都市性の表出としてはるかに強い効果をもっていたであろう。その効果はほとんど教育的だったといっていいかも知れない。(中略)ここには老荘的な愚者の智慧、無知の大智の微光がほのみえるのであって、魏と呉とのあいだに戦争が勃発したさいに、だれかがこっそりその予測を尋ねたというのも、彼の蝸牛廬の枯草の寝台の中からそういうほんものの智慧がぼんやり暈(かさ)のように周辺にひろがっていて、(中略)或る人びとがその智慧の輪光に感じていたことを証するのに相違ない。(中略)彼らの社会の文化にも愚者が秘匿するほんものの智慧を、それと認知できさえすれば、尊崇せずにはおかない伝統が古来からあったのだ。
 焦先が表現していた智慧は一言で反都市的な価値だったということができる。彼の振舞いのすべてが都市に栄える明知、雄弁、虚栄、貪欲、奢侈などとちょうど反対の方向にむかい、しかもそれらにたいする無言の批判になっていた。が、それはたぶん彼の振舞いの結果でしかなく、彼自身は、実存のレベルにおいて自分が都市のみならず文化の範疇をぬけおちて自然の野性にあることを自覚していた。(中略)蝸牛廬に住み、(中略)沈黙で厚く自分を囲い込むことによってそのまま彼は自然に帰ってしまった。」


















































































































































































































大室幹雄 『パノラマの帝国』

「「我 性は落魄、自(みずか)ら拘検せられず、惟(た)だ高歌し大酔するを愛す」」
(大室幹雄 『パノラマの帝国』 より)


大室幹雄 
『パノラマの帝国
― 中華唐代人生劇場』


三省堂 
1994年12月10日 第1刷発行
xiv 376p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,800円(本体3,689円)
装丁: 間村俊一



本書「語りのあとで」より:

「この本に収められた論文、物語、エッセエ、そのほかどう呼んでもいい作品のうち、初めの四篇(中略)は、松平いを子と私によって翻訳されたR・H・ファン・フーリックの推理小説、ディー判事シリーズの四冊『中国黄金殺人事件』『中国湖水殺人事件』『中国鉄釘殺人事件』および『中国梵鐘殺人事件』(いずれも三省堂、一九八九年刊行)の解説として書かれた。いま一冊の本にまとめるに当って、それぞれ若干の修正をほどこしたのはむろんだが、どあれも解説というには異例に長いのは、そのころ計画していた私自身の唐代都市解読の一環として書いたからであり、もともとフーリックの小説を翻訳したのも同じ動機が働いたからであった。」
「あとの二篇(中略)はこの春に書かれた。他の四篇同様に、どちらもフーリックが彼の小説に採りいれたモチーフを私なりにパラフレーズして歌ったつもり、ただ、文体をできるだけ他の四篇のそれに近づけようと努めたけれど、両者の間に介在した歳月がその努力を妨げているらしいことを認めないわけにはいかない。」
「とはいえ、これら六篇の作品はフーリックとは無関係に読むことができるはず、(中略)どれも論文ともエッセエともつかない作品だが、全体として六篇からなる物語集として読まれるならば、幸いにも著者の企図は達せられたということができる。」



本文中図版(モノクロ)。


大室幹雄 パノラマの帝国


帯文:

「中世中国の巨大帝国に繰りひろげられる
有象無象の人生を、目もあやに溌剌と
再現する歴史語りの妙!
麗しの人妻や悪少年、富裕商人や受験浪人、強盗や
酷吏、刺客や詐欺師、そして野性の先住民、はては人
虎や幽鬼まで。」



帯背:

「歴史の見世物小屋へようこそ!」


目次:

