金関丈夫 『日本民族の起源』

「反逆児の存在は、社会の健康には必要だ。」
(金関丈夫 「成川遺跡の発掘を終えて」 より)


金関丈夫 
『日本民族の起源』
 

法政大学出版局
1976年12月1日 初版第1刷発行
v 397p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,000円



本書「あとがき」より:

「集められた三三編のうちのほぼ半数は、日本人の生成に関する人類学的記事であり、内容の重複するものも多い。残りのうちの十数編には、多くは考古学的雑文、その他に解剖学名に関する史的考証などがあり、読者にとっては或る部は無用、著者にとっては雑然の責めを免かれないものがある。読者よりも著者の自作整理のためにできた冊子と見えないこともない。」


本文中図・表、図版多数。

本書はアマゾンマケプレのもったいない本舗さんで1円(+送料)で売られていたのを注文しておいたのが届いたので、専門的な部分は適宜はしょりつつ、ホネの写真にみとれつつよんでみました。


金関丈夫 日本民族の起源 01


目次 (初出):


日本民族の系統と起源 (ブリタニカ『国際大百科事典』15、1974)
日本人の体質 (平凡社『世界大百科事典』22、1958)
日本人の生成 (角川書店『世界文化史大系』20、日本Ⅰ、月報、1960)
形質人類学から見た日本人の起源の問題 (「民族学研究」特集・日本民族文化の起源、1966)
弥生人種の問題 (河出書房『日本考古学講座』4、弥生文化、1955)
こんにちの人類学から (読売新聞社『日本の歴史』1、日本のはじまり・日本民族の成り立ち、1959)
弥生時代の日本人 (『日本の医学の一九五九年』、第十五回日本医学会総会。後に平凡社『日本文化の起源』5、1973に再録)
日本人の形質と文化の複合性 (平凡社『日本語の歴史』1、民族のことばの誕生、1963)
弥生時代人 (河出書房『日本の考古学』3、弥生時代、1962)
日本人種論 (雄山閣『考古学講座』10、1972)
人類学から見た古代九州人 (平凡社『九州文化論集』福岡ユネスコ編1、1973)
弥生人の渡来の問題 (西日本新聞 1958. 3. 12)
人類学から見た九州人 (朝日新聞(西部版) 1960. 2. 19)
日本文化の南方的要素 (朝日新聞(西部版) 1967. 4. 3)
古代九州人 (『学士鍋』11、九州大学医学部同窓会、1974)
形質人類学 (日本民族学会『日本民族学の回顧と展望』6 民族学と周辺諸科学、1966)
アジアの古人類 (平凡社『世界考古学大系』8、1961)


沖縄県那覇市外城嶽貝塚より発見された人類大腿骨について (「人類学雑誌」44、六号、1929)
沖の島調査見学記 (毎日新聞(西部版) 1954. 8. 19)
根獅子人骨について(予報) (『平戸学術調査報告』「考古学調査報告」京都大学平戸調査団、1951)
土井ケ浜遺跡調査の意義 (朝日新聞(西部版) (一)1955. 9. 30、(二)1956. 10. 19、毎日新聞(西部版) (三)1957. 8. 26、(四)1957. 8. 27)
沖永良部西原墓地採集の抜歯人骨 (「民族学研究」21、四号、1956)
種子島長崎鼻遺跡出土人骨に見られた下顎中切歯の水平研歯例 (「九州考古学」三―四、1956)
成川遺跡の発掘を終えて (『成川遺跡』、埋蔵文化財発掘調査報告7、五章一節「人骨概要」、1973(序文三頁追補)
無田遺跡調査の成果 (毎日新聞(西部版) 1961. 1. 20)
大分県丹生丘陵の前期旧石器文化 (毎日新聞(西部版) 1963. 3. 24)
古浦遺跡調査の意義 (島根新聞 1962. 9. 8―9)
着色と変形を伴う弥生前期人の頭蓋 (「人類学雑誌」69、三―四号、1962)
人類学上から見た長沙婦人 (読売新聞(大阪版) 1972. 8. 5)


三焦 (「福岡医学雑誌」46、六号、1956)
『頓医抄』と「欧希範五臓図」 (「医譚」(復刊)12、1956)
琵琶骨 (「解剖学雑誌」40、三号、1964)
「縦横人類学」を読む (「季刊人類学」2、二号、1970)