パノラマの帝国――まえがきにかえて

第一章 遊侠たちの社会史
 遊侠たちの昼と夜
 刺青と詩書画――モード(一)
 牡丹と墓誌――モード(二)
 遊侠・盗賊・富豪の共棲――エートス
 結社と単独者

第二章 放浪する知識人
 流浪生活さまざま――生態(一)
 世界劇場の舞台仕掛け――生態(二)
 生への楽天的な意志――エートス
 旅の情景――環境

第三章 解放された女たち
 旅の情景
 恋する女たち
 妻たちさまざま
 暴力と女たち
 夫を殺す女たち

第四章 虎の妖怪学ノート
 烟嵐と登高――変身の宇宙論
 人 変じて虎に化す――狂気と憑依(ひょうい)
 虎 人を食い、人 人を棄てる
 虎狩りの情景
 虎の皮、輝き燃える……

第五章 冥界行――メガロポリスの夢
 迎え または不意撃ち
 逮捕と連行について
 冥界の政治地理
 冥界民族誌ノート
 魂の時空
 巨大都市長安の夢

第六章 梅嶺の南――ひとつの未開と文明
 梅の花咲く峠のかなた
 嶺南経済特別区
 広州の解放経済
 環境志向文化と物質志向文明
 蠱憑きの歴史人類学

語りのあとで




◆本書より◆


「第一章 遊侠たちの社会史」より:

「韓愈(かんゆ)といえば、古代の散文の風骨に倣(なら)って独特の雄勁な文体を作り出した文人として文学史に名高いが、江淮(こうわい)(安徽省)から甥に相当する遠縁の若者を長安へ呼び寄せたことがあった。学問を仕込み、科挙の試験に合格させて世に出そうというので、一族の子弟たちと勉強させたが、いじめられてばかりいるのを知り、韓愈は西街の某僧院に若者を寄宿させて読書させた。十日ばかりすると、今度は寺からとてもあずかれないと苦情をいってきた。少年が「狂率(きょうそつ)」、調子が狂っていて落着きがなく、始末におえないという訴え。
 即刻呼びもどして、市場の商家といった賤しい類(ともがら)だって、衣食を営むについては何か一つくらい長所はあるものである、汝のやったことがこんなだとすれば、いったいこれからどうするつもりかと叱責した。寺での狂率の内容がよほど無惨だったのであろう。甥は頭を下げ陳謝し、それからおずおずといった、私には一芸があります、残念ながら叔父上がご存じないだけです。それから中庭に降りる石の階段の際の牡丹を指さして、叔父上がこれに青、紫、黄、赤の花をつけさせたいとお望みならば、唯だ命のままに、と彼はいった。韓愈はその発言を奇異に思い、甥が必要とする物を給して試させた。
 少年はまず牡丹の株を堅固な箔(すだれ)で真四角に囲って人が覗き込めないようにすると、四面から根に及ぶまで、人が坐れるほどの窠(あな)を掘っていった。それから紫鉱の朱紅色の粉末を入れて、朝な夕な、根の面倒を見ていたのである。七日ほどすると、坑(あな)を填(うず)めて、残念なことに挍(みだ)すのが一月遅れました、と叔父に告げた。時に冬の初めであった。牡丹はもと紫だったのだが、花が発してみると、色は紅白で、すべてに緑が混っていて、しかも一枝ごとの花に紫の文字がくっきりと一聯の詩を浮び上らせているのだった。
 詩は韓愈の良く知られた作品だが省略する。叔父は少年の魔術めいた園芸の伎倆を大いに驚異とし、甥は叔父の訓育を離れて故郷の江淮へ帰っていった。そして「竟(つい)に仕えるを願わず」、自分の素質にはまるで合わない受験勉強の詰込みをやって、皇帝に仕える官吏になろうとは願わなかったという。
 故郷へ帰った若者が、その魔術師なみの天才によって、秀れた園芸師に成長したか否かは判らない。けれども、周知のとおり、彼の社会でも、学問をするとは、柔らかな欲求と感情を圧し潰し、ひたすら知識の暗記に励み、生活の安楽と見栄の満足をかなえてくれるという科挙の試験に及第することのみを意味した。「狂率」を理由にこの知識の呪縛的世界から弾き出された、この愛すべき天才の持主はつまり落ちこぼれたのにほかならない。そのまま彼が首都に留められ、受験勉強を強いられていたら、彼が悪少年の仲間入りをした蓋然性はかなりに高かったともいえよう。優しい彼の精神の一傾向、その狂率は遊侠の不良少年たちにもそろって分有されていたに相違ないからである。」