あとがき
初出掲載紙誌一覧
解説 (池田次郎)



金関丈夫 日本民族の起源 03



◆本書より◆


「日本人の形質と文化の複合性」より:

「かりに、こんにちの日本人の人種型を論ずるとして、私たちは、どの地方の日本人をその代表とするか。実は、この設問に答えることは、むしろ不可能である。というのは、たとえば、近畿地方の日本人と北陸地方の日本人とをくらべたとき、そこにはいちじるしい形質上の違いがあって、どちらを代表的な日本人にすべきか、決定しかねるという結果がみられる。近畿地方の日本人を畿内人、北陸地方の日本人を北陸人とよんでみる。両者の男性の頭骨を計測して総合的な類似性を示す数値をだしてみる(これを平均型差といい、この数字の小さいほど類似性がつよくなる。(中略))。北陸人と畿内人とのあいだでは一〇〇・五となるが、朝鮮人と畿内人とのあいだでは六一・八である。かりに、畿内人を日本人の代表とすれば、北陸人よりも、朝鮮人のほうが、はるかに日本人的であるという奇妙なことになる。
 同じく、畿内人と琉球人の頭骨比較によれば、その平均型差は一〇六・一、機内人と中国福建省人とのあいだでは七五・一という数値がでる。琉球人よりも、福建省人のほうが、はるかに畿内人に近いことになる。
 一つの地方をとって、日本人を代表させると、このように、日本人と朝鮮人、日本人と福建人のあいだには、日本人の相互のあいだのつながりよりは、もっと密接なつながりがでてくる。民族としては、これらの三者はまったく別種である。しかし、人種としてはあるいは一つの種族かもしれない。あるいは逆に、民族としての日本人は、すべて一つであっても、人種としては、一つにできないのかもしれない。」



「古浦遺跡調査の意義」より:

「東大解剖学教室の小金井良精は、日本各地におびただしい貝塚をのこした、農業も金属器もまだ知らなかった縄文人は、その骨格の類似から推定して、いまのアイヌの祖先だったにちがいないと考証した。(中略)アイヌ説は一世を風靡した。一時は縄文土器はアイヌ式土器といわれ、全国の意味不明の地名をアイヌ語で解釈しようとする流行までおこった。
 この説が正しいとなると、われわれ日本人の祖先は、縄文時代以後にどこからか渡ってきた、新渡の種族だ、ということになる。その文化もちがっていたはずだ。ところが、小金井の住居にごく近くの、本郷弥生町から発見された土器がある。これは縄文土器とは非常にちがっている。のちにこの系統の文化が弥生式といわれるもととなったものだ。(中略)鳥居竜蔵は、はじめはこの系統の土器を「マレイ式」と呼び、南方に関係があるかと考えた。日本人の祖先は、南方渡来民だったろう、という考えが、鳥居の胸中にあったらしい。しかし、弥生文化の研究が進むと、これは直接には南朝鮮に関係のある、高級文化だ、ということがわかった。水田で米作をするという高級な農業を日本にもたらし、銅や鉄の利用法を伝えた新しい文化である。
 そこで鳥居は、これこそ今の日本人の祖先がこの列島にもたらした文化であり、アイヌの祖先である縄文人を南北に駆逐して、この島を占有した、この朝鮮経由の新渡の大陸人が、われわれ日本人の祖先となったのだ、と結論した。」
「縄文人は先住アイヌ族であり、日本人の祖先は、その後に高級の文化をたずさえて、アジア大陸から渡来した民族だ、という鳥居のこの説は、古来の天孫降臨説をも裏づけることができて、たいへん明快な説である。大正のころまではこの説が専ら行なわれ、人々はそれを疑わなかった。
 しかし、小金井の縄文人即アイヌ説の根拠になった、縄文人の骨格の材料は、発見の地域も限られているし、その数も非常に少ない。統計学的の正確な結論を出すには、もっと多くの縄文人の骨格材料を必要とする。このことを痛感して、日本全国の貝塚人をひろく集めたのは、京大の清野謙次だった。(中略)清野とその門下の諸学者の調査の結果は意外だった。縄文人はアイヌにも似ているが、しかしそれ以上に現代日本人によく似ている。だから、縄文人をアイヌの祖先だというのは誤りで、彼らはいわば「日本石器時代人」とでもいうべき、独特の人間である。その後に分れて、アイヌにもなり、日本人にもなった。その分れた原因は、それぞれ異なった要素との混血によるものだろう、というのが、清野の新しい説である。日本人の祖先は、新渡の弥生人ではない。縄文人こそ、その根幹にある。弥生文化をもたらした大陸渡来人は、その形成に参加した一要素にすぎない、ということになる。
 さて、この新説が世人の理解を要求しているうちに、日本は大東亜戦争に入った。国粋思想が異常に宣揚され、日本人こそアジアを指導する神聖なる使命を有する選民だ。こうした民族が混成種であるわけはない。日本人は日本で発生し日本で作られた純系の聖民族だというような考えが、しだいにはびこる。その影響は学界にも及び、混血説は否定される。縄文人以来の変化は、新しい人種要素の混入によるものではなく、時代の経過による自然の変化だ、と説明される。この説をなすものは、戦後のいまでも一部に残っている。しかしこの説によると、弥生文化の導入は、単なる文化現象であり、その文化を日本にもたらした人間は、少なくとも日本人の体質に影響を与えるほどは、渡来しなかったということになる。果たしてそうであろうか。」



「『頓医抄』と「欧希範五臓図」」より:

「なお、欧希範の解剖については、二、三の随筆に、そのことを記したもののあることは、以前から耳にしていたが、(中略)億劫で、私はまだ原典を見ていない。幸い最近(一九五六年一月)右の『夢渓筆談』を、胡道静の校証した『夢渓筆談考証』が出版され、その考証中にこれらの文献が引用されている。」
「希範を討伐したのは杜杞で、呉簡は嚮導人であった。招降に応じたものを欺し討ちして、六百余人を殺し、首魁の希範を塩漬けにして蛮人に食わせた。その間に五臓を図して世に伝えた、というのである。」



「琵琶骨」より:

「元末明初の詩人楊維楨、字は廉夫、号は鉄崖。その作品の中に「金盤美人」の一篇がある。
  昨夜は金床喜々として、美人の体を薦め、
  今日は金盤愁々として、美人の頭を薦む。
  明朝、使君何れの処にか在らん。
  溷中、人は溺す血〓(漢字: 骨+占)〓(漢字: 骨+娄)。
  君見ずや東山宴上の琵琶骨の、
  夜々鬼語して箜篌に啼くを。
 この凄惨な詩は、鉄崖の自注によると、張士誠――元末に挙兵し、呉中に拠って自ら呉王と称した――の女婿で、潘元紹というもの、その擁する数十の美姫のうち、才色絶倫の蘇氏を、酔余に些細なことで斬殺し、その首を黄金の盤に盛って客に薦めた、その光景を叙したものだという。昨日はこう、今日はこう、そして、使君よ、明日お前のいるところは、どこだろう。糞溜めの中だ、お前の血塗れのくされ頭に、人々は小便をひっかけているだろう、という語句は、痛烈を極めている。
 それはさておき、句は一転して、ここに東山宴上「琵琶骨」の文字が出現する。これは何であろう。解剖家として、見過すことの出来ない一句である。
 『資治通鑑』巻一六六、北斉の顕祖文宣帝の暴状を記した一節がある。倡婦であった薛嬪なるものを寵愛したが、臣下の王岳と密通していたことを知ると、その首を斬って懐中に蔵し、東山の離宮に出て宴に臨む。宴たけなわになるに及んで、忽ちにその首を盤上になげ出し、またその屍を解体し、その髀を弄して琵琶に擬した。やがて心しずまると、帝は盤上の頭に対して、流涕滂沱「佳人再び得がたし」といった、という。
 鉄崖がもち出した「東山盤上の琵琶骨」とは、この六朝の残虐事を意味する。
 しかし、顕祖が弄して琵琶に擬したという「髀」は femur にはちがいないが、femur の語がそうであるように、これは大腿骨ともとれ、また大腿そのものともとれる。髀の字が骨に従うとはいっても、転用は可能である。(中略)顕祖が弄して琵琶に擬したものは、骨ではなくて、美人の腿そのものだ、ともとれる。
 しかるに、鉄崖が直ちにもってこれを琵琶骨としたのには、他に何かの拠りどころがあったにちがいない。」
「宋の張舜民の『画墁録』には、
 「太祖招軍、格不全、取長人要琵琶腿車軸」
 とある。すなわち宋の太祖が軍を催したとき、格――車の横棒、ここでは車軸――の材が不足である。急場に、長身の男を徴発し、その琵琶腿で作った車軸を取り用いた、という、残暴ここに極まるていの話がある。車軸に利用した琵琶腿は、大腿骨以外のものではない。ここで初めて、人間の大腿骨に、琵琶の名を冠したことがはっきりした。」
「これらの文献から推して、琵琶腿は古くは、大腿骨の名で(中略)あった、ということが判る。ただ「琵琶骨」の三字は、まだ現われていない。
 しかし、宋代にはこれも現われる。現われるが、しかし、それは大腿骨ではない、別の骨の名としてである。」
「即ち、大腿骨を意味した琵琶腿の他に、宋代には、肩胛骨を指して琵琶骨ということがあった。」
「琵琶骨の名はさらに一転する。いつの頃からそうなったかは判らない。しかし、今日の中国語の辞典を引くと、琵琶骨は鎖骨だとある。」
「中国文献に琵琶骨の語が見えた場合、その時代性や、前後の文意に注意しないと、思わぬ誤解におちいる恐れがある。この蕪稿が、なに分かの警告に役立てば幸いである。」