「端的にいって、任侠の悪少年はあらゆる階級から生まれたのである。いわば任侠という社会的な現象は超もしくは汎階級的なのだった。つまるところ、劉某が悪少年になり、崔某が忠良な官吏あるいは善良な農民でありつづけるというのは、それぞれが生得している資質の差異によるのだといってもいいようなので、この場合の差異というのはきわめて個体的なもの、前に用いた言葉でいえば、それぞれの個体が生の過剰を有しているか否かに尽きている。少なくとも環境が個体に作用する教育学的影響など、遊侠の誕生にとっては副次的、だから偶然のきっかけにすぎない。」

「奢豪とは、こういう万事が過剰にほかならない生の中から、蕩尽を、いいかえれば生そのものの否定を目指して表出された行為の謂(いい)なのである。」
「遊侠無頼の豪侠は露骨に直接的な生の過剰の表出であった。彼らの生はしばしば生活の窮乏、財貨の欠乏に飢え凍え、その飢寒の患(うれい)の真中から生への熾烈な意志がむきつけに迸(ほとばし)るとき悪少年が誕生した。何なら物質の欠如が精神を生み出した、だから任侠の生とは精神それ自体なのだ、ほんものの貧しい哲学者の場合と同じように、といってもいいようなのである。少なくとも、生の過剰において己れの生を無化する強い傾向を有する、彼らに固有の或る種の苛烈な精神主義に遊侠のエートスの核心があったのだということはできる。」



「第三章 解放された女たち」より:

「すれっからしの老朽した読者にほかならぬ私たちの心には、ちょっと風変りなという印象を与えるに過ぎないにしても、それらの説話(ナラティヴ)はすべて世界の隠喩(メタファ)なのだった。つまり、旅の商人を噛み殺した鬼女、欣然と盗賊の舟に乗り移った美少女、夫に置き去られてわけの判らぬ死にようをした浮かれ女、夫とその親の犠牲に自分を食肉に売りとばした商人の妻、それにまた夫の復讎に失敗して自刃した旅芸人の女も、そろって彼女らを取り囲む世界と社会のリアリティを開示し、と同時に彼女らのこころに潜む不可思議な深みを世界の表層に噴き出していた。」

「大都市長安の迷楼めいた面白さは、(中略)健康な美人が仇敵を捜して奇蹟の庭(クール・ド・ミラクル)に暗躍する殺人者でもあったことである。この都市の暗黒街の英雄は男だけに限定されてはいなかったので、十六、七の薔薇のような美少女が、さまざまな武術や雑技に習熟した強く撓(しな)やかな軽薄の悪少年たちを指揮して、皇帝の宮殿深く侵入し財宝を掠めることもあったと記録は語る(中略)。その美少女は超自然的な跳躍者、鳥人でもあり、不思議な空中飛行の秘技によって、皇城の地下牢に投ぜられた学生を救出したりもする。そうして無論、彼女らの軽快な自由は彼女らを首都の中心や空中や地下に活躍させただけでなく、帝国中のいたる地方に、街道や逆旅や田舎の町に、旅する彼女らの秘密の姿を見え隠れさせていたのだった。」