金関丈夫 日本民族の起源 02








































































































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金関丈夫 『新編 木馬と石牛』 大林太良 編 (岩波文庫)

金関丈夫 著
『新編 木馬と石牛』 
大林太良 編

岩波文庫 青 33-197-1

岩波書店 
1996年10月16日 第1刷発行
349p 
文庫判 並装 カバー 
定価670円(本体650円)



『木馬と石牛(もくばとせきぎゅう)』。本文中モノクロ図版3点。


本書「解説」より:

「『木馬と石牛』は、一九五五年に大雅堂から出版されて以来、一九七六年に角川書店、一九八二年に法政大学出版局からそれぞれ増補されて出たように、多くの読者に親しまれてきた。」
「『木馬と石牛』の岩波文庫版を編むにあたり、(中略)全体のページ数も考えて、説話の比較研究を中心にすることにし、彼の他の著書から二つの文章(「太陽を征服する伝説」『お月さまいくつ』所収、「杵築とは何か」『文芸博物誌』所収)を新たに加える一方、いくつかの文章を割愛することにした。それは語源、玩具、食物、脚絆などについての考察で、それぞれ興味深いものであるが、今回は残念ながら載せられなかった。また岩波文庫版では、なるべく内容的に関連の深いものを並べることにしたため、角川版や法政版とは、配列の順序を変えたところもある。」
「この本に収められた論考は、大きく見て三つの群に分けることができる。「木馬と石牛」から「十字紋の恨み石」までは、中国、日本本土、沖縄の古代神話や伝説についての研究である。次に、「杜子春の系譜」から「婆ぁ汁」までは、昔話や艶笑譚を取り扱い、最後に「わきくさ物語」から「男子の纏足」までは、性と直接間接に関係のある文学と習俗が論ぜられている。」



金関丈夫 木馬と石牛


カバー文:

「「和漢洋にわたる象のように重い知識と、それに拮抗し得る鳥のように軽い精神をもちあわせている」と評され、しばしば南方熊楠に比せられる金関丈夫(1897-1983)。人類学・解剖学・民族学・考古学・言語学などにわたる広範な知識を駆使し、するどい着眼で東西の説話や伝承を自在に比較考証、学問をたのしみながら新たな視野を拓く。」


目次 (初出):

木馬と石牛 (「九州文学」 1953年8月号)
ニムロッドの矢 (「九州文学」 1953年9月号)
太陽を征服する伝説 (「公論報」 1948年5月10日―5月17日)
海幸・山幸 (「解釈と鑑賞」31-7、1966年)
百合若大臣物語 (「朝日新聞」(西部版)、1953年10月1日)
中国の百合若 (「九州文学」 1954年1月号/原題「中国の百合若伝説」)
続中国の百合若 (「九州文学」 1954年4月号)
神武の子ら (「朝日新聞」(西部版)、1954年2月10日)
杵築とは何か (「山陰新報」 1953年5月3日)
山東の瓜子姫 (『胡人の匂ひ』 1943年、東都書籍刊、所収)
箸・櫛・つるぎ (「伝承」12号、1964年)
やまとたける (「解釈と鑑賞」31-9、1966年/原題「倭建命」)
神を待つ女 (「個を見る」12号、1968年)
十字紋の恨み石 (「南島研究」8号、1968年)
杜子春系譜 (「九州文学」 1957年3月号、1962年8月号)
正直の人宝を得る事 (「新中国」3号、1957年)
淫樹譚 (「九州文学」 1953年7月号)
ごましお頭 (「九州文学」 1953年10月号)
のっぺらぼう (「九州文学」 1954年10月号)
シンデレラの靴 (「伝承」14号、1964年)
婆ぁ汁――大藤氏の書評のあとに―― (「伝承文化」3号、1962年/原題「カチカチ山の話に関する大藤氏の書評のあとに」)
わきくさ物語 (「台湾時報」24-2、1942年、に「匂ふ文学」として発表、のち補正して「香料」19号、1952年、に「体臭の文学」として所載)
榻のはしがき (「九州文学」 1954年11月―56年5月号/原題「Onanie の文学」)
Vagina Dentata (「台湾医学会雑誌」39-11、1940年/原題「Dentes Vaginae 説話に就いて」)
蓮の露 (「愛書」13輯、1940年)
纏足の効用 (『胡人の匂ひ』所収)
男子の纏足 (『胡人の匂ひ』所収)

解説 (大林太良)




金関丈夫はときどき「うまいこと」をいいたがるので面白いです。たとえば本書所収エッセイのタイトル「わきくさ物語」(=腋臭物語)は「若草物語」のだじゃれです。同エッセイの雑誌発表時のタイトル「体臭の文学」は「大衆の文学」のしゃれです。


















































金関丈夫 『発掘から推理する』 (岩波現代文庫)

「大和朝廷が隼人(はやと)を屈服させると、この徴用がやってくる。人に仕えることを知らなかったさむらいどもの耐え得るところではない。ある日、血の気の多いやつが、役人の首をちょん切る。それがやがて大きな反乱にふくれあがる。これを繰りかえしたのが、大隅、薩摩の隼人の歴史だ。反乱以外に彼らの歴史はない。」
「ともあれ、いまわれわれの身体の中には、なんとなくこの南方戦士の族を愛しあこがれる血が流れている。爛熟した文明を頽廃から救うのに、この血が有効でないとはいえないだろう。」

(金関丈夫 「南方戦士の族」 より)


金関丈夫 
『発掘から推理する』
 
岩波現代文庫 S130

岩波書店 
2006年3月16日 第1刷発行
viii 270p 付記1p 
文庫判 並装 カバー 
定価1,000円+税


「本書は一九七五年六月、朝日新聞社より刊行された。」



本文中図版(モノクロ)多数。


金関丈夫 発掘から推理する 01


帯文:

「残されたモノから
広がる古代世界
――異才の人類学者による案内――」



カバーそで文:

「矢尻が刺さった女性の頭骨。彼女の死はいったい何を意味するのか。抜歯の習俗や勾玉等の装身具からどのような精神世界が探れるか。占い・入れ墨の風習の伝来はどうだったか。博覧強記の人類学者・金関丈夫が、発掘の成果を世界の民族例を参照し、古文献を駆使して綴った軽妙なエッセイ。古代世界への想像力を刺激する一冊。」


目次:

発掘から推理する (「朝日新聞」 1963年9月―64年1月)
 前線で戦死した巫女――ヤジリがささった頭骨
 土井ケ浜の英雄――十六本の矢をうけた男
 長い弓と短い弓――射魚用から起った日本の弓
 南方戦士の族――隼人が眠る遺跡
 日本の毒矢――軽太子が使った新兵器
 琉球王の宝刀・千代金丸――鉄の和名の由来
 魂の再生――子供墓考
 魂の色――まが玉の起り
 死霊に対するカムフラージュ――抜歯の起り
 カンシャクを起した孔子――東夷蛮風の改善
 花妻とはねかずら――日本古代の歯ぐろめ考
 双性の神人――山と山との恋愛が意味するもの
 男のお産――景行天皇とウス
 ヤマトタケルの悲劇――双生児の運命
 シッポのある天皇――神武東征伝の成り立ち
 南は東だった――邪馬台国の方角
    *
卜骨談義 (「島根新聞」 1963年8月)
 日本最古の卜骨
 文献にある日本の占法
 卜骨と卜甲
 古代中国の卜法
 殷人の占法
 近世までのこっていた日本の卜骨、亀卜
 弥生文化に伴って渡来した大陸の風習
 集団の統率者だった占術師
種子島広田遺跡の文化 (「FUKUOKA UNESCO」3号、1966年)
 豪勢な貝文化の遺跡
 双性の呪師が存在
 中国古代文化の文様と酷似
 楚と関連の疑い
 日本最古の文字
 広田遺跡の文化はどこにつながるか
 江南と種子島との交流
 渡来人の遺跡であった
竹原古墳奥室の壁画 (「MUSEUM」215号、1969年)
 大陸渡来の天馬思想
 中国の竜馬思想
 すぐれた絵画的統一
 水辺に馬を牽き竜種を求める
 高句麗と飛鳥の中間を埋める美術
 漢代古墳壁画との類似
    *
あた守る筑紫 (「九州文学」 1955年2月号)
 「仇」と「隼人」
 ネグリト族と隼人
 固有名詞から普通名詞へ
 アタの地は異族の他称地名か
むなかた (「九州文学」 1965年1月号)
 文身と竜蛇信仰
 北九州のムナカタ氏と弥生文化
髑髏盃 (「バッカス」2号、1957年)
 頭蓋にやどる霊力
 日本の髑髏盃
洗骨 (『世界大百科事典』17、平凡社)
 世界各地にある洗骨の風習
 死体の前処理
 洗骨
 洗骨後の後処理
海南島の黎族 (「世界の秘境」 1963年9月号)
 長耳、文身、男の髷
 糸紡ぎと紅毛
 女小屋、シンデレラの下駄
 祈祷師、祭りのバンブーダンス、土器づくり
 死者への恐れ
     *
十六島名称考 (「島根新聞」 1962年6月)

あとがき

解説 (金関恕)
初出紙誌一覧
図版出典・提供



金関丈夫 発掘から推理する 02


「飾り貝器をたくさんつけた双性の呪師の骨。」



◆本書より◆


「双性の神人」より:

「オロチを退治する前のスサノオノミコトは、頭に櫛(くし)をさす。これは女装を意味している。ヤマトタケルも女装してクマソタケルを退治する。アマテラスも神功皇后も、大事の前には男装を必要とした。五条橋の牛若や、ヒヒ退治の岩見重太郎に至るまで、みなこれである。これらの話は、社会の害を除くのにこうした双性神の霊力を必要とした思想の反映である。
 この思想から、単なる女巫や男覡ではなく、一身に両性をかねた双性の神人が崇められることにもなる。琉球では、こうした神人を尊ぶ風が今でものこり、現に女装の覡(みこ)が存在している。」



「南方戦士の族」より:

「中国の文献で辺境の民族のことを記載するものに、しばしば「男逸女労」、すなわち女が労働し、男は遊んで暮らすように書いたものがある。台湾の高砂(たかさご)族や、琉球島民に関するものにも、その例が多い。
 高砂族は最近まで、あるいは今なお、男は原則として労働はしない。ただ三年に一度、焼畑(やきはた)するときに、山刀で山の木を伐る。これがほとんど唯一の労働である。
 しかし、彼らは三年に一度の労働以外に、何もしないのではない。狩猟をする。それから、今は止まったが、敵対部落と戦争をする。そして、少なくとも一生に一度は、儀礼用の首狩りをする。これが男の仕事だ。狩りも戦争もないときは、のらくらと煙草をふかして遊んでいる。ときどき子守りをおおせつかる。
 その生活は江戸時代のさむらいそっくりだ。といって、主君もちの養われ者ではない。貧乏ではあっても、手内職をやるような落ちぶれ者でもない。さむらいの中でも、最も純粋なものだといえよう。
 だから、日本の巡査どもが、道路を造るといってはひっぱり出す。宿舎を建てるからといっては材木を担がせる。元来がさむらいの仕事ではない。強制と多少の賃銀のほしさから、やるにはやるが、いさぎよしとしているわけではない。その賃銀をごまかされたり、強制が苛酷だったときに、山刀をふるって、役人どもの首をちょん切る。これが昭和五年(一九三〇)の霧社(むしゃ)事件の発端である。
 大和朝廷が隼人(はやと)を屈服させると、この徴用がやってくる。人に仕えることを知らなかったさむらいどもの耐え得るところではない。ある日、血の気の多いやつが、役人の首をちょん切る。それがやがて大きな反乱にふくれあがる。これを繰りかえしたのが、大隅、薩摩の隼人の歴史だ。反乱以外に彼らの歴史はない。」
「ともあれ、いまわれわれの身体の中には、なんとなくこの南方戦士の族を愛しあこがれる血が流れている。爛熟した文明を頽廃から救うのに、この血が有効でないとはいえないだろう。」










