「聶隠娘(じょういんじょう)は貞元年中に魏博(ぎはく)(中略)の大将軍聶鋒(じょうほう)の女(むすめ)であった。十歳の時、一人の尼が聶鋒の屋敷に乞食(こつじき)に来て、彼女を見て喜び、貰い受けたいと請うた。父親が大怒して叱りつけると、たとえ鉄の櫃(ひつ)の中に匿したって偸(ぬす)み去りますよ、と尼はいい、果してその夜、隠娘の所在は失われ、父は八方手を尽して捜したけれど、影も響(うわさ)もなく、父母は相対して涕泣するほかなかった。
 五年後、尼が隠娘を送り帰し、教育はすでに成りました、お受け取り下さるようと聶鋒に告げ、ふっと見えなくなったのである。父母は悲喜こもごも、娘に何を学んだのかと問うた。(中略)本当の事をお話ししても、恐らくお信じなさらないでしょう、と娘。ただ本当の事を話してくれればいいのだよ、と父。そこで娘はその修行の次第を語った――。
 初め私は幾里とも知らず尼に連れられていったけれど、明けがたになって大きな石穴(ほらあな)の中に入った。(中略)十歳ほどの二人の少女がいた。二人とも聡明で婉麗(かわいら)しく、食物をたべずに峭(けわ)しい壁(がけ)の上を飛走し、(中略)木に登り、蹶(つま)ずき落ちたりすることはないのだった。尼は私に一粒の薬を与え、また一口(ひとふり)の宝剣を持たせた。(中略)尼は二人の女の子に攀縁(よじのぼ)りかたを私に教えさせ、やがて身体が風のように軽くなったのを知覚した。
 一年後には、猿狖(さる)を刺して百に一匹の失(しくじ)り無く、後には虎や豹を刺せば、すべてその首を決(た)って持ち帰った。三年後には、飛んで鷹や隼(はやぶさ)を刺すよう命じられても中(あた)らぬことは無く、宝剣の刃は漸(ようや)く五寸に減っていて、私が飛走しているのに出遇っても、人は気づかなくなったのである。
 四年目になると、二少女に石穴の留守をさせ、尼は私を都会へ連れていった。何処とも判らなかったけれど、目当ての人をいちいち指さして、その過ちを数(せ)め、その首を刺して持っておいで、知覚させてはならないよ、胆を定めれば飛鳥のように容易なのだよといって、羊角型の、刃の長さ三寸の匕首(あいくち)を私に授けた。私は白日に都市でその人を刺した。誰もそれが見えなかったのだ。その首を嚢(ふくろ)に入れて尼の宿舎に返ると、尼は薬で以て化して水にしてしまった。
 五年目、尼はまたいった、某大官には罪がある、故無く何人もの人を殺害したのだよ、夜、その部屋に入って首を決(た)っておいで。私は匕首を持って部屋に入った。忍び入るのに何の障礙(しょうがい)もなかったのだけれど、梁(はり)の上に伏せて、瞑(くら)くなってから大官の首を得て持ち帰った。すると尼は大怒して、何でこれほど晩(おそ)くおなりだえ? といった。あの人が小さな児と戯(たわむ)れ弄(ふざ)けているさまが愛すべきものに見えて、すぐさま手を下すに忍びなかったと私が答えると、今後は、そういう場合に遇ったら、自分の愛する気持を先ず断ってしまうのだよと尼は叱った。私は拝礼をして謝罪したのである。
 その後、尼は、そなたのために脳(あたま)の後ろを開き、匕首をその中に蔵(しま)って傷も残さず、用いる時には、そこから抽(ひ)き出せるようにしてやろうといった。その後また、そなたの術はもう完成しました、家に帰ってもよろしいといって、尼は私を送り還してくれた。別れに当って、二十年後にまた会うでしょうと彼女はいったのである。
 ――聴き終って、父の聶鋒は五年ぶりに戻ったわが娘の変身ぶりに恐怖を覚えた。その後も娘は夜になるとどこかへ出かけて姿を消し、夜明けに返ってくることをやった。父親はもう敢て詰問しようとはせず、娘をそんなには憐愛(れんあい)しなくなった。
 逆に見れば、山中隔離の五年間に、尼僧の課した、身心両面にわたるさまざまな試錬を通過したことによって、彼の愛娘は、彼の情愛や日常的な思量の及びもつかない、彼にとっては不気味な異質の世界に再生してしまっていたのである。今や娘は暴力行使の専門家、熟練した暗殺者、夜の闇黒を徘徊する刺客なのである。昼の公的な世界に住み慣れてきた父親には、特異なシャーマニスティックな改造を頭脳に加えられたのだという娘の身体からは、血腥(ちなまぐさ)い犯罪の臭気さえ絶えず沁み出しているのが察知されるのだ。尼に洗脳された娘の道徳はそれが正義なのだと主張する。しかし一介の地方武官に過ぎない父親には、それの哲学的根拠を検証する義務などあるわけもなく、またそうする素養も決定的に欠けていたであろう。一言で、父親にとり彼の娘は不気味(ウンハイムリヒ)なものそれ自体だったのである。」
「聶隠娘(じょういんじょう)の物語る、飛ぶ女への再生のイニシエイション体験が虚構であるのはいうまでもない。だが、その物語を支えている変身のリアリティまでを否定してしまうのは能がなさ過ぎる。(中略)そのリアリティはあげて、記録、書くこと、物語ること、即ち現実に関する解釈が産み出す、世界の深さへの夢見心地な面白さにかかっている。換言すれば、世界の隠喩(メタファ)としての説話(ナラティヴ)の広汎な包摂力のうちに聶隠娘の変身のリアリティも見出されるのである。」
「死者は語らないし、生者は死んだことがない。にもかかわらず、私たちは死について語ることを許されていて、それを語ることもできるのであり、現に語っていることのうちにしか死のリアリティは現われてこない。それと全く同じように、殺人を犯したことのない者も、殺人の恐怖と解放と快楽と嫌悪について語ることができるはずなのであり、そのことのうちに殺人の行為のリアリティは浮び上がってくる。というのも、世界は現実ではなくて、解釈であり、物語ること、書くことであるのだから。」

「生の過剰は狂奔する。そのこと自体に善と悪、正と邪、賢と愚があるわけではないので、そういう判断は彼女たちの超越の後から、圧倒的多数者の安住の低所から恣意的に彼女たちの行為に向って放たれる悪声に過ぎない。」



「第四章 虎の妖怪学ノート」より:

「周知のとおり、陰陽説は全体と部分、宇宙と個体、事物と生物、動物と人、女と男との間に絶対的な断絶を認めない。これら一見対立し相反しているかのような二項間の差異は、それぞれが存在の原基として負荷されている陰気と陽気の配合、陰気と陽気との相対的な多寡にかかわっているに過ぎない。例えば、私が女で、あなたが男であるのは、あなたの身体を構成している気の集合にあって陽気が物量的に陰気に勝っているからであり、私においてはその逆であるからだという具合に。」

「鄴(ぎょう)中(中略)に楊真という者がいた。家は富んでいて、平生好んで虎の絵を画き、家中にそれを飾って喜んでいたのだが、老年に及ぶと、家人に命じてきれいさっぱり撤去させてしまった。齢九十、臨終の枕辺へ息子と孫たちを呼び寄せて、私は虎好きが昂じて「癖(マニア)」となり、夢の中で虎の群に混って遊ぶに至り、晩年には散策や遊覧の途上でもちょいちょい虎を見かけるのに、連れは誰ひとり見たものがないという始末、それで虎の絵を破棄させたのだが、今も夢の中で虎に変わり、目覚めると人に復していた、死後には恐らく化して虎となるのであろう、おまえたち、虎に遭っても慎しんで殺してはならぬと遺言し、その夕べ彼は死んだ。そして家族が葬式の相談をしていると、不意にその屍体が虎に化して跳躍して外へ出た。息子の一人が目撃して後を追う。虎は戻って彼を食って去った。数日後、家人の夢に虎が出て、私はもう虎になった、調子は甚だ好く、家を離れる時に人ひとりを食ったから腹もくちいと告げたのだった。
 記録(『瀟湘(しょうしょう)記』)は、この椿事に関する「有識者」の論評を付記している。曰く、「人であれば父子の関係が分るが虎には分らぬ。人と虎とは知性に差異あり、虎が前生の事を憶えているなら人は当然そうであるはず、しかるに人にして前生を憶えていないのだから、虎が我が子を食うのは当り前である」というので、人が変じて虎に化する怪事を彼が訝しんだ様子は見られない。どうやら、老いたる虎癖(マニア)の心理的な偏執が身体の変化を惹起したのは自然もしくは必然と、平静に受けとめていたらしくある。」