金関丈夫 『南方文化誌』

「この連中がどのくらい酒を好いとるか、という話なのだが、或る男が、近くの万巒という町へ、酒を買いに出て、夕方、一升瓶をぶら下げて自転車で帰ってくる。その途中で、他の自転車と衝突してひっくりかえり、頭を怪我したが、一升瓶は幸い無事だった。血だらけの頭をふり立てて大いに相手をののしったわけだが、その言いぐさに曰く、「この野郎、割れたのが頭だからいいようなものの、もしこの一升瓶だったら、ただではおかねえぞ」。村の警官にきいた実話である。」
(金関丈夫 「村の英雄その他」 より)


金関丈夫 
『南方文化誌』 


法政大学出版局 
1977年12月25日 初版第1刷発行
294p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,600円



本書「あとがき」より:

「ここに集められた雑多なエッセイは第I部は台湾に、第II部は海南島・東南アジアに関するものであり、(中略)昭和一一年(一九三六)、台北大学に赴任してから、戦後の留用期を加えて、一四年を台湾で過した私にとって、いづれも懐しい想い出を伴うものであるが、読者には果して役立つであろうか。
また第II部のほとんどは、戦後に方々の新聞雑誌に発表したものである。ここでは私の主要な学術論文はすべて省略されている。」



本文中図版(モノクロ)多数。


金関丈夫 南方文化誌 01


目次(初出):


槍ぶすまに囲まれた話 (「西日本新聞」、1959年8月23日)
紅頭嶼ヤミ族の蠍座に関する伝説 (「エトノス」1号、1974年11月)
パゼへの礼拝 (『胡人の匂ひ』所収、1945年6月)
殻干場のある教会 (同上)
太馬麟の想い出 (「IZUMI」21号、熊本大学医学部、1957年)
すれちがい (「台湾青年」27号、1963年2月25日)
石敢当私考 (「ふく笛」11号、関門民芸会、1953年10月25日)
鄭成功遺像 (「台湾新報」 1944年5月12日)
諸蕃志の談馬顔国 (日本人類学・日本民族学連合大会第七回記事、1952年10月)
陶熾博士のことども (「福岡医学雑誌」、1952年12月)
李献璋『台湾民間文学集』 (「民族学研究」3-3、1927年7月)
国分直一『壺を祀る村』 (「民俗台湾」5-1、1945年1月)
台湾工芸瞥見記 (『胡人の匂ひ』所収)
台湾民芸品解説 (「民俗台湾」1-1~4-12、1941年7月~1944年)
竹細工の村 (『胡人の匂ひ』所収)
鴬歌窯の捲上式製陶法 (同上)
林家の舞台 (「民俗台湾」3-12、1943年12月)