「革命後の中国では、約四十年の間に、当初四億と称された人口が十一億以上に爆発的に増加したのに反比例して、虎の個体数はずいぶん減少したらしい。しかし前世紀後半から今世紀初頭にかけて、欧米人によって書かれた中国旅行記を繙(ひもと)くと、彼ら異邦の旅行者が時に虎狩りのゲームを楽しんで山野を駆けめぐったとか、時に虎に遭遇したと稀ならず記しているのには驚かされる。過去の中国に虎がどれほど棲息していたか、勿論、その統計学的数値は知りようもないが、高く厚い城壁に堅固に囲まれた都市に背を向けて、田園や山野に暮す常民の世界に多少でも目を放つと、狐たちの優美な狡智とともに、高貴な虎族の孤高な獰猛がそこでは文化の特異な一ジャンルを形成していることに気づかないではいられない。」



「第六章 梅嶺の南」より:

「現在でも嶺南地方には、漢(ハン)-シナ人に属さない、多くのさまざまな先住民族がそれぞれの伝統的な環境のうちに生きている。」
「「巣居」とは古代以来、いわば原始的な樹上生活を表わす慣用語だが、幸いにも、宋代になって周去非が著わした興味深い嶺南民族誌にやや詳しい観察が見出される。
 「深広(広州の奥地)の民は、柵を結んで以て居(す)む。上には茅屋(ぼうおく)を設け、下には牛豕(ぶた)を豢(か)い、柵上は竹を編んで棧(すのこ)(床)となし、椅(いす)、卓(テーブル)、牀(ベンチ)、榻(ベッド)を施さず、唯だ一牛皮のみ有りて裀席(しきもの)と為し、斯(ここ)に寝食す。牛豕の穢は、昇(のぼ)りて棧の罅間(すきま)より聞(にお)い、向邇(ちかづ)く可からざるも、彼は皆な習(なら)い慣(なじ)んで、之(これ)を聞(か)ぐこと莫(な)き也。其の然(しか)る所以(ゆえん)を考えるに、蓋(けだ)し虎狼多く、是(かく)の如くならざれば、則ち人畜は皆な安きを得ざればなり。乃(すなわ)ち上古の巣居の意は無からん歟(か)!?」(『嶺外代答』巻四)というので、いわゆる巣居の形態は如実に浮んでくるに相違ない。そしてこれが唐代の記録でないことは全く意に介する必要がない。というのも、この形式の草葺き屋根と竹床の、家具の備えを持たない高床式の住居は、ロングハウスか一戸建てかの差異はあるものの、南および西南中国の広東、広西、貴州、雲南からビルマ、北部インド、タイ、ラオスおよびベトナムの広域をおおう照葉樹林の山地諸民族の間に、現在でも建てられ生きられているからである。
 それにしても注意深い読者ならば、周去非の即物的な観察と簡潔的確な記述、それに先入見から自由な思考にお気づきであろう。竹の棧の隙間から牛や豕の糞尿の悪臭が昇ってきても気にかけず、茅葺きの高床式住宅に家畜と同居している「深広の民」の生活も、彼らを環(めぐ)る固有の風土へ適応して生きていることの自然であって、「上古の巣居」の原始未開とは無関係だと書く明晰な省察に注目。これは中国の歴史の中で最もモダンで、明るく生きいきとしていた宋代にのみ認められる、軽快に弾む知性の作用のささやかな一例である。」



「語りのあとで」より:

「「梅嶺の南」で私が漢-シナ人(ハン・チャイニーズ)の南方進出、嶺南地方の都市化・文明化、最終的にシナ化だと呼んでいる現象は、進出される原住の人びとにとっては被征圧と被支配にほかならず、その歴史を通じて、彼らの心理は相対的に強力な文明に対する讃仰や同調とともに反感・恐怖・憎悪などの混った複雑なものだったに相違ない。」
























































































































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

※心の傷、胸焼け、劣等感等ある場合が御座いますが概ね良好な状態になります。

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