海南島覚え書 (『胡人の匂ひ』所収)
瓊海雑信 (同上)
海口の散歩 (同上)
マカオの一夜 (「ドルメン」5-6・7、1939年7~9月)
室町時代の南進小唄 (「台湾時報」24-1、1941年12月8日)
ピナンの回想 (「南方土俗」5-3・4、1938年10月)
マラッカ遊記 (「台湾時報」24-3、1942年2月3日)
村の英雄その他 (「バッカス」第3冊、1957年9月20日(福岡))
フィリピンをたずねて (「ユース・コンパニオン」 1956年2月)
マニラの学生たち (「朝日新聞」(西部版)、1953年12月4日)
スカイランドの人びと (同上、1953年12月15日)
「秘境ヒマラヤ」を見て (「毎日新聞」 1960年4月16~17日)
「ジャングル・サガ」を見て (同上、1959年10月2日)
「青銅の顔」を見て (同上、1959年4月21日)
ビアク島のヘルメス (「民俗台湾」4-8、1944年8月)
アドイカリ (「ふく笛」12号、1954年3月)
グーハとハイネゲルデルン (「毎日新聞」、1957年10月23日)
ブーゲンビル民話集 (G・C・ホイラー採集/金関丈夫訳/大林太良解説) (「現代のエスプリ」22号、1964年11月)


(付録) 海南島風俗習慣故事伝説集録 (「故事伝説集録」 横須賀鎮守府第四特別陸戦隊、1941年4月)

解説 (国分直一)
あとがき
初出発表覚え書




◆本書より◆


「「秘境ヒマラヤ」を見て」より:

「純白の雪山を前にして、澄みきった青天の下に、彼らは人間を解体している。彼らの心には何の疑惑もなく、いささかのたるみもない。これは人間の堕落の姿では決してない。その自然と同じくらいに崇高な、純粋の姿である。その肉をねらって天空に舞っているハゲワシには、残酷もなければ、不浄もない。それと同じような、きわめて自然な人間の姿である。」
「その肉を鳥にやらないで、人間が食ったとしても不思議はない。現にラマ僧はその場で握りめしを食っている。柳田さんによると、握りめしは心臓だ。人のたましいだ。
むかし、ダリウス王のころには、インドのカラチア族は、父親の肉を食っていた。ダリウスが、金はいくらでもやるから、そんなことをしないで、父親を火葬にしてはどうかとすすめると、彼らは眼の色をかえて、そんな不浄な言葉はつつしんでくれ、とわめいた。(ヘロドトス)
 死者の霊を鳥に託して、遠い彼方に運ばせようという風習は、インドネシアからメラネシア、恐らくは古代の南朝鮮や日本にもひろがっていた風習だが、これは比較的のちの考え方だろう。少なくとも父親とか、高貴な男の、威力ある霊は、自分たちのものにしておきたい。現にラマは、高僧の屍体をミイラにして保存する。それよりも食って身につけた方が、手っとり早い。それが一般的だったのだ。それがなければ、鳥に食わせるにしても、解屍するという手つづきは、おこらなかったにちがいない。イランの拝火教徒も死体を鳥に食わせるが、解体はしない。
 これで驚く人には、次のような事例を参考に挙げておこう。
 〔種子島〕 葬式にゆくことを「骨くいにいく」「骨んすいものたべにいく」などという。
 〔大隅半島一帯〕 同じく「骨かみにいく」という。
 〔対馬〕 葬式のことを「骨こぶり」という。
 〔宮古島〕 死人を出した家の人に向って「腿の肉が食えるね」とあいさつする。
 〔与那国島〕 出棺の前後に、とくに牛肉をたべる。
 葬式の儀礼として、死人の肉を口に入れる実例は、トロブリアン島に現存している。
 ラマ僧が、人の大腿骨の笛を吹いている。古代エジプト人や近東人は、人の脛骨で笛を作り、ローマ人はこれを「セビ」といった。いまの脛骨の学名「チビア」の語源である。セビの名はその縦笛の制とともに、唐時代に中国に伝わった。中国人はセビの音に「尺八(チーパ)」の字をあてた。我々のもてあそぶ尺八も、そのもとは人間の脛骨だったのだ。」




◆感想◆


本書はいろいろと興味深いですが、手足のない女の子「キリコプツ」が友達の女の子「カヌペア」に手足をもらって、一緒に木の実を採りに行ったものの、カヌペアに騙されてせっかく集めた木の実も手足も奪われてしまい、泥だらけになって這って家に帰ってくるのが二度も続いたので、仕返しにカヌペアを騙して釜で煮て食べてしまうという、ブーゲンビルの食人民話が興味深かったです。ブーゲンビルの食人民話は、日本の「カチカチ山」とも関連があるようです。
あと、死体の話とかがたくさん出てきておもしろかったです。
















































プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